「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 267 「コンピュータの本質ー数学とは何か 14 」

2024-04-15 04:12:08 | 日本文学の革命
「計算」とは外界を正確に認識し、その性質や運行を見定め、外界を自分の思惑通りに操作しようとする知的活動なのである。人間の原初の活動である狩りもまた複雑な「計算」の上に築かれた活動であった。現代の数による「計算」は非常に抽象度の進んだもので、外界とは関係のないそれ自体の知的パズルのような様相を呈しているが、それでもやはりそれは外界と厳密に結びついていて、たとえばオフィスで行われている取引計算や給料計算を「一桁くらい下げてもいいか」というようないい加減な態度で計算していたら、たちまち外界から取引先や従業員たちが嵐のような猛抗議を仕掛けてきて、自分の地位や会社の存続まで危うくなってしまうだろう。現代でも「計算」は外界と密接に結びついているのである

原初の「計算」行為である狩りから始まって人間はその「計算」能力をどんどん発展させていった。まず獲物を求めて広大な自然界を彷徨うよりも、獲物を自分で飼って育てた方がより能率的効果的に獲物をゲットできることに気がついた。周囲の外界には飼い馴らすことができる動物たちがたくさんいる。羊もそうだし牛もそうだし、鶏や豚も飼い馴らすことができる。彼らから乳や毛織物などを得ることができるし、最後には肉を得ることができる。しかも一頭一頭狩りで獲っていた時と比べて比較にならないほど大量に得ることができるのである。人間はその「計算」能力を駆使して牧畜業を発明したのである

人間は森林生活をしていた時から木の実や植物を常食にしていたが、森林から出た後もそれらの物を採集して食料にしていた。しかしここでも認識の変化が起こり、当てずっぽうに採集しているよりも自分たちで植物を育てた方が能率的であり効果的であることに気づいたのである。植物の種を土に撒けばそこから新たに植物が育ってくることにも気づいていた。人間は栄養豊富で大量に栽培できる植物を探してゆき、品種改良も加えて、麦や米やジャガイモを栽培していった。それらの植物を栽培するための専用の土地も開発していった。人間はその「計算」能力によって外界を作り変えてゆき農業を興したのである

さらに人間の「計算」能力は発達してゆき、自然の利用や改良にとどまらず、自分たちに必要なものを一から作り出すまでになった。自然界にある一本の木はそれ自体としては人間にとって役に立たない代物である。しかしこれを切り倒し、細かく分割し、部品になるまで加工して、それを再び組み合わせてゆくと、実にさまざまな物が作り出せるのである。椅子も作れるしベッドも作れるし、たくさんの木があれば家まで作れる。荷車も作れるし船だって作れてしまう。「分割ししかる後に総合せよ」とデカルト的な知性を発揮することによって、一本の木から実にさまざまな物が作り出せてしまうのだ。まさに工業の誕生であり、人間の「計算」能力は自然界にない新しいものを一から作り出せるまで発展したのである

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関西に行って来たどー!!

2024-01-30 04:58:06 | 日本文学の革命
先週の週末19日20日21日と関西へ2泊3日の旅行をして来た。と言っても僕が望んでしたことではない。なにしろ僕にはお金がなく毎日切り詰めた生活をしているので、旅行をするのに必要なまとまった金などほとんどないからだ。今回は有り金の全てを動員し、新しい靴や電動歯ブラシを買い換えるために貯めていた貴重な金まで使い、さらには2万円ほど兄から借金までして、ようやく関西へ行く金を工面できたのである。関西へ行っても切り詰めた生活をし、安宿に泊まり、食事はすべてコンビニのパンで済まし、極力お金を使わないようにしてきた。なにしろギリギリの金しか持って来なかったので、もし使い過ぎたら東京へ帰って来れなくなるかも知れない。金のないまま異郷の地でホームレス状態に落ち入ってしまうのであり、命の危険すらあるのだ。そんな命懸けの旅をしてきたのである。無事帰っては来れたが、乏しい貯金のすべてを使い果たしてしまい、残金7千円しか残っておらず、今は茫然としているところである

もし何もなかったら僕自身では絶対に行かなかった旅である。ではなぜ行ったかというと「電子同人雑誌」を実現化する絶好のチャンスが到来したからである!

「電子同人雑誌」はもうすでにヴィジョンはすっかり出来上がっている。これを実現化するための具体的なプランも練りあげている。これが実現できたら実に大きな可能性が開けることも分かっている。なにしろインターネットに今までにない「新しいメディア」を作り出せるのである。フェイスブックやツイッターとも違い、ラインやインスタグラム、ユーチューブやティクトクとも異なる「新しいメディア」であり、しかも非常に大きな発展性を持っていて、これら既存のネットメディアに匹敵するような、あるいはこれらを凌駕する可能性さえ持っている「メディア」なのだ

さらには「本とネットの融合」もできるメディアである。従来の本のように一人座ってただ読書しているという静的で退屈なスタイルではなく、コンピュータやインターネットのテクノロジーを駆使して、またネットの向こうにいる生きた人々とのリアルな交流を通して、いわば「本の中に入り込んでゆく」のである。「本」の中に入り込み、「本」の生成に能動的に参加し、「本」の中で生き生きとダイナミックに活動して、「本」を生きた活動として体験してゆくメディアなのである。「本の臨場体験」ができるメディアなのであり、衰退著しい本業界をネットと融合させて復活できるパワーを持っているのだ

さらにはこのメディアは老若男女誰もが参加できるメディアであり(一昔前までは雑誌製作はプロかよほど技術を持っている者かあるいは資金力のある者しかできないものだったが、今やコンピュータやインターネットを使い仲間を集めれば誰でも作ることが可能なのである)、誰もが自由に仲間を作り、誰もが自由に創意工夫を発揮し、誰もが自由に活動できるメディアなのだ。それはネットを介して広い「世界」に繋がってゆくメディアであり、ネットの向こうの人々と生き生きとした人間的な交流が持てるメディアなのである。今の沈滞化した日本社会ー自由も創造性も活力も失い、どうしようもないほど硬直化し、そしてジリジリと衰退し衰亡している日本社会ーにとって爽やかな空気が流れ込む自由な「天窓」になり得るものであり、また新しい活力源の一つにもなり得るのものなのだ

これだけの可能性を持った「電子同人雑誌」を実現できるチャンスが来たのである!「電子同人雑誌」は数人、できれば十数人の人々が力を貸してくれたなら、もう実現できるものとなっている。今ここで関西に行ってうまくチャンスを捉えることができたら、「電子同人雑誌」を創業できる程のパワーを持つフレッシュで華やかで創造的な人財を三人も得ることができるかも知れないのだ。これはもうなんとしても行かねばならない!そう決意して関西へと向かって行ったのである

同時に高い金を払って関西にまで行くのだから、すぐに帰らずに関西の色々な所を見てみようと思った。関西には遥かな昔高校生の時に九州を歩いて縦断旅行する際に、その途中で京都と大阪にちょっと立ち寄った程度で、その後は訪れていない。いい機会だから今まで行きたくても行けなかった様々な所を訪れてみよう。そう思い2泊3日の関西旅行をしてきたのである

写真もいっぱい撮ってきたことだし、これからちょっと道中記を記してみたい
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『宮崎駿のドキュメンタリー』再放送禁止事件 6

2023-12-29 11:33:07 | 日本文学の革命
だが12月16日にこのドキュメンタリー番組が放送されたあと一週間も経たないある日、一つのニュースをネットで目にした。それはこのドキュメンタリー番組が「再放送禁止」にされたというニュースであった。出どころは『X』のNHKの公式サイトで、この番組が「再放送禁止」になった旨を伝え(理由は述べていない)、「NHKプラスではまだ視聴可能なのでどうか見てください」という内容だった。これは今までにない異例な事態である。宮崎駿のドキュメンタリーは人気があるのですぐに再放送されるし、DVD化されることもある。それが再放送禁止にされたのであり、もちろんDVD化もされないだろうし、「もう二度と放送するな」ということなのだ。余程の放送事故でもない限りこんな事態になる筈がないし、僕が見た限りそんな放送事故に相当するものなどどこにもなかった。それなのにNHKが自分が作った番組を「再放送禁止」にしてしまい、さらにはそれを広く社会に宣言しているのである。これはまさに異例な事件である

NHKにこんなことをさせることができるのは宮崎駿だけである。おそらくあのドキュメンタリーを見て宮崎駿は激怒したのだろう。自分を「高畑勲コンプレックス」に取り憑かれている者として描かれて、頭に来たのだろう。人生をかけて苦心惨憺作り上げた『君たちはどう生きるか』をくだらない「三文話」にされることに危機感も覚えたのだろう。まず間違いなく宮崎駿本人がNHKに怒りと抗議をぶつけ、二度と放送しないよう「再放送禁止」にさせ、さらにはそれを広く社会に宣言するよう強要したのである。NHKも宮崎駿に逆らう訳にいかないから唯々諾々と従ったのだろう。まさに宮崎駿自身があのドキュメンタリーとその内容にダメ出しをしたのである。そうすることによって「大叔父=高畑勲」というくだらない主張から自分の作品を守ったのである

このドキュメンタリー番組の冒頭で宮崎駿本人が語る印象的な言葉が流されていた。それは「終わらせないとタタリから抜け出せない」という言葉である。まさにこの言葉こそが宮崎駿が『君たちはどう生きるか』を作った根本的な動機なのである

あの番組ディレクターはこの言葉の意味が分からず、宮崎に取り憑いている「高畑勲コンプレックス」だと解釈したのだが、実は宮崎駿がこれまで作ったアニメの中にその答えはあるのである。宮崎アニメの多くが「呪い(タタリでもいい)からの解放」を主題としているのだ。『紅の豚』では主人公の男が何らかの呪いによって豚に変えられているし、『もののけ姫』では主人公のアシタカが死に至る呪いをかけられそれを解くために旅立ってゆくところから物語は始まる。『千と千尋の神隠し』ではやはり呪いかタタリによって両親が豚にされてしまい千尋自身も名前を奪われて、そこから如何に解放されるかが主題となっている。『ハウルの動く城』では18歳のソフィーが呪いによって(魔法でもいい)90歳のお婆さんに変えられてしまい、やはりそこからどう解放されるかで物語が展開してゆく。『風の谷のナウシカ』もまた「腐海に覆われた世界」の物語であって、これはまさに「呪われた世界」であり、この呪われた状態からどうしたら解放されるのかが中心主題となっている

宮崎駿のアニメの多くがこの「呪い(タタリ)からの解放」を主題として作られているのだ。この「呪い」は作品だけでなく宮崎本人にも取り憑いているのである。宮崎は番組の中で自閉的で鬱病的であった自分の少年時代の写真を指さして「この少年は死に取り憑かれている」と述べていたが、まさに彼自身にもこの「呪い」が幼少期から取り憑いているのであった。もっと言えばこの「呪い」は近現代の日本そのものにも取り憑いているのである。この「呪い」から解放されることーそれは日本を未来に向けて解き放つことでもあるのだ

この「呪い」から日本を解き放つものこそ「則天去私」に他ならないのである。かつて夏目漱石は「則天去私」を実現することによって日本を「呪い」から解き放とうとしたが、未完成のまま終わってしまった。今宮崎駿も「呪い」から自分や人々を解き放とうとして『君たちはどう生きるか』で果敢にチャレンジしたのである。成し遂げられたかどうかは分からない。これまでの宮崎アニメに見られたように「未来への先送り」で終わったのかも知れない。しかし「則天去私」の実現へ向けて肉迫したことは事実であり、あともう少しで達成されたかも知れないのである

その意味で『君たちはどう生きるか』はやはり夏目漱石の『明暗』と並ぶ記念碑的な作品となっているのである


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『宮崎駿のドキュメンタリー』再放送禁止事件 5

2023-12-29 11:30:19 | 日本文学の革命
しかしこの「大叔父=高畑勲」という主張をこの番組ディレクターがしたのも、無理もないことだったのである。実は宮崎駿自身が「大叔父」のことを「パクさん(高畑勲の愛称)」と呼んでいたからである

番組の中では大叔父のことを「パクさん」と呼んでいる宮崎の姿が繰り返し映し出されている。イメージ画を指さして「ここに大叔父がいる。パクさんだよ」「どう。この大叔父の表情。パクさんによく似てるだろ」「(大叔父を指して)あまり言っちゃヤバいんだけどね、パクさん」あの山小屋では大叔父のことを述べたすぐあとで「パクさん、部屋の中で何してたと思う?」と聞いてくるし、高畑の葬式の後では高畑を大叔父のような一種霊的な存在として捕え「パクさんは雷神になったんだよ(笑 」と言ったり、「パクさん、そばにいるんだよ、話しかけてこないけどね」と言ったりしていた。消しゴムが見当たらない時には「誰が持っていったんだろう。パクさんか。おーいパクさん、消しゴム返してよ」と呼びかけたりもしていた(ただ冗談めいてニヤニヤしながらだが)

宮崎は大叔父に触れるたびに「パクさん」と言い換えてくるのである。「言っちゃヤバいんだけどね」と言いつつ「パクさん」を連呼しているのだ。これだけ宮崎駿本人が「大叔父=パクさん」と言っているのだから、番組ディレクターが「大叔父=パクさん」説を主張するのも当然なことである

しかし『スタジオジブリ物語』の中で宮崎と長年タッグを組んできた鈴木敏夫プロデューサーが述べているのだが、宮崎にはある特徴的な性格があるのだ。それは「公けの場では建前しか話さない」という性格である。宮崎は東映動画にいた頃労働組合の委員長を務めていて労使交渉などを行なっていたが、そういう経験もあるせいか公けの場では「建前」しか話さないという性格が骨の髄まで染み込んでいるのだという。そんな性格を持っている宮崎にとってテレビカメラの前とはまさに「公けの場」である。この前での発言が何千万人もの人々に伝わってゆくことは知り抜いているはずである。そんな彼がテレビカメラの前で本音をペラペラと喋るだろうか。しかも作品の根幹に関わるような重要な本音をである。たしかに長年の盟友であった高畑の死にはショックを受けていただろうし、惜別の念にも苛まれていただろう。また作品の人物を少しでも自分に近づけるために身近な人物を投影することも創作家のよくやることである。宮崎が大叔父の一部に高畑を投影しても少しも不思議ではない。しかしだからと言って「大叔父」が「高畑」である訳ではない。それはむしろ「建前」であり、「言っちゃヤバい」本音を隠すための建前こそが「パクさん」だったのではないだろうか

しかしそうは言っても番組の中で宮崎駿自身が「大叔父」のことを「パクさん」と呼んでいるのは事実なのであり、それは「大叔父=高畑勲」であることを宮崎本人が認めていることになってしまう。加えて番組デイレクターが「大叔父=高畑勲」であることを主張して番組全体を作ってしまっている。このままでは「大叔父=高畑勲」が『君たちはどう生きるのか』の「定説」になってしまうだろう。しかしそれでは『君たちはどう生きるのか』という映画があまりにも矮小化されてしまうのである。コンプレックスなどは誰もが持っているし、先輩コンプレックスに苦しんでいる者も多いだろう。そんなコンプレックスを克服するためだけに、これだけの大作アニメが作られたというのである。そういうことは個人的に解決するべきものだし、日本国民全体に向けて映画として訴えかけられても迷惑なだけだ。うまくコンプレックスが解消されたとしても「長年苦しんできた先輩コンプレックスをついに克服できました」という「三文話」ができあがるだけである。このままでは『君たちはどう生きるか』はつまらない「三文話」として片付けられてしまうことになるだろう
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『宮崎駿のドキュメンタリー』再放送禁止事件 4

2023-12-29 11:27:08 | 日本文学の革命
こう見てゆくと宮崎駿は『コナン』や『カリオストロ』の頃から、ちょっと譲っても『ナウシカ』の頃にはすでに、高畑勲を完全に乗り越えているのである。『赤毛のアン』と『コナン』や『カリオストロ』あるいは『ナウシカ』を比べたら、誰が見ても(あっちはあっちで面白いし心温まる名作ではあるが)宮崎駿のアニメの方が圧倒的に優れていると感じる筈である。『ナウシカ』から数えると40年も前のことであり、宮崎駿がその後も「高畑コンプレックス」を持ち続けたなどということはあり得ないことなのだ。たしかに高畑は宮崎にとって恩義のある先輩であり、また自分とは異なる映画スタイルを追求している人物として敬意を抱いてはいたであろう。しかしこの番組で主張されているような深刻なコンプレックスなど持っているはずがないのである

逆に高畑の方が宮崎駿に対してコンプレックスを持っていたはずである。自分より五つも下の後輩が『カリオストロ』や『ナウシカ』のような自分を圧倒するような作品を作り始めたのである。先輩でありまたプライドの高い高畑からすれば屈辱的なことだったろう。高畑は宮崎の『ナウシカ』を採点して「30点」と言い、「彼がこれからもっといい作品を作れるように期待を込めて30点と言ったんだよ」と述べているが(それこそ先輩面したもの言いである)、これにも高畑の屈折したコンプレックスがうかがえる(この「30点」発言を雑誌で見た宮崎駿は「だからくだらないものしか作れないんだ!」と雑誌を引きちぎったそうだ)

宮崎に追いつき追い越そうとしていたのも高畑である。『隣りのトトロ』と競作するように『火垂るの墓』を作ったり、宮崎アニメとは対照的に日常生活を静的で透き通ったタッチで描いた『おもひでぽろぽろ』を作ったりした。この『おもひでぽろぽろ』の予告編を見たときは「これはすごいアニメが現れたのかも知れない!」と思いいそいそと劇場に見に行ったが、実際見てみたらひどくつまらなく、ガッカリしたのを覚えている。『平成狸合戦ぽんぽこ』もつまらないもので、当時『ターミネーター』でCGを駆使した変身シーンが話題になっていたが、それをアニメでやろうとしたのか、アニメならできて当たり前じゃないか、と浅薄さすら感じた。『ホーホケキョ となりの山田君』や『かぐや姫の物語』になると劇場に足を運ぶのも面倒だし高い金を払ってDVDを買うのも嫌だしで、いまだに見ていない。同じ頃偉大な作品を次々と生み出していた宮崎駿が、この高畑に対して深刻なコンプレックスを抱いていたなど、どうにも納得できないのである

あるいはこれはあの番組ディレクターの「コンプレックス」の表れなのかも知れない。彼は長年に渡って宮崎駿の密着ドキュメンタリーを作っていたのだが、いつも宮崎から「書生」扱いされているし、怒鳴られてばかりいるし、その宮崎に対して追いつくことも追い越すことも到底できないしで、宮崎駿に対して「深刻なコンプレックス」を抱いてもおかしくないのである。その宮崎がより大きな存在としての高畑勲にコンプレックスを持ち続けていた、深刻で鬱屈したコンプレックスに苦しみ続けていたとしたら、これは彼にとって痛快なことだろう。頭のあがらない相手に一発かませたような爽快感もあるだろう。彼があの番組でこのような主張を繰り返したのは、彼自身が抱いていたコンプレックスの反映なのかも知れない
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「『宮崎駿のドキュメンタリー』再放送禁止事件 3

2023-12-29 11:23:22 | 日本文学の革命
この宮崎駿のドキュメンタリー番組は『君たちはどう生きるのか』がどのようにして制作されたのかを伝える貴重な記録となっているのだが、ただ一つだけどうにも納得できない箇所があった。それは番組ディレクターの荒川が主張しているものなのだが「大叔父=高畑勲」という主張である

『君たちはどう生きるか』の最も重要な登場人物である「大叔父」は実は「高畑勲」なのであるという主張がこの番組ではクドいくらいなされている。宮崎駿はその全人生を通じて先輩である高畑勲に「片思い」して来たのであり、高畑に憧れ、高畑を怖れ、高畑に追いつこうとしても追いつくことが出来ず、高畑に激しいコンプレックスを抱き、その呪縛から抜け出そうとしてもがき苦しみ、そういう高畑を乗り越えたいという思いこそが宮崎駿の全創作活動の根幹を成しているというのである。『君たちはどう生きるか』もまさにそのために作られたものであり、それは高畑勲を乗り越えて「高畑コンプレックス」の呪縛を解消しようとする宮崎駿人生最後の挑戦なのだという

この『君たちはどう生きるか』が制作されている最中の2018年4月に高畑勲は死去している。番組でもジブリ美術館で行われた高畑の葬儀の模様が映されていて、弔辞を述べた宮崎駿は「パクさん(高畑の愛称)、55年前雨あがりのバス停で声をかけてくれてありがとう」と言いながらむせび泣いていた。55年前といえば1963年のことで宮崎駿が大学を卒業して東映動画に入社した年である。おそらく進路に迷っていた宮崎駿に声をかけてアニメーターの道に引き入れたのは高畑勲なのだろう。確かにそれは宮崎駿の人生を決定づけた重大な出来事である

その後も東映動画の先輩として高畑は宮崎の手引きをしていた。1965年から1968年にかけて高畑が中心となって作った長編アニメ『太陽の王子ホルス』では制作スタッフの一人として宮崎も参加している。1971年には大人用アニメとして作られたが低視聴率に苦しんでいた『ルパン三世』が子供向けに路線変更しようとして、新たに高畑勲に制作依頼したときも高畑は宮崎駿を引き連れて13話以降の『ルパン三世』を共に制作している。1974年の『アルプスの少女ハイジ』では全カットを宮崎駿に任せてあの名作アニメを作りあげている。その後も『母を訪ねて三千里』や『赤毛のアン』などで宮崎駿をスタッフとして用い、宮崎駿にキャリアを積ませていったのである。たいへん恩義のある先輩だと言っていいだろう

一方宮崎駿は不満も抱えていた。『母を訪ねて三千里』を作っているときも「絶対路線間違ってると思ってた。お母さんを求めてトボトボと歩いてばかり。ああ情けない」と思っていたと回想している。その宮崎が高畑からの独立を成し遂げたのが1978年に宮崎が初監督として作った『未来少年コナン』である。宮崎駿独自のダイナミックな動きが躍如しているこのアニメは、静的な高畑のアニメとは全く対照的であり、まさに宮崎アニメの誕生を告げるものであった。一部高畑の手伝いを受けたというが、これは宮崎でしか作れない宮崎独特のアニメであり、まさにこのとき宮崎駿は高畑勲からの独立を達成したと言っていいだろう

1979年の『赤毛のアン』に制作スタッフとして参加し高畑のもとに戻った感もあったが、まさにこの1979年に作られたのがあの超絶の名作『カリオストロの城』だったのである。宮崎アニメの魅力が満載に詰まった溌剌として新鮮な素晴らしいアニメで、今でもアニメの名作を数えあげるとき必ずあげられる名作である。僕も初上映のとき仙台の映画館で見たのだが、その美しい自然描写、面白い大活劇、見事なストーリーにすっかり心酔してしまった。クラリス姫などはその頃の僕の憧れのアイドルになってしまったくらいである。その後数え切れないくらい見たが、今見ても相変わらず面白い。たいへんな名作である

ただ興行的には失敗し、宮崎駿はその後5年間も映画を作らせてもらえず、半失業状態にも落ち入り、暗い絶望的な日々を送ることになる。しかしその苦難を乗り越えて誕生したのが1984年の『風の谷のナウシカ』である。このアニメは日本のみならず世界の中でも最高のアニメの一つであり、また映画としても最高峰のものである。そして宮崎アニメの偉大な歩みの第一歩ともなった作品なのであった
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『宮崎駿のドキュメンタリー』再放送禁止事件 2

2023-12-29 11:17:20 | 日本文学の革命
絵コンテ制作の山場になったのは2018年のことであった。番組では宮崎駿が必死に苦闘しながら絵コンテを制作してゆく姿が映し出されていた。何ヶ月も書けなくなったり、自分を追い込んで「脳みそのフタ」を開こうとしたり(それは「狂気の淵にまで行くことだ」と宮崎駿は言っていた)、何かを探し求めるように野山を彷徨ったりと宮崎駿の苦闘する姿が映し出されていた

社員旅行で訪れた温泉場では「奇怪な事件」まで引き起こしている。温泉場でスタジオジブリのスタッフと宴会をした後「もう寝る」と宮崎は自分の部屋に行ったのだが、ディレクターの荒川だけはカメラを映しながら部屋までついて来ていた。そこでいろいろ話す宮崎を映したあとテレビ撮影は終わったのだが、後日宮崎はヘンなことを聞いてきたのだ。「あのとき俺の部屋に麦焼酎あったっけ」。録画を確認してみても宮崎の部屋には麦焼酎などどこにもない。ところが朝宮崎が目覚めたら麦焼酎の瓶がテーブルの上に置いてあったのだという。「荒川が置いていったんじゃないとすると誰だろう。俺が夢遊病者みたいになってどっからか麦焼酎を持って来たんだろうか(笑 」宮崎は作品に没頭するとしばしば記憶を忘却することがあるから、それじゃないのかとテレビでは解説していたが、「あの麦焼酎には困ったよ」と宮崎は苦笑いしていた

2018年には絵コンテは後半部分にさしかかっていたが、この頃宮崎を苦しめていたものが「大叔父」であった。イメージ画のある部分を指して「ここに大叔父がいる」と言ったのを皮切りに大叔父に関する言説が多くなってくる。透明な球形を描きその中央に望遠鏡を覗いて何かを見ている大叔父の姿を描いて「そうか。世界の中心に大叔父を描けばいいんだ」と言ったり、夏休みに滞在していた山小屋でディレクターから「大叔父に出会えましたか」と聞かれると「出会えない。出会える訳がない」と答えたりしていた。そのときこうも言っている、「大叔父が隠れたところでゴソゴソと何かしている。ただそれが何なのか分からない」。また映画の大叔父とは似ても似つかない悪魔のような姿の大叔父を描いて、その横に「超常の者か。それともつまらぬ世迷いジジイか」と書き殴ったりもしていた

最後の部分で苦しんでいるらしく「俺はEパートができなくて困ってるんだ!」と怒りを露わにして怒鳴っている姿も映し出されていた。そして2018年の11月には宮崎は書きためていた絵コンテをどんどんゴミ箱に投げ捨ててゆき、「Eパートは全部やり直しだ」と言った。「大叔父なんか出すんじゃなかった。最後にだけ出しときゃ良かったんだ」とも言っていた。絵コンテのゴミの山を見ながら「自業自得の介‥」と自嘲気味につぶやいたりもしていた

2016年の6月頃から絵コンテを書き始め、2017年、2018年と苦闘し、そしてついに絵コンテが完成したのが2019年の4月だった。3年近くの歳月を尽くして『君たちはどう生きるか』の絵コンテは完成したのである。絵コンテを完成させたあと宮崎駿は机の前に貼ってある大叔父のイラストを指しながら「くたびれたよ、俺は。このおじさんに」と苦笑いしていた。そしてボソリとつぶやくようにこうも言った、「殺しちゃったよ‥」。カメラは悄然と一人座っている宮崎駿を映し出し、それでも「やるしかない!」と自分を励ましている彼の姿も捕らえている。ただディレクターに言わせたらこの後の宮崎駿はなんだか「糸の切れた凧」みたいだったそうである

絵コンテを完成させた後は本格的なアニメ化の作業が始まる。1ヶ月かけても5分程度しかできないという気も遠くなるような仕事である。宮崎駿は出来上がってくる絵を入念にチェックしてアニメ化を進めてゆく。口癖の「めんどくさい」を連発しながらチェックや書き直しをしてゆく彼の姿が映し出されてゆく

2022年にはほぼ完成しアフレコが行われた。あいみょんや木村拓哉(サングラスにマスクという覆面姿で現れてきた)などが声を吹き込んでいった。2022年の12月には大叔父役である火野正平のアフレコも行われた。大叔父の最後のセリフー主人公の眞人を助けるような、そして希望を未来に託すようなー「眞人! 時の回廊へ行け」というセリフを何度も何度も繰り返させているのが印象的だった

7年の歳月をかけて作られた『君たちはどう生きるか』はこのようにして完成したのであった
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『宮崎駿のドキュメンタリー』再放送禁止事件 1

2023-12-29 11:14:24 | 日本文学の革命
今月の16日土曜日にNHKの『プロフェッショナル』という番組で宮崎駿のドキュメンタリーを放送していた。これは『プロフェッショナル』恒例のシリーズで、スタジオジブリや宮崎駿のアトリエにテレビカメラが潜入して、アニメ制作の様子や宮崎駿の普段の姿を映し撮り、宮崎駿の言動をリアルにテレビで伝えてゆくという番組である。宮崎駿には世界中から毎日のように取材依頼が来るそうだが、カメラ嫌いの宮崎はそんな依頼に目を通すこともなく全て断ってしまうという。そんな中この『プロフェッショナル』の荒川という名の若手ディレクターにだけは「書生として来るのなら撮影を許可する」という条件で撮影を許したのである。もう20年近くも続いているシリーズであり、宮崎駿やスタジオジブリのリアルな日常を伝えてくれる貴重な番組だ

今回は宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』の制作現場に密着したドキュメンタリーとなっていた。この『君たちはどう生きるか』は賛否両論が渦巻き様々な解釈がなされている大変な問題作である。僕もあの中に出てくる「大叔父」とは「夏目漱石」であるという解釈を書いてみたが、実際のところどうなのだろうとこの番組を興味津々でメモまで書きながら見てみた

始まりは2016年の6月宮崎駿が新しい映画の企画書を書き上げたところからだった。先の引退宣言からわずか3年でまた新しい映画を作り始めたのである。「ジジイに怖いものなし」と言いながらも実に嬉しそうであった。次いで1年後の2017年5月の様子が映された。『スタジオジブリ物語』という鈴木敏夫プロデューサーが監修し『君たちはどう生きるか』と同時期に出版されたスタジオジブリの歴史を書いた本によると、この頃に一度は解散されたスタジオジブリの制作スタッフも本格的に再募集し始めたそうだ。絵コンテも半分近く出来たという。まず絵コンテを完成させ、それに基づいて本格的にアニメ化をしてゆくという制作手順になっているのだ

『スタジオジブリ物語』によるとこの頃宮崎駿は僕にとって実に興味深いイベントを開いている。2017年10月28日に早稲田大学の大隈記念講堂で宮崎駿は文学者の半藤一利と公開対談を行ったのだが、それはなんと新しく作られた「新宿区立漱石山房記念館」の開館イベントなのであった。早稲田からちょっと歩いた所にこの記念館は出来たのだが、その開館を祝うイベントとして開かれたのがこの公開対談なのであった。「漱石と日本、そして子供たちへ」という題で行われたものであった。この「漱石山房」は実際に漱石の家のあった跡地に作られたもので、元は団地と小さな記念公園だけがあった場所を新宿区が大々的に買い取って大きな記念館を建設したのである。僕も行ったことがあるが、最新の立派な記念館で、漱石の関連書物が立ち並び、漱石の書斎はもちろん家まで一部再現されており、「猫の墓」まで再現されていた。「猫カフェ」というオシャレなカフェもあった

宮崎駿はこの「漱石山房」の開館記念イベントで次回作のタイトルが『君たちはどう生きるか』であると明かしたのである。宮崎駿がまた何か作り始めたらしいということは知られていたが、タイトルを明かしたのはこの時が初めてだった。おそらくわざとこの機会を狙ってタイトルを発表したのだろう。もともと宮崎駿は夏目漱石に深い想いや関心を持っており(『崖の上のポニョ』の主人公「宗介」は漱石の『門』の主人公「宗助」から取ったものである。「宗助」は崖の下に住んでいたので『ポニョ』もはじめは『崖の下のポニョ』と題されていた)、その「漱石山房」の開館イベントで作品名を発表したのだからやはりこの『君たちはどう生きるか』と夏目漱石の関連を暗示させるものとなっている
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電子同人雑誌の可能性 266 「コンピュータの本質ー数学とは何か 13」

2023-12-20 04:43:21 | 日本文学の革命
「槍」によって狩りができるようになった人類はこの「槍」を武器にして外界へと立ち向かってゆく。外界に生息している獲物たちを探し求め、見つけ出し、追い詰め、そして槍を放って狩るのである。結果は狩れたか狩れなかったかのどちらかである。狩れたなら貴重な食料が手に入り自分や家族を養ってゆくことができる。狩れなかったら腹ペコのまま彷徨うことになり最後には死んでゆくだろう。まさに生か死か二者択一の真剣勝負であり、それは人間と外界との間の命を賭けた知恵比べなのである

狩りをする際に必要不可欠なのが外界に対する「計算」である。獲物となる動物とはどのようなものなのか、どのような特徴を持ちどのような性質があるのか、それを正確に認識することがまず第一である。その獲物はどのような行動パターンを持っているのか、いつ頃どのあたりに出没するのか、それを推測し推理し的中させることも狩りの成否を分ける。その獲物をどうすれば効果的に狩ることができるのか、実際の試行錯誤を通じて実証的に研究し、合理的で効果的な方法を発見してゆくことも極めて重要である。そして実際に槍を放って獲物を狩ってゆく。それは外界に働きかけてそこから自分の望むような成果を引き出してゆくことに他ならない。いわば外界を操作して、自分の思惑通りになるよう導いてゆくことなのである。このように狩りを成功させるためには、外界の対象に対して正確な認識を持ち、そのさまざまな性質を見抜き、推測し推理し、実証的な研究を積み重ねてゆき、最後に狩りの成功という形で「正解」を得てゆくという「計算」活動が必要なのである

狩りの対象が鹿の場合にはその並外れて敏感な感覚器官に用心しなければならない。目は360度見渡せるように顔の横に付いているし、レーダーのような耳を器用に動かしてどんな不審な物音も瞬時に聴き分けることができる。嗅覚も敏感なもので自分を襲おうとしてくる動物の匂いならたとえ姿が見えなくてもすぐさま嗅ぎつけることができる。それに対処するためには抜き足差し極力気配を消して近づかねばならないし、また匂いを嗅ぎつけられないよう風向きを計算して風下から迫る必要もある。また草を夢中になって食べている時のような隙のある機会を狙って、槍が届く範囲にまで慎重に近づいてゆくのである。ウサギの場合は逃げるのに特化したもの凄いジャンプ力のある脚を持っているし、また的が小さく周囲に溶け込めるような保護色も持っているので、逃げられたらほぼお終いである。しかし巣穴に用心深くこもっていることが多いので、落ちているフンなどから推測して巣穴を突き止めることができたら容易に狩ることができる。牛やバッファローは普段はおとなしい動物だが、怒らせたら角を突き立てて襲ってくることもある危険な動物である。また巨大で頑丈な肉体を持っているので槍一本だけで狩ることは難しい。それに対処するためには何人かでチームを結成し、集団で襲いかかって狩りをするのが効果的だし合理的だ。イノシシも逃げるよりはこちらに猪突猛進してくるような危険な動物だが、一方実に単純で鈍感な動物なので、落とし穴のような罠を仕掛けてそこに好物で誘導してゆけば面白いように落ちてくれるし、どんなに足掻こうがもう這いあがることもできないので「してやったり」と仕留めることができる

実際に槍を投げる時にも必要とされるのは「計算」である。槍を投げる時には獲物と自分との距離を正確に計測しなければならない。目測で瞬時に正確な距離を割り出し、その距離に届くように厳密な力加減で槍を放り投げるのである。数メートルあるいは数十センチずれただけで槍は目標を外してしまう。だからこれはまさに厳密な計算行為なのである。また槍は真っすぐ投げるよりも放物線で投げた方が重力が加わる分より遠くに飛ぶし威力も増す。重力という観念のなかった原初の人間たちもそのことに体感的に気づいていただろう。一見あらぬ方向の空中に投げて、槍が降下してゆくその先で獲物に激突させる、この放物線の軌道まで計算して槍を投げるのだから、これは現代の大砲やミサイルの精密な弾道計算と本質的には変わらないものだ。それほどの精密な計算能力が必要となるのだ

狩りには「計算」が不可欠であり、「計算」によって外界に立ち向かってゆく行為なのである。それは「原初の計算」だと言ってもいいだろう。その際「正解」とはもちろん外界から獲物を勝ち取ってくることである。見事な「計算」をして獲物を狩れたら生き延びられるし、間違った「計算」をして獲物を逃したらたちまち死が押し寄せてくる。まさに生死を賭けた「原初の計算」なのである

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電子同人雑誌の可能性 265 コンピュータの本質ー数学とは何か 12

2023-11-28 05:14:06 | 日本文学の革命
これも前に書いたことだが「打つ動作」から発展したものに「投げる動作」がある。
「打つ動作」は石を握った手をひじを梃子にして振りあげ振りおろすという手だけの動作だが、「投げる動作」はいわば全身を使って行う「打つ動作」なのである。片足をあげて全体重を後方にずらしつつ、さらに体をひねって力を蓄え、十分に体重と力を蓄えたところであげていた片足を力一杯前方に着地させ、同時に全体重と体のひねりを加えることでまさに全身を使って腕を振りおろすのである。腕だけを使って振りおろす時よりも遥かに巨大なパワーが加わるのであり、こんな動作で打たれたらどんな生物でもたまったものじゃないだろう。そしてその際に重要なのは振りおろす途中で手首のスナップを利かせて持っていた石を前方に飛ばすことである。そのとき石はこの人間の全身運動から生じた巨大なパワーを得て勢いよく彼方へと飛んでゆくのである。手だけを使って投げてもサッカーのパスのようにたいした距離を飛ばせないが、この全身を使った動作で投げれば遥かに遠くまで飛ばすことが可能となるのだ。人間の運命を変えることになる「投げる動作」の誕生である

人間の肉体はこの「投げる動作」を行うために大きく進化したらしい。我々に利き腕があるのはどちらか一本の腕を集中的に鍛えた方が「投げる動作」に有利だからだろう。我々の足腰ががっしりと大地を踏みしめかつ柔軟に動くのも「投げる動作」を下からしっかりと支えるためなのだろう。チンパンジーやレッサーパンダのようにひょろひょろ及び腰で立っているようでは力強い「投げる動作」などできないのである。「投げる動作」は男性は得意だが女性は不得手なのも人間進化の賜物らしい。後述するように「投げる動作」は「狩り」という一種の戦闘行為と密接に結びついていて、女性まで「投げる動作」が得意で戦闘的になったら、夫婦ゲンカのたびに男女間で血で血を洗う流血の事態になってしまう。それを防ぐために「投げる動作」が得意でない女性の方が「いつか思い知らせてやる」と思いながらも矛を収めることで平和な夫婦生活が保たれてきたのである

鍛え抜かれた「投げる動作」の持つパワーは凄いものである。バッティングセンターでプロ野球投手レベルのピッチングを受けた時には、その凄まじい速さと威力に震えあがってしまうほどだ。ただ石やボールを投げているだけではそれほど重大な結果は生まなかったろう。石やボールではまだ決定的な威力は生じないのである。よく野球中継でデッドボールを喰らったバッターが悶絶して苦しんでいる姿が映し出されるが、すぐに立ちあがって塁に歩き出すし、中には「よくもやったな!」とピッチャー目がけて走り出して殴りかかってゆく者もいる。これを見ると大抵は軽症らしいのである。少なくとも致命傷は受けていない。石のようなより硬いものを投げて、例えば鹿に当てても、それが致命傷となることはないだろう。よほど急所を打ち当てない限り鹿は驚いて逃げ去ってゆくだけなのである。もっと大型の動物ではかすり傷一つ負わせることもできないだろう

「投げる動作」が決定的な意味を持つようになったのは、石に棒をくくり付けた時である。その時「槍」が発明されたのだ。石に長い棒をくくり付けることによって、全体の重量が格段に増し、威力も強大なものになった。先端の石が重心となり導点となることによって、より遠くに、より自在に、そしてより正確に飛んでゆくようになった。石と棒が組み合わさったベクトル図形のような構造はその先端部分に全ての力が集中される構造となっていて、その一点に強大な衝撃力を生じさせた。あとは先端の石を研ぎ澄まして鋭利なものにしておけば、まさに相手に致命傷を与えることができる恐るべき殺傷兵器の出来上がりである。人類はこの「槍」によってついに狩りができるようになったのだ。この「槍」はチーターの猛ダッシュのようなスピードを備え、鷹の急降下のような一撃必殺の正確さを持ち、鹿はもちろんどんな大型生物でも狩ることができるという強大な威力を発揮したのである。この「槍」という「原初の発明」によって、人間は地上最強のハンターとなったのであった

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