あるコンサートの感想

2021-02-09 | 東京日記
先日久しぶりにコンサートに行った。元来音楽家はあまりコンサートに行かない。

どうしてかというと行けないから。コンサートの時間とは大抵の場合、自分が弾いているか、または練習しているから。

東京でフリーの音楽家になってもそれは変わらない。大抵レッスンをしている時間になってしまうので、たまにそういう時間が空いているとゆっくりしたくなる。

それともっと大きい理由は行ってみて、好きじゃない演奏を聞く羽目になった時不機嫌になってしまうからというのもすごくある。どうしてもチケットを買うときにためらってしまう。

それで聞きに行ったコンサートの話に戻るが、素晴らしい演奏だった。が、感動しなかった。ホールのせいなのかなんなのかよく分からない。日本のオケは弦楽器が素晴らしい。楽器もいい楽器がそろっている音がする。でも感動しない。

管楽器も上手い。特にこの前聞いたオケではフルートとオーボエが抜群に素晴らしかった。

金管はというと少し悪口になるが日本のオケの金管はあまり好きになれない。音にセンスがない。上手いがデリカシーがない。

だいぶ前にあるオケで聞いたショスタコビッチの時は本当にそう思った。やたらに鳴らしすぎだと思う。それを制御する指揮者も大事だ。

音量が全てではないと思うのだが、、、

さて、このコンサートの指揮者が気になって仕方がなかった。指揮者は日本人の有名な方だった。素晴らしい指揮だったのだが、この方オケに真っ正面に向かって振ることがほとんど無いのだ。いつも45度くらい微妙にファーストヴァイオリン側に体が向いている。

それで以前聞いたオケで同じことを感じた指揮者がいたことに気付かされた。そのかたも日本人だった。

僕には非常に気持ちが悪い。音楽のクライマックスに向かって高揚している時、斜め後ろから見る指揮者ってなんだかね、、、いや気になって仕方ない。

もしかして、こういう指揮者ってオケの団員に対する自信のなさの表れなのかもしれない?

ベームやカラヤンやアッバードが斜め向いて降る姿なんて考えられますか?

出羽守ですが、ヨーロッパでそういう指揮者は一人も見たことがない。

無伴奏チェロリサイタルのおしらせ

2019-06-13 | 音楽

津留崎直紀チェロリサイタル
(無伴奏)のお知らせ

7月20日(土)旧園田高弘邸(自由が丘)
目黒区緑ヶ丘2丁目22−14

故園田高弘氏の思い出の遺品や写真などもご覧になれます。

14時半開演(14時開場)
入場料 4000円(60席 完全予約制)

プログラム / Programme

Henri Dutilleux : Trois strophes sur le nom de SACHER
H.デュティユー:SACHERの名による3つのストローフ

Bach : Suite pour violoncelle seul No. 1
バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番

Ichiro Nodaira : Enigme (2006)
野平一郎:エニグム(謎)

Bach : Suite pour violoncelle seul No. 2
バッハ 無伴奏チェロ組曲第2

プログラム、演奏順は変更されることがあります。


ご予約は下記アドレスへお名前と人数をお知らせください。

naorpheo-eurydice@ezweb.ne.jp


ご予約いただいた方にはこちらから確認のメールを数日以内に返信いたします。入場料は当日会場でご精算ください。

60名になった時点で予約を打ち切らせていただきます。


ベレゾフスキーとsinfonia varsovia

2019-05-04 | 音楽
La folle journée コンサートの話。

まず会場のホールAに入ってそのあまりの大きさに驚いた。こりゃ、クラシック音楽のコンサート会場じゃないなと。5000人は無理。ステージが霞んで見えるぐらい遠い。なのでステージの両脇に巨大なスクリーンで映像が映し出されるようになっている。カメラは全部で3つか4つあるのではないか。カメラワークが音楽に非常によく合わせてあってそういうところは日本は流石だなと感心。

最初にショパンの作品25のエチュードから「エオリアンハープ」「3度」「革命」「木枯らし」などの有名どころを6曲。驚いたことに音がすごく良く通る。ふむ。これはもしかして電気的に増幅(ようするにマイク)しているのかなと思いながら聞くとどうしても落ち着かない。僕のいた場所から聞こえる音の素直な感想は、ベレゾフスキーは音楽を不必要に興奮させず、見栄、ハッタリのない非常に端正な演奏に聞こえた。時にはもう少し激昂して欲しいな、、、とかも思いつつ、しかしこの巨大なホールのせいかもしれないし、、、とどうしても感想も曖昧になる。

続くショパンの2番のコンチェルトは初めからオケの真ん中にピアノの鍵盤が舞台の後ろ向きになるように(奏者の顔が客席向き)置いてあったので、ベレゾフスキーの弾き振りだろうとは思っていた。プログラムに指揮者の名前がないからそれも初めから分かっていたが、この置き方は例えばバレンボイムやかつてのバーンスタインなどとは反対だ。

ところが予想を裏切ってベレゾフスキーは全く指揮をせず、コンマスがアインザッツを出していた。そもそもベレゾフスキーはアクションも小さめの、謙虚な感じの人だが、オーケストラに演奏を一任している感じはこう言うシチュエーションでは珍しい。全くオケの合わせに不安がない感じで始まった。

そうしてとても驚いた。オケの序奏や間奏は言うまでもないが、ちょっと難しいピアノとの掛け合いや合わせもむしろ指揮があるオケよりも精密かつ的確に合わせていたことだ。本当にどこにも破綻もリスキーな感じも感じさせない。しかも、コンマスや各セクションのリーダーが大きなジャスチャーでアインザッツを出すのかといったらそれも全くと言っていいくらいない。例えばあの美しい2楽章のレチタティーヴォ風パッセージのチェロ、バスのピッツなども全員が当たり前のように淡々と入って、一つもずれない。ホルンやバッソン(素晴らしかった)のソロや木管のアンサンブルも同様だ。

オケの精度は抜群と言っていい。こんなに素晴らしいアンサンブルを指揮なしでできるオケはそうないだろう。まるでベレゾフスキーと50人の室内楽奏者のコンサートのようだった。

会場が大きすぎるのが残念だったが、素晴らしいコンサートだった。


La folle journée 又は気違いじみた一日

2019-05-03 | 音楽
René Clement 氏の発案で始まったフランスの中都市ナントのLa folle journéeを東京で初めて訪れた。
フランスにいるときには1000キロ離れたナントまでこの「熱狂の日々」を訪れるなど考えも及ばなかったが、なんと(駄洒落では無いですよ)東京で実現した。

今日はポッカリとレッスンに谷間が出来て、午後はフリーになった。そうだフォルジュルネを今やってるんだと検索してみたらいけそうなコンサートがあるでは無いか。売り切れになっていなくて時間的に間に合いそうなのは一つだけ、ボリスベレゾフスキーとシンフォニアヴァルソヴィアのオールショパンのコンサート。

最初にベレゾフスキーがショパンのエチュードを6曲。そのあと第2番のコンチェルトだった。ベレゾフスキーはフランスにもしかして住んでいるのかフランスでよく聞く名前だし、シンフォニアヴァルソヴィアもメニューインが立ち上げて有名になったオーケストラ。どちらも聞いて見たかったのでラッキー感満載でチケットを買った。

会場の東京国際フォーラムは連休中ということもあってごった返している。何がどこにあるのかよくわからない迷子感満載。やっとチケット売り場を見つけるが、やれ記入してから並べとかどうとかうるさいことしきり。この猥雑さなんか覚えがあるなと思ったらフランスのそれだった。

コンサートの感想を書く前にこのLa folle journéeという言葉について一言書かせてもらいたい。フランス人のちょっと文学に造詣がある人だったら、ラ・フォル・ジュルネと聞けばボーマルシェのあの「フィガロの結婚」のことをすぐ思うはずだ。というかフィガロの結婚「Le mariage de Figaro』の副題がこのラ・フォル・ジュルネなのだ。日本人だったら「我輩はなんとかである」という言い回しが夏目漱石のあの小説の題名のパロディーと思うとほぼ同じと思っていいいと思う。

モーツアルトがダポンテと組んでオペラにした時なぜかLe Mariageはイタリア語でLe nozze(フランス語ではLes noces)になったがこれは別の話。あのフィガロの結婚のストーリーは早朝の、フィガロとスザンナの新婚を迎える寝室のベットや椅子をおく場所を決めるやり取りから始まるどんでん返しの一日、まさに、「気違い染みた」1日のお話なのです。

それで、いつも思うのだけれど、ルネ・クレマンがこの企画を思いついたきっかけは一日中こんなに沢山のコンサートをやってナントのような中都市で一体人が集まるのだろうか、気違い染みた発想だと、提案したナント市や地方公共団体の呆れ返った反応を先取りしたのだろうと思う。普通に考えればナントの市長じゃなくても気違い染みた発想だと思うだろう。クレマン氏のこの発想が素晴らしかったと思う。だから開催の年は題名にちなんでモーツァルトがテーマだった。

発想の素晴らしさ、ユニークさ、奇想天外、ありえない感。これが我々日本人というか僕らの世代の日本人に一番欠けているものかもしれない。蓄音機のエジソン、ウオークマンの盛田社長、ウインドーズのビル・ゲイツ、みんな最初は馬鹿げた発想だと言われた人たちだ。

前置きが長くなったついでに、フランスの音楽祭(フェスティバル)事情を説明する。要するにナントのフォルジュルネもネーミングが良かったのでそう思われないかもしれなが、他の都市の音楽祭と同じである。どうして音楽祭があるかというと、パリやリヨン、ボルドーなどの大都市と違って中都市には常設のオーケストラやましていわんやオペラ座を置く財政力がない。ところがフランスは国家も地方公共団体もドイツと似ていて、どんな街にもコンサートやイベントをする文化予算が全体の1%程度あるのである。これ重要。

フランスはサルコジ政権の時にその文化予算がついに1%を切って各界からいろんな意見が出たが、それでも今だに0.8位はあると思う。僕もそのお金で32年間リヨンで働いていたのです。

1%が一体どれほどのものかというのはちょっと算数をしてみれば膨大な額だということがすぐわかる。日本の国家や地方の文化予算はその10分の1くらいでは無いか。

フランスの中都市はその文化予算で夏のひと時著名なオーケストラやソリストなどを呼んで、1週間か2週間の間の束の間のコンサートシーズンをやるというのがそもそもの音楽祭の発想だったのです。エクサンプロバンスやオランジュという予算規模も知名度も歴史もある音楽祭もあれば、8月の終わりころから9月にかけてやっと何人か著名なアーティストを招聘して秋風がなんとなくうら寂しく吹く中のちょっと寂しい音楽祭までフランス中たくさんある。

そんな中ナントのクレマン氏の発想は群をにいた凄さだと思う。まず悩ましい会場の確保とその経費をわずか土日2日間で全てやってしまう。朝から晩までいたるところで短いコンサートをやってしまう。そうするとアーティストの滞在費も軽減できる、、、そんな考えもあったのだろうと思う。ナントはおそらく人口30万あるか無いかの規模の都市である。日本で言ったら例えば、もし失礼にならなければだが、秋田とか、福島とか、倉敷とか松山とかそう言ったところで行われている音楽祭なのだ。

「熱狂の日々」とは上手く訳したとは思うけれど、だから実は本当は違うのだ。東京のようなメガ都市で成功するのは当たり前の話で、これが上記したような日本の都市で成功を納めて初めて大成功と言えるのではないかと思う。

前置きが長くなったので、ベレゾフスキーとsimphonia Varsovia の素晴らしいコンサートの感想は次回にします。

ソロリサイタルの企画

2019-03-11 | 音楽
7月にソロリサイタルを開く。無伴奏チェロ曲のみのコンサートだ。

予定では20日、土曜日。自由が丘の旧園田高弘邸。

旧園田邸は去年硲美穂子さん、中竹英昭さんと弦楽トリオでコンサートを行い素晴らしい邸宅と音楽室に感銘した。園田氏亡き後現在は「住宅遺産トラスト」という財団が管理していて、文化遺産に指定されている。

この間からそのプログラム作りで少し悩んでいる。無伴奏チェロ曲というとどうしても現代曲が多くなる。自分もまたその傾向が好きなのだが、お客さんの足がまた遠のくのかと心配になる。

ちなみに園田高弘氏は「日本の教師はシェーンベルクすら教えられない。これでいいのか」と怒っていたほどの現代音楽の先駆者だった。こちら

今思案中の曲を列挙してみると

リゲティ「ソナタ」
ペンデレツキ「ディヴェルティメント」
デュティユー「SACHERの名前による3つのストローフ」

リゲティ、ペンデレツキの2曲はまだ二人とも若い頃の曲で「アカデミック」なエクリチュールが目立つ。というのは見かけだけだなと弾いていみて思う。作曲の斬新さ、素晴らしさ、前衛というのは結局見かけではなく中身なのだと。作曲年代がずっとあとのデュティユーの方がむしろアカデミックに感じる今日この頃。

この三つはぜひ弾きたい曲だが、同じコンサートでこの三つはちょっとハードかなとも思う。

黛「文楽」
カサド 無伴奏チェロ組曲

この2曲はほぼ決定。


他にも
野平一郎「enigme」は8年前の連続リサイタルで不本意だったのでリヴェンジしたい曲。
ヒンデミット 無伴奏ソナタもいい曲だし、
レーガー の無伴奏もある。

悩みは尽きない。

最後に小話。

去年だったかJ.G.ケラスのバッハの無伴奏チェロ組曲のコンサートを東京で聞いた時のお話。アンコールに前述のデュティユーの第1曲を(なんと暗譜で)弾いたのだが、会場出口に掲載されていたアンコール曲名がなんと「ザッハーの名による3つのストローク」だった。(笑)