雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

萌黄の季節    雑感

2024-04-20 06:10:53 | 発想$感想

★萌黄の季節になった。
 自然の樹々が美しい。


  



  我が家の樹々も当然のことながら、新葉が伸びる。
  もみじもこんなになったし、
  

   


  こんなにいっぱいの葉で、当然ながら樹は大きくなる。





  樹が大きくなるのは当たり前の話だが、
  小さな庭なので何となく鬱陶しいように思のである。

  そんなことで直ぐ、このように小さく切ってしまう。

  もみじも小さくなったし、

   



 こちらもスッキリした。






  ただ、当然のことだが地面は切った葉でいっぱいである。
  これを拾うのも結構な時間が掛かるのだが、
  昨日の午後は、そんなごみ拾いに終始した。
  

 



★ 萌黄の季節の大自然は特に何もしなくていいからいいなと思う。

  小さな庭をそれなりに維持しようとするのはなかなか大変なのだが、
  それはそれなりに楽しいと思うから不思議である。
 
  昨日からやったところは庭の半分以下で、
  まだ、いっぱい残っている。
  薔薇の季節までもうあと2週間だが、
  それまでには樹のほうは仕上げたいと思っている。

  薔薇の季節はそれなりに綺麗なのだが、
  花柄積みが忙しい。
  当分、鋏が手放せないのである。

  庭仕事、年寄りの趣味としてはちょっとした運動にもなり
  なかなかいいものだと勝手にそう思っている昨今である。

   

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三木山陽病院に行ってきた

2024-04-19 06:40:49 | 発想$感想

★何となくだが病院は三木山陽病院に決めている。
 眼科と整形外科でお世話になっているのだが、
 どちらもそんなにひどいわけではない。

 
  


 昨日は右膝に違和感があるので整形外科に行ってきた。

 大きな病院なので曜日によって担当の先生が代わる。
 同じ右膝なのだが先生によって処置が少しづつ変わるのである。

 前回は塗り薬とシップを貰てきたのだが、
 今回の先生は、右膝に痛み止めの注射をして
 「痛み止めのシップ」を1週間分出して頂いて、1週間後にまた来てくださいと仰る。


   

★気分的なものもあるのだろうが、
 何となく、右膝の痛みが少なくなっているような気もする。
 幾らでも時間はあるので、毎週病院に通うのも特に問題はない。

 そういう意味では今回の木曜日の先生に当たってよかったかも知れない。

 右膝の痛みは出だして、もう何年にもなる。
 めちゃくちゃ痛い訳ではないのだが、
 走るときに若干違和感がある程度なのだが、
 何の問題もない左ひざと比べるとやはり痛いのである。

 ひょっとしたら、毎週・木曜日は三木山陽病院と言うことになるかも知れない。
 それで、右膝が治れば万々歳である。
 果たしてどうなるだろうか?
 

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こなやゴルフ会に行ってきた

2024-04-18 05:35:38 | 発想$感想

★昨日は『こなやゴルフ会』に誘われて、今年はじめてのゴルフだった。
 三木市のこの辺りはホントにゴルフ銀座なのだが。
 滝野カントリー迎賓館コースは三木市の一番北にある。

  

  
 我が家からはクルマで30分の距離なのだが、
 それでも三木では一番遠いゴルフ場かも知れない。
 名門・廣野ゴルフ倶楽部は家から5分の距離で一番近いゴルフ場なのだが、
 なかなかそこでプレイするのはムツカシイ。

 ゴルフは一時は凝って一生懸命だったのだが、
 最近のゴルフはどうもめちゃめちゃなスコアで、
 ぼつぼつ卒業しないといけないのかも知れない。

★ 池が沢山あるこんな綺麗なコースだった。




 ゴルフを始めたのは遅くて、42歳の頃だったのだが、
 始めてからは凝りに凝って、月例のコンペにも欠かさず出て
 オフィシャルハンデイも10になったりしたのだが、
 昨今はどうなってしまったんだろうと思うほどのスコアである。

 多分、もう進歩がないから、いい加減になってしまうのだと思う。
 そう言う意味では『進歩』は大事だな。
 90歳を超えると『進歩』するものは何があるのだろう?

 ホントに進歩するものが無くなてしまった感じである。
 敢えて言えば、毎日やってるストレッチで『柔軟性』は進歩してるかも知れない。
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時間があるのはいいことだ

2024-04-16 16:56:56 | 発想$感想

★ 毎日有り余る時間があるのだが、結構退屈などせずに過ごしている。
  朝は2時間ほど、公園をうろついているし、
  時間があったら『パンダ碁』で碁を打つ。
  時間つぶしにはもってこいである。

  毎日、殆ど昼寝をするのだが、目が覚めたら庭仕事をすることが多い。

  こうして見ると、特に何もないように思いうのだが、

  
  



  つい先日まで、綺麗に花を咲かせていた『花かいどう』だが、
  当たり前のことだが、花が散りかけて
  地面には花びらがいっぱいである。
  放っておいても、どうと言うことはないのだが、

  
   



  昨日は、ちょっと気になって、
  その花びらを拾ったら、こんなになった。
  ただ、ここにはまだごみも残っていたが
  ちょっと広いので、


  



    隣の小さな枠のごみを拾ったら




  こんなになった。
  5分も掛からなったが、
  ごみは100個拾ったのである。




 有り余る時間があることはいいことだ。


★ここまで書いたのだが、
 明日は久しぶりのゴルフで、朝6時半に家を出る。
 そんなことで時間がないので、
 このブログ、今アップしておくことにする。
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カワサキのレースのスタート時期のこと

2024-04-16 06:48:01 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのレースのスタートは1963年5月の『青野ヶ原モトクロス』と言われている。
 このレースは製造部の有志で出場したいわば『プライベートチーム』で正規のメーカーのレース出場ではなかったのだが、
 このレースの結果がその後のカワサキの二輪事業に大きな影響を与えたのは間違いない。



 



 この『青野が原のモトクロス』のきっかけは、
 1962年11月に開催された鈴鹿サーキットのジュニアロードレースを製造部のメンバーが観戦し、カワサキもレースをと言うことになったのである。
 このレース観戦の仕掛け人兵庫メグロの西海義治社長で、青野ヶ原のモトクロスの開催を主宰したのも当時MFJ 兵庫支部長だった西海さんなのである。
 西海さんは子飼いの松尾勇さんをカワサキの製造部に入社させ、
青野ヶ原のマシンも、その後のF21Mまでの約10年間は、MXもロードレースも、松尾勇さんがマシン製作を主導したのである。
 カワサキのレースマシンの制作が技術部に移ったのは、マシンがKXと称される時期からなのである。
 エンジンは兎も角、フレームについては二輪の専門家が少なかった時代だったと言えるのだろう。

 因みに、西海義治社長が何故かくも熱心だったのかと言うと、
 西海さんは元プロのオートレーサーで、何としてもカワサキにレース部門を立ち上げようと思われたに違いないのである。


★このカワサキのレースのスタートのきっかけは、
 1962年11月鈴鹿サーキットで開催されたジュニアロードレースだったのだが、
 このレースの250ccの優勝者が三橋実350㏄が片山義美で、この二人のレーサーがその後カワサキのレースチームを支えることになるのである。
 当時はMCFAJ主催のレースが主体で、それに出場するためには選手はメーカではなくクラブチーム所属であることが必須だったのだが、
 カワサキコンバットを主宰したのが三橋実で、神戸木の実クラブ片山義美だったのである。

 この写真の左から岡部能夫、歳森康師、山本隆、三橋実、梅津次郎
 この5人がカワサキの最初に契約したライダーなのだが、
 三橋、岡部、梅津が三橋実が立ち上げたカワサキコンバット
 歳森、山本は片山義美が主宰した神戸木の実クラブ所属なのである。

  
  


 
 1962年に本田宗一郎さんが鈴鹿サーキット創っていなければ  
カワサキのレースチームもまた、変わった形になっていただろう。
 そういう意味では、本田宗一郎さんがカワサキのレースに陰ながら関係したとも言えるのかも知れない。
 

★ レースには私自身いろいろとご縁があって、 『青野ヶ原』以降のファクトリーチームを担当したのだが、
  1988年10月に『カワサキファクトリー25周年』と銘打って、立ち上がり時代のレース関係者と当時の現役レースチームを招いて、25周年記念パーテイを開催したのである。


  
  

 集まったライダー諸氏は、最初の契約ライダー歳森・山本・岡部・梅津をはじめ
 その後ファクトリーに参加した安良岡健・和田将宏・金谷秀夫・清原明彦・星野一義、
 現役ライダーでは宗和孝宏・多田喜代一・関本五十洋などもいる。

 川崎重工側の出席者としては、青野ヶ原を主宰した中村治道・高橋鐵郎(元川重副社長)さんも、当時のレーサー製作を仕切った松尾勇さんもおられるし、
 真ん中にお座りなのが兵庫メグロの西海義治社長なのである。
 初期のレース運営委員会会長の山田熙明(元川重副社長)、苧野豊秋さんなど錚々たるメンバーなのである。
 
 カワサキのロードレーススタート時の監督大槻幸雄(Z1開発総責任者・川重元常務)・副監督田崎雅元(元川重社長)さんも、
 さらにはカワサキの名物男・平井稔男さんなどが顔を揃えているのである。

 因みに、OBサイドでの末席星野一義・清原明彦と言うホントにウソみたいな話なのである。
 このメンバーを見る限り、レースだけではなくカワサキの二輪事業を支えた中枢メンバーが当初のレースに関わっておられたことがお解り頂けると思う。

★カワサキの初めてのレース『青野ヶ原モトクロス』で、1位から6位までを独占するという完全優勝はまさに運がよかったと言わざるを得ないのである。
 マシンは125B8で、ライダーはこのモトクロスが初めてという初心者ばかりだったのだが、
 当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、他社のマシンはみんなエンジンが止まってしまったようなのである。
 後、カワサキのエースライダーになる山本隆も当時はヤマハで出場していたようだが、マシンが止まってリタイヤしたのである。
 カワサキのレースでその後も1位から6位まで独占などはこのレースだけで、まさに雨のお陰なのである。
 因みに、この青野ヶ原の優勝者が誰なのか?
 当時はカワサキが勝ったということだけで、優勝者が誰だったのか?解っていないのは不思議なことである。

 雨がカワサキに幸運をもたらした、まさに『恵みの雨』だったのである。
 ずっと後、山本隆がはじめて鈴鹿サーキットを走ったロードレースでも、当日雨になってモトクロスライダーの山本隆がホンダに次いで3位入賞と言うことになるのだが、
 雨がMXもロードもカワサキに幸運をもたらしたのである。

 
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のどかな三木

2024-04-15 05:46:20 | 発想$感想

★「のどか」とは、その人のおかれた環境によって、穏やかな気分になるさまをいい、
のどかな田園風景」のように、穏やかな気持ちにさせるような風景をも修飾できるとあった。

 「脇川の念仏水」のあるこの地区の風景は、
 まさに自然そのままの『のどかな風景』で
 人もクルマも見当たらない。


  



 自然に囲まれたこんな立地で、
 すぐ横に集落もあるのだがまさにのどかな風景である。






 我が家とは直線距離で5kmほどなのだが、
 こうしてみると三木は自然いっぱい、ゴルフ場もいっぱいなのである。
 全部で25もあって、西日本では一番多いとか。





  我が家のある一帯も開拓されるまでは山だった。
  いずれにしても「のどかないい環境の三木」で
  晩年を過ごせてよかったと思っている。


★ 我が家の庭も今年は草抜きなど、手入れができたので、
  綺麗になっている。


  


 
 今年は暖かいので、4月のうちに薔薇も花が見られるかも知れない。
 もう蕾もついている。

  



  まさに春、のどかな気分に浸っている「のどかな三木」である。

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脇川の念仏水に行ってきた

2024-04-14 06:34:55 | 発想$感想

★ 昨日は水道水のことを書いたのだが、
 三木の水源の一つが『脇川の念仏水』と言うことで、
 どんなところか一度見ておこうと朝7時半に車で家を出た。


 地図で見るとこんな山の奥の方なのだが、
 道がもう一つよく解らなくて、
 すんなり行くことが出来ずに、あちこちの道を迷って
 最後はこの辺りの方に道を聞いて、やっと行き着いたのである。

 現場に着いたのが8時50分だったから、1時間半近くウロウロしていたことになる。

  



 どの道も、細い山道で、たどり着くまでホントに大変だった。


  


  教海寺のすぐ近くなのだが、こんな山奥のお寺である。


  


 
 三木は旧いまちなので、
 ここも弘法大師ゆかりの池とあったが、





 いまはこんな形に草が生えて、
 確かにその奥には水源らしきものもあるのだが、よく解らなかった。
 直ぐ下には脇川が流れていて、そこが水源になっているようである。





★場所が解ったので、帰りは家までこんな道を戻ってきたら、
 殆ど家から一直線で、25分ぐらいで戻ってこれた。

 
  


 三木の道は殆ど解ってると思っていたが、まだ通ったことのない道もあるのだ。

 この道も行き止まりではなくてずっと北の方に抜けることが出来る
 旧い昔の山道なのである。
 そんなことで弘法大使も通られたのだと思う。
 そう言う意味では、三木は旧い由緒あるまちなのである。
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水道水が飲める国

2024-04-13 05:53:48 | 発想$感想

★水道水がそのまま飲める国はアジア圏では意外だったが、
 日本だけのようである。
 アメリカ大陸は北も南もダメなようだし、
 ヨーロッパ圏はドイツを含めて8カ国が大丈夫なようである。
 オーストリア・アイスランド・アイルランド・スロベニア・デンマーク・フィンランド・ノルウェーと並んでいて、
 アフリカ圏では南アフリカ共和国・1国だけで、
 世界で9カ国しかないようなのである。


★そんな日本でも、水道水をそのまま飲んでる人は25%だが、

 


 私は戦前派で無神経なのか、子どもの頃から水道水しか飲んだことがない。
 ペットボトルの水は我が家では買わないし、
 たまに外出先で飲むことはあるが、それも年に何本かと言うレベルなのである。

ペットボトルの水を飲んでる人が28%と一番多いようである。



    
   



★ 三木市の水道は深井戸・県営水道の2種類の水源から成り立っており、
 配水区域により水質には若干の差異がありますが、
 全ての地域において「おいしい水の要件」をほぼ満たしています。
 とネットで書かれていて

 多分我が家は「脇川の念仏水」が水源ではないかと思うのだが、

  

 
  水道の水もなかなか美味しいのである。

★ 日本でも水道の水を飲んでる人は、4分の1だし
  世界でも『水道の水』をそのまま飲む人は少ないだろうから、
  考えてみると、世界の中でほんの数%という希少な人の中に入っているということなのである。

  『水道の水』を飲むのは当たり前のことだと思っていたが、
  これはホントに希少価値の中に入っていて『幸せ』と言っていいのだろうか?
  改めて、そんなことを想っている。
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急坂を上ってきた

2024-04-12 06:11:07 | 発想$感想

★三木防災公園にはこんな急な坂と言うかきつい上りの芝生がある。
 先ず、普通の道にはこんな勾配はない。

 
  


  この坂を休まずに2度登ってきた。
  先日から開始した足腰強化のためである。
  実際に登ってみると、休まずに上るのは相当にきつい。

  果たして何歳まで登れるだろうか?
  先ず、普通の高齢者には無理な勾配だと思う。


  上からの眺望である。
  山頂とは言わぬが、まさに山の上からの眺めと言っていい。
 
  


  防災公園の建物が低く見える。





  毎日とは言わぬが、今後も鍛錬のため登ることにしよう。
  アメリカのプロのサッカー選手の孫たちはこの坂を走って登ったりしていたのである。


   

 
  体力維持にはいい環境だと思っている。
  次回は出来たら3回登ってみたい。
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カワサキの二輪車の歴史について    その2

2024-04-11 05:43:12 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの二輪車の歴史・その2は
 1960年。神戸製作所で二輪車の一貫生産を開始とある。



  

 私は昭和32年4月(1957)に川崎航空機に入社したのだが、
 最初の配属先は業務部財産課だった。
 そこでも新しいことばかりやっていて、木製の椅子から金属製のネコスの椅子に変えたり、財産物件の償却計算を民需では初めてIBMを使ったりした。
 当時はアメリカ空軍のジェットエンジンのオーバーホールを明石工場でやっていて、明石工場にはIBMの器械装置があったのである。

 日本で一般にIBMが使われ出したのは昭和40年代だから、それより10年も早い時期のことなのである。
 そんな財産課にいたのだが、肺結核にかかって1年ほど入院していたのだが、その退院の時期が1961年12月で、たまたま新しく単車営業課が発足したのである。
 初めてのことだからそこには誰もいなかったのだが、
新しい仕事』なら古谷は出来るだろうと思われたのか、その単車営業課の所属になったのである。
 その部門の上司は業務部時代にもいろいろお世話になった小野助治さんで、その小野助さんに『私は引っ張って』頂いたのである。

 小野助治さんは、当時小野助さんと皆に呼ばれて、ホントに面倒見のいい上司だったのだが、私はその後、結婚するときは仲人をお願いしたりしたのである。

★これがきっかけで、私はその後、1999年に退職するまで、一貫して二輪事業を担当することになったのだが、
 一番最初の車はニューエースとあるが、それはほんの数か月のことで、私が営業課に異動した時の車は、125ccB7モペットM5が主力車種だったのである。


  
 
 
 そのほかにも、井関のタフ50なども委託生産していた時代なのである。


★ 私が営業課に配属されて小野部長に最初に言われた指示は物品税を研究してくれ』だったのである。
  この125B7は出荷もしていたが、フレームに欠陥があって多くの車が返却され、明石工場は返却車の山だったのである。
 私が配属されて2か月目の1962年1月の出荷台数は返却が出荷を上回って『マイナス17台の出荷』と言う信じられないことが起ったのである。

 当時125cc以上のバイクは贅沢品に掛けられる『物品税』が掛けられていて、この物品税の納入は至って簡単なのだが、
 返却されて治めた『物品税を戻入』して貰おうとするとこれが大変なのである。
 1台1台、明石税務署の署員の実地検査があって、そこで認可されないと戻して頂けないのだが、
 それは出荷当時のままと言うのが条件で、例えばメーターはゼロ出ないとダメなので、メーターの巻き戻しなどもやるという、大変な作業だったのである。
 さらにこの物品税は申告税だから、若し不正があると体刑になるというムツカシイ処理で、ホントに大変だったのである。

 そんな大変な時代が1年続いたのだが翌年には名車とも言われる25B8が出て、単車事業はやっと何とか軌道に乗り始めたのである。


  
 
 
 私の単車1年目はこんな大変な時代だったのである。
 いまは隆盛を極めるカワサキの単車事業だが、
 スタートから10年はずっと大変な時代が続いたのである。
 100社近くもあった単車の事業体がどんどん脱落して、
 いまの4社体制になるのだが、浜松の3社以外に生き残ったのはワサキだけなのである。
 そんな時代をずっと一緒に過ごせたのは今となっては貴重な体験だったと言えるだろう。


  

 
 私の入社当時の川崎航空機の明石工場はまだ単車工場もなくこんな状態だったのである。
 この広大な土地や戦前の機械の売り食いでやっと経営を繋いだ時代で、そう言う意味でも財産課は至って貴重な部門だったのである。



 
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金魚やメダカの季節がやって来た

2024-04-10 06:25:59 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★子供のころからなぜか鯉や金魚が好きだったのだが、
 90歳を過ぎてもそれは変わらないから不思議である。

 小さな池に鯉や金魚など小さなのを放したら、今はこれくらいになった。
 餌をやって飽きずに眺めている。
 今年も2cmほどの金魚や鯉を15匹ほど放したのだが
 なかなか写真には写らない。


 


 
  金魚もメダカもコドモを産んだリするので
  その準備にAmazonでホテイ草を頼んだ。


  



  これは去年の写真だが、
  メダカが毎日卵を産み続ける。
  ホントに不思議だが産み出すと毎日産むのである。






★ メダカが卵を産みだすのは、確か4月の末ごろ、
 水温が18℃以上になったころからなので、
 準備段階に入ったのである。

 産み出すとその世話が忙しくなるのだが、
 いまの時期、産み出すまでが期待があって何となく待ち遠しい。
 今年もそんな季節になった。

 

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櫻満開

2024-04-09 05:10:36 | 発想$感想

★この地域でも桜満開になった。
 今朝の協同学苑の桜である。

  



  日本の花・桜、ホントに綺麗だなと思う。


  しだれ桜も見事である。

  


 
  でもあっという間に散ってしまう。


  


  今日の午後から明日にかけては雨なのだが、
  何とかこの雨には持ちこたえて欲しいものである。


★ 日本以外にも桜はあるのだが、
  何となく『桜は日本』と言うことになっているようだ。

  私は子どもの頃は今のソウル・京城にいたのだが、
  住所は城東区桜丘で、通った小学校は桜が丘小学校だった。
  当時は日本だったし、その開拓地に桜をいっぱい植えたのは
  間違いなく日本人である。


  昌慶苑の桜 は有名だった。


  
  
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カワサキの二輪車の歴史について    その1

2024-04-08 05:59:43 | カワサキ単車の昔話


★「カワサキモーターサイクルの歴史」としてこんな表が載っていた。
 1960年から2000年までの40年は丁度私が二輪車を担当してた現役時代なのである。
 40年間の歴史の中で1966年までのスタートの時期以降は抜けている年度もあるが、そんな年度のことも私なりに補って40年間の歴史としてみたい。 
 



川崎航空機工業が戦時中に生産してたのは飛燕などの戦闘機だったのだが、
そのために敗戦と同時にGHQから工場を差し押さえれ操業停止になった。
昭和28(1953)の生産再開までは播州滝野高槻に疎開工場があって、播州工場では歯車を高槻ではエンジン関係をやっていた。
カワサキの単車1号機も高槻工場で造られたものだった。





 この高槻工場には後に単車事業本部長もされた高橋鐵郎さんもおられたようである。
 昭和28年(1958)に明石工場が再開されたのだが、
 私は昭和32年入社なので、その頃のことは話として聞いているだけである。
 本格的にカワサキが一貫生産工場を造って単車事業をスタートさせたのは1959年のことで、
 目黒製作所と提携し、社内にも『単車営業部』がスタートしたのは、1960年なのだが、
 この年に私はその単車営業部に異動したので、カワサキの単車のスタート時期から、1999年に退社するまで、二輪事業に関わっていたのである。

★その殆どの項目が二輪車の機種なのだが、それについて私なりの感想や思い出などを纏めてみたいと思っている。
 閑に任せて40回、どんな記事になるか解らぬが、楽しみにしてください。
 

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庭仕事   草抜き

2024-04-07 05:02:35 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★春になって庭仕事の最盛期が始まる。
 先ずは『草抜き』かな。
 冬の間も草抜きはしてるので、そんなに草は生えていない。

 特に前庭の苔の植えているところは、
 草一本も生えていないように頑張ってるが、
 それでもちょっと油断をすると双葉の草が芽を出してくる。

 
  


  こんな感じで、
  小さなごみが目立つのだが、ごみもせっせと拾っている。





  今朝は裏の草を抜いたら、こんなになった。


 
 

  生えていないようだが、落ち葉なども含めてこんなになった。





  三木金物の専用の草抜き道具は重宝している。






  それでもこんなところは、除草剤に頼らざるを得ないのである。







  有り余った時間があるから、
  『草抜き』も達成感があって、なかなかいい。
  草を抜いておけば、落ちる種も少なくなるので、
  そんなに草茫々になったりはしないのである。

  それにしても草の生命力は強いな。



  
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朝の運動  雑感

2024-04-06 06:23:31 | 発想$感想

★ 毎朝欠かさず2時間近く運動しているのだが、
  今年は1月から3か月『1万歩』を目標にスロージョッギングをまじえて、
  兎に角『一万歩』になるまで歩き続けてきた。

  ただ以前はやっていた50メートルダッシュを止めてたのだが、
  下半身、特に腰回りの筋肉が落ちたような気がする。
  そんなことで昨日から『方針変更』して、新しいスケジュールで兎に角3か月はやってみようと思っている。

  いつも行く三木総合防災公園の林間広場にはこんなストレッチなどの体操器具が並んでいる。


  
 



★まずはこれを使って、筋トレとストレッチをやることにした。
 沢山の器具を使って、自分なりにやってみたが、全部使ってやってみると50分近く掛る。

 そのあとこんな周回路を2周ほどスロー・ジョッギングして

 


    それ以降はこんな芝生の広場で、
 50メートルダッシュを休み休みだが、約1時間繰り返した。

 
  


 歩数は5000歩ほどで約半分だが、
 消費カロリーはこの日の累計で、1000cal を越えた。

 結構ハードだったが、昼寝して起きたら、下半身、特に腰回りがしゃんとしてる感じである。
  それなりの違った効果があるようなので、これから3か月はこの方法で続けてみたい。

  果たして、どんな結果になるのだろうか?
  いまでも何とかちゃんとダッシュできるが、
  もうすこしスムースに速く走れるようになる筈である。
  『91歳の挑戦』頑張ってみたい。


  
  

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