新考へるヒント

世の中のことについて思うよしなし事を書き留めます。

出口は見つかるのか?

2013年07月02日 22時24分08秒 | Weblog
第一章の扉にカミュの『異邦人』の一節がある。ここに、この著者のすべてが表現されているといっても過言ではない。
鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読んだ。
鈴木氏の出発点は、『異邦人』に示される不条理な人間を不条理なまま認めて生きられる社会をいかに構築していくか…にあるように思う。鈴木氏は、そのために、生物学を根底におきながら、社会・経済・政治のすべての分野での改革を提案する。その視野の広さは、けっして大げさな言い方でなく、マルクスに匹敵すると筆者は感じている。
詳細は鈴木氏のこの著作を読んでもらいたいが、インターネットを用いた最新の技術を利用しながら、氏は多様な生を多様なまま認められる社会の在り方を模索する。たとえば、選挙の投票行動である。一人一票とはいっても、投票する人間自身が凝り固まった一つの意見を有さないとすれば、一票にすべてをゆだねることは自身の存在への欺瞞になろう(人間存在の不条理性を想起せよ!!)。だから、鈴木氏は、一票をさらに細分化して(ポイントに分け)投票するという方法を提案する。これはもちろん、現代のコンピューター万能の時代だからこそできる提案だ。しかも、投票する対象は候補者だけでなく、身近で知識を有する人への投票でもよいという。その身近な有識者は各人から集めたポイントを受け、そのポイントを自分の信頼する候補者に投票することができる。それだけではない。鈴木氏によれば、高ポイントを得られた有識者はそれだけで代議員であると認めてもよいのではないかと考える。
鈴木氏自身が述べているように、彼の提案はいくらでも批判の余地はあろう。しかし、今日の閉塞した社会状況を打破するには、このような大胆な発想が必要であると筆者は感じる。
『一般意思2.0』で東浩紀氏は検索エンジンに込められた人間の欲望の集積に着目した。しかし、残念ながら、東氏の論理は、旧来の政治制度の殻を破るまでの発想には至らなかった。鈴木健氏は、生物学から経済学まで駆使することで、旧来の枠にとらわれない、新しい社会のきざしを示すことができたのである。鈴木氏の今後の活躍を期待せずにはいられない。

教養主義の退場

2013年02月17日 12時29分48秒 | Weblog
教育談義を続ける。
知り合いからこんな話を聞いた。
今、 学校現場では、「教養のある教員」の不足が深刻だ。大学も真の意味の「教養」ではなく、いわゆる 「役に立つ」ことばかりが強調して教えられるから、思考の訓練もしない学生が教員になってくる。さらに、教員は雑務や形式的な研修に振り回されていて、せっかく「教養」を身につけている人がいても、それを深める時間がない。教科指導以外の仕事が多忙なので、「教養」など語り合う時間などないし、まして、「教養」を授けるべき授業の研究がおざなりになってしまっている。結局、授業は与えられた教科書を「教え込む」という域から出られないのである・・・。
 この話には様々な問題提起がなされているが、ここでは「教養」について考える。
 知り合いはこうも言っていた。
自分の大学時代、先生は「大学なんて役に立たないことをやる場所だ!」と言っていたが、今になって、その意味がよくわかる・・・。
プラグマティズム的な思考のアメリカ合衆国では、古くから「役に立つ」ことはすべてに優先される価値である。学卒に弁護士なり、MBAなりの資格を求めるのは、そのような思考の最たるものであろう。多様な民族が集まっている中で、誰にでもわかる基準が求められたことも背景の一つなのだろう。一方、中世以来の大学の伝統を持つヨーロッパでは、学問とは基本的に教養を身につけることであった。古代以来の「自由七科」で知られるリベラルアーツこそ、基本的に身につけるべき「教養」であり、それは市民としての素養につながっていた。
明治に学制を引いた時、日本はヨーロッパ流の大学の設立をめざした。もちろん、東京帝国大学にみられるように、官僚の養成は急務であったろう。しかし、夏目漱石がロンドンで当時のヨーロッパの主要な文学作品をほとんど読破してきたように、明治の日本人は教養を身につけることを何よりも重視していたのである(このことは森鴎外を引き合いに出すまでもなく、軍事的な目的で留学した軍人にも共通して言える)。そもそも、武士の時代から、『論語』を読むなど、学問を身につけることはたしなみの一つであった。
急激なグローバリズムは、金融工学による経済システムの画一化や英語による世界制覇ばかりでなく、学問の世界まで一変させてしまった感がある。アメリカ的なプラグマティックな価値観が学問の領域まで席巻した。それは、学生がいわば「顧客」であって、大学は「顧客」を満足させなければならないという発想に如実に表れており、そのことは今やどこの大学でも「授業評価」で実感することができる。実際、大学の授業評価には字が見にくいだの声が小さいだの、授業が分かりづらいなど、おおよそ大学の教授に求める内容とは思えないような「注文」が羅列されているそうである。
中世に端を発する大学は、本来、都市のギルドと性質上も類似しており、教授はいわば「マイスター」に相当する。教授は師であり、学生は修業を積んで、学問を修得するのである。そこには、教授に対する敬意があり、学ぶということへの畏敬の念がある。
大学に設置される講義の基準も、プラグマティックに判断されるようになっている。
このことは、「検定」ブームにも見ることができよう。学んで何の役に立つかを保障するものとして「検定」は存在する。たとえば、歴史学など学んでも「看護士」のような資格が得られるわけではない。そこで、歴史に関する検定が作られる。もとより、そうした検定には大手教科書出版社が関わっていたりして、それ自体かなり「眉つば」ものであるのだが、しかし、一度このような「資格」が作られると、学生は「自己PR」にも使えると「資格」取得に熱を上げることになる。あげく、この検定で点が取れるような授業を大学側に求め、説明が分かりにくくて板書が見にくい老年の教授は授業評価で叱責を食らうことになる。たとえ、その学会で一目置かれるような大研究者であったとしても、だ!
「何の役に立つか」というアメリカ流プラグマティズムのもとで、学問が評価され、その評価基準をもとに講座が設置され、授業が展開される。役に立たないものは「学問」ではないと断罪され、大学から退場させられる。これが、近年の「学問」がおかれた状況である。それは文科省からの助成金の裁可にまで貫徹してきている。
先述の「大学なんて役に立たないことをやる場所だ!」などという発言は、今やタブーであり(言論の場なのに!!!)、下手をすれば、ウェブ上でリンチをうけ、失職させられかねない。それほどまでに、「学問」の世界は荒廃してきている。
偉大な先生に教わりたいという学生の集まりが中世の大学の起源である。その子弟の集まりが一種のギルドであった。偉大な先生という敬意は、学生の学ぶ姿勢の中から培われる。そもそも、学ばなければ、どの先生が偉大であるかなど理解できないのである。
そうした努力をせずして入学できる大学が昨今の日本には多すぎる。学んでいないから、自分の教わっている先生に対する敬意はないし、怪しげな「検定」に合格できるかどうかという瑣末なことに最大の関心を払い、その合否から授業を「評価」する。
かろうじて、難関校といわれる大学には真の「学問」への意欲と学ぶことに対する畏敬の念が残っていると信じたいところだが、さて、どんなものなのであろう。就職という出口が「自己PR」を求め、「資格」や「検定」へと学生を追いやり、それを「キャリア教育」と称して大学が助長している現状では、絶望的な状況なのかもしれない。
私の知り合いはこうも語っている。
教師向けの本を読んでみる。そこには進歩が全く見られない。発想が「教科書を教え込む」から出ていない・・・。
新任の教師が厳しく「指導」され、自由な発想が抑圧されているといった公教育のはらむ問題も背景にはあり、一概には論じられない部分もあるが、少なくとも教師をめざす学生諸君には真の教養とは何かという問いを常に抱いていてほしいものである。

「英語」という伝統文化

2013年02月16日 11時34分07秒 | Weblog
 「英語で授業を」と新学習指導要領が話題になったせいか、英語教育の議論が盛んなようである。
 議論を見ていて感じるのは、論点にすれ違いがあるということである。仮に、従来の英語教育の立場に立つ人たちを伝統維持派、すぐに役立つ英語を教えなければ意味がないと訴える人たちを実用派と名付けるとしよう。どちらも、広い意味で「英語教育」について論じている。伝統維持派は英語に限らず、外国語を習得するには文法などの基礎知識の習得が必要だし、それが習得への近道だという。一方、実用派の人々は、「ユーチューブ」などを見れば、文法のような座学は後回しでも日常的な英語は短期間で身に付くし、使えなければ英語を学ぶ意味がないという。
 筆者のサマリーに誤りが含まれているかもしれないが、重要なのはそこにはない。話題が飛ぶようだが、英語教育の伝統維持派を見て思うのは、古くから伝わる「漢文」の読解法である。「漢文」は日本人の生み出した知恵であるという話を聞いたことがある。確かに、日本人は中国語という外国語を返り点や一・二といった順位を振ることで日本語に変換して読んできた。会話には使えないが、この方法でも「漢文」は読み解くことができるし、逆に「漢文」を「作文」することもできる。この技術で孔子や老子も、孫子の兵法も読むことができるのである。
 この「漢文」を読む技術を「実際に中国では役立たない」と批判する人がいるだろうか。寡聞にして聞いたことがない。むしろ、先述したように、日本人の知恵として称賛されているのである。
 極論だが、筆者は、英語読解も明治以来工夫が積み重なるうちに、一つの読解技術に特化してきているのではないかと思っている。「ジャパーニーズイングリッシュ」と皮肉られい久しいが、今も、日本の中学生は、文章は大文字で書き始め、文末にはピリオドかクエスチョンマークなどを付けなければ減点すると教わっている。
 実用派の人々からすれば、小文字のiから書き始めている文章なんてフェイスブックにだっていくらでも出ていると一笑に伏すであろう「英語」が今も通用しているのは、それが「漢文」と同じような伝統文化になっているからなのだと筆者は考える。「漢文」が武士の子弟に受け継がれたように、「英語」は明治以来、受け継がれている。
 しかし、私はそれを否定しない。なぜなら、伝統的な英語の読み方で、英文は読めるようになるからである。実際、筆者は伝統的な「英語」は得意で、それで大学にも入学できたが、大学生になってから、伝統的な「英語」学習を応用してジョイスの小説を読んだ時、過去形と過去完了を巧みに使い分けて微妙な表現を伝えようとするジョイスの文体を理解して、心の底から感動することができたし、これが「英語」教育なのだと納得することができたのである。
 問題は、「漢文」が大学入試では出題される大学が難関校に限られてきているように、伝統的な「英語」読解の知識が必要とされる学問分野が限られてきてしまってきているという現状にあろう。文学自体が研究対象として見限られている現在、まして英文学などに向かおうとする受験生など一握りのものでしかない。「漢文」が隅に追われる一方で中国語がもてはやされるように、伝統的な「英語」学習も不要論が飛び交い、実用派の主張する話せる英語が主流となっていくのも無理はない。
 そのような時流に逆らうつもりはない。しかしながら、伝統的な「英語」学習も一つの日本人の知恵であったとすれば、それを批判的にしか評しない昨今の英語教育論に、一抹の寂しさを感じるのである。

追記 朝日新聞の記事によれば、麻生太郎氏はアメリカ留学中に、祖父の吉田茂から「そんな英語を学んではダメだ」というようなことを言われ、留学先をイギリスに変えたそうである。戦争中もカードゲームに興じていたといわれる吉田家らしいエピソードではある。政治家としての評価は別として、教養としての英語を考えるヒントがここにはないだろうか。





つむがれていく生命

2012年07月26日 14時44分14秒 | Weblog
生きるとはどういうことか?
生物学を引き合いに出すこともなく、それは生命を次世代に確実に伝えるためということになるのだろう。
映画『八日目の蝉』は、太古から人は、他の生き物たちと同じように、生命をつないできたのだということを感動をもって伝えてくれる作品である。なるほど、ストーリーは極めて特殊である。けれど、その特殊な中に、人が繰り返し繰り返し作り出してきたもの、つまりは「文化」なるものを巧みに伝えている。映画のカギともなる「虫送り」の美しい景色は、それを象徴している。
人が繰り返し営んできたもの、それを時には「歴史」と呼び、時には「輪廻」と呼んできた。この映画には、特殊なシチュエーションを超えた、人類に共通する「生きる」という普遍性が見事に描かれている。だからこそ、ラストシーンに私たちは感動し、涙するのである。
人にはそれぞれ様々な「歴史」がある。場合によっては、この映画の主人公のような救われない生い立ちの人もあるだろう。けれども、それでも、人は生きる。次の生命を育てる。それが、人間という生き物の営為なのである。
http://youkame.com/index.html

星のない時代

2012年07月08日 22時35分39秒 | Weblog
貧しい家庭に育った星飛雄馬は巨人の星をつかむまでに成長できた。
父、一徹は、土木作業をしながら、二人の子を養った。
彼らは貧しいけれど、家族愛があった。そして、がんばれば成長できるという夢があった。
しかし、時代は変わってしまった。
青砥恭『ドキュメント高校中退』(ちくま新書)は、格差社会の現実を教育の側面から見つめた労作である。教育や福祉に多少なりともかかわった人間なら、何となく感覚として感じていた貧困と低学力の実態を、詳細なデータと実際の若者からの聞き取りをもとに、見事に証明して見せてくれている。
それにしても、いつから、日本はこんな社会になってしまったのかと思う。崩壊した家族の中で、家にもいられず、居場所を求めて夜遊びに走る若者たち…。安易に同棲にはしり、シングルマザーとして自分が育ったのと同じ境遇で子育てに苦闘する若い母親たち…。
青砥氏は、低所得に苦しむ家庭の状況が、高校進学に如実に表れているとデータをもとに力説する。実際、公立高校でもいわゆる「進学校」には授業料減免申請を行う家庭の子は少なく、「底辺校」では授業料減免申請を行う家庭が20パーセントにも及ぶという。今や、「底辺校」は教育の場であるばかりでなく、福祉ともかかわる場になりつつあると青砥氏は言い切る。
筆者は、青砥氏の述べるような解決策に必ずしも同意するわけではない。しかしながら、このような現実の社会の在り方に立脚しなければ、真の教育改革にはならないという青砥氏の考え方には全面的に同意する。
「底辺校」に通う子たちは、すでに小学校4年生から授業についていけなくなっているのだという。そのような子供たちに、原級留置だと脅し、競争原理を振りかざしたところで、学習に向かう意欲など育つわけもない。それは、一部の勝者を目指す意欲のある子どもだけに通用する話だ。
3.11以来「絆」という言葉があちこちで聞かれるが、共感できるためには、想像力が必要だ。貧しさの中でもがく若者たちへの想像力を育てるためにも、一読の必要な書物である。

進むべき道は?

2012年06月10日 22時58分36秒 | Weblog
朝日新聞の論壇時評で高橋源一郎氏が「漂流する悪意」という、何とも時宜を得た表現を用いていた。
高橋氏は、某タレントの生活保護問題などを引き合いに出しながら、今時の若者たちを中心に、(仕事や生活が)うまくいかないのは、誰かに奪われているからだという被害者意識が蔓延してきているという。それが、時には公務員攻撃になり、時にちゃっかり生活保護を受給している人たちへの攻撃となる。
「失われた10年」どころではない。もう、20年以上、この国には不満が満ち溢れている。その不満は、高橋氏の言うように「漂流」している。それが、時には「自民党をぶち壊す」といった政治家の支持に表れてみたり(その結果が派遣労働者などの急増などであるにもかかわらず…)、時には、道州制導入を訴える知事への指示に表れたりしている(それがどのような結果をもたらすか未知数であるにもかかわらず…)。
怒りは社会を変革する大きな原動力となる。その意味で、社会に不満が満ち溢れることは、決して悪いことではない。
しかし、その矛先が本質を見誤ってしまっていると、変革のはずが反動になってしまう危険もある。
怒りがどこから生まれてくるのか、それを冷静に分析することから始めなければならない。そもそも、新自由主義とは何なのか。金融工学とはどういうものなのか。労働力の安い市場を求める動きはデフレスパイラルの克服につながるのか…。
3.11をきっかけに、日本人は助け合うということの大切さを改めて認識したはずだ。人は一人では生きていけない。人は金儲けだけを考える生き物ではない…。それは、働く人たちの連帯の可能性もはらんでいたはずだ。その萌芽を私たちは大切に育てなければならないのではないだろうか。
誰かが得しているという猜疑心や嫉妬心は不安をあおるだけで、本当の「敵」の姿を見えにくくする。

高橋氏の論壇時評はつぎのHPで紹介されていますhttp://mokuou.blogspot.jp/2012/06/531.html


世界の再構築  中沢氏の『カイエ・ソバージュ』

2012年05月23日 22時39分49秒 | Weblog
 中沢新一氏の5部からなる大作である。講義の形式をとっているが、ひょっとするとソシュールの『一般言語学講義』を意識しているのかとも深読みしたくなる。それほどに本論考は中沢氏復権の足がかりとなる労作である。
 振り返ってみれば、中沢氏は、若くして山口昌男の後継と目された「ニューアカ」の旗手の一人であった。しかし、バブル崩壊と軌を一にするようなニューアカブームの衰退やオウムとの接近などがあって、中沢氏は一種、危険な人物の扱いを受けるようになってきた。
 しかし、中沢氏の思考は止まっていなかった。本論考で、彼は、彼の思想を集大成したといってもよいのではないか。
 詳しくは本書に譲るが、一言で言ってしまえば、中沢氏は最新の脳科学まで動員して、世界は私たちが見ている世界だけではないと説いている。姿かたちは現生人類に近く、いや、体格は現生人類より勝っていたともいわれるネアンデルタール人のような旧人と私たちが大きく異なるのは「夢」に現れるような無意識を有していることにこそあると言い切る中沢氏は、そのような無意識の存在を素直に受け止め神話にまで高めた古代人にこそ、私たちが見失ってしまった世界を再構築するヒントがあると訴えるのである。
 中沢氏が評価するレヴィ・ストロースもマルセル・モースもラカンもバタイユも、決して最新の思想家ではない。本書を読むと、「なんだ、この話か」と途中で感じる読者も少なくはないのではないか。しかし、それでも本書が優れているのは、「カイエ・ソバージュⅠ」から「カイエ・ソバージュⅣ」の論考を「カイエ・ソバージュⅤ」ですべてを総合し、私たちの生き方にまで言及して本書を終えている点であろう。
 本書の中で登場する、熊をめぐる神話がある。それによれば、熊は実は人間で、人の前に出てくるときだけ熊の姿になるのだという。その熊=人間たちは熊がとれないと人間たちが飢え死にしてしまうだろうから、毎年、誰が犠牲になるかを決めて、人間の前に姿を現すのだ。だから、この神話を信じる人々は、熊を殺し、食した後も、骨を丁寧に並べ、元の世界に戻る儀式を執り行うのだという。
 私たちの「無意識」ともつながるこうした神話の世界を失った現代とはどのような時代であるのか。歯ごたえのある大作ではあるが、中沢氏の一語一語に耳を傾けて、あるべき世界についてじっくり考えることをお勧めしたい。

生きるとはどういうことか

2012年03月18日 18時25分35秒 | Weblog
 琉球村の古い民家の軒先。お茶とサータアンダギーを口にした。見上げると青い空。耳には三線の音色が聞こえてくる…。世界が止まっているように感じた、筆者の数少ない経験のひと時である。
 歌う生物学者として知られる本川達雄氏も、沖縄でナマコの観察をしながら、同様の体験をした。『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)で知られる、生物における「時間」の問題を考えるきっかけは沖縄の「時間」にあった。
 昨年6月に出版された『生物学的文明論』(新潮新書)は、本川氏自身が述べているように、自身の生物学研究を下敷きにしながら、老後をいかに生きるかまで敷衍した「文明論」である。福岡伸一氏の論考もそうだが、生物学者の著作は、本来はその一員であるはずの人間が忘れさってしまっている「生物が生きるということ」を考えさせてくれる。詳しくは本川氏の本作をお読みいただきたいが、エントロピー(秩序は無秩序に向かうとする熱力学第二法則の考え方)による崩壊を避けるために生物は同じものを再生し続けることで永遠を手に入れようとしたという考察は「哲学」の域に達している。生命が再生を続けることで崩壊を防いでいるとすれば、「子供は私であり、孫も私であり」ということになり、古代ギリシアやインドで説かれた輪廻転生が生物学的には真実であるということが知れるのである。
 ゾウにはゾウの、ネズミにはネズミの時間があるとすれば、人間には人間の時間があるはずである。本川氏はテクノロジーの発達によって便利になった半面、人間本来の時間が失われ、過剰に多忙な日々を送ってしまっているという。沖縄のゆったりした時間の中で研究者として過ごした本川氏の論考は、読む者に説得力を持って時間の過ごし方の再考を求めてくるのである。

孤独な主権者

2012年03月05日 22時26分06秒 | Weblog
中公新書「昭和天皇」を読んだ。
表題のとおり、昭和天皇の生涯を詳細な資料をもとに構成した力作である。昭和以降もさることながら、皇太子の時代にどのような教育を受けてきたか、そこから丁寧に人物像を描いている。読み進むうちに、昭和天皇を知るためには、青年期から知らなければならないという筆者の意味することが分かってくる。
本書によれば、昭和天皇にとって若き日の訪欧が生涯大きな影響を与えた。それが国際協調主義であり、立憲君主という思想だった。軍国主義の風潮の中でも彼の思想がぶれることはなかった。
それにしても気の毒なのは、「専制」を避けようと口をつぐめばつぐむほど、昭和天皇の意図とは違う方向に時代がすすんでいく事態である。特に、満州事変以降、事態の収拾を約束しながら戦線は拡大の一途をたどっていく。それは、「主権者」であったはずの天皇の意図には全く関係なく、しかも、軍首脳部の思惑をも超えて暴走し続けていく。
パリ講和会議で名をはせた牧野伸顕が内大臣として、そして、同じパリ講和会議の全権であった西園寺公望が元老として、国際協調主義をとる昭和天皇を支えていた時期は、それでも天皇は心強かったであろう。しかし、牧野も西園寺も、年とともに天皇のもとから離れていく。とくに牧野が暇をこうたとき、天皇は声をあげて泣いたという。
それにかわって侍従武官には、皮肉なことに、満州事変の時の関東軍司令官・本庄薫が推戴されてくる。側近の中からも、昭和天皇は右翼への理解が足りないなどと陰口がきかれるようになる…。
その後、第二次世界大戦の御前会議へと話は進むわけであるが、詳しくは本書を読んでいただくとして、本書を読んでつくづく筆者が感じたのは、日本型リーダーシップの難しさである。軍部は天皇を奉じながら、天皇自身の意向はまったく聞こうとはしない。天皇はあくまで飾りであり、実際の意思決定は明確な主体がなく、なし崩し的に行われていくのである。
日本でもリーダーシップなる語が飛び交うようになって久しいが、はたして、このような日本人が真のリーダーシップなるものを発揮できるものなのか。リーダーシップの名のもとに、再び、恐ろしい時代が来てしまうのではないか。杞憂と思いながらも一抹の不安を否定できないのである。

今こそ考える必要のある問題だから…

2012年02月26日 21時35分08秒 | Weblog
「沈まぬ太陽」を見ました。
詳しくは書きませんが、日本の社会の嫌な面がこれでもかというほど出てきましたね。
会社の人間関係、政治家の世界、世間の冷たい目。。。
あ~、でも、組合の委員長で頑張るっていう意味、わからない人も多いんだろうな。
そういう人には、感動も伝わらないだろうな。
そもそも、立場の弱い人間が協力し合うって当たり前のことなんですよね。だから、NOVAがつぶれたときだって、外国人講師の人たちはすぐに組合を作りました。彼らは、そういうところ、よくわかっている。
わかっていないのは長いものに巻かれて生きる日本人ですね。自分たちの主張をすることがかっこ悪いと思ったり、誰かが言ってくれるからいいだろうと思ったり。。。。仲間がリストラされても、自分じゃなくてよかったって黙っている人ばかり。。。それが、あの映画のような犠牲者を生んでしまうんですよね。

組合を大声で問題にしている人がいます。
でも、それって、この映画に登場する「ことなかれ」のサラリーマンを増やすだけで、日本社会にはマイナスになるばかりだと私は思うんですがね。