moiのブログ~日々のカフェ

北欧&フィンランドを愛するカフェ店主が綴る日々のあれやこれや

定期更新

2012-06-28 11:43:08 | Weblog
こちらはカフェ モイ(moi)の過去のブログです。

第四六四九番・永吉(えいきち)

2010-01-01 00:22:31 | 2010moiみくじ
第四六四九番・永吉(えいきち)


第四六四九番・永吉(えいきち)を引いたあなたは、カリスマ性がありいつもギラギラしています。タバコを買いにゆくだけなのにキャデラックで出かけてしまうような見栄っ張りなところがあります。

>2010年の運勢
成り上がるでしょう。

>運気を上げるおこない
くねくねと動いて吉。
自分のことを苗字で呼んで吉。

>ラッキーアイテム
タオル。つねに首にかけることを志しましょう。

>運気の上がる方位
吉祥寺のmoi。


第一萬番・諭吉(ゆきち)

2010-01-01 00:22:20 | 2010moiみくじ
第一萬番・諭吉(ゆきち)


第一萬番・諭吉(ゆきち)を引いたあなたは、真面目で学究肌な人物ですが、やや外国かぶれのところがあります。ひとの平等を、つい上から目線で語ってしまい煙たがられることがあります。

>2010年の運勢
道で一万円札を拾うかもしれません。

>運気の上がるおこない
学問をすゝめて吉。

>2010年に注意すべきこと
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」などと言って油断していると、突然横からどつかれることがあります。上下だけでなく左右にも気を配りましょう。

>運気の上がる方位
吉祥寺のmoi。

第十四番・ピョン吉(ぴょんきち)

2010-01-01 00:22:09 | 2010moiみくじ
第十四番・ピョン吉(ぴょんきち)


第十四番・ピョン吉(ぴょんきち)を引いたあなたは、自己主張が強く並はずれたド根性の持ち主ですが、残念なことにかなり平べったいです。

>2010年の運勢
平べったいでしょう。
パートナー(※)との運命的な出会いがあるかもしれません。

※頭にサングラスを乗せた中学生。ていうか、ひろし。

>運気の上がるおこない
押し潰される前に逃げて吉。
根性、根性、ど根性でぇ~い! と叫んで吉。
たまには洗濯したほうが吉。

>ラッキーパーソン
京子ちゃん

>2010年に注意すべきこと
ゴリライモ
アイロンによる火傷

>運気の上がる方位
吉祥寺のmoi。


第九十番・だん吉(だんきち)

2010-01-01 00:21:52 | 2010moiみくじ
第九十番・だん吉(だんきち)


第九十番・だん吉(だんきち)を引いたあなたは、マンガを描くのが上手で人気者ですが、いまひとつ本当の職業がよくわからないという欠点があります。総じて鼻の穴は大きめです。

>2010年の運勢
やっぱりマンガを描くでしょう。

>運気の上がる行い
ひたすらマンガを描いて吉。
ぶらぶらと途中下車して吉。

>2010年に注意すべきこと
地井武男。「絵を描く」「ぶらぶらしている」というキャラがかぶり過ぎ。

>ラッキー企画
だん吉・なお美のおまけコーナー

>運気の上がる方位
吉祥寺のmoi。

転居通知

2006-04-01 18:53:28 | 業務連絡
啓  陽春の候、皆様には益々ご健勝の事とお慶び申し上げます。

さてこの度、永年(?)住みなれた「goo blog」に別れをつげ、左記「moiのブログ~日々のカフェ2」転居致しました。お手数ながらお手許の「ブックマーク」を改めていただければ幸いです。尚、是非一度お立ち寄りくださいますようお待ち致しております。今後ともよろしくお願い申し上げます。     敬具

平成十八年四月一日    moi店主

新住所:「moiのブログ~日々のカフェ2」(http://moicafe.blog61.fc2.com/)

さっそく「遊びにいきたい」という方には、こちらの「直行便」が便利です。では、moimoi !

「京都珈琲フェア」終了しました。

2006-03-31 23:34:44 | event
かげさまをもちまして、第一回(?!)「京都珈琲フェア」は終了させていただきました。期間中ご来店いただきましたみなさま、どうもありがとうございました!

コーヒー豆というのは、かんがえてみれば「楽譜」のようなものかもしれません。おなじ「楽譜」を使っても、どうしてもそこに「演奏者」の解釈がはいってしまう。だから、原曲の魅力を存分に引き出すことのできる演奏者もいれば、反対にもてあましてしまう演奏者だっているでしょう。

今回登場したコーヒーは、どれもぼくが京都で口にして「おいしい」と感じたコーヒーばかりです。そんな魅力的な「原曲」をはたしてぼくがどれだけ上手に「演奏」できたかはさだかではありませんが、「楽曲」のよさをすこしでも多く伝えたい、そんな気持ちでたどたどしくも、いっしょうけんめい淹れていたといったところでしょうか。

すこしでも「原曲」の魅力がみなさんに伝わって、そうだ、京都行こうなんて気分になっていただけたならまさに本望、です。

義父のレコード

2006-03-30 16:56:49 | コラム、というか
年ほどまえに亡くなった義父が、若いころよく聴いていたというレコードの整理を手伝ってきた。レコードはほとんどがクラシックで、SP、LPあわせてざっと百枚ほどあったろうか。うちの奥さんによると、義父がレコードを聴いている姿をみかけた記憶はまったくないらしい。若いころはずいぶん熱心だったようだが、なにかきっかけがあったのか、あるいは自然とそうなったのか、いつしかレコードに耳傾けるという習慣じたいがなくなってしまったようだ。そんなわけだから、三十年以上手つかずになっていたレコードのほとんどはカビが生えてしまっていたけれど、さいわい聴けないほどのダメージを受けているものはすくなかった。

一枚、一枚レコードを調べていておどろいた。こういうのもなんだが、「玄人好み」とでもいうか、とても趣味がよいのだ。シューリヒトの「ブル9」、ビーチャムの「ジュピター」、クレメンス・クラウスのR・シュトラウス・・・、ベートーヴェンの交響曲にしても、第2と第4はワルター、「田園」はトスカニーニ、第7はフルトヴェングラーといったぐあいに曲ごとに、しかも「なかなかやるな」と思わせるセレクトになっている。これだけでも、相当に聴きこんでいたことがよくわかる。

さらに義父のコレクションをみてゆくと、チャイコフスキー、フランス音楽、それにシベリウスがずいぶんと目立っている。好きだったのだろう。とりわけフランス音楽はお気に入りだったらしく、ラヴェル、ドビュッシー、サン=サーンスといった「定番」にはじまり、プーランク、ミヨー、それにダンディといったマニアックどころまでしっかり押さえられている。そしてもうひとつ、義父の趣味が計り知られるとしたら、それはシベリウスのヴァイオリン協奏曲のレコードが二種あったことだろうか。これ以外はすべて、ひとつの楽曲につき一種類ずつ揃えられていたことからすれば、義父はこの曲に相当強い思い入れがあったのではないだろうか。

晩年の義父は、おだやかで寡黙なひとだった。かたわらの猫をなでながら、満足げにいつも静かにほほえんでいるようなひとだった。そんな義父だったから、あまりたいした話をしたという記憶はないし、むこうからいろいろと話を切り出してくるということもなかった。けれども、こうして義父のレコードを眺めたり、針を落としたりしていると、なんだかいま義父がここにいて、生前に話せなかった分まで対話しているようなそんな気分になってくるのだ。

アンクルトリスふたたび

2006-03-29 18:18:05 | コラム、というか
事があって奥さんの実家へ行ったら、まるで待っていたかのように、茶の間に置かれたヴァイキング・コスプレの「アンクルトリス」のようじ入れを発見!こんな身近なところに・・・。もちろん、連れて帰ってきました。

・・・これはもしや、ノルウェーに行け!というお告げ?

甦ったルワンダ

2006-03-28 23:40:43 | コラム、というか
いう、なにやらいかめしい名前のついたコーヒー豆をいただいた。編集者のKさんが、取材先の「コーヒーノート」という豆屋さんで手に入れたものだという。

ふだんぼくはあまりストレートをのむ機会がないのだけれど、ストレートコーヒーは旅ゴコロのようなものを刺激してくれるので嫌いではない。どんな土地でどんな人々によって育てられてきたのか、豆のかたちや香りをとおして想像してみることはたのしい。

いただいた豆は、その名のとおりアフリカのルワンダという国でつくられたものである。アフリカといえばコーヒーのルーツといわれ、「モカ」の産地としてしられるエチオピアやケニア、「キリマンジャロ」でおなじみのタンザニアといった国々のことがすぐ思い浮ばれるけれど、ルワンダという国の話はあまり耳にしたことがない。

それもそのはず、伊藤博『珈琲を科学する』によると、もともとコーヒーの栽培じたいは盛んな国だが、それぞれの農園の規模が小さいため生産量がすくないのだそうだ。さらに追い討ちをかけるようにして、90年代には激しい内乱のためコーヒーの生産じたいがストップしていたという経緯もあるらしい。つまり、こうしていま日本でルワンダのコーヒーがのめるということは、とりもなおさずルワンダという国が一時とくらべて平和になりつつあるということの証しといえるかもしれない。

はじめて口にするルワンダのコーヒーは、その渇いた土を思わせる独特の匂いとはうらはらに、思いのほか癖のないすっきりとした飲み心地であった。豆を煎じて飲んでいる、そんなふうにすら感じられる作為のないあじわいは、あるいは焙煎した「コーヒーノート」さんの哲学ゆえの結果かもしれない。「甦った」ルワンダのコーヒーが、いつでもぼくらの口に届くよう「平和」を願わずにはいられない。