「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

少子化を適正化する。抜本的な方法。

2023-01-06 | 日記

昨今の日本の情勢を観ていますと、政治・経済とも右肩下がりの不安が過ります。これからの日本の進むべき國の形容を、わたくしなりの提言を申し述べたいと思います。

 

今日の資本主義は終焉(資本が増えすぎて投資のマネーゲームに陥っていて、実体経済が従に為っている。)を迎えて、民主主義の在り方が問われています。(アメリカの自己愛トランプ支持者の多さ・ロシアの独裁政権 プーチン大統領の他国領土奪取計画・中国の集団官僚独裁国家覇権主義の、経済・軍事両面に依る領土拡大問題 )

国連の機能不全。

 

わたくしは、(民主主義を考えますと、)

主権在民(個人を尊重して)で、話し合い。意見の違いを多数決に依り國を運営する。在り方はとても良い仕組みである。と考えています。

 

しかし、数の論理は、レベルが下へ下へと向かい、質の向上は望めませんし、結論を出すには手続きが必要で時間がかかります。

社会が底辺へ向かい弱者に優しい社会になりますが、財源確保が困難な状況に陥ります。

つまり、国民は税金の高い国家運営が強いられる事を覚悟する必要があります。

 

中国共産党は、民間企業の党員採用に当たっては人格・頭脳・見識・評判を過去に遡って徹底的に調べて、幾度の面接を経て採用されます。質の高い人達が國を動かしています。将来的には、『世界経済を制覇する。』と、想われます。

 

翻って我が國では、大学を出て社会を経験せずに国家公務員上級職試験に合格して高級官僚になるレールで事務次官迄たどり着くシステムが、明治~大正~昭和~平成~令和迄続いています。

 

日本でも早く大学→社会人経験→高級官僚のシステムが、必要と考えています。

 

次に、岸田首相が、新しい資本主義とか、異次元の少子化対策を、発表されていますが、

 

わたくしの考える新しい資本主義・異次元の少子化対策を、申し述べます。

 

現在社会は、普通の人が結婚相手を見つけて家庭を築いて、文化的な環境を得るには、『二人力』で働き(核家族)双方の稼ぎで『やっとこさ』生計を維持している方が一般的でしょう。→『子宝は諦めます。』

 

自分の将来の事を考えて、結婚をためらい独身で過ごす決断をした方も多いのではないでしょうか。

 

わたくしの考える新しい資本主義とは、『一人力』で、文化的な生活が暮らせる『税制改正及び憲法改正』を行う事であります。

 

夫婦どちらかが働き、充分な給与を国家が補助して、『二人力』を減らす税制を考えるべきです。

 

我が子は、小学校迄は、親が就いて育てるのが、教育上一番良い方法と思います。

 

日本の将来を担う人材が数多く輩出できると思います。

 

少子化は、自然に増加に転じます。

 

官僚と学者・政治家はわたくしの提言が可能なのか、官僚機構の再構築を含めて財政シミュレーションをしてもらいたいと思っています。

 

 

 

 

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ホツマツタエに書かれている『新治ニハリ宮』は、やはり日田市に在った。と、考えられます。(わたくしの説が裏付けられました。)

2022-10-23 | 古代史

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倭建命(日本武尊)から紐解く、ホツマツタエのサカオリの宮。

2022-03-01 | 古代史

暫くぶりにブログに向かいます。

本年(令和4年)正月、わたくしと妻が信仰している宗教団体が『火と水の浄儀』を行う予定である。旨を信者に発表されました。

 

わたくしは、古来からの伝統的な儀式が、現代迄伝承しているのに驚きました。

 

と述べますは、ホツマ伝の地22巻『オキツヒコの火水の祓』を知っていたからです。

 

早速『ホツマ伝』を開いてみました。

 

此の『ホツマ伝』とは、大田田根子が日田市日代宮ヒジロに居たものと考えられます景行天皇に献上された、天君と名付けられた瓊瓊杵尊(別雷男命)の稜威イツを讃え、子々孫々日本武尊迄の伝えを残す、天・地(陰と陽)・人併せて40文(巻)のホツマ文字で書かれた五・七調の倭(和)歌です。

わたくしは、西暦290年~300年頃に献上されたもの。と考えています。従って、古事記・日本書紀より400年程古い書物と思っています。ホツマツタエの信頼性は、記紀より可なり上に有りますが、ホツマツタエも要の事項を伏せています。

 

『オキツヒコ ヒミツノハライ』  『オキツヒコ火水(秘密)の祓い』

 

最初は、由来から始まります。

 

ミカマトノ カミノヒミツノ  御竃の神の火水(秘密)の

ミツノネハ ニハリノミヤノ  本質(蜜)の根源は、新治ニハリの宮への

ワタマシニ アメノミマコノ  移動鎮座に際して 天の御孫の瓊瓊杵尊が

ミコトノリ モリオタマワル  御詔宣を出して、オキツヒコが世話・備え役を賜った。

オキツヒコ

 

と、述べられ、その後に続けて

 

      カシキノユフノ  畏き(樫木)の由布(木綿)の

ミテクラニ ヤモヨロカミノ  布の供え物と、 八百万神の

カンツトエ タカマノハラノ  神が集まり 高天の原(ゆふいん塚原=ヤスクニの宮)

カンツカサ アマテラシマス  神司が、天(倭=和)を照らします

ヲヲンカミ ホキタテマツル  大御神を、祝詞奏上で

ノトナカニ          言祝ぎます。

 

以後、言祝ぎの祝詞が

国常立神・五坐(東西央南北)ゐくらの神・八元やもとの神・ヱトこよみの守神・年徳としのりの神・等次々と述べられます。

 

終わり方は

      モシモミワサノ  もしも、水災の

アラントキ スヘヤマツミノ  あらん時は、水と山を治める神霊が

アラハレハ タトヒナカアメ  現れて、例え長雨にて

アフレテモ ヤマハシケキニ  水が溢れても、山は繁樹で

モチコタエ ナカレオフカク  持ちこたえ、流れを深く

ナスコトモ ツネニイセキオ  なすことがあっても 常に井堰を

マモルナリ          守るなり。

 

      ミナカンチカヒ  皆の神を誓いて

 

      イチシルキカナ  顕著かな

コノトキニ トシノリカミノ  この時に、年徳神

マテニアル オオトシカミト  真手(陰陽)にある大年神と

ハニヤスメ オコロモトモニ  埴安姫・オコロ(龍になり損ねた土竜=土公神)も共に

チカイシテ イサキヨカレト  誓いして、諌清かれと

カンホキニ ホキノリナセル  神祝に、祝宜なせて

カナキユヒ          締めくくる

 

      タキヒモキヨク  焚き火も清く

ミツキヨク ミカマトキヨク  水清く、御竃も清く

ミナキヨク ヒミツノミツノ  皆清く、火水(陰陽)の奥義は

タカラオノ スサミナケレハ  寶斧(包丁)が劣化なく研ぎ澄まされて

イサキヨク ニアクルミケノ  潔く煮あげた御饌の

ヒモロケオ ササクルスエモ  奉納食を捧げる須恵器も

キヨラカニ ムスフヒミツノ  清らかに、結ぶ火水(秘密)の

キヨハラヒ          清め祓い

 

      ヨツキタカラト  代々を伝え継ぐ寶と、

スサマシク シツムチカヒノ  進上した執り行いが

イサオシオ ユキスキハニノ  功を為し、悠紀ユキ・主基スキ・埴主基ハニ       

ヲヲンカミ キコシメサルル  大御神が聴いて下さるように

キヨハラヒ          浄め祓い

 

      ヒミツオカミニ  火水(秘密・奥義・陰陽)を神に

ツツシミテ キヨメタマヘト  謹みて『御浄め給え』と

マウシテマフス        申して曰す。

 

で、地の22巻は終わります。

 

オキツヒコは、志賀の海(博多湾に志賀島が在り、姪の浜には、小戸大神宮が有ります)で、伊弉諾尊から、島津彦・志賀彦と共に生まれた。と述べられています。

 

ホツマツタエが述べています『火水の祓い』の由来は、

 

瓊瓊杵尊が『高天原』(ゆふいん)から降臨した後、(ホツマツタエでは、八洲巡りをした。とは述べていますが、天孫降臨の話は述べていません。)瑞穂の中原※(鳥栖~基山伊勢)から、日田に在ったと考えられます『新治ニハリ宮』ヘの移動鎮座の時に、オキツヒコが執り行った建築の前の儀式。と、されています。

※鳥栖市の隣りの三養基郡に『中原』の地名があります。

 

わたくしのブログでは、豊受大神一族が西暦206年頃大分→阿蘇から日田市に遣って来て、うきは~朝倉へ進出し、(後漢の蜀の太守であった)『高躬』が(木綿)ゆふいん~安心院~九重にホツマ國を隠居國として分割。

 

ゆふいんアサマの宮サカオリの宮)には、豊受大神(高躬)・娘の伊弉冉・孫のアマテル・アマテルの皇后の瀬織津姫・瓊瓊杵尊・彦穂穂出見尊・天鈿女命が、居て、記紀が述べている天孫降臨は、ゆふいん塚原(高天原)から、安心院町佐田の猿田彦が、瓊瓊杵尊一行を糸島の笠沙岬方面へ道案内をした事に為っています。

 

記紀に於いての瓊瓊杵尊は、

木之花開耶姫(ホツマツタエでは、アシツ姫)を娶り、一夜の契りで妊娠して、火照命(ホツマツタエでは、火明り 斎名ムメヒト)・火須勢理命(ホツマツタエでは、ホノススミ 斎名サクラギ)・火遠理命(ホツマツタエでは、ヒコホオデミ 斎名ウツギネ)の三つ子が産まれた。と述べられ、瓊瓊杵尊のその後の行動は不明です。

 

瓊瓊杵尊の民間での伝承は、基山町史に有り、『伊勢』の地名も在ります。『伊勢』の近くに『イサワ』の転訛名とも考えられます『三沢』の地名も在ります。

 

ホツマツタエでは、アマテルと瓊瓊杵尊と瀬織津姫は『伊勢宮』に居たと述べられており、『伊勢=妹背=日夜見宮』は、思兼命=阿智彦が建築をしたと述べられています。

 

ホツマツタエでは、思兼命=阿智彦は、『玉津宮』に使いに出され、『玉津宮』に居た※ワカ姫と出会い結婚します。

 

※ホツマツタエの解釈では、本来のワカ姫は、蛭子の事になりますが、出雲から大善寺『玉垂宮』に帰って来た『高姫』が、『ワカ姫』の名前を継いだ。と述べられ、『高照姫』(ホツマツタエに於いては、大己貴命と三女神の長女タケコの子です。記紀に於いては、タケコは多祁理比賣命とされています。)の事と考えられます。

 

わたくしの考察で、『蛭子尊』は男性で、大己貴命の息子の大国主命=事代主命=恵比寿と想われます。)

 

つまり、ホツマツタエの『玉津宮』とは、大善寺『玉垂宮』を指しています。

その後の調査にて、『玉津』の地名が、大分県豊後高田市の丘の上の中央公民館地区に在る事を発見しました。考察の末、ホツマツタエの述べている『玉津宮』は豊後高田市の事と想われます。

従って、ヤスカワとは、福岡県筑前町夜須ではなく、豊後杵築市の『大内宮』(アマテルとスサノオが誓約ウケイをした天之安河=八坂川)と、考えられます。有明海から船で移動しているものと考えられます。

 

思兼命=阿智彦と、妻の高照姫は、ヤスクニ(=ゆふいん塚原)からヤスカワ(=大分県杵築市『大内宮』=記紀でアマテルとスサノオが誓約をした天之安河)に移り、タガの若宮(田川アスカ宮=アマテルがゆふいん高天原から移動して造った宮で、田川『香春神社』では、天之忍穂耳命を『忍骨命』として祀っています。)

から移動して来た病弱な※『天之忍穂耳命』の面倒を見た。と、述べられています。

 

※ホツマツタエに依りますと、天之忍穂耳命は、タガ若宮に居たが、その後にヒタカミ國の首都『ケタ壺』日田市に小石原峠を越えて移動しています。

『ケタ壺』は『ヤマテの宮』とも謂われています。天之忍穂耳命は日田で亡くなり、英彦山(神宮)に埋葬されます。斎名は『オシヒト』 贈り名は『箱根神=巡幸神=運廻ハコネ=小石原峠を指しています。移動の多い様』。

 

後の※『弓削宿禰』は天押穂根命=天之忍穂耳命の末裔と、想われます。『弓削』・『葛原』・『芝原』・『布津原』の地名の発祥は宇佐市に在る。と考えられます。

※ 物部氏の守屋が、母方の『弓削ユゲ大連オオムラジ』と称し、元は弓を作成する一族で、『弓削道鏡』が有名です。対して、『矢作ヤハギ連ムラジ』は、『矢』を作る一族で、鳥栖市に『布津原』の地名がありますが、『布都奴志命』の末裔が、『矢作連』です。筑後~筑前~筑豊に大勢の『中野』姓が居られます。家紋は『抱き茗荷』。(と、呼ばれていますが、本当は『矢』を作る『抱き(笹竹の芽)』でありましょう。)

 

わたくしの説では、ヒタカミ國の中心は『金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡』(曹操の鏡)が出土した『日田』です。

 

ですから、『ケタ壺』とは、『日田盆地』を指しています。但し、ホツマツタエ 天2文に出てくる『ケタ壺』は、『ゆふいん盆地=オキ壺』を指しています。

 

ケタツホノ ツサノツクハノ  『ゆふいん盆地』の『由布岳』(筑波)の

イサミヤニ ウナツキアテミ  イサ宮(宇奈岐日女命を祀っています六所宮と考えられる)にて相交わって

イサナキト イサナミトナル  イザナギとイザナミとなる

フタカミノ マシワルトキニ  二尊の交わるときに

トコミキヤ トコハトホコニ  床入り酒や 床では、融和を持って

コオモトム          子孫繫栄を願う

 

 

筑波』とは、古代の場合は九州を指し示しています。

 

ツクバの、ツクとはイツクの事で、バは羽・葉・を指しています。耳は左右1対を意味します。『由布岳=オキ壺のツクバ山』はゆふいん盆地=オキツボから眺めますと、西の峰、東の峰に別れた『双耳峰』です。

 

わたくしは、伊弉冉が祭祀・斎イツキをしたと考えられます磐座の存在を幾つか確認しています。

 

筑紫筑豊筑波は九州であると、考えるのが自然です。

 

茨城県の『筑波山』(火山噴火の無い山体の歴史です。)も男体山・女体山に別れた『双耳峰』であります。

 

此れは、以前のブログ『籠神社は豊後から遣って来た建田背命から始まった…』(2012年3月24日掲載)を読んでもらえば理解して頂けると思いますが、

孝安・孝霊・孝元天皇期には、豊後紀氏=海部氏・葛木氏・建田氏→武田氏・甲斐氏・あべ氏・工藤氏・藤原氏→伊藤氏・北条氏・三浦氏・八田氏・河津氏・井氏→井伊氏・梶原氏・等の、俗に謂う『阿蘇氏』が、宮津~敦賀方面から近畿~中部~関東方面に散らばっています。

 

現在NHKで放映されています『鎌倉殿の13人』の登場人物は、殆んど『阿蘇氏』が関東に渡ったものである。と、考えるべきです。北条一族の『牧氏』が出てきますが、『牧宗親』は桓武天皇の生母『竹野』の『新笠』の出身地『牧』と、関係が考えられます。

 

『ゆふいん』からも、建斗米命タケトメ、その子建多乎利命タケダオリ(建宇那比命タケウナビの弟)、中名草姫(建斗米命の妻)等、大勢の人達が去って行きました。

しかし、アマ族本体の天君と呼ばれ※八洲巡りをした、瓊瓊杵尊・天児屋根命=景行天皇等は、『ゆふいん』ハラアサマ宮(別名サカオリの宮)か、新治ニハリ宮に居たものと考えられます。

 

八洲巡りをした瓊瓊杵尊は、奥州で蝦夷エミシを退治して、ヒタカミ國(常陸國)を造りますが、その時『ゆふいん』の双耳峰『筑波山(由布岳=オキツボのツクバ山とも呼ばれていた。と考えられます。)』の名前を、山体が似ている茨城県の双耳峰『筑波山』に命名したものと考えられます。

 

其の証拠に、『筑波山神社』では、『ゆふいん』に存在した。と考えられます、伊弉冉尊伊弉諾尊を祀っています。

 

ですから、『筑波山』と命名したのは『瓊瓊杵尊』である。と考えても可能です。

 

亦、景行天皇の子、倭建命(日本武尊)ヤマトタケルが、再びヒタカミ國の討伐に訪れ、『筑波山』に登った。と、謂う地元の伝承があり、此れは、父、景行天皇から『筑波山』の話を聞いて居たので、登頂したものと考えられます。

 

亦の証拠に、アマテルの東局の(乙下侍)妻に、蘇我姫が為っていますが、父の名前は筑波早馬ツクバハヤマです。

 

蘇我氏は豊後大分が本貫地です。本貫地は奈良県ではありません。ゆふいんの『アサマの宮』は、別名で『馬場浅間ババセンゲン』と呼ばれ、『馬場』、即ち『馬』の『驛』が設けられていた。と、謂われています。

筑波早馬ツクバハヤマは、ゆふいんの人かも知れません。

亦、筑後には『早馬行事』が伝承されています。

 

亦亦の証拠に、常陸国風土記(元明天皇の詔にて713年編纂)には、『筑波県ツクバノアガタは、昔、紀の國と謂った。』と、述べられており、の國とは、豊後紀氏の居た大分を指し示しています。『筑波』の名は、豊後が源元です。

 

  • 如何も、『瓊瓊杵尊』と『アマテル=饒速日命=火明り』が同一人物に思えてきました。多分正解と想われます。(饒速日命=アマテル=火明り命と瓊瓊杵尊の高天原からの降臨時に、どちらにも天之児屋根命=景行天皇=猿田彦が同行しています。先代旧事本記と記紀に拠る)

 

倭建命ヤマトタケルが、新しい『新治ニハリの宮』を『ヒタカミ國(常陸國)』に造った。と、ホツマツタエは述べています。

 

東国遠征から、物部氏の尾張愛知に帰った日本武尊ヤマトタケルは、宮簀媛と暫く一緒に居たのですが、

ホツマツタエ 人40文 『アツタ神世を辞む文』には、次のように述べられています。

 

マキムクノ ヒシロノコヨミ  纏向の、日代の暦(景行天皇の暦)の

ヨソヒハル ヤマトタケキミ  41年春 ヤマトタケ君

キソチヨリ イタルオハリノ  木曽路よりおいでになり、尾張の

タケトメカ マコノムラシノ  建斗米命の孫の連ムラジ(乎止与)の

ヰヱニイル ツマミヤスヒメ  家に這入られる。妻の宮簀姫は

ミヤコヨリ オクリテチチカ  都より、父の乎止与が送り届けて

ヰヱニマツ イマキミココニ  家に待つ。今、ヤマトタケ君此処で、

ツキオコス          月を越す

 

      キミノタマハク  ヤマトタケ君が宣給われた。

サカオリノ ミヤハムカシノ  「サカオリの宮は、昔の

ハラノミヤ ナオナカラエリ  ハラの宮。今尚、永らえている。

ワカネカヒ ウツシテヒメト  我が願いは、サカオリ宮の絵図を、姫と見て

タノシマン ムラシモウサク  楽しまん。」 (乎止与)連が奏上。

トミユキテ ヱカキウツサン  「臣の私が、描き写して参りましょう

キミヱヱス          ヤマトタケ君が笑い悦んだ。

ムラシクタリテ        乎止与が下り

サカオリノ ミヤオクワシク  サカオリの宮を詳しく

ヱニウツシ カヱコトスレハ  絵図面に写して、ヤマトタケ君に送った。

 

と、述べられています。その後、ヤマトタケは三重県『能褒野』ノボノで崩じました。

 

ここで考えなければならない事は、

 

宮簀姫』ミヤズヒメの父である『乎止与』オトヨが『建斗米命』タケトメの孫と述べられ、敦賀宮津湾の『籠神社』コノジンシャが『建田背命』タケタセに繋がり、

『建田背命』の弟に『建宇那比命』『建多乎利命』『建彌阿久良(大分國造)』『建麻利尼』『建手和邇』一番末の妹が『宇那比姫命=宇奈岐日女』(先代旧事本記より、尾張氏系図)である事を頭に浮かんで考察しますと、

 

ゆふいん』に繋がる。と謂う事です。

 

乎止与』オトヨは『建多乎利命』タケタオリの子になります。『建斗米命』は『火明命アマテル饒速日命』の末裔(弟の子)です。

 

饒速日命』の弟が『建日照命』で、『建日照命』の子が『建斗米命』とホツマツタエは述べています。

 

『ゆふいん』の隣りの『玖珠町』に『名草台』があります。『建斗米命』の妻の『中名草姫』は此処から娶っていたものと考えられます。

 

 

ヤマトタケルの、『ゆふいん』への郷愁の想いが伝わって着て、現代の『ゆふいん』に棲んで居るわたくしには、涙が溢れて止まりせん。

 

『ゆふいん』は、倭建命(日本武尊)の心の『ふるさと』でした。つまり、『ゆふいん』が『倭ヤマト心』の『ふるさと』でした。

 

全国各地からの観光客が溢れています。観光客の居ない静かな『伊弉冉尊(塚原霧島神社)』『宇奈岐日女命』『瀬織津姫』等の『磐座』を巡って下さい。

毅っと、古代人の『倭ヤマトの心』を堪能出来ると想われます。

 

『倭ヤマトは 國の真秀マホろば 畳なづく青垣 山籠もれる 倭ヤマトし 美ウルはし』 倭建命(日本武尊)。

 

『敷島の 倭ヤマト心を人問わば 朝日に匂う 山桜花』 本居宣長。

 

未通女オトメ等が 散ハナリの髪を 木綿の山 雲な たなびき 家の辺り 見む   万葉集 巻7 1244 

 

よしえやし 恋ひじとすれど 木綿間山  越えにし君が 思ほゆらくに    万葉集 巻12 1391 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『対馬』から『倭』へ、大勢の『神官』等が遣って着た場所の行方。

2021-04-07 | 古代史

わたくしは、四川省三星堆、『蜀』の『太守』をしていた高躬・高幹親子等が、南方の海南島方面から遣って来たのか、朝鮮半島方面から遣って来たのか興味があり、調べてみる事にしました。

古来より『対馬』・『壱岐』は大陸との交通の要衝地で、神社が数多く有り、特に式内社の数の多さに驚かされます。『壱岐・対馬』の神社研究は、非常に重要で有ります。

もし、高躬・高幹親子等が、『対馬』~『壱岐』を通過していれば、『対馬・壱岐』の神社に痕跡を残している。と考えられます。

『玄松子』様の『神社記憶』では、『高皇産霊尊』(高躬・高幹)を祀る神社は、『対馬』では、厳原市『多久頭魂神社』境内の『式内社』『高御魂神社』に、『壱岐』では、芦辺町『高御祖神社』に祀られています。

つまり、『対馬』~『壱岐』経由で『倭』に着ている。ものと考える事が出来ます。

 

民俗学の巨星である柳田國男(1875年~1962年)は、

「人間の威力の根源は『魂』で、強い『魂』を附けると威力を生じ、精力を増す。南太平洋地域での、『マナ』と呼ばれる森羅万象には、超自然的な力があるとされている。

『マナ』なる外来『魂』を、日本では『稜威』イツと謂う古語で表している。」

と、述べています。

『稜威』イツとは、『霊的な畏れを感じる力』の事で、『神』や『天皇』を敬い、畏れる表現に使われて、古い言葉の使い方です。

『稜威』イツは、『斎』・『厳』と同義語であります。

 

神社宮司の祝詞ノリトには、『天津祝詞』『ひふみ祝詞』等があり、『ひふみ祝詞』は、『物部氏祝詞』と謂われ、対馬の神官が九州に齎した。と、一般には考えられているようですが、

『対馬』の古代文字である『阿比留氏草文字』の源元は、

 

わたくしの考察では、

BC600年頃に南インド・スリランカで使用していた『ブラーフミー文字』が、フィリピン『バイバイン文字』~琉球経由で、『倭』に齎され、熊本の白氏が韓半島への交易の途中の『対馬』へ伝えたものと考えています。

阿蘇『幣立神宮』ヘイタテジングウでは、『阿比留草文字』アヒルクサモンジで刻まれた『ひふみ祝詞』の『鑑石』カガミイシが幣立神宮の『御神体』で有ります。

 

此処、熊本県上益城郡山都町の『幣立神宮』(神紋は阿蘇氏の違い鷹羽)は、

 

わたくしの考えの説では、

景行天皇が山都町の『幣立神宮』で崩御(志賀氏の高穴穂部の宮)しており、その後に第20代『安康天皇』アンコウテンノウが、避暑に訪れて『眉輪王』マユワオウから殺された場所と推論しています。此の地区は『仏原』と呼ばれています。

 

『鑑石』は『景行天皇』に献上されたものとも考えられます。

 

その後、『対馬人』が倭に召喚され、『阿比留草文字』を齎している。と、考えています。

(根拠は、著書『海神と天神』を出版した『永留久恵』ナガトメヒサエ氏の研究で、古代に、『対馬』の『神官』の三分の一程が『倭』ヤマトに召された。と、述べられています。)

 

『倭』から、『対馬』への渡航の痕跡は、AD220数年頃『豊玉姫』とその夫の『日高彦穂穂出見尊』・『天日鉾命=須佐之男命=崇神の事』・『玉依姫=崇神の生母』を祭る神社の数の多さと、地元対馬の地名『豊玉町』や伝承から認められます。

わたくしは、この時期に『神官』等が、『倭』に連行されたもの。と考えています。肥後の二ノ宮『甲佐神社』に祀られています『八井耳玉命』(賀茂建角身命=八咫烏=速甕玉の異母弟、クマカブト阿羅舵彦アラカシヒコの事で、建御雷神の子)は、

 

『阿蘇神社』で祀られています『健磐龍命』(豊玉彦=八代竜王=古事記では建御雷神の事)が、朝鮮半島に渡って帰って来る時に『対馬』で、妻を娶られて産まれた。(甲佐明神)と述べられています。

 

この時、一緒に渡航したのが、

『日高彦穂穂出見尊=兵主神=孝元天皇=本来の神武天皇=豊受大神(高躬)の子』・『豊玉姫=健磐龍命=建御雷神の娘で、八咫烏の姉』・『玉依姫=八咫烏の娘=後に住吉神=開化天皇=ウガヤの妻になります。』・『天日鉾=スサノオ=崇神=記・紀に於いて神武天皇(父の名前)を名乗った人で、玉依姫の息子。』・『賀茂建角身命=八咫烏=琴平神=大山咋=松尾神=崇神・スサノオの祖父で、日田市~うきは市~田主丸町川会邑に居たものと考えられます。』等が、考えられます。

 

『高躬結び神』一行も、AD206年頃四川省成都から『倭』(日田市~うきは市)に遣って来る時に対馬・壱岐経由であった。ものと、対馬『多久頭魂神社』の境内式内社『高御魂神社』、壱岐の『高御祖神社』に痕跡から、推察されます。

 

『対馬』の神官が召された『倭』とは、邪馬台国が近畿に在った。と考えておられる学者の解釈であれば、奈良県の『倭』であらねばなりません。

 

近畿説を支持する学者は応えて下さい。

奈良県に『対馬』の形跡がありますでしょうか?

 

これまでの経験では、

近畿説を支持する学者は、『永留久恵』の研究に拠る、『神官の倭への移動』そのものを、『不確かなもの。』『推測に過ぎない』と否定して、事を収めて、終いにします。

 

都合の悪い事は、いつもこの様に、かわすか、解釈の固持付けを行い、亦はダンマリ無視をいたします。

 

こうした原因は、先代旧事本記(物部氏の伝記史書)を、江戸時代の学者が偽書として扱い、明治以後の学者が鵜吞みにして、重要視されなかった為に日本書紀・古事記に頼る事となり、古代の解明が遅れたのです。

 

先代旧事本紀の第3巻『天神本紀』の『饒速日命』の32名の随行者の中に、(『日本書紀』の記述を照合すると、)神武天皇時の『天道根命』・大己貴命の国譲り時の『少名毘古那』・瓊瓊杵尊の随行者の『天之児屋命』が這入っており、登場人物の時間軸が一致せず、史料として、全く信頼できない。後世の捏造であろうと、一蹴された。ものと考えられます。

 

しかし、わたくしの考えでは、『饒速日命=アマテル=火明り命』と、『瓊瓊杵尊』は、同一人物である。と感じられ、

先代旧事本記は、時間軸は合っており、間違いない事を記述している。と考えています。

 

 

ゆふいん『高天原』からの天孫降臨時の『天之児屋根命』の『瓊瓊杵尊』への随行については、ホツマツタエの記述(『天之児屋根命』はアマテルの右の羽根であった。)に依りますと、『瓊瓊杵尊』への随行は考えられず、記・紀の捏造と、考えられます。

『天之児屋根命』は『饒速日命』(アマテル・火明り命)に随行したものと考えるのが常識です。

しかし、もう一つの考え方では、

記・紀では、『天孫降臨』に登場した後の『日高彦瓊瓊杵尊』は、韓半島と向き合う笠沙岬=糸島で『木花之佐久夜毘賣』(大山津見の娘)を娶り、一夜の契りで『火照命』(海幸彦)・『火須勢理命』・『火遠理命』を産んだ。と述べて、『瓊瓊杵尊』と『日高彦穂穂出見尊』は『親と子』扱いにされていますが、

 

『高良玉垂宮神秘書』では、『天照大神』の御子は、『天忍穂耳尊』・『日高彦瓊瓊杵尊』・『日高彦穂穂出見尊』・『日高彦ソソリノ尊』は、四人の兄弟であった。と述べられています。(日高彦ソソリノ尊は、海の遠くに行って行方不明である。と、述べられています。)

 

記・紀では、『瓊瓊杵尊』の子が、『彦穂穂出見尊』とされていますので、『火照命』が『日高彦穂穂出見尊』であろう。と考えられ、『火遠理命』が、『日高彦ソソリノ尊』の事であろう。と、考えています。

 

『高良玉垂宮神秘書』を信じて、歴史を考えれば、

『天之児屋命』が、『饒速日命』の降臨と、『瓊瓊杵尊』の天孫降臨に登場しても、時間軸は合い、納得出来ます。

 

わたくしは、『記・紀』『先代旧事本記』『ホツマ伝』『魏志倭人伝』の記述を総合的に考察しますと、糸島の(一)大卒の長官、爾支(ニキ)とは、瓊瓊杵尊と考えています。そして、瓊瓊杵尊と饒速日命(=アマテル=火明り)は、同一人物であろう。と、考えられます。

どちらも『天之児屋根命』が、同行しています。

そして、瓊瓊杵尊は、右の羽根『天之児屋根命』(猿田彦=景行天皇)を率いて八洲巡りをした。と、ホツマツタエでは、述べられています。

基山町史には、瓊瓊杵尊が伝承に有りますが、アマテルの伝承は全く残っていません。ホツマツタエの解釈では、基山町の『伊勢宮』が、源の宮で、アマテル=瓊瓊杵尊と瀬織津姫(向津姫)、猿田彦(景行天皇)が居た。と考えられます。

基山町には、ホツマツタエの猿田彦伝承に有ります『高島』の地名が残っています。

 

 

『対馬』の形跡を留めています処の『倭』ヤマトは、本州にはないと想われます。

 

 

わたくしの探究に拠る、

倭ヤマト『対馬』の形跡を残している場所は、

アマテルが瓊瓊杵尊の面倒を見たと考えられる『伊勢=妹背』基山町から鳥栖市田代町~山都町で有ります。

(基山の『伊勢山神社』は、天暦9年(955年)第62代村上天皇時代に伊勢神宮の分霊を勧請した。と伝わり、その後、代々『対馬』島主『宗氏=宗像氏』の所領となっています。)

 

此処は、江戸~明治になる迄、宗氏=宗像氏『対馬』藩の飛地でありました。墳墓も、赤坂古墳・梅ヶ坂~柚比古墳群・田代太田古墳等数多く在ります。対馬の神官等が使用したと考えられます、『稜威』イツの文字も石碑に認められます。

代官所跡地も田代本町に有ります。

 

此処には、古くはアマテル=瓊瓊杵尊の右の羽根の天之児屋根命=猿田彦=景行天皇=長髄彦・三炊屋姫ミカシキヤヒメも一緒に居たものと考えられます。ホツマツタエに依りますと、アマテルと瀬織津姫が一緒に『伊勢=妹背』に居た時に戦が起きて、『お前はワカの処に逃げなさい。私は、トヨケ(豊受大神)と背(脊振の事)を守る。』と表現されています。

 

『倭』ヤマトに遣って来た『対馬』宗像氏の神官等は、此処鳥栖~基山から対馬にある『厳』『斎』『稜威』イツの地名を持って筑後・筑豊の九州各地へ散らばり、瀬戸内~山陰~能登~伊豆半島方面まで進出し、活躍をしたものと考えられます。『忌部氏』とは、『祭祀をする氏族』の事で、『対馬にルーツを持った人達である。』と、解釈するべきです。

(大分県に多い『首藤』姓は別府~阿蘇の『藤原氏』と繋がり、『対馬』からのルーツを持った人達。と考えられます。亦、鎌倉時代の対馬にて、『元寇』で活躍した『宗氏』は『宗像氏(筑紫の君)』の末裔と考えられます。)

 

ですから、『稜威』の本質は、対馬に『日高彦穂穂出見尊』と共に遣って来て、対馬市豊玉町や厳原の名前を残しています『斎祁奉る姫』→本来の『市杵嶋姫命』であります処の『豊玉姫』(弁財天・天鈿女・水波能女・秋永氏の先祖)を指しています。

 

その後に、アマテルの妃にスサノオ=崇神が手を附けて生まれた『三女神』の長女の事で、宗像氏の『アヤコ』が育てました。故に『宗像三女神』と呼ばれた。とホツマが述べています。

大己貴命の妃に為った『多祁理比賣命』が、『市杵嶋姫命』と呼ばれるようになり、現在の認識であります。

伊豆半島の『伊豆』も『厳』・『斎』・『稜威』イツの意味を持っている。と考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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菅原道真は、大宰府では亡くなってはいない。可能性があります。(阿蘇氏を考える。)

2021-02-24 | 古代史

令和3年2月7日NHKのドラマ『麒麟がくる』の、明智光秀の生涯を描いた番組が終った。

一般的には主君に謀叛した悪人的なイメージを持っている方が多いようですが、信長との軋轢が生じた明智光秀の、心の内面の新しい解釈と、過酷な戦国乱世時代を選択して、当時の武将達が生き抜く様が、史実に沿って描かれ、光秀が『麒麟』=『平和な世の中』を求める想いが伝わる、良い作品でありました。

配役陣も、明智光秀(長谷川博己)・松永久秀(吉田鋼太郎)・織田信長(染谷将太)・帰蝶(川口春奈)と、演技力が高く、感心しました。

特に驚きましたのは、正親天皇(おおぎまち)を演じた坂東玉三郎です。

御簾の中に黙して、格調高く、徐に口を開く姿は、言葉遣いと表情の圧倒的な演技で、『居るだけで、荘厳』でありました。歴史に名を残す名演技に出会えて幸せでした。

 

最後の場面は創作の登場人物『お駒』が、光秀の生きている姿を、人混みの中で見つけて、後を追い、「幻影であったのか」と思う場面で終わるのでありますが、

原作者か脚本家は、明智光秀は、豊臣秀吉との『山崎の戦い』の後に亡くなってはおらず、生き延びて居た説がある事を知っていたのか、少しだけ想像を持たせた演出に成っていました。

昔から、明智光秀が天海和尚(徳川家康に、古来よりの仕来りや伝承、多くの知識を授けた人で、日吉神社に代表されます、山王一実神道(山王権現=大山咋=琴平神=阿蘇氏の八大竜王・豊玉彦=健磐龍命タケイワタツ=賀茂建雷男命カモタケイカヅチヲ=建雷男命の息子で、豊玉姫=龍神姫=水波能女命ミズハノメ=青龍大権現=息長大姫大目命=天ノ鈿女アメノウズメの弟(=息長氏)になります。亦の名を速瓶玉命ハエミカタマ=賀茂建角身命カモタケツヌミ(=阿蘇國造神社)は、(熊甲阿羅舵彦クマカブトアラカジヒコ=熊本甲佐神社で祀られています。朝鮮半島に船長として渡って、帰って来た速瓶玉命=賀茂建角身命の異母弟になります。)佛教と、神道、比叡山の山岳信仰を、所謂、『山王一実神道』=日吉神社=大山咋=松尾神=琴平神=賀茂建角身命=酒の神を江戸時代に全国に広めて『慈眼大師』を賜りました。

江戸城の方位縁起の指南や、関ヶ原合戦にて立てた、のぼり旗には、『厭離穢土オンリエド 欣求浄土ガングジョウド』(汚いこの世の世界から離れて、清い浄土の世界を求める。)の佛教用語が、描かれて、家康に、多大の影響を与えた人物です。

別名『南光坊』 関ヶ原合戦絵図の、徳川陣幕内に、南光坊が描かれています。亦、大阪の陣の切掛けを造った『方弘寺』鐘銘の因縁をつけるのに関わったのでは。と猜疑されています。)に為った。との説があります。

生誕年は天文5年(1536年)頃ではと、ハッキリしていません。没年は寛永20年(1643年)とされ、108歳迄生きた事になり、猜疑されています。

明智光秀の生い立ちについては、はっきりとしてはおらず、誕生年についても、1513年から1516年・1528年・1540年の説があり、(因みに、織田信長は1534年~1582年、豊臣秀吉1537年~1598年、徳川家康1543年~1616年、の誕生です。)

わたくしも、明智光秀が天海和尚に為った可能性は、大いにある。と、考えている一人です。

理由は、世間での評判の歴史と、本当の歴史は違っている事が、多く認められるからであります。

 

例えば、菅原道真は、延喜3年(903年2月25日)太宰府で亡くなった。と、一般にはマスコミ・歴史専門家をも含めて疑念を挟まず信じておられます様ですが、

(百嶋由一郎氏の研究)伝承を辿って、調査を行うと、

実態は、昌泰4年(901年2月1日、警固役人二人・幼児二人を含めた7人で京を出発)博多湾到着後、藤原時平の刺客、亦刺客、亦亦刺客、に狙われた道真一行は、太宰府に着任できず、一旦、天拝山で祈願して(北野天神縁起絵巻)→基山(小郡市吹上地区の重松家への大正時代の大宰府天満宮宮司、西高辻信稚氏からの石碑伝承に拠る)へ移動。→三養基郡中原から→脊振越えの三瀬・板屋峠→博多早良郡司の『壬生家』に7か月間滞在。

太宰府に赴任するまでには、その後、船にて福岡市西区六本松(谷邑)を出帆→豊前椎田沖で遭難(綱敷天満宮の案内由来)、椎田浜にて静養して、→宇和島宿毛の寺に寄り→西大分邯鄲カンタンに上陸後、陸路にて→玖珠の葦谷邑(現在の九重町菅原)の『安全堂』で長期滞在し、『菅原』では、現地の女子との間で二人の子を儲けています。道真の子孫が現在も居られます。わたくしは、以前にその末裔の方と会った事があります。→川船で筑後川北野町江口に上陸。→小郡市松崎の下高橋官衙遺跡(天武と持統の間で設けた、明日香浄御原宮)を通って→太宰府赴任したと、考えられます。1年半~2年以上を要しております。

 

そもそも、『菅原』氏は、阿蘇氏の土師氏(元々は粘土から埴輪・器や鋳型を造る職種)から派生した一族で、菅原氏の源元であります、『天之穂日命』は豊後宇佐『アカル宮』で生まれて、宗像氏の『アヤコ』が乳母として育て、その後生母の居る『出雲』へ送り返しています。豊受大神(高躬結び神)が、倭に遣って来たAD206年~207年頃は、九州~山陰~四国は一体化して本州への移住が盛んになっていました。(ホツマ伝によります。)

 

阿蘇周辺には、『菅原』の地名が数多くあり、阿蘇氏派生の志賀氏から受け継いだ吉田家次(吉田豊後の守)=吉田司家が『相撲』の宗家です。

久留米磯城宮(大善寺玉垂宮)に居た『垂仁天皇』に、傍用人達の殉死の代わりに、埴輪を埋める事を提言した、相撲で有名な『野見宿祢』は土師氏であります。

 

阿蘇氏とは、

わたくしは、『阿蘇』の解釈を『阿』は『亜・吾』(自分・我々)、『蘇』は『蘇の國』(蘇の國から来た)と、解釈しています。

 

『蘇』とは、中国の歴史では、『周』の時代の河南省『温県』(BC1100~BC650年頃)の事で、温(蘇)県には、古来温泉があったと謂われ、BC650年頃に、蘇(温)から玉名~天草~熊本~八代に流れ着いた人々が、倭では『温泉』と謂う言葉の最初の使用者と考えられます。(『周』の『太伯』の末裔。の由来と考えています。)

7世紀の『隋書』にも『俀(倭)に阿蘇山あり。』と出ています。

BC650年頃には、大陸から遣って着た人々が居たものと、考えられます。

熊本平野は『瑞穂=水穂の國』と呼んでおり、この人たちが『水稲』を齎しているものと、考えられます。

阿蘇周辺には、温泉が数多く湧出しています。

 

『蘇』とは、奈良時代からの食品『酥』ソの事であろうと、謂われていますが、此れは、『蘇』から遣って来た人々が、乳を煮詰めて作って食していた『酥』ソを、『蘇人』の好みから『蘇』ソと呼んだものと、考えられます。

 

京都~三重の近畿地方には、今でも軒下に、『蘇民将来』(我々の先祖は、蘇の民である。・蘇の民を倭に招き容れた。)掲げる習慣が残っています。本来の『蘇民将来』の起源は熊本~豊後でしょう。

 

熊本には、その後、BC473年頃『呉』(春秋時代)の王族の『姫』氏、BC334年頃『越』の王族の『熊』氏、BC223年頃『楚』の宰相『屈原』が、洞庭湖に注ぐ汨羅江ベキラカワへ投身自殺したのを偲ぶ、5月の節句『ちまき』の行事。の風習が伝わっており、

 

佐賀県には、BC210年頃『秦』の『徐福』一行が遣って来て、静岡県から関東地方まで『徐福』伝承を残しています。

 

宮崎県串間市~西都原には、BC111年頃『秦』に繋がる『南粤』ナンエツ王族の『多』氏が、翡翠で出来た『玉壁』を持って雲南省~海南島から遣って着ています。

そして、AD57年に後漢初代の光武帝(劉秀)から、『漢委奴國王』カンノイドコクオウと刻印の金印が、倭に贈られて、糸島(志賀島)から発見されています。

 

『多氏』は『大己貴命=宇摩志阿斯訶備比古遅神(國引き神話より、『倭國の乱』を収めるべく、韓半島から招聘された人とも想われます。)→宇摩志→馬氏→司馬氏(晋の王族)』に繋がっているとも、推測されます。

 

宮崎県都農町に在ります日向國一の宮『都農神社』では、『大己貴命』を祀っており、素戔嗚尊(崇神天皇=息長氏)が新羅から連れてきた人達が大暴れをするのですが、ホツマツタエに依りますと『大己貴命』は、『初代大物主』に為って、乱を収める役を仰せ使っています。

 

奈良県に在ります大和国の一の宮『大神神社』オオミワジンシャでは、『大物主大神』即ち『大己貴命』を祀っています。

 

『大神氏』オオガは『阿蘇氏』です。本貫地は、豊後日出町大神です。日出町『藤原』地区と、隣り合わせです。後々の『木下家』が、徳川家康から『日出藩』として、拝領されます。

 

『大己貴命』と、『大国主命』を、同一人物である。と、混同している人が多くいらっしゃいますが、ホツマツタエに依りますと『大己貴命』(大黒様・佐太大神・カルの君・田中神・日隈君・顕國玉・初代大物主・八重垣の臣)と、タケコ(宗像三女人の長女です)の間での子が『大国主命』(恵比寿様・事代主神・二代目大物主・倭大國魂)と、述べられています。

 

この事を信じますと、『大国主命』は早岐(西宮・広田宮)でウガヤフキアエズ=開化=住吉神から育てられた『蛭子』(男性)の事であります。

後に磯城=城島の大善寺『玉垂宮』に、出雲より遣って来た『高姫』(記紀では、『大己貴命』と『多祁理比賣命』の間に産まれた『下照姫』とされています。)とか、『玉依姫』(『孝元天皇』との間で『崇神』を生んだ後に、『開化天皇』の妃になっています。モンゴル方面の風習では、よくあることです。『記・紀』では伊香色謎命・伊迦賀色許賣命と、伏せられています。)と一緒に暮らしています。

 

出雲の『大己貴命』の元へ遣わされた『事代主神』とは、『蛭子尊』(恵比寿)であった事が理解できます。『記・紀』では『事代主神』の正体が隠されています。

 

『大国主命=蛭子尊』は、タカキネ(7代目高躬結び神・日田の耶蘇杵の子)の娘『ミホツ姫』を娶って、『子守尊』(別名水分神・第三代大物主)を儲けています。

 

しかしながら、ホツマツタエでは、『蛭子』は『伊弉諾尊』と『伊弉冉尊』の第1子で、『アマテル』の前子と述べられ、『稚姫』『下照姫』『高照姫』と別名があり、女性と判断されています。

 

わたくしの判断では、金折=住吉神=開化天皇が、長崎県早岐で育てた『蛭子』は『男性』であり、磯城=城島の瑞垣宮『玉垂宮』で、出雲から帰って着た『高姫=下照姫=ミホツ姫』と結婚をしたものと考えられます。

 

『蛭子尊』と『美保津姫』は、『出雲』の傍の島根県松江市美保関町の『美保神社』で、『事代主神』=『えびす神』の総本宮として祀られています。

『出雲大社』の『大己貴命』が西に向かって鎮座されていますのは、『倭』が九州に在ったからか、出身地の中国大陸に想いを馳せていたものと考えられます。

 

 

この『王』(多氏)(『大己貴命』の先祖)が、久留米磯城宮に居た崇神天皇が名乗った本当の神武天皇(カムヤマトイワレビコ)であろう。と考えています。その兄が、『五瀬の命』で、宮崎県五ヶ瀬町に痕跡を残しています。

阿曾『豊玉彦』の娘であります、『豊玉姫』は宮崎県の鵜戸神宮でウガヤフキアエズ=住吉神=開化天皇(稚倭根子日子大毘毘命)を産み、『豊玉姫』は『祖母山』に、『稚倭根子日子』は阿蘇五岳の『根子岳』に痕跡を残しています。

 

神武天皇とは、

高良玉垂宮神秘書では、『モリヤ山の神を守る大臣オトド』と書かれています。『モリヤ山』とは、イスラエルの『モリヤ山』の修行者が匪ヒを担いで山に登った。『修験の山』との伝承があります。確か、長野県『善光寺』の近くにも『モリヤ山』が在った。と記憶しています。

 

※、《追補》2021年4月2日

ウィキペディアで、『神武天皇』を開きましたら、別名(諱)イミナが『彦火火出見』と出ていました。驚きました。

久留米高良山玉垂宮下宮で祭られています『孝元』=『日高彦穂穂出見尊』が『神武天皇』の正体でした。記・紀では、孝元天皇のとされています、崇神天皇が『神武天皇』を名乗った事が理解できました。

ホツマ伝の解釈によりますと、『崇神』の実父は『開花天皇』ではなく、『孝元天皇』(母親は玉依姫=豊玉姫の姪)であります。

父の名を息子が名乗った。だけの事でありました。つまり、古事記・日本書紀で出てくる『神武天皇』(神日本磐余彦火火出見尊)とは、崇神天皇が親父の孝元天皇(日高彦穂穂出見尊)の名前を名乗った。と謂うことです。

 

勉強不足で申し訳ありません。

 

 

AD207年頃阿蘇(豊香島→豊鹿島)を中心に倭(九州~四国~山陰・北陸)を統括していたのが、息長氏(海南島賀茂)の健磐龍命=豊玉彦=記紀では武甕槌命・建御雷男神と、その息子、賀茂建角身命=速瓶玉命=八咫烏です。(それ以前は、白氏=白山姫一族が治めて居た。と、考えられます。)

如何謂う経緯で『大=多(己貴命)』家の上に『息長』家が、奪タツようになったのかは不明です。(大型の帆船を幾艘も所有して、海上貿易を牛耳っていたものと考えられます。)

 

 

『菅原道真』は、延喜3年(903年2月25日59歳)に太宰府で亡くなって、榎寺(安楽寺)に埋葬した。と報告した道真・※白太夫一行は、船で鹿児島川内市東郷町藤川に逃れ、其処で、京都から妻子を呼び生涯を全うしている。ものと考えています。

 

その根拠は、

『道真』の太宰府での滞在期間が、(逃亡の期間を差し引いて考えると、)余りにも短くて、太宰府にては亡くなってはおらず、此れは太宰府赴任から、時間をかけずに白太夫と伴に薩摩川内の藤川へ移動しているもの。と考えることが自然に想われます。(それとも、着任後に暗殺された?)

藤川には、梅鉢を京都から持って来た側近の『白太夫』シラダイユウの墓があります。

 

  • 白太夫は、三重県伊勢神宮外宮の神官を務めた渡会ワタライ(地区)の『春彦』の事と謂われており、道真の安否を気遣い京都から『梅鉢』を持って太宰府に遣って来た人物で、都から飛んできた『飛梅』の由来の人。道真の霊を守ったとの伝承があります。

 

一緒に藤川へ遣って着て居るものと、考えられます。

 

菅原道真については、宮原誠一氏のブログ『神社見聞牒』No53・古川清久氏のブログ『新ひぼろぎ逍遥』603をご覧ください。

勉強になります。

 

《追伸》

ジョン・グラムの音楽に拍手を送ります。

 

 

 

 

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‘’正田のばあさんは、気が狂った‘’の解釈を考察しました。今上天皇は息長氏を受け継いでいる。と、考えられます。

2020-08-25 | 古代史

本日は、皇統の柱と為った、息長氏(秋永氏)が今日迄続いているのか。を、わたくしの推測と、洞察で考えてみたいと思います。

 

わたくしのブログでは、南朝第98代長慶天皇(1343年~1394年)は、朝倉市須川の黒巖山クロイワヤマに葬られたであろう。と述べています。現在も、菊池氏流の星野耕一氏が代々守っておられます。(第8代星野胤忠タネタダが埋葬し、現在35軒近くの星野氏があります。)

 

戦国時代の関ヶ原合戦は有名で、一般の研究者の注目が集まっていますが、関ヶ原合戦以前の、大きな南北朝の戦いの『大保原合戦』(1359年7月から8月29日)を知っている人は、殆んどいません。

 

久留米市宮の神~小郡市大保~大刀洗町に架けて、北朝軍6万・南朝軍4万で死闘を繰り広げています。

 

後醍醐ゴダイコ天皇は、7歳の懐良カネヨシ親王(1381年八女市矢部で崩。日田市の『牧原マキバルの戦い』で死亡し、日田市琴平に在ります普門寺※=朝倉に在ります真言宗『普門寺』に繋がっています。に、『菊池武重』=第13代菊池家当主と共に埋葬されています。)を征西大将軍に任じ、延元元年1336年に、四国の宇都宮氏経由で、阿蘇惟時や菊池武光=第15代菊池家当主=武重の弟の所謂、菊池氏一族に託します。

 

※、日田市琴平町に在ります『普門寺』は、応保2年(1162年)『大蔵永宗』が創建。開山をしたのは、千三百数十年代の『笑厳和尚』(1376年没)と伝わり、33回忌の応永16年(1409年)に『笑厳和尚坐像』が作られました。現在は日田市北友田光岡に在ります、『岳林寺』(足利尊氏の命で創建(1299~1342年頃)の勅願寺です。臨済宗妙心寺派。)の郷土資料館文化財収蔵庫に展示されています

我々歴史研究者が考えなければならない事は、全国各地で南北朝の争いがおきますが、何故、日田の場所で『大蔵氏』(最初は『後醍醐天皇』に味方しましたが、後に『足利尊氏』に寝返りをしました。)と、『懐良親王』『菊池武重』が山の中で争ったのか。です。日田は古代から歴史ある重要地点(豊受大神一族・大山祇命・橘氏・景行天皇)であります。正当皇統である後醍醐天皇は、日田(但馬の源)の古代の歴史を知っていた。ものと考えられます。

 

 

足利尊氏(西暦325年頃に若狭地方に遣って着た、鮮卑族拓跋賀の末裔と考えられます。)が、九州探題に就けた少弐頼尚・少弐直資父子、大友氏時、城井冬綱ら、6万に対して、懐良親王、菊池氏の菊池武光・武政・武信・武明、星野氏、赤星武貫、黒木氏、草野氏、宇都宮隆房、西郷氏※、蒲池氏等4万で迎え撃ちます。

 

双方で20000名以上の死傷者を出した大戦でした。南朝側の勝利で終結し、13年程は足利尊氏の影響から、逃れます。

しかし、1371年足利幕府は※今川貞世(了俊)を九州探題に任じ、周防の※大内義弘が九州制圧に加担し、菊池武光・西郷氏・黒木氏・星野氏・阿蘇氏・蒲池氏・草野氏等軍を破って、1392年太宰府を取り戻します。

 

※、西郷氏は、秋永氏の流で、家紋が一緒の『丸に、違い鷹羽』です。本貫地は、佐賀県神埼市横武西郷と想われます。以前に崇神天皇=神武天皇が『吉野ヶ里』を攻め落し、留まり即位したと考えられます、『柏原』の傍近くです。以前には、此処『柏原』に『寺』と『神社』が昭和迄在りましたが、現在は『公民館』のみが在ります。祭祀の子孫は、現在は東京で『弁護士』を成されています。

『柏原』は、奈良県ではありません。西郷氏は菊池氏一族に頼り、島津氏に拾われて下級武士として、正当皇統の南朝の誇りを背負って、幕末まで薩摩で過ごします。

幕末時に、西郷隆盛に会した土佐藩士が、『南朝』が西郷隆盛の泣き所と、『長州藩士』に教えて、「一緒に南朝の天皇を新しく擁立しょう。」と提案したことで、『薩長連合』が誕生します。以後軍人が、天皇の『統帥権』を盾に、大東亜戦争まで闊歩します。

 

※、今川氏の発祥は、福岡県うきは市今川と考えられます。若狭から来た禿髪氏の足利氏流で家紋は『丸に白二引』です。此処うきは市は倭(豊受大神=高躬結び神一族)の本貫中心地です。禿髪氏=八幡神=秦氏が、『倭』の兄貴分の『俀』として、合体した事が解ります。今川氏は此処から派生し、本州へ移動している。と考えています。

英彦山神社の神紋『二枚鷹羽丸内の二引』から想像されますのは、阿蘇氏及び高躬神の領地に今川氏=足利氏等が、流入したものと考えられます。高良玉垂宮神秘書の142条には、『彦権現は、異国人で、敵神なり』と述べて、『諸国彦権現をツオモイハラ?とした。高良の彦権現はモツハラの手先神で、17代の仁徳天皇9月13日にその山に帰った』と、記入されています。

 

※、大内氏は、スサノオ=崇神が、新羅から遣って来た時に連れてきた人達で、本貫地は、大分県杵築市大内と考えています。此処は、アマテル=饒速日命=ホアカリが、『北の局』通称は『大内宮』を置いた場所で、此処で『天穂日之命』と『宗像三女神タケコ・タキコ・タナコ』が生まれています。『宗像三女神』の『宗像』とは、宗像氏の『アヤコ』が『スサノオの三姉妹』を宇佐『アカルの宮』で育てた事で名付けられた。とホツマ伝は述べています。宗像氏の発祥は、大分市宗方でありましょう。後に福岡県宗像市→対馬(宗氏)に移動したと思われます。

 

杵築には、アマテルとスサノオが誓約をしたと考えられます八坂川と、真名井が、近くにあります。

亦、景行天皇に殺されたスサノオ=崇神の墓は杵築市の大熊山に造られました。

大内氏は後に周防へ移動します。大伴氏=大友氏とも縁があるものと、考えています。

 

わたくしが、久留米市篠山に住んでいました小学5~6年生の頃(昭和33年~34年頃)の記憶に残る、父(明治41年生まれ)が母(大正元年生まれ)に語っていた会話を思い出します。

話の内容は、或る会合で知り合いになった人物が、「自分は、明治天皇の御落胤である。」と謂うので、証拠を求めると、菊の紋の飾りが付いた短刀を後日こっそりと見せてくれた。相で有ります。

父は、『高柳』何某と、述べていたのを覚えています。

わたくしは、子供ながらに、天皇は東京に居られる方なのに、そのお子様が九州に居られる筈がない。有り得ない事であろう。と、長年思っておりましたが、

最近ネットで、大隈重信の築地私邸(築地梁山泊と揶揄された)に集っていた、伊藤博文の断っての希望で、娘であります『大隈熊子』(1863年=文久3年~1933年=昭和8年)が、皇居に召され、明治天皇の子を儲けたのではないか。と、近代史研究者に猜疑されているのに驚きました。

明治天皇の皇后は、一条美子ハルコ(昭憲皇太?后=二十歳迄京都ですごしています。)で有りますが、天皇は維新になると突然に京都から東京へ遷都し、天皇と一緒に過ごした事はなく、従って、一条美子との子は無く、明治天皇は、7人の側室を、生涯に持ったとされ、現在、宮内庁から発表されておりますのが、次の5人です。

権大納言 葉室長順の次女 『葉室光子』 男子を死産。本人も4日後に死亡。

大納言 橋本実麗の娘 『橋本夏子』 女子を死産。本人もその日に死亡。

権中納言 柳原光愛の次女 『柳原愛子ナルコ』 2男1女を儲けますが、男子一人のみ育ち、大正天皇に為ります。

右近衛権中将 園基祥の次女 『園祥子サチコ』 2男6女を儲けますが、4女のみ育ちます。(成人した昌子内親王は、竹田恒泰さんの曾祖母になります。) 

右近衛権少将 千種有任の長女 『千種任子コトコ』 2女を儲けますが、二人とも夭逝します。

 

以上が、明らかになっています明治天皇の側室5名が産んだとされる、5男10女(無事に育ったのは、男子1人女子4人)です。

しかし、二人の側室は伏せられており、内の一人が、『大隈熊子』であった。と、考えられる事になるのであります。

『大隈熊子』は、鍋島佐賀藩上士(砲術長)の家柄(家紋は、古来の天皇家との関係を詮索出来ます『剣花菱』です。皇室に繋がる家柄が良い家紋です。)1863年大隈重信と最初の妻である『美登』との間で、佐賀市で生まれています。

鍋島藩は、江戸時代に陶磁器を、長崎を通じての南蛮貿易で輸出し、財を成し、反射型熔鉱炉で銃・大砲を造り、維新活動家の援助に大きく関わっています。

 

明治4年、熊子8歳の時、祖母の杉本美井子と伴に上京。

1879年(明治12年)17歳の時に、岩手南部家の次男『英麿』(1856年~1910年=明治43年)と結婚をし、『英麿』は大隈家の養子になります。

明治35年(1902年)に『英麿』の保証人被りの理由で、『大隈熊子』と離縁・養子縁組の解除をしますが、二人の間には子が無かった。と謂われています。

『大隈熊子』は、長年書いていた日記の墨を水に浸して、1933年(昭和8年)69歳で亡くなります。

『大隈熊子』は、聡明な、教養と見識を身に着けた、謙虚な思慮深い他人に配慮のある、日本女性の鏡であると、一般に評されています。

男であれば、父である『大隈重信』を超えると、重信の腹心であった犬養毅(1855年=安政2年~1932年=昭和7年)は述べています。

『大隈重信』と2度目の妻で有ります『三枝綾子』には、実子は無く、養子を儲けています。

『大隈重信』の血流は途絶えていると思われていましたが、

もし、わたくしの父が出会った『高柳某氏』が、熊子が産んだ明治天皇の子であれば、『大隈重信』の血流が残って居る可能性があります。

高柳何某の行方を調査の必要を感じます。

三養基郡みやき町には、『高柳大塚古墳』が在ります。亦、佐賀市水ヶ江2丁目大隈重信生家近くの本庄町に『高柳』の小字名があり、『高柳公民館』も在ります。大隈家・杉本家との何かの関係を詮索されます。

 

近代史研究者の間では、明治天皇は、睦仁ではなくて、伊藤博文によってすり替えられた周防熊毛郡田布施町出身の『大室寅之助』である。『大室寅之助』には南朝の血は這入っていない。(研究発表者は故、加島曻氏です。)説が大半の研究者の賛同を得ています。

これが事実であれば、息長氏の血統は『孝明天皇』で絶えている事になります。

土佐藩出身で、第3代宮内大臣を11年間(最長)務め、昭和14年に95歳で亡くなった、『田中光顕ミツアキ』は、昭和4年三浦芳聖ヨシマサ氏(後醍醐天皇の正統南朝、後胤である。と主張した人)に、「もう、知っているのは、西園寺公と私だけ、実は、明治天皇は睦仁殿下には有らせません」と述べています。

皇統が幕末の動乱で絶えた事は、老いた『田中光顕』には、どうしても誰かに伝えて、死にたかった。と、思われます。

三浦芳聖氏には、「大室寅之助は南朝の末裔である。」と述べています。この件は、噓をついたものと考えられます。

歴史の真実は、長州藩が薩摩と同盟を結ぶ為に皆に「南朝の末裔である。」と、噓を謂ったものでしょう。

 

1909年、伊藤博文はハルピンで、朝鮮人の安重根にピストルで暗殺されます。

安重根は、取り調べに対して、15か条の殺害に至った経緯を申し述べますが、その14番目の理由は、次のように述べています。

「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知テオリマス。」

つまり、

「孝明天皇を伊藤博文が殺した。その事は、多くの韓国人は知っていますよ。」と述べています。

また、伊藤博文の死後、明治初期築地大隈邸に出入りしていた渋沢栄一によって、伊藤の幕末時に於ける暗殺者稼業が暴露されています。

 

多分、孝明天皇とその子、睦仁親王は、伊藤博文が殺したものと、思われます。そして、田布施(被差別地区)の大室寅之助が南朝の末裔として、仕立てられたのです。

理由は、人々に余り知られていない顔で有った。と、考えられます。元々、長州藩は、『南朝の末裔』を囲ってなんかいなかった。と、感じられます。御庭番(足軽)の伊藤博文が命じられ、困った挙句の果て探し出された人物が、大室寅之助であったものと思われます。

伊藤博文は、松下村塾で学び、頭がよく仕事が出来、信頼して任せられる職人として、長州藩に仕えますが、維新になると、築地大隈邸で、井上馨や渋沢栄一等のその後の日本の国家像を夢見、議論を戦わします。

以後、多くの傑物が去り、1885年(明治18年)初代内閣総理大臣を務めます。

大隈重信は、明治14年伊藤博文から政策をめぐって疎まれ下野し、立憲改進党を立党、東京専門学校(早稲田大学の前身)を明治15年設立。

明治20年、不平等条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣が辞意を表し、大隈を後任に指名し、明治21年大隈重信が外務大臣になります。

この時、大隈重信と、伊藤博文は再会接触し、旧交を混えたとされています。

その後、明治22年10月18日、国家主義者『来島恒喜』の手榴弾で、『大隈重信』は負傷して、右足を手術で切断します。

 

わたくしが、知りたい事は、二点、大隈熊子がいつの時期に皇居に召されて、明治天皇の子を産んだか、如何か、で有ります。産んだので有れば宮内庁は分かっているでしょうが、発表されないでしょう。

高柳何某を調べる他はないでしょう。

もう一点は、

何故、伊藤博文が、大隈熊子を皇居に召す事を大隈重信に頼んだか。であります。

一つの考え方は、明治天皇(大室寅之助)が、見初めて伊藤博文に頼んだ。明治天皇は、無類の女好きで有った。と、噂があります。

もう一つの考え方は、伊藤博文が花菱紋の家柄である大隈重信の娘を、如何しても皇居に入れ、息長氏の血を明治天皇に入れたかった為。

とも考える事ができます。佐賀県多久市納所地区は10軒の秋永氏(息長氏)が在り、全家が『花菱紋』です。

国民には知られずに、息長氏の血を天皇家に入れ、過去の過ち(天皇のすり替え)を正すのは、第3代宮内大臣『田中光顕』をはじめ、歴代の宮内大臣の悲願でありました。

昭和天皇の時代の戦後に、宮内庁長官初代の田島道治は、民間から登用され4年程任官(1949年~1953年)し、宇佐美毅(1953年~1978年任官)に譲ります。

宇佐美を登用推薦したのは、田島であります。

昭和天皇の第1皇子であります『明仁』殿下の配偶者を探すのに、『学習院』や『聖心女子大』に推薦者を求め、皇統を戻す事を第一に、チャンスを覗っていたものと思われます。そして、白羽の矢が立ったのが、『正田美智子』さん。であります。

軽井沢のテニスコートでの出会いは、作られた出会い。と考えられます。

正田美智子さんは、一般には、平民から皇室へ赴いた。と考えられていますが、わたくしの想像では、正当皇統である息長氏の血流を受けているお方と、思っております。

根拠は、御母堂様の正田富美子(1909年明治42年生まれ~1988年昭和63年没。78歳の生涯)です。

正田富美子さんは、正田英三郎(正田家は代々の群馬県の醤油屋で、現在の日清製粉に繋がっています。)に嫁ぐ前の姓は、佐賀県多久市出身の上海帰りの副島富美(父は副島綱雄 母は不詳とされ、隠されています。)とされています。

しかし、多久市で味噌家業を営む副島家によると、副島綱雄が上海に行った。と謂うのは、認めていますが、正田富美が副島富美であることに、口を閉ざしています。

副島家によると、正田美智子さまと、皇太子明仁殿下の婚約が発表される頃に、一人の男が副島家を訪れて、副島綱雄の戸籍を買い求めた由。驚いて断ると、男は其の儘立ち去った。との事。

そして、婚約発表のインタビューの席での、正田富美子さんのコメントが波紋を呼び、国民から、『平民が、皇室に対して失礼な言質を使った。とんでもない事である。』と、非難されます。

内容は、宮内庁からの(美智子さまを皇室へ迎えたい)使者へ、「そちら様の都合ばかりおっしゃっても、こちらにもこちらの都合もあります。と、こちらの思いも謂ったのです。」との趣旨だった。と記憶しています。

わたくしの想像では、

一連の人物は、前宮内庁長官であった田島道治の腹心の部下であった、東宮大夫の『鈴木菊男』(1906年明治36年~1997年平成9年)の行動であろう。と、思っています。

 

正田富美子さんの正体は、多久市納所にある。秋永氏集落出身の富美さん。ではなかろうか。と猜疑しています。

 

田島道治は、富美の血統(花菱紋)に大隈家(花菱紋)を重ね、皇統を戻そうとしたのでは、ないでしょうか。{宮内庁は、花菱紋が皇統に繋がる家柄である事を知っていた。と、考えられます。因みに、桐紋は、後醍醐天皇が、清和源氏(若狭地方に遣って来た禿髪氏は、倭=九州の多賀へ移動して、秦氏=幡氏→八幡神を豊前・豊後に持ち込み、多くの神社の祭神のすり替えを行いました。)の流れである足利尊氏に下賜したのが、始まりです。菊花紋は後鳥羽天皇が、スキタイ、シベリアツングース系族の『菊紋金貨』を採用しました。}

一連の工夫策で、浮上したのが、秋永氏地区の近くに在った味噌屋の副島家です。副島家は、佐賀では名門跡であり、正田家とは、麹菌で繋げる事が出来、副島綱雄と謂う人物が上海へ渡っており、帰国子女と謂う事で、都合がよい。しかし、母親の名を出すと、噓がばれてしまうので、名前を伏せざるを得ない。との訳で名前の公表を伏せます。

正田家は、300年前まで遡りの調査を進めますが、副島綱雄の妻は隠され、マスコミが指摘しますと、宮内庁長官の宇佐美は『ちゃんと調査をすべきで有った。』と、反省の弁を述べて、事を収めています。

正田富美子は、亡くなる3年前の1985年(昭和60年)3月4日、雑誌編集者の沢田 浩氏のインタビューに、次のように答えています。

 

『婚約から成婚への過程で受けてきた‘’ひどいこと‘’とは、どんな出来事があったのでしょうか。』の質問に対して、

 

「それはお話ししたくありません。ごめんなさい。その当時の日記だって、もう読み返したくないんです。」

「今もちゃんと残してありますよ。あの頃のものもね。」

「そんな話しをどこからかお聞きになって、私の体験したことを本にしないかと謂う依頼は何回もありました。」

「でも、それはごめんだわ。あんなにつらい思いは、絶対に人様に知っていただきたくありません。」

「でも、もし、私が当時の事をありのままに書き記したり、また明かしたりしたら、そこに出てくる人たちは、皆、こうおっしゃるでしょうね。‘’正田のばあさんは、気が狂った‘’とね。・・・」

「もちろん一番ご迷惑がかかるのは、皇太子殿下で、妃殿下でいらっしゃいます。だから、これまでのことは、わたしが静かに胸の中にしまっておけばいいことです。美智子も親の子ですから、そういう私の気持ちは知っていると思います。」

 

 

「いろいろなことで苦しみました。」

「もし、わたしが日記を公表すれば、少なくとも100人以上の方にご迷惑がかかると思います。そのうち50人以上の方が、すでにお亡くなりになりました。でも健在の方は、きっとお困りになるでしょう。

 

わたくしは、

以上の内容から、正田富美子の娘美智子への幸せを願う想い。と、かけ離れた当時の宮内庁関係者の熱心な正田家への説得が、多くの人を入れ替えて奔走し行われて、難航していたものと思われます。

 

関係者の一人であります、東宮大夫の鈴木菊男氏は、田島道治や宇佐美毅に仕えて、誠実な真面目な信頼できる性格の良い持ち主で有ったものと思われます。

 

説得関係者の誰かが、タブーであります、明治維新で行われた皇統が絶えた事を述べ、正統皇統の血である富美子さんの血を受け継ぐ、美智子さんを、皇室に入れて皇統を正しくする事に協力を仰いだ。のかも知れません。

その言葉を聞いた富美子は自分が正統皇統である事に驚き、あの、‘’正田のばあさんは、気が狂った‘’の言葉が出たのでしょう。

 

わたくしの、考えています事が本当であれば、今上天皇(徳仁)は息長氏の皇統を有しており、長年の宮内大臣から宮内庁長官、そして、その関係者の夢はかなっている。ものと、思っています。

 

田島道治前長官・宇佐美毅長官・小泉信三参与・鈴木菊男大夫・黒木従達侍従長・瓜生順良次長等の職員の活躍に敬意を表したいと思います。

 

尚、テレビで活躍の『竹田恒泰』さんは、古代、豊後ゆふいんから若狭に移動した『建田背』タケダセに繋がる阿蘇氏であります。

 

(若狭湾には、『阿蘇海』が在ります。 

亦、『竹田城』があります兵庫県朝来郡和田山には、勅使門を持った神社但馬國一の宮『粟鹿神社』・『赤淵神社』があり、『宇佐神宮』・『薦神社』の勅使門と繋がっており、別府の『豊岡』が但馬タジマ→タンバの『豊岡』に名前が移動しています。 

 

タジマ・タンバの発祥地は豊受大神の本拠地であります、大分県日田市『田島』=大原八幡宮の在る地=ダンワラ日高遺跡の傍です。 

相でした。兵庫県但馬には『日高』郡があり日田市『日高』の名前も移動しています。 

 

ゆふいんに居た『アマテル=火明かり=饒速日』と、随行の一行は、一旦は、若狭但馬~播磨地方へ『天降り』しましたが、その後に倭ゐ=九州の多賀=田川へ、鉄族の武器を持った拓跋氏=物部氏=秦・漢人を引き連れ戻ってきたものと、考えられます。

 

『アマテル=火明かり=饒速日』の右の羽でありました天児屋根=景行天皇=猿田彦=長髄彦は、即位2年、『播磨稲日大郎女』皇女を娶って大碓皇子・小碓皇子を儲けています。

即位4年、大分県日田の『美濃』に行幸して、八坂入媛を娶って稚足彦=成務天皇を儲けています。日田・朝倉の『鵜飼い』の風習が岐阜美濃の『鵜飼い』に繋がります。日田の『祇園祭』は有名です。

 

筑豊を主とする北部九州遺跡には、鉄鏃の出土が多くあります。 

 

『丹波』タンバの源元は大分県日田~ゆふいん地方である。と主張しています。わたくしの考えを補完する。ものであります。)

 

息長氏と表裏一体の長い歴史があり、アマテル=火明かり=饒速日、由来の銘門跡です。

わたくしの妻の、母の実家は武田氏(元、福岡市長の『進藤一馬』氏の時に、助役を弟の『武田隆輔』が務めています。)です。

ブログのきっかけをつくった雲神社の『秋永勝彦』氏の家系図にも若狭の武田氏と行動を共にして、豊後に遣って着ており、武田(竹田)と息長(秋永)は皇統です。

つまり、『竹田恒泰』さんは明治天皇に関係なくても、古くからの皇統です。

おまけに、父親の『恆和』さんの顔は『秋永勝彦』さん等の顔とそっくり似ています。

 

 

 

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倭イと、俀タイの違いを考察しました。

2020-06-01 | 古代史

『倭の五王』については、『宋書』にて、讃・珍・済・興・武と、記述を成され、西暦421年(宋)から502年(梁)迄、倭王の記述が為されており、古事記・日本書紀での倭王との整合が出来なくて、研究者の頭を悩ましています。

 

宋書に於いては、

讃と珍は兄弟で、珍と済の関係は述べられておらず、済の子が、興と武の兄弟である。

とされ、『宋書』孝武帝紀 倭国伝では、大明6年(462年)3月、『済』の世次子『興』を『安東将軍倭国王』に任じた。

(477年)『興』が没して弟の『武』が自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」(宋書・夷蛮伝)と称した。

と、記入されています。

『讃・珍・済・興・武』とは、中国的な名前の表記であり、わたくしは、中国の歴史を勉強してみる事にしました。

 

 

中国では、魏・呉・蜀の三国時代は、

『魏』に於いては、220年から265年の45年間で終わり、265年に司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて、『晋』を興します。

280年に『呉』を滅して、三国時代は終わります。

 

『晋』は420年迄(155年間)続くのですが、317年に、『東晋』と、『五胡十六國』に分かれます。317年以前を『西晋』と呼びます。

 

『東晋』時代の華北(中原)は、『五胡十六國時代』と、称されています。

 

『五胡』とは、五種類の胡人(西アジアにルーツを持つ遊牧民)の事で、

キョウド『匈奴』・ケツ『羯』・センピ『鮮卑』(北アジア系)・キョウ『羌』(西アジア系)・テイ『氐』を謂います。

言語・生活習慣・風俗で、アルタイ系・トルコ系・ペルシャ系・モンゴル系で、呼び名が異なったものと考えられます。ヨーロッパ人の総称では、スキタイとも呼ばれます。

 

前燕・後燕・南燕・西秦・南涼を『鮮卑族』が、夏・前趙・北涼を『匈奴族』が、『羯族』は後趙を、『羌族』は後秦を、『氐族』は、後涼・前秦・成漢を、※『漢族』が前涼・西涼・北燕を起てます。

 

つまり、黄河中~下流域の華北(河北・山西・山東・河南・北京・天津)の洛陽を含む広大な漢族の『中原』一帯は、多くの遊牧民族の『胡人で溢れていた』と謂うことです。

 

※『漢族=漢人=華夏族』とは、遊牧民族が遊牧を止めて、中原に定着した人達を指しています。人種が違う訳ではありません。現在では、民族意識の高まりで、『炎帝・黄帝』の子孫が、漢民族の元である。と、歴史を遡りの拡大解釈をされています。

 

『東晋』は、420年に劉裕に禅譲され、『宋』が建てられます。

 

一方の『五胡十六國』は、439年北魏(386年~534年)鮮卑族の拓跋氏に依って、最後の『北涼』が滅ぼされ、『北魏』に統一されます。

 

わたくしは、此の鮮卑族の拓跋タクバツ氏(漢風姓では『元氏』であるので、『北魏』は『元魏』とも呼ばれます。→『源氏』の最初?)が、応神天皇期に倭に遣って来ている。と、考えています。

 

『源氏ゲンジ』の語源は、

一般には、414年南涼が西秦に滅ぼされ、北魏に亡命したトクハツ禿髪ハキョウ破羌が、北魏第3代太武帝(拓跋氏)から、

「卿興朕源同」(拓跋タクバツ氏と、禿髪トクハツ氏は元=源を同じくする)

と謂うので、『源ミナモト』氏の姓を賜り、名を『賀』と、改めさせられた。と、謂う事になっています。此れが、『源氏ゲンジ』の由来とされています。

 

此の禿髪破羌トクハツハキョウ(源賀ゲンガ)の息子が、トクハツアマイ『禿髪阿毎』で、『随書』に書かれています、『俀王姓阿毎』の事であろう。と考えられるのです。

つまり、応神期に遣って来た『禿髪阿毎』又は、『阿毎』の息子達が、「倭王になっている。」と、考えられる事です。

 

わたくしは、応神期~仁徳期で、可能性が有ります人物を考察致しました。可能性があります人物は、『稚野毛二派ワカノケノフタマタノ皇子』(記紀では、父は応神、母は息長真若中比賣とされています)です。ヲホド袁本抒(継体天皇)の4代前の高祖父に為ります。

 

応神天皇については、

本当の応神は、神功皇后の息子の品陀和気命ではなく、崇神(神武)の孫の宇佐押人が、豊前の田川(当時は多賀=鷹羽=西アジア系渡来人=北魏からの渡来者が居たと考えられます。継体期に彦山を開山した僧『善正』も北魏から遣って来ています。)で即位。と、考えています。

田川の帝階八幡神社で、『応神』が即位した。との伝承が在ります。亦、香春町宮園の畑から出土の石棺は、子供用の石棺と『後漢鏡』を有して出土した大人用の石棺が、香春町役場の敷地に展示されており、神功皇后と品陀和気命の墳墓とも、考えられます。(宇佐公康氏の伝承本に拠ります)

 

応神天皇期(宇佐押人)は、中国(東晋・北魏・宋)からの、文化(漢字・儒教・施薬・農業土木・養蚕・機織り技術)の導入を進め、弓月君(後漢の『蜀』の太守でありました、高躬タカミ結び神の一族の倭=井=井真成が有名。の末裔を意味します。南方系渡来の西アジア系月氏です。大山祇・橘氏・日野氏一族は、日田~うきは市~朝倉に展開しています。120県の民を朝鮮半島経由で受け入れています。)・阿知使主(ヤマトノアヤ東漢の祖で、東漢駒子=坂上駒子が朝倉で崇峻天皇=泊瀬部若雀天皇を殺害します。泊瀬部とは、朝倉の山田・長田に在る筑後川の急流瀬の事で、恵蘇の宿が在ります。)・ワニキシ和邇吉師(ワニ王仁の事で、佐賀県神埼の鰐神社で祀られています)・アチキ阿直岐(田川の菟道稚郎子の師となった人)等々を招聘しています。

亦、任那府を通じての百済王への働きかけは、第17代アカオウ阿華王に息子のテンシ腆支=別名は、トキオウ直支王を397年~405年迄、倭で預かります。戦国時代、岐阜の美濃の守護であります土岐氏はトキ直支王の末裔であろう。と、考えています。

美濃の名も、鵜飼も日田が源で有ります。

 

日本書紀では、応神(宇佐押人は、スサノオ=崇神の孫です。)は神功皇后摂政即位13年に武内宿禰命に連れられて、角鹿(敦賀)のケヒ笥飯大神に挨拶に行った事にされています。(ケヒ笥飯神社で祀られているイザサワケ去来紗別大神とは、新羅皇子の天日鉾=スサノオ=崇神が持っていた、イササノタチ『胆狭浅の太刀』から、スサノオ=崇神の後に、若狭地方を支配している人を意味しています。)

 

応神(宇佐押人)を角鹿へ連れて行ったのは、武内宿禰ではなく、御諸別命(宇佐公康氏の本を信じると、スサノオ=崇神の子です。)で有ったものと、考えられます。日本書紀の改竄か、伝承の混乱と想われます。

 

西暦420年頃に若狭地方に遣って来て、

日田~浮羽から、本州に渡って、近江息長氏となって居た処の息長氏と、

婚姻を結んで権力者と為っていたのが、北魏から遣って来た、トルコ系鮮卑族『禿髪破羌=源賀』と其の息子の『禿髪阿毎』です。

『禿髪阿毎』の息子が『稚野毛二派皇子』です。

 

ワカノ『稚野』とは、『若狭の野』を表します。

ケ『毛』は、『髪の毛の異なる渡来人』を意味します。

フタマタ『二派』の解釈は、『二つの系統=一つ目の系統の『倭イ』は、香春町飛鳥宮の近くには、河内と犀川大坂の地名が在り、『河内宮』と呼ばれていたものと想われます。二つ目の系統『俀タイ』は、敦賀の笥飯宮の去来紗別イザサワケ大神。即ち、スサノオ=崇神の神魂の太刀を持って、若狭を治めていた禿髪破羌=源賀であろう。と、思われます。』を意味します。

 

『禿髪阿毎』には、『禿髪稚野毛二派』・『禿髪ヲホホド意富々抒』・『禿髪ウヒ宇非』・『禿髪ウシ汙斯・亦の名を(毘古)彦主人』の4人の男子を儲けています。

 

『禿髪ウシ汙斯・亦の名は(毘古)彦主人』の子が、『禿髪袁本抒=継体天皇』です。

わたくしには、『禿髪阿毎』が、倭王のオオサザキ大鷦鷯天皇(仁徳)の事であろう。菟道稚郎子(宇佐押人の子)は、自殺に追い込まれた。

『禿髪稚野毛二派皇子』が倭の多賀飛鳥宮に居たリチュウ履中天皇(イザホワケ去来穂別天皇と名付けられ、明らかにトクハツ禿髪氏に入れ替わっている。と考えられます。)の事であろう。と、考えています。

 

近江三国(若狭)に居た『彦主人』の子が『袁本抒エンホンジョ』です。日田の『袁氏=倭氏=豊受大神=阿蘇の息長氏(健磐龍命=豊玉彦)の娘(豊玉姫=欝色謎命)を息子(日高日子火火出見尊=兵主神=孝元天皇の事=崇神の実父で、豊玉姫の姪の玉依姫に産ませた崇神が、神武=彦火火出見尊を名乗る事となった原因です。)の嫁にして、北部九州から若狭~新潟迄を治めた大山祇命一族。』の血が混じったものと思われます。『禿髪稚野毛二派』(履中天皇)の子である、忍坂大中姫オシサカオオナカツヒメを義?弟である允恭インギョウ(雄朝津間稚子宿禰、朝妻は久留米御井町に在り、『曲水宴』の遺跡が出ています。)に嫁がせて、安康(穴穂天皇)・雄略天皇(大泊瀬幼武尊、泊瀬は、筑前朝倉を指しています。)を儲けています。

 

『俀タイ』は、『倭イ』から分かれた若狭地方を治めた豪族と、思われますが、継体時以後は、俀タイが兄貴分で、倭イが弟分。と謂う力関係が、600年の随書から覗えます。(507年から、福井=俀タイの、阿毎氏で有ります処の袁本抒=継体天皇=息長氏の血統があり、武烈王=武寧王から、倭イ王に指名されたものと想われます。

銅鏡が、武寧王から袁本抒(阿毎アマイ氏)に送られています。

随書に書かれています処の、「俀タイ王は『天』を持って兄とし、『日』を弟とする。」の件は、『天』は阿毎アマイ氏の比喩で、『日』は豊受大神一族の比喩表現とも、解釈できます。

 

去来紗別大神(禿髪破羌 拓跋賀)が応神(宇佐押人)の元に現れ、名前の交換を迫ります説話伝承が有りますが、去来紗別イザサワケ大神と応神(宇佐押人)が入れ替わったか、入れ替わらなかったか、如何は不明ですが、当時は数多くの渡来人が各地に移動している途中での混乱状態にあり、伝承にも混乱があります。わたくしは、『禿髪破羌 拓跋賀』が、『応神』(譽田天皇)に為り、入れ替わった。御諸別命は関東に行った。と考えています。

履中天皇(イザホワケ去来穂別天皇=禿髪稚野毛二派皇子と想われます。)の子の『イチベノオシハワケオウ市辺忍歯別王・別名は加須利の君』が、百済國21代『ガイロオウ蓋鹵王(即位455年~475年)』に為ったものと推察される。のです。

 

《その後の考察による訂正》2020年9月14日

420年頃に倭に遣って来た『禿髪破羌=源賀』が応神(3世紀後半~4世紀初め頃)の存在と入れ替わる。と謂う事は、一世紀程の時間軸に無理があり、わたくしの頭を悩ましていました。そこで、もう一度禿髪氏・拓跋氏・慕容氏・乞伏氏の所謂、鮮卑族系図を眺めて、考えてみる事にしました。

『禿髪破羌=源賀』は北朝北魏の第3代太武帝より、拓跋氏と禿髪氏は元は一緒である。と謂う事で、『源賀』を414年頃に拝名しますが、『北魏』を造った初代の拓跋珪(道武帝珪386年~409年)の3世代前の『拓跋賀』(321~325年迄拓跋氏の長)が、325年頃に、俀に遣って着ていた。ものと思われます。

『拓跋賀』が『応神(宇佐押人)』と入れ替わって、福岡県田川郡川崎町『帝階正八幡神社』で即位したもの。と想われます。(応神が即位した。との伝承があります。)その後に禿髪破羌が、若狭に遣って着て、田川へ来た。と、考えられます。『大賀』さんは、『拓跋賀』の末裔と、想われます。『大神オオガ』さんは、阿蘇氏です。『大賀』と『大神』は、ルーツが全く違います。

亦、太武帝長男の拓跋晃(タクバツコウ)と恭皇后(郁久閭イクキュウリョ)の間に生まれた拓跋濬(シュン)=文成帝(440~465年の26歳没とされています。)が、仏教を日本に齎した。と、考えています。

文成帝は、雲崗石窟を造らせた、仏教に熱心な教徒で、英彦山に最初に佛教を齎した、北魏の王子『シン→シュン』とは、拓跋濬=文成帝か、その子と、想われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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倭の由来と、豊受大神の正体。

2020-01-01 | 古代史

中国の三国志記、『魏書』第30巻『東夷伝倭人条項』に記述された『倭』の部分が、日本の事で、中国に於いての『日本』の認識は、『倭』とされています。

 

わたくしは、何故に、当時(後漢・魏・呉・蜀の時代)の中国の人達が『日本人』を『倭人』と呼んだのか?の疑問がいつも付き纏っていました。

 

今日は、此の事を皆様と一緒に考察したいと思います。

 

『倭』は、現在は『ワ』と発音をしていますが、古代史研究家の『内倉武久』さまは、『ヰ=ゐ』と呼ぶべきである。と講演会で述べられており、わたくしも同感で、ブログでは、『倭』は『ゐ』と述べています。

志賀島で出土した金印の刻印『漢委奴国王』の発音は『カンノワノナノコクオウ』ではなくて、『カンノイドコクオウ』又は『カンノイトコクオウ』と読むものと考えられます。

 

中国には、チベット系少数民族の『倭イ族』と呼ばれる人々が、貴州省・四川省・雲南省に、戦乱の結果、散逸していますが、本来は、四川省成都市北40キロにあります、古蜀の長江文明『三星堆サンセイタイ文明』を造った人々であろう。と、中國の研究者に考えられています。

 

わたくしのブログでの、肝は、阿蘇(健磐龍命=豊玉彦)で、豊玉姫=阿蘇津姫を息子(彦穂穂出見尊=兵主神)の嫁に娶って、日田・浮羽に遣って来た、豊受大神の正体であります。阿蘇に来る前は何処に居たのでしょうか?

 

豊受大神は曹操ソウソウの鏡(金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡キンギンサクガンシュリュウモンテツカガミ)を持って、中国大陸から渡って着ている。と考えられ、袁エン氏の親族であろうかと思っています。

 

西暦190年代から210年代に架けての『袁』氏における登場人物は、『袁紹』エンショウ(西暦142年生まれ。『曹操』との、西暦200年『官渡カントの戦』で敗戦した人で、202年病死します。)と、その子長男、『袁譚』エンタン。(西暦205年、南皮で、曹操の子『曹純』に斬首されます。)次男、『袁煕』エンキ。(207年遼東の『公孫康』に、弟の『袁尚』と伴に斬首されます。)三男、『袁尚』エンショウ。(207年遼東の『公孫康』に斬首されます。)です。

 

『袁紹』の202628日死後、『袁譚』と『袁尚』は後継者を巡って骨肉の争いをします。

203年『袁譚』は、『袁煕』と『袁尚』の軍に追い詰められ、苦し紛れに本来の敵であります、『曹操』と同盟を結び、その証として、『袁譚』の娘を、『曹操』の子『曹整』に嫁がせて、縁組を行います。

しかし、直ぐに『曹操』は、『袁譚』の盟約違反を理由に、『袁譚』の娘を離縁させて、『袁譚』の元へ送り返して、再び『曹操』と『袁譚』は対立して、205年戦を行い、南皮で『袁譚』は殺されます。

『袁紹』・『袁譚』・『袁煕』・『袁尚』の人生は中国大陸で完結しており、『倭』に遣って来てはいません。

では、誰が『倭』(日本)に遣って来たのでしょうか。

 

実は、『袁紹』には、姉妹がおり、西暦180年代に、四川省『成都』の太守をしていた後漢の官吏『高躬』コウキュウが、『袁紹』の姉妹を娶っています。

 

『高躬』はその後に『蜀』の太守をします。が、『高躬』と、その息子である『高幹』の消息はその後不明です。

 

わたくしは、『豊受大神』(ホツマ伝では、第5代タカミ結び神)の正体は、三星堆サンセイタイ(四川省成都)蜀ショクの太守をしていた、『高躬』コウキュウ→タカミ が、西暦206年『曹操』の鏡を持って日本に遣って来て、高皇産霊尊タカミムスビジン=タカミ結び神と呼ばれたものと、考えています。

 

故に、中国大陸の人達の認識は、『高躬』タカミの本貫地三星堆(蜀)に居た倭イ族の地から、『高躬』コウキュウ→タカミの子である『高幹』コウカン→タカミキ→タカキと伴に日本へ遣って着ており、日本を『倭』イと呼んだものと判断されます。

 

『高見』氏・『高木』氏は、天武天皇の子孫の『高階』氏(高階真人・高階朝臣)と伴に、蜀の『高躬』『高幹』親子にルーツを持つものと考えられます。

 

 

 

 

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わたくしの考える葛城氏。

2019-12-03 | 古代史

歳を重ねてくると、脳の海馬が剝がれて幼少の昔の事を思い出します。

 

父の故郷の田主丸~草野では、一年の折り返しの7月の中旬頃~下旬に、近くの神社で子供たちの祭『よど』が行われて、灯篭に灯がともり、舞台が設けられ、夜店屋台の軒には『神農』と書いた布が下げられ、『茅の輪くぐり』『祇園神輿担ぎ』弁当お菓子を持っての『お籠もり通夜』が、盛大に行われていたのを懐かしく思い出します。

一年の前半の田植えが終わり、子供の成長の無事と、一年後半の稲の成長を念じての祭りであろうかと思います。

 

柳田國男氏によると、『よど』とは『宵宮』の意味だ。相であります。

 

現在、古代の研究をしています、わたくしの『よど』の解釈を、想像を交えて申しあげます。

 

『よど』とは、『夜を通して』と解釈します。

 

エジプトの相撲文化やレバノン杉や蔦の文様、イスラエルの『モリヤ山』の行者の文化、トルコ北部の『拝火教』(土から炎が出ていたのが、神への敬いを成す教えを齎した)を携えて、


西アジアの、月夜の、満天の星銀河を湛えた、果てしない砂漠を、黙々と東に向かって歩く姿が瞼に映ります。この人たちが『月氏』の由来と、考えています。(トルコ國の国旗は、赤地に三日月と五陵星『アユ・ユルドゥス』です。)


その末裔(ゐ=倭)が日本に遣って着ているものと、考えています。

 

根拠は、

わたくしの『家紋』と、阿蘇神社の『神紋』である、『違い鷹羽』であります。『鷹羽』はモンゴルから西アジアに掛けての鷹を使っての狩の文化がよく知られており、『鷹羽』のルーツと考えています。

 

砂漠の行動は、気温上昇の昼間は避けて、月明かり、星明り(こぐま座の北極星ポラリスや全天で最も明るいシリウス、天の川銀河群、オリオン座)を道標に、オアシスから次のオアシスへと移動していったものと想われます。

砂漠の道中で手に入れたものが、満天の星空から降って来た『星くず』即ち『鉄隕石』で有りましょう。

宇宙を旅して来た隕石には、鉄以外に微量の他の金属が含まれており、硬くて重く、錆びにくい、剣を造るに適した良質の素材であったと考えられます。

 

饒速日命が高天原(ゆふいん塚原)から多賀(河内の国の河上のイカルガ哮峯=田川郡香春町河内と想われます。)へ天降りの時『天璽十種瑞宝』を天津神から頂くのですが、

其の内の『八握剣』は『鉄隕石』から造られていたものと想われます。饒速日命をフルノミタマ布留御魂大神とも呼びます。

饒速日命は物部氏の祖と謂われ、物部氏は『石』(本来は砂漠で拾った隕石と考えています。)を祀っています。

田主丸町には、『石王区』があり、久留米市大石町の伊勢天照御祖神社(天照=饒速日命)では『大石』を祀っています。

 

わたくしは、豊後葛城氏のルーツは、西アジアからモンゴルに掛けての砂漠の星空に有った。と考えています。

 

『星くず』→『くず』→『屑』→『葛』→『国栖』→『玖珠』

 

日本書紀によると、神武天皇(崇神=スサノオの事)の時代にツルギネ剣根命(大田田根子のいとこ)が葛城國造に任じられますが、此の解釈は、日田の豊受大神一族の剣根命(日田のタカミムスビ高御魂神の末裔)が玖珠(葛)~耶馬渓・ゆふいん方面を治めた。と謂う事柄に為ります。

 

葛城氏とは、中国大陸西域から鉄隕石を持って南方(海南島~雲南省)から、倭(ゐ)に、船で遣って着て、韓半島高句麗まで、鉄を求めて新羅人や百済人と交易をした人々であります。星を読み解き、航海術と暦に長けた、頭脳明晰な人種であったものと考えられます。

 





 

 

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『アッツと驚く為五郎。』 『蓋鹵王』に為った 『加須利君』(市辺忍歯別王)と思われます。

2019-11-06 | 古代史

『アッツと驚く為五郎』と謂う浪曲『石松の代参』のセリフがありますが、古代史の世界では、市辺忍歯別王(履中天皇の子)が、其れに当たります。

 

武内宿禰(258年頃誕生して4世紀中期迄生きた人と想われます。)は、『ゆふいん』で生まれて、古事記では、7男2女を儲けている。とされ、その第8子に『豊後葛城(葛木)』の『襲津彦』がいます。(4世紀初頭に生まれて4世紀中頃~末期に活躍されたものと、考えています。)

 

此の解釈は、『紀氏家牒』逸文では『葛城長柄襲津彦宿禰』と述べられており、『長柄』の解釈は、長い棒状(鶴の首状)に豊後大分鶴崎湾に延びた高台を比喩しております。

此の『長柄』の場所は、地形の状態が大分市葛木を意味しており、『葛城長柄襲津彦宿禰』は豊後の人であります。

日本書紀では、神功皇后・応神天皇時代に新羅・百済に派遣された『葛城長柄襲津彦宿禰』の時代に『七支刀』が、百済から送られてきました。因みに、百済の成立は、346年頃(4世紀前半)とされています。『葛城長柄襲津彦宿禰』が、韓半島に渡って、百済・任那府・新羅(356年の成立)の成立に活躍をしたものと考えています。366年の『羅済同盟』に係わったものとも想われます。

 

百済と倭の関係の、良好な状態が『七支刀』の贈呈をもたらしたものと、考えられます。

 

新羅は、豊後葛城(葛木)氏との関係が深く、古くから『葛城別王』→『葛文王』を新羅へ派遣しています。

 

新羅との関係が上手くいかないと、百済や加羅・任那府(百済と新羅を監視する役割の位置に設けられています処の倭人の集団)と一緒に新羅を討伐します。毎回毎回、海を渡っての攻めは多くはなかった。と、考えています。

 

『葛城長柄襲津彦宿禰』は、

娘に『磐之媛命』を儲けて、『磐之媛命』は『仁徳天皇』(オヲサザキ大鷦鷯天皇。田川で生まれます。)の皇后になり、以下の子を儲けます。

 

 

第17代履中(オオエノイザホワケ大兄去来穂別王、在位6年1月崩御)

大兄去来穂別王はイワレ磐余ワカザクラ稚桜宮で亡くなった。と述べられています。イワレ磐余の場所は、アマテル=瓊瓊杵尊が『ゆふいん高天原』から移動して落ち着いた場所でありますので、福岡県田川郡香春町から赤村に考えられます。

 

住吉仲皇子(スミノエノナカツ墨江之中津王)

住吉仲皇子(墨江之中津王)の存在場所は、福岡県苅田・行橋市~中津市が想像されます。

住吉神はウガヤフキアエズ=開化天皇の事であります。

苅田町馬場に在ります『宇原神社』は、ウガヤフキアエズと豊玉姫・彦穂穂出見尊を祀っています古い歴史を持った神社です。神紋は、彦穂穂出見尊・開化天皇=ウガヤフキアエズの紋であります剣唐花(花菱)です。

 

第18代反正(ミズハワケ瑞歯別王、在位5年1月皇太子を立てずに薨御。)

玉名市江田船山古墳から出土した鏡4枚の文字の解読に挑まれた故百嶋由一郎さまに拠りますと、近江志賀に渡った息子が無事でいる反正天皇への感謝の文面で有った。由。

瑞歯別王の都は『河内丹比』と述べられ、『河内』や『大阪=逢坂』の地名は田川郡香春町に在ります。

 

第19代允恭(オアサズマノワコ雄朝津間稚子宿禰王、在位42年。)

久留米市御井町に『朝妻』があります。『曲水の宴』をしたと思われます遺跡が発見されています。わたくしは、『曲水の宴』をした人物は『雄朝津間稚子宿禰王』で有ったろうと考えています。そうすると、欽明天皇が、斯帰斯麻宮→磯城島宮→唐島(秋永地区)に居たのが、納得する事ができます。

欽明天皇の実の皇子が、用明天皇(田川郡磐余池上宮→磯長秋永地区)です。(敏達=蘇我稲目=法興王は、欽明天皇の子ではありません。)用明の皇子を調べると良く理解できます。

クルメノミコ来目皇子が居られ、磯城→来目→久留米と呼ばれる様に成ったと、考えられます。わたくしは、『来目皇子』はクメとは発音せずにクルメと呼ぶべきであると、考えています。

『来目皇子』が薨去した筑紫の『島郡』とは、糸島の『志摩』郡と考えられていますが、屯営したのは『志摩』かもしれませんが、病気で翌年亡くなった場所は、通常『シマ』と呼ばれた『唐島』の秋永地区であった。とも考えられます。

わたくしは、25000人もの兵員が屯営した場所は、糸島の『志摩』ではなく、唐島の『島郡』で有ったろう。と、考えています。大川市(榎津と当時は呼ばれていたものと考えられます。)で製造した船で磯城から筑後川を下り、有明海から黒潮海流に乗る五島列島~壱岐~対馬コースが考えられます。

『来目皇子』の皇子にはヒタノミコ『日田皇子』がいます。『厩戸皇子』(用明の皇子)が産まれた場所は、うきは市の『大生寺』柏寺が導かれます。柏寺の下に『川原寺』(斉明天皇の亡き骸を中大兄皇子が殯を行った場所)が在った事に為ります。『来目皇子』は、允恭天皇に繋がる磯城出身であった。と考えられます。

 

『応神』~『仁徳』期は、豊前から豊後に架けての海岸には大勢の秦・漢人が遣って着ており、

『仁徳天皇』の『難波高津宮』の場所は、福岡県苅田と思われます。

 

『仁徳』が崩御した時に、住吉仲皇子(墨江之中津王)が王位を奪おうとしたので、大兄去来穂別(履中)は、奸計を用いて、瑞歯別(反正)に、「わたしの次はお前に王位を譲る。」と、約束をする事で、唆し、住吉仲皇子(墨江之中津王)を殺害させます。

 

『履中』(伊弉本別王)は、黒比賣命(葛城葦田宿禰の娘。豊後葛城氏=大分をイメージして下さい)との間に『市辺忍歯別王』を儲けており、此の『市辺忍歯別王』の子に、飯豊青皇女・第23代顕宗(袁祁石巣別王=弘計王)・第24代仁賢(意祁王=億計王=島郎)がいます。しかし、履中の子として青海皇女が居り、飯豊青皇女との関係が詮索されています。

 

允恭の子、第20代安康(第21代雄略の兄)は、即位3年8月避暑に訪れた穴穂部(阿蘇外輪山のカルデラ又は、ゆふいん盆地をイメージして下さい。)で眉輪王から殺害されますが、

古事記では、生前に履中の息子である『市辺忍歯別王』に王位を譲ろうとして、『市辺忍歯別王』は雄略から近淡海(久留米周辺の有明海の海水と筑後川の真水が、潮の満ち引きで混じり合う場所の事)の蚊屋野(伽耶野=草野)で殺されます。

 

(雄略=大泊瀬皇子は、允恭7年(421年?)に福岡県の朝倉で誕生して、允恭42年(456年?)に即位。即位23年で崩御。多分479年とされています。58年の生涯です。雄略の業績は、百済の要請で韓半島へ進出し、高句麗と戦い勝利しました。百済王で有った『ヒユウオウ毗有王』の子である『蓋鹵ガイロ又はコウロ王』の家族を倭の筑紫の加羅島(唐島)で預かった。とされています。)

 

『市辺忍歯別王』の息子の億計=意祁ヲオケ(仁賢)と弘計=袁祁オケ(顕宗)は、雄略(大泊瀬皇子)から殺されない為に、丹波(日田~ゆふいん)→針間(播磨)明石へ逃げた。(安康が亡くなった456年頃の時期)とされ、

 

雄略が亡くなった後の、第22代清寧(白髪大倭根子命)は、父親は雄略です。母親は葛城韓媛命で、允恭33年頃誕生し、雄略の崩御後479年即位します。しかし、僅か即位5年程の483年に崩御します。

播磨に逃げていた億計=意祁(仁賢)と弘計=袁祁(顕宗)は、姉の飯豊青中宮天皇から倭に呼び戻されます。(483年頃)

 

清寧には、后・妃が無くて、つまり、後継者無くて亡くなり、清寧の後の中宮(中継ぎ)として、飯豊青皇女(=葛城韓媛=葛木円ツブラ※の娘。の事と、考えられます。)が天皇に為ります。

 

※    古事記によりますと、

葛城円ツブラは、雄略に追われて来た、眉輪王を匿い、葛城韓媛と領地を5か所差し出し、許しを請いますが、叶わず、眉輪王を殺して自害をした人です。

 

その後、弟の弘計=袁祁(顕宗)が先に王位に就き、兄の億計=意祁(仁賢)がその後に為った。と、謂う事に述べられています。

 

亦、『市辺忍歯別王』を、『播磨國風土記』には、『市辺天皇』スメラミコトと述べられており、

 

『市辺忍歯別王』は天皇に為っていたものと、考えられます。

 

 

わたくしは、『仁賢』が百済から倭の唐島に遣って来た『昆支王』の事である。仁賢の子とされています『武烈王』が、福岡県久留米市竹野タカノゴオリ唐島で育った『武寧王』の事である。と述べていますが、

 

『市辺忍歯別王』が、倭から百済に渡り、第21代『蓋鹵王』に為ったもの。と、判断しています。

 

日本書紀では、『加須利カスリの君』と、親しみを持って、呼ばれています。此れは、倭で暮らして居た、皆に知られた人である。と、判断されます。

 

『雄略』が娶った『葛城韓媛』とは、『飯豊青皇女』(別府市豊岡?出身)の事。であろう。

 

つまり、第22代『清寧天皇』は『飯豊青皇女』の子と考えています。

 

以上の根拠は、

 

1、群馬県の綿貫観音山古墳から出土した銅鏡(獣帯鏡)は、大韓民国、忠清南道公州市・宗山里古墳群の武寧王陵の獣帯鏡と同型鏡(鋳物の型が、同じもの)で、武寧王が倭の唐島に住んでいて、倭の豪族に付与したものと、考えられます。

2、武寧王陵の木棺は、日本の高野槇(韓半島には無い材料)で造られており、日本から運ばれた。と考えられます。

3、512年に、筑紫から軍馬40頭が、任那府経由で百済『武寧王』へ届けられており、軍馬の育成は、竹野郡『唐島』(加羅島)の隣りの『牧』で行われたものと、考える事ができます。

以上から、推測されます事は、462年から501年迄、筑紫の竹野郡加羅島に居た『武寧王』(倭での名前は『斯摩シマ王』です。記・紀では『武烈天皇』)にされています。と考える事が正解でしょう。

 

4、百済第20代『毗有ヒユウ王』の長子とされる、百済21代『蓋鹵ガイロ又はコウロ王』(倭名は加須利君カスリノキミで、在位は455年~475年戦死。457年『鎮東大将軍』の称号を南宋の孝武帝から貰います。)とは、『仁賢』(シマノイラツコ斯麻郎)の父親であります、『市辺忍歯別王』であろう。と考察されます。

 

5、『市辺忍歯別王』は『雄略』から、殺されたのではなくて、百済王の『毗有ヒユウ王』の養子になり、第21代『蓋鹵ガイロ王』と為った。と、考えるべきです。

 

 

6、『蓋鹵王』の息子の『文周王』(475年即位~477年)は、倭の『雄略』の後押しで、第22代として即位しますが、国内の実力者、『解仇カイキュウ』の刺客により、3年で殺害されます。『文周王』の子、第23代『三斤サンキン王』は、僅か13歳で即位しますが、在位3年で死にます。

 

7、『昆支コンキ王』は、日本書紀では『蓋鹵王』の子では無くて、『蓋鹵王』の弟である。と述べられており、此れが本当であれば、『履中』の次男『御馬ミマノミコ皇子』が『仁賢』=昆支王と謂う事に考えられます。

 

 

8、『三斤サンキン王』の後には、筑紫竹野郡加羅島(倭王家、雄略=息長氏=秋永氏の部落)で育った、昆支=仁賢=御馬皇子の子『牟大ムタ又はムダイ』が第24代『東城トウジョウ王』(在位479年~501年、在位22年。)として、筑紫の軍人500人を連れ、百済に赴きます。501年12月に衛士佐平の大臣『苩加』ハッカの刺客に殺害されます。

 

9、502年1月に第25代『武寧王』として、百済に赴いたのが、『牟大』ムタと同じく筑紫の竹野郡加羅島(唐島)で生まれて40歳を迎えた、『蓋鹵王』=『市辺忍歯別王』(加須利君)の子で、倭王に為って8年目の『武烈王』と、その息子『聖明王』です。

 

 

10、      『東城王』=『牟大』ムタと、加羅島(唐島)で一緒に育った『武烈王』(武寧王)は、『東城王』が殺害された報告を受け、直ぐに『牟大』ムタの仇を討つために倭王を投げ捨てて、百済に第25代『武寧王』(嶋君)として渡り、活躍をします。

 

11、      倭王が居なくなり、唐島の秋永氏(息長氏)部落には、適当な人材が見当たらずに、臣下でありました大連の大伴金村や物部麁鹿火、大臣の巨勢男人らが相談をして、息長氏(秋永氏)が、田川・日田・竹野から近江地方に移動しており、京都~近江~福井へ倭王探しに赴きます。

 

 

12、      福井で見つけたのが袁本抒(継体天皇=息長氏=秋永氏)です。

大伴金村や物部麁鹿火、大臣の巨勢男人らは、百済に渡った武烈天皇(武寧王)に報告し、許可を得ます。其の時、武寧王から、袁本抒(継体天皇)へ、大王を引き継ぐ証明の『銅鏡』が贈られます。此れが、袁本抒が『継体』と名付けられた由来である。と、考えています。継体は、516年に九州年号(517~704年)を創ります。そして、国名を『ィ倭』から『タイ大倭→俀と随書に出ています。』にします。(白村江の戦後の670年に、近江に居た天智と藤原氏が、ヤマト日本國を宣言します。)

 

13、      日田上宮王家(豊受大神一族には、曹(操)氏と袁氏の末裔が混じって居たものと、考えられます。曹操と袁氏は『三国志』にも、登場していますが、縁の深い関係があります。袁氏は曹操に討たれます。)は、いったん地方へ移動した者の帰還には冷たく、反対をしました。

 

 

14、      そこで、3人は一計を策し、加須利君(蓋鹵王=市辺忍歯別王=余慶=457年に宋の孝武帝より、鎮東大将軍の爵号を拝命)の弟である昆支王(仁賢=御馬皇子)の娘である『手白香皇女』と福井の『袁本抒』(継体)を結婚させ即位させ、取り持ちを謀り、懐柔をしますが、日田上宮王家の反対は續き、倭王が筑紫に這入れなく、臣下の者は、倭王である継体との連絡等に困り果てて、日田上宮王家への不満が募ります。

 

15、      上宮王家(豊受大神一族です。日田には上宮町が在ります。)の支持母体は、謂う迄もなく、大山橘み一族であります。(月氏で新羅との関係が、日高彦穂穂出見尊・豊玉姫・スサノオ=天日鉾=崇神以来、深い関係です。大山町が在ります。)応神天皇期に大勢の秦氏(漢人)を、(月氏・劉邦=笠縫氏に繋がる大蔵氏=漢人アヤヒトを含みます。)

 

倭に受け入れ、韓半島の高句麗・新羅・百済と倭任那府の関係が、複雑に推移します。

 

履中期以後、特に雄略期が一番です。雄略は、百済王に、『市辺忍歯別』を『蓋鹵王』として送り込み、百済との関係を深めて倭の領土拡大を図りますが、何度も臣下の反逆に遭い、百済の統治に手こずります。

此の雄略期456年から継体期531年までは、倭と百済は、王族が倭から派遣され一体化を成しますが、加羅・任那の倭人は新羅派が多く、新羅王は、倭の豊後葛城氏から派遣された血脈の『法興王』(葛文王)です。527年~531年倭の上宮王家(日田豊受大神一族)が滅んだ後の532年、金官伽耶の任那府は『法興王』の新羅に吸収されてしまいます。

 

つまり、此の時期の中国大陸から倭へ遣って来た人達の韓半島政策は、倭・百済・新羅・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)・任那府を一体化して、高句麗に対しての国力を持つ事で、中国(宋)のお墨付きの権威を求めています。

 

16、      継体は19年後の526年に田川飛鳥宮に這入ります。

 

17、      527年『継体』は、田川飛鳥の『安閑』と、佐賀日隈の『宣化』の協力をもって、日田上宮王家の本体であります、『石井』を攻め滅ぼします。

 

中国語に詳しかった故、百嶋由一郎さまは、『石』と『昔』の中国語での発音は『シイ』で、中国語読みでの意味は、一緒である。と、述べられています。

 

新羅第4代王『昔脱解ジャクダッカイ王』韓国名ソクタレは、多婆那タバナ國(熊本県玉名タマナ=江田船山古墳があります。豪華舶来副葬品が日本一出土しています。)から遣って来た。(韓半島の歴史書『三国史記』では、鵲カササギから昔に略した。と述べられています。)

 

18、      しかし、大山橘み(月氏・新羅派・本当は西アジア系のヘブライ胡人)一族は、『継体』・『安閑』・『宣化』を次々に殺害し、大分の葛城氏から派遣され、新羅王として居た、『法興王』(葛文王40歳)を呼び戻し、『朝倉広庭宮』で生まれた『欽明』(天國排開広庭天皇)の、大連『蘇我稲目』として、歴史に突然登場させます。

 

 

19、      大連『蘇我稲目』は、『欽明』(在位539年~571年の32年間)の死後、572年4月に王に為りますが、日本書紀では、『敏達天皇』として、登場させています。(585年9月崩御。在位14年間です。法興王が、倭に40歳で遣って来たのであれば、498年頃に誕生。86~87歳で崩御したことになります。)

 

 

20、      『敏達天皇』の長男の『押坂彦人大兄皇子』(出生・死亡時期が何れも不詳です。此は、日本書紀が表記したくないものと、感じられます。)が、『蘇我馬子』であろう。日本書紀が噓を述べている。と、考えています。

 

『蘇我馬子』は、欽明13年551年誕生~推古34年626年没の75年間の生涯で有った。とされていますが、わたくしは、推古30年622年2月没(71歳の生涯)であったものと考えております。(法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘に依ります。)

 

21、      『押坂彦人大兄皇子』(蘇我馬子と、考えられます。)が、隋書、西暦600年(倭では、推古8年になります。)の項に「俀王姓阿毎字多利思北孤」と表記された人物であろう。と、考えられます。

 

 

その根拠を申し上げます。

 

『押坂彦人大兄皇子』(蘇我馬子の事と想われます。)が娶っています、『小墾田皇女』は、『敏達天皇』(蘇我稲目の事。)と『推古天皇』(豊後小墾田宮で政務を執った天皇)の間で儲けている事にされていますが、此れは、藤原氏の捏造であり、噓です。

 

 

『馬子』(押坂彦人大兄皇子)は『推古天皇』(小墾田皇女)を娶った。と、考えられます。

 

 

古代では、父親の妻を子が娶る事を公表できない事柄。と、考えられていて、改竄が行われ、正しい歴史が隠されたものと、思われます。亦、モンゴル系渡来人は、父の嫁を息子が娶る風習があった。と思へます。

 

 

 

日本書紀は、故意に改竄が認められる『偽書』であり、信頼に欠けます。此れを基本に國史を組立てる事は出来ません。その多くが、3世紀から4世紀はホツマツタエからの『いいとこどり』の転用と改竄であります。5世紀~8世紀までは、藤原氏の改竄と捏造が目に余ります。

 

従って、日本書紀・古事記に頼っている、現在の近畿説学者の古代への考察は間違っており、『ナンセンス』です。信じてはいけません。(参考には為ります。)

 

 

古代への考察の研究者は、先ずは、『ホツマツタエ』を読み、その後日本書紀・古事記・先代旧事本紀・元興寺伽藍縁起・万葉集・高良玉垂宮神秘書・宇佐公康氏著書・内倉武久氏著書・井上悦文著書・等々への展開を図るのが、真実の歴史への近道です。

 

 

 

 

 

 

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第2代天照大神(向津姫・瀬織津姫)の墓は、朝倉市山田に在ります『長田大塚古墳』である。と、考えられます。

2019-10-17 | 古代史

仮説は、点であり空想であります。点と点が繋がり、線になり、線と線が繋がり、面と為り、時間軸と人物が合えば、此れは真実とも謂えます。

 

 

文献で、古代史を考える上での一番の肝要なものは、『丹波・旦波』『葛城・葛木』『紀・杵・紀伊』『難波』『日向』の解釈の仕方であります。

 

殆どの有能な研究者は、間違った解釈で、地図上・時間軸上・人物上の混迷に陥り、皆が納得できる継続的な説明が不能になり、頭を悩ませる事になっています。

 

 

おまけに、研究の基準となります、『日本書紀』・『古事記』の噓や改竄(例えば、本来は男神の豊受大神=イザナミの父が、女神の豊受比賣命=イザナミの子に改竄されています。)が『ホツマツタエ』や『宇佐氏口伝の伝承』・『高良玉垂宮神秘書』から浮かび上がってきており、『解釈の仕方』が問われる事に為ります。

 

古事記では、

武内宿禰(葛城氏です。=豊後出身と考えられます。)の父は、ヒコフツオシノマコトノミコト彦太忍信命(孝元天皇=日高彦彦穂穂出見尊と、伊香色謎命=玉依姫の間で儲けていると、想われます。)で、イカガシコメ伊香色謎命の父はオオヘソキ大綜麻杵(日本書紀)・ウツシコオ内色許男命(古事記)と述べられており、

 

『大綜麻杵』・『内色許男命』とは、『八咫烏』(=賀茂建角身命=※琴平神=息長宿禰王)の事と、考えられます。玉依姫の母は、『イソヨリ姫』(=伊可古夜姫=葛城高額比賣)です。『イソヨリ姫』は、(ホツマツタエでは、)日高彦穂穂出見尊の内侍で有ったが、『賀茂建角身命』の妻に下されて、二人が玉依姫を儲けた。と、述べられています。

 

※    『琴平』は日田市に地名が残っています。『息長宿禰王』は、佐賀県川上狭の『野波神社』下の宮に名前を残しています。『息長宿禰王』を祀る神社は、『野波神社』の他には日本中で知りません。知っている方があったら教えてください。

 

古代の『葛城』(葛木)とは、近畿の『葛城』では無くて、大分豊後の『葛城』(葛木)を指しています

 

※、2012年3月16日のブログ 『丹波・旦波の解釈の仕方』と、

 

2012年3月24日のブログ 『籠神社は豊後から遣ってきた建田背命から始まったものと捉える事が出来ます』

 

を参照して下さい。

 

日田が本貫地の『豊受大神』は、『隠居國』として、豊後九重~ゆふいん~宇佐・日出に『ホツマ國』を造った。と解釈をするべきです。

 

豊受大神』は、別名が『朝日神』と呼ばれ、日田市には『朝日町』豊受大神の孫(息子の耶蘇杵=建田背?と白山姫が儲けた、娘。)の『大宮姫』の『大宮』が在り、九重町の飯田高原には、『朝日長者伝説』を残しています。

 

日田市のダンワラ古墳出土の『金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡』キンギンサクガンシュリュウモンテツカガミは、後漢末~魏王(155年~220年)の『曹操』ソウソウが所有していた、鏡と同じ型物ではなかろうか。と研究者から想われていますが、若しも、此の事が本当であれば、後漢~魏王『曹操』の親族が、紀元206年前後に日田に遣って来ている。と、考える事が可能です。大王が所有すべき貴重なもので、銅鏡1000枚の数とも比べられない、特別の歴史的な研究価値のある鏡であります。

 

此れを所有していた人物は、時間軸上『豊受大神=高躬』を於いて他は考えられません。

 

『天道日女命』は、饒速日命=アマテル=櫛玉ホアカリ=瓊瓊杵尊の妃でした。

 

アマテルは、『ゆふいん』でイザナミ『伊弉冉』から生まれています。

 

※ホツマ伝の解釈に拠りますと、イザナミは幼名『イサコ』と述べられて、『ゆふいん』を『イサ宮』と表現しています。亦、アマテル=瓊瓊杵尊=饒速日命=櫛玉ホアカリが生まれた場所なので『サカオリの宮』『アサマの宮』とも述べています。

『ゆふいん』に在ります『宇奈岐日女神社』の『ウナギヒメ』とは、『イサコ』即ち『伊弉冉』を指しているように思えます。静岡県の三嶋神社(木花之佐久夜毘賣を祀っています。)では、江戸時代末迄ウナギを祀って食しなかった。と伝わっています。『木花之佐久夜毘賣』は、燃え盛る火の中で出産したので、安産祈願の神様とされています。伊弉冉も『カグツチ』出産時の『火の傷』が元で亡くなります。『伊弉冉』は、『木花之佐久夜毘賣』『ウナギヒメ』とも思えます。

 

 

『天香語山命』(手栗彦命・高倉下)も日出町『愛宕神社』(現在の祭神は、『伊弉冉』と『香具土命』ですが、『愛宕』とは、『天香語山命』を指し、本来の祭神は『天香語山命』です。)で祀られています。

 

天香具山』は、別府鶴見岳=イザナゴタケ伊邪那子嶽の事と考えて、正解です。(山頂のホノオホノメ火男火売神社でカグツチ『香具土命』を祀っています。)

 

アマテル=饒速日命=櫛玉ホアカリ=瓊瓊杵尊は、『ゆふいん』から『飛鳥宮』(田川郡香春町~赤村)へ移動しています。

理由は、鉱山採掘の為で有った。と、考えています。

 

 

『丹波』とは、『田庭』の事で、豊受大神が居たと考えられる豊後『ゆふいん~日田』を指しています。

 

『丹後風土記残欠』には、

 

『丹波という名前をつけた訳は、昔、豊宇気大神が伊佐奈子嶽に天降された時、天道日女命たちは、この大神に五穀と蚕などの種をお願いした。その嶽に真名井を掘り、それで灌漑して水田陸田を定めて植えた。

 

秋には「垂穂八握莫々然甚快也。」大神はそれをご覧になって、大喜びされて曰く、「阿那而恵志(あなゑえし)、面植弥志与田庭。」そして大神は再び高天原に登られた。

 

それで田庭(たにわ)と謂うのである。丹波・旦波・但波、など全て、多爾波(たにわ)とよむ。』

と、述べられています。

 

つまり、古代には、丹波は、地名では無くて、タンバと呼んではおらず、タニワ(多爾波=田庭)と呼んでいたのです

 

勉強の足りない、若い研究者が多いのに、呆れます。

 

 

後には息長氏と建田背は、伴に山陰丹後・丹波へ移動しました。

 

 

の國』も、大分豊後の築・臼の味噌・醤油『豊後(紀)の國』が和歌山へ移動しています。

 

日本書紀の景行記3年2月のヤヌシオシヲタケオゴリミコト屋主忍男武雄心命に紀伊の神祇を祀らせた。と、ありますが、此れは和歌山県の事ではなく、豊後の紀伊(大分~ゆふいん・玖珠・別府~国東半島)の事であろうと、考えています。

 

紀の國には、名草(戸辺)が在らねばならず、玖珠町森に名草の地名と遺跡があり、割られた鏡が出土しています。玖珠町役場に掛け合えば、現物を見せてくれます。名草戸辺が、玖珠に居たと思われます。

 

因みに、ニシキの戸辺は、大分市錦町の大友宗麟屋敷の傍で、昔は古国府(小墾田宮)で推古天皇が、政務を執った近く。と、考えています。

 

豊後が『紀伊』の始まりである。の根拠は、『ゆふいん』のオオゴシャ『大杵社』(木へんではなく禾へんです。)の祭神は宇豆彦=椎根津彦(=屋主忍男武雄心命の息子)です。

入り口の鳥居傍の狛犬は、『猿田彦』をイメージする『』です。『ゆふいん』の『アサマの宮』は、慶長の大地震で『椿山』が崩壊して埋まりましたが、『椿』と、『』は、三重県に在ります伊勢國一の宮『椿大神社』(祭神は猿田彦と瓊瓊杵尊・栲幡千千姫です。)に繋がるものと、考えています。

 

『ゆふいん』には、山下湖があり、が傍の『小田の池』から出土しており、『山下影姫』(宇豆彦の妹)から、『武内宿禰』は誕生した。と述べられており、『武内宿禰』の誕生は『ゆふいん』で有った。と、考えています。

 

父の『屋主忍男武雄心命』は佐賀、母の『山下影姫』は小郡市力武の『竃門神社』(アマテルが、ニニギの教育をした『伊勢=妹背』の傍です。亦、景行天皇が行宮を置いた、『高屋宮=弥生が丘』や、仲哀天皇が陣を張った『御勢大霊石神社』が、傍に在り、後世には、『小郡官衙』を『天武天皇』が造ります。『天智天皇』は、田川飛鳥宮が焼けて、奈良藤原京を着手しています。)で、痕跡を残しています。

 

『ゆふいん』では、イザナミ『伊弉冉』が『アマテル』(初代天照大神=櫛玉ホアカリ=饒速日命=瓊瓊杵尊)を、サカオリ宮(別名アサマ宮=ゆふいんに浅間部落が在りました。が、『慶長の大地震』で『椿山』が崩壊して埋まりました。『佛山寺』には、当時の絵図が残されています。)で生んでいます。『アマテル』は、右大臣『桜内』の娘である『向津姫』2代目天照大神と結婚しており、『天道日女命』とは、『向津姫』(2代目天照大神)の事でありましょう。

 

建斗米命(多分此のお方が、豊受大神の事?)と中名草姫の子である、

長男の建田背(多分、此のお方が、ホツマツタエで謂う耶蘇杵の事?)は、崇神=スサノオの乱の前・後に丹後に渡り、『籠神社』の『海部氏本系図』附の『勘注系図』に跡を残しています。

 

亦、日高彦穂穂出見尊(孝元天皇)の第1子であります、大毘古命(阿倍氏=豊後が本貫地)の子『御間城姫』が、崇神=スサノオの皇后になって、『垂仁天皇』(活目入彦五十狭茅命)を久留米磯城の瑞垣宮で儲けています。

 

伊香色謎命は孝元(日高彦穂穂出見尊)との間に儲けた崇神(須佐之男命)を連れて、伯母の豊玉姫(息長大姫大目命=猿女)と孝元(日高彦穂穂出見尊=山幸彦)が儲けた、ウガヤフキアワセズ(住吉神=開花天皇)の元へ嫁ぎます。(久留米大善寺玉垂宮=磯城瑞垣宮)

 

磯城瑞垣宮には、アマテルの姉のワカ姫(蛭児=御年神)や、出雲から遣って来た、大己貴命とタケコ=多祁里比賣命の儲けた、2代目ワカ姫(『高姫』、記・紀では『下照姫=御井神』と述べられています。)も一緒に居たものと考えています。

 

※、ホツマ伝では、ワカ姫(蛭児=御年神)は金折=ウガヤフキアワセズ=住吉神=開花天皇が育てた。と述べています。

 

わたくしは、此の『下照姫』(高姫=御井神)が『玉垂命』(女神)であろう。と述べていますが、『ワカ姫』(蛭児=アマテルの姉)や、『玉依姫』も可能性があります。

 

久留米磯城瑞垣宮の開花天皇(稚倭根子比古大毘毘命)=ウガヤフキアワセズ=住吉神に右大臣で仕えていたのが、大田田根子(ホツマ伝の編纂者、オオカシマ大鹿島命)の祖父であります、オオミケヌシ大御気主命です。

 

オオミケヌシは、開花天皇が(玉依姫=伊香色謎命)を娶る事に、人の道義に反する行いである。として、大臣を辞任した。とホツマ伝で述べています。

 

ホツマ伝は、大鹿島命が、景行天皇(大帯日子淤斯呂和気命)に献上した。と述べてあり、

 

『記・紀』の『崇神紀』の叙述にも、大鹿島命(大田田根子)が登場しております。

 

此の事から、崇神と景行は同時代の人物であることが、理解できます。

 

と、謂う事は、景行は垂仁の子では無くて、系図上は、崇神の兄弟とされ、行方不明の『彦座王』の位置にあるべき人物であります。

 

わたくしは、以前のブログで、彦座王は、景行天皇の事であると述べていました。

 

『彦座王』と『息長水依比賣』の子に『丹波道主命』がいますが、『丹波道主命』との兄弟の位置に『息長宿禰王』が配置されるべきです。その娘が神功皇后(息長帯姫)と謂う事であります。

 

わたくしの、『丹波道主命』の『丹波』タニワの解釈は、豊受大神の居た『ゆふいん』の事であります。

その根拠は、『丹波道主命』が娶った『丹波之河上之摩須郎女』タニワノカワカミノマスラメは、わたくしの、棲んで居ます湯布院町川上の『鱒郎女』と考えられるからです。

川上地区は、ゆふいん盆地の半分近くを占めています。ゆふいんの川上の地名が、佐賀県大和町川上に人物・地名共々移動しているものと、考えています。

 

わたくしは、日本書紀が述べる景行即位12年10月の九州での熊襲遠征のオオキタ碩田(大分)クタミムラ來田見邑での『土蜘蛛』退治が、崇神=スサノオを、豊後杵築(小熊山古墳)での殺害の行動であろう。と述べています。

 

崇神=スサノオに味方した阿蘇氏の中臣・志賀・八田(矢田)氏を直入町~竹田市で討ち果たして、崇神=スサノオの本拠地でありました、久留米磯城瑞垣宮(崇神=スサノオに付いて来た大勢の渡来人を近くに住まわせます。)を監視出来ます処の、アマテル由来の伊勢=妹背の傍であります、鳥栖市~基山町の『弥生が丘』(日向の高屋宮)で陣を張り、同年12月熊襲梟師を征伐。6年程の間滞在します。

 

纏向(場所は行橋勝山黒田と想われます。)に帰還への足取りは、浮羽から日田(美濃)で途切れて、不明です。

 

景行4年、美濃の泳宮へ行って、八坂姫を娶った。と、日本書紀が述べていますが、わたくしの解釈では、日田(美濃)の亀山公園(泳宮)近くで『八坂姫』を娶った。に為ります。ひょっとしたら、此のお方が豊玉姫(=ミズハノメ)?

(ホツマツタヱでは、日田盆地を『耶馬手ヤマテの宮』『ケタ臺ツボ』と呼び、邪馬台国論争を起こす切っ掛けになります。後には、瓊瓊杵尊=アマテル=饒速日命が『新治ニハリの宮』を建造しました。)

 

しかし、記・紀では、景行は『水歯郎媛』ミズハノイラツメを娶って、『基山の伊勢斎宮』を祀ったイオノノヒメミコ『五百野皇女』=久須姫=玖珠姫(名草遺跡の有ります、由布院の隣町です。)を儲けています。

 

『倭姫』(景行天皇の妹)が朝倉笠縫氏(漢の太祖劉邦→笠縫。つまり、アヤヒト漢人。)の邑から、天照大神の神霊を三重県の伊勢に、遷宮しています。

 

麻底良山の西を調査しました処、朝倉市須川に『橘の広庭宮』跡の石碑があるのを発見しました。やはり第98代長慶天皇は、此の地で亡くなっているものと考えられます。

 

『麻底良山』・『麻氐良布神社』マテラフではなくて、アマテラスと呼ぶのが正当です。

 

書道家の『井上よしふみ』様が行書体から解読されました。偉大な功績です。

 

アマテラス(向津姫=瀬織津姫)の神魂(神霊)が朝倉の『麻底良山』から、三重県の伊勢へ移動したのであれば、『アマテラスの墓』は朝倉に在ったものと、考えるべきです。

 

『麻底良山』周辺で一番に考えられますのは、朝倉市山田に在ります『長田大塚古墳』です。直径100m~130m位の円墳です。多分、99パーセント此の古墳に第2代天照大神(向津姫=瀬織津姫穂乃子)が埋葬されているものと、考えられます。魏から頂いた『親魏倭王』の金印も埋葬されている可能性が有ります。

 

井上様も同様の考えです。

 

 

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『大蔵姓田尻氏正統系譜』から、導かれます笠縫氏と阿部仲麻呂の出身地。

2019-09-18 | 古代史

わたくしの説では、

『息長氏=秋永氏』で有ったのであれば、豊受大神以後、次のようにして、天皇家が成立したものと、考えられます。歴史を組み立ててみましょう。

※、豊受大神一族は、中国大陸から曹操の鉄鏡(金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡)を持って、遣って来た西暦205年頃の後漢、袁氏(袁譚?=袁紹の長男)の血脈の帰化人で、阿蘇氏(息長氏)と姻戚関係を結び、日田市~大山町~ゆふいん~九重町~田川~大分~福岡の、所謂北部九州を統括していました。

 

九州南部(熊本・宮崎・鹿児島)は、

紀元前473年以降に、会稽(上海周辺)や南方の海南島周辺から何度も、黒潮海流(2ノット~3.5ノット※1ノット=1852m)に乗って渡来の阿蘇氏=白氏(呉の太白=姫氏→紀氏)であります。海南島からは、イ倭族・シエ曾族も犬祖伝説や醤油・味噌・藍染の醗酵技術、焼畑・放牧・矢的の習慣を持って、宮崎・鹿児島・熊本に遣って来ていると考えています。

宮崎県串間市の古墳から出土した、玉壁(翡翠玉)は、中国雲南省に興った秦國由来の『ナンエツ南粤國』の王が、同じものを着用して埋葬されており、紀元前110年頃に、南九州に、『ナンエツ南粤國』から船で流れ着いた。と、考えられます。

宮崎の西都原古墳群は、『ナンエツ南粤國』と大いに関係があるものと思われます。

 

彼ら南方系渡来人を総称して『シユウ蚩尤』に繋がる『リー又はレイ黎族』と呼びます。

 

海南島には、『賀茂』の地名が残っており、

記紀で述べられています『賀茂建角身命=八咫烏』は、海南島にルーツがあると考える事が自然です。(ホツマ伝の叙述から読み解きますと、鹿児島~苅田~行橋~田川香春町に移動した後に日田~阿蘇に落ち着きます。)

 

天皇即位の儀礼の『ダイジョウサイ大嘗祭』では、必ずや『八咫烏の旗』が立てられ、南方の『ビロウ枇榔の葉』が用いられて、執り行われます。

 

昔から、中国人の事を『支那人』と呼んでいましたが、『支那』は雲南省に地名が残って在り、ベトナム・雲南省・海南島方面から、黒潮海流に乗って、台湾~沖縄~南九州へ辿り着いた。と、考える事が自然です。

 

(以上は、内倉武久さまの研究成果。を参考にして述べさせて戴きました。)

 

八咫烏(=大山咋・琴平神・松尾神・国造速瓶玉命・息長氏です。)の姉が、豊玉姫(=天鈿女・息長大姫大目命・息長水依姫・猿女・罔象女・阿蘇津姫・内色許売命)です。

 

豊玉姫は、豊受大神一族の『イザナミ伊弉冉』の弟の『ツワモノヌシ又はヒョウズジンと謂う。兵主神』と結婚します。

 

『兵主神』とは、中国の古代の武人英雄『シユウ蚩尤』を指し、日高彦穂穂出見尊(=記・紀では第8代とされています孝元天皇と、第4代の懿徳天皇の事に積み増しされています。)の事であります。

(懿徳の皇后は天豊津比賣命=豊玉姫で、天児屋根命=第12代景行天皇・第7代孝霊天皇に、記・紀では積み増しされています。の妃です。→行橋の勝山黒田周辺に居た事が想像されます。)

 

兵主神(日高彦穂穂出見尊)と豊玉姫(息長大姫大目命)の間でウガヤフキアワセズ(=金折・住吉神・記・紀では第9代開花天皇・稚倭根子比古大毘毘にされています。)を、宮崎県の鵜戸神宮で儲けます。

 

ウガヤフキアエズは、阿蘇西ノ宮から長崎県早岐の西ノ宮(広田宮)→博多春日市須久岡本→太宰府四王寺山→久留米磯城(城島)へと、移動をしたものと考えられます。

 

久留米磯城大善寺玉垂宮で、『玉依姫(伊迦賀色許賣命)』と連れ子の『崇神(新羅から戻ってきた天日鉾、即ち須佐之男命)』を養います。

 

(百嶋由一郎説の根幹は、『開花天皇と神功皇后は夫婦であった。』であり、百嶋説とわたくしの考えを融合させた場合は、『玉依姫=伊迦賀色許賣命』は、『神功皇后=息長帯姫命』と同一人物である。と謂う事に為ります。

 

と、謂うことは、佐賀県北川ダム傍の、『野波神社』の『下の宮』で祀られています『息長宿禰王=神功皇后の父親』が『八咫烏=賀茂建角身命』のことで、

 

『息長宿禰王』の父が『迦邇米雷王』ですから、『迦邇米雷王』が『豊玉彦=八大竜王=健御雷之男命=健磐龍命』である。と謂う事に為ります。)

 

一方の『兵主神』と『豊玉姫』は、→苅田・行橋(宇原神社・青龍窟・石塚山古墳)に足跡が残っています。多分此処(苅田)で『豊玉姫』と別れたものと想われます。

『兵主神=孝元=彦穂穂出見尊』は、近江大津シノ宮で亡くなり若狭伊奢沙別宮(気比神宮)に埋葬された。と、ホツマツタエは述べています。

後に応神(品陀和気命)が武内宿禰に連れられて、笥飯神(本来の伊奢沙別神=彦穂穂出見尊=孝元)を、お詣りします。

※(八咫烏の娘の玉依姫とは、伊香賀色謎命の事で、神功皇后を意味しています。8世紀に記・紀で述べています仲哀天皇は、藤原不比等の捏造の人物と考えられます。従って、息長帯姫命=神功皇后は最初の夫は孝元で、崇神を儲け、二番目の夫が、甥の開化天皇(伯母豊玉姫と孝元が儲けた人。)になります。合間に、武内宿禰との間で、『品陀和気命』を儲けています。)

 

その後の『豊玉姫』は、アマテル所縁の多賀(田川)『香春宮』で『天之児屋根命』(景行・長髄彦・猿田彦・ホアカリムメヒトの臣)に養われて、『辛國息長大姫大目命』として、名を残しています。

 

『天児屋根命』との間で、『天忍雲根命』(鹿島押雲・春日若宮=大雀命?)と『日立命』(日高彦)を儲けます。

ホツマ伝では、『天忍雲根命』(鹿島押雲)の子が、『天種子命』です。『天種子命』の子が『宇佐万呂』(宇佐津臣命)であります。

宇佐公康さまの伝承を信じれば、『天種子命』が『崇神天皇=スサノオ』と、同一人物に為ります。

 

『天忍雲根命』が、『天之児屋根命』の子では、時間軸に齟齬が生じ、『天種子命』(崇神天皇=スサノオ)の父であります『天忍雲根命』(鹿島押雲・春日若宮)は、如何も『日高彦彦穂穂出見尊』と、同一人物である。と考えざるを得ません。

『日高彦彦穂穂出見尊』の出身地であります、大分県日田市日高町の横の『若宮町』には、『若宮神社』が在り、祭神は、当然に藤原氏が、『仁徳天皇』へ変更しています。本来の祭神は、『日高彦彦穂穂出見尊』で有ったのかも知れません。

 

ホツマ伝では、『天種子命身罷る 百八十七歳 骸納む 三笠山。 春日の殿に 合ひ祭る 三笠の姓。 宇佐万呂に 賜ひて讃ゆ 三笠臣』と述べられており、

 

『天種子命』は、『三笠山』に埋葬された。『宇佐万呂』(宇佐津臣命)に『三笠』の称号が贈られた。と謂う事が理解でき、

此の『三笠山』とは、国東半島豊後高田市草地に在ります『三笠山』と謂う解釈ができます。

しかし、宇佐公康さまの伝承を信じれば、『三笠山』の場所は国東半島杵築市狩宿の『大熊山』(小熊山古墳=スサノオ=崇神の墳墓と考えられます。)です。

 

つまり、753年(天平勝宝5年)唐長安での『王維』らの送別の宴席で『阿倍仲麻呂』が詠んだ『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』に出てきます、『三笠山』とは、福岡県春日市の『三笠山』(宝満山)では無くて、国東半島の『三笠山』(春日山)であった。と解釈することも出来ます。

その根拠は、

阿倍仲麻呂(698年~770年1月没。73歳)は、※『阿倍比羅夫』の孫と謂われており、阿部・安部氏は大分に多く生活しています。

 

※    『阿倍比羅夫』は、漢の太祖『劉邦リュウホウ』皇帝に繋がる、『大蔵』氏で、後漢皇族の『阿智王』(姓は、劉リュウ→笠リュウ→笠縫リュウホウ→カサヌイ氏と呼ばれた。と、考えられます。

『笠縫』氏とは、『劉邦』に繋がる漢からの渡来人=技術者集団を指しています。)が、応神天皇20年9月5日に、備中國窪屋郡大倉谷に遣って来て、帰化しており、

『阿智王』の孫が『東漢志挐 ヤマトノアヤ シダ又はシド』で、その子が『崇峻天皇』を朝倉で暗殺した、『東漢駒子』(別名は『坂上』氏の『駒子』です。)

 

『駒子』の七代後が、『阿倍比羅夫』(安曇比羅夫=642年田川飛鳥宮の皇極天皇(寶皇女)のもとに、崩御した舒明天皇への弔辞を持って、韓半島百済から帰倭した人とは、別人とされています。)です。

 

後には『原田』氏(筑前国糸島郡長糸邑原田に城を築いて原田氏を名乗ったのが発祥)→『田尻』氏(筑後國三池郡田尻より、発祥。)を名乗り、筑前・筑後・豊前・豊後・熊本で活躍をした氏族です。

 

熊本市在住の田尻久善さま所蔵の『大蔵姓田尻氏正統系譜』の写しを古川清久さまから頂き、参照しました。

 

『天の原』とは、具体的には『高天ヶ原』(ゆふいん塚原)を指し、大分~鶴崎の難波長柄豊碕宮(葛木)を717年(神亀元年)出帆した第9次遣唐使船は、別府湾を国東半島方面へ、ぐるりと北上して初日の停泊地、宇佐『長洲』(又は、豊後杵築『狩宿』)を目指します。

 

豊後高田(又は、豊後杵築)沖、に差し掛かると、夕日が西の空に沈みかけ、西南の方向に在ります『高天ヶ原』(ゆふいん塚原)鶴見岳方面を眺めて、この先の自身の将来の人生の不安・感慨に耽り、ふっと振り返って、東の豊後高田『三笠山』(又は、豊後杵築の三笠山=『大熊山』=崇神の墓)方面に目を遣ると、大きな月が『三笠山』の上にあった。と、謂う解釈になります。

 

博多湾から太宰府(南東)方面の『宝満山』(三笠山と思われます。)を望んだ場合は、『振りさけ観』れません。『天の原』の解釈が問われます。『天の原』とは、倭國土全体を指す事に解釈しなければなりません。拡大比喩解釈になります。

しかし、祖父の『阿倍比羅夫』は『太宰帥』になっておりますので、『仲麻呂』は、太宰府で幼少期を過ごした事が考えられ、太宰府方面への想いが有ったのかも知れません。

 

わたくしは、真実を求めて『春日』の本貫地であります、『宇佐』の豊後高田市草地に在る『春日神社』の調査を行う事にしました。

 

2019年9月17日晴天の下、午後1時過ぎに現地に着き、『神社由緒』の看板を眼にしました。

祭神は『春日四柱大神』です。創建は、809年(大同4年)です。

由来は、雷鳴と稲光のなかに白い鹿の背にまたがって現れ、「我は三笠山に住める翁ぞ」と告げて、南に飛び去りました。これぞまさしく『南都春日大明神』の神霊である。として、社殿を建立した。のが、始まりとされています。

 

豊後守護職であります、歴代大友(大伴)氏は此の春日社を特別に崇敬し、庇護しており、境内脇社に八坂神社(祇園社=スサノオ)・厳島神社(弁天社)が配されていました。

 

『春日神社』の正式住所は、大分県豊後高田市草地三笠山5206 と記入されており、驚きました。『三笠山』とは、『山』の事では無くて、『小字名』の『地名』の事でありました。近所の民家を数件覗き込み、『安部』姓がありましたので、『阿部仲麻呂』との関係が窺われ、民家のお方にお尋ねしますと、『此の古城区は33軒在り、内26軒が安部と阿部姓である。』由。

わたくしは、呆然として、立ち竦みました。

 

『間違いなく、阿部仲麻呂のルーツは豊後高田市草地三笠山であった。』と。

 

770年1月に『唐』で『阿部仲麻呂』(73歳)は亡くなっており、大友氏(大伴氏)が、『阿部仲麻呂』の出身地である豊後高田市草地三笠山に『春日神社』を809年に創建して、『唐』で出世して、帰国叶わなく、亡くなった『阿部仲麻呂』の想いに、報いたものと考えられます。

 

つまり、『春日なる 三笠山に いでし月かも』とは、異国の地からの『阿部仲麻呂』の生誕の故郷、『豊後高田市草地三笠山』への望郷の和歌を詠んだものであった。と、理解されます。

 

 

 

 

 

 

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斯くして、『日本國』が誕生した。天武・持統の努力。

2019-04-22 | 古代史

『敏達天皇』が、新羅から遣って来た『法興王』である。と考えられます根拠を申し上げます。

 

倭には、応神天皇期に、秦國の流を汲むヘブライ月氏が、韓半島を経由して、大勢の人が渡来しており、

雄略期以後の倭の内部では、親新羅派(日田上宮王家)と親百済派(田主丸町唐島の息長氏=秋永氏が百済王族の受け皿になっています。)の抗争対立が、息長氏連合(福井の継体・田川飛鳥の安閑・佐賀日の隈の宣化)による、日田上宮王家本流(豊受大神・耶蘇杵)の『磐井(石井)』を滅ぼします。527年磐井の乱~531年辛亥の変です。

 

上宮王家の支持基盤で有ります、新羅派の大山橘み系は、継体→安閑→宣化の暗殺を謀り、実行をします。

 

継体と手白香皇女(百済系と考えられます)の間に生まれた欽明期に、日田上宮王家派の要請で(元々新羅シラギは、上宮王家の出先國と考えられます。日高彦穂穂出見尊と、その皇后の豊玉姫・八咫烏(賀茂建角身命・大山咋・久麻加夫都阿良加志比古・琴平神)・玉依姫(八咫烏と伊賀古夜比賣の娘です。豊玉姫の姪になります。)一行は、天日鉾=スサノオ=崇神を新羅王にするべく、新羅シラに置き去りにして、帰って来ています。

そもそもの新羅シラギの始まりは、熊本玉名の阿蘇氏=白氏=白日別と記紀で述べられています。が、鉄を求めて韓半島に拠点シロ→シラ→シラギを造った。事から始まった。と考えています。

新羅との関係が上手くいかないと、何度も新羅に攻め込み、多くの豪華装飾品や貢物を受け取り、関係の修復を迫っています。新羅出張所の『王』も、倭から派遣したものと考えています。)、

 

『三国史記』新羅本紀には、数多くの時代の人名に『葛文王』の文字が冠されていますが、わたくしは、カツブンオウ『葛文王』とは、倭の『葛木氏』(豊日別=白日別と同族の『紀』氏です。『紀』氏とは中国『周』王朝の太伯=太白に先祖を持つ姓、『姫』キシ氏→『紀』キシ氏の事です。)から分かれた人物の『王』である。との解釈をしています。

 

日知葛文王・許婁葛文王・骨正葛文王・仇道葛文王・第22代智証葛文王、そして、第23代『法興王』も『葛文王』と述べられており、此れは、倭の豊後『葛木氏』との関係が詮索され、『法興王』が倭に呼び戻されたものと考える事ができます。

 

 

奈良県法隆寺傍に在ります『藤ノ木古墳』の埋葬者の一人は、新羅王で有った『法興王=蘇我稲目=敏達天皇』であろうと、副葬品(装飾足履・黄金の帯・王冠)と遺骸の状況から、考えています。当時の権力者であります、百済系の藤原氏からは、遺骸を粗雑に取り扱われています。(装飾足履の片方が紛失しています。装飾足履は舶来品で、新羅経由で持ち込まれたものと考えられます。通常は身体に着けてあるべき黄金の帯が、三つ折りにされて、遺骸の足元に、冠と伴に収められていました。)

遺骸は、『南大分』か、『田川飛鳥宮』、又は『うきは朝倉』から運んできたものと考えられます。わたくしは、田川大任町秋永地区(磯長陵)に在ります、古墳(名前が付いていない)から運んだものと考えています。

 

 

新羅国王で有った『法興王』は、倭の王族と其の取り巻きによる権力簒奪争いの惨状を傳聴き(葛木氏の要請で来倭と考えられます)、『仏法精神で國を治める事が、倭には必要である。』との思いで、葛木氏の本貫地であります大分へ遣って来たものと考えています。(西暦540年)

 

『法興王』(敏達=蘇我稲目)は、直ぐに田川飛鳥宮近くの大任町秋永に居たと考えられます、息長真手王の娘の『広姫皇女』を娶り、押坂彦人大兄皇子(この人が蘇我馬子であれば、息長氏の血脈が流れている事になります)を儲けます。その子が田村皇子(舒明天皇=息長足日広額天皇=大任町隣の赤村の※『飛鳥岡本宮』で、皇極=斉明と伴に政務をします。)です。

 

※正しい『飛鳥岡本宮』の解明発表は、斉明期研究の第一人者『福永晋三』さまがなされています。奈良県の飛鳥ではありません。お間違えの無いよう御注意申し上げます。

 

蘇我氏四代は、新羅由来の大分葛木氏親族の、親新羅派政権で有ります。その証拠に、此の時代(500年~663年迄)は倭から新羅への征討は行っていませんし、欽明天皇は任那府の再興を望みますが、新羅討伐は口にしてはいません。

 

亦、蘇我馬子が亡くなる2年前(推古32年・624年)に、推古天皇に『葛木県=大分市』を蘇我氏に割譲を申し出て、断られています。

 

『馬子』の埋葬地は『桃原』とされていますが、大分葛木の丘の直ぐ傍に、『桃園』の地名が在ります。

 

『欽明天皇』の実子で有ります、『用明天皇』は『蘇我稲目』の子の『石寸名』イツキナを娶って、『厩戸皇子』の兄であります、『田目皇子』を儲けています。

『田目皇子』の子が、『高向王』です。

『寶皇女』(後の皇極・斉明)の父は『茅渟王』チヌオウで、茅渟王は押坂彦人大兄皇子(蘇我馬子)の子と謂う事になります。

『寶皇女』は、舒明天皇との結婚の前に、『高向王』との間で『漢皇子』を儲けています。

 

わたくしは、此の『漢皇子』が『天武天皇』の事であろう。と、考えています。

 

そうすると、百済王末裔の『翅支』ギョウキ(中大兄皇子=天智天皇)が、自分の娘を『天武』の妃にした理由が理解できます。

 

舒明天皇が崩御(641年)後の642年に、百済王族の『翅岐ギョウキ』(462年~501年迄、田主丸町唐島に来て居た昆岐王・武寧王・聖明王の末裔で有りましょう。)が、田川飛鳥宮に遣って来て、『皇極天皇』に歓迎・歓待され、上宮王家の血脈であります『欽明』⇒『用明天皇』⇒『厩戸皇子』⇒『山背大兄王』への、蘇我入鹿による襲撃事件が、切掛けになり、

 

645年田川飛鳥宮での『オッシ乙巳の変』を起こします。

 

此の百済王の末裔『翅岐ギョウキ』(元は、北魏に繋がる鮮卑族の拓跋氏)が中大兄皇子の正体で有りましょう。

つまり、天智天皇は百済系です。

 

それに対して、天武天皇は全くの新羅派(九黎族=白族=本貫地は熊本玉名が、韓半島にシラ→新羅を創ります。紀氏=姫氏は、その後に豊後に移動します。豊後紀氏=豊日別。日田に『美濃』が在ります。古来の『美濃』とは日田~うきはを意味しております。壬申の乱を左右したのは、美濃からの援軍と述べられていますが、此れは九州日田・うきはからの援軍と解釈されます。)の人物でしたが、

(天智4年665年9月・天智22歳)唐の郭務宗カクムソウ、高官の劉徳高リュウトクコウが、『倭京』(『倭京』の場所は、上岩田遺跡(小郡市松崎)と想われます。)に、総勢254人で駐留した時(多分、場所は小郡官衙と、想われます。)に、天智が閲兵式をしています。

ありったけの兵を動員して唐兵を迎え、倭のプライドを保とうと、したものと考えられます。

 

667年3月に天智は近江大津へ遷都(天武から見れば、倭京からの逃避です。)します。667年11月にも、『唐』の使者が筑紫に遣ってきます。

668年1月(天智7年)に、近江大津宮で天智天皇即位します。

 

671年1月~7月李守真リシュシンが倭京へ来ます。其の年の11月に唐兵600名と白村江の戦での倭兵の捕虜1400名が、『郭務宗』が率いて倭京(上岩田遺跡=御原宮)へ遣って来ました。大海人皇子(天武)が『郭務宗』等と対して接したものと考えられます。(郭務宗と懇意を得たものと考えられます。)

 

672年は天智10年で、天智が亡くなった年(天智10年12月3日)です。

そして、672年の『壬申の乱』が起きます。雌雄を決したのは、美濃(日田~うきは)の援軍でした。

 

勝利した天武と持統は、飛鳥浄御原宮=福岡県小郡市松崎上岩田~下高橋=筑後國御原郡で20年程精力的に律令国家への専制政治を行い、

686年天武天皇が亡くなると、妻の持統天皇(高天原廣野姫天皇)は694年藤原京=奈良県に都を移します。(678年の筑後國地震で、上岩田は被害を受けて、政務は小郡官衙へ移動したものと思われます。)

近畿奈良では、『天武天皇』は、藤原不比等(藤原鎌足は天智天皇の側近でした。)に否定され悪口されます。

 

つまり、665年2月迄は第36代孝徳天皇(大分の難波長柄豊碕宮で政務をした人)の間人皇后(中宮天皇)が浮羽町の大生寺で『天璽三宝』を預かり、

その後、中大兄皇子(翹岐=501年12月迄、田主丸町唐島に居た百済昆岐王・武寧王・聖明王一族の末裔と考えられます。)が668年滋賀県大津市で、天智天皇(天命開別尊)として即位します(支えたのは大分日出町が本貫地の、阿蘇氏一員である藤原氏です。)

が、4年後の天智10年12月3日(672年1月7日)崩御。如何も病死では無くて、宇治山科で殺害されたものと考えられます。

672年1月9日大友皇子が弘文天皇として、滋賀県大津市で即位。壬申の乱が起こり、大友皇子は672年8月21日首を吊って自殺。

 

『高向王』と『寶皇女』(後の皇極・斉明)の間で儲けた『漢皇子』が、『大海人皇子』の正体でしょう。

 

673年3月20日大海人皇子は、天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)として即位して、福岡県小郡市浄御原宮(上岩田遺跡~下高橋官衙跡)で、皇后の『持統=天智の娘』と伴に、『白村江』の戦後処理(捕虜の返還交渉)に邁進。

 

唐兵が遣って来るので、倭の人民は、祭事土器を地中に埋め、仏像は『うきは』の『橘寺』(大生寺)に預けて、殆どが本州・四国へ避難して、倭に残って居なかったもの想われます。『橘寺』の間人皇后(中宮天皇)が亡くなった後、筑後一帯から集められた48体の飛鳥佛(木造の佛は楠木で制作)は、荒廃した『橘寺』から、奈良『法隆寺』へ移されます。

 

唐の『郭務宗』から、唐の国家の行政仕組みの説明に触発されて、律令国家建設(奈良藤原京の造営と将来の遷都・684年天武13年、八色の姓を制定、真人ま ひと、朝臣あそみ・あそん、宿禰すくね、忌寸いみき、道師みちのし、臣おみ 、連むらじ、稲置いなぎ、の八つの姓の制度)を夢見て、目指します。

 

が、『天武天皇』は13年後の686年志半ばで崩御。妻の鸕野讚良姫皇女ウノノササラ(高天原廣野姫)は、子である草壁皇子(662年筑紫生まれ)に継がせようとしますが、持統3年4月13日(689年5月7日)草壁皇子も27歳で亡くなります。

 

傷心の中の2か月後、持統3年6月に、『天武天皇』の目指した『飛鳥浄御原令』(6年に一度の戸籍作成・50戸ごとの律・班田収授等の令)を出します。

 

殯が明けた後、持統天皇(天智天皇の娘・母は遠智娘オチノイラツコ)として、690年2月14日即位。

 

694年正式に奈良藤原京に遷都します。

 

 

 

※三国史記『新羅本記』では、670年の『倭』の条項で、『ヤマト倭』が『ヤマト日本』の名称に成った。とあり、

此れは、668年近江大津宮で即位をした『天智天皇』が、『日本ヤマトの國』を宣言したものと考えられます。

 

 

つまり、693年迄は、九州倭で、政治が執り行われていたものと、考えられます。近畿政権(新生日本國)は、694年の『持統天皇』(藤原京)から始まった。と、考えるべきです。

 

今までは、701年の大宝律令発令(文武天皇=草壁皇子の子)を新生『日本國』の発祥と考えられていました。

 

奈良県飛鳥浄御原宮の解釈は全くの妄想と想われます。近畿説学者の我田引水的な断定解釈の結論は、目に余るものを感じています。

 

『木を見て森を見ず』の諺がありますが、古代史を考える上では、全体を通して物事を捉え、客観的に判断を下さなければなりません。

 

日本書紀・古事記には、多くの(恣意的な)間違いが認められて、他の多くの書物や伝承との比較検討が求められます。

 

倭が九州に在った事は、鉄鏃の近畿と九州の出土数の差・楽浪土器が近畿には出ない事・阿蘇馬門石の石棺が近畿にある事・飛鳥時代の仏像の楠材使用・地名の移動・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の出土地が日田市である事・ホツマ伝の解釈から『ヒタカミ』が『日田』で、『日田』が『飛騨』・『常陸』に移動した事。『鵜飼』文化の伝承地が、(飛騨を有する)長良川と、(雄略天皇が居たと考えられます、)うきは朝倉地区と、(豊受大神一族の日田の、)筑後川沿いにある事。・大嘗祭に措いて、南方系のビロウ枇榔の葉を使用する事。

等々、明白な事と理解できます。

 

宝賀寿男さま・安本美典さま・内倉武久さま・井上悦文さま・福永晋三さま・綾杉るな女史・伊藤まさこ女史の研究を参考にして、考察(洞察)をさせて頂きました。

 

『天武天皇』と『持統天皇』は、白村江の敗北後の『唐』占領軍下での交渉の困難を克服した、『日本建国』の父母で有ります。

 

国家の在り方に対する想いと業績(佛教文化による治世と飛鳥浄御原宮令から大宝律令へ・九州倭から奈良藤原京への遷都)は、125代の天皇中でも、随一で、もっともっと評価されるべきだと思います。

 

新札紙幣の顔にして、国民に知らしてあげたいものです。

渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎も立派な人物ですが、歴史的人物としては、『天武天皇・持統天皇』は、より相応しい感がします。

 

お役人さんの日本の歴史勉強が不足しており、

文部省は、『日本書紀』・『古事記』に頼った日本史の再検討をし、現在の学者に頼らずに、在野の研究者に重きを置いて、将来の一般人が頷ける『日本史』の再編纂を考えるべきです。(ホツマ伝の解釈が大切です。)

 

そう謂う事(歴史的な方向性を示す事)を行うのが、権力を有する者の仕事です。しっかりと、将来への舵取りをお願いします。

 

                                      

                                      大分県ゆふいん温泉在住  秋永祥治

 

 

 

 

 

 

 

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『蘇我稲目』は、『敏達天皇』(法興王)の事ではないでしょうか。

2019-03-29 | 古代史

前回のブログより、何んとなく頭の思考がスッキリしないので、(此れは、わたくしの先祖の霊界の啓示であろうと考えられ)激動の『欽明天皇』前後の時代を再考慮することにしました。

前回のブログの要旨は、斯帰斯麻宮(『城島』シキの『嶋』シマの宮、つまり『唐島』の事であろうかと思います。)に居た『欽明天皇』が、突然に歴史に登場した『蘇我稲目』に対して、大連臣を贈り、『稲目』の娘の『堅塩姫』(カタシオと呼ばず、カタシ又はキタシ姫です。何かの意味を持っている?)を『妃』として娶り、後の『用明天皇』を儲けます。

此の二人が話し合い、新羅王の『法興王』を招聘した。此の『法興王』が記紀では、『敏達天皇』とされている。

 

と、述べています。が、如何も此の解釈がスッキリしません。

 

わたくしの頭の中での、此の時代での流れを考察してみる事にしました。

 

雄略天皇(大泊瀬幼武尊・即位456年~479年頃の23年間)は、朝倉(広庭宮)~うきは(月の宮=橘氏の宮=大山橘み氏の宮)に、第19代允恭天皇と忍坂大中姫(息長氏の血脈)の第5皇子(第3皇子が第20代安康天皇=阿蘇幣立神社で眉輪王から殺害された人)として誕生。

※     第17代履中天皇・第18代反正天皇・第19代允恭天皇は兄弟で、父は第16代仁徳天皇(田川飛鳥宮~行橋稚桜宮)であります。

 

仁徳は、第15代応神天皇から生まれてきた事になっていますが、

 

神功皇后と其の息子のホムタワケ品陀和気命は、田川の軽(香春町)で、応神から戦を挑まれて幽閉され、ホムタワケ品陀和気は4歳で亡くなった。神功皇后もその後に亡くなった。と『宇佐公康氏』の本の伝承に在り、ホムタワケ品陀和気と応神は別人と想われます。

 

わたくしの説(宇佐公康氏伝承説)では、

崇神(スサノオ=神武)の子であります『宇佐都臣命』が伊予の越智宿禰女『常世織姫』を強奪して、生れたのが『宇佐押人』で、此の『宇佐押人』と叔父であります『御諸別命』(宇佐都臣命の弟)が、戦で息長帯比賣命(神功皇后)と武内宿禰との間に出来たホムタワケ誉田別命を破り、軽(香春)の豊明宮にて応神天皇として即位した事になっています。

 

応神天皇は、崇神天皇の孫であります『宇佐押人』です。

応神天皇(宇佐押人)は、叔父の『御諸別命』(誉田別命・武内宿禰命と、謂われています。)に連れられて、若狭角鹿に韓半島経由で遣って着た鮮卑族拓跋氏の『伊奢沙別命』(このお方は、『神功皇后』が、武内宿禰と安曇連=宗像氏に命じて、三韓征伐の時に、成功成就の願を懸けた神です。気比神。)に、祈願成就御礼に参内がりますが、この時に、伝承では、『名』ナと『魚』ナの交換が提案された。と述べられています。

わたくしには、

如何も、応神天皇が入れ替わり人に思える。のです。大鷦鷯尊は、間違いなく、田川飛鳥宮から大阪難波高津宮に移動しています。此れは、親族が近畿地方に多く展開していて九州(倭)に愛着が余り無かったもの。と考えられます。

 

応神の子が仁徳天皇(大鷦鷯尊)です。応神天皇は、即位40年、大鷦鷯尊(母は皇后の仲姫命)と大山守皇子(母は妃、仲姫姉の高木日賣命)に相談の上で菟道稚郎子(母は妃、宮主宅姫)を立太子して、翌年の即位41年に111歳で崩御します。大山守命はこれを不服に思い天皇が崩御すると反乱を起こします。大鷦鷯尊が之を菟道稚郎子に知らせて、菟道稚郎子(宇遅能和紀郎子)は大山守命を殺します。

 

『菟道稚郎子』(宇遅能和紀郎子)は即位を辞退して、『大鷦鷯尊』との譲り合いの末に自決した。と日本書紀に述べられていますが、

 

『福永晋三』氏研究の『真実の仁徳天皇』では、万葉集歌の解釈より、『菟道稚郎子』が日向の『髪長姫命』を最初に娶っていたものと考えられる。とされ、『大鷦鷯尊』の奸計で、『菟道稚郎子』(本当の仁徳天皇)は即位3年で自殺に追いやられ、王権と。妻の『髪長姫命』を奪い取られた事が真実であろう。と述べられています。

わたくしも、同感で、その通り。と思われます。

 

『応神天皇』は、『大鷦鷯尊』(母は皇后の仲姫命)、『大山守皇子』(母は妃、仲姫姉の高木日賣命)、『菟道稚郎子』(母は妃、宮主宅姫)、以外にも『息長真若中比売』(弟姫)を娶り、『稚野毛二派皇子』ワカノケノフタマタノミコ(息長氏)を儲けています。『稚野毛二派皇子』(息長氏)の子が、『忍坂之大中津姫』(息長氏)です。

 

此の息長氏である『上宮王家』(豊受大神一族)奔流の、『稚野毛二派皇子』から、後の、第20代『安康天皇』・第21代『雄略天皇』(母親は何方も、忍坂之大中津姫=稚野毛二派皇子の子ですので、息長氏です。)に繋がります。

 

日田・上宮王家の真髄は、阿蘇氏の『豊玉彦』(八大龍王)と、その娘の『豊玉姫』(龍神姫)=息長大姫大目命=天鈿女=ミズハノメです。

 

龍神姫の夫は、人生の前中半期は日田市出身の『日高彦彦穂穂出見尊』、後期は安心院町佐田出身の『天之児屋根命=景行天皇=猿田彦=長髄彦命』です。

 

『雄略天皇』(大泊瀬幼武尊)は456~479年頃は朝倉広庭宮に居たものと考えていますが、大刀洗春日区の『和珥童女君』ワニノワラワノキミを娶って、『春日大娘皇女』カスガノオオイラツメノミコ(別名を『高橋姫』と謂い、大刀洗町高橋地区春日を指し示しています。)を儲けます。

 

此の『春日大娘皇女』を娶ったのが、筑後川を挟んで向こう岸の唐島・牧地区に居た、『仁賢天皇』(意富祁王ヲヲケオウ、別名を嶋郎シマノイラツコ=唐島を意味しています。)です。

仁賢天皇』は百済王室から462年に倭の田主丸町唐島に遣って来た『昆支王』コンキオウの事で、記・紀では履中天皇の子で有ります『市辺押磐皇子』イチベノオシイワノミコの子とされていますが、『市辺押磐皇子』の弟の『御馬皇子』ミマノミコと考えられます。

 

田主丸町唐島で462年に誕生しましたのが、百済21代蓋鹵王ガイロオウ又はコウロオウ(即位455~475年没)の子の、『武烈天皇』(=武寧王)で、501年12月に百済に25代『武寧王』(40歳時、即位502年~523年没)として、息子の百済26代『聖王』(即位523年~554年)と伴に、百済へ帰還します。

 

田主丸町唐島の『仁賢天皇』(昆支王の事で、御馬皇子の事です。)は、『春日大娘皇女』(雄略天皇の娘)との間で、『手白香皇女』(継体天皇の皇后で、欽明天皇の母です。)と『橘仲皇女』(神埼の『日の隈』に居た宣化天皇の皇后で、『石姫』の母です。)を儲けています。

 

『手白香皇女』は、昆支王が百済から一緒に連れてきた5人の子の一人と考えられて、『橘仲皇女』が『春日大娘皇女』の子であろうと思っています。

この『橘仲皇女』の子の『石姫』が『欽明天皇』の皇后になり、『敏達天皇』を儲けた。とされていますが、

 

わたくしの考えでは、新羅23代王の『法興王』が540年南大分(蘇我氏の里)の向原~稙田ワサダ(他田オサダ)に遣って来て、『敏達天皇』にされたものと、思っています。

 

『敏達天皇』とは、『蘇我稲目』の事であろうと思われます。

 

『敏達天皇』は、田川郡大任町秋永地区に居た『息長真手王』の娘の『広姫』を皇后にして、『押坂彦人大兄皇子』オシサカヒコヒトノオオエノミコ(別名を『太子彦人皇子』と呼ばれ、このお方が『蘇我馬子』と考えられます。『蘇我馬子』は、別名を『嶋大臣』(=唐島の大臣、と考えられます。)と呼ばれ、626年没とされていますが??)を儲けます。

『押坂彦人大兄皇子』(敏達天皇の第1皇子)と『糠手姫皇女』ヌカテヒメミコから、田村皇子(舒明天皇即位629年~641年崩御)が儲けられています。(舒明天皇が蘇我蝦夷の事?マサカ‼)

 

『糠手姫皇女』は『敏達天皇』と『伊勢大鹿首小熊の女・采女』の間で儲けています。異母兄妹婚になり、何か違和感が残ります。

 

実は、『欽明天皇』の父であります『継体天皇』は、息長真手王の娘であります、『オミノイラツメ麻績郎女』を妃にしており、『麻績郎女』と『広姫』は姉妹と考えられ、『広姫』が『敏達天皇』の妃に為る事は時間軸上、有り得ない事であります。

 

『麻績郎女』と『広姫』の問題の解決には、『敏達天皇』の実態は、『継体天皇』期に誕生している人である。と、考える事であります。

 

つまり、『敏達天皇』は『欽明天皇』の子ではない。と謂う事です。日本書紀は噓を述べています。

 

 

 

 

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漸く、『アメ ノ タリシホコ』の正体が解明できました。 『多利思北狐』とは、押坂彦人大兄皇子(蘇我馬子)であります。

2019-02-13 | 古代史

第29代欽明天皇(天国排開広庭天皇・斯帰斯麻天皇=シキシマテンノウ=久留米の城島シキ唐島カラシマの天皇)は、第26代継体天皇(袁本杼命・近江息長氏)と(田主丸町唐島で育った。と考えられる、息長氏か百済昆支王の娘の、どちらか。と考えられますが、日本書紀では、武烈天皇の姉とされていますので、此れは昆支王の5人の子の一人と考えられます。)手白香皇女の間で生まれ(507年皇后になり、その後の誕生ですから508年~509年頃の誕生)、539年12月即位して、朝倉の『広庭宮』で、政務を司ります。571年4月崩御した事に成っています。

 

継体天皇は、上宮王家の日田市石井地区(ガランドヤ・穴観音古墳)の石井が新羅と関係が深く(天日鉾=スサノオ=崇神が多くの新羅系渡来人=元は、熊本玉名市=江田船山古墳~久留米白山町=白山姫=天之御中主命=水天宮の白氏が、渡韓してシロ・シラを造った。と、考えられます。 を有明海から筑後川流域に住まわせています。)、19年も田川飛鳥宮に這入れずに、やっと526年田川飛鳥宮入り。苦労して527年石井を滅ぼします。

 

この継体天皇が倭に這入って来るまでの19年間、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人(うきは市に巨瀬川が流れています。)の豪族間の権力の駆け引きが、熾烈を極めたものと考えられます。

韓半島の倭の任那府(金官伽耶国・キンキュウコウオウ金仇衡王=即位期間521年~532年)は、532年に新羅に吸収され、滅亡しますが、倭(日本)の内部では、『雄略天皇』期の韓半島遠征時に、百済王族との友好関係(対、高句麗・新羅を考慮して百済王『ヒユウ毗有』が、倭王族との姻戚関係を決断、『蓋鹵王』として、『市辺忍歯別王』と弟の『御馬皇子』・一族を受け入れます。)を結び、安全策として王家の親族多数を田主丸町唐島(片瀬カタノセ=磐瀬イワノセと考えられます、筑後川の瀬があります。)秋永氏集落に住まわせます。

筑後川流域では、親百済派(後の天智天皇系)と、日田上宮王家の親新羅派(後の天武天皇系)の対立が生じていたものと思われます。

 

527年、継体天皇の命を受けた親百済派の近江毛野臣が六万の兵を率いて任那に向かうのを、磐井(日田市石井地区の上宮王家)の命を受けた豊後葛木~肥後菊池・玉名の親新羅派連合軍が、妨害をして、『磐井(石井)の乱』が起こります。

一旦は、継体天皇(息長氏)と、協力した田川飛鳥宮の安閑(息長氏)・佐賀日の隈地区の宣化(息長氏)が勝利しますが、何れの王も次々に暗殺されます。

 

『辛亥の変』531年です。『辛亥の変』とは、日田上宮王家『磐井(石井)』が滅んだ事を意味します。

 

此の時期に、裏で暗躍したのは、大連の大伴金村と考えられます。

 

大伴金村は、武烈天皇(百済の武寧王の事)の時に、大連になりますが、

田主丸町唐島で育った武烈は、武烈天皇8年(501年)12月に武寧王として、百済に帰還します。

近江息長氏の継体天皇の担ぎ出し(傀儡政権の樹立)、豪族間の調整(表向き、実力者物部氏のアラカイ麁鹿火を立てる)、任那府や百済・新羅・高句麗との調整は、使者を派遣し(512年、任那のタリ哆唎国守であった穂積臣押山に軍馬40頭を託した。)、立場を守る為に、ライバルの芽を摘む事も(大臣である平群氏マトリ真鳥・シビ鮪父子を征討)、大忙しであったろう。と、考えられます。

 

大伴金村の行動計画の一番のポイントは、

伝統ある豊受大神一族に繋がる上宮王家である磐井(石井)を、同じ一族の息長氏を使って、どのようにして双方を滅ぼすか。又は、力を削ぐかで有った。と、考えられます。

継体が、倭に居ない中で、512年任那府4県が、武寧王(倭に居た時は武烈天皇)の依頼で百済に割譲され、継体暗殺後の532年には、金官伽耶は新羅の『法興王』(チショウ智証マリツカン麻立干の子)に依って滅ぼされます。

 

『欽明天皇』時代になると、姻戚関係を結んだ『蘇我稲目』が突然に台頭します。

「大伴金村は百済から賄賂を貰った。」と、物部氏オコシ尾輿等から批判され、韓半島外交の失敗を糾弾されて失脚します。

 

わたくしは、

任那府と百済王室の再興を望んだ『欽明天皇』に、『蘇我稲目』が、佛教を敬い新羅王を投げ出して、法皇に為った『法興王』(誕生年は不詳。即位514年~540年崩御とされています)の新羅での数々の業績の話をしたものと思われます。元々は、百済・金官伽耶・新羅は、倭人が韓半島に鉄・銅・金・銀の金属を求めて白頭山迄の基地から起こった国であり、倭人にとっては、百済・新羅の何方も親しみを持っていたものと、考えるべきです。

 

※ウィキペディアでの、『法興王』の治世は、

先代の智証麻立干によって強化された王権を背景に、数々の国家制度の整備に努めた。517年に「兵部」を設置し、520年には官位制度を整えるとともに、官職ごとに公服とその色彩の序列を定めるなど、律令による政治を敷こうとしたとされる。後に531年には17等の京位のさらに上に、すべての国政を司る「上大等」の官位を設けた。また、536年には新羅独自の年号をはじめて定めて建元と称するなど、前代よりもさらに王権の強化を果たしたことが伺える。

対外的には521年(梁の普通2年)に、百済に伴われて梁に対して朝貢を行い、百済との好関係(羅済同盟)を背景に伽耶方面への勢力拡張を図った。522年には伽耶国王が通婚を求めてきたことに対し、伊飡(2等官)の比助夫の妹を送ってこれに応えたが、532年には金官国を滅ぼした。投降してきた金官国王金仇亥の一族は王都に移住させたが、本国を食邑として安堵したとともに、こののち準王族的に優遇したという。なお、金仇亥の末子の金武力は新羅に仕えて角干(1等官)の位にまで上ったと記されているように、服属させた周辺小国の王を貴族階級に取り入れていくことは、新羅の対外伸張政策の特徴であった。ちなみに、金武力の孫に、三国統一の大功を挙げる金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫)が現れることとなる。

528年には貴族層の反対を押し切って仏教の公認を行ない、さらに534年には興輪寺の建立を開始し、仏教を広めることにも努めた。『三国遺事』王暦には十日行を行ったこと、殺生を禁じたこと、また王妃が王の死後に出家して法流と号し永興寺に住んだことなどが伝えられる。また、『三国遺事』 興法・原宗興法条には、法興王自身も出家して名を法雲とし、法空と号したことが伝えられる。

在位27年にして540年7月に死去し、哀公寺の北峯(慶州市孝峴里)に葬られて法興王と諡された

と、述べられています。

 

欽明天皇は、『佛教思想』で国を治める方法を執った『法興王』に痛く感動を覚え、その有能な人物であります、新羅王を引退させて『法興王』を倭に招聘することを画策し、実行をしたものと思われます。

 

倭に、金?造仏像を持って、若い従者(後の『蘇我馬子』=押坂彦人大兄皇子になります。)と伴に、遣って来た『法興王』の子が、『多利思北狐』の実体像で有ると考えられます。

 

わたくしの勝手な推測ですが、欽明(571年崩御)の跡を継いだ第30代敏達天皇(ヌナクラノフトダマシキ沼名倉太珠敷命・別名をオサダノオオキミ他田天皇・585年崩御)が、南大分の蘇我氏の本拠地に来た、仏法を重んじる『法興王』で有った。

と思っております。

亦、『大伴氏の金村』の正体も、渡来人で有ったものと考えられます。

 

応神天皇期に、韓半島経由で倭に渡来した『弓月君』等の大勢の渡来人、所謂『月氏』は、雄略期から欽明・敏達期(蘇我氏4代の時期)に掛けて、倭王朝を根底から変革させる大きな力(代表的には、527年の磐井の乱と531年の辛亥の変です。)を与えています。

 

月氏(大山祇命→大山橘み→橘氏。※平群氏。)は、親新羅、親百済、親高句麗、と、入り乱れて居たものと、考えられます。

 

 平群氏の解釈については、一般には博多早良区に以前に平群邑が在り、其処が『平群氏』の本拠地であった。と、考える研究者が多いので有りますが、日本武尊や景行天皇の滞在の伝承は窺えず、

わたくしは、固有名詞では無くて、山が平たく群れる状態の地域に住んでいる人々。と、想われて、景行天皇が行宮を設けた伝承があります、吉井町若宮八幡宮(日の岡古墳・月の岡古墳があります。)が、日本武尊も居たものと考えられます。

 

うきは市吉井町から久留米(しき)に掛けて平たく群れて横たわる耳納連山の麓に住した橘氏(大山祇)一族を、『平群氏』と呼んだものと、考えています。

此の『平群氏』は、後の桓武天皇を、高野=竹野タカノ新笠の出身地であった唐島秋永地区が、耳納連山の麓に位置する事で、『桓武平氏』と呼ぶ切っ掛けに為ったものと考えられます。

『耳納』ミノは『水縄』ミノとも謂い、元は日田市の豊受大神(高躬)一族の『美濃』ミノに繋がっています。平群氏とは、日田市から久留米市に架けて平たく横たわっている耳納連山一帯に住した人達の総称を意味している。と考えられます。

奈良県の『平群』の名称は、ずっと後(7世紀の天智天皇~天武天皇頃)の人々が、663年10月の白村江の戦い後、うきは~朝倉から大阪・奈良へ避難移動していて、朝倉・平群の名前も一緒に持って行ったもの。と考えています。

 

 

『元興寺伽藍縁起』では、オサダ他田(後の敏達天皇)・推古は幼児期に南大分の後宮(東院)で一緒に居た時期がある。と述べられており、後に二人は結婚をします。(記紀では、二人は、父は欽明天皇で、母違いの兄と妹。と述べられています。普通ではあり得ないことです。)

また、南大分にはワサダ稙田地区が在り、此れはオサダが→ワサダに転化したもの。と思われます。『オサダ他田』とは、南大分の『ワサダ稙田』を意味しています。

 

随書にある、(文帝の)開皇20年(600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 タイ?(ワ倭の間違い?)俀王の姓アマ 字タリシホコ 号アハケミが遣使して宮中にやって来た。と述べられており、

 

西暦600年は、倭では、推古8年で、男王では無くて、研究者を苦しめております。

 

わたくしの考えでは、

600年の時期は、倭王は男王であった。と考えるべきであります。

 

585年に崩御した『敏達天皇』(=『法興王』で、本来の『多利思北狐』は息子の蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子です。)の次に即位したのが、欽明天皇の実子『池辺皇子・大兄皇子・橘豊日命・用明天皇』です。『用明天皇』は、585年10月即位して587年5月天然痘で崩御したと記紀は記述をしていますが、此れは不自然であります。 

  

『用明天皇』は、587年に『敏達天皇の息子=押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子』から殺害(毒殺)されたものとも、考えられます。『用明天皇』の子であります『厩戸皇子』が、本当の『聖徳太子(622年2月没)』と考えられます。

 

蘇我蝦夷が、(推古天皇628年4月崩御の後、)629年田村皇子『舒明天皇』(敏達天皇=法王の第1皇子である押坂彦人大兄皇子。の子、誕生年不詳~641年11月崩御。和風諡号は、『息長足日広額天皇』)を擁立します。

 

 

642年皇極天皇が即位。蝦夷の息子の蘇我入鹿が、643年斑鳩宮(福岡県みやこ町~豊津町)に居た、『欽明天皇』の実子の『用明天皇』が儲けた『厩戸皇子』の子であります『山背大兄王』(継体=福井息長氏→欽明→用明→厩戸皇子→山背は、息長氏の日田上宮王家の血が流れています。)への襲撃を行い、自害へ導きます。

故に、入鹿の襲撃を知った、父の蝦夷(大山祇系司馬氏=月氏=馬の鞍造り)は、禍が入鹿に降りかかる。事を心配します。

 

当然、福岡県うきは市の橘地区に在ります寺『大聖寺(大生寺)』で産まれた、と考えられます『厩戸皇子・豊聡耳』(622年2月没)は、本来の聖徳太子であります。

 

 

 

随書に述べられております、『俀王姓阿毎字多利思北孤』は、蘇我馬子(626年6月19日死去)=押坂彦人大江皇子(出生・死去共に不詳)』が、父『敏達天皇』の皇后『推古天皇=小墾田皇女(626年6月19日崩御)』を娶り、摂政として権勢を誇っていた。と、考えられます。

 

 

 

 《その後の考察による訂正》2019年4月6日

 

『用明天皇』と、『厩戸皇子』・『崇峻天皇』は何方も、押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子に殺されたものと考えられます。従って、『俀王姓阿毎字多利思北孤』とは、蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子で有った。と推論されます。

 

 

 

 

 

 

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