おもろう度 ★★★★
teatr akademia ruchu "Wyraznie. W Milczeniu."(表現.無言の) 7月2日
「街頭国際芸術祭」の出展作品
http://www.sztukaulicy.pl/
「cypel czarnowejski 22:00 開演」と書いてある。
cypel czarnowejski(チャルノヴェイスキ岬)は、ワルシャワの中心を流れるヴィスワの中洲である。橋のたもとでバスを降り、地図を片手に車道に沿って歩いていく。小さな自動車修理工場みたいな門をくぐると藪にかこまれた砂利道に入る。明かりもない。看板もない。案内らしき人もいない。昨晩ワルシャワの旧市街で偶然遭遇した知人(邦人、70歳、なにわの女)を連れてきてしまった手前、多少プレッシャー。もしも何か危ない目にあっても誰も助けにきてくれなさそうだ。とはいえど地図上では間違っていないはずだし、他にあてもないのでひたすら進むしかない。足元を確認しながら歩く。白夜なのでこんな場所でもぼんやりと明るいが、細い道の傍らはヴィスワと中州に挟まれた沼のような小川の土手だから、危なっかしい。
時折車が追い越していった。呼び止めてたずねようとしていた一台は、「芝居はここであるのか」と、私たちと同じ疑問を投げてきた。ワルシャワの人間が聞いてくるくらいだから、しょうがない。「なかったら散歩でもして帰りましょう」などと話しつつ、何台かのテールライトを追いながら15分ほど歩いたあたり、木の陰から黄色い明かりが見えてきた。やがて広い河岸に出て、ひとのかたまりが見えてくる。黄色い光は立方体で、ゆらりゆらりと草っぱらの上を移動している。目を凝らしてみると、白い衣装に身を包んだ役者たちがめいめいの両手いっぱいにそれを抱えているのがわかる。光が向かうのにしたがって、舞台が準備されているであろう地点へ行く。腕時計を見ると、もう22時を10分過ぎていた。
たどり着いたのは、金属パイプで作ったプラットフォーム、背後に巨大なアンプがあり、ゴーウン・・・ゴーウン・・・と、たいそうな音量でうなっている。河の対岸にもいくつかの光のかたまりがある。細かい部分は見えないが、同じようなことをやっているのかもしれない。ただし、あちらの光は小舟の上でヴィスワ河を流れてき、岸に揚げられプラットフォームに運ばれていっているようだ。なにわのオバハンが、「灯篭流しヤ」と言ったので、そういうことにしておく。立方体は白っぽい和紙かスチロールでできており、光源は中の四隅に立てられたろうそくで、やわらかい黄色を放っている。
役者だかスタッフだかわからない人々が着ている、白い衣装は、作業服風のものである。彼らはゆっくりとプラットフォームの上に光を並べていく。芝居を観るために集まってきた人々は手持ち無沙汰なのだが、アンプががなるなか立ち話もできずに、ぼんやりと土手に腰を下ろして作業を見守ったり、写真をとったり、連れてきた犬を撫でたりしている。
そのうちプラットフォームのうえに、一枚の大きな光の板が完成するのだが、役者(もはやスタッフでなく、彼らが役者だろう)たちは今度は黙々と、そのうちの一部を黒い立方体と入れ替えていく。洗濯機みたいに規則的な騒音に、次第にゴボゴボと不審な水泡の立てるような音が混ざってくる。
「ほら、思ったとおりヤ。文字ができた」と、なにわの女がフッフッと勝ちほこった笑みをもらすころ、そして、太陽の光が完全に消えてしまうころ、2つのプラットフォームはそれぞれに文字を表すようになっていた。「で、なんて意味なんヤ」
あちらの側は、「pamietaj」(憶えていて)
こちらの側は、「patrz」(見つめていて)
「今年はチェルノブイリの事故から20年ヤから、そのメモリアルとしてのコンセプチュアル・アート、ヤな」
オバハン、白い作業着と、途中からアンプの音に混入した水の泡立つ音とを関連付けはじめる。
「そすると、“憶えていて”はわかるけど、“見ていて”はわからんネえ」
何でもわかると思うなよ、と多少ムッとしながら、一緒になって首をひねる。
観客として集まってきたわたしたちは、すでに「これ」を見ていた。見てきた。それでいて、「憶えていて」と「見つめていて」は、同時に浮かび上がったのである。「憶えていて」は、このパフォーマンスから喚起される何ものかを、もしくは、パフォーマンスそのものをメモリアルに凝固させる効力があるかもしれない。だが一方で、「見つめていて」がメッセージとしてパフォーマンスの中で機能するならば、作品の冒頭に掲げられるべきだろう。「作品を見つめていて」「作品の中で再現される事故を見つめていて」というように、観客を「作り出す」メッセージ。だが、アカデミア・ルフは、「見つめていて」を作品の最後に発した。この転倒に何を込めたのだろう。
仮に、というか、オバハンの感性を疑っているわけではないので、本当に、これがチェルノブイリの事故をモチーフにしたものとしよう。事故が、この作品の動機になっているとするならば、作品は、終点としての事故を始点としている。すでに起こってしまった事故を始点にするとはどういうことか。事故に至る過程をシンボライズしながら語るだけのものであったら、パフォーマンスは事実の再現でしかないだろう。真実以上に事実に切迫できるはずもなく、ドキュメンタリーという形の映画に劣る。だが、アカデミア・ルフは、演劇のこの不可能性をパフォーマンス装置にかえた。すなわち、「見つめていて」を、作品そのものの終りに示すこと。そのようにして、「見つめる」→「記憶する」という、蓄積と凝固によって完結するはずの「見つめる」行為を、永遠に「見つめ続ける」ことをもって「記憶」とする運動そのものに変えた。現に、こちら側にある「見つめていて」を作る「現場」を、私たちは見ていた。そしてそれに呼応するように、対岸の「憶えていて」は、遠くに位置している。それらは、同じように、同じときに作られた。ただ、近くに見えるか遠くに見えるかの違いがあるだけだ。
役者たちはというと、文字が完成すると、何事もなかったかのように、観客たちと同じように草に静かに座り込んで、談笑してるのもいる。アンプの音は、またもとの規則的なリズムに戻った。集めた観客の前で、「見つめていて」という言葉を発した瞬間に、見るべき対象(役者たちの作業)を放棄する彼ら。なにわのオバハンはまたも勝ち誇り、「ほら、これで終りヤ、帰ろうヤ」と、私の肘をつっつく。すでに妄想モードに入ってしまった哀れな私に、なおも言う。「もう何も起こらんて、終りですか、て、聞いてミい」・・・・思想信条の理由からそれはできませんと断り、もう少しこんな気持ちのいい場所でぼんやりしていたい気持ちを我慢しながら、オバハンと、今度は河岸沿いにバス停を探して、オバハンを無事バスに乗せ、ひと安心。橋の上のバス停からまだ「pamietaj」と「patrz」の光が見える。始点と終点のない、約束事としての役者と観客はいたものの、「見る」べきものの押し売りをされない、気持ちのいい宵を過ごした。
teatr akademia ruchu "Wyraznie. W Milczeniu."(表現.無言の) 7月2日
「街頭国際芸術祭」の出展作品
http://www.sztukaulicy.pl/
「cypel czarnowejski 22:00 開演」と書いてある。
cypel czarnowejski(チャルノヴェイスキ岬)は、ワルシャワの中心を流れるヴィスワの中洲である。橋のたもとでバスを降り、地図を片手に車道に沿って歩いていく。小さな自動車修理工場みたいな門をくぐると藪にかこまれた砂利道に入る。明かりもない。看板もない。案内らしき人もいない。昨晩ワルシャワの旧市街で偶然遭遇した知人(邦人、70歳、なにわの女)を連れてきてしまった手前、多少プレッシャー。もしも何か危ない目にあっても誰も助けにきてくれなさそうだ。とはいえど地図上では間違っていないはずだし、他にあてもないのでひたすら進むしかない。足元を確認しながら歩く。白夜なのでこんな場所でもぼんやりと明るいが、細い道の傍らはヴィスワと中州に挟まれた沼のような小川の土手だから、危なっかしい。
時折車が追い越していった。呼び止めてたずねようとしていた一台は、「芝居はここであるのか」と、私たちと同じ疑問を投げてきた。ワルシャワの人間が聞いてくるくらいだから、しょうがない。「なかったら散歩でもして帰りましょう」などと話しつつ、何台かのテールライトを追いながら15分ほど歩いたあたり、木の陰から黄色い明かりが見えてきた。やがて広い河岸に出て、ひとのかたまりが見えてくる。黄色い光は立方体で、ゆらりゆらりと草っぱらの上を移動している。目を凝らしてみると、白い衣装に身を包んだ役者たちがめいめいの両手いっぱいにそれを抱えているのがわかる。光が向かうのにしたがって、舞台が準備されているであろう地点へ行く。腕時計を見ると、もう22時を10分過ぎていた。
たどり着いたのは、金属パイプで作ったプラットフォーム、背後に巨大なアンプがあり、ゴーウン・・・ゴーウン・・・と、たいそうな音量でうなっている。河の対岸にもいくつかの光のかたまりがある。細かい部分は見えないが、同じようなことをやっているのかもしれない。ただし、あちらの光は小舟の上でヴィスワ河を流れてき、岸に揚げられプラットフォームに運ばれていっているようだ。なにわのオバハンが、「灯篭流しヤ」と言ったので、そういうことにしておく。立方体は白っぽい和紙かスチロールでできており、光源は中の四隅に立てられたろうそくで、やわらかい黄色を放っている。
役者だかスタッフだかわからない人々が着ている、白い衣装は、作業服風のものである。彼らはゆっくりとプラットフォームの上に光を並べていく。芝居を観るために集まってきた人々は手持ち無沙汰なのだが、アンプががなるなか立ち話もできずに、ぼんやりと土手に腰を下ろして作業を見守ったり、写真をとったり、連れてきた犬を撫でたりしている。
そのうちプラットフォームのうえに、一枚の大きな光の板が完成するのだが、役者(もはやスタッフでなく、彼らが役者だろう)たちは今度は黙々と、そのうちの一部を黒い立方体と入れ替えていく。洗濯機みたいに規則的な騒音に、次第にゴボゴボと不審な水泡の立てるような音が混ざってくる。
「ほら、思ったとおりヤ。文字ができた」と、なにわの女がフッフッと勝ちほこった笑みをもらすころ、そして、太陽の光が完全に消えてしまうころ、2つのプラットフォームはそれぞれに文字を表すようになっていた。「で、なんて意味なんヤ」
あちらの側は、「pamietaj」(憶えていて)
こちらの側は、「patrz」(見つめていて)
「今年はチェルノブイリの事故から20年ヤから、そのメモリアルとしてのコンセプチュアル・アート、ヤな」
オバハン、白い作業着と、途中からアンプの音に混入した水の泡立つ音とを関連付けはじめる。
「そすると、“憶えていて”はわかるけど、“見ていて”はわからんネえ」
何でもわかると思うなよ、と多少ムッとしながら、一緒になって首をひねる。
観客として集まってきたわたしたちは、すでに「これ」を見ていた。見てきた。それでいて、「憶えていて」と「見つめていて」は、同時に浮かび上がったのである。「憶えていて」は、このパフォーマンスから喚起される何ものかを、もしくは、パフォーマンスそのものをメモリアルに凝固させる効力があるかもしれない。だが一方で、「見つめていて」がメッセージとしてパフォーマンスの中で機能するならば、作品の冒頭に掲げられるべきだろう。「作品を見つめていて」「作品の中で再現される事故を見つめていて」というように、観客を「作り出す」メッセージ。だが、アカデミア・ルフは、「見つめていて」を作品の最後に発した。この転倒に何を込めたのだろう。
仮に、というか、オバハンの感性を疑っているわけではないので、本当に、これがチェルノブイリの事故をモチーフにしたものとしよう。事故が、この作品の動機になっているとするならば、作品は、終点としての事故を始点としている。すでに起こってしまった事故を始点にするとはどういうことか。事故に至る過程をシンボライズしながら語るだけのものであったら、パフォーマンスは事実の再現でしかないだろう。真実以上に事実に切迫できるはずもなく、ドキュメンタリーという形の映画に劣る。だが、アカデミア・ルフは、演劇のこの不可能性をパフォーマンス装置にかえた。すなわち、「見つめていて」を、作品そのものの終りに示すこと。そのようにして、「見つめる」→「記憶する」という、蓄積と凝固によって完結するはずの「見つめる」行為を、永遠に「見つめ続ける」ことをもって「記憶」とする運動そのものに変えた。現に、こちら側にある「見つめていて」を作る「現場」を、私たちは見ていた。そしてそれに呼応するように、対岸の「憶えていて」は、遠くに位置している。それらは、同じように、同じときに作られた。ただ、近くに見えるか遠くに見えるかの違いがあるだけだ。
役者たちはというと、文字が完成すると、何事もなかったかのように、観客たちと同じように草に静かに座り込んで、談笑してるのもいる。アンプの音は、またもとの規則的なリズムに戻った。集めた観客の前で、「見つめていて」という言葉を発した瞬間に、見るべき対象(役者たちの作業)を放棄する彼ら。なにわのオバハンはまたも勝ち誇り、「ほら、これで終りヤ、帰ろうヤ」と、私の肘をつっつく。すでに妄想モードに入ってしまった哀れな私に、なおも言う。「もう何も起こらんて、終りですか、て、聞いてミい」・・・・思想信条の理由からそれはできませんと断り、もう少しこんな気持ちのいい場所でぼんやりしていたい気持ちを我慢しながら、オバハンと、今度は河岸沿いにバス停を探して、オバハンを無事バスに乗せ、ひと安心。橋の上のバス停からまだ「pamietaj」と「patrz」の光が見える。始点と終点のない、約束事としての役者と観客はいたものの、「見る」べきものの押し売りをされない、気持ちのいい宵を過ごした。