熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

レイモンド・チャンドラー「待っている」(深町眞理子訳)

2023年09月07日 | Weblog
チャンドラーの短編「待っている」を『短編ミステリの二百年2』の深町眞理子による新訳で読んだ。あらすじとしては次のとおり。

高級ホテルの雇われ探偵トニーがたまたま出くわしたイヴという女に興味を持ち、そこに旧知のギャング・アルからイヴの身の上と昔の男ジョニーについての情報が入った。ジョニーはギャング組織の金を持ち逃げしており、女とよりを戻すためホテルに現れるからその前に女をホテルから出せと。
トニーがイヴのいる最上階へ様子を見に行くと空き部屋の中に誰かいる。それはジョニーだった。
トニーは自分の名刺を渡してこれを駐車場係に見せれば逃げられる、女は隣室だと伝えて部屋を出るが、階下に戻ると最初に出会った場所に再びイヴがいた。
ホテルのフロントでジョニーが逃げたのを確認するトニー、そこへ電話がかかってくる。聞き覚えがない声の主は逃げた男を追いつめて銃撃戦になったこと、そして犠牲者が出たことを告げる…。

濡れ場と修羅場は雰囲気だけにとどめ、その先に待つ悲劇さえも控えめに暗示するあたりにチャンドラーのうまさがある。人生の落伍者と裏社会の物語でも舞台はあくまで高級ホテル、というのもアメリカで最も伝統のあるサタデー・イブニング・ポスト誌の読者がいかにも好みそうだ…と思いつつ小森収が巻末につけた作品評を読むと「慎重に読み進むことを要求する」といきなり大上段に振りかぶってから「トニーは同性愛者であることが示唆されている」といった突拍子もない解釈を繰り出すのにはぎょっとした。
どこにそんなことが?と思ったらフロント係が「今度の非番に今の電話相手を貸してくれないか」と尋ねた部分だけから憶測を逞しくしているので大いにがっかりした。
これこそ大山鳴動して鼠一匹ではないか。

原文で聞かれたのはphone numberなので、これはむしろ電話の相手をコール・ガールの派遣元(電話で呼ぶからそんな名がついた)と勘違いしたと見るべきだ。
そもそも物語の発端はトニーが女に関心を持ったことであり、アルがトニーに「女をホテルから出せ」と伝えたのはホテル内で荒事を起こさないための気遣いだった。
しかしトニーは女の境遇に同情し、昔の男を逃がすことで女を危険から遠ざけようとしたのである。ここにアルへの同性愛という作中のどこにも書かれてない要素を持ち込む暴挙は、物語の基本的な構成そのものを崩すことになりかねないが、果たしてこれが慎重な読みなのか?

またアルの「おふくろさんはどうしてる?」という呼びかけだけで小森収は「アルの母親の面倒をトニーが見ている」と決めつけているが、普通に読めば「トニーは自分の母を養っており、アルはその母親を知っている」つまり2人は昔から家族ぐるみの付き合いがあるというあたりが妥当だろう。
むしろ注目すべきはその前にアルが発した「いまの仕事も気に入ってる、ってか?」であり、ここにはトニーがかつて別の稼業についていたこと、おそらくそれは今のトニーが嫌悪するやくざな仕事であり、そこにはアルが昔の商売仲間であった可能性さえちらつく。
あるいはトニーは母の面倒を見るため、やくざ稼業から足を洗って雇われ探偵になったのかもしれない。ならばトニー自身もイヴやジョニーのように暗い過去を背負っており、彼らへの同情はそこから来ていると解釈するほうが「愛する男の母親の面倒を見ている」とこじつけるよりはよほど無理がないだろう。

さて銃撃戦で誰が死んだかについてだが、深町訳では「うちの親分」となっている。
アルが来たとき車の中から咳払いが聞こえるので、これがアルの「親分」かもしれない。
少なくとも深町訳のニュアンスに、アル自身が「親分」であるとの印象はなかった。
ただしアルのボスがジョニーに撃たれたとすれば、その大失態はトニーに情報を漏らしたアルの責任として仲間のギャングに始末されたとも考えられる。いずれにしろアルは「二度と誰にも電話することはあるまいよ」となるわけだ。
あるいはアルはまだ生きていて、トニーと直接口を聞きたくないほど失望しているだけかもしれないが。

アルが大失態の責任を取らされたにしろ、ギャングなら親分が殺されたケジメとしてジョニーの女と逃亡の手引きをしたトニーに落とし前をつけさせようとするのは想像に難くない。もともとはホテルで女と落ち合ったところを襲撃する予定だったのだ。
だからフロントで電話を受けた後にイヴの傍らへ戻ってじっと座るトニーは、やがて来るギャングたちとの対決を「待っている」のである。
そこに本作のタイトルが持つ、もうひとつの重要な意味があると私は考える。

深町訳に沿って読み進めると、この物語の骨子は「見知らぬ女に関心を寄せたホテル探偵が昔なじみとの板挟みになって両方を立てようとした結果、どちらもうまくいかずに大きなツケだけが残った」ということになるだろう。
女と男の板挟みという構図はいかにもチャンドラーらしいと思うのだが、そうした本筋を無視して私情丸出しのロマンティックな読みを付け加えてみたところで、それは作品に深みを与えるものにはならない。評者の先入観で物語をあまりにも歪めるのはさすがに慎むべきだろう。
もっとも当の評者は自分の書いた評論こそがメインだと信じて疑わないだろうが。

ハーラン・エリスン「鞭打たれた犬たちのうめき」と『短編ミステリの二百年』の批評について

2022年04月29日 | SF
非ミステリ作品ながら、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)が選ぶ最優秀作品(エドガー賞)の短編部門を受賞した「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」が雑誌に掲載されたのが1970年のこと。
その3年後に非ミステリとして書き下ろしアンソロジーに掲載され、同賞を受賞したのがハーラン・エリスン「鞭打たれた犬たちのうめき」である。

初出はトマス・M・ディッシュ編のBad Moon Rising、副題はAn Anthology of Political Forebodings(政治的予兆についてのアンソロジー)。
収録作にスラデック「メキシコの万里の長城」ウィルヘルム「掃討の村」そしてディッシュの「後期ローマ帝国の日々」が入っていることでもわかるとおり、れっきとしたSFアンソロジーである。
これに収録された作品がMWA短編賞を受賞するというのが驚きだが、『短編ミステリの二百年』の編者である小森収氏はエリスンがお気に召さないらしく、第5巻の評論部分でわざわざエリスンに1章を割きつつもそのほとんどをエリスン作品の批判にあてるという、まるでいやがらせのような仕儀に及んでいる。
これまた小森氏が低く見ている「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」の描写に倣うなら、その言葉のひとつひとつから憎悪が滴ってくるようだ。

ここで小森氏による「鞭打たれた犬たちのうめき」評について、その一部を引用してみよう。

「十代の私が、なぜ、こういう結末になるのだろうと、訝しく思ったことは確かで、今回読み返しても、結末は釈然としません。」
「共同幻想としても、それなら、なぜ、それがメンバーの安心と安全を保障するのかが分からない。本当に超越的な何かがあるのなら、ずいぶん安易で都合のいい超越者ではないでしょうか?」
「それに、冒頭の殺人を見守る人々の心の中が一様だと言われて、はいそうですかと納得するほど、もう子どもでは、私もありませんからね。」

最後の一文などはそれこそ子どもじみた言いがかりでしかないし、それなら小森氏は子どもよりもエリスンが読めていない。
今回この感想を書くにあたって読み直してみたが、特に引っかかるところもなくするする読めた。エリスンの作品ではむしろわかりやすいほうだろう。
もし釈然としないのであれば、それは小森氏が自分の視点に固執するあまり作品を理解する気がないからだ。

さて、まず基本に立ち返って考えてもらいたい。「鞭打たれた犬たちのうめき」の初出はミステリの媒体ではなく、SFアンソロジーである。だからミステリの約束事において非現実的な結末や超越的な存在が否定されたとしても、もともとSFあるいはファンタジーとして書かれた本作においては何の瑕疵にもならない。
少なくとも本作がミステリの賞を獲得したのはエリスンのせいではないし、受賞について難癖をつけるなら選考したMWAに言うべきだ。エドガー賞はファン投票ではなく、ミステリに通じた選考委員によって選ばれるのだから。

むしろ本作をミステリの俎上に載せて論じるなら、なぜこの一編がミステリとして評価され、エドガー賞を受賞したのかという視点で分析するべきだろう。それができないならミステリとしての優劣を語る見識がないわけで、薄っぺらくて偏った文章を連ねるよりはむしろ黙して語るべきではない。

筋の悪い評論がどうであれ、「鞭打たれた犬たちのうめき」はエリスンの数ある傑作を読んできた読者にとって十分に納得のいくものである。
むしろ邦訳がミステリマガジンに載ったこと、最初の書籍化がMWA賞アンソロジーへの収録だったためSFファンの多くが見逃したまま幻の作品になったことのほうがよほど問題視すべきだろう。
それだけにハヤカワSF文庫『死の鳥』への収録によって容易に読めるようになったことは喜ぶべきことだ。

本編冒頭でヒロインが目にする婦女暴行殺人は実際に衆人環視の中で女性デザイナーが暴行・殺害されたキティ・ジェノヴィーズ事件を思わせるが、この事件が起きたのは1964年3月のことなので、時事的な話題として取り上げたとは思えない。むしろ事件に関して1968年に心理学的実験が行われ、その結果から「傍観者効果」という言葉が広まったことを踏まえれば、エリスンの念頭にあったのはこの「傍観者効果」であったとも考えられる。

だが怒れる男エリスンはこの「目撃者に罪はない」という生ぬるい結論に納得できなかったのだろう。ゆえに都会を舞台にしたダーク・ファンタジーとして事件を再構成し、その中で目撃者の罪を暴いてみせたとも読める。

作中に肛門性交が出てくるが、これはアメリカにおけるソドミー法とその語源である『創世記』の堕落した都市の名を連想させるものだ。舞台となるニューヨークは現代のソドムであり、そこに暮らす住民もまた堕落していることを示す象徴である。
しかし現代のソドムは神によって滅びるどころかますます繫栄していることを考えれば、その民が崇める神もまたかつてとは真逆の存在であるはずだ。

つまり「鞭打たれた犬たちのうめき」は堕落した街とそれを支配する神、そして信徒としての都市住民についての物語であり、都市神の姿を見た(と信じる)ヒロインは街の規範に触れ、それを受け入れることでようやく「安心して眠れるようになる」のである。これは一種の都市小説であり、荒んだ都市社会における現代的な信仰の物語でもあるのだ。
エリスンは都市全体を巨大なカルトに見立て、そこに新たな神を据えることによって都市生活者の心理をあぶりだすと共に、その魂に根ざす悪のかたちを具現化させてみせた。

MWAの選考委員が本作に賞を与えたのも、それこそアメリカの直面している現実的な問題であると認識していたからではないのか。また都市あるいはその住民たちこそ殺人の真犯人であると見なせば、本作は確かにミステリとしても読むことができる。そこまで作品を読み込んで賞を与えたのなら、MWAの慧眼恐るべしである。

ではヒロインが見た神は本物か、それとも幻想なのだろうか?それは作中の力学においてはどちらであれ問題とはならない。
ヒロインは確かに神の奇跡を目の当たりにし、その姿を見たことにより安心して眠れるようになったのだ。そこに真偽を語る余地はない。繰り返すが、これは信仰の問題なのである。
またエリスンには偽りの神、狂った神についての物語も多い。彼は神を正しいとも慈悲深いとも思っていないこと、そして信仰とは一種の狂気でもあることを忘れてはならない。

ここで本作の核心を成す重要な一文を示しておく。
「崇拝者を欲し、生贄としての死か、さもなくば選ばれた他の生贄の死に立ちあう永遠の証人としての生か、その二者択一をせまる神。この時代にふさわしい神、都会とそこに生きる人びとの神。」
そこに在るのは「安易で都合のいい超越者」ではなく、都市に生きる者すべてを信者であり生贄として求める残酷な神である。そして新たな神を信じれば自らが生贄に選ばれるときまで心安らかであり、生贄に選ばれることもまた喜びとなるだろう。それが狂信における救済のかたちである。

エリスンが繰り返し神と信仰について書いてきたことを思えば、実際の事件と社会の動向を元にこの問題を取り上げることもまた極めて自然なことだ。彼の作品からそうした要素を読み取れないのであれば、それは彼の書いた作品と真っ向から向き合っているとは言えない。少なくともエリスンを語るには見えていないもの、足りないものが多すぎるということだろう。

最後に小森氏の偏った見方を示すものとして、エリスンについて書かれた章の末尾に置かれた文章から引用する。
エリスンの「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」や「プリティー・マギー・マネーアイズ」、そしてベスターに見られるタイポグラフィック的な表現について小森氏は「いかに腐りやすいことか」と一蹴した挙句、「アルジャーノンに花束を」の日本語訳との比較についてこう述べる。

「漢字かな交じりという特徴の持つタイポグラフィックな効果―字面そのものからチャーリイの変化が見て取れる―の前には、ベスターやエリスンの工夫は、単に本質をはずれた技巧の末路を示しているだけにしか見えません。」

言語表現の形式自体が異なる英語作品に対し、「漢字かな交じり」が使える日本語への優越感さえ臭わせるこの文章のいやらしさ。
そもそも日本語はひらがなだけで48文字、漢字に至っては小学校で学ぶだけでも1000字を超えるうえに促音 · ‎撥音 · ‎拗音 · ‎長音なども存在するので、文字による表現については基本的にアルファベット24文字しかない英文よりも格段に表現の幅が広くて当然だ。
そうした事情も一顧だにせず、アルファベットの持つ制限から抜け出すために様々な工夫を試みた作家の試みを嘲笑するような態度はさすがに見過ごせない。

言語の性質の違いを優位性とはき違えた上、それに寄りかかって他言語の書き手を貶めるような物言いは批評家を名乗る立場として恥ずべき行為だろう。

マージェリー・フィン・ブラウン「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」

2022年04月02日 | Weblog
ふとしたきっかけでポケミスの『天外消失』を読んでから、名作と呼ばれるミステリ短編にも少しづつ手を出している。
特に『51番目の密室』の巻末に掲載された対談のせいで読みたくなったのがヒュー・ペンティコーストの「子供たちが消えた日」だが、これを探しているとき出会ったのが創元推理文庫から刊行が始まった『短編ミステリの二百年』だった。
これは短編ミステリの歴史を辿る同タイトルの連載評論に年代別で短編を付した全6巻のアンソロジーだが、その評論中で『51番目の密室』に収録されたリース・デイヴィス「選ばれた者」と並んでわかりにくい作品とされたのが、4巻収録のマージェリー・フィン・ブラウン作「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」である。

4人の子をもうけ、世界中を転々と移り住み、今は八か月前の心臓発作で抗凝固剤の服用が欠かせなくなった老女。
「リガの森」とは彼女がむかしあるパーティで聞いた意味も分からない会話の断片であり、八か月前から彼女の頭の中に黒く広がり続ける暗い森の象徴でもある。
一人称で語られる彼女の記憶は断片的で時系列もばらばら。その合間に現在の老いた身体と認知能力の低下、そして近づいてくる死のイメージが差しはさまれる。やがて彼女は抗凝固剤を数え間違えて服用してしまい……。

語り手は頭の中に広がる「黒い森」を抗凝固剤のせいと考えているが、主成分であるワーファリン(ワルファリン)について譫妄の副作用は報告されていない。とすれば、彼女の記憶の混濁は老いによる認知症が原因と考えられる。これもミスディレクションを招くための仕掛けだろう。
鏡を見ると顔がないという描写も幻想的だが、これも脳機能の障害による相貌失認かもしれない。
そして「自分の顔がない=自分が自分であることを理解できない」というのは、まさにいま彼女が陥っている事態を象徴するものでもある。

一読して脈絡がないようにも見える文章だが、この作品を迫りくる老いと認知症を主観的に描いたものと読むならば、むしろこうした書き方は必然だと思う。
編者はこの作品について「女性向けと思われている(高級雑誌の)マッコールズに掲載された」「読者を拒んでいるような脈絡のなさ」と評しているが、老境に差し掛かり身体と記憶の衰えに焦燥する女性の独白という形式を考えればまさにうってつけの掲載誌であり、これを読んで身につまされる思いをした読者がいたことも十分に想像できる。
そして作者自身のプロフィールが明らかにされたいま、軍属の夫と共に日本へ渡り2年を過ごしたという著者の体験を「世界中を転々とし」たという語り手の体験に重ねるのはむしろ自然ではないだろうか。幻想的に見える描写は、語り手がリアルに感じとった世界の姿なのだ。

かつて親しんだ小説や絵画作品からの引用が次々と浮かんでくるのに、その出典がなんだったのか思い出せないもどかしさ。
そして書棚に並んだかつての愛読書を手に取ってみても「言葉は勇ましくページの上を行進してゆく。意味は湿った花火のように、わたしの頭のなかでぷすぷすはぜるだけ」。
こうした語り手の心情は、絵画鑑賞や読書が楽しみの人間にとって決して他人事とは思えない。
いずれそうした時が自分にも訪れるのだと考えたとき、難解というよりはむしろ生々しい不安をかきたてられた。
ミステリとしても幻想小説としても分類し難い作品ではあるものの「信頼できない語り手」を扱う一編として読み継がれて欲しい物語。
名手・深町眞理子氏の訳文も冴えわたっている。

なおこの作品は1970年発表だが、この5年後の1975年には本作で取り上げた内容をさらに突き詰めて描き切ってみせた、ミステリとしても幻想小説としても第一級の傑作長編が刊行されている。もちろんジーン・ウルフの『ピース』である。
『ピース』が好きな人ならリガの森で迷うこともないはず。臆せずにぜひ読み比べて欲しい。

樋口恭介編『異常論文』(ハヤカワ文庫JA1500)感想

2021年11月07日 | SF
樋口恭介編『異常論文』(ハヤカワ文庫JA1500)を読んだ。

22人の作家による22の異常論文はガチガチに硬いものから、くたりと柔らかいものまで各人各様。
それぞれに個性が感じられるが、SFマガジン特集時は若い書き手の意気込みと緊張感を感じる作品が並んだ印象があるのに比べると、書籍版で参加したベテランたちの書きぶりには手練の技巧とゆとりが感じられ、編者の狙いどおりか期せずしてかはともかく緩急のある配列になったと思う。

巻末で神林長平も触れている通り、これらは「論文の形をとった小説」である。ただし編者の樋口恭介が巻頭言で示したように、これらはなんらかの「事実」を記述するうえで「論文」になった、あるいはならざるを得なかった言語の群れであるともいえよう。
その「事実」は必ずしも我々の認識する「現実」でなくていいし、それらは「論文」という形で「現実」に対する読者の認識を書き換え、あるいは認識される「現実」そのものを書き換えようとする。
その意図や使命を明示的な前提としたことにより、異常論文という形式はSFの持つ現実変容の側面を非常に強く浮き上がらせ、我々の精神に強烈な揺さぶりをかける。
思弁小説とは言語による思考実験であると考えれば、異常論文はスペキュレイティヴ・フィクションの核心をまるごと取り出して凝縮したものであろう。
その凝縮性ゆえに読むのが億劫だったり、時に疲れを覚える面もあるが、いまここにはないが確かに存在している複数の「事実」を、22編という量的にも手ごたえのある分量で読めるのは実に喜ばしい。

収録作すべてが力作でハズレなしと言ってよいが、ここでは書籍初収録作品についていくつか挙げておく。

円城塔「決定論的自由意志利用改変攻撃について」
タイトルからして矛盾しているような、人を食ったスタイルはこの人ならでは。
固有名詞と数式が飛び交う内容は概ね理解できる範疇ではないが、その異常さを前置きとして最後にポンと提示される普遍的な解にはあんぐりと口を開けてしまう。
そのギャップこそが円城マジックではないだろうか。

松崎有理「掃除と掃除用具の人類史」
異常論文の名手による新たなる異常論文の傑作が誕生した。
ホラ話か冗談のような内容を宇宙規模にまで広げて一筋の光として語り継ぐ手腕はSFならではの笑いと感動を読者に届けてくれる。
先達としてラファティの業績を作中に盛り込む手際も見事、これぞ異常論文の面目躍如。同時期刊行のラファティ・ベスト・コレクション(特に12月刊行の『ファニー・フィンガーズ』)も併せて読まれたい。

飛浩隆「第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評」
実際にゲンロンのSF創作講座で作家の卵たちに指導を行ってきた作者による、存在しない作家による存在しない作品の講評たち。
しかしその講評の基盤には存在しない事象があり、これを引くことによって現実と虚構が相互に創造と批評を織りなしていく。
揺らぐ現実を書くには創作の形式もまた揺らいでいかざるを得ない、そんな状況が飛浩隆ならではの華麗で異様なヴィジョンによって魅惑的に披露されていく。
語りと騙りの芸術的な融合がここにある。

酉島伝法「四海文書注解抄」
文字と言葉を絵画のように、あるいは音楽のように語らせたら右に出る者のない名手による、言葉によるスクラップブック。
しかもそれを編纂しているのは明らかに我々の想像する人類ではない。
既知の概念に外からの補則が付されるという入れ子構造が読者をさらに幻惑する。
しかし酉島作品から『ガンヘッド』の名前が飛び出すとは思わなかった。

伴名練「解説-最後のレナディアン語通訳」
ホラー作家でありSF批評家、名アンソロジーの編者としても名高い作者が、自らの仕事を振り返りつつ書いたであろう作品。
形式こそ架空の言語にまつわる作品群とその言葉についての辞書をめぐる解説文だが、創作言語について直接語られる部分はほとんどない。
むしろ物語が人の思考と人生にどんな影響を与えるか、そして物語について論じ批評することがさらに別の物語を、そして別の現実を生み出すかという問題について極めて自覚的に書かれた本作は、伴名練という作家についてのサブテキストとして読むことも可能だろう。
作中で続々と繰り出される実在のSF作品にもニヤリとさせられる。

「解釈」という名の物語の物語―「ジーン・ウルフの「アメリカの七夜」を読む」を読む

2021年03月13日 | Wolfe
S-Fマガジン2021年4月号掲載の若島正氏による評論「「解釈」という名の物語―ジーン・ウルフの「アメリカの七夜」を読む」を読んだ。
ここで若島氏は「アメリカの七夜」という謎めいた作品に取りつかれた海外研究者たちの有力な評論を紹介し、その労苦については敬意を払いつつも、自身の精読によって作品の深奥へと入り込み、その成り立ち自体を従来の視点から180度転換させる新解釈を引き出してみせた。
その大胆かつ繊細な切り口は、ジーン・ウルフの作品を長年研究してきた碩学ならではのスリルあふれるものであった。

さて、踏み込んだ感想を述べる前に、解釈の対象となった中編の簡単な紹介と、若島氏の評論のまとめを行ってみたい。

ジーン・ウルフ作「アメリカの七夜」は1978年に刊行されたオリジナルアンソロジー「Orbit20」が初出の中編で、1980年の第1短編集「The Island of Doctor Death and Other Stories and Other Stories 」にも収録された。
日本ではS-Fマガジン2004年10月号のジーン・ウルフ特集で初めて邦訳され、その後2006年2月刊行の日本オリジナル作品集『デス博士の島その他の物語』に収録されている。
作中の謎をめぐってアメリカでも日本でも多くの愛読者を悩ませてきた作品だが、若島氏によるといま最も有力な解釈とみなされているのが、本作の書評コンテストで受賞したデイヴ・トールマンの説らしい。
ウルフ研究者のマーク・アラミニによる全著作解釈本でも、基本的にトールマンの説が採用されており、これが正当な解釈とされているそうだ。

若島氏の評論(以下「若島論」)は、このトールマン/アラミニ説を含む既出の解釈とは異なる観点から「アメリカの七夜」を読み直すことにより、
・「技巧的なパズル・ストーリー」という従来の評価に修正を迫りつつ
・この小説がいかにジーン・ウルフの中心的なテーマにつながっているか
この二点を論じようとする試みである。

若島論では六日間の記録を日記の掲載順にまとめて議論のアウトラインを示したのち、従来から議論されてきた問題を二つ挙げてみせる。
1.「アメリカの七夜」と題されながら、日記には六夜ぶんの記述しかない。失われた一夜はどこにあり、誰が削除したのか?
2.ドラッグの入った卵菓子をナダンはいつ食べ、日記のどこにその幻覚が見出せるか?

そしてこの問題に対する既出の有力仮説として、ウルフ研究者のボースキーとトールマンの二つの説が紹介される。

ボースキー説:ナダンが削除した部分に卵菓子をひとつ食べた記述がある。ゆえに卵菓子が減っていたというのはナダンの嘘である。
ナダンは細密画を盗みに来たのであり、削除したのは五日目に書かれた下見の部分とする。
幻覚剤は最後の卵に入っている。アーディスはナダンがかつて撃った怪物であり狼女である。

トールマン説:ナダンの目的はやはり細密画の入手、ただし失われたのは二日目で、このとき下見をしたと考える。
つまりスミソニアンに行ったのは三日目だとする。
この説の本体はアメリカ復権の陰謀とそれに巻き込まれたナダンという解釈で、秘密警察がアンプルでナダンを暗殺しようとして失敗し、アーディスやボビーを使ってナダンの部屋からアンプルを使った卵菓子を回収したとする。
さらに6日目以降の記述は秘密警察が機械を使って物語と筆跡を捏造したものという解釈している。

しかし若島氏は、二人とも作中に用意された解釈の域を出ていないと断じてみせる。
ここから謎解きの本番が始まるのだが、詳しいことは評論が掲載されたS-Fマガジンを読んでいただきたい。

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さて、そろそろ若島論についての、私なりの感想を述べていく。

若島氏はボースキーもトールマンも作中に用意された解釈の域を出ていないと述べたが、これにはまったく同感だ。
要するに2人とも、ジャンル小説の枠に当てはめた解釈を披露しているにすぎない。

ボースキーはSFとして読み、その枠に見合う解釈をした。
トールマンは陰謀論として読み、その枠に沿った解釈をした。
場に伏せられた札をどう読むかも含め、どちらもウルフの仕掛けたゲームを遊んでいることに違いはない。
そして二人とも謎を解くことによって、物語を完結させようとしているのは変わらない。

若島氏はこれらの読みを採らない。むしろ異議を唱えるために着目するのは、ゲーム自体のルールと場の側である。
すなわち「アメリカの七夜」のメタフィクションとしての構造を明らかにし、その機能を説明することによって、従来のゲームとその場を丸ごとひっくり返そうとするのだ。
細部は省くが、その手法は従来の謎とされた部分を「もともと存在しない」、つまりナダンが日記に書いた嘘として読み解くことにあった。
ここから組み上げた推論により、若島氏はナダンの日記を創作と断定する。
この断定によって多くの矛盾点が解消され、同時に「アメリカの七夜」がテーブルの上で繰り広げられる小さなパズル遊びではなく、そこからはみ出して世界を覆いつくす無限の物語であるという新たな解釈が浮上する。

若島氏の評論が目指すのは、作品の主要な謎を解きつつ、物語を永遠に続けることだ。
従来有力視されてきたボースキーやトールマンの評論と決定的に異なる点はここだろう。
そしてジーン・ウルフ作品の愛読者ならばなおのこと、若島論に強い共感をおぼえるはずだ。
ウルフが自己複製を繰り返しながら場所と時間を超えて伝播していく物語を目指しているのは、代表作『新しい太陽の書』4部作が聖書の模本(しかも聖書自体に旧と新がある)を意図している点でも明白であり、若島氏の解釈はこれに沿ったものだからである。
さすがは日本最高のウルフ読みである若島氏、目のつけどころが実にウルフ的である。

このようにパズル的・ゲーム的な解釈への異議申し立てとして従来の説を見事に覆した若島論だが、ではその解釈ですべてが丸く収まるかといえば、なかなかそうもいかないようだ。
やはりウルフはやすやすと尻尾をつかませてくれない。

たとえば、日記の削除を否定した解釈について。
若島氏は本当に削除したならそれを日記に書くのは矛盾している、だから削除はされておらず、他人に読ませるための嘘の手がかりなのだと説く。
しかし日記が創作だとすれば、それがわかる手がかりとして「いずれそうなるようにぼくがしむけてみせる。」といった宣言を書き残すのも矛盾だろう。
若島氏の文章を引用するなら「そのことがわからないほど、ナダンはマヌケな人間ではない。」ということだ。
もちろん創作であることを意図的にほのめかした可能性もあり得るが、それではオスマン・アーガの旅行記に倣おうとするナダンの創作意図と合致しない。
もし日記に書かれた内容が嘘だとしても、その嘘を明かしてはせっかくこしらえた魅力的な虚構が台無しである。
むしろ作品全体の構成を考えると「アメリカの七夜」という作品は日記を間に挟んだ枠物語の形式を採用することにより、日記について「作中世界での真実性」を留保しつつ、真偽の判断は読者に委ねたと見なすほうが自然だろう。

ナダンの日記に続いて、枠物語の部分に読者の代理として登場するのは、ナダンの身内と思われる若い女と老婦人である。
そして日記を読んだ後の2人の反応は、実に対照的だ。
ヤースミーンと思われる若い女はナダンの生存と日記の真実性を信じ、さらにナダンが日記を書いた後に手紙を出したのではないかという「別の物語」にまで言及する。
いっぽう、ナダンの母と思われる老婦人は日記の筆跡を疑う。これは内容だけでなく、作者そのものへの懐疑である。
この母の懐疑を受けて読者がまず考えるのは、日記を送ってきたハサン・ケルベライによる捏造の可能性だろう。
ハサンは日記とともに送ってきた報告書の中で、捜索を続けるための金が届かなければ捜索を打ち切ると示唆している。
もし日記の真実性を疑うなら、これはハサンがさらに経費を請求するために偽物を書いて送ったと考えるのが一般的だ。

ではその筆跡は本当にナダン以外のものかといえば、これもまた曖昧である。
ここで老婦人が見せる葛藤は、日記が偽物らしいというだけでなく、あえて偽物と思いたい理由があるとも考えられる。
老婦人は息子の生存をあきらめかけているか、あるいは調査を続けられない事情があるのではないか。
その事情はナダンがアメリカに渡ったことと関係があり、ヤースミーンはそれを知らないのかもしれない。
若い女とは違った立場に身を置くもうひとりの読者の複雑な思いが、ここにはっきりと表れている。

日記の外側にいる最初の読者たちの反応が既に真偽まっぷたつに割れていることから、その2人を書いたウルフ自身が「どちらの解釈を採ってもよい」と示唆しているのは明白だ。
しかしこの場面の、そして全体の締めくくりとして末尾に置かれた「たぶんね。たぶん」という言葉は、老婦人の迷いを示すものであると同時に「アメリカの七夜」を繰り返し読んで欲しいと誘いかけるジーン・ウルフからの言葉でもあると思う。
物語が閉じられるとき、そこに置かれるのは「めでたし、めでたし」である。これを物語の終わりを二重に言祝ぐものとするなら、「たぶんね。たぶん」とは、終わらない物語を二重に強調した呪文とみなせるだろう。

さて、日記の内容が嘘であるとすれば、そのどこからどこまでが嘘なのか。もし最初から最後までが嘘だとすれば、アメリカで調査中のハサンに見破られる可能性が高そうだ。
そしてナダンの身内2人が読んでいた日記が原本なのか、あるいはハサンが送ってきた写真複写なのかについても、作中でははっきり書かれていない。
老婦人が「本を閉じた」とあるので、仮にこれが原本だと考えた場合、削除の有無はページの脱落や切り取り跡として残っているはずであるが、これについても作中での言及はない。

このように細部を詰めていくと、少なくともウルフは巧妙に核心をぼかし、あるはずの証拠についてもすべては提示していないことがわかる。
これは謎解きとしての「読者への挑戦」を意図していないからではないのか。唯一の解答を求める探偵たちの前に差し出された、これがウルフなりの答えにも思える。

いっぽう、日記の書き手であるナダンもまた核心をぼかした記述をするが、こちらはナダンのロマン主義的な精神と、見たものを信じられない、あるいは信じたくないという心理作用によるものだ。
彼の気持ちの揺れは、ある場面では日記を読ませるつもりと書き、別の場面では読ませられないと書く不安定な記述にも表れている。
そんなナダンの日記が持つ魅力とはなにか。それは彼が書き留めた怪物や崩壊したアメリカの姿だけではない。
むしろそれらを見聞した本人がどのように受け取って何を感じたかという「書き手の解釈に基づく現実」こそ、最も読むべき部分だろう。
ナダンの心の動きと曖昧な現実認識をひとまずそのまま受け止めること。これこそ『デス博士の島その他の物語』のあとがき「ジーン・ウルフ-言葉の魔術師」において、柳下毅一郎氏がウルフの言葉として掲げた「わたしはつねに自分に見えるとおりのものを見せようとしている」という執筆姿勢に沿った読み方ではないだろうか。
そこに書かれたものをまず素直に受け取るという気持ちも、ジーン・ウルフの作品を読むうえで大切なものだろう。

ウルフの最高作ともいわれる傑作短編「デス博士の島その他の物語」が不朽の名作となりえたのも、タッキー少年の見た世界が彼の解釈に基づく「別の現実」であり、それが子供から大人へ、動物から人間へと変身していく少年の心身を最もうまく説明するものだったからである。
「アメリカの七夜」もまた、未知の土地で青年が初めて見た信じがたいものたちと、それに対する心の動きをつぶさにとらえた作品として、そのみずみずしい感覚を受け取ることが肝要である。
パズルに興じたりメタフィクションとして読み方を広げるのも楽しいが、わざわざウルフを読むのであれば、彼がその作品において繰り返し実践してきた「本は人なり」という考え方に立ち返って、語り手の内面に触れることを忘れてはならない。

いっぽう、誠実な読みを重ねた結果として、読者がさらに多様な解釈を施すことに関しては、ウルフもむしろ歓迎していたはずだ。
読者への挑戦ではなく、読者をどのようにもてなすかに全力を注ぐ。それがジーン・ウルフの流儀だからである。
そんなウルフの気持ちを汲んだ若島氏が「千一夜物語」を手がかりとして「アメリカの七夜」を読み解き、新たな解釈を提示するのは必然であり、この試みが日本のウルフファンを再び活気づけ、ウルフを読む楽しさを再認識させてくれたことに改めて感謝したい。

ではこの解釈という物語に背中を押されたひとりとして、私からもまた別の解釈を加えてみよう。
若島氏は「アメリカの七夜」という表題と千一夜物語の成立過程を関連付けながら、作者が姿を消すのは原作者不詳の原典にふさわしいとしている。
しかし同様に「アメリカの七夜」という表題から別の原典との関連を導き出し、ナダンがなぜ消えるに至ったかを推測することはできないだろうか。
その原典とはフランツ・カフカの『アメリカ』だと、私は考える。

なお、この作品はカフカの遺した手稿を友人のマックス・ブロートが編集して『アメリカ』の表題をつけて刊行した作品であり、後にカフカの手稿に沿った形に改訂されたため、今は新たな表題のほうが広く知られている。
カフカが手稿の時からこの作品につけようと考えていた表題、それは『失踪者』というものであった。

『アメリカ』は女中を妊娠させたドイツ人少年がアメリカで暮らす伯父の元に送られ、現地の文化と人々に接しながら自分の居場所を探す物語である。こちらの結末では主人公が変名を使って劇場に職と居場所を得る。
いっぽう『失踪者』では、この後にカフカの遺した短い断章が添えられ、主人公が乗った列車が渓谷にかかる橋にさしかかった時、「水面近くをかすめたとたん、冷気が顔を撫でた。」という一文で終わる。
カフカ小説全集の解説で『失踪者』を訳した池内紀氏はこの幕切れについて「小説はカフカ自身が述べたとおり、「とめどなくつづく」。終わりをみないのが、もっとも正確な終わり方と言っていい。」と評している。なんともウルフ的ではないか。
いや、むしろウルフのスタイルがカフカ的であると言うべきか。

なお『アメリカ』が『失踪者』に変身して再度お目見えするのは1983年のことで、刊行時期については1978年のOrbit20に掲載された「アメリカの七夜」が先行している。
しかしカフカが『失踪者』という表題をつけようとしていたことは、1946年版の『アメリカ』あとがきでブロートが明かしているので、それを知っていたジーン・ウルフが、自分なりの再構築による『失踪者』を書き上げた可能性もあり得ないとは言えない。

ナダン・ジャアファルザデーは役者として舞台に上がったとき、アメリカ人ふうの「ネッド・ジェファソン」という名を与えられた。
ジェファソンといえばすぐに思い浮かぶのが、アメリカ建国の父のひとりとされる第三代大統領のトマス・ジェファソンである。この人物はラシュモア山に彫られた4つの顔のひとつでもある。
ペルシアからやってきた青年がアメリカの象徴へと変身し、やがて失踪する。ウルフの筆によって、『アメリカ』は見事に『失踪者』へと変身したのだ。

さて、ウルフの執筆プランではあらかじめ失踪が定められていたとして、作中でのナダンはどこまで計画的に動いていたのだろうか。
アメリカに渡る前から失踪を企んでいたのなら、実はナダンはワシントンDCに行かず、「もっと北の地」であるデラウェア湾に上陸し、
そこで書いた日記をわざと放置したのかもしれない。DCの地図はテヘランでも見られるので、あとは想像で書くことも不可能ではない。
あるいはジェファソンの名を得た時、ナダンは国を捨て、家族を捨て、過去を捨ててアメリカの地で消える覚悟を固めた可能性もある。
この場合、手記に書かれたアーディスに関する最終夜の記述は、失踪をカモフラージュするために急遽書き上げた作り事だろう。

しかしアーディスが日記に書かれたとおりの醜悪な変身生物であり、その朽ち果てた肉体が疫病や汚染を媒介するものであれば、それと同衾したナダンの愛と欲望が恐怖と絶望に変わったのも無理はない。

そして最後に窓ガラスから見えた顔、これはアーディスかその仲間のものと思いがちだが、日記にはその点もはっきりとは書かれていない。
もしかすると窓に見えたのは、室内の灯火によって鏡と化したガラスに映ったナダン自身の顔だったのではないか。
それならナダンもまた獣人に変化したか、あるいはその前に食べた卵菓子の幻覚剤がナダンの恐怖に反応して幻を見せたということになる。
いずれの解釈にしろ、語り手本人が変身してしまうという結末は、ジーン・ウルフの書く物語にふさわしいものだと思う。

なお、作品の発表された当時の世界情勢を見ると、1973年の第1次オイルショックでアメリカ経済は衰えを見せ、さらに発表年の1978年にはイラン革命が始まっている。
ウルフは時事的な話題にこだわらない作家だが、「取り替え子」が朝鮮戦争とベトナム戦争を描いた物語として読めるように、あるいは「風来」の世界が9.11の後のアメリカ社会に重なるように、時事問題を扱わないというわけではない。
たぶん「アメリカの七夜」も、時代背景を反映して書き始められたものだろう。
しかし出来上がった作品は時代を超え、それこそ千一夜物語やカフカの作品のように長く読み継がれるものとなり、今も読者を魅了し続けている。
大衆作家として書きながら、その枠をたやすく超えてみせる。それがウルフの非凡さである。

評論への感想を書くつもりが、思ったよりも話が膨らんでしまった。
結局のところ、私もまた解釈という物語を付け加えたい誘惑にあらがうことができなかったようだ。
そしてウルフの作品が読み継がれるかぎり、解釈という物語はこれからも続いていくだろう。

ウルフを読み、その解釈の輪をつないでくれる人が、ますます増えることを願ってやまない。

ケイト・ウィルヘルム『鳥の歌いまは絶え』

2020年06月04日 | SF
ケイト・ウィルヘルムは1960年代から70年代のアメリカSFにおいて頭角をあらわした作家たちの中でも、
特に重要な位置を占めるひとりである。
近年では心理サスペンスの名手として本邦でも再び注目を集めつつあり、『街角の書店』と『夜の夢見の川』
(いずれも創元SF文庫)に収録された「遭遇」と「銀の猟犬」はその巧みな語りを存分に発揮した傑作だ。
そんなウィルヘルムが今から44年前に上梓した『鳥の歌いまは絶え』は、SF作家としての著者を代表する作品である。
かつてサンリオSF文庫の1冊として邦訳され、酒匂真理子氏の優れた訳文とあわせて高く評価された本書が創元SF文庫で
38年ぶりに復刊されたことを喜びたい。

アメリカの肥沃な谷に根付いた富裕な一族。その中でも特に有力なサムナー家の青年デイヴィットは、
ある日の親族会議で重大な秘密を明かされる。
近年の環境破壊と大気中の放射能増加、コレラやインフルエンザの蔓延、そして動物の不妊が進行したことにより、
数年のうちにすべての生物は絶滅するというのだ。
一族は資産を投じて物資、そして技術をかき集めて谷に病院と研究施設を築き、これに対抗しようとする。
研究のひとつはクローンによる動物の複製であったが、その裏には不妊となった人類をクローン技術で生き延びさせる狙いがあった。
研究に参加したデイヴィットはついに人間のクローンを完成。成長したクローンたちは一卵性双生児に特有の弱いテレパシーを発現させ、
同種の個体間で精神によるネットワークを形成する一方で、テレパシーのない旧人類を疎外するようになる。
無個性なクローンたちを恐れたデイヴィッドは動力源である発電所の破壊を試みるが失敗し、谷から追放されて森へと去る。

時が経ち、谷にはほぼクローンだけで運営される安定した社会が確立するが、クローン族は兄弟姉妹によるテレパシーの圏外に出ると
精神の均衡を失う弱点があった。
谷の外へ探索と物資調達に出たグループはテレパシーのきずなを失って精神を病むが、優れた画家であり写真的記憶力を持つモリーは
そこから回復し、自我を育てていく。
しかし谷に帰還した彼女はコミュニティにとって異質な存在、精神的なつながりを失って理解できない存在となった異常者であった。
孤立したモリーは探検行を共にしたベンと密かに関係を持ち、自然分娩でマークと名付けた少年を生み育てる。
それは森を恐れるクローンには不可能な、自然の中で生きていく術と個性を養うものだった。
これがクローン族に発覚し、モリーは捕らえられて受胎能力を持つ女性を集めた繁殖所に送られ、薬漬けで人工授精の実験対象とされる。
繁殖所で誕生した子供たちはコミュニティの外で、テレパシーを持たない単純労働者として使役されるのだ。
やがて脱走したモリーは息子と再会し、最後の教えを授けた後に川のささやきに導かれて姿を消した。

成長したマークはテレパシーの欠如に加えてその個性と想像力がクローン社会の安定を乱す
異端者として恐れられる一方、谷の外を探索する力を備えた逞しい青年となっていく。
しかしクローン族の指導者たちはマークの追放をもくろみ、谷には氷河が迫りつつあった。
マークとクローン族、それぞれにとって選択のときが来ようとしている。

破滅テーマ、ミュータント、ディストピアとSFの伝統的なテーマを意図的に結合させつつ、
普遍性のある物語を構築したウィルヘルムの筆力は抜群である。
クローン族はヴォクトの『スラン』に代表されるテレパシーを有する優秀な新人類を思わせるが、
それで全てがうまくいくわけではないというアンチテーゼも込められた存在だろう。
さらにかつてアメリカのSFファンダムでFans are Slans(ファンはスランだ)というスローガンが流行したと聞けば、
ウィルヘルムの視線はSFファンの閉鎖性と歪んだ優越感にまで向けられていたと思いたくなる。

本書が出版されたのは1976年。その前年にはベトナム戦争が終結し、ヒッピー文化やフラワーパワーは終焉を迎えつつあった。
そんな時代を当事者の一人が記録したとも読める作品が、1975年に刊行されたディレイニーの『ダールグレン』である。
当時まだ33歳のディレイニーと違い、ウィルヘルムは既に40代半ば。自ずと世の中の見方も違っただろう。
これを意識しながら両方を読み比べてみても楽しそうである。
またこの時期に前後してヴァーリイやマーティンもコミューンとテレパシーを扱った代表作を発表しているのは、
当時のSFを取り巻く状況を象徴するものだと思う。

しかし時代性とは関係なく、『鳥の歌いまは絶え』はいま読んでも大変に面白い。
クローン技術がまだ現実に追いつかれていないというアドバンテージもあるだろうが、環境破壊、パンデミック、
そして人口減少という事態に直面した21世紀に本作を読むと、むしろ物語の背景がより身近に感じられる。

またフィーリングの合う相手を仲間を認定する一方、そこからはみ出したり対立する存在は組織の敵という理屈で
徹底的に排除しようとする閉塞感は、現代においても全く同じである。
さらにネット空間では随所にコミューンが形成され、時に現実にまで侵入して対立を繰り返している始末。
テレパシーという設定を用いて同質性の高い社会を描き、意識せずに高まっていく差別や排斥という感情を
鋭くえぐってみせたウィルヘルムの筆さばきは、今もなお力を失っていない。
そして無駄のない引き締まった文章はドライでありながら、男女の禁じられた愛や引き裂かれた親子の愛を
抒情たっぷりに描き出す。本作の根底にあるのは常に愛なのだ。

なお、ウィルヘルムは本作から3年後にもうひとつの代表作『杜松の時』を発表した。
こちらもサンリオSF文庫で刊行された後は長らく絶版のまま。復刊を強く望む。

ジーン・ウルフ、逝去。

2019年04月16日 | Wolfe
2019年4月14日、ジーン・ウルフが亡くなった。
享年87歳、長く心臓を患っていたという。
噂に上がっていた『書架の探偵』の続編はとうとう上梓されなかったが、
自らの分身である流行作家を図書館に住まわせ探偵役を務めさせる物語が
遺作となったのは、著者にとって幸せな事だったと思う。

なお『書架の探偵』の主人公E.A.スミスは「Smithの後にeがつく」と名乗るが
姓の最後にeがつく点はあのフィリップ・マーロウと同じ。
そして著者自身の姓も「Wolfの後にeがつく」ことを考えあわせると、この名が
ウルフ自身を指し示す署名であることに疑いはない。

さて私自身はというと、ウルフの死をことさらに嘆くつもりはない。
私たちの書架には、既にウルフの複生体である数々の著作があるからだ。
『書架の探偵』はそれを密かに伝える、著者最後のあいさつだったのかもしれない。

その作品を愛して繰り返し読み続ける限り、ジーン・ウルフはいつも我々と共にある。
そしてウルフの作品について語るとき、我々もまたひとりのウルフとなるのだ。

ジーン・ウルフ「取り替え子」

2016年03月13日 | Wolfe
『ジーン・ウルフの記念日の本』に収録されたうちで一番、そしてこれまでに紹介されたウルフの短編でも
指折りの傑作と断言できる作品、それが「取り替え子」である。
いまや幻の一冊となったNW-SF社のアンソロジー『ザ・ベスト・フロム・オービット』の収録作として
初訳されたのが1984年なので、実に31年ぶりの復活となる。

物語はある男が書き残した手記という体裁をとっている(ウルフおなじみの手法だ)。
手記の書き手は朝鮮戦争に従軍した後に中国へと渡り、帰国後は投獄の身だったという。
そしていま彼はカッソンズヴィルという故郷の町へ向かうところだ。
偶然旧友の車に同乗した書き手は昔話に花を咲かせるが、ピーター・パルミエリという少年についての記憶が
どうしても噛み合わない。
ピーター・パルミエリは書き手と同学年のはずだが、旧友によればピーターは現在8つくらいの小さな子供で、
その当時はまだ生まれていなかったというのだ。

やがて書き手はカッソンズヴィルの宿屋に到着し、そこでかつてと同じ子供のままのピーターと出会う。
ピーターは書き手のことをまったく覚えていないようだ。
そしてピーターの弟だったはずのポールはいまや立派な青年に成長していたが、家族の誰一人として
成長しない子供の存在を疑問に感じていない……ただひとり、ピーターの父親を除いて。

ピーターの父親は言う。ポールの姉のマリアがまだ赤ん坊だったころ、カッソンズヴィルに越してきて
2ヶ月後の夜に帰宅すると、見知らぬ少年がいた。
妻はこの子がマリアの兄のピーターだという。そしてピーターは成長しないまま、いつしかマリアの、
そして次に産まれたポールの弟へと立場を変えていった。
不審に思った父親は神父から聖水をもらってきて、眠っているピーターに振りかけてみたこともあるが、
その身には何一つ起こらなかった。

話を聞いた翌日、書き手は自分がかつて学んだ修道院の付属学校「無限罪の御宿り校」へ向かい、
クラス全員で撮った昔の記念写真を閲覧する。
自分が写っている場所はすぐにわかった。しかしそこに写っていたのは、彼の顔ではなかった。

かねてから名前だけは聞いていたが、実際に読んだのは今回が初めて。
最初に読んだ感じでは、ウルフが得意とする「記憶と存在についての物語」だと思った。
当たり前の日常がささいな記憶の混乱をきっかけに揺らぎだし、やがては自己を裏付ける過去の記録さえも
覆されて、ふと気づけば「何者でもない」存在になっている。
淡々とした描写を積み重ねによって読者はゆっくりと深みへ引き込まれ、最後には自分が消え去ることの
恐怖と開放感がないまぜになった、独特の余韻を味わうことになるのだ。
不条理系の幻想文学としては珍しくない話だが、作者の絶妙な語りによって印象深い作品になっている。

しかしこうした読み方とは別に、ふとした疑問から作品の背景を調べ始めたところ、これが想像以上に
生々しい背景を持った、作者の自伝的作品という一面を隠し持っているという結論に至った。
ここからはそう考えるに至った過程を書いていくが、先入観や特定の解釈に縛られたくないという人は
読まないほうがいいかもしれない。

さて、疑問のきっかけは「カッソンズヴィル(Cassonsville)」という町の名である。
ウルフが具体的な名称を出す場合、そこには何らかの意味を持たせていることが多い。
そこでカッソンズヴィルという名称をネットで検索すると、類似の名称として出てきたのが
「ケイトンズヴィル事件の九人」であった。
これはメリーランド州のケイトンズヴィルという町で、ベトナム戦争に抗議する9人のカトリック信徒が
ナパームで徴兵書類を焼き捨てたというものである。
敬虔なカトリック信者であるウルフなら、この事件を見逃すはずがない。
そして事件が起きたのは1968年、「取り替え子」が掲載されたOrbit3が発行された年なのである。
なおケイトンズヴィル事件は5月17日に起き、Orbit3はその後の9月1日に刊行されているので、
編集的にはギリギリのタイミングだとしても、時系列上の矛盾はない。
(注:これについては翻訳家の山岸真さんから「この短編は事件の前に既に完成していたはず」との
 コメントをいただきました。その他についてもいろいろとご教示いただき、ありがとうございます。)

それではなぜ、成長しない少年の名はピーターなのか。
この名前と「取り替え子(The Changeling)というタイトルからの連想として既に指摘されているのが、
ピーター・パンの物語である。
作中に子供時代の遊び場だった島が出てくることからも、これは確定事項だろう。
ではピーター・パンとベトナム戦争にどんな関連が見出せるというのかと言えば、
それはピーターが「自ら大人になるのを拒否した存在」であるという点だ。
これを徴兵拒否に読み替えると、兵役に就くのを拒む若者は「大人になることを拒んでいる」
永遠の子供であると指摘しているようにも読める。
これは大学生の時に朝鮮戦争に従軍し、戦場で大人になったウルフにとっての実感ではないだろうか。
しかしその一方、大人になった書き手は朝鮮戦争に従軍した後に敵の手に落ち、そこで生き延びるために
思想転向を余儀なくされたようである。
これは聖ペテロが告発を避けるためにイエスを否認した「ペテロの否認」に通じるものだろう。
そして手記の書き手はペテロと同じく、無限罪の宿りを具現化した少年に「躓く」のである。

さらに「聖ブランドン」での発想にならって、Cassonsvilleを「キャスの息子の町」と読み替えた場合、
再び聖キャサリン(カタリナ)の名前が浮かび上がってくる。
聖カタリナはキリスト神秘の結婚をしたとされる純潔の乙女であるが、同じ名前を持つ聖女については
エジプトの「アレクサンドリアのカタリナ」と、イタリアの「シエナのカタリナ」の二人が知られている。
ピーターの家族がイタリア系ということから、ここではシエナのカタリナが有力だが、それだけでなく
アレクサンドリアのカタリナとの二重イメージも含まれるとすれば、そこには書き手が捕虜として、
あるいは帰国後の収監中に受けた「拷問」の隠喩があるのかもしれない。

またシエナのカタリナは死後にその頭部が故郷へと持ち帰られ、アレキサンドリアのカタリナは
遺体が天使によって故郷へと戻されている。
ここから本作の書き手は(中国か、あるいは帰国後に収監された刑務所で)既に死んでおり、
それを知らないままに故郷へと戻ってきたとも考えられる。
そうだとすれば、終の棲家として定めた小島の横穴は彼の墓所であり、胎内回帰の場所でもあるだろう。

さらに付け加えるなら、この物語に登場するピーター・パルミエリ(ピート・パーマー)には
「風来」でも取り上げられた「ピーターと狼」のイメージも重ねられている。
ピーターは町の人々に大声で「狼(ウルフ)が来た」と叫んでいるが、町の人々はそれに気づかないのだ。
ここに朝鮮戦争から還ってきた当時のウルフの姿を重ね合わせることは、決して不自然ではないだろう。

ここまで推論を巡らしてきた結果、ウルフがこの物語を書いた背景には、自らの従軍体験があるという
結論に至ったわけである。

しかし同時に、この物語はウルフと共に戦場へと赴き、ウルフのように還ってこられなかった
数多くの仲間たちを書いたものでもあると思う。
たぶんウルフは書き手のような境遇に至った兵士を個人的に、あるいは各種のメディアを通じて
知っていたのだろう。
そして自分がそうなったかもしれないという意味も込めて、「The Changeling」というタイトルの物語を
書いたのだと思う。
だからこの作品には、作品発表当時にベトナム戦争を巡って国を二分する議論が起きていた合衆国の世情と、
それとは対照的なまでに忘れ去られてしまった朝鮮戦争の記憶との間で引き裂かれた作者自身の自画像が、
生々しいまでに描き込まれていると感じるのだ。

先に短編集全体について書いた時、本作を「アメリカ文学における優れた現代小説」と紹介したのは
こうした理由による。
ひとつの国を巡る二つの戦争の物語として読むことにより、この作品はまた別の姿を見せるのだ。

ジーン・ウルフ「聖ブランドン」

2016年03月07日 | Wolfe
今回は『ジーン・ウルフの記念日の本』収録作のうち、個別の感想を書くとしたうちのひとつ
「聖ブランドン」を取り上げる。

収録作をアメリカにまつわる記念日に見立てて配置した『ジーン・ウルフの記念日の本』の中で、
アイルランドの聖人を称える「聖パトリックの日」にあてられたのが「聖ブランドン」である。
お話自体は本当に短い。アイルランド王の命を受けた聖ブランドンが猫とネズミと共に巨大な船に乗って、
地上の楽園にたどり着く。
そこで猫とネズミは互いに殺し合いを始め、聖人と天使がそれを見守るという話だ。
もちろん、このあらすじでは何一つ説明になっていない。
ウルフの書く物語は細部にこそ全体を解き明かす秘密が隠されているからだ。

もともとはウルフのファンタジー長編『ピース』の中で登場人物の一人がさりげなく話す劇中話で、
物語全体の中では小さな挿話として忘れられがちである。
しかし今回のように独立した短編として切り出されてみると、この短い話の中に多くの隠喩と
大きな世界についての物語が埋め込まれているのがはっきりわかる。
この作品だけを単独で訳したことにより、長編の流れとは無関係に短編としての内容をさらに
くっきりと表現できたのも、大きなプラス要因だろう。

以下に自分なりの解釈を書いておく。
毎度のごとくやや強引だが、こうした読み方もできるという一例としてお考えいただきたい。

まずブランドンたちが到着した場所について。
アイルランド出身の聖ブレンダンは祝福の地を探して世界を航海したという伝説があり、
中にはアメリカ大陸を発見したというものまである。
これが「聖ブランドン」の原型であるのは間違いないが、重要なのはそこではなく、
この短編が伝説の体裁を取ってアメリカ建国の歴史を語っているということだ。

その証拠となるのが、ブランドンの船のへさきがボストン湾に着いていると明かされている点である。
ボストン湾はメイフラワー号が到着したケープ・コッド湾を含めてマサチューセッツ湾を形成しており、
メイフラワー号の乗員が入植したプリマス植民地もこのエリアに含まれている。
そこで「遍歴の聖者」ブランドンを「ピルグリム・ファーザー」の暗喩ととらえると、
「猫とネズミを乗せてきた船」はメイフラワー号を意味するとわかる。
そしてこの船は「石」でできているとされているが、石(stone)を岩(rock)に読み替えると、
ジョン・ロックの社会契約論に基づきメイフラワー号の乗員が船上で結んだ誓約を指すとも読める。
またプリマスには、メイフラワー号の乗員が最初に踏んだとされる「プリマス・ロック」も存在する。

さて、石と契約とくれば、石板に刻まれた神との契約が連想される。いわゆる「モーセの十戒」だ。
ここでモーセのつづりを見ると、ラテン語ではMoysesあるいはMosesとなっている。
このつづりとよく似た単語としてmouseを挙げることで「揃って白鳥の翼のような白いあごひげを蓄え、
自分の背丈より長い杖に寄りかかっている」二人の老人のうち、聖ブランドンでないほうが何者なのか、
想像がつくというものだ。
そしてモーセはキリスト教徒ではなく、ユダヤ教における指導者であることを考えれば、
浜辺に十字架を立てた聖ブランドンがネズミの王を「異教徒」と呼んだのも納得できる。

ではこのネズミと戦う猫の精霊とは何者なのか。
一般的に海外のウルフ読者からは「キルケニーの猫」とされているが、犬の精霊(クー・シー)と
対比を成す点から、むしろケット・シーと見なすべきだろう。
さらに踏み込んでケット・シーを「ケイトの霊」と読み替えれば、ウルフが『新しい太陽の書』で
何度も取り上げた聖キャサリン(カタリナ)が思い浮かぶ。

車裂きの刑と斬首の故事で知られるアレクサンドリアの聖カタリナは、死後にその遺体が
天使によってシナイ山へと運ばれ、その地に聖カタリナ修道院が建てられた。
この修道院の図書館はバチカンに次ぐ数の写本類を収集しているとされ、これもまた
ウルフの興味を引きそうな点である。

なお、モーセが十戒を授かった場所がこのシナイ山であることは有名である。
そしてモーセが燃える柴の姿で現れた神によって示された「約束の地」こそ、
かつてカナンの地と呼ばれたイスラエル周辺の地域なのだ。

これらを総括して考えると「聖ブランドン」という作品は「分断された世界とそれをめぐる争いの歴史」を
一篇の寓話に凝縮した作品とも考えられる。
それはアメリカ合衆国が建国以来繰り返してきた戦いの歴史であり、数々の帝国が興亡を繰り返した後に
今もなお紛争の絶えない中東情勢とも重なるものである。
さらに言えば、人類の歴史とは入植と対立、そして戦争と分断の絶え間ない繰り返しでもあった。
つまり「聖ブランドン」とは、歴史の中で繰り返し引き裂かれ続けてきた様々な土地と人々についての
「小品(piece)」であり、今も模索され続ける「平和(peace)」に関する物語でもあるのだ。

この小品、しかも作中の短い挿話の中にこれだけの知識と含意を秘め、それをさりげなく
読者の前に差し出してみせるところに、ウルフの底知れない深みがある。
そして作品を通じて深みを覗き込み、そこに映る何かを見出すのが読者にとって喜びなのだ。

もし映ったのが自分自身の顔だとしても、その顔はきっと見慣れない容貌をしているはずである。

バラエティ豊かな名短編集『ジーン・ウルフの記念日の本』

2015年12月25日 | Wolfe
待望のジーン・ウルフ第2短編集が邦訳された。
連作長編のケルベロスや日本独自の編集でえり抜きの傑作を抱き合わせたデス博士に比べると
バラエティに富んだ内容で、難解な技巧派というウルフのイメージを覆すような作品も多い。
基本的には本人が楽しんで書くタイプだと思うので、読者もまずは想像力の広がりや屈折したユーモア、
言葉遊びのセンスなどを楽しむつもりで構えずに読めばいいだろう。

しかしウルフの作品に多少なりとも親しんでいるなら、この作家が繰り返し取り上げるモチーフや
テーマにこだわって読むこともできる。
何か引っかかりを感じたら、ネット検索などで情報を調べてみるのもいいと思う。
そこから得た知識によって読者自身が変貌を遂げ、結果として新たな物語を見出す可能性が生まれるからだ。
こうした読み方は小説の面白さとは別物との声もあるようだが、そもそも物語を読んで楽しむことに
ルールなどなく、各自が好きなように読めばいいと思う。
そしてウルフの作品には、多少の手間をかけてでも作品の奥底まで覗き込みたくなるような魅力、
あるいは魔力があるのだ。

「まえがき」
これ自体が著者による優れたガイドであり、また番外短編「返却期限日」を含んでいる。
まさか読み逃す人はいないと思うが、必ず目を通すこと。

「返却期限日」
ユーモア短編だが、図書館から本を借りっ放しの人にとっては一種のホラーでもある。
魔女的な存在感を発揮する図書館司書の女性が、文字通りチャーミングだ。

「鞭はいかにして復活したか」
本編の巻頭を飾る傑作。一読するといわゆる奇想系、奇妙な味の短編という趣きがあるが、
実はウルフが繰り返し書いてきた経済と道徳についての寓話でもある。
人道的、経済的な理屈で論じられる奴隷制の復活については、見かけとは別の理由があり、
ヒロインの妄想で出てくるブランド名がそれを示唆している。
またタイトルのwhipは票のまとめ役の意味も持つ、という解説の一文は本作を楽しむ上で
大変重要だが、ここで一考すべきはwhipが誰を指すかという点だろう。
そこに気づいたとき、物語の結末はがらりと様相を変える。実にウルフらしい仕掛けだ。
なお、赤と緑は投票の賛否を表す色であり、国連でもこの色によって採決を行う。
これはまた、カトリックの聖職者が身に着ける祭服の色でもある。

「継電器と薔薇」
タイトルはLily and Rose(百合と薔薇)のもじりだろう。
コンピュータを使用した世界的ネットワークとマッチングサービスは今や現実の話だが、
それらが転職や離婚といったアメリカ的文化を脅かすという展開が面白い。
主人公が呼び出された聴聞会は非米活動委員会と思われるが、アメリカ的な価値観を否定することが
そのまま反米活動とみなされるのが滑稽であり、また恐ろしくもある。

「ポールの樹上の家」
ウルフは子供だけに見える世界を何度も書いてきたが、ここでは大人の視点で世界を描いている。
米国で勃興するナチズムに無頓着な親たちは、テレビの画面を超えて徐々に迫りつつある暴力にも気づかない。
息子のポールだけが高い樹上に木造の砦を構えているが、これはアララト山頂に乗ったノアの方舟を思わせる。
「ポールは石を投げるが遠すぎて届かない」というくだりは「取り替え子」にもあるので、何らかの含みを
持たされているのかもしれない。

「聖ブランドン」
長編『ピース』の一部を成す、いわば物語内物語。
世界を巡った聖人の逸話に見せつつ、実はアメリカ移民にまつわる創作寓話という趣向なので、
「記念日の本」に収録されたのも納得できる。
登場人物がブレンダンではなくブランドンなのも、そうした意図を込めているのだろう。
単体で読んでも短編として十分な完成度を持ち、随所に仕掛けられた様々な象徴をつなぎ合わせると、
全く別の「ピース」に関する物語が見えてくる。

「ビューティランド」
これもまた、経済と道徳についての物語。土地や自然の私有とそれを金に替えることへの皮肉であり、
人間の底知れない残虐と横暴さが何をもたらすかについての警告でもある。
真実に「気づかない」「見ようとしない」というのも、ウルフが何度も書いてきたテーマである。

「カー・シニスター」
タイトルの意味は解説に書いてあるとおり。
さらに付け加えるなら、アメリカ自動車業界のビッグ3(GM、フォード、クライスラー)を
種牡馬の三大血統に見立てているのだろう。
実際にアメリカの自動車メーカーの多くはビッグ3を起源に持ち、盾の紋章で知られるキャデラックも
フォードの設立した会社がGM傘下へと収まった歴史を持つからだ。
しかし何よりユニークなのは、Automationを「自動車の交尾」と読み替えたウルフの言語感覚だと思う。

「ブルー・マウス」
青は国際連合のシンボルカラー。解説にも書かれているように、米軍在籍中のウルフは朝鮮戦争で
国連派遣軍の一員として戦っており、自伝的色彩が強い作品と思われる。
戦場で主人公が耳にするneverの音を、ウルフも実際に戦場で聞いたのかもしれない。
そして終戦後に帰国したアメリカで、彼は同じ音を別の意味で聞くことになる。
その成果として書かれたのが「取り替え子」だろう。
なお、この物語における国連は独立国家を否定して併合のための軍事介入を行っているようだ。
戦場がどこかは明記されていないが、この図式を朝鮮戦争における南北分断に当てはめると、
近未来で再び南北に分裂した合衆国が舞台とも考えられる。
その場合、主人公は五大湖のそばで生まれたと書いてあるので、北軍の所属ということになる。
彼らが勝ったあとに来る「色の浅黒い連中」とは、石油資本と結託したアラブ人を指しているのか。

「私はいかにして第二次世界大戦に破れ、それがドイツの侵攻を防ぐのに役立ったか」
第二次世界大戦が起きなかった世界における国際情勢の1コマを取り上げた作品。
表題をWorld War ⅡではなくSecond World Warとしたのは、架空史に対する作者のこだわりだろう。
戦車の開発史を自動車の開発競争に見立て、ある米国人が目にした各国による売り込み合戦の顛末を
史実を絶妙に交えながら描いている。
楽しい作品だが、科学技術の発展が軍事技術の開発と互恵関係にある点を皮肉ってもいるようだ。
なお、主人公のゲーム相手であるランズベリーを「太鼓腹」と読み替えれば、この人物のモデルは
フルシチョフであると推測できる。
二人の危険な火遊びが世界地図を丸焼けにしなかったのは幸運だった。

「養父」
SFらしさは薄く、現代社会で父親としての実感を持てない男の葛藤を素直に書いたようでもある。
団地を本棚、落書きのある扉を表紙に見立てると、登場人物があらかじめ用意された物語から飛び出して
新たな物語を作り始めるようにも思える。この開放感はよかった。
閉ざされた部屋から見つかる子供のイメージはイエスと重なるが、彼に特別な力があるわけではなさそうだ。
むしろウルフにとって、孤独な少年は常に特別な存在なのである。

「フォーレセン」
シュールなイメージの連続する不条理劇は、ディッシュなどの書いたニューウェーブ作品を思い出させる。
この手の作品の主人公は不条理な世界に対して反発し抵抗するのが定番だが、フォーレセンという人物は
大人の体に子供の意識が入り込んだようなキャラクターであり、この世界が異常だという感覚すら希薄である。
このアイデアが後に『ウィザード・ナイト』へと発展するのだろうか。
hourとour、plantとplanetのような言葉遊びが随所に見られそうだが、これは原文を読まないとわからない。
第一世代にアダムやエイブラハムの名があるので聖書にちなんだ読み解きもできそうだが、そうした憶測すら
最後の一節であっさりと打ち砕かれてしまう。

「狩猟に関する記事」
熊を人間と同様か、あるいは神聖な存在とみなす文化は世界中にあるそうだ。
人と獣の中間的存在をたびたび書いてきたウルフが取り上げるには、絶好の題材だろう。
熊の正体については解説で指摘されているが、書き手の文章のひどさは単なる無能では説明できず、
知性そのものに問題があるようにも思われる。
また関係者についても物忘れのひどさや粗暴ぶりが見られ、さらには穴にもぐったりマーキングをするなど
動物まがいの行動を取っていることから、この世界では化学物質に汚染された食品を日々摂取し続けた結果、
人類全体が知的退行を起こしている可能性が疑われる。

「取り替え子」
収録作中のベスト。これまで読んできたウルフの中短編でも五指に入るのではないか。
表題のChangelingには取り替え子の他に、捕虜交換や思想的な転向の意味も含まれている。
日常の中に陽炎のごとく立ち上がる幻想を描いたファンタジーであり、合衆国が抱える問題を
鋭く切り取ってみせた同時代文学の傑作でもある。
ピーターとは誰なのかを繰り返し考えることで、この作品の多面性に触れることができるだろう。

「住処多し」
動く住居という設定から、まずバーバ・ヤーガの民話を思い出した。
単性生殖世界が進んだ母星と成熟による変身を選んだ植民星、どちらの文化も奇妙すぎて唖然としてしまう。
ストレートなホラーSFでありつつ、一種のポスト・ヒューマニズムSFともいえそうだ。
ただし語り手が複数の上に話が細部で違っているので、どこまでが本当なのかわからない。

「ラファイエット飛行中隊よ、きょうは休戦だ」
フォッカー三葉機をこよなく愛する主人公が、塗料だけを除いて限りなくオリジナルに近い機体を完成させる。
骨董品のようなメカへの思い入れとその背後にある物語への愛着、空を飛び英雄の物語を演じることへの喜び、
そして思いがけない存在との出会い。
ウルフの中にいた孤独な少年が、ここでは大人として自らの夢を存分に謳歌しているのが実に清々しい。
また複製とオリジナルの関係も、ウルフが繰り返し書いてきたテーマのひとつだ。
塗料までオリジナルであれば事態は違ったかもしれない、と主人公は言う。
では彼が出会った娘は、果たして本物だったのか?
フォッカー三葉機を愛用しラファイエット中隊のライバルだった実在の人物は、レッド・バロンこと
マンフレート・フォン・リヒトホーフェンである。
それを模した機体の色を見た女性が、当時誕生したばかりのソフト・ドリンクのシンボルカラーを
赤く変更する原因になったのではないだろうか?

「三百万平方マイル」
合衆国には未知の土地が三百万平方マイルもある。そんな冗談めいた話がやがて強迫観念となり、
答えを求めてさまよい続ける男の物語。
日常から少しずつ外れていく人間の心理とその行き着く先の空虚さがいい。
これもSFというより、現代アメリカ文学として十分楽しめる。

「ツリー会戦」
ハイテク化されたおもちゃたちが、自分たちの生き残りを賭けて一夜の決戦に臨む。
実際の戦争にあるクリスマス休戦を逆手に取った作品だが、内容は幻想的でありながら
シリアスで強烈な印象を残す。
さしずめ残酷版「くまのプーさん」というところか。
結末の種明かしでは「デス博士の島その他の物語」の名文句「君だって同じなんだよ」が
まったく別の意味で響く。
その残響は後の「溶ける」で、また別の意味を伴って木霊する。

「ラ・べファーナ」
ベファーナはイタリアの魔女で、そのエピソードについては作中で語られるとおり。
隣家で生まれそうな子供は本当にイエスなのだろうか。異星人のゾズという名前にも
ジーザスの響きがあるので、あるいは彼こそがこの星に救いをもたらすのかもしれない。
その場合、支配者である人間はローマ人の立場に置かれることになる。

「溶ける」
溶けるといえば雪か氷だが、前者はコカイン、後者は覚せい剤の隠語でもある。
歴史と宇宙を股にかけた大晦日の乱痴気騒ぎが消え去ると、そこには孤独な日常と1冊の本がある。
そしてその本を読んでいた主人公も、雪や氷のように消える。
すべては戯れであり一夜の夢かもしれないが、それだけが人生の真実なのかもしれない。私にも、あなたにも。

なお、Book of Daysには暦の意味もあり、邦題候補として『ジーン・ウルフの暦』というのもあった。
現行のグレゴリオ暦は太陽暦であり、ユリウス暦を改良したことから新暦とも呼ばれることを考えると、
この作品集は短編により構成された『新しい太陽の書』の別バージョンであるとも言えるだろう。

収録作中で特に手ごたえを感じたのは「聖ブランドン」と「取り替え子」。
この二作については、改めて感想を書きたい。