嫌いになるのは怠惰
/藤倉大
日本を代表する現代作曲家、
と呼ばれるのを本人は嫌っているらしいが、
とにかくその藤倉大氏がラジオで語っているのを聴いた。
嫌いになるのは怠惰。
あるレベルまではたしかにその通りだろうと思う。
音楽であれ、本であれ、映画であれ、
いや、そういった表現活動に限らず、たとえばそれが人であれ、
好きになるのがたやすいのは、
それまでの自分に馴染みやすいもの、
馴染みのないものをすぐに好きになれというのは無理がある。
嫌いになるほうが、「怠惰」というよりは「楽」だ。
けれど、そこですぐに安易に「嫌い」という一言で片付けてしまっては、馴染みやすいものだけで周りを囲むばかり、
結果、自分の趣味も表現も人間関係も少しも広がることはないだろう。
自分自身、いつの頃からかこの言葉を自らに言い聞かせ、
音楽にしろ本にしろ映画にしろ人間関係にしろ、
すぐに「嫌い」の断罪を下すのは極力避けるようにしてきた。
初めて触れた音楽や本や映画や人が、
どんなに馴染みにくそうなものであっても、
心がけていたのは、「好き」か「嫌い」かの評価の、
取りあえずの判断留保、態度保留。
それは、自分の世界とやらを広げるのに役に立ったと思う。
が、あるレベルを超えるとそれは、
自分が本当に好きなものは何なのかを見失う、
そんな罠にはまりかねない危険な言葉であることを知ったのは、
まさにその「罠」にはまっているのかもしれない今の自分に気づいたからだ。
何でもすぐに「嫌い」にならない。
その上で「好き」を見失わない。
これは、
自分にとって、
それほど簡単なことではなかった…
どうせ抜けられない泥沼なら
せめて蓮の花でも咲かしてみようじゃありませんか
/おとわ
時代劇好きが歳とともに高じてきている。
が、
時代劇なら何でもいいというわけにはいかないらしい。
武士であればお家のこととか、
それ以外であれば身分のこととか、
本人にはどうにもならないところで、
あるいは本人にはどうにもならない事情で本人の動きが決められてしまっている、
しまってはいるのだけれど、
その中で一本、
とても狭くて細くてどこかに向かっているのかさえ分からなくても、
それでも、
自分にしか貫けない道を貫こうとする。
そう、
大事なのはこの、「貫く」感。
これがないまま、
ただ現代にも通じるような人間関係を江戸の暮らしに当てはめて見せるだけっていうのは、
ちょっと「時代劇」とは言えない気がしてしまうのだ。
『必殺仕事人』で、
山田五十鈴演じる元締めのおとわが言った台詞。
説明の必要もいらないと思う。
抜けられない泥沼でせめて蓮の花をと願う「貫く」感。
自分も日々指針にしたいくらいの「貫く」感。
そして思うのだけど、
本人にはどうにもならないところで、
あるいは本人にはどうにもならない事情で本人の動きが決められてしまっている、
これって別に、
お家とか身分とか時代劇の世界特有の話ではなくて、
今の自分らにも通じることなのではないかな、と…
怒りは敵と思え
/ 徳川 家康
怒りで頭が真っ白になったことがある。その時の記憶も薄いくらい、私は怒りに駆られていたのだと思う。世が戦国であったなら、私は間違いなく死んでいた。私の寝首を掻かんとする者に、絶好の機会を与えたのだ。
怒りの出処はまず間違いなく期待であろう。期待の程度は違っていても、人は行動のすべてに大なり小なりの期待を秘めている。
怒りが敵ならば、期待はその親玉だ。しかし私は期待を捨てる気は毛頭ない。他人に期待しなければ損をしない、傷付かないという考え方は武士じゃない。人と人との関係は、当たり前の期待を前提とするものだと信じたい。
ただもし当たり前の期待を裏切られたとしたら。私はやはり怒るだろう。それは慎みがないからだ。自分だけが不条理を負わされているのだと思っているからだ。敵はやはり己ということか。
不安、怒り、恐怖。
目に見えぬものにばかり苦しめられる。
臆病者の目には、敵は常に大軍に見える
/織田信長
何事も、この言葉通りのように思う。
臆病者というと、悲観的で逃げ腰の者であると思われるが、真実はどうであろう。常に敵を見縊らず、些細なことを大事と感じられるのは、相当図太い精神だとも思えてくるのだ。私などは寧ろ、大事を些細な事だと捉えようと必死なのだ。直視したらば耐えていけそうにない不安を抱え、如何にして己を騙していくかと…。
臆病者ではない。愚か者でもない。
しかし信長公の目には、些細なことが些細なこととして映っていたのだろう。彼にとっては良くも悪くも己を騙す者が臆病者であったのか。
負け猫とは言わない
/湯浅学
ラジオを聴いていて耳にした言葉だ。
まず笑った。
そしてしばらくして考えた。
どうして「負け犬」はあって「負け猫」はないのか。
「きっと猫は負けないんだ」とも言っていた。
何がどうなっても負けない。
それはたぶん強いとか弱いとかいう話ではない。
端から見たらどうしたって負けている状況、
それでも猫は自分が負けているようには振舞わない。
そこまで勝手を貫かれたらたしかに周りは敵わない。
結果、負けない。
世の猫好きはこの「敵わない」にハマってしまっているのだろう。
以前どこかで自分は「敗北にロマンを感じる」と言った。
間違いなく負けているのにその「負け」を見ることができない、
あるいはもっと単純に、
自分の「負け」を見ない、
見ようともしない、
気がつかない、
それって結局負けていない、
そこに「ロマン」なんか感じようがないけれど、
でも「猫」にはどうしようもなく惹かれる、
それは、
敵わないから…
哀しそうな犬の顔には「ロマン」がある。
猫にはそれがない。
「負け」を知っているロマンチストと、
「負け」という概念さえ持たない快楽の天才と、
友だちにするとしたらどちらがいいだろう?