つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

中国風信26劉暁波の死と強まる圧力(『粉体技術』9-10号より転載)

2017-09-30 06:52:39 | 日記
 この夏の中国関係の大きなニュースに、劉暁波の訃報があった。周知のように、劉氏は2010年のノーベル平和賞を受賞したが、獄中にあって授賞式に出席できず、そのまま解放されることなく亡くなってしまったのだ。
 劉曉波は、文化大革命が終わって様々な言論が活気づいた1980年代にさっそうと登場し、「黒馬(ダークホース)」と呼ばれた若手評論家だった。89年春の民主化運動の際、滞在先の米国から戻って運動に参加し、政府が戒厳令を敷くとハンストで抗議した。戦車が天安門広場に向かった6月4日未明には、当局と交渉して、学生を説得して広場から退去させた「四君子」と呼ばれた4人の若手知識人の一人である。(誤解されることが多いが、このような経緯で、天安門広場では軍が進入してきた時には学生は退去していたので、虐殺はなかった。多くの殺戮があったのは、その途上である。)
 その後、運動に参加した多くの人々が国外に逃れる中で、劉曉波は中国に留まり、何度か逮捕拘留・労働教養を経験しながら民主化運動を続けた。中国の批判的知識人は、一般に新左派と新自由主義派とに大別されるが、劉曉波は全面的な西欧的近代化を唱える新自由主義派の代表の一人だった。その主張には全面的に賛成しなくても、国内で言論活動を続ける劉氏の態度に敬服する人は少なくなかったと思われる。
 21世紀に入って、中国が経済発展の軌道に乗り暮らしが豊かになりつつあった2008年12月、劉曉波ら303人の知識人は、人権の保障・憲政の実現などを訴える「零八憲章」をネット上で発表し、多くの賛同者を得た。しかしこれを警戒した当局は起草者の中心であった劉氏を逮捕し、裁判の結果、国家政権転覆扇動罪による懲役11年の判決を受けて服役することになった。ノーベル賞が授けられたのはその年のことだった。
 あの頃、中国政府はまだ「零八憲章」のような言説を大っぴらに容認はしなくても、2004年に修正された憲法には人権の語も明記されたし、徐々に社会に自由が広がっているように思えた。裁判の際の劉暁波の「私には敵はいない」と題された最後の陳述も、「中国の政治の進歩は止められない。監獄の看守たちの態度も以前よりずっと人間的になった。私は将来の中国が、人権を至上とする法治国家になることを期待する」と将来への期待を述べていた。私なども、2020年に彼が出獄する頃には、中国はより自由で民主的な社会に近づいているのではないかと、期待していた。
 しかし習近平政権になってから、事態は明白に逆の方向に向かい、締め付けが厳しくなった。この夏の上海出張中にも、あちこちでそのような兆候が感じられた。たとえば、答案館(文書館)での資料調査に、中国の研究機関からの紹介状が必要になっていたし、社会科学院では門番が訪ねてくる人を誰何して名前や用件の登録を求めていた(所内の友人と約束している、というと書かずに済んだが)。いずれも社会主義時代には普通だったが、いつからか--たぶん世紀の変わり目の頃に--なくなっていたものだ。これらは上からの指示に従ってやっている形を整えているもので、研究自体を明白に制限しているものではない。とはいえ、面倒くさく鬱陶しいことは間違いなく、政権はそのようにして管理と統制の力を見せつけることに意義を感じているのだろう。現地の歴史研究者の友人は、研究することにはあまり問題なくても、「微妙」な点にふれる内容のものを発表するのは難しくなっている、という。
 豊かになれば社会は自由になるとは限らないことを、しみじみ感じざるをえない昨今の中国である。
(写真は、ノーベル賞授賞式の座る人のいない劉暁波の椅子)

中国風信14 中国の乗物-高速鉄道など(『粉体技術』7-4、2015.4より転載)

2017-09-19 01:21:28 | 日記
 今年の中国風信は本の紹介のシリーズにしようと思っていたのだが、春の出張で乗った高速鉄道が印象的だったので、今回は乗物の話にしよう。
 中国の高速鉄道、略して高鉄(ガオティエ)は、2007年に運行開始した新幹線型の和諧号などで、現在では中国大陸を縦横に路線が走っており、今後もどんどん拡大される予定である。
 2010年夏、半年前に開通したばかりの武漢-広州線の一部、長沙-岳陽間に乗った時、高速鉄道に肝を抜かれる思いがした。新しい巨大な高鉄専用の長沙南駅には、ほぼ10分ごとに和諧号が発着して、そのどれもに多くの人が乗り降りしていた。一編成で千人以上の人を運べるのだから、すごい輸送量だ。平行して在来線やバスも走っているのだが、どうやら高鉄は割高でもたくさんの乗客を集めているらしい。武漢-広州線は中国南部の人々の出稼ぎルートでもあるが、よりよい生活を求めて出稼ぎに行く人たちは、新奇で近代的な乗り物に積極的に稼ぎを投じるのかと思った。
 2013年夏には、岳陽-上海間を6時間で移動した。これは、まず岳陽東-武漢215㎞を南北の武漢-広州線の一部で北上し、ついで東西約850㎞の武漢-上海線に入るのだが、列車を乗り換える必要のない直通だ。1991年に上海から岳陽の150㎞先の長沙まで27時間かかったことを思い出して隔世の観がした。車両は新幹線の普通車に似た二等車と、グリーン車のような一等車で、最近はビジネスシートのある車両もある。各車両では速度計が現在速度を示しているが、おおむね300㎞/hが基準のようだ。
 今回は、上海-南京間約300㎞を高鉄で移動した。この区間は毎日100本も走っており、上海虹橋空港を降りて地下鉄で隣の上海虹橋駅から南京南駅まで、最速便は67分である。印象的なのは、上海虹橋駅に切符の自動販売機が何十台も設置されていて、みなほとんど待たずに買っていたことだ。もっとも私は、切符購入に必要なパスポート提示のために窓口に並ぶしかなかったが、自動販売機にIDカード読み取り装置が付いているので、中国人は機械で簡単に切符が買えるのだ。
 高速鉄道は建設に巨大な利権を伴うので、鉄道大臣が汚職で摘発されるなどの問題が起こったが、それでも急速に拡大しているのと違って、失敗と言えるだろう乗り物は、リニアモーターカーだ。上海郊外の地下鉄終点から浦東国際空港までのリニアモーターカーは、計画より大幅に遅れて2003年に開業した。世界最速の営業速度430㎞/hで約30㎞を7分20秒で結ぶ。これには一回だけ乗ってみたが、速度計が一瞬400㎞/hを超すのを楽しむ観光用の乗物という感じだった。その後地下鉄が空港まで延びたので、ほとんど使われなくなるのではなかろうか。
 昨夏、北京大学にいた時、周りの先生たちは、最近は上海へは飛行機より高速鉄道で行くことが多い、と言っていた。2011年開業の北京-上海間1300㎞余の高速鉄道は約5時間、飛行機なら2時間だが、空港までが遠いし、天候だけでなく政治的軍事的理由で遅れることがしばしばあるので、高鉄の方が確実だという。切符は一等で933元、二等で553元で、飛行機は買い方によるがそれよりやや高い感じか。少し前まで北京-上海は寝台で十数時間かかるので飛行機を使うことが多かったのとはずいぶん様変わりした。
 2011年7月に高速鉄道が温州付近で衝突事故を起こして40人の犠牲者を出したことは、まだ記憶に新しい。だからといって高鉄の拡大はとどまるところはないようで、すっかり暮らしに根づいた観がある。たしかに相当に便利で快適なので、安全に運行されることを期待したい。

南京南駅にて


ずっとブログに更新をさぼっていたのを再開しました。
まずは、この間も『粉体技術』誌に二か月ごとに連載してきた「中国風信」の転載を約二年分。これで(同内容のブログを書いたもの以外)たまった転載は終わったので、次からは新しいものを掲載したらすぐ、転載します。
それ以外の記事も、書けるときには書いていこうと思っています。

中国風信15 中国メディアの現場は何を伝えようとしているか―女性キャスターの苦悩と挑戦(『粉体技術』7-6、2015.6より転載

2017-09-19 01:06:31 | 日記
 今回は、中国の2013年のベストセラーの訳書柴静『中国メディアの現場は何を伝えようとしているか―女性キャスターの苦悩と挑戦-』(鈴木将久等訳、平凡社、2014年)を紹介する。
 著者柴静(チャイ・ジン)は、中国では知らぬ人のない中国中央テレビ局の人気キャスターで、「東方時空」「新聞調査」等のニュース番組で、SARS治療の現場や土地問題の不正、さらには子どもの連続自殺事件など、社会的関心の高いテーマの真相を取材し、報道してきた。本書は、1976年生まれの若いメディア人である彼女の仕事の記録である。
 2003年春、北京ではSARSが猛威を振るい始め、患者の隔離が広がっていた。柴静と同僚は自己責任で危険を引き受けて病院へ行く。医師たちが不充分な装備で懸命に患者を救おうと努力する様子を、感染の危険におびえながら、記者として「私は知らなければならない」と取材し続けた。医療者の何人かは感染して犠牲になった。涙なしではいられない現場を伝えた彼女は「SARSの病室に入った記者」として知られることになった。
 中国中央テレビ局は党と政府の宣伝機関としての体制内メディアの性格を持っている。とはいえそこから送られるのは完全に統制された当局に都合のいいニュースばかりともいえない。なかには一定の独自性を持つ部門があり、そこには柴静のような記者としての使命感をもち理想主義を追求する人々がいる。彼らはしばしば圧力も受けるが、ならば受けた圧力そのものを記録して事態を理解しよういうしたたかさで真実を追求してゆく。
 2007年、絶滅したとされる河南トラが陝西省で発見されたというニュースが伝えられた。柴静のチームは、トラの写真を撮影した農民や、それを本物だと認定した林業局の責任者や、トラの生存を認定した学者などに取材した。それぞれ長時間におよぶ取材の中で、偽の写真が撮られ、それが本物とされ、トラの実在が信じられていく、科学的精神の欠如とトラの実在にからむ利権の構造があぶりだされてゆく。
 2008年の四川大地震の時には、臨時避難所から帰宅する一組の夫婦に同行した。小学校に行っていた彼らの息子は犠牲になった。山深い自宅に戻ると、家は崩壊しており、地震後はじめて自分の家の様子を見た夫婦は呆然と立ち尽くす。カメラも呆然とするしかない。この夫婦にインタビューなどできずに、チームはただ付き添うのを許してもらって、ときにカメラを回し、夫婦が話したくなれば聞き、現地で生活を共にした。チームは翌年も、三年目も現地を再訪する。「記者」とは「記憶すること」(中国語で同音)なのだから。
 柴静たちは、事件があるとまず現場に飛んでゆく。そして当事者たちに寄り添いつつ率直にインタビューし、時間をかけて共感をつないで、その人物を浮かびあがらせる番組を作ってゆく。この本を読むと、中国のメディアの中に、使命感をもって取材し自身の思考と感性に基づいて報道する人々が育っていることがわかる。それはもはや官制メディアの域を大きく超えている。
 著者柴静には後日談ないしは近日談がある。出版後、彼女は中央テレビ局を退いたが、ベストセラーの出版で得た私費を投じて、仲間とPM2.5による大気汚染の調査報告に関するビデオ「丸天井の下で」を作成した。これを今年(2015年)2月28日にネット上で公開するとすぐに大きな関心を呼び、短期間に多数の視聴を得て、環境大臣等から賞賛された一方で、多くの批判も受けた。賛否両論が渦巻く中、このビデオは全国人民代表大会開幕直後の3月5日から中国国内で視ることができなくなり、それが話題になって、その後また視聴可能になったという。中国での報道の自由をめぐるせめぎあいはいまだ予断を許さないが、柴静ら真摯なメディア関係者の活動を注目してゆきたい。

中国風信17 社会人のための現代中国講義-各分野の専門家が読み解く中国の深層(『粉体技術』7-10、2015.10より転載)

2017-09-19 00:57:19 | 日記
 今回紹介する高原明生・丸川知雄・伊藤亜聖編『東大塾 社会人のための現代中国講義』(東京大学出版会、2014年)は、東京大学の教員を中心とした講師陣による社会人を対象とした連続講義の記録である。現代中国の諸側面を、それぞれの分野の専門家がその歴史的背景や中国社会のメカニズムから説き起こし、最先端の研究成果がわかりやすくまとめられている。
 まず高原明生「政治 国家体制と中国共産党」は、中国理解のポイントである政治の中心、中国共産党を論じる。中国政治への見方として、制度を理解すればわかるという考えと、権力闘争で動いているという見方とがあるが、両者の真ん中あたりに真実がある。共産党への不満があれば、人びとは「散歩」(デモのこと)に出て意見表明するが、全体として「共産党の平和(パックス=コミュニスタ)」はもうしばらく続くだろうと、高原は述べる。
 平野聡「民族 『中華民族』の国家と少数民族問題」は、20世紀初め以来の「単一民族的な多民族国家」をつくる運動としての「中華民族」運動の虚実を、チベットなどの少数民族の歴史を踏まえて述べ、近年の観光開発が少数民族問題を悪化させている、と論じる。
一方、村田雄二郎「ナショナリズム 中華民族の虚と実」は、漢族知識人の側が、民族国家の主体としての中華民族を創出するために展開してきた論争をたどる。現在も、豊かになれば民族問題はなくなるという意見と、少数民族への支援をなくせば格差が拡大するという意見が併存している。
川島真「外交 歴史と現在」によると、そもそも「中国」という言葉が使われ始めたのは100年ほど前に近代国家としての主権が意識されてからであり、その前は明、清などの王朝があるだけだった。その際に「本来の中国」の範囲を、漢族居住地域とするものと、少数民族地域を含む清朝の版図とするものとがあったが、後者が中国と考えられるようになってゆき、それを取り戻す国権回収が中国近代の課題となっていった。
 丸川知雄「ミクロ経済 国家資本主義と大衆資本主義」は、中国での国有企業のプレゼンスは年々下がっており、一方で活発な大衆による起業が大きな国内需要向けに行われているという。ゲリラ携帯電話産業に、徹底した分業で少額の資本の企業がどんどん参入している様子からかいま見える中国企業のダイナミズムは興味深い。
 高見澤麿「法 中国法の仕組みと役立ち方」は、法治よりも人治の国といわれる中国で、どのような法があり(たくさんあって時に互いに矛盾する)、どのように機能しているのか/いないのか、を丁寧に解説する。政策が法源のひとつとなった事情、裁判官の独立は原理的にない、など独自の中国法の世界を知ることができる。
 園田茂人「社会の変化 和諧社会実現の理想と現実」は、社会調査の結果から、格差はひろがっていても党・政府に対する不満は高まってはいない、多くの人は昔より暮らしが好くなったと思っているし、政府のリーダーたちへの信頼度も高い、したがって中国崩壊論は当たらない、とする。
 阿古智子「公民社会 民主化の行方」は、インターネット上のソーシャルメディアで世論が作られる現状を見る。党や政府も市民運動家もネット上の言論空間を主戦場と考えて、人びとの気持ちを掴めるキーワードを出すことにしのぎを削る。党や政府は情報コントロールをめざすが完全にはできず、ネットは弱者の武器ともなっている。
 日本の中国研究は厚い蓄積を持ち、中国社会を内在的な論理から理解する能力に長けている。その成果を共有するのに役立つ一冊である。

中国風信18 「一人っ子政策」の廃止(『粉体技術』7-12、2015.12より転載)

2017-09-19 00:47:54 | 日記
 2015年10月、中国の「一人っ子政策」が廃止される、というニュースが伝えられた。「一人っ子政策」については以前も書いたことがあるが(2013年6月号)、再度、論じてみよう。
 中国では1979年以来、「一組の夫婦に子供一人」が基本とされてきたが、前にも述べたように、もっと生んでもよい場合が種々規定されていた。近年は合計特殊出生率が1.6人程度という少子高齢化の中で規定も緩和され、昨年には、夫婦のどちらかが一人っ子なら二人の子供が持てるようになっていた。今回、中国共産党中央委員会は全ての夫婦が子供を二人生んでよい、と決定した。とはいえ今後、自由に子供が持てるようになるというわけではない。中国では規定に従って計画出産を行うことは憲法に明記される公民の義務であり、それは当分の間、変わりそうにない。
 日本の感覚からすると、一人であれ二人であれ、子供の数を政府が決めること自体が異様に思えるし、これは国際的なコンセンサスとなっているリプロダクティブ・ライツ(生と生殖に関する自己決定権)の一般的な考え方からも受け容れがたい。中国でも、最近はそのように考えて計画出産に反対する人も出てきたが、一般的には、政府が子供の数を決めることは空気のように当たり前になっていて、問題はもっぱら、許される数が何人かをめぐるものであった。筆者は何度も中国で「日本では子供は何人まで生んでいい規定なのか」と聞かれて、「日本では政府が子供の数を決めることはない。自由に生んでいい」と答えては、驚かれた経験がある。このような感覚は、「一人っ子政策」より前から始まっていた中国の計画出産の中で生まれてきたものである。
 中国の計画出産は、はやくも1950年代後半に始まっている。当時、長く続いた戦乱が終わって中華人民共和国が成立し、ベビーブームが起きた。予想外の人口増に対して、産児制限を政策的に普及させ始めたことは、その少し前の日本の家族計画の導入とよく似ている。しかし日本では1950年代に家族計画が全国的に普及して出生率が急速に下がったのと異なって、中国では広大な農村にバースコントロールを普及させるのは容易でない上、何度も政策が変わった。「大躍進」政策とその失敗や文化大革命による中断を経て、ようやく本格的に計画出産が推進されるようになったのは1970年代である。すでに上海などの都市部では出生率は相当低くなっていたが、農村部を含む全国で子供二人を提唱する計画出産が強力に推進された結果、70年代の十年間で、中国の合計特殊出生率は五人台から二人台へと急落した。
 広大な農村を含む中国全国でこのように急速な出生率の低下が実現したのは、医療と一体化した社会主義の行政システムによって計画出産が推進されたからだ。近代的なバースコントロールなど知らなかった農村の女性にとって、それは多くの子供を生む義務からの解放という側面もあった。こうして政府が生殖に介入することが常態となった基盤の上に、ベビーブーマーたちが生殖年齢に突入する80年代の急激な人口増を抑えるため、1979年から「一人っ子政策」が始まったのだ。
 80年代、強制力を伴う「一人っ子政策」は、女児や女児を産んだ女性への虐待、強制的な妊娠中絶などの多くの悲劇を生み、政府は強い反対に逢って規定を緩めながらも断固として出産統制を行う姿勢は崩さなかった。90年代前半にもより強力に計画出産は推進された。中国経済が離陸した90年代後半、ようやく出生率は低位安定するようになり、計画出産をめぐる衝突もやや収まった。21世紀に入って、人口学者は早くから全面的な子供二人政策への移行を提言していたが、今まで実現しなかったのには、計画出産に関わる組織や利権が巨大化しているという事情などもあったろう。
 生と生殖の自己決定権は人類共通の目標だが、その実現へのルートは多様である。中国は中国の道を辿って、その歩みを進めているのだろう。

中国風信19 ネオ・チャイナ―野望の時代(『粉体技術』8-2、2016.2より転載)

2017-09-19 00:24:38 | 日記
 エヴァン・オズノス著『ネオ・チャイナ-富、真実、心のよりどころを求める13億人の野望』(笠井亮平訳、白水社、2015年)は、北京在住のアメリカ人ジャーナリストが多様な中国人にインタビューして激動する中国社会を描き出したノンフィクションである。著者オズノスは、2005年から8年間、『シカゴ・トリビューン』『ニューヨーカー』の特派員として中国に滞在し、帰国後の2014年に出版された原著Age of Ambition, Farrar Straus and Giroux, New Yorkは全米図書賞を受賞した。
 「情熱」と「独裁主義」が衝突している21世紀の中国では、共産党は史上最大規模で人類の潜在力を解放した。その中で世界を切り開こうとする男女は、新興の大富豪から反体制の活動家、大物政治家から市井の労働者まで、多様な男女に著者はインタビューする。なかには、後に獄中でノーベル平和賞を受賞した民主運動家の劉暁波(リュウ・シャオポー)や、汚職で失脚・逮捕された元重慶市書記の薄熙来(ポー。シーライ)、「80后」(パーリンホウ、80年代生れ)の流行作家でカーレーサーやブロガーとしても活躍する韓寒(ハン・ハン)など、著名人も少なくない。
 「富」を求めて成功した一人に、湖南省の農家の娘だった龔海燕(コン・ハイイェン)がいる。70年代生まれの彼女は、親の世代のように「われわれ」ではなく「わたし」を主語に考える。高校を中退して広東のパナソニック工場で働いたが、そのままでは人生が拓けないと復学し、大学さらには大学院に進学した。しかし自分の人生には恋愛が欠けていると感じて、結婚相手を探すサイトを立ち上げてビジネスを始めた。「佳縁」と名づけたサイトは、7年目には5600万人の会員を抱える中国最大のオンラインマッチングサイトとなった。運命に従うことは時代遅れで、顧客に選択肢を提供することが自分の使命だと、龔海燕は思っている。いまや中国人も、選択の自由を持つようになったのだ。
 独裁体制の下で「真実」を追求する人々の間で、『財経』誌の編集長・胡舒立(フー・シューリー)は、中国における表現の自由を見極めてぎりぎりの報道をすることで知られている。文化大革命の頃、紅衛兵だった彼女は下放して農村で過ごした後、復活した大学入試を突破して記者として働き始め、天安門事件を報じるべきだと主張して停職になる。後に、政財界とのコネクションを利用して数々のスクープをものにし、出資者をえて『財経』を創設した。四川大地震の時、多くの子どもを死なせた校舎の倒壊問題を報じることを当局は禁じたが、『財経』誌は公的資金の使途を監視するという角度から取り上げて詳しい特集記事を掲載した。彼女は自身の役割を「体制という木をまっすくに伸ばしていくためのキツツキ」だと自認している。
 一方、若者の中には「憤青(フェンチン)」と呼ばれる怒れる愛国青年もいる。チベット騒乱への弾圧に世界が抗議する中、中国の名誉を守るために彼らは立ち上がった(自由と民主主義を要求するためにではなく)。復旦大学の大学院生だった28歳の唐傑(タン・チエ)がインターネットに投稿した自作の愛国的動画「2008年、中国よ、立ち上がるのだ!」は、10日間で100万回以上再生されて、「憤青」のマニュフェストとなった。彼は、世界はいまだ中国に疑いのまなざしを向けているのが我慢ならず、中国の見解を代弁しようとしたのだ。21世紀の中国の若者には、天安門事件についても政府の見方を受け入れているものが多く、「民主主義がなくても快適な生活を送れるとしたら、民主主義を選ぶ理由はあるのでしょうか?」と問うスタンフォード大学への留学生もいる。
 国際的に有名なアーティストの艾未未(アイ・ウェイウェイ)は、今という時代は国家の介入なし「民衆が個人の表現の自由を享受できる、この千年で手にした初めてのチャンス」だと、さまざまな方法での表現を試みつつ、政府との微妙な駆け引きを続けている。いすれにせよ、政府を擁護するにも批判するにも、インターネットを駆使することは必須だ。
 多くのインタビューを通して著者の描く中国は、一筋縄ではいかない多様性と深みを持ち、万華鏡のように他用で、多くの矛盾を抱えている。

中国風信20 中国人は皆、自己主張が強い?(『粉体技術』8-4、2016.4より転載)

2017-09-19 00:09:31 | 日記
 昨年出た松原邦久著『チャイナハラスメント-中国にむしられる日本企業』(新潮新書)が、たいそう面白い。著者は自動車メーカー・スズキの中国との合弁会社の責任者として現地に長年駐在し、中国の発展に貢献した外国人として国家友誼奨も受賞した。同書は、中国でビジネスを展開する際に、如何に中国側が(日本人にとっての)非常識や無理難題を言うものであり、それに著者はどう対応してきたかを具体的に述べている。
 ここで紹介される「約束違反を自慢し、平気でウソをつく経営者」や「誠意ある対応をするとつけあがる」、「『すみません』と言ったら負け」などの例は、なかなかにリアルでえげつない。著者はその背景として、すべての人民に法律が平等に適用されるわけではなく、問題が起きれば交渉で解決するしかない社会であることを指摘する。法が自分を守ってくれない社会では、自分が属するグループに頼るしかなく、それを「内組織」という。「内組織」の中では、「人を騙してはいけない」とか「約束を守る」といった倫理が通用するが、それ以外の「外組織」に対してはこうした倫理は通用せず、ウソをつくのも交渉のうちだ。そして日本人ビジネスマンはいうまでもなく「外組織」の人間だから、騙して利益を得ても、騙される方が悪いということになるだけなのだ。
 それは、「法治」がなくて「人治」で動く中国社会とも表現できそうだし、筆者ら歴史学者が研究してきた伝統中国社会の特徴とも通じる。
 ビジネスの世界は利益を追求するのが目的であり、そのために駆け引きや自己主張をするのは当然だろう。なので、これから中国で仕事をしようというビジネスマンは、この本を熟読吟味して、彼らと渡り合う覚悟を充分固めて赴任されることをお勧めする。
 とはいえ、すべての中国人が、日本人は与しやすいから出来るだけむしり取ってやろう、と考えているわけではないと、筆者は思っている。
 ある研究は、日本社会から逃れられなくなった留学生の次のような言葉を紹介する。「日本では裕福ではなくても、真面目に、勉強し、仕事をすると、尊敬を受けて、安定した生活ができます。・・・中国ではあり得ません。皆、自分だけがよければいいと思っている。日本社会にいると、なんていうか、シルクでくるまれているような安心感があるんです。」(牧野篤「酒田短期大学、閉校す-日中留学生交流秘史」、『日中関係史1972-2012Ⅲ社会・文化』所収)彼らは日本社会の安心感を「まったり」と表現したりする。
 また、筆者の知人の中国人留学生は、日本へ来た理由をこう語った。「自分は他人と競争して人を蹴落としたり出来る性格ではない。それで、日本のことをよく知っていた父から、そんな性格では中国では生きていけないから日本へ行くとよい、と勧められた」と。彼女は名門大学院出身のとても優秀な人だが、現在は日本に定住している。
 これらのエピソードからわかるのは、中国社会は日本社会より競争が激しいことは確かだが、そのことに息苦しさを感じる中国人も少なからず存在する、ということだ。
 中国人にも(日本人と同じく)、自己主張の強い人もいれば、そうでない人もいる。どちらかというと争いごとは好まない人の方が多いと思うが、どの社会でも声の大きい人が目立つのは致し方ない。しかも中国では権利は主張しないと存在しなくなるので、必要な場面で自己主張することは、全ての人が学習せざるを得ない。
 しかしながら、生活者としての中国人が皆いつもそのような世界で生きているわけではなく、日本のような社会を好む人も多いのだ。近年、中国から日本への観光客が激増し、リピーターも増えているというが、「まったり」した日本社会への憧れが広まっているのではないかと、筆者は感じている。

中国風信21 寧波の旅(『粉体技術』8-6, 2016.6より転載)

2017-09-18 00:50:11 | 日記
 春の出張の際、上海を起点に浙江省南部の沿海都市である寧波・温州の調査に足を延ばした。短い訪問だったが、大変印象深い街だった。まず、寧波の様子から。
 寧波は、上海の少し南、浙江省の沿海都市である。古くは宋代以来ながく日本との貿易拠点で、アヘン戦争後、上海などとともに最初に欧米に対して開かれた都市のひとつでもある。山がちの土地からは多くの人が出稼ぎに出て、20世紀前半には上海にたくさんの移民を出し、当時の上海財閥の主流は寧波商人だった。
 私は寧波は25年ぶりで、前回、改革開放の初期に訪れた時には、中心部にも高層ビルなどほとんどない古びた雰囲気の街だった。清代の蔵書楼である天一閣で文化的伝統を感じたり、郊外にある蔣介石の故郷・渓口で風光明媚な山間の景色を楽しんだりした。
 25年ぶりの今回は、上海から高速鉄道で二時間で、ずいぶん簡単に行けるようになった。寧波の街は、北からくる余姚江と南からくる奉化江が合流して甬江となって東海に向かう地点を中心に発達している。合流点は三江口と呼ばれ、昔も今も街の中心だ。西側は以前は城壁で囲まれた古い県城で、旧城内には天一閣や土地の神様を祭る城隍廟、時を知らせた鼓楼などがあり、城外の江に臨んで金融業者のギルド・ホールであった銭業会館がある。江を挟んだ東側には、商船業者の慶安会館があり、近代以前は両者が寧波の経済を握って世界に絹や陶磁器などの江南の商品を送り出していた。余姚江と甬江に挟まれた北側は、近代の対欧米開港後に外国人居住区として作られた租界があったところで、老外灘と呼ばれる川岸は、今も夜遅くまで若者が集まるにぎやかな場所になっている。現在、三江口のあたりは高層ビルの林立する経済・金融の中心地で、歴史上何度目かの寧波の発展を象徴する場所になっている。
 以上のような寧波の街の構造を上海と似ている、と思われる読者もあるだろうが、寧波人に言わせると、上海の方が寧波に似て発達したのだ、ということになるのだろう。
 春の温かい時期で、街のあちこちでは桜がきれいに咲いていた。1970年代の日本との国交回復後の日中友好ブームの頃に植えた樹が、根付いて花をつけているのだ。
 銭業会館の近くにある寧波教育博物館という小さな博物館を参観した。1844年にキリスト教の宣教師によって開校された中国で初めての女学校・甬江女中の建物を改造したこの博物館は、充実した展示がこの地域の文化の伝統を伝える場所だ。昨年、大村智博士とともにノーベル医学賞を受賞した屠呦呦(Tu Yaoyao)博士も寧波の出身だということで、専用コーナーで展示があった。彼女はこの地域の上層家庭で育った人で、活躍の背景には地域の文化的伝統があることがわかる。蔣介石も地元出身の著名な人士として紹介されていた。寧波では、中国共産党のライバルであった国民政府総統の蔣介石の評価は必ずしも悪いものではないようだ。
 寧波や温州など浙江省南部はキリスト教の根づいた土地で、立派な教会があちこちで目につく。大都市の目立つ場所だけでなく、山間部でも、村はずれに寺廟だけでなく教会が建っていることも多い。聞き取りをした老人も、さりげなくカトリックだったりして、「この辺はアヘン戦争以前からキリスト教の広まっていた土地だから」という。人民共和国成立前には、貧しい子供が通える学校は、無料の教会付属のものだけだった。しかし現在の教会は、ほとんどが改革開放後に新たに建てたものだという。

三江口の風景

中国風信22 温州への旅ー永嘉学派の故郷を訪ねて(『粉体技術』8-8,2016.8より転載)

2017-09-18 00:22:45 | 日記
 前回の寧波に続いて、この春に訪ねた浙江省南部の沿海都市・温州(ウェンチョウ)と近郊の様子を紹介しよう。 温州は、浙江省の最南部、福建省に近い瓯江 (オウジアン)の 河口にある人口300万人の大都会で、上海から高速鉄道で3時間、寧波からなら1時間で着く。浙江 省南部から福建にかけては、平地が少なく山がちで、古くから人々は外へ出かけて生計を立て、たくましい温州商人が育ってきた。たしかに高速鉄道の駅から古い温州駅前のホテルまでの道にも、両側から山の迫る場所もあり、土地は狭い。
 温州というと、がめつい商売をする温州商人の イメージがまず思い浮かぶ。少し前には、不動産 売買に進出し、中国各地でマンションを買い漁っては転売して巨利を手にする温州商人が名をとどろかせた。一方、歴史家にとっては、宋代に理財の学を集大成した永嘉(えいか)学派の拠点として、温州は文化の蓄積の厚い土地という印象がある。
 最初の日は、温州図書館で資料調査をした。図 書館は、7階建てでの新しいビルで、私達の目指す地方文献部は最上階でひっそりと専門家を待っていた。ここの地方文献部は、浙江省温州地域の地方志などを集めているが、それらは水準が高いものが多く、コレクションは充実していた。
 翌日は、温州市の北方、永嘉(ヨンジア)県の碧蓮(ピーリェン)鎮へインタビューに出かけた。永嘉県政府のある街は、温州から車で一時間弱の山間にある。片側4車線の広い道路や10階建てはあろうかと思われる堂々たる県政府ビルは、県下の人口が100万人を超えることを考えれば、納得である。さらに山間の道を一時間あまり行くと、目指す碧蓮鎮に着いた。ぽかぽかと暖かい春の日だったことも手伝ってか、町のたたずまいは、大変明るくて楽し気だ。ここに住む93歳の元教員を訪ねたのだ。

温州地区永嘉県碧蓮鎮の街なみ


 インタビュー場所は彼の自宅近くの八角亭という路地脇のあずまやだった。ふだんは地域の老人たちの集まる場所になっているようで、麻雀牌やトランプや蝋燭の並んだ祭壇などが置かれている。 インタビューしていると近所の年配の人々も集 まってきて、記憶が曖昧なところを補ってくれた。彼の子供たちはみな外へ出て、老夫婦の二人暮らしだが、近所の人たちに囲まれて落ち着いた晩年を送っているようだ。印象的だったのは、中華人民共和国成立後、もっとも大変だったことは何か、という問いへの、1958~60年の大飢饉の時期に食べ物がなかったことだ、という答えで、同じ話は他の人からも聞いた。この山間の町では、働き盛りの人たちの多くは外へ出て、他にも老人ばかりの「空の巣」の家庭は多そうだが、多くは豊かになった現在の暮らしに満足しているように見えた。
 聞き取りを終わって、アレンジをしてくれたXさんが、このあたりは風景が素晴らしいから、駆け足でも見ていけ、といって楠溪江(ナンシージアン)の風致地区に車を走らせてくれた。50元の入場料と書いてあるが、Xさんは「昔はタダで見ていたのに、去年から金をとるようになった。でも地元民だから構わない」と知り合いの管理人に話をつけてくれて、無料で入ることができた。アメリカのヨセミテ公 園を思わせる奇岩が屹立し、間を滝が落ちる風景は絶景だ。山や深い緑の渓谷に、菜の花や桃の花が映えて美しい。中国の観光地によくあるごみごみした感じのしない、再訪したくなる場所だった。 温州の人たちが都会から逃れて週末にやってくる 観光地として、現在、開発が進んでいるという。 生活の質を追求するようになった中国の富裕層を ターゲットにした観光開発は、各地で進められているが、豊かな温州商人の故郷では、他に先駆けて質の追求がなされているようだ。

永嘉県の楠溪江風致地区

中国風信23 歩平先生の逝去を悼むー日中の歴史認識の相互理解を求めて(『粉体技術』8-10, 2016.10より転載)

2017-09-18 00:13:54 | 日記
 今年(2016年)の終戦記念の日、歩平先生が前日8月14日に亡くなったというニュースに接した。中国社会科学院近代史研究所の所長であった歩平先生は、一般にはなじみが薄いかもしれないが、私たち歴史研究者の間では知られた人だ。日中関係史を専門とし、日中戦争をめぐる歴史認識についての両国間の相互理解を深めるべく、大きな力を注いでこられた。ご逝去は本当に残念である。
 歩平先生に初めてお会いしたのは、2001年に新潟で開かれた「東北アジア歴史像の共有を求めてⅡ」シンポジウムだったと記憶する。当時、黒竜江省社会科学院におられた先生は、「21世紀に向けての日中関係と歴史認識」という報告の中で、自身の“相互理解”に関する経験を話された。
 1948年生まれの歩平先生は、日本軍による重慶大空襲で親しい友人を亡くした父の話など、子供のころから日本が中国を侵略した残酷さを聞いて育ち、“日本の鬼”のイメージを強く持っていた。
 1986年に初めて日本を訪れた時、日本各地に広島や長崎の原爆被害を追悼する施設があるのを見て、鬼のような人々がなぜそのように自分の被害を強調するのかわからず、中国人として感情の上で受け入れにくかった。1994年に広島の原爆資料館を見学した時、絶対多数の被害者が直接戦争に参加していない女性や子供であることを知り、彼らが血まみれになって廃墟の中をもがいている姿に震撼した。とくに印象深かったのは、被爆した学生が遺した黒く焼け焦げた弁当箱で、天真爛漫に通学路を歩いていた子供たちが見えるように感じた。また、瀬戸内の大久野島の旅館で、かつて広島の被爆者の救護活動に参加した友人から当時の人々の苦難を聞き、戦争と平和の問題を明け方まで飲みつつ話した。その時から、日本各地で被爆者が追悼される理由がわかりはじめ、自分も手を合わせて追悼の念を表すようになった。
 日本人の戦争での被害について、多くの中国人はそれを知らず、自分も原爆資料館を見学したり多くの日本人と交流したりしなかったら、日本国民の戦争被害の感情を理解できなかったろう。
 同様に多くの日本人は、中国人の戦争における被害を深く理解することはできないし、中国人の戦争の被害者としての認識や感情がわからない。中国人と日本人は異なる社会環境になって、互いの歴史認識に大きな相違がある。この意味で、重要なことは相互理解である、と。
 大柄な先生が、訥々とした日本語で、ゆっくりと話されたこの報告に、私は強い印象を受けた。その後、2004年に歩平先生は北京の社会科学院に移って近代史研究所長の要職に就かれた。2006年、安倍総理と胡錦濤主席との会談で日中歴史共同研究の開始が合意され、その年の暮れに共同研究はスタートする。中国側委員会の座長は歩平先生で、その学識と人柄から、日中間の歴史認識の溝の縮小をめざすこの仕事に、もっともふさわしい人選だと思えた。
 日中歴史共同研究委員会は、三年の間、時に厳しく対立しながらも精力的に会合を重ねて意見を交換し、2010年1月に報告書を提出し、2014年に公刊されている。それによると、共同研究は終始真剣、率直で友好的雰囲気の中で進められ、両国の研究者は、学術的かつ冷静、客観的に討論し、討論や論争を進める中で相互理解を深めて、「たとえ相手の意見に賛成できなくとも、相手がそう考えるのはある程度理解できる」という学術研究領域の段階に達した。この意味で日中歴史共同研究は大きな成功をおさめ、今後の日中の相互理解の促進に建設的な意義があった、という。
歩平先生が、「私の名前は、ほ・へいと言います。ほは歩く、へいは兵隊の兵ではなくて、平和の平です」とおっしゃっていたの思い出す。謹んでご冥福をお祈りしたい。

【北岡伸一・歩平編『「日中歴史共同研究」報告書1・2』