凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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黄昏のブランデー

2024年02月25日 | 酒についての話
 先般引っ越したときに、サイドボードを処分してしまった。
 サイドボードにももちろんいろんな種類があるのだろうが、我が家にあったのはつまり、おしゃれな食器棚である。飾り棚といっていいかも。横長で背は低め、装飾が多めの、大きなガラス戸がつく収納棚だった。
 僕は、家具の好みとしては基本的には質実剛健であればよく、飾り付けされたものとかはまず買わない。これは、貰い物だった。
 世はまだ昭和。就職で実家を出て、最初に一人暮らしをした某都市の某マンション。家具はほぼコメ兵でそろえたが(何が某都市だ)、まだまだ部屋の中はスカスカの状態だった。そんなにモノも無かったしね。
 しばらくして、隣のご主人が訪ねてきた。「これ要りませんか?」
 見れば立派な装飾棚だった。なんでも転勤なのだという。そのご主人と会ったのは最初の挨拶以来二度目だった。
 「いいんですか?」と思わず言った。いや貰っていただけるなら寧ろありがたい。うちじゃもう使わないもので、と。
 いま考えれば、引越の処分品を体よく押し付けられたのだ、とも言える。まあそこまで悪く考えずともいいが。人に貰ってもらうほうが家具も喜ぶというもの。エコともいう。そうして、このサイドボードは我が家にやってきた。
 しかし何か目的があって入手したものではないため、困った。最初は入れるべき何物もない。寂しいので、何でも入れるようになる。当初は模型や置物、土産品などが並んだ。そのうちに、のんべであるためにそこには洋酒が何本か並ぶようになる。さらに、当時は気前がいい時代だったせいもあり、酒を買ったときにおまけで貰う景品グラスがずらりと並んだ。メーカー名が入った安物ばかり。ともかくも、酒専用の家具へと進展した。
 そうしているうち僕も引っ越しし、結婚し所帯を持ち、また引っ越しし…世は昭和から平成、令和とうつり、それでもこのサイドボードとは一緒にやってきた。中身も、ことあるごとに入れ替わってきたが、酒棚であることは変わりがなく、21世紀以降はPC机の隣に位置した。
 これはPCを買ったときに、サイドボードの隣にしかスペースがなくそこに台を置かざるを得なかっただけで意図したことではないのだが、以来ネットと酒が一体化した。僕が最もネットに出没していた時代は40代前半だったと思うが、夜更けにサイドボードのガラス戸を開け、気分の蒸留酒を取り出してはグラスに注ぎ、それを舐めながらブログを書くのが日課になった。あまりよろしくない習慣だろうとは思うのだが、当時は愉悦だった。酒に関する話も、数多く書いた。 

 そうした日々にも、徐々に変化が出てくる。
 まず、生活が朝型にかわった。
 こうなるに至る話はとても要約して書けないので放置するが、つまり夜にブログ書きながらスピリッツ、なんてことはしなくなった。酒は、晩酌で終わり。
 外で呑んでもスナックやカラオケにはもう誘われても行かない。二次会なし。家では言わずもがな。そして早ければ10時台に寝る。朝は5時前に起きることも。PCに向かうのはその時間。
 今でいえば「朝活」というヤツだろう。いや、違うか。とくにスキルアップなど目的とはしてなかったしな。
 というわけで、酒を舐めながら夜更けのPC、という悪癖はなくなった。コーヒーを飲みながら、に替わったかな。
 そのうちに体調問題や様々な出来事もあり、歳もとって、早起きしても朝活すらしなくなったのだが、それはさておき。
 サイドボードは、形骸化した。
 サイドボードに並んでいたものは、棚の左半分は酒器。右半分は洋酒(蒸留酒)である。ウイスキー、ジン、ウオッカ、ラム、テキーラ、ブランデー、etc.。
 このうち酒器は、ほぼ飾りである。むかーし酒器の話で書いたとおり。僕は酒を呑むのに酒器は4つしか使わない。あとは、ただ置いてあるだけである。若い頃は来客もいたが、今は訪ねてきて酒を酌み交わす人なんていない。友人もみんな歳をとった。
 中には上等のもの、思い出が付随するものもある。世話になった人の形見の薩摩切子。結婚祝いに貰った九谷焼のワイングラス。義理の兄に貰ったビアマグ。沖縄で買った抱瓶やカラカラ。しかし大半は、貰い物や景品であり、ほとんど使ったことがない。アイスペールや水差しも、来客時だけのものだ。普段氷は、直接冷凍庫を開けて掴んでグラスに放り込む。いちいちアイスペールに入れてられるか。また洗って乾かしてしまわねばならない。そんなことがひとつひとつ面倒になってくる。二人の暮らしの中では登場の機会は失われている。
 しかし捨てる機会もなく放置していただけだったのだが、前回書いたように引っ越しを余儀なくされた。
 もうええわ。処分しよ。suntoryとか銘が入った6個セットのタンブラーとか、使こた事ないがな。こんなん並べてるだけやんか。
 そうやってカミさんと仕分けしていたら、置いておくグラス類はみな食器棚に入ってしまうことが判明。

 「どうする? もうサイドボードいらないんじゃない?」
 「そやなぁ…」

 実は、右半分に並べてあった酒瓶も、激減していたのである。夜更けの一杯をしなくなったため、新しく買い足さなくなった。今あるのは洋酒の瓶が6本だけ。これは一応、消耗品と考えられる。
 従い、サイドボードは洋服箪笥やステレオラックなどと共に、処分品リスト入りした。
 考えてみれば、このサイドボードは、既に中古品で入手以来35年くらいか。頑張ったと思うよ。底面裏にシールが貼ってあったのをこの度初めて発見した。なんかのキャラクターみたいだがよくわからない。おそらく隣の家の子供が貼ったんだろう。その子もおそらくはもう壮年…おっとこんなことを考えていてはいけない。何事にも感傷的にならないのが引越の掟である。

 さて…。
 引っ越して4ヶ月を過ぎ、もちろんグラス類は減らして食器棚に収まっている。
 さらに先ほど書いた「消耗品としての洋酒の瓶」だが…こんなの引越前にのんでしまえば良かったのだが、1本だけのんで5本は持ってきてしまった。うーむ。
 有体にいえば、のむ機会を失ったのである。それに相応しい場面を作れなかった、というか。
 内訳は、ウイスキーが5本。ブランデーが1本。だいたい750㎖くらいで量的には大したことはないのだが、かなり僕にしては上等の酒なのだ。ウイスキーはオールドパー12年が2本。シーバスリーガル12年。シーバスのロイヤルサルート21年。バランタイン30年。
 なんというか、えげつない。こんなの、成功者がのむ酒である。
 もちろん、買ったものではない。いただきものである。こんな高い酒買わないよ。
 これらを入手したのは、ずいぶん昔だ。僕が若者といっても差し支えない時代。詳細は書けないが、つまりは、こんな感じ。
 仕事上で、相当な社会的実力者に会いに行く。話がしにくいので休日、自宅へ行く。もちろん手土産は経費で買って持っていく。何度か通ううちに気に入られる。

 「君は酒はのむのかい?」
 「はい、ウワバミでございます(笑)」
 「じゃこれあげるよ。あちこちからもらってのみ切れないんだ。あんまりうちじゃのまないからさ」
 「いやいやこのようなものを(汗)」

 そうして頂いた酒である。社会的実力者には、中元歳暮はもとより、賄賂的意味合いも含めこういうものがダブつくほど集まるのだ。ふぅ。
 こういう機会が何度もあった。
 ロイヤルサルートをもらったときの場面を今も記憶している。君は独身かね。うちには君と同じくらいの娘がいるんだが…と言われた。その娘さんも出てきた。うわぁ(汗)。しかしここでロイヤルサルートを返すわけにはいかない…。
 今とは時代が違う。昔話である。そのロイヤルサルートをまだのみそびれている。結婚前のことだし、あれは30年以上前か。

 閑話休題。
 「酒は食べ物に奉仕する」と昔から僕は書いてきている。いちいちリンクは貼らないが、そんな話をずいぶん書いてきた。ウイスキーやブランデーも食事時にのむ。しかしそういう時にのむ酒は、極めて廉価なものである。まあペットボトル入りのヤツ(レッドとかトリスとか)。ウイスキーはビール代わりに。ブランデーは紹興酒代わりに。水割りでガブガブのむ。
 そういう場面で、バランタインをアジフライと共に水割りでのむわけにはいかないではないか。もったいない。僕だってそれくらいはわかる。こういう上質なものは、ストレートであるがままにのむのが正しい。なのでそういう酒は、だいたい夜半過ぎの酒としてストレートで消費していた。
 しかし、朝型となって、そういう「食事後に舐めるようにのむ」機会を封印してしまったため、残ってしまったのである。
 引っ越しに、割れ物は梱包が面倒臭い。だが近距離引越であるため、僕はこれらを全て消費するのを諦めた。業者さんの手を煩わせなくてももこのくらい自分の車に積めばいい。ただ、オールドパー12年は2本あり、昨年の夏以降精神が疲弊していたこともあり、1本封を切った。自分にご苦労さんの意味も込めて。
 
 うわ、美味ぁ

 当たり前であるが、普段のむブラックニッカとは違う。いやブラックニッカももちろん旨い酒ではあるのだが(いつも世話になっている酒なのでフォローしないと)、なんだか別ジャンルの酒に思える(フォローしきれなかった)。
 カミさんはウイスキーをのまないので、僕一人でのんだ。オールドパーといえば、田中角栄がのんでいた酒である。田中角栄と言えばすき焼きとオールドパー。まあ頂点の酒とも言える。今検索したら、吉田茂が愛飲して、それが田中角栄に受け継がれた、ということらしい。ひぇー。
 ボトルは、3日で空いてしまった。
 しかし、だいたい3日くらいで空くと予想していたのである。だから、引越の3日前に封を切った。
 家の中は既に段ボール箱だらけになってきていて、さらに台所用品も梱包を進めていてちゃんとした料理も出来ず、この日からテイクアウト的な感じになっていたため、食後酒の出番があると踏んだのである。
 それだけではなく、もちろん25年住んだ我が家への惜別の意味もあった。…なんか理由つけないとのみにくいやないの。

 以来、しばらく経った。ここからリアルタイムっぽくなる。
 カミさんが帰省する。コロナ禍以降、盆と正月の里帰りは止めて、シーズンオフに動くようにしている。今回は10日間ほど。で、2月某日。カミさんを伊丹空港まで送った。
 さー何をのもうか。
 
 うちの食事形態が一般的なのかどうかはよくわからないが、まず何品か料理が出てきて、それで酒をのむ。僕が「料理は系統を統一してくれ」と希望しているので、和食なら全部和食、中華なら中華に揃える。煮魚とポテサラと青椒肉絲みたいな組合せはしない。何のんでいいのかわかんなくなるから。
 で、のみ終わったらシメのメシ(回文)。ここまで統一感を持たせなくてもいいけど、だいたい流れで食べている。麻婆豆腐があれば半分は残してご飯と食べよう。この刺身の半分は海鮮丼にしよう、とか。麺類にすることもあるし、洋食ならパスタで〆ることも多い。もう30年二人で暮らしているので、流れが完全に出来上がっている。
 かつてはこのあとに更にスピリッツ系の酒、だったのだが、それはもう止めてしまっている。
 然るに、一人で食事となれば、こういう流れは無視していい。短い期間だから栄養バランスとかも考えない。一人前の料理を何品か並べるのも面倒だ。
 うちに帰る途中スーパーに寄ったら、総菜売り場でロースかつが半額になっていた。しめしめ。これを買って帰って今夜はカツ丼を食べよう。
 米を研ぎ、風呂に入ってしばらくして台所へ。カツを甘辛く煮て溶き卵でとじ、炊き立てのめしの上にのせる。むふふふ。
 なお関係ない話だが、僕はカツ丼に玉葱を使わない。葱を使う。これはどういうことかと言えば、経験値の問題かも。
 僕はカツ丼デビューは遅く、大学の学食が初めてだった。それまでは何故か機会がなかった。野球の試合を見に行く前、必勝祈願で注文したのだが、それが葱使用のかつ丼(しかも後のせ方式)。
 おそらくは、学食という回転重視店舗の関係上、玉葱を煮ていると時間がかかるからだろう。しかし初めてがそれで、そのあと何度もこの330円のカツ丼を食べ続けたので、刷り込まれてしまったのか。後に他の店で食べることももちろんあったのだが、何か違和感を感じるようになってしまった。洋食ぽくなるというか。
 僕が生涯で最も食べた、金沢は南町の「あさひや(再開発で今はもうない)」のカツ丼。ここは葱すらも無い。薄いトンカツと卵だけ。これは本当にうまかった。そば屋のカツ丼であり、やはり出汁の力なんだろうか。わしわしと掻っ込む。ひどい時は二杯食べた(若かった)。今でも食べたくてたまらなくなる。
 不思議と、今住む西宮のカツ丼の名店として名高い「たけふく」、また神戸の行列店「吉兵衛」、いずれも玉葱ではなく葱あとのせ学食方式である。客の回転の問題かな。で、僕はこちらのほうが好き。

 関係ない話を長く書いてしまった。そうして美味い自家製大盛りカツ丼を平らげ、腹もくちたところで、今夜の一杯をやろうと思う。夜も更けてきた。
 ブランデーが一本ある。これをのもう。
 何とコニャックである。ヘネシーV.S.O.P。これ買えばいくらくらいするんだろう。そりゃブランデー通になれば、ヘネシーはX.O.からだ、なーんて言うんだろうけどねぇ。僕からすれば、どっちも突き抜けてる酒ですよ。ひと瓶1万円以上する酒も2万超えも、いずれも上質。だってワシが普段のんでるブランデーって、ペットボトルやで。
 また関係ない話だが、邱永漢氏が昔、香港での飲食について書いていた。曰く、

「料理屋は料理を売るところで、酒を売るところではないという観念があるので、どこのレストランでも酒は自由に持ち込めるようになっている(中略)広東料理を食べに行く香港の人たちが一番好んで持ち込む洋酒はブランデーである。なかでももっとも人気のあるのがヘネシーのXOである(中略)日本のデパートで三万五千円で売られているXOも、免税店では八千円くらいで売られている」

 僕はちょっとプリン体の摂取に気を付けなければダメだと医者に言われたことがあり、痛風は怖いので、のむ酒のかなりの部分を蒸留酒にシフトしたときがあった。中華を食べるときにブランデーをのもうとしたのは、こういう邱永漢氏の影響がある。しかし料理にXOを合わせるのは無理なので、極めて廉価のブランデーを水割にしてのむようになった。ブランデーは廉価であってもブランデーであり、もちろん芳醇とまでは書けないが独特の甘い香りはするので、紹興酒の代わりにはなるような気がした。
 そりゃ僕だって、上質のブランデーを水割りにしたりはしませんよ。薄めたら香りがたたなくなるしもったいない。
 けれども、メーカー側が水割りを煽った時代があるのである。「ブランデー 水で割ったら アメリカン」というコピーをご記憶の方は多いと思う。→CM
 シェリル・ラッドのポスターを酒屋で貰ってきて壁に貼っていた青春時代。懐かしい。シェリルは今でも憧れの大人の女性である。この頃まだブランデーをのんだことは無い。
 メーカーとしては、ブランデーを売りたかったんだろうなあ。割ってでも。
 ブランデーという酒は、当時は高嶺の花。かつては舶来品であり、高級イメージが強かった。
 サントリーは、かつてウイスキーを売るために一大イメージ戦略を打ったことがある。そして「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」という山口瞳のコピーは柳原良平のアンクル・トリスというキャラクターとともに流行語となった。そして後年には、小林亜星の「夜が来る」という最高のBGMを擁してCMを打ち、ボトルキープという新しい文化(これもサントリーが仕掛けている)も背景にして、酒場にずらりとオールドのボトルが並んだ。
 ウイスキーに続いてブランデーも、という戦略だったのだろうかとは思う。詳しいことは別に掘ったわけではないからよくわかんないけど。
 '70年代末から80年代初頭にかけて、今にして思えばブランデー販売のイメージ戦略がやっぱりあったのかな。石原裕次郎の「ブランデーグラス」という曲が流行ったのもこの頃か。
 VSOPという言葉すら、流行っていた。これをVery Special One Patternだとすぐにわかる人は、いったい何歳以上だろう。本来のVery(非常に) Superior(優れた) Old(古い) Pale(澄んだ)というブランデー等級よりもずっと人口に膾炙していたのではないか。
 しかしながら、日本文化として「居酒屋でのむ」「小料理屋でのむ」という、食事と共に味わう酒になりきれなかったところがブランデーにはあるのではないか。70年代は、割烹にすらオールドがずらっと並んだのだ。だからこそ「水割りにしてのんでほしい」とサントリーはシェリルに託したのだろうけれども…結局中華料理にブランデーの水割りを合わせてる僕のような奴は珍しい部類じゃないだろうか。シェリルより邱永漢をCMに出していればよかったのでは…なわけはないか。

 話がどんどんへんなところへ流れる。いよいよヘネシーを開けることにする。
 封を切り、栓を抜く。ああぁ開けちゃった。
 そして、スニフターを一脚、処分せずに持ってきている。いわゆるチューリップ型のブランデーグラスのこと。このために持ってきたのだ。そのスニフターに、丁寧に注ぐ。そして、手のひらで包むように持つ。

 うわ~いい香りだ。

 ブランデーの身上は何といってもこの豊かな香りである。ヘネシーのV.S.O.P.だと、だいたい30年の熟成を経たものと言われる。そうして瓶詰されて、おそらくさらに30年の時を経ている(汗)。瓶に入れば熟成されることはなく劣化していくのみだが、アルコール度数の強いスピリッツは有難いことになかなか悪くならない。
 この香りを満喫するために、スニフターはある。手のひらで少しだけあたためられたことにより揮発していく成分を籠らせ、逃がさない。
 やっぱりこれは、冷やしたり水割りにしたり氷を入れたりしちゃダメだな。シェリルには悪いけど。
 よく考えてみれば、このヘネシーは僕より年上なのだ。そう思うと、なにやら悠久な気分になってくる。この歳月を経た芳醇な美酒は、やはりあるがままに味わうのが正解であり本道だろう。
 ひとくち、含む。そしてしばらく抜けていく香りを楽しみ、ゆっくりとのどに流し込む。

 はああぅぁぁぁ

 至福とはこういう状況を言うのか。僕は今、幸せなのだ。


 翌日。休日でもある。
 朝からブランデーがのみたい。誰も止める人はいない。
 しかし、それはいかになんでも人として何か失ってはいけない何かを失うような気もする。自重しよう。
 昨晩はボトル1/3ほど空いてしまった。700㎖瓶だから、230~250㎖くらいのんだか。40度の酒だから、僕にしては結構のんでしまったな。しかし、二日酔い要素も全くなく、すっきりとした目覚め。上質の酒ってこうなんだな。
 そうしてなんやかやしているうちに、夕刻となった。冬のことであり、夜が来るのが早い。
 ちょっと早いような気もするけど、始めるか。

 だいたい、ブランデーというものは、食後酒としてのまれる場面が多いはず。いわゆる、ディジェスティフとして。
 確かに、あの度数と強い香りは、食後酒に相応しいと思われる。「食後は3C」なんて言葉もあった。僕はこの言葉を森須滋郎氏の著作で知ったが、それはフランスでの食後の定番であるコーヒー(Café)、葉巻(Cigare)、そしてコニャック(Cognac)。
 まあヘネシーはコニャックだが、コニャックでないブランデーは相応しくないのかといえば、そんなこともあるまい。語呂合わせだけのことだろう。語呂合わせならケーキでもいいのかな。だいたい葉巻なんて喫しないよ。ジャイアント馬場さんじゃないんだから。シガール(フランス語)ならヨックモックでもいいのか?
 戯言はさておき、コニャックが食後に最もふさわしいということが常識であるとした上で、今日は食前酒(アペリティフ)としてのもうと思う。普通食前酒はシェリーやカクテルだが、別にフレンチ食べるわけじゃなし。

 ブランデーをのむときに、何をつまめばいいのか。もちろん食後酒なら何も食べなくてもいいし、それこそ葉巻の一本でもあればそれで事足りるだろう。ただ空腹時は、チェイサーとしての水以外に、何か口にいれたい気もする。もちろん邱永漢式に中華料理ではなくて。
 普通言われるのは、チョコレートだろう。昔はよく酒場で、グラスに氷を満たしてそこにポッキーをたくさんさして供されたものだったが、今でもそういうことやるのかな。松田聖子が「ポッキーオンザロック」を歌っていたのはいつだったか…あれも'70年代末から80年代初頭だったような気がする。ブランデー戦略の一環と考えるのは穿ちすぎだが。
 今日は、いいものがある。林檎クリームチーズ。
 これは、妻の叔母さんが送ってくれたものだ。細かくしたリンゴのコンポートとクリームチーズを和えたもの。カミさんはこれを最初トーストにのっけて食べていたが「あんまりあわないなー」と言っていた。どれどれと一口舐めてみると…うまい。「うまいじゃないかバカヤロー」と言って、僕はその瓶を冷蔵庫に即座にしまった。その時から僕は「これはブランデーだな」と思っていたのだ。
 うししし。いよいよその日が来た。
 ブランデーを先ずはひとくち。ふぅぅ。そして林檎クリームチーズをひとなめ。ああ、やっぱり相性抜群である。美味い。さらにブランデー。至福とはこういう状況を言うのか(昨日もそう言った)。
 バレンタインの義理チョコも、まだ残っている。こうして、夕刻から天国へと向かうのであった。


 そして、今日。ブランデーも残り1/3となった。
 池波正太郎に、「夜明けのブランデー」という随筆集がある。池波さんのエッセイは読み込んでいるほうだが、この作品は晩年のものである。書いているのは60歳代に入ったころだと思うので、普通にまだまだ盛りであるようにも思うが、しかし池波さんは67歳で亡くなったので、やはり晩年か。
 
 「午前一時から明け方の四時までが私の仕事の時間だ。朝のうちに、今日はこれをやろうときめたことは必ずやってしまう。以前は、その後でウイスキーをのんだものだが、この夏からは少量のブランデーにした。そのほうが体調がよい。何といっても、私の一日は、この三時間にかかっている」

 池波さんはその晩年、明らかに老けていた。もともと老け顔の方ではあるが、それにしても60歳そこそこでこれか…と思ってしまう。小説を書くのは、やはり激務なのだろう。僕も、還暦がみえてきた。なのに僕なんぞは、こうやってブランデーをのみながら阿呆な長文のブログを書いている。この差に愕然とする。
 だいたい、池波さんが仕事終わりに「ブランデーをなめているうちに、頭へのぼった血も下ってくるので、それからベッドへ入る」と、クールダウンで夜明けのブランデーをのむのに対し、僕はもはや夜更けのブランデーでもなく、夕暮れのブランデーだ。宵の口のブランデー。薄暮のブランデー。黄昏のブランデーだ。なんたることか。
 そのブランデーも、もうすぐ終わる。せっかくうまい酒をのんだのだから、せめて何か書いておこうと思ってPCに向かったのだが、酔っているせいかもう10000字を超えた。ここまで誰も読む人はいまい。しかし、つかの間の幸せだったとは言えよう。

 ああもう最後の一杯だ。こんな機会がまた来るかなあ。まあ来ることを楽天的に信じて、終わるとするかな。黄昏のブランデーを。
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早川義夫「この世で一番キレイなもの」

2023年12月31日 | 好きな歌・心に残る歌
 父母が90歳を超えてしまった。親父はもうすぐ91歳になる。
 いわゆる「昭和ヒトケタ」と呼ばれる世代なのだが、僕の観察範囲だけだと結構長命している。妻の両親である義父母も健在。兄の義父は不慮のことで亡くなったが義母は元気にしている。妹の義父母も。
 かつて「昭和一桁短命説」というものがあった。焼け跡派は育ち盛りが食糧難であり、発育に十分な栄養がとれず成長したため長寿は難しかろうと言われた説である。空論であったことが証明されてしまったようだ。むしろ飽食の時代に生まれた世代の方が身体に負担がかかっているのではないか。
 もちろん、長命してくれるのは有難い。
 ただ親のここまでの長寿を想定していなかったことも、これまた事実ではある。
 こう書くのは複雑な心境なのだ。まるで早く死ねと言わんばかりに聞こえる。そんなことは無論考えていない。ただ覚悟が必要にはなってくる。
 近年は兄弟で話し合うことが増えた。かつては疎遠だったとまでは言わないが、こんなに密に兄弟間で連絡をとることなど思いもよらなかった。昔と違い、今はLINEグループなんていうものもある。あれはどうしよう、これはどうしようといつも鳩首密議している。内容はもちろん親の認知症と介護のことである。
 詳細を書くとキリがないのだが、身体能力は当然加齢で下がり、動けなくなってくる。脳機能も衰える。しかし臓器には問題がない。この先にある道は、惚けて寝たきりで長生きする、という事実である。だから覚悟が必要になる、ということ。
 僕は言った。「これは100歳を想定せんとあかんぞ」
 我々はその頃、70歳前後だ。老々介護ってこういうことか。悩みは尽きない。

 従兄弟から連絡があった。「〇〇子さんについて弁護士から照会があったんやがそっちにも来とる?」
 叔母のことである。父は六人兄弟の長男だが、弟4人は全て亡くなり、存命は妹がひとり。その叔母は子供がなく独居生活が続いていて、正直疎遠になっていた。内容は、どうも認知症になり身体も弱っていて施設に入れたいのだが、身内の手続き及び様々な手伝いがいるという。
 「いやワシのとこには来てへんで。なんでやろ」
 そうか。うちには父がまだいるからおそらく連絡は父にきているのだ。なのでこちらにまで下りてこない。従兄弟のお父さん(叔父)は先年亡くなっている。
 父はそんな連絡を見てないだろう。かと言って連絡相談するとそんなん聞いてないぞ見てないぞお前ら頭越しに勝手にやりやがって子供のくせに俺が指示する俺の指示通りにみな動けと沸点が上がりキレ散らかして挙句何も進まなくなるだろう。認知症というものは恐ろしい。
 叔母さんの諸般のことは手分けして行ったが、家をひとつ仕舞うというのは存外大変なことである。それでも叔母さんは独居となった段階で家財道具など所有物を明らかに減らしていた。これは、助かった。
 「断捨離」という言葉は、嫌いだ。正確には、徐々に嫌いになっていった。
 その言葉が持つ思想的背景は措いて、遣われ方に何だか引っ掛かる。一年使ってないものはもういらないよ。シンプルライフ。ミニマリストは素晴らしい。こんまり的世界観。上っ面だけを心棒する人々が追憶否定にかかる様子に辟易していた。うるせー何でも捨てろと言うな。
 しかしながら、この長寿時代。身辺整理はやはり必要なのではないか。自分で処理処分できなくなってしまう前に。人に迷惑をかけないためにも。
 実家は、モノだらけである。常軌を逸するほどモノがある。どうするこれ。親父が死んでからやればいい、とぼんやりと思っていたが、僕らが70歳を過ぎてからそれが出来るのか。今直ぐにでもやりたいのだが、判断能力の鈍っている親との戦いは心身を耗弱させる。
 本当に頭が痛い。

 しかし僕も実家ほどではないが、かなりの物持ちではある。蒐集癖はある。さらにはモノを捨てられない。こういうのは経済状況とも関わりがあるのだろう。資産家は、捨てても必要になればまた買えばよい、と思って整理できるが、僕らのような庶民は「いつかまたこれも必要になるかもしれない」とどうしても考えてしまう。結果、紙袋や戴きもののタオルやホテルの歯ブラシやモロゾフのプリン容器等が無限に増えていく。
 数年前の話だが、一度「断捨離」の機会があった。市域のゴミ袋が有料になるという。可燃物とプラスチックごみの袋。
 少額とはいえ、捨てるものに金がかかるというのは業腹な話である。これを機会に整理しようじゃないか。
 決定から半年ほどの猶予期間があった。その間に、不要物と考えられるものを絞り出して、景品や新聞業者さんが持ってきたゴミ袋(これも相当に溜まっていた)やレジ袋(スーパーの袋有料化により過去のものを捨てなくなっていた)を総動員し、断腸の思いを繰り返しながらかなりのものを処分した。おそらく、40ℓくらいのゴミ袋で5~60袋くらいは出したのではないか。
 「だいぶスッキリしたんやないか?」
 「そうねえ…?」
 あれだけ捨てたのに全然変わってないように見える。どうしてなんだろうか。

 今年の夏の話。
 マンションの大家さんから会いたいと言われた。
 「申し訳ありませんがマンション老朽化により取り壊しを決断せざるを得ませんでした。ご退去頂きたい」
 「えっ?!」
 えらいことになった。青天の霹靂である。
 このマンションにはもう25年も住んでいる。最初は社宅借り上げという形で住み、その後期限が切れたが気に入っていたので再契約して住み続けた。僕は生まれた家を22歳のときに出たので、生涯で最も長く住んだ家になっている。
 このマンションは、僕より年上である。その間に阪神大震災に遭い、相当な補修をしている。しかしもう限界が来たのだという。大家さんも老朽化(失礼)し、後継者もなく売ることも出来ず、仕舞いたい、と。
 ここには、65歳までは住もうと思っていた。そのあとのことを考えていたわけではないが、とりあえずその頃には第二の人生を迎えているだろう。それまでは。だがそれは叶わなくなった。
 色々なことは省くが、致し方なく引っ越しをしなくてはいけない。面倒なことになった。
 その慌てていた時期が、先程の叔母の話の頃やなんやと重なっている。
 僕らには、子供がいない。親父のように「あとは任せた」と言って死ねない。僕がまだ若いうちにポックリいけば、妻は大変に苦労してしまう。若いうちならおそらく兄や妹も手伝ってくれるとは思うが、それでも…。さらに、親のように長命した場合はどうなるか。
 叔母のように、甥や姪に迷惑をかけることになる。叔母の場合、僕ら第二世代はまだたくさんいたのでみんなで頑張れたが、僕の甥姪は3人。彼らがその頃どこに住んでいるかもわからないし、当然あてには出来ない。とにかく、自分たちで道筋を作っておかなければ。
 そんな折の引っ越し通告である。

 以前多少のものは処分した、と言っても、可燃ゴミが大半である。紙のものや不燃物は全くの手つかず。あの時は「引っ越しするつもりで捨てよう」と言っていたのだが、本当に引っ越しするわけではないからやはり甘さがあった。今度は背水の陣になる。本気で思い切らないと。
 例えばうちには冷蔵庫が二つある。一つは僕が独身時代に使っていた小さなもので、今は電源も入れずに収蔵庫と化している。ただまだ動く。主要冷蔵庫が突然壊れたときに試しに電源を入れてみたら冷えて助かった。使えるものを捨てるのには抵抗がある。リサイクル料金もかかる。しかし、もう処分しよう。このサイドボードも捨てよう。このホットプレートも処分しよう。この釜めし容器も捨てよう。
 しかし、そんなの微々たるものなのである。
 だいたい、生活に関わるもの以外でうちにある荷物の大半は、書籍なのだ。
 昔(もう18年前か)、book batonという企画をやって、その時にうちに何冊本があるか、と数えたことがある。約3000冊が答え。それから約20年で、全然減っていない。しばしば処分はしているのだが。本を整理するという記事を書いたこともあるが、こういうのは減っただけ増えるものなのである。だいたい、これらの記事を書いたときから書棚がひとつ増えている。全部で10棚。
 減らそう。無くしてしまうことは出来ないが、減らそう。

 本というものは、縛ってゴミにするのは簡単であるが、他人がやるならともかく、所有者がそれをやるのは結構なストレスである。本好きでなくとも分かってもらえるのではないか。しかししょうがない。雑誌のバックナンバーはそうやって心を痛めつつ大半を処分した。
 書籍や漫画本は、ブックオフである。週末になれば、リンゴ箱に詰めた本を何箱も持ち込んだ。こういうものは、金にはならない。ほとんど値はつかないが、どこかで誰かが手に取るかもしれない、という一縷の望みを励みに勤しんだ。だがこの電子書籍の時代に、そんなの妄想であることはわかっている。しんどい。辛い。鬱になりそうだ。しかし、もっと高齢になればこんなことも出来なくなる。
 しかしながら結局、1/3くらいしか処分できなかった。まだまだ自分に甘い。

 持っているのは書籍だけではない。もうひとつ山がある。それは「音源」。
 あるのは、レコード、CD、カセットテープ。そしてビデオテープ。DVDなどもあるが、自分にとって歴史が浅いためすぐに処分出来た。だが、思い入れのあるものはなかなか決断が出来ない。ほとんどが、青春期から20歳代に入手したもの。
 ブログを書きだしたのは約20年前だが、書いていることの多くはこれら書籍と音源に寄っている。その間、思い出を反芻する作業を続けたせいか、愛着がさらにわいてしまっている。駄目だ駄目だ。
 ただ、今は配信も、サブスクもYoutubeもある。ああいうものは所有しているわけではなくいつ消えるかわからないうたかたのものだが、それでもアクセス出来る可能性が高いものであればまだ良い。僕は「処分したらもう二度と聴けない視られない」ものをまず残す基準にした。次に、そのもの自体に思い入れが深いもの。入手経路や聴いていた時の風景も全て思い出せるものは、人生の一部だ。そんな甘いことを言っていては駄目なのだが、あまりやりすぎても鬱になってしまう。
 レコードは、1/10まで減らした。LPは20枚、シングルは10枚だけ残した。あとは捨てるのではなく(前述したように書籍と違って可燃ごみなので業腹なことに金がかかるので)、全て売った。
 書籍とは異なって、レコードにはだいたい値が付いた。レコード復権の時代がきていることは知っていたが、これは意外だった。中古レコード市場というものが復活していたのだ。
 中島みゆきの「グッバイガール」などは、買った時の倍の値が付いた。そうかこのLPって、みゆきさん最後のLPなのだな。以後はCDリリースだけになっていく。そんなこともあるのかもしれない。これなら、必ず誰かが手に取ってくれるだろう。世の中のどこかに残る、という思いだけで、なんとなくストレスが減っていく気がする。
 ビデオテープは、8本を残して全て処分した。全てプロレスのテレビ録画である。だいたいもうビデオデッキを持っていない。どうするんだと言われそうだが、許してほしい。
 カセットテープが一番苦しんだかもしれない。300本くらいあっただろうか。
 買ったものは数本を残して処分した。前述したようにアクセス可能だからである。例えば松山隆宏さんの「時代を渡る風」なんてのはもう入手不可でありさすがに手放せないが、そんなの以外は目を瞑って。またレンタル店を利用したアルバムのコピーやダビングものは、えいやっと捨てた。ただエアチェックは、本当に思い入れがあり選別できない。大げさに言えば人格形成に寄与したものとも言える…やっぱり大げさだな。処分処分。
 だが、カセットが一番残してしまっただろう。半分以下にはなったが。

 それらに比べれば、CDはそうでもない。DVDと同じく、自分にとって歴史が浅いからだろう。追憶ともあまりリンクしていない。なのでみんな処分してしまおう。
 …と思ったのだが、なかなかそうはいかない。
 引越に関わる作業中は、CDを主として流していた。レコードやカセットをかけようとすると少し手間である。CDはお手軽なので、処分前に供養のつもりで次々とかけた。
 こういうのは、失策である。惜しくなるから。
 沖縄で買い集めた民謡集は、もう一年だけ待つか。次の夏が来るまでは。喜納昌吉「BLOOD LINE」ももう少し置いておくか。りんけんバンドは…ダメだこりゃ。拓郎も陽水もかぐや姫も正やんもふきのとうもNSPもみんな手放したのに。洋楽はほぼ手放したのに。聴いちゃダメなんだ。
 こういうことをやっていると進まなくなる。
 小谷美紗子の「PROFILE」はもうちょっとだけ置いておこうか。名盤だしなあ…。あれ、小谷美紗子ってサブスク解禁したんじゃなかったっけ?
 全くのところ、なっていない。葛藤の中、10数枚の盤を残した。

 その中に、早川義夫の「この世で一番キレイなもの」もある。
 早川義夫さんのこのCDは、僕が最も新しく購入したCDのような気がする。六文銭の「はじまりはじまる」とどっちが後に購入したかははっきりと覚えていないが、もしかしたら「僕が最後に買ったCD」だったかもしれない。
 本当に最近は…10年以上も盤を買っていない。感受性の摩耗と面倒くささと…様々な要因があるが、音楽はネットで済ませている。そういう人は多いと思う。盤を買わないことが業界の衰退につながるのは重々承知している。ごめんなさい。

 「この世で一番キレイなもの」は、しかも新譜で入手していない。中古で見つけて買った。
 以前、早川さんが作った「サルビアの花」をお題にして記事を書いたことがある。2007年のこと。→もとまろ「サルビアの花」
 このうたは非常に著名で、僕より上のフォーク好きならだいたい知っている。僕も好きな歌なのでブログに書いてみたいと思ったのだが、その記事の中でも、ジャックス乃至は早川義夫さんのことを「知るところが全然ない」「僕はジャックスについては全然知らなくて」と繰り返し書いている。知らなくても記事は書けるのだが、中身はジャックスに在籍していた木田高介さんのことと、うたをこねくり回した解釈みたいなものに個人的な追想を付けてひとつの記事にしている。なので、薄っぺらい。
 その後に、僕は早川義夫というミュージシャンに改めて興味を持ち、著作「ラブ・ゼネレーション」「ぼくは本屋のおやじさん」を古本屋で見つけ、さらにアルバム「この世で一番キレイなもの」を中古店で掘り出した。
 早川さんがジャックス解散後、ソロアルバム「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」を1969年にリリース(「サルビアの花」所収)し、その後音楽から距離をおき書店主となった。以後20数年。1994年にアルバム「この世で一番キレイなもの」で復活を遂げた。
 僕はその復帰した頃のことも、当時あまり詳しくは知らない。ただ「サルビアの花」が好きで2007年にブログ記事を書いただけ。それがきっかけで、時を措かずして本とCDを買った。
 そのことは別に記事にもしてない。このブログは基本的には思い出ブログで、聴いたばかりのうたはあまり採り上げてはいない。自分の中で熟成していないし、付随する追憶もない(当然だ)ので、あまり書くことがないからだ。ただ当時は、このアルバムに非常に感銘を受けたことは記しておきたい。有体に言えば、感動的だった。中でも同名の表題曲は、繰り返し聴いた。CDはレコードやカセットと異なり、早戻し(巻き戻しとはいわない)が容易だ。なのでついもう一度と一曲戻しを繰り返したような覚えがある。

  弱い心が指先に伝わって 痛々しいほどふるえている

 以来、しばらくぶりに聴いた。
 あれから16年くらい経った。十分に熟成期間を置いたが、特に追憶が付随したわけでもない。ただ、聴いていて涙が滲んだ。それだけ。
 もう、この歳になると涙腺が弱くなっていて、まあ生理現象みたいなものだろうと思う。

  もっと強く生まれたかった 仕方がないね これが僕だもの

 思い出を否応なしに断ち切るような作業をずっと続けていると、心が弱る。

  この世で一番キレイなものは あなたにとって必要なもの

 ずいぶん昔に、僕は「結局人生とは追憶なのだ」という結論に達している。その考えは今も変わらない。人生が終わるときに一番大切なもの、それは思い出である。極論すれば、死ぬときに莞爾として人生を終われるかどうかは、自分の中にめぐる美しい記憶があるかないかだ。地位も名誉も関係ない。財産も持って死ねない。歴史に名を残そうと頑張っても、結局その歴史に残った自分を見ることは叶わない。
 自分に残るのは、追憶だけなのだ。
 だから、持って死ねない書籍や音源は必要ない、とも言える。
 しかし、「いやいやそうではない」という思いもある。
 莞爾として死んでゆくためには、キレイな思い出だけあればいい。それさえあればいい。それは分かっている。だが、その思い出を失ってゆく老人たちを、僕はここしばらく見続けてきているではないか。
 一番キレイなものを失ってしまう恐怖にお前は耐えられるか。だから追憶は常に反芻し、上書きし更新して失わない努力をせねばならない現実があるのだ。その補助材として、記念品や写真や書籍や音源があるのではないか。

 そんな葛藤も、心が弱っているせいだろう。とりあえず今はそういう屁理屈はどっかにおっぽり投げて、ダンボールに詰める作業を続けないと、終わらないよ。後ろでカミさんの「何ボーっとしてんの」という声が聞こえる。ごめんごめん。

 引越は11月半ばに決行。
 別に遠くに居を移すわけではなく、市内の近隣地域に越しただけであり、断捨離が成功したとは言い難いけれども多少荷物も減ったので、傍目には楽な引越に見えたはずである。もちろん当人にとっては楽とは言い難い引越だったが、何とか無事に終了した。
 新居はダンボール箱の山が連なり居場所がない。その積み重なった荷物を解くのに、ずいぶん時間がかかってしまった。ひと月以上経って、ようやく全てのものが収まった感じ。
 「この世で一番キレイなもの」も、持ってきてしまった。ダンボール山脈の中から比較的早期に発掘し、そしてまた聴いている。なんだかこの怒涛の引っ越し期間のテーマ曲のように思えている。

  キレイなものはどこかにあるのではなくて あなたの中に眠っているものなんだ 
 
 次の年はどうなるかな。まだまだ問題が積載してるけど、とりあえずひと段落とさせてくれ。
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リバース・インディアンデスロック

2022年10月02日 | プロレス技あれこれ
 アントニオ猪木の技と言えば、まず思い出されるのは卍固めなのだろう。猪木の至高のフィニッシュホールドと言っていい。自身最も大切にした技ではなかったか。僕などはイメージとしてタイトルマッチ、あるいはシリーズ最終戦にしか出てこない技という印象までもつ。
 代名詞とも言える技で、オリジナルホールドと言ってもいいような気さえするが、実際は僕も昔書いたとおり(→オクトパスホールド)、ヨーロッパに以前からある技らしい。日本では猪木ののち、天龍がダサくつかった以降は鈴木みのるや西村修らがリスペクト的にやるくらいで後継者はいない、と以前書いたが、上リンク記事は15年前に書いたもので、最近は猪木の影響下にないレスラーも時々使用する。キャッチの使い手であるザック・セイバーJr.の卍固めを見ると、いかにもヨーロッパ技らしくみえるから不思議だ。

 ふと思う。猪木にオリジナル技というのはあったのだろうか。
 伝説的に語られるのはアントニオ・ドライバーである。猪木の初期のフィニッシュホールドとされる。しかしこの技、古すぎて僕は見たことがない。
 なので、雑誌やプロレス本に載る写真だけが手がかりなのだが、これはフロントネックチャンスリードロップの猪木流であるということが定説になっている。確かに、そのように見える。
 実際に見ていないので論じるのはよろしくないのは承知だが、フロントネックチャンスリードロップは、フロントヘッドロックの体勢から後方へ投げる。僕の知っているこの技は、つまり反り投げである。相手は背中から落ちる。猪木は、マットに脳天を突き刺しているように見える。だからこそ「ドライバー」なのだろう。パイルドライバー同様、脳天杭打ちなのだ。
 マットに脳天を突き刺す技といえば近い技があってそれはDDTなのだが、DDTはフロントネックロックに捕えて後方へ倒れこむ。これなら僕にもできそうに思える(後方受け身が無理か)。猪木はアントニオドライバーを多用しすぎて腰を痛め、この技を封印したのだという。DDTでは腰を痛めない。やはり反り投げだったと思われる。
 しかしながら、やはりオリジナル技とは言えない。「脳天をマットに突き刺すように放つフロントネックチャンスリードロップ」が分類としては正しいだろう。今なら垂直落下式か。

 猪木のフィニッシュホールドを年代順に考えれば、アントニオドライバー、コブラツイスト、ジャーマンスープレックス、卍固め、延髄斬り、魔性のスリーパーなどが並ぶ。バックドロップや腕ひしぎ逆十字、また腕固めなどをフィニッシュにした試合も記憶しているが、いずれも昔からある技や柔道技からの派生である。
 延髄斬りだけはオリジナルに近いような気がするが、昔僕も書いたけれども(→記事)、分類すればこれはジャンピングハイキックの猪木流である。
 猪木の技は他に、ドロップキック、ボディスラム、アームブリーカー、キーロック、ショルダースルー、ニードロップ、ボーアンドアロー、ナックルパート…いずれも先人がいる。(ナックルは反則)
 ただひとつ、リバース・インディアンデスロックだけは、先達がいたのかどうかがわからない。
 以前インディアンデスロックの記事を書いたときに、当然ながらリバース式にも言及したのだけれど、そのときも元祖が誰かわからなかった。僕の持っているプロレス技読本的なものをひっくり返したのだがオリジナルに言及があるものがなかった。
 15年前と違い、今はネット上にも資料が蓄積してきている。検索すれば驚くべきことにリバースインディアンデスロックのWikipediaまであった。そこには、リバースにするアレンジを施したのは猪木だと記してある。しかしWikipediaなのに出典が明記されてない。[要出典]と編集したくなるが面倒臭い。
 文責のないネットはあてにならないけれど、認定でオリジナルと考えてもいいような気もした。もう証言者も少ないだろう。もちろん猪木に聞けばわかるのだろうが、それも出来なくなってしまった。


 訃報を聞いたのは、10月1日の夜のニュースだった。亡くなられた当日の夜。
 その夜は遅い時間だったので酒を呑んで寝たのだが、翌朝もなんだか空虚な気分が晴れない。思ったよりも強いダメージを受けている自分に気づいた。
 もちろん猪木の病状が悪化しているのは知っていたし、激烈に痩せている姿も映像で見ていたから、ある程度は覚悟も出来ていたはずだったのだが、それでも予想外の喪失感に自分でも驚いている。同い年の橋本真也が死んだとき。馬場さんが死んだとき。鶴田が死んだとき。三沢が死んだとき。ブロディ、アンドレ、マードック、アドニスのときも辛かったけれども、今回のような落ち込みじゃなかったような。僕が歳をとったからかもしれないが。
 リング上の猪木のことを朝からぼんやりと考えていた。いろんな場面が思い浮かんでくる。

 報道は、もちろんプロレスラー猪木のことを中心に振り返っているが、やはり政治家として、あるいは「元気ですか!」と声をあげる猪木や、闘魂注入のビンタなどもとり上げている。猪木ファンは、猪木のよくない部分も多く知っているため、レスラーとしての猪木に特化して報道してくれればいいのに、と勝手に考える。
 僕は猪木が出馬したとき、猪木信者だったにも関わらず散々逡巡して投票しなかった。猪木は政治家にはならない方が良いと思った。それでも、人質解放の時、北朝鮮とのときに揶揄する声が聞こえてきたら、つい必死にかばって猪木の行動を肯定して口論めいたことにもなったりした。ファン心理は難しい。根底には、猪木がどれだけ素晴らしいレスラーだったかを知らずに猪木を語るなかれ、とやっぱり思うからだろう。ヘンなものだと自分でも思う。

 またリング上の猪木のことに思いを馳せる。
 プロレスはking of sportsであるのは疑いないが、その「プロ」という部分を最重要課題にしたという点においてもKingである。顧客満足を一義とし、「勝つ」だけではなく「魅了する」ことが最も大切だった。その頂点に猪木がいた。
 アマチュアレスリングは、基本的にタックルを狙うために前傾姿勢となる。プロレスもレスリングなのでそういう一面もある。だが猪木は、動物が獲物を狙うような鋭い目で前かがみに相手をキャッチせんとする瞬間もあれば、またすっと背筋を伸ばし両手を広げて自らを大きく見せた。その姿がいかにも美しかった。
 多くの一流レスラーはそうなのだが、中でも猪木の立ち姿の見せ方は徹底していたといえる。表情を伝えることを重視していたからかもしれない。
 ショルダースルーですら、最後まで身をかがめない。相手をロープに振り、前をしっかり見て向かってゆく。相手が返ってきたその一瞬、片方の肩口を下げて潜り込む。スピード感がある。リング中央で腰をかがめて待つ鶴田とはかなり違う(鶴田には鶴田の意図がある)。
 猪木の延髄斬りのシルエットの美しさは、ジャンプしながら上体が立っていることにある。レの字型。これはなかなか出来ないのではないか。なのでヒットの瞬間も顔が見える。多くの模倣者は頭が落ちている。確認してほしい。
 卍固めもそうだ。猪木はバランスにこだわっているように見え、極まれば必ず上体はリングに対して垂直になっている。これは左脚で相手の頭部をぐっと押さえつけるパワーが必須となる。猪木は傾かない。鈴木みのるやザックはどうしても左脚が浮いて傾げてしまう。良い悪いの話ではなく、ザックの方がタコに似ていて、鈴木の方が卍に見えるが、猪木は顔が傾かないように見せる。さらに卍固めは実は右腕が必要ない。ザックなどはその空いた右手で相手の腕をさらに極めにかかったりもするが、猪木は相手の臀部に右腕を置いて、出来るだけ左右対称であろうとしている。観客に映じる姿を常に念頭においていた。

 猪木は、またその速さがいい。一瞬のスピード感。
 Jr.ヘビーはもちろん俊敏に技を繰り出すし、ヘビー級も今はみな動きが速い。だが猪木には、緩急を自在に使い、刹那の攻防を観客に見せる技術があった。
 コブラツイストを仕掛けるときのアレはなんだろうか。相手をロープに振り、戻ってきたときに一瞬交錯したと思ったらもう完全に掛かっている。手品のようだ。そもそもなんでコブラツイストをかけるのにロープに振るのか。猪木の演出だろう。棒立ちの相手に仕掛けるよりもスピード感が何倍も増加する。コブラは立ち関節技で極まれば動かない。なので、動と静の対比をそこで見せる。
 ニードロップを落とすのに、誰よりもコーナートップに上がるのが速かったのではないか。だいたいヘビー級はよっこらしょと上がるのだが、猪木はするするっと駆け上がって直ぐに降ってくる。今なら棚橋もまあまあ速いが、棚橋はフィニッシュ技のためにある程度派手に動かなくてはならないから、スピード感なら猪木の後塵を拝してしまう。
 
 それらの、猪木のプロレス表現要素。立ち姿。一瞬のスピード。動と静。
 その白眉が、リバース・インディアンデスロックではなかったかと考えている。
 タッグマッチならなおのことこの技が映える。相手をロープに飛ばし、自らも交錯するようにロープワークを駆使して走る。リング中央で十字に交わるその刹那、スライディングレッグシザース(カニ挟み)で相手を倒すと同時に足をとり、うつ伏せに倒れた相手の足首を離さぬまま両足を畳み、自らの足を瞬時にその中へ差し込むとすぐさま仁王立ちとなって両腕を前方に出し、敵陣の相手パートナーを威嚇し牽制する。ここで、一瞬時間が止まる。猪木の千両役者っぷりが最高潮に達する瞬間。
 ロープに振ってから動きを止めて見得を切るまで5秒くらい(ワシ調べ)。全盛期だともう少し速かったかもしれない。この疾走感と緩急、表情は猪木でないと無理だろう。対比するなら歌舞伎の荒事とか高橋英樹の殺陣とか、そういうものが相応しいか。とにかく絵になる。
 このあとはご承知の通り何度も後ろに倒れて痛めつけ、若い頃は鎌固め、後年はボウアンドアローに移行して終わるのだが、この技が本当に猪木オリジナルであったとすれば、フィニッシュに結び付く技ではないが、何とも猪木らしい技を開発したものだと思う。

 僕は、年齢的にしょうがないのだが猪木のデビュー時から追っかけているわけではない。
 僕の両親や祖父母は、全くプロレスに興味がない。なので誰の影響も受けておらず、おそらく入り口は幼稚園生だった時に放映していたアニメ「タイガーマスク」からプロレスに入っている。そこに登場する馬場や猪木を見ようと、チャンネルを合わせたのだろう。しかし日プロ時代、BI砲時代は、本当に小さくていくつかの場面は記憶にあるものの体系だってない。毎週猪木を見るようになったのは、新日を旗揚げしてジョニー・パワーズと争っていたころだった。ストロング小林との死闘はよく記憶している。タイガージェットシンが悪の限りを尽くし、一方で異種格闘技路線が始まった。それが僕の小学生時代。その頃は、もう猪木信者だったと思われる。大雑把に言えば50年くらいは猪木のことを考えてきたか。
 なんだか、なーんだか寂しい。古いことを思い出すと、余計に喪失感が増す。
 いろんなリング上の猪木が、いろんな場面が、いろんな技を繰り出している猪木が思い浮かんではなかなか消えてゆかない。
 いっそのこと消えないでくれ、とも思う。次はアリキックと、谷津に切れた猪木がグラウンドからガンガン蹴り出したあの傍若無人蹴りとどっちが効いたのかを語ろうか。言ってることが意味不明になってきた。
 今日ももう少し呑まないと眠れないか、とも思う。

 アントニオ猪木氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。さよなら猪木。
 
 

 

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コロナ禍の旅

2022年09月04日 | 旅のアングル
 このブログは、基本的なところは思い出ブログである。音楽やプロレスの話もするが、身近なところで言えば、主として酒と旅について書いてきた。
 これは、日常的な自分の趣味が酒と旅だったからに他ならないが、その酒と旅という趣味が脅かされる事態となって久しい。言うまでもなく、コロナ禍のせいだ。
 僕は居酒屋が大好きだが、一応、酒は引きこもっていても呑める。だが、旅にはなかなか出られない。

 この新型コロナウィルス、COVID‑19というやつは、まことにやっかいな感染症である。どんどん変異していくため実態をつかみにくいが、とにかく恐るべき感染力であるということ。人はみなマスクをして手洗い消毒を行い密を避け換気をしアクリル板を立て対策した。そのため、僕などは年に2,3回は風邪を引いていた弱い人間だったのだが、あれ以来一切風邪なんぞ引いていない。どころか、例年猛威をふるうインフルエンザまでもが、日本からほぼ撲滅されてしまった。いかに、従来型の風邪やインフルエンザが、感染力において雑魚だったかということか。それでもCOVID‑19は第6波だの第7波だのと襲ってくる。
 もちろん、厳しい病気であるということは間違いないが、さらに社会をややこしくしているのは、ワクチンの接種有無は除いたとしても、人によって感染症状に大きく差があり、「無症状」なる状態もかなりの場合出てしまうということ。これは困る。
 自分がリアルタイムで感染しているかどうかがわからない。インフル君にも潜伏期間はあったが、その比ではない。自分が媒体者となっているかもしれない怖さ。最初は検査抑制論もあり(今もある)、近い距離で頻発し出したときは本当に自衛に徹した。僕は、今はワクチンも打ち、仮に感染しても死に至ることはおそらくないだろう。だが、同居人である妻には基礎疾患がある。油断できない。
 なので、旅にはなかなか出られない。

 コロナ禍の中で、いろんなことを考えていた。
 政府は「GoToトラベル」というよくわからない施策を打ち出した。そんな税金を投じて感染拡大に寄与することをせずとも感染症が収束すれば人はまた旅に出るさ、現に2022年は「行動制限のない夏」というキャッチコピーだけでこんなに人は動いてるじゃないか(全然収束してないけど)。
 そんな政治的な話はまた分断を煽ることにも繋がるので措く。僕がこのキャンペーンを見ていて思ったのは、旅とは、僕がしてきた旅行とはいったいなんだったのかということだ。
 基本的に、GoToトラベルという施策は、指定旅行代理店を通じてのパッケージツアーに「半額税金で補助するよ」というもの。ネット予約のホテル代も対象になる場合があるが、いずれにせよ、ふらり旅派にはほぼ寄与しない。
 僕は、旅行代理店を使ったことは過去に、新婚旅行で外国に行ったときくらいである。厳密にいえば修学旅行や社員旅行とかは代理店が入っていたのだろうけれども、個人の旅行では代理店に世話になる発想がなかった。
 税の再分配の不均衡さについては、例えばふるさと納税などと同じで、今に始まったことではなく、ここで語ることでもない。それよりも。
 僕が趣味にしていた、大好きな国内旅行は、世間的には旅行という範疇ではなかったのだろうか。自転車を漕ぎ、周遊券や18きっぷを大いに活用し、野宿をしたり夜汽車に乗ったりクルマで車中泊をするような旅は。
 そして、連想は続く。

 若かった頃。よくユースホステルを泊まり歩いていた時代に、いわゆる「ベテランの旅人」に遭遇することがあった。もう何年もバイトしつつ旅を続けているような人たち。
 たいていはいい人で、これから行く先の見どころなどのアドバイスをくれたり、旅の面白い話をしてくれたりする。ネットもない時代、そうした口コミは有難い。だが、時々は面倒くさい人もいたりした。
「あーあ、あそこ行ったの(笑)。有名ってだけのとこだったろう? 本当にいいのはその奥なのにね」「知床の真価は夏じゃわからんよ。冬を見ずして語るなかれだ」「東雲湖も行ったことないんじゃ話になんない」「今日どこで泊まるかなんて夕方になんないと決められないじゃん」「最初にスケジュール決めてその通り動くなんてシロート」うっせーよ!
 うざいベテランには本当に閉口するが、そういう鼻持ちならない人がよくいうセリフがあった。

 「旅と旅行とは違うんだよ。わかる?」

 くだらない話で、彼の人たちはつまりスケジュール管理された団体旅行等をバカにし、あれは旅ではない、我々がやっている風来坊的な在り方こそが本当の「旅」だと言いたかったのだろう。言葉遊びとしても、対象を見下している段階で品がないし、なにより的外れに気取っている様には、こっちまで恥ずかしくなってくる。
 こうしたつまんない話は、いまから約40年前にチラホラと聞こえていた言説であり、とっくに記憶の奥底に沈んでいた。いまこんなこと言う人なんていないだろう。僕だって、「旅」と「旅行」を特に気取って使い分けたりはしていない。
 しかしながら、コロナ禍は人を鬱にする。そんなはるかむかしの話まで記憶の沼から掬い上げ、あろうことにか「もしかしたら旅行と旅とは違うものなのか?」などと思いはじめる。嫌味なベテランの馬鹿説まで肯定しはじめた。GoToに該当するのが旅行で、恩恵をうけないのが旅か。こんなことを考えたりするのは、精神がやられている証拠である。

 これはいかんな。いかんのはわかっているが、こういう時にさらに考えたくなるのが僕の悪癖である。
 まずは日本国語大辞典を引く。「旅行」は第一義として「旅に出ること」となっている。当然だろう。旅と旅行は基本的には同義だ。しかし注釈をみると、「視察、観光、保養、社寺参拝などの目的で、よその土地にでかけて行くこと」と。「目的」が出てきた。日国辞典は「旅」についても詳細に解説しているが、そのなかに目的に関する文言はない。
 だがあくまで辞書の説明であって、目的アリが旅行でナシが旅とはさらに言えない。そもそも、人の行動にはほぼ目的があるというのが僕の持論であって、旅にも目的はあるはず。その目的が具体的事象ではなくとも「失恋を癒しに」「ストレス解消」だって目的だ。あてもなくふらりと旅に出た、と言えば目的がないみたいだが、実は深層に「現実逃避」という目的がある。
 しかしながら、旅行と旅の違いがここに出ているような気もする。「あてもなくふらりと旅行に出てみたんだけど…」ってなんか座りが悪い。ふらりと出るのは語感からして旅だよなあ。また人数もあって「ひとり旅」はあっても「ひとり旅行」とは言わないな。「個人旅行」という言葉はあるけどそれは団体旅行との対比であって、必ずしも一人を意味しない。定義は難しい。
 だいたい「たび」というのは古来からある日本語だろう。万葉集の「旅にしあれば椎の葉に盛る」は有間皇子のであるが、この場合、旅と詠んでいるが実際は「連行」であって…話がそれすぎますな。
 比して「旅行」はそもそも外来語。いつから日本に入っていたのか。知識層は別として、日葡辞書には「リョコウ」という項目が既にある。意味は「タビニユク」。室町期には口語として広まっていた。
 江戸時代には、旅と旅行は使い分けられていたんだろうか。東海道中膝栗毛はどうだったかな。
 このあと僕は辞書や文献にハマって数時間。全てをここに書くわけにもいかない。例えば神輿の渡御にともなう「御旅所」という言葉なんかは実に興味深いのだが、措いて。
 分厚い漢和辞典なども見たのだけれど、旅という字は、「㫃(ハタアシ 旗の意味)」に「从(二人もしくは多数の人)」からなっていて、旌旗の下に集まる大軍のことらしい。おーそうだったのか。具体的には500人で一旅となるそうな。前から、軍隊用語で連隊とか師団とか旅団とか出てきて、他はともかく何で「旅」なんだろうと思っていたのだが、旅とはそもそも軍隊のことだったのか。その軍隊は列を組んで移動するので、そこから「たび」の意味が生じた由。
 じゃ中国だと、旅という文字に団体の感じがしてくるのかなあ。「旅懐」「旅情」「旅愁」なんて言葉も漢和辞典にはあったので、そうではないのかもしれないけど。
 そもそも旅にもいろいろあるわけで、「たび」「旅行」に全てを負わせるのは大変なのではないか。例えば英語だとTripだのJourneyだのTourだのSafariだのVoyageだの…Travelももちろんある。もう少し日本語もなんとかならないか。
 旅の定義は、狭くは居住地を離れて他の場所へゆくこと、としていいだろう。さすれば、他にも言葉はある。
 いちばんつまんないのは「出張」だろうな。楽しそうではない。
 最近は「遠征」という言葉もつかう。最初は軍隊用語だったのかな。「ヒマラヤ遠征」なんて用法を経て、今なら例えば、ミスチルの福岡ドーム公演に行くのは「遠征」という言葉を用いる。
 「巡礼」もある。宗教用語だが、転じて今はロケ地やアニメの舞台をめぐる旅の意味となった。これはたぶん、「聖地」という言葉が先に、ゆかりの地を示すために生まれたんだろう。そして聖地巡礼。日本には近い意味で「遍路」という言葉もあったのだが、それは採用されなかった。語感かな。
 「放浪」も旅の一形態としてつかうな。さすらい。前述のうざいベテラン旅人なら「あなたのは旅ではなくむしろ放浪でしょう」と言えば喜ぶにちがいない。「彷徨」もあるが、声に出してもベテラン旅人に教養がないと伝わらない可能性もある。
 そうして思えば「流離」「流浪」とどんどんデラシネ的要素が増す。これは旅だろうか。「居住地を離れて…」というより居住地がそもそも無いような。映画「砂の器」で親子が流れ流れてゆく光景を思い出す。広義ではこれも旅の一形態かもしれないが。
 「漂泊」は使わないかな。芭蕉は「漂泊の思いやまず」片雲の風に誘われて東北へ旅に出たのだけど。
 言葉あそびはこのくらいにしようか。飽きてきた。GoToなんかどうでもよくなってきたが、出張、遠征、巡礼くらいまでは補助がもらえただろうか。「GoTo放浪」「GoTo漂泊」なんてギャグでもつかえない。

 僕もいい歳になって、若かった頃のようにのべつ幕無しに旅行に出ているわけでもない。せいぜい夏に少し長い旅、そして年末に妻の実家の帰省にかこつけて幾泊か動く。あとは、2、3泊の旅を何回か、といったところ。虫養いみたいなものだ。
 2019年は、夏に身体を悪くしてしまいほぼ旅に出られなかった。それでも年末には癒えていたので、少し動いた。
 成田には、真夜中についた。
 早暁、お不動さんに参拝しようと思っている。関東の人がこぞって初詣にゆく成田山新勝寺には、僕はまだ行ったことがなかった。
 夜明けまで4,5時間ある。ホテルに泊まるほどでもなく、ネットカフェに入ろうと思ったのだが、満員で断られた。そうか、成田空港の早朝便を待つ人でいっぱいなのだ。仕方なく、深夜営業のラーメン屋で軽く呑み、駅前のマクドで時間を潰した。これではGoToには引っかからない(そもそもコロナ禍以前の話だが)。
 白々としてきたので新勝寺へ。何日か後にはごった返すはずの成田さんも、今は誰もいない。
 そのあと、水郷と伊能忠敬で有名な佐原を散策。さらに香取神宮。利根川を渡って鹿島神宮を細かく歩き、鹿島臨海鉄道に乗って水戸へ。
 以前、このブログでも書いたが、尊王攘夷と水戸学についてはかなり詰めて勉強したことがある。そのときから水戸をゆっくり歩きたかったのだが機会を得られずにいた。
 史跡中心にじっくりと歩き、幕末に思いを馳せ、黄昏時になったので、最後に偕楽園へとやってきた。
 ここに来るのは、約30年ぶりとなる。あの時は、梅が盛りだった。関東に住んでいた女友達と一緒だった。
 僕はそのとき、彼女に言った。「結婚しようか」と。
 今は冬。閑散としている偕楽園のベンチに座り、昔のことを思い出していた。思いついて、既に先に実家へ帰っている妻にメールをした。今、偕楽園にいる、と。
 返信には、特に感慨深いことは何も書かれてなかった。内容を要約すれば「あっそう」。まあそうだよな。時はよどみなく流れている。僕は莞爾として、夜の水戸の町へと繰り出した。

 なかなかいい旅をしたと思った。あちこち旅をしてきたけれど、北関東はあんまり歩いていない。関西人あるあるだろう。来年はどこへ行こうか。今回は成田から始めたが、同じパターンで佐野あたりまで来ておいて、早暁厄除け大師、そして栃木、足利、桐生、前橋なんてコースがいいんじゃないか。若いころ萩原朔太郎にはまったことがある。渡良瀬橋の上で森高千里も歌おう。そんな鬼が笑うようなことをぼんやりと考えていたら、そのあとすぐ新型コロナウィルスが世界を席巻してしまった。

 生活が、変わった。
 あれから長らく、外で呑むということをしていない。宴席ではなく一人で呑む、あるいは同居人となら問題ないだろうけれども、それならわざわざ出かけなくてもいい。そして「ウィルス家に持ち込みたくない脳」をぼんやりと外向けに匂わせる。いやーもう何年も外で呑んでないよ。
 こうした「過剰に恐れる馬鹿なオヤジ」という緩いアピールが、歯止めになる。いまや緊急事態宣言の頃のような雰囲気は全くなく、普通にあちこちで宴会は行われているが、そういう席には元来行きたくないのであって、うまく断る口実ともなっている。この歳になって、今更コミュニケーションをはからずともよく、嫌われたり陰口を叩かれてももう何も支障はない。守るべきものは、他にある。
 ただ、旅には行きたい。

 僕の両親も、妻の両親もまだ健在である。人生90年時代。永らえてくれているのは有難いことだが、疾患だらけの高齢者がコロナ禍を迎えるというのも、なかなか大変である。
 妻は年に2回は帰省していたが、それも出来ない。感染の心配もさることながら、田舎には「村人の視線」というものがある。おいそれとは行けないのだ。
 僕と田舎の義兄で相談して、リモート環境を整えた。なので週に一度は、母娘がテレビ電話で話している。しかしそういうことを続けると、つのる思いもまた増幅したりするのはわかる。歳を重ねれば気弱にもなる。生きてるうちにはもう会えないのかい?
 とうとう妻は帰省を決断した。そして、正月でも盆でもないシーズンオフに、一人空路で東北へと向かった。直前にPCR検査をして、僕が空港まで車で送り、向こうでは兄に空港に来てもらい、最低限ドアtoドアで。
 滞在は半月程度だったが、後からみればちょうど波と波の間だった。うまい時期に動いたと言える。果たして、次はいつになるか。
 ところで、「出張」「遠征」「放浪」「流離」などと同様、「帰省」もまた旅の一形態か。さっきは忘れていたな。
 僕も旅に出たいのだが。

 我慢の限界にきた。
 結局、感染は人を媒体にしておこる。なら、人に会わなければよかろう。
 個人で旅をするようになって何十年。目的は、他の人と同様に主として観光である。しかしながら、若い頃に有名観光地などはずいぶんと行った。今はむしろ、目的が「素晴らしい風景をみる」ではなく「その場所に立って思いを馳せる」に移行してきている。分類すれば「歴史散策」「文学散歩」か。観光は観光だが、あまり一般には需要がないところを細かく歩いて喜んでいる。時期は問わない。シダレザクラやラベンダーも目的にしていない。写真を撮っているのは石碑や墓がほとんどだ。
 前述した旅行においても、例えば藤田東湖生誕の碑の前で佇んでいるのは僕くらいである。同じ碑でも、観光客が行列を作る宗谷岬の日本最北の碑とは様相が全く異なる。また、新年になれば何万人の初詣客でギュウギュウの成田山新勝寺だって、年末の夜明けには僕一人しかいない。梅の咲いていない冬の夕方の偕楽園を歩いているのは僕だけだ。そもそも、そういう旅行をしているのである。
 あとは、列車に乗らずに自家用車で(ガソリンはしっかり消毒してセルフで)、「土地のうまいものと酒」さえ切り捨ててしまえば、いくらでも旅はできるのではないか。
 そうして僕はシーズンオフ、車に食料と酒と自炊道具と布団を積み、2泊3日のショートトリップに出た。

 夜明け前、大阪湾に沿うように南下した。堺をすぎ、早朝の和泉国一宮の大鳥神社に参拝して、観光を始める。泉大津のロシア人墓地などは、あまり人も来ない。岸和田城を車中から眺め、いくつか古墳を過ぎて、泉佐野の樫井古戦場跡へ。ここには塙団右衛門の墓もある。
 和歌山に入り、加太の深山砲台跡へとゆく。ここが、本日の午前中のメイン。友が島の砲台は有名だが、こちらは比較的マイナーである。しかし壮観。細やかに見て歩く。
 淡島神社にも立ち寄ろうとしたが人が多そうに見えたのでパスし、今度は山に向かって進路をとる。
 伊太祁󠄀曽神社や粉河寺などあちこち寄りつつ、高野山の麓まできた。
 九度山の眞田庵は2度目なので一瞥にとどめ、慈尊院や丹生酒殿神社などに時間をとり、そこから山へ。丹生都比売神社(ここの板碑は見たいと思っていた)を経由して、高野山の結界の中へと入る。
 高野山は2度目なのだが、以前来た時には宝物館を中心にした寺院観光だったため、今回はじっくり歩いてみたかった。有難いことに、高野山には参拝客向けの大型駐車場がいくつもある。清潔なトイレもある。そこに車を止め、車中泊とする。連泊の予定。
 日も暮れたころ、持参した酒を飲み、缶詰などをいくつも空けて一人宴会。この旅行では飲食店はもちろん、スーパーにさえ寄る予定はない。ちょっと徹底してみようと思った。まあね、高野山の町に泊まる人はだいたいが宿坊であり、夜の飲食店は少ない。酩酊して就寝。
 翌朝。夜明け前から読経が聞こえてくる。さすが高野山。僕は湯を沸かし、一杯のコーヒーを喫する。この時間が本当に好き。
 夜が完全に明けたら高野山の町を歩き回る。史跡だけではなく、人々が暮らす路地などにも入りこんでみる。山頂の台地がそのままひとつの自治体であり、小中高大と学校が揃い、数々の寺院が中心ながら、生活の色も濃く、なんだか離島を旅しているような感覚になる。楽しい。比叡山延暦寺とはそこが違う。
 半日は、奥の院の墓石群で過ごす。ここは飽きない。時間を忘れる。日が暮れるまでずっと墓を巡り続ける。
 翌日。行きは和泉、和歌山経由だったので帰りは河内経由。千早赤阪村の楠木正成関係の史跡や、西行終焉の地弘川寺などあちこちを回り、夕刻には自宅へ戻った。

 接触無しでも旅は可能だな。確かにガス以外金はつかっていないし、料金のかかる施設にも入っていない。経済を回す、というGoTo的視点でゆけばけしからんと言われるだろうが、そもそも平時の旅とやってることはあまり変わらないし、申し訳ないが日本経済の為に旅に出たいわけでもない。
 困ったことは、風呂に入れないことくらい。たいていは一日の観光が終われば、どこかの温泉に寄ってあふうぅぅ…というのが楽しみだったのだが、それを今回は省いた。濡れタオルで体を拭けばそれなりにさっぱりはするが、物足りない。
 それ以外は、だいたい満足である。いい旅をした。

 調子に乗った僕は、また旅に出た。今度は丹後半島を中心として2泊3日。これも前回同様、非接触を旨とした旅である。
 立ち寄っているところは、山椒大夫の安寿姫の塚とか、静御前生誕の地とか、細川ガラシャ夫人の幽閉地とか。全然他の観光客と出会わない。
 しかしマイナー観光地(失礼)だけではない。丹後最大の景勝地である「日本三景」天橋立にも、実は行った。
 結局これも、方法と時間帯なのである。天橋立といえば「股のぞき」であり、たいていの観光客は山に登る。そして、観光スポットは駅のある南西側に集中している。日本三文殊である智恩寺があり、大天橋が架かる。それに付随して門前町があり、旅館が林立し土産物屋が並ぶ。
 股のぞきは昔やったことがあるのでパスし、日も暮れたあと、逆の北東側、籠神社のあたりからアプローチした。大砂州の根もとあたりに小さな駐車場があり、そこで一夜を明かした。
 そして早朝。天橋立縦断ウォーキングを試みた。約3.6km。朝5時から歩いている人などいない。さわやかな松並木の散歩。この巨大砂州は、日本の道100選ともなっている。また砂州の途中に鎮座する橋立明神の脇には、名水100選の「磯清水」もある。
 小一時間かけて大天橋を渡り智恩寺まで来ても、6時くらい。それでもさすが日本三景、ぼつぼつ観光客が姿を見せてきた。頃合いになったので、僕は踵を返して戻った。

 「非接触」「感染防止策の徹底」などと大上段に構えずとも、こんな旅ならなんら問題はない、と思う。前述したように、もともとの今の僕の旅のスタイルを大きく変えているわけではない。そもそも日常生活のほうがよっぽど感染機会が多く、危険といえる。
 メシと風呂だけは少し難ではあるが、2度目の旅は、買い出しを解禁した。高野山の旅は山上2泊だったが、今度は日本海沿岸2泊である。スーパーで刺身くらいは買う。やっぱり新鮮なものはうまい(笑)。食べているのはもちろん車中である。
 こんなふうに、自分の交通手段を用いての旅だと、ほぼリスクは回避できる。だが、電車に乗って自由に旅をする、というところまでは、まだリスク無しには難しい。 

 もうひとつ、考えることがある。
 「旅と旅行とは違う」と同じ文脈で語られることが多い言説がある。曰く、

 「旅ってやっぱり出会いだよ」

 出会い。もちろん広義には「素晴らしい風景に出会う」「おいしいものに出会う」なども含まれるだろうが、意味合いの大半は、人との出会いを指すだろう。うざい旅人なら「出逢い」と書けとか言うだろう。
 僕も、旅の中での人との出会いについては、数多くの思い出をブログ内で書いている。
 幾多の場面で、いろんな人に助けられたし、いろんな人と笑ったし、いろんな人と語り合った。それは人生においてかけがえのない追憶として今も胸に生きている。人生が思い出の集合体であるとするならば、旅における彼の人たちとの出会いがもしも無かったとすれば、僕の人生なんて本当にスカスカだったろう。現実的に見ても、今の妻とも出会ったのは旅の空の下であり、旅がなければ人生そのものが別のものになっていたはずだ。

 利己的に言えば、今の僕にはもう特に出会いは必要ない。ひとり旅であれば、ここ何年も非接触の旅をしていたのと同じだった。もうこの歳になれば、寂しくもない。むしろ気楽であって、誰とも出会わない旅を謳歌していた。なので、コロナ禍においても少しの修正と考え方の変更によってなんとかなった。
 しかし、もしも僕の青春時代がコロナ禍だったとすれば。
 本当にゾッとする。もちろんこれは旅行に限ったことではなく、旅行をしなくとも青春時代は大きく形を変えていただろうし、また「もしも僕の青春時代が戦時下だったなら」などというifとも通じるものがあるが、今の若者はどう思って日々を過ごしているのだろうか。
 無論のこと、今の若い人の価値観は僕とは異なるだろうし、また若者にも多様性がある。さらに時代が違う。「もしも僕の青春時代にスマホとネット環境があったなら」というifも考えたくなる。でも可能性が狭められているのは間違いない。なんとか充実した青春を送ってくれ、と切に願う。

 もはや、もとの世界に戻ることはないのだろうか。なんだか、今の様相をみていると絶望的な気もしている。検査の充実と、インフルエンザにおけるタミフルのような特効薬があれば、とは思うが、同じコロナウィルスである風邪の特効薬もないのにこれは相当に難しい。おそらく、なし崩し的にこのまま日常を取り戻したふりをして生きていくのだろう。
 思い切り利己的に考えれば、家族の内臓疾患が寛解し、さらに身内から高齢者がいなくなったときが、ひと段落なのだろう。しかし、その頃には僕も高齢者になっているような。さすれば、自らを切り捨てる哲学を持たなくてはならなくなる。
 電車に乗って駅弁を食べたり酒を呑んだりすることが、何か人に影響を及ぼす可能性のない世の中に、いつかは戻ってほしい、と願っている。空を見上げてため息ひとつ。
 
 




コメント (1)
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堀内孝雄「忘れな詩」

2015年12月28日 | 好きな歌・心に残る歌
 目先のことに埋もれて心が茫々としてくる。何かを見失っているように思う。この漠とした不明瞭さはいったい何だろうか。
 心の焦点があわない日々が続く。

 今年は秋から冬にかけて、葬式によく出た。
 冠婚葬祭の中でも葬式は前触れなく行われるもので、なんともいたしかたないのだが、3ヶ月で4回は多くないかい? どうしてみんなそう足早に逝ってしまうのか。
 なんだかどうも葬儀会場にばかり足を運んでいたような気がする。葬式は今、都市部ではほとんどが専門の葬儀会場で執り行われるので、お宅へ伺ったりすることは、ほぼない。無味乾燥であるような気もするが、時代だろうか。
 どこも同じようなつくりであるため、ふと錯覚を起こし「先週も来たな」とか思ってしまう。

 話が変わるが、こういう葬儀会場が増えてきたのはいったいいつごろからなんだろう。
 高度成長期だろうか。家の主流がマンションなどの集合住宅となれば、そこで葬式をするわけにもゆくまい。寺院で執り行うこともあっただろうが、非檀家の核家族の割合が高くなればお寺さんでの葬式も難しくなっていく。
 僕の祖父母の時代は、まだ自宅葬だった。家に祭壇が作られ、そこから出棺した。まだまだ昭和の時代のこと。ただ母方の祖母は長命し、亡くなったのは平成になってからで、葬儀は斎場で行われた。時代が変わったのだ。
 今は老人人口が多くなり、葬儀会場がどんどん新設されているように思える。介護施設と並んで盛況なビジネスとなっているのではないだろうか。もしかしたら過当競争になっているかもしれない。新聞にも毎日のように斎場のチラシが入っている。
 電話による勧誘も多い。とある日に僕が電話に出れば「セレモニーホール○○ですが」と。あちらも仕事でやっていることで大変だろうとは思うが、葬儀の予定などを訊ねられるのは気分の良いものではない。妻に尋ねると、平日もあちこちからかなり掛かってきているようで、電話に出るのが嫌になったと言う。
 
 11月には叔父が死んだ。急死だった。
 父の弟だが、これで6人兄弟の長兄である父も、三人の弟を失ったことになる。
 さすがに父の落ち込みは見ていて辛くなるほどで、最も年長である自分が何故生きているのか、などという。もう一人の弟も、今は車椅子でしか動けない。僕からすれば、他の叔父たちと違い酒も煙草もやらずストイックに過ごしてきた父は長生きしてもらわねば困るのだが、本人としてはいたたまれないのだろう。
 叔父の葬儀も、やはり会場で行われた。
 慟哭を聞くのは、辛いものだ。
 葬儀が始まると、音楽が流れた。どこかで聴いたことがあるのだが、すぐには思い出せない。「これ、何の曲やったかな?」と僕が独り言のように言うと、隣にいた叔母(父の妹)が「ロッホ・ローモンドや」とすぐに言ってくれた。あっそうか。
 スコットランド民謡の名曲だが、こういう澄んだ美しいメロディは、もしかしたら葬儀に合うのかもしれないと思って聴いていた。聴くうちに、涙が出た。
 ただ、叔父が指定したわけではあるまい。葬儀場が用意していたものだろう。血管が破れ救急車の車中ではもう既に意識が無かった叔父が、そんなことまで遺言をしたはずがない。

 葬式に音楽を流す、というのは、おそらく葬儀場が始めたことではないか。自宅葬の頃は、そんな習慣は無かったのではないかと思う。つたない経験からの話で、実際はそうではないかもしれないが。あれ、キリスト教の葬儀では讃美歌が流れるのだったっけ。「主よ御許に近づかん」というのは、フランダースの犬の最終話を観て泣いた世代の僕としては、馴染みなのだけれど。しかし仏式だと、読経だよなあ。
 最近は自宅葬においても音楽は流れるようで、以前とある田舎で葬儀に参列したとき、出棺の際になんとも言えない悲しい曲が流れた。曲名はわからない。インストだがどちらかといえば演歌調の曲で、ただ悲しみを助長させるだけに思えた。ああいうマイナー調の曲はどうなのかと思う。おそらく互助会が用意したのだろうと思うが、例えば結婚式の花束贈呈で「かあさんのうた」が流れるようなものだ。
 ただ、葬儀に音楽が定着していることはわかった。

 別の機会。「自分の葬式にどういう音楽を流したいか」という話題が妙に盛り上がった。主体は若い人で、葬儀に音楽は当たり前の世代らしい。
 驚くことにその場にいただいたいの人はもう決めているようで、尾崎豊がいいだの「私は絶対にハナミズキ」だのと言っている。そうか。
 僕は、そんなこと考えたこともなかった。叔父の葬儀の前で、ロッホローモンドなどもまだ聴いてない。尋ねられたのだが気の利いた答えも言えず窮して「どうせ自分は死んどるんやしそれを聴くこともできんやないか」などと冷や水を浴びせるようなことを言ってしまった。場の空気もみず誠に申し訳ない。
 
 僕は、葬式自体が必要ないと思っている。
 昨年、別ブログで村落墓地の連載をしたため、民俗学的に葬儀というものの歴史と実態についてかなり様々な書籍を読んだ。考えるに、現在の葬儀というものは江戸時代の檀家制度、寺請制度の名残で、そんなものは僕個人には関係ない。信仰心もなく、死んで浄土に行くとも地獄に落ちるとも思えないので、戒名とかはどうでもいい。
 夏に、内臓にヘンなものが見つかって入院した。僕も死を考え、妻に「葬式はせんでええぞ。金がかかりすぎる。どうしてもと周りがやかましく言うなら、とにかく最低ランクでやって。金は残せ」と言ったら、妻が「縁起でもないことを」と怒った。
 そのときも、さすがに音楽までは考えなかった。

 葬式にふさわしい音楽とは、なんだろうか。
 おそらくは、インストがいいのだろうと思う。そしてきれいな曲で、マイナー調でないほうがいい。葬式と言ってすぐに思いつくのはショパンの葬送行進曲だが、これが掛かっていたのを聴いたことがない。おそらく、生々しすぎるのだろう。
 まあクラシックか。「G線上のアリア」とか「亡き王女のためのパヴァーヌ」とか。ラヴェルは実際に聴いたことがある。
 歌詞があるものは、相応ではないような気がする。まあ洋楽であればいいか。言葉の意味がわからないほうがいい。ロッホローモンドは、そういう意味でもふさわしい気がしてきた。もっとも、僕が実際に聴いたのはインストだったけれど。
 もっと明るくゆくなら、カントリーの名曲「Will The Circle Be Unbroken」がある。加川良さんのカバー(その朝)や、なぎらさんのカバー(永遠の絆)が有名だが、やはりここは原曲か。

  will the circle be unbroken
  by and by load by and by
  there's a better home a-waiting
  in the sky, lord, in the sky

 やっぱりダメだな。なんか泣きそうになる。
 ハンバートハンバートの「大宴会」なんかもいいとは思うんだけれど、こういうのはBGMになりにくいからやっぱりふさわしくないかな。

 今は、自分が死ぬときに、どんな音楽が流れていたらいいか、を茫洋とした心のままに考えている。
 葬儀は必要ないし、もしも自分の葬儀がなされたとしても、僕はそれに出席していないのだから、どうでもいいと言える。
 いちばん好きな歌を聴きながら逝くかな。そうなると「他愛もない僕の唄だけど」とかになるけど、なんか違うな。
 
 終焉を迎えるときに去来するものとは何だろうか。
 それは、自分自身にとっては、追憶しかないと思っている。
 おそらく「思い出」だけが、最後に残るものだ。あの世が信じられない以上、歩んできた足跡だけが僕には残される。そのめぐる追憶というものが幸せなものであったならば、莞爾として人生を終えることが出来る。
 そのとき、僕が独りであれば、もう何も思い残すことはない。
 僕には子供がいないため、心配なのは妻だけだ。彼女を残してゆくのは忍びない。つまり妻より一日でも長生きすればいい。だから、老いるまで何としても生き延びなければならない。
 そしてこの世を去ったあとは、いったい何が残るだろうか。
 墓標などいらない。骨なんかは産業廃棄物でいいと思っている。そもそも、子孫がいない僕の墓など一瞬で無縁となる。だいたい墓を建ててくれる人などいるのだろうか。甥や姪に金を置いて死ねば建ててはくれるだろうが、無駄なことだ。
 近親者や友人が、まだそのときにいるとすれば、彼らに多くは望まない。すぐに忘れ去られるのも寂しいから、なんとなしにあんな男がいたと記憶の片隅に置いておいてくれればいい。
 功成り名を遂げた一部の人とは違い、僕も含めた市井の人間は、居なくなれば語り継がれることなどない。だから、僕が居なくなって、さらに僕のことを直接知っている人も居なくなれば、僕という概念上の人間もまたこの世から消える。
 
 そこまで思いめぐらして、べーやんの「忘れな詩」が浮かんできた。

  もしも私がうたい終わってギターをおいてこの場所を遠く去る時に
  誰一人うしろ姿にふり向く人はいないとしても それでいい 想い出一つ残せれば
 
 この詩を書いた中村行延さんは、今どうしてらっしゃるのかなあ。公式サイトも消えている。行延さんが出なくなってから「きらきらアフロ」も見なくなった。喫茶店を閉店したあと、就職されたというような話はおっしゃられていたが…おそらくはどこかで歌っておられるとは思うのだけれど。

  けれどあなたの青春のどこかの季節に まぎれもなく私がそこにいたことを
  いつまでも いつまでも 忘れないでいてほしい
  あなたにだけは この詩 忘れないでいてほしい

 忘れないで欲しい、というのは、本音ではあるけれど、そこまで強くは望んでいない。何かの機会に、思い出してもらえる存在であったならいいな、という程度。そんな気持ちを、べーやんの歌に託したいという思いが、今はある。
 
 そしてそれは、逆に今を生きる僕の気持でもある。
 今年も、何人もの人を見送ってきた。僕の人生に強く影響を与えてくれた人、優しくしてくれた人、力になってくれた人。僕は、あなたたちのことを生涯忘れない。いつまでも、いつまでも、僕の追憶の中に生き続けてもらう。
 でも、もうあえないんだな。さびしいね。
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