Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

史上最強の映像制作楽劇

2024-04-22 | マスメディア批評
土曜日の第一回ARDオペラ中継は素晴らしい船出だった。ある程度の予想は立てていたのだろうが、ここまでの中継録音になるとは企画者も考えていなかっただろう。今迄ラディオで様々なラディオ中継を聴いてきて、そしてエアーチェックと称して、今でも手元に沢山のカセットテープがある。しかし何回も繰り返してリフェレンス録音となるようなものは殆どない。音質の問題もあるのだが、映像がないので聴いていられないというのも少なくない。また映像は面倒だから殆ど観ない。

だから先日購入した「マスカラーデ」も音だけ出してその演奏内容を確認することになる。流石に舞台を二度も観ているので、視覚は記憶で補える。そしてその音が修正も加えて近接マイクで捉えていることから、本当に素晴らしい愉楽でさえある。そしてエンゲル指揮がいい仕事をしていることを確認して大満足なのである。

その意味から今回の放送の復活祭の中継録音も三回の訪問でその視覚で補えるだけでなくて、どの夜にどこがどのようにというのは朧気乍ら記憶されている。だから余計に今回のマイクによる収録が成功していることがよく分かった。逆に知り過ぎていて、又楽譜でチェックはしていないので判断が付きかねるが、今回の録音は修正はされているものの劇場実況録音としては金字塔の出来となっている。

ホールの音響もくまなく捉えられていて、もう少し容量が大きければ世界最高の音響になっていただろう、それが録音から再体験可能となっている。この音響は横長扇型のザルツブルクでは不可能なので、記録に捉えられたことになる。

そして番組では、この新たな番組企画の紹介に続いて、イゾルデ役などと違い長く歌っていたエレクトラ役を最後に歌う主役のニナ・シュテムメに初日の翌日インタヴューをしている。その前にまさしく彼女の頂点の歌声であった初日のモノローグを特別に流した。これで、この中継録音も制作録画の音声もこの初日を中心に編集されることが確証された。つまり予定通り3月26日二回目公演は映像の為の晩だった。音楽的には一番弱かったが、最終日31日に最終修正されることで素材が揃った。

初日のフィナーレの拍手までが其の儘で、部分的に修正されていたのだろうが、詳しくは調べてみないと分からない。他の歌手の出来の凸凹の修正があるのもそれ故だが、全体的に画期的な映像制作になる。

これだけ感動させる中継録音を聴くのは初めてで、フィナーレなどはその時と同じぐらいに興奮する。更に適当に編集されているので、弱いところが無く一気に最後まで引き付けられた。この映像制作は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇のそれを越えて、史上最強のものになりそうで、一夜を潰して丁寧に撮ったライヴヴィデオがどのように繋げられるかを期待したい。

昨年の「影のない女」の様にその舞台を含めての大成果ではなかったが、今回のそれは聴覚だけでも視覚だけでもとんでもなく素晴らしい制作となった。こうしたものが、ヴィーンでの演奏会キャンセルに関して書いたが、決して商業主義的な目的で制作されるものではないという事に改めて注意を喚起したい。



参照:
究極の表現主義芸術実践 2024-03-24 | 音
聖金曜日からの不信感 2024-03-31 | 暦
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドラマの世界の独立性

2024-04-21 | 文化一般
寒い、山では雪になるようだ。激しいものではないが、ワイン街道でも雹が降る。寒いとは思いながらも雨が上がったので朝から一っ走りする。冬の上着をもう一度着るのは嫌なので裸で走る。陽射しがあると暖かいが、影に入ると秋である。風が吹くと震える。

収穫されるワインに与える影響はなんとも言いかねるが、影響を受ける筈だ。車中のラディオが独公共放送網のオペラ中継番組第一弾に今復活祭にバーデンバーデン祝祭劇場で収録された新制作「エレクトラ」が20時からSWR2をキー局に放送されるとアナウンスしていた。

録画は編集制作されて秋に放送されることは知っていたのだが、ラディオ放送に関しては確信はなかった。その理由に初日にはマイクが入っていなかったように思えたからである。例えば昨年の「影のない女」の中継録音は最終日が生中継され、映像は他日の録音と編集された。今回はカメラは二日間しか入っていなかったので、総稽古時の素材などからも編集されて、音声に付けて制作される。

つまり今回の放送録音はその映像制作の基礎になるものである編集済みである筈だ。しかし、バイエルンの放送協会のサイトには初日の録音となっている。実際はよく分からないが、三日間の特徴は分かっているので、本当に初日の編集無しものであれば、主役のニナ・シュテムメの熱唱とそしてフィナーレの盛り上げ方で分かる筈だ。聴いてのお楽しみとなる。

なによりもマイクでの収録で、実際の視覚でのテキストの理解度をどのように補っているのかなど興味深い点も多い。特に今回は奈落から出てベルリンで舞台上で演奏されたものは一様に喧し過ぎると批判されていたので、全くそのようなことはなかった祝祭劇場での録音も決定版としてとても重要になる。

少なくともあれだけの大規模な管弦楽団を精密に演奏させて、尚且つ声が通るように演奏された例は歴史上ない筈で、昨年の「影のない女」以上に上演の規範となる録音となるだろう。

作曲家のアシスタントの様なこともしていた指揮者のベームがいつものように正確に回顧しながら発していた言葉は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇において歌詞が通って理解できることが最大の目的であるというようなことで、その見識はこの作曲家の楽劇が舞台に架かる限りされる限り微動だにしない金科玉条なのである。

そして劇音楽というのは劇場空間という前提があって創作されている。そこに芝居があって劇空間が初めて現出される。

コロナ期間に多くの人が改めてあれほど迄に独立した世界を描いていた音楽も演奏行為という事では聴衆無しには中々成立しないことを身を以て体験したのだが、音楽劇場においてはそこになければ音楽形式ともならないような大きなドラマテュルギーが発生する。



参照:
無意識下の文化的支配 2024-04-04 | 文化一般
音響のドラマテュルギー 2024-04-01 | 音
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代の耳への観想

2024-04-20 | 
承前)テクノによるリズムやその感覚が述べられて、その時代のそれへの観想がある。つまり古楽においてのその奏法の研究は重要だとして、それでも作曲家が望んでいたその響きは実際に今日の耳に正しく響くかという問いかけである。これは音楽のドラマテュルギーとしてのクライマックスやアンチクライマックスのその弧の描き方等への俯瞰的な認識とも繋がる。

その実例として最近ベルリンのフィルハーモニーで演奏された「ドイツェスレクイエム」が原典主義で演奏されたのを聴いてのエンゲルの感想は、如何に演奏実践的に立派でもその演奏はその大きな空間には全く不十分だったと語っている。調べるとバルターザー楽団の演奏会のようで。同じモルティエ―門下であるが、恐らく正当な批判なのだろう。ヘンゲルブロックはフランクフルトで最初からよく知っている指揮者であり、そのやり方はよく分かっている

エンゲル自身は言及していないのだが、そこで音楽劇場のドラマテュルギーがこれまた大きな指針となるという重要なファクターがその脳裏にあったに違いない。それゆえにハース作三部作が人類の遺産ともなるという我々の主張もなり立つ。

それに関連してマイニンゲン版のブラームスツィクルスの成功から、もし会えるとしたらブラームスに質問したいとして、ルバートの使い方とヴィヴラートの掛け方をヨアヒムのそれを以って教えて貰いたいと話す。ブラームスの演奏実践に方々から関心がもたれているのはなにも偶然ではない。同時に教養もあって分かっているヨアヒムとはブラームスの協奏曲で共演したいと、ブラームスの録音を研究した結果からも語る。

ブラームス交響曲四番は上海でペトレンコ指揮で再び演奏されるが、5月にはエンゲル指揮でクラングフォールムヴィーンが新しい音楽を北京の音楽院で披露するようだ。それもこれも歴史の中での考察と実践であることに変わりない。

また知られざる作品として、2014年にフランクフルトで大成功したご当地作曲家テレマン作「オルフェリウス」の通奏低音の現代的な書き換えを自身で行ったそのテクノ的推進力、また「マスケラーデ」が好評ブルーレイ化されたニールセンの交響曲、ヴェバーでも「オベロン」など、またアルノ・リュッカー著250人の女性作曲家から新たな出合いなどを語る。

今回のインタヴューで何故エンゲル指揮の音楽劇場はバカ受けしてや演奏会も広い層へと一様に訴えかけるかの秘密が明かされたような気がする。幸いにも指揮者はホームワークで勉強する時間が持てて、素晴らしい家族と一緒にいる時間があり、東海へとヨットで水路を抜けて出れるベルリンでの生活を語り、スイスではないので冬のスキーだけが出来ないとそのライフスタイルを明かす。

年齢からしてここ十年程の活躍が今後の全てであるだろうから、やれることを全てやっておいて欲しい。ペルゴレージの名も出てきているのでまた何かやってくれそうで、クラシックなコンサートも面白そうなものが期待できる。(終わり)



参照:
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
歴史的に優位な音楽語法 2022-07-07 | 音
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

索引2024年03月

2024-04-20 | Weblog-Index


聖金曜日からの不信感 2024-03-31 | 暦
浪漫的水準化の民族音楽 2024-03-30 | 音
胸が高鳴るほどの期待 2024-03-29 | 音
待ちかねたその出来 2024-03-28 | 音
エレクトラのその狭間 2024-03-27 | 音
春の息吹を注ぎ込む 2024-03-26 | 音
2024年復活祭開幕での会計 2024-03-25 | 文化一般
究極の表現主義芸術実践 2024-03-24 | 音
愈々復活祭初日 2024-03-23 | 文化一般
律動無しのコテコテ停滞 2024-03-22 | 音
一くさりからの芸術 2024-03-21 | 音
春の野のような風通し 2024-03-20 | 雑感
独最高の赤ワインの旨味 2024-03-19 | ワイン
ブラームスはお嫌い? 2024-03-18 | 音
しっとりとした旧市街風景 2024-03-17 | アウトドーア・環境
四旬節も終盤へと 2024-03-16 | 暦
ブラームスのセレナーデ 2024-03-15 | 音
歌曲の会で初めて聴く 2024-03-14 | 生活
音楽劇場演出の重要性 2024-03-13 | マスメディア批評
音楽劇場の使命を果たすか 2024-03-12 | 文化一般
難しい重量配分の重要性 2024-03-11 | 生活
夕方から初日生中継 2024-03-10 | 暦
これ以上にはない車 2024-03-09 | 雑感
纏めておきたいこと 2024-03-08 | 雑感
朽ちてかけている初演曲 2024-03-07 | 音
なんとなしの風通し 2024-03-06 | 文化一般
スポーティな仕事とは 2024-03-05 | 音
不審な男が見下ろす街 2024-03-04 | 文化一般
必要な誤魔化す方法 2024-03-03 | 雑感
リンツ風トルテの切り方 2024-03-02 | 料理
最後にシネマ交響楽 2024-03-01 | 雑感
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

拒絶する強い意志

2024-04-19 | 雑感
ここ暫く寒い。薄着のせいだが厚着には戻れない。陽射しの有無で温度差が激しい。裸で走っても、陽が陰ると急激に冷えて来た。パラパラと来たと思っていると下り来てから、雹が降った。車の椅子に積もった。どうしても展葉している葡萄への影響が心配になる。

四月で真夏は屡あるのだが、これだけ冷えるのは珍しい。洗濯をしないでおいておいたセーターを着ることになるとは、先週まではTシャツにショーツで暮らそうかと思っていたので殆ど失望だ。なによりも疲れが出るのがいたい。

暖かいものでも食して赤ワインでも飲んでとは思う。入浴もしたいところだが一度も入らなかった3月もそれ程使用量が減っていない。3.2㎥と昨年よりも33%少ないが、同程度の家庭の倍以上である。風呂が原因でないとするとシャワーの使用量が違うことと、厨房でのお湯の使い方でしかない。食洗機を使えば殆ど使わないのは当然だが、電気料金とかを考えてどれほどお得になるのか。なるほど食器の数が多ければ絶対有利であるが、知れているのでどうだろう。

その一方ヒーターは完全に切っていたので、61,3kWhと昨年から82%減少していて、少なくともこの冬は昨年よりも少なくなったであろう。この花冷えで冷えることを考えれば陽射しが出てきた頃なのでそれほど寒くは感じなかった。平均所帯280,6kWhとの差はこのところの光熱費の上昇を吸収できたと思う。問題はお湯の方が高くつけば総合してそれほど変わらないということになるかもしれない。

ワイン祭りの避難が問題になっている。どのようにするかがまだ定まらない。本年は出かけるところはあって宿も抑えられそうなのだが、費用とか走行距離とか日数が問題になる。色々と判断することがあって面倒である。

洗濯を出しておいた。次のお出かけは再来週なのでまだ余裕はある。来週の試飲会はどうしようかと考えている。

地元放送交響楽団の次期常任指揮者ロートが手兵のレシエクレを振るのだが、全然売れていない。前途多難である。以前のSWF放饗とは客層も違うという事だろう。良い席を確保してあるのでリゲティの13管楽器ぐらいは勉強しておきたい。次の音楽会である。それまでに片付けることが多々あり頭もいたい。

キリル・ペトレンコがヴィーンの定期と楽友協会演奏会をキャンセルしたということでホッとした。理由はウニテル社が映像制作をもくろんでいる様だったからで、もしそれが実現するとペトレンコがノイヤースコンツェルトに登場するのは目前で、そうなるとメディアに操られるようになって、活動は芸術から商業へと変わる。それはないと思っていたが、前日にキャンセルという事だった。金曜日に備えてカメラを入れ出したので分かったのだろう。恐らく抜き打ちのようなやり方のヴィーナーフィルハーモニカーとの信頼関係に亀裂が入ると思う。夏のザルツブルク登場を待ち構えていたが、これで当分そこでオペラを振ることもなくなり、同じようにウニテルとバイエルン放送協会との共同制作オファーを蹴ったバイロイト音楽祭復帰の方が早まったと思われる。



参照:
清濁併せ飲むのか支配人 2022-01-27 | マスメディア批評
あれこれ存立危機事態 2015-07-14 | 歴史・時事
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブーレーズの死へグルーヴ

2024-04-18 | 
承前)新しい音楽への認識を問われ、具体的な例が挙げられる。指揮者エンゲルの学生時の論文として、同時代の音楽と新しい音楽へのテーマもあったようで、自然な音楽「小さな夜の音楽」として、メシアンでの例からそもそもは天井と地上を結ぶ使者の鳥の歌自体が抑々調性音楽ではなくて、オーヴァートーンなどの自然がそもそもの人類の音楽だったと考える。

バーゼルでは首席指揮者として、最初の四年間の計画として1950年以前の音楽は取り上げないとした。その背景には、アドルノなどの軍楽のアンチとしてそうした明晰さが疎まれたその戦後の反動期を排除するとなる。

しかし同時に昨今の特にアメリカなどで作曲されているネオロマンやネオクラシックなどをやるぐらいならブルックナーやそのものバロックを聴いていればいいのだと言明。これを聴くと流石に僕のお友達だと嬉しくなる。

そして音楽市場での興行のふがいなさを嘆く。つまりエンゲル自身が指揮してシュトッツガルトの「アシジの聖フランシスコ」で街中を巻き込んでの公演などは新制作「魔弾の射手」ではあり得ないことで、ベルリンのテムペルホーフでの「メデューサの筏」での追加公演など、真面に上演する時のその興行的な価値を証明しているとぶちあげる。

それでもベルリンなどではユロウスキーが興味深いプログラムを放送交響楽団で行っていたりと各々にはあるのだが、まだまだ駄目だと批判。ユロウスキーも熱心にエンゲル指揮の公演に来てアシスタントに講釈しているぐらいなので、もう一つの手兵放送交響楽団に客演で呼んで欲しいものだ。

そこで、20世紀の新しい音楽への持論を展開する。つまり、その世紀はリズム的な魅力的な展開があまりなかったとするのである。ストラヴィンスキーにはそれがあったが、その後の12音楽でも更にトータルセリアルになると最早音色にしか興味がなかったとなる。ブーレーズは死んだである。

しかしその後のポップスの展開に見るようにリズム的な否パルスによるドライヴがグルーヴ感こそが大きな魅力になる為に、どうしても音楽が堅苦しく感じられるようになったというのである。

当然のことながらバーゼルでの10年にかけて育って来た良質の定期会員層へ広い帯域でのプログラムを提供する一方なにも大衆を動員するという意味ではなく、難しい音楽つまり新たな音への耳を拓く音楽を提供する。態々遠くから駆けつけてくれる人がいる - 私のことでしょうか。

上の理由からヴェルトミュラーの作品などは素晴らしいと語る。そうした音楽の推進力で以って、手応えのある音楽も受ける可能性があるのだという。それを作曲家にも幾らかは考えて欲しいという言い方をしている。確かにあそこまでの初演魔になって仕舞うとそこまで言う資格はある。(続く



参照:
音楽劇場的な熱狂とは 2023-06-29 | 音
長短調性システムの解放 2023-09-23 | 音
エントロピー制御の作曲 2023-12-26 | 音
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

退屈だった古典曲カセット

2024-04-17 | 
ティテュス・エンゲルがインスタグラムを出していた。音楽誌ロンドでのインタヴュ―の紹介である。

家庭で音楽が流されることが多く、父親が沢山のカセットを持っていて、ヴィーナークラシック音楽が流れていた。車中でもモーツァルトが流されていて、退屈に感じて新しい音楽に向かったのだが、この間に真面目に勉強するようになると、決して単純ではなく天才的な音楽で、寧ろ新しい音楽に多くの気の振れただけの無意味な作品でしかないかというのを認識したと語る。

ローランド・ヘルマンが階下に住んでいて、チューリッヒのオペラで歌っていたことから音楽への誘いとなり、ヴァイオリンを習う。彼と合わせて音楽をやったり劇場に連れて行ってもらうようになり、音楽へと傾倒。しかし何よりもの切っ掛けになったのはクルタークの演奏会で新しい音楽との遭遇。

子供の頃からのヴァイオリンがコントラバスへと変わり、そしてフリージャズへと関心が向かっていったのだが、学生管弦楽団を指揮したりしていて、中等教育終了指揮でメシアンの「アンスリエール」をテーマにして、未亡人のロリオのところまで行ってインタヴューをした。

そこから音楽学校に行かなかったのは、指揮者になる為のピアノを始めたのが遅かったことからもう少し練習時間の必要性があったゆえと、ギムナジウムでは場所柄経済に向かう人が多かった中で、哲学への関心からそちらに向かったから。音楽学を学ぶことで、その後の実践で大きな力。そして東ドイツの経験豊かな劇場指揮者クルティックに習うことで、学生楽団とは違う当時はまだ沢山残っていたプロ楽団を振る機会が多かったことが非常に良い実践となった。学生として最初にペリナー交響楽団を振ったのはベートーヴェンの五番と六番でのデビュー。

ツェーナでイリア・イムジンのマスターコースで習ったのは制限された動作で下から上へのピックアップドサウンドの指揮で中和して繊細な美しい柔らかな響きを、ドレスデンでサーデーヴィスの自由な絵描き超絶指揮棒術も経験して練習よりも息を合わせて演奏させることを、今でもそのやり方はいいと思うことが少なくない。先ごろ亡くなったエトヴェシュには新しい音楽を習い正確な指揮で大人だった。指揮者は生涯勉強で、今日も音楽会に行って同僚のそれを観て、過去の歴史的な映像もみて学ぶ。

最初にアシスタントに申し出たのはドイツェオパーでの制作時にマルク・アルブレヒト指揮の「アシシの聖フランシスコ」でとてもいい経験をした。ペーター・ルンデルとは新しい音楽を、またカンブ ルランとは、モルティエ―との関係にもなって、マドリッドでのデビューとなった。

新しい音楽への誘いは、先ずは自分自身も興味津々の人間であったことがあるが、新しい音楽自体は前述したように様々で、現在バーゼルのユニークな管弦楽団で、例えばミニマルの今迄制作に関わったグラスやアダムスなど全く難しい音楽ではない。そうした認識にはアドルノなどのナチ政策への反動が背景にあったと語る。和声音楽自体が西洋音楽の核にあったとしても、ここ数百年のもので、ハースのオーヴァ―トーンなどを考えれば、そうした伝統的なものは全体の中で捉えるべきだとの認識を示す。(続く



参照:
ミンガス作演奏の第一人者 2022-09-21 | 文化一般
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未解決か眼精疲労

2024-04-16 | 生活
ここ暫くは肩などが凝って厳しい。サハラの黄砂も来ていたりして、体調を壊している人も少なくないようだ。もっと感じるのは陽射しの強さと気温の変化で血圧などが上がる傾向もありそうだ。もう少し運動の負荷を上げていければいいと思うが、同時に疲れも取れなくなる。週三回走るだけでも肩が凝るのは力が入るようになっているからだろうか。コロナ期間からのリカヴァリーがまだまだ完璧ではないと感じている。そして眼が疲れやすいのは変わらないので、どうやって休めるかである。

日曜日は新車発注の為のコンフィギュレーションに時間を割いた。最終的な裁定は、エンジンの指定とその他の複雑なシステムパックの調整になる。前者はハイブリッドなのでオットーモーターとEモーターの使い方に関わる。

試乗した車がよかったのでそれでいいのだが、もう少し静かな方がいいということで、どうも全く同じハードながらオットーの出力を落として、Eの割合を強くしたものとの選択になる。エンジン開発関係者に言わせるとやはりオットーが強い方が有利になりそうだ。耐久性もEよりは明らかに長いので、購入価格で数千ユーロの差も出ない上級車を選ぶことになると思う。年間の維持費も距離を抑えて、アウトバーンを減らせば2000ユーロ少々で納められそうで、税金と保険の価格だけの差になるだろうか。

嘗ては同じカロッセリーならばエンジンが重くて燃費は悪くなっても車重が重い方が快適性が高かった。しかし今回は車重も同じでエンジンの使い方が異なるだけなので迷いに迷った。しかし、新聞評などを総合してもやはり試乗車の大きさの方が上の理由から完成度が高いと認識した。やはりハイブリッドの問題は違うところにあったのだ。

実はそれに絡んで試乗車が遮音ガラスを使っていたという話しがあったので、どうもそれが見つからないので問い合わせると、少なくとも現在は遮音ガラスはビジネスシリーズには使っておらず、遮音はどうも年寄り向きに準備されている感じになっている。ここ数年はノイズキャンセラーを使うようになっているので、判断が付きにくくなっている。特に冬タイヤの選択も大きいのでなんとも言えない。

夜中にアウトバーンを飛ばすことだけに留意して選択することになるだろうか。居眠り防止のカメラは、現時点ではアルコール検出カメラにはなっていないが、酔いが回って眼球がうろうろするようになれば、警報が鳴るだろうと思う。少なくとも自分自身で注意しなければいけないと思っている点は網羅されている様子だ。積雪のホワイトアウトの時にどうなるかの記載はない。車線維持がラインが消えていると難しくなるのではないか。

先日入手したダージリンのファーストフラッシュは香りも味もそれらしく前回のものとは大分異なる。二倍ほどの価格差は認められるが、逆に紅茶の場合はどのように熟成されているかが重要で、この辺りが日本茶とは異なる要素である。

愉しめることは間違いなく、それをどのように作業して出しているか。その茶をどのように選択しているのかなど、詳しく調べない事には分からないことは多い。ワインの果実とその出来上がりとしての過程を知っていると、どうしてもそういう所に拘りたくなるのである。



参照:
有機初摘みダージリン 2024-01-21 | 生活
盛夏の様にはならない 2022-06-16 | 暦
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小澤征爾による杮落とし

2024-04-15 | 
1986年10月30日のサントリーホール杮落とし公演中継映像を観た。ベルリナーフィルハーモニカーがカラヤン以外で初めて外国公演で振った時だった。個人的には二日前の初日のブラームスを聴きに行った。

この生中継はラディオは録音をしたが、映像を観た記憶はなかった。会場の雰囲気が面白い。音楽評論家らも座っているのだが、一般の招待客らしきはいかにもカラヤンではないので不満な表情が隠せない。若い皇太子が来ているがその程度のものだったのだろう。小澤はそれぐらいにしか扱われていなかった。しかしその指揮は立派で、現在でも客演でこれだけ振れる人はいないだろう。

八艇のコントラバスの大編成でのシューベルトは当時のカラヤンサウンドを彷彿させる。それでもお客さんのウケは今一つだ。後半は昨年のペトレンコ指揮による初ツアー時と同様に「英雄の生涯」が演奏された。これに関しては当時の放送から違和感があった。今回、旧年中にペトレンコ指揮を1979年のカラヤン指揮に続いて聴いたこともあって、その問題はよく把握できた。

先ずは冒頭の「英雄の主題」の出し方からして問題があった。これはどのようなテムポを取ろうがとても勢い感が重要なのだが、三連符を三拍四拍で二分音符へのリズム取りが悪い。これが全てで、小澤に限らず如何に斎藤がシステム化しようともこれを上手に振れないのだろう。要するに律動によって音楽が流れないに尽きる。斎藤秀雄がこの曲に全てがあるといったのはそれをも含んでいたのかもしれない。

なるほど大編成での多層に渡る音情報を取り出すのは管弦楽団指揮技術の極地なのかもしれなく、実際に音響のプレゼンスを第一に演奏させている。同時にカラヤンの影響を受けてか、テムポルバートなどの歌い込みで、そしてそのフレージングを活かすために余計に拍子感が鈍ってくる。流石にカラヤンはそこがその芸術だったのだ。無関心なお客さんも知らずにその差を感じ取ったに違いない。そこが一般的に日本で謂われる「小澤指揮は内容がない」の内容なのである。

曲間に当時のカラヤン追っかけのおばさんと楽団員やマネージャーへのインタヴューなどがあるが、そこで「小澤は20年来の楽団の友達のようなもの」としていて、その友好関係の中で日本の指揮者へのそして独管弦楽団への称賛を期待したい。」と語っている。このことはペトレンコが執拗に繰り返し発言している昨秋の「英雄の生涯」のツアーでの成功と事前に語っていた「(ダイシンを)日本人が誇りに思う。」との発言に対応していて、この映像を確認していた可能性がととても強い。因みにコンサートマスターの安永は取り分けここではソロの準備をしていた様で上手に弾いていた。

急遽のツアープログラムだったからか、オーボエも前半は若手に任せていて後半だけロータ―・コッホが吹いている。そして、楽屋に戻ると誰を立たせるかマネージャーに確認している。下げた指揮台に楽譜を置きながら全く見ない格好をつけているのもカラヤン譲りで、更に劇場でも振っていない当時の新進指揮者にありがちなお馬鹿な態度を貫いていたからだ。

これは、新たに編集されて楽団のメディアとの共同制作となっているので、いずれハイレゾでDCHにアーカイヴ化されるだろうか。但しテープヒスの入ったアナログ録音で、映像もあまり良くないようだ。しかしサントリーホールは反射板の改修前は跳ね返りがなくて演奏はし難かったのだろうが、マイク乗りは良くとても素直に響いている。
Seiji Ozawa & Berliner Philharmoniker 1986 at Suntory Hall / Schubert: "Unfinished" Symphony

R.Strauss: Ein Heldenleben / Ozawa · Berliner Philharmoniker




参照:
カーニヴァル前に棚卸 2024-02-12 | 雑感
現代的過ぎた小澤征爾 2024-02-11 | マスメディア批評
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実行のプログラミング

2024-04-14 | 
承前)ブラームスの「ハムマークラヴィーアソナタ」が弾かれた。この曲をプロフェッショナルな演奏で生で聴くのは初めてだったと思う。このプログラムのモットーであった青年の息吹は今回の演奏だったからこそ全身に浴びれた。何故この曲がそれほど演奏されていなく、リヒテルなどの録音で聴かれていたかが明らかになる。

そういう演奏は本当に楽譜からその音楽を読み起こしていないと叶わない。要するにコンセプト通りに弾こうと思っても発想が現実に音としてならない。このピアニストが必ずしもブラームを得意としている訳でもなく、そのピアニズムに合致したわけでもないだろう。但しはっきりしているのは、ペトレンコ指揮でブラームスが演奏される時の様に余りにも浪漫的な響きというものを求めることなく、和声的な支配関係にも極力留意することで、その漸くブラームスの音楽が洗練されて響くことになる。

そうした浪漫性というのが、前半ではラプソディ―一曲に絞った訳だが、そのハンガリーのリトネロであるロンド形式のロ短調の作品79-1は情熱が燃え上がる訳なのだが、こういう曲は実際には後年の作品として事始めの曲でシューマンがブラームス自身が軽やかな技巧で弾いたとされたように、中々そのオスティナートの扱いなどよりその作曲家自身の演奏が聞こえる様でなければいけないやはり通も楽曲実践が要求される。
Brahms | Rhapsodie en si mineur op. 79 n° 1 par Alexandre Kantorow


そして、そこからのリストの二曲がこれまたそのクライマックスへの持って行き方やその浪漫性の形式としての実践は、例えば自由自在のトリフォノフなどの演奏に比較する迄もなく、よりその創作におけるその環境を実感させる。

そうした演奏実践がどこから来ているかというと、どこかで習ったとかということではなくてしっかりと最初から譜読みをして創作をつぶさに見ているということで、決してステレオタイプな演奏とはならないことに証明される。まさしくアルフレード・ブレンデルなどがベートーヴェンのソナタを自らの楽器を使って端から洗い出したような作業にも似ている。

つまりこうした本格的な演奏家にとっては、バッハでもモーツァルトでもリストでもブラームスでも、バルトークでもそこに最初から歴史の中にあるのではなく、再創造という知的で尚且つ職人的な作業が為されているということに過ぎない。

その点からもリストの演奏は、アラウのロ短調ソナタからポゴレリッチそしてブレンデルなども聴いているのだが、改めて見えてくる背景があってとても興味深い。それはトリフォノフが素晴らしい演奏をするのとはまた意味が異なる。要するによく考えられていて巧い。そして何よりも昨今のピアニストの様に音を割ることが全くない。それは大ホールでも変わらないだろう。

そこにそうした歴史的視座を踏まえたバルトークのラプソディ―がとても知的なリズム的な描き分けで演奏されるとなればそれだけで超一流のリサイタルである。この優れた一部修正されたプログラミングが実行される時がライヴなのである。



参照:
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
とても革新的な響き 2021-01-16 | 音
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

声が聞こえる大きな手

2024-04-13 | 
隣に座ったおばさんが真央ちゃんのことを褒めた。小さな手でという称賛だった。恐らくとても感嘆を受けたのだろう。その時の優勝がカントルフだったんだというので知っているよと答えた。

カントルフは、勿論手も大きいだろう、そしてトリフォノフのように自由自在に弾ける人でもない、だからみっちりとレパートリーを作っていく人のようでその点ではブレンデルなどにも似て本格派である。そのピアニズムは全く違うのだが、その時にリサイタルで弾いてくる作品から十分に創作者の意思は伝わる。

先ず冒頭にヴァイヴのような棒を持って現れたのでなにかと思うとそのマイクを握って独語で出来ないからと断ってから英語でちょっとしたプログラム変更を伝えた。先ずこれで少し驚いた。その態度や喋り方がとても率直でそしてとても自然な感じで好感を皆に与えただろう。中ホールのインティームな感じも功を奏しているのかも知れないが、やはりその人の実物大の人間性だろう。芸術家というよりも職人的な誠実さがそこにはあった。

ブラームスの「ラプソディ―」の二曲目の代わりにリストの「オーバーマンの谷」ということで勿論三曲目に演奏する予定だった「雪かき」に続けた。するとそれにバルト―クの「ラプソディ―」作品一番が続くことになる。とても興味深い。聴者によっては様々な把握となるのだろうが、少なくともジャーナルを書く人にはとても多くの材料を与える。

可也拘りを見せる演奏でもあるのだが、自由自在に演奏する代わりに如何に本道を示すかの演奏で、そのピアニズムの基礎にはやはり中域の安定があって、そこから上下にずらして音を作っていくという事はしない。それによっての歌の安定感は抜群で、なるほどチャイコフスキーのコンクールなどではこういう演奏が尊ばれるのだろう。

それによって何がなされるかというとやはり楽器が満遍なく鳴ることで、まさしく今回最短距離で聴いた理由はそこにあった。色々なピアニストの身近で聴くことはあっても今回のような頂点に立つ人が弾く楽器が大振動するのを眼で身体で感じたのは初めてだった ― 要するにその当たりの世界的著名コンクールの優勝者程度とは意味が違う。それに一番近い振動では嘗てのブルーノレオナルドゲルバーというブラームス演奏でドイツで持て囃されたピアニストは小児麻痺の足でペダルを踏みっぱなしにするその時以来だ。それを殆ど使わないピアノで為していた。そして振動のストップが常時が決まっていた。

そのフォルテシモの入り方もペダルを踏む代わりにシークレットブーツの足踏みでがっつり入り、そしてしなやかに右手は被せたりとどこまでも透明感を失わずに一方中域部の歌の波が絶えないだけでなくて、リズム的な弛緩もない。そして後半は印刷されたプログラムの順番を入れ替えて、ブラームスのソナタ一番ハ長調を前に出して、「シャコンヌ」を待っていた耳を驚かせるのだが、彼の父親のヴァイオリンの様にとても骨子のある音がとても中庸で良い。祖父の代にロシアから南仏へと渡ったユダヤ人家庭だということなのだが、その音楽は全然悪くはない。リヒテルが演奏したブラームスが如何にも一面的な演奏実践であったことを考えると、独墺圏で拒絶される質のものでは全くなく、これ以上に二楽章のドイツ語の歌を弾ける独墺圏ピアニストがいるのだろうか?三楽章の若い息吹に終楽章の歌に魅了されるファンは少なくない筈だ。(続く)
ブラームスの作品一番ハ長調
И. Брамс, Соната для фортепиано №1 – Александр Канторов (Париж, 2023)




参照:
何ごとにも事始め 2024-04-12 | 文化一般
流しに網を掛ける 2024-04-09 | 雑感
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何ごとにも事始め

2024-04-12 | 文化一般
ピアノリサイタルのお勉強である。最初はあまり分からないプログラムだったが、調べ出すと可也興味深い。まだ時間があるので更に詳しく見ていくことになる。

流石に二回続けてのプログラム勘違いはないので詳しく見る。勿論演奏者の都合で変更することはあり得るのだが予定プログラムだけを見ていても演奏者のコンセプトが見えてくる。チャイコフスキーコンクールで二位の真央ちゃんを抑えて優勝したカントルフは、放送などでもちょこちょこと流し聴きするだけだったが、今回のプログラムに関連した制作録音などを聴くと放送では分からない演奏をしている。

そうしたマイク乗りが悪いのはどこから来ているのかも興味ある所でそれは実演を聴くことで判断可能となる。但しそのプログラムだけでなくてコンセプトは誤魔化しようがなく、明らかに語り掛ける聴衆層が違うというのは明白だ。抑々大コンクールで優勝しているような演奏家で大物はいない、更にこのピアニストの父親は一流のヴァイオリニストで、それを超えるなどというのは音楽史上殆ど皆無ではないかと思う。

父親の演奏も殆ど聴いていないのだが、印象としてはある程度定着していて、それ以上のものではないのだが、この息子さんの方にはより引っ掛かる音楽性が感じられるのは何故だろうとなる。プログラムの最後に音楽祭の今回のテーマであり、当夜のプログラムを「若者の行い」としていて、なるほどその一番にその書法の全てが表れている。その前にバッハをブラームスが左手の為に編曲した「シャコンヌ」で後半をブラームスで統一している。

そして最初にこれまたブラームスの「ラプソディ」と称した系譜の二曲にこれまた民族音楽採取から入ったバルトークの作品1番の民族音楽とその芸術化書法へとこれまたそれに直接の影響を与えたリストの「雪かき」を挟むとなっている。

こうしたプログラミングは西欧人でもやはり玄人家庭出身の演奏家らしくてその基本的な教養が違うとしか思えない。勿論それを受け取る方にもそれなりな理解は求められるとなるだろう。だからハイデルベルクでのリサイタルの券の売れ行きが完売してしまう日本のピアニストよりも悪い理由というわけではないだろう。客層も市場も異なるという事はあっても、先ずそれ以前にこういう演奏家が今何をどのように演奏するのかという事だけで興味をもつ人はやはり通であろう。

少なくとも録音を聴く限り可也立派な演奏をしていて、決して大コンクールで優勝するだけの人ではないことは確かなのだ。個人的には関心の持ちどころは一体どれぐらいに楽器を鳴らせるのかとかは切符購入の時のありどころだった。

ブラームスのピアノをリサイタルで聴く機会は今迄殆どなかった。理由は分からないのだが、例えばブレンデル演奏などでも殆ど記憶に残っていない。CDではグールド演奏なども聴いてはいるのだが、今回初めてその作曲家の書法そしてその演奏家としての事始めへと関心が向かって初めて、自分自身でピアノを弾くならブラームスは欠かせないなと思い出した。これも音楽祭の冒頭にあったフーバー伴奏のゲルハーハーによる歌曲の夕べも大変影響している。



参照:
とんだプログラム間違い 2024-04-11 | 文化一般
BACHへのその視座 2021-08-22 | 音
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とんだプログラム間違い

2024-04-11 | 文化一般
とんだ間違いをしていた。お勉強していた曲は演奏されなかった。チケットを購入した時には四重奏曲でないことは気が付いていたのだが。いつの間にかおかしな想像プログラムに変わっていた。そもそもなぜその二曲かを勝手に考えていたぐらいで、もう一つ納得してなかった。調性は見ていたと思うのだが、レクチャーで作品番号を聞いて意味が分からなかった。

19ユーロの安席を購入したのもその理由からで、それでそのパヴロハース四重奏団を聴いてみようという魂胆だったのだ。演奏家への結論からすると原稿の面子で、少なくとも技術的な精緻さではスメタナとヤナーチェックの四重奏団を凌駕していて、その奏法や音楽性も継承していた。より精緻という事は逆にそこまでの出来上がり方はしておらず、それでも音楽的な自由度でもブラームスや独墺系での問題点はあった。そこまで反発しなければ伝統を継承できないのかとも不思議である。

放送で聴いていてマイク乗りが悪い点も確認して、正しくそこ迄出来上がっていないからである。しかしアンサムブルととしては独墺系でこの水準に至っているのもあまりないのは当時のスメタナ四重奏団の出来上がり方とも理由は同じである。

お陰でヴィオラ二本の五重奏曲、それも晩年の作品111ト長調を聴けたのは良かった。興味深かったのは以前のヴィオラ奏者が合流していて現行のヴィオラ奏者とキャラクターが異なることである。

バイエルルにも習ったと書いてあるが、現行第二ヴァイオリン奏者も得難く、四人とも同じぐらいに音が出せるのも得難い。フランスのエベーヌ四重奏団のように四人ともその織物に編み込まれているのとは違うが、決して突出しない。その点では往路にも聴いていたピヒラー率いるアルバンベルク四重奏団のバイエルルが辞めた後の四人は可也で凸凹していて、ブラームスではその動機の扱い方などが、例えばペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーのように浮き上がって来ない。とても定評があるのだが、現在ではその演奏は最早取れないと思う。

そして最初に演奏されたカプラロ―ヴァの弦楽四重奏曲作品8の演奏は見事であった。どれだけ演奏しているのかは知らないが、ヤナーチェック筋のブルーノの女性作曲家で、その音楽語法や発音がそのものなのだが、それを演奏するのを聴いて本場ものであり、やはり独墺の作品を演奏する場合とは決まり方が全く違うと感心した。

嘗ての四重奏団の演奏ではヤナーチェックの四重奏団はそこまでの魅力はなかったがこの人たちが演奏するのは聴いてみたい。スメタナ四重奏団のスカムパの薫陶を受けているようで、なるほどチェロが決して目立たないでもアンサムブルの要になっていて、第二ヴァイオリンとヴィオラの繋がり、ヴィオラとチェロの繋がりなど、これまた決して突出させない第一ヴァイオリンを下からがっちりと支えていた。

中低音が強かった四重奏団にはガルネリなどもあったのだが、此処ではヴィオラもソリスティックに小さめの楽器を鳴らしているようで、決して胴声にならないのも素晴らしい。その意味からもブラームスの弦楽曲にとてもいいのだが、仮に彼らによって四重奏曲が弾いていても同じ問題点が浮きより浮かび上がっていたの違いない。



参照:
ドギマギで水浸し 2024-04-10 | 雑感
流しに網を掛ける 2024-04-09 | 雑感
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドギマギで水浸し

2024-04-10 | 雑感
前日になってドギマギした。ブラームス弦楽四重奏曲二番イ短調は記憶通りで、此処まで分かっている作曲家の労苦のありどころで、演奏者がそれを身を以て意識するかどうかは直ぐに分かる。その対位法的な扱いもどのように解決するかで演奏者の知能程度が分かる。

そのように上からの目線で初めて聴く四重奏団の腕を見ようと思ったのだが、知っているとと思っていた三番目の四重奏曲変ロ調調で挫けそうになった。これは創作家の又別の書法である。不覚であった。

資料を見ると1875年にハイデルブルクに近いネッカー流域で過ごして民謡などを採取した様であって、丁度マーラーの「不思議な子供の角笛」にも似た話しとなる。ラーデンブルクかどこか分からないが、演奏会前のレクチャーで話題になるのは間違いがない。

ネットで資料などを読んでいると名が出てくる先日もレクチャーで話していた教授は私の友人の大学では部下になるようなのだが、ブラームスの専門家らしい。自らも祖父はミュンヘンの音大の創始者だと自慢をしていたぐらいだ。

兎も角、残された時間で三番と同時にブラームスのソナタ一番の勉強も初めておかないと、金曜日に直ぐ近くで聴いて、こちらの表情も演奏家本人にみられる聴衆としては正しい判断を下さなければいけないと必死になる。

水圧が上がって、予想した通り地下のボイラーのタンクへの取水口が破裂したようだ。なぜか夜中から前夜の便器の浮きの水漏れ以上におかしな異音がしていた。地下が水浸しになっていたということで、お湯の配管から水が抜けていたのだろう。個人的には浮きの為におかしな異音を夜中にさせて修理の必要を迫られていた。

それを修理してシャワーでも浴びようと思っていたらお湯が出ていないことに気が付いた。そして再開を確認して、初めて浮きへのアクセスに至った。図示してあるものがあったのでそれに従った。なるほど配給管は見事に緑青を吹いていたが、ちょこちょこっと触って漏れが止まった。また問題になればいつでも直せることを確認して終えた。

水道もお湯も快適に出るようになってその水圧も安定してきた感じで、先ずは漏れも止めたので、此処に引っ越してきた当時以上に快適な水道環境となっている。なによりも当時は硬水だったのが、今はとても柔らかい山の水になっているからだ。この地域は同じ砂岩でも石灰の混合率がとても低い。玄武岩などはリースリングだけでなくて水にも決して悪くない。

復活祭からは日が経ったが、その時に購入したウサギの酵母無しのお菓子の写真を上げておこう。酵母無しのパンとは酸っぱくないパンとも聖書に書かれている祭りのパンにも通じる。



参照:
流しに網を掛ける 2024-04-09 | 雑感
色々とお試しの季節 2024-04-08 | 生活
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流しに網を掛ける

2024-04-09 | 雑感
今週は二回のブラームスの夕べである。曲目は二種類の弦楽四重奏曲に作品一番のピアノソナタ、中期のラプソディ―二曲である。弦楽四重奏曲は馴染みがあるのだが、ピアノ曲はあまり知らない。そこでお勉強の質も変わる。

抑々二回の演奏会に行こうと思ったのは日程もあったが、小さな会場で良い演奏家の演奏を聞ける機会だからである。作品を聴きに行くとかいい恰好を言っても、有名無名の演奏家に拘わらず、それゆえに良い演奏がなされる可能性がない限りは出かけない。

大管弦楽団などはその音響を浴びに出かける人も少なくないようだが、十代の時代からそれ程その価値は見出せなかった。だから既に名録音などの揃った名曲演奏会などは殆ど行ったことがなく、今後とも出かけることはないと思う。

それでどの様に演奏家にも興味があっても、楽曲に関心をもたない限りは態々出かける動機付けが生じない。先ごろ亡くなったマウリツィオ・ポリーニなどが直前にしかプログラムを発表しなかったことも若干疎遠にした理由であった。

作品をお勉強するがてらに、徐々にこうした演奏をするのだろうと過去の実況録音などから予想する。チェコの四重奏団のハース四重奏団はシュヴェツィンゲンの音楽祭のそれを聴いても巷の評価のようにトップクラスとは確認できていない。勿論その流派からスメタナやヤナーチェックやスークやその名を冠したような名四重奏団との比較になって仕舞う。

ピアノはフランスでの演奏会中継からブラームスのヴァイオリンソナタに付けたものを聴いたがヴァイオリンがあまり良くなく今一つ印象が纏まらない。詳しく聴くしか方法はないかもしれない。

ダージリンと同時に発注したのが、キッチン流しのサイドの笊である。オリジナルのプラスティックが数年で割れたことから、その後大きな茶こしなどをおいていた。主にコーヒフィルターとか水気のあるものを其処で水切りして、場合によっては食事屑などを干していたのだが、どうしてもその網なども汚れて、黒カビが生えやすくなっていた。まさか茶こしを新規に替えても仕方がないので、代わりのものを探した。アマゾンで使えそうなものがあった。引っかけて使うのだが大きさは都合がよい。但し引っかけるだけなので上手に使えるかどうかは疑問だった。

実際に設置しようとすると引っかけフックが弱くて、下を向いてしまうので、下の方をゴムで浮かすことにした。重いものは入れられないが平素の使用にはそれで十分な筈だ。新ためて周辺を清掃したので、そこにヌードルを流し込むことも可能なのだろう。ともなくステンレスなので、清潔には保ちやすい。

夏場にそこで何かを冷やすぐらいに清潔であるかどうかは分からないが、一先ず気持ちがよい。朝から蛇口から水が垂れていると思ったら、市中の水圧が可也高くなっていて、今迄気が付かなかったトイレの浮き迄緩んでいる。週末に短く断水があったので明らかにポムプの水圧を上げたのだろう。市で一番高いところに住んでいるような身分なので、それからすると水道屋が忙しく、市には電話の問い合わせがひっきりないと思う。



参照:
色々とお試しの季節 2024-04-08 | 生活
流量をも整えるノズル 2023-06-30 | 生活
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする