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人に自然に耳を傾けながら、まちを歩こう。

地域に農業に、物事の本質を問う学びを

2015-04-29 22:37:13 | 旅の記憶・遠野
"社会教育(公民館)の経験は、農業やるきっかけにあるよ。深いところで"

 ご縁が重なり合って、遠野の多田自然農場をおじゃました。多田克彦さん、混迷する農業界にあって明確な方向性をうちだしていることもあり、「反骨の農業イノベーター」と東洋経済2015.1.24号でも大きく紹介された。酪農と広大な畑をベースに数多くの加工品が「多田克彦」ブランドで世にでている。

 多田自然農場はいまや社員三十数人を抱え海外ともやりとりし、貿易自由化も見越す構えを持つ会社。それでも「農あるくらしに学ぶ旅」の延長上でおたずねしたつもりだった。が、いってみたら、「地域をいかに学ぶか」という私の関心にどまんなかな方で、びっくり。

 経済界は注目しないけれど、それは彼の"前史"に秘められている。10年間遠野市役所職員、うち5年間は公民館職員だったというのだ。コミュニティ紙を発刊したり地域の資源をほりおこす。さらに、役所最後のところで仲間たちと一市民としてかの「遠野常民大学」をたちあげ、2年間事務局を担っている。
 
 「歴史観なくして構想はつくれない。」「使命感、問題意識があるから学ぶんだ」ということばが印象的。歴史観とマクロな視点がないと、目の前の風景から物語をよみとることができない。同時に何のためかの視点も大事。常民大学も遠野のまちの核をつくりたかったから。それは単なる解釈学・研究志向に陥りかねない地域学への明快な批判だ。

 彼のそのまなざしは、農業に転身してからもかわらない。農業自由化の波をまともにかぶったり、借金をかかえ、幾度も絶望の渕にたたされながらはいあがってきた。そのはいあがりの手法の根幹にあるのはやはり、農業史を学び、風土にあった方法を試行錯誤することから。「自由化なんていまにはじまったことではないよ。戦後農業史をみれば自由化の歴史だよ。」問題は戦後農業は考えない・依存型の農業者をつくってしまったこと。農業者も自立し、自らの手仕事や風土を他者に語る努力が必要だというのだ。彼の事業は、社員を進んで海外研修に出し、国際展示場ではその国の言葉で海外バイヤーと直接やりとりする。海外の力・有能なIターン層とのコラボが生まれ、「異」なるものとの交流が新たな気付きを蓄積しながら熟成されていく。その結果が、今の状況だ。

 "いまこそ、地元に、本質に迫る学びを"…彼の生きざまはそういうメッセージをはなっていると思った。

九州の麦の里でふんばる製粉所にて

2015-03-24 18:40:50 | 農ある暮らしへの旅
あまりに久しぶりすぎて、投稿のしかたを忘れていました…汗。
さて、知人たちと、筑後・八女市へ、農と手間ある暮らしへの学びのツアー。八女市をあちこち歩いたけれど、ここではある製粉所のおはなしを。

八女市亀甲にある、田中製粉有限会社さん。
創業後すでに240年、水量豊かな地帯で昔は長く巨大な水車で製粉していたとのこと。いまも木製の精巧な製粉機をメインに、一部石臼を残した製粉行程で、手間のかかるしごとをされている。
(残念ながら写真不可だったけれど、製粉所は圧巻。かわりにお庭に残っていた昔つかっていたという石臼写真を)

大規模製粉会社ではとても採算的になりたたない仕事が残っている秘密は「黒棒」にあるのだそうな。
黒棒、ご存知でしょうか?私は近くの小郡出身なので懐かしいばかり。昔ながらのお菓子で祖父母の家のこたつの上には黒棒とみかん、といったかんじでした。農作業に従事する人たちの小腹をしっかりみたす、甘くてがっつりとしたおかしです。
ここが主要取引先だったため、そこのニーズを満たす昔ながらの粉が求められ、あまり熱を加えないことにより小麦の風味が残る、昔ながらの製粉行程が田中さんのところには残り続けたということらしい。そして筑後は二毛作の地。小麦は実は多く生産されている。この福岡県産の粉のみをつかっているのも、こちらの特徴。(そうそう、春の小麦たなびく風景は私には原風景に近いのに、小麦のほとんどは輸入と聞いて、いったいこの小麦どこにいってるの?と思ってたな、昔…。)

昨日学んだキーワードは「灰分」。いわば小麦をもやしたときに残る成分のことで、灰分量が多いと、ミネラルが多く香ばしさや味わいある粉になるとのこと。この日本では白さにこだわってきてしまったため、灰分量の多い粉は市場にはでにくい。ところが田中さんのところの粉はこの灰分量が多いのが特徴。プロは灰分量の多い粉を実は求めていたりして、一緒に行った若きパン職人なんて、こちらの粉を手に、とびきりのおもちゃを与えられた子どものような喜びっぷりで、見てる周囲まで幸せにしてくれた。

いわば昔ながらの小規模経済の循環が、固有の技術を残し、大規模製粉会社が対応できない、ユーザーと顔をつきあわせた細やかなニーズへの対応を可能にしているのだと、深い感慨を覚えた。
農文協の甲斐さんによれば、内陸部の製粉工場は、国内小麦健在の証なのだという。製油、製粉、製材の順に、内陸部の工場は減り、沿岸部中心になっていったとのこと。それは、そうした製造にかかわる原材料が、輸入依存になってしまったことを意味してもいる。油といえば石油、と思いがちだけれど、以前は農家がとる植物由来の油があり、工場にとどけて換金もできていた。私も「製油」といわれて、なたね油etc.をぱっと思い起こすことができなかった。

「内陸部の工場」という耳慣れない言葉。それは、農家が農産物を生み出すだけでなく、様々な暮らしを支えるものづくりにもかかわっていたということであり、それを支える小規模経済が動いていたということの証だ。
それはいまや大きく衰退してしまったけれど、一方でこだわりの農家、こだわりの食職人、こだわりの諸会社も台頭しつつもある。
彼らのコラボは、ローカル経済を基軸に、きっと新たないい仕事を創造していくにちがいないし、そうした社会づくりにかかわる育ちあいとしての教育に、かかわっていきたいと強く思う。

太鼓の音よ、未来へと響け

2014-06-09 23:53:39 | 学びの場
 ようやく、念願の響スタジオへ。埼玉県本庄市児玉に、太鼓集団響の新スタジオがオープンしてはや、1年以上がたった。うんと地域色豊かな土地ではじまった地域とのつきあい。広い敷地にスタジオばかりでなく居住空間・畑をもってすごす新たな暮らし&働き方の模索。スタジオを構えるというのは、単に練習場所ができたという以上の、大きな転換点だったと思う。
 なのでそのスタジオ、なんとか木の香かぐわしいうちにたずねたかった。けれどなにせ本庄は群馬との県境、九州からはそう簡単にたずねられる場所ではない。なかなか機会がなかったのだけれど、今回、フィンランド視察旅行で友人になった京都ユースワークのyokoeさんと一緒に、ようやくおたずねするチャンスを得た。「月あかりの下で」の太田直子監督もご一緒というスペシャルさだ。

 19時すぎに迎えにきてくれたプレイヤー・学さんの運転でスタジオに到着すると、まずは食でおもてなしいただいた。いま手製でさばかれた輝かんばかりの刺盛り、寿司、からあげ…と出される一皿一皿に、学くんやメンバーみんなの歓迎の気持ちが伝わってくる。
 そして練習風景がみられたらうれしいなとは思っていたが、彼らが用意してくれていたのは「ミニコンサート」だった。なんと夜10時近くから、90分近くのライブを聞かせていただいた。(フツウ、あり得ない。完璧な防音システム、しかしそれでも音はもれる。近所がかなり離れていること、また日々ご近所さんといい関係を築いているから可能になっているのだと思う)
 
 ステージディレクターの平野先生は、来年、英国エディンバラ・フリンジへのチャレンジを考えている、という夢を語ってくださった。今年東北・北海道をめぐり、鎮魂と祈りへの太鼓へ挑戦する。その一年をくぐりぬけて、海外へ、という構想だ。太鼓でプロに、という夢、そこをぶらさずに、可能性を多方面から模索しチャレンジをかけるのがディレクター平野先生のすごいところ。この太鼓がエディンバラの路上へ…と思って聞いていたら、以前より一層、目の前の私たちに語りかけてくる応答的な太鼓に変化していることに気づいた。

 一年一年、響メンバーはどんどんたくましくなっていく。練習時間の増加がてきめんなのか、学さんの体つきが鋼のようにたくましくなっていた。新入なっちゃんの太鼓は私にさえわかるほどにうまくなっていた。甘えん坊なのに、ステージにたつと真剣。そのギャップが彼女の魅力。呼応してめぐちゃんはお姉さんポジションへ。仲間たちの人生を受け止めながら、めぐちゃんの包容力が太鼓にうつっていた気がした。
 少し会わないうちに、彼らの人生もどんどん新しい展開をみせていく。おととし、彼らを福岡・九大に迎えるとき、響の太鼓を、彼らの今そのものとして紹介するのか、不登校・困難な青年期をこえてきた太鼓として紹介するのか、こちらの学生や学さんも交え、あれこれ議論したことを思い出す。けれどいま、そんな議論が懐かしく思えるほどに、彼らの太鼓をもはや太鼓そのものとしてしかうけとめていない自分に気づく。彼らが太鼓そのものに真摯にむきあっている、その時間の経過がきっと私の聴き方をもすっかり変えてしまったのだろう。
 太鼓の音よ、響け、未来へ!

水俣の山あいを歩いて

2014-03-29 21:36:29 | 農ある暮らしへの旅

 水俣マスターの森千鶴子さんに案内していただいて、水俣の竹細工・自然農のお茶づくりをたずねる日帰りプチトリップへ。ご一緒したのは、クロマニヨン夫妻。ワインビストロを経営するお二人だけれど、真摯に農産物やものつくりをしている方をいかに消費者につなぐか、それを通して社会をかえるかということを真剣に考えている方々だ。その媒介の方法として「経済のありかた」を中心的におくのか、私のように「学び」や「情報」をおくのか。ちがいはそれだけで、思うところはすごく近いと思えるおふたりだ。クロマニヨン夫妻、ものすごい雨男女。その威力は今回も発揮され、前後の晴れ間を縫うように、雨の山里をうかがうような道中になった。

 最初にうかがったのは、水俣で竹細工にをいとなむ井上さん。車をおいて、細道をあるいて作業場兼ご自宅にむかっていく。棚田百選にえらばれるような、逆にいえば車もはいれない昔ながらの山間の村風景の中に、その仕事場はあった。
 農家の人々の農作業と暮らしの用具として各地でつくられてきた竹細工は、おそらくは使う人の減少とともに、作り手も高齢化し、ここ数年で廃業する方もすごく増えているという。別府のように芸術品としての竹細工に未来を見出している場合は別として、暮らしの道具としての竹細工を追求する若い人は本当にまれで、今回おたずねした井上さんは、その本当にわずかなおひとりだった。(と、いってみてはじめて知った…汗)
 見出す人は見出す「用の美」にかかげられる竹細工は、芸術品とは違う位置で、その輝きをはなっている。けれども芸術をうちださない作品を、経済的になりたたせることはとても難しい。後継者もどうしても育ちにくくなる。

井上さんは、たずねてきた私たちに、切りだしてきた竹をつくりあげていく、その細やかなお仕事の一端をみせてくださった。まず切りだしてくるところが竹細工の苦労の大半を占めるという。切りだす時期も、完成品の強度にかかわるため、年間わずかな時期のみだという。きりだした竹は、本当に手作業で何度も何度も裂いていく。肉の部分はけずりとる。ようやく形をなしたひごは、面とりまでする。想像を絶する細やかな手作業の連続。100円ショップの竹ざるとの違いが話題になった。これも第三世界の手作業なのだろうが、うーんと考えさせられる。いまや日用品としての竹細工は「100円ショップもの」なのだから。

 井上さん、職人たちの姿に魅せられて、師匠を探す苦労の末に、この世界に入ったと語っておられた。聞くと、竹細工はともすれば差別の歴史ともとなりあわせにあったらしい。職人たちとその作品の魅力は、境界を生き抜く生のたくましさ、にも支えられていたのかもしれない。そう思うと、竹細工の奥深さに圧倒される思いだ。

桃源郷のような山里をかいくぐって、今度は標高600メートル、お茶づくりに集落ごととりくんできた開拓集落へ。「天の製茶園」をおたずねした。森さんにとっては、一緒に「地元学」で土地を歩いたお仲間だという息子さんお二人とお父さんの家族で経営し、加工販売まで一連の作業を自家で行っている製茶園だ。
 わたしたちはその茶畑を拝見させていただいた。またここにはフランスやらドイツやら外国からの国籍もこえていろんな人が集っている。いろんな人が集う場に通していただき、なんともナチュラルにおおらかにいきる天野さんをまんなかに、いろんなお茶を試飲させていただきながら、まさに「茶のみ話」に花開かせた。
肥料も農薬も使わない、土地の力で育つお茶(緑茶と紅茶。ここはとくに紅茶が有名)が、あまりに素朴でふくらみある甘い味だったのに、びっくり。草取りが大変とはうかがったけど、お茶の木につたをはうようにはえている草をとる、その手間作業にさらにびっくり。

 でも、余計なものをそぎおとした、ほんとのお茶の味ってこういうものだったんだろうなあ。そう思わされる味だった。以前、カフェバッハの田口さんに、ほんとの珈琲が苦みもなく優しい優しい味だと教えていただき本当に驚いた、そのときと同じ感覚だ。こんなお茶が日々のそばにあったらほんとに素敵だろうな。
 こういうしごと、こういう味から、何を選び、何をそぎおとしていくべきなのか、わたしたちの暮らしや社会のありようを考えなおしていく道を、切り開いていく必要があるのではないだろうか…。

3月11日の福島・いわき市にて

2014-03-12 00:21:14 | 学びの記録
 津屋崎ブランチの山口覚さんに誘っていただいて、私は3月11日を、福島県いわき市で迎えた。震災後3年にして、はじめての福島。NHKラジオの3.11スペシャルの収録が4時間にわたり、ここで行われた。日ごろから、活動する市民たちのたまり場でもある市内「菩提院」が会場に提供された。この日のスペシャル番組では、いわき市の現状のなかで奮闘する様々な立場・世代の方々が幾人も登場するのだが、最後のセッションは「対話」がテーマになっていた。そこで「対話」をひとつのテーマとして津屋崎で活動を行ってきた山口さんに白羽の矢があたり、出演者として招聘が行われたというわけだった。私は座布団に座って、4時間の収録をひたすら後ろから見、聞き入っていた。
 と同時に、放送終了後、午前の出演者の一部に加えて市内で活動する高校生たち、ボランティアでおとずれた立命館大学ボランティア団体「そよ風」メンバーたちも加わって(私も一員とならせていただいて)、ワールドカフェ風の語りの場がひらかれた。2時46分の黙とうをはさみ、その前後ではすこし違った心持での語りあいだった。おひとりおひとりと直接語り合えたこの機会、私にとっては収録以上に貴重だったかもしれない。

 ひとつ印象的だったのは、「壁」についてだ。私は九州にいて、正直、福島に壁を感じていた。けれど、語りあいのなかで聞いたのは、たとえば自分は被害をほとんどうけなかったけれど、高齢者などそばで困っていた人々の姿に、自分にできることはなにかと自問していた高校生、震災時は帰省していて1か月ものちにいわきに戻ってきた大学生、etc.まさに、それぞれの前に「壁」があった。そしてそれぞれの道のりのなかでその「壁」を乗り越えてきていたのだ。それは、この3年正直つらかったと涙した方の多さが十分語る、壮絶なものだったのだと思う。
 けれど、3.11があったために、いろんな話ときき語らう中で、地元のことが大好きになったという高校生。いわき市内の中での立場の違いが格差の違いをおおきくしていくながらも、その壁はのりこえていくことのできるものでもあった。そのアクションにおいては、地元も外もない、とおもえた。私のたつ大地と、福島の大地がようやく地つなぎになりはじめた感をおぼえた。

 もうひとつは、いわきの高校生たちのあまりのたくましさ・かしこさだ。なんだろう。迷い続けさせる環境とチャレンジする機会のコラボで人はここまでたくましく賢くなっていけるのか。そういわずにいられない高校生たちだった。フィギュアの羽生選手だけじゃない。現実の中で何かしたい、という思いに正直に、いまの福島だから増えている諸サポートを活かし、学校という囲いをとびだして、お会いした高校生たちは生の社会の中で生々しく生きていた。その姿顔つきに大学生が触発され、上の世代が大きく励まされてもいた。もちろん地域外の私たちもだ。
 東北の高校生・大学生が日本をかえる、といった人がいた。そのくらいに、視野が、いまの日本をはるかにこえつつある。アクションをおこせば何かが変わるという実感も得ている。たしかに、ラジオ放送でもいわき市民と避難者である双葉郡の方々のギャップの深まりが語られていたように(関係者の間では朝日新聞に先日掲載された「父は東電、ひずんだ家族、私はあきらめない」の記事の力が話題にもなっていた…。)問題は家族間や地域間の日常に深くくいこんで横たわっている。けれどだからこそ、その現実に悩みながら向き合う力が彼らを育てているのだろう。もちろん一方ではそんなこと気にせずひたすら勉強や人間関係の日常に埋没している若者も多いという。それも当然のことだ。むしろここは、日本社会の構図が拡大され鮮明化する究極の「縮図」なのかもしれない。
 ここでおこりつつある価値転換に深く眼をむけ、社会一般の側の枠組みをかえていく。福島が抱える問題は実は3.11以前にはじまり、見えないところですでに崩壊しつつあったことだからこそ、これから数十年が勝負どころなのだ。東北をかえるのではなく、社会をかえるということばの意味がようやく、深く自分に近づいてきた気がする。

※写真は収録後の語らいの場開始時の風景。食べながら行きます仕様の、ワールドカフェテーブル。

にぎわいあるこの街で -エルムアカデミー&麺処はるにれ訪問

2014-01-12 08:04:56 | 学びの記録
 東京・品川にある、エルムアカデミー&「麺処はるにれ」を、初訪問。エルム代表と数年前ドイツ研修旅行をご一緒して以来、一度おたずねしたいとおもいつづけてきたが、科研メンバーのみなさんといい機をいただき、ようやく実現した。

 30年をむかえるフシギな塾、「エルムアカデミー」は、東急大井町線荏原町駅からすぐのところにあった。まずこの「まち」におどろいた。この大井町線は600~700mおきに駅があるのも驚きだが(ふいをつかれ、おかげで私は一駅のりすごした)、どの駅前にも、今の時代に極めて珍しい、にぎわいをみせる商店街が延々と続く。線路に平行にも商店街が続く。全国チェーン店は少なく、まちのひとが心意気でだしているような、顔のみえる店がならぶ。(とくに飲食店に…笑)うかがえば自然に残っているのではなく大規模店舗進出を防ぎながら、かなり意図的に守ってきたらしい。最近は物件を貸すにも、エステなどは歓迎されるがよごされる飲食店は避けられる傾向にあるというから、若い人が飲食をだしているこの街の元気がそういうところからもうかがいしれる。
路地のような細い道、歩いていてこんなにワクワクする商店街、それが広範囲にひろがるなんて、日本でこういう楽しさを感じるのはとっても珍しいように思う。ごいっしょした埼玉のセキグチさんはまさにこの近くで小学生時代を送ったという。地域のつながりが濃くて、毎日の商店街での買い物が楽しくて…「私の活動の原点も、理想もここなんです」と、この街への愛を語っていた。さもなん…。

 エルムアカデミーは、「話し合いの文化」を実践理念に、「地域に生まれ、地域に育ち、地域に生きる」を事業理念にかかげる塾。お話をうかがっていると、保育運動・学童保育運動の歴史と連動しながら、地域とも父母とも一緒に教育をつくる、が本当に実現されてきていた。「批判してくれる自由も含め、ここは働きやすい」とスタッフはいうスタッフ間のフラットな関係性の問題もあるけれど、父母会も地域も一緒にもちつき大会をやったり、この組織自体が地域にうんとひらかれ、地域の仕事をしてきた風情にあることが大きく影響していると思う。科研を主宰するヒラツカさんが「イギリスで見たコミュニティ・ユースワークとデンマークでみたフリースクール。その両者の境界上にあるような実践が日本にある、ということが驚きですよね」とコメントされていた。なるほど…。

 その精神と紡いできた多層的なつながりは、ついにいろんな若者たちがこの地域で働きながら、社会に出会いなおしていく場を生み出す(病院事務から清掃まで、まさに多彩に…。)。その象徴が1000万近い寄付金を集めて6年前にオープンした、ラーメン屋「麺処はるにれ」だ。塾がひらいたラーメン屋だけど、店主は塾の先生の一人、スタッフは皆いろんな事情と経緯でかかわってきた、塾の元生徒たち。まさに「中間的就労」の場でもある。

 …というと、なんだかいけてないラーメン屋を思い浮かべそうだけれど、おたずねしてまたまた驚いた。まず、ラーメンが純粋においしい。私たちが滞在する間にも、若者カップルから家族連れまでひっきりなしに人が通っていく。お店は…女性客が多いというのがナットクな、清潔感のある、明るくて居心地のいい空間。ラーメン屋だけどワインやビールを片手にちょっとしたつまみとともに、長く滞在したくなるような店だった。「本物」へのこだわり、素材はもちろん、席にははるにれのフリーペーパー「はるになーれ」がおかれていたり、手間をおそれぬ姿勢がみてとれるのだが、それが経営上のメリットにもつながっていることを、嬉しく思った。
 塾のいろんな活動にも使われるという間続きの隣のフリースペース(カーテンをあけると白板もでてきたりして驚き)での懇親会を終え、さらに居残って通常店舗スペースへ移動し、一お客として滞在してしまったのは、私のくいしんぼうのせいか、はるにれの魅力か…???(笑)

いつまでも語らいつづけたくなるこの空間から  -HIBIKI CAFEプレオープン

2014-01-01 20:48:48 | 学びの場
 今年もあと5時間をのこすころ、私は埼玉は桶川の住宅街にプレオープンした「HIBIKI Cafe」にたどりついた。迎えにでてくれたマネージャーのヒロミさんに案内されつつ、中にいざなってくれるのは、手製の大きな看板だ。一方外からのぞきこんだcafeは、あたたかな柿色の障子、大きな窓の向こうに無垢材や陶器の照明など、センスのいいプロの手を経ただろう、なんともおしゃれな様子。心わくわくしながら、玄関へ入り込んだ。

 2012年夏、浦和商業高校定時制の太鼓グループからその歩みをはじめた太鼓集団「響」は、プロにむけてさまざまな人・土地と向き合って自分たちを問うために、西日本ツアーに赴いた。福岡でも、九大の総合博物館が管理する「旧知能機械実習工場」では、100年の時間をつみかさねた空間に呼応する奇跡のようなすばらしい太鼓の音で観客をうならせてくれた。「福岡・抱樸館」では、2013年夏の再訪につながる、さまざまな人生を経てきた心に深く届く太鼓をとどけてくれた。とくに今年の抱樸館再訪時の舞台は、その後の自分たちの動きにつながる「誰に太鼓を届けるのか」をみすえた太鼓だった。
 「学校から地域へ」と歩みをすすめていきつつあった「響」と、もともと地域と教育をめぐる研究をしながら大学教員としての日々を通して「若者の育ち」への関心を深めつつあった私は、いいタイミングで出会えたのだと思う。そして埼玉ー福岡と土地を隔てた今に至っても、思い出ではなく、ライブに夢でつながっている。それはとても幸運なことだ。
 
 そんな思い入れのある「響」の太鼓とはいえ、「プロ」というのは簡単な話ではないと思っていた。演劇にせよ音楽にせよ、文化で食べていくためには、実力だけでなく、ネットワークやよほどの工夫が必要だからだ。
 それでも、たくさんの思いを重ねて「太鼓集団響」は今年、プロに向けての歩みを急ピッチですすめてきた。その展開にはまったく驚かされる。
 3月、顧問の平野先生が高校教師を退職。8月、プロに向けてのプロモビデオ作製のため九州へ。5月、本庄児玉に合宿所も兼ねた専門スタジオが完成。そしてこの12月には、プロ宣言後初の舞台を終えるとともに、スタジオと同じ無垢の杉材の香りかぐわしい「HIBIKI CAFE」が完成し、プレオープンをはじめた。
 「太鼓とcafe」で若者たちが身をたてる、そしてここから「もうひとつの学校」づくりをすすめる、その思いがこの一連の流れに託されているのだ。

 19時にはじまった年越しの会は、新年0時に、晴れやかな乾杯の時をむかえた。完成した「響」プロモビデオを大きなスクリーンで見ながら、会が終了したのは午前2時をまわっていた。7時間強の語らい、でもこの場にとどまって、もっと語っていたいという空気がそこには満ちていた。(あまちゃんで話題の紅白に眼もくれることもなく…笑)

 「場の力」ってそういうことなんだろうな、と思う。ここで人と人が語らい、ときにひとり本や思索にむきあってほしいという、こだわりがつめこまれた空間と、文化を通して人がつながることの意味を自らいろんな場に赴きながら、問い続けてきた若者たち。
 プレオープンでは、お客はみななぜか一人できても、カウンターではなく、丸い大テーブルに座ってしまうのだという。わかる気がする。彼らとこの空間がまんなかにあるから、ふらっと訪ねても、そばにいる人となにげなく心地よい会話がはじまってしまうのだろう。

 もちろんHIBIKI CAFEは、「食」もプロとして提供するのがコンセプトだ。焙煎の訓練をうけた本格珈琲は、ほんとにおいしくて思わず量り売りのパックを買ってきてしまった。「響」メンバーが手製で提供する和食コースもなかなかの味、今からもっと研鑽をつんでいくことだろう。
 クロマニヨンにも思うのだけれど、「ほんもの」を追求する人のまわりには、感性を響き合わせて、人が集まってくる。その探求の先も「食」「音楽」などなどそれぞれひとつのジャンルにとどまらず、重なり合って、独自の世界がひろがっていく。

 響の「もうひとつの学校」もまさに、そんな「若者をまんなかにした文化の創造」と「つながらずにはいられずに広がる人と人の輪」を基盤にしながら、実現していくのではないだろうか。さまざまな世の動きに心惑わされる新年、ひとりひとりのアクション・意思表明が問われているように思うが、私の〈運動〉もまた、そこからはじめていきたいと思っている。

暮らしをひとつひとつ、味わい分けてゆくために

2013-12-30 10:25:17 | 今日のまちあるき
 今年の年の納めにどこへいこう?自然にそれは、クロマニヨンだと思った。今年もはやカウントダウンがはじまりそうな夕べ、クロマニヨンが発するものを共有できる女友達と、ときにクロマニヨン夫妻と、そして夜も更けてあらわれたM先生と、ゆったりおしゃべりする時間をすごした。

 ここは、葡萄のはぐくまれた大地とはぐくんだ人が感じられるようなビオワインと、生産者の顔が見える素材をつかったなんとも優しい料理をだすお店だ。それが我が家から徒歩2分のところにあるなんて、なんとまあ幸せなことか。
 30代半ばのまだまだ若い彼らは、店をオープンさせてわずかこの2年半のうちにも、ぐんぐん進化している。それは彼らが「酒と料理」をだそうとしているのではなく、ワインと料理を通じて、「つくり手」の姿と、もっといえば「暮らし方」自体を提案しようと学び実践しつづけているからだと思う。ブランドとしてのワインや、内容より見た目や格が先にたちそうなフレンチとは正反対。おいしくたのしく、食や空間を味わいながら、それらの本質にどんどん迫っていけるようなお店が実現しつつある。その裏で夫妻は、野菜や肉やといった食材の生産者ばかりでなく、ひろく、大地が生み出す材とむきあう人々のところへと、果敢に学びに向かう。それから思いをわかちあえる人と人との出会いの場をつくる。彼らの明快な発信があるから、実際人と人がひきあわせられ、つながっていく。
 幸運にも彼らに出会えた私もまた、その彼らの仲間の一人でありたい、と願ってしまう。

 哲学者・鷲田清一が、震災後に出版した『東北の震災と想像力』のなかで、「吟味といういとなみ」について、のべている。
 「〈吟味〉とは、世界を区分け、そのなかで価値を選択してゆく人間にとって、その尊厳の基となるいとなみである。じぶん(たち)にとって望ましいものを選び、受け入れがたきものを拒み、他人との親しいつながりを選び、きっぱりと別離を選びもする…。この「味わい分け」のなかに、ひとが一人一人取り換えようのない「だれか」であるという事実の基礎がある」

 この社会のなか、自分はどこで、誰と、何に囲まれて生きたいのか。それは小さな認識にとどまらない、身体全体で、身の回りのものに出会うこと。時間をかけてときにだれかとともに試行錯誤しながら、自分らしいかかわりかたを選び取っていくこと。…<吟味>さらに<味わいわけ>ということばは、奥深いなあと思う。たくさんの「間」をふくみこんで、<味わいわけ>をわかちあえる人・<味わいわけ>たものを感じながら生きてゆけること、人はそういうことを幸せとかんじるのかもしれない。
 一方で、その<味わいわけ>=身の回りを大事に吟味するなかから「選ぶ」ことができないということが、もしかしたら若者たちの苦しみであり、「尊厳」を奪われる事態、となっているのではないかとおもう。
 
 いま「地方で生きる」とは、やりようによってはこの<味わいわけ>とそれを可能にする「間」を手にする可能性がひらかれているということなのではないだろうか。人と人の顔がみえやすく、人が手にかけたものにであえることも多い。<味わいわけ>がおこりやすい気がするのだ。私自身、福岡に戻って丸4年がすぎ、自分が選び取りたい暮らし方、がだんだんはっきりしてきている。それは福岡が好き、という単純な話ではなく、自分の故郷で、偶然めぐりあった人やものへの深い感謝につつまれている、というような思いだ。

 今年に入って世間にはいっそう、さまざまな問題が顕在化している。原発と災害、農村問題や医療や社会に大きな影響をあたえるTTP、高齢者・壮年・若者子どもの孤独と生きづらさ、秘密保護法案と学習・表現の自由…。でもいまだからこそ私は、「問題を学ぶ」ことにはじまる学びからではなく、この世の中に向き合おうとする私自身のもののみかたや姿勢を問い直したい。そのために、「暮らしに学ぶ」ことの意味を、もっと真摯に考えていきたいと思う。
 幾重もの関わりのなかで生きる自己をもって、見えないものもつかみとろうとすること。そこから社会と出会いなおし、実現していくような学び。そこに、おこがましいけれど、私たちひとりひとりの尊厳の回復と、地域社会の蘇生の鍵があるような気がしている。
 

本は、いのちある暮らしへ闘う力

2013-12-18 01:06:52 | 旅の記憶
 本当に久しぶりのブログ投稿です。あっという間に夏が過ぎ秋が過ぎ、はや冬…。今年初の風邪の洗礼もうけ、はや年末に向かうばかり。そんななか、こころにのこる旅の記録を、ここにとどめます。

 昨年3月、島根県海士町におとずれたことがあった。印象的な出来事の数々のなかに、「巡の輪」というまちづくり会社で主に聞き書きのいいお仕事をされている、さやかさんとの出会いがあった。彼女の聞き書きへの思いに私もまったく共感したからだ。だが、さやかさん、間もなく海士を離れるという。その後どうしているかなあと思っていたら、今年に入って、彼女から連絡がきた。熊本県山都町にうつりすみ、「じゅんぐり舎」というまちづくり会社をたちあげたこと、社会人経験のある誰か若手の社員を探しているということ。考えて思いだしたのは、昨年OB会当日にピースボートの旅から戻り、これからは地域にねざして生きる方向を模索していくと語っていた埼玉時代のゼミOB、まりこさんのことだった。連絡を取ったら、九州へ赴くこと自体に心配はないという。実際に山都をたずねてみて、考えた末、彼女は今年7月、山都に移住した。夏から秋へ。この季節の経緯は、彼女が山都で過ごした時間そのものでもある。

 山都で奮闘するさやかさん、まりこさん、そして福岡でおあいしたUターン・和菓子職人かおりさん。この30代女性3名でがんばる「じゅんぐり舎」もそうだけれど、彼女たちをベースで支える動き自体、山都の女性パワーだ。彼女たちに、そして山都のまちの動きをなす方々に会いに、先週末、私も山都を初訪問してきた。福岡から車で2時間半。隣町は宮崎県五ヶ瀬だし、かなり山奥へ近い印象だ。卒論で山都をとりあげることになったゼミの綾香さんも一緒だった。山都にて、まりこさんと綾香さんという、2つの大学の同じわがゼミのふたりが親しげにしている様子がちょっとうれしい。

 矢部・清和・蘇陽の3町村合併でできた山都町は、有機農業や通潤橋に代表される歴史で有名な町だという(ごめんなさい。よく知りませんでした。もちろん「通潤橋」は九州人の基礎常識だったけれど…。)。そしてきっと知る人には後述するように図書館づくりでも有名。それと関係あるのか、九大・目黒実氏がとりくんできた「絵本カーニバル」も、唯一この町では10年近くつづいていて、山都は絵本カーニバルの聖地ともいわれている。

 そのまちづくりはなんというか、私にいわせれば、ゆるがぬクールさが魅力。そのクールさのまんなかにあったのは一貫して、「本をまんなかにした考える人の輪」だ。

 スタートは電気屋の3階を借り、全国から7000冊を集めてはじまった青年団の青年文庫活動だったという。文庫の主体は青年から子育てする母親たちにシフトしながら、それは配本ボランティア活動、手づくりの子ども図書館づくり、町立図書館づくり運動へつながっていく。いよいよ旧矢部町で町立図書館がオープンするとき、初代館長に就任したのは、哲学者のような電気屋さんだった。そして2代目館長は有機農業にとりくみながらボランティアにも女性。驚くことに、館長は2代ともに、図書館づくりの中心にいた市民だ。
 まさに地域がつくった図書館。運動の節々で、さまざまな悩みに直面するたびに、読書会が組織される。そこで語りあい続けたのは、なぜ人間として生を受けたのか、幸せとは何かといった、生きることの中核にかかわることだったという。ほぼ当初から運動にかかわってきた2代目館長の美鈴さんは、読書会には「考えるくせをつけてもらった」という。「それをもって本を読むと、読むべき本、読むべきでない本の区別がつくのよ」とも。いまもそのまなざしが、公共図書館として税金の無駄遣いはしない、駄本はおかない、と図書館職員たちの選書眼を鍛えている。そして職員たちに浸透しているのは、「手の温度がわかるくらいの図書サービスを町民一人一人にとどけたい」という思いだ。図書館カウンターには、手書きのレシピまで。暮らしの中に息づく図書館、が眼の前にあった。

 なぜまちのまんなかに本をおくのか。その背後には、女性が認められにくい農村社会がある。けれどだからこそ、農村がもっと豊かになるためにも優しい人がふえねばならない。文化活動とはいのちを守り育てるもの、まさに優しさを広げる活力、とは美鈴さんのことば。子どもを守る母親のパワーがまちをつくる第一章を公共図書館と充実した子育てサービスの実現だとすると、第二章は、まさにいま、3.11後避難者の女性たちも若いまちの職員も包み込んだ、新たな女性ネットワーク「山都のやまんまの会」発足をもってはじまろうとしている。絵本カーニバルでも図書館活動でも中軸をになっていた人を初の女性議員としてさきごろおくりだし、まちそのものへの女性たちからの発言がはじまっている。
 子どものみならず大人たちこそが「考えあう場」を手にしているまち。このまちでだけ、絵本カーニバルが続いてきた理由が、ようやくわかった気がした。

  ※写真は、図書館ボランティアたちがつくったまちのほこり・通潤橋の絵本と、関連事業が手に取るように掲示された図書館の一画。

 

 


路上生活者が帰ってきたいまちへ -抱樸館福岡3周年がみすえる社会

2013-07-28 11:50:45 | ともに生きる現場
 抱樸館福岡が、われらがQ大のそばにあってよかったと本当に思う。自転車なら15分~20分。院生の研究においても、授業を介して学部学生にとっても、さまざまな出会いや学びをいただいている。信頼する若者たち太鼓集団「響」との出会いも共有させていただけた。大学で学び研究する人間にとって、誰の「隣人」であらんとして、その研究や授業がなされているのかは、とても大事なことだと思っている。さまざまな偏見や社会のひずみを一身に背負って地域や社会とのはざまで葛藤する抱樸館は、その思いを託しうる人々と実践だという思いが、時間を重ねるほどに深まっていく。

 そんな抱樸館福岡の青木館長から、3周年記念シンポジウムの進行役をひきうけてほしいという依頼があった。もちろんありがたくひきうけさせていただいた。北九州ホームレス支援機構・奥田知志さんとの事前打ち合わせでは、本やら資料やら、どさっとおみやげをいただいた。そうだよな、これだけの蓄積に学びなおしてしか壇上にはたてない役目だ、と襟をただす思いでその資料の山をながめた。7月半ば以降、私は社会教育主事講習の運営に忙殺されているが、資料は常にかたわらにおき、ひまがあれば読み込む、というスタンスを当日まで続けた。
 当日登壇者は、奥田さん・青木さんのほか、生活再生相談(家計相談)の実践で全国を牽引しているグリーンコープの行岡みち子さんや、厚労省の矢田地域福祉課長、福岡市の平田保護課長など、全員が全国一線級のデラックスな顔ぶれ。圧倒されるばかりだが、幸いほとんどの方と登壇前までにお人柄にふれる心安い関係を築かせていただいていた。そして話は刺激に満ちたものの連続で、たじろぐ思い以上に、お一人お一人の話やコメントの見事さにひきこまれるところのほうが大きかった。

 不勉強な私にもわかったのは、国がいままさに可決にむけて尽力している新法「生活困窮者自立支援法案」が、単なるホームレス対策ではなく、高齢者むけ、障害者むけといった個別法でもない、非常に総合的な法であるということだ。「生活困窮者」とは、きっとこの社会の「わたしたち」のことだ。そしてここでの「生活困窮者対策」は、第1のネットとされる社会保険制度と、第3のネットとされる生活保護の「間」となる、求職者支援制度と生活困窮者対策を中心とする第2のネットとして構想されていた。…私も常々人間の自立は、即自的・対処療法的な対策ではなく、ジグザグしながら移行していく生身の人間をこそ支える「間」が必要だと思ってきたが、この新法はまさにその「移行」を支えるしくみをめざしていたのだ。(よほど根幹的な法なだけに、このしくみを動かす「人」と「経営的センス」がよほど必要だともおもったが…)

 しかもその基本的な考え方と、具体的個別的政策である、住居喪失者へのシェルター、生活困窮者への家計相談(≒生活再生)、一般就労が困難な人への中間的就労などは、どれも抱樸館やそれと関連する北九州ホームレス支援機構・グリーンコープが、現場から先進的にたちあげてきたことだった。
 制度のすきまにこぼれおちた問題の現実から「現場」が社会のしくみを動かそうとし、国の機関ががそれをうけて国会を動かそうとしている。その社会が熱く動くダイナミズムがこの壇上にはあった。きっとフロアにもその「熱」はとどいたに違いない。

 そして何よりおもしろかったのは、よく教育や福祉にある、「それが大事なのはわかっている。でも財源がない」「国のパイの配分をかえねばならない」といった財源駆け引き論をこえた議論に展開していったことだ。
 転機は福岡市の平田課長の「自治体も、国が予算を配分してくれなければ、厳しい」という正直な発言、そしてそれをうけた行岡さんのひとことだったと思う。「家計の破綻に至る前に生活できるように再生すれば、税金をおさめて国を支え、購買もして企業も支える。助け合いって、心の問題じゃなくて、経済効果までもちうるものですよね!」

 そうなんだと思う。家庭が、地域が、企業が、行政が、きちんと再生してそのしくみをまわし、その付随物としてお金もまわるようになれば、おのずから社会も循環するのだろう。「地域」も「企業」も、この社会の人・機関のすべてが、この社会を再生するために誰一人欠かすことのできない大事な主体だ。そしてそれらすべての根幹にあるのは「人の再生」なのだろう。
 それらを必然とするほどにゆがんだ社会・ゆがんだ時代だからこそ、人の再生にかかわる教育とりわけ社会教育が価値をみいだされず、お金もまわされない。「ホームレスの社会復帰って、そんなに復帰したい社会ですか?」とは奥田さんの言葉だ。そこからの逆転はきわめて厳しい道のりだけれど、でも、この「人の再生」を見つめ続ける領域を消してはいけない、いまの時代にみあったかたちに再生しなければ、とふるいたたされた。
 自分の仕事の意味を再確認させてもらえたのは、このシンポが人間と社会の本質につきさす射程をもっていたからだろう。彼らの挑戦の「隣人」あるいは同志でありたい。この3周年シンポを経て、改めてそう思わされたのだった。