Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

待ちかねたその出来

2024-03-28 | 
金曜日の準備である。先ずはブラームス四番の日本公演でのそれをざっと流した。土曜日のバーデンバーデンで貰って来た48時間無料券を使って、当日公演のプログラムをハイレゾで流した。

NHKでのそれはハイレゾではなかったので、判断が付きにくいところもあったが、先ずはサントリーホールでの音響からして評価が可能となった。先ずはモーツァルトから流していく。当時どのような音響の専門家が監修したのかは知らないが、ベルリンのフィルハーモニーに似せてあんな似ても似つかないホールを作ったのかは知らないが、あんなもやもや感は理想としたヴィーンの黄金の会場でもボストンのホールでもない。反射板を直したらしいが、マイクが捉える音もはっきりしないので音楽も作り難いだろうか。特にモーツァルトでの響きをザルツブルクのもっとチャーミングなモーツァルテイムなどと比較すると厳しい。シューボックスでもないので跳ね返りがはっきりしない。ワインヤード型でこんな会場を経験したことからホンダなどは反動でああした残響の短いホールを作るようになったのだろう。抑々オペラ劇場ではないのだから残響はそれほど大きな問題ではない。

二曲目のベルクで更にこの会場の特徴が確認される。なによりも抜けが悪いので、こうした曲になるとその美しさの欠片も飛んでしまう。ただの音楽愛好家のオーナーの気持ちで発注されただけかもしれないが、当時のシュミレーション技術などを考えても意図が全く分からない。それはブラームスでは濁りとなっていて、恐らく容積率が十分でなく自然減衰の余地がないのだろう。残響が長いこと自体が悪いのではなく、減衰しない音が残っているので静粛な音の美しさが皆無な音響となっている。

ブラームスの交響曲はベルリンでの公演の録画と合わせて時間が許す限り、シベリウスの協奏曲と共に聴いておこうと思う。

ティテュス・エンゲルが夜分にインスタグラムを流したので、何かと思うと長く待ちかねていたフランクフルトでの「マスカラーデ」のブルーレイ発売のお知らせだった。この公演は数日前のバリーコスキー演出「サロメ」に続いて初めてエンゲル指揮の新制作音楽劇場を鑑賞した今最も売れっ子のクラッツァー演出で制作であった。初日とその後のカメラが入っている日に出かけているが、良いものが出来たと思う。

既に評が出ているようにフランクフルトのアンサムブルとしては出色の出来だとなっていて、当時の個人的な感想の通りである。それ以外にも指揮の様子などを凝視して音楽劇場分野で今後どの程度の成功が期待されるかを値踏みしたのである。友人であることも考えると、客観的な判断を下すのには大変苦労したのだが、今回改めて記録されたものとして冷静に観聴き出来るので、その時に指摘できなかったことも可能になるかと思う。

しかし、その後に幾つもの制作を観てきたので、改めて気が付くことは少ないと思う。個人的な印象としては作品自体もこの制作自体もエンゲルの個人的なキャラクターや音楽的な素養も出ていると思うので決して悪くはないと思う。先ずは発注してからあれやこれやと書いてみたい。ハムブルクの監督になる演出家クラッツァーとの相性も昨年のベルリンのテムペルホーフでの公演でも悪くなかったので、いずれハムブルクでの指揮も増えるのではなかろうか。



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春の息吹を注ぎ込む 2024-03-26 | 音
オペラ上演のノウハウ 2021-12-05 | 文化一般
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エレクトラのその狭間

2024-03-27 | 
承前)新制作「エレクトラ」第二回目公演を観た。カメラが入っているだけでなくて、演出に手入れが入っていた。この制作の特徴である舞台の階段に映し出される歌詞は取捨選択されてより強調がなされていた。初日の印象では通常の字幕との重なりで余分が多すぎた。中三日で修正出来るのは立派だと思う。

更に今回は映像記録の為の公演だったので、演技が入念になされていて、初日に批判されていたコンツェルタント形式と変わらないというのは最早当て嵌まらない。同性愛や兄弟愛の場面では可也の熱が入っていて ― 前夜のヴァルキューレ一幕のパロディでもある ―、更に姉妹の少女の性的な表現や母親の性も昨年の「影のない女」の仕手役若しくは少女サロメからそして「薔薇の騎士」へと繋がっていることをよりその音楽を裏付けして明白にしていた ― 序ながら辺境の指揮者がこの楽劇を「ハ長調の楽譜にしてくれ」という間抜けな発言をしていたようだが、だからこの作品を真面に指揮も出来ず、同時に新しい音楽も真面に理解していないのが丸分かりなのである。

その分音楽は正確それ以上に正しいテムピが目されている指揮で、その中でより激しい表情が築かれていた。どうしても場面毎の成果が期待されるのでテークごとに演奏されて制作編集される様な趣があって、初日のように最初のアガメノンの動機から最後のそれ迄が大きな弓を描くような大きな効果はなかった。よって、最後のアコードで最初に演出への大ブーイングがあって、そして拍手が上がった。初日にはブーを与える程に抜けた間髪がなかった。

フランクフルターアルゲマイネ新聞の初日批評ではテキストに忠実な制作として演出が評価されているだけでなくて、その文字故に中々聴き分けの出来ない姉妹や母親の声の重なり合いなどがよく分かるというように巨大な管弦楽に対して如何にそのテキストを知らしめすかということだと評価している。

そして最初の女中の場面の「エレクトラはどこに?」の問いかけの意味が、終幕に映し出されるホフマンスタールの文章「Diese Zeit. – sie dehnt sich vor dir wie ein finstrer Schlund (von Jahren )」が最後に打ちし出される。舞台では、上部に妹が兄弟に助けを叫び下部で死のヴァルツァーのエレクトラが潰される形になる。

勿論エレクトラの肩には圧し掛かっていたのは音楽の通りアガメノン以外の何ものでもない。そしてエレクトラが存在したのはその暗いシュルントである。山岳用語では地形的なその氷河とのその狭間を表したり、深い淵をも想起させるが、花びらへの花芯への筒であるかもしれない。そこに開いた時間という事である。

最初の場面で猫のように獣のように形容されたエレクトラ、そしてそれを全て音化する作曲家、しかしここに具象的に音化されていない若しくはその音響の間隙にある世界、それを示すことが舞台上演の制作であり、楽劇が劇場空間で世界を開けるとしたらそうした制作の中でしかない。

若干逆説的ではあるのだが、こうした音楽が我々に何かの影響を与えるとしたらこうした音楽劇場公演でしかありえないのである。さもなくば創作の価値すら消滅する。(続く)



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春の息吹を注ぎ込む 2024-03-26 | 音
2024年復活祭開幕での会計 2024-03-25 | 文化一般
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春の息吹を注ぎ込む

2024-03-26 | 
ヴァ―クナーガラが終わった。その意味合いについては後記するとして、二夜目「エレクトラ」を前にして立ち寄る所もあるので、手短に忘記録としたい。

先ず準備のお勉強が充分ではなかったが、同プログラムのジルフェスタ―の「タンホイザー序曲」とNHKホールでの「ヴァルキューレ」一幕のヴィデオだけはざっと流しておいた。

前者は三拍子のシンコペーションとかそこの運び方をどうしてもこれまた日本公演も行ったミュンヘンでの「タンホイザー」制作を思い浮かべる。冒頭は聴き逃したがシマンスキー氏の解説は、それに対抗する官能の動機のその響きから死の直前までの改作との差を響として扱っていたが、それに関してはその節に全曲で調べた。今回の演奏に関しては強いて言えばその演奏が舞台上で為されるという事でのより明晰な響きということでしかないだろう。しかし全く準備を怠っていたような演奏だった。

しかし後半は、急遽最近は声変わりで男らしく本格的なヘルデンテノールへの道を歩んでいるクラウス・フローリアンフォークトの歌とミュンヘンデビューをティテュス・エンゲル指揮で成し遂げ今夏のバイロイトの話題をさらうであろうミクネヴィキュートの歌に楽団がどのように合わせるかが聴きものだった。

暮れの中継のジルフェスタ―コンツェルトと比較するとなによりもカウフマンからジークムントが変わって、より起伏に飛んだ歌がなされると同時に、その声量も圧倒的で前者と比較すると下から上までの充実した表現は日本公演のそれとは比較に為らず、更に声の明るさも失っていないので声もよく飛ぶ。

レクチャーでは、ジークリンデとジ―クムントの動機そして兄弟愛の動機がさっと紹介されたのだが、その絡みがお見事だった。なによりもフォークトが言葉を上手に綴るので共演者もそれにつられて、そしてお得意の高い音域で細かなヴィヴラートがしっとりと寄り添う。

ペトレンコ指揮でカムぺと亡くなったボートそしてオニールのペアーしか生では聴いていないのだが、今回は圧倒的な歌唱で、それにつける楽団もペトレンコのアゴーギクに動くようになった。その成果の多くはコンツェルトマイスターがダイシンからバルグレーに代わったことも大きいと思われるのだが、これで予想される2026年のザルツブルクでの復活祭は大成功したようなものである。

そして指揮のペトレンコこそが、ここにきて先頃の家庭交響曲での子供のいる生活そして夜の帳についてとても嬉しそうに語るのを観ていても、まさしくここの春を享受のその熱情を身体一杯にドラマティックに指揮をする姿に全てを表現している。

この銭の為る木と楽匠が語った一幕がこれ程に立派にそして感動的に演奏されたことは今まであまり何に違いない。歪と思われたこの公演が大きな意味を放つことになった。そしてSWRのスタッフが今晩から本格的にカメラを回す。幾らかでも復習の時間が取れるだろうか。



参照:
2024年復活祭開幕での会計 2024-03-25 | 文化一般
言葉通りの「お試し」 2024-01-01 | 音
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2024年復活祭開幕での会計

2024-03-25 | 文化一般
土曜日11時から開幕レセプションは始まった。祝祭劇場よりも街の奥まで入るので数分ほど余計に時間が掛かる。余裕を見て9時半過ぎには出かけた。それでもカジノのガレージに10時49分入庫だった。友の会などにはあらかじめ案内されているようで、既に寄付者やパトロンなどは椅子についていた。そこでも会員募集をしていたが既に後の祭りである。

レセプションではベルリナーフィルハーモニカーを代表して支配人から挨拶があった後に、リップ代表などが答えて、フィルハーモニカーのホルン四重奏でに三曲演奏された。ドールなどがそうした狭い場所でもコントロールして演奏できるのはやはり腕だなと思い、また本番でいいところを残してとサラ・ウイルスが説明するので直ぐにプロフェッショナルな余興が叶う。

その後のシマンスキー氏のレクチャーは一時間半にわたり起立してメモを取ったが、やはり価値があった。音楽的にはまだこれから二回の公演を通して吟味されるところもあるのでおいておきたいところもあるのだが、やはりこの作品の主題であるエレクトラコムプレックスとされるそれがどのように音楽化されているのかはなによりも重要であろう。

それが終わって次の14時からの演出家二人のお話までは一時間以上あったので、街に向かってコメルツバンクで現金を下ろして、そしてアイスカフェーでチーズケーキを食した。コーヒーとで10ユーロ払ったが現金だけなのは痛かった。

それでもまだ時間があったので久しぶりの温泉の出ているところに行った。以前はその通り飲めていたようだが現在は禁止のようだ。確かに暖かいので価値はあるのだが、それではあまり人は来ないだろう。その後14時46分に出庫してから時間があったので、祝祭劇場の郊外の裏山の駐車場に停めると水を汲みに来る人がちらほらいた。

14時間は今度は座るべくカウンターでアルコールフリーのヴァイツェンを二杯飲んでこちらはクレディットの10ユーロ支払った。開いていたら昼食をとる所だったので、20ユーロの支出はそれよりは大分少ない。

因みに駐車料金は10ユーロだったので、これもまた許容範囲だった。そして森の中で後半の一時間はみっちりと聴けたので良かった。直前でも森の中で集中可能だとやはりお勉強になる。

祝祭劇場への乗り入れは16時30分を越えていたので二時間程経過していたようで、その間に朝食のパンを二枚に暖かい紅茶を飲めたのも良かった。祝祭劇場の駐車料はいつものように6ユーロであったが、プログラムとで11ユーロとなり、コーヒー一杯と入場券で64ユーロ程になったろうか。

しかし、ラウンジでデジタルコンサートホールの年内有効の48時間無料券を貰ったので、10ユーロ以上の価値があった。早速それを使って日本でのブラームス交響曲四番を流してお勉強することになる。



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究極の表現主義芸術実践 2024-03-24 | 音
根源のフェークニュース 2022-05-10 | 文化一般
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究極の表現主義芸術実践

2024-03-24 | 
復活祭初日に開幕レセプションから出かけた。何はともあれ初日の新制作楽劇「エレクトラ」について、火曜日には第二回公演もあり、週明けにはヴァ―クナーガラもあるので、まずはその印象だけをメモしておきたい。

前作「サロメ」のその青年様式の作品に対して人気もなく上演回数も一桁以上少ない作品であり、その上演の困難を乗り越えた時にどうなるか。所謂表現主義の音楽芸術作品として、頂点に君臨する作品であるのかどうか。

少なくとも今回のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーと歌手陣の音楽はその頂点に立つ音楽であることを示していた。

上演の実践で乗り越えなければいけなかったのは如何にあれだけ分厚い管弦楽を越えて声が飛ぶのか、そして歌詞が聴き取れるのかでしかない。先ず今回は演出家がトリックを使った。それは通常の字幕以外にギリシャの円形劇場から発想を得たとするスライドする階段状にしたその舞台装置の階段に通常の字幕テロップに加えて独語歌詞を独自の大文字強調を加えて映し出したことである。これはとても大きな効果を得て、少なくとも独語を解する聴衆にとってはホフマンスタールの文章を読む以上に芝居的な説得力があった。これは芝居劇場では通常の手法でもあるのだろうが、演出家の大勝利であり、音楽的な大きな支持となっていた。

開幕早々の女中の場面でその階段の最上階で、「素手便器」ならず雑巾がけをさせた ― 「素手便器」は演出家シュテルツル作映画「ノルトヴァント」でも最初のシーンだった。勿論声のファンダメンタルは出ずに歌には不利になる。そこで猫のようなとして登場する主役のエレクトラもその下の段で歌う。可也分厚い管弦楽が付けられていて、通常はそこからその楽劇の流れが停まって仕舞って、最初から鬱陶しくなるところでもある。ここだけでも前作「サロメ」と比較して成功しない。

しかし流石にペトレンコは、音量を抑えるだけでなくて、ニナ・シュテムメの丁寧なアーティキュレーションに綺麗に合わせて演奏させる。到底あれだけの分厚い管弦楽は容易に制御できないのは、最晩年のベーム指揮のヴィーナーフィルハーモニカーでも決して叶うものではなかった。しかしそこでは映画映像と当て振りという技術的な方法で克服しているだけに過ぎない。それゆえに恐らくその制作が現在までの模範的な映像とされるものだったであろう。

アガメノンの動機で始まり、そしてそれで終わる、そこへのクライマックスにこの作品の全てがある。それを可能にするのは最初の女中の場面に全てが凝縮されていたのは、同じ演出家の「ノルトヴァント」と同じ構成であった。そして、その背景にはフロイトが活躍するヴィーンの精神世界がヴィーナーヴァルツァーとして示されている。

だから1996年にザルツブルクで浅利圭太が演出したギリシャの明るい海岸風景がコテンパンに叩かれたのである。何も文化的背景の分からない日本人が、台本通りになんて考えても如何に表層的な認識でしかないことがそこで分かる筈である。そのようなことでは何世紀掛かってもこの楽劇は理解できないであろう。(続く



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律動無しのコテコテ停滞 2024-03-22 | 音
ヴィーンでの家庭騒乱 2024-02-20 | 音
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愈々復活祭初日

2024-03-23 | 文化一般
初日の準備である。いつものように、食事とか衣装が気になる。周辺環境を揃えておかないと集中できない性質だからである。例えば、寒い暑いで不愉快なのも困り、寒ければ腹が減り、暑ければ食欲も出ない。結構繊細な人間なのである。

勿論衣装はそれだけではなく、幾ら身体が楽といっても場違いな服装ではこれまた落ち着かない。その程度のものであるが、時間の過ごし方で食事の時間もゆっくりしたいので結構気を遣う。

時間的にはそれ程長い時間がないので短いものを二回ぐらい挟もうか。それともと考えると駐車場料金を考えたりで中々定まらない。街中のことなので出たとこ勝負でいくか。

しかし天候が今一つで、聖週間に向けて若干の寒戻りとなって、雨が降る。するとあまり歩き回れない。若干憂鬱になる。

早く出かけても帰宅は21時頃になる。夜食はフランスのスーパーには行かないので適当に軽くということになる。

もうあまり時間がないのだが、作曲家に近かったベーム博士の最晩年の指揮の映画を少し流した。今迄は制作中に居眠りしてとかされたもので、本当にどれほど指示が出来ているのかどうかが疑問だった。今回改めて聴き始めると、思っていたよりもお勉強になる。

なによりも主役のリザネックの歌が、まだまだ声が出たようで、それから数年以内に東京で乳母を歌った時とは大違いである。アーティキュレーションへの拘りは指揮者のそれでもあり、歌手自体のものでもあるが、こうした指揮を今現在誰に期待できるだろうか。

管楽器の重なりの扱い方とか、色々なことはあるのだが、テムピの設定とかではやはりとても明晰である。今回のペトレンコ指揮でそれ以上を求めるところでもある。恐らくそれで最高の制作となるだろう。演出もそんなに悪くはなさそうで、期待したい。

お勉強は足りないが、仕方がないので往路で一時間程耳にして、細部をもう少し認識しておきたい。その後のレクチャーでもう少し大づかみの構造を確信して、更に時間が許す限り細部にもう一度戻れれば、初日は何とかなるか。

オタマジャクシは多いのだが、重なりが特徴で、それがどのように慣らされるかが注目点でもある。写真にあったように端にはサライカが座るので、恐らく女性三人の楽劇としては彼女が初めてオペラをリードするのだろう。

するとブラームス四番のリードがダイシンになる可能性が高まる。これはこれで楽しみだ、バルグレーでも勿論面白い。



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律動無しのコテコテ停滞 2024-03-22 | 音
四旬節も終盤へと 2024-03-16 | 暦
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律動無しのコテコテ停滞

2024-03-22 | 
二年前にコロナ期間に出かけたザルツブルク音楽祭の「エレクトラ」を流してみる。アスミク・グリゴーリアン目当てで出かけた。二十年ぶりぐらいのザルツブルクだった。しかし結果的にはあの状況下でよくやったと思った。あれだけの大編成を奈落でというのは特別なことだったからである。

演奏自体も劇場的な管弦楽団であるが準備は出来ていて、メストの指揮も劇場のそれとしては一流のものだった。しかし、こうして改めて聴いてみると、問題点は明らかだった。最大の問題は歌手との合わせ方で、その背景には歌手が独逸語歌唱を修めていなかったゆえに、歌詞と音楽が連携してという風にはなっていなかった。指揮者も楽団もそうした現代的なオペラの水準に達していない点もあるのだろう。

ザルツブルクのヴァリコフスキー演出のお決まりの小節前の芝居や音による演出は、この場合は最初の動機が出る迄の劇的な準備になっている。今回の復活祭の新制作では、ヴィデオが使われるのではないかと思うのだが、中々注目されるアインザッツの持って行き方であろう。

ザルツブルクではアスミクと同郷のステユンディーテの抒情的な声であったのだが、歌で場面を作る力はなかった。今回はシュテムメが歌うのでそのドラマ性と表現力には疑問の余地はないが、如何に大管弦楽団の上に通る声を準備できるかでしかない。なによりも妹役のファンデンへ―ファ―の声が上に乗るデュオは聴きものだ。これはザルツブルクとは比較に為らない。勿論母親役のシュスターも昨年の歌からするととても期待される。

しかし何よりもあれだけの大段の管弦楽を如何に声に当ててくるかであって、指揮者のペトレンコが凝縮した音を出させれるかでしかない。可也点描風に当てて来れるは、昨年の「影のない女」以上にやはり「サロメ」のコムパクトな音響が目されているに違いない。

そこで特に注目されるのはシュテムメである。元々声量足りないのだが、特にこのエレクトラ役はドラマティックのみならず、抒情的に下で歌うこともあり、そこで何を語れるのか、どのように管弦楽が付けるのかが聴きどころとなろう。
Nina Stemme als Elektra | Osterfestspiele 2024

Osterfestspiele 2024


手元のベルリンで録音されたポラスキーの歌で母親役をマイヤーが歌ったものがあるのだが、今回は後者はシュスターが歌うのであまり問題はない。ポラスキーは乳母役で聴いているのだが、シュスターに比較しても柔軟に歌える歌手ではない。もう一度聴いてみる。

前半を流してみた。先ずは制作録音ということもあってウィーナーフィルハーモニカーとは比較できない程座付き楽団が上手い、そして指揮もアーティキュレ-ションが明晰だ。しかし、マイヤーが出て来てさらにこてこてのアーティキュレーションで流れを止める。これで一人舞台も作っていたのだが、晩年のように二流の劇場ではとても酷い公演になっていたことはよく分かる。眠くなって聴きとおせない。

そもそも指揮者が流れない音楽を作ってそこにマイヤーが歌うとなると最悪である。ドイツでも評価する人も少なくない歌手であったのだが、一流ものしか訪問しない私にとってはあまり印象に残る舞台がなかった歌手であった。要するに流れる音楽でないと我慢できなくなる性質なのだ。(続く)



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へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
りっしん偏に生まれる 2023-04-02 | 音
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一くさりからの芸術

2024-03-21 | 
承前)ブラームスの歌曲の全貌が示された。ゲルハーハーと伴奏のフーバーあっての網羅である。そのプログラムはブラームス研究所所長のザンドベルガー教授が先乗りでケルンで聴いてきていたようだ。その話しは当日はなされななかったのだが、講演弁者の歴史家のオスターハムメル教授の話しにその枠組みが押さえられていた。

つまりヨハネス・ブラームスは19世紀後半の大スターであったリストのような売れっ子ではなくて、ピアノで世界中を演奏旅行特に北米で招かれてというような音楽家ではなかたっという事だ。これが何を意味するかというと、ハムブルク生まれの音楽家が当時の音楽都市であったライプチッヒとは違ってヴィーンに居ついて、そこから仕事がてらに各地に旅行していた音楽家の足場を探ることになる。

ヴィーンという帝都が何を意味するか。それはハプスブルク帝国が植民地を抱えるということで、その帝都に文化が集中するということにもなる。同じ植民地でもアフリカやシナなどをその帝国に抱えるフランスのインターナショナルなサンサーンスとの比較となる。つまりパリとの差異でもあり、ロンドンとの差異ともなる。

これでブラームスの音楽の特性が形作られている。そこに表れる東欧のジプシーの素材も民謡風とされるそれらも同じように素材として扱われる至極当然さでもあって、ハプスブルク帝国自体が講演の主題であったグローバリズムでもあったという事だ。

同時に時代的に軍楽の音楽が19世紀後半の交響楽団よりも立派な音を出していた事実もあり、18世紀のセレナーデなどがより野外音楽会においてより大きな意味を持つ催しものとなってきたということでもある。ブラームスとヨハン・シュトラウスとの関係も知られているが、後者はプラターの公園で大々的に催し物を行っていたのだった。

さて初期の創作から晩年のそれへと並べられた歌曲のプログラムは、その敢えて二流の作者の詩に音楽を付けたことにもよくその特徴が表れていて、必ずしもそこには高度な文化的な栄華を誇っているというものではないという事である。

そのように二流のテキストにはその言葉が与えるだけの表情があって、作曲家が語るように作曲によってはじめてそこになにかが生じるということになる。これが、ブラームスの歌曲の特徴であって、テキストの文字面を追っていても決してそのような高度な芸術とはなっていない。そこから作曲が始まっている。

それは冒頭に置かれた作品14‐8の「憧れ」に顕著な和声の一鎖で以って、若しくは友人グロートの四つの詩の有名な雨の歌の雫のリズムで以って、簡素な芸術が形作られる。そしてト長調の同名のヴァイオリンソナタ一番として高名な動機となるのだが、それが歌曲集作品59にも残響として繰り返されている。クララ・シューマンの末っ子でヴァイオリンを弾くフェリックスが若くして結核で亡くなりクララへの慰めとして書いたとされる動機がこうして歌曲に響く。

ブラームスにおいては、それを継ぐヴェーベルンのように一つの言葉やそのシラブルへの響きとはなっていないのだが、既にたとえそれが民謡的な要素をベースとしていようともそこには晩年の交響曲に表れる様な音程とリズムによる世界が開かれようとしている。(続く)



参照:
歌曲の会で初めて聴く 2024-03-14 | 生活
演奏実践の歴史的認識 2024-02-18 | マスメディア批評
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春の野のような風通し

2024-03-20 | 雑感
散髪を済ませた。生憎、上手な人はおらず、髪結いやり手婆の仕事だった。それでも以前よりはよくなったのは、上手い人が土台を仕上げていて、それを踏襲する形でバリカンを入れるからだ。鋏で揃えるのも大雑把だが仕方がない。そういうのに限ってドライヤーなどで形を整えようとしたりする。

最初だけでもよければ良しとして、次にハイデルベルクに出かける時にどのようになっているのかぐらいであろう。初夏に早めに行くしかない。コロナでの洗髪してからの決まりが無くなったので、先ず始めてから売り上げを上げる為にも、途中洗髪した。揃えるやすいのかもしれないがよく分からない。バリカンにはウェットカットはないというのも分かる。

兎も角、春の野のようにしてくれと頼んだので、地肌が見える感じになった。今度はお陰で頭皮が緩くなって、栄養が回りそうになった。髪の調子がよくなるかもしれない。野の地面のようにである。その影響から眼の廻りも凝りももう少し取れてくれると嬉しい。コロナ後の酷い時に比較すると、新しい眼鏡の影響もあるが大分眼の周りの緊張が緩んできている。もう一息かもしれない。コロナ禍は健康的にもまだ完全には回復していないと思う。不幸中の幸いはワクチンを二本しか打たなかったことぐらいか。

週末にかけて摂氏20度近くになってくる。未だ来週の聖週間は暦通りに一桁になって寒いのだが、復活祭は直ぐそこである。夏タイヤ交換も予約してあるので、あとは新車の発注だけだ。

壮行演奏会に続いて、ルツェルンの音楽祭の券も押さえた。久しぶりに最上階も一枚購入した。アルテオパーでの良い席があるので、二枚ともランクを下げて、その差額でアルテオパー分が殆ど賄える。楽曲とその音響を考えて席を選定した。

日程が決まったので再び予約してあるアパートメントを確かめる。昨年よりも価格が上がって250ユーロ程である。部屋も狭くて、決してよくはないのだが、場所を知っていて、地下ガレージも分かっているので、新車で走って行っても全く問題がない。当分は駐車場の場所とか屋根付きとかも決定要素にはなる。往復の燃料代などを入れて700ユーロ程の旅になるのか。

復活祭が終ったら来年の旅行の計画もぼちぼち立てておかないといけない。先日の講演でブラームスが、上手に仕事を入れて各地を回っていたとあった。ブラームスほどいいところを旅行して滞在している作曲家は知らない。

移動範囲が比較的限られている人ほど知る人は知る所に滞在している。全く知らない土地柄を除いては土地勘が出来てくるのでどの辺りに滞在したらよいのか、次の機会にはあの辺りにと思っていたところが増えてくる。要するに欧州内は大体あそこ辺りというのが決まってくるのである。



参照:
独最高の赤ワインの旨味 2024-03-19 | ワイン
旅絵日記一時帰宅編 2023-09-02 | 雑感
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独最高の赤ワインの旨味

2024-03-19 | ワイン
11月12日のフランクフルトでの壮行演奏会の席を押さえた。今回は定期公演が入っていたので、好みの席がなければ最安席で誤魔化しておいて、流れてくる最上席を拾おうと考えた。少しでも出金は後にしたい。しかし、一枚だけ残っていたので狙った。もの要りだけど仕方がない。

米国第二次ツアー前の壮行演奏会で夏のツアーの表プログラムのブルックナー五番を再演して、重要なツアーに備える。米国ツアーでは裏プログラムになるのだが、独墺管弦楽団としてブルックナーを米国で再認識させることになる。

夏のツアーの演奏会にも出かけるのだが、目的を徹底させることになるので、資本も上手に分散投資可能となる。

また8月31日状態で泣きそうになる。週末の「エレクトラ」が全くお勉強できていない。幸い一昨年にザルツブルクで観ているので、規模も複雑さも見当はついているのだが殆ど楽譜は目に浮かばず、最初の動機から追っていくしかない状態である。その次のヴァ―クナーガラも簡単に目を通しておけば足りるか。日曜日を空けてあるので、そこではシベリウスにも目を通しておかないと駄目だ。

土曜日にあまり肯定的な意味のなかった三つ目の音楽会に座りながら、時間を作ってワインを取りに行けたことを喜んでいた。なによりも今時半ダース購入して60ユーロしないピノノワールなんて、高品質のものにはありえない。

どのようにこれだけ価格が抑えられているのかはよく分からないのだが、葡萄を石灰のヌルヌルした土壌から上手に収穫して、安い培養酵母を上手にさっと仕上げているのだろう ― まさにここが勘違いで、健康な酵母を収穫することが肝心の白と異なり皮を漬け込むのでビオワインでも酵母の問題はない。滓とかの処理も工夫しているのだろうが、白ワインとは違って、そこを推測するだけの知識がない。しかしこれだけ安く、なるほど現行のベーシックが2022年物で12.5%のアルコールしかないということでも、長く寝かしている傾向があるのだろうが、驚きである。

フランスのスーパーでは10ユーロ以下の真面なピノノワールなんてない。そしてこのゼーガーの葡萄はドイツのシュペートブルグンダーではなくてフランスのクローンであると聞いている。要するにこれだけ本格的なピノノワールはドイツでここでしか知らない。

なるほどドイツでも最高価格帯のシュペートブルグンダーとフランスの同価格帯を比較すると中々コストパフォーマンスでは越えるのは難しいのだが、それでも二十年に一度ほどの良年には特別な赤ワインとなる。

上の価格で分かるようにグランクリュならともかく態々ベーシックなグートヴァインを送ってもらう訳にはいかないので、機会があれば取りに行きたいと思っていたのである。そしてコロナを越えては初めて購入できた。

そして簡単にスクリューキャップを開けて牛肉に合わせると、幾らでも進む。それは辛口で若干のタンニンの渋さがあるのでねとつかないのである。その意味ではブルゴーニュよりも男っぽい。しかし、僅かなざらつきもあり乍ら旨味もあるのだ。少なくとも年度としてはとても良い。但しアルコール度が示すように偉大な年度ではないだろう。



参照:
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
歴史的な瞬間にいること 2022-11-08 | 音
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ブラームスはお嫌い?

2024-03-18 | 
ブラームスはお嫌い?婆さんが、ゲルハーハーの歌曲の夕べの中休みにお友達らに素晴らしいでしょうと尋ねられて「ブラームスだから、昨晩も来たけど、よくない。」と答えていて、「今回のテーマでしょうが、」と言われても、「それは仕方ない。」ということだった。

まさしく先日言及したブラームスへの従来の印象を強化する。婆さん自体は顔を見たことがあるような常連さんには間違いないので、音楽愛好家には違いない。だからこそメランコリックなブラームス像から逃げられないのだと思った。

ブラームスの新古典的なその作風を理解するにはシェーンベルクを理解するのと同じぐらいにその書法をみれない事にはその面白さが分かりにくい。表面上は今でも男泣きの作曲家でとなると、少し趣味が洗練されている人には毛嫌いされるかもしれない。

その為、その後の世代であったレーガーのモーツァルト愛などが決して容易に理解されないということにも通じている。

その意味とは別に当日最後のコンセルトヘボ管弦楽団員のアンサムブルでの二曲を聴いて、なるほどその前夜の演奏でも同じ様なものだったから面白くなかったのはよく分かった。

抑々セレナーデ自体は交響曲に準じるもので指揮者の下での演奏の方がコンセプトが明白になる。逆に演奏自体は指揮者無しでも合わせることは可能なのだろうが、いちいち音楽的に調整していては埒が明かない。今回の演奏でも音楽的には後ろに座っているクラリネットのオッサンが引っ張っていた。しかし、それが明白な音楽を作るだけのものではない。

前半の弦楽六重奏になると今度は映像で持っているように四重奏に二人のゲストを加えるだけならば四重奏団と一人二人が合わせればことは済む。それ程弦楽四重奏団は一挙手一投足を平素から合わせているので音楽的にも技術的にも精査されている。そしてこの曲こそがシェ-ンベルクの「浄夜」の六重奏に繋がっている。

そのようなものにたとえ同じような面子が揃っていたとしても大管弦楽団の合奏技術程度では到底室内楽にもならない。それはたとえ現在のベルリナーフィルハーモニカーが試みても変わりないのだが、そもそも平素からの合わせ方が異なり、意識が全く違う。正直あの程度の意識で営業しようとしているのが恥さらしである。それも本体の大管弦楽の方の売りの弦楽合奏からして程度が落ちていて、その首席級が集まっているとしても程度が低いことを確認した。この名門楽団は最早可也ランク落ちしている。潰れるかもしれないと思っている。

それは管を加えた時にも肝心のハーモニーが音程が悪いので浮き上がらない。バランスを辛うじてとっているにしか過ぎない演奏なのである。そのようなことで営業をしてしまうというのが可也横着で、音楽家としても程度が悪い連中が集まっているとしか思えなかった。ブラームス云々をいう以前のお話しなのである。

これならば昨年演奏したブレーメンの室内楽団やそれどころか欧州室内合奏団でも比較に為らない位見事に演奏するだろう。しかしやはりセレナードには模範となったモーツァルトの「グランパルティータ」以上に指揮者は必要であろう。



参照:
ブラームスのセレナーデ 2024-03-15 | 音
しっとりとした旧市街風景 2024-03-17 | アウトドーア・環境
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しっとりとした旧市街風景

2024-03-17 | アウトドーア・環境
土曜午後はハイデルベルク行だった。復路は50分も掛かっていないのだが、道路事情から若干遠のいている。マンハイムへの橋が補修中であることが一番のネックであるが、南回りのスパイヤー経由のアウトバーンも工事していたようだ。特に往路は買い物客もあってマンハイムを抜けるのに判断を誤ると渋滞に巻き込まれる。幸い勘が働いて、問題なく抜けれた。

そうなると早めの12時30分に出たので、ハイデルベルク旧市街到着が13時8分と出た。それならば南に数キロ離れたライメンの醸造所に行ける可能性が出てきた。講演会が始まるのが14時で五分前に来ないと席がないと書かれていたのだ。

アウトバーンから醸造所へは少し迷ったのだが、迷った経験を活かして18分ごろに入れて、22分には清算していた。地道で10分ぐらいいけるが15分見ていた。ナヴィを利かしても結局工事閉鎖で迷って、幸い土地勘で、13時45分に車庫入れした。なんとか間に合ったという感じだった。

駐車場は敢えて、一番近い図書館を外して、主催者が最初にあげた劇場のそれにした。理由は一ユーロでも安いことがあるが、やはり夜間料金などでお得になるのだろう。今後のことも考えて初めて使ってみた。道を横切っての入車は記憶がなかったので初めてだと思う。

因みにリーダーアーベントが終ってからは一時間半ほど時間があったので、劇場の前も通てみた。以前出かけた寂聴と三木稔が来ての初演の時は借りの場所であったので入った覚えがない。こここそがシュトッツガルトの音楽監督マイスターが最初に音楽監督をした劇場であり、またライプチッヒのカペルマイスターに出世して仕舞ったネルソンスやミルガやマルヴィッツが修行した劇場である。

講演会の内容は改めて纏めるとして、終って一時間程時間があった。先ずは手洗いに行って、コーヒーを飲んで、2ユーロでプログラムを購入して、ただの舐めラムネを食べた。プログラムにテキストが記載されていたので初めて目を通した。それでも前半分で、後半分は休憩時間に置いておいた。

ゲルハーハーのリーダーアーベントは予想以上に充実していた。これも見直していかないといけないが、会場は昨年の演奏会時には上階であったが、平土間も決して悪くはなかった。大学の現役の大講堂でこれだけの音響の会場はどれほどあるのだろう。広さが異なるので簡単には比較できないのだが、旧講堂とこちらの両方を使うとソロから室内交響楽団迄は全く問題がない演奏会が可能となっている。

ハウプトシュトラーゼで少し座ってから、テオドールブリュッケの写真を撮ったり、大学の食堂を覗いたりして、劇場の前を通って、講堂の裏口から入ると結構適当な時刻となっていた。お昼は少しパラついたのだが、その後は正常化して、穏やかながらもネッカーの少し湿り気があるような街の空気は冷たい感じになっていた。やっぱりケムブリッジなどにも似ていなくはない。



参照:
小恥ずかしい音楽劇仕分け法 2010-06-06 | 音
お家芸の指揮棒飛ばし 2023-03-26 | 音
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四旬節も終盤へと

2024-03-16 | 
保守的なオーストリアの形式である。ザルツブルク音楽祭の芸術監督がまだ辞任するとは表明していないのだが、形式的に次期の監督への応募を募っている。指揮者のメストなどと並んで、シュトッツガルトのショーナーやスカラ座を辞めるメイヤーとミュンヘンのドルニーも応募した様である。

ショーナーも受けるとは思われないが、ドルニー体制の任期が2026年までになっていて、まだ延長されていないことからの圧力ともされる。たとえ師匠のモルティエが成功していたとしてもこうした革新的な人たちがそこでやれることは限られている。

それでも2025年以降契約延長されていないカタリーナ・ヴァ―クナーも既にそれ以降の計画の必要があってなされていることから後手に回っている。背景はよく分からないながらも、バイロイト、春夏のザルツブルク、そしてミュンヘンやスカラ座などは関連して着ていることは明らかで、バッハラーだけでなく、そこのドルニーやショーナーなの名前が挙がってくることはとても喜ばしい。一番期待したいのはバイロイトである。

さて、バーデンバーデンでの舞台稽古が始まった。一週間前の開幕を前に既に最初の稽古は終えていて、みっちりとした集中的な練習が繰り広げられているのだろう。昨年の「影のない女」に比較すれば容易く仕上げられる反面、演奏時間も短く飛び切りと決定的な演奏となる筈だ。

歌手陣に心配はいらないが、演出が上手く行くのかどうか。稽古写真を見ると独伝統的楽器配置を採用していて、ペトレンコ指揮のオペラでも「マイスタージンガー」に続くとても異例の配置である。それゆえに一番端にコンツェルトマイスターリンのサライカが座っているのだが、実際は内側のダイシンがリードするのかどうか分からない。もし彼女が受け持つとすればとてもしなやかな演奏となることだろう。

女性が主役の出しものの方が多いので、もっと多くの楽劇が女性のリードでなされた方が良い。同時にそこで期待したいのは、ブラームㇲを日本での公演とは違ってダイシンが受け持つとなればより硬質の交響曲四番となる筈である。

兎も角あと一週間で、その前の総稽古から録音されてカメラが回されるだろう。そして三回の公演から編集して、四月にラディオ全国放送される。映像は昨年同様に夏以降にTVで放映される。それ以外にブラームスの公演の録音が為されると良いと思うがさてどうなるか。そしてDCHでは日本で放映された11月の公演がハイレゾでアーカイヴされた。券を購入して公演前にもう一度しっかり観ておかなければいけない。

肉屋ではこの季節に合わせて、ヴィーガンのモッツァレッラの玉のペスト和えを売っていた。チーズも買いそこなっていたので、価格も4ユーロもせずに結構入っていたので購入した。ペストの臭みや後味はあるのだが、滋養強壮で良さそうで愉しめる。

食事やアルコールを節制していてもそれほど痩せる気配はない。やはり暖かくなると服装だけでなくて、消費するカロリーが可也減少するのだと思う。もう一息である。来週散髪をするのかどうか、考えどころだ。摂氏17度近くになると行かざるを得ないだろう。予約がとれるか。
Nina Stemme als Elektra | Osterfestspiele 2024

Kostümbild | Osterfestspiele 2024




参照:
総合評価8.6以上の価値 2024-02-22 | 文化一般
ヴィーンでの家庭騒乱 2024-02-20 | 音
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ブラームスのセレナーデ

2024-03-15 | 
ブラームスのセレナーデ二番イ長調、子供の時から交響曲的な作品だという認識はあった。今回初めて詳しく見て行くと、思っていたよりも面白い。なによりも最近の演奏では、例えばコロナ期間中に無観客で放送されたBR交響楽団をサイモン・ラトルが振ったものでもその音楽の構造がよく見える。二管づつの管楽器にバスの弦楽が支える形になっているのだが、パッサカリアになったりで、この作曲家のαからΩとなるような作風だと気が付いた。

半世紀前の演奏は、何もNHKで当時の大木や藁科などの音楽評論家が特に選択したという訳でもないだろうが、ブラームスの情緒的な側面が強調された和声の響きしか分からないような演奏が持て囃されていた。

勿論ブラームスがクラシックのセレナードの原点に戻って創作したという認識は解説されたとしてもそれがどのような音楽的なエポックで以って新たな芸術への意志によって創造されたかまでは音響的に認識されなかった。

具体的には、浪漫派とされる五里霧中なものから後期浪漫派とされる形式化がなされる過程での古典回帰の所謂新古典主義とされる運動のエポックである。有名な梅毒に侵されたシューマンの浪漫から奥さんのクララのピアノ演奏がそうであったとされる古典的な均整美への憧憬でもある。

そうした音の重なり合いの妙は半世紀前にはまだまだあまり顧みられなかった傾向がある。この件は実はブラームスの交響曲四番における所謂シュタインバッハ版などの比較的小編成の交響楽団による瀟洒な演奏から巨大な大管弦楽団へと演奏形態が肥大化していった社会的背景があって、それがまた戦後の磁気録音のLPからステレオへと複製芸術の技術的な発展とも関係があって、カラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカーのブラームスの音響として完成していた。

今月には二回その交響曲四番を聴くことになるのだが、日本でも11月にペトレンコ指揮で録画されたものがもう一度再放送されるようで、そこからの更なる演奏として期待されるところである。

今回上の録画を改めて聴いてみて、コロナ期間中の特別な背景もあってかとてもよく準備されていたようで、素晴らしい音程で声部が重ねられたりしていて聴きごたえがある。なによりも、ブラームスのその筆捌きはやはり惚れ惚れするものである。ブラームスというとどうしても晩年の髭の加齢臭の漂うような写真が有名であるが、その若い姿はやはり魅力的であったろうと思わせる。

もう少しお勉強が出来れば、昨年からの流れで、この作曲家の全体像が今月で何とか描けるようになるのではないかと思っている。今回は弦楽六重奏一番変ロ長調も演奏されるのだが、そこでも本来の弦楽奏法なども少しは思い描いてみたいと思っている。なにかいい録音はないかネットを探してみたい。先ずはこれまたコロナ期間中のエルフィーでのベルチャ四重奏団を核にしたヴィデオを流してみる。



参照:
歌曲の会で初めて聴く 2024-03-14 | 生活
演奏実践の歴史的認識 2024-02-18 | マスメディア批評
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歌曲の会で初めて聴く

2024-03-14 | 生活
週末の準備である。先ずは楽譜を一部落としたが、歌曲は一曲一曲見ていかないと混乱する。幸い同じプログラムを既にケルンで歌っていて、そのプログラムがあったので落とした。休憩を入れて殆ど二時間程時間が掛かるようだ。

ブラームスの歌曲の歌詞も載っているのだが、先に読もうかどうしようか考えている。ブラームスのシムプルな民謡を目指す作風にどうすれば最も上手くお勉強が出来るのか?

ゲルハーハーのプロフィールを見ると、今迄この当代筆頭の人のリーダーアーべントに出かけたことがないのに気が付いた。結構機会はあったのだが出かけることはなかった。今回も本当はもう少し小さなところでと思っていたのだが、比較的近いのでこれだと思った。

そこにはやはりオペラでは「タンホイザー」のヴォルフラムと「パルジファル」のアンフォルタスは別格に書かれられていて、どちらも体験しているので、初めてとは思わなかったのである。伴奏のフーバーも生では聴いていないようだ。これは俄然楽しみになって来た。

その公演が16時から開かれるのだが14時からブラームスのグローバリズムへの講演がある。出来ればその前にヴィースロッホの醸造所に寄りたいと思っているが時間があるだろうか。

歌曲の会が終わってから、次のコンセルトヘボ楽団の六重奏とセレナーデの演奏会まで一時間半ほどの時間がある。街の中なのでどこかに腰掛けるのは全く問題がないのだが、長丁場なので考えとかなければいけない。少なくとも前夜は熟睡しておきたい。出来れば前日に走っておきたい。

ラマダン絶食期間で、甘いものが堪らない。肉食を控えると追々アルコールも進まなくなるので、愈々甘みが欲しくなる。先日パン屋で購入したリュッブリが途轍もなく美味い。今迄はここまで美味いと思ったことはない。恐らく蜂蜜が入っていて甘みもあるのでこの時期にこそ美味いのかもしれない。今迄はただのニンジンケーキかと思っていたのだが、そのリュブリの名前はスイス語風でなんともいい。イースターの兎にかけたのだから季節ものなのかもしれないが今迄はそのようには感じたことがなかった。兎に角甘みがおいしいのである。2022年にも書いているのだが、今回の様には美味しくなかった。糖分を増やしたか?価格は何故か落ちているようだ。

ここ暫くは冷えても暖房を付けないので、仕事中に膝掛を掛けることにしている。上半身よりも足元が冷えるのが今頃の室内の特徴なのかもしれない。そして午後の熱い紅茶がなによりも身体を温める。摂取カロリーは落ちていないのだろう。体重も減少する様子は全くない。

パン屋に向かうのに距離は伸びてもバイパスを通ることで全体の買い物の時間を短くできることが分かった。バイパスも延長されているので、場合によってはもう少し近くからアクセスできるようになる可能性もある。今回は甘辛双方とも満足である。



参照:
あとから仄々思うもの, 2022-03-18 | 歴史・時事
とても峻別し難いロマン派歌劇, 2017-05-27 | 文化一般
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