My One And Only Love
65歳から始めて4年、少しは進歩したと思っていたが、まだまだでした。
My One And Only Love
65歳から始めて4年、少しは進歩したと思っていたが、まだまだでした。
クロマチックハーモニカのグループレッスン教室に通い始めて3年が過ぎた。
教室の生徒数は多いときで13人、少ないときで6人、初心者から上級者まで混合している。
レッスンの前に先生が2曲演奏、これを聴くだけでもレッスン料の元がとれる。
先生の演奏は技術はもちろん他の奏者とまったく異次元の繊細な音色が素晴らしい。
その後は各人1曲ずつ好きな曲を吹いて先生の講評があり、それが二周りして終わり。
このやり方だと教室以外で自分で真面目に練習しなければ上達しない。
私の場合、演奏上の疑問点があれば、曲を吹かずにその時間を質問にあてるようにしている。
初心者のハーモニカメンテナンスや簡単な調整は教室が始まる前に先生にお願いできるし、またそれを見ることで
自分でも出来るようになったのはとても有難かった。(メンテナンスのDVDも購入しました)
上達するには個人レッスンの方が効果的と思うが、その場所は大阪市の東部にあり、神戸の自宅からは大阪駅まで出て
地下鉄に乗換えて合計90分強の道のり。
70歳に近づいた身には辛い、また大阪に出掛ける楽しみの一つだった40年前からの馴染みの居酒屋、新梅田食堂街の
「弥助」も店代わりしてしまったのでわざわざ大阪へ行く気力がなくなった。
この店は私が東京から大阪に転勤してきた20代後半、新梅田食堂街の一階と二階の目ぼしい店を一軒ずつ試した結果
これだと選んだ店で、まわりの店より少し値段が高かったけど料理と酒が旨く客層もよかった。隣席の70代のおじさんと
作家の高橋治について話したこともあった。(当時の私は30歳前)
あ!いかん。
クロマチックハーモニカの話が、居酒屋の思い出になってしまった。
本日はこれまで。
Toots Thielemans & Salvatore Adamo - La Vie Comme Elle Passe [1995]
何年振りか、久々の書き込みです。
今回はとりあえず、ベルギー繋がりの二人で大好きな曲を紹介。
アルジェリアで人質事件が起こって思い出したこと…
昭和40年代後半から50年代、私の同級生と会社の同僚がアルジェリアで自動車事故で亡くなっている。
その頃も日本企業のアルジェリアに進出が盛んで、現地通訳募集の案内が新聞求人欄に頻繁に出ていた。
大卒初任給が5万円から7万円、石油ショック後でも10万円の時代にアルジェリアに行けば30万以上稼げた。
同級生は卒業後直ぐアルジェリアに行き、亡くなったのは22歳。同僚も25歳ぐらいだったと思う。
現地人の運転がメチャクチャで、スピードオーバー、飲酒運転が日常茶飯事だったらしい。日本も当時は飲酒運転に甘かった。
二人の男、生きていたらどんな人生を歩んだろうか。
二人は共に坊主頭だった、学生時代の坊主頭は珍しくないが、若い社会人の坊主頭は当時はとても珍しかった。
今、その坊主頭を思い浮かべる私は既に還暦を超えてしまった。
野バラ咲く路
前に投稿した記事ですが、映像がYouTube から削除されてしまっていたので、再びアップしました。
昔好きだった曲をYouTubeで拾っております。
市川染五郎(現九代目松本幸四郎)が1964年に半年間だけ「染五郎とともに」というTV番組をやってました。アシスタントが いしだあゆみ 。当時16,7才かな、眼がくぼむ前、少々腫れぼったいマブタの可愛い少女でした。
幸四郎さん、後年ミュージカルでの活躍の萌芽がすでに表れていますネ。
昨日の続きで、古い神戸の写真をもう一枚。
メリケン波止場に連れて行ってもらった事は憶えているけど、この写真は中突堤かも。
神戸見学の翌日は、西宮の香櫨園海水浴場へ行ったなあ。
阪神の駅から歩いて松林を通り抜け、海辺までは結構な距離だった。
大勢の人々で溢れかえっていたこの海水浴場は、この時すでに真っ黒な汚い海だったが、汚染が進んで数年後に閉鎖されることになったらしい。
高度成長期は工業地帯の河川や海だけではなく、町中を流れる下水や川の汚染も酷かった。
今の人は理解出来るかな。
最近、人口減のマイナスばかり問題になっているけど、人口が減れば自給自足が可能になるかもしれないし、海もキレイになり魚も戻って食料問題も解決だ~っとはいかないか!
なんやかやとありまして、まだ神戸で生活しております。
まあこの時期に中国に行けなかったのは良かったのか悪かったのか、何とも言えません。
そんな生活のなか、急に昔の写真などを整理したいと思うようになり、親元に大量にあったネガフィルムを探してみる事に。ところが残念!母親が処分してしまったと言うではないか。
そんな中、僅かに残ったネガフィルムを神戸に持ち帰り、ネットで手に入れた安物のフィルムスキャナで取り込んでみました。
約50年前の神戸ポートタワーの写真です。
田舎の中学1年生が夏休みを利用して大阪、神戸に遊びに来た時に撮ったものですが、創立まもないポートタワーです。
ネット上で探してもポートタワーの古い画像は見つからないので、結構貴重品かも。
親父が残した写真には鳥島、南鳥島の様子など面白い写真が沢山あったので、どこかに残ってないか今度また探してみることにしよう。
ブログデザインをひょんな切っ掛けで twitter 仕様にしてしまってから、更新の意欲がフニャフニャと消えて既に半年経過。
これではイカン!何とかせねば!
元のデザインに戻し、復活を心に誓うのでゴザリマス。
1970年頃から澁澤龍彦の作品を読み漁るようになり、それに連れて氏の周辺の人々の作品も読むようになりました。
その中の一人、種村季弘。
『ナンセンス詩人の肖像 』竹内書店 1969、『吸血鬼幻想』 薔薇十字社 1970 、『薔薇十字の魔法』 薔薇十字社 1972 等々。
種村さんが初めて上梓した『怪物のユートピア 種村季弘評論集』 三一書房 1968、当時すでに一般書店には無く、神田の古本屋(田村書店)で手に入れました。
田村書店といえば、当時、店の若主人が本の扱いの悪い客に容赦なく雷を落としていました。私がいつもチェックするシュルレアリスム関連本がある場所は、不運にも彼が鎮座まします帳場のスグ前、本を探す間もずっと監視されているようで、いつも緊張しましたよホント。(余計なことですが、いつでもリラックスできたのは、今はなき東京泰文社)
下:種村氏の最初の本、石堂淑朗との交流を書いたところが一番好きです。
上:彼が生前自ら編んだ最後のエッセイ集『雨の日はソファで散歩』。死を覚悟した上で、淡々といろんな想い出を語っています。
そのなかに2ページですが、享年64歳、俳名風々(ふうふう、foufou)こと竹口義之氏について書かれた文章があり、文末にその一句を紹介しています。
一生を四の五の言わずところてん
風々さんは種村氏の友人、本業は挿絵画家で「怪物のユートピア」の挿画装丁をしてくれた人です。
新年初のブログ更新だが、新年の抱負や祝いの言葉は他の方々に任せて、ワタクシは一つ気になる事を。
これは中国で手に入れた自然の石を磨いただけの作品、石の模様が絵のようになっています。
買った時は特に気付きませんでした。
しかし昨年の天変地異を経験した今、上の作品は東日本大震災の津波、下の作品は富士山の噴火を暗示しているかのようです。
富士山の噴火については、外国の地震学者は本気で心配していると、青山繁晴氏が大阪ローカルのTV番組で、昨年12月にサンフランシスコで開かれたAGU(American Geophysical Union)の様子をレポートしていました。
彼等の心配するのは、1:東日本大震災の再来(スマトラを例に、再来するのが常識)、2:東海、東南海、南海地震、3:首都直下型地震、4:富士山噴火 。
特に1と4を注目しているらしい。
私たちの周囲で心配している人は少ない、また心配したくない心理も働く。
当事者よりも外からの方がよく見えるのだろう。
「備えあれば憂いなし」とは言い切れないが、イザという場合の心づもりだけでもしておこう。
痛みから二日目、結石らしきものがポロッと出ました。
ただ今、石の「鑑定中」んー違う違う、成分分析中。
来週には結果がでます。
現在は痛みもなく普通の生活に戻っております。
忘年会出席には支障ござりませぬ。
以上、ご報告まで。
3年前に結石で救急車のお世話になったことがありました。
昨夜21時頃、急に腹部に違和感。
なんだなんだと思う間に徐々に腹部、腰部が痛み始め、これは3年前と良く似た症状。
夜中の12時前、これ以上痛くなると動けなくなるゾ、また救急車を呼ぶのは恥ずかしい。
前回、家から歩いて5分の救急指定病院に電話で受診をお願いして断られた経験があるので、今回は動けるうちと、痛みをこらえながらその病院に直接行ってみたのですヨ。
結果、クソッ!今回もまた受診拒否です。予め電話した方が、まだ診てくれる可能性があるみたい。
痛みをこらえていったん帰宅、前回救急車で運ばれた病院に電話しました。
受付の対応が親切!先生に取り次いでくれた結果、診てもらえるとのこと。神戸日赤病院、良い病院です。
痛~い、痛~いをこらえて車を運転して病院へ辿り着いたのが1時、この時間病院の駐車場は閉鎖されてます。
受付で許可を得て、構内に駐車。
診療中はなんとか我慢しましたが、検査結果を待つ間に痛みが激しくなり痛み止めを処方してもらう。
薬の効きめはスバラシイ、痛みは徐々に収束。
自宅に居たままこの痛みとなれば、また救急車のお世話になるところでした。(前回、救急車にピーポビーポの音を出さずに来てくれと頼んだが、それは出来ませんと断られた。夜中に近所迷惑はワタクシの本意ではない)
診察結果は多分尿路結石であろうとのこと、詳しくは日を改めてということで当面の薬を貰い、人影のない深夜の道路を寂しくドライブして3時前に帰宅、安らかな眠りについたのではありました。
R甲Is.病院! 電話でもダメ、直接行ってもダメ、救急車からお願いしてもダメ、どうやったら診てくれるんだエー!
速やかに救急指定を辞退せよ!
V�ronique Sanson besoin de personne
70年代前半、この曲が気に入りLPを購入しました。
~彼女は神戸に半年も滞在していた~
彼女の父親が1970年大阪万博フランス館の責任者だった縁で、彼女も来日したことがあるという話は聞いたことがありました。まあ父親を訪ねて日本にやってきて万博見学をしたんだろうな、ぐらいに思っていたのです。
ところが「カストール爺の生活と意見」というブログを読むと、彼女の父親はフランス館の準備の為に1968年から来日し、住んでいたのは神戸市垂水区、そこにヴェロニクも7ヶ月間同居したことがあるという。
当時のことは殆ど忘れてしまっているらしいが(スティーヴン・スティルスとの結婚離婚、私生活でいろいろあったからね~)日本語も勉強したらしい。
垂水区のどこに住んで、どんな生活をし、どこで日本語を勉強したのでしょうか。興味津々です。
当時のことを知っている人はいませんかねえ。
空にがあるように - 荒木一郎
1966年、ワタクシの高校時代のヒット曲。
当時、親父が彼をテレビで見た後にポツリと一言、「加山よりこっちの方が上品だなぁ」。
この曲は加山雄三の「君といつまでも」の一年後に発表されましたが、ワタクシの周囲では荒木一郎の方が人気がありました。
なんとなく、洗練されてお洒落な雰囲気があったのデス。
この数年後に事件を引き起こし、芸能界の第一線から消えたのは残念です。
後年、彼を正統派不良として擁護する、森茉莉の文章を読みました。
夕方の散歩、我家から海辺まで1,500歩。
そこには釣り人が数人、他に散歩する人やジョギングをする人、全部で10人程度。(ウィークデイはこんなもの)
西の空は茜色に染まり、東に眼を移せば暮れなずむ大阪の街の上すれすれに満月が出ています。
南の空には関西空港に発着する飛行機が見えます。
遠くを見ていると、日々の生活を忘れますなぁ~。
ここで人生について考える! なんてことはしませんヨ。
お腹が空いたので帰ります。
日本酒、ビール、イカ、おでんを帰路のスーパーで買込み、家でぐだぐだ飲みました。