きりうゆかりの難民部屋

ボツ原稿、発表のあてのない原稿、出だししか書いてない小説などをアップしています。

玉に瑕

2010-06-29 17:18:26 | Weblog
(この文章は5月のmixiに書いたものです)

 短歌結社で同輩のY口さんは十代のころはストーカーが出たとゆうほどの美女(今でも。孫いるけど)であり、教養とユーモアに溢れた麗婦人であり、歌会では常に高得点を獲得し、あまつさえそれだけ社会的にも知的にも恵まれておるにもかかわらず私の本の読者でもあるという怪体(けたい)なかたでもあり、要するにたいへんな天稟をお持ちなのだが、完璧な人間はいないの例え、男の趣味がとんでもなく悪い。
 現実に彼女が相手にした男性はどうだか知らんが、なんと、太宰治とマイケル・ジャクソンが大好きだと聞いたときのわたくしの反応は、「ぐえっ」という蛙を踏みつぶしたごとき音声を発することであった。
 そりではおまえは作家なら誰が好きなのか、と問われると、「夢の恋人」というくらい好きな作家様はいない、というのは嘘であって何人かいるのだが、そのうちの半分くらいがご存命であり、もう半分も没後あまり時間がたってないので、なんか恥ずかしくて言えないのである。これは個人的にメッセージをいただいて問い合わせてもらっても全部は明かせないというくらい恥ずかしいのである。いったい誰と誰なのか各人で想像をたくましくしていただきたい。
 じゃあミュージシャンならどうか、とゆうと、平凡だがタイプ的にはブルース・スプリングスティーンが好きだ。聴くんだったら、スプリングスティーンが鼻かんで丸めて捨てそうな、装飾過多のごてごてのプログレ一本槍なのだが、「闇に吠える街」の貧相なチンピラまるだしのジャケットを見たとき「なんて素敵なおかた」と思ってしまったのでしょうがないのだ。プログレはありていに言って聴くものであって、そのビジュアルをギャグとして鑑賞しない限り見るものではない(いや、見られるものなら見たくはあるが)。
 しかし、Y口さんとの会話でびっくりしたのはそういうことではない。今日、歌会の二次会でマイケル・ジャクソンの話になり、化学の検査をする会社に勤めていたこともある理系のY口さんは、彼のかかっていたのがどれだけ深刻な病気で、その苦痛はいかばかりであったかをめんめんと話してくれた。それはいい。
 それはいいのだが、彼女はなんと、マイケル・ジャクソンのことを、ホモでもペドでもないと怒りをこめて断言したのである!
 それって、「月は地球の周りを回っていない」って言われたくらい信じられないんですけど!
 いやまあ、「おまえ見たのか」と言われりゃあ、見てはいないんだけど。

みすずかる(信濃の枕詞であります)・・・・・

2010-06-24 17:14:01 | Weblog
(この文章は5月のmixiに書いたものです)

諏訪の御柱で死人が出たことについて、どいつもこいつも「こんな危険な祭はやめてしまへ」みたいなことをゆうておるが、あれは「御柱の先頭にまたがったやつは死ぬのがデフォルト」な祭なんだよ!!「ひかれて死んだらそいつは幸福」なジャガーノートの日本版なんだよ!!普段おとなしい(男は本当におとなしい。長野の女は、「気が強い」などという萌えな文脈ではなく、土佐の女の強さとも違う、リーダーシップ的な意味で可愛げまったくなく強い。全員市川房江だとゆえばおわかりになるだろうか)長野の男が、インテリがやけくそでかくオナニーのように血管をぶち切れさせる唯一といっていい機会なんだよ!!御柱がなかったら長野の男はただの動き回る精子の袋で、しかも風俗店なんぞ進出してきたらきゃあと行って逃げちまうんだよ!!長野の男の精子のヒモは奥さんががっちり握ってんだよ!!
 ハダカ馬ならぬハダカ柱にまたがるくらいさせてやったっていいじゃねえか。

じゅえる星人(なんのこっちゃ)

2010-06-17 23:30:11 | Weblog
(この文章は5月のmixiに書いたものです)

 野間美由紀の昔の漫画「ジュエリー・コネクション」のシリーズを集めている。「あら全巻持ってるわよあげましょうか」という人がいてくださったりするとこれは痛し痒しである。なぜなら、例によってブクオフで集めとるので巻数は飛び飛びだし、ところどころは文庫版という統一性のなさである。
 野間美由紀はご存知のかたもおられよーが日本女性漫画界のデイム・クレイグ・レンデル・クリスティーと呼ばれるおかたで(今勝手に命名した)、要するに推理漫画の名手である。「パズルゲームはいすくーる」は知ってる人も多いであろう。んでもって、少女漫画のはずの「パズルゲームはいすくーる」の世界とゆうのが、舞台は高校であるのに純情可憐どこふく風、主人公カップルは入学してきたときはもう出来上がっていてやりまくりだし、二人が大人になってからのエピソードになってくると、「こらその手はどこをまさぐっとんじゃ」の、対象年齢を無視、ではなく、大いに考えたくんづほぐれつが大々的に展開されたりして、だいぶ中高少女の脳内精液を抜いたことであろう。
 でもって同じ作者の「ジュエリー・コネクション」は、設定がほとんど変わらんちんであり、宝石会社の男女のカップルが宝石がらみの事件を解決するとゆー筋である。まんまである。違うのは、レディコミなので体位にバックが加わったくらいのことである。座位やほかけ船や仏壇返しはまだ試みていないようである。
 なんでこのシリーズに魅せられたかとゆうと、有体に言って宝石が好きだからである。宝石つうても、H郷さんみたいな目利きでないし知識もないので、路上で380円で売られてるようなのを自分では宝石のつもりでこうているのであるが、「コメ兵」だのでディスプレイされてるのよりよほど綺麗に見えるからいっこうにかまわないのだ。んでも、さまざまな宝石の名前や組成が作中に出てくるのはたいへんにたのしい。
 にしても、貴石とそうでないものを画然する基準とは何なのだろうか。私はここで、「どっちみち石ころじゃねえかよ」のたぐいの乱暴な論理を展開するつもりはない。見る人が見れば片方には天界の音楽が流れ、片方からは「いいんですどうせ1000円なんですからあっ250円におまけしときます」なんぞとゆうじゃかましい呼び込みの声が聞こえてくるのであろうが、これくらいいくら本を読んでも身分の違いのよくわからんジャンルもない。「ほんだばよーどっぱのレザール・ノワール伯爵夫人のお屋敷にご招待して本物を山ほど見せたげるわよ」とゆう危篤もとい奇特なかたがおられたとしても、たぶん私は「やっぱあたしの持ってる中野で買った1000円のがいい」とか言いそうな気がする。ま、見てないので何ともゆえんが。
 あ~~~~~、平日、大フンパツして5000円ばかし浅草橋で350えんの安ジュエリーを買い漁りたい。

悪の女幹部に年をきくものじゃなくてよ!(@ANALマン)

2010-06-15 17:51:28 | Weblog
 ながいことほったらかしですまん。このブログは「ぐう」を利用しているため、「ぐう」の使い勝手が激悪くなってからは覗くことすらままならなかったのである。では、今どこでこれを打ってるかとゆうと、でーてーぴーの学校のぱそを勝手に使って打ってるのである(笑)。

 久しぶりの日記だが5月のmixiに書いたものです。

 ま~~~た声楽、つうより、オノレで勝手にレコード(古っ)に合わせて、楽譜を入手する手間もかけんと歌ってるだけのことの話題かよ、と思うであろう。ところがその通りなのだ。だって書くことがねえんだもん。

 声楽の先生は、初対面のとき私が「『トスカ』を歌いたいです」と言ったら、悪の女幹部のような嘲笑の高笑いをなさりながらソファごとひっくりかえった。きっと笑ってくれるだろうと思っていたから私も嬉しかった。

 でもって、マイミク関係者は案外しらん人が多かったりするので、http://www.youtube.com/watch?v=W0fXvyuiWvs まあこんなもんである。右に羅列してある他の人たちのも聴いてみて。正式な題名は「歌に生き、恋に生き」であるが、表題曲ではなく、オペラの曲名つーのは歌いだしの最初の数行が即題名であって、これではコードの名前によって「Cの二日酔い」(二日酔いの日に作ったから)だの「皆野町のE」(初演の場所)だのまるで内容がイメージできない題をてきとうにつけてるジャズのかたがたと一緒である。おまけに、「歌に生き恋に生き」つうのは誤訳であって、原語の「あむーる」はちちくりあうほうのあむーるではなく、神への愛である。案外しらん人が多かったりするのでゆうと、こりは恋人の命をカタに、悪代官にテーソーを差し出すよう迫られたヒロインが、「神を愛し歌を愛し貧しい人にはホドコシをしてやりこんなに信心深くて親切で否の打ち所のないあたしをどうして神様はこんな目にあわせるのよ」という内容の歌である。ほんまにその通りだからしょうがないが私が言うと誰も信用してくんないのはなぜだ。

 で、こないだ某マイミク様から「さすが声楽やってる人はちがふ」などとおだてられたのでいい気になって、「もうそろそろ『トスカ』いけるんじゃない、あたくし?ほほほほほのほ」とまあ、そのなんだそういうことである。

 とりあえず、例によって1番は2番の繰り返し、とゆう日本音楽の常識のまったく通用しない曲構成に四苦八苦しておる。「作曲者は音符ひとつひとつが言葉なのよ」という、まるで「のだめ」の世界のような先生の言葉を理解できない、つうか、「作曲者は自己表現せんでええですから」という脳味噌でいるので当然のことながら最初の一行からまるで進まないのである。私は、音符に託した作曲家の心をいつか理解するかもしれないが、そのときにも、「言いたいことあるんだったら字で書けよ」と思ってることであろう。

ひるめしのもんだい

2010-05-13 21:16:48 | Weblog
 ヒト(他人)の作っためしをくう、というのがおののくような喜びである、というのは、普段メシ当番である者の特権なのだろうか、それともただくうだけの奴でもそうなんだろうか。とりあえず、旅館などに泊まったとき主婦がいちばん嬉しいのは、ヒトがめしを作ってくれて片付けまで全部してくれるそのことだと思う。てんぷらが氷点下までに冷めていよーがイカ刺しが噛み切れなかろうが問題じゃないくらいうれしいことなのだ。
 ところで、うちはときどき出前を取る。言っとくがあたしがずぼらを決め込みたいのではなく、ダンナが「今日は出前にしようか」と言うのである。そのときの心のトキメキをわかっていただけるだろうか。出前って、なんでこんなに嬉しいんだろう。
 しかし問題が一つあって、うちの近所つーもんは、まあまあ納得できる味と値段のバランスのとれた、出前をしてくれる店が2件しかないのね。歌舞伎町が近いからいろいろチラシはたまるけど、たいていは高くて遅くてマズい。あと、外国人のワルクチを言うてはならんと思いつつ、中華料理屋の中国人女性の電話応対は殴りつけるような口調で、「待たせてどーもすみません」なニュアンスがまったくない。下手に出られることに慣れきった日本人だからこその感想かもしれんが、「二度と注文するかチ×××ロ」なんて気分になるのも事実である。
 つーわけで、うちの場合出前取るのに、ラーメン屋とソバ屋が一軒ずつしかねえわけなのだよ。今んとこそれで不自由はないが、どちらかの店主が脳溢血でも起こして閉店してしまったら一軒しか残らないことになる。たいへん困る。このへんの事情はマンション全体で共通してるらしく、出入り口に置いてある使用済みの食器はこの2軒の物ばかりである。いっぺんドミノピザを頼んだことがあるが、胃を四分の三取ってもスパゲティは2杯くうダンナと、4杯は軽くいけるあたくしとゆうイタリア胃袋の持ち主にとってありゃなんとも値段のわりに食いでのない代物ですなあ。二人でラージサイズを10分で平らげ、まだなんもくった気がせんのでしょうがなくラーメンをゆでた。

わんだらず

2010-05-10 18:13:15 | Weblog
(この日記は2月のmixiに書いたものです)

 うちの近所は迷子が多い。
 つーても人買いからやっとのことで脱走してきた幼児が新聞紙にくるまって彷徨しとるとゆーわけではない。大人の迷子である。
 厚生年金会館のコンサートに行くやつ、区役所通りのライブハウスに行くやつ、大久保駅前の犬鍋屋に行くやつ、果ては紀伊国屋書店に行くやつまで迷いまくっては角のコンビニ(あまりにも家庭的な雰囲気なので奥から従業員のガキが走り出して来たりしとる)で道を訊いているのだがそのどれもこれもがものの見事にあさっての方角なのである。
 いや私だって、見知らぬ場所で東西南北を聞かれて即座に答えられるほど「地図の読める女」ではないが、それにしても明治通り区役所通り職安通りは魔のラビリンスであるらしい。だいたいの人間がここで、靖国通りに行く方角を間違える。
 今日、携帯で道を訊きながら怒鳴りまくりながら花束とケーキの箱を抱えて歩いている女の後をつけた。なんでかとゆうと、その迷いっぷりが面白くてたまらんかったからである。
 女は叫んでいた。「東新宿で降りて大通りを右に行けばコンビニがあるからその隣だって言ってたじゃん!」
 私は思う。そもそも、人に道を教えるとき、駅には出口がいくつもあること、大通り同士が交差していることもあること、「コンビニ」という言葉だけで説明が済んだと思ってるあほうが世の中にはいかに多いかとゆうことを。
 彼女は携帯に向かってどなりまくり、ちょっと立ち止まって駅に戻って考え直すとかすりゃあいいのに、「コンビニからいくら歩いてもさっぱり見えないよ、そんな店!」と叫んでいる。あたりまえだ、うちの最寄り駅のそばにはコンビニが10軒はある。話を聞いてたら彼女が目指すべき方角は、区役所通りのローソンの方なのだが、どうも職安通りのセブンイレブンを基準点にしたらしく、90度違う方角に歩いているのねんこれが。あんなにもいきり立っていなかったらもしもしと肩を叩いて道を教えてさしあげたかったのだが、彼女はすでに、目的地に着くよりも、電話の相手に向かって怒鳴ることに陶酔してしまっていて口をはさめる雰囲気ではなかったのだ。
 しかしまあこの彼女のケースはまだいいほうだろう。なんとなればこの世には、何年間も使ってる駅に改札が複数あることすら知らずに、「改札前での待ち合わせ」を指定してくるおそるべき人間たちがあまたおるのだから、と、ひと月に一回は、信じがたい方向感覚の末、闇に飲まれた人々を厚生年金会館へと導くわたくしは思ったりしち。

猫のほしいもの

2010-05-07 09:46:47 | Weblog
(この文章は2月のmixiに書いたものです)

 最近私は、カテー内暴力とか、ちょっとサバイバーナイフなんぞをころがして通行人をつんつんしちゃうお人のことを「ピート」と呼んでいる。「ニート」と似ていなくもないし、実態もけっこう似てるかもしれない。
 なんでそう呼ぶかとゆえば、全世界に10億人はいる(んなわけねえか。六人に一人の割だ)「夏への扉」ファンが激怒するであろうが、親もいやなら学校もいや、社会もいやで自分がいちばんいや、という心理状態は、「晴れたお外をちょうだい」と言っている猫に似ているからだ。知ってる人には失礼だがいちおういっとくとピートつうのは、冬のさ中だっつーのにどっかのドアが夏に通じてると思って探しまくるバカ猫の名前ね。
 萩尾望都先生だったか竹宮恵子だったか(この両者についてそれぞれ証言があるので確言できず)、飼猫様が雨の日に「晴れたお外をくれないなんてひどい!」といかりまくるエピソードを描いてらっさるそうである。わはは猫は確かにそーゆーことするよな、町田康のエッセイでも、雨をやませてくれない猫様に町田氏がバカにされまくる描写が出てきてはらを抱えるのである。
 しかし人間のガキも似たようなもんで、親とゆえども人間であり(あたりまえだ)、世界そのものを変える力はないとゆうことを、なかなかに納得しないんである。自慢じゃないがあたくしなんぞ半世紀近く生きてきていまだに納得しきれず、フトンの中で脳味噌が沸騰して思わずトイレ掃除を始めてなおかつ途中で放り出したりする始末である。
 「そんなんじゃ世の中渡って行けないぞ」と誰かから言われるたんびに、「じゃあどうしてそんな世の中を私に与えたのだ。その責務は与えた側にある」というのは私の精神の脊柱であるし、よく読まないとわからんかもしれんが、私の書いてきたお話の中心テーマである。
 弘法大師じゃあるまいし、「晴れたお外」を提供できない飼い主(親)は、猫(ガキ)が世をはかなんで首をつる真似などしてこいたりしたとき、「それがどれだけ愛する者たちを傷つけるか」と言って止める資格があるのか? 私は、資格はないけど権利はまあいちおう言論の自由であるからあると思う。けれど貴方がたには「晴れたお外」を用意する力はない。「簡単計(さしさわりがあるので字を変えてあります)」を書いて早世したとある作家は、子供がありながら、「親には子供の自殺を止める権利はない」と言っていた。ちなみにこのおっさんはあたいに愛人契約を申し込んできたことがある。どういう趣味だ。

へあだいはあど

2010-05-03 21:37:54 | Weblog
(この文章は2月のmixiに書いたものです)

 心身症とゆうのはココロのやまいが体に出ることだが(あにをあたりまえなことを解説しておるか)、わたくしのばやい、何があろうとはらはへるしクソは出るし(汚くてすまん)、イボ痔は小康状態だし爪はまあでこぼこだがとりあえずまっすぐ生えてるしダルくて節々が痛くて寝起きが悪くて邪悪なことばかり考えるのは生まれつきだし、何があろうとこれといった身体症状はないのだが、唯一顕著なのが白髪である。
 私の髪は細くて薄い。こういうのはおおむね白髪化するのは遅いと思っておったのだが、はっと気がつけば晩年の花森安治である、て、わかる人にすらわからんたとえを出してどーする。
 つーわけで(どーゆーわけだ)、本日ついに! 初めて! 「美容院でヘアダイ」(何がヘアダイだ白髪染めとゆえ白髪染めと)を体験してきちゃったのである。
 私は、およそ美容に関心のない人間だが、それでも、引っ越した直後に近所の美容院をチェックするくらいのことはする。私にとって大いにさいわいなことに、この辺りにはガラス張りの「へあさろん」などとゆーくそこじゃれたもんはなく、下手すると七輪とやきごてが出てくんじゃないかっつーよーな、看板のモデルさんがどう最近に見積もっても「ザ・ガードマン」なころの美意識の、貼ってある写真が「よく出てたなあこんな感じの人『怪奇大作戦』に」な雰囲気の、要するに洒落てないにも程があるな美容院ばかりなのである。
 横着なのでいちばん近い、歩いて3分の「S美容室」に行く。ここのママさん(でいいのか??)は三代前からの美容師で50年選手だそうであるが、クラシックが趣味で、マリア・カラスなどをかけてくれるのである。
 でもって、頭を得体の知れない薬品でぐっちょぐちょにされ、しかもそれが染みるまでの時間にダンナのグータラぶりを白状させられ(面白がって喋ったとゆー面もあるが)、「んまあ最低の男ねえ」などとゆわれ、んでもって洗って乾かしたら日羅語源問題に取り組む与謝野一家の女王晶子先生の「櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」とまあ言ってみても、誰も見られんのだから文句はゆえんであろうははははははは。
 なお、先生(いつから美容師を先生とゆうようになったのだろーか)に言わせっと、薬屋で売ってるしろもんで髪を染めると、ぺーはーとかゆうものの関係で、髪の毛がガミラス化するそうである(「と学会誌」を読んだ人しか面白くないなこれは)。

わくらばの彼方に

2010-05-01 20:06:20 | Weblog
(この文章は1月のmixiに書いたものです)

 「なんだよまったくもーっ、静かでいいとこだと思ってたのにい」。と思わせて、うちの前の公園の向こうにどんがらがったと音をさせて家が建った。建ったら音がしなくなった。あたりまえだ。
 公園とゆえども神社の一角であり、ベランダで地面のあたりが隠されておるために見事な庭園が、赤の他人とお役所が管理してくれるのでジオラマ自宅庭である。そのお役人連中の中に、何らかの抗議が来たんだか、それとも公園の樹木は、恐怖の大王がおくればせに降ってきたときにふんづけないようにとの配慮をしたんだか、ぶっとい枝を切ってしまう傾向にあったのだなこの近年は。わたくしも、でっかいイチョウの木をむざんに切られ、砲弾で手足をふっとばされた傷痍軍人状態にされて嘆いておったわけなのであるが、冒頭に書いたその家が建ってから突然気づいた。
 なんとなれば、役人が傍若無人に枝を切りまくり、日本庭園風のこしらえを台無しにしていったことが、その新築の家の、まっ四角なコンクリの壁(どーも、コンクリでかためたデザインの好きなのが施行主らしい)と異常によく合うのである。どう合うかとゆうと、これはお好きな人にはたまらないが、西洋の名画で樹木がてんでばらばらに生えていて、その向こうに神殿がちらほら見えて、「こりはエルサレムの何ちゃらかんちゃらです」とか解説されてるやつがあるでしょう。それと同じで、樹木と人工物がやたらと合うのである。ちょうど、図書館から借りてきた「西洋絵画の見方」という本を読んでたので、「むむ、このあちこち切断されてもだえ苦しむ木は聖セバスチャンの象徴だな」と絶対ありえないことを考えてしまったりするのである。公園からそこの家までは急勾配になっているのだが、そこにわけえ娘とじじいと薄汚えガキなど配置して「エジプトへの逃亡」なんぞと題名をつけてみたいくらいである。ああまた話が長くなるけど、アメコミに、フランク・フラゼッタの絵を自宅で再現しようとして女はさらうわ奴隷役は雇うわの大騒ぎになってしまった男の話が出て来たが、気持ちはわかる。
 しかし、「せっかくの景観が、家が建ったらそこなわれるなー」と思ってたら、建ったことによって、わたくしが日本庭園よりはるかに深く愛する泰西宗教名画に近い景色になってしまった。「シトー教会の童貞変態アカペラーズによる聖歌」など聴きつつ眺めると最高である。
ところで、いったいどんなおかたがあのコンクリの家には住むんでがしょうか? 確認するのが怖い気がする。

肉と薔薇の日々

2010-04-29 20:13:42 | Weblog
(この文章は1月のmixiに書いたものです)

 ゆんべは、トンカツ用の肉を1センチ間隔で切っていためてそばつゆと大量のたまねぎで煮るという、我が家でだけ「豚の角煮」と呼んでいるおかずだったのだが、たいへんおいしくできたので、ブタニクに対する欲望がめらめらと燃えてきてしもうた。
 昔から、豚肉というのは安かったのだろうか? なぜそう思うかとゆうと、赤貧洗うがごとしで週に二回しか風呂がたけない我が家でも、ブタニクはしょっちゅう出品されてたからである。考えてみれば豚はなんでもくうし燃費もよい。トリは肉の量が少ない。わたくしはガキのころ、よく近所の肉屋におつかいにやらされたが、当時はハノーバーのフリッツみたいなおっさんの向こうで解体されたウシがぶらんこぶらんこしておって、脇にはでかいトリ小屋があり、そこのトリに周辺の草をむしってくれてやるのがたのしかった。人にエサをくわせるのが好きという性格はこのころ形成されたものであろう。
 でもって、ブタニクのうまさが忘れられなくなったわたくしは、なんと今夜の酒(いちおう赤ワインですけどな)のつまみに「ポークステーキ」を採用してしまった。まあ要するに、トンカツ用の肉を焼いて、タマネギのステーキソース炒めをぶっかけただけのものである。こげなものを脇でひとりでくうておるのに、胃の三分の2をとってしまってから肉への愛情を失ってしまったダンナは涼しい顔である。
 胃をとってこうなのだから、人は戦慄するかもしれないが、宦官になるというのは、性欲から解放されてそんなにやなもんじゃないのかもしれない。
 まーとにかくポークステーキはたいへんうまく、わたくしは、「ああ豚のくえないイスラム教徒やユダヤ教徒はかわいそうだ」と思いながら平らげたんである。実はまだ一切れ残っていて、今からたのしみにくうのである。