夜を歩く
オンライン作家同人サークル「#創作文芸:*.jp」
会誌th14:テーマ「約束」素案
1
喫茶店で飲むコーヒーより旨いものはない。ああ、それは良くわかってるよ。薄暗くも温もりのある西日の白と内装の黒が織りなすコントラストは素晴らしいものだ。
店内に掛かる名曲だって素敵だ。ウエイトレスが美人だったら言うことはない。感情の伴わない幾ばくかの会話だってないよりはずっと良い。
それに僕には共にコーヒーを啜る仲間だっている。
けれども夜勤明け、家に帰ってからゆっくりとミルを挽いて淹れるコーヒーだって悪くない。
12時間の肉体労働を癒す唯一の救いだ。冬の朝、張り詰めた街の帰り道、そんな光景を想像するのは楽しいものだ。
コーヒーを飲んだらどう過ごそうか? そんな呑気な日常が僕の毎日だ。
はっきり言って夜勤労働を3年もこなせば自然と選択肢は知れてくる。
昼間の殆どを眠っているわけだから友人だって減ってくし、なにより勤務明けが朝の8時、勤務開始が夜の20時なのだ。
間に寝なきゃならないし、行くことの出来る場所だって限られてくる。渋谷の名画座、喫茶店でのモーニング・コーヒー、それからテレビ・ゲーム。
ここ3年の明け休みはだいたいこんなものだ。決して多くない友人の中、朝から飲み会を開いてくれる者が居るわけもなく、僕はだいたい一人きりで生活している。
そう――カメラマンを志した24歳の冬からずっと……。
夜勤労働者の辛さの最もたることは、おそらくは休日だと思う。
休みともなれば次の勤務まで36時間もあるわけだが、これまた同じリズムで生活しなければ勤務に支障が出てくる。
休みに日勤者と遊びに行けば僕の貧弱な体内時計はいとも簡単に崩れていく。友人の活動時間に合わせて眠る生活は想像以上にずっと辛い。
けれども僕はそういう生き方を選んだのだ。本気でカメラマンになれると夢見ていた当時の僕の選択だ。その選択を27歳の僕が後悔しても今更である。
そして、今日はその休日なのだ。
2
僕は缶コーヒーを殆ど飲まない。仕事の時には魔法瓶を持って行く。淹れることに慣れた今、香りもなく糖分の偏った缶コーヒーなど飲めやしない。
それでも週に1度か2度、缶コーヒーを飲む日がある。そしてそれは缶コーヒーでなきゃならない日なのだ。その日だけ、缶コーヒーは魔法の飲み物と化す。
3
20時ぴったりに僕は家を出る。尻ポケットに財布、肩にカメラを引っかけて。
そう、今日は予定のない休日。たっぷり睡眠をとったばかりの夜。これから朝の8時までサイクルを維持する為の散歩に出かける。
外付けフラッシュを装着した古ぼけたOM-1をひっかけて。
僕がカメラマンを志した当初、その頃は最新型のデジタル・一眼レフを持っていた。自称ではあったがカメラマンと記載した個人名刺も携帯していた。
それがどうしてだろう? デジタル・カメラは売り払われ、残ったのは古ぼけた中古カメラと、肩書きだけは立派な配ることのなかった大量の名刺。
夜勤生活に慣れた僕は昔のような野心もなく、難しいこと(例えば具体的な将来とか)を考えられなくなっていた。
カメラマンに資格は要らない、そう考えた当時の自分を浅はかだと思う。けれども僕は未だにカメラを所有している。
4
夜を歩く――その行為は何かしらの背徳感を人に与える。誰も居ない場所を探し歩く行為は奇妙だけれど魅力的な瞬間だ。
幾つもの路地を抜け、光の当たらない場所を探し求める。そこにはきっと普段人が気づけない魅力的な光景が広がっている。
僕は今、その瞬間を切り取る為に歩いている。何度も諦めたカメラマンとしての自分を取り戻す為に。
途中でいつもの自販機の前で立ち止まる。もちろん缶コーヒーを買う為に。僕が缶コーヒーを買うのは夜を歩く時だけだ。
特別甘ったるいカフェ・オレなんかをセレクトして持ち歩く。夜の巡回者にだけ、缶コーヒーは魔法をかけてくれる。僕はそう信じている。
5
休日の夜を散歩に充て始め始めたのはいつだっかのか、今ではもう思い出せない。けれども僕は毎週毎週、まるでひとつの習慣のように夜を歩く。
同じ時間、同じ風景、同じ顔ぶれ……。
夜の街はいつだって同じだ。季節以外に変わるものは殆どない。けれど、変わらない世界に住み続ける、変化を求める者達が僕は好きだ。
バンドマン、ホステス、タクシー運転手、新聞配達員、警備員。
彼らは常に変化を望む。現状への不満、将来への不安、自分が何者にもなれない恐怖。けれど彼らは、彼らの望む世界へ進む努力を惜しんだりしない。
例えその努力が報われなかったとしても、彼らはとても良い顔をする。僕はそんな彼らに声をかけ、カメラのシャッターを切る。
6
僕がカメラを持ち出したのはごく最近のことだ。はっきり言ってOM-1というカメラは最新のデジタル・カメラより重く、現像するだけでも結構な金額になってしまう。
それに外付けフラッシュを付けないことには夜を切り取ることが出来ない。それでも僕がOM-1に拘るのは多分、親父から譲ってもらったカメラだからだろう。
それに今の僕が撮る風景や人物は、以前とは違い、肩に力のこもらない気楽な写真なのだ。いささか手間の掛かる方が楽しみというものだ。
南阿佐谷から青梅街道に出る途中、いつも通り巡回中の警備員に出会った。
「やあ、定線巡回かい?」僕は煙草に火を点け、彼に挨拶する。
「定線も乱線もないよ」と彼は言って、警帽を脱いだ。「だってこの施設、とても小さいんだ。いつも通りの暇潰しだよ」
僕は彼の後ろにあるマンションを見上げてみた。彼が常駐するマンションは、周りの建物と比べれば一回り小さかったけれど、
それでも僕の住むアパートよりはずっと大きく、洗練されていた。僕は煌々と照らされたその建物に向かってフィルターを切った。
「なあ、そんな態度でどうするよ。結構な額貰ってるんだろ? 給料分は働きなよ」
僕は呆れた口調でそう言った。
「言わなかったっけ? 俺、ここの施設月末で終わりなんだ。来月からはホテル勤務だとさ。ほら、浦和にあるパインズさ」
「ロイヤルパインズホテル? すごいね」
「まあね」と彼は言って、ポケットからハンカチを取り出し、頭を拭いてから警帽を被りなおした。「寂しくなるね。あんたと話せなくなると」
「仕方ないさ、僕も君もいつまでも同じ場所に留まるわけじゃないからね」
「――変化は必要?」
「そこに主体性さえあれば」
「そうだね……」
「気を落とすなよ。いつだって会えるさ。夜勤者同士だしね」
「あのさ、時々どうしようもなくたまらなくなるんだ」しばらくして彼は言った。
「夜勤に対して?」
「うん。それもある……いや、そうだね」
「何かあった?」僕はそう訊ねてみた。
「やりたいことが見つからないんだ。マンション警備の後、ホテル警備に移って……そしてまた月日が経てば他の現場に回される。
そうしている内に、いつか取り返しのつかない程年老いていくんじゃないかってさ。ねえ、あんたは夢とかある?
どうしようもなく掴みたい夢さ。多分、俺に足りないのはそういう野心めいたものなんだよ」
「分からないね。夢があっても年老いていくし、それは日勤者だって同じだよ」
「そうだね」
「アーッ! 昨日キスした時、舌入れときゃ良かった!」
「突然何?」
「例えさ。こんな風にどんな物事にも後悔は付きまとっているんだよ。突然体が動かなくなったり、味覚がなくなったり……。可能性の話だけどね」
彼は肯いた。
「だからさ、夢がなかったら食いたいもの、欲しいもの、口説きたい女、そんな小さなものから欲求を叶えていくべきなんじゃないかな?
夢がなくたってそういうことくらいならあるんだろう?」
「あんたは実践してるの? その、欲求の赴くままにってやつ」
「さあね」僕はそう言って、ポケットの中から一枚のパンフレットを取り出し彼に手渡した。
「休みが合えば来てみてよ」。
「ん……何さ、コレ」
「変化は必要だろ?」僕はそう言って、写真展のパンフレットを眺め続ける彼に手を振り別れた。
7
夜の散歩を繰り返すと、自然と顔見知りが増えてくる。阿佐ヶ谷から高円寺まで歩くと実に様々な人々とすれ違う。
1回しかすれ違わない奴もいれば、毎回すれ違う奴もいる。僕の個人的な見解ではあるが、3回も出会えばだいたい話し相手になってくれる。
警備員の彼もそうだが、これから会いに行くバンドマンもそうだ。
僕は彼が演奏しているライブ・ハウスに着くまでにカメラのフィルムを替え、2本の缶コーヒーを購入してライブ・ハウスの中に入った。
そのライブ・ハウスは神社とクリーニング屋に挟まれた雑居ビルの地下にあり、表向きはいささか怪しげなところではあるが、
中は日本家屋を改築したようなレトロな空間で僕は気に入っている。階段を下りる途中から大きなオルタナティブ・ミュージックが聞こえ出し、
一緒になって黄色い声が割って入る。ここでは毎日違うバンドが演奏する。
目当ての彼はスポットライトの当たらない小さなソファ席に座り、ポータブル・ビデオ・カメラで客席や演奏者を撮っていた。どうも出番は終わったらしい。
僕は見たことのないバンドが演奏を終えるのを待って彼に話しかけた。
「少し来るのが遅かったかい?」
「いや、そんなことないよ。俺のバンドは今夜出ない」彼はそう言って、ポータブル・ビデオ・カメラの電源を落とした。「出ようか、ここは少しうるさすぎる」
彼の後を追ってライブ・ハウスを出、隣の神社にある腰掛けに共に座った。
「てっきり今夜は君のライブだと思ってたよ」僕はそう言って、一本の缶コーヒーを彼に手渡した。
「俺のバンドは明日さ。コーヒーさんきゅ」
「ああ。一応差し入れだったんだけれどな、まあいいや」
僕と彼は笑ってプルタブを開けた。
僕が彼と知り合ったのは散歩ではなく、阿佐ヶ谷ゴールデン街の一軒の沖縄料店だった。
一見の客として入った僕が驚いたことは、その店にはテーブルと椅子はひとつもなく、大きなちゃぶ台がひとつだけあることだった。
ちゃぶ台を囲った連中は年齢も性別も職業も関係なく、同じ皿に収まったゴーヤ・チャンプルーを突き合っていた。
僕はうんざりした気持ちで腰をつけ、授業員がメニューを持って来るのを待った。しかし、メニューは一向に来る気配がなく、代わりに彼がオリオン・ビールを僕の前に置いた。
「いつまで待ってもメニューは来ない。この店は全ておまかせなんだ」
「おまかせ?」僕は隣に腰掛けた彼にそう尋ねた。
「そう、お任せ。ママがつくったものを俺らが食べる」と言って彼は僕のライターで不味そうに煙草に火を点けた。
「ねえ、君はここの授業員なの?」
「違うさ。でも時々手伝うことにしてるんだ」
「何故?」
「ああ、それはね……」と言って、僕の後ろにあるギター・ケースを指差した。「自由に演奏させてくれるからね」
「随分と変わってるね」
「俺が? それとも店が?」
「両方さ」
僕がその店に通い続けるのに、それ程時間は掛からなかった。彼の演奏は通い続けるに値する、何かしらの力があった。
以来僕は沖縄料理屋と彼のバンドが出演するライブ・ハウスに通うようになった。
「CDの売れ行きは順調?」
「悪くないよ。八丁堀と阿佐ヶ谷にしか置いてないけど、うまい具合に売れてる。ファースト・アルバムの売れ行きよりずっと良い。あんたの写真が良かったせいだね」
「そう? 嬉しいよ」
彼の二枚目のアルバムには、僕が撮影した写真が使われている。飲み屋にカメラを持って行った時、
たまたま収めた写真だったがそれを気に入った彼が勝手にジャケットに仕立ててしまった。
「ねえ、この前貰った写真展のパンフレットだけどさ」と彼は言った。
「うん」
「あれは本気なの?」
「どういう意味さ」
「いや――タイトルのことさ。『昼夜の街で』って……馬鹿げてるよ」彼はそう言って頭を振った。「あんたは夜しか出歩かないじゃない?」
「そう。僕は夜しか出歩かない」
「だったらさ、昼の写真はどうするのさ」
「大丈夫。僕一人の個展じゃないさ。役割があるのさ。ちゃんと朝の担当だっているよ」
「そうなの? 初耳だぜ、そんなこと」
「当日を楽しみにしててよ」僕はそう言って煙草の煙で会話を閉じた。
8
カメラマンになる夢を、僕は諦めたわけではない。ただ、今は少し休憩している。昔みたいに最短距離で目指しているわけでもなく、
カメラマンに固執しているわけでもない。言うなれば、趣味の延長みたいなものだ。24歳で本気になり、26歳で諦め、27歳で趣味に戻った。ようはそういうことだ。
9
明け方4時過ぎに僕が必ず寄る場所がある。僕は横道に入り、路地裏にある一軒の軽食屋に入る。
その店は深夜から早朝までやっている少し変わった料理屋で、簡単な料理と酒を飲むことが出来た。僕は散歩の途中で軽く食事をとることにしている。
「いらっしゃい」
ドアを開くと店主のやや疲れた声が聞こえた。ここの店の主人はいつも疲れている。おそらく彼も、長年の夜勤生活で体が参っているのだろう。
僕はカウンターの席に座り、ハムエッグ定食をオーダーしてから店内を軽く見渡した。隅の方に飲み過ぎたサラリーマンが二人、焼きおにぎりを前に眠っていた。
おそらくは始発が動くまで居座るつもりだろう。他にはおしんこと熱燗だけが置かれたテーブルがひとつ、客は見当たらなかった。
僕は煙草に火を点け、乱雑に積まれた週刊誌の中から一冊を取って料理を待った。
「よぉ、そろそろ来る頃だと思ってな、先にトイレを済ませていた」
そう言って声をかけて来たのは、近くのテナントのオーナーだった。彼はテーブルに置いたままの熱燗を持って隣に腰掛けた。
「何頼んだんだ?」
「ハムエッグ定食」
「またか。いつもそれだな、あんた」
「ワンコインが好きなんだ、無性にね」
「そうかい?」彼はそう言って僕に酒を勧めた。僕はそれを断り、出来上がったハムエッグに醤油を垂らした。
「俺の酒を断るもんじゃないぜ。あんたの個展、誰のおかげで開けると思ってるんだ?」
「酒は好きじゃないんだ。それに、金だって支払っただろ?」
「半分だけな。残りはどうした?」
「きっと給料前なんだ、少しは待ってやってくれ」
僕は抑揚のない声でそう言って、ハムエッグを食べ始めた。
僕の隣に座る親父は、今度開くことになった個展のスペースを所有している。
カメラを挫折した僕が個展だなんてなんだか馬鹿げているけれど、僕は来月個展を開くことになっている。
個展を開くことに決めたのは、もちろん僕一人の決断ではなかったけれど、結局は開くことに決めた。
目的も持たず夜を歩き、茫漠な人生を送る毎日に少しでも変化を与えたかったのだ。そして僕は決意し、一週間の写真展を開くことになった。
スペースを確保するには12万円が必要だった。僕が7万、もう一人が5万をそれぞれ負担することになっていたが、親父の話からどうやら僕しか支払いを終えていないようだった。
「話を持って来たのはあんただろう? 相方に即刻持ってくるように伝えてくれ。今回の個展が成功したら次からはもっと安くしてやるってな」
「成功って? 僕らはただ、純粋に写真を飾るだけさ。成功も失敗もない。それに――殆ど誰にも知らせてないんだ」
「俺を誰だと思ってやがる。招待状はとっくに出してるんだ」
「まさか? 一体誰に?」
「聞きたいか?」
「いや――やめておくよ。どうせ僕の知らない世界だ」
「ああ、そうだな。けどな、成功したら変わってくる。あんたの世界も開けるさ」
「期待してるよ」
「金さえ持ってくりゃあな」
親父はそう言って、酒の勘定を払って店を出た。僕は一人、冷めきった定食を黙って食らった。
10
多くのものには目的地が設定されている。そして僕の散歩にも。
食事を終えて店を出ると、ちょうど太陽が昇り始める。――朝だ。また今日も新しい一日が始まる。
僕は用済みになったカメラを後へ回して高円寺の駅前公園へと向かう。彼女はそこで待っている。そこが僕の目的地。
写真展には二人のカメラマンがいる。夜の担当が僕で、朝の担当が彼女だ。僕の散歩の目的はカメラを持たない彼女の為に、カメラを渡す為でもある。
彼女は代わりにコーヒーをご馳走する。そういう約束だ。
僕らはまるで太陽と月のように、朝と夜とを行き来する。
「おはようございます」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「おはようございます」
僕と彼女は生きてる世界が違う。違う日常を見て、違う風景を歩いている。
だから僕らが顔を合わすのは、ふたつの世界の接点であり、それは何処にも属さない、隠れた時間の中にある。
違う感性を持った二人。――多分、だから楽しいんだろう。
駅前の公園には一匹の太った三毛猫がいる。僕と彼女はこいつに餌付けしている。
公園に彼女の姿はなく、僕はベンチにカメラを置いて三毛猫を抱き抱えた。その時、背後から聞き慣れたシャッター音が聞こえた。
振り返った先、彼女はそこに居た。
「何してんのさ」
「ん……セルフ・ポートレイト?」彼女はそう言った。
僕は肩をすくめてポケットから新しいフィルムを彼女に手渡した。
「スペース代、さっさと払いなよ。親父が君に伝えてくれってさ」
「給料が入ったらね」彼女はそう言って笑いかけた。
「まあ良いさ。それよりコーヒー飲みに行こうよ。そろそろ開店の時間だからね、今日もご馳走になるよ」
「うん。約束だからね」
僕らは三毛猫に別れを告げて、光の中に身を投じた。
僕らのセルフ・ポートレイトを撮るならば、今この瞬間の後ろ姿だろう、なんて風に僕は一人考えた。