ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

震災13年・石巻

2024-03-10 21:05:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ご無沙汰しております、ぬえです。

今年も東日本大震災の起こった日、3月11日が近づいてきました。去年が犠牲になった方の13回忌となる12年目で今年が13年目になります。

ぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」は震災3か月後から避難所や仮設住宅、仮設商店街、復興住宅などで能楽の慰問上演を続けて参り、上演回数は140回を超えておりますが、い仮設住宅も仮設商店街も解消された現在ではもっぱら3.11の日に奉納上演をさせて頂いております。

思えば3.11の日は追悼のためにある日で、追悼式以外のイベントには向いていない日と思いますが、幸いに現地の皆様には能楽に対して理解を頂くことができ、これまでの12年間では必ず3.11の追悼行事に参加を許して頂くことができました。

今年は宮城県石巻市にある「がんばろう!石巻」の大看板の前で初めて奉納上演をさせて頂きます。

「がんばろう!石巻」大看板は津波が襲った地区に震災直後に住民さんの手によって建てられたもので、ぬえたちは震災直後からずっとこの看板を見守り続けてきました。これまで各地の震災遺構の前で奉納上演をしてきたプロジェクトにとってもこの大看板の前での奉納は以前から考えていたのですが、報道などで広く知られていわば石巻の被災地を象徴するような物になってしまい、とくに3.11の日にはこの前では多くの行事が行われるので難しい様子でした。

実際、今回も石巻市民の友人に伺ったところ、やはりスケジュールがタイトで難しいのではないか、というご意見もあったのですが、以前この大看板と同じ地区の門脇町内会の追悼行事に参加させて頂いた関係からお願いしたところ、ご親切にも関係者の方から快く受け入れをお許し頂きました。

我々プロジェクトにとってもこの場所での奉納上演は「悲願」でしたので、関係者のご厚志に大変感謝しており、明日は心を込めて勤めさせて頂きます。

下の画像はプロジェクトの活動の原点となった石巻市立湊小学校。当時避難所だったこの場所で震災3か月後から活動をはじめ、何度となく泊まり込んで石巻市内の仮設住宅での慰問活動の拠点とさせて頂きました。もう13年も前のことになるのか。。





今回は発災時刻の14:46の直後、15:00頃に「かわまち交流センター」で、また16:30に「がんばろう!石巻」大看板前で奉納上演させて頂きます。

大看板の前での行事は以下の「がんばろう!石巻の会」様のサイトにて14:00からオンライン配信されるそうです。よろしければご覧戴ければありがたく存じます。

https://gannbarouishinomaki.jimdofree.com/
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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その11)

2023-04-19 20:07:18 | 能楽
「弓流し」のエピソードが義経の豪胆さの証明となり、「平家物語」では「つまはじき」だったものが能では見事に家来の武士一同の「感涙」と昇華したところで作者の筆も一段と勢いを得て進んでいきます。

シテ「知者は惑はず。
地謡「勇者は恐れずの。彌武心の梓弓。敵には取り伝へじと。惜しむは名のため惜まぬは。一命なれば。身を捨てゝこそ後記にも。佳名を留むべき弓筆の跡なるべけれ。


もう完全に凱旋する勇者の言葉ですね。能「屋島」の作者はまさにこの文言を書きたいためにこの曲を作ったのだと ぬえは考えています。

名誉を尊びそのためには命を惜しまない、という武人の勇ましさは、前シテが予言したように暁近くになって義経を追ってきた修羅道に対しても対決する姿勢です。

シテ「また修羅道の鬨の声。地謡「矢叫びの音。震動せり。 翔(かけり)
シテ「今日の修羅の敵は誰そ。なに能登の守教経とや。あら物々しや手並みは知りぬ。思ひぞ出づる壇の浦の。
地謡「その船軍今ははや。その船軍今ははや。閻浮に帰る生死の。海山一同に。震動して。船よりは鬨の声。
シテ「陸には波の楯。地謡「月に白むは。シテ「剣の光。
地謡「潮に映るは。シテ「兜の。星の影。
地謡「水や空空ゆくもまた雲の波の。打ち合ひ刺し違ふる。船軍の懸引。浮き沈むとせし程に。春の夜の波より明けて。敵と見えしは群れゐる鴎。鬨の声と。聞えしは。浦風なりけり高松の浦風なりけり。高松の朝嵐とぞなりにける。


かくしてシテは僧に救済を求めるでもなく、暁とともに消え失せるだけで、義経は源平合戦のライバルである平教経と死後も永久に闘争を続けているわけですが、能「屋島」はもっぱら義経が合戦で奮戦した有様を生き生きと描写し、凱歌を上げる英雄としての義経像が描かれていて、それが作者の目的なのだと思われます。

ちょっと気になるのが能の舞台は讃岐の屋島であるのに、いつの間にか長門の「壇ノ浦」に言及されていることですが、じつは讃岐の屋島の近くにも同じように「壇ノ浦」という地名があるのです。現在は本土と陸続きになっている屋島は高松港の東側に、小豆島や倉敷がある北の方角に岬のように突き出しているのですが、その東側の合引川の河口に、公園の名称にわずかに往時の名前を残しています。

だから「屋島」のこの場面でシテが「思ひぞ出づる」と回想するのは屋島の壇ノ浦なのか、とも思いますが、ぬえは、やはりここは長門の壇ノ浦の源平の決戦の場だと考えたいと思います。理由としては単純に義経が教経と「船軍さ」を行ったのは屋島ではなく壇ノ浦だからということもあります。船軍、つまり海上戦が繰り広げられたのはこの屋島ではなく壇ノ浦の合戦なのです。

そして考えるのは、じつは屋島合戦は義経が本当に光り輝いていた人生の頂点だったのか、ということです。ここでの義経の勲功はじつは皆無で、屋島合戦で高名を馳せたのは扇の的を射た那須与一や錣引きの景清、戦死した佐藤継信らなのです。

いやむしろここでの義経は、奇襲攻撃に成功して結果的に平家を駆逐することは出来たものの、まず四国への船出で梶原景時と口論して同士討ちになりかかったり、教経の矢先に率先して進んで身代わりになった佐藤継信を死に追いやったり、あげくは海に乗り入れて弓を落とすミスを犯して危険を冒しながら取り返したり。。と、軍の大将としては軽率と言われても仕方のない行動が目立ちます。

となれば、やはり能の作者が最も光り輝いていた義経を描くのであれば、それはやはり「八艘飛び」など実際に彼の活躍した「壇ノ浦」での合戦であるべきだとも思えます。

が、それは無理かもしれません。「壇ノ浦」の合戦はもちろん源平の合戦の最終地点で決戦であったわけですが、ここでの出来事は見事に戦勝を飾った源氏の姿よりも、安徳天皇や二位尼、建礼門院や知盛など、追い詰められて次々に自ら命を絶ってゆく哀れな平家の末期がどうしてもクローズアップされてしまう合戦ですから。。

こうして能の作者は義経の活躍を舞台化する題材をあえて「屋島合戦」に求め、その最後に「思ひぞ出づる」と霊魂の記憶が屋島に留まらず遠く壇ノ浦にまで飛翔することで、この能の世界に広がりを持たせたのだと ぬえは考えています。

最後に、義経は平家を滅亡させた功績にも関わらず、その後は兄・頼朝に謀反を疑われ、自分が追い落とした平家のあとをたどるように西海に逃げることになり、あげくは東北・平泉で頼った藤原氏からも攻められて悲壮な最後を遂げたのは誰もが知っていることです。

能「屋島」はあえて義経の「その後」を描かず、彼の人生の頂点だけに焦点を当てているのも、これも誰もが気づくことでしょう。この作品が義経への能の作者からの限りないオマージュであることは論を待たないと思います。

で、もう一つだけ ぬえが考えていることがありまして。

この能の前シテは老人で、修羅能や脇能では典型的な化身像なのですが、よく考えてみると、義経は「老人になれなかった」のですよね。彼の享年は31歳。ぬえは、ここまで義経を英雄に描こうとした作者なのですから、能の舞台の上でだけでも、せめて平和に釣りをしながら老後を送る彼の姿を作ってあげたのかもしれないな、と考えております。

【この項 了】
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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その10)

2023-04-18 18:49:07 | 能楽
この修羅物独特の型のあとは、これまた押し並べてシテ柱に廻り、そこから小回りしてワキに向かってヒラキ、というのが恒例の型なのですが、しばしばそのヒラキと同時にワキに向かって合掌することも。しかし「屋島」ではそこで地謡が謡う文句が「夢物語申すなり 夢物語申すなり」ですし、ちょっと合掌はしにくいところですね。そういえばこのシテはワキに向かって一度も合掌しないし、「跡弔ひて賜び給へ」というような救済を求める言葉も発しませんね。

地謡クリ「忘れぬものを閻浮の故郷に。去つて久しき年波の。夜の夢路に通ひ来て。修羅道の有様あらはすなり。
シテサシ「思ひぞ出づる昔の春。月も今宵に冴えかへり。
地謡「元の渚はこゝなれや。源平互ひに矢先を揃へ。船を組み駒を並べて打ち入れ/\足並みにくつばみを浸して攻め戦ふ。


ここでシテは大小前から中へ出て床几に掛かります。前シテと同じ場所で同じく軍語りをするので、おそらく「屋島」の作者は前シテと姿が重なることを意識して作っていると ぬえは感じています。

で、ここから例の屋島合戦の「弓流し」の場面になるのですが、この場面、「屋島」はほかの修羅能とも、いやそれどころかほかの能の曲とも異なる不思議な展開を遂げるのです。

シテ「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落し。浪に揺られて流れしに。
地謡「その折しもは引く汐にて。遥かに遠く流れ行くを。
シテ「敵に弓を取られじと。駒を波間に泳がせて。敵船近くなりし程に。
地謡「敵はこれを見しよりも。船を寄せ熊手にかけて。すでに危ふく見え給ひしに。
シテ「されども熊手を切り払ひ。つひに弓を取り返し。元の渚に打ち上れば。


何が不思議なのかと申しますと、この部分を囃子方が打ち止めることです。わかりにくいかもしれませんが、じつは地謡が謡っているときに囃子が打っていないのは本当に例が少ないのです。それほど地謡はお囃子方と仲良し、というか切っても切れない縁で結ばれているのです。

これは地謡がシテの心情や状況の説明を8名前後の大人数で迫力をこめて謡うので、その音量には囃子との共演がふさわしいですし何より効果的。いやむしろ、シテとワキなどほかの登場人物との問答の中で話題が盛り上がりを見せたときに その話題を地謡が引き取って、役者ひとりでは到底出しえない声量で心情描写を行うことによって劇としての能がより立体的に見えるので、能ではそのような方法論を取っていることが多いのだと思います。囃子方も場面の世界を構築するのに絶大な力を持っていますし、その演奏の多くの部分が登場人物の感情を表現しているので、同じ方法論によって地謡とともに強力に能のクライマックスの場面を作っていくことになります。

また囃子の演奏は異界から来た人物の神秘性をよく表現できるので、幽霊にせよ鬼神にせよ、後シテが本性を現した際にはずっと演奏が続く場合が多いのです。こういう役柄のシテの場合は、ワキの待謡から後シテの登場を経て、最後までずっと囃子が打ちっぱなし、という事もよくあって、お囃子方は大変な労力を必要とします。

ところが異界から来た後シテの演技の途中で、囃子が打ち止める場合が、ごく少数ながらあるのです。まさしく「屋島」がそのひとつなわけですが、ほかには「実盛」「杜若」「求塚」などがあります。これらで囃子が打ち止めるのはほぼシテの独白部分で、悲しい場面のシテの語りを引き立てるためだと思われます。
「実盛」がその好例で、同じくシテの語りがありながら勇壮な内容の「頼政」や「忠度」では囃子は打ち止めません。「杜若」はシテとワキの問答部分ですが、これは中入がなく物着でシテの姿が変身するので前シテとの間に間隙がなく、ある種前シテの延長のように作られているからでしょう。唯一? 後シテの激しい語りで囃子が打ち止めるのが「求塚」ですが、ぬえが書生時代に小鼓の修行に通った先生から頂いた手付には囃子の手組が書かれていて、「本来は打つのだがシテ謡を活かすために最近は打たない」と注記がされていました。「求塚」は現代の復曲なので、伝統的に演じ続けられてきた曲とはまた同一に考えられない事情もあるでしょう。

しかしながらここに挙げた曲でも地謡が謡うところは必ず囃子が入るので、「屋島」はかなり例外的な作例と言えると思います(思いつく限りでは唯一の例ですが、ぬえが気づかないだけで他にも例があるかも)。

なぜ「屋島」のこの部分に囃子が入らないのかは分かりませんが、「屋島」が小書「弓流」「素働」の演出で演じられる場合と関係するのかもしれません。いわく「弓流」の時は「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落し」以降も囃子が打ち続けてイロエになり、シテは立ち上がって舞台の前方で囃子の特殊な手組に合わせて扇を落とし、義経が弓を取り落とした様子を再現します。

小書が「弓流」だけのときはこのあと囃子は打ち止めますが「素働」がつくとさらに打ち続けて二度目のイロエになり、大小鼓は流シになってシテが取り落とした弓を取り上げる様を演じたり、ぬえの師家では「されども熊手を切り払ひ」と太刀を抜いて敵の熊手を切り払う所作をしたり、と写実的な型もあります。

小書がつかない「屋島」を考えるとき、この小書との関係性を考慮する必要はあるでしょう。小書というものは「~之伝」とかの名称がつくなど、一見 古い伝承を伝えているように見えますが、実際には江戸期に工夫された演出を保全した小書も多いのです。「屋島」の「弓流」「素働」も後世の工夫かもしれませんが、案外こちらが本来の演出であって、難易度が高いこの演技を小書として別扱いにし、この部分を演じないでやや難易度を下げた上演の形が小書なしのスタンダードな演出とし、特殊な手組を打つ必要がなくなったためにこの部分の囃子そのものを割愛した、ということも考えられるかもしれません。

さて舞台ではこのあと囃子が再び打ちはじめてクセから翔、キリへと続いてゆきます。

地謡「その時兼房申すやう。口惜しの御振舞やな。渡辺にて景時が申しゝも。これにてこそ候へ。たとひ千金を延べたる御弓なりとも。御命には代へ給ふべきかと。涙を流し申しければ。判官これを聞しめし。いやとよ弓を惜しむにあらず。
クセ「義経源平に。弓矢を取つて私なし。然れども。佳名は未だ半ばならず。さればこの弓を。敵に取られ義経は。小兵なりと言はれんは。無念の次第なるべし。よしそれ故に討たれんは。力なし義経が。運の極めと思ふべし。さらずは敵に渡さじとて波に引かるゝ弓取の。名は末代にあらずやと。語り給へば兼房さてその外の。人までも皆感涙を流しけり。


ここも問題のところで。。
そもそも「兼房」って誰でしょう。義経の腹心の部下であるかのようにここでは描かれていますが、じつは「平家物語」に「兼房」なる人物は登場しないのです。

「平家物語」では弓流しの場面で義経を諫めたのは「おとな共」「兵ども」で、おとな共は富倉徳次郎氏の「全注釈」では「老武者たち」と解説されています。多くの部下が諫めたのであり、「平家物語」の本によっては「つまはじきをして」と明らかに不快感をあらわにして非難していますね。

つまり「平家物語」では弓流しは猪突猛進型の義経の性格の一端を見せている場面で、彼のこの性格はほかの場面でもしばしば描かれているところです。能「屋島」の作者はそれをなじる部下の言葉を義経の身を案じた忠臣の言葉にすり替えたわけで、それは「渡辺にて景時が申しゝも。これにてこそ候へ」と対比するためでしょう。梶原景時は石橋山の合戦で敗走する頼朝を救け、後にその腹心となった人物で、能「箙」のシテ源太景季の父でもあります。「渡辺にて景時が申しゝ」というのはこの屋島合戦のために暴風の中に船出しようとした義経と口論となった有名な「逆櫓」の論争のことで、このとき景時は義経を「猪武者」と罵倒してあわや同士討ちになる寸前までいったとのこと。

この事件を念頭に置いて能「屋島」では義経の身を心配する部下に慕われていた義経像を描こうとしたのでしょうが、それにしても兼房とは。。

兼房と聞けば能楽では「二人静」に出てくる「十郎権頭兼房」がすぐに連想されるわけですが、これは「義経記」だけに登場する人物で、義経の北の方の幼少時からの乳母(守り役)であり、義経が平泉で自害して果たときはこの北の方と若君・姫君を刺殺して自分も館に火を放って敵将の弟を小脇にはさんで炎に飛び入って壮絶な最後を遂げました。

ところがこの十郎権頭兼房が義経とはじめて出会ったのは平家滅亡後、兄の頼朝に追われて都を落ちる際に北の方に従ったときで、当然 屋島合戦には参加していません。能「屋島」では「義経記」に描かれた十郎権頭兼房の壮絶な最期を義経に従う忠臣の代表と見て、彼をこの場面に登場させ、梶原景時と対比させることによって家来に慕われていた義経像を作り上げようとしたのかもしれません。
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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その9)

2023-04-17 18:12:23 | 能楽
後シテの登場に演奏される囃子は前シテと同じ「一声」です。能ではあらゆる面で重複を避ける傾向が強いのですが、それに反するようにシテの出が前後とも「一声」というのは例が多いと思います。それほど「一声」は登場囃子として柔軟であることを意味し、「屋島」でも化身であり老体の前シテの登場の場合と霊体ながら勇ましい名将の後シテのそれとは、同じ「一声」でもかなり印象が違うと感じられると思います。

後シテ一声「落花枝に帰らず。破鏡再び照らさず。然れどもなほ妄執の瞋恚とて。鬼神魂魄の境界に帰り。我とこの身を苦しめて。修羅の巷に寄り来る波の。浅からざりし。業因かな。

登場した後シテ。。源義経の扮装は、いかにも勇猛な武人といった感じ。
面は「平太」を黒垂、梨打烏帽子、白鉢巻の上にかけ、紅入りの厚板の着付けに半切を穿き、その上には右肩を脱いで袷法被を着、勝修羅扇を持ち太刀を佩いています。

鎧兜の代わりに能装束でそれを表すのですが、たしかに右肩を脱ぎ白鉢巻をつけた姿は不思議に鎧を連想させますね。古人の工夫には本当に驚かされることが多いのですが、この修羅能の出で立ちはその中でも秀逸だと思います。さらに言えば、シテが敗死する運命の平家の公達の場合は扮装は「屋島」と同一でありながら、面を化粧して鉄漿をつけた「十六」や「中将」に替え、装束も強い法被ではなく薄衣の長絹を着、半切の代わりに白大口を着るなど面装束の種類や素材を替えるだけで見事に貴族化して文化的でか弱く脆弱な、およそ戦場に似つかわしくない平家の儚さを表現することにも成功している。先人の知恵には敬服します。

ところで「屋島」のほかにこれと同じ面装束を着る曲に「田村」「箙」の2曲があり、この3番を平家の負け修羅に対して勝ち修羅と称します。面「平太」はまさに日焼けした坂東の荒くれ武者といった感じですが、3番の勝ち修羅の主人公の中では「屋島」のシテの源義経だけが皇族出身で臣籍降下した源氏の子孫であり、ちょっと赤黒い「平太」の面にはやや違和感を感じます。

そこで能面の中にはあえて「白平太」と呼ばれて顔色が白い平太の面があるのです。表情は「平太」のまま、顔色だけで気品を感じます。これは専ら「屋島」に似つかわしい面だと思います。

ワキ「不思議やなはや暁にもなるやらんと。思ふ寝覚の枕より。甲冑を帯し見え給ふは。もし判官にてましますか。
シテ詞「われ義経の幽霊なるが。瞋恚に引かるゝ妄執にて。なほ西海の浪に漂ひ。生死の海に沈淪せり。
ワキ「愚かやな心からこそ生死の。海とも見ゆれ真如の月の。
シテ「春の夜なれど曇りなき。心も澄める今宵の空。
ワキ「昔を今に思ひ出づる。
シテ「船と陸との合戦の道。
ワキ「所からとて。シテ「忘れえぬ。
地謡「武士の。屋島に射るや槻弓の。屋島に射るや槻弓の。元の身ながら又こゝに。弓箭の道は迷はぬに。迷ひけるぞや。生死の。海山を離れやらで。帰る屋島の恨めしや。とにかくに執心の。残りの海の深き夜に。夢物語申すなり夢物語申すなり。


登場したシテは、生前に合戦で闘争した罪によって成仏できずさまよっている、と語ります。修羅能の定まりで、シテは地獄の修羅道に堕ちて永久に戦闘を続けなければならないと描かれるので、「屋島」のこのシテの言動もそれと同じ意味で、これに応答したワキは、人の心の持ちようによって見方も変わるのだ、と説き煩悩を捨てて成仏することを勧めます。

。。と言いたいところですが、はたしてその通りでしょうか。
たしかに「屋島」のシテは「落花枝に帰らず。破鏡再び照らさず」と自分の生前の行為を後悔したり、その結果として「我とこの身を苦しめて」「生死の海に沈淪せり」と苦しむ様子を吐露してはいるのですが、どうもその苦しみは表面的なものに思えます。

というのもこの場面ではシテは「なほ西海の浪に漂ひ。生死の海に沈淪せり」と述べてはいますが、ワキがその煩悩をたしなめて姿を刻々と変えても元の満月に戻ることで仏法の教えの象徴となる月を話題に持ち出すと、シテは「春の夜なれど曇りなき。心も澄める今宵の空」と応じながらも、すぐにその春の景観から「昔を今に思ひ出づる。船と陸との合戦の道。」と屋島合戦の思い出へと連想を転じていて、それは地謡が引き取って謡い続ける中でより詳細な物語と変わっていくのです。

たしかにシテが合戦の体験を語ることはワキ僧に対して懺悔して仏の救済を頼むという意味があり、「屋島」でも屋島合戦の昔を回想することを「恨めしい」と言っているのですが、「屋島」ではその後詳細に語られる合戦譚を語るシテの姿は懺悔する、というよりもむしろ自分の勲功を誇らしげに語るように見えます。

これが「屋島」の最大の特徴で、ほかの修羅能と一線を画している部分だと思います。そもそも修羅能に限らず広く いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる能では、化身として現れた前シテはワキ僧と出会うことで自分の救済を求めて、後半では実際の姿で現れて懺悔のために過去の出来事を語る、ということになっているのですが、「屋島」ではどうもワキ僧に救済を期待している様子が希薄なのです。

そういえばワキ僧も間狂言との問答の中で「ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見うずるにて候」と発言していますが、待謡の中に「御経を読誦し」に当たる文句は見当たらないですね。謡曲には間狂言との問答は記載されておらず、現在でも開演前にワキと間狂言は問答のやり取りを必ず確認しておられますから、あるいはワキと間狂言との問答は古来固定されていたものではない可能性があり、そうだとすれば「屋島」の作者は意図的にワキに「御経を読誦」する行為をさせなかったのかもしれません。

なお余談ですが、地謡が謡う「武士の。。」以下の場面ではシテは左袖を出してワキの前まで進み、そこで袖を返すと左足を引き半身になって右手をワキの方へ出して決める型があります。これは修羅物の能の後シテ。。というか「経正」のように一場しかない能もありますから源平の武将の霊が本性で現れた場合、というのが正しいでしょうが、その場面で必ずシテが行う型です(女武者であり、小袖の装束を着ている「巴」ではさすがにこの型はありませんが)。ちょっと面白い約束事ですね。
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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その8)

2023-04-15 17:27:45 | 能楽
ロンギの中で「修羅の時になるべし その時は我が名や名のらん」とワキに向いて決めたシテは「たとひ名のらずとも名のるとも」と正へ向いて立ち上がり、シテ柱に行くと「夢ばし覚まし給ふなよ」とワキへ向いて念を押すようにヒラキ、返シで右へトリ橋掛りに向かい、幕へ中入します。

ついで屋島の浦人(間狂言)が登場。ワキがシテに宿を許された塩屋の本当の持ち主です。

間「かやうに候者は 讃岐の国屋島の浦に住まひする者にて候。この間 塩屋を見舞ひ申さず候間、今日は塩屋を見舞ひ、浜をならさせ塩を焼かばやと存ずる。」進みながらシカジカ
「いや、あら不思議や。塩屋の戸が開いてある。見れば人の出入りしたる跡もあり」ワキを見つけて
「いや、これなるお僧は何とて人の塩屋へ案内なしに入りては御座候ぞ」
ワキ「これは主に借りて候」
間「いやいや、左様にては候まじ。主はそれがしにて候。総じてこの所の大法にて。人の塩屋をば我が存ぜず、わが塩屋をば人に知らせぬ大法にて候が。我らはいまだ貸し申さぬに、さてはお僧は妄語ばし仰せ候か」
ワキ「いやいや妄語は申さず候。それにつき尋ねたき事の候。まづ近う御入り候へ」
間「心得申し候」
(ワキ方と狂言方の流儀によりセリフに多少の異同があります。以下同じ)

こうしてワキの所望により屋島合戦の物語をする間狂言。いわゆる複式夢幻能の常套の演出で、この語りのあとワキにより前シテとの遭遇を知った間狂言はその老人こそ義経の霊であろう、と推察し、ワキも同意して義経の改めての登場を観客とともに期待することになります。

間「まづ我らの承りたるはかくの如くにて候が、只今のお尋ね不審に存じ候」
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず、御身以前に老人と若き男の主の体にて来たられ候程に すなはち宿を借り泊りて候。源平両家の合戦の様体懇ろに語り、よしつねの世の夢心覚まさで待てと言ひもあへず、そのまま姿を見失うて候よ」
間「これは言語道断、奇特なる事を承り候ものかな。それは疑ふ所もなく義経の御亡心にて御座あらうずると存じ候。さやうに思し召さば、しばらくこの所に御逗留なされ、重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候」
ワキ「しばらく逗留致し、ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見うずるにて候」
間「御逗留にて候らはば。大法を破ってこの塩屋を貸し申さうずるにて候」
ワキ「頼み候べし」間「心得申し候」


ほかの曲にも同じ状況でほぼ同文のワキと間狂言とのやりとりがありますが、シテに宿を借りたが そのシテは本性をほのめかして姿を消し、のちに実際の小屋の持ち主が登場することによってシテが現実の世界の人間ではないことが判明する、というのは自然で効果的な演出ではないかと思います。

あ、シテは自分の物でもない塩屋を「さらばお宿を貸し申さん」などと わがもの顔に貸したのね。まあ、屋島合戦の際も義経は自分の軍勢を大勢に見せるために高松の民家を焼き払ったりしているから、他人の小屋を勝手に貸すくらいのことは当たり前か。

さて間狂言が語る肝心の屋島合戦の内容についてなのですが、前述のように屋島合戦には「扇の的」「錣引き」「弓流し」という3つの有名なエピソードがあるのですが、このうち「弓流し」は後シテが語ることになるためか間狂言では語られず、間狂言は通常は「錣引き」を語ります(和泉流では替えとして「継信の語り」として佐藤継信の戦死の有様の語があるようです)。

そして残されたのが「扇の的」ですが、これは皆さんもよくご存じと思われる「那須語」あるいは「奈須與市語」と呼ばれる特別な替えの語りがあります。これは通常の語りとは違い間狂言が仕方話として型を伴い、それも与一と義経、さらに扇の的を射る兵として与一を推薦した後藤兵衛実基の三者を激しく、目まぐるしく演じ分けるという大変なもので、狂言方の重い習いになっています。能「屋島」に小書「弓流」「素働」がついて重厚な演出となった場合は、間狂言もバランスを取ってこの替えの語りとなることがほぼ常態となっているように思います。

さて間狂言が退くとワキとワキツレによる「待謡」となり、やがて「一声」の囃子に乗って後シテの源義経が登場します。

ワキ「不思議や今の老人の。その名を尋ねし答へにも。よし常の世の夢心。覚まさで待てと聞えつる。
待謡「声も更け行く浦風の。声も更け行く浦風の。松が根枕そばだてゝ。思ひを延ぶる苔筵。重ねて夢を待ちゐたり 重ねて夢を待ちゐたり

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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その7)

2023-04-12 01:08:44 | 能楽
シテの戦語りの最初に義経が名乗る場面がありますが、それに続いてツレが「言葉戦いこと終わり」と、大将の名乗りと同じく「言葉」による争いがあった事が語られます。

源平合戦当時の戦乱は現代のような指揮官の命令のもとでの秩序だった作戦による行動ではなくて乱戦でした。誰が一番に手柄を立てるかを競ったのです。そんな合戦でもいきなり乱戦から始まるのではなく、一応の「作法」というものがありました。

それがこの「矢合わせ」や「言葉戦い」で、矢合わせは敵味方の大将同士が合戦の前に「鏑矢(かぶらや)」を射あうもので宣戦布告のような感じです。「鏑矢」とは穴の開いた木製の矢じりがついた矢で殺傷能力はなく、矢が飛ぶ際に矢じりの穴に空気が通る事で長い音を発します。戦闘に使われる「征矢」(そや=とがり矢)とは違いまさに儀礼的に使われる矢ですが、なんと「扇の的」の那須与一はこの鏑矢で扇を射た、と「平家物語」に描かれています。重心が前重りになる上 飛距離も稼げない鏑矢を、まさに失敗が許されない場面でどうして使ったのか。。 と思いますが、「平家物語」によれば「扇の的」のエピソードは初日の合戦が一段落して一時休戦になった場面でのこと。すなわち戦闘ではなく翌日の合戦の再開に向けた儀礼的な意味合いが強いわけで、与一もそれに応えたのでしょう。

一方「言葉戦い」は両軍が接近していざ開戦という場面で相手の戦意をくじくために自軍の正統性を主張したり攻めてくる相手の不当性をなじる、などを行うものですが、それぞれ名乗った相手の出自の卑しさを罵りあったり、「矢合わせ」と比べるとちょっと低レベルな感じですが、相手の士気をくじき、自軍の勢いを高めるために有効であるならば実戦的ではありますね。

さてシテの戦語りが過去の思い出となり、シテは再びワキの前に着座すると、それまでシテの様子を見ていたワキは抱いてきた不審をシテに問います。

ロンギ地謡「不思議なりとよ海士人の。あまり委しき物語。その名を名のり給へや。
シテ「我が名を何と夕波の。引くや夜汐も朝倉や。木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行かまし。
地「げにや言葉を聞くからに。その名ゆかしき老人の。
シテ「昔を語る小忌衣。
地「頃しも今は。シテ「春の夜の。
地「潮の落つる暁ならば修羅の時になるべしその時は。我が名や名のらんたとひ名のらずとも名のるとも。よし常の浮世の夢ばし覚まし給ふなよ夢ばし覚まし給ふなよ。


「木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行かまし」はちょっと難解ですね。本歌は「新古今集」の天智天皇の「朝倉や木の丸殿にわが居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」に依ります。「木の丸殿」は皮のついたままの丸木で作った粗末な御殿で、これは天智天皇が中大兄皇子の時代に母の斉明天皇に従って九州に下ったときに詠んだ歌なのですが、能「屋島」ではこの御殿の警備のために出入りの人は氏名を名乗らなければならなかった、という後半の部分を使っています。「行かまし」の「まし」は古文の中でもいろいろな使われ方があって難しい品詞ですが、ここでは「反実仮想」の用法で「木の丸殿であったならば、名のって行くのだろうが(そういう由来もないので名乗らない)」という感じです。掛詞が重層的に使われているので難解さに拍車が掛かりますが、丁寧に訳せばこういう感じ。

「我が名を何と言うべきだろうか。この夕方に引いてゆく夜の汐の浅みを見るとそれに連想される朝倉の、新古今の歌に例えてみるならば、その主人公の木の丸殿であるならば名乗りもしようが。。(そうでないから名乗らない)」

「昔を語る小忌衣」も難解で、小忌衣は祭事に装束の上に着重ねる白地の浄衣ですが、ここではその前の「その名ゆかしき老人の」の「老い」と その後の「頃しも今は」の「頃」の音をつなげている程度で「老いの身が着る衣」程度の軽い意味ですが、屋島合戦の語りからただ者ではないはずとの確信を得てワキ僧から「その名ゆかしき老人」と言われたシテが、あえて名乗らないながらその実像は神に近い崇高な存在であることを想像させる効果があるのではないかと思います。

「潮の落つる暁ならば修羅の時になるべし」。。「落つる」は引き潮のことで、そんな暁ならば修羅道がこの現世に再現されるであろう、そのときは(いやでも自分の素性が分かるはずだから)名乗ろう、という意味に解しましたが、残念ながら ぬえは(引き潮の)暁に必ず修羅道が現世に再現される、という根拠を知りません。ほかの修羅能では同じように現世に立ち戻ってきたシテがしばしの懐旧に安んじていたが、やがて地獄から修羅道からの追っ手が現れて宿命的な闘争の世界に立ち戻ってしまう、と描かれているので、ここは単純に、このまま安寧な時間が過ぎるのではなく暁の頃には修羅道が立ち現れることになるだろう、と経験的に予言しているに過ぎないのかもしれません。

「たとひ名のらずとも名のるとも。よし常の浮世の夢ばし覚まし給ふなよ」のところ、師匠からは「よし」常の」と分けて謡うように習ったところで、「よし常の」、の言葉の中に「義経」という言葉が隠されていて、シテが自分の本名をほのめかすのですね。「よし」は「もしも」の意味ですから「もしもあなたが私と出会ったこの体験が永遠に続くと思って安閑として過ごしているこの浮世のままだと思うならば、そのまま夢の中にいておきなさい(その夢の中に私は現れるから)」という意味。
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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その6)

2023-04-08 03:11:19 | 能楽
能「屋島」で前シテによって語られる合戦の経緯はこういう感じ。
①源氏の大将・義経の名乗り、言葉戦い
②平家の軍船から景清らが降り立ち源氏からは三保谷らが応戦→錣引きへ
③これを見て義経が馬で汀に出陣
④佐藤継信が能登守教経の矢に当たって戦死
⑤平家の軍船でも菊王丸が討たれる
⑥この二人の戦死を境に源平は興覚めして陸と海に別れて合戦が終了

この順番に語られ、これはもっぱら「錣引き」についてだけ語ったわけで、「扇の的」のエピソードも「弓流し」も出てきません。ここで「平家物語」での屋島合戦の全体の経緯を確認してみると次のようになります。

①義経ほか源氏の武将が沖に逃げた平家軍に対して名乗り
②宗盛の命により教経ら五百余人が陸上に上がり合戦に臨む
③言葉戦いの末、教経は義経を弓で狙うが佐藤継信が立ちはだかって戦死
④菊王丸が継信の首を狙って走りかかるが反対に忠信の射た矢に当たり戦死
⑤これに興覚めた両軍が引き上げ合戦が中断するが平家からの挑発(扇の的)
⑥那須与一が扇に命中させ両軍が褒め称えたが義経の命により与一はさらに敵を射殺す
⑦これにより合戦が再開。→美尾屋十郎と景清の「錣引き」
⑧源氏は騎馬で海に打ち入れて戦い義経も参戦する
⑨ところが義経が弓を海に取り落とし、敵の手にかかる危険を冒して拾い上げた(弓流し)
⑩夜に入り休戦となり翌朝には志度浦で小規模の戦闘があったが平家は壇ノ浦彦島に退いた

補足すれば佐藤継信は弟・忠信とともに奥州の藤原秀衡から義経に差し向けられた秀衡の家臣です。幼少期を鞍馬寺で過ごしながら仏道修行にはなじめず天狗から兵法を習い、五条の橋で弁慶を家来にしたエピソードがあるように、平治の乱以後正統な武家の棟梁としての成長からはずれた義経には家格に似合う家臣はおらず、元猟師とか元山賊とかとされる生没年不詳の怪しげで実在も疑問視されるような者ばかり。この屋島の合戦でも教経の矢面から義経を守ろうとした家臣たちは教経から「そこのき候らへ 矢面の雑人ばら」と罵られています。こんな中で幼少期に自分を頼った義経をかわいがった秀衡が、頼朝の挙兵に際して差し向けたのが佐藤兄弟で、義経の家来の中では比較的、ではありますが出自が明らかな人物です。

屋島の合戦で平教経の矢面に立って身を投じて義経を守った継信。その首を取ろうと駆けつけたのが菊王丸で、これは教経の子どもではなく彼の身辺の世話をする侍童。童とはいいますが「平家物語」では「大力の剛の者」と屈強の若者と記されています。兄の首を討たせじと忠信に射られた菊王丸。教経はこれも剛腕で、片手で菊王丸を船に投げ入れ、継信も源氏の陣に運ばれてそれぞれ介抱されますがどちらも絶命。

「平家物語」ではこの二人の従者の死で源平両軍に厭戦気分が起こり、また日暮れも迫って合戦は休止となります。ところがそこに平家軍の中から飾った舟が現れて、十八九歳ほどの女房が扇を竿の先につけて立て、陸の源氏の方を差し招く挑発が起きます。有名な「扇の的」で、屋島の合戦の代名詞のように思われていて、能「屋島」では替えの間狂言でかなりクローズアップして演じられる事はあるものの、この替えの間狂言が演じられない普段の上演では能「屋島」ではこの話題に触れません。まあ、「錣引き」や「弓流し」と違って敵と戦う場面ではないからシテ方からすれば演じにくいエピソードとも言えます。

話は脱線しますが、この「扇の的」で射手として選ばれた那須与一は「この矢はづさせ給ふな」と神仏に祈りを込めるのですが、その神仏がまずは八幡大菩薩、さらに故郷下野の那須の神である日光権現、宇都宮と続いて最後に現れるのが「温泉(湯泉とも)大明神」。不思議な名ではありますがこれは那須高原の茶臼岳の中腹にある殺生石の史跡のすぐそばにあります。殺生石のように今でも噴煙をあげる茶臼岳の付近では火山活動の影響が大きく、この神秘への崇敬が生んだ神社なのでしょう。そして殺生石も去年 突然二つに割れる事件が起こり話題になりました。

ところで敵将・平教経は屋島合戦でもこのように欠くことのできない主要登場人物で、「屋島」ではキリでも死後修羅道に堕ちた義経が永遠の闘争の相手として名前が現れ、「平家物語」では壇ノ浦でも義経と壮絶な戦いを繰り広げるのですが。。

なんと「吾妻鏡」では教経はすでに屋島合戦の1年前、一の谷の合戦で戦死した、と書かれています。
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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その5)

2023-04-07 02:20:57 | 能楽
シテの合戦の語りはツレを巻き込んで屋島合戦全体の話に広がってゆきます。

ツレ「その時平家の方よりも。言葉戦ひ事終り。兵船一艘漕ぎ寄せて。波打際に下り立つて。陸の敵を待ちかけしに。
シテ「源氏の方にも続く兵五十騎ばかり。中にも三保の谷の四郎と名のつて。真先駆けて見えし所に。
ツレ「平家の方にも悪十兵衛景清と名のり。三保の谷を目懸け戦ひしに。
シテ詞「かの三保の谷はその時に。太刀打ち折つて力なく。すこし汀に引き退きしに。
ツレ「景清追つかけ三保の谷が。
シテ詞「着たる兜の錏をつかんで。
ツレ「うしろへ引けば三保の谷も。
シテ「身を遁れんと前へ引く。
ツレ「互ひにえいやと。シテ「引く力に。


このツレが何者かは判然としません。義経に付き従った郎等の一人なのかもしれませんし、考えようによっては義経自身の分身のような物かもしれませんね。ともあれ「その時平家の方よりも。。」からの一連の謡は溌溂と謡うところで、ツレとしてはかなり目立つ良い役でしょう。若武者然として謡う姿はお客さまからも印象的に見えると思います。

さてここに描かれるのは「景清の錣(しころ)引き」の場面です。屋島合戦では三つの大きな事件があって、それが有名な那須与一による「扇の的」、義経の「弓流し」、そしてこの「錣引き」です。が、別格に有名な「扇の的」以外の二つは 今となっては能の世界の外ではあまり知られていないかも。。

そもそも屋島合戦はこのような有名なエピソードがありながら、前述のように義経の奇襲に驚いた平家が海上に逃げ出し、その後義経軍が少数だと判明した平家の一部の軍勢が立ち戻って戦ったので、実際には両軍が激突した合戦とはかなり様相が違い、いわば戦闘は両軍の一部が衝突した程度といえると思います。しかし軍記物語の世界。。さらに言えば能の世界では屋島合戦は義経の華々しい栄光の場面として強調されていて、これが後世この合戦が 一の谷や壇ノ浦に匹敵する新しい地位を得る事になったと感じます。

実際のところ能では「弓流し」はこの「屋島」の後半で詳しく語られるほか、さらに囃子の難しい間に合わせて弓を取り落とし、また拾い上げる具体的な型を伴う「弓流」「素働」という難易度の高い二つの小書が作られて、このエピソードが特に強調されています。

そして「錣引き」は「屋島」もさることながら、能「景清」にさらに詳しく語られ、それは命のやり取りをする戦場に臨みながら対戦した相手の力量を互いに賛美する男同士の美学が描かれていて感動的。しかもそれは平家の残党として頼朝の命を狙いながら果たせず、誅されることもなく流罪となった恥から自らの両眼をえぐり潰したという壮絶な武者の姿であり、そこに世を捨てたと思い過ごす彼を慕って現れた、かつてみずから捨てた娘との邂逅という悲しい物語の中での物語で、この重厚な能はまさに能の中でも屈指の名作と数えられています。

しかしながら「平家物語」に描かれる「錣引き」の場面は、どうもあまり感動的ではありません。

「平家物語」によればこの「錣引き」のエピソードは「扇の的」のあとに位置していて、渚に上がった三騎の平家に対して源氏からは五騎が対抗して出陣した小戦闘でのこととなっています。まず真っ先に進んだ平家の「美尾屋十郎」が馬を射られて飛んで下り、太刀を抜いて源氏に挑んだところ、源氏からは大長刀を打ち振って男がそれに対抗。しかし武器の威力の差に不利を悟った美尾屋は「掻き伏いて逃げ」、これを源氏の男は長刀を掻い込んで右手を出して追い、ついに美尾屋の兜の錣をつかみました。美尾屋もこらえて力勝負になりましたがやがて錣は鉢付けの板からふっつと切れて、美尾屋は味方の馬の影に逃げ込んで息をつき、源氏の男は美尾屋の錣を高々と上げて「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見給へ。これこそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よ」と名乗って退いた、と。

「錣」は兜の後ろ側、首の後ろを保護するスカート状の大きな部品で、鉢付の板とは鉢。。すなわち頭頂部を保護するヘルメット部分と錣との境目の部品です。

しかしこの「平家物語」の記述は、能「景清」に見える「えいやと引くほどに錣は切れて此方に留れば主は先へ逃げのびぬ。遥かに隔てゝ立ち帰り さるにても汝おそろしや腕の強きと言ひければ。景清は三保の谷が頸の骨こそ強けれと笑ひて。左右へのきにける」という素晴らしい描写とあまりにかけ離れています。「平家物語」も軍記物語としての虚構に満ちて史実に忠実とは言えないのですけれども、時代を経るに従って、とくに芸能での表現として弁慶と同じように美化されていった景清像の変遷が見えて面白いと思います。

地謡「鉢付の板より。引きちぎつて。左右へくわつとぞ退きにけるこれを御覧じて判官。御馬を汀に打ち寄せ給へば。佐藤継信能登殿の矢先にかかつて馬より下に。どうと落つれば。船には菊王も討たれければ。共に哀れと思しけるか船は沖へ陸は陣に。相引に引く汐の後は鬨の声絶えて。磯の波松風ばかりの音淋しくぞなりにける。

ここでシテは「引きちぎって」と前に組み合わせた両手を引き離す型をしますが、これは単純な型ながら本当に力を込めて型をしないと文句の通りには見えないところですね。左右を見渡して両軍が引き離れたのを表すとシテは床几から立ち上がり、佐藤継信が落馬するところを足拍子で表し、やがてその激しさも今となっては波の音、松風の音と聞こえるばかり、と遠くを見つめて静かにワキの前に戻って着座します。

「錣引き」の場面は能「屋島」では「景清」ほどの臨場感は持たず、「かの三保谷はその時に太刀打ち折って力なく」という部分を除けば、大筋で「平家物語」に忠実と言える内容で、このあたり「錣引き」のエピソードが能の中で「景清」に向けて拡大して行った過程がほの見えるようで興味深いところです。

がしかし「これを御覧じて判官。。」からは屋島合戦のエピソードとしては「平家物語」とはかなり順番が変えられています。
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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その4)

2023-04-04 09:41:28 | 能楽
シテが懐かしい都からの来訪者を受け入れて、自分自身の思い出にひたって涙するのに対して、ワキはまったくそれとは正反対の所望をします。

ワキ「いかに申し候。何とやらん似合はぬ所望にて候へども。いにしへこの所は源平の合戦の巷と承りて候。夜もすがら語つて御聞かせ候へ。
シテ詞「安き間の事語って聞かせ申し候べし。


「何とやらん似合わぬ所望」というのは殺生を戒める仏法の教えを広める立場の僧が戦場の有様を尋ねるのが不似合い、ということ。

能「融」にもありますが、シテが昔を懐かしんで涙する場面のあとにワキに所望されて一転、シテが嬉々として主人公(化身の前シテにとっては自分自身)の栄光の様子を語る場面になるのは少々唐突な感を抱かせますね。一見すると涙するシテが急に気持ちを変えたようで不自然には思えます。

ここについて謡曲の注釈本の中には、打ち沈むシテをワキが鼓舞するように話題を転換した、と言われることがありますが、ぬえが思うのはそうではなくて、シテが涙する場面は脚本としてシテの内情にクローズアップした場面なのであり、涙はシテの心の中でのこと、実際にワキがシテの涙を見たのではない、と考えれば ワキの話題転換も自然に見えるのではないかと思います。

さてこうして当地、屋島での源平合戦の語りの場面になります。
塩屋の主人として床几にかかっていたのがワキを招じ入れて床に着座したシテは、ここで再び床几にかかります。

当地の人の昔話にわざわざ居住まいを正す演出は上手な手法です。卑しい漁師が語るには不似合いなほど勇壮で、その場に居合わせて刃を交えた当事者が語るかのような合戦談。その不自然さを、語りが始まる前にすでに視覚的に観客に訴えかけるのがこの床几での語りです。

シテ「いでその頃は元暦元年三月十八日の事なりしに。平家は海のおもて一町ばかりに船を浮べ。源氏はこの汀に打ち出で給ふ。大将軍の御出立には。赤地の錦の直垂に。紫裾濃の御着背長。鐙ふんばり鞍笠につゝ立ち上り。一院の御使ひ。源氏の大将検非違使五位の尉。源の義経と。名のり給ひし御骨がら。あつぱれ大将やと見えし。今のやうに思ひ出でられて候。

勇壮な「語り」ではありますが、じつは多くの問題があります。

ここで屋島の合戦についておさらいをしておくと、この屋島の直前には播磨の一の谷の合戦があるとされていますが、実際にはふたつの合戦の間には約1年の間が開いています。平家が清盛以来瀬戸内海の水軍を味方につけており、そこで一の谷で破れた平家は船を頼りに海を渡って四国に渡り、屋島に本拠を置いたのです。これに対して関東から下向した源氏は海を渡ることができない源氏はなすすべなく、水軍や軍船の用意に時間がかかったのが大きな要因で、後に伊予や熊野の水軍を味方につけて壇ノ浦での決戦に臨むまでは源氏は常に海に阻まれて平家との合戦に苦労しています。

さて一の谷の合戦のあとすぐに屋島の攻略に出られなかった源氏側は、範頼はいったん鎌倉に戻り、義経も都に戻り後白河法皇から都の警備のために検非違使の尉に任じられ、と様々な展開があり、鎌倉でも頼朝が一の谷で生け捕りにされた平重衡と三種の神器との交換を平家と交渉して決裂し、都では後白河法皇は安徳天皇を廃しその異母弟・尊成親王(後の後鳥羽上皇)を神器がないまま天皇に即位させ、義経は近畿での三日兵士の乱の平定に当たったり、範頼は山陽道に進軍したりと。。目まぐるしく状況が変転しています。

こうして一の谷の合戦から約1年後に屋島の合戦が行われ、能「屋島」で前シテは「その頃は元暦元年三月十八日」と言っているわけですが。。 源平の合戦の中でも壇ノ浦、一の谷に並んで有名な屋島の合戦ではありますが、じつはその正確な期日ははっきりしていないのです。

一の谷の合戦が起こったのが寿永3年2月7日のことで、この年の4月に元暦に改元しました。安徳天皇を擁する平家はこれを用いず寿永の元号を使い続けたため複雑で、義経は当然新帝・新元号を擁する側なので元暦を使っているのですが。。 さらに複雑なのは日本の改元の概念が現代と少し違うということ。一の谷の合戦の直後の寿永3年4月に改元。。元暦が始まったのですから能「屋島」でシテが語る「元暦元年3月」という日付は存在しないように思えますが、日本では明治以前は改元した場合はその年の元日まで遡って新元号を使う習慣がありました。

なので一の谷の合戦は寿永3年のことですが、直後に改元したそのあとから見れば元暦元年2月の出来事であったことになります。もっともこの考え方を能「屋島」でいう「元暦元年3月18日」にあてはめれば、屋島合戦は一の谷の合戦の翌月ということに。。 実際には「平家物語」など物語や記録もすべて屋島の合戦が起こったのは元暦2年とされていますので、これはどうも能だけが元号を間違えているか、もしくは意図的に変えたもののようです。

どうも現代人からすると一の谷の合戦と屋島の合戦は期日が近くて、壇ノ浦の決戦はそれより少し期日が隔たったあとの出来事、というような印象があると思いますが、壇ノ浦が海上での合戦だったのに対して一の谷と屋島のふたつの合戦がどちらも海辺での地上戦で、名将同士の一騎討ちのような場面が似通っているので共通性を感じるほかに、案外この改元が与える複雑な事情がその印象に影響を与えているかも。

実際には 前述のように一の谷と屋島の合戦の間には1年間の空隙があるのですが、屋島以降 水軍を味方につけた源氏の進軍は迅速で、壇ノ浦の決戦は屋島の合戦の翌月のことになります。

また日付の方もちょっと問題で、能では「3月18日」となっていますが、上記の諸本ではみな「2月」のこととなっています。一の谷の合戦からちょうど1年後となりますね。前述の期日がはっきりしていない、というのは「日」のことで、「平家物語」の中でも本により「2月18日」「19日」と記述の異同があり(「20日」と解釈できる本もあり)、「吾妻鏡」「源平盛衰記」では「19日」となっていることから、19日が最も有力候補でありながら正確な期日は不明、ということになるでしょう。

能「屋島」のシテの語りで義経が「大将軍」と称されているのは正しい表記で、当時の合戦では戦力は大手・搦手(からめて)の二つに分けて敵を挟み撃ちにする戦法が取られ、必要な二人の指揮官は、大手のそれは大将軍、搦手は副将軍と呼ばれました。源平合戦では本来の総指揮官は頼朝ではありますが、彼は鎌倉に残ったためその名代が軍を率います。そして多くの源平合戦では兄にあたる範頼が大将軍、弟になる義経が副将軍となっています。ところがこの屋島の合戦では範頼は九州攻勢に出ていて義経一人が大将軍として源氏軍を率いたのです。

が、大将軍と呼ぶにはこの屋島の合戦で義経が率いた軍勢は貧弱だったようで、平家討伐の源氏の軍勢は、まずは前述のように九州攻勢に出た範頼軍と義経軍の二手に分かれていたうえに、ようやく船を調達して摂津の渡辺・福島に勢ぞろいした義経軍も折節の嵐によって船出ができず、有名な「逆櫓論争」の末に梶原景時と袂を分かって嵐を押し切って船出した義経軍は「平家物語」によれば200余艘のうちわずか5艘、乗せた軍馬は50匹で、平家の屋島陣を急襲した手勢も「七八十騎」とされています。

少ない手勢ではありましたが義経の計略は緻密で、まず嵐をついて四国に上陸したのが屋島がある讃岐ではなく阿波国で、夜通し山越えをして平家の屋島陣を背後から急襲したのでした。しかも襲撃の直前には高松の民家に火を放ち、軍勢を小グループに分けて襲うことで大軍勢に見せかけたのでした。一の谷で義経が平家軍を背後から襲った「鵯越え」の記憶もあった平家はこれに驚いてすぐに陣を捨てて、また船を頼って海に逃げ出しました。「平家は海のおもて一町ばかりに船を浮べ。源氏はこの汀に打ち出で給ふ。」とあるのは、じつは海に逃げた平家の陣地を義経軍がおさえ、ようやく相手の軍勢が少数であると気づいた平家が海の上から源氏に対峙した、という場面になります。
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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その3)

2023-03-29 01:32:01 | 能楽
シテとツレは漁の仕事から帰った体で釣竿を捨て塩屋に戻ります。

シテ「まづまづ塩屋に帰り休まうずるにて候。

両者は釣竿を捨て、後ろに挿した扇を抜き持って、シテは床几にかかり、ツレはその右後ろに着座します。

この着座位置は能「松風」と同じ演出ですね。二人が海での仕事に従事する漁師であり、場所は塩屋であり、「松風」の影響を考えないわけにはいきません。そのうえシテとツレの登場の仕方。。橋掛りで向き合って謡い出し、囃子のアシライに乗って舞台に入り、さらに舞台で向き合ってサシ・下歌・上歌を謡う様は脇能の前シテの登場と同じ型です。まあ、脇能が「真之一声」で登場するのに対して「屋島」では前シテの登場音楽としてはごく一般的な「一声」であり、橋掛りで謡い出す体裁も脇能の「一セイ」「二ノ句」ではなく「屋島」では「サシ」「一セイ」なのであって、脇能と比べれば略式に作られているのは間違いないのですが。

しかしながらご存じの通り能「松風」は脇能以外では唯一「真之一声」でシテとツレが登場する曲で、アシライに乗って舞台に入り、「松風」はその後二度に渡る地謡の上歌、続いてロンギまで備えて長大な場面が続く点で脇能とも「屋島」とも異なった独特の展開ではありますが、この長大な文章でシテとツレが海辺で従事する仕事とそれに携わる心情を深く掘り下げたそのあとは仕事を終えて塩屋に帰るのであり、その点では「屋島」と趣向は同一でしょう。その塩屋に安住したシテとツレの姿が同一である事を考えると、やはり「松風」と「屋島」には共通した演出があると考えることができると思います。

さらには「松風」と「屋島」は同じ作者。。世阿弥による作品です。「松風」は「五音」「申楽談儀」「三道」の世阿弥自身の記述により古曲「汐汲」が観阿弥・世阿弥父子によって次々に改作された曲とされていますが、ぬえは以前から、確証はないながら「松風」はその文体や印象によって世阿弥によってほとんど全面的に書き直されていると考えていまして、後日ドナルド・キーンさんが「これは世阿弥が作りました」と断定的におっしゃっているのを聞いたこともあります。「屋島」もまた確実な証拠はないものの、各種の文献によって世阿弥作が確実視されている曲です。ふたつの曲が同じ作者の作品であるならば、やはり両者には何らかの関係があるのかもしれません。

もっとも橋掛りに登場したシテとツレなどがアシライで舞台に入る演出はじつは脇能の専売特許ではなくて、四番目や五番目の能である「玄象」「葵上」「当麻」、意外なところでは「第六天」「摂待」でも用いられているので、「屋島」のシテの登場の演出はより複雑な影響関係を考えなければならないかもしれません。

ワキ「塩屋の主の帰りて候。立ち越え宿を借らばやと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。

塩屋の主人の帰宅を見た僧は一夜の宿を所望します。ツレがそれに応対してシテに判断を仰ぎ、シテは「見苦しい」ことを理由に一度は断りますが、僧の重ねての所望についに彼らを受け入れます。このあたりも「松風」そっくりの演出ですが。。

ツレ「誰にて渡り候ぞ。
ワキ「諸国一見の僧にて候。一夜の宿を御貸し候へ。
ツレ「暫く御待ち候へ。主にその由申し候べし。いかに申し候。諸国一見の僧の。一夜のお宿と仰せ候。
シテ「安き程の御事なれども。あまりに見苦しく候程に。お宿は叶ふまじき由申し候へ。
ツレ「お宿の事を申して候へば。余りに見苦しく候程に。叶ふまじき由仰せ候。
ワキ「いやいや見苦しきは苦しからず候。殊にこれは都方の者にて。この浦初めて一見の事にて候が。日の暮れて候へば。ひらに一夜と重ねて御申し候へ。
ツレ「心得申し候。ただ今の由申して候へば。旅人は都の人にて御入り候が。日の暮れて候へば。ひらに一夜と重ねて仰せ候。
シテ「なに旅人は都の人と申すか。ツレ「さん候。
シテ「げに痛はしき御事かな。さらばお宿を貸し申さん。


この場面も「松風」とほとんど同じ展開ですが、じつはシテが僧を受け入れる理由が「松風」とまったく異なっているのです。

「松風」ではワキの来訪をツレに知らせるツレは「旅人の御入り候が。。」としか伝えないのですが、その後のワキとツレとのやり取りを家の内から漏れ聞いたシテがワキが僧であることを知ると、シテの謝絶を忠実にワキに伝えるツレを制して僧を家に招じ入れるのです。

ところが「屋島」でシテが敏感に反応してワキを招じ入れた理由は、ワキが僧であるかということではなくワキが都人だったからなのです。後に地謡が「旅人の故郷も都と聞けば懐かしや。我等も元はとてやがて涙にむせびけり」と謡うので判明するように、シテは自分が帰ることができない故郷。。都の人と知って、懐かしさにワキを家に入れたのです。

単純な違いのようですが、「松風」ではシテは自分が死後も妄執のために成仏できず苦しんでいて、ワキ僧を招いたのも、僧との邂逅によって自分の救済を期待したからにほかなりません。これが「屋島」ではシテは同じ現世に迷う亡者でありながら、ワキが僧であることに興味を示していませんね。じつはこれは「屋島」の能全体に通じている特色で、シテがワキ僧に対して自分を弔うことを求めない事は演者などからもよく指摘されることなのです。

ぬえは、これまた証拠はないけれども「松風」も「屋島」も、世阿弥の作とすれば比較的若い時代に書かれた脚本だと思っています。「敦盛」はさらに若い頃。。ぬえは世阿弥が10歳代で書いたのではないかなあ、と漠然と考えているのですが、その後「高砂」「屋島」と続いて「松風」がもう少しあと、「砧」の境地はその数十年後のずっと先。。と勝手に考えています。これはシテの人物の人間像の描かれ方の深さについて ぬえが感じるところなのですが、この場面でもシテはワキの(シテ自身に対しての)存在価値を、自分が失った故郷の人として共感し、しかもそれはツレからの報告によって知る「屋島」に対して、ワキの言葉を側聞して、これを自分の救済者と認めた「松風」との間に、考えすぎかも知れませんが作者の人間洞察のための人生経験の時間差を感じています。

ツレ「もとより住み家も芦の屋の。
シテ「たゞ草枕と思し召せ。
ツレ「しかも今宵は照りもせず。
シテ「曇りも果てぬ春の夜の。
シテツレ二人「朧月夜に敷く物もなき海士の苫。
地謡 下歌「屋島に立てる高松の。苔の筵は痛はしや。
地謡 上歌「さて慰みは浦の名の。さて慰みは浦の名の。群れゐる田鶴を御覧ぜよ。などか雲居に帰らざらん。旅人の故郷も。都と聞けば懐かしや。我等も元はとてやがて涙にむせびけり やがて涙にむせびけり。


さてシテがワキ僧を家の中に招き入れて、一同が車座になって和む場面です。シテは下歌「屋島に立てる高松の」と床几から立ち上がり、ワキに向いて着座、ワキもシテに合わせて着座します。このあたり、能「安達原」や「一角仙人」などなど枚挙にいとまがないほど能によく出てくる場面ですが、これまた能舞台の特質をよく生かした演出です。理屈から言えばシテは屋内に居てワキを招き入れたのですから、シテは不動で待ち受け、多少なりとも移動するのはワキのはずなのですが、実際の舞台はその逆。しかしここでシテが立ち上がりワキに向くことで、単純にワキが屋内に入ってきた、という動作ではなく、僧をもてなすシテの気持ちに焦点が当たりますし、なにより役者がほとんど移動しないままで能舞台そのものが一瞬にして塩屋の内外の応対の場面から一同がひと部屋に介する屋内の場面に変わるのです。書き割りや大道具などで具体的に塩屋を視覚化する方法ではこの一瞬の舞台転換は不可能で、観客の想像に多くを任せる能の手法の真骨頂と言えると思います。

ここでもまた能「松風」との対比が際立ちますね。「松風」ではシテは立ち上がらず床几にかけたままワキに向くのみ。ワキはほんの二~三歩シテの方へ歩み寄って着座します。これは、「屋島」と違ってシテが動かない以上ワキが最低限の移動をしないと家の中に入ったことが表現できないからだと思いますが、「松風」でここでシテが立ち上がらないのは他にもいろいろな理由があるからだと思います。「屋島」のシテの庶民の老人であれば今まで床几にかけて一国一城の主のような威厳を見せていたのが、ワキとともに着座することで胸襟を開いて僧をもてなす体になり、一座の和やかな様子が活写される効果が生まれるのに対して、「松風」ではワキと同座しないことで、僧からの救済を期待しながらも、シテの心の中にある孤独が彼女の心をワキに打ち解けるところまで至っていない事が想像されます。またワキと離れて、しかも床几に座ることでシテの姿は着座するワキの位置とは高低差までも生じ、この場面のあとシテとツレが姉妹の悲しい物語を独白する場面でシテの心情の揺れ動きに観客の焦点を集めることができます。

さてシテとワキ一行がまといして語り合うこの場面、シテの心は都を懐かしむ気持ちでいっぱいですね。思えば都は義経にとって生まれ故郷でもあり、鞍馬での天狗との邂逅、五条の橋での弁慶との対決、木曽追討、平家追討の出陣、検非違使の任官。。と思い出の尽きない地。「屋島」で唯一、シテが涙を流すシオリの型をする場面です。
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