第一章の扉にカミュの『異邦人』の一節がある。ここに、この著者のすべてが表現されているといっても過言ではない。
鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読んだ。
鈴木氏の出発点は、『異邦人』に示される不条理な人間を不条理なまま認めて生きられる社会をいかに構築していくか…にあるように思う。鈴木氏は、そのために、生物学を根底におきながら、社会・経済・政治のすべての分野での改革を提案する。その視野の広さは、けっして大げさな言い方でなく、マルクスに匹敵すると筆者は感じている。
詳細は鈴木氏のこの著作を読んでもらいたいが、インターネットを用いた最新の技術を利用しながら、氏は多様な生を多様なまま認められる社会の在り方を模索する。たとえば、選挙の投票行動である。一人一票とはいっても、投票する人間自身が凝り固まった一つの意見を有さないとすれば、一票にすべてをゆだねることは自身の存在への欺瞞になろう(人間存在の不条理性を想起せよ!!)。だから、鈴木氏は、一票をさらに細分化して(ポイントに分け)投票するという方法を提案する。これはもちろん、現代のコンピューター万能の時代だからこそできる提案だ。しかも、投票する対象は候補者だけでなく、身近で知識を有する人への投票でもよいという。その身近な有識者は各人から集めたポイントを受け、そのポイントを自分の信頼する候補者に投票することができる。それだけではない。鈴木氏によれば、高ポイントを得られた有識者はそれだけで代議員であると認めてもよいのではないかと考える。
鈴木氏自身が述べているように、彼の提案はいくらでも批判の余地はあろう。しかし、今日の閉塞した社会状況を打破するには、このような大胆な発想が必要であると筆者は感じる。
『一般意思2.0』で東浩紀氏は検索エンジンに込められた人間の欲望の集積に着目した。しかし、残念ながら、東氏の論理は、旧来の政治制度の殻を破るまでの発想には至らなかった。鈴木健氏は、生物学から経済学まで駆使することで、旧来の枠にとらわれない、新しい社会のきざしを示すことができたのである。鈴木氏の今後の活躍を期待せずにはいられない。
鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読んだ。
鈴木氏の出発点は、『異邦人』に示される不条理な人間を不条理なまま認めて生きられる社会をいかに構築していくか…にあるように思う。鈴木氏は、そのために、生物学を根底におきながら、社会・経済・政治のすべての分野での改革を提案する。その視野の広さは、けっして大げさな言い方でなく、マルクスに匹敵すると筆者は感じている。
詳細は鈴木氏のこの著作を読んでもらいたいが、インターネットを用いた最新の技術を利用しながら、氏は多様な生を多様なまま認められる社会の在り方を模索する。たとえば、選挙の投票行動である。一人一票とはいっても、投票する人間自身が凝り固まった一つの意見を有さないとすれば、一票にすべてをゆだねることは自身の存在への欺瞞になろう(人間存在の不条理性を想起せよ!!)。だから、鈴木氏は、一票をさらに細分化して(ポイントに分け)投票するという方法を提案する。これはもちろん、現代のコンピューター万能の時代だからこそできる提案だ。しかも、投票する対象は候補者だけでなく、身近で知識を有する人への投票でもよいという。その身近な有識者は各人から集めたポイントを受け、そのポイントを自分の信頼する候補者に投票することができる。それだけではない。鈴木氏によれば、高ポイントを得られた有識者はそれだけで代議員であると認めてもよいのではないかと考える。
鈴木氏自身が述べているように、彼の提案はいくらでも批判の余地はあろう。しかし、今日の閉塞した社会状況を打破するには、このような大胆な発想が必要であると筆者は感じる。
『一般意思2.0』で東浩紀氏は検索エンジンに込められた人間の欲望の集積に着目した。しかし、残念ながら、東氏の論理は、旧来の政治制度の殻を破るまでの発想には至らなかった。鈴木健氏は、生物学から経済学まで駆使することで、旧来の枠にとらわれない、新しい社会のきざしを示すことができたのである。鈴木氏の今後の活躍を期待せずにはいられない。