徒然なるのゐどる

ふしぎにさびしい宇宙の果てを
ふわりふわりと昇って行こうよ。

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2024年01月18日 | Weblog
2024年。あけましておめでとうございます。

文章を書く場所を、「note」に移動しました。

名前はnoidolでやっております。

どうぞよろしくお願いします。

女、アラサー、野球、はじめました。

2022年02月16日 | Weblog
大人の草野球チームに、入ることにした。

女性は私だけで、私より年上とか年下とかの男の人ばかりのチームだけど、入ることにした。

それというのも、私は週に三回ほどフィットネスジムにいっているのだけど、そこで出会った人が、草野球チームで野球をやっている人だったのだ。
その人は、仕事以外にはその野球のことだけをずーっと考えているような人で、野球にドップリはまっていて、話を聞いているうちに、私はとても羨ましくなってしまった。
こんなに楽しいことがあるって言うのは、いいなぁ。
それに、野球を通じてこの人には友達がたくさんいるし、いいなぁ。
あおぞらの下で野球をしたら、スッキリした気分になりそうだなぁ。

そういうわけで、私は「私も野球やらせてください」って、お願いすることにした。

もちろん私は野球なんてやったこともないし、ほとんどみないし、ルールも知らないのだけれど。
そんなこと、考えもしなかった。
その野球チームに女性はいないとか、私はそんなに若くもないとか、そもそも野球なんかできるのかとか、
そんなこと、考えもしなかった。
ただ、やってみたい、と思ったのだ。

それで、さっそく野球をやってみたら、面白かった。

そして、私は気づいてしまった。
実はひょっとしたら、私はつまらなかったのかもしれない。
つまらなくて、息を止めて水の中にいるように、ずっと我慢していたのに、
自分がその水の中で我慢していたことすら、気づいていなかったのだと。

誰も私に我慢しろなんて、言ってなかったのに。それなのに私はいろんなことを、勝手に我慢していたのだった。
子供を育てたり、家事をしたり、小説家になると言う夢を追いかけたり。
そんななかで、私は勝手にいろんなことを我慢していて、野球をやっている時にふと、自分が我慢していたことに、なぜか気づいたのだ。

ボールを追いかけたり、褒めてもらえたり、相手を褒めたり。
ボールを取って、自分の下手さに打ちのめされたり、相手のうまさに感嘆したり。

そういう中で、私は自分を少しだけ、取り戻した。

勝手に、自分の人生を受け入れたかのような、平穏な気持ちになっていたけど。
そんな人は私では、ないのだと、思い出した。

もし、自分の人生を、「こういうものだ」と思っている人がいたら、私はオススメしたい。
まったく自分がおもいつきもしないことを、ふと、始めてみる、ということ。
そうすれば、「こういうものじゃなかったかも」と、気づくこともまた、あるかもしれない。

ツイッター:山本李奈(yamamotorina3)

説明

2021年01月08日 | Weblog
うーん…。

とある人がいます。

その人は出かけようとしているのだけれど、まだ部屋で何か用事があるのか、戻ってきました。
私はその人の顔を見上げ、「スマホを忘れてるけど、教えたほうがいいかなぁ。それとも、そんなこと言うのはおせっかいかなぁ…」と思っていたら、その人は私を見て「なんだ? さっさと出てけってか?」と、言われてしまいました。
だから、そんなことは思っていない、自分はスマホを忘れたことを教えてあげようかどうか、言おうとしていたのだ、と説明しました。

また別の日、私はその人に「お昼は外で食べてくるの?」と尋ねました。
するとその人は「わかったよ、外で食べてくるよ」と答えました。
なんだか返事がかみ合っていないと思いました。
私は「お昼を外で食べてこないなら、パンを買って、一緒に食べたらどうでしょう」と提案しようと思っただけなのに、相手は「昼ご飯を作るのが面倒くさいから、自分のことを迷惑に思っているのだな」と解釈したようなのです。

そう言うことが何度も続くので、私はその人に対して誠実に対応しなくてはならないと思いました。
「自分の中の『イメージの私』と会話するのはやめてほしい。私の言葉を聞いて、目の前にいる私と、言葉で会話をしてほしい」と頼んでみることにしました。

すると相手は、言うのです。
「そうさせているのはおまえだ。イメージと会話させているのはおまえのせいだ」

私は何となく、疲れを感じてしまいました。

人のコミュニケーションは、もちろん、態度と、表情と、言葉と、たくさんのもので構成されている。
それらをひっくるめて人は、人とコミュニケーションをとっている。

だから、自分の意図しないものが相手に伝わってしまうことはままあることだと思う。

だけど…自分の言葉が、相手にそのまま受け取ってもらえなくて、おまけに自動的に悪い解釈をされるとなると、それは完全にコミュニケーションが破綻している。そうなると、言葉によって「そうではない」と誠実に説明するほかはない。
だけどそれすらもしたくないと言われてしまうと、そんな相手には、どう、向き合えばよいのだろうか。

相手が言うように、相手にイメージの私と会話させているのは、私のせいなのかもしれない。
しかしそれをやめさせるには、やはり、私自身との会話を重ねて、相手の中にある私のイメージを壊すしかない。
そのくせをやめて、私自身の言葉に耳を傾けてもらうしかない。
しかし、相手はそれは私のせいなので、自分に非はないので、自分を変えるつもりはない…。

一度、相手が誤解をしてしまったときには、自分の誠意をもって、相手に丁寧に、自分のことを説明しないといけない。
だけどその説明すら受け取ってもらえない場合、相手の誤解は受け取られぬまま助長し、コミュニケーションは破綻してしまう。

けれど、それは、私自身もまた、相手を変えることはできないというパラドックスをはらんでいる。
私は相手に変わってほしいと言うが、相手も私に変わってほしいと願い、それは平行線なのだ。

何度も何度も、自分がどんなに丁寧に説明しても、わかってもらえないことというのはままあることだ。
言葉を尽くして、わかってもらえたと思える経験は、自分にはほとんどないと思う。
それでも、丁寧に説明すること。それだけが、人と人がコミュニケーションをとるうえで、できることだと思う。
その細々とした営みをあきらめてしまうこと…それをするときは、相手との交流が途切れるときだ。
誠意をもって説明を続けること、それが大事なんだと、自分に言い聞かせている。

ついに小学館より小説家デビューです!!

2020年11月17日 | Weblog
ついに私の小説が、出版されることが決定しました。

2020年12月18日発売(予定)
小学館ジュニア文庫
「メチャ盛りユーチューバーアイドルいおん☆」

どうぞよろしくお願いします!

初デビューとなります。

小説を書き始めたのが、8歳のころ。
それから…何年たったのかは言いますまい。

古坂大魔王さんが芸人になってからピコ太郎でブレイクするまで、
長い道のりだったと言っていましたが、
私はそれ以上に、小説を書き始めてからデビューするまでが、長い道のりでした。

でもピコ太郎をやる前から、ボキャブラ天国とかの時代も、
普通に古坂大魔王さんはめちゃくちゃ面白くて人気あったと思いますけどね。

ハッ、なぜ古坂大魔王さんの話に…!

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!

つらつらメモ

2020年09月12日 | Weblog
このあいだ、朝の情報番組でこんなニュースをやっていた。
このコロナ禍の中、マスクの着用を拒否した乗客がいて、ピーチ機は新潟に緊急着陸したのだという。その後そのお客さんには、降りてもらったのだという。

そのとき、司会の志らくさんは、ひととおり持論を述べた後で、
「こういう人は言ってもわかんないよ、ずっと言ってもわかんない」
といっていた。

私は、時に、こういう気持ちになることがよくある。
志らくさんが正しいのか、そのお客さんが正しいのか。
そのどちらをいっているわけではない。
ただ、時に、「いくら言葉を尽くしても、この人には伝わらない」と、絶望のような、真っ暗な、底が見えない溝のようなものを、人に感じるときがある。
そしてそのとき、相手もまた、私にそれを感じているのだろうと思うと、ひどく孤独に想うことがある。

犀の角のようにただ独り歩め。

志らくさんが「話してもわかんない」といったのは、だから私としては、感情としてはとても共感できる。
だけど、朝の情報番組でこれでは、いけないと思う。
それは人と人との断絶であり、それで問題を終わらせてしまうのは、何も意見を言っていないことと同じようなものだ。

こんなとき、私は、「法律」というものは、まったく素晴らしい発明だと思う。
法律は、こういう時に、こういう判断をします、ということを、いともバッサリと言ってのける大ナタだ。
「法律」にあてはめれば、その人が間違っているのか、合っているのか、
自分自身の言うことが合っているのか、間違っているのかの、判断基準になる。

この人とは分かり合えない、話しても意味がない。
そういうとき、「自分」から発出する言葉を話すのではなくて、「法律」に照らし合わせた言葉を発出すれば、「話ができない」と思っていた人とも、話ができる。相手が同じ法律を共有している場合に限るけれど。

「法律」は、時に、まったく話し合うことができない人と話すことができる、唯一のツールのように思える。
それはとても、安心する。どんな人とでも、少しは通じ合えるところがあると感じられる。

全然別のことになるが、元首相安部あきえ夫人のモットーは「どんな人とでも話せばわかりえる」だとか。
それは私には、それを言える人は、幸せな人なのだろう、と思える。

だって本当に言葉が通じない人には、本当に全く、言葉が通じないのだから。

ひとつだけ忘れてはいけないと思うのは、「法律」は、人としての正しさと間違いを示すものではないということだ。
あくまで多数が正しいと感じた判断の基準なのであって、それが人間的な正しさや感情的な正しさの尺度ではなく、「絶対」ではない。だからその人と「ほうりつ」を論じるうえで貴和が成り立ったとしても、それは、真にその人と言葉をくぁして理解しあえたということにはならない。

人は結局、どんな言葉を尽くしても、分かり合えるということはないのだと、私は思う。