倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

久しぶりの更新

2013-07-14 15:17:19 | 日本の古代史
最近読んだ梅原猛氏の著書「神々の流ザン」に書かれていたことに新たな納得に到った。それは「出雲王朝は出雲に在ったのではなく大和に在った」と言う考え方である。
あの出雲大社は大和朝廷が大国主命主との約束を守ってあの地に建てたのであって、決してそこに出雲王朝が在ったのではない!と言う考え方。確かに出雲には都のあったという遺跡は現れてこない。
出雲の神は奈良の大神神社(三輪神社)に祭られており、後の天皇もその祟りに恐れて鎮魂している。
私は失われたイスラエルの十支族は淡路島に流れ着き、その後紀州に渡らず四国を侵略したと言う仮説を立てているが、その時出雲と言う巨大な豪族・王族が覇権を持っていたので攻められなかったと考えると納得できる。
後にイスラエルの支族は九州で力を蓄え、神武の時代に東を目指したのではなかろうか?
古事記の出雲の国とりの物語の舞台は大和だったと考えると多くの疑問が解けてくる。

古事記編集会議「海彦と山彦の戦い」

2007-09-24 13:14:24 | 歴史
 古事記編集会議の小委員会から日向三代の前半の草稿があげられてきた。前回の核子に従って上手く纏められていた。
山彦が小舟に乗って着いた海の宮と、そこでの生活は「浦島太郎伝説」のそのまんまのコピーのようで、一寸新鮮味にかけ、編集委員をがっかりさせたが、他にいい変更案もなくそのままとした。
`浦島伝説'では太郎は一人で帰ってくるが、今回上がってきた草稿では、言い伝えに合わせ、山彦は綿津見神の娘・豊玉姫を娶るところとが違いの一つと成った。
それと`浦島'ではお土産が`玉手箱'であったが、今回は不思議な霊力を持つ二つの‘玉’とされてあった。`玉'と言う共通点があるが趣旨が解らなかった正委員(編集会議のメンバー)が小委員会のメンバーに尋ねた。「このお土産の‘玉’はどんな意味を持つのかね?」。あるメンバーが答えた。「言い伝えでは綿津見神は潮を自在に操る不思議な玉をもっていたという話があったので、海彦・山彦のその後の戦いの道具として使えると判断しました。と言うのも`玉'の名前が誠に意味ありげで`潮満玉'と‘潮乾玉'と言う名なのです」。
編集委員達からどよめきが起こった。と言うのも言い伝えでは海彦・山彦の権力争いは、最後は海上での戦いで決着がついたことを聞いていたからだ。伝承によれば綿津見神から海戦のノウハウを全て会得した山彦は、海彦との海上での戦いに潮の流れを巧みに使って勝利した、と言い伝えられているからだ。
これで海彦と山彦の物語はほぼ固まった。
海の宮から豊玉姫を娶って帰った山彦は、海彦と壮絶な覇権争いを演じ、不思議な玉潮満玉と潮乾玉を上手く使って兄海彦を懲らしめ、最後は兄が弟の軍門に下ったという物語がここに纏まった。
今日はまだ時間が大分ある。神武天皇誕生までの荒筋を考える事になった。
山彦の妃となった豊玉姫が神武の父となった鵜茅草葺不合命を生み、その命が豊玉姫の妹、つまり自分の叔母・玉依姫を娶って生まれた御子が神武天皇になったと伝承されている。
この間山彦が造った日向王朝は、安定して平和であった。伝え聞く所の争いは殆ど無かったと言われている。変な物で、編集委員にとっては古事記を作る上で、やはり波乱万丈な争いや恋が欲しい。と言ってもあまりに火の無い所にむやみに煙を出すわけには行かない。
ある委員から、「豊玉姫の一族(綿津見神のこと)は、南の海人の習慣を今に伝えている。お産も南の国の習慣で、水中出産されたと聞いているが、それを何か物語りに出来ないか」との提案があった。
何か良いネタは無いかとあせっていた委員たちは飛びついた。ある委員が妙な提案をした。「海人族の中には和邇(ワニ)族といわれている人達も居る。(ワ二は今で言う鮫の事である)豊玉姫がお産するとき鮫の姿に変わって水中で出産するという話は如何であろう」。
話題に事欠いていた他の編集委員は皆「まだ神代の物語だからそれも良いだろう」と異論無く賛同した。
しかし中にはぶつぶつと独り言を言う委員も居た。「神武天皇からはもう物語を人の世にしなければいけないのに、ここでこんな御伽噺を入れていいのだろうか」。
しかし彼の意見は独り言で終わった。
このお産のシーンの詳細は小委員会の知恵に任せる事とし、本日の編集委員会は解散とした。


古事記編集会議「日向三代」

2007-09-06 22:41:22 | 歴史
 天孫・邇邇芸命が日向の高千穂の峰に降臨するところまで纏まった。今日の議題は邇邇芸命の妃取りから神武天皇の誕生までどう纏めるかであった。暫定的に今日の議題を「日向三代」とした。
この章での大きな課題は、神代の物語から、人代紀に如何に不自然さ無く移していくかであった。そして日向での三代の王朝の暮らしは神代の物語として、それらしく御伽噺のような話題を加え、三代目の王子の誕生(後の神武天皇)を持って、人の世の始まりとすることで意見が一致した。
日向三代も神代とするコンセプトが出来た事で、編集者達には又楽しみが出来た。人の世とすると、あまり作り話が出来ないが、神話とすれば、史実や伝承を色々アレンジして、どのようにも編集できるので、その作業が楽しいし、又楽でも有るからだ。
先ず日向三代の荒筋を纏める事となった。
邇邇芸命は言い伝えによれば、薩摩半島の笠沙の浜に上陸したといわれている事、その土地の豪族の娘を娶ったという伝承が有るので、そのまま多少手を加えて編集する事とした。土地の豪族ではあまりにも田舎の娘と言うイメージが出てくるので、豪族は広く知られた大山津見神としたらどうかとの提案があり、みなの賛同を得た。
邇邇芸命の御子は三人居たと伝えられているが、今に伝わるのは二人の御子、火照命(ほでりのみこと)と火遠理命(ほおりのみこと)である。この二人の御子は激しい権力争いをしたらしいという話があり、それを基に物語を作ることとした。
或る委員から「火照命が漁業と水軍を所轄し、火遠理命が農業と丘の兵力を纏めていた事から、海幸彦、山幸彦と言う名で物語を作れないか」との提案があった。
「これは面白い話が生まれそうだ」と多くの委員が期待をこめて賛同した。
本来は核子を作れば後は小委員会に細かい話は任せるところであったが、皆が興味を示し海彦・山彦の話はもう少し踏み込んで荒筋を作ろうということになった。
先ず争いの原因を何にするかが話題になった。或る委員から、「山彦が釣りに興味を持ち、兄の釣り竿を借りて釣りに行き、針を無くした事から争いが起こる」としてはどうかとの提案があり、了解された。
話はどんどん膨らんで言った。その針を探しにあの浦島伝説の竜宮城に行く話を絡めたら面白い話になるのでは、と言う意見が出てヤンヤの喝采を受け採用が決まった。
話は更に膨らみ、山彦は竜宮城で乙姫様を嫁にしてしまえという乱暴な意見も出た。又、お土産にとんでもない魔力を秘めた玉を貰い、それで海彦を懲らしめるという案まで出た。
あまりに面白くて議論が発散し始めたので、今日の編集会議はこれでお開きとした。それにしてもここまで荒筋が決まれば、小委員会のメンバーの仕事は非常に楽なものになるであろう。
委員達から「今日は悪乗りしたな」と反省の弁も出たが、かなり満足したようで、この続きは飲みながらと言うことになり、夜の巷に消えていった。

古事記編集会議『天孫降臨』

2007-08-19 13:22:38 | 歴史
 小委員会から国譲りの細かい物語の報告があった。最後の建御雷神と建御名方神神の戦いで、建御名方神を諏訪の地に閉じ込めたと言う筋書きに、このところ民に人気があり、諏訪の神と言われるようになってきている建御名方神に対し、書き過ぎではないかと言う声が少数あったが、そのまま承認された。
その分大国主命を祭る宮を前例のない壮大なものを造り、大国主命を厚く祭ると言う物語を加えれば民の反感が和らぐであろうと了解された。
今日の議題は出雲から国譲りを得た後、神武東征に至る物語をどう纏めるかに移った。今日はその第一回と言うことで高天原から地上への降臨の物語をどうするかに絞られた。
実際に天津神一族が天上に居たわけではないから、何時、どの時代から、誰を地上の住人とするかはかなりの論争が有った。
「天照大神自ら降臨することにしてはどうだろう」などと言う意見も有ったが、物語の構成上、高天原を永遠に残さなければならないことから、天照大神は天上に残す事とした。当然その子の天忍穂日命と言う案があったが、この神は元々線が細く地上に降り立つ軍団のトップには似合わないと言う事になり、三代目であるが、若くして頭角を現していたニニギノ命を降臨の将軍にしたら如何?と言う意見があり、みんなの賛同を得て決定した。ここに天照の孫である事から‘天孫降臨’と言う名コピーが出来上がった。
人は何とか決まったが、何処に降臨するかが大激論となった。
最も容易な案は現在都になっている大和の地に降臨する案が、その後の物語の展開を考えた時一番イジーな案であった。しかしそうすると大和一族がしばらく過ごした日向の国の物語が一切語られないため、やはり九州・筑紫の国の何処かに、降臨の地を探すべき言う意見が圧倒的となった。
最終的に数箇所に絞り込まれたが、中々決着しなかった。
一つは霧島山系の高千穂の峰。
今一つは阿蘇山系の南にある高千穂峡。
そして邪馬台国の地と言う意見も合ったがあまりに歴史そのもので宜しくないと言う事で却下された。
高千穂の峰の推薦者は、霧島山系がこの世の景色とは思えぬ神々しさがある。この地が天より降るに最も適した地である。
一方高千穂峡の支持者もその渓谷の荘厳にして仙境を思わせる景観は神が降臨するに相応しいと一歩も譲らなかった。
しかし日の御子である事を考えると、霧島の山々は朝日が最初に指すところであることから霧島の高千穂の峰を降臨の地とすることに決定した。
降臨する神と、降臨する地が決まった。何よりも『天孫降臨』と言う名キャッチフレーズが出来た事が一番の収穫となった。
まだ時間も有ったので本来小委員会の仕事であるが、ニニギノ命が高千穂の峰に降り立った時の台詞まで決めてしまった。
以下がその時決まった台詞である。
「ここは韓国に向かい、笠沙の岬を真来通りて、朝日のただ刺す国、夕日の照る国なり。故、ここは甚(いと)吉き処。」
編集委員たちは「今日も夕餉の一杯が上手そうだ」と言いながら散会した。

古事記編集会議「大国主命の国造り」

2007-08-05 19:08:07 | 歴史
 大国主命の艶福家振りを物語の中心にすえ、八十神との戦いを絡ませ、愛と迫力ある物語が出来そうだ。
大きくなった出雲王国を如何に纏めるかについては、さすがの大国主命も前例のない事でもあり上手い知恵が浮かばなかったと伝わっている。
大国主命が女にだらしなく、国も一人で造れなかっただらしない男と言うイメージに描けば、大和朝廷にとっては望んだとおりの展開となる。言い換えると「そんな大国主命に任せて置けないから、国を譲らせたのだ」という大儀を前面に出せるからだ。
そこで大国主命一人では国が出来ず、進んだ隣国の知恵者の意見を取り入れたと言う設定で、海の向こうの新羅国から来た少名彦神と浜で巡り会う物語を盛り込むこととした。その時大国主命の身内の中にも少なからず居た参謀・崩彦も登場させる事とした。
少名彦神の協力でほぼ出雲王国の形が出来たが、まだ至らない事があるのに、少名彦神は帰ってしまったらしい。言い伝えでは最後の仕上げもまた今一人の神の力を借りたと言う。その神の名は大年神と伝えられている。只大年神についての伝承が少なかったので、少名彦神と同じく韓国からの知恵者と言うことで、海から現れる設定とした。しかしある伝承では大国主命の別名である大物主神とも言われているため、その話を無視も出来ないので加えることとした。この大年神の協力で出雲の国はほぼ固まったという。
大国主命に関わる物語はこれで骨組みがほぼ纏まった。各物語の肉付けは各節を担当する執筆者に任せることとし、編集委員会としては最も大事な国譲りをどう描くかに議題を変えることとした。
 まず高天原が好戦的であったのではなく、仕方なく武力による侵略になったという話を基本とすることとした。そのため「平和裏に国を譲るよう、‘平和の使者'を出雲王国へ何度も派遣したにも拘らず、出雲王国がこれに応じなかったので仕方なく武力の行使をせざるを得なかった」という筋書きにすることになった。
この基本線が上手く書き表せれば、やむを得ず大国主命を打つことになった大和朝廷の立場が理解され、大国主命を慕う多くの民も大和朝廷に対する憎悪が減り、‘出雲の侵略も決して無茶な侵略ではなかった’と理解されるとの期待が込められていた。
この戦略は何かに似ている。そう。アメリカが日本の生命線を次々に閉鎖し、無理矢理「窮鼠猫を噛む」状態に持っていった、太平洋戦争開始前の状況に似ていないか。歴史は繰り返す。古事記編集委員もまさかアメリカが大和朝廷と同じ手を使うとは、思いも及ばなかったであろう。

古事記編集会議「大国主命の物語」

2007-07-01 00:33:38 | 歴史
 今日の編集会議は出雲の大王・大国主命をどのように書き残すかである。
どうしても避けて通れないテーマが、大国主命の艶福家振りであろうという意見が圧倒的であった。
このテーマに沿って集めた大国主命の姫たちとの伝承は、想像していたとおり数え切れないほどであった。これらの姫達との恋の物語と絡ませて、大国主命の性格が見えてくるように構成する事となった。当時既に倭国の隅々まで大国主命に関する伝承がかなり伝わっていたので、それらを曲げて伝える事は宜しくないと言う事になり、イメージとしては受身型の人間として描く事に決まった。
次に物語に登場させる姫達を選択する事になった。
最初に選ばれたのはやはり若き大国主命の初恋の人と言われている因幡の国の八上比賣とし、因幡に伝わる白兎の話と絡めることとした。
次に選んだのは絶対に外せない人、正妻となったスサノオの娘・スセリ姫であった。物語は大国主命が兄弟神・八十神の迫害を受けスサノオの国まで逃げ、そこでスセリ姫と出会い、スサノオから与えられた数々の試練をスセリ姫と二人力合わせて乗り越えていく物語とすることに成った。
ここである編集員から意見が有った。それは「大国主命はスサノオの6代後の子孫としているのに、その娘と出会う事や、死の国・根の国に言ったスサノオが登場するのは如何なものか」と言う意見であった。
神話とはいえあまりの矛盾に一時会議は紛糾したが、「読者が上手くそれなりに判断してくれるであろう」ということでそのまま進める事となった。
次の姫は出雲の国にとって大事な国と成った越の国の沼河姫とすることになった。宗像の多紀理姫も候補として上げられたが、沼河姫を推薦する委員が多く、越の国に軍配が上がった。
沼河姫との熱き恋を描く事により、スセリ姫の嫉妬深いところも表現する事になった。
こうして大国主命の愛に満ちたラブストーリーがほぼ纏まった。
ここであまりに物語が甘すぎるのではと言う意見も多く、再度その構成の基本について討議された。その結果沼河姫の物語以前の全てに、八十神と大国主命の戦いを盛り込み、いかにして大国主命が八十神を従えたかと言う物語を絡ませる事となった。これを「八十神の迫害」として途中挿入する事と成った。
結果的にはこの八十神の物語を加える事により、物語に迫力が出て、今風に言えば「スリルとサスペンスに満ちた愛と感動のロマン」なる物語が完成した。
ここで編集委員が苦労したのは当時倭国の半分を占めていた出雲王国を、出雲国の中に閉じ込めるつもりであったが、あまり伝承と食い違ってもまずいという事で、その表現に苦労した事であった。例えば越の国までその統括範囲を広げてていたことについては、沼河姫との恋に置き換えた事、畿内とも同盟が出来ていた事は、大国主命が「倭国へ旅立つ・・・」と言う表現のみで表わした。また北九州豊の国の一部にもその力を及ぼしていたが、それは「宗像の多紀理姫を娶った」と簡単に記しておわりとした。
嘘は書いていないが表現により、読む人にどうでも解釈できるような、高等な戦略によって、大国主命の物語の構想がほぼ固まった。
次回少し詳細について詰める事として散会した。

古事記編集会議「国譲りのコンセプト」

2007-06-13 12:55:19 | 歴史
 卑弥呼の話と日食を絡めて作り上げた「天岩戸騒動」に、編集者達は皆満足していた。しかし邪馬台国の史実がそれ以後あまり定かに伝わっていない。そこでこの後神代から神武天皇に如何に繋げるかについて、大略を考える編集会議が開かれた。今日はそのコンセプト会議の模様を伝える。
卑弥呼の末裔とされる日向王朝の物語に移るまでは、スサノオが天下った比較的伝承の多い出雲の話を主体に話を進め、これに後に出雲を侵略する話を絡めて行く。
この時一般大衆に今でも(古事記編纂時)人気のある出雲の神々を悪者とせず描き、又天孫族が出雲の神々を如何に大事に扱ったかを描く事により、当時の豪族から民に至るまで大和王朝の正しさを示し、理解を求める事をコンセプトとすることに決まった。

 @出雲に伝わる伝承を基本とし、これに以下のようなコンセプトで書き加える
 @出雲国の王・大国主命をスサノオを祖とすることとし、天孫族との地位関係を明確にする
 @大国主命を良いイメージの神とする
 @随所に天津神の優しさを物語る

 こうして国譲りから天孫降臨に繋げていく土台を作ることとした。
 以上のコンセプトを基に引き続き出雲の物語をどう進めるかの具体的な会議となった。当然最初は高天原から出雲に天下ったスサノオを中心とした出雲の国づくりの物語にする案が出され、全く異論無く決定した。
出雲の国は当時鉄作りで倭国の最先端を走っていた。その様子が斐伊川の八山と八谷に跨り八岐大蛇が暴れているようだと言う伝承が紹介された。特に「夜になって鉄を造る炉の赤い火が大蛇の目の様だった」とか、「川が汚れて大蛇の腹を見ているようだった」などの言い伝えも加える事とした。
鉄の生産と結びつけ「大蛇を刀(鉄剣)で退治する話にしては?」と言う意見があり賛同を得た。これに大蛇の尻尾から出てきた名刀を天照に献上する事にする案が出され、編集者全員のヤンヤの拍手があり承認された。
更に会議は踊った。鉄作りで汚れる川は下流域の田畑を汚し、特に始まったばかりの稲作に大きな影響を与えていたと言う話があった。
この話を基にある委員から提案があった。「稲田の汚れを稲田姫と言う姫の災難に結びつけ、大蛇に虐められる話にはならないか」との提案があった。話は更に発展し、八岐大蛇だから八人の娘にしようと。
こうして出来たのが「スサノオの大蛇退治」である。
周知の話であるが古事記に纏め上げられた荒筋を紹介しておこう。
スサノオは出雲の国の肥の川(斐伊川であろう)の上流の鳥髪(今の船通川)に降臨した。ここで泣いている稲田姫とその両親に会う。訳を聞くと山に住む八岐大蛇に娘を捧げなければならないと言う。不憫に思ったスサノオは大蛇退治を引き受け、酒を用いた知略により見事に八岐大蛇を退治する。そして大蛇の尻尾を切った時出てきた太刀(後の草薙の剣)を天照大神に献上した。スサノオは稲田姫を娶り須賀の宮に住んだ。その時スサノオは日本で最初の歌を詠んだ。
 ‘八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を’
先ずは上手く出雲の国の物語のスタートが切れた。次回からはしばらくは出雲に伝わる伝承を楽しみながらの会議になりそうだと、晩酌を楽しみに解散した。



第三の海の道・高句麗ルート

2007-06-05 00:30:06 | 歴史
 今日は古事記編集会議をお休みして、久しぶりに古事記から離れた話をしたい。
以前このブログで倭国への渡来ルートは幾つも有り、黒潮ルート、魏志倭人伝ルート、そして日本海の親潮を利用した第三のルートがあることを述べてきた。
第三のルートにも(その一)、(その二)があることも述べた。(その一)とは新羅国辺りから親潮に乗り出雲・山陰にたどり着くコース、(その二)が高句羅国(時代によっては渤海国)から親潮に乗り山陰を通り過ぎ北陸から越の国に辿り着くコースがあることを述べた。
黒潮ルートを利用した王族が大和朝廷であり、百済との関係が深い。魏志倭人伝ルートは当初は朝鮮の各国が利用していたと思われるが後に大和朝廷がそのルートを押さえたのではないか。そして親潮(その一)の新羅関係の渡来人が出雲王国を作り、親潮(その二)の高句羅が越の国を造ったと言う仮説を提示してきた。
歴史研究会が発行している月間の機関紙・「歴史研究」第552号を読んだ。その中に「信濃の夜明け 壮大なパノラマ」と題する随筆が載っていた。筆者はY氏。
この中に私の気持ちを高ぶらせる記述があった。それは「信濃川の上流の千曲川の支流に犀川があり、その川沿いに点々と築かれている積石塚遺跡は、高句羅の葬送儀礼様式である」と書かれている。そしてこの事実は善光寺平に住み着いた人々が、高句羅からの渡来人が多いことを示していると語っている。更にもう一つの資料が肉付けをしてくれる。それは「大室古墳群のある高井群高井造りの出目が、弘仁六年(815年)に完成した「新撰姓氏録」に高句羅国主雛牟王二十世の孫汝安祁王なり」と出ている事が高句羅系渡来説を補強してくれるとしている。
私が古事記の解釈で述べた、国生みで‘何の脈絡もなく突然佐渡島を生む話’と言う記述は、イスラエルのある支族が越の国を攻略するために、まず佐渡島を攻略した事を表わしているという説を展開した。その支族は親潮ルート(その二)に乗って高句羅辺りから渡来したのであろうとしたが、この仮説を裏付ける物は、日本海の海流を表わす地図くらいしか無いので、机上の空論的なものであった。
しかしこの「歴史研究」の随筆で、越の国と諏訪地方が深くつながることが証明された。また話が跳ぶが諏訪大社に祭られている御祭神・建御名方神が新潟から信濃川、千曲川を遡り、諏訪の地に入ったのではないかと言う話しの裏づけにもなる。
ここに漸く私の仮説が空論でない事が裏付けられたようで本当に嬉しい。
高句羅からの渡来は越の国が形づいたあとも長く続いたであろう。後に大和王朝の血が途絶えそうになったとき、応神天皇の五代孫として越の国から畿内に入り、大和朝廷を次いだ継体天皇も、このルートに乗った高句羅系の天皇であったと想像している。
古代の天皇の中に`神'の字が付く天皇が三人居る。神武天皇、崇神天皇、応神天皇。私はこれらの三人が百済、高句羅、新羅のそれぞれの出目の初代天皇ではないいかと言う大胆な仮説を考えているが如何であろう。



古事記編集会議「弟神・素戔鳴尊の造反」

2007-05-29 14:32:53 | 歴史
 伊邪那岐命政権が天照大神に移譲された話まで纏まった。弟神のスサノオの造反についてどう記すかが今日の編集会議の主題となった。
荒筋としてはイザナミが完全に引退した後の物語とし、姉神・天照に対しさまざまな妨害や狼藉を働き、戦いを挑んだ様をどのように神話化するか、頭を悩ました。
先ずスサノオにが何故姉に戦いを挑む事になったかについて話し合った。結論として「海原を治めよ」という、本人の希望と大分違った役目を申し付け、言う事を聞かぬスサノオを根の国に追放した話で始め、後の造反の基とした。
伝わっていた史実はイザナギ系の天照大御神と、イザナミ系の素戔鳴尊の派閥争いが元の話であったのではないかと私は考えているが、神話を依り面白くするために編集者達が考えたのが以上の物語であろう。
そして天照大神がこのスサノオとの戦いでなくなった話を、天岩戸の物語としたと考えている。その根拠は私は度々天照大神を卑弥呼に置き換えているが、卑弥呼が死んだ年と言われている西暦247年、249年に北九州に二度にわたって皆既日蝕が起きている。(本件は安本美典先生の著作「倭王卑弥呼と天照大御神伝承」に詳しく載っているので参照されたい)
当時は当然皆既日蝕などと言う物理現象が解る訳は無いので、言い伝えを聞いていた編集者達は、昼間太陽が隠れたのは太陽神・天照大神の仕業だと言う話と結びつけ、日の神・天照大神(卑弥呼)が隠れて、世の中が暗くなった話としたらどうかとのアイディアが出て、これをベースに物語を作ることとした。
この基本構想がどのように古事記に表わされたかを見てみよう。
イザナミがスサノオに「汝は命じた国(海原)を治めずに、哭いているのか」と聞くと、スサノオ曰く「僕は母(イザナミ)の国・根の堅州国(ここで黄泉の国が根の堅州国に変わっている)に行きたくて哭いている」。イザナギ曰く「ならばこの国(高天原)に居る事ならぬ」と追放した。
イザナミは天照に高天原の運営を任せ懐かしい淡路島に隠居した。
イザナギのいなくなった高天原を組みやすしと見たスサノオは、乱暴狼藉の限りを尽くす。田の畔(あぜ)を壊し、その溝を生め、神殿を汚し、機織を壊し、機織女も殺してしまった。
あまりの狼藉に驚いた天照が天岩戸に隠れ、扉を閉めたため、世の中全てが暗くなってしまった。その後有名な天岩戸物語を経て再び高天原は明るくなった。
 以上が荒筋である。このスサノオの乱暴について、ある本で「狩猟民族であった縄文人が、稲作文化を持ち込んだ弥生人に戦いを挑んだ話を神話化したのではないか」と言う仮説があった。確かに田を壊したり、機織機を壊すというのは新しい文化を破壊している様子と理解できる。私はスサノオが高天原を追放されて国津神となることから、この仮説が基になってこの物語となったのではないかと思っている。
 そして再び天照が現れたとする天岩戸の物語は、先に紹介した安本先生の本の中に、次のような解釈が述べられている。魏志倭人伝には、天照大神の死後、その宗女・台与がその後を引き継いだ話が記載されているが、台与の登場を天照大神が再び現れるという神話として残したのではないか。
その台予の登場を編集者が天照の再来として「天岩戸物語」とした様子を見てみよう。
 真っ暗になった高天原を何とかしようと、八百万の神が天之安河原に集まって協議した。鏡を作り、珠を作り、天之児屋尊が祝詞を上げ、これに合わせて天の宇受命が乳かき出し、紐を陰に押し当て踊った。これに八百万の神が大笑いした。この騒ぎに驚いた天照大御神が何事かと岩戸を一寸開けた時、その隙間に手をかけた天之手力命が岩戸をこじ開け、天照大神を岩蔵から引き出し、ここにめでたく高天原は照り輝いた。
今日の編集会議は大きな成果があった。史実に残る邪馬台国の女王・卑弥呼の死と、その後を継いだ卑弥呼の宗女・台予の話と、その当時北九州にあったと言われる太陽が隠れ昼が暗くなったという伝承を上手く組み合わせ、天岩戸物語と言う神話らしい神話が出来たことに全員が満足して編集会議が終わった。

古事記編集会議「イザナギの軍拡」

2007-05-20 01:02:23 | 歴史
 今回の編集会議はイザナミと別れ、単独政権を確立したイザナギが、出雲国の軍備増強に対抗するため更に軍拡をして行ったと伝えられる話をどう纏めるか。その後イザナギの政権が安定し、天照大神に政権を譲った話をどのように纏めるか議論する事になった。
出雲・イザナミ側の軍拡は既に次のように表わしている。「黄泉の国のイザナミの頭から、胸から、腹から、陰から、左右の手足から八柱の雷神が生まれた。この軍装備に恐れをなしてイザナギは逃げ帰った」。
またイザナギも既に「もしイザナミが千人生めば、吾千五百人を生む」と軍拡宣言している。
黄泉の国(死者の国)から高天原に帰った伊邪那岐命は、直ちに軍拡に取り組んだと伝えられている。その様子は今までの物語と同じように、新たな神生みで表わす事になった。そして「黄泉の国(死者の国)から帰った物語としたのだから、禊をし無ければならない。その禊した物から神が生まれる話はどうか」との案が出され異論なく決定した。
具体的には伊邪那岐命が黄泉の国に行った時身に着けていた品々(杖、帯、袋、着物、袴、冠、手巻きなど)を禊した時に神が生まれる事とした。それだけではその後に作られた閣僚の数に比して少なかったため、伊邪那岐命が体を禊した時にも神が生まれた事にして、合計26柱の神を作った。その中には安曇族の祖となった底津、中津、上津の各綿津身神や、住吉三神と成る底、中、上筒男神があった。安曇族も海に長けた一族、住吉三神も海の守り神とされている事から、主に水軍の増強を表わしていると判断できる。(既に山津神(陸軍)は沢山生んで有る)
次に今日一番重要な議題、伊邪那岐命内閣の後継者たちの誕生を、どう表わすかの討議に入った。纏まった案は伊邪那岐命が顔を洗うときに、目や鼻から生まれることに決まった。
伊邪那岐命は顔を洗う。左の目を洗ったときに天照大神、右の目を洗った時に月読尊、最後に鼻を洗った時、素戔鳴尊が生まれる話で纏まった。
こうして高天原で最も大事な神・天照大神が生まれるところまで物語が進んだ。この三柱の神を‘三貴子’と呼ぶ事になった。
この話から見えることは単なる軍拡ではなく、邪馬台国全体の組織固めが行われ、イザナギから見てもほぼ安心して引退できる体制が出来た事を表わしているのではないだろうか。
編集委員は次の伊邪那岐命の言葉で、邪馬台国・高天原の体制が整った事を上手く表わした。「この時伊邪那岐命、大(いた)く歓喜びて詔りたまひしく、『吾子を生み生みて、生みの終(はて)に三柱の貴き子を持つ』と詔りたまいき」。
古事記の編集者達はイザナギ、イザナミを夫婦神とし、国や神を生む話を進めてきたが、ここに来てついにこの物語を構成する基本事項を根底から崩してしまった。それは男の神である伊邪那岐命が、単独で沢山の神を生む話としてしまった事である。否、せざるを得なかったのであろう。
もし編集者達が最初から私の物語のように、「イザナギ、イザナミは共に勇猛な武将であった」と言う仮説で話を進めてくれば、ここに至り‘男の神が子を生む’と言うしまらない物語には成らなかったであろう。
古事記の編集者達はこの不都合には目を瞑り、次のテーマ、伊邪那岐命から天照大神への政権委譲の話へ議題を写した。
古事記の中でも次の話は、天孫降臨物語に並ぶ大事な一節である。それは最後に生まれた三貴子の内から、大和一族の祖と成る神を決める物語だからだ。
この一節は議論の余地はない。編集会議前の大和朝廷の指示通り、言い伝えに従い当時の女王(卑弥呼であったと思う)を、天照大神と言う名とし、大和一族の祖とした。古事記には次のように記す事とした。
「すなわち御首珠お玉の緒もゆらに取りゆらして、天照大神に賜ひて詔りたまひしく、『汝尊は高天原を知らせ』と事依りさして賜いき。」
ここに伊邪那岐命より高天原の統治権が天照大神に委譲された。

古事記編集会議「イザナギとイザナミの戦いについて」

2007-05-12 19:58:52 | 歴史
 天武天皇より出された古事記編集方針の命題の一つに、「イザナミとイザナギが争いは上手く表現せよ」と言う事が有った。編集委員たちはこの難しい命題に対し、出した答えが「火の神・火之迦具土神を生んだことにより、イザナミが女陰を火傷して死に、出雲国と伯伎国の境の比婆山の山中に葬られる」と言う物語だった。然しもう少し上手い話が作れなかったのだろうか。失礼ではあるが今まで上手く作ってきた物語に比べ、編集委員たちの力量を疑ってしまう。
神話に隠された古事とは、イザナミがイザナギとの政権争いに負け`野に下った’。そしてその`野'とは出雲国と伯伎国との境の比婆山だったと思われる。その後イザナギは軍備の増強を図りながらも、イザナミともう一度同盟を組むべく出雲の国へ説得に出向いたが、交渉は難航し、最後は決裂する。そしてお互い軍拡への道を歩んだ。編集委員はそこまでの話をどう脚色するか討議に入った。
イザナギの軍拡は、イザナミが死ぬ原因となった火之迦具土神を殺した事により生じた反吐や尿、糞、血、最後は刀の柄からも、更に頭や腹、手、足から次々と神が生まれる話で表わす事とした。
私がこの話を何故軍備増強の話と言う解釈をしたかは、このとき生んだ神の中に武勇で名をはせた建御雷神や建経主神が生まれていることから推察した。
イザナギが再度の同盟を結ぶべくイザナミを訪ねたが、話は決裂し、その後お互い軍拡に走る話は次のようにアレンジする事となった。
まず死の国・黄泉の国にいるイザナミを訪ね「愛しき我汝妹の命、吾と汝と造れる国、未だ作り意へず、故、還るべし」と説得する。どうだろう。この台詞は誰でもが、壊れた同盟関係をもう一度修復しようと言っていると解釈出来る。表現があまりにも即物過ぎて、編集委員の努力の跡が見えない。しかしその後は神話の世界らしく纏めたと評価できる。それは、イザナギが見てはいけないイザナミの汚れた姿‘蛆がたかった頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には折雷居り、左手には若雷、右手には土雷、左足には鳴雷、右足には伏雷、合わせて八柱の雷神居りき’と表現したのは、イザナミ軍の力をそれと解らないように示したのであろう。中々である。そしてその軍備に驚いたイザナギが、醜いイザナミを見て逃げる話として表わしたのであろう。つまり編集委員は、説得にきたイザナギに対し、イザナミは自軍の装備を示し、同盟の決裂の意思を示した話をこのように表現したのではないだろうか。
争いとなった二人はお互い次のような捨て台詞を交わす。「イザナミ曰く『愛しき我が汝夫の命、かく為せば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ。』と言いき。ここにイザナギ詔り賜まいしく、『愛しき我が汝妹命、汝然為せば、吾一日に千五百の産屋をたてむ』と詔りたまひき。」
どうだろう。今度は編集委員上手く纏めた様に見えるが、私如きにも見破られてしまうようでは心もとない。翻訳すれば「お前(イザナミ)が千人の兵を持てば、私(イザナギ)は千五百の兵を増やすであろう。」と言う互いの軍拡の話と解釈してよいだろう。
これまでの古事記の‘黄泉の国’の物語を要約すると次の如くなる。「イザナミとイザナギの夫婦神が、火之迦具土神を生んだ。その時イザナミが女陰の火傷が基で死に至り、出雲に葬られた。その後墓の中のイザナミに会いに行った(見に行った)イザナギが、イザナミの怒りを買い、最後は争いとなった。」
そして編集委員が隠した古事とは「淡路島攻略以来続いていたイザナギとイザナミと言う二人の将軍の同盟が壊れ、一方のイザナミが野に下った。イザナギが再度の同盟を求めて出雲へ説得に出向いたが、結局は和解はならず、以後出雲国と大和一族(邪馬台国)が軍拡を競う事となった」と言うことではないだろうか。そしてこの物語はこれからの出雲国と大和一族(邪馬台国)の争いの序章を表わしている様に見える。
難しいイザナギとイザナミの別れの話が上手く纏まり、編集会議は無事終わった。
次の議題は天照大神の誕生の物語である。

古事記編集会議「神生みの節」

2007-05-05 10:06:00 | 歴史
 国の形が出来たところで次の記述についてどうするかの会議が開かれた。ある編集員から「その当時の国の体制、官僚や各地に散らせた地方長官などを、夫々神として表わし、それらを国生みに継ぐ神生みの物語にしたら如何。」提案された。
流れとしては非常に良いのではないかと言う意見が多く、異論無く決定された。
それでは大和朝廷の閣僚や地方長官がどのようになっていたか、神生みの物語を同じ視点で見た人がいる。「古事記は神話ではない」を著した桜井光堂氏だ。
氏の考えを紹介しよう。大綿津身神・・海洋魚業大臣、天之水分神・・農業用水配分長長官、天之久比箸母智神・・灌漑用非常放水長等が揚げられている。
以下は岩波社の古事記の訳注を参照にした私の考えである。
*大事忍男神、石土毘古神・・石や土の人格化と言う註から土木大臣
*天之吹男神、大屋毘古神・・吹男を葺男と書き換えれば、屋根を葺く・家を立てるから建設大臣
*水戸神・・河口を治めるから港湾大臣
*沫那芸神、沫那美神、頬那芸神・・この三神は水戸神の子と言うことから、沫を波と読めば、港湾大臣の下部機関、今の海上保安庁か
*天之水分神・・訳注に分水嶺を司る神としている。古代も今も水の権利は重要である。今で言う水道局長か
*大綿津美神・・桜井氏は海洋魚業大臣としているが、既に上述の様に港湾関係の神が多数いることから考えると、また俗に海神と言われている事から見て海軍大臣であろうと考えている。従って後に出てくる大山津見神は陸軍大臣であろうと考える。
以下省略するが風の神、水の神、野の神、火の神、鳥の神、食物の神など総計40柱の神が登場するが前例のように読み進めば、皆夫々の所轄する職務が見えてくる。
従って古事記の神生みとは大和朝廷に伝わった大和一族(邪馬台国)の行政機構の重要な大臣達を、神として残したものと解釈できる。例えば後に神武が東征する時重要な役を務めるのが陸海の武将であるが、日向三代に登場する大綿津身神と大山津見神はその陸海を所轄する大臣と考えれば納得できる。
このように解釈してくると次のくだりは編集委員たちにどのような意図があったのだろうか。言い換えると何を後世に伝えようとして作られた話なのか理解に苦しむ。その話とはイザナミが火の神・火之迦具土神を生んだ時、女陰の火傷が原因で亡くなるという話だ。この話は以後のイザナギとイザナミの争いに繋がる重要な一節である。
私の解釈はこうだ。実はイザナギとイザナミは夫婦神ではなく、大和一族を支えてきた両雄であったという考えだ。淡路に上陸してから二人の知恵と勇気によって連戦連勝してほぼ倭国の大半を得、新しい国造も一段落着いたとき、次の戦略に方針の違いが出た。それは火の神を生むということではなかったか。火とは武器(鉄器、青銅器)を作る事を意味していたと考えられないか。つまり二人は軍事力をどうするかと言う基本的な問題で争ったのではないだろうか。
以前このブログでこの問題を考えた時、イザナミがイザナミのいう事を聞かず或る戦いに出て、火傷を負った事を表わしているのではないかと言う考えを述べたが、この新しい仮説の方が、より適切な仮説であろう。
どちらの仮説にしろ結果はイザナミが負け、高天原・邪馬台国を去ることになった。
神生みを議題とした編集会議はここで終わった。次の議題はイザナギとイザナミのその後の戦いを、どのような物語として残すかを議題とすることなった。



第3回古事記編集会議「国生み」

2007-04-25 06:04:59 | 歴史
 T・親王から国生みの物語についての提案があった。「私が神であったなら`大八島国’(本州)を先に造り、四国、九州と続け、順に大きな島から小さな島へと生んでゆくこととしたい」。この提案に対し天武天皇からの命を受けていた皇室の高官から「もっともな意見であるが国造りは吾らの祖先が倭国にたどり着き、そこから領地を広げていった過程を何とか残せないか」との要望があった。
会議は中々結論が出なかったが、この高官の意見を取り入れ、イスラエルから倭国へたどり着いた地を最初に生み、順次侵略の過程を国生みの順序とすることに決まった。しかし読んだものがすぐに‘国生みの物語'が侵略の歴史を書いたものであることに気が付かないようにする必要もあり、国生みの流れの中に他のイスラエルの支族が倭国へ入った地を、国生みの物語に取り入れることにした。他の支族とは出雲王国を作った一族と、越の国を造った一族である。これらの原案を基に言い伝えを次のように整理する事となった。
 黒潮に乗って太平洋を北上してきたヤマト族の祖先の人々は、その時の季節風のため九州には上陸できず、四国を通り過ぎ、紀伊水道に入り、その幾つかの島に上陸した。しかし最初の`水蛭子(ひるこ)島’と‘淡島’は小さすぎて拠点にならなかったため、更に紀伊水道を深く入り淡路島を発見し上陸した。この島は倭人が少なく、倭国侵略の拠点にするには最も適当な地と判断され、ここを拠点とすることにしたと伝えられている。
しばらく淡路島に留まり体制を整えたヤマトの一族は、東の紀州を攻めるか西側の四国を取るか迷ったが、紀州に強い勢力が在る事が解り、攻め易そうな四国から入る事となり、瞬く間に四国4国を占領した。
国生みの序章はこの言い伝えを基に作ることになった。このあと筑紫の国に攻め入ったと伝えられているが、このまま筑紫の国生みに繋げると、後の世の人々に「この国生みは侵略の歴史ではないか」と見破られる恐れがあるため、最初の筋書きの通り他の支族(以下出雲族とする)が出雲取りに入っていた言い伝えに基づき隠岐島生みとした。出雲族の隠岐の島取りも、四国の前に淡路島を取ったヤマトの戦法と同じで、まず出雲の沖に浮かぶ隠岐の島を拠点にしたと伝えられている。
隠岐島を生んだ後は再び大和族の話に戻り、筑紫の国生みとした。筑紫攻略の初期段階では日向国までは取れていなかったので、日向を除く筑紫国4国の国生みに留める事とした。筑紫の国4国を平定した後周辺の壱岐の島、対馬を取ったのでこれも国生みに入れた。この後は先の手法を取り入れ、もう一つの支族が越の国を侵略した事を入れ、佐渡島を生むこととした。
対馬を取った後大和族は瀬戸内を戻り、淡路島を拠点に畿内を除く紀州の周辺地を侵略した。畿内にはかなり強い勢力があったため、その勢力地を避けた事による。
畿内攻略は後にする事とし、しばらく淡路島にて休養した後、瀬戸内を通って筑紫の国に帰る途中、吉備児島、小豆島、大島、女島を従えて行った。筑紫へ戻った後残っていた大きな島・知訶島(五島列島)と両児島(男女群島)を取った。
国生みは初期の意図通り、イスラエルの支族の侵略の歴史を残しながら、それとは直ぐには解らない様な物語として纏める事ができた。
古事記の第3回の編集会議はここで終わった。古事記はこの後国生みについて一切触れず神生みに移る。この国生みの記述だけでは山陰地方や越の国(今の北陸から新潟まで)が含まれていないが、先に記したように隠岐の島を生んだ記述が山陰地方までを意味し、佐渡島を生んだ記述が越の国を造ったと解釈すれば、北限を越の国とした当時の倭国を全て生んだと解釈する事が出来る。九州の日向や勿論関東や東北を生んでいないということは、その当時イスラエルの3支族による国取りが、そこまで及んでいなかったと考えれば理解できる。即ち国生みの物語とはイスラエルの支族の支配地を表わした記述に他ならない。そしてそれらの残りの地は古事記の以後の記述の中に、例えば出雲の国譲りや日向3代の物語、神武東征、日本武尊による関東征伐などによってヤマトの領地と成っていく様が表わされる。
ここで改めて古事記の記述はここに表わさないが、こうしてイスラエルの3支族による国取りの様子を、国生み物語にアレンジするという難題を解決し、無事‘国生み物語’の節は完成した。
国生み物語がこの様にして作られたと仮定すれば、国生みが何故本州から始まらず、淡路島から始まり、何故壱岐島や佐渡島に跳んだのかと言う疑問が全て解ける事になる。

第2回古事記編集会議

2007-04-08 10:57:59 | 歴史
 第一回の編集会議で出来たコンセプトを下に、編集委員が集まり具体的な物語の核子を作ることになった。
先ず倭国の国生みに至る天地創造に関しては、旧約聖書(以後聖書と略す)の「始めに神、天と地を創造(つくり)たまえり」を引用しする事とし、「天地始めて発(ひら)けし時・・・」と言う言葉で始める事に決した。聖書はそのあと「神が諸々の動物や植物を作った」としているので、これを多少アレンジし植物や土、泥などを神格化する案が出され、検討を重ね10柱の神を作った。参考に岩波文庫の古事記の註訳に記されている神代七代の神々が、何を神格化した神なのかを記しておく。国之常立神=国土の神、宇比地邇神、妹須比智邇神=泥、砂の神、角杙神=杙の神か?、その他居所の神、人体と意識の神などなど。最後に天武天皇より出された「国生みの神の名はイザヤの名を参考にせよ」と言う話を基にし、聖書のアダムとイブにあたる神の名を、「イザナギとイザナミとしては如何」と言う名案が出され満場一致で採用することに決まった。
イザナギ・イザナミが倭国を産む話については「ユダヤの風習を取り入れてはどうか」との提案があった。その風習とは「まず新郎新婦は天蓋の下に入る。それから花婿がそこに柱のように立ち、彼の周りを花嫁が廻る。そして『アナ・ニャサ』と言って結婚する。」と言う話であった。ヘブライ語で「アナ・ニャサ」とは「私は結婚する」と言う意味になる。この話はノーマン・マクレオド著・久保有政氏訳の「日本固有文明の謎はユダヤで解ける」からの引用である。
古事記の編集者はこの話を取り入れることを決め、古事記の物語は次のように成った。イザナギが「天の柱を先の如く往き廻りき。ここにイザナギ先に『あなにやし、えおとめを』と言い、後にイザナミが『あなにやし、えおとこを』と言いき。」となった。編集者達は上手くアレンジ出来た事に満足した。
岩波文庫の古事記の注釈には、「あなにやし」と言う言葉について次のように解説している。「‘あなに’は‘あれまぁ’、‘や’と‘し’は感動の助動詞、‘えおとこ’は良い男の意、‘えおとこを’の‘を’は感動の助詞」と説明している。
私は岩波文庫の古事記の注釈には無理がありすぎると思う。私の持っている古語辞典にはそれらしき言葉が載っていないので、‘あなに’が‘あれまぁ’ですと言われれば、古語を知らぬ身にとっては「ああソウですか」と頷くしかない。更に`や'、`し'が感動の助動詞で、‘を’は感動の助詞ですと言われても「そんなものですか」と、首を傾げながら権威ある岩波文庫に従わざるを得ない。
私の考えを述べたい。広辞苑で助動詞を引くと「常に他の語の後について使われる語の内、活用する語。例・・男ありけりの‘けり’、花散りきの‘き’、知らないの`ない'」と出ている。助詞は「常に他の語の後に付いて使われる語のうち、活用しない語。例・・梅が香の`が'、君だけ行けの`だけ'、水こそ流れるの`こそ'、花咲けばの`ば'、行くぞの`ぞ'、花よ咲けの`よ'の類」と載っている。
素人がクドクド言うのもはばかれるが助動詞が二つ繋がり、更にその後に助詞が続くというのは、同じ日本語であれば古語とは言え違和感がある。特に助詞は二つの言葉を繋ぐのが本位であれば、言葉の末尾に付くのはなんとも可笑しいと思うがどうだろう。更に勢いで言わせて貰えば岩波文庫は「あなに」は「あれまぁ」と注釈している。「あれまぁ」は感動詞であろう。感動詞の後に感動の助動詞と感動の助詞が続いている事になる。広辞苑で感動詞を引くと「感動や応答・呼び掛けを表わす語。単独で文となりえる。・・・他の語に修飾されることもない」とある。このまま解釈すれば「あなに」の後ろに感動の助動詞はいらない事がわかる。
素人が如何に吼えても仕方はないが、以上のような素人学者の解釈を基に、心の中で「あなにやし」は「ヘブライ語だな」と思っている。非難中傷を覚悟して言えば、学者さん達は「‘あなにやし’がヘブライ語である」と言う事は出来ない。なんとしても大和言葉として解釈するしかないため、仕方なく一字一字に分解し、考察するしかなかったと推察している。御同情申し上げる。
「あなにやし、えをとめを」とは「美しい乙女よ、私と結婚しようよ」であろう。
第2回編集会議はイザナギとイザナミが結婚し、国を生むところまでで時間が来た。次回のアジェンダは「国生み」である。

古事記作成編集会議

2007-04-06 18:31:55 | 歴史
 古事記の‘神代の巻’冒頭に、古事記をなした太安万侶の序文が載っている。そこには天武天皇が述べたお言葉が次のように載っている。「朕聞きたまえらく、『諸家のもたる帝記及び本辞(先代旧事本紀)、既に正実の違い、多く虚偽を加ふ』と言えり。今の時にあたりてその失(あやまり)を改めずば、未だ幾年を経ずしてその旨滅びなんとす。これすなわち邦家の経緯、王家の鴻基なり。故これ、帝記を選録し、奮辞を討覈して、偽りを削り、真を定めて後の世に流(つた)えむと欲(おも)う。」そして太安万侶は天皇のお言葉に従い、語り部の稗田阿礼と共に古事記を編纂したとされる。
これからは私の妄想である。古事記が編纂されていった過程を再現してみたい。
まず天武天皇とその側近が集まった。天武天皇より「神武天皇の時代以前を神代の物語として組み立てること」と提案された。このコンセプトを基に第1回の編集会議が開かれた。
まず天皇から次のような条件が出された。
1.旧約聖書を参考にして天地創造の物語と、創生の神々の物語を冒頭に語れ。
2.倭国を造る神の名は、イスラエルの預言者のイザヤの名を参考として考えよ。
3.邪馬台国の女王`卑弥呼'を天皇家の祖とし、その名は太陽神を基に考えよ。
4.神々の住むところの描写は邪馬台国を参考とするが、その名は我等が祖・アブラハムの故郷タガマ・ハランを基に考えよ。
5.最初に地上に降りる神の名は天皇家のイスラエルの支族の祖であるエフライムと同じ意味にせよ。
6.神々の系図はイスラエルの支族の家系図を参考にせよ。
7.出雲王国との戦いは事実を伝えず、倭国国民から反感を買わぬよう、大国主命を讃える物語とせよ。
8.倭国の名に約束の地カナンを参考に考え残すこと。
9.神武天皇の建国の年は、イスラエルの支族がアッシリア帝国から解放された紀元前660年頃に設定せよ。従って神武天皇以後の天皇の治世の年数を調整し、記録の残る天皇の年代と合わせられるようにせよ。
おおよそ以上のような原案が出された。これに対して太安万侶他側近達が、知恵を持ち寄り考えた結果は以下の通り。
@預言者イザヤの名から伊邪那岐命と伊邪那美命とした。
@卑弥呼は太陽神として天照大神と言う名にした。
@神々の住むところはタガマ・ハランを基に高天原と言う名を考えた。
@エフライムと言う意味はヘブライ語で「実り多い」と言う意味である。日本の古語で同じ意味を持つニニギとした。
@(家系図の詳細は別途とするが)聖書を基に天照から神武まで上手く出来上がった。
@‘国取り’であったのに‘国譲り’と表現を変え、大国主命を讃えた物語とした。国譲りで出雲をヘブライ語のカナンと同じ意味の、豊葦原水穂の国とした。
@神武天皇即位の年は紀元前660年に設定した。
このようにしてみると冒頭の天武天皇が述べた言葉がむなしく響いてくる。「・・・今この時に当たりてその誤りを改めねば・・・偽りを削り真を定めて・・・」。
とはいえ私は‘古事記は史実が核になっている’という考えを強く持っているので、視点を変えて見れば、検討結果は史実と旧約聖書の世界を上手く混ぜ合わせ、見事な神話の世界を作り上げたと言える。編集者・太安万侶の力量に心から拍手を送りたい。
第2回目の編集会議の模様を次回紹介する。