Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

Marion,s に再会できるだろうか

2024-04-19 | Weblog

昨日のブログ記事「なくなるということ Marion,s の場合」で、

ニューヨーク・アスタープレイスにあった私の愛する店、Marion,s がなくなっていた経緯を記したが、

ほんとうに一年ちょっと前、今まさに目の前で店舗の解体工事をしているところに出くわしたことは、やはりショックだった。

写真はそのとき撮影した、Marion,s の店内。

Marion,s という名前のカクテルにも、あの店独特のギムレットにも、もう出会うことはないのだ。

だがそれでも、またニューヨークに行けば、アスタープレイスあたりに趣き、何らかの形であの店が復活していないかと、探して歩くのだろうな。

 

 

昨日の記事

なくなるということ Marion,s の場合

https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/38aee75d8cd1b2614bf93211ce38d1ac

 

 

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なくなるということ Marion,s の場合

2024-04-18 | Weblog

自分が十年間住んでいた都営住宅が建物の棟ごとなくなったことを記したが、

最近何かがなくなってショックを受けた別な出来事といえば、

昨年春ニューヨークに行って、アスタープレイスを歩いていて、

私の愛する店、Marion,s がなくなっていたことを事前に知らず、

今まさに目の前で店舗の解体工事をしているところに出くわしたときのことだ。

おかしい、 Marion,s がない、私は土地勘をなくしてしまったのかと動揺し、何ブロックか回って戻り、やはりこの場所であった、そして、店の痕跡が何もかもなくされようしていることに、気づいたのだ。

その日の作業は一段落したのか、表で解体のために働いているらしい人以外は、中に人の気配はなかったが。

建物がなくなるのではなく、無店舗が別なものに変わるのであろう。

 

ニューヨークで一番、好きな店だった。

じつは私は、ほとんど一人で飲みに行ったりすることはない。

例外の一つが、ここだった。

入口そば、曲面のガラスの向こうに、そう大きくはないカウンターがあったのだ、ちょっとしたダイナーふうの、ピンクというか赤いカウンターテーブルの。

その辺りの壁には、百年余りの歴史を誇るこの店の、昔の写真が、ニ、三、飾ってあった。

奥はけっこう広く、その気になれば百人近くは入れたはずだ。

店内に、別な出口もある地下の別な店に降りていく階段もあって、なんだか不思議だった。

 

四半世紀前、ACCのグラントとして、ニューヨークで三ヶ月過ごした。

ワールド・トレード・センターがまだあった時代で、チェルシーのアパートの窓から身を乗り出せば、遠くに見えたはずだ。

そのとき、ラ・ママ劇場で拙作『くじらの墓標』の英語版の、アメリカでは初めてのリーディング上演が行われた。

出演者・スタッフの打ち上げも、ここだった。

ニューヨークの劇団・SITIカンパニーの全面協力を受けた公演で、彼らも常連である、この店で飲むことになった。

みんな素敵な人たちだった。

後に『アイ・アム・マイ・オウンワイフ』でトニー賞を獲得することになるジェファーソン・メイズも来てくれていた。

 

店は、何曜日かは、女性が半額デー。

食事が半額の日もあった。

平日だと、時間帯によっては、客が極端に少ない日もあって、カウンターの向こうに店の人ひとりと、本を読む私と、たまたま居合わせた女子学生の、三人だけで二時間くらいの時間が過ぎていったという日もあって、三人でなんとなくだらだらと話したのだった。

以来、何度か来て、『屋根裏』ニューヨーク公演の時は、劇団員の一部を連れて行ったが、やつらは定食みたいなのを、わしわしと食べた。

 

店名を冠した、Marion,s という名前のカクテルは、ペコロスというのか、小さい玉葱が浮かんでいて、ものすごくドライで、最初は驚いたが、味わい深かったし、なにより、量が多かった。

カクテルは、ギムレットもやたらと量があった、通常の2・5倍くらい、そして、うまかった。

 

店が亡くなりつつある瞬間に遭遇して、驚いたし、ただ、茫然とその様子を見るのみだった。

過去と現在の時間が混じる店という印象だったが、その「時間の隙間」みたいなものじたいが、どこかに消えてしまった。

私が勝手に思っていたニューヨークが、姿を変えていった、一つの事例である。

 

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ミャンマーのたたかう魂 映画 『夜明けへの道』

2024-04-18 | Weblog
ミャンマーのドキュメンタリー映画『夜明けへの道』を観た。
ここに、たたかう魂がある。
アーティストという名の生活者が、国家の暴力と対峙させられたとき、どのような選択が有り得るのか。
 
感想は、追って、また。 
 
4月27日 全国公開。
 
 
解説

かつてビルマと呼ばれたミャンマーで、2021年2月1日早朝、国軍によるクーデターが発生。ミャンマーの現代史においては3回目となるクーデターだ。1回目は初めての軍政時代を導入した1962年3月、2回目は第二軍政期のきっかけとなった1988年9月である。そして2011年、長きにわたる軍事政権から民主化に大きく舵を切った。その後の10年、市民は自由と民主主義への希望を抱き始めていた。しかし今回のクーデターにより、一夜にして世界は転覆した。軍は前年の総選挙での不正を口実に、アウンサンスーチー国家顧問ら民主派政権の幹部を拘束、非常事態を宣言して全権を掌握。反発した市民の抗議デモは武力闘争に発展し、人々の自由と平穏な暮らしは崩れていった。3年が経つ現在でも一部少数民族と連携し、国軍との戦闘が激化している。地元人権団体によるとクーデター後、4500人近い市民が国軍に殺害され、計約2万6000人が拘束、避難民は約230万人にのぼる。

ミャンマーでは半世紀にわたる軍事政権が終わりを迎えた2011年以降、言論の自由が拡大。映画監督コ・パウは自由な時代の映画製作に勤しむ一方、COVID-19により外出が困難になると、家族で製作したコメディ動画をSNSへ投稿。総フォロワー数は100万人を越え、厳しいロックダウンに苦しむ市民を元気づけた。そんな中、軍事クーデターが勃発。コ・パウら芸能人は街に出て抗議デモを先導したことで指名手配される。国軍の残虐行為は次第にエスカレートしていき、デモ隊を機関銃で一掃するなど容赦ない弾圧に乗り出す。国軍から追われる身となったコ・パウは、民主派勢力の支配地域に逃亡し、ジャングルでの潜伏中に短編映画『歩まなかった道』(2022)を製作。そして現在も潜伏生活を続ける中で、自らのリアルな姿を撮影したセルフドキュメンタリー映画『夜明けへの道』を製作した。
人間としての尊厳を失った市民が、常に監視され、自己表現が制限される社会。現在でもミャンマーの人々は毎日、人道に対する罪を目撃し続けている。増え続ける死者数と高まり続ける拘留者率は、まさにディストピアである。軍に都合が悪い情報を発信するものはすべて処罰の対象となるため、国内外に情勢を伝えることは困難だ。それでも、ミャンマーに目を向けてほしい、そして民主化の時計の針を巻き戻すまいと、命がけで公開する本作はコ・パウ監督の今なお続く闘いと決意の実録映画だ。

作の興行収入より映画館への配分と配給・宣伝経費を差し引いた配給収益の一部は支援金とし、
コ・パウ監督らを通じてミャンマー支援にあてられます。
[配給: 太秦株式会社]

 

コ・パウ(監督)

1975年1月5日、ミャンマー中部マグウェ生まれ。
ミャンマーを代表する俳優・映画監督。1998年に脚本家として映画界に入り、その後俳優としても活躍。悪役などを演じて有名になる。2007年にはビデオドラマの監督でデビュー。俳優としては400本近くに出演したほか、多くのビデオ映画を監督し、15本の長編映画を製作している。コメディ映画からアクションのほか、社会問題に切り込む作品も製作しており、作風は広い。僻地の小学校に赴任した熱血教師の奮闘をコミカルに描く『涙は山を流れる』(2019)で2019年のミャンマーアカデミー賞(監督賞)に選ばれ、主演俳優のミンミャッはこの映画でアカデミー賞を受賞した。2021年2月1日ミャンマーで軍事クーデターが勃発すると、仲間の芸能人とともに抗議デモに参加。2月17日には国軍から追われる身となり、民主派勢力の支配地域に逃亡。潜伏中のジャングルで短編映画『歩まなかった道』(2022)を制作、今回セルフドキュメンタリー映画『夜明けへの道』を制作した。現在も軍への抵抗活動を続けている。

「この映画の制作の動機は、私たちアーティストも独裁者の革命の中で、自らの人生、成功、家族全員の生活を代償に払ってきたことを知っていただきたいのです。
この革命は大きな成果を上げています。最後まで進むべきだと感じています。もう後戻りはできないということを理解していただきたい。」

 

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2号棟に住んでいた

2024-04-17 | Weblog

私はこの都営住宅の2号棟三階に住んでいた。

ほぼ十年間。

思い出の場所である。

いま、その1号棟2号棟だけが、解体撤去されている。

建て直しなのだろうとは思うが、端っこからやっていくということか。

 

ちょっとした高台の三階なので、今まで住んだ場所で一番高いところだったかもしれない。

 

この案内ボード自体が、ひび割れていてボロボロだ。

 

「なくなっていた」ということにそれほどのショックがあるというわけでもないのだが、喪失感といっていいのだろうとも思うし、不思議な気がしている。

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「小泉八雲『怪談』出版120年」と、そのロゴマーク

2024-04-16 | Weblog

本2024年は、明治時代に来日し、日本の文化や精神世界を世界に伝えた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、18501904年)の没後120年となる。

そして、あのハーン作品でもひときわ有名な『怪談』は、没年に出版されたので、こちらもちょうど120年。

ハーンが最も充実した日々を過ごした松江、それは私も『神々の国の首都』の中で、描いています。

そして、小泉八雲記念館から届いた報せがあります。

松江市は、この記念すべき年に、「統一ロゴマークを使用し、PRを進めることと致しました」という。

このロゴマーク等のデザインを、使用品の有償・無償を問わず、多くの方に使っていただくことで、広く小泉八雲『怪談』出版120年をPRすることを目的としている。ロゴマーク等のデザインの著作権は(一社)松江観光協会に帰属します。使用にあたっては、小泉八雲『怪談』出版120年ロゴマークの使用に関する要綱に定めている事項を守り、適正に使用してください、とのことである。

詳細は以下を御覧ください!

https://www.kankou-matsue.jp/travel/establishment/kwaidan120

 

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「三田文学」最新号

2024-04-16 | Weblog

「三田文学」最新号。

出ました。

三田文学新人賞、発表されています。

平田俊子さんの巻頭詩は、シンプルで、当たり前の、言葉の力。

私の連載も載っています。

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かつての住居がまるっきりなくなっている

2024-04-16 | Weblog

かつての住居がまるっきりなくなっている。

棟ごと。

 

棟に入るには、坂道から階段を上がるのだが、その跡だけが残っている。

向かいの公園も自転車置き場もなくなっているし、そのエリア全体が入れなくなっている。

 

もちろん都営住宅なのだから建て替えたりもするだろう。

端っこの棟なので、真っ先に工事している、ということなのだろう。

 

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桜の花は、はかなくて

2024-04-16 | Weblog

桜の花は、はかなくて。

半月の間に、終わってしまう。

その毎年の繰り返しも、確実に早くなっている。

人生は短い。

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十年住んでいた都営住宅がなくなっていた

2024-04-15 | Weblog

たまたま通りかかったら、十年住んでいた都営住宅がなくなっていた。

ちょっと茫然としてしまう。

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新作の人形の登場に御期待ください

2024-04-15 | Weblog

どういうわけか、燐光群の劇には、しばしば人形が登場する。

昨年秋の『わが友、第五福竜丸』も、マグロ漁船の話だけに、「サカナ君」たちが登場し、人気を博した。(撮影・姫田蘭)

先週、じつは、人形担当・秋葉ヨリエ製作による新作人形ができあがり、その操作を確認した。

さて、どのような人形でしょうか。

新作の人形の登場に、ぜひぜひ御期待ください。

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原爆搭載機の出撃地となったテニアンの飛行場が再建されふたたび「現役」として活用されるという

2024-04-13 | Weblog

CNNによれば、昨年末アメリカが、米空軍がかつて第2次世界大戦で日本への原爆搭載機「エノラ・ゲイ」「ボックスカー」の出撃地となった太平洋のテニアン島・ノース・フィールド飛行場を再建し活用する計画を立てていることがわかった。

同地は、日本が建設した滑走路を米軍が奪った飛行場で、日本本土を爆撃するB29スーパーフォートレス爆撃機の発進地となったところだ。1945年3月10日の東京大空襲では、焼夷弾による攻撃で10万人が死亡、100万人が負傷した。

 

テニアン島は近くのサイパン島、グアム島とともに、米空軍作戦で数多くの歴史を残してきた。沖縄から移民した一族で現地生まれの私の義母も住んでいたが、米軍の攻撃後、収容所に送られた。

六五年ぶりに行ってみたいという義母の望みを叶えるため、私も十年前に行ったことがあるが、その頃は林が生い茂っている未整備な状態にあった。

 

大平洋を攻めてゆき、沖縄を占領する過程を経ての原爆投下、「太平洋戦争」と呼ばれる日々の中で、刻まれていった歴史。

あの飛行場が「現役」になることに、不穏な思いしか、湧いてこない。

 

義母は米軍に追われた後、初めて沖縄の地を踏んだ。

沖縄の「戦後」は、あの年の八月十五日から始まるのではない。

 

新たな「戦後」を迎えることは、避けたい。

 

 

写真は、ニューオリンズの、第二次世界大戦博物館、太平洋戦争の歴史を辿って、「OKINAWA」が始まるコーナー。

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ハブがいないはずの宮古島にハブがいた

2024-04-13 | Weblog

ハブがいないはずの宮古島にハブがいたという。

話が違うではないか。

というニュース。

 

さて、自衛隊はレーダー基地しかなかったはずの宮古島に自衛隊が配備されたという。

こっちも「話が違うではないか」と、ちゃんと言ってみよう。

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訪米した岸田総理は、米下院議員の「長崎や広島のような爆弾を投下すべき」発言に、きちんと抗議してきたのか

2024-04-13 | Weblog

CNNによれば、アメリカ合衆国ミシガン州選出のティム・ウォルバーグ共和党下院議員が、今年3月25日に地元ミシガン州で行った演説の中で、パレスチナ自治区ガザ地区に対して人道支援のために仮設の港を建設する等の支援を「打ち切るべきだ」「びた一文使うべきではない」と主張した上、「手っ取り早く終わらせるため、長崎や広島のような」爆弾を投下すべきだ、と発言したという。

この発言についてウォルバーグ議員本人はツイッターへの投稿で、核兵器の使用を示唆したわけではなく「比喩だった」と主張しているそうだ。「戦争が早く終わるほど、戦渦に巻き込まれる罪のない人々の命は減る」としている。

原爆については、日本ではアメリカよりも一年近く遅れの映画『オッペンハイマー』公開で賛否の議論が喧しいが、岸田総理は、訪米してバイデン大統領と面談した以上は、面と向かって、「手っ取り早く終わらせるため、長崎や広島同様に原子爆弾を投下すべき」というウォルバーグ下院議員発言に対して抗議するのが当然と思うのだが。

 

 

写真は、ニューオリンズの第二次世界大戦博物館の展示の「爆弾の写真」。

 

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こんにゃく座さんの『神々の国の首都』公演御礼ハガキ

2024-04-12 | Weblog

こんにゃく座さんから、『神々の国の首都』の公演御礼ハガキが届く。

舞台写真が配されている。既に懐かしい。

インターネットの時代に、こうしてハガキでお礼状をだすところが、こんにゃく座さんである。

丁寧さと心根が、ありがたい。

 

自分が劇団をやっているせいか、一つの公演が終わっても座組が「お別れ」するという気持ちにはなりにくい。

客演の方々も、「またいつか別な公演で会える」と思ってしまうので、あまりお別れの感じにならない。

こんにゃく座さんは三度ご一緒して、しかしそれが数年ぶりごとなので、なんだか、またしばらく皆に会えないのが、寂しい気がする。

 

接触を禁じられていたコロナ期は、会える会えないについては、そんなことを強く思わないできたが、現状では、あらためて、人と一緒にいることが私たちの創作の基本なのだと、あらためて思う。

もちろん、コロナもインフルエンザも麻疹も、まだまだ油断ならないのであるが。

 

 

「テアトロ」誌の連載で、いま発売の5月号から、こんにゃく座のことを何回か連絡で書かせていただくことになっている。

ご興味ある方は、手に取ってみてください。

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牛窓の「端ノ小島」

2024-04-12 | Weblog

牛窓、瀬戸内海に見渡せる無人島たち。

黒島、中ノ子島、端ノ小島。

その端っこにある「端ノ小島」が、とにかく、かわいい。

こうして短い滞在期間でも、この島に目が行ってしまうのだ。

この小さな島を見ていて「癒される」という気持ちになってしまうとは、私はよほど疲れているのである。

 

オリーブ園の頂上から海を見渡した。

ときどき、子どもの頃から時間が変わっていないような気がしてしまう。

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