『ホビット 思いがけない冒険』の二度目をみてきた。実はさらに行きたいと思っている。そう思えた映画はものすごく久しぶりだった。それくらい、この映画の虜になった。
トールキンの『指輪物語』を実際に読んだのはかなり後になってからである。日本で紹介された頃から知っていたのだが、そしていつでも読める環境にあったのだが、絶対に読みたくなかった。父が読むことを強要したからだ。
父は、おそらく親しくしてい . . . 本文を読む
数年ぶりに短い記事をあげた。
懐かしい方がコメントをくださった。
びっくりした。
でも、嬉しかった。ありがとう。
また新しいコメントが寄せられた。
無記名だったが、書かれた方はなんとなくわかるように思った。
鉄博に行くのと同じように、お芝居にいかれたのだろう、最愛の息子さんと一緒に。
たぶん、そう思う。
更新が、年末の訃報によって、というのはあまりにも悲しいことだ。
三津五郎が「ご本人はもちろ . . . 本文を読む
前段から引き続き、私論『摂州合邦辻』考を。
さてそれでは、世間にあまねく流布していたろう、謡曲はじめ説教節世界のお話を近世人がいかに脚色したか?といえば、まず真っ先にエログロ見世物的切り口をとったはずだ、と私は思う。
見物を怖がらせ、時に笑わせ、気味悪く思わせ、眉をひそめさせて、最後は涙させ、駄目押しで納得させる。
かくも無残かつ醜怪な悲惨が、仏さまのお陰で救われてめでたしめでたし!を、退屈させないよう、扇情的直接的なおかつ目に鮮やかに仕立てたに違いないのだ。
それゆえ、明治以降の「合邦庵室」一幕だけの上演で玉手中心主義、というのはすでにしてズレている。 . . . 本文を読む
通し狂言『摂州合邦辻』はまず人形浄瑠璃として成立し、歌舞伎への移植は幕末近くだったといわれる。
この稿からは、役者の個々の演じ方というよりも物語の歴史的背景を探りながら、現代の歌舞伎興行においておそらくもっとも欠落しつつある「中世的世界観」を二回に分けて考察してみたい。
その上で、国立劇場の試み全体、「通しとしての『摂州合邦辻』はどうだったか?」を検討できればと思う。 . . . 本文を読む
先の「藤十郎の玉手御前はいかなる女か?」に続き、『摂州合邦辻』通し企画愚考を続ける。
なにしろ、久々の芝居燃料! まだしばらく、『摂州合邦辻』世界に漂っていたいではないか!(笑)
この稿も藤十郎玉手が中心だ。ただし、序幕ではなくこの芝居の代名詞「合邦庵室」をとりあげよう。 . . . 本文を読む
十一月の国立劇場歌舞伎興行『摂州合邦辻』は、芝居断ちに近い状態の私にとって、是が非でも行かずにはいられない舞台だった。
実際に舞台をみてきてあれこれ感じることはあるのだが、今回はまず坂田藤十郎が創った玉手御前を中心にまとめてみたい。それも「庵室」ではなく、通しならではの序幕を題材にして、である。 . . . 本文を読む
私にとって、十代目坂東三津五郎という役者は、とても不思議かつ特別な存在である。
三津五郎は歌舞伎役者としてはまずありえないに違いない、「自身が無色透明になっていながら、概念としての近世的人物像が、具体的にその身に宿る触媒のような働き」を、見物に与える人なのだ! . . . 本文を読む
南北は、舞台に【異化効果】をもたらす狂言作者である。
あでやかなお姫さまが女郎に堕ちて姫言葉と女郎言葉をちゃんぽんにして使ったり、雨漏れがひどい薄汚い貧乏長屋に美男で名高い名護屋山三を住まわせたり、豪奢な衣装の花魁を通わせたり…
それらの場面は今でも十分面白く、見物はついつい笑ってしまう。
世に名高い『東海道四谷怪談』も、初演された当時は、かなりブラックなギャグ場面があったように感じる。
ただただ怖い…というだけの芝居ではなく、笑いと恐怖とがごった煮だったに違いない。
南北独自ともいえる「背反する性質のものが、混在し混淆する」趣向性は、あえてたとえるなら、【双面】という歌舞伎表現で説明できるかも知れない。 . . . 本文を読む
四世鶴屋南北は、現代において、格別の思い入れを呼び起こす狂言作者だ。
多くの知識人や数奇者たちが、「南北の道化性」や「南北の批判精神」などについて語っている。
パズルのように入り組んだ南北的【世界】や【趣向】を解きほぐすのも実に楽しいことだろうし、南北が造形した「悪を悪と思わない」勁さと残酷さと美しさを、耽美的に語るのも楽しいだろう。
また、「傾き者」たちの反骨反逆をその作風に見出したり、諧謔味を大人として味わうのも、実に興味深い。
南北は、「紺屋」の出であったとされている。
上方において、その出自をとみなす歴史があったために、南北がしきりに再評価された時代、彼の立場を「最底辺・最下層からの、痛烈な体制批判」と捉える視点もあった。
「肉体性の復権」といった時代の機運ともあいまって、「反体制」なる政治的文脈の中、南北の【生世話】で描かれた民衆性のようなものが過剰に尊ばれた傾向もあったことを記憶している。
だが、私はどうも、そのような思い入れの勝った南北イメージには、昔から抵抗があった。 . . . 本文を読む
「南北らしさ」とはなんだろう?
御園座の『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』(文政八年・1825年・中村座初演)は、私にとってほとんど生まれて初めて「感情的になんの矛盾もなくそのまま共感できる南北劇」だったが、それが果たして南北らしいのかどうかがよくわからない…というのが、正直な気持ちだ。
南北の芝居づくりというと、どうしてもギミックを多用したテクニカルな判じ物に近いもの、または、手術台の上でミシンとこうもり傘が出会うような意表をついた場面構成をイメージしてしまうのだが、その印象が今回の舞台にはまるでなかったためだ。
それだけ「わかりやすく、素直に楽しめる」内容だった、ということなのである。
これは一体、どこから来ている感覚なのだろう?
役者の演技なのだろうか、それとも狂言それ自体なのだろうか?
そこで、自分なりに今月の体験を咀嚼するために、『盟三五大切』の下敷きとなったと言われている、並木五瓶の『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』に当たってみることにした。 . . . 本文を読む
御園座での『盟三五大切』をみて、あらためて『桜姫東文章』のことを思い返している。
特に一昨年、串田和美演出で上演された『コクーン歌舞伎・桜姫』のことが気になっている。
この公演、私の周辺では頗る評判が悪かった。 . . . 本文を読む
と、こんな風に書いているとキリがないので、一気に第二の殺し場、『盟三五大切』最大の見世場でもあったろう「四谷鬼横丁の場」に飛ぶとしよう。
お尋ね者として姿を現す源五兵衛は、すさみきった面持ちである。
いかにも極悪人のように見えるし、発端からすると恐ろしく屈折した相貌となっている。
ここを鼻高幸四郎がやったら、それこそ出てきた途端に芝居小屋に冷気が漂ったろう…
さて、三津五郎が勤めた源五兵衛には、冒頭から唯一一貫している心持ちがある。
「小万が好き!」という思いだ。
好きであればあるほど裏切りが許せないのだ。だから、なんとしてでも二人を殺したいと考えている。
取り憑かれている男、それが四谷の裏店に出てくる源五兵衛である。 . . . 本文を読む
さて、上機嫌だった源五兵衛が、この世のものとは思えない悪鬼に成り果てるきっかけとなる、小万縁切りと三五郎の計略吐露場面「二軒茶屋」だが、ここでの三津五郎はたった一度の恋に死ぬ男であった。 . . . 本文を読む