ねぼけたことばかり

ne boket a koto bak ari

bon/on/work

2008-08-14 | 日常
■うちの会社もお客さんに合わせてこの時期休みをとる人は結構いるらしく、社内は嘘みたいにひっそり。フロアの半分ぐらい電気が消されてたり、エレベーターも途中階停止がなかったり、あまりに人の気配がなくて終末感のようなものすら漂ってる。
9月末に休みをとることにした私は通常勤務。でも電話もほとんど鳴らないし、来週からの仕込みをするでもしないでもなく、して、暇潰しみたいな時間をだらんと過ごしていると、地球の回転や時間軸から自分だけぴょっと弾き出されたような不思議な気分になる。

■映画版「デトロイト・メタル・シティ」音楽プロデューサー北原京子インタビュー。あの漫画の面白さの大きな部分を担う音楽が“勘違いなく”緻密に作り込まれていることがよくわかって面白い。映画、楽しみ。こういう面白い漫画が出てきたり、根岸宗一 song by カジヒデキってことなんかを、渋谷系をもろに体験した世代はどう捉えているんだろう?
ちょっと違うけど、CMでくるりや斉藤和義の唄が普通に流れてくる未来なんて、当時想像した? そんな話を、当時付き合っていた彼(そう神保町でばったりあった元彼だ)や友達なんかにぜひ聞いてみたい。

■桐野夏生「I'm sorry, mama.」を読んでいる。言葉はこどもの頃から自分の中に一貫してある大きなテーマだけど(大学の学部も職業もそれで決めたでしょと言われかねない人生です、今んとこ)、言葉の美しさとか言葉が持つ力のようなものじゃなくて、今は「言葉だけで構築する世界ってすごいかも」と単純に感じる自分がいる。



たいせつに。

2008-07-23 | 日常
「忙しくてさぁ~」とか
自慢気に話す大人ってほんと気色悪いよねー。
でも誰かに今の状況を客観的かつ簡潔に説明するとしたら
その言葉以外思い浮かばない。

わたし気色悪っ。

しばらくの間に思ったことも言葉にする前に
どんどん塗り替わってしまったけど、それもよしとしよ。
読まない本や着ない服と同じ、
必要なものは残る、そうでないものはそぎ落とされる。
ブランニューわたし日々更新。
つねに現在の思いと言葉をたいせつに。

って書いた先から今言いたいことなんてなんもねーす
それが気分のような気もして。


二人でいるということ

2008-07-03 | ヒモ飼育記録
長いことMのこころの塩梅がよろしくないが
共に暮らしているという
ただそれだけのシンプルなことが
共倒れしてもしゃあないし頑張ろと
無意識に意識させてくれる
20代の頃は感情の度が過ぎて相手を息詰まりさせて
離れていった人が何人もいた 今は違う
何事ももっと大きなこころで
どっしり受けとめる余裕がある
ああ二人でいるんだなと
そう思う

シュツパン不況ってなんだろか

2008-06-27 | おぼえがき

中学の同級生テラオカ君が番組を替わっていた。彼が担当した「ランキング依存が止まらない~出版不況の裏側~」はずいぶんと反響を呼んでいるらしい。
最近はカタログや広報誌の類を手がけることが多いのであまり実感はないけど、決して他人事でないテーマ。

「本が売れない理由」も色々あるだろうけど、そもそも今市販されている本はコンテンツとしてあまり魅力的じゃない。これは一消費者として思う。(個人的には仕事でも趣味でも本はよく買うけど、それはまた別の話)
特に読書が生活の中に定着していない層や潜在的読者層(どちらも売れ行きの鍵を握る)にとっては、まず商品を手に取って読むという行為までの道のりからして億劫に感じるんじゃないか。本も毎日の“隙間の時間を費やすための数あるコンテンツの中の一つ”として考えたら、このアクセスの悪さで既に他のメディアに負けてる。

ところでコンテンツって何だろうと考えてたら、ちょうどイトイ氏がきのうの日記で、「ほぼ日」でやっている毎日の連載や企画や、Tシャツを作ったり本を出したりもコンテンツ、会社経営もコンテンツのようなもので、それは言い替えたら「出し物」という感じが一番しっくりくると書いていた。まさにそんな感じだよなぁ。

商品がお客さんにとって魅力ある「出し物」であるためには、お客さんの生活を豊かにする(面白い、役に立つetc)のは当然のこと、さらにお客さんの生活によりそう(必要な時に必要なかたちで手に入る、内容と価格が相応etc)必要があると思うけど、本は特に2つ目についてずいぶん奢りがあるような気がする。

まず“本というモノ”ありきで、出版が上流メディアだという幻想を抱いたまま、出版社や書店が「どうしたら売れるか」なんてことを考えたところで今さらどうにもならない。あれこれ機能が盛りだくさんで当たり前になったケータイの世界で、iPhoneがさらに機能がふえたケータイではなく“今の生活から無理なくシフトできる程度で、新たな概念を要するナニモノか”として参入するぐらいのことを、出版もしなきゃいけないように思う。


ナポリタンを想ふ

2008-06-27 | 日常
ナポリタンが食べたい時は
「今日はナポリタン食べちゃうもんね! ムフー!」
と強い意志をもって喫茶店にのぞみたい。
何となく行って
「じゃぁ~、とりあえずナポリタンで」
これはいけない。だいたい「とりあえず」って何なんだ(よく口癖の人いるよね)。まぎらわせ程度の食事ならおとなしくトーストでもかじっていればいい。

「誰かの代わりなら気まぐれに優しくしないで」
ナポリタンだってきっとそう思う。
「お前じゃなきゃダメなんだ」
それぐらいの熱意をもって挑んでこられればきっとナポリタンだってうれしい。

ちょっとばかし鼻息が荒く迫ったって構わない。それがしばらくぶりの再会だって、愚痴の一つもこぼさず優しく招き入れてくれる。それがナポリタン。

ググればその生まれにはそれらしいエピソードがあるらしいけれど、そんなことは知ったこっちゃない。
日に焼けて黄色くなったコミックやスポーツ紙が置いてあるような、もちろん喫煙し放題の喫茶店に必ずいるアイツ、っていう認識で間違いない。

たまにナポリタンが細麺で出されると、店主を呼びつけて出直してこいと言ってやりたくなる。麺は絶対太麺。断じて太麺。
多少伸びて出てこようが構わない。むしろその方が好ましいとさえ思う。ナポリタンにおいてはアルデンテなんて小癪なマネは御法度である。

フォークの頭に紙ナプキンを巻いて出してくる店は「よーくわかった」店だ。あれが出されると、こっちも皿が運ばれてくる前から気分が盛り上がる。

さて、いざ食べる段になってスプーンに受けてフォークでくるくる、なんてことは絶対しちゃいけない。潔くフォークのみにて食べるべし。

そもそもスパゲティをフォークとスプーンが添えられて出てくるようになったのはいつからだ? そしてスパゲティをパスタと呼ぶようになったのはいつからだ?
このスプーンとパスタという呼び方とは密接な関係にあるに違いない。(調べようがないけど)
ナポリタンほどスパゲティという分類がふさわしいものもないだろう。

チーズどばどば、タバスコちゃっちゃっ、大いに結構。いじきたなく見えたっていいじゃない。ナポリタンはチーズ多めが絶対おいしい。

あ~、ナポリタン最高。