おつかれさま(^-^)v
そのつど、適切なやり方を考えて対応する
くらいのスタンスが疲れなくていいかも、と思いました
今回の田代さんのようにね(^^)v
前提を固定すると、適切に情報が抽出できず、結論の幅を狭めてしまう
限られたサンプル数に基づいて結論を急ぎ過ぎないようにする
そんなことかな、真の科学者のマインド😃
「反証可能性」(ポパー)
このことばには言い足すべきことがあると思う
つまり、だれでも検証可能なように立論の根拠を明らかにしておく
そうして反証に開かれ、修正に開かれているようにする
立論を鍛えたいなら、そうすべき作法があるのだと思います
取り急ぎ、チャオ
p.s.
以前に話した「とっつぁん理論」の話と通じます
世の中に溢れるものです。世界中に、といえるかもしれない。
老若、男女、左右、とか関係なく。独断独善、こいつがガンです。
みずから修正へ向かうためのオープンスペースが消えている。
だれがというわけではなく、デフォルト化した思考のパターンね。
───竹田青嗣『言語的思考へ』径書房、2001年
自我の問題を思想的に本格的に考察した最初の人はヘーゲルである。
彼によれば、人間の意識はつねにこの「自我」の本質を貫徹する。
ようするに、人間はどこまでも「自我」の自己中心性を保持する。
しかしそのような存在でありつつ、人間は社会的存在となりうる可能性の条件をもっている。
このようなヘーゲルの人間観は、それまでの近代哲学の人間観を決定的に踏み破るものだった。
デカルトやカントでは、人間の本質は「理性」にあり、
「理性」の本質は自己中心性を超え出ることなのである。
ここでは人間は自己中心性と、社会性や道徳性は和解しがたい対立を構成する。
ヘーゲルの視線はこれを180度転換している。
「自我」の本質は自己中心性を貫徹することであるが、それにもかかわらず、
人間は社会性や道徳性を実現していく存在である。
したがって、社会性や道徳性の境位から自己中心性を批判するという仕方ではなく、
「自我」の自己中心的本質が、その内的な原理のうちで
いかに社会性や倫理性を生み出していくか、を考察すべきなのである。
『精神現象学』はそのような課題を見事に果たしている。
どう受け取ればいいのかわからない
理解のフレームに収めることができない
ひねり潰してなかったことにはできない
だからわからないわからなさのままに
一切加工を加えず手もとに置いて確保する
そのためのスペースはたっぷり空けてある
鮮度をそのままに保つ保管庫に入れる
なぜそうするのか?
そうするちゃんとした理由はある
理解のキャパを拡張する資源として使う
時間が熟して、いつか取り出してそうする日のために
We weave our strand into a network of relations.
What comes of it we never know.
We all need to be able to say:
Lord forgive them, for they know not what they do.
That is true of all action.
Simply and concretely true, because one cannot know.
That's what is meant by a venture.
I'd say this venture is only possible when there is a trust in mankind.
A trust which is hard to formulate.
But one which is fundamental.
A trust in what is human in all people.
Otherwise such a venture is impossible.
──Hannah Arendt(Interview,1964)
すべてを見通す視線はどこにも存在しない
どんな記述にも外がある
そして、そのことについて
配慮する心と忘れて生きる心がある
*
映画を観て「一週間立ち直れなかった」と娘は語った
それ以上の会話はなかった、それでおしまいだった
おれも同じだ、それ以上だと告げることもできた
絶対にそう告げるべきだった
取り戻せない時間が教える
大切ななにかと優先された別のなにか、その関係について
自明性に浸されたまま生きること、そして
自明性の破れに開かれていることについて
賢明であるつもりが愚かの極みでもあるうる
逆立ちした心のかまえについて
Nor did they desire what came later.
それでもつけ加えておくべきことがある
つねに展開に開かれた信頼と試行について
Simon & Garfunkel - Bridge Over Troubled Water (youtube.com)
ただ一つの通路、からだ
からだから出ていく
からだから入ってくる
ただ一つのエントランス
すべてが経由するターミナル
出入りのたびにスイッチが入り
数えきれないシグナルが点滅する
かなしい
うれしい
くやしい
たのしい
くるしい
点滅しながら勝手に動き回り、入り乱れ
乱流をつくり、呑み込まれ、手に負えなくなる
手に負えないものを手に負えるものしたい
乱流の向こう側へ橋を架けたい
向こう側って?
こんな歌があった
Like a bridge over the troubled water
I will lay me down
特別なシグナルが聴こえてきた
この歌そのものが向こう側だってね
ある能力(知)を獲得することは、その能力が導く行為や帰結において
成功と同時に失敗(エラー)の可能性を手にすることを意味する
能力が巨大であるほど、成功も失敗も巨大ものになる。
この両義性は、個人にも集団にも当てはまるだろう
つねにまちがう可能性、可誤性、可謬性は排除することはできない。
この認識の下、適切な展開のルートが示され、審議され、合意されなければならない
合意と承認の地平、そこが相互の可誤性が問われ、修正へ向かう基点となる
単純に、共生や共和に資する貢献をめざそう、とは言えない
第一に、共生や共和の本質が問われ、明らかにされなければならない
誰かの不幸を導かない幸いというものがあればいい
しかし、第一の起点に「われ欲す」があること
ひとりひとりの「われ欲す」(主権的主体)の展開を殺す思想に未来はない
倫理、道徳、なんらかの要請や命令が先行すれば危うさを孕むものになる。
「善きこと」と「幸い」は必ずしも一致しない。
倫理や道徳が先行すれば、原理的に、ふたつは互いに遠ざかるにちがいない
「善きこと」(と信じたこと)の強行が別の誰かや集団の「不幸」を導く
矛盾や分断や対立を生み出し、相互の荒廃、惨劇を招く歴史が生きられてきた
この歴史の繰り返しの可能性を孕んだ今があることに敏感であること
先行的に立てられた理想、理念、他者、超越項への従属や拝跪ではない
われ欲す、みずからそうありたいと願う、その延長上において
合意された地平を見出し、そこで相互に思考を突き合わせ鍛え合いながら
つねに修正に開かれた、ルサンチマンの発生しない生き方、連結コードがある
Chopin: Nocturne No. 8 , Op. 27, No. 2 - Ingrid Fliter (youtube.com)
命令も指示も要請も指一本触れることはできない
すべてにわたって波形が動いていくまま
水面に描かれる波紋のままにたたずめばいい
ことばがみずからに命じることばの作法がある
経験が経験として失われなように
けっして作為の指紋を当てて乱してはならない
Chopin: Nocturne , Op. 32, No. 2 - Ingrid Fliter (youtube.com)
人間は運命のなかにみずから失ったものを感得するので、
運命は失われた生への憧憬を呼び起こす。
この憧憬は生の喪失の感情であって、失われたものを生として、
かつて生に親しみ深かったものとして認知するからである。
この認知はそれだけですでに生の享受である。
(ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』細谷・岡崎訳)
*
光、二酸化炭素、水を混ぜあわせて生きる糧を蓄える
植物が日々そうして生きるように
自然の作法にかなったヒトのいとなみがある
詩人のことばを借りればこうなる
ふたつの光源「有機交流電燈」として出会い、照らしあい
光と光が混ざりあってカクテル光が生まれ、それが新たな光源になる
うつくしさ、かなしみ、よろこび、あこがれが交流する第三のエリア
ひとつの光ではかなわない生の経験を享受へとつくり変えるもの
汲み尽くせない享受の糧を生み出すヒトがする光合成のいとなみがある
もっとも対峙するに値する他者の発見者、早熟の詩人
「ぼくは一人の他者です」(アルチュール・ランボー)
知はおのれの非知的作動の全域を覆うことはできない、無意識の発見
「水面上に意識を浮かべる氷山としての自己の全体性」(ジークムント・フロイト)
ラディカルに方法化された文学的アバンギャルド
「おまえの敵はおまえだ」(石川淳)
もう少し洗練された柔らかな自然体、21世紀的展開
「自分をサンプルと考えています」(大谷翔平)
自己との対話を基礎として社会体へ向かう対話的連結装置、自己
「思考=一者にして二者 two in one」(ハンナ・アレント)
絶えざる自己記述、関係記述、世界記述の更新的展開本質
「自己意識の無限性、すなわち対象記述の無限性」(ヘーゲル)
関係欲望が駆動する関係のゲーム、関係世界をつくる関係本質
「私たちは交流的存在 communal existenceであります」(サリヴァン)
私たちが観察するべきは、個人ではなく、
人間が互いに何を取り交わしているかであります。
互いに取り交わすものを、互いにどうやってコミュニケートしているか、
と言い換えてもいいでしょう。
それが完了すれば、個性というものが永遠不滅でも
唯一無二でもないと明らかに明らかになるはずです。
私たちは皆、対人関係の数と同じだけ人格の数を持ちます。
(ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』阿部大樹編訳)
関係企投と関係記述(多重記述)から創発する世界の生成的本質
And relationship is always a product of double description.(G.Bateson)
そして関係とは常に、二重記述の産物である。
相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼だと言ってよい。
それぞれが単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作る。
この両眼視覚こそが関係なのである。
この発想に立つことは、大きな進歩である。
関係とは、一個の人間の中に内在するものではない。
一個の人間を取り出して、その人間の〝依存〟だとか〝攻撃性〟だとか
〝プライド〟だとか云々しても、なんの意味もない
これらの語はみな人間同士で起こることに根ざしているものであって、
何か個人が内にもっているものに根ざしているのではない。
(ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳)
ひとりの経験を流産へみちびく関係のアポリア、親和空間の重力
「ひそかな〝発酵〟が起こらなくなる」(中井久夫)
ともすれば実際、治療者は、同情者(本人への過剰同一化)となるか、
親の立場と同一化するか、「わけ知りオジサン」になるか、
このいずれかになり果てる危険が大きい。(「思春期患者とその治療者」)
人に話すとみるみる楽になる。しかし、それは心の中であたため反応させて
しかるべきものを水に流したからで、いわば当然なのだ。
(「精神科医からみた学校精神衛生」)
知るといういとなみは、友達がいてもいなくても
基本的には独りですることである(「君たちに伝えたいこと」)
──村澤真保呂・村澤和多里『中井久夫との対話』
中井の生命観を比喩的に述べるなら、
「さまざまなリズムをもつ旋律が絡みあいながら奏でる音楽」として示すことができる。
「人間の心身は、おそらくチャールズ河よりもさらに複雑であろう。
外からも内からもリズムや乱流が発生し合う」と述べている。
そして人間の場合「心理的リズムにこれ(生理的リズム)が加わり、
さらに社会的リズムが巨大な力を行使する」ために複雑さが加わるという。
船さえ沈めてしまような合成波……
発熱や体調の不良などは、システムの不調のサインであるとともに、
システムを制御する内的装置が正常に作動した証拠でもある。
「回復過程の中には加速できない過程、加速してはならない過程がある」
……そのような複合的なプロセスにおいては
「進行速度は、いちばん遅い素過程によって決まる」と考えてよい。
これを中井は「律速過程」という。
No. 1 in E Minor, Op. 11 - I. Allegro maestoso (youtube.com)
No. 1 in E Minor, Op. 11 - II. Romance. Larghetto (youtube.com)
獰猛な世界が優勝劣敗を競いあう圏外
目的意識が敷いたラインを消し去り
占有の夢を燃やし尽くしたあと
ひとりの場所に帰還して座席につく
二百年前、疾風怒濤、革命とロマンの時代
ポーランドの二十歳に創発した音楽を聴く
Chopin ,Lang Lang Estudio No 3, dur Op10 Tristesse (youtube.com)
語らなくていいことを語り
語ってはならないことを語り
語らせてはならないことを語らせるように語り
(けっして願ったことではなくとも)
ある必然に導かれたように
最後にわかれの挨拶を交わす
唯一つ残されたギフト、tristesse
わかれを引きかえに手にしたそれが教える
逃れようもなくそれがそのように現象する
自らの検索が及ばない自ら耕した地平を生きていることを
記憶の総体は生き物であって、
絶えず個々の成分の比重を変えている。
現在に生きることが過去の重みを変える。
──中井久夫『徴候・記憶・外傷』115
忘れたくなくても忘れることがある
忘れたくても忘れることができないことがある
内なる〝記憶係り〟のいとなみは意識の希望を斟酌しない
ある記憶の一角をきれいに消去できればどうなるのか
この仮構された空白の展開をたしかめるすべはない
記憶係りは絶えまなく経験を編集しつづけている
ときどき編みながら編み直すかのように
召喚を命じて、突然こみ上げることもある
一つだけ明らかなことがある
編集作業に直接手を入れて操作することはできない
ただ新しい経験のアイテムが書き加わえられるとき
記憶の全体は意味と配列をみずから変化させていく
「イヤな感じする」
存在がさらわれていく
浮き上がりもって行かれる
収束点へ向かうように
有無をいわせず引きずりこまれていく
求心性の獰猛なちからが支配している
身を委ねると終わってしまう
「ちがう」
この感覚がからだに走るとき
そうではないちからが点滅している
この感覚は見過ごされることがある
求心力が強く圧倒的であるほどかき消されていく
この圏域は一つの中心によって構成されている
絶対化した価値コードがそこに居座っている
これが世界、オマエの姿、この世の掟
新たな書き込みと展開を禁じ、すべてを吸い寄せ
有無を云わせず存在のかたちを教唆し確定していく
一つの中心に向かって収束させる獰猛な重力圏
圧倒的な重力の構成は善意でも悪意でもありうる
つまり、その本質は絶対化した価値において共通する
「ふざけるな」
この感覚が走るときはじめて、俺たちはみずからの展開本質
根源的な生の意志、この圏域の外へ向かう遠心性のちからに出会っている