エッシャーの書いた手紙を読みながら思いました。
「工芸に関して言えば、もちろん私はどんなイメージの創造の場合でも、手がじつに信じがたいほどに洗練された道具であり、心と物質を仲介するものであることを知っています。」
手を含め僕らの体が思いのままに動くのは、なんの機械、回路、関節一つ一つのスイッチを開閉、そんな堅苦しいものではなく、僕らの体は動けと思えば動くわけですが、そこにはやはりどうにもならない不自由さがあります。
自由、自由、心のままに。
自由とはおおむね、心のままに全てが運ぶことです。
手は、かなりの割合で心に沿って動きます。
ですが、ここでやはり、手は、手なのです。
外であって、内ではないのです。
この手は、僕らが真に思うようにうごいているのか?
これは誰でも思うことでしょう。それで運動選手は体を、真に思うように動かすために、訓練を積むのです。
それともう一つ、僕は書くのが趣味ですから、ふっと意味も無く湧き上がった、こちらの疑問の方が重要な問題です。
この文字は、僕らが真に思うようにかかれているのか?
言葉は長い時間の中で、人の手と同じような器用さを得ました。手と言葉。これらには非常に高い類似性があります。
ですが、多くの人が知っているように、言葉は複雑なことを言い表したいときには、しばしばニアリーイコールにしかなり得ません。その言葉を拾いにいく力のない聞き手には、意味のない音や記号の並びにしかすぎません。
エスキモーには雪を表すことばが十数個もあるそうです。彼らは 「雪」という日本語以上、「雪」を思いのままに表すことが出来ます。
ざらめ雪、淡雪、粉雪、牡丹雪、新雪ー…
例えば、物書きがしばしば表そうとする「好き」という感情も本来は然るべきことなのでしょう。
「雪」にも十数個の表し方があるように、「好き」にも何百個という表し方があって然るべきなのです。
ですが、僕らの操る言葉には、それほど多くの単語はない。手が本当に動かしたいようには動かないのと同じように、言葉も本当に書きたいようには書けないという、不自由さを秘めています。
当然と言えば当然です。心そのものは心だけであって、手も言葉も心そのものではないのですから。
もとから微妙なテーマを扱っているときには、その不自由さは当然のように致命的な内と外の乖離へと発展するのでしょう。
ですが、外にあるべき外のものに、内と全く同じになれ、というのは、矛盾した要請なのです。内と外の微妙なズレが、発信と受信の間に、致命的な差を生じる結果になったとしても、それは手の指を逆側に曲げられないことが、絵筆の動きを制約するというふうに悲しむ、そのような甘えた悲しみなのです。
所詮、僕らは与えられたものしか使うことが出来ません。「牛耳る」などという言葉も、定着するには時間が必要です。例えば「焦がれるような恋」という言葉を縮めて「焦恋」という定義で使いますよ、と勝手に言ったところで、それは公の言葉ではないので、言葉としては認められない。第一「焦恋」では「じれったい恋」かもしれない。「牛耳る」と言う言葉は、耳を掴んで牛を操るというバックボーンが在ったから生まれ得た言葉なのです。確かに夏目漱石は素晴らしい言葉を作ったかも知れませんが、それは何も彼一人の力と言うわけではありません。あくまで、「今ある言葉」で勝負する。多くの画家が、手の指の関節が逆に曲がらないことを嘆かないように、僕たちもまた言葉の不自由さを表現の不自由さとして嘆いてはいけないのです。
もし、何かが新しく与えられたとしても、それはきっと新しい色の絵の具。その程度です。大切なものを混ぜ合わせれば、それで済んだであろうことなのです。
結局何が言いたいのか分かりませんね。とにかく、僕は、短い距離ではありますが一周をしたのです。真夜中のリビングで、エッシャーの書いた手紙を読みながら、言葉の不自由さを認識し、それでもなお表現は無限に自由であるということを思い知ったのです。
この一周には大きな意味があると思います。誰かものを書くのが好きな友達が、このつたない文章を読んで、何かを思ってくれるでしょうか。それは分かりませんが、僕は今、この真夜中に、誰かに何かを伝えずにはいられないのです。
「工芸に関して言えば、もちろん私はどんなイメージの創造の場合でも、手がじつに信じがたいほどに洗練された道具であり、心と物質を仲介するものであることを知っています。」
手を含め僕らの体が思いのままに動くのは、なんの機械、回路、関節一つ一つのスイッチを開閉、そんな堅苦しいものではなく、僕らの体は動けと思えば動くわけですが、そこにはやはりどうにもならない不自由さがあります。
自由、自由、心のままに。
自由とはおおむね、心のままに全てが運ぶことです。
手は、かなりの割合で心に沿って動きます。
ですが、ここでやはり、手は、手なのです。
外であって、内ではないのです。
この手は、僕らが真に思うようにうごいているのか?
これは誰でも思うことでしょう。それで運動選手は体を、真に思うように動かすために、訓練を積むのです。
それともう一つ、僕は書くのが趣味ですから、ふっと意味も無く湧き上がった、こちらの疑問の方が重要な問題です。
この文字は、僕らが真に思うようにかかれているのか?
言葉は長い時間の中で、人の手と同じような器用さを得ました。手と言葉。これらには非常に高い類似性があります。
ですが、多くの人が知っているように、言葉は複雑なことを言い表したいときには、しばしばニアリーイコールにしかなり得ません。その言葉を拾いにいく力のない聞き手には、意味のない音や記号の並びにしかすぎません。
エスキモーには雪を表すことばが十数個もあるそうです。彼らは 「雪」という日本語以上、「雪」を思いのままに表すことが出来ます。
ざらめ雪、淡雪、粉雪、牡丹雪、新雪ー…
例えば、物書きがしばしば表そうとする「好き」という感情も本来は然るべきことなのでしょう。
「雪」にも十数個の表し方があるように、「好き」にも何百個という表し方があって然るべきなのです。
ですが、僕らの操る言葉には、それほど多くの単語はない。手が本当に動かしたいようには動かないのと同じように、言葉も本当に書きたいようには書けないという、不自由さを秘めています。
当然と言えば当然です。心そのものは心だけであって、手も言葉も心そのものではないのですから。
もとから微妙なテーマを扱っているときには、その不自由さは当然のように致命的な内と外の乖離へと発展するのでしょう。
ですが、外にあるべき外のものに、内と全く同じになれ、というのは、矛盾した要請なのです。内と外の微妙なズレが、発信と受信の間に、致命的な差を生じる結果になったとしても、それは手の指を逆側に曲げられないことが、絵筆の動きを制約するというふうに悲しむ、そのような甘えた悲しみなのです。
所詮、僕らは与えられたものしか使うことが出来ません。「牛耳る」などという言葉も、定着するには時間が必要です。例えば「焦がれるような恋」という言葉を縮めて「焦恋」という定義で使いますよ、と勝手に言ったところで、それは公の言葉ではないので、言葉としては認められない。第一「焦恋」では「じれったい恋」かもしれない。「牛耳る」と言う言葉は、耳を掴んで牛を操るというバックボーンが在ったから生まれ得た言葉なのです。確かに夏目漱石は素晴らしい言葉を作ったかも知れませんが、それは何も彼一人の力と言うわけではありません。あくまで、「今ある言葉」で勝負する。多くの画家が、手の指の関節が逆に曲がらないことを嘆かないように、僕たちもまた言葉の不自由さを表現の不自由さとして嘆いてはいけないのです。
もし、何かが新しく与えられたとしても、それはきっと新しい色の絵の具。その程度です。大切なものを混ぜ合わせれば、それで済んだであろうことなのです。
結局何が言いたいのか分かりませんね。とにかく、僕は、短い距離ではありますが一周をしたのです。真夜中のリビングで、エッシャーの書いた手紙を読みながら、言葉の不自由さを認識し、それでもなお表現は無限に自由であるということを思い知ったのです。
この一周には大きな意味があると思います。誰かものを書くのが好きな友達が、このつたない文章を読んで、何かを思ってくれるでしょうか。それは分かりませんが、僕は今、この真夜中に、誰かに何かを伝えずにはいられないのです。