越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 ブレンダ・E・スティーヴンソン『奴隷制の歴史』

2024年02月01日 | 書評
なぜ民主主義の国で、いまなお人種差別がなくならないのか?  ブレンダ・E・スティーヴンソン『奴隷制の歴史』(所康弘訳、ちくま学芸文庫)
越川芳明

「奴隷制とは何か?」という問題提起で始まる本書は、米国の奴隷制に興味を持つ者にとっては、まるで最新の携帯電話<アイフォン15>みたいに、小ぶりながら膨大な情報量と知的刺激にみちた良書だ。

著者のスティーヴンスンは、「訳者あとがき」によれば、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の歴史学教授だという。

豊富な資料を丹念に読みとき、淡々と「歴史的な事実」を積み重ねるその叙述法には、歴史学を専門とする学者の手堅い姿勢がうかがわれる。

逆に言えば、文学作品のような感情の昂りを表現することを極力抑えている印象だ。

著者のとおい祖先が16世紀から始まる大航海の時代以降にアフリカから新天地に運ばれた奴隷であること、
つまり、自身がアフリカン・ディアスポラの末裔であるということがあえてそうしたスタンスを取らせているのかもしれない。

制度への憤怒は内にとどめておくことによって、逆に読者の中に奴隷制に関する知見だけでなく、そうした制度への憤怒を醸成させることを意図しているかのように。

著者は語る。「奴隷制とは何か? 
これは簡単な質問のように思われるかもしれない。ほとんどの人々は、奴隷制とは南北戦争が終わる前にアメリカ合衆国で暮らしていた黒人の状態のことだと信じている。……
(中略)ほとんどの学生が知らないのは、奴隷制が歴史上、最も一般的な制度の一つであるとともに、最も多様な制度の一つであるということだ。
ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジア、オーストラリアなど、ほとんどすべての地域の文明で何らかの形の奴隷制が存在していた。
……(中略)さらに奴隷制はほとんどの場所や地域で、今なお存在している。
実際、世界中で推定二〇〇〇〜三〇〇〇万人の人々が債務奴隷、性奴隷あるいは強制労働者として、いまだに奴隷状態にあると考えられている」

確かに第1章で、古代から大航海時代(つまり奴隷貿易)が始まる頃までに世界各地で見られた奴隷制について概説しているが、
本書の真骨頂は、やはり著者の得意分野である北米の奴隷制である。アフリカと大西洋の奴隷貿易(第2章)、北米の植民地(第3章)、
南北戦争以前の米国の奴隷制と反奴隷制(第4章)というように、質量ともにそのことをしめしている。

アフリカン・ディアスポラの歴史
歴史学者ポール・ラヴジョイによれば、アフリカから新天地に連行されたアフリカ人は、推定で1200万人だという。

奴隷貿易にかかわったヨーロッパの帝国は、ポルトガル、スペインのほかに、オランダ、フランス、イギリス、デンマークなどだった。

18世紀にヨーロッパの諸帝国に莫大な富をもたらし、その力で産業革命を成功させ、飛躍的な発展をもたらした影の功労者は「奴隷貿易」であり、植民地での「奴隷制」だったと言っても過言ではない。
アフリカから連行されたディアスポラの民の、血と涙の労苦なくしてはそうした繁栄はなかったに違いない。

本書によれば、アフリカ奴隷の出身地としては、コンゴ・アンゴラなどの中央アフリカが40パーセント、ベニン湾岸の西アフリカが20パーセントと、それだけで全体の60パーセントを占めていたという。
奴隷の到達地としては、ブラジルが400万人、スペイン領植民地が200万で、奴隷の約半数を占めていた。

さらに、奴隷制を経済的な観点からいうと、アメリカ大陸で売られた奴隷の価格は、17世紀後半から18世紀後半にかけて、4倍以上に値上がりし、しかもその数も3倍弱にふくれあがったらしい。

「一般的には、17世紀後半から18世紀を通じて、対外的な労働力需要の増加に伴い、奴隷の価格は上昇した。たとえば、この時期の奴隷の平均価格は4倍から5倍ほど上昇した。これに対し、奴隷の出荷数は二倍から三倍ほど増加している」

要するに、この時期に奴隷貿易は儲かる産業と化していたことがわかる。その産業に加担していたのが、アメリカ建国の父たちとされる偉人だったのいうのもアメリカ史の逆説だ。
たとえば、独立宣言を執筆した大陸会議の委員長を務めたヴィアージニアのリチャード・ヘンリーは五十人以上の奴隷を所有していたし、第二回大陸会議の議長を務め、アメリカ合衆国の独立に尽力したサウス・キャロライナのヘンリー・ローレンスは奴隷商人かつ最大の奴隷所有者だった。

「奴隷体験記」の活用
本書の特色を一、二挙げるならば、まず網羅的であるという点がある。

大西洋奴隷貿易に果たした「中間航路」の役割から、北米における奴隷制反対運動や逃亡奴隷の活動まで、あるいはイギリス植民地時代の奴隷制と経済から独立以降の米南部の奴隷の生活まで、もれなく詳述されている。

さらには、語る主体として表に出てこなかった奴隷自身の「身の上話」もたくさん引用されていることが重要である。

誰もが認めるように、歴史はメディア(活字や伝達媒体)を占有する者によって作られてきた。アフリカ奴隷はつねに歴史の対象となっても、主体にはならなかった。

ここにきてようやく、歴史学者たちがオーラル・ヒストリーの「奴隷体験記」を史料としてつかうことによって、奴隷あるいはその末裔が歴史の主体となることが可能になったのだ。

フレデリック・ダグラスやハリエット・ジェイコブズらの著作は、すでに有名になっている「奴隷体験記(スレイヴ・ナラティヴ)」だが、
本書では、無名の奴隷による「体験記」を数多くつかっていることが注目に値する。

一例を挙げれば、オラウダ・エクイアーノという男の話がとても印象的である。

「……身の上話の中で、ナイジェリア出身のイボ族と名乗っている。
奴隷を所有していた裕福なコミュニティのメンバーの息子だったが、妹と一緒に誘拐され、西アフリカで何度か売られた後に、イギリスの植民地へ送られた。

誘拐された当時、一一歳だったエクイアーノは、自分と妹が二人組の男女に捕えられた瞬間を鮮明に覚えていた。二人組は屋敷の壁を乗り越えてきて、二人を掴まえ、「口を塞いで」、「すぐ近くの森まで」連れて行き、手を木に縛りつけた。

翌日、誘拐犯はエクイアーノと妹を引き離し、それぞれ別の人間に売り渡した。「二人をばらばらにしないように頼んでも無駄だった」。

「妹は私から離され、すぐに連れ去られた。私は言葉では言い表せないほどの混乱状態に陥った。

私は泣き続け、嘆き、数日間、彼らが私の口に無理やり押し込んだもの以外は何も食べなかった。……(中略)オラウダの最初のアフリカ人の主人は金細工職人であった。

そのため昼間はその仕事を手伝い、夜は家事奴隷の女性と一緒に働いていた。その後、一七二個のタカラガイとの交換で再び売られ、同じ年頃の裕福な少年の遊び相手となった。

エクイアーノは西アフリカの奴隷社会の習慣にならって、その家族に養子縁組されることを望んでいたが、再び売りに出された。

「こうして私は時には陸路で、またある時には水路で、様々な国や地域を旅し続け、誘拐されてから六〜七ヵ月が経った頃、海辺に辿り着いた」

すぐさまエクイアーノは大西洋をわたってカリブ海に向かう奴隷船に乗ることになった。

このような無名の奴隷の語られざる「物語」が何百万、何千万とあるに違いない。つまり、人類をめぐる「歴史」は、まだ書き換えられる可能性があるということである。

私のような読者は、このような「物語」をもっと読んでみたいという衝動に駆られる。

そのような読者のために、ありがたいことに巻末に「注」のかたちで出典情報が載っている。さらなる奴隷制をめぐる「読書の森」へと誘うためである。

また、本文中の固有名詞(人名や土地名など)には、原語がカッコで添えてある。

これもまた小さい工夫だが、興味を抱いた読者がネットや図書館で調べる糸口となるはずだ。

訳文は平易でこなれており、読みやすい。

米国の奴隷制に興味がある初心者に基本的な知見をもたらすだけでなく、いまなおどうして民主主義の国で人種差別がなくならないのか、その理由を読者に示唆する優れた図書だ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評 コルソン・ホワイトヘッド『ハーレム・シャッフル』

2024年02月01日 | 書評
「アメリカン・ドリーム」の黒い寓話  コルソン・ホワイトヘッド『ハーレム・シャッフル』 
越川芳明

マンハッタン島の北に位置する黒人街(ハーレム地区)を舞台にして、まだ学校やバスやレストランなどで人種隔離による差別が平然とおこなわれていた頃、つまり六〇年代前半のアメリカを扱った小説だ。

夢破れて一流ダンサーからレストランのウェイトレスになった中年女性から、自分を見下す北部人に反発を覚える南部人の強盗まで、
あるいはロースクールを出て、注目される公民権関連の事件を好む弁護士から、ギャング間の抗争に巻き込まれるドラッグの売人まで、これまで一般の読者に知られることのなかった人間群像をいきいきと蘇らせる。
もちろんこれらの登場人物は、ほとんどが黒人だ。

一見すると、「犯罪小説」のようである。第一部では高級ホテルを舞台にした金庫破り、
第二部ではやり手の銀行家を失墜させるために仕組まれた策略、
第三部では白人の不動産財閥の家から盗まれた物品をめぐってその強奪戦が、それぞれ描かれているからだ。

だが、そうした事件に巻き込まれる我らが主人公レイ・カーニーは、しがない家具屋の経営者にすぎない。
父親はいわく付きの犯罪者だが、かれには周りの環境に染まらないところがあり、父親とは違う真っ当な生き方を模索する。

とはいえ、一方では世渡り上手でもあり、盗品の電化製品や宝石を横流しして小銭を稼ぎ、警官には賄賂を、ギャングにはみかじめ料を払ったりもする。
その甲斐もあって、商売は順調で、次第に「アメリカン・ドリーム」の階段を登っていき、最終的には有力な事業主だけの会員制クラブに入会を許されるまでになる。

この小説に鋭い風刺のパンチが効いているとすれば、黒人街のこの「小悪党」の成功の物語が、白人の「大悪党」による、もっと大規模な成功の物語へとつながっていくからだ。

マンハッタン島の南地区には、ラジオ街と呼ばれた小さな電気屋の立ち並ぶ横丁があった。六〇年代の半ばにそこに世界貿易センタービルの建設が決まる。
そのとき白人の不動産王がその周辺の土地の地上げをおこない、莫大な利益を得ることになる。

おそらく、これこそが作家の書きたかった、知られざるアメリカ現代史の真相である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 今泉力哉監督『アンダーカレント』

2024年02月01日 | 映画
水の中に隠された秘密ーー今泉力哉監督『アンダーカレント』
越川芳明

関口かなえは、下町で「月乃湯」という公衆浴場を経営している。昨夏に父が亡くなり、その後を継いだらしい。風呂屋さんの二代目である。

ほとんどの銭湯が燃料として重油を使っている昨今、めずらしく薪(まき)を焚(た)いてお湯を沸かしている変わりダネだ。薪焚きは人手がかかる。薪割りと薪をくべる作業を誰かが担当しなければならない。客からすれば非常に贅沢な風呂である。

薪焚きというのは、この映画の重要なモチーフである。

新しく銭湯に雇われる堀という、謎めいた無口な男の、その人となりを表すのに最適である。最初に持参した履歴書には「甲種危険物取扱者免状」や「特級ボイラー技士免許」をはじめとして、さまざまな資格が記されていた。にもかかわらず、小さな個人経営の銭湯で、チェーンソーで薪を作ったり、それを窯(かま)の中にくべたりという、地味な作業をコツコツとこなす。不器用で実直な性格であることが作業ぶりからわかる。

だが、なぜこの銭湯で働かねばならないのか、謎は深まるばかりだ。

そもそも新しく人を雇わなければならなくなったのは、四年ほど生活を共にしたかなえの夫が突然、行方をくらましたからだった。地元の銭湯組合の旅行に出かけたおり、誰にも何も告げずに蒸発してしまったらしい。

近親者の失踪というのは、しばしば文学作品に見られるテーマである。

人間存在の謎を問うのに最適だからだろうか。たとえば、十九世紀アメリカ文学を代表する作家のひとりに、ナサニエル・ホーソーンがいる。
ホーソーンの短編「ウェイクフィールド」では、十年間一緒に連れ添った夫が、ある日こっそり失踪する。
「夫は旅行に出ると偽って、自宅の隣の通りに間借りし、妻にも友人にも知られることなく……二十年以上の年月をそこで過ごしたのである」

作家は、そんな「奇人」の行動に対して「共感力に訴える」と理解をしめす。誰しも「現実逃避」の欲望があり、そうした衝動を抱えて生きているからだ。
「人はみな、自分はそんな狂気に走らぬとわかっていても、誰か他人がそうしても不思議はないと感じるのである」

かなえはある日、偶然スーパーで遭遇した大学時代の友人、菅野に事情を打ち明け、彼女に探偵を紹介される。のらりくらりとして頼りなさそうな探偵役のリリー・フランキーがいい(コミカルでシリアスな)味を醸し出す。

それはともかく、その探偵はかなえから聴き取りをしたあとで、夫のことを「過去をすっかり消したいか、足がつかないようにしたのですな」と、断定的に述べる。
むかついたかなえは、あなたに夫の何がわかるの?と噛みつく。そのとき、探偵は何気なく「人をわかるってどういうことですか?」と尋ねる。

探偵から二週間ごとに報告される夫の新事実によって、かなえはいかに自分が夫を知らなかったかを思い知らされる。

そう思ったとき、あるシーンがフラッシュバックする。客のいない浴場で、かなえと夫が浴槽の縁にこしかけ、話をしているシーンだ。
かなえが、いずれはバーナーで重油を燃やす方式にしたほうがいいかもね、子供だってできるかもしれないし、薪だと手間がいろいろとかかるから、といったようなことを夫に話す。
夫は何か言いたそうにするが、その言葉を飲み込んでしまう。

夫だけではなく、かなえは自分自身すらもわかっていなかった。冒頭、浴場の掃除を終えたあと、浴槽の縁にすわっていて、後ろ向きにお湯の中に沈んでいく夢のようなシーンが出てくる。
プロットとはまったく関係なく、こうした水の中に仰向けに沈んでいくシーンがその後も何度か出てくる。
それはかなえ自身もわからない、もうひとりの自分が顕(あらわ)れる瞬間かもしれない。少女時代に水をめぐる恐ろしい事件で負った心の傷が、押し込めていた心の奥底から、本人の意識を突き破ってくるのだ。

タイトルの『アンダーカレント』とは、水の「底流」とか表面の思想や感情と矛盾する「暗流」という意味であるという断り書きが作中で提示されるが、それはかなえの意識下に眠る、本人も自覚していない「怪物」のことだろう。
それこそが水の中に隠された秘密なのだ。と同時に、それは堀という男の中に押し込められていた秘密をも示唆するにちがいない。

本作は、かなえが銭湯を再開させる六月から、探偵が見つけ出してきた夫と再会する十一月までの半年間を扱う。
夫の失踪をきっかけに、かなえは水をめぐる認識論的な不安に陥り、自分のアイデンティを問い直す。

一方、最後に登場する夫は、自分のアイデンティティをめぐり、さらに深い不安を抱えている。かなえと再会した夫は、自分というものがわからない、と正直に打ち明ける。
どうして失踪したのか、と問うかなえには、自分はうそつきだった、みんなうそが好きで、本当のことなど知りたくないんだ、と言う。
それでは自分に言ったことも全部うそだったのか、という問いには、自分でもよくわからない、あまりにうそを重ねてきたから、誰かに求められる自分でいることができて、そうやって過ごしたから、と答える。

うそと真実との境界はつねに曖昧である。ひとりの人間の内部も曖昧である。履歴書のようにきちんと整理できるわけではない。
何気ない日常生活の中で、そうした曖昧な人間存在に対する不安を描き、しかもそれを飼い慣らす方法をやさしく最後に示唆する優れた映画である。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 アリス・ディオップ監督『サントメール ある被告』

2023年09月14日 | 映画
いくつもの「壁」を越えて、母と娘の物語を語る   
アリス・ディオップ監督『サントメール ある被告』 
越川芳明
 
ラマという名の、パリで生まれ育った黒人女性が主人公。
セネガルからの移民の二世で、主な職業はフリーランスの作家だ。

周知のように、西アフリカのセネガルは一九六〇年に独立するまでフランス領だった。
いまでも公用語はフランス語である。
ラマも職業柄、フランス語は堪能だ。

フランス社会では、人種にまつわる紋切り型の物の見方、というか肌の色に対する先入観があり、黒人(とりわけ女性)は知的ではない、とみられがちだ。
黒人女性がフランス語を流暢に喋ったりすると、白人に驚かれる。
ラマのような知的な女性にとって、日々の暮らしのなかで、目に見えない人種の壁(先入観・偏見・差別)が立ちはだかる。
だが、その壁は白人には見えない。

ラマは、フランスの地方都市ベルク・シュル・メールで開かれる裁判に興味をもち、出版社に新作の企画を持ち込む。
そして、裁判の傍聴に出かける。

なぜラマはこの裁判に興味を抱いたのだろうか?

裁判は、ラマとほぼ同年代の三十代半ばの黒人女性による赤児殺し事件を扱っていた。
黒人女性は自分の子を殺した罪に問われているのだった。

被告の黒人女性はロランス・コリーといい、セネガルの首都ダカールで生まれ育ったらしい。
セネガルの高校を卒業してから、フランスにやってきていた。
裁判での本人の証言によれば、幼い頃は経済的に恵まれていて、広い家に住んでいたという。
しかし、父は生まれてすぐに愛人のもとへ去り、ロランスは母と祖母と暮らした。
祖母には大切に育てられたらしい。ロランスはひとりっ子で、本が好きの文学少女だった。

イスラム教徒の多い環境で、あえて娘にカトリック系の学校へ通わせているというあたりに、親の意図が見える。
特に、母は教育には厳しく、ロランスに母語のウォロフ語を喋ることを禁じたという。
「母はわたしのフランス語を完璧にして、わたしを出世させたがった」と、ロランスは証言する。

一般的に、ヨーロッパによる植民地では人種にまつわる差別が歴然としていた。
思想家エメ・セゼールも、植民地の「差別構造」をこう指摘している。
「(植民地の黒人が)劣等意識を抱くことは、ヨーロッパ人が優越意識を抱くことの土着的相関物である」と。

黒人は白人による差別を内面化してしまいやすく、劣等感を克服しようとして、自分たちの子供を白色化(教育によって、あるいは結婚によって)しようとする。

ロランスの両親は、娘に社会の階梯を登らせようとした。
ロランスは、黒い肌のフランス人になるべく訓練されたのだった。

映画では、ロランスの実際の証言をそのまま使用したらしいが、彼女が法廷で流暢なフランス語で抗弁すればするほど、彼女の悲劇性が高まる。

そういう意味では、被告ロランスは、ラマの「分身(ドッペルゲンガー)」のような存在である。
ともに、ヨーロッパの白人社会を生きぬくために、母から厳しい躾とフランス語教育を施された優秀な女性だった。
だが、ロランスの場合は、どこかで歯車が狂ってしまい、いま裁判の被告になっていた。
ラマは裁判を傍聴するあいだに、次第に精神が不安定になってゆく。

ロランスは妻子のいる三十歳以上年上の白人老人と同棲し、その老人の子を出産していた。
ラマも白人ミュージシャンの恋人がいて、その恋人の子を妊娠しているようだ。
ラマにとって、ロランスの証言はおそろしかった。自分の未来を予想させるからだった。

『ヒロシマ・モナムール』へのオマージュ
冒頭、ラマがどこかの大学で講義しているシーンが出てくる。
ラマが教室で使っている教材が注目に値する。
それは映画のモノクロ映像で、何人もの女性が群衆の前で、無理やりハサミで剃髪(ていはつ)され、さらし者にされている。
背後に、ナチスの占領から解放されて、市民たちが歌うフランス国家「ラ・マルセイエーズ」が流れている。
おそらく、髪を切られた女性たちは、戦時中に犯した行為によって、「非国民」として糾弾されているのだろう。

講師のラマが説明する。
これは作家のマルグリット・デユラスによる『ヒロシマ・モナムール』で描かれたものと同じだ、と。

デュラスの原作『ヒロシマ・モナムール』を基にアラン・レネ監督が作ったモノクロ映画『二十四時間の情事』(一九五九年)がある。
主人公のフランス人女優が反戦映画を撮るために、戦後、広島を訪れ、いきずりの恋で日本人の建築家と一夜を共にする。
そのなかで、女優の少女時代のトラウマが明らかにされてゆく。

女優は、少女時代に彼女の田舎の町を占領していたドイツ兵と恋仲になったらしい。
戦後、それが発覚して、恋人から引き離されるだけでなく、彼女自身、髪を丸刈りにされ、「非国民」扱いを受け、精神に異常をきたした。
そのため、しばらく社会から隔離され、文字通り「地下生活」を送ったことがあった。

このトラウマを抱えた白人女優と、いま裁判にかけられているロレンスという黒人女性との共通点はどこにあるのだろうか。

一見したところ、時代も違うし人種も違う。共通点などなさそうだ。

だが、よく見ていくと、一方は「非国民」として、他方は「赤児殺し」として、ともに社会から「恥ずべき烙印」を押された女性であるという点は共通している。

そこで注目すべきは、ラマの職業である。
それはマルグリット・デュラスと同じ作家だ。
ラマもドゥラスと同様、対象になっている女性を安易に「狂人」扱いするのではなく、ひとりの個性のある人間として見て、描こうとする。
言葉を紡ぐことで、ロランスのために、マスコミや世間から押される「恥ずべき烙印」をはぎ取ろうとする。

被告席で終始仏頂面ロランスがたった一度だけ微笑むシーンが出てくる。その視線は、誰あろう、ラマに向けられていた。

そういう意味では、ロランスを担当する女性弁護士もまた、紋切り型の発想を避ける「作家」としての役割を担っていると言える。
女性弁護士が最後に雄弁に語る。母の遺伝子の一部は娘に受け継がれる。

それと同じように、娘の遺伝子の一部も母に影響する。
母と娘は相互影響関係にあり、その影響は相手が生きていようが死んでいようが、変わらないのだ、と。

『思想運動』(小川町企画)No.1092. 2023.9.1発行
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 マリナ・エル・ゴルバチ監督『世界が引き裂かれる時』

2023年09月07日 | 映画
戦場と化したウクライナの国境の村   
マリナ・エル・ゴルバチ監督『世界が引き裂かれる時』
越川芳明

二〇一四年、ロシアとの国境に近いウクライナのドンバス地方(ドネツク州グラボべ村)が舞台だ。
紛争さえなければ、牛の放牧にふさわしい広大でのどかな田園地帯だが、戦争前夜の張りつめた雰囲気があたりを包んでいる。

初めての出産を間近にひかえた中年女性イルカが主人公だ。

冒頭、真っ暗な中で、姿の見えない夫婦の会話が流れる。
「私の夢が知ってる? すべてが終わったら、穴に大きな窓をはめる」
「ヨーロッパの家みたいに?」

イルカの言う「すべて」とは、次のような事態を踏まえてのことだ。
二〇一四年二月に激化した首都キーウでの反政府デモで、親ロシア派の政権が崩壊。
その後、二月二十四日からロシア軍がクリミアに侵攻し、ロシア領への「編入」を宣言。さらにドンバス地方の二州(ドネツク州とルハンシク州)で親ロシア派勢力が行政庁を占拠し、
四月にウクライナからの「独立」を宣言。

こうしたロシア軍の介入と、親ロシア派勢力による強引なやり口に対して、ウクライナ軍はドンバス地方で、親ロシア派武装勢力と本格的な戦闘を開始。

そして、この映画で扱われる七月十七日が訪れる。

親ロシア派武装勢力によるふたつの「誤爆」が題材として描かれている。

ひとつめは、夜明け前にイルカの家に砲弾が飛んできて、壁の一つが吹き飛ばされる。
夫婦ふたりともこれが親ロシア派勢力による「誤爆」だと気づいている。
というのも、夫トリクは、どちらかと言えば親ロシア派(というか、
穏健な体制順応派といったほうがいいのかもしれない)で、
幼馴染みのサーシャ(親ロシア派勢力に加担している)から、撃ち間違いだった、
いずれ修理をするから、と謝罪される。

そのとき、さりげなく二人は児童施設で一緒に育った仲である、と示唆されることから、
彼らがウクライナ社会の底辺に追いやられた労働者階級の人間だと推測される。

キーウのような都会で、西洋的な価値観に染まったインテリ(たとえば、イルカの弟)に対する反発があるようだ。

イルカも「あいつら(サーシャたち)の大砲は曲がっているの?」と、夫に不満を述べる。
イルカにとっては、破壊された家の壁もさることながら、
砲弾によってベビーカーが壊されてしまったことが当面解決しなければならない問題だ。

もうひとつの誤爆とは、この日の夕方四時ごろに村の上空で起こった、マレーシア航空17便の撃墜事故である。
乗客二百八十三名と乗務員十五名が死亡し、こちらはマスメディアにも取りあげられ、
乗客が最も多かったオランダ主導の調査団は、ロシア製の地対空ミサイルによるものだと結論づけた。

一方、ロシア側はそれを「陰謀論」だとして受け入れなかった。 

ウクライナ・ロシア両陣営に加えて、
マスメディアや調査団もGoogleEarthや DegitalGlobeなど人工衛星を利用した画像を証拠に、
原因を究明しようとしたため、最新のデジタル科学捜査の様相を帯びた。

だが、画像編集ソフトによる証拠物件の改ざんなどもあり、すんなりとはいかなかった。

本作では、ロングショットで捉えた風景の中を、
ロシア製と思われる移動式地対空ミサイルが通る映像が二度流れるので、
この事件は親ロシア派勢力の引き起こしたものと示唆しているのは明らかだろう。

そのことを裏づけるかのように、
イルカが自家製のトマトソースの瓶詰めを母屋から離れた地下室に運びいれたときに爆破音がして恐怖にとらわれるシーンがあり、
この爆破音はマレーシア航空機の墜落と結びつくにちがいない。

その直後に、親ロシア派勢力の兵士たちが無惨な死体
(乗客のものかもしれないし、航空機の残骸に当たって亡くなった親ロシア派の兵士のものかもしれない)
を回収しにくるシーンがつづく。

通常、戦争映画は、敵対する軍隊同士の戦闘を描くが、
本作は、一般市民の日常生活に及ぶ戦争を描く。

本来は、戦場であってはならない場所が戦場と化し、兵士ではない市民が犠牲になる。
そのことを強調するかのように、イルカの日常が淡々と描かれる。

納屋に飼っている乳牛の乳搾り、台所でのトマトソース作りと瓶詰め作業、
外の水道でペットボトルに水を詰める作業。
そして、砲撃で汚れた壁紙を雑巾できれいに拭こうとする彼女が、
苦しそうな仕草を見せるのは、ただ単に突き出たお腹のせいばかりではなさそうだ……。

この戦争を残忍なものにしているのは、ロシア側が雇っている傭兵隊の存在である。
これまでの歴史上の戦争でも正規兵の補助となる傭兵は存在したが、ロシアの傭兵は特殊である。

プーチン大統領と親しいとされるエフゲニー・プリゴジンが創設したロシアの民間軍事会社「ワグネル・グループ」は、
これまでもシリア、リビアなどの内戦に参加しているが、ドンバス地方へも傭兵を派遣している。

ロシア政府と連携して、多くの囚人や受刑者を徴用し、前線に送り込む。
彼らは正規軍と行動をともにせず、一般市民に略奪や乱暴狼藉を働くのもいとわない。

事件のあった次の日の夜明け前に、ロシアの傭兵隊がイルカの家にやってきて、
破水したばかりのイルカに銃を突きつけて、朝食を作れ、と命令する。

一方、夫のトリクはキーウの大学で学ぶイルカの弟(ウクライナ民族主義者)を殺すように銃を渡される。
そのとき傭兵隊の隊長は「戦争は敵が全員死ぬまで終わらない」と、うそぶく。

まるで生まれ育った土地から逃げたくても逃げられない一般市民の命を犠牲にしても、
俺たちは戦争をつづけるのだ!と言いたいかのように。

このときの構図は、ウクライナの親ロシア派市民と反ロシア派市民あいだに、
「ワグネル」というロシアの戦争のプロが介入した奇妙で複雑な形である。

ロシアの軍事・安全保障を専門とする小泉悠氏は、
本作で扱われた二〇一四年のドンバスでの紛争を「第一次ロシア・ウクライナ戦争」と呼び、
それが二〇二二年二月に始まったロシアによる侵攻(「第二次ロシア・ウクライナ戦争」)
に先立つ火種だったと捉えている(『ウクライナ戦争』ちくま新書)。

「すべてが終わったら……」という、イルカの願いは、いまでもまだ実現していない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 テオドラ・アナ・ミハイ監督『母の聖戦』 

2023年04月12日 | 映画
ひとりの「民間人」女性の戦い
テオドラ・アナ・ミハイ監督『母の聖戦』 
越川芳明

十代の少女の顔がアップで映される。少女はキッチンで母に化粧をしてあげているようだ。

母はコンロにかけた鍋料理の具合を見にいき、「今夜の食事はどうするの?」と、娘に尋ねる。

娘はこれからボーイフレンドとデートの約束がある、と答える。

冒頭のこのような平凡なショットが示唆するように、母と娘の日常生活は平穏そうだし、二人の仲もよさそうだ。

母の名前は、シエロという。シエロは普通名詞だと、スペイン語で空・天国といった意味になる。

娘にとって母は空(天国)のような、かけがえのない存在なのだろうか。

母が調理場から戻り、娘が自分の携帯に、おそらくボーイフレンドから送られてきたメッセージを読むところで、「天国」は皮肉な意味を帯び始める。

娘が笑って面白がるメッセージとはこうだ――
 「寝ぼけているイヴが『ここはどこ?』と聞く。すると、アダムが答える。『俺たちは服も家も金も仕事もない。でも人々はここを天国と(呼ぶ)。本当はメキシコなのに! 』」

これは、貧富の差が激しい犯罪天国メキシコを皮肉るブラック・ジョークである。

この映画は天国と地獄をめぐる現代風の寓話とみなすことができる。天国と地獄は、キリスト教の二元論(正義と悪)で割り切れるようなものではなく、もっと複雑である。言い換えれば、天国と地獄は背中合わせであるかもしれない。
 
というのも、母シエロは、ただちに「地獄」に突き落とされ、暗黒の恐怖にさいなまれるからだ。

デートに出かけたはずの娘がどこかに失踪し、シエロのもとにギャングの手先がやってくる。かれらは法外な身代金を要求し、もし警察や軍に知らせたら、娘の命はないものと思え、と冷酷に告げる。

メキシコの国境地帯では、一九九四年に発効したNAFTA(北米自由貿易協定)以降に、武装した麻薬カルテルやギャングによるものと思われる女性の殺人事件や死体遺棄事件が頻発した。

その後、それらの組織に代わって、メキシコ各地で地方のギャング団がいくつも台頭し、抗争を繰り返すようになった。

かれらは麻薬の密売や人身売買、誘拐、みかじめ料の要求などによって、市民生活を脅(おびや)かしている。

警察はまったく頼りにならず、市民は、一言でいえば、不条理な「暴力」に晒されているのだ。

本作がテーマにしている、身代金目当ての誘拐事件は、二〇二一年にメキシコ全土で六百件あまり起こっている。

しかし、これは公的な数字であり、実際は報復を恐れて、警察には届けない人が多い。

メキシコの国立統計地理情報院(INEGI)によれば、警察への届出率は一・六パーセントにみたないという。

現実には、年間で、三万件から四万件の誘拐事件が起こっていると推定される。

また、都市部では、流しのタクシーでお客の身柄を拘束してATMに連れてゆき、持っているキャッシュカードやクレジットカードで現金を引き出させる、

短時間の誘拐もある。そのような手口は「特急誘拐」とか「稲妻誘拐」とか呼ばれる。

本作は娘の誘拐事件をきっかけに、武器を持たない一介の主婦が、娘を取り戻そうと奮闘するプロセスを描く。

原題は、スペイン語で「ラ・シビル」という。意味は「民間人」だ。武器を持つ「軍人」に対して、シエロは「民間人」である。

だが、シエロは身代金を払うも、娘を返してもらえず、警察に相談したためにギャングに家を襲撃され、車も燃やされてしまう。事ここに及んで、ようやく母は軍と手を組むことを決心する。

着任したばかりでこの地方の事情に詳しくない軍隊の指揮官(ラマルケ中尉)の提案で、シエロは軍への情報提供者になり、軍隊と一緒にギャングのアジトに乗り込む。

天国と地獄が単純でないように、作中で描かれる「民間人」と「軍人」の境界も曖昧である。

シエロは知らないうちにこの世界の「暴力」に加担せざるを得なくなるのだ。

この映画は、表向きはメキシコの誘拐事件(目に見える暴力)を扱っているが、細部に目を向けると、メキシコ社会のさまざまな「障害(バリア)」(目に見えない暴力)が見えてくる。

そのひとつは、拭いがたい男尊女卑のマチスモである。

たとえば、シエロと夫のあいだの夫婦関係にそれは見られる。

夫グスタボは、若い愛人を作って別の家に住み、シエロとは別居状態である。

娘の誘拐事件があったときも、娘を外出させた妻のせいにするばかりで役に立たない。

また、テレビニュースを見たシエロが娘の遺体を探しにいく葬儀屋の女性も、この社会のマチスモの犠牲者だ。

彼女はギャングから、ある娘の遺体を引き取るので高級な棺桶を用意しろと告げられる。

もちろんギャングにその代金を払う気などはなく、彼女が負担しなければならない。

シエロの娘がガラスケースの中に飼っているペットのカメレオンの映像が三度出てくる。

シエロも葬儀屋の女性も、ある意味、ガラスケースの中のカメレオンと似ている。

カメレオンは背景に似せた体色変化をおこなって身を守るが、彼女たちもまた自己防衛のためにメキシコ社会のマチスモの色に染まりかねないからだ。

誘拐事件という犯罪や、マチスモという「目に見えない暴力」に対して、ひとりの「民間人」の女性が挑む姿を、安直な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の形式ではなく、繊細かつ複雑に描いた傑作である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督『トリとロキタ』

2023年04月11日 | 映画
孤立無援の「姉弟」の生と死
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督『トリとロキタ』
越川芳明

アフリカ系のふたりの主人公は、ヨーロッパの都市に「難民」として暮らしている。

姉弟と偽って難民施設では同じ部屋にいる。幼い少年トリは、ベナン共和国の出身で、生まれてすぐに捨てられ、「難民認定ビザ」が降りている。一方、年上の少女ロキタは、家族に仕送りをする目的で、仲介業者に借金をしてカメルーンからやってきて、ビザはない。

冒頭のシーンで、ビザの申請をするロキタの顔がアップで映される。どうやって幼い頃に離ればなれになった弟を見つけたのか、難民審査のために、細部にわたる厳しい質問を受けつづけ、情緒不安定になる。

付き添っていた女性に促されて、ロキタはバッグから精神安定剤を取り出して、口に入れる。

何とかボロを出さないように、冷静さを保ちながら必死で答えを探そうとする少女の顔が映し出されるこのシーンで、観客は知らないうちに、この少女の心理と一体となっている。

ふたりが血を分けた姉弟以上に親密になるのは、この都会で他に頼る者がいないからだ。

孤独で不安にかられるとき、ロキタがベッドで歌ってくれる子守歌は、幼いトリにとって、癒しというより、これがないと生きていけない命綱なのだ。父も母も兄弟もいない身の上だから。

 おいで こっちに
 君のママだよ
 呼んで 慰めるから
 おいで ママのところに
 
 一方、ロキタにとっても状況は同じだ。
彼女が難民審査の口述試験をクリアできるように、トリは想定される質問をあれこれ出してあげる。

また、ロキタはイタリアレストランで客に向けて、カラオケで歌を歌って小銭を稼いでいるが、トリも一緒に歌う。

あるとき、ロキタはなけなしの金を仲介業者に奪われ、仕送りができなくなってしまう。

母に謝りの電話をすると、母からは厳しくなじられる。

孤立無援で自暴自棄になったとき、ロキタを慰め、立ち直らせてくれるのも、幼いトリである。

ロキタが違法のドラッグの運び屋をして仕送りの金を貯めるのを、夜遅く門限ギリギリまでトリが手伝う。

そのように行動を共にし、警察に捕まる危険を共有することで、ふたりの心の絆は深まっていく。

ダルデンヌ兄弟の監督作品に共通しているのは、ロキタやトリのように社会の周縁に追いやられた女性や少年、少女に寄り添い、社会の「不寛容」を静かに訴える点だろう。

たとえば、『ある子供』(二〇〇五年)では、貧民街に住む若い母ソニアが、生後九日の我が子を恋人の男によって闇の組織(養子斡旋業)に売り飛ばされ、パニック障害を起こして救急病院に搬送される。

警察に発覚することを恐れた男は、売買の取り消しを訴えて、乳児を取り戻すことができたが、組織から違約金を払えと脅される。

男には職がなく、できるのは、物乞いや盗みぐらいであり、意を決して犯した盗みも失敗におわる。

『サンドラの週末』(二〇一四年)では、病気のために休職していた子育て中の若い女性サンドラが、会社に復職を拒まれる。

会社側は、同僚たちに自分たちのボーナスかサンドラの解雇かの窮極の二択を迫り、彼らに投票させて、一旦はサンドラの解雇を決める。

が、サンドラは社長に訴えて、再投票を認めさせる。

だが、彼女に与えられた時間は週末の二日だけ。

そのあいだに自分たちのボーナスを選んだ同僚たちを説得してまわらなければならない。絶望的な奮闘を強いられるのは、『トリとロキタ』と同じである。

右傾化した社会では、人道的な配慮を欠いた弱肉強食の発想で、社会的な弱者を切り捨てる言説が幅をきかせやすい。

ここに興味深い統計がある。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の発表によると、迫害や紛争、暴力、人権侵害などで故郷からの避難を強いられた人々の数は、二〇二一年末には約八千九百万人であるが、世界の難民の受け入れ国の八十三パーセントが低中所得国である。

受け入れ国では三百八十万人のトルコがトップであり、五位に百三十万人のドイツが入る。

そして、難民の約三十パーセント強の二千七百十万人が十八歳未満の子供たちである。

その中には、この映画のロキタのように、ビザのない人や「無国籍」の人々が何百万人もいて、教育やヘルスケア、雇用、移動の自由など、人間の基本的権利のない生活を強いられている。

恥ずべきことに、日本は人権意識の低い国として有名である。

二〇二一年には名古屋入管でスリランカ出身の女性が適切な医療を受けられずに死亡し、現在、国を相手どって訴訟が起こされている。

また、日本の出入国在留管理庁のウェブページ(二〇二二年五月十三日発表)によれば、難民の審査請求数(四千四十六人)のうち、難民として認定されたのは七十四人である。

後半にサスペンスに富んだシーンが連続する『トリとロキタ』は、エンターテイメントとしても面白いが、と同時に、観客に心の底から考えさせる優れたボーダー映画でもある。監督たちも言っている。

「……観客が、映画を見終えた後で、私たちの社会に蔓延する不正義に反旗を翻す気持ちになってくれたら……」と。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評 ピラール・キンタナ『雌犬』

2022年09月12日 | 書評
「乾いた女性」の中の「隠し絵」       
ピラール・キンタナ(村岡直子訳)『雌犬』

南米コロンビアの新鋭女性作家の小説である。

現代コロンビアのジェンダー・人種・階級にまつわる社会問題を、オランダ人画家ヨハネス・フェルメールの絵で話題になったような「隠し絵」で表現している。

最近のX線撮影を使った調査と修復作業によれば、フェルメール作の『窓辺で手紙を読む女』のキャンバスには、もともと「弓を持つキューピッド」の画中画が描かれていたが、没後何者かによって上塗りされたことがわかっている。

この小説では、表向き、太平洋岸の名もない寒村を舞台に、一人の中年女性の日常が淡々と描かれている。

女性の名前は、ダマリスという。おそらく黒人か混血だろう。夫は黒人でロヘリオといい、収入の浮き沈みが多い漁師・猟師である。

二人はダマリスが十八歳のときに結婚したというが、子どもはいない。

いまダマリスは四十歳になろうとしている。

かつては子どもを作ろうとしてクランデラ(薬草類の知識にたけた民間医療士)に高い金を払って、秘術やマッサージを施してもらったことがある。それでも、妊娠しなかった。

「不妊」が彼女の負い目になっている。

それは、この社会で女性が出産するのが当然とみなされているからである。

ダマリスが知人からもらった雌犬は飼い主とは対照的に、繰り返しジャングルに失踪し、子犬を身ごもって帰ってくる。

そもそも野生化した雌犬は、ダマリスが感じる社会的抑圧とは無縁だ。

子どものいないダマリスに対して、エリエセルおじがいったとされる「女が乾く年ごろ」という何気ない言葉は、男性優位社会の中でその意にそぐわない女性たちが味わう「疎外」を隠蔽(いんぺい)している。

それこそ、作者が上塗りした大きな「隠し絵」の一つである。

さらに、別の種類の「隠し絵」もある。

階級や人種の絡んだ、現代コロンビア社会の目に見えない「壁」である。

ダマリスが暮らすのは、入り江を挟んで、村の反対側にある人里離れた断崖の上だ。

都会に住む白人夫妻が建てた別荘の管理人として、同じ敷地内にある粗末な小屋で寝泊まりしている。

富裕層の白人夫妻は、幼い息子をこの地の海で亡くして以来、別荘を訪れることもなく、管理手当も滞りぎみだ。 

「断崖の上」とは、都会のスラムと同様、社会の「周縁」に追いやられた人たちの状況を表している。

「ふたりが住む小屋は浜辺ではなく、木がうっそうと茂る断崖の上にあった。

都市部に住む白人たちが所有する別荘地だ。広くてきれいな別荘には、庭や石畳の歩道、プールがついていた。

ここから村に行くには、長くて急な階段を下りなければならない。・・・(中略)下りたあとは入り江を渡る。川と海の合流地点だが、広くて川そのもののように流れが速く、潮の満ち引きがあった」

ダマリスは主人のいない別荘を守り、床掃除を懸命におこなう。

使うこともない資産を有する裕福な白人主人と、まともな住居すらない黒人貧困層のダマリス夫婦とのあいだの社会的・経済的格差は歴然としている。

「入り江」というのは、ダマリスにとって社会的な境界(壁)の象徴である。

入り江は満潮になると水で埋まってしまって村の中心(社会経済活動)への道が断たれる。

「人生は入り江のようなもので、自分にはたまたま、歩いて渡る運命が用意されていたのだと感じた。足が泥に埋まり、腰まで水につかって、ひとり、完全にひとりぼっちで、子どもを産まない体、物を壊すしか能のない体を前に進める運命が」

マルケスにかぎらず、一九六〇年代から七〇年代にかけてのラテンアメリカブームの作家たちは、中南米・カリブ海に共通する「負の歴史」(ヨーロッパ人による先住民のジェノサイドや、アフリカのディアスポラの民を使った奴隷制、独立後の政治的混乱など)をフィクションの文体にどう活かすか苦心しながら、歴史・社会問題を直接に扱う「政治小説」を書いた。

一方、若い世代にあたるこの作家は、ジェンダーや人種や階級をめぐって、コロンビア社会が根強く温存している目に見えない「壁」を、「雌犬」や「崖の上の小屋」や「入り江」といった象徴的な「隠し絵」で語ったのである。

『図書新聞』2022.8.13

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 ロバート・コノリー監督『渇きと偽り』

2022年09月12日 | 映画
干からびた大地と荒(すさ)んだ心
ロバート・コノリー監督『渇きと偽り』
越川芳明

オーストラリアの辺境(アウトバック)の町を舞台にした犯罪映画だ。

ひとりの中年男、アーロン・フォークを中心に展開する。かれの職業は連邦警察官だが、担当はデスクワークの財務捜査で、金融詐欺。

アーロンは高校時代の親友ルークが死亡したとの知らせを受け、メルボルンからはるばる車で五時間ほどかかる故郷の町へ向かう。かれを葬儀に呼んだのは、親友の父親で、その手紙には謎めいた言葉が書かれていた。

「ルークは嘘をついた。きみも嘘をついた。葬儀で会おう」と。

冒頭のシーンで、二つの対照的な風景が映し出される。

旱魃に襲われ、乾燥しきった大地を上空から俯瞰するショット。やがてクローズアップになり、雑草も生えていない、ひび割れた耕作地が映る。どちらも薄茶色を基調にして、不作ぶりが強調されている。

一転して、高層ビルに覆われた都会のダウンタウンのショットに切り替わる。アーロンはビルの大きなガラス窓から外の摩天楼を無表情に眺めている。こちらは冷たいブルーが基調の風景だ。

アーロンの都会から故郷への旅は、二つの時空のベクトルを持つことになる。

ひとつは、現在の故郷で親友が起こしたとされる心中事件の謎に向かうベクトル。

事件を担当した警察によれば、ルークは農場経営に行き詰まり、妻と息子を射殺して、その後、自殺したという。しかし、父親は警察の捜査を疑っており、息子の残した帳簿にあたってほしいとアーロンに頼む。

もうひとつは、二十年以上前に自分に容疑がかけられた友人エリーの死をめぐる謎に向かうベクトルだ。かつて警察の捜査で、エリーの死因は自殺ということになったが、住民たちはアーロンが殺したのではないか、と疑っていた。

というのも、アーロンはエリーの死の直前に、ノートの紙切れに「川で会おう」と書いて渡していた。おまけに、エリーはかれの苗字が書かれたメモを残していたからだ。

そうしたふたつのベクトルの旅を、現在と過去の二つの時間軸を行ったり来たりしながら語る。

たとえば、中年のアーロンが田舎道を車で走っている映像のあとに、同じ道をピックアップトラックの荷台に乗る二人の女の子と、それを楽しそうに追いかける若者のアーロンとルークが出てくる。

また、中年のアーロンが水の涸れた川を歩くシーンのあとで、かつて水が豊富にあった同じ場所で、警察がエリーの死体を捜索するのをアーロン少年が木の陰から目撃するシーンが出てくる。

このように、並行モンタージュを多用する形で、現在と過去と交互に挟みながら、次第に明らかになってくるのは、ふたつの事件の真相というより、主人公の心の闇のほうだ。

アーロンは「正義」を体現する法の番人ではあるが、そのかれにも後ろめたい過去があるという事実が。

映画には原作があり、イギリス出身でオーストラリア在住の女性作家による推理小説に基づく。

小説と映画のオリジナル・タイトルは共に「渇き(ザ・ドライ)」である。

このタイトルもまた二重の意味を担わされている。

「渇き」とは、伝統的な農業地帯の風景だけでなく、人々の心象もあらわす。

冒頭シーンの干からびた大地から始まり、かつて満々と水をたたえていた川は涸れ川となっており、森も枯れ木ばかりが目立ち、いまにも山火事がおこりそうだ。

地球温暖化の影響を受けたオーストラリア辺境のリアルな風景だ。

急激な気候変動は、人間の心にも影響を及ぼさざるを得ない。

この地の住民たちは、もともとよそ者に対して排他的である。

かつてアーロンに容疑がかかったとき、住民たちはいやがらせや迫害によって、アーロンと父を追い出したいきさつがある。

地元で生まれ、地元で育った者しか受けつけない狭隘な保守性に加えて、主要産業である農業の不振は、住民たちの心を潤いのない、荒(すさ)んだものに変える。

だから、久しぶりのアーロンの帰郷にも、地元民の態度は冷ややかだ。

とりわけ、エリーの父親とその甥はあからさまに敵意をむき出しにして、かれを町から追い出そうとする。

アーロンに協力的なのは、親友ルークの両親以外には、アーロンが宿泊するホテルのマネージャーや小学校の校長夫婦、当地に赴任してすぐに厄介な心中事件に遭った巡査部長など、よそ者ばかりである。

かつて高校時代にアーロンが親しく遊んだグレッチェンという「ファム・ファタール(運命の女)」にあたる女性も登場する。

彼女はアーロンにとって、死んだエリーやルークと仲良しグループの一員だったが、謎の多い女性に変わっている。

主人公アーロンは敵愾心をもった住民に囲まれ、謎の女性に翻弄され、犯罪事件と正面から向き合う。

これは殺伐としたオーストラリア辺境を舞台にした、新手の「フィルム・ノワール」だ。


『すばる』2022年10月号、pp.366-367.
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 ヴェルナー・ヘルツォーク監督『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』

2022年09月12日 | 映画
「放浪(ノマディズム)」の哲学  
ヴェルナー・ヘルツォーク監督『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』
越川芳明

 ニュー・ジャーマン・シネマの旗手のひとり、ヴェルナー・ヘルツォーク監督がイギリス作家ブルース・チャトウィンに捧げたオマージュ。

だが、このドキュメンタリー作品(二〇一九年)は、監督自身も断っているように、チャトウィンをめぐる「伝記映画」ではない。
 
ふたりの接点は、一九八三年のメルボルンでの邂逅だった。そのときは、昼も夜もずっと語り明かしたという。

すでにチャトウィンは、ヘルツォーク監督の『生の証明』(一九六八年)に魅せられていた。斥候としてギリシアの孤島に送られた若いドイツ軍兵士が、一万個もの風車がまわる風景にめまいを感じて銃を乱射するシーンがお気に入りだったという。

一方、ヘルツォーク監督はチャトウィンの小説『ウイダーの副王』(一九八〇年)が気に入り、その小説を原作にして『コブラ・ヴェルデ 緑の蛇』(一九八七年)を制作した。ブラジルの極貧の白人が西アフリカに渡り、奴隷商人として巨万の富と地位を築く物語だ。

ふたりには共通する世界観があった。人類の故郷は「砂漠」にあり、その本質は「放浪(ノマディズム)」にあるという考えである。

チャトウィンの頭の中には、約十五万年前に東アフリカで生まれ、アジアやシベリアを通過して、北米に渡り、南米に向かい、その先端のパタゴニアにたどり着いた人類の放浪「グレートジャーニー」があった。

なぜ人類は放浪したのか?

チャトウィンは『ソングライン』(一九八七年)の中でいっている。

「東洋では、かつては全世界で信じられていた考えがいまも生きている。放浪は、人と宇宙のあいだにもともと存在していた調和を回復させる、というものである」

 余談になるが、この思想は中沢新一が『対称性人類学』で唱えている哲学に近いように思える。中沢によれば、日本人は古来、非日常的な儀式や祭り(たとえば、盆踊り)をおこなってきたが、それは崩れかかった宇宙のバランス(非対称性)を整えるためだったという。
 
 ヘルツォーク監督自身も映画の中で似たようなことをいっている。

 「放浪の生活が消えると、人は定住し、都市生活が主流になる。つまり人類の大部分が技術に支配される。そのせいで人類は今、崩壊しつつあると思う。ブルースは人間の脆さを知っていた」と。

 ヘルツォーク監督もチャトウィンも、西洋的で快適な近代生活(テクノロジー万能社会)に疑問を抱き、真逆の世界を生きてきた人々を追いかけた。

 現代の「放浪者」として、オーストラリアの荒野を歌を歌いながら歩くアボリジニに惹かれたのである。それは文化人類学者によって、「ドリーミング・トラック(夢見る跡)」と呼ばれている。いわば、人々と土地とを結びつける絆のことだ。

 音楽家・作家のグレン・モリソンはいう。「中央オーストラリアのアボリジニたちは、砂漠を旅する際、現代の私たちがGPSを使って土地を移動するように、歌や物語を記憶の助けとした。アボリジニ―の人々は死が近づくと、長い旅をして、生を受けた場所に還っていく。それが、(チャトウィンの)『ソングライン』のメッセージだと思う」と。

 古代から継承されてきたアボリジニの歌がGPSであるというのは、とてもわかりやすい比喩であるが、歌がかれらの旅の道具や手段と捉えてしまうと、誤解を招きかねない。

 というのは、アボリジニの歌には、先祖とつながる霊(スピリット)が宿っているからだ。アボリジニは、歌(や物語、踊り)がなくなれば、儀式もできなくなり、風景もなくなってしまうと考える。

 風景とはそのとき、「人と宇宙とのあいだに存在する調和」のことであり、その崩れかかった調和を回復させるために、アボリジニは歌を歌う旅に出るのである。それを、ヘルツォーク監督は「魂の風景」と名付けている。

 アボリジニ(アリヤワッレ族)の老人は、「動物たちも木々も、風景の中で育ってきた。風景が先か、歌が先か、どちらが先とはいえない。鶏と卵のようなものだ。この大いなる謎について考えるのは楽しい」という。

 この老人がいいたいのは、風景と歌は一体である、ということではないのか。どちらもスピリチュアルな存在である、と。

 また、別のアボリジニ(アレント族)の老人は、「時々、飛行機が大きな弧を描いて飛んでいくが、もっと少しずつ進めばいいのに。空には“ソングライン”はない。飛行機はただ外国へいくだけだ」という。
 
 これはいわずもがな。ただの移動と「放浪」の違いに触れているのである。

 ヘルツォーク監督は「世界は、徒歩で旅する人に、その姿を見せる」と述べるが、そうした「放浪の哲学」を証明しようとするかのように、監督自身による映像の数々が披露される。
 
 先ほど触れた孤島の中の一万個の風車のシーンや、パタゴニアの洞窟の壁に残されたおびただしい古代人の手形、南サハラの砂漠で、女性たちの前で化粧をした美を競う若者たちの美の儀式(『ウォダベ 太陽の牧夫たち』(一九八八年)からの引用)、そして、アボリジニの老人による「ソングライン」の歌の実演などである。

 本作はチャトウィンの創作と同様、ヘルツォーク自身が人類とは何か、どうして人類は放浪するのかをめぐって思索をくりひろげ、「放浪の哲学」を追究する優れた芸術作品である。

(『すばる』2022年7月、pp.422-423)

映画トレイラー;https://www.youtube.com/watch?v=oWvHjnhGEow
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 キリル・セレブレンニコフ監督『インフル病みのペトロフ家』

2022年03月20日 | 映画
雪むすめの冷たい手               
キリル・セレブレンニコフ監督『インフル病みのペトロフ家』
越川芳明
 
ロシアの地方都市を舞台に、新年を迎える労働者階級の市民の狂気の日常をSFドタバタ喜劇調に扱う怪作。アレクセイ・サリニコフという小説家の同名のベストセラー小説(2016年)が原作だという。

主人公は、ペトロフという名の中年の自動車整備士だ。離婚した妻ペトロワとの間に息子が一人いるが、妻は息子の病気を口実によくペトロフの家にやってきて、元夫と性的な関係をつづけている。二人に共通するのは妄想癖が強いことである。とりわけ、暴力的な妄想にとりつかれている。

たとえば、ペトロフはインフルエンザのひどい咳に悩まされ、高熱のために意識が朦朧とするなか、満員のトロリーバスから降りる。すると、いきなり義勇軍のような集団に取り込まれ、武器を渡され、政府要人たちの処刑に立ち会うはめに陥る。

このシーンは高熱の妄想のなせるわざなのか、現実の出来事なのか。映画は現実と妄想を切り分けて描くわけではない。観客は現実に起こっていることなのか、それとも登場人物の頭の中で起こっていることなのか、区別できない。

図書館司書をしている妻のペトロワの場合も同様だ。不満ばかりを言う息子の首をナイフで刎(は)ねたり、図書館でサド侯爵の全集や強制収容所文学など、風変わりな本ばかりを借りる「変態男」や、図書館で集会をおこなう文学サークルの鼻持ちならない詩人、書棚の陰で図書館員の女性を脅している男をことごとく殺害する。彼女の場合、性的な妄想も激しい。

生と死の区別もあいまいだ。ペトロフは病気にもかかわらず、大酒飲みの友人イーゴリに誘われて、霊柩車の中で酒盛りを始める。その後、車内にあった死体が消えてしまうという事件が発生する。果たして死者は生きていたのか。

フロイト心理学によれば、妄想や夢は人間の現実(性的抑圧や欲求不満)を映し出すという。この二人に限らず、ほかの市民たちもまた現状に不満であり、フラストレーションの塊である。ソ連時代を懐かしみ、「昔は、毎年サナトリウムへ無料で行けたものなのに、ゴルバチョフとエリツィンのせいで生活は最悪だ」と不平を漏らす。だが、彼らにその時代に戻りたいかと問えば、きっと厭だというだろう。

冒頭に、バンドネオンの歌が流れる。「われらの時代は、過ぎ去る鳥のように・・・」もとに戻ってこない。過去は美しく飾られる。だから、誰もが「ノスタルジー」にひたりたがる。

ペトロフも例外ではない。作品の中で時間的なねじれがあり、彼はインフルに罹った息子を妻に反対されながらも新年の祭りに連れてゆく。そこでも妄想が出てきて、自分が子供の頃、雪むすめの冷たい手に触れた思い出にひたる(しかし、小説家を志す、ペトロフの友達のセリョージャの記憶として映像化されていて、ここでもどちらの話なのか判然としない)。そこに、雪むすめを演じるマリーナの物語がそこに挿入されて、旧ソ連時代の新年の祭りに接続される。

ロシア帝国時代からつづく新年の「ヨールカの祭り」について一言触れておこう。ヨールカというのは、西洋ではクリスマスに飾るモミの木のことである。ピョートル大帝(1672-1725)が世界創造紀元をキリスト紀元に改め、元日を1月1日としたことに由来するようだ。いわば、スラブ文化のヨーロッパ化・キリスト教化を象徴する行事である。

そして、スラブ文化の中には、もともとジェド・マロースという名の「霜」のお爺さんが子供たちにプレゼントを持ってくるという、西洋のサンタクロースに似たおとぎ話があった。白髭のお爺さんには、青と白の毛皮のコートを着たスネグーラチカという雪むすめ(雪の妖精)が付き添っていた。

しかし、ロシア革命以降のソ連では、サンタクロースの登場するキリスト教のクリスマス行事はブルジョワ的だとして廃止される。ヨールカの木と雪むすめの新年の行事だけが生き延びたという。ペトロフ(そして、セリョージャ)の、雪むすめの冷たい手の思い出は、そうしたソ連時代を思い起こさせる出来事なのだ。

そして、現代のシーンで登場する雪むすめにはギャグが効いている。長い金髪の雪むすめの仮装をした中年女性の車掌がいるからだ。ソ連時代にはほとんど無料同然で乗れたはずの公共交通だから、切符を買い渋る客がいるらしく、彼女は車内を動きまわってしつこく切符の点検をおこなう。そして「運賃免除だったら、パスを見せて。拝見、はい、免除のクズ人間ね」などと毒ある皮肉を言い放つ。

ロシア帝国時代からペレストロイカを経て、現代までをリアリズムの手法で撮るとすると、長大な歴史物語になるだろう。しかし、本作は現代ロシアを視点に据えて、新年の風習をSF的な時間操作(モノクロで展開する旧ソ連時代のマリーナの物語の挿入)で、とてつもない時間を行き来できるのだ。

舞台となっている地方都市に注目すると、それがもっとわかる。エカテリンブルグという、首都モスクワから遠く1600キロ離れている、ウラル地方では最大の都市である。この名前はピョートル大帝の妻のエカチェリーナ皇后に由来している。

ソ連時代の幕開けを象徴する出来事もここで起こった。ロシア帝国のニコライ二世一家は、この都市のイパチェフ館にボルシェヴィキによって監禁され銃殺されている。その後、この都市はボルシェヴィキの指導者の名前をとって「スヴェルドロフスク」と呼ばれるようになる。

さらに、この映画の中で、ロシア連邦初代大統領のエリツィンはソ連時代を懐かしむ市民たちによってやり玉に挙げられるが、実はこの都市の出身者である。そして、1991年のロシア連邦の成立とともに、この都市の名前もエカテリンブルグに戻されている。

セレブレンニコフは、ウクライナ侵略を試みるプーチンのロシアには批判的な映画作家である。
アメリカのコーエン兄弟やタランティーノなどを彷彿させる、社会批評を忘れない上質のエンターテイメント映画だと言える。
(「すばる」2022年4月号)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評 ホン・ウィジョン監督『声もなく』

2022年01月08日 | 映画
「善人」と「罪びと」とのあいだをゆく   
ーーーーホン・ウィジョン監督『声もなく』

現代韓国のどこにもあるような、それほど大きくない都市とその郊外が舞台だ。

中年男と青年の二人は、生卵の移動販売を生業にしている。毎日、小型トラックに生卵のパックを積んで街に出かけていって、人通りの多い路上で売りさばく。中年男はチャンボクといい、片足が不自由で、見るからに冴えない田舎のオッサンである。一方、助手の青年はテインといい、大柄で小太りで、耳は聞こえるが口がきけない。

二人の身体障害は、社会の周縁に追いやられた者の象徴となっている。

というのも、かれらは生業だけでは暮らしていけずに、裏の稼業にも手をだしているからだ。裏の稼業というのは、反社会的組織の末端で、組織が処分した人間の死体処理を請け負うことである。自分たちが殺人を犯すわけではないが、証拠が残らないように安物のヘアキャップやレインコートを着て、死体をビニールシートで包み、裏山へ運んでいき、穴を掘って埋葬する。

二人はこうした作業を生卵売りと同様に、淡々とこなす。そこに「罪意識」はないかのようだ。むしろ、敬虔なクリスチャンのチャンボクは、埋葬するときにポケット版の聖書を取り出して死人の罪を償ってあげたり、テインひとりが穴に死体を安置した後で、「北枕」の縁起を気にしたりと、その善人ぶりは尋常ではない。

チャンボクは青年を小さい頃から父親代わりに面倒を見てやっているらしい。青年の障害もあり、「人をうらやんではだめだ」とか、「謙虚に生きないとだめだ」とか、「(買ってやったキリスト教の)テープを聞け」とか、のべつまくなしにお説教を垂れる。

もちろん、チャンボク自身も、目上の者に対しては一切反抗しない。それどころか、言葉遣いは丁寧すぎるほど丁寧だ。

だが、この映画が提示する最大の皮肉は、そうした社会的に「善」として認められた価値観(韓国社会の儒教的な道徳観)が裏目に出ることだ。

チャンボクは、反社会組織の長である「キム様」からあることを頼まれる。ちょっとだけ人を預かってほしい、と。いったんは専門外の領域なので、と断るが、「キム様」に凄まれて、しぶしぶ応じてしまう。

映画の提示するもうひとつの大きな皮肉は、「キム様」のかかわった身代金を目的にした誘拐が「善良」な二人を本当の「罪びと」にしてしまうことだ。

誘拐犯が連れてきたのは十一歳の少女で、チョヒという。「キム様」の計画では、弟のほうを誘拐するはずだったらしい。韓国社会の男尊女卑の風潮を反映して、そのほうが身代金を高く要求できるからだ。しかし、二人が預かるのはその姉で、チャンボクはテインにその少女を押しつける。口のきけないテインは激しく抵抗するが、しぶしぶ引き受けざるを得ない。ここでも映画は韓国社会特有のノーと言えない上下関係を揶揄している。

かくして、テインは幼い妹と一緒に暮らしている人里離れた小さな家に少女を連れていく。面白いのは、社会階層の違う、テインやその妹と少女の三人の作る疑似家族の描写である。

妹はムンジュというが、髪がぼさぼさで野生児のようなムンジュは、兄が帰ってくるなり、「腹減った」と兄に訴える。中西部の大都市である大田(テジョン)の富裕な家庭で育つ少女は、服が乱雑にちらかった部屋で、ムンジュに服のたたみ方を教えて、部屋をきれいに整理する。また、食事のときも、床で食べるのではなく、折り畳み式の小さなテーブルを出してきて、テインが街で買ってきた料理をのせる。そして、ムンジュが先に食べようとすると、少女は「お兄さんからよ」と諫(いさ)める。テインはそう堅苦しいことを言わなくても、といった怪訝そうな顔つきをしながらマンドゥに箸をつける。

このシーンから、少女チョヒの家庭環境を覗き見ることができるが、映画は少女の中に内面化された「良妻賢母」という価値観を美化しているのではない。むしろ、それが少女への抑圧になっていることをしめそうとしているのだ。

それがわかるのは、少女がムンジュと一緒にたらいで洗濯をするシーンだ。

水をたっぷり含んだ大きなタオルを絞るのは、二人の女の子には大変な作業で、そこにテインが割ってはいる。そして、庭に張った洗濯ロープに濡れた衣類を吊るす。おそらく少女の家庭では、父親なり弟なりが洗濯をすることなどないのだろう。

「家族」がそろって洗濯をする体験は、少女の心を知らないうちに解放する。その証拠に、身代金をなかなか払おうとしない少女の両親にあてて、写真つきで手紙を出すという誘拐犯のアイディアで、チャンボクがポラロイドカメラで少女の写真を撮ろうとするとき、少女は緑の田園風景をバックに明るく笑っているからだ。

この映画では、町の保育園や養鶏場の経営者たちが児童誘拐や人身売買に関係している。かれらは善良な市民を装って、陰で犯罪行為に手を染めている。韓国社会の表と裏を描きながら、「本当の犯罪者は犯罪者の顔をしていない」というパラドックスが効いている、優れた寓話である。
(『すばる』2022年1月号、312-313頁)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評 ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』

2022年01月04日 | 書評
災害を生きた「救済」の物語
ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』
越川芳明

十五歳の黒人女子高校生が語る物語。

舞台は米国南部ミシシッピ州の架空の町、ボア・ソバージュ。フランス語で「野生の森」という意味だ。

メキシコ湾を臨む浜辺や湿地帯(バイユー)から遠く離れ、堅固な樫の木などからなる森を切り開いてできた黒人貧困層の人たちの共同体だ。 

いまなお鹿やキツネの生息するそうした「野生の森」に、少女は飲んだくれの父親や三人の十代の兄弟と住んでいる。母親は七年前の、末っ子のお産のときに亡くなっている。

少女の語る物語は、社会の周縁に追いやられた人々のそれだ。具体的には、二〇〇五年にルイジアナ州ニューオーリンズやミシシッピ州に甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナがやってくる十二日間の出来事が一日ごとに語られる。

少女は、父や三人の兄弟、そして兄たちの遊び友達という男ばかりの世界で、次兄が並々ならぬ愛情を注ぐメスの闘犬の出産と生きざまに魅せられる。そして、母親と過ごした日々の記憶が彼女の中に鮮明に残っている。

この小説が素晴らしいのは、語りの文体にある。

まるで人生の辛酸をなめた黒人ラッパーのように、自分に妥協しない言葉が吐き出される。

地の文では基本的に動詞の現在形が用いられているが、ときどき短いフレーズやリフレインが挟まれる。そうしたスピード感のある文体によって、描写の場面がまるでいま目の前で起こっている出来事のように読者に迫ってくる。

忘れてならないのは、文学好きの少女が夏の課題として読み進めているというギリシャ神話へのたび重なる言及だ。

少女はメディアという、愛と憎悪と復讐の人生を生きたコルキスの王女に感情移入する。それは、王女メディアが少女と同様に、たくましい女性だが、好きな男性の前ではからっきし無力で、そして大きな代償を払ってまで尽くすにもかかわらず、最終的には裏切られてしまうからだ。

ここで好きだった男の子に妊娠させられて苦難を味わう少女の物語は、男性中心主義社会における女性の孤軍奮闘という、より普遍的なテーマにつながってくる。

ハリケーンを「生き永らえたわたしたちは這うことを学び、残されたものを拾いあさる」と少女は言う。「死と再生」の通過儀礼を通して、少女が「希望」を獲得する、優れた救済の物語だ。
(「日経新聞」2021年11月6日)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評 中村寛、松尾眞『アメリカの<周縁>をあるく』

2021年12月30日 | 書評
もう一つの<アメリカ>を探して
中村寛、松尾眞『アメリカの<周縁>をあるく』

若い文化人類学者と写真家による、知的な刺激にあふれる「旅」の記録である。「旅」といっても観光旅行ではなく、フィールド・ワークだ。

巻頭のエピグラフで、少女が「地図を燃やさなきゃ」と仲間の少年に語りかける。そして、ふたりは熾した火で地図を燃やす。ふたりが燃やす「地図」とは、マスメディアの報道や、子供たちが学校で使う教科書、親や教師の教える「常識」の比喩と読める。

それは、この本の「旅」を思い起こさせる。このふたりの旅人は、既成の「地図」があるために、私たちが気づかずにいる世界を覗きみようとするからだ。ちょうどイギリス作家ブルース・チャトウィンがオーストラリアでどんな地図にも載っていないアボリジニの「歌の道」(名著『ソングライン』)を発見したように。

たとえば、プエブロ・インディアンの居留地がたくさんあるニューメキシコは、そんな「旅」に格好の行先だ。

彼らはそこで出会うべくして出会った先住民のひとりから興味深い事実を教えてもらう。この土地は「サント・ドミンゴ」という、征服者のスペイン人たちが名づけた名称で呼ばれているが、地元の先住民たちは太古の昔から「ケワ」と呼んでいる、と。土地の名前が違うだけではない。使っている言語も世界観も違う、もう一つの「アメリカ」がここにある。

ふたりは八年ほどかけてハワイ、アラスカ、ロッキー山脈地帯、米国北部などを歩きつづける。

その間に、オバマ政権からトランプの政権へと移り、マスメディアで報道される動向も、ヘイトクライムやそれに反対する集会など、よりセンセーショナルなものが多くなる。そこで、ふたりはトランプ支持のプア・ホワイト(貧乏白人)の住むアパラチア山脈の山麓を訪れる。 

既成の地図をわきに置いて、この本を読むことをお勧めする。新しいもう一つのアメリカ、そしてもう一つの日本が見えてくるだろうから。

(時事通信より発信、「長野日報」2021年9月21日ほか)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評 栗田大輔『明治発 世界へ!』

2021年12月25日 | 書評
「強さ」の秘密
栗田大輔『明治発 世界へ!』


著者の栗田さんは、明大体育会サッカー部の監督である。

夏の総理大臣杯で5年連続の決勝戦進出を果たし、2年前は冬のインカレを初めとして大学生が獲得できる優勝杯をすべてものにした。

監督歴「6年間でタイトル10個」「プロ50人以上輩出」とオビに謳(うた)われているように、結果をだしつづけている。

だから、これはいま全国の高校生年代のサッカー選手たちがあこがれる明大サッカー部の強さの秘密に迫った、タイムリーな本だ。

だが、栗田さんの本職は一部上場のゼネコンのばりばりの営業マンである。

家庭人でもあり、地域のサッカースクールも経営している。その上、僕が瞠目(どうもく)するのは、選手たちにやる気を起こさせる「教育者」としての姿勢だ。

「大学の四年間で「変化する瞬間」が2〜3回ぐらいあるんです。(中略)私はその瞬間を見逃さないようにしています。ここだと思った瞬間に、相手にズバッと響く話をします」と、栗田さんは語る。

営業活動で磨いた言葉の力を若い選手の「育成」に活かすその手腕は、職場で若い人たちに接している中間管理職の皆さんにも参考になるはずだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする