ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「シモーヌ・ヴェイユ」20240507

2024-05-07 | 参照

 

 

──冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』2024年岩波現代文庫


「原始社会にあっては、狩猟や採魚のすべてをわきまえ、
みごとな手際で道具や武器をあやつる技能をもった一般大衆が、
ある種の要求をもちだす以外に能のあい人びとに、
唯々諾々としたがってきた。この特権的な人びと、それは祭司である。
……事物をあやつる人びとより言葉をあやつる人びとが優位を占める
というこの状況は、人間の歴史のあらゆる段階にみいだされる。
(Ⅱ‐1 68‐69)」

抑圧する者も抑圧される者も、ひとしく既存の秩序の維持に貢献している。
ひとしく外的な評価や価値観を内在化しているという事実によって。
人間が社会をつくるのではなく、社会が人間をつくるのであれば、
この閉じた連鎖をいかにして突破しうるのか。

「平和を生みだすのはこのぶっきらぼうな友愛である。
家族や恋人やある種の友人、さらには同じ宗教を奉ずる人びと……
をむすびつける愛着が平和を生むのではない。
これらの愛着はあまりに甘美な一致を育むので、
あらゆる争いの種となる」(Ⅱ‐2 91‐92)

他方、情緒的で甘美な特殊性は、仲間ではなく他者を自動的に生み出す。
この排除にもとづく社会的な絆が生むものは、自由と平等へと開かれた
友愛ではなく、拘束と序列をもたらす執着である。

この罪の浄化のメカニズムを理解するには、
懲罰と赦免の連関を考察せねばならない。
だれかに理由もなく殴られたら、即座に殴りかえすか、
それが立場上できないならば、ほかのもっと弱いだれかを殴りたくなる。
悪をこうむった者は、その悪を自分の外に放り出すまでは気がすまない。
外部とはすなわち、自分の意のままになる他者であり、
いわばゴミ箱としての世界全体である。
悪を撤廃するのではなく、悪を自分の存在の枠内から遺棄するだけであり、
悪の際限なき再生産に寄与するだけのふるまいを、
ヴェイユは「弁償行為」(『カイエ4』155‐158)と呼ぶ。

 

 

コメント

「直列を外す」20240506(20220903)

2024-05-06 | Weblog

 

 


意識はおくれて動きだす
けっして先行を許されない

気づけばラインは走り
世界は描かれ
世界の姿が告げられる

ことばを配置するよりはやく世界は現われ
世界を目撃し、世界にまみれ
情動に濡れて色めき立ち、火を灯される
 
この先行関係は動かすことができない

かたち、色あい 表情 肌ざわり
すききらい きれいきたない うそほんとう 

内と外を分割するようにラインは走り
価値あり価値なしの構成として世界の姿が描かれていく

インサイドとアウトサイド

心はいつも願っている
価値ありの内側にいることを

そうして、それだけではない
すべてのラインが消える位相がある

世界との連結がほどかれ
ラインが消え、引き直される変換点

世界が教えない、知ることのない
人間にだけ許された展開エリアがあって

自然のコードの外に設営された
はかなく壊れやすくも人間だけの空域がある

新たな世界が創発し、そこに姿を現わす
この特異な位相は〝自由〟と名づけられている

変換点を見逃せば世界と直列したまま生きるしかない
すべては不変のアルゴリズムに準じるように
自然が決めた連結コード、ラインの内側に収まることなる

      *

ラインが確定する価値の構成をほどいて
世界とからだの直列を外して自由の空隙へ

生成する世界の本質へ誘うように
透明な呪文が刻まれている

 somewhere in time

ラインが確定した世界像が描き直される
やわらかく開かれた巨大な展開域がある

 

 

コメント

「世界の二重性」 20240506

2024-05-06 | 参照

 

 

 

──竹田青嗣『新・哲学入門』2022年講談社新書


人間の世界は言語ゲームの世界であり、
各人はこうした固有の生世界を他者と交換しあっている。

この内的世界の相互的交換をとおして、
「主観から主観へとはたらきかける一種の作用」として、
すなわち一つの間主観的な信憑として、
客観的に存在する「同一の世界」なるものがすべての人間のうちに成立する。

実存的な価値と意味は、個々人の内的世界に現われる
対象に関連する固有の価値と意味として生成する。
しかしこの体験が普遍交換されることで、
対象の固有の(欲望相関的な)価値ー意味は、対象の一般価値-意味となる。

こうした事態のうちに、人間だけが、実存世界と客観世界という
世界の二重性を生き続けることの本質的な理由がある。

 

 

コメント

「生活世界」20240505

2024-05-05 | Weblog

 

 

なんらかの知(悟性・理性)が動くよりはやく
世界に感応し、欲望し、丸ごと世界にまみれて生きている

なんらかの判断が動くとき、つねに先行して
情動(喜怒哀楽)に色づいた世界が目撃されている

図式化すればこうなる
──「知」は「情」に先行できない

人間は知であるより先に感応として世界を生きている
この地平を〝母〟として〝子(ことば)〟は懐胎され分娩される

すべての知の生成は母なる地平の要請に由来する
したがって、知は知として自己完結できず
知の妥当性は必ずこの地平によって試されなければならない

(この要請から外れるとき知は暴走する)

知(ことば)を要請する人間が生きる根源的地平
この場所をフッサールは「生活世界」と呼んだ

 

 

コメント

「妄想の用法」20240504(20211007)

2024-05-04 | Weblog

                        Martin Hurkens - You Raise me Up  (youtube.com)

 

 

わかりあえる水準でわかりあう
その先の先がある──

そんなことはどうでもいい
そう考えても許されることがあると思う

会いたい場所がある
そこで会えたらいい

コメント

「ことば」20240503(20211228)

2024-05-03 | Weblog

 

 

 

原則は極めてシンプルだ

使う、使われるのではない
したり顔で教唆するバカ面に使われるな

たしかな理由がある

真理へアクセスするためではない
地べたに貼り付くためではない
高みに舞い上がって嘲笑うためではない

ブリッジする

あれもこれも、どいつもこいつも
そのまんまの姿で糸を通す

薄っぺらとか濃厚とか
田吾作の戯れ言に誑かされるなよ

ただそれだけのために使い倒す
使われるなよ、ことばに

ひとまず離脱しよう、

使われ倒されるまえに
死んだ正解の集積場、拡大教室を

 

 

コメント

「〝正しい読み〟という神話」20240502

2024-05-02 | 参照

 

 

──竹田青嗣『新・哲学入門』2022年、講談社現代新書


しかし現実の言語体験の本質洞察からは、そもそもそうした「意」と
その正しい「了解」という関係の構造自体が存在しない
(つまり「客観-主観」という構図自体が廃棄されるべき誤謬である)。

現実言語の本質洞察が明らかにするのは、発語(テクスト)と
その了解の間の関係にはそもそも「正しい受け取り」(一致)
ということ自体がありえないこと、つまり、
そこには正しい了解の「不可能性」(断絶)があるのではなく、
むしろただ、「信憑関係」だけが存在するということである。

どんな発語であれ、受語主体がそれを何らかの発語者の「意」の表現として
受け取り、その「信憑」が成立するかぎりで、言語ゲームは成り立つ。

テクスト(作品)を読むという現実体験の本質洞察は、
われわれにつぎのことを教える。
「作家」は論理的には「死-不在」である。
しかし読み手は、作品に向き合うとき、暗黙のうちに「作家」、
つまり作品創造の源泉を想定している。すなわち、作品から動かされるとは、
そこで創作者の作品的偉力についての不可疑の信憑が成立しているということだからだ。

 

 

コメント

「百姓の息子」20240501(20211129)

2024-05-01 | Weblog

 

 


耕せる荒地を見つけて鍬を入れる

瘦せた土地でも育つ植物はいる
土を起こし堆肥を混ぜ水を引く

鍬の入れ方は知っている
入れ方は未熟でも
見よう見真似で覚えている

潜んだ豊饒の種子が芽吹くように
自然の文法にかなう仕事の作法がある

汗を流し、握り飯とタクアンで昼飯を喰らう
畦道に蝶が舞う春の光景は今も鮮やかだ

 

 

コメント

「サークル言語」20240430

2024-04-30 | Weblog

 

すべてはサークルの円周内に着地する
わきあいあい、あうんの連帯、いいねいいねのポッチボタン
この共感呪術の外へ走るルートはどこにも見当たらない

(共通の見下げた敵がいるらしい)

むかし「田吾作」と呼んだ古典的蔑称の用法がよみがえる

 

 

 

 

コメント

「インターミッション」20240430

2024-04-30 | Weblog

                                                                            Alan Walker - Sing Me To Sleep (Lyrics) (youtube.com)

 

 Wait a second, let me catch my breath 
           ──Alan Walker


隙間なく埋まったことばの包囲をほどくように
日常のスコアに休止符を書き入れ
展開コードとの直列を一時解除して
魂が息つぎするフリースペースを開く

このスペースは相互に与え合うことができる

 

 

コメント

「糸を通す@Soccer」20240429(20230922)

2024-04-29 | Weblog

 

 

考えるまでもないプレーの流儀がある

点と点、線と線、場所と場所
感情と感情、意志と意志、
イメージとイメージ、ひとりとひとり

此岸と彼岸、隔絶の谷を無力化するように
すべてをブリッジして展開する

(涙の谷と呼んだのは誰か)

モチーフは一貫している
「かくありき」から「かくありうる」へ

かつて何であり、いま何であるか、その先に
何でありうるかという問いがつねに接続される

ピッチの状況、局面の自明性を蹴破り
予期のエロスを生身で具現化して展開する

(自明性に溺れて嘆くヒマはない)

エピソードとエピソードをつなぎ合わせ
エピソードの集合から新たな視覚を紡ぎ出す

敵も味方も知らない、考えもしないルートがある

新たな展開の地平を切りひらくように
隔絶の谷に糸を通して血を通わせる

正確無比なキックとイメージの二重作動に担われ
奇跡の航跡を描いて未踏の連結ルートが開かれる

サッカーは楽しい、そして美しい

ありえないゲームのエロスを見せつけるように
諦念に沈んだ生を嘲笑うようにプレーするプレーヤーがいる

 

 

コメント

「知的倒錯」20240427

2024-04-28 | Weblog

 

 

知の獲得と展開をみちびく推進力の基底にあるのは、
「無知=罪」といった宗教倫理的な外的規定が示す当為(なすべし)ではなく、
より美しいもの、より善きもの、より生を沸き立たせるもの、
より普遍的な価値のもとで生を享受したいという始原的な生の意志である。

この主権的意志は、集合的な関係項群(正義・客観・真理)に先行を許すとき、
つまり、集合的に確定された関係項群から逆算して生きるとき、
みずから主権的展開を放棄して自滅のルートに入るだけではなく、
先行する集合知の独善と専制支配に承認を与えることを意味する。

(あらゆる社会体が歴史的に築き上げる知の階梯)

こうした心的機制は関係世界ではありふれたものだとしても、
主権的主体として生きることを望むかぎり、
知の始発点をひとりの生の意志の場所に置き直す作業が要る。

 

 

コメント

「プラトニズム」20240427

2024-04-27 | Weblog

 

 

波と波が出会い、交わり、合成波が生まれ
美しい波形を描く新たな体験流を構成する

夢、ロマン、憧れ、希望が最後に手にしたいものがそれ?
うん、たぶんそうだと思うな
そして俺たちはその手前で足踏みするようにして生きている

 

 

 

コメント

「返信」20240426(20220216)

2024-04-26 | Weblog

 

 


おつかれさま(^-^)v 

そのつど、適切なやり方を考えて対応する
くらいのスタンスが疲れなくていいかも、と思いました
今回の田代さんのようにね(^^)v

前提を固定すると、適切に情報が抽出できず、結論の幅を狭めてしまう
限られたサンプル数に基づいて結論を急ぎ過ぎないようにする

そんなことかな、真の科学者のマインド😃

「反証可能性」(ポパー)
このことばには言い足すべきことがあると思う

つまり、だれでも検証可能なように立論の根拠を明らかにしておく
そうして反証に開かれ、修正に開かれているようにする
立論を鍛えたいなら、そうすべき作法があるのだと思います

取り急ぎ、チャオ


p.s.
以前に話した「とっつぁん理論」の話と通じます
世の中に溢れるものです。世界中に、といえるかもしれない。
老若、男女、左右、とか関係なく。独断独善、こいつがガンです。
みずから修正へ向かうためのオープンスペースが消えている。
だれがというわけではなく、デフォルト化した思考のパターンね。

 

 

コメント

「われ欲す、自己中心性」20230523

2024-04-25 | 参照

 

 

 

───竹田青嗣『言語的思考へ』径書房、2001年

 自我の問題を思想的に本格的に考察した最初の人はヘーゲルである。

 彼によれば、人間の意識はつねにこの「自我」の本質を貫徹する。
 ようするに、人間はどこまでも「自我」の自己中心性を保持する。
 しかしそのような存在でありつつ、人間は社会的存在となりうる可能性の条件をもっている。
 このようなヘーゲルの人間観は、それまでの近代哲学の人間観を決定的に踏み破るものだった。

 デカルトやカントでは、人間の本質は「理性」にあり、
 「理性」の本質は自己中心性を超え出ることなのである。
 ここでは人間は自己中心性と、社会性や道徳性は和解しがたい対立を構成する。

 ヘーゲルの視線はこれを180度転換している。
 「自我」の本質は自己中心性を貫徹することであるが、それにもかかわらず、
 人間は社会性や道徳性を実現していく存在である。
 したがって、社会性や道徳性の境位から自己中心性を批判するという仕方ではなく、
 「自我」の自己中心的本質が、その内的な原理のうちで
 いかに社会性や倫理性を生み出していくか、を考察すべきなのである。
 『精神現象学』はそのような課題を見事に果たしている。

 

 

コメント