My Life After MIT Sloan

組織と個人のグローバル化から、イノベーション、起業家育成、技術経営まで。

新規ブログ立ち上げています

2015-06-02 20:39:59 | About me

皆様、お久しぶりです。

3年近くも更新しないでおりました。
仕事が忙しく更新時間が無くなってしまっただけでなく、会社で立場が上がってきてしまったことや、本を出版したことで実名が出たため、仕事に少しでも関連するビジネス関係の記事が非常に書きにくくなってしまったことなどが理由で、書けずにおりました。

例えば自動車関連の企業を顧客に持つと、電気自動車を始めとする自動車関連の記事が一切書きにくくなったり。実際にはクライアントの皆様は気にされていないんですけどね。私の身についてしまった癖で。 
あるいは、イノベーションのジレンマやグローバル化に関する記事も、会社で出しているレポートとテーマがと少しかぶってしまって、書けなくなったり。

そんなわけで、更新から遠ざかっていたのですが、実は今年の2月から別のサイトでブログを更新し始めています。 

Lilacの妊娠・出産・育児ノート

タイトルから自明なのですが、ようやく昨年結婚→今年出産しました。
今度は、出産や育児に関する社会論や、女性の生き方論、リーダーシップ論などを中心に書いていこうと思います。 

こちらのブログと打って変わって違う内容ですが、これなら会社の立場や仕事に関係なく(たとえ関係しても)堂々と書き続けられるし。

なお、現在は産休中のため、平日に3~4回の頻度で更新しています。
9月くらいから復帰予定ですが、その後も週に1回くらいは更新できるようにしたいと思います。 

既にブログの存在に気付いてお読みになっている方もいらっしゃるかもしれませんが、初めて気付いた人のために、最近の人気記事をPVの多かった順に5つほど紹介しておきます。

1. アラサー・アラフォーおひとりさま女子に告ぐ6つのこと 

2. キャリアが先か、子供が先か(前篇)

3. キャリアが先か、子供が先か(後篇)

4. リーダーシップと妊婦であること、を両立する5つの方法

5. 子育てが仕事より大変な本当の理由

それでは今後もよろしくお願いします。


テレビ事業を売却してグローバル成長を遂げたGEの決断

2012-06-17 20:42:34 | 1. グローバル化論

先月のニュースになるが、パナソニック、ソニー、シャープという日本を代表する家電メーカーの決算が出揃って、三社合計で1兆5000億円を超える赤字を出したことが大きく話題になった。共通する主な原因として、テレビ事業の不振という共通項があった。

シャープ、2011年度通期連結決算は3,760億円の赤字-AV.watch.impress (2012/04/27)
パナソニックの前期最終赤字は7,721億円 今期は500億円の黒字目標-MSN産経ニュース(2012/05/11)
ソニー、赤字4,566億円、13年3月期は5期ぶり黒字予想-ウォールストリートジャーナル日本版 (2012/05/10)

電機決算の明暗鮮明、日立最高益、ソニー赤字最大 -日経新聞 (2012/05/11)

テレビ事業といえば、1970年代の高度成長期に、日本の製品の品質が海外で大きく認知されるようになったきっかけともいえる産業だ。
ブラウン管テレビを世界で始めて製品として普及させたのは、アメリカのRCAという会社だ。テレビに関する技術規格の殆どを作り、標準化した企業だ。ところが、1970年代になって徐々に日本企業がアメリカに進出するようになり、ソニーのトリニトロンテレビやパナソニックといったブランドが、圧倒的な安さと品質の高さで市場、特にアメリカ市場を席巻していった。そして1985年にはアメリカ市場において4割以上を日本企業が占めるに至っている。そのテレビ事業で韓国や台湾などの企業に追い込まれている図は、「日本の製造業の凋落」のように見えるが、実は25年前に同じ状況を、アメリカ企業が、日本企業に追い込まれて味わっていたことである。

上のグラフをアメリカ企業の立場から見れば、グローバル化する日本企業に次々とシェアを奪われていった失敗の図だ。まさに今、韓国や台湾の企業が、圧倒的に安い製品を結構いい品質で出し、各新興国市場にあわせた適切なマーケティングにより、グローバルなテレビ市場のシェア(と利益)を日本企業から奪っている絵が、25年前にはアメリカ企業と日本企業の間にあったのである。

ブラウン管テレビを最初に商品化し、普及させたアメリカのRCA。いわゆるRCA端子など、テレビの技術規格の殆どを作り、標準化し、1964年ころには米国においては64%もの市場シェアを持っていた。しかし、ここからのRCAは、いくつかの大きな戦略ミスをし、凋落していった。

まず、テレビ事業をバリューチェーン上に拡大。テレビ放送事業にも手を出し、コンテンツまでの垂直統合をすることで価値を最大化しようとした。これが最初の戦略の失敗だった。更には、当時大きく拡大しはじめていた、コンシューマ向けのコンピュータ事業にも手を出した。これが大失敗だった。垂直統合でじっくり開発して価値が出るブラウン管テレビ事業と、水平分業されたモジュールを次々と早く組み合わせて価値を出すコンピュータ事業では事業の性質がまったく異なったのだ。大きな投資をしたにもかかわらず、シェアがまったく取れずコンピュータ事業では大赤字となった。(なんか、どこかで聞いたことがある話ではないか)

RCAはテレビ事業でほぼ独占的な地位を確保することで大きな利益を得ていたにもかかわらず、これらの利益をこういった不採算事業で失ってしまった。一方本業のテレビですら、安くて品質の高い日本企業に追いやられて赤字を垂れ流すようになってしまった。完全に凋落し、「テレビの生みの親」であるRCAはついに1985年にGEに買収されるに至る。

6月19日に発売予定の私の著書「グローバル・エリートの時代」の中では、グローバル化する日本企業に追い立てられ、それでもグローバル化が進まないGEがどのように復活して、グローバル化をなし遂げたか詳しいケーススタディをやっている。1980年代後半のGEの海外売上高比率は23%。一方、当時のソニーの海外売上高比率は64%である。GEで本格的にグローバル化を成功させたのはイメルト氏だが、実はジャック・ウェルチの頃からグローバル化の種は蒔かれていた。GEのグローバル化の詳しい内容については著書を読んでいただければ幸いですが、このブログ記事では、ジャック・ウェルチがRCA売却の決断をすることで、グローバル化の足がかりを得られたことについて書こうと思う。

GEは、買収したRCAからレコード事業(いわゆるRCAレーベルです)、放送事業、コンピュータ、保険などの不採算事業を切り離してRCAの再生を図った。ところが、大赤字を出していたテレビ事業をどうするかが最大の難点だった。当時のソニーやパナソニックなどの攻勢は非常に強く、貿易摩擦が問題となれば、次々に生産拠点をアメリカやメキシコなどに移動し、シェアを拡大。単純に労働コストの差だけでなく、市場のニーズを聞いて、本当に必要な機能だけに絞って部品数も少ないソニーやパナソニックのテレビは、RCAの作るテレビより構造的にコスト優位性があったのだ。RCAのテレビ事業を大改革してもグローバルな競争で生き残れる可能性は小さい、と判断された。

そして、1987年、ついにGEはRCAをフランスの電機メーカーであるトムソンに売却することを決断した。そしてトムソンからは医療機器事業を交換で手に入れたのである。当時トムソンが持っていた医療機器事業は、ヨーロッパで大きくシェアを持っており、海外売上高比率がメーカーとしては大きくないGEとしてはヨーロッパでのプレゼンスを得るまたとない機会だったのだ。

ジャック・ウェルチがRCA売却をしたとき、「アメリカの製造業の魂であるRCAのテレビ事業を外国に売るなんてジャックは売国奴だ」「反米的行為」「日本との戦いに負けるなんて臆病者(chickin)!」という批判がマスコミ各社から行われたという。しかし、GEはRCA売却によって、トムソンのヨーロッパで特に強い画像医療機器事業を手に入れ、ようやく本格的なグローバル化への足がかりを得たのであった。実際、超音波診断機やMRIやCTスキャンなどの画像医療機器は、世界の先進国の高齢化に伴い、1990年代に入って非常に大きく拡大することになる成長市場であった。GEはこのトムソンをベースにシェアを徐々に拡大し、独シーメンスなども駆逐して、世界第一位のシェアを持つに至っている。(ちなみにRCA以外のGEのテレビ事業はパナソニック、サンヨーのOEMへと転換された)

日本企業に大きく追いやられていた1980年代のアメリカ企業。自らが生み出したテレビという製品において、圧倒的な競争力を日本企業に奪われ、凋落の原因となる。その事業を海外企業に売却することで、次の成長市場でのグローバル化の糧を手に入れ、本当にグローバルな成長を成し遂げるきっかけとしたGEは、ある意味で同じ状況におかれている日本のメーカーが学べるところなのではないだろうか。

かつて隆盛を誇った日本のテレビメーカーが本業であるテレビ事業を切り離して、成長する新興国で重要になる事業を手に入れろ、と言ってるわけではない。1980年代のGEを取り巻く事業環境と、現在の日本のテレビメーカーを取り巻く環境は異なっており、GEのようなうまい「Exit」の方法を見つけるのはたやすいことではないだろう。また、当時のGEには航空機エンジンや発電所など他に柱となる事業があったが、今危機に陥っている日本のテレビメーカーが必ずしもそうではない、ということも事実だ。しかしながら、テレビの代わりに得た画像診断装置事業が、本当に成長市場になるかは1980年代にはまだ分かっていない状況で、ジャック・ウェルチはこの決断を下したということは記しておきたい。「製造業の魂」と言われるものを切り離してでも成長の原資を得るくらいの変革をしないと、GEのような再生、そしてグローバル化の成功は収められないのではないだろう。それがいったい何なのかを、いま真剣に検討していく必要性に迫られていると思う。

参考:日本企業の苦しみを25年前から味わっていたアメリカ企業-My Life After MIT Sloan (2010/03/08)
   「グローバル・エリートの時代-個人が国家を超え、日本の未来を作る」(倉本由香利)
   "Inventing the Electronic Century" Alfred D. Chandler, Jr. (2005)
   "Control Your Destiny or Someone Else will" Noel M. Tichy, Stratford Sherman (1993) 

グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる
倉本 由香利

講談社

6月19日発売
ただいま予約受付中です 

 


【告知】本日(6/10 16:30 - 18:00) 「"これまで"が崩壊する時代」に出演します

2012-06-10 15:18:48 | About me

告知が遅くなってしまいましたが、本日、六本木某所で行われる「よるヒル超会議~ライフスタイル革命を語る!」にて、メインイベント最初のトークセッション「"これまで"が崩壊する時代」に、佐々木俊尚さん(@sasakitoshinao) と 慎泰俊さん(@81tj) のお二人とともに出演します。

「“これまで”が崩壊する時代」

  • 佐々木俊尚(ジャーナリスト)
  • 倉本由香利(ブロガー / コンサルタント)
  • モデレーター:慎泰俊(Living in Peace代表理事)

GUEST LINK

Ustream、ニコ動にて生放送です。
こちらのページから、放送にいけますので、宜しくお願いします → http://chokaigi.com/特別プレセッション


「グローバル・エリートの時代 」を出版します (6/19 講談社より)

2012-06-09 20:00:07 | 1. グローバル化論

ご無沙汰してます。5月半ばに筆を取って以来、また仕事がハンパなく忙しくなってしまい、まったくブログ記事を書けずにおりました・・・。忙しいのはあと3週間くらい変わらなそうですが、今日はアナウンスも兼ねて筆を取りました。

6月19日に、「グローバル・エリートの時代-個人が国家を超え、日本の未来をつくる」を講談社より発売します!
(Amazonで予約可能です) 

グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる
倉本 由香利
講談社

こちらの本は、ブログからではなく、まったくの書き下ろしです。私がMBAにいた2年前に講談社さんに声をかけられて以来書き続けて、漸く今年の2月に書き終えました。ブログを書くのはあんなに早くて量も多いのに、本を書くのは何故そんなに時間がかかったのか、と思う人も多いと思いますが、色々と調べて考えを深めているうちに時間がかかってしまいました。MBAのときも企業のケーススタディなど一部のネタについて書いてたのですが、その後3ヶ月のプロジェクトの合間に1週間休みを取って書く、ということを3-4回繰り返して漸く仕上げました。結構面白い仮説や提言を載せているので、楽しめると思います。

本の内容と議論の背景については、出版社に怒られない程度に、出版前にこのブログでも書いていこうと思います。(結構いろんなことを書いたので、このブログにちょっと書いたからってネタバレするほどではないということもあり)
まずは恐らく多くの人が気になるであろう「何故、いまグローバル化なのか」「エリートとは何ぞや」の二点について書こうと思います。

■何故、いま「グローバル化」なのか-いまグローバル化の質が大きく変わっている

現在の日本は、「グローバル化」という概念に関しては完全に二極化していると思う。商社、製造業、小売業、そして飲食や銀行などのサービス業など、日本企業に勤めている人の多くは、企業全体で海外売上高比率を上げるとか、グローバル化を進めるといった課題に取り組んでおり、「グローバル化」が日々の仕事の一部になっている人々がいるだろう。その一方で、グローバルなんて遠い話題で、日々の生活にまったく関係ないところで仕事や生活をしている人たちも多いと思う。前者は「何故、いまさらグローバル化なの?」と思うだろうし、後者は「何故、グローバル化なの?普通の日本人には関係ないし・・・」と思うだろう。

今回、私が「グローバル化」を題材として取り上げた理由は二つある。ひとつはグローバル化の質が、以前とは大きく変わってきているということだ。これは前者の「いまさらグローバル?」という人たちへのメッセージだ。世界経済の主軸が新興国に移るにつれ、グローバル化に必要なスキルが大きく変わってきている。だから敢えてグローバル化を取り上げたいと考えた。

「グローバル化(Globalization)」という言葉は、1970年頃から論文や学術書などで使われるようになった。その後、1980年代後半からビジネスの世界でも盛んに使われるようになった。しかし、この頃は世界経済における先進国のシェアが9割を超えており、企業にとってのグローバル化とは、他の先進国に進出することだった。アメリカ、ヨーロッパ、日本のどの国の企業にとっても、まず狙うべきは自国の巨大市場、そして同じ技術や製品を活かして進出できる先進国のほかの国に行くことだった。この傾向は2000年代に入っても余り変わらず、2003年にBRICという言葉が作られたけれど、海外進出の際に先進国が中心となる状況は大きくは変わらなかった。

ところが、今後は世界経済の主軸は新興国となる。2005年ころから「世界の工場」だった中国は、世界一の消費国としての道を歩み始めた。IMFの統計によれば、来年2013年には、新興国のGDP合計が、先進国のGDP合計を超えるという。更には、(統計にもよるが)2025年から30年のころには、先進国トップ7カ国のG7のGDP合計を、新興国トップ7カ国(BRIC+メキシコ、インドネシア、トルコ)のGDP合計が上回るとされている。

新興国への進出を第一に考えることは、先進国への進出とはまったく異なっている。なぜなら、電力、水道、インターネット、道路などの社会のインフラが整っておらず、会社も個人も払うお金を余り持っていないにもかかわらず、先進国と同等に戦えるだけの非常に高い品質を求めてくるからだ。先進国企業は、新興国企業や個人のニーズを十分に汲み取って、生産や開発までフィードバックをかけて、スペックを絞った安価な開発・生産が求められ、迅速な意思決定をする必要があり、そこには新興国の人材を大量に使うことが必要になるだろう。また、研究開発などでも新興国の人材を出来るだけ活用し、先進国の研究開発ネットワークを十分に活用しながら、現地からのイノベーションを生むことが求められる。このように、かつて先進国に進出していた時代とは異なり、組織そのものがグローバル化しなければ、他のグローバル企業に太刀打ちできなくなってくるだろう。

ではどうすればよいのか。日本企業は、どのようにして組織のグローバル化を果たせばよいか、そのために個人はどのように意識を変えていく必要があるか、ということを書こうと思ったのが、この本を書き始めたきっかけだった。

■何故、いま「グローバル化」なのか-新興国の経済成長を取り込むことが、日本経済復活の鍵に

「グローバル化」を題材として取り上げたもうひとつの理由はグローバル化を進めないと、もう日本で雇用も生まれないし、日本経済が復活することもない、というところまで来ていると考えていることだ。「普通の日本人には関係ない」と思っている人に対して、そうではない、いま世界で起こっているのは、成長する新興国の富を取り込んでいかなければ、先進国は生き残りが出来なくなってきていることを示そうと思ったことだ。

日本は今後、人口が減少していき、それに伴って内需も減少していくと考えられる。日本企業が、日本国内市場だけに頼っていては、売上規模は小さくならざるを得ない、そうなれば、日本国内で雇用される人も減少していき、平均給与が下がるから人々がお金を使わなくなり、市場規模が小さくなり・・という負のスパイラルに陥ることは明らかである。一方で、新興国市場はGDPが年間で5-10%くらい成長しており、まさに日本の1960年代の「高度経済成長期」にある。

重要なのは、この新興国の人々が必要としているもの、欲しいと思っているものは、彼ら自国の技術やサービスだけでは得られないということだ。日本が持つ、水、バイオ、ナノテクあらゆる分野の要素技術や、ものづくりの生産技術、「おもてなしの心」にあふれるサービスなど、日本人にしか提供できないものが多い。これらを提供しつつ、新興国のニーズと結びつけて、市場を獲得していくことをまじめにやっていくことで、これらの国の成長が日本企業の売上につながり、日本経済に取り込んでいくことが出来るだろうし、これが日本人の新たな雇用を生むことにもつながるだろう。そのためには、日本人で、これらの新興国との橋渡しをして、ニーズを刈り取り、営業をし、事業開発を行い、現地の人々や企業とのネットワークを築く人々がいなければ、成り立たない。

いくつもの新興国が経済的に発展する今、色んな文化的背景を持つ人々と、(英語やその国の言語はもちろんとして)、彼らを理解し、柔軟に対応し、時には問題解決をして、リードしながら働いていくことが出来る人たちが、多く必要になるだろう。私は「グローバル・エリート」と呼んでいる。「グローバル・リーダー」という良くある言葉を使わなかったのは、別にリーダーである必要はないと思ったからだ。普通に現場で、あるいは中間管理層で、いろんな国の人たちと普通に働いて、彼らの力を生かせる人たちがもっと必要になる。こういうグローバル・エリート層が増えて、新興国の富を日本経済に取り入れることが出来なければ、日本経済が復活することは難しいだろうと思っている。

■なぜ「エリート」という言葉を使うのか

最後にそういう人材を何故「グローバル・エリート」と名づけたかについて。「エリート」という言葉に嫌悪感を持つ人は多いらしく、このタイトルが決まった後も、「エリート」という言葉の部分に引っかかる方、「そういう面白い内容だったら何故エリートという言葉を使ったの?」といって下さる方、たくさんの人にあった。でも私としては、もともと「エリート」という言葉は、何らかラッキーなものを持つ人は、その力を他の人たちのために活かしていくことができる人たちである、というところから来た言葉であることにこだわった。

それに、全ての人に「グローバルに働ける人材になれ!」というのは、ちょっと嘘ではないか、と思ったのだ。全ての日本人が、多様な文化的背景を持つ人々と働いて、その彼らの能力を活かして、仕事をしていくことが出来るわけではない。努力は必要だが、その努力が出来る環境にある人、小さな頃から教育の機会を与えられた人、若いときからグローバルな環境で働くことが出来て、その力がついている人のほうが、グローバルに活躍するのにはギャップが少ないだろう。

ノブリス・オブリージュ(noblesse oblige : 何らかの特権を持つ人々は持たない人々に対して貢献をしなくてはならないという考え方)という言葉があるように、教育や仕事の上での機会を与えられ、グローバルに働く能力がある人は、その力を発揮してグローバルに活躍する(グローバルに出稼ぎする)ことで、そうでない人との雇用を生み出したり、社会的基盤を支える屋台骨としての日本経済に貢献したりすることが求められるのではないか、と思っている。言ってみれば「現代版出稼ぎ」を、その能力がある人がやるべきだと思っている、ということだ。

それから「グローバル・エリート」はこの現代社会においては、そこまで選ばれた存在ではない。先ほども書いたように、別に「リーダー」である必要はなく、色んな文化の人たちと抵抗なく働けて、日本の技術やサービスをトレーニングしたり、広めたり、営業したり、新興国の人たちの力を活かして何かを作ったり、そういうことが出来る人全般を指している。豊かな国である日本には、努力さえすれば、そういうことが出来るポテンシャルを持つ人がたくさんいる。

もっとも、グローバル・エリートたち自身は、別に「ノブレス・オブリージュ」みたいな義務感を持って働く必要は必ずしもない。いろんな国の人たちに出会って、苦労しながらも色んな学びを得ていくのは楽しいことだ。そうやってグローバルな環境で働くことを楽しいと思うグローバル・エリートたちが増えることが、ひいては日本経済の再成長につながっていくと思っている。


スマートフォン戦争の勝敗はついたのか

2012-05-12 23:58:06 | 2. イノベーション・技術経営

もう一週間も前のことになるが、今回のゴールデンウィークは、いろいろなニュースが流れてきた。特に一番印象的だったのは、夜中に私のTwitterに飛び込んできたCNETのこちらのニュース。分かっていたこととはいえ、今更グラフでちゃんと見せられると結構ショックだった。

Apple, Samsung put hammerlock on smartphone profits-CNET (2012/5/4)

携帯電話市場における「プロフィットプール」つまりその業界の企業が出している利益全体を、誰がどのように分け合っているのか。Asymco社が算出した結果、2011年第四四半期において、アップルが全体の73%、サムスンが26%、台湾のHTCが1%を取っているという報告がされたという。

そのニュースに掲載されていた、2007年からの業界のプロフィットプールのシェア変遷を描いたグラフがこちらである。
このプロフィットプールは、携帯電話業界全体なので、スマートフォンだけではない。特に2007年のころ、最大の利益を誇っていたNokiaは、スマートフォンではなく、主に新興国などで発売していたシンプルな携帯電話で業界全体の6割もの利益を得ていたのだろう。それがいまや殆ど利益を得られず、利益を出しているのはApple、Samsung。過去からの推移を見ると、その方向は固定化しつつある。

図中のSEはSony Ericsson、RIMはResearch In Motionつまりブラックベリー、SamがSamsung。後は会社名のまま。 


Credit: Asymco;  Through: CNET

このグラフから明らかに言えることが4つある。

1. もはやスマートフォンだけが勝ち組であり、スマートフォンにうまく移行できなかった携帯電話の王者は全て負け組に

旧来の携帯電話の王者であり、2007年には業界の6割の利益を享受していたNokiaの影は、2011年にはもはや無い。通話とメール機能を絞り、シンプルで安く使いやすいNokiaの携帯は、いまだに新興国におけるシェアはそれなりに大きいが、Android携帯などの攻勢に会い、かつての利益率を保てなくなってしまったのだろう。

私がMITに留学していた2009年頃、周辺でNokiaでアルバイトをしていた学生が結構いた。当時のNokiaは、Appleによるスマートフォン攻勢を迎え撃つために、独自のスマートフォン向けのOSを開発したり、マイクロソフトと共同開発しようとしたり、色々と模索しており、そのOSの開発や経営戦略策定のためにMITの学生がたくさん雇われていたようだ。しかし、この「独自OS」戦略は結局うまくいかず、Nokiaはヒットするスマートフォンの機種を出せずに終わってしまった。スマートフォンは、使えるアプリがどれだけリリースされるかなど、ネットワーク効果が重要であり、Winner takes Allの世界だ。デファクトを取れないOSはまったく普及せず、結局開発費だけがかさむ結果となってしまったのだろう。

2. スマートフォンにおけるAndroid v.s. Appleの戦いは、Appleの勝ち

次にいえるのが、勝ち組であるスマートフォンの中でも、明らかな勝ち組はAndroid陣営ではなく、Appleである、ということだ。上のグラフの中では、Androidによるスマートフォンを出しているのが、HTC、LG、Sony Ericsson、Samsungであるが、これら4社を合わせた利益は徐々に下がってきており3割に満たず、Appleが業界利益の7割を占めているほどに増加している。Appleの一人勝ちとなってしまった。

何故Android陣営は利益率が低いのか?主に考えられる理由は二つでは無いだろうか。

ひとつはただでさえAppleより価格が取れない中で、Android陣営内での差別化が難しいため価格競争が進んでいること。Android携帯は、ただでさえAppleのiPhoneに比べて価格を落として販売している。そのうえ、同じAndroidを使っている以上は、使えるアプリも同じなので、差別化が難しい。形状とか、色々違いはあるだろうが、価格に転嫁できるほどの差別化要素にはならない。その結果価格競争に陥っているのではないか、ということだ。

もうひとつはAndroidを利用するための開発費がかなりかさんでいるのではないか、ということ。MITには、GoogleでAndroidを開発していた人から、携帯電話会社でAndroidの開発をしていた人まで大量にいたが、彼らによると、GoogleがリリースしたAndroidは、そのままでは使い物にならず、各携帯電話会社がかなりの開発費をかけて、普通に携帯電話に使えるように開発を進め、その結果各社が開発費を相当負担することになったという。某携帯電話会社のAndroid開発部隊にいたMITの友人は、その企業が先んじてAndroidの応用開発を始めて、相当の開発費を使ってしまったのに、リリースが遅れたので赤字を生んだと話していた。GoogleのAndroid部隊にいたMITの友人は「Androidは無料だというが、あれはGoogleの宣伝であって、実際にはベースと鍵になるソフトの断片しかリリースできていない。実際の製品にするには企業が相当の開発費を使わなければ使い物にならないから「無料」では無いんだよ」と話していた。開発費は当然AppleがiPhoneを開発する際にもかかるだろうが、Android陣営は各社がそれぞれに開発費をかけているという無駄が生じている分、全体として損をしている可能性があるだろう。

3. Android陣営の中で唯一利益を出しているのはSamsungだけ

もうひとつ面白いのが、利益があまり出ていないAndroid陣営のうち、圧倒的に利益を出しているのはSamsungだけだということだ。LGやソニーエリクソン、そしてこのグラフに載っていないその他の日本や台湾の携帯電話会社が利益を出せずにいるのに対し、Samsungだけが大きな利益を出している。やはりGalaxy携帯などAndroid陣営の中で先んじてブランドを構築することに成功したため、それなりの価格プレミアムとシェアが取れていることが大きいのだろう。トップダウン組織ならではの、最初にどーんと先行技術に投資して、いち早く先端技術を提供することでシェアを取り、プレミアムを確保して利益率を取るというサムスンのやり方は、携帯電話業界でも成功しているといえるだろう。

4. 携帯電話業界において、旧来の携帯からスマートフォンに移行して利益を出し続けているのはSamsungだけ。ゲームのルールの変更にさっさと気がついて投資戦略や自社の体制を変えられたのが鍵。

最後に、旧来の携帯電話時代からずっと利益を出し続けているのはSamsungだけであるということにも注目しておきたい。いわゆる「イノベーションのジレンマ」とは少し異なるが、必要となる技術が変わり、勝つためのモデルが異なってきた場合に、新しい技術に移行して勝ち続けるというのは簡単なことではない。通常勝ち組企業は、自社が勝ち続けることが出来た仕組みに固執し、新しく必要になるモデルに移行できずに負けてしまうことが多い。たとえばNokiaの場合は、独自の安いOSに基づく垂直統合の構造で、安価な携帯電話を作り、ボリュームゾーン中心に大量に売ってきたのが旧来の携帯電話での勝ちモデルだったが、Appleに対抗して遅れて独自OSに取り掛かったのが負けた理由かもしれない。彼らがSamsungと同様、Androidを活用してボリュームゾーン向けのスマートフォンに早急に移行できていれば、Samsung並みには利益率を維持できた可能性もあるだろう。

一方Samsungは、ゲームのルールが変わってきたのを早急に察知して、Galaxy携帯のようなものをいち早く出すなど、新しい体制に移行できている。これが技術が変わっても利益を出し続けていられる理由だろう。

携帯電話業界のように、技術が次々に進歩する世界では、勝つためのモデルが変わってくることは多い。そして、もともとの勝ち組だった企業が、自社のモデルに固執して、新しい技術で負け組となってしまうことが頻繁に起こる業界だ。携帯電話というものを開発し、1G携帯では王者だったモトローラが、2G, 3G携帯でNokiaに負けていったように。現在のスマートフォンでは、完全に勝ち組となったAppleであるが、ポスト・スマートフォンでは、心して変化に対応していかなければ、負け組となってしまう可能性は高いだろう。特に、垂直統合によって強みを発揮している企業は、一般的には業界の変化には弱いこともあり、Appleは注意して業界動向を注視し、変化に投資していく必要があるだろう。

(Special Thanks to @linsbar, @Kelangdbn, @muta33 and @mghinditweklar for additional Twitter discussion)

(追記)「市場シェアで見ればAndroidの方が高いはずでおかしい」という声をTwitter等で頂きますが、市場シェアが高くても利益率が高いとは限りません。寧ろ、Android陣営は利益率を犠牲にして、市場シェアを取っているという言い方も出来るかもしれません。

(参考)市場において、製品の「ドミナント・デザイン」(市場でこの製品はこの形状、形とみんなが認めるデザイン)が決まってくると、市場に残れる企業数が減っていく、というのがUtterback先生の研究。理由は、ドミナント・デザインが決まるとWinner takes Allの様相が強まるので、利益が出る企業数が限られるようになるから。私もMITにいたとき実証研究をやったんだけど、たとえば液晶テレビの場合は以下。ドミナント・デザインが決まったと思われる2005年以降、Exitする企業が増えて、市場にいる企業数が減っていった。スマートフォンにおいても、これと同様のことがもう起こり始めているといえるだろう。

その他、Utterback先生の本ではあらゆる業界において検証がされているので紹介しておく。

Mastering the Dynamics of Innovation
Harvard Business School Pr

この本の日本語版は絶版になってるので、英語版を紹介しておく

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自己紹介

2012-05-06 15:05:36 | About me

ペンネームはLilac(ライラック、と読みます)、薄紫の花の名前です。
名前の由来は、以前からのペンネーム「紫」を「まぁ留学して海外に行くので、英語にするか~」くらいの勢いでつけたものです。
まさかこのブログが、こんなにたくさんの人に読まれるようになるとは当時は思っていませんでした。
ちなみに筆者は女性です。(よく男性と思われてますが・・・)

2012年5月6日から、ペンネームではなく、本名の倉本由香利での執筆を始めました。6月19日に著書「グローバル・エリートの時代-」を 講談社から発売予定です。ブログからではなく、全編書き下ろしで執筆しました。
(詳しくはこちら→ 「グローバル・エリートの時代」を出版します (6/19 講談社より)

経歴は、1978年東京生まれ。その後、東京大学理学部物理学科卒業、そのまま同じ大学の修士課程、博士課程へと進学。
博士1年の晩秋に、思うところあって就職活動を開始、色々苦労した挙句、翌年4月から外資系の経営コンサルティングファームに就職。
(詳しい経緯はこちら→私が人生の進路変更をした本当の理由

その後、会社をいったん辞めて、2008年8月からマサチューセッツ工科大学(MIT)のビジネススクール、MIT Sloanに留学。
学業の傍ら、ブログ「My Life in MIT Sloan」を書いていました。
夏はシリコンバレーで3ヶ月、米国のITベンチャーで働きました。
MBA授業のTA(ティーチングアシスタント)なども務めました。
経営学の分野で、修士論文も書きました。
2010年6月に卒業し、日本に帰国。「My Life After MIT Sloan」というブログ名に変えて書き続けています。

技術経営、イノベーション論、組織変革、グローバル化が専門で、経済学や社会学にもたまに越境しています。
私は日本経済の復活に向けて何かやりたいと思っているのですが、方法は大きく二つしかないと考えています。
ひとつは、既存分野での日本企業のグローバル化をすることで、成長する新興国の富を日本経済に取り込むこと。
もうひとつは、新分野でベンチャーを次々日本から生んで、アメリカのGoogleやAmazon、Genzymeなどのように育てていき、新しい産業分野を構築し、経済成長を牽引できるまでにすること。
(詳しい話はこちら→「グローバル化」は今、質的に大きく変容している
現在は、まずは日本企業の組織のグローバル化、そしてそれを支える個人のグローバル化というところに焦点を置いてます。 

趣味はお酒を飲むこと(特にワインとウィスキー)、ものを書くこと、旅行すること、人と話すこと。
スポーツは水泳とヨガ。音楽は、クラシックとロック(HMからRBまで)、アメリカのポップが好きです。

Tweetも、時間がある限りしています。 Twitter名は @Lilaclog。
Tweetする内容は、このブログの更新と、感想への返事、その日のニュースを読んで思ったことなどです。

私のブログへのスタンス:コメント欄も含めて、初めて私のブログです。
私の記事はあくまで問題提起に過ぎず、皆さんから色んなコメントがあって、初めて完結するものと思ってます。
したがって、異論・反論も大歓迎なので是非思うところをお書きください。
というのは、私の記事を読んで、違うなーと思った人も、コメント欄にその違和感が書いてあれば、なるほどと思うはず。
それに私自身、ブログの執筆は趣味でやってるので、仕事とは違って詳細に調べてないし、仮説ベースで書くことも多いから、直してもらえれば助かるので。

コメントは現在は承認ベースにしていますが、これは一応会社勤めの身なので、所属組織に迷惑かけたくないのでそうしてます。
承認制にためらわず、是非いろいろなコメントお待ちしてます。

グローバル化と、技術経営やイノベーションについては、記事や原稿を書いているので、何かあればメールください。
アドレスはlilac.log に gmail.comです。 「に」を@マークに置き換えてください。

Disclaimer:このブログやTwitterの内容は、全て私の個人的見解であり、私が所属している企業・組織には一切無関係ですので、よろしくお願いします。


グーグルとフェースブックの「情報共産主義」

2012-05-02 21:30:17 | 2. イノベーション・技術経営

1. クラウドに入れた私の情報をGoogleが勝手にいじってもいいの?-何故Googleは「公開」したいのか

Googleが新たに始めた個人クラウドストレージサービスGoogle Driveの利用規約が、アップロードした情報のGoogleによる利用を可能とすると謳っていることがひとしきりTwitterで話題になっていた。

How far do Google Drive's terms go in 'owning' your files? - ZD.net

この記事(英語)にあるように、同じクラウドストレージの競合に当たる、DropboxやMicrosoftのSkyDriveの利用規約には、「ストレージにアップロードしたあなたのファイルやコンテンツはあなたのものです」と明示してあるのに対し、Google Driveでは「ストレージにファイルやコンテンツをアップロードすることで、あなたはGoogleがそれを使用したり、変更したり、公開したり・・する権利をGoogleに与えることになります」と書いてあるのが問題になっているということだ。この記事に出ている、実際のGoogleの規約を引用して訳してみよう。

Google Drive ←全文はこちら

Your Content in our Services: When you upload or otherwise submit content to our Services, you give Google (and those we work with) a worldwide licence to use, host, store, reproduce, modify, create derivative works (such as those resulting from translations, adaptations or other changes that we make so that your content works better with our Services), communicate, publish, publicly perform, publicly display and distribute such content.

The rights that you grant in this licence are for the limited purpose of operating, promoting and improving our Services, and to develop new ones. This licence continues even if you stop using our Services (for example, for a business listing that you have added to Google Maps).”

私たちのサービスにおけるあなたのコンテンツ:あなたが私たちのサービスにコンテンツをアップロードしたり入れたりすることで、あなたはGoogle(および私たちと一緒に働いている企業)に、それらのコンテンツを利用したり、ホストしたり、ためたり、複製したり、変更したり、派生するコンテンツ(翻訳などあなたがサービスを利用するために便利になるようなもの)を生成したり、コミュニケートしたり、公開したり、公開で操作をしたり、そのようなコンテンツがあることを公開したり、頒布したりする権利を与えることになります。

あなたが認める権利は、私たちのサービスを運営、宣伝、または向上する、そして新しいサービスを開発するという限られた目的のためのものになります。このライセンスはあなたがサービスの利用をやめたとしても継続することとします(たとえばGoogle Mapに加えられたビジネス情報など)

おそらくGoogleが考えていることは、持っている英語文書などをGoogle Driveなどに突っ込むと、自動的に日本語などに翻訳し、別ファイル名で保存しておいてくれるなんてサービスかもしれない。あるいは、保存した名刺の住所録などの情報をGoogle Map上に載せてくれる(もちろん自分しか見れない)という程度かもしれない。最初は多くの人が抵抗するけれど、実際に使ってみたら「結構便利」、といういつものGoogleのパターンかもしれないのだ。たとえば、自分の検索履歴が次回の検索に生かされるGoogleのサービスも、最初は「え、検索履歴情報なんてGoogleにあげちゃうの?」とドキドキしたかもしれないが、使い始めると(過去の検索履歴を同僚や友人に見せるヘマをしない限り)個人情報が外に漏れることも無く、便利だということに気づいた人が大勢だった。

Googleはクラウドに入れた私の情報を「所有する」と言っているわけではない。Googleは勝手に、複製して改変したり、公開したりするだけであり、所有権は私にある、と言っている。しかし、それでは「私が所有している」ということには実質的にならないのではないか?という素朴な疑問を持つ。情報は、複製したり、秘匿性が失われることで、価値が下がる可能性があるからだ。

対するDropboxやマイクロソフトのSkyDriveが、ストレージに入れた情報は「あなたのものだ」ということを強調するのは、まだ「クラウドサービス」という概念に不安を覚える人が多くいるからだ。ITの世界にどっぷりつかっているひとには、ばかげていると思えるかもしれないが、自分の持っている自分の情報を自分で「所有」していたい、と感覚的に思う人は多い。自分のPCに保存しておかないと不安、という人はまだまだたくさんいる。だからこそ、利用規約の中で散々「あなたのものは、あなたのものです。われわれは一切所有権を主張しません」と強調しているのである。クラウドサービスを本当に裾野まで普及させようと思うなら、こういう「感覚」を大切にするのが大事だと思う。Googleには悪意はなく、ただちょっと先走りすぎちゃったのかもしれないけれど、だとしたらこういう「感覚」への思いやりがちょっと足りなかったかもしれない。

それにしても、一番気になるのは、「公開する」「そのようなコンテンツがあることを公開する」という部分だ。もちろん許可なく公開することは無いんだろうが、いつの間にか「公開してもよい」にチェックを入れたり、「I Agree」していたりするんじゃないかとひやひやしてしまう。個人クラウドに入れた情報を、Googleは「公開する」ことにこだわっているようにどうしても見える。

2. 情報を公開し、みなで共有することで、世界は良くなるのか-それって私有財産制の否定?

何故、Googleは情報を公開し、共有することにこだわるのだろうか?
Google創始者の一人であるセルゲイ・ブリンが、GIZMODEのインタビューで次のように答えている。

"I am more worried than I have been in the past. It's scary... There's a lot to be lost. For example, all the information in apps – that data is not crawlable by web crawlers. You can't search it."

私は前よりもずっと心配している、正直恐ろしい・・・ 沢山のものが失われてしまう。例えば、全ての情報は今アプリの中にある。データはWeb上をうろうろしても出てこなくなってしまう。検索できなくなってしまうと。

Sergey Brin: Web Freedom Faces Its Greatest Threat Ever-GIZMODE(2012/4/16)
(セルゲイ・ブリン:Web上の自由は、今かつて無い脅威に直面している: Thanks to @daisuke_kawada さん)

昔、インターネットが出来たばかりの2000年ごろは、情報がさまざまなところに溢れていた。溢れすぎて、混沌としてしまったところに出てきたのが、Yahoo!のようなリスティングサービスや、Googleのような検索サービスだった。こうして、混沌は収まった。

ところが、今度は人々が情報を隔離して所有し、外から見えないようにしてしまったのだ。例えば、新聞や雑誌社が、自社のコンテンツをGoogleで検索できない紙のコンテンツからウェブ上に移行して、公開してくれるようになったのに、Webアプリが便利になったおかげで、記事を有料化して囲い込む流れが起き、Googleで検索しても表示することができなくなってしまった。アメリカの新聞であるウォールストリートジャーナルは、長いこと無料のコンテンツを出していたが、iPadやWebでの有料配信をきっかけに、どんどん無料で見られる記事を減らしていった。その結果ウォールストリートジャーナルのオンライン購読者は増え、同社の利益は向上したが、これらの情報はGoogleで検索して読む、ということが出来なくなってしまっている。

あるいはAppleのiPhoneやiPadの普及で、さまざまなコンテンツがアプリを通じて提供されることで、Googleではその内容が検索不可能になってしまった。すなわち、人々が情報を所有し、囲い込むようになったことで、Googleで便利に検索できる領域がどんどん減ってしまっているのである。

ビジネス的にセルゲイの発言を解釈すれば、検索の元締めとして利益を得ているGoogleにとって、自社が検索できない情報が増えてしまえば、Googleの検索サービスの価値は毀損するから、その流れに反対するのは当然だろう。もし仮に、そんな金儲けはGoogleにとってどうでもよくって、単純に「世界をよりよくする」という精神から発言していると考えれば、人々が情報を囲い込むことにより「世界中の情報に誰もがアクセスできる」という時代は終わり、もとの紙の世界と同じになってしまう。それではまた不便な世界に逆戻りではないか!と言いたいのかもしれない。

これは、私有財産制の登場に似ているかもしれない。
かつて狩猟採集民が、野生の動物を狩り、魚を獲り、落ちている木の実を採集して生活していたように、初期のインターネット民は、野生の情報を狩り、文章を獲り、落ちている画像を採集して生活していた。端末さえあれば、お金が無くても、最先端の人と同様の情報を得ることが出来るようにしたのだ。(その端末すら、Googleは価格破壊を起こしたのだ。いまや新興国のミドルクラスでもスマートフォンが使えるようになってきているのは、Androidの普及によるところも大きいだろう)Googleはこのように情報にアクセスするコストを下げ、アクセスしやすくすることにより、どんな環境に育った人々も、下克上する可能性を高めてきたといえる。

ところが人々は土地を所有して、農耕をすることを覚えた。そうすることで、毎年安定した収穫を得られるようになった。農耕技術が進み、土地を囲い込むことで収益を得られるようになるほど、土地は「みんなのもの」ではなく、それぞれの人が所有に収まっていった。奴隷制が生じ、人々の身分は固定化した。こうして「私有財産制」が始まった。

情報の世界も同様だ。Webアプリの技術が進化し、新聞や雑誌や書籍を紙で読むよりも、ネット上やiPadのような端末にダウンロードして読むほうが便利になった。そうなることで、紙の時代よりも逆に堅固なセキュリティのなかに、情報が閉じ込められてしまったのだ。(例えばGoogleが全ての本をスキャンして、検索可能にする、なんてことがより難しくなってしまった。紙の本なんて、セキュリティゼロだったのだから!) こうして私企業や人々が情報を囲い込むことで、安定した収益を得られることを、企業や個人が知ってしまったからである。こうして、情報は、「みんなのもの」ではなくなろうとしているのだ。

3. だとしたらそれって「情報共産主義」?

Googleが「公開」にこだわるのは、このようにして「私有財産」化し、持たざるものが簡単に手に入れるのが難しくなった情報を、再度「みんなのもの」に戻そうとしているからではないか、と私は思っている。同じことが、フェースブックにも言える。フェースブックは、個人の持つ情報を、出来るだけ公開することで、世界をよりよくしようとしているという。自分たちが収益を上げていることですら、より良いサービスを提供することで、世界を良くしていくためだと、ザッカーバーグ氏は述べている。

マーク・ザッカーバーグの投資家向け公開状―「私たちは金もうけのためにサービスを作っているのではなく、よいサービスを作るために収益を上げている」-TechCrunch(2012/2/14)

ザッカーバーグ氏は、お金儲けをして、貯めたり使ったりすることには興味は無いのだろう。「収益を上げるのは、次世代のR&D投資を行うためで、それによって世界を良くしていくためだ」と本気で言っているのかもしれない。かつて、レーニンや毛沢東がそうであったように、自分の身は粉にしても、人々の情報を公開して、より良い世界を作ろうとしているのかもしれない。

この考え方は共産主義に近い考え方に思えるので、私は「情報共産主義」と名付けることにした。(Thanks to @tamai_1961 さん)かつて、共産主義国家でその思想が始まったときに、私有財産は全て没収された。没収されることで、世界が本当によくなっていくのであれば、喜んで財産を投じるという人も多かっただろう。しかし、結果は本当にそうなっただろうか?

「情報共産主義」をGoogleやFacebookが掲げるとしたら、私たちが問われているのは、そういった人たちに、全ての情報(財産)を任せることで、世界をよりよくすることに使ってもらうかどうか?ということだ。私たちは、その人たちをどれだけ信用できるのだろうか?

例えば、彼らがもしIPO(上場)したらどうなるだろうか?株主は、資本主義の中で、当然「儲けること」を是と考えるだろう。実際、Googleは上場しており、儲けることも彼らの役目のひとつだ。実際に、世の中の全ての情報が公開され、共有され、「みんなのもの」になったときに、一番儲かるのは、検索サービスにおいて最大のシェアを占めているGoogleである。公開された情報を、人々が探すために、全ての富がGoogleに流れ込んでくるのだ。それでも、Googleは本当に「Not Evil」といえるのだろうか?

あるいは、ザッカーバーグ氏は信用できたとしても、その彼を継ぐであろう次の社長はどうだろうか?ザッカーバーグ氏自身は、毛沢東の若い頃のように、農民と一緒に苦労して土地を耕し、既得権益者から奪った情報を公開し、読みやすくすることで、人々に便利な情報を与えているのかもしれない。でも後継者は全てが毛沢東やレーニンの若い頃のような苦労を実践するのだろうか。単純に、GoogleやFaceBookという新たな既得権益者を生んだだけではないだろうか?

このように考えていくと、人々の理想だった共産主義が、ソ連や多くの国で崩壊したのと同じような危険性を、GoogleやFacebookが掲げる「情報共産主義」にも感じるのである。結局のところ、GoogleもFacebookも自社の利益を最大化したい私企業であり、創業者がどんなに世界を変えようとしていたとしても、結局のところ、私たちの情報を取得することで、より大きな広告収入などを得ようとするだけに終わってしまう可能性が高いのではないか、と思っている。歴史がそれを示しているように思うのだ。


正義が勝つとは限らないことを教えるブロードウェイ・ミュージカル

2012-04-30 10:18:17 | 5. アメリカ経済・文化論

昨日、久しぶりに水谷豊主演のテレビドラマ「相棒」を見て、思い出したことがあったので書いておく。私は普段テレビドラマは余り見ないのだけど、「相棒」だけはプロットも俳優も非常に面白いのでたまに見たりしている。ただ、実際の社会ではこんなに気持ちよく、正義が通るとは限らないよね、と思ったりして、そうすると思い出すのが、アメリカのブロードウェイ・ミュージカルの「WICKED(ウィキッド) 」だ。

WICKEDは、「オズの魔法使い」のパラレルワールドという設定で作られた作品で、オズの魔法使いの中に出てくる「西の悪い魔女(エルファバ)」と「南の善い魔女グリンダ」が実は親友だったという設定で、彼女たちのアメリカらしいキャンパスライフから、その後運命が分かれていくまでを描いている。2003年の初公開以来、世界各国でロングラン公演しているらしい。私は2007年の日本での公開直後にミュージカル好きの友人と見に行ったのだけど、内容が強烈でいまだによく覚えている。

Wicked-poster.jpg(Wikipediaより転載)

(ネタバレ注意)魔女の才能は誰よりも優れ、正義感が強く、優秀で自己主張の強い女性である、エルファバ。彼女は、魔女の国の中で動物たちが人権を失われていく状況に反対し、一人で巨悪と戦おうとしたため、国民の敵である「悪い魔女」のレッテルを貼られて死んでいく。その一方で、ブロンドで美貌の人気者で、人気を得る方法を人一倍わきまえているグリンダは、親友として彼女に手を差し伸べながらも、組織の人として残ることを選び、国民に「南の善い魔女」として称えられる、という内容である。かなり超訳だけど。

日本でも劇団四季が完全翻訳版を演じているので、見に行ったことがある人もいるかもしれないけれど、ブロードウェイではこのミュージカルはティーンの女の子が主に見に行くミュージカルで、女の子に大人気なんだそうだ。たしかに、劇中に出てくるグリンダの美しい衣装や靴、恋愛事情、かっこいい男子が周りにいる大学なんて、アメリカの女の子の憧れのキャンパスライフそのもので、ティーンに人気があるというのはよくわかる。そして、エルファバとグリンダのお互いに全く異なる価値観を受け入れあう女子的友情も、「赤毛のアン」のアンとダイアナ然り、ティーン女子が好きなところだろう。しかし、そのティーンの女の子の憧れのグリンダちゃんが、倫理観や道徳観ではなく、「世の中は、正義が勝つとは限らない。長いものに巻かれ、組織のお作法を守って生きていくほうが、最終的には人々に慕われて社会的には成功するのよ」なんていう真実を教えてしまっていいんだろうか、といつも思うのである。

大学の女子寮で同室になった、美貌で人気者のブロンド女子のグリンダと、賢くて才能があるが肌が緑色のエルファバは、最初はお互いの価値観が合わずにいがみ合う。が、ふとしたことをきっかけに仲良くなり、親友になる。そしてグリンダがエルファバに、どうやったら(自分みたいな)「人気者」になれるのかを教えるという場面がある。グリンダの名ナンバー「POPULAR」だ。

人気者になるためには、どういった格好や身だしなみをしなくてはならないか、どういう仲間と付き合うべきか、男子に話すときはどういう言葉遣いをするべきかというのを細かくエルファバに指導していく、という歌。グリンダのコミカルなソプラノが生きるこのポップなナンバーの最後で、グリンダはこんな内容のことを歌う。(Lilac訳)

著名な国のリーダーや優れたコミュニケーターたち、彼らが頭脳や知識を持っていたですって?笑わせないでよ。
彼らは人気者だったの。ねえ、これは全部人気があるか無いかの問題なのよ
才能じゃないの、あなたが周りにどう見られているかが全てなの
だから、人気者になることはしっかりとやらなきゃならないのよ!私みたいに!

「そんなのくだらないわ」と言って最後まで親友の助言を受け入れなかったエルファバ。彼女は自分を高く評価していた「オズの魔法使い」という名の権力が、自らの権力を維持するために、動物たちから権利を剥奪し、自分の魔力をも利用しようとしていたことを知る。そして、自分の信じる正義のために巨大な権力と戦うことを選び、その結果「悪い魔女」のレッテルを貼られ、国民にも糾弾され、魔女狩りにあい、死を迎える。彼女は、社会的には抹殺されても、愛する男性フィエロに愛されながら、死をいとわず、正義を盾に悪と戦うことを選んだのだ。

ただその結果、国民の記憶には、エルファバは悪の象徴として、グリンダは善の象徴として残る、ということをティーンの女子たちはどのように捕らえるのだろう、と不思議に思う。エルファバのように、権力に逆らって、社会的に抹殺されてしまったとしても、愛する男性の永遠の愛を勝ち得て、自分の信じる正義のために最後まで戦うのを善しとするのだろうか。一方グリンダのように、間違った組織の権力と戦うことが出来ない、美しい靴や衣装が大好きで、周囲からの人気があるだけの普通の女の子が、戦う親友の死を乗り越えて大人になり、最後には社会的に成功し、人々の記憶に「善い魔女」として刻まれるのを善しとするのだろうか(でも彼女には何が残った?) 。ブロードウェイでWICKEDを見てるティーンの女の子たちに一度感想を聞いてみたい。

個人的には、エルファバのような才能と正義感を持った女性が、グリンダのようにうまく生きる術を持ちながら、最後には見事うまいことやって巨悪を滅ぼしてほしいと思うのだけれど、現実の世の中では、そんな簡単に正義が勝ってしまったりしないことを、ティーンに教えるアメリカのミュージカルってすごいなぁと思うのであった。

超解釈過ぎて、ウィキッドが好きな人が読むと「そんなの違う!」と思うかたもいらっしゃるかもしれないので、そのお詫びとして宣伝、というわけではないけれど、興味を持った人は一度見に行ってみるといいかもしれません。ミュージカルとして年齢を超えて誰もが楽しめる内容だと思うので。劇団四季のウィキッドの予告編を発見したので置いておきます。

(追記) ちなみにWICKEDを私のように解釈する人はアメリカ人にも多くいるようで、権力を保持するためにエルファバを悪に仕立てるオズの魔法使いをアメリカの国家に例え、湾岸戦争からイラク戦争にいたるまでの批判に使うひともいるようです。


都市化する世界-私が今年考えたいテーマ(後編1)

2012-04-29 16:03:56 | 4. マクロ経済学

さてさて、先週の「私が今年考えたいテーマ」の続き。なんか長くなりそうな気がするので、後編を二つに分けて後編1と後編2にしようと思います。最初は、私がずっと長いこと興味がある都市化。去年も「GDP世界一の都市・東京」という記事を書いたりしていたが、将来は世界の人口のほとんどが都市に住むようになることを考えると、効率化した、ちゃんとした都市を作っていかないと大変なことになるだろうな・・・という直感があって、都市というものに非常に興味があるのだ。

1. 都市化する世界

水、食料、エネルギーに並んで、世界的に注目されている分野として「都市化」がある。今後数十年の間に、世界の人口がどんどん都市に流入して行き、世界の多くの人が都市で生活するようになるという現象だ。特に、アジアの新興国を中心に人口密度の高い都市が増えていくため、環境問題とか、水やエネルギーが不足する問題が起こりやすくなるだろう。だからそれを防止する策を講じなければ、ということで国連や各国政府が「スマートシティ」などのプロジェクトに積極的に取り組んでいる。

こういう予想に基づいて、国連ではWorld Urbanization Prospectsという報告書を二年に一度出している。
このページから、各国の都市部と田舎(農村部など)に住んでいる人口を出して遊べるようになっている。
この予測に基づくと、2050年までに、世界人口の7割が都市に住むようになる
(注:国連データでは人口50万人以上の都市圏を都市と定義している)

2. 何故「都市化」するのか-中国、インド、アフリカにも「サラリーマン(注)」比率が増加するから(笑)。ちゃんと書くなら第二次、第三次産業にシフトすると人口集積が必要になるから

何故、今後人口が都市に集中するのか?それは今後は新興国を中心に経済成長し、それらの国で重要な産業が第二次、第三次産業へとシフトしていくからだ。工業などの第二次産業や、サービス業などの第三次産業は、資本や労働力が集積することで価値が生まれるため、人口が集積する場所-都市で発達するようになる。今までは農業などの第一次産業が中心で、人々が農村や漁村に住んで経済活動をしていた新興国において、工業やサービス業が経済の主体となることで、人々が都市に流入するようになるのである。これが世界で都市化が進む理由である。

いまいち感覚がわからない人は、日本の歴史を紐解いてみると良いかもしれない。
同じページで、項目にUrbanとRuralの二つを選び、地域で日本を選ぶと、日本が経済の発達に伴ってどのように都市化してきたかがよくわかる。

日本で戦後に工業化が大きく進み始め、池田勇人首相などが「国民所得倍増計画」を掲げていた1950年代、1960年代は都市化が最も進んだ頃であるのがわかる。京浜工業地帯(東京、川崎市など)、阪神工業地帯、中京工業地帯(愛知、三重)などといった四大工業地帯や、その他の工業地域といわれる場所に鉄鋼や化学など重化学工業のプラントや機械、電子などの中小企業が集積し始め、農村部から職を求めてたくさんの人口が流入してきた。その後、1970年代にはサービス業の就業比率も徐々に高くなり、いわゆる「サラリーマン」と呼ばれる人たちが増えて、東京や大阪、名古屋といった都市部に人口が流入し続ける。そして2010年には日本の7割の人口が都市部に集積するに至っている。

これと同じようなことが今後は、中国、ベトナムやインドネシアなどの東南アジア、そして東欧、ブラジル、アルゼンチンなどの南米諸国、そしてインドやバングラデッシュ、アフリカ諸国という順で、次々と起こっていくわけである。現在は農村部に多く人が住んでいるような国々でも、工場労働者、そして「サラリーマン」(注:サービス業の就労者をそのように呼ぶのであれば、ということ。別にサービス業で起業してる人も多いかもしれないが)が増え、多くの人が都市部に住むようになる。このようにして2050年には、世界人口90億人のうち7割もの人口が都市に住むようになるわけだ。

2050年にはインドに「サラリーマン」や「OL」が増えたり、アフリカで「工業労働者」がほとんどになって、みんなが都市に住んでる、というのはまだまだ想像できないかもしれない。でも、実際に中国などではそういうことが起こりつつあるわけだ。都市と農村で戸籍を分けている中国は、農村部から「農工」と呼ばれる、都市の戸籍が無い人々が職を求めて、大量に都市に流入している。この人たちは暫くは労働者として生活しているわけだが、何とか子供を教育にありつけさせ、工業労働するよりも高い給与を保証されるサービス業に勤められるように仕立てる。そうして都市で大企業とかに勤めて、サービス業に従事する人口が増加する。こういったことは、徐々にインドやアフリカ諸国でも起こっていくようになるだろうと考えられる。

さらに興味がある人は、Gapminderなどのツールを使って、産業別人口割合と都市化が密接に相関していることを確認してみると良いかも。

3. 新興国各国はどのような都市化をするのだろうか?-国によって異なる都市の発達形態

そんなわけで、これから経済成長をする新興国各国は、次々に都市化が進むようになる。そうすると、ちゃんと都市計画を考えて、都市を作っていく必要があるのだが、各国がどんな形で都市化を進めていくのかっていうのは結構面白いテーマである。

(余談だけど、日本の大学では「都市開発学科」みたいな学科が大人気だった時期があったけど、最近は大手ゼネコン就職不人気で、人気が落ちているということを聞いたことがある。世界全体では、都市開発がどんどん重要になるんだから、日本人の学生もこういう勉強をして、世界に羽ばたいていけばよいのに、と思う。今後は日本で勉強した後、中国やインドのディベロッパーに就職するというのもひとつの手では無いだろうか?)

例えば、日本とアメリカは同じ先進国だけど、まったく都市化の様相が異なる。以前書いた「GDP世界一の都市・東京」から、国別1位の都市のGDP比率を引用してみる。このときは人口ではなく、GDPを議論の対象にしてたので、GDP比較なのだが、東京都市圏(人口3700万人)が国のGDPの3分の1を占める日本に対し、NY都市圏(人口約2100万人)はアメリカのGDPの10%に過ぎない。中国は上述のようにそもそもまだ農村部の人口やGDP比率が高いということもあるが、最も大きな都市である上海が国全体のGDPに占める割合はたったの4%だ。

では、第一位の都市が低い米国では都市化の割合が低いのかというとそうではない。下の図を見ればわかるように、なんと85%以上の人口が人口50万人以上の都市圏に住んでいる。

つまり日本やイギリス、フランスというのは、少ない数の大都市が経済を牽引しているモデルであるのに対して、米国は、都市は多いものの、小都市が国中に分散しているモデルと考えられる。実際どうなっているかというと、

1. 2100万人のニューヨーク経済圏
2. 1700万人ののロサンゼルス経済圏
3. 1000万人のシカゴ経済圏
4-7. 700万人規模のワシントン経済圏、フィラデルフィア経済圏、ボストン経済圏、サンフランシスコ経済圏
8-10. 600万人規模のダラス経済圏、ヒューストン経済圏、マイアミ経済圏

といったように、東京ほどには大きくないが、数百万人の人口を抱える都市圏(または都市的集積地域:Agglomeration)が、国中にばらばらと広がっているのだ。
(参照:http://www.citypopulation.de/world/Agglomerations.html

更に、ヨーロッパというのは、人口を1000万人を超える都市圏はロンドンとパリ以外に存在しない、というまたまた不思議な都市の発展をしている。例えばドイツ随一の経済都市であるフランクフルトですら都市圏としては200万人程度、ベルリンも400万人程度、と一つ一つがアメリカより更に小さい。こういう小さい都市がたくさんあるのがヨーロッパの多くの国における都市の発達の特徴だろう。

というわけで、先進国をざっと3種類に分けるとこうなる

巨大都市経済圏一極集中型(例:日本、韓国、イギリス) 東京、ソウル、ロンドンなど、人口3000万人とかに達する巨大な都市圏が国内に3-4個、または1個とかしかなく、そこに都市人口のほとんどが集中しているモデル。日本だと東京、大阪、名古屋、福岡の4極。こういうところは、経済の効率性は高い一方、その一極が地震や洪水などの天災に襲われると国全体がかなりのダメージを受ける。

大規模都市経済圏が多数分散型(例:アメリカ) ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、ワシントン・・・といった形で人口が500-1000万人規模の都市圏が大量に国中に分散しているモデル。経済効率性は一極集中型よりも劣るが、地域ごとのさまざまな形の経済発展が可能、という意味では理想的。また地震等の天災リスクにも強い。

小規模都市経済圏が多数分散型(例:ドイツ、イタリアなど多くのヨーロッパ諸国):人口500万人を超える都市圏は無し。それより小さい都市圏が国内に大量に分散しているモデル。経済効率性は非常に劣ってしまうが、地域ごとのさまざまな経済発展が可能だし、天災リスクに強い。

4.新興国は今後どんな都市の発達をするかを考えるのは、これらを市場にしたい日本企業にも重要

国土が広い中国が、今後どんな発展をするかだが、なんといっても人口が10億人と多いので、1の日本と2のアメリカを掛け合わせたようなモデルになる可能性が高いだろう。つまり、人口が2000万人を超える東京やNYのような都市圏が、上海、広州、北京以外にもバラバラと十箇所くらい生じたりする、というイメージ。そう考えると、今後中国では、東京のような人口密度の高い都市を、国内で10箇所も運営していかなくてはならないということで結構大変である。ゴミや水、電気の問題など、東京やソウルと同様、常に悩まされることになるだろうし、それが10箇所以上も生じるって言うんだから、大変である。相当計画的に都市を作っていくことが求められるだろう。

同時に、アメリカ同様、都市間の物流とかがすごく大きな量になっていくだろう。アメリカにおいて、さまざまな商品の物流費が占める割合は日本とかに比べると圧倒的に大きいのだが、これはアメリカが上記のような都市の発達をした国土の広い国だからだ。都市間の物流網を効率的につくることが重要になるだろう。米国の轍を踏まないよう、鉄道や道路の発達と、省に分けずに国家で投資するメンテナンス体制が重要になると思う。

インターネットとか携帯電話の通信なども、通信網が張り巡らされた日本の形ではなく、米国と似たハブ&スポーク的な進展になるだろう。そうすると技術的にもそういう通信形態を選ぶことになるよね。

それから、都市間の人間の移動は、新幹線などの高速鉄道より、航空機が主流になっていく可能性は高いんじゃないだろうか。国土が狭いし、たくさんの人口が東京とか限られた都市に集中している日本では高速鉄道が効率的だったが、都市どおしが米国のように離れる可能性が高い中国では、飛行機のほうが早いだろう。中国も沿岸部は日本のように都市が切れない感じになるので、高速鉄道も発達するだろうが、今後内陸部がバラバラと発展し米国のような都市の散らばり方をするなら、内陸部に向かっての交通の中心は航空機になるのではないか、と思う。
もっとも、これは中国が国家的に高速鉄道を産業として発達させたいか、航空機を発達させたいかというのにもよるので、一概には言えないが。
(アフリカのような国は航空機のほうが効率的な都市分散をするので、中国がアフリカを狙うのであれば、航空機を発展させる可能性も高いかもしれない・・・?)

ちなみにインドなどもムンバイ、デリーなどだけでなく、チェンマイとかたくさんの都市部が今後わさわさと出現し、中国と似たような経緯をたどるだろうから、同じような問題に悩まされる可能性はある。 

一方で、ホーチミン(サイゴン)とハノイの二極に人口が集中するベトナム、バンコク一極に集中するタイなどは、日本やイギリスと同様、巨大都市経済圏んが少数生じる可能性が高い。こういうところはこういうところで大変だ。国中のほとんどの経済が1つとか、2個の都市に集中してしまうので、地震や洪水のリスクは高い。現に、昨年秋は、バンコクが洪水に襲われて、大変だったばかりだ。

新興国では今後間違えなく都市化が進展する。そのときに、どのように都市が発達していくのかというのを考えることは、その国にどのようなインフラが必要になり、どのような産業を発達させる必要があるか、ということを考えるのに非常に重要になるだろう。これは、新興国を市場として、グローバル化を果たしたい日本企業にとっても重要な思考実験ではないだろうか。


今年私が考えたいテーマ(中編)-「大航海時代」と「大公開時代」

2012-04-22 23:55:35 | 7. その他ビジネス・社会

ご無沙汰しています。前の記事(今年私が考えたいテーマ前編)を書いてから3ヶ月も経ってしまい、「今年は毎週書きます!」と言ったのをすぐに破ってしまう私ってひどいなぁ、と自分でも思っていました。待っていた皆様、ほんとにごめんなさい。でも、日本は4月が新年度の始まりということもあり(その割にはもう3週間もたっているけど)、もう一度チャンスが与えられたものと思い、後編を完結してしまおうと思います。

前回は、昨年書いた記事にリンクして書いたのですが、今回は改めて、自分の中で今年考えたいテーマを書いていこうと思います。

1. Going Global: 日本企業のグローバル化が大きく進展する「大航海時代」

昨年5月に、「グローバル化」は今、質的に大きく変容している(2011/05/20) という記事を書いた。グローバル化という言葉は昔からある言葉だが、その意味が今大きく変わってるということを書いたものだ。今年2012年は、日本企業にとってその変化が本格化し、その結果今までにはない人材が求められるようになり、組織も大きな変革を求められる年だと思っている。

先進国から新興国へ:グローバル化という言葉は1990年代から使われているけれど、その頃のグローバル化は、どちらかというとアメリカやヨーロッパなどの先進国に打って出ることだった。ところが、今のグローバル化は、経済成長が著しいBRICや東南アジア、中東、南米、そしてアフリカといった新興国へと出て行くことを指すことが多い。2011年は日本企業がたくさんの欧米企業を買収した年でもあったけど、これらも欧米市場を獲得するというより、成長する新興国市場に足がかりを持つ企業を買収するケースが多かった。

新興国市場に軸足が移ることで一番大きく変わるのは、先進国の論理では物事が進まなくなるということだ。GEのCEOであるジェフ・イメルト氏があらゆるところで書いているように「新興国は、先進国より進んだ技術を、先進国の5割のスペックと15%のコストで求める」のである。新興国は遅れた枯れた技術を求めてるのではなく、最新鋭のものを求めている。先進国にはある電気・水・電話・インターネット・道路などのインフラが、新興国ではまったく整っておらず、それを前提とした製品やサービスが必要となる。一方、先進国の人々が使ってる不必要なスペックは必要ない。それを削って提供できる破壊的な安い価格を求める。このように、日本から同じ先進国であるアメリカやヨーロッパに進出するのとは、まったく異なるスキルが必要とされるのである。

組織のグローバル化が進む:その結果、何が起こるかというと、日本企業においても、「組織のグローバル化」が進むと私は思っている。具体的には、今まで先進国に進出したり、中国や東南アジアにちょろっと出て行くくらいなら、日本人が主導していっても何とかなったのだが、今後はそうならなくなる。一方でこれらの新興国では、経済成長の結果、次々と優秀で安い人材が輩出されている。中国、東南アジア、中東、南米といった現地の優秀な人材を活用しなければ、企業が競争力を保てなくなって来ているわけである。その結果、組織に日本人以外の人々が増え、日本企業はこれらの人々を幹部として活用できるような組織に変革しなくてはならなくなってきているし、日本人の社員も変革を迫られている。つまり、今までのように日本人が海外に赴いて販売や生産をグローバル化するだけでなく、組織そのものがグローバル化する必要が出てくるということだ。今年2012年は、それが本格化する年だろうと私は思っている。

ではどういう風に日本の組織やそこで働く人々が変わっていかなくてはならないのか?このあたりのことは、このブログでもこれからもっと詳しく議論していきたいと思っているし、今度出版する私の本の中でも詳しく書いたのでそれについてもブログで一部書こうと思う。(余りネタバレすると出版社の人に怒られちゃうと思うけど(笑))
ちなみに本はMBA卒業前から少しずつ書き溜めたネタを基に書いた書き下ろしで、2年近くかかってようやく書き上げました。
日本経済が再度成長の軌道に乗るための方法は、既存産業の企業のグローバル化と、新たに経済の軸になるような新しい産業の立ち上げをベンチャー中心で行いGoogleみたいな大企業に育てることで、産業として大きくすることの二つしかないと思っている私にとっての、解のひとつを、ようやく整理してみました。

2. Going Public: 実名「大公開時代」はやってくるのか

ジェフ・ジャービスが書いた「パブリック-開かれたネットの価値を最大化せよ」は面白かった。この本を読んで、ああ確かに時代は、普通の人も実名でネットでいろいろオープンにしながら好きなことを書ける時代に変わってきているのかもしれない、と思った。

パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
クリエーター情報なし
NHK出版

私がこのブログで「ネット実名は強者の論理。まじめに論じる匿名のメリット」(2010/05/10)を書いたのはちょうど2年前だった。「ネット上で実名で意見を書くべき」という「ネット実名論」が、実名で語る識者を中心に起こっていたのに対し、いやいやそんなのは実名で書くのがメリットになる(本が売れるとか、講演に呼ばれるとか)人の論理であって、組織の人である普通の会社員にとって、ネットで実名なんて無理デス、という趣旨の記事だった。そういう普通の会社員でも、会社名などの個人情報を隠しつつ、一人の信頼できる人格であるということを示すためにある程度の整合性を持たせた「半匿名」が解になるのでは、と解いた。

2年経って、その流れが少しずつ変わってきているように思う。もっとも、日本では会社がツイッターやフェースブックなどのSNSを会社名入りで使うことを禁止しているところはいまだに多いし、個人のほうも実名でネット上で何かをやって、自分が属する組織に迷惑をかけてしまったら・・・と思うのが大多数である状況は変わってない。しかし、若い世代を中心に、実名で発信するのが当然という人たちが増えてきたり、TwitterやFacebookがたくさんの人たちに使われるようになってきて、状況は変わってきたように思う。それに、日本ではまだかもしれないけれど、実名の個人が、個人的なことなどが暴露された場合に、「それとその人の会社は別でしょ」「その人のプロとして仕事が出来るかは別でしょ」と取り合わないケースが海外中心に増えてきている。その結果、これらの実名メディアを活用するメリットのほうが、デメリットよりも大きくなってきており、会社のような組織も、人々が実名で発信するのを止めることは出来なくなってくるように思えるのである。

たとえば、フェースブックを使って、ずっと連絡が取れなかった中学校や高校のときの友人と連絡が取れた、という人は結構いるのではないだろうか。それもこれも、実名でやっていて、出身高校や大学の名前なんかも曝していて、場合によっては写真なども公開しているから出来たケースが多いのではないだろうか。これは実名で、ある程度個人情報を曝しているから得られたメリットの典型だ。あるいは、ツイッターやブログなどで自分の悩みを書いたところ、それに対する解決策をたくさん提示されたという人もいるかもしれない。

とはいえ、「全ての人は実名になるべき」という論理は、私は頂けないと思っている。匿名でやりたい人、半匿名でやりたい人はそのメリットとデメリットを考えて選ぶことが可能であるべきだ。上記のようなメリットよりも、実名を公開することのリスクやデメリットのほうが大きいという人は常にいるだろう。そういうことではなく、多くの普通の人にとって、今までは匿名や半匿名という手段をとらざるを得なかったのが、今後は実名で発信することも、余り心理的障壁が無く選べるようになるし、かつてよりメリットが大きくなっている、というのが「大公開時代」の特徴なんだと思う。

まあ余りパブリックにしすぎて「大後悔時代」にならないようにしてください(うわー)、ってオヤジギャグで〆てみたりして・・。

さて、字数が結構行ってしまったので、わたしが今年注目したいと思っている残りのテーマ、3. 都市論と4.水と食料とエネルギーについては次回に回そうかと思います。今度こそはちゃんと書きますから!来週はGWだし。


今年私が考えたいテーマ-2011年の記事を振り返って (前編)

2012-01-16 01:05:32 | 7. その他ビジネス・社会

皆様、大変遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
今年は、出来るだけ頻繁にブログを書いていきたいと思います、と書いた矢先に年始から仕事が忙しくなったり、風邪をひいたりして、更新が遅れましたが、徐々に挽回していきますので、どうぞよろしくお願いします。それから、今年は私やこのブログにとっても飛躍となり、また読者の皆様にとっての楽しみになるかもしれないことを、いくつか仕掛けていく予定です。こちらも、このブログでも紹介しようと思いますので、楽しみにしていてください。

今年最初の記事は、昨年書いた記事の中で話題になったものを振り返って、2012年に暖めるべきテーマを考える、というのをやってみたいと思う。振り返ってみると、私は昨年中35本の記事を書き、そのうちTwitterやはてなブックマークで紹介されてアクセス数が集中し、話題になったり、色んなところで議論を呼んだ記事は20本余りありました。一部は普遍的に言える事や私個人の経験に基づくもので、今でも私の考えが変わっていないものもあれば、色んなコメントを頂いたり、震災やその他事件が原因で、考えが変わったものもあります。その辺りを書きながら、考えをまとめていこうと思います。

 

■ 人生や生き方に関する記事

私が人生の進路変更をした本当の理由 (2011/01/09)

昨年一番最初に書いたこの記事は、私が個人的なことである決断をして、振り返らないで前に進むと決めたのがきっかけで、書いたものだった。それまで四ヶ月ほど、悩みに悩んで、漸く決められたことだった。以前私が学者を辞めて、今の仕事に就いたときもそのくらい悩んだので、そのときの経験を書いた。書いてみたら、本当に大きな反響があって、驚いた。私と同じように、人生の中で迷いがあり、悩んでいる人はたくさんいるのだと実感した。

実は、私は昨年の暮れにもまた、悩むことに出くわしたのだが、色々考えてまた決断し、今年から新しい一歩を踏み出すことが出来た。それは小さな変化で、周囲の誰にも気がつかないようなことなのだけど、私自身のものの見方は変わり、世界は違うように見えた。そして、何より前から達成したいと思っていたことを今年こそ本当に実現しようという大きなエネルギーが、自分の中に湧き上がるのを感じた。下の言葉は、この記事の最後の結びの言葉だけれど、今でも本当にそうだと思う。

人生の決断とは、それをした瞬間は迷いがあり、失ったものの大きさに戸惑い、間違った決断をしたのではないかと悩むものだ。
しかし、自分の決断に覚悟を決めて、ゴールに向かって強く歩き続ければ、得られるものは大きい。
そもそも決断とは、人生を推進するエネルギーを得るためのものなのだから。

人生には「選択と集中」が大事な瞬間がある (2011/03/08)

今思えば、この記事はちょうど震災の直前に書いたものだった。人生の中で「選択と集中」をすること。色んなものに手を広げすぎず、本当に欲しいものに集中して、自分の時間とエネルギーをかけること。そうしなければ、ほしいものを取れずに失ってしまうかもしれない、という内容だ。

震災から10ヶ月がたった今、自分の短い人生を思って、もっといろんなこと、やりたいことに自分のエネルギーをぶつけていきたい、と思う人は多いのではないか、という時代の流れを私は感じている。人生に「選択と集中」が大事な瞬間があることは変わらないが、今年はもっといろんなことにチャレンジする年だ、と思う人は多いかもしれないですね。

大人になっても夢を持っていいということ(2011/11/13)

私が色々あって、半年近くブログをお休みして、再開するときに書いたのがこのエントリだった。本当にたくさんの人に読んでいただいて、たくさんのコメントをいただき、大変ありがたかった。震災直後には、被害にあっていない多くの日本人も、気持ちが打ちひしがれていた人は多かったのではないだろうか。このエントリを書いた頃は震災から8ヵ月後が経っており、まさに「一回しかない人生、自分のやりたいことにエネルギーを注ごう」という気持ちになる人が多かったのかもしれない、と思う。

昨年は「絆」の年。家族を愛おしく思い、自分を支えてくれる周囲の人々に感謝する年だった。
今年は、その絆から解き放たれて、自分の夢を持ち、新たなチャレンジをしていく年なのかもしれないと思う。

 

■ 英語・ビジネススキル関連

実は、瞬間風速的にブログへのアクセス数が最も増えるのは、この手の「How to」記事が書かれたときであり、2011年を振り返る意味でも避けては通れない。こういう記事を私がたまに書くのは、自分でも英語その他勉強は日々続けてるので、自戒をこめてという場合が多いが、それだけで、これだけの量の記事を「書きたい」という力は私には生まれてこない。その背景にもっと「伝えたい」と思う何かがあるから、書く。

この手のHow to系記事を自分で振り返ってみると、その「伝えたい」ものというのは、「インターネットで教育格差を無くすことが出来るんだから、広げていきたい!」ということだったり、TwitterでRTを受けて「それは違う!」と心の底から思ったことであったり。いずれにせよ、日ごろから心の中にある思想が元になり、この手のHow to記事につながっている。今年も、何が世の中で流行っているかどうかに関わらず、私の中にある思想に基づいたうえで、少しは役に立つHow toも書いていきたいと思う。

英語をモノにしたい人のためのお薦めYoutube動画 (2011/05/07)

私が高校生の頃は、普通の高校生が実際に話される生きた英語に触れると言っても、オーディオブックとか、NHKの英語講座とか、米軍放送を聞く程度しかなかった。もちろん同級生には、NOVAでネイティブと話してる人もいたし、お父さんが朝CNN見てるのを一緒に観ているハイソな家の人もいたが。ところが、今はYoutubeがあるので、インターネットに接続さえ出来れば、誰でも、タダで、いくらでも世の中で話されている実際の英語に触れることが出来る。ネットのおかげで、教育の格差はなくなってきているのではないか、と私は思うし、格差社会が到来しているからこそ、若い人が掴める「チャンスの格差を無くす」方向に動いていきたいと思う。それは、今年私が貢献したいことの一つであるし、そのためにブログを書いたり、世の中に発信していきたいとも思っている。

小学校から大学教育まで学習できる授業動画サイト Khan Academy (2011/12/11)

この記事も同様で、インターネットに接続さえ出来れば、誰でもタダで、小学校から大学教育に匹敵する内容までを学習することが出来るサイトを紹介している。バングラデッシュからの移民で、MITとハーバードを卒業してヘッジファンドで働いていたというKhan氏が、家庭教師をきっかけに動画をアップしはじめたところ、思わぬ反響があったので、そのままNPOにしたというものだ。こういったサイトも、「チャンスの格差を無くす」のに大きな役に立つものの一つだと思う

英語力のためにフォローしたいビジネス英語ニュースTwitterアカウント8選 (2011/12/03)

Twitterでニュースを読んで面白いのは、メディアごとの記事の比較が容易になることだ。記事の比較が出来ると、それぞれのメディアを読むターゲット層や国民の違いが浮き彫りになるのが面白い。その違いを「感じる」感受性はグローバルに活躍する人の必須条件だと私は思っており、そういう力をつけるためにもTwitterでいくつもフォローしてみるというのは面白いと思う。

正しい日経新聞の読み方(新社会人へ)(2011/05/15)
補足:「正しい日経新聞の読み方」 (2011/05/18)

この記事は、私がTwitterで日経の記事の批判をしていると「だから日経を読むのは時間の無駄だ」などの大量のRTが主に若い層から送られてきて、問題意識を感じたので書いたものだった。ビジネスマンが毎日日経を読むのは、ピアニストが毎日音階練習をしたり、料理人が桂剥きを毎日やるのと同じ「基礎訓練」だと私は思っており、読むのが当然の上で、批判をしている。それを若い読者の人にわかって欲しかったので、多少説教くさいかもしれないこの記事を書いた。このブログのメインの読者は30代-50代の方だと見受けられるので、当たり前のことだったかもしれないし、この記事のあと暫く更新が途絶えていたので、ますます??という人が多かったのではないかと思うが、Twitterのおかげで10代、20代の読者も増えているので、敢えて書いたもの、というのが真相です。

ちなみに、2012年1月現在では、私は、WSJはiPadで読むのが非常に読みやすいユーザインターフェースなので、iPadで読んでいますが、日経電子版は相変わらず全部を読むには使いにくいので紙で読んでます。

 

■ グローバル化の進展と、人々のキャリアの変化(前半)

昨年は、グローバル化に関する記事を大量に書いた。日本企業にとっては、昨年はまさにグローバル化がこれまでよりずっと進んだり、話題になった年だったのではないだろうか。震災があっても、その流れは衰えるどころか、地震の多い日本に集中する地理的リスクを考慮したグローバル化を真剣に考える企業がますます増えたように思う。円高も、海外への生産移転や、M&Aを加速した。

企業のグローバル化の帰結として、一般の人々にはどのような変化があるのか。振り返って記事を読み直すと、グローバル化について昨年書いた記事の殆どが、グローバル化に伴って変わる人々のキャリアについての話だった。それが震災前から年が終わるまで一貫しており、自分でも驚いた。

日本でも転職を前提とした就職が当たり前となる時代 (2011/01/29)

企業の人材戦略がグローバル化し、新興国ですぐに幹部になれる人材を採用するようなことを始めると、日本でも同じことが求められるようになってくるだろう。新卒の学生には数箇所の部署を回らせてゆっくり育て、なんていう流暢な時代は無くなり、アメリカの企業と同様、若い人にも専門性が求められ、若くても実戦経験があることが重要になってくるだろう、と私は考えている。

今年に入って、この思いはますます強まっている。新聞を読んでいても、ユニクロやイオンなどの小売業が、新興国で3年くらい働いたら店長として機能するような幹部候補の採用を強化している。そうでないと、新興国で勝てる出店速度を維持できないからだ。製造業も、円高による生産拠点のグローバル化に伴い、新興国の工場ですぐにマネージャー等を勤められる、技術人材の採用に大きく力を入れている。こういった企業では、短期間で人を育てるのが当然のようになってくるだろう。いわゆる日本にある「外資系」企業のように若い人を早く活躍させ、早く成長させる、というのが普通になるだろう。そうすると、日本本社に勤めている日本人も変わっていかないと、この流れに置いていかれることになると思う。

グローバル化を前提としたキャリア設計 (2011/02/12)

オキュパイ・ウォールストリート運動を受けて、もう一度この記事やフリードマンの「フラット化する社会」を読むと、ますますグローバル化に伴う、業務のフラット化が進んでいると感じる。米国では、ソフトウェア開発だけでなく、会計士や弁護士などが行う業務の一部も切り分けてインドにアウトソースする動きがますます進んでいて、学卒の学歴があっても、JAVAなど汎用性のあるソフトウェア言語が出来ても、職を失うということが起こっており、ますますその傾向は高くなっている。それは6年前に既に「フラット化する世界」で指摘されている通りだ。同じことが、今後、日本企業にも起こる可能性を指摘したのがこのエントリだった。

そういう世の中になっても食っていけるようになるには二つの方法がある。一つはグローバルに活躍できる人材になること(別にリーダーになることは無い。グローバルな環境で仕事が出来ればよい)、もう一つは誰もが持っていないような専門性をいくつも身につけることである。

フラット化する世界 
[増補改訂版] (上)

トーマス フリードマン

日本経済新聞出版社

フラット化する世界 
[増補改訂版] (下)

トーマス フリードマン

日本経済新聞出版社

 

先日Twitterで、『もしマリー・アントワネットが生きていたら、オキュパイ・ウォールストリートの人たちに「そんなに海外の人に職を奪われて、国内に職が無いというなら、あなたも海外に出て働けばいいじゃない」と言ったかもしれない。』と書いたところ、大きな反響があった。フラット化によって国内で職を奪われた人々は、グローバルに働くようなスキルが無いから、職を失っているのである。もし簡単に「国内で職が無いなら、グローバルに働けばいい」なんて言ったら、「パンが無いならお菓子を食べればよいじゃない」と言ったとされる人と同じくらい、批判されるだろう。

でも、現代のマリー・アントワネットの主張は実は正しい。今は、米国でも日本でも、求められているホワイトカラーは、新興国含めた各国で、グローバルに活躍できる人材である。国内でソフトウェアを開発したり、税金の申告書を作るホワイトカラーではない。従って、グローバルに活躍できるスキルを身につけることは、今後日本にもやってくるだろうフラット化から、自身を守ることになると思う。

「グローバル化」は今、質的に大きく変容している (2011/05/20)

実は「グローバル化」という言葉が示す内容は、10年ほど前と比べて、大きく変わっている。一昔前は、アメリカやヨーロッパなど他の先進国に行くことがグローバル化だった。現在は、新興国市場の経済に占める割合が大きくなり、新興国に幅広く進出し、そこの人材を活用して広げることがグローバル化となってきた。もう一つの違いは、以前は海外販売比率の増加とか、生産拠点のグローバル化といった、販売、生産のレベルがグローバル化することを、グローバル化と呼んでいたが、今後は企業活動全体、そして組織全体がグローバル化する動きへ変わっている、と言うことを指摘した。

 

ここまで書いて、文字数が9900文字を超えてしまった。文字数リミットです。
「グローバル人材大国」「GDP世界一の都市」、「原発をやめてクリーンエネルギー」など、まだまだ議論を呼んだ記事が残っているのだが、次の記事で私が現在どう思っているかを書いていきます。


英語ニュースで波乱の2011年を振り返る

2011-12-31 15:46:17 | 7. その他ビジネス・社会

2011年も本日で終わりかと思うと感慨深い。2011年は地震があった日本にとってだけでなく、世界中にとって波乱の年だった。

東日本大震災では、津波と地震がたくさんの町を破壊し、多くの方が亡くなっただけでなく、たくさんの日本人の心に傷を残し、経済にも甚大な影響を与えたと思う。そして何より、取り返しのつかない原発事故を引き起こした。今までは、原発が枯渇する石油資源を救う安全なエネルギー源であると信じていた人も多かったのではないだろうか。しかし取り返しのつかないコストを孕む手段なのだということを知った。フクシマの一部の土地は、将来にわたって人が住めないところも出来てしまった。

一方、世界を見渡せば、チュニジア、エジプト、リビアでインターネットを発端とした民主化運動が起こり、長期独裁政権が次々と倒された。アラブの春。インターネットによって情報はフラットになると長いこと言われていたが、実際にはリアル世界の秩序を覆すほどには至らず、影響力が小さいか、既存メディア同様、既得権益者が一方的に情報を流すツールだった。本当にフラットになって、このような革命のきっかけになったのは、携帯電話や回線等のインフラが整い、タブレット端末やネット接続可能な携帯などのデバイスがそろい、フェースブックやTwitter、Youtubeなどのアプリケーションがそろったからだと思うと感慨深い。インターネットというメディアが政治を変えるためのプラットフォームとして、本当に根付き始めたのが2011年だったのだと思う。

ビン・ラディンが死に、ジョブズが死に、金正日が死んだ。ビン・ラディンの死は、10年前の同時多発テロの痛みを受けたアメリカ人にとっては避けて通れない報復儀礼だったのだろう。その裏にある政治的な駆け引きも含め、民主党になっても、やっていることが結局変わらないアメリカの国際政治の進め方を考えさせられることになった。

ジョブズの死は、圧倒的なユーザビリティによって、テクノロジーをより多くの人に渡すことの大切さを思い知らされた。デジタル・デバイドという言葉がある。これを生むひとつは貧富の差であるが、もうひとつはユーザビリティであった。Apple IIIにより、それまで技術オタクのものだったPCは一般の人々のものになり、iPadによって若い人たちのものだったテクノロジーは、赤ちゃんからおばあさん・おじいさんまで楽しめるものになった。そしてiPhoneの普及により、世界中の人たちが同じアプリを、同じデバイスを使えるようになった。彼の死後は誰がその役割を担うのか。でもジョブズの功績の意味合いを十分に分かっている天才たちが、おそらく受け継ぐのだろう。

ギリシャやイタリアが破綻しかけ、ユーロは一時は崩壊の危機に迫られた。2000年に開始してからヨーロッパ統合の象徴としてその領域を拡大してきたユーロは、10年もしないうちにその存在意義を問われることになった。ヨーロッパ国内では、移民の増加で一般の人々の職が奪われ、東の安い地域から安い製品が次々に流入したなど、この10年の変化の意義が問われた。メルケルやサルコジが強硬な態度を崩さないことによって、何とか政治的な安定が得られているような状況であった。11月の危機的な状況は何とか免れたものの、まだ来年もユーロの動きから目が離せなそうだ。

この1年で、世界の秩序の一部は大きく変わり、人々の心も大きく変わったのではないだろうか。世界でも波乱万丈だった2011年を振り返るニュースをいくつか紹介したい。日本語のものは余りいいものが無かったこともあり、英語のニュースソースからご紹介。

Reuter: Year in Review 2011
http://www.reuters.com/subjects/2011-year-in-review

ロイターが選んだ、世界を揺るがせた2011年のトップニュース25を、インタラクティブなメディアでご紹介。写真をクリックすると、それぞれ英語の解説が出る。日本からは、地震とオリンパスがノミネート。アラブの春、ビン・ラディンの死、金価格上昇、オキュパイ・ウォールストリート、ユーロ危機など、様々なニュース。そういえば、イギリスとブータンではロイヤル・ウェディングがあったんですよね。

Al Jazeera: Our Top Stories of 2011
http://www.aljazeera.com/indepth/spotlight/aljazeeratop102011/

Al Jazeera English

アルジャジーラはいわずと知れた、アラブ系の独立系メディアだ。どの国でもメディアはいろいろなしがらみがあり、そのしがらみに沿って報道するとマスゴミと化すわけであるが、アルジャジーラはそういったしがらみが無いこともあり、「え、そんなの報道されるの」というものまで映像で報道される。最近では、カダフィが殺害直前に連れ去られるところまで報道された。特に米系メディアでは偏向しがちなアラブ系、アメリカや中国等の国際関係などのニュースで真実を知りたい人向け。

2011年のトップストーリーは、アルジャジーラにとってはやはり、チュニジアやエジプトの革命であり、バーレーン、シリア、イエメンなどで続いた民主化運動だった。日本の津波、ノルウェーのテロ、アフリカの飢饉なども忘れずに報道されている

 

WSJ: Years in Photos 2011
http://graphicsweb.wsj.com/documents/YEARINPHOTOS11/Photos-of-the-Year-2011.php#o=0&q=&x=&y=&p=0

ウォール・ストリート・ジャーナルからは2011年に人気が高かった写真を解説付きで紹介している。1月から順に写真を振り返ると、本当にいろんなことがあったと実感する。

ウォール・ストリート・ジャーナルのUS版には、日本の地震・津波特集のページがあり、今でも更新がある。最近は、福島での撤去作業や未だ解決しない義援金問題、野田内閣になって何が変わったかなど、米国から見た客観的な視点で、詳しい記事が載っており、英語の勉強以上に非常に参考になる。
http://online.wsj.com/public/page/earthquake-tsunami-japan.html


日本が「グローバル人材大国」を目指すべき理由

2011-12-30 14:20:17 | 1. グローバル化論

2011年は、日本企業のグローバル化が大きく話題になり、多くの人々に浸透した年だったと思う。

「グローバル採用」という言葉が何度も新聞紙面を飾った。新卒採用を、国外や留学生、海外大卒を中心としたグローバル採用に切り替えていくと宣言した、ユニクロなどの企業が話題になった。「グローバル人材育成」も、多くのビジネス雑誌で取り上げられた言葉の一つだった。海外事業で多国籍の人材を扱いながら活躍できるグローバル人材を今後どのように育成していくかは、今年の多くの企業が最も頭を悩ませた話題のひとつだっただろう。震災後は、海外企業のM&Aも加速した。実際、日本に工場の大半が固まっていたために、震災で稼動を落とさざるを得なかった企業は、地理的集中リスクの怖さを実感し、グローバル化の必要性を急に感じたところも多かったと思われる。円高による割安感もあり、日本企業による海外企業のM&Aは2011年に過去最大となったと報じられている。

今後、人口が減少すると考えられる日本では、多くの産業で市場成長が止まる。もし企業が成長し続けることを望むなら、日本国内でシェア争いをするよりも、成長市場である中国や東南アジア、南米などの新興国の売上を上げていくことが重要になる。そして、これらの国でシェアを取るためには、海外での生産や調達を行うことも、今までに増して重要になる。更には、人材すらも、日本以外の国から採用していくことになるだろう。東南アジアなど、国を挙げてグローバル人材の育成に力を入れている新興国は多い。これら新興国に事業展開するなら、日本人を駐在等で活用するよりも、ずっとコストが安く、現地の事情に詳しい、現地生まれのグローバル人材を採用する方が理にかなう。大企業に限らず、中小企業の多くにとっても、売上だけでなく、生産、そして人材や組織の面でも日本市場に偏らないグローバル化が、企業の成長と経営の安定のために必須となりつつある。

このように、成長を模索する日本企業の多くが、売上の多くを海外へ、生産や調達の多くを海外へ、更には社員の多くを海外採用へ・・と移行していくのは時間の問題と思われる。特に製造業は、輸出産業として日本の経常収支を支えているにもかかわらず、TPPやFTAの意思決定は遅くて邪魔ばかりされ、更には年金や医療等のコスト負担を次々に強いられる。ましてや円高に加え、自然災害のリスクまで出てきた。このように考えると、グローバル企業と呼ばれる日本企業の多くにとって、日本にとどまっている意味はあるのだろうか、とふと思ってしまう。実際、グローバルな日本企業の中には、日本以外の国に本社を移す、または第二支社を作ることを本気で検討している企業もあるだろう。企業の意思決定の面でも、人事や財務の面でも有利になると考えられるからだ。

「非国民だ」とののしる人もいるかもしれないが、グローバル企業にとって、市場成長が著しく、優秀な人材を輩出し、事業会社に優しい国や地域に事業の主軸を移していくことは自然なことになるだろう。10年前にハート、ネグリが「帝国」の中でいみじくも指摘したように、グローバル企業にとって国籍はもはや意味を持たなくなりつつあるのだから。そんな時代であっても、グローバル化する日本企業が日本にとどまる意味はあるだろうか。二つの意味で、日本に留まる意義はまだ残されているのではないか、と私は考えている。

ひとつは、現時点でのメリットだ。特に製造業が、現在日本をなかなか出て行けない理由のひとつは、日本は技術開発のインフラやネットワークが整っている「技術大国」であるということだ。イノベーションは、企業単体の努力だけでは起こらない。大学や研究機関が基礎研究を行い、技術に詳しい技術者や研究者が輩出され、中小企業やベンチャー企業が周辺の応用技術を提供し、共同開発などを行える様々な異分野の企業が存在し・・・といった具合に、技術のネットワークがあることが、技術や製品を開発しつづけるために非常に重要である。そして、特に機械産業や素材産業、電機産業といた分野では、日本には最高の技術のネットワークが蓄積されている。日本を離れて活動すると、これらの技術ネットワークを活用することも難しくなる。コマツ会長の坂根氏は、コマツを「日本国籍グローバル企業」として成長させる、そのために日本で技術者を育てると宣言しているが、コマツの建機を支える技術ネットワークは日本でしか得られないことを理由として上げている。

しかし、技術大国であることは現時点でのメリットに過ぎない。韓国や台湾、中国、そして追随する新興国が「技術大国」として成長し、技術ネットワークが育っていけば、徐々にメリットを失っていくだろう。日本に企業が集まる、残された理由は「人材」となる。企業のグローバル化を支える人材を日本から次々に輩出する「グローバル人材大国」になること、これがグローバル化する日本企業を日本にとどまらせる理由となるだろう。日本に来れば、グローバル化を進められる優秀な人材がたくさんいる、というようになること。グローバルな人材が育つ教育環境が日本に整っているから、近隣の新興国から世界で活躍したい優秀な人材が集まってくる。日本にいるだけで、これらの優秀なグローバル人材を採用できる、となること。そうなってくれば、日本に経営の中心をおきたい企業が自然と増えるだろう。日本が法人税を引き下げるなどより、ずっと効果的で、継続的な施策である。

米国には、売上の多くを米国以外の国で上げ、社員の多くが米国人ではないにもかかわらず、米国に本社を置き続けているグローバル企業が多く存在する。AppleやAmazonのような近年拡大したグローバル企業でもそうだ。これは米国が成長市場だからではなく、グローバルに活躍でき、将来は経営の中心を担える優秀な人材が米国に集まっており、次々と人材が出てくることである。Apple StoreやAmazon流通センターの人材は、それぞれの国の人材でよい。しかし彼らを統括し、各国で事業を展開する幹部人材は、米国に経営の中心を置いているほうが得られる。だから本社を米国に置き続ける。

日本企業がグローバル化することは避けられない。だから、日本が「グローバル人材大国」となって、グローバルに活躍できる優秀な人材を集め、輩出し、これらのグローバル企業を惹き続けること。これが、グローバル化を進める日本企業やそれ以外のグローバル企業の恩恵を、日本が受け続けるために唯一の施策になるのではないか、と最近つねづね思うのである。

2011年は日本企業が改めてグローバル化の必要性を認識し、採用や人材育成面でも動き始めた年になった。来年は、加速するグローバル化の動きを支え、日本という国を、日本発グローバル企業を惹き続ける「グローバル人材大国」にするための議論が始まる年になれば、と思う。


クリスマスに贈る世界のフラッシュモブ

2011-12-25 20:42:48 | 5. アメリカ経済・文化論

モスクワではクリスマスを前に大規模な反政府デモが繰り広げられる中、東京の渋谷では平和なデモが行われていたらしい。

「Xmasデートは恥だと思え!」カップルだらけの渋谷で"非モテ"がデモ-ニコニコニュース (2011/12/24)

15人の若者男性が、「リア充は爆発しろ!」「クリスマス商業主義に踊らされるな!」「モテないことは悪いことではない!」などとメガホンで主張して、渋谷を練り歩いていたそうだ。

主張がネタとして面白いから、きっと周囲で見ていた人たちはとても楽しかったに違いないし、彼らもそれをわかってネタとしてやっているのだろう。
いや、もしかしたら真面目な抗議だったのかもしれないが、全て含めてネタとしてやっているものと私は思っている。
(ただ人数がもう少し多ければよかったのに)

これとはちょっと違うかもしれないけれど、クリスマス前になると、街頭や空港など人の集まるところで、皆で「常識」や「規則」を覆すことをして、人を喜ばせたり楽しませたりする(そしてたぶん自分も楽しい)イベントが世界中で行われている。その辺にいる「普通」のはずの群集(mob)が、突如(flash)出てきて、何かを行うことから、Flash mobと呼ばれるのだけれど、ちょっと遅いけれど、クリスマスということで、皆様にお届け。

こちらの映像は、米国のミネソタ州のあるショッピングモールのフードコートで、去年のクリスマス前に行われたもの。

最初の40秒ぐらいは、ずっとただの雑踏なのだが、突然女性が歌い始めたのを合図にフードコートで座ってた一部の人たちが、皆突然歌い始める。実は、200名もの歌手がこのフードコートに集って行われたイベントなのだそうだ。周囲の多くの人たちは、普通の人たちなので、皆最初はびっくりしていたが、最後には拍手喝采となる。

 

こちらは、昨年のロサンゼルスの国際空港で、空港の職員が中心になって行われたもの。

アメリカンの職員?とおぼしき女性が、チェックインカウンターの上に突然立ち上がって、マライアのクリスマスの曲に合わせて踊り始める。それにあわせて他の航空会社の職員や、セキュリティの人たち、掃除のおじさんまでみんなで集まって踊り始める。曲が「マカレナ」とか「サタデーナイトフィーバー」など、アメリカ人なら誰でも知ってて踊れる曲なので(日本で言えばピンクレディみたいな感じか)、周りでチェックインを待ってるお客さんとかまで、みんなして踊り始める。最後にはサンタのご登場も。

日本の空港でやったら怒られるだろうなー。

 

大学でも。ミネソタ大学のミュージックスクールの学生たちが、同じ大学のビジネススクールに「攻めこんで」クリスマスプレゼント。まじめで勉強ばっかりして、ユーモアのセンスも乏しい(という印象が強い)ビジネススクールの学生たちを、からかってやろう、って感じなのかもしれないが、曲も踊りも完成度が高い。

 

Flash mobはクリスマスに限ったことではない。

世界で一番有名と思われるフラッシュモブは、2006年頃にNew Yorkの地下鉄で始まった「No Pants Subway Ride」かもしれない。これはズボンやスカートをはかずに、下はパンツ一丁で、みんなでニューヨークの地下鉄に乗るというもの。1月のニューヨークの一番寒い時期に毎年行われている。こちらは2011年のイベントの映像。

男も女もパンツ一丁。あるいは、地下鉄の中で突然ズボンやスカートを脱ぎだしてパンツ一丁になる。最初からパンツ一丁の人は、周囲の人に「どうしたの?」と聞かれたら「今日はズボンをはくのを忘れた」と答えるのが定番となっている。映像を見てると、子供を背負ったトランクス姿のお兄さんアリ、素敵なロングコートを着てるのに何故かパンティ一枚のキャリアウーマンあり、おへそまで出してる女子高生あり、元気にパンツ一枚のおじいさんありと、非常に楽しい。2011年は、ロンドンなど世界の48都市で同時開催がなされ(実は東京でも行われていたらしい)、3500名もの参加者がいたそうだ。

ニューヨークのアーティスト集団、Improv Everywhereが中心となって主催しているフラッシュモブで、彼らはこれ以外にもさまざまなフラッシュモブを仕掛けている。

2012年のNo Pants rideは1月8日。参加者はFacebookのページで募っているので、ご興味がある方は是非・・・→https://www.facebook.com/events/243316812362861/ 
ちなみにこれを始めた2006年には逮捕者が若干名出たようだが、ここのところはそういうことも無い様子・・・が自己責任でお願いします。

 

2009年にマイケル・ジャクソンが亡くなったときには、その追悼の意を込めて、世界中でマイケルの曲を踊るフラッシュモブが行われた。
こちらは、中でも比較的大規模な、ストックホルムで行われたフラッシュモブ。

 

こちらも、2009年に行われたフラッシュモブで、ロンドンのピカデリーで、突然100名の女性が服を脱ぎだし、黒のレオタードとハイヒールだけになって、みんなでビヨンセを踊りだすというもの。

 

こちらはアムステルダムの駅で行われた、サウンド・オブ・ミュージックのフラッシュモブ。T-mobileのCMに使われるために行われたものだったため、関わっているダンサーも非常にクオリティが高く、映像の完成度も高い。でも事前に予告されていなかったため、周囲の人は皆驚いて、喜んで、携帯電話でビデオや写真を撮ったりしている。周囲で見ているだけのはずの群集が、次々にダンスに加わって行き、普通の人たちが「えぇっ」て顔をしているのが面白い。(関係ないけど、世界中で人々が携帯電話で写真を取ってるのを見るたび、「これって日本が生み出した発明なんだよね」とか思う)T-mobileはこのCMが成功して味を占めたのか、その後もヨーロッパの色んな駅でフラッシュモブをやっている。

以上、一人でクリスマスを過ごすとしても、家族で過ごすとしても、見ていてなごむ、そして楽しい世界各地のフラッシュモブをお届けしました!


パイを増やす人とパイを分ける人

2011-12-23 16:39:24 | 8. 文化論&心理学

世の中には二種類の人がいる。「パイを増やす人」と「パイを分ける人」だ。 
「パイを増やす人」は、限られた資源しかない場合に、その資源全体を増やして一人ひとりの取り分を多くしようと発想する人だ。一方、「パイを分ける人」は今ある資源を前提として、分けることに集中してしまう人のことである。

例えば、孤島に飛行機が不時着し、100人の人が島に閉じ込められてしまったとしよう。しかし、飛行機に積まれていた非常食は100人分に満たない。ここで「パイを増やす人」は、まずどのように食料全体の量を増やそうか、という方向に考えを進める。島中を探して食べられるものが無いか、新たに食べ物を作り出すことは出来ないか、海に出て魚を取ってくることは出来ないかなど、新しいアイディアや外に出て行くことで量を増やし、足りない問題を解決しようと考える。一方、「パイを分ける人」はとりあえず今ある限られた非常食を、どう100人に分配するかということが気になってしまい、そちらを先に進めてしまう。誰に多く、誰に少なく渡すのか。それとも全員平等に分けるのか。

世の中にはどちらのタイプの人も絶対に必要である。「パイを増やす」ためには、イノベーションを起こしたり、他の場所に打って出るなど、それなりの気力や能力を必要とするが、これは全ての人に出来るわけではない。出来ない人たちにも、それなりに平等に資源が行き渡るようにするのが「パイを分ける人」たちの役目である。しかし、一般的には「パイを増やす人」が多い方が、社会や組織は前向きに、将来に向かって進むようになるし、「パイを分ける人」が多いと、人々は政治的になり、誰かを排除したりとする方向に行きがちである。

世の中にある多くの問題は「パイを増やす」ことで解決する場合が多い。にもかかわらず、「パイを分ける」方向ばかりに意識が向いてしまうと、全体として伸ばせる余地がたくさんあるのに、誰かを排除しながらの奪い合いになるような、つまらない結果を生む。世の中を前向きに、ポジティブにドライブしていくためには、「パイを増やす人」がたくさんいるのがとても重要なのだ。

人口が増えて食料生産が追いつかない場合、「パイを増やす人」は、イノベーションによって食糧生産を増やすことを考える。かつてのインドの「緑の革命」のように、農地の改良や品種改良、肥料等の使用といったイノベーションにより、全体の食糧生産を圧倒的に増加するような結果を生み出すことが出来る。それなのに、イノベーションを起こすことに投資せず、限られた食料をめぐって争いを起こすのは不幸なことだ。

あるいは、石油などの天然資源が枯渇していく今後、「パイを増やす人」は再生可能エネルギーや省エネの研究に力を入れるだろう。「パイを分ける人」に付き合って、資源をめぐる政治抗争や内戦を起こすのは不幸なことだ。

人口減で国内市場が伸び悩む日本国内で、「パイを増やす人」は競合他社とシェアを奪い合う不毛な戦いをせず、目を外に転じる。海外で大きく成長している市場はたくさんある。そこに出て行って、日本企業にとってのパイ全体を増やそう、と発想し、グローバル化する。現地企業から見れば「パイを取られる」ことになるが、技術移転などで、両者にWin-Winになるような解決策はいくらでもあると考える。

組織で「パイを分ける人」が幅を利かせるようになると、非常に不健全になる。人々は「パイを分ける人」から分け前を多くもらおうと、より政治的に動くようになり、他の人を排除したりするなど、後ろ向きになる。「パイを増やす人」になって、未知の市場を開拓したり、グローバルに事業を広げたりするのは、労力が必要でリスクを伴う。それよりも、リスクをとらずに偉くなれる「パイを分ける人」になったほうがよっぽど良いので、誰もリスクを取らなくなる。新しい企画が企業全体の売上を増やしているのに、その企画は本来うちの部署の縄張りだから勝手に取るな、と縄張り争いになるのは「パイを分ける人」の結果だ。縄張りを破らずに、全体の成長のために「パイを増やす」ように動ける、大志と器用さを併せ持つ人もいるが、その数は非常に限られている。結果として組織が硬直化し、イノベーションは起きず、成長が止まる。

どんな組織にも「パイを増やす人」と「パイを分ける人」はいる。そしてどちらも必要である。
そして必要悪の結果として、硬直化し、成長が止まった組織もたくさんあるだろう。
硬直した組織を前向きに、良い方向に変えていくためにやれることは三つしかない。

1) 自分自身は「パイを増やす人」となって、イノベーションや変革を起こす能力と意思を持ち合わせた人になること
2) 「パイを分ける人」の作った既存の縄張りや規則に一部従い、かわしつつ、不必要に「分ける人」を増やさないようにバランスを取ること
3) 余り世渡りはうまくないが「パイを増やす」能力がある後輩たちを守って育てていくこと・・・

前向きに行きたいですね。