唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

唐初功臣傳9 獨孤懷恩

2024-05-13 10:01:12 | Weblog
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獨孤懷恩
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元貞皇后[独孤氏、信の四女で高祖李淵の母]の弟子。
父整は隋為涿郡太守。
幼時は隋文帝皇后に宮中で養われ、長じて博徒等と交際していた。
雩県令令となるが病により免ぜられた。

李淵が長安を陥すと長安令となり嚴明であり職に適った,

唐が建国すると工部尚書となり、韋義節に代わって蒲州の堯君素を攻めた。

しかし軍略なく成果を上げられず批判され不満を抱いた。

高祖が「お前が次代の皇帝になるかもな」と戯れ、懷恩はされを信じていた。

当時劉武周麾下の宋金剛と秦王世民が対峙し、蒲州王行本・夏人呂崇茂がその背後を脅かしていた。

懷恩は部下の元君寶、劉讓などと武周や行本と和して秦王の糧道を断ち、關内へなだれ込むという陰謀企んでいた?。

ところが懷恩と永安王孝基・于筠・唐儉は夏を攻めて、金剛に敗北し皆捕虜となった。
君寶や讓は「グズグズしているからこんなことになった」と懷恩をからかった。

秦王が武周軍ほ美良川に破り、懷恩は逃げ歸り、高祖はまた蒲州を攻めさせた。

唐儉は懷恩等の奸計を知り高祖に告発した。

時に行本は蒲州を以って降り、やっと懷恩は入城することができた。

高祖は懷恩を呼び出し、状況を知らない懷恩は出頭して誅された。36歳であった。

その家は籍没された。

単なる懷恩の不満を、誣告好きの唐儉が過大に言い立てたものではないだろうか。
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唐初功臣傳8 齊善行

2024-05-12 10:00:13 | Weblog
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齊善行
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竇建徳に仕えて将となり、左僕射に至った。

武德四年五月
建徳が世民[太宗]に大敗し捕らえられた後、建德妻曹氏と洺州に逃げ帰った。

建徳残党の抗戦意見を抑えて、物資を散じて解兵し、洺相魏等州をもって降った。
右僕射裴矩・行台曹旦や建德妻曹氏及傳國八璽と百官を従えていた。
秦王左二護軍となった。

唐の建徳残党への処遇は低く、劉黒闥の大反乱を招くが、善行は同ぜず唐の地方官として仕え続けた。
高祖時代には顕れず、太宗時代に入って活躍した。

貞觀十二年二月
夔州都督として夜郎/巫州獠を討って平定した。
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唐初功臣傳7 何潘仁 

2024-05-11 10:57:53 | Weblog
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何潘仁
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隋煬帝義寧元年九月
反乱を起こした李淵[唐高祖]軍は黄河を渡り隋長安を攻めた。

長安付近にいた淵の娘で柴紹の妻である李氏[平陽公主]は周囲の豪傑や盗賊に働きかけて軍を形成していった。
西域商胡何潘仁は司竹園を根拠地として數萬の軍を編成した總管と自称し、捕らえた前尚書右衛李綱を長史としていた。李氏は家奴馬三寶を派遣して説かせ味方にした。
その後潘仁は鄠縣を陥した、

潘仁は世民[太宗]軍に配属された。李綱は淵に仕えて專掌選事として人事を担当した。

武德二年閏二月
左屯衛將軍何潘仁は山賊張子惠と司竹で戦い敗死した。

九月
禮部尚書領太子詹事李綱は太子建成と世民の対立に辟易し引退を求めた。高祖は怒り「お前は潘仁にさえ仕えていたのに、俺には仕えられないのか」と罵りました。対して綱は「潘仁は賊であり、濫りに殺人しましたが、臣が諫めるとやめました。だから仕えていたのです。いま臣が太子を諫めても聞かれません、だから辞めるのです」と答えた。
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唐初功臣傳6 盧祖尚

2024-05-10 10:07:48 | Weblog
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盧祖尚 字季良
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父禧は金持ちで隋虎賁郎將となった。

祖尚は財をばらまき人心を得、大業末の大混乱時に自ら兵を集めて群盜を追捕した。
そのため地元の光州は群盗が入らず安定していた。

義寧元年三月
宇文化及が隋煬帝を弑逆して隋が崩壊したとき、州人は祖尚を光州刺史に祭り上げた。
時に祖尚は十九歳であった。

その後、王世充が立てた越王侗に従い光州總管封沈國公。

武德四年九月
世充が自立すると唐に帰属した。拜光州刺史/總管,封弋陽郡公。

武德六年
趙郡王孝恭に従い前軍總管として反した輔公祏を討ち、宣歙州を抜き賊帥馮惠亮、陳正通を破った。

武德七年
蔣州刺史

武德八年
壽州都督

貞觀二年
瀛州刺史  いずれも能政であった。

貞觀二年十月
安南交州都督李壽は乱政で混乱を引き起こし、太宗は有能な都督を求め、名声のある祖尚を任命しようとした。
とかし祖尚は一旦は拝命したが、病と称して辞退した。
太宗は宰相杜如晦や、妻の兄周范を派遣して「三年はがまんしてくれ、その後は高位に取り立てるから」と説得したが、「嶺南は瘴癘で三年後には生きていないだろう」と拒否した。
太宗は「わが命が聞かれないでは政治はできない」と激怒して祖尚を殺した。時に三十余歳。
その後太宗は「殺すのは朕のやりすぎであった」と後悔して官職を復した。
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唐初功臣傳5 郭/李子和

2024-05-09 10:48:54 | Weblog
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郭/李子和
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本姓は郭氏。隋大業末に左翊衛から処罰されて榆林郡へ遷された。

動乱により郡内は飢饉となり不満が高まった。

義寧元年三月
子和は同志とともに蜂起し郡丞王才を殺し、倉を開いて賑給した。

そして永樂王を自称,正平と建元し、父を太公,弟子政を尚書令,子端、子昇を左、右僕射とした。

兵は二千餘騎で、梁師都と通じ、突厥始畢可汗の麾下となった。

始畢は子和を平楊天子としたが、実力不足を感じた子和は固辭し、屋利設に任ぜられた。

武德元年七月
唐に歸附し靈州總管/榆林郡守.封金河郡公に任ぜられた。[雲州総管ではないか?]

武徳二年
進封郕國公
梁師都の寧朔城を陥す。

武德三年十一月
突厥處羅可汗に圧迫され、弟子升は囚され、懼れた子和は民を率いて南下し延州故城に移った。

武德五年八月
突厥頡利可汗が来寇し、左武衛將軍段德操とともに防いだ。

子和は劉黑闥征討に参加した功績により賜姓「李子和」.右武衛将軍となった。

武德九年十月
食實三百戸を与えられた。

貞觀六年正月
右武衛将軍として靜州山獠を討った。

貞觀十一年
婺州刺史.改封夷國公。

顯慶元年四月
黔州都督として矩州人謝無靈の反を討った。

その後高齢により致仕し金紫光祿大夫を加えられた。

麟德九年
卒する
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唐初功臣傳4. 張長遜

2024-05-08 10:22:51 | Weblog
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張長遜
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騎射にすぐれ、里長から軍功により出世して隋上開府五原郡通守/太守となる。

また突厥に属しその莫賀咄設結と義兄弟となり割利特勤に任ぜられた。

義寧二年/武德元年四月
唐の傀儡である代王政権に武都、宕渠、五原等郡を以って歸附して左光祿大夫封安化郡公/范陽郡公となった。梁師都の南下を阻む功績があったとされる。
当時李淵[高祖]もまた突厥に仕えていたため両端を持しただけで反したわけではない。

武德元年
世民[太宗]が薛仁果を攻めた時に、進んで応援し豐州総管.巴/揚國公に昇格した。

武德二年閏二月
突厥始畢可汗は梁師都・劉武周を率いて太原を攻略しようとしていたが途次卒した。
侵攻を懼れた唐高祖は右武候將軍高靜を派遣して朝貢しようとしていたが、靜は可汗の卒を聞いて豐州で観望していた。あらたに立った處羅可汗はその不実を責めた。両方の臣下である長遜は取りなして事を収めた。

武德四年四月
唐の朝廷では長遜が豐州で両端を持していることの批判が高まり、懼れた長遜は太子建成の北伐に従い所部を率いて入朝し右武候將軍,徙封息國公となった。

その後秦王・竇軌に従い檢校益州行台右僕射として王世充を討った。

遂州都督→夔州都督を歴任しよく統治した。

武德九年十月
食實封三百戸を与えられた。

貞觀十一年

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唐初功臣傳3 馬三寶

2024-05-07 10:07:24 | Weblog
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馬三寶
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義寧元年九月
李淵[唐高祖]の婿柴紹の家奴、淵が反すると紹は太原に奔り、司竹園に逃れた紹の妻李氏[平陽公主]の指示で、賊何潘仁を味方につけ、總管を自称して群盜數萬を集めた。

淵は黄河を渡り三寶は左光祿大夫となり、世民[太宗]の麾下となった。

淵が隋帝[代王]を擁すると太子監門率となって、叛胡劉拔真を北山に破った。

薛仁杲征討に従い、柴紹麾下左驍衛將軍として吐谷渾を岷州に大破し、封新興縣男。

武德九年十月
食實封三百戸を与えられた。唐の封戸は虚封であり、単なる格式でしかないが、實封は実際の収入になる。

貞觀初,太子監門率領平道軍將より左驍衛大將軍に進み、新興縣公となった。
これは司空裴寂を追い落とすため沙門法雅との関係を誣告した功績と言われている。

貞觀三年
卒、諡曰忠。
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唐初功臣傳 2.劉世讓

2024-05-06 18:00:13 | Weblog
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劉世讓 字元欽
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義寧元年十二月
李淵[高祖]は長安を陥し隋帝[代王]を擁立した。

世讓は隋征仕郎であったが、湋川をもって降り通議大夫となった。

賊唐弼餘黨招撫に派遣され行軍総管となったが、弟寶俱とともに薛舉軍に敗れて捕らえられた。

唐軍が来襲したとき脱出して帰国し、薛仁杲平定後彭州刺史となった。

武德二年十二月
行軍總管として夏縣呂崇茂を攻めた世讓ですが、宋金剛の来襲により敗北し、永安王孝基・獨孤懷恩と共に捕らえられた。

三年二月
世讓は劉武周と唐の和議の為釈放され、その際に獨狐懷恩を誣告[誅殺]して封弘農郡公。

十二月
并州総管として凶暴な突厥倫特勒を捕らえられた。
そして行軍總管として洺州の竇建徳軍を攻めた。

四年三月
建德の黄州を陥しましたが、洺州は攻めきれず、突厥の并州侵攻に備えて撤退した。

五年三月
雁門に屯し、突厥頡利可汗・高開道・苑君璋軍と対峙しましたが退却した。

六年六月
前并州總管から廣州總管に転じました。世讓は突厥の鋭鋒とは決戦せず、持久によりその戦力を削ぐことを注力し、結果として苦しんだ突厥の麾下である馬邑の苑君璋將高滿政は降ってきた。

十月
突厥は世讓を憚り、世讓が突厥と通じて戦闘を避けていると誣告し、それを信じた高祖は廣州都督世讓を殺し、その家を籍没した。

貞觀初
突厥よりの來降者により冤罪がわかり、妻子は復された。
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唐初功臣傳 1.李仲文

2024-05-05 15:57:29 | Weblog
唐初に活躍した武将で、正史に伝記がないか、簡潔すぎるものをまとめていきます。50人程度を予定しています。
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李仲文
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隋煬帝義寧元年九月
反乱を起こした李淵[唐高祖]軍は黄河を渡り長安に迫った。

長安付近にいた淵の娘で柴紹の妻である李氏[平陽公主]は周囲の豪傑や盗賊に働きかけて軍を形成します。淵從弟李神通、長安大俠史萬寶、西域商胡何潘仁、郿縣群盜李仲文、向善志、丘師利などが集まった。

仲文は東都を攻めている李密の從父にあたった。

仲文は淵軍に編入され世民[唐太宗]の配下に入った。

功績があり上柱國となり、父の封爵を継いで普寧郡公となった。

唐が建国し仲文は引き続き仕えた。

唐高祖武德二年四月
突厥と結んだ劉武周が并州太原を攻め、留守の齊王元吉は幼弱なため、左武衛大將軍姜寶誼と太常少卿李仲文が軍を率いて助けた。

六月
武周將黄子英と雀鼠谷と戦って敗北し、一旦寶誼と仲文は捕虜となりますが脱出し、再び軍を整えて対抗した。

九月
宰相裴寂に率いられた唐軍は武周將宋金剛に大敗し、寶誼は戦死します。元吉は太原を捨てて逃亡した。仲文は浩州剌史劉贍と共に西河を守り抜いた。

三年三月
仲文は攻撃してきた武周將張萬歲を浩州に破った。

西河公張綸とともに石州を攻め,武周派の劉季真を降した。

四月
秦王世民[太宗]は太原を回復し、仲文は検校并州総管として武周の逆襲から太原を守った。

六月
總管としての仲文は援軍として来ている突厥軍の横暴に困惑し、その削減を求めた。

七月
驃騎大將軍可朱渾定遠は仲文が突厥と通謀していると告発し、禮部尚書唐儉に并州を管理させ、仲文を入京させた。

四年二月
唐儉は太常少卿仲文が妖僧志覺と突厥に通じて謀叛しているとして誣告し、仲文は殺された。
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昭宗宰相史[附廃帝]

2024-04-02 18:21:15 | Weblog
唐帝国は宦官とそれに結びついた藩鎭の傀儡となり、ただ名目上存在しているだけになっています。光化3年には昭宗は宦官に一時廃位され、翌天復元年に崔胤により復位しますが、宦官に執着したため鳳翔李茂貞に拉致されます。朱全忠は茂貞を降し、ついでに宦官を絶滅させ、崔胤を殺して昭宗を東都洛陽に拉致し、やがて昭宗をも殺して、廃帝[哀帝]を立て、禅譲させて唐帝国を亡ぼします。
崔胤以外の宰相は単なるお飾りでしかありません。

16昭宗宰相史 [リンク]

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04則天宰相史 [リンク]

03高宗宰相史 [リンク]

02.太宗宰相史 [リンク]

01.高祖宰相史 [リンク]

唐後半の反乱年表[xls]

唐史データ集[xls]
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