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劇場映画やDVDの感傷的シネマ・レビュー

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2022-12-22 00:00:00 | 索引
 
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オール・ユー・ニード・イズ・キル◆ゲーム感覚のタイムループSF

2014-07-13 09:45:48 | <ア行>


  「オール・ユー・ニード・イズ・キル」 (2014年・アメリカ)
   EDGE OF TOMORROW


弁は立つが腕は立たない一人の臆病な中年男が、放り込まれた戦場で過酷なプレイを繰り返しながら確実に経験値を上げていき、最終的には大ボスを倒して地球の危機を救う、というまるでRPGのような映画がこれ。舞台は近未来の地球。「ギタイ」と呼ばれる宇宙からの侵略者によって欧州は激戦の地となり、戦況はのっぴきならない段階を迎えている。広告業界出身の軍の報道官、ウィリアム・ケイジ(トム・クルーズ)は最前線でのレポートを命じられるが、もとより実戦経験はなく、怖気づいた彼は命惜しさに将軍の命令を突っぱねる。しかし結果は――報道官どころか一新兵として地獄の戦場へ送り込まれてしまう。冒頭から英雄を演じるのが定番のはずのトム・クルーズが、この臆病者のダメ男になりきるあたりから観客はこのゲーム、いや映画にのめり込む。

実写と遜色のないグラフィックが売りのゲームが、実際に開発されているのかどうか、私は知らない。けれども、もしそうしたゲームがあったとしたら、この作品のような感じになるのかもしれない。まるでゲームをリセットするように、メインキャラクターは何度も死んでは生き返る。しかも前回のプレイを通して、確実に経験値は上がっていく。なぜか? 地球を侵略するギタイには、死ぬ間際に時を超えて過去の仲間に警告を発する能力を持つ種がいるらしい。ケイジは初回の戦闘でこのタイプのギタイの血を浴びたことでタイムループに囚われ、以後幾度となく初日へ戻されてしまう。しかも前回のループで得た経験は消えることなくケイジの血肉となっていく。これが、この映画のゲームめいた世界観を支える起点であり、からくりだ。

ケイジが戦場で出会う伝説の女性兵士、リタ・ヴラタスキ(エミリー・ブラント)は、ケイジと同じくループに囚われたが、戦闘で負傷して輸血を受けたためにリセット能力を失っている。このふたりが協力して行う対ギタイ戦の訓練はユーモラスに描かれているものの、生身の新兵が‘兵器’へと生まれ変わるための過酷なシーンもある。ループ戦を繰り返すうちにケイジはリタの死を幾度となく経験するが、新しいループの中ではリタは常にケイジと初対面だ。この落差がケイジの感情に微妙なゆらぎを与えていて、とても興味深い(つまり萌えるのです)。

原作は桜坂洋の小説「オール・ユー・ニード・イズ・キル」。日本のライトノベルのハリウッドでの映画化は、もちろん初の快挙。キャラクターたちが身に着ける数十キロもある機動スーツはデザインがリアルで、重量感のある戦闘シーンは見もの。ギタイ戦での勝利だけに集中するリタのキャラクターも抑制が効いていて、とても好ましく感じた。監督は「ボーン・アイデンティティー」のダグ・ライマン。「ドニー・ダーコ」、「バタフライ・エフェクト」、「ミッション: 8ミニッツ」などタイムループ系の傑作に、また新たな一作が加わった。



満足度:★★★★★★★★☆☆



<参考URL>
   ■映画公式サイト 「オール・ユー・ニード・イズ・キル」
  




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闇のあとの光◆メキシコ発の映像マジック

2014-07-02 20:00:51 | <ヤ行>


  「闇のあとの光」 (2012年・メキシコ/フランス/ドイツ/オランダ)
   POST TENEBRAS LUX

解読することを拒む作品に遭遇したとき、それについて語ることはとてもむずかしい。時間軸や因果律や印象深いキャラクターといった、物語(ストーリー)を読み解くための材料すら与えられず、まるで万華鏡を覗くように目の前に展開する映像をただただ体験させられる。座席に身を預け、視覚と聴覚をたよりに無力な観客としての自分を感じた115分は、それでもなぜか心地よかった。

まずは、のっけから始まる映像が刺激的だ。山の麓の広大な牧場で、放牧された牛馬を無心に追いかける幼女。吠え声を上げる牧羊犬の群れ。美しい夕景と、しだいに暗くなる山際。走る稲妻。鳴り響く雷鳴。不安を掻き立てる犬たちの息づかい。家族の名を呼ぶ怯えた幼女の声。やがて圧倒する夜の気配があたりを支配する。画面はレンズのフレームを歪ませたように周囲が常にぼやけている。やがて、寝静まった家の中に侵入する赤い影。その造形は悪魔を想起させるものの、不気味であると同時にどこかユーモラスだ。

映像に意味を求めようとする観客を軽くいなすような、この不穏でありながら長閑で滑稽な感覚は、作品全体をしたたかに包み込んでいるように感じられた。映像の周囲をぼかす手法も、観客がひたすらリラックスして映像を堪能できるようにというカルロス・レイガダス監督の配慮であったかもしれない。レンズの向こうで悪魔が現れようと、乱交が行われようと、不運な遭遇によって牧場主が撃たれようと、観客はしょせん、万華鏡を通してあちらの世界を覗いているだけなのだから。

虫のすだく音、荒波の音、倒れる大木の悲鳴、バイクの轟音――鮮烈な映像と相まって聴覚に飛び込んでくる音の洪水も、強く印象に残った。見えるもの、見えないもの、形のあるなしにかかわらず世界は重層的かつ神秘的であり、理性ではなく感覚を研ぎ澄ますことで、その一端を垣間見ることができるかもしれないことを、映像体験として教えられた気がした。(カンヌ国際映画祭2012年・監督賞受賞作品)


満足度:★★★★★★★☆☆☆



<参考URL>
   ■映画公式サイト 「闇のあとの光」
 

ノア 約束の舟◆神と家族のあいだで苦悩する男の物語

2014-06-25 14:39:01 | <ナ行>


  「ノア 約束の舟」 (2014年・アメリカ)
   NOAH


旧約聖書の物語、「ノアの方舟」が、ラッセル・クロウ主演で映画化された。監督は「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキー。アダムの子孫であり、神に従う正しき人であったノアは神の啓示を受けて、来るべき大洪水に備えて巨大な方舟の建造に取りかかる。荒れ地に突然現れた水脈は周囲に豊かな森を繁茂させ、しだいに地上の鳥や獣たちが引き寄せられるように集まってくる。ノアは醜い巨人の姿となった堕天使の力を借りて、すべての生き物をひとつがいずつ収容できる巨大な方舟を建造する。しかし、いよいよ洪水が押し寄せる段になって、地上の王を名乗るトバル・カイン(カインの子孫)が軍隊を率いて攻め込んでくる。方舟を守るために戦う堕天使。吹き上がる水柱。押し寄せる大洪水・・・・・・。この見応えのあるスペクタクルシーンは、実は本作の中核ではない。ここから、水没した世界に漂う方舟の中で緊迫した人間のドラマが展開していくのだ。

地上から悪の根源である人間を一掃しようとすることを神の意思だと信じるノアは、洪水後の世界に人間が残ることをよしとせず、いずれ彼の一家がすべて死に絶えることを望んでいる。ノアは妊娠した長男セムの妻イラ(エマ・ワトソン)がもし女児を出産すれば、その命を絶つとまで宣言する。ノアに決意を覆すよう懇願する妻ナーマ(ジェニファー・コネリー)、父への反感からトバル・カインの奸計に惑わされる次男ハム、そしていまだ陸地の見えない洪水の中へ出ていこうとするセムとイラ。神を選ぶか、家族を取るか、信仰と家族への愛の狭間で引き裂かれる一人の男のドラマは、思いを異にする一家を乗せた密室のような方舟の中で、のっぴきならない緊張のクライマックスを迎える。

ノアはどちらを選択したか。それはここでは伏せるとしても、彼がぎりぎりまで自身を追い詰めていく姿は、程度の差こそあれ、人生の重大な局面で選択を迫られる私たちのあり様に重なる。彼の迷い、いらだち、葛藤は直接的に描かれる」ことはなかったが、水が引いた世界の入江で酩酊し、ぶざまに裸身を晒す姿がすべてを物語っている。預言者ノアは人間だった。そして神は、人が人であることを許したのではなかったか。

ラッセル・クロウは相変わらず心正しき人のイメージにぴったりだし、妻を演じたジェニファー・コネリーや嫁役エマ・ワトソンの緊迫した演技も印象深い。CGIとはいえ、動物たちが方舟に収まった後の混乱をどう処理するのだろうと気にかけていたが、それもなるほどという方法で難なくまとめられていた。惜しいのは岩の怪物じみた堕天使の姿。「ロード・オブ・ザ・リング」のエント族を思わせる動きに、もう少し工夫の余地はなかったのだろうか。ファンタジーというには重く、人間ドラマとしては古臭くシンプルに過ぎるこの映画、いっそ創世記の世界を再現するのをやめて、神ととことん対峙するノアの姿を掘り下げたらもっと面白かったのではないだろうか。


満足度:★★★★★★★☆☆☆

  

ウォーキング・デッド◆おぞましさから目が離せないシーズン3

2012-11-22 11:13:07 | <ア行>


先月末にケーブルTVのFOXチャンネルで始まった「ウォーキング・デッド シーズン3」。最近はオダギリジョーのCMでよく目にする「Hulu」に加入すると、放送直後からいつでも好きな時に、好きな回を視聴できるようになった。CMがいっさい入らないので余計なストレスがないのもいい。とにかく先が気になる番組なので、シーズン2の放送が終了してから、ロバート・カークマン原作のコミック3冊を通読。途中で作画担当が変わったり、吹き出しが読みづらかったりと、日本のコミックとはだいぶ違う様子に戸惑ったものの、先の流れはおおよそ把握できた。これまでのシーズンでも原作コミックとドラマでは登場人物やプロットはかなり違っている。シーズン2の二つの山場だったソフィア(キャロルの娘)に関するプロットと、リック(アンドリュー・リンカーン)とシェーン(ジョン・バーンサル)の確執はじめ、回を追うごとにたのもしく成長するダリル(ノーマン・リーダス)の存在はそもそも原作にはない。人間同士の暴力描写などコミックにある一部の過激なシーンはドラマでは薄められ、ウォーカーとの戦いの場面以外はそれほど目を覆いたくなるシーンはなさそうだ。ただ、シーズン3では〈ガバナー〉の悪行がどの程度まで描かれるのかが気がかり。今の段階ではテレビドラマの限界を超えないで欲しいと願うばかりだ。

ドラマは原作の大筋と意図を尊重しつつ、明らかにドラマチックな新しい視点を獲得している。シーズン2をまるごと使って、失踪した少女ソフィアの捜索をハーシェル(スコット・ウィルソン)の農場での滞在と重ねた上、コミックでは早い段階で消えてしまうシェーンを、リックと対立するキャラクターに仕立て上げている。それも単なる悪者キャラではなく、長年の親友であると同時に妻を寝取り、息子まで奪うかもしれない危うさを漂わせた存在として描いている。リックの、家族を失うかもしれないという究極の恐れ(ウォーカーがもたらす死の恐怖とシェーンに妻子を奪われる恐怖)が、シェーンが身にまとう危うさによって増幅され、シーズン全体を通して不安をかき立てる。実に巧みな脚色だと思った。そのシェーンの悪意を見抜き、グループの方針について要所要所で対立するデール(ジェフリー・デマン)の描き方も含蓄があっていい。グループの良心を象徴するデールは、原作コミックではアンドリア(ローリー・ホールデン)と恋仲になる老人として描かれているが、ドラマのデールはアンドリアを娘のように思い、その狂った世界で人としての正気を保つことがいかに大切かを説く重要なキャラクターだった。彼はコミックとは違い、シーズン2で無残な最期を遂げてしまう。この稀有なキャラクターの行く末をもっともっと見ていたかったので、デールの死はすごく残念だが、これ以上彼をこの狂った世界に置かなかったのは、製作者のせめてもの“良心”かもしれないとも思う。

原作よりも早めに舞台から姿を消した人物といえば、リックの妻ローリもそうだ。彼女が生きて刑務所を出られないのは同じだが、せめて出産後にリックとのささやかな幸せを味わって欲しかった。サラ・ウェイン・キャリーズのあのすさまじい出産シーンは、シーズン中の白眉となる名演技だったかもしれないが、息子カール(チャンドラー・リッグス)と視聴者に与えたショックは大きいと思う。シーズン3では、いよいよガバナーの凶行が描かれる。これまでのところ紳士然とした統率者を装うガバナー(デビッド・モリッシー)が、恐ろしい暴君としての本性をむき出しにするのも時間の問題。そこにアンドリアとダリルの兄メルル(マイケル・ルーカー)がどう絡んでくるのか。そして原作ではガバナーに拷問された末、後に反撃に転じた女戦士ミショーン(ダナイ・グリラ)が、ドラマではどう描かれるか、ますます目が離せないシーズン3だ。


*画像はデビッド・カークマン著の「ウォーキング・デッド3」(飛鳥新社行)