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『トレーニングデイ』(映画メモ)



『トレーニングデイ』(2001年、アントワーン・フークア監督)

以前観たのだが、やはりすごい迫力だった。

街のお巡りさんだった若手警官ジェイク(イーサン・ホーク)が、希望に胸を膨らませ、麻薬取締課へ移動した初日、ベテラン刑事アロンソ(デンゼル・ワシントン)に手ほどきを受ける物語。

1回目に観たときには気づかなかったが、ジェイク役がイーサン・ホークであることがわかりビックリ(若い!)。

アロンソは、いわゆる「悪徳刑事」で、「これくらいやらないと麻薬取締役は務まらん!」とジェイクをしごきまくる。いや、後半は「しごき」を超えてしまい、大変なことに・・・

とにかくハラハラドキドキで見ごたえ満点の映画だった。

本作で印象に残ったのは2点。

アロンソは、悪徳弁護士、悪徳検事、悪徳警官とネットワークを作って「もたれあい」の中で仕事をしていたこと。そうした仲間がいると、善悪の区別がつかなくなるのだろう。

それと、ジェイクがギャングに殺されそうになるのだけれど、ある正義の行いによって助かる場面がある。やはり、筋を通すと後から良いことがあるのだ。

警察にかぎらず、「これくらいいいだろ」と思ってルールを破ると、だんだん取り返しのつかないことになる、と感じた。
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人が語る言葉にいちいち心を留めるな

人が語る言葉にいちいち心を留めるな
(コヘレトの言葉7章21節)

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『ソクラテスの思い出』(読書メモ)

クセノフォン(相澤康隆訳)『ソクラテスの思い出』光文社古典新訳文庫

著作を残さなかったソクラテスがどのような人物で、どのような思想を持っていたのか、という問いは「ソクラテス問題」と呼ばれる(p. 349-350)。

その有力な証言が、弟子プラトンと、歴史家で軍人のクセノフォンだという。

神々を信じず、若者たちを堕落させた罪で死刑になったソクラテスだが、本書は「そんなことはない」ということを伝えようとて書かれたもの。

印象に残ったのは「神を信じる心」と「学び」の大切さ。

「ソクラテスは、人が言ったことも、行ったことも、ひそかに計画していることも、神々は何もかもご存じであり、あらゆるところに居合わせ、人間に関わりのある一切の事柄について人々にしるしを与えてくださる、と考えていたのだった」(p. 26)

そして大事なのは、神が命じたことを、全力で行い奉仕することである。

神々自身がお命じになるとおりに行うよりも、もっと立派に、もっと敬神的に神々を敬う方法がどうしてありえようか。ただし、手を抜いて己の力を下回るようなことは決してあってはならない。なぜなら、誰かがそのようにするときには、その人が神々を敬っていないことはどう見ても明らかなのだから。それゆえ、己の力を余すことなく神々を敬い、自信をもって、最大の恵みを期待することだ」(p. 289-290)

自分の力を発揮して、やるべきことをやることが神を敬う最善の方法ということになる。

本書を通してソクラテスが強調しているのが「学習と練習」の必要性。

「この世で徳と呼ばれるものは、すべて学習と練習によってますます大きくなるのだよ」(p. 147)

「生まれつきの性質がどうあれ、学習と練習によって勇気は増すと私は考える」(p. 217)

「求めずして何か欲しいものに行き当たることが幸運だと思うのに対して、何かを学習しかつ練習することによってうまくなし遂げることが成功だと考えるからだ」(p. 223-224)

「もっとも素質に恵まれ、魂の不屈さと手がけたことを成し遂げる力において抜きんでた人は、教育を受け、なすべきことを学べば、もっとも優秀でもっとも有益な人間になる」(p. 256)

ただし、忘れてはいけないのは「己を知る」ということ。

「己を知っている人々は、自分に向いていることを知っていて、自分にできることとできないことを見分ける」(p. 273)

まとめると、「神の導きにしたがい」「自分の力を知り」「学習や練習を怠らず」「全力で奉仕せよ」ということだろう。

「ソクラテス=ちょっと意地悪なオジサン」という印象を持っていたが、本書を読み、ポジティブなイメージに変わった。




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だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる
(ルカによる福音書18章14節)

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『サウスポー』(映画メモ)

『サウスポー』(2015年、アントワン・フークア監督)

期待していなかったが、かなり良かった。

施設出身の世界チャンピオン、ビリー(ジェイク・ギレンホール)は、打たせて勝つスタイルのボクサー。

彼を心配し、サポートしてきた妻モーリーン(レイチェル・マクアダムス)が亡くなると、転落の人生が始まる。

試合で反則→ライセンスはく奪→自宅を失い、薬物中毒→娘も施設に入れられて離れ離れ・・・

そんなどん底状態で、ビリーは、街のボクシングジムを運営する教え上手のトレーナー、ティック(フォレスト・ウィテカー)の指導を受けることに。

ここから彼は、これまでの人生の考え方やボクシングスタイルを変えて、新しい道を歩んでいくのだが、まさにアンラーニング物語なのだ。

途中で観るのを止めようかと思ったが、続けて観てよかった。
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神に従う人の唇は多くの人を養う

神に従う人の唇は多くの人を養う
(箴言10章21節)

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『道徳形而上学の基礎づけ』(読書メモ)

カント(中山元訳)『道徳形而上学の基礎づけ』光文社古典新訳文庫

カントが書いた本は初めて読むが、感動した。

まず、善について。

「善い意志が<善い>ものであるかどうかは、それがどんな働きをするか、それがどんな結果をもたらすかによって決まるのではないし、何らかの定められた目的を実現するのに適しているかどうかによって決まるのでもない。善い意志はそれが意欲されることによって、すなわちそれだけで善いものである」(p. 32)

結果ではなく、「思い」が重要になるのだ。次の箇所にもグッときた。

「とにかく運が悪くて、あるいは自然が[意地の悪い]継母のようにごくわずかな天分しか与えなかったために、この[善い]意志にはその意図するものを実現するための能力がまったく欠けていたとしても、さらにこの意志ができるだけ努力したにもかかわらず、何も実現できなかったとしても、あるいはこの意志がたんなる願望のようなものではなく、わたしたちが利用できるすべての手段を尽くしたにもかかわらず、[何も実現されずに、ただ]善い意志だけが残っているような場合でも、善い意志はあたかも宝石のように、そのすべての価値をみずからのうちに蔵するものとして、ひとり燦然と輝くのである」(p. 32-33)

「行為の本質的な善を作りだすのは、その人の心構えであって、その結果がどうであるかは問題とならない」(p. 97)

この考えには勇気づけられる。たとえ、障害のために十分な働きができなかったとしても、善い思いを持つ人は「燦然と輝く人」なのだ。

さらに素晴らしいのは「人間性は目的そのものである」(p. 137)という考え方。

「しかし人間は物件ではなく、たんなる手段としてのみ使用されうるものではない。人間はそのすべての行為において、みずからをつねに目的そのものとみなさねばならない」(p. 137)

つまり、カントによれば、自分の命を守ることは義務であり、自殺することは自分自身への義務を放棄することになる。

さらにカントは言う。

「ところで人間性のうちには、現在の状態よりもさらに大きな完全性を目指すという素質がある。この素質は、自然がわたしたち主体のうちの人間性について定めた目的の一つなのである」(p. 140)

したがって、自身の人間性を開発することを放置する人は、自分自身の義務を果たしていないことになる。

では、他者に対してはどのようにふるまうべきなのだろうか。

「他者への功績的な義務については、自然はすべての人間が、自己の幸福を実現することを目的としていることを指摘しておこう」(p. 141)

先ほどの「人間性=目的」という考え方からすれば、他者の幸福を促進することも大切な義務なのだ。

こうした「意志としての善」「目的としての人間性」「自己成長の義務」「他者の幸福の促進」という前提に基づき、道徳性の哲学を構築しようとしているのが本書である。

西田幾多郎は『善の研究』において、「社会のために個人性を実現することが完全な善である」と述べているが、カントの考え方がベースとなっているようである。

なお、本書の後半は、訳者の中山元氏による解説なのだが、とても参考になった。
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富は、天に積みなさい

富は、天に積みなさい
(マタイによる福音書6章20節)

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『いま、会いにゆきます』(映画メモ)

『いま、会いにゆきます』(2004年、土井裕泰監督)

この映画はすごい。

妻の澪(竹内結子)を病気で亡くした巧(中村獅童)は、6歳になる佑司(武井証)と二人暮らし。しかし、梅雨のある日、死んだはずの澪が現れ、つかのまの3人暮らしが始まる、という物語。

中村獅童が上手すぎて映画の前半から感涙状態になってしまった。

本人のキャラとはだいぶ違う「おとなしく、自信がなく、不安げな巧」を完璧に演じている。

映像も美しい。

ストーリー的にも、人生における「つながり」のありがたさとたいせつさを感じた。


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信じない者ではなく、信じる者になりなさい

信じない者ではなく、信じる者になりなさい
(ヨハネによる福音書20章27節)

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