黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

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2030-01-01 00:00:00 | はじめに
著述家、軍艦島伝道師、長崎伝習所塾長、産業廃墟映像制作集団<オープロジェクト>メンバー、黒沢のブログです。
軍艦島はもちろん、炭鉱から産業遺産、廃墟感を感じる場所や事柄、遺跡や遺構、時空旅行、暗渠、
都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角などを徒然にアップしています。
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吉原遊廓跡 #02

2021-08-26 17:42:31 | 東京 URBEX
国内最大規模を誇り、かつ最も長い歴史をもつ色街「吉原」。
令和の吉原をお伝えしながら、遊廓や赤線の歴史を見ていきたいと思います。



前回の記事でお伝えしたように、
吉原内の通りの名称は江戸時代のままですが、
吉原という地名はありません。
かつての吉原遊郭に相当する現在の地名は台東区千束4丁目
廓全体とその北東に隣接する一部のエリアで、
ちょうどこの江戸時代の図全体に匹敵します。







土手通り沿いには江戸時代の遊郭図にも記載されている見返り柳があり、
現在の柳は6代目とか。
江戸時代とほぼ同じ位置にあるので、
吉原への入口への目印となるでしょう。



現在はガソリンスタンドの前に立って趣も何もありませんが、
江戸時代には風情を醸し出していたに違いありません。
見返り柳とは、廓帰りに名残を惜んだ場所で、
長崎の丸山遊郭跡にも柳が遺っています。





見返り柳のある信号のプレートには「吉原大門」の文字が。
江戸時代の図をご覧になってわかるように、
本来の大門(おおもん)は廓の入口にありましたが、
わかりやすく信号表記を大門にしたのでしょう。



背景に写るのは東京スカイツリー。
その昔、廓へ通った遊び客の誰がこんな光景を想像したでしょうか。





そして、この大門信号の吉原と反対側の道沿いには、
趣のある料理屋が二軒並んでいます。
「土手の伊勢屋」と「桜なべ中江」。



伊勢屋は天ぷら屋、中江はその名の通り馬肉のお店。
創業は伊勢屋が1889(明治22)年 、中江が1905(明治38)年で、
いずれも明治時代の創業。
江戸時代ほどではないにせよ、まだまだ吉原が貸座敷として全盛の時代。
特に中江は登楼前の勢力付に、
また廓帰りの食事処として大いに賑わったことでしょう。





画像は角地に建つ伊勢屋。
建屋は関東大震災で以前の店が崩壊後の
1927(昭和2)年に建てられたもの。



入母屋造の屋根に押渕下見板張りの外壁、
出桁造りの1階軒先に持ち帰り用窓口の下の石造部分など、
昭和初期の店舗建築の一様式を今に伝えています。

ちなみに隣の中江は1924(大正13)年築。
こちらは平入り造りで屋根頂上の熨斗瓦の積みも高く、
かつての繁盛ぶりがうかがえます。
いずれも国の登録有形文化財。







画像は伊勢屋の店内に掲示された昭和初期の外観。
ほとんど変わっていないのがよくわかります。





現在、伊勢屋はランチ営業のみ。
下町の天ぷらにしてはごま油が少なめで色も黒くなく、
程よいバランスのタレが絶品な天丼です。



画像は一番お安い
えび二本、キス、イカ、獅子唐の「天丼 イ」。
ほかに「ロ」「ハ」があり、
いずれも巨大な穴子天ぷらが載ります。
穴子がおすきな方は、丼から溢れるように盛られた、
ロやハがおすすめです。





腹ごしらえが済んだら、いざまいらん吉原へ。
見返り柳を先へ進むと、これまた江戸時代の図にも記されている、
五十間道(ごじっけんどう)があり、
緩やかに蛇行した形は今も健在。



かつては道の両側に衣装屋や髪結屋が軒を連ね、
登楼前の身支度をする役割を担っていました。
また道が蛇行しているのは、土手通りから廓が見えないための措置といわれますが、
真相はさだかでないようです。





五十間道を進むとやがて見えてくる大門跡。



左右に「よし原大門」と書かれた照明ポールが見えます。
実際の大門はもうちょっと手前ですが、
ともあれここからかつての吉原遊廓跡の始まりです。

吉原遊廓跡 #01

2021-08-21 23:18:11 | 東京 URBEX
国内最大規模を誇り、かつ最も長い歴史をもつ色街「吉原」。
令和の吉原をお伝えしながら、遊廓や赤線の歴史を見ていきたいと思います。



性産業にまつわる言葉ほど、
その種類や数が多いものもないのではないでしょうか。
建物やエリアを表す言葉だけをみても、
遊廓にはじまり女郎屋、遊女屋、岡場所、飯盛旅籠、特飲街、赤線・青線と、
枚挙にいとまがありません。
特に遊廓という言葉は江戸時代の公許の遊女屋街にのみ使われた言葉ですが、
“インパクトある”表現のせいか、
本来遊廓ではない多くの色街が遊廓と呼ばれ、
単体の店をも遊廓と表現するほどです。
1958(昭和33)年の売春防止法施行以前の性産業は、
そのほとんどが遊廓の一言で言い表されてきたといえるでしょう。

そんな中、吉原はほぼその歴史の当初から公許の遊女屋街で、
1958(昭和33)年まで約350年もの間、色街として栄えた場所でした。
さらに現在も多くのソープランドが建ち並び、
性産業の歓楽街として存続し続けているのは、国内で吉原だけ。

当初は現在の東京中央区人形町界隈にあった吉原。
当時は葦が群生する湿地帯だったそうで、葦原と呼ばれたそうですが、
葦が「悪し」に通じるということで、吉(良し)原に。
その後、江戸の初期に現在の地へ移転したのが現在も遺る吉原。
移転時は、人形町に吉原に対して新吉原と呼ばれていました。

現在の吉原で最も驚くのは、吉原内の通りがほぼそのままの区画で遺り、
さらにその名称も江戸時代のまま遺っていること。



地図の上、見返り柳がある付近が現在の土手通で、
そこから五十間通を通って廓の入口にあたる大門へ。
ちなみに大門はだいもんではなく「おおもん」と読みます。

大門の下に黒く囲われたエリアが遊廓で、
黒塀に囲まれ、その周囲には「お歯黒(どぶ)」とよばれる堀がありました。
遊女がお歯黒を塗った後の墨を流したので、いつも真っ黒だったといいます。
ちなみに映画などで登場する江戸時代の遊女の歯は真っ白ですが、
これはあくまでもイメージで、
本来遊廓の遊女たちはみなお歯黒をしてました。

エリア名につく「町」は基本的に「ちょう」と読みますが、
一番下の京町だけ「まち」。
現在も吉原の中はこの呼び名です。

中央を縦に貫く仲之町は別名待合辻ともよばれ、
通りの左右には待合茶屋と呼ばれる見世が軒を連ねました。
待合茶屋は芸妓や娼妓を呼び寄せて遊興する飲食店で、
客は待合で食事をした後、お目当の娼妓の妓楼へ赴きました。
ただし待合での遊興はとても高価なので、
直接妓楼へ向かってその場で一晩の相手を決める場合もあります。

中央左のエリアの揚屋町は、かつて一番賑わっていたエリア。
遊女を呼び寄せ、飲めや歌えやの宴会を行うのが揚屋で、
遊廓の中でも最も高額な遊び場でした。
しかし江戸も後期になると贅沢を自粛するおふれが出され、
揚屋遊びがなくなります。
その後このエリアに住んだのが、
妓楼の建て替えや修理をする職人たちでした。
つまり、吉原の中には妓楼だけでなく、
職人などの一般の人の住まいもあったわけです。

また右上にある伏見町は、その変則的な位置からもわかるように、
後から造られたエリアでした。
徳川の開幕によって様々な開発に必要な職人が多く住んだ江戸は、
単身の男性が極めて多かった街。
飲食店から旅館まで、多くの職業が非公認の妓楼的な営業をしていました。
その中でも最も多かったものの一つが銭湯です。
湯女(ゆな)と呼ばれる女性が常駐し、性的なサービス行なっていました。
もちろんこれらは幕府非公認の営業ですが、
いくら取り締まっても雨後の筍のように現れる湯女風呂に手をこまねいた幕府が、
吉原と話をさせてその一角に湯女を働かせるエリアを造ることになり、
それが伏見町となりました。

吉原の町の話はこれくらいにして、
次回からは現在の吉原を見ていきたいと思います。

軍艦島の建築的装飾 #06

2021-08-12 22:55:36 | 軍艦島(端島)
ほとんど建築的な装飾がみあたらない軍艦島の建物の中で、
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしています。



シリーズでお送りしてきた軍艦島の建築的装飾。
最終回の今回は、島内で最も建築的な装飾が施されていた「昭和館」です。

昭和館は通し番号で50号棟とも呼ばれ、
1927(昭和2)年に建設された映画館でした。
島内で最も規模の大きな娯楽施設だっただけあって、
これまで見てきた集合住宅や鉱業所の施設とは桁違いに、
建築的な装飾が施されていました。



画像は炭鉱操業時の昭和館。
両端に施行された四角い柱に球体の装飾、
エントランスの軒上部にあしらわれたデンティル・コーニス(歯型の連続レリーフ)、
そして入口中央の上部に作り込まれた幾何学的なカッティングなど、
細部にわたって昭和初期の建築的装飾が鏤められているのがわかります。







残念ながら、その躯体のほとんどが煉瓦造だったため、
閉山後の1991(平成3)年に島を直撃した大型台風によって大破し、
現在はRC造だったエントランスの下部だけが残存し、
かろうじてデンティル・コーニスの跡が見て取れます。

また、黄色い豆タイルの貼られた柱の上部を見ると、
特に右に写る柱のものがわかりやすいですが、
以前にアップした総合事務所の持ち送りと同じ形をしているのがわかります。

軍艦島の建築物は、
基本的に三菱の建造物設計チームと清水建設によって建てられたものが多く、
時代的にも近いこの二つの物件は、
おそらく同じチームによって設計されたものだと思います。







画像は、隣接する寺院の跡地に吹き飛ばされた、
操業時の写真の左右の柱のてっぺんに載る球体の装飾。
球体の下が三段の蛇腹積みになっていて、
細部にまで細やかな装飾を施していたのがわかります。







画像は、エントランスと反対側に位置する、
ちょうどスクリーン舞台があった側の外壁の跡。
これはかなり前ですが、このブログで以前にも取り上げました。
下部に写る平らな面が外壁で、
中央付近の山型の部分が、外壁頂部の切妻にあたります。
こちらも四段の軒蛇腹が施行され、
昭和館がかなり凝った建築的装飾のある建物だったことがわかります。

台風で瓦解してしまったのが残念です。

軍艦島の建築的装飾 #05

2021-08-09 22:37:54 | 軍艦島(端島)
ほとんど建築的な装飾がみあたらない軍艦島の建物の中で、
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしています。



前回は、軍艦島の炭鉱施設に残る建築的な装飾をお伝えしましたが、
炭鉱施設にはもう一つ、顕著な建築的装飾がありました。
それが、新旧の積込桟橋です。

積込桟橋は、接岸した石炭運搬船に、
出来上がった石炭を積み込むためのベルトコンベアの支柱で、
画像の○で囲んだ上のものが、閉山まで使用していた新積込桟橋。
下の○で囲んだものが旧積込桟橋の橋脚です。



旧積込桟橋は1931(昭和6)年に改築されたもので、
新積込桟橋は、戦中に新たに建造されています。
短い期間での造り直しは、
戦時増産による運搬船の大型化や、
規模の拡大によるものだったのではないでしょうか。

いずれにせよ、
両方とも昭和初期から戦中にかけて建造されているので、
似たような装飾が施されています。



画像は、下の○で囲った位置にある旧積込桟橋。
アーチ状に施行された部分の中央に、
太い畝と細い畝の2種類の幅で調子をつけた、
幾何学的なレリーフが見て取れます。



そしてこちらは上の○で囲った位置にある新積込桟橋。
旧桟橋とほぼ同じレリーフで、その数だけが違います。
柱の太さを比べてもおわかりのように、
新桟橋のほうがやや大きなサイズで建造されているようで、
アーチ幅も少し広いので、レリーフの数も多めです。

新旧ともに一見小さそうに見えますが、
右端に写る埋め込み梯子のサイズからおわかりのように、
上部1/3で人の身長くらいの高さがあり、
レリーフも目の前で見るとかなり迫力があります。



現在は、桟橋の基礎がよく見えますが、
操業時は桟橋の上にベルトコンベアがあり、
さらに石炭を運搬船へ積み込む巨大なディストリビューターが載っていて、
桟橋の基礎はほとんど見えませんでした。
そんな目立たない位置にも装飾的なアプローチをしているのを見ると、
やはりこの時代、ちょっとした飾りを施すことが、
いかに習慣のようになっていたかがわかります。