瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ドイツ人巨匠が日本のサービスや清潔さに刺激されて傑作映画を! 役所広司主演『Perfect Days』

2024年01月28日 | 普通の日記
ドイツ人巨匠が日本のサービスや清潔さに刺激されて傑作映画を!
昨年12月22日に日本でも公開が始まった『Perfect Days』を見てきました。監督のヴィム・ヴェンダース (Wim Wenders)は、数々の受賞歴に輝くドイツ人巨匠です。1982年の『ことの次第』が、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。1984年の『パリ、テキサス』がカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞。1987年、『ベルリン・天使の詩』ではカンヌ国際映画祭にて監督賞を受賞などです。そして『Perfect Days』は、2023年第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、役所広司が最優秀男優賞を受賞しました。

この監督が、東京を舞台に清掃作業員の平凡な日々を描いた『Perfect Days』を作ることになったのは、次のようないきさつによります。元々この映画は渋谷区内17箇所の公共トイレを新しいユニークなものに作り変えるプロジェクト「ザ・東京トイレット」のPRのために企画され、そこにドイツの映画界の巨匠ヴィム・ヴェンダース監督を迎えて作られたのです。当初は短いアート作品の製作を考えていたようですが、監督は、日本滞在時に受けたサービスや公共の場所の清潔さに感銘を受け、それを長編作品として再構想したというのです。

ヴェンダース監督が、日本で感銘を受けたサービスの質や公共の場の清潔さは、『Perfect Days』という映画の内容とどのようにつながるのでしょうか。まずこの映画の内容に触れたうえで、最後にこの問いに答えたいと思いすので、少しお付き合いください。

この映画のなかで役所広司が演じる平山という中年の男性は、スカイツリーが近くに見える押上の安アパートに一人で住んでいます。そして毎朝薄暗いうちに起き、ワゴン車を運転して仕事場へ向かいます。行き先は渋谷区内にある公衆トイレ。「The Tokyo Toilet」のプロジェクトで作られたユニークなトイレを次々と回り、隅々まで心を込めて磨き上げてゆくのです。

主人公の平山は、何かしらの過去があり、現在の孤独な生活に至りついたらしいことが暗示されますが、それが何であるかは語られません。彼はただひたすらに自分の仕事に打ち込みます。しかも、つねに何か満ち足りた表情をしています。それはまるで、禅の僧侶が、禅寺の中の雑務に修行として打ち込んでいる姿のようです。

それもそのはず、ヴェンダース監督は当初、平山に僧侶のイメージをだぶらせていたということです。しかし、過去に平山が僧侶だったというわけではなく、むしろ熱心なビジネスマンでありながら、心の中に虚しさを抱えているような男を想定しているようです。その虚しさが極限までに至ったとき、彼はこれまでの生き方をすべて捨て、トイレの清掃作業員として働くことを選ぶのです。

彼は、日々の生活の中で出会う木々を愛します。とくに昼休みに、樹木に囲まれた神社で見る木漏れ日の美しさを愛します。一瞬一瞬の木漏れ日の美しさは、彼がひたすらにトイレの清掃に励む姿と重なります。木漏れ日の一瞬一瞬の輝きの連続のような、トイレ掃除の日々。その姿が、禅寺でひたすらに座禅し、薪を割ったり、庭や廊下を掃除したりする僧侶の姿とも重なるのです。

ひたすらに座禅をする、それは只管打坐とも言われます。只管はひたすらとも読むのです。ひたすらに、只管に掃除をする平山の一瞬一瞬の充実。すべてを忘れて、自分の目の前の仕事にひたすらに、只管に打ち込む、それがそのまま悟りの姿なのだと仏教は教えます。それを意味するのが「修証一如」という言葉です。もっとも、平山自身はこんな言葉は知らないでしょう。ほとんどの日本人が、こうした言葉を歴史の背後に忘れ去っています。ただ、ビジネスマンとしての経歴を捨てて、一介の清掃作業員になったときに平山は、木漏れ日のように一瞬一瞬の輝きに生きることの充実を知ったのです。

そんな彼の、平凡ながら満ち足りた日々に、かすかな波風がたつこともあります。あまり仕事に熱心でない若い同僚の清掃員、そしてそのガールフレンドとのちょっとしたかかわり等々。

★以下は次の動画で御覧ください⇒ドイツ人巨匠が日本のサービスや清潔さに刺激されて傑作映画を!

「臨死体験」に関して果たすべき使命

2022年12月05日 | 臨死体験

2,022年11月24日、代々木公園にて撮影。

今、『臨死体験研究読本』の旧版の原稿の文言を変えたり、文章を少し付け足したりの作業をしていた。臨死体験者の様々な意識変容について論じる章だ。その中に次のような事例があった。

「突然、自分がどこかを移動しているのに気がつきました。計り知れないほど大きな愛を放っている存在といっしょでした。その人といると安心で、とても幸福でした。私はこれまでの短い人生について考え、……『あれで終わってよかった』と言いました。でもその人は同意せず、『まだやることがたくさん残っている』と、辛抱強い声で言うのです。
 するとたちまち、使命を果たし終えていないような気持ちでいっぱいになりました。『そうだわ、帰ったほうがいいかもしれない』。そしてそのとおり、私は肉体に戻り、たちまち苦痛が襲ってきました。ひどく苦しくて、肉体に閉じ込められているようでした。無性に腹がたちました。
……でも、すぐに怒りは鎮まりました。あれ以来、使命を果たし終えていない、という気がして仕方がないんです。世界のために何かやらなければいけないような気がします。私は看護婦になりましたが、いまだに、自分にはほかにやるべきことがあるはずだ、という気持ちが消えません」(メルビン・モース『臨死からの帰還』)

これを読んでいて、私自身は臨死体験をしたわけではないが、まさに「果たすべき使命を果たし終えていない」という気持ちになった。私が果たすべき使命とは、まさにこの臨死体験についての本の改訂版を無事に出版することだ。これは旧版を出版したときにはほとんどなかった気持ちだ。今は、この改訂版を出すことが、何かしらによって自分に与えられた使命のひとつだと思っている。ただし、改訂版を出し終えたからと言って私の使命が終わるわけではない。臨死体験の探求に関連してまだまだ果たすべき使命が続いていくものと思っている。


あるがままの受容

2022年12月05日 | 臨死体験

2022年11月24日、代々木公園にて撮影。

昨日書いたように、臨死体験者の体験後の意識変容をまとめると、およそ次のようなものだ。(一)「死への恐怖の減少」、(二)「死後の世界への確信」、(三)「人生に対する態度の変化」、(四)「あるがままの受容」、(五)「生きる目的の自覚」、(六)「愛、思いやり、寛容さの増大」、(七)「物質的欲望から霊的・精神的関心へ」、(八)「宇宙の全一性という感覚および宇宙との一体感」。

私はこのうち、とくに(四)「あるがままの受容」を重要なものと考えている。一般に私たちが心理的に成長するというとき、この受容性の増大が根底にあると考えるからだ。そして受容性の増大は、まずは自己受容から始まる。自己受容とは、自分の中の様々な感情に気づき、そして受け入れるということである。通常私たちは、自分をあまり受容できていないのだが、それに気づいていない。いわゆる無意識の世界とは、自分で受容できずに意識から排除してしまった自分やその感情だともいえる。

私たちは、何層にも重なった様々な感情を抑圧して生きている。自分のなかの本当の感情に直面するのは辛いから、それを避けたり無視したりしているのだ。そして抑圧した感情を周囲の人々に投影させて、誰かを激しく嫌ったりする。

そして、自分自身の受容ができていなければ、他者や周囲の世界の受容もできない。自分の嫌な部分、見たくない部分をどれだけ受容できるかに、精神の成長がかかっている。可能な限り自己が受容され尽くされたとき、それが「魂の目覚め」のときだともいえる。

人は、自分を受容できる程度にしか他者を受容することもできない。受容とは自分のあるがままを愛することだともいえる。だから人は、自分を愛する程度にしか他者を愛することもできない。成長とは、自分の一切をどれだけ受け入れ、愛しうるかにかかっている。

臨死体験者には、確実に上に述べたような意味での「あるがままの受容」が起こっている。つまり、本物の精神の成長がある。とすれば、そのような本物の成長を引き起こした体験も「本物」と言わざるを得ない。それを単純に、死にゆく脳が見た「幻覚」として片づけるわけにはいかない。

臨死体験者の意識変容

2022年12月04日 | 臨死体験

近所の小さな公園にて撮影 木の名はアメリカフウ

ちょうど20年前に出版した『臨死体験研究読本』の改訂版を出すことになったのは、京都在住の若い出版人がこの本を読んでくれ、再出版する価値があると判断し、決断してくれたからだ。つまり彼自身の英断によるものだが、同時に何かしら大きな意志のはからいもあるのかも知れないと思っている。とすれば、できるだけその意志にそうように力を尽くしたい。

改訂版の書名は、いまのところ『光・悟り・臨死』とする予定だ。副題は、出版社の意向をくんで「生きる意味への問い」としたいと思っている。この書名と副題は、本の主題を旧版よりはるかに的確に表わしている。

臨死体験者のほとんどが、多くの意識変容をするのは明らかだ。この本では、その意識変容を(一)「死への恐怖の減少」、(二)「死後の世界への確信」、(三)「人生に対する態度の変化」、(四)「あるがままの受容」、(五)「生きる目的の自覚」、(六)「愛、思いやり、寛容さの増大」、(七)「物質的欲望から霊的・精神的関心へ」、(八)「宇宙の全一性という感覚および宇宙との一体感」という八つの項目に分けで論じている。前半の四つの章はこれらの意識変容を、多くの事例と統計的な研究を交えて紹介する。

これらの項目からも明らかなように、臨死体験者は、体験後にきわだった精神的成長をする。とくに(八)「宇宙の全一性という感覚および宇宙との一体感」は、仏教などでいう「悟り」にも通ずる、一種の覚醒体験である。本書の後半では、体験者の悟りともいってよい意識変容と、宗教的な覚醒体験とを徹底的に比較することが中心テーマとなる。新しい書名が『光・悟り・臨死』となっている所以だ。

世界も日本も、今さまざまな問題を抱えて混迷している。この混迷から抜け出す道は、遠い道かも知れないが、一人ひとりが少しでも精神的に成長していくことにしかないと思っている。臨死体験者からのメッセージに接する人が少しでも多くなれば、そのメッセージに影響を受ける人も多くなるだろう。世界の指導者のなかにも影響を受けるひとが出るかも知れない。そのような可能性を考えると、はるかに遠いと見えた道も、意外と近いのかも知れない。

無意識的なおしゃべりに気づく

2022年11月29日 | 瞑想日記

写真は、11月19日に皇居外苑にて撮影

瞑想の段階

自分のブログのアクセス解析を見ていたら、私が2006年2月書いたこのタイトルの記事にアクセスがあったことが分かった。どなたかが、検索エンジンを通して訪れたのだろうか。16年も前に書いた自分の文章、もちろんこんな記事を書いたことを全く覚えていなかったが、読んでみると、こんなことを書いていたのかと、新鮮な気持ちで読めた。

「瞑想の修行を始めて最初に気が付くのは、自分の心が、ということは自分の人生というものが、ほとんど無意識的なおしゃべりで占められているということである。‥‥いずれにしろ、瞑想の初期においては、瞑想の経験はまるで映画のようである。あなたはすわって、いろいろな幻想や概念的な思考やらが、眼の前を、意識の前を通り過ぎていくのを見ている。しかしすべてのポイントは、これらに気が付いている、ということである。

‥‥こうして公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていると、あなたは次第にそうした思考やらイメージやらの無意識的な影響から解放されていく。あなたはそれを見ている。‥‥あなたは、そうした思考やら観念やらイメージに頼っている分離した自己感覚から、解放されていく。言い換えれば、あなたはエゴから自由になっていく。これがスピリチュアルな次元の初めの段階であり、そこでは慣習となっているエゴは「死」に、高次の意識が「復活」(再生)する。」240(「瞑想の段階」より)

これは、K・ウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』からの引用だが、表現の的確さに驚く。そして自分がいまだに「無意識的なおしゃべり」から解放されていないことにも驚く。ただ、日常生活のなかで自分の「無意識的なおしゃべり」に気づく度合いは、少しは多くなっているかなとも感じる。瞑想する時間が少なかったり、ほとんどしなかったりの時でも、歩いたり雑用したりしている時に、つねにこの内的なおしゃべりに気づこうと意識することはできる。その意味でこのウィルバーの文章は、とても刺激的だった。

この引用のあとに自分なりの考察をしているのだが、それもまた刺激的であった。こうして過去に自分が書いたものをきっかけに文章を綴ること自体、なにか新鮮で楽しい。今後もやってみたい。




臨死体験の本が社会に与える影響は?

2022年11月28日 | 臨死体験


20年前に出版した『臨死体験研究読本』の改訂版を出すため、今、原稿の一部書き直しを進めていることは、昨日書いた。書きながら思うことはたくさんある。その一つは、今再びこの本を世に問うことの社会的な意味だ。

この本で私がいちばん主張したかったのは、体験者のその後の精神的成長だ。ときに覚醒、悟り、自己超越といってよいほどの成長を遂げる人々がいる。とすれば、この体験を死にゆく混乱した脳が見る幻覚とはいえない。たんなる幻覚に人をこれだで成長させる力はない。それゆえこの本は、いわゆる悟り体験と臨死体験による精神的成長とを詳細に比較検討している。

近年、蘇生医学の発達などにより臨死体験する人の数はますます増えている。しかし全体からみればその数はごく限られている。しかし、臨死体験者の話を知るこで、大きな影響を受ける人々はいる。かくいう私もその一人だ。臨死体験者の話に関心をもち、それに影響を受ける人々の人数は、今はそれほど多くないかも知れないが、そういう人々の人数が増えていく可能性は制限がない。

私もそうだが、何よりも死への恐怖や不安が減少する。誰もが心の深いところで抱いている死への恐怖が減少すると、それだけ精神的に安定する。深い部分での精神的な安定は、人間関係をよりよくするだけではなく、社会に対する負の行動をも減少させる。

臨死体験への関心が、ある社会で広まり、そして深まるほど、それは社会全体になにかしらよい影響を与えるであろう。さらに、社会的に影響力の強い人々にも関心が広がっていくだろう。政治家のなかにも関心をもつ人が増えるかもしれない。政治的なリーダーの多くが関心をもつようになれば、それは社会の安定にも寄与し、さらに国際的なリーダーが、臨死体験者の話によってなにがしか影響をうけるようになれば、それは混迷する現代の世界の情勢についてもよい影響を与えるかもしれない。

もちろん私の本にできることは微々たるものだろうが、たとえ何人かでも臨死体験に興味をもつ方が増えることを願いながら、原稿を書いている。

引き続きお願いです。もしみなさんのなかに、ご自身が体験者だったり、周囲に体験者がいた場合は、お話を聞かせていただけるとありがたい。改訂版を出すうえでも参考になると思っています。コメント欄にまずはご一報をください。

★写真は、塩原温泉の紅の橋 11月3日撮影

臨死体験についてのお話を聞かせてください

2022年11月27日 | 臨死体験


私は、今からちょうど20年前に『臨死体験研究読本』という本を、アルファポリスという出版社から出版した。この本は、もう絶版になっているが、アマゾンのユーズドでは数万円の値が付いいて売られている場合もある。

2年前に京都のある出版社から、この本の改訂版を出したいという申し出があった。私はその申し出を喜んでお受けしたのだが、この本の出版後、私自身の臨死体験の研究への関心は長いこと失われていた。そのため最近までの2年ものあいだ、原稿を本格的に手直しする作業をずるずると先延ばしにしていた。

ところが今年8月中旬に偶然YouTubeで、青汁王子がペルーでアヤワスカ体験をしたときの報告動画を見た。そのとき彼が見た様々なビジョンは興味深く、臨死体験に通じるようなビジョンも含まれていた。それは私の精神世界への関心や臨死体験への探求心をひどく刺激した。それ以来、原稿執筆への意欲が高まったのである。

現在は、原稿の手直しにかなり力を入れるようになり、臨死体験関係の文献もかなり読んでいる。そして強く感じていることがある。20年前に『臨死体験研究読本』を出版したころに比べ、私にとって臨死体験について探求することの意味がかなり変化しているのだ。もしかしらら73歳になったという年齢も少しは関係しているのかもしれない。今再び、臨死体験への関心を取り戻し、さらに深く探求しはじめたことの意味は、私のなかでとても大きい。

日本で、日本人によって出版されている臨死体験についての研究書は数えるほどしかない。その中の一冊について改訂版を出版する機会が与えられた意味は大きい。私は、その意味を噛みしめながら原稿を書いている。

ところで、私は英語の勉強をかねて外国の人々とオンラインで話す機会が多い。そのなかのかなりの人々に今、臨死体験の本の改訂版を出す準備をしていると話した。その中の何人かが臨死体験につよく関心を示し、驚いたことにそのうち二人のお母さんやお父さんが臨死体験をしていた。それもかなり印象深い臨死体験だった。話をした10人前後のうちの二人が、身内に臨死体験者をもっていたというのはかなりの確率だ。

それで思ったのだが、日本人の方々にも声をかければかなりの確率で体験者の話を聞けるかもしれない。もしみなさんのなかに、ご自身が体験者だったり、周囲に体験者がいた場合は、お話を聞かせていただけるとありがたい。改訂版を出すうえでも参考になると思っています。コメント欄にまずはご一報をください。


なぜ日本にキリスト教徒は少ないのか、海外からの厳しい反論

2022年02月19日 | 普通の日記
最近、このブログでの発信はほとんどしなくなっていたが、今はTwitterYouTubeチャンネルで世界に向けて発信するようになっている。YouTubeの方は、今まで実験的に、日本の寺社や観光地などを紹介する動画を作っていたが、徐々に日本文化ユニークさに切り込む動画も作成していくつもりである。

最近は、「日本はなぜキリスト教徒が少ない?――「もののけ姫」が語らなかったこと」”Why are there so few Christians in Japan? -What “Princess Mononoke” didn’t say.”という動画を作った。日本語の字幕も作ったのでぜひご覧ください。
 
なぜ日本にはキリスト教徒がこれほど少ないのか。その理由を縄文文化との関係や日本文化の母性原理との関係で簡潔にまとめました。縄文文化といっても外国の人びとには馴染みのないと思われるので、『もののけ姫』のストーリーに触れ、縄文文化への導入としました。

この動画での、私の主張の論点は、曖昧さの中にすべてを飲み込むような、縄文時代以来の日本文化の母性原理的な特性が、父性原理的で唯一神以外は受け入れない、排除的な宗教とは相いれないというものでした。

私の主張に対して二人の外国の人が反論してきました。私のFacebookアカウントで、この動画を紹介したので、そこでの反論です。その論点を簡単に紹介します。最初の反論は、以下のようなものです。

~~~なぜ日本にクリスチャンが少ないのかという質問に対する答えは、哲学的というよりも歴史的なものです。 キリスト教が(布教に)「失敗」したと言うことは、満州が単なる「事件」であったと言うようなものです。
1500年代半ばから始まって、過度に単純化するリスクを冒して、日本はキリスト教の世紀を迎え、信者の人口は増え続けました。 キリスト教が「失敗」した理由は、信者の不足によるものではなく、仏教の指導者たちがキリスト教徒全体を火とはりつけで全滅させ、キリスト教を禁止し、世界から孤立させたためです。
何百年もの孤立から発展した文化的な思い込みは非常に深いので、多くの人はそれらやそれらの思い込みの背後にある歴史に気づいていません。
~~~

一読してお分かりのように、明らかにキリスト教の側からの反論で、キリスト教は「善」、それを排除しようとした暴力的仏教は「悪」という前提の上に立っています。そして鎖国という孤立によって日本人は「文化的な思い込み cultural beliefs」に陥って、真実の歴史が見えなくなっているというのです。しかし、このような独善性こそ、日本人が嫌うもので、キリスト教が日本で受け入れられにくい理由がまさにそこにあるのだということに気付いていません。

これに対して私は、以下のように応答しました。

~~~14世紀末から15世紀初頭にかけてのキリスト教徒の割合は、当時の日本人人口の2%から4%と言われています。 キリスト教禁令と弾圧による犠牲者数は資料で確認できる人数は3,792人であり、実際の数は不明であるが、おそらくその数倍であっただろう。 多くの人が棄教したふりをして隠れキリシタンになりました。 秀吉だけでなく、その後の江戸幕府も260年間キリスト教を禁止しました。 それが、日本にクリスチャンが少ない理由のひとつとは思われます。 しかし、これだけでは、信教の自由が保証されている現代においても、日本人の1%しかキリスト教徒ではない理由を説明することはできません。~~~

つまり、秀吉の禁令や江戸時代の禁令は、日本にキリスト教が少ない理由の一つと言えるかもしれないが、それだけでは、現代日本においてもキリスト教が少ない理由は説明できない。そのもっと深い理由を、私は提示したのだということです。

この議論は、まだ少し続くのですが、長くなるので次回に回します。

揺れる蓮の葉と彰義隊・YouTube動画作りで感じたこと

2020年10月22日 | 普通の日記
日本に関心を持つ外国人向けにYouTube動画を作り始めて感じたことを書く。昨日は、Ueno park・上野公園をアップした。少し前にアップしたのは、Kiyosumi Garden・清澄庭園である。もちろん、動画で解説する必要があるので、それぞれについてその歴史を含めた関連情報を調べる。そうすると、自分が今まで知らなかったことがいかに多いかを思い知る。

清澄庭園にしても、江戸時代の紀伊国屋門左衛門、明治の岩崎弥太郎などの関係人物、そして関東大震災で多くの命を救ったことなど、ずしりと重い歴史を背景にもっている。松尾芭蕉が隣接する深川の草庵に住み、そこから「奥の細道」の旅に出たことも忘れてはならない。つまり、ひとつの庭園の動画を作ることは、日本の歴史に深くかかわっていくことを意味するのだ。私は、そのことに大きな喜びを感じる。

上野公園にしても、そこは江戸時代、徳川家の菩提寺である寛永寺の広大な境内の一部であったこと。そして彰義隊がこの上野の山、つまり寛永寺の境内に立てこもって最後の抵抗を試みたこと、その結果、寛永寺内の多くの建物が焼失したことなど、深い感慨を感じつつ動画を作った。西郷隆盛の像は管理が行き届いているが、近くの彰義隊の墓は雑草も目立った。不忍の池の無数の蓮の葉が風に揺れる短い映像を挟んだが、上野の戦争で亡くなった人々への思いと重なりあった。

たとえ見る人は多くなくとも、これからも東京の日本庭園、公園そして寺社などの動画を作り続けるだろう。その解説で短く歴史や由来を語るごとに、私は日本の歴史、過去の日本の人々が生きた伝統に深くかかわっていとになるだろう。それは、多かれ少なかれ日本人の精神性に深くかかわっていくことを意味するのだ。

『臨死体験研究読本』の改訂版の出版も、日本文化と悟りという私の最近のテーマも、そしてYouTubeの動画作りも、私の中ではすべて一つの流れに合流していくような気がしている。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

→ Ueno park・上野公園

YouTube チャンネルはこちら → Spiritual Japan

アクセス数が伸びない動画

2020年10月22日 | 普通の日記
上野公園を外国人向けに紹介するYouTubeビデオを作った。かなり時間をかけて作ったが前回の清澄庭園の動画に比べてアクセス数が伸びない。日本庭園の美しさにかなわないのだろうか。ちょっとがっかりだ。しかし、これにめげず、東京の大公園と日本庭園を紹介する動画は作り続けていくつもりだ。

YouTube動画 → Ueno park・上野公園

母性社会日本の意味(2)

2020年10月18日 | 普通の日記
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。今回は、その後半である。

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西洋近代における自然科学の急速な発展は、「近代的自我」の目覚めと無縁ではない。自我を自然対象と切り離し、客観的な観察対象とする姿勢は、観察の意志を持った自律的な主体の成立と分かちがたく結びついている。そして観察者の状況に左右されない「普遍性」をもった科学的な知は、その応用である科学技術と相俟って、全世界を席巻する強大な力となり、その結果、非西欧世界の大部分が植民地化されていったのである。

西洋のような父性原理の一神教を中心とした文化は、母性原理の多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。そして父性原理を背景とする西欧の「近代的自我」も同様の危機をはらんでいると言えよう。それは、ひたすら科学の進歩や経済の発展を目指して突き進む男性像が中心的なイメージとなっている。そのような自我のイメージと相容れない要素が、抑圧され排除される傾向が強いのだ。具体的には、女性的なもの、異質な文化、無意識、そして病や死だ。

これに対し日本人の精神性の根底には母性的なものが横たわり、物事を区分したり一つの極を中心して堅く統合しようとする傾向は弱い。むしろ両極端をも包み込んでいくような融合性、曖昧性を特性とする。父性原理の伝統に根差した近代西欧は、自我を対象から切り離し、客観的に分析する方法を徹底的に洗練させていった。それに対し母性原理の伝統に育まれた日本文化は、融合性や曖昧性、自然との一体性や、仏教で説かれるような宇宙との融合というあり方を洗練させたのである。

このような日本文化や日本人のこころの在り方は、その独特の美学とも結びついている。それが「曖昧の美学」だ。「曖昧」は成熟した母性的な感性であり、母性原理と結びついている。単純に物事の善悪、可否の決着をつけない。一神教的な父性原理は、善悪をはっきりと区別するが、母性原理はすべてを曖昧なまま受け入れる。能にせよ、水墨画にせよ、日本の伝統は、曖昧の美を芸術の域に高めることに成功した。それは映画やアニメにも引き継がれ、一神教的な文化とは違う美意識や世界観を世界に発信している。また日本が、かつては中国文明、さらには欧米の文明をほとんど抵抗なく吸収できたものこの融合性によるのかもしれない。

重要なことは、「日本的自我」の在り方を「近代的自我」と比較し、劣ったものとして批判することではない。むしろ、日本人の自我の在り方の特性を歪めずに、優劣の判断から自由に、事実として正確に把握することである。我々は、すでに西欧で生まれてた科学技術や社会制度を大幅に受け入れ、これからも受け入れ発展させ続けるだろう。それは父性原理も基づく制度を受け入れ、それを枠組みとする社会に生きているということなのだが、自分たちの特性を充分に理解しないまま受け入れたため、あちこちで混乱を生じているのも事実だ。その混乱を少なくするためにも、自らの在り方への十全な自覚がますます大切になる。その自覚によってこそ混乱への正しい対処法が生まれてくるのだ。

また、現代の国際関係は、父性原理の力学で動いているもの厳然たる事実だろう。そこに自らの母性原理を充分に自覚しないまま関わることで無用な混乱や不利益が生じている場合がある。国際関係で不利益を被らないためにも、彼我の違いを明確に認識しておくことが必要だ。先進7ヶ国首脳会議(G7)において、非キリスト教圏からの参加、つまり母性原理の国からの参加は日本だけである。その意味を自覚して行動すべきだろう。さらに言えば、自らの母性原理の在り方を充分に自覚し、それをこれからの世界にどう生かせるか、その積極的な意味を認識することが、今後の日本にとってきわめて重要な課題なのではなかろうか。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画もご覧ください。

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

YouTube チャンネルはこちら → Spiritual Japan

《関連図書》
日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)


母性社会日本の意味(1)

2020年10月17日 | 普通の日記
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。

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戦後における日本人論、日本文化論は、R.ベネディクトの『菊と刀』で、日本の文化を「恥の文化」とし、西欧の「罪の文化と比較したのに始まると言ってよよいが、それは同時に二類型による比較文化論の代表例でもあった。この本は今日まで読みつがれ、またこの本に影響を受けたり、それを批判的に乗り越えようとするなどして、その後様々な日本人論が生まれた。母性原理の日本を論じる本稿とこの本の主題は、直接関係しないのでその内容にまでは立ち入らない。しかし、ベネディクトが、日本を「恥の文化」と捉え、西欧の「罪の文化」は内面的な行動規範を重んじるのに対し、恥の文化は外面的な行動規範を重んじるとしたとき、そこに価値判断が忍び込んでいたのは確かなようだ。恥という外面的な行動規範より、罪という内面的な行動規範のほうが優れているという密かな価値判断が見え隠れするのである。さらに言えば、「罪の文化」には、内面的で自律的な行動規範を重視する「近代的自我」に対応し、「恥の文化」は、外面的で他律的な行動規範に影響される「非近代的自我」が対応する。そしてベネディクト以来の、欧米人による多くの日本人論がまた、このような欧米的な価値観を基準にした分析だったのも確かである。

欧米の研究者だけではなく日本人の研究者が日本の社会や文化、そして日本人のこころの在り方を論じるときにも、西欧的な価値基準を絶対視し、それによって日本の在り方を論評するという姿勢から自由になっていない場合がいまだに多い。特に「近代的自我」は、近代民主社会の基盤としてほとんど絶対視される傾向があった。近代的自我を唯一の正しい在り方として捉えるかぎり、日本人の自我の在り方が批判的にしか見れないのは当然であろう。そこから「日本人には自我がない」とか、自己主張が弱く集団に埋没するだとかいう批判が生まれる。

しかし、日本人の自我が西欧人の自我に対して発達が遅れた劣ったものする見方は危険である。すでに見たように日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっている。日本人のアイデンティティは、その個人が所属する「場」によって支えられる傾向がある。そして日本人の自我は、つねに「場」に開かれており、「場」との相互関係のなかで変化する。自他の区別は弱く、自我は曖昧な全体的関連のなかにあり、また自らの無意識との切り離しも強くない。そしてこの事実は、すでに確認してきたように、日本が縄文時代に深い根をもつ母性原理の強い社会を歴史的に形成してたことと深く関係し、この母性原理の社会こそが、日本人の自我形成の基盤となっている。

一方、西洋で生まれた「近代的自我」は、父性原理の一神教、とくにキリスト教の伝統を背景にして生まれたと言えよう。「包含」よりも「切断」を特徴とし、物事を明確に区分する父性原理の思考法は、個の独立という考え方と結びつきやすい。しかし、もちろん最初から個人主義や近代的自我が確立されていたのではなく、キリスト教の伝統が根強かった中世には、個人の意思や欲望が尊重されていたわけではない。父性原理の宗教の基盤の上に、絶対的な神との長い関係と戦いの中で、徐々に人間の自由意志や主体性を確立するに至った。父性原理的な宗教の伝統の中にあり、それに支えられていたからこそ、「個人」の重要性を認識するようになったのだろう。

ここで、本稿の冒頭近くで触れたことをもう一度確認したい。「母性原理」と「父性原理」にしても、あるいは「母性宗教」と「父性宗教」にしても、それは価値的な優劣を意味するものではない。現実の宗教そして文化は、両要素がさまざまに交じり合い融合しており、ともに重要な働きをなしている。どちらが強く働いているかの違いがあるだけである。だとすれば、父性原理をその背後にもつ「近代的自我」を基準として、母性原理に根差す「日本的自我」を一方的に批判するのは、あまり生産的とは言えないでろう。

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《関連図書》
日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)


日本文化と精神世界

2020年10月11日 | 普通の日記
最近、日本文化の特徴を以下の9項目から総合的に把握する視点で、この項目に即して論文を書いている。(1)を昨年発表し、今は(3)にかんするものをまとめている。この9項目の中で注目してほしいのは(9)だ。日本文化の精神性について論じるものだ。このブログのテーマにに深く関係する。私の中のふたつの関心、つまり精神世界と日本文化がここで重なる。この9項目の全部を論文にまとめるのは少し先の話になると思うが、日本文化の精神性についても少しづつまとめていきたい。ほかの項目については、他のブログで論じていたのだが、(9)の内容はこのブログのテーマに重なるので、おりおりここでも触れていこうと思う。

(1)日本文化は一貫して、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。 その相対主義的な性格は、以下の項目と密接に関連して形成された。

(2)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が,現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(3)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し,縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(4)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

(5)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略,征服されたなどの体験をほとんどもたず、そのため縄文・弥生時代以来,一貫した言語や文化の継続があった。

(6)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は,大陸の進んだ文明の負の面に直面せず、その良い面をひたすら尊崇し、吸収・消化することで,独自の文明を発達させることができた。

(7)海に囲まれ,また森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方で,地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は,ほとんど流入しなかった。

(9)「武道」、「剣道」、「柔道」、「書道」、「茶道」、「華道」や「芸道」、さらには「商人道」、「野球道」などという言い方を含め、武術や芸事、そして人間のあらゆる営みが人間の在り方を高める修行の過程として意識され、それが日本文化のひとつの大きな特徴をなしてきた。

9番目の内容については、「道」の文化という日本文化の大切な遺産を、ほとんど忘れかけているのかもしれない。言葉としては残っていても、その内実を現代人はほとんど受けついていないのではないか。その負の面をも含め、もう一度私たちはこの大切な伝統を思い起こし、その良い面を積極的に現代日本に生かしていくことが、今後の日本の社会にとってきわめて重要なことだと思う。

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『臨死体験研究読本』の改訂版が出る予定。

2020年10月03日 | 臨死体験
2か月ほどまえに、京都で個人で出版社を経営するという若い人から連絡があり、私が18年前に書いた『臨死体験研究読本』を読んで感銘を受けたので、「ぜひ、うちの出版社から改訂版を出さないか」という誘いを受けた。その後、Facebookのビデオチャットで話たり、東京に出てきたおりに日暮里でお会いするなどし、改訂版を出す方向で話を進めている。

私自身は、あの本を出版して以来、臨死体験の研究を継続しているわけではなく、大幅な改訂は難しいと話したが、私の負担にならない程度で、できる限りでよいということなのでお引き受けした次第である。

それでほとんど10数年ぶりに自分の本を読みなおしてみると、第三者のようにかなり客観的に読めるのだが、自分ながら結構面白く読んだ。改訂版の出版への意欲も高まった。最近の臨死体験関係の本も読み始めた。何よりも、高年齢になってもう一度、臨死体験から大切なことを学べるチャンスをいただいたことを感謝している。精神世界全体への関心も復活しているので、このブログの更新も再び回数が増えるかもしれない。

臨死体験の本を書いたあとは、日本文化論に関心が傾いていたが、最近は日本文化と悟りというテーマにも関心が強くなり、精神世界への関心と融合しつつある。

ただ、この数年は、日本文化についての英語による世界への発信に私の関心が向いており、もっぱらそちらにエネルギーを注いていた。活動場所は、ツイッターが中心であった。

→ Tokyonobo 

ここでいろいろ交流できたことは、日本文化論をまとめるにあたっても、何かしら役に立つのではないかと思っている。

さらに最近は、英語によるYoutubeでの発信も始めた。初心者で不慣れだから動画作りに時間がかかり、まだチャンネル登録者もほとんどいない状態だが、徐々に工夫して発信力をたかめていくつもりだ。

今日は、久しぶりに東京、江東区にある清澄庭園という日本庭園を約6分の動画にしてYoutubeにアップした。今後、日本の庭園や寺社を英語で解説した動画をいくつかアップしていく予定だ。英語での発信がどれだけ通用するか、チャレンジし続けたいと思う。
→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

Youtube チャンネルはこちら → Spiritual Japan

このチャンネルを覗いていていただくとわかるように、臨死体験についての動画も二つアップしている。実は、最近自分の臨死体験の本を読みなおして、これは英語で世界に紹介する価値があると思いなおし、少しづつ訳しながら世界に発信していこうと決意したのだ。まだ最初の1ページ分くらいしか、アップロードしていないが、気長にやっていこうと思う。

臨死体験の本の内容をYouTubeで発信?

2020年04月16日 | 普通の日記
葛飾区立石の桜通り


しばらくこのブログも更新していなかったが、このフォットチャンネルという機能ができているのを知って、これを利用しながら再開してみるのもいいなと思った。最近は、海外向けにツイッターやフェイスブックで発信するのが中心になっている。またここ数週間はユーチューブにもチャレンジしている。そんな活動を紹介しながら自分の心境を語ってみるのもいいなと思ったのである。

ツイッターも海外向けだし、ユーチューブも外国の人々を対象に考えている。とすると英語が問題になるのだが、ここ数回、実験的にユーチューブで発信してみて、英語での発信に少し自信を得た。これで今後、ユーチューブ発信にかなり本格的に打ち込めると思った。何を発信するのかというと、一つは、かつて出版した「臨死体験研究読本」の内容を要約したものを何十回かのシリーズで発信するというものである。実は、すでに一つ、それ関連の動画を投稿し、地味だが着実に見る人が増えているのである。かなり共感したというコメントも2・3もらったので、きっと耳を傾けてくれる人はいると自信をもったのである。英語発信である程度、視聴者を得たら、日本語で発信するのも面白いかなと考えている。

ところで、上の立石の桜は、ユーチューブの動画としても投稿している。以下の動画である。
   ⇒ Cherry Blossoms in my Neighborhood(わが町周辺の桜並木)
ただしこれは英語でのナレーションはなく、動画のみである。

英語のナレーションがあるのは、たとえばこれ。Why do Japanese love cherry blossoms?