写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

私のコロナ肺炎闘病記

2024年01月20日 | コロナウイルス

コロナウイルスとは何でしょう。
世界特許まであるのですからコロナウイルスは、発生の経緯から見て、人工販売物です。だから世界経済に組み込まれ、国際機関は情報として世界に頒布させるので、感染力とともに、国際政治・社会の問題として流通します。そこからはロックダウン、マスク、恐怖、経済停滞が生まれ、社会が混乱し、国家もそれを容認推奨するので、結果、世界犯罪ではないのかという疑惑すら生まれる事態になっています。

このように流行伝染病が政治や経済に深く組み込まれるのは、21世紀人類の営みの特徴なのですが、今、コロナウイルスを語る場合はこの視点からの論調が多く、無駄な論議も重なり、他の社会問題と同じく解決不能の現実問題の一つとなリ、不安の種が尽きません。
 
しかしコロナは、政治や経済に関係なく、ウイルスに罹ると死を招いたりする私的な問題なのです。だから病状を離れ政治論議を盛んにするのもおかしな話で、またワクチンも問題になっていますが、それもコロナの症状がなければワクチンもないのはずなので、ここでは原点を戻し、コロナウイルスの病気に罹るとはどんな経験なのかを語れば、何もかも全てが見えてくるのではないか?。
 
こう考えて、私のコロナウイルス闘病記をお話ししようと思います。
 
突然、コロナに罹ってしまった。
 
2023年8月、コロナウイルスの何番目のバージョンに私は罹ったのだろうか。二回ワクチンを接種したが、ワクチンが効かずコロナに罹ってしまった。
 
その経緯は、  
妻の勤務で、私が送り迎えする車の中で
「咳や声が酷いのに、早く帰れと言っても帰らず、勤務中、あの人そばに居続けてすっか感染してしまったわ!!。」
と、妻は言った。
 
帰宅中、30分程の同乗の車の中で、
その時「私はコロナに感染した。!」と感じた。
インフルエンザと同じく、罹ったと身体が認識するあの直接感覚だ。
これがこのコロナの暴力の始まりになった。
 
先ず、現年齢は、79歳。
日本の中都市での話である。
 
罹ってから二日後、午前、急にフラフラしてまともに立ていられなくなってしまった。
咳もなく喉や体にも痛みがなく、ただグッタリしてしまっている。
熱は無いが、40℃の高熱で意識が朦朧として立てなくなるあの症状と同じだ。
救急車を呼ぶが38℃が三日間続かなけれ行けないと断られる。妻は怒っている。
薬局でロキソニンを求める。今の日本国民は皆なそうしてるらしい。
コロナには治療薬がないのだから、この対処薬で対応するしかない。
しかし反対にロキソニンで体温が上がるのを妨げてしまった様だ。救急車が呼べない。
 
午後になっても、体温は上がらず、でもふらふらして立ってはいられない状態が続く。横になるのも苦しい。でも意識はしっかりしている。
 
救急車を呼ぶ要件をはみ出してしまい、再度、妻の必死の電話要請、でも救急車は来てくれない。対処薬で良くなるつもりが、事態は反対に動いている。
 
コロナウイルスには治療薬がなく対処薬しかない。重症のまま救急医療機関に見放された実感。起こっていることが信じられず、危険に身構えようとするがそうできない弱った身体の自分がいる。意識は正常に働いている。
 
妻が頑張って、救急患者を受け入れてくれる共産党系の病院を見つけた。たまたま心配して駆けつけた妹の車で、その病院に半分意識のない私を運んでくれた。
 
妻の肩に掴まり、ヨロヨロ、その病院に入る。

 ストレッチャーに載せられる。簡単な診察の結果。コロナウイルスによる急性肺炎と診断される。しかし当病院では対処できないので他の病院を捜すことになる。市中の或る大病院に受け入れを要請して返事を待つ。一刻を争うが、1時間経っても受け入れの返事が来ない。その間、病院の廊下でストレッチャーに載せられたまま放置される。やむなく次の候補の県立病院に打診を続け、受け入れが決まる。そこで初めて救急車が呼ばれた。その頃には意識も薄れて来ていて、断片的な記憶しかない。
救急車ではガタガタ揺れた。県立病院では、CT、レントゲンなどの検査を受けるが、朦朧とした記憶しかない。
医局長から診断結果と治療法の話を妻と二人で受ける。意識が朦朧として半分も分からないが、かなり重症の肺炎で命も危ないらしい。
気管挿管か、最悪、気管切開に進むかもしれないと言われる。
 
とりあえず、投薬と最新の治療、「ネーザルハイフロー」が試される。 

………………………
「ネーザルハイフロー」とは:

患者の鼻に管を装着し、加湿・加温された最大100%の濃度の酸素を、1分間に約40リットルという高い流量で投与する治療法。
一般的な酸素マスクなどと比べると、投与できる酸素の量は数倍。これまでだと人工呼吸器を付けざるを得なかった状態の患者を次々と救っている。
………………………

そして薬剤は、ステロイドの大量投与治療がなされた。これはコロナウイルス肺炎には有効とされる方法である。

治療中、ほとんど意識が無く、記憶もない。

そして多分、臨死体験を経験してしまった。その記憶だけがはっきり残っている。
死の間際、過去の記憶が走馬灯のように現れてくると言うが、私の場合、
目の前に大量の魚が現れ消えてゆく映像から始まり、過去の映像記憶が次々に大量に現れてきた。あっ、これ、臨死体験だと思った瞬間、全てが消え失せ、無記憶に戻ってしまった。

そして、次に意識が戻ると「ここは何処、私は誰。」と、自分の意識に問いかけている自分がいた。

問いからすると、ここは何処(物理的な)、私は誰(社会的な)の記憶が無いらしい。自分を見失っているのに、その失った自分に問いかけている妙な感覚がある。何に向かい問いかけているのだろうか。この問いを発する意識が無くなると、本当に自分を見失なって死んでしまうのだろうか。さらにその上方には別の意識がある、この全体の行為を俯瞰して見つめている冷静な意識だ。

以下は、回復後、妻から聞いた話と、私の切ぎれの記憶とを継ぎ合わせてお話しします。

どうもその問いの行為の間中、「終末期せん妄」が起きていたらしい。

「終末期せん妄」とは:
………………………
せん妄(もう)は、脱水、感染、貧血、薬物など身体に何らかの異常や薬剤を原因として急性に起こる意識障害であり、例えば朦朧 (もうろう)としていて話のつじつまが合わない、怒りっぽくなり興奮するなどがみられます。終末期がん患者さんの30~40%に見られる症状であり、看取りの時期には患者さんの90%に見られ、 ほとんどの患者さんが経験すると言われています。
………………………

せん妄を解くために、病院から私の妻宛に、病人の身の回りのものを持って来て欲しい。自分が確認できるものを…と連絡があったという。

その間二日ほど、昼間は、うつらうつらとして「ここは何処、私は誰。」を自問し、時々、目が覚めた。せん妄を起こしている記憶は一切ない。そのわずかに目覚めた時、ベットの脇のテーブル載せてあるiPhoneに無意識に手が伸びた。
画面を眺めると、自分が誰であるのかが分かった。入院しベットに寝かされていることも分かってきた。そして無意識半分に、妻にLINEを送った。

これから以降、症状の具合、病院での出来事などを、LINEで逐次、妻に報告することになった。自撮り写真も撮った。つまりオンライ実況入院生活を始めることになる。

LINE Talk
私:看護婦全員最悪です。
人間扱いしてくれません。誰も口先だけです。

最初のトークがこれです。
こんなLINEを、なぜ送ったのか。?

後で知ったのですが、私の主治医は30歳ぐらいの女医さんでした。切れぎれの記憶中では、私を、まるで死体のように、ぬいぐるみの人間のように扱っていた。痰切りディスポーザーの管を鼻から差し込み溜まった痰を吸い出す。死んだ方がましと感ずる程、それはそれは酷い痰切り治療を、私が目覚めていることなど確認もしないで、「こうするのよ」と、ぞんざいな言葉遣いで同僚に教えながら、荒っぽく鼻の穴に差し込む。激痛に足をバタバタさせ耐える。死んだ方がましと言葉で叫ぶ。

どうもこの時点では、私は、死ぬ予定の患者らしい。

後で気がついたことなのだが、30歳そこそこの女医に任せるということは、回復の見込みのない患者ということではないのか。経験を積むために死ぬ間際の患者が回ってくるポジションの若い医者ではないのか。日常的に死の宣告を繰り返す、しかしまだ慣れていない無神経からくる冷淡ではないのだろうか、と。

翌日、入院三日目。次のLINEトークを送った。

私:ところが、今日は手のひら返しの様です。

看護婦の対応が優しくなって、前日とは違って来たのです。
今日は、体温も高くなく、血圧も正常値に戻り、胸のレントゲン撮影がありました。
結果について、医者は何も言ってくれませんでしたが、看護婦が、検査の結果良いようですね、と後で言ってくれました。以降、病状についての情報は、医者からではなく、看護婦の言動から読み取るようになりました。

看護婦の優しさと患者への気遣いなど、行動の変化で、ひょっとして死の危機を脱したのかも知れないと感じていました。

★入院四日目

今日は、妻と遠方から駆けつけた息子達の家族が病院に呼ばれ、医者から病状を告げられていました。
でもコロナなので私との面会は出来ません。
後で聞くと、予断を許さず、後二、三日が山であまり良くない話だったそうです。
痰が胸に溜まり、激しく咳が出て来ました。それから突然、iPhoneの設定がおかしくなりLINEができなくなりました。

しかしその故障の間も、病状は一進一退のようでした。意識は、朦朧としていて、鼻に付けられた「ネーザルハイフロー」の管が煩わしく、少し目覚めると、位置をずらすことに夢中でした。「ここは何処、私は誰」の意識は、完全に無くなってはいませんが、でも不思議に、命が無くなるのではの恐れは少しもありませんでした。身体が大丈夫の信号を送り続けてくれていて、不安な気持ちが起きませんでした。

★入院生活六日目になりました。

看護婦に修理を頼んでいた、表示がバグっていたiPhoneが治って戻って来ました。

コロナでは面会が許されないので、それからすぐに、LINEビデオで、家族全員と話すことになりました。危機を脱したので、一旦、それぞれの家に帰っていた家族が、再び遠方から集まって来ていました。

コロナ肺炎の病状は、看護婦が驚く程に、快方に向かっていました。そして、その頃から、食事が始まりました。フルーツゼリーのみの食事ですが、しかし、それすら飲み込めない嚥下障害が始まりました。多くの痰が胸に溜まり、声が掠れ、痰の動きで激しい咳が続きました。
これらは、主にはコロナ肺炎から来るが、コロナウイルス感染の後遺症でもある。との看護婦の認識でした。

現在の栄養は、一日、3〜5本の点滴からとっています。
病気からの回復には、食事から栄養を取り体力を回復させなければなりません。しかし嚥下障害で食物が喉を通りません。毎日、食事時間になると体力回復を言われ、努力をしますが、ゼリーを飲み込もうとすると、喉を通らず、猛烈な咳が出て、痰が出て、あまりの酷さにぐったりしておさまるのを待つと言う風で、それを繰り返して、ようやく一口飲み込むのに30分はかかります。
さらに、薬も毎食後2〜4錠、1錠づつ、とろみ剤入りの水で嚥下に10分程かかります。

点滴で、ステロイドか抗生物質の投与もありました。(後で知りましたが、ステロイドは初回投与から7日以降の再投与は効果がないと聞きましたのでどちらか分かりません)そして、胸のレントゲン撮影、その結果は、看護婦から結果良いようですよと聞きました。主治医の女医は毎日来るのですが、病状については何も話しません。私もあえて聞こうともしませんでした。

驚くことにその時は、その人が主治医の女医であるとは知らなかったのです。普通は初めに、担当の〇〇です。と紹介があるのですが、ありませんでした。あったかも知れませんが、意識が朦朧としていた私が覚えている筈もありません。それに看護婦と同じ白衣を着ていて若く、私は、日によって入れ替わり現れる、ちょっと無愛想なでも熱心な看護婦の一人と思っていました。

病状が改善していると知り、次は、煩わしい鼻に入れられた「ネーザルハイフロー」の管がいつ外されるのか!。に意識が集中しました。病状が改善している事が分かり、身体も穏やかになり異常を感じていないことから、その管の取り外しが何日になるかが、ベットに横たわったままの私の唯一の関心になっていました。

今身体に装着されているのは、鼻に「ネーザルハイフロー」の酸素供給機の管、胸に心電図、両腕に点滴の針、尿道に管、そしてお尻にオムツなど、絡め取られていて身動きが出来ません。

★入院10日目

今日は朝から、ナースコールをしても誰も来てくれません。放置プレー状態です。
10時頃、慌ただしく例の女医が現れ、荒々しく、私の鼻に差し込まれている「ネーザルハイフロー」の管を抜き取りました。装置の電源を切り部屋の隅に移動させました。心電図などのコードも外して、何が始まるのか?、それから、私が寝ているベットを病室の出口まで押して運び、そこに放置したまま、外に出て行きました。その間一言も発しません。5分程して戻って来ました。そこで、「私をどうするのですか。」と少し怒気を含んで尋ねました。彼女は「あなたは、我儘な患者ですね」と吐き捨てるように言ってから、忌々しそうに「新しい病室に移ります」と言いました。私は「患者はね、こんな重症初めて経験するのですよ!」と言いました。

ベットに寝て廊下に出ると薄暗く死体置き場に続く廊下のような感じで、しかし、次のドアを開けると明るい光が満ちていて、未使用のベットが乱雑に置いてある広い部屋に出ました。そのベット群を、私のベットで押しやり通り道を作り前に進んで行きました。次の部屋に入ると、後で聞いたのですが、コロナ隔離病棟から一般病棟に移ったのです。と言われました。

その間も女医は無言でした。途中、サポートに来た男の看護師から、ここはパンデミックで入院患者が増えても対処できるように、たくさんベットが用意されているのです。と聞きました。

一般病棟は、明るく、5階の窓にはカーテンが掛かっていて、快適な様子です。早速、看護婦がやってきて、体温と血圧を測って行きました。事の早さにしばらく戸惑っていましたが、私には快方に向かっている。と安心もやって来ていました。
ナースコールを押しても、看護婦はすぐにやって来ました。前の隔離病棟では、呼んでも直ぐには来てくれず、時には20分間放置プレー状態もありました。病棟の隅の方にある薄暗い陰気な病室では、早く行く必要がない患者であった事がよく分かりました。

その陰気な部屋で、オムツに冷たくなってゆく排泄大便を抱えたまま、天井を眺め20分もベットで放置プレーを経験するのは、なかなかにシュールな体験です。

それから、退院までの10日間程は、酷い痰と咳、嚥下障害が続き、ほとんど食事も摂れず、薬も上手く飲み込めず、点滴の栄養で体力をつなぐ状態が続きました。

しかし、激しい痰や咳、嚥下障害の苦痛の改善を訴えても、何故か医者も看護婦も病院側には治療をしようという動きが見られませんでした。コロナ肺炎を治せばそれで終わりという態度でした。

そして、退院二日前に、ようやく例の女医の名前を初めて知ることになりました。
ここまで、女医について、悪いことばかり書いて来ましたが、本当は感謝で一杯で、来るたびに「ありがとう」の言葉を心で発していました。両手を合わせ後ろ姿に感謝をしたこともありました。

そして、初めの臨死体験とせん妄状態から、意識も戻り、治療が続いた一週間程、回復が確実になると、私の精神に変化がやって来ていました。

看護婦が来て何か世話をしてくれると、私は必ず「ありがとう」と掠声で感謝の言葉を発するようになったのです。意識の回復以来、こんな殊勝な感謝の気持ちが発生していて、無意識に語尾には必ず「ありがとう」の言葉が続くのです。今思っても、自分の素直で自然な変化に驚き、後で妻に「私は、病気で善人に生まれ変わったよ。」と、半分の真顔で伝えた程の変心でした。
しかし、これを書いている今は90%元の自分に戻っていて、あの時の殊勝な自分は懐かしく尊い経験だったと感じています。

そして、今も時々、あの女医のことを思い出します。まだ若い30代前半を、死ぬと分かっている患者と毎日対面し死を看取り、これは思い過ごしかも知れませんが、死を免れた私のような患者には忌々しさを感じてしまう様子に、これからどんな成長が待っているのだろうか。覚悟して入った道だと思うが、心を正常にこれからも保ち続けていけるのだろうか。

★入院20日目

次のリハビリ病院に転院することになりました。
妻とのLINEも毎日しています。LINEを読み返すと入院の記憶が蘇ってきて、このブログを次々書くことができます。

しかし、約一カ月間ベットに寝たきりなので、一歩も歩けなくなってしまいました。
コロナのために発病後初めて顔を合わせる妻に車椅子に乗せられ、介護タクシーで逃げるように次の病院に向かいました。

現在、日本での病気の治療は、治療型病院(一般病院)と療養型病院(リハビリ)に分かれています。病状の回復で、私は、治療型の病院から、次の療養型病院(リハビリ)に移ることになりました。

ひどい嚥下障害と咳と痰で、食事が十分に摂れない症状は、前の病院では治療を忌避されたのですが、このまま栄養が摂れなければ私には命に関わる重大な症状になります。これを治療する病院がココになる。との自覚を感じました。

この療養型病院(リハビリ)では、患者をサポートする役割ごとに分担がありました。

⚫︎主に午前中、病状の確認に三、四人をお供に回診してくる「医局長」。
⚫︎実際の症状ごとに治療にあたる「担当医者」。
⚫︎毎日、患者の様子を確認し、体温と血圧を測り、腕の血管に針を刺し点滴をセットしたり、また、薬を届けに来て服薬を確認する「看護婦(士)」。また、妻との面会もセットしてくれます。
⚫︎患者の基本動作能力の回復や維持、自立した日常生活が送れるよう支援するリハビリテーション療法を行う「理学療法士」。
⚫︎歩けないので排尿排便はオムツの中にしてしまうので、汚れたお尻を綺麗に拭き取り、新しいオムツに変えてくれる3人チームの介護士。毎食ベットまで食事を運んでくれたり、寝たままの色々な不都合にもナースコールで呼ぶと来てくれる優しい便利屋さん。東南アジア系の外国人もいます。
⚫︎ベット周りを三日に一度掃除に来る「掃除係」、チリ箱も空にして行きます。
⚫︎三日に一度、お風呂(シャワー)をサポートしてくれる人。歩けないので洗体は困難な動作なのです。

などなど、勤務スケジュールで日々、時間ごとに、変わるがわる私のベットのやって来ます。1ヶ月で延べ20〜25人程の大勢になるのか、大掛かりの体制で、今度の病院では、全ての人が熱心で優れた医療看護の技術でサポートされました。

この歳になると人との交わりも少なくなり、日常は、妻との会話やショップ店員と言葉を交わす程度ですが、病を得た病院では、毎日、6〜10人程と会話を交わさなければならない雪崩のような負担になりました。別の世界に行ったような感覚でしたが、抗う暇もなく私はシステムに取り込まれてしまいました。しかしまだ対応できる、こんな若い自分がいたのだと逞しくも感じていました。

痰と酷い咳と掠れ声、そして嚥下障害は相変わらずで、ずっと点滴で体力を繋いでいました。
嚥下障害は、レントゲンの嚥下造影検査で、嚥下の時、喉仏が上下に滑らかに動かない事が分かり、回復には時間がかかるという診断でした。

嚥下障害を治す直接の薬剤は無いようで、痰切りや咳止めなどの対処薬と「嚥下訓練」で治さなければなりませんでした。

ここで重要なのは、未だ残っているコロナ肺炎のわずかな残り症状の改善と体力の回復です。
この治療には、「理学療法士」が担当になりました。

「理学療法士」は西洋医学の名称です。座る、立つ、歩くといった基本的動作能力の回復を図るために、一般にはマッサージや器具を使うなど運動療法や物理療法で治療をします。

私の担当は「理学療法士」の名称ですが、彼は、西洋医学の方法を従にして、東洋医学流の手の平で身体を触り、違和感のある部分を特定し「ここが凝ってます」と、指先で特定し、部分を揉みほぐす治療をしました。確かにその部分を触られると、肺全体が和らぐような感覚がしてきます。

私は、40代の頃、慢性気管支炎と言われました。肺は再生しない器官なので、これ以上悪くならない、又、肺炎になっても酷くならないように、日々、肺のトレーニングをして来ました。

それは、タオ(道教由来)の「存思」の方法です。
自分が、小さな細胞大の小人になって、身体のあらゆる場所を見て回る方法です。解剖図を思い浮かべながら、例えば、肺なら喉から気管支を通り、肺胞に入り、その表面様子と細胞の感触までも入り込んで観察する方法です。自分が小人ですから、私の感覚器官と同じ感受で、触る見る舐める嗅ぐなどが可能です。40年前から、就寝で床に入ってから15〜30分程、足の指先から、頭頂まで、身体の隅々まで、手塚治虫の体内冒険の漫画のように巡り、いわば詳細な体内地図を身体記憶にして来ました。

体内地図の記憶は、例えば、右の足の親指の付け根と意識すると、直ぐにその部分に意識を持ってゆく事が出来るようになりました。

例えば、肩こりの場合、その部分に意識を集中させ、地声の小さい声で振動を与え固有の周波数に合わせると、患部に熱を感じさらに狭い範囲に特定されます、吸い込んだ息をその部分に吹きつけ、さらにそこに手の平を当てると、患部がさらに熱を持ってきます。そこで、深く息を吸い、その患部に息の塊をしばらく停滞させ、ゆっくり息を吐くと、患部のしこりが溶けてゆくようになり、さらに息を吹きかけ、少し熱を冷ますようにします。すると、ぐっすり眠れて翌朝には、肩こりは解消されています。こんな風に、歯痛のような細菌性由来ではない身体の凝りや痛みは、この方法で解消ができます。

この方法は、中国、インド、チベット、日本など東洋医学に共通の「気」をコントロールする方法です。この東洋医学の方法は、西洋医学が優位の昨今、お話しするだけでオカルトっぽく言われあまりお話ししたくないのですが、次のことを考えてみてください。

私たちの「命」を考えてみてください。
西洋医学では、手術、抗生物質やステロイドなどの強力薬剤で治療ができても、患者が死ぬ事があります。これは病気が治っても患者は死んだ。という例で、つまり西洋医学も命の最終は、患者の体力や免疫力に頼っていて、手術や薬だけでは命を守れないということになります。

一方、東洋医学では、死(命)とは、身体を巡る「気」が失われることを言います。
そこで、東洋医学では、日頃の健康維持(気の充実)や病気(気の衰え)の予防に重点を置きます。
「気」には二種類あります。生まれた時に授けられる「元の気」と身体の外(環境)に溢れている「外の気」の二種類です。「元の気」は、幼少若年期壮年期の身体の成長と維持を助けますが、老年になると徐々に衰えて、失われると寿命が尽きるということになります。しかし老衰でそうなる前に、ほとんどの人は、外部からの細菌やウイルスの侵入、生活習慣の偏りにより、特定の内臓器官に気が巡らず侵され、それが原因で命を失い、寿命を全うすることが稀になっています。
この後者は疾病と呼ばれ、西洋医学が得意とするところであり、手術や薬剤が対応し治療します。前者は東洋医学が得意とするところで、西洋医学ではリハビリテーションがそれに近いのですが東洋医学のそれには及びません。

「気」を充実させ身体を丈夫にする方法は、インド、中国、チベットなど、東洋では古代からの知識の積み重ねがあり、詳しくは、当ブログを参照するか、Google検索をしてください。

私の場合、老年で「気」が衰えたところに、コロナウイルスが襲い、「コロナ肺炎」の疾病に罹り命が危険になり、西洋医学の最新の治療「ネーザルハイフロー」や薬剤の「ステロイド」大量投与により命を救われたのですが、治療型病院で回復が確認されると、療養型病院に移りその後のリハビリテーションを施されることになりました。

老年になると「元の気」が失われと言いましたが、その考えが西洋医学にはないので、この年(79歳)になると、西洋医学のリハビリテーション施術のみでは「気」の回復が困難になり、このまま衰えが回復せず、死ぬまで寝付いてしまいかねません。どうしても「元の気」を補うためには、「外の気」を取り入れることが必要になります。

「外の気」には、種類があります。男女の人間。動物、樹木、岩、川、大気などの自然物。太陽、月、星などの宇宙。があります。また「元の気」は、セックス、怒り、瞑想などで強化できます。
そして、それらの「気」はそのままでは荒いので、体内で浄化し全身に回さなければなりません。

先の「存思」の方法で、身体の体内地図を記憶して来ましたので、身体をくまなく巡る経脈(縦)絡脈(横)に「気」が流れる様子を、特別な訓練をしなくても把握できるようになっていて、尾骶骨から脊髄を通り頭頂に至る督脈(経脈)も通るようなり、頭頂に意識を置くとすぐに、全身に「気」が回るようにもなりました。

しかし酷い症状で、体力も気力も痛めつけられたためか、私は、ウイルス肺炎の患部に意識的に「気」を送ったり、全身に「気」を回すことが出来ないでいました。
しかし、私の担当の「理学療法士」は、手で身体を触り、ウイルス肺炎で凝っているその背中の箇所をここですね。と特定してくれました。私は、ベットに戻って、呼吸で「気」をその箇所に集中して送り、肩を捻って手の平を当て、ハンドパワーも送ることをしました。さらに、地声で様々な周波数の声をそこに当て、共振をする地声を特定し、同じ高さ(周波数)の地声を長く発して、そのポイントに「気」を止め強くするようにもしました。
そして、全身に「気」を回すことも出来るようになりました。
ベットに寝ながら、何度も「気」送る作業を続けました。三日目には、その部分の凝りが和らぎ、身体全体に気力と体力が戻って来ました。
毎日、担当の「理学療法士」による施術がありましたが、短期間に凝りが和らいでしまったことに驚き、どうしてと尋ねてきました。「存思」の小人で身体を巡る方法を話すと、素直に納得してくれてその反応に私も驚きました。

今日の西洋医学の医者は、患者の身体を触ることをしません。体温、血圧、血液、心電図、レントゲン、CTなどの検査データを眺めて診断し治療します。
一般に西洋医学の「理学療法士」によるリハビリの方法は、医師の診断を見て、主に洋式マッサージや運動、運動器具補助具、聴診器などを使い、座る、立つ、歩くといった基本的動作能力の回復を図りますが、私の担当の理学療法士は、先ず東洋医学流に手で身体を触り、患部や症状を特定し、そこの凝りをほぐす方法から始めました。そして次にその知見から適正な西洋医学流の療法を行っていました。そのため 私の話がすぐに理解できて、その方法も詳しく聞いて来たのです。

私の小人になる「存思」の方法を詳しくお話ししました。
それから彼の「理学療法士」としての話を聞きました。自分は、手の平で患者を触ってきて、何百人分もの身体の記録(記憶)を持っているが、言葉で記録できないので後輩や他者にそれを伝える事ができない。と、お話ししていました。
これは、「存思」の方法についても同じことで、時にこの話を始めると気まずい空気になる事があります。しかし、現実には西洋医学のリハビリテーションの考え方が、どんどん東洋医学に近づいていることに人はあまり気づいていないようなのです。物理学では、量子論という、もう東洋思想とは酷似の理論が実用に使われているのですが、まもなく西洋医学にもその流れやって来そうな気がしています。

西洋医学は医学論文のように言葉で伝え理解される科学の分野なのですが、最先端では、コンピューター言語という純粋に言葉の思考から生まれた「AI」があり、これまでの言葉ベースの科学情報を越えようとしているのを見ると、彼による手の平の記録(記憶)や私の「存思」の方法が、この「AI」によって言葉(情報)にされ、他者にその言葉(情報)で伝える事ができるようになるかも知れない。とも思うのです。

体力と気力が向上を始めました。いよいよ嚥下障害の改善です。
食事中は、誤嚥で肺炎を招かないように注意します。
嚥下障害を直接治療する薬は無く、咳止め、痰切り、血圧安定の対処療法の薬投与があるだけです。

理学療法士にも特段の方法はなく、担当医師からは運動療法を勧められました。

⚫︎ベットに寝た状態で、頭を起こし自分の臍を見る運動を3回3クール行うこと。
⚫︎ベットから、乗り降りをし、下半身に力をつけること。
⚫︎喉の前で、両手を合掌し強く押すと嚥下の部分に意識が行くこと。(東洋医学流)
です。
その全てを行うことにしました。中でも、強く合掌する方法は、喉の前に持ってゆくと、嚥下障害の部分に意識が向かい特定できます。その箇所に「気」を、私の「存思」の方法を試してみました。

3日程、全てを試すうちに、果実ゼリーの食事が、支障なく出来るようになりました。

すると、体力がついてきて、回復の好循環が始まる兆しをハッキリ掴む事ができました。
担当の医師は、早い回復に驚いていましたが、誤解を招くので「存思」の方法のことは黙っていました。
一週間程で、軟食になり、すり潰した食材を取れるようになりました。
しかし、薬は、真水では強くて、とろみ剤入りの水で服用を続けました。

さらに体力と気力をつけるためには、「元の気」だけでは足りないので、「外の気」を取り入れなければなりません。
早朝に廊下の先の窓辺で、朝日を浴びたり、呼吸法で頭頂、足の裏、全身の毛穴から、意識して、「気」を胸から下腹に集め浄化し、そこから「気」を全身に行き渡らせるようにしました。

そしてそれを続けていると、次の軽い軟食に進歩しました。

レントゲンの嚥下造影検査では、嚥下で喉仏が普通に上下していて、医者に驚かれました。

そして、さらに続けて転院15日後には、普通食になりました。

食事の充実と共に、気力体力が回復し、ほとんど歩けなかった歩行も、短い訓練で、廊下を歩行機(点滴棒)のサポートで歩けるようになました。さらに、自転車漕ぎの運動で足の筋肉をつけ、補助具なしで、まだ心許ないのですが、急速に歩行が回復してきました。

病院の廊下を一回りから始めてすぐに三周は簡単に出来るようになりました。
すれ違った看護婦が驚いていました。
理学療法士の彼も、こんなに急速回復の患者は初めて、と言ってくれました。

転院から20日、発病から40日め、待望の退院となりました。

今思うと、日頃から、慢性気管支炎の予防に、日々の訓練に「存思」の方法を用い、それが深呼吸を繰り返すことにつながり肺を強くしていたこと。それが今回のコロナ肺炎の致死を食い止め、回復には、その「存思」の方法を試したことで、医師も看護婦も理学療法士もが驚く結果をもたらしたのだと思います。

まだまだ、同室の患者で、せん妄で一日中喚く者、日に日に言葉が弱々しくなって行く患者のお話。また、毎日の点滴注射で私の両腕が荒れてしまい、点滴針が刺せなくなって困った看護婦のお話、などもしたかったですが…。

退院のタクシーでは、見慣れた街の景色が新しいもののように感じられていました。

★コロナ後遺症

家での療養が始まりました。妻の食事に安堵しました。
杖をついて散歩の歩行訓練を始めました。

しかし、退院10日後(発病2ヶ月後)の病院の薬が切れた段階で、いわゆるコロナ後遺症の症状が現れてきました。
睡眠障害、うつ症状、時々頭痛、味覚障害、記憶障害、そして軽い咳、痰などの症状が、変わるがわる現れました。
病院に行くほど辛くはないのですが、日々これらの複合症状でよく眠れず、鬱陶しく、気が滅入ってきます。
記憶障害は、老人痴呆につながるので注意します。
散歩に出る気力も失せて、運動不足で歩行の衰えがなかなか治りません。回復期の鬱も加わっているのかも知れません。

退院から4ヶ月(120日め)の現在、コロナ後遺症の症状は、時々出て来ますが、体調は元の8割方回復しましたが(79歳の年なりの体調ですが)、まだ歩行の衰えは元のようにはまだ回復していません。
どうも若い頃のように、運動すれば回復するということでもなさそうです。

そしてついに、今回のコロナ肺炎の罹患により、身体は、死を迎えるまで老年の危うい健康で過ごさなければならなくなった。と覚悟させられたようです。

★まとめ

以上が、私のコロナ肺炎闘病記です。
全世界で語られる政治経済的コロナとは全く別問題の、大きな違いをここに感じています。
個々人に降りかかるコロナ疾病が、全体でまとまると、個人が登場しない、大きな国際政治経済問題に成長してゆく感覚が、コロナ肺炎で命を落としかけた私にはどうも理解が難しいのです。

そしてここで、このブログをなぜ書こうと思ったかをお話ししておかなければなりません。

私は、35年前に大病をして、1ヶ月の入院を続けて2度も経験しました。
そして、その当時体験したの病気治療とリハビリの状況が、今と大きく違っていたことをお話ししたかったからです。

当時は、CT、MRIもステロイドも有効な抗生物質もありませんでした。
今回の「ネーザルハイフロー」もありませんでしたので、当時、同じ肺炎なら死んでいたと思います。

さらに私は、4年前に初期の前立線癌と診断されていて、治療に、前立腺にシャープペンシルの芯大の放射性物質を90本埋め込む「小線源治療」を受けています。そして今は、3ヶ月毎に経過観察の通院をしている状態です。
しかし、コロナ肺炎、コロナ後遺症、そして前立腺癌の三つの病気、さらに老齢が加わる満身創痍ながら、今は健康を戻し、順調に年相応に生活している状態です。。

これらの疾病から命を救われたのは、35年前には無かった治療型病院での西洋医学の最新治療でした。それに劣らず、療養型病院でのマンパワー中心のリハビリシステムと技術の進歩に救われました。これら全ての過程で、医師、看護婦、介護士の方々の延べ30人近くの丁寧な手で、毎日支えられ、私は命を長らえることができたのです。感謝の気持でいっぱいです。

そして、私の一番の関心事は、30〜40年後この進歩は、さらにどう成長しているのだろうか?、なのです。

今回の病気治療とリハビリの状況が、私が経験した35年前とはあまりにも違いすぎていて、これから35年後、これがどうなっているのか、私の寿命は尽きていますので、私に代わりこのブログの記述とを比較をしてみて欲しいと思うのです。

このブログは、私的な病気治療、リハビリの生な情報を、細かく記述しただけなのですが、意識はしなくても、2023年現在の社会状況(経済、政治、国力)や生活状況(例えばリアルタイムiPhone中継など)、そして、人々の病気の考え方、などが色濃く反映されているように思います。
今私が、昔を感じているように、35年後の未来では過去からの変化がどのようになっているのか、それを比較をしてみて欲しいのです。35年後には年を重ね私と同じ80歳近くの人も多いと思います。その時老人はどう思うのか、今の私は是非に知りたいと思っているのです。

転生というものがあって、生まれ変わって確認できればいいのですが、この転生も今日の日本では、会話のジョークの一つに成り下がっているようで、感覚的に瞬時に伝わることを常に願っている私ですが、しかし言葉とは、読み終えるのを待たないと情報を伝えることができない厄介なツールなので、ご迷惑をおかけしますが、AIが早く進歩してくれるといいのですが、ここまでお読みいただければ幸いです。