石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

「怒る、吼える、一匹」 金子勝 経済学者 

2015-03-13 12:04:26 | 人物

AERA2003年3月31日号 「現代の肖像」掲載

 

イラク攻撃開始、「3月危機」を前に、ボルテージ沸騰中。

小泉にブッシュに竹中に、我らに代わってパンチを見舞う。

「悪魔の予言」は悉く当たり、「学会のアルカイダ」を自称。

この人、体育会系?お笑い系?いいえ、実はロマンティスト。

50歳にして酒を断ち、追いつづける見果てぬ夢とは?

 

 金子勝(かねこ・まさる)は人間も生き方も丸ごと「ネオフィリア」である。ネオフィリアとは、好奇心を失わず、現状に満足しない動物のことだ。群れることを嫌い、ためらわずに敵に吼える。

 テレビ朝日「たけしのTVタックル」「朝まで生テレビ!」「サンデープロジェクト」などで、今や「怒る、吼える」がこの男のブランドになってしまった。経済の「3月危機説」とイラク情勢が緊迫化して、彼のもとに電波メディアからの出演依頼が続く。フジテレビ「報道2001」、TBS「サンデーモーニング」、NHKラジオ「ビジネス展望」……。

 活字では左の「世界」から右の「諸君!」、おじさんの「週刊現代」、若者の「SPA!」までが彼のコメントと分析を求める。月刊「現代」4月号で、金子は竹中平蔵に挑戦状を叩きつけたばかりだ。曰く、

 「竹中氏よ、『あしたの経済学』などという本を書く暇があるなら、まずは昨日までの経済の問題がどこにあったのか、自分の責任もふくめて総括すべきだ。」

 番組制作者も編集者も、金子勝のボルテージの沸騰を期待する。小泉に、竹中に、ブッシュに、我らに代わってパンチを見舞ってくれる。闘うのは彼で、僕ら見る人。いつの間にか人々は「金子勝依存症」になっていないか?

 3月7日、国連イラク査察団から追加報告が提出された日、私宛に金子から異例のメールが届いた。「イラク攻撃が悪い方向へ向かっています。本日の東京新聞夕刊に書いたものを読んでください」。新聞には圧倒的なアメリカ軍に歯向かう「ペンの哀切」があった。最後に「私は孤立している。しかし孤立を恐れない」という切迫した言葉で終わっていた。今やマスコミに引っ張りだこの金子が孤立?この複雑な二面性(アンビバレンツ)が彼を解くキーワードかもしれない。

 慶応の金子研究室には深田恭子のカレンダーがかかっている。学生からの差し入れだ。グラムシやヴィトゲンシュタインなどの硬い書物と共存している。乱雑な室内に入ると彼はコンピューターを立ち上げて「株価」をチェックする。「あ、下がってる!」と大声で叫んで嬉しそうだ。株価下落を喜ぶ経済学者とは、どういう人だろう。「僕は株が上がることを予想できないんです。それが出来たら、とっくに大金持ちになっています」

 テレビではよく怒るが、素顔の彼は「お笑い系」だ。ゼミ学生との旅行など笑いの連続で、その中心に必ず彼がいた。面倒見がよく、学生の就職先も博報堂、トヨタ、銀行などが決まっている。日銀を狙う一人を捕まえ、「お前、日銀に入って10年たったら、金子ゼミにいたのは人生の汚点でした、なんて言うんだろ!この野郎」とブチかます。

 去年12月20日、琉球大学・公法研究会に金子は招かれ「反ブッシュイズム」の講義をしたが、これにゼミの学生たちも参加した。そもそも金子と沖縄の関係は1971年まで遡る。

 大学に入学したばかりの金子が初めて行った「外国」が本土復帰前の沖縄だった。その時に身元引受人になった弁護士から、金子は去年、憲法記念日に呼ばれ講演した。それを聞いた琉球大学の憲法学の教授から彼は来講の要請を受けたのだ。国立大学の教室に慶応の学生も居並び、経済学者の金子が「法学特別講義」で語る。学界の流儀などお構いなしの、実に金子らしい教室風景だ。

 「沖縄は僕の原点です。イラク戦争が始まる前に、もう一度、ここに来たかった」と金子は言う。その日の午後は、ゼミの学生とのツアーで普天間、嘉手納基地を回った。「こんな独立国って、ないよな!」エンエンとつづく米軍基地のフェンスを前に金子はつぶやく。北部の沖縄美ら海水族館にも行った。あいにく閉館時刻が過ぎていた。みんなで巨大水槽を上から眺めるしかなかった。「オレが泳ごうか」と金子が言う。「見たくなーい!」のブーイングが学生たちから返る。

 『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店・大澤真幸との共著)は彼の沖縄でのフィールドワークの書である。戦争の記憶と「沖縄県が自由に使える一般財源は、わずか7%」の経済的現実。沖縄は、ハーバード大学に留学してMBAをもって帰る、並みの経済学者とは別な人格を金子の中に作った。

 その夜、琉球大学学生と慶応大学・金子ゼミとの「交歓飲み会」が那覇の居酒屋で開かれた。泡盛の乾杯が続く。しかし金子は一滴も飲まない。学生たちに注いで回る役だ。そしてデカい声で一番盛り上がっていたのは金子だった。飲まずに酔える、それが金子の特技であり、サービス精神である。

本棚のない家 下町育ち

反エリートの文学&野球少年

東大で「たった一人の反乱」

 帰途、年末の飛行機は混んでいた。少しゆっくり話したいと、私はスーパーシートに移ることを彼に提案した。ツアーの格安料金で来ている彼は、追加料金を自分で払った。「取材費から出しますよ」という私に対して、「いや、これ僕の旅行ですから」と受けつけない。これはきっと彼の生活感覚なのだ。一体、どんな家庭環境で育ったのだろう?

 家計に学者は皆無である。東京・板橋に生まれ、父親は自動車整備部品の卸売業だった。家には本棚もなく、電話口で頭を下げている父親を何度も見ている。終わって舌を出している場合と、心底打ちのめされている、両方の父をしっかり観察していた。父は佐渡島から学問を志して上京したが、中国戦線に徴兵に取られた。学歴は夜間中学卒である。学者になってゆく息子を夢見つつ、60歳を超えて間もなく前立腺を患って死んだ。「院内感染で」と、金子は悔しげに言う。誕生日に数日足りず、生命保険は5千万円のはずが、おりたのは500万円。「実態経済」の理不尽を目の当たりにした。

 中学の頃は文学少年で、同時に野球に熱中した。東京教育大学付属駒場高校では、頭でっかちなエリートたちの「逆を張って」ハンドボールに汗を流す毎日だった。文化祭では人形劇の台本を落語風に書いて皆を笑わせていた。その頃の学友は、「TVタックル」でハマコーと漫才風にやりあって笑いをとる金子を見て「お前、ほんとにあの頃と変わってないなー」と感心した。体育会系か、お笑い系か?いや、やっぱり「左翼系」だったという貴重な証言がある。

 71年、金子は東大にストレートで入学、教養学部自治会委員長になり、学費値上げ反対闘争でストライキの先頭に立った。その運動は、どこか「たった一人の反乱」の孤独感があった。毎日一人でマイクをもってアジ演説をする金子が印象に残っていると述懐するのは、東大社会科学研究所教授・大沢真理である。

 「駒場東大前の駅を降りて正門から第一本館に学生がゾロゾロ歩く、その3分間が金子さんの勝負なのです。大事なことを手短にしゃべる力を、あそこで彼は鍛えたのでしょう。自分で書いたガリ版刷りのビラも配っていました。ゴム草履を履き、ズボンの裾を折って、手拭いをいつもお尻にぶら下げていました」

 もともと学者になりたかったわけではない。「就職なんか出来っこないと思っていたから」大学院に残り、東大社会科学研究所(社研)に進んだ。しかし学問の場が、業績の取り扱いや人事において、必ずしも知的でもフェアでもないことを思い知る。奨学金と塾教師のアルバイトでしのぐ毎日だった。

 無名で貧しいところに、知性の始祖鳥は舞い降りる。今回の取材で私を驚かせたのは、27歳の彼が書いた論文だった。イギリスとインドの関係を、財政から分析した論文「『安価な政府』と植民地財政」(福島大学『商学論集』80年1月号)。本文2行の中に注が3つ出てくるようなガチガチの学術論文だ。

 私はこの論文を混雑した地下鉄で立ったまま読み始め、降りる駅を忘れ、学問とはこういうものか、と涙ぐんだ。近代イギリスが「安価な政府」を実現したことは経済学の常識である。しかし、これに金子は真っ向から反論した。「それはイギリス側の文献だけに頼った事実誤認だ。安価な政府は、植民地への『安価な侵略』があったから実現できた」。彼は学会が無視したインド・ナショナリストたちの資料と文献を徹底的に洗った。そして、例えば次の事実を明らかにした。

 「イギリス軍の全費用はインド財政が負担した」「インドでの反乱鎮圧費用はインド財政の負担だった」。そこには「イギリス人幕僚参謀の人数と経費」が表で示され、「インド手当」に加えて本国に帰国後の「年金・退職金」までインドから送金された事実が明らかにされている。イギリス植民地政策の「カラクリ」と、アジア略奪の事実に、改めて怒りがわいてくる論文だ。大沢が語る。

 「目の覚めるような明快な論文でした。この2年後に土光臨調でサッチャーに学べ、の大合唱が起こり、中曽根内閣が出来ます。サッチャーは『ヴィクトリア時代に帰ろう』と言っていた。その遥か前に、金子さんは安価な政府の歴史的実態を暴いたのです」

学府の秩序を破壊する男

東大を駆逐され、冷や飯食い

職安に通い、妻の稼ぎに頼る

 大内兵衛、遠藤湘吉、島恭彦といった財政学の巨大な権威者の書物が論破され、論文の最後では学界の重鎮、宇野弘蔵が名指しで批判されている。まるで、「マル経も近経も、主流も傍流も、みんなやっつけちゃうぞ」の挑戦状だった。このカネの流れで世界を読み解く方法は、実は、帝国日本のアジアに対する侵略政策、「中央と地方」の関係、そしてイラク戦争を始める覇権国家アメリカの実態さえ逆照射する視座と深さをもっている。経済学を批判する若き経済学者、それが金子のデビュー作だった。

 道場破りをするが、彼の専門は何だろうと周囲は首をひねった。研究テーマはあちこちに飛び、アカデミズムで出世するのに必要な一冊の著書にまとまらない。学問上の受胎が定まらないまま、金子は東大医学部保健学科大学院出身の田村真理子と結婚した。披露宴の司会をしたのが新婦の高校の同級生でもある大沢真理である。

 「仲人の林健久先生を前に、新郎が『林さんは下り坂の学者、僕は上り坂の学者です』とスピーチしたり、新婦の友人代表の米原万里さん(エッセイイスト)が新郎の悪口を言い始めたり、まあ、とんでもない結婚披露宴でした」

 先に紹介した論文で彼は東大助手になれたが、またこれが「組織と学問の秩序を破壊する男」として東大をクビになる底流を作った。「マサルを欲しい」という一部の強い要望も、金子を嫉妬し否定する大勢には勝てず、彼は東大をお払い箱になり、長い「冷や飯」の時代がはじまった。経済的には新妻に頼り、職安に通い、失業保険でしのぐ日々。今、彼がどんなに多忙でも、秘書や事務所をもたないのは、この「干されていた時期」の痛切な体験故である。「いつあの状況に戻ってもいい」覚悟がある。

 85年、金子はようやく茨木大学に職を得た。単身赴任の不自由と、都落ちの鬱屈のなか、彼は組織内衝突を繰り返す。「すぐ、ケンカしちゃうんです」。制度論を専門としながら「人間の事実」を追って、まるで檻にいられない「ネオフィリア」として、地を這うフィールドワークを続けた。80年代はイギリスに5回、90年代はインドに8回、スリランカに3回、中国に3回、韓国に6回。1回が約1カ月間、スラムから中央銀行、地方まで徹底的に歩き、語りあい、調べた。彼は今の言論活動を「デパートに出店して試食品を配っているようなもの」と言う。思えばこのフィールドワークが、その「だしの素」を作った。

 旺盛な移動について、本人は「僕は明るい騎馬民族ですから」と笑う。現地のどこにでも寝られ、何でも食う。唯一下痢をしたのは日本大使館に招かれて食べた日本食だった。彼の官僚嫌いは、実に「腹の底から」である。

 その後、法政大学を経て「坊ちゃんと御用学者がひしめく」慶応大学に職を得た。よくもまあ、という声に彼は言う。

 「採用はモメたはずです。僕は常に賛否両論の男、学界のアルカイダです」

 悪魔の予言者のように、連続して重要問題の本質を突いてきた。経済戦略会議批判、ITバブル批判、そしてアメリカV字型回復論と景気底入れ宣言の批判など。今では「恋愛する時間もない」というほど、圧倒的に増えた著作と電波への出演依頼。当然、逆風もある。竹中平蔵・金融担当大臣の緊急プロジェクトチームのメンバー、木村剛は次のように語る。

 「リアリストの僕は理想主義者の金子さんを尊敬し、羨ましく思います。ただ、金子さんは目覚ましい言論人ですが、実践者ではない。格闘技評論家がリング上の血みどろのレスラーをアホと言えるけれど、じゃ実際に闘って勝てるのか?言っていることは極めて正論なんですが、批判するだけで世の中が変わるとは思えません。政治家や官僚を叩くのは簡単だけど、政策現場を動かすためには、それなりの苦労が要る。金子さんには得意分野で第一級の理論を構築してほしい。しかし、メジャーになったのですから、現実に闘う人間への思いやりも必要ではと思う時があります」

 実は、「理論に帰れ」という声は若い金子ファンからも聞こえる。京都大学学生・鈴木洋仁は金子の『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書)に感動、1年休学してニセ学生として金子の授業に通い詰めた。今やメディアに消費されつつある金子を憂慮して語る。

 「先生には天気予報のような3月危機説の発言などやめて、早く本格的な理論構築に取り組んでほしいですね。テレビでの、あの分かり易い言い方や説得力は人々を思考停止に誘い、むしろ癒しに似た安堵感を流布させていて、金子さん本来の仕事ではないと思います」

 金子が勝負を賭ける「メジャーリーグ」とは、アダム・スミス、マルクス、ケインズなど経済学の歴史で体系を残した人物に伍することである。「そういう著作を残したいという夢があります。社会哲学、歴史哲学、経済学批判の3冊を書かずに死ねません」と金子は言う。

 酒を1日も欠かせなかった彼は2年前に禁酒した。尿道結石、肝脂肪、血糖値どれをとっても危ない、と医者から言われた。禁酒して変わったのが文体だった。それまで「と考えられる」「と言えなくもない」という学者的表現が、「だ」「である」とシャープになった。

 50歳にして酒を断って夢を追う。自分に負荷を掛け、「家庭内ホームレス」状態に自分を追い込む。東京・駒込に家を建てたが、妻と娘二人は新居に移動し、彼はそれまでの所に一人残った。あまりに乱雑を極めるそこは、時に学生が掃除にくる。家族がいる家には「もらい湯」に立ち寄る程度で、深夜まで執筆し、コンビニで買った食事で飢えをしのぐ。レトルト食品を当てるワザで「TVチャンピオン」になれる自信がある。

マスコミの検証力劣化に警鐘

「みんな、どうしたんだ!」

「ネオフィリア」は叫ぶ

 金子の発想と分析は、今や海外からも注目されている。中国社会科学院から岩波書店『反グローバリズム』、NHK出版『日本再生論』の中国語訳が刊行された。フランス国際問題研究所や韓国からも翻訳の希望が来ている。「東アジア経済圏」の確立が急務な時、金子への期待が募るが、彼はクールに言い放つ。「石原慎太郎を宰相に!なんて言ってるうちは、そんなの絶対実現しませんよ。前の戦争の総括もしないで、アジアの人たちを説得できるわけがないでしょう」

 この「状況認識」が彼をメディアに向かわせる。「おいみんな、どうしたんだ!と言いたい場面がしょっちゅうです。96年の住専問題ぐらいから新聞の検証能力がダメになり、マスコミはこぞって無責任・同調社会を増幅させています」

 流れに身を寄せて同調するのでなく、「対抗軸」、「逆張り」をゆくスタイルで来た。ナショナリズムで群れたい奴は群れろ。たった一人でも生きてゆく価値があり、そのルールや規範をどう作るかに彼は心を砕く。「引っ張りだこ」と「孤立」の矛盾した二面性を引きずりながら。

 「メディアや論壇で、無責任な輩はますます増長しています。メディアが権力に弱いものとはいえ、この国はあまりに目に余る状況ではないでしょうか。学問の世界では、もっとひどいアメリカ追随が行き交っています。とりわけ経済学は無残な状況です」

 そうして迎えた「イラク開戦」である。こうなることを洞察して1月に『反ブッシュイズム」(岩波ブックレット)を既に刊行している。ブッシュ演説があった3月18日、彼は語った。

 「歴史の転換点に、こんなに劇的に遭遇するとは思いませんでした。驚くべきは、イラク攻撃後の世界がどうなるのか、誰もそのプランも構想も持っていないということです。イラク開戦は世界の全く新しい『ご破算』です。過去の、習い性の考え方を突破して、自分をリニューアルしなければなりません」

 新しい、稀有な対抗軸を作るために金子勝は一匹の「ネオフィリア」でありつづける。

 (文中敬称略)

 

金子勝氏ツイッターアカウント


嗚呼、みちのくひとり旅。

2014-07-01 12:11:07 | バイク雑誌「GOGGLE」

 生まれて初めて、バイクで「みちのく」を走った。モトグッツィ・カリフォルニアで駆け抜けたみちのくは、かつて「奥の細道」の芭蕉が、苦難の連続でゆき悩んだ道であった。・・・・・・なんていう書き出しで始めたらカッコイイけど、東北自動車道というのは、どうしてこうも風情がないのだろう。宇都宮、福島と過ぎても、まるで関東平野の延長。変哲のない広がりに、エンエンとつづく灰色の道。「みちのく」の遥かな思いなど、微塵もして来ないのだ。

 陸奥と書いて「みちのく」と読む。かつては、みちのく、と聞いただけでSLの汽笛が聞こえてきそうなほど、「遠くへ行きたい」の思いをかきたててくれた。上野駅の広いコンコースに立っただけで、そこはもう、雪国・リンゴ園・青函連絡船・・・・・・「みちのくワンダーランド」の入り口だった。

 今は、いくら走っても、首都圏の空気が漂い、そこから逃げられない雰囲気なのだ。「旅情」はどこ?旅の切なさって何?

陸中海岸はナポリへの道?

 ようやく、東北道を盛岡インターで降り、106号、別名、宮古街道をつづら折り。さすがにここまで来れば、山が幾重にも迫って、いやがうえにも気分は「みちのく独り旅」。駆け降りるように宮古の町をつっきると、ドドーンッ!と陸中海岸が目に飛び込んできた。

 台風が去り、つかの間の安堵もあわただしく、次の台風が接近中との報道。まるで人生を急ぐように、僕は「カリフォルニア」のアクセルを開けた。モト・グッツィ「チェンタウロ」を整備する間、福田モーター商会のご厚意で拝借した代車の「カリフォルニア」の素晴らしさに、ぼくはすっかり参ってしまったのだ。こいつで長距離ツーリングしたーい!願いが現実になって、陸中海岸の道をエンジンをうならせながら僕は走っている。いや「カリフォルニア」が走っている、僕はしがみついている。

 地中海の海岸線を、ジェノワからナポリに向かう道を、うなりをあげて疾走するために作られたモト・グッツィのマシーン。本来、そのタンデム・シートには、短パンからこぼれるような豊かな尻の女を乗せて、伊達男が、カンツォーネを鼻歌で歌いながら走るのである。

 灰色の雲低くたれた陸中海岸、雨が降らぬのがせめてもの救い。今は、女の白い尻など望むべくもない。せめて想像でもと、インターネットで昨夜見た禁断のエロスの画面、消えかけの火鉢の炭をかきまわすように思い出してみる。そこへガーッ、と巨大なタンクローリーが幅寄せしてきて、かの映像は「プチッ」と切断、幻の画面には「・・・・・・接続できません」のコメント。

 名勝「潮吹き穴」何やら官能的な地名に惹かれてバイクを降りた。崖の階段道をエンエン降りて行くと、ウィーク・デーの昼下がりというのに、何組かのカップルが行き交う。例外なく、しっかりと手を握りあっている。アツアツぶり、いやがうえにも高まって、僕が通り過ぎるのを待ちかねてヒシと抱き合ったりするんだろう。ニャロメ・・・・・・。

 「潮吹き」というのは、僕はAVビデオで勉強した。詳細なメカニズムは分からないが、官能の極みで女性が「おもらし」することである。といってもシーツを濡らす、の次元ではなく、クジラのように壮大に吹き上げる状態を指す。「吹く」というより「噴く」と書くほうが、より正確である。あまたいる中で「潮噴き可」のAV女優サンは、別格のギャラで待遇されるやに伺っている。公平な経済原則というべきだろう。

 めずらしいものは大事にしよう。名勝「潮吹き穴」には岩手県民のそんな願いがこめられている。一億年の昔、このあたりの大地が沈降、隆起を繰り返してリアス式海岸ができあがった。その過程で洞窟が海に沈み、海中の波の加減で巌の隙間からドーッと潮を吹き上げる。この現象を、古代の人は神の意志と崇めて、この地名をつけた。

 潮吹きは、海の表面に寄せ来る波とはまったく無関係に起こる。吹き上げる高さも、ドーンと30メートルぐらいあがることもあれば、地面の底でズズーンという不気味な音が聞こえるだけで、真っ白な蒸気のようなものがたちのぼるだけ、ということもある。別名「気まぐれ穴」とも呼ばれている。

 絶え間なく、地響きが聞こえる。まるでモトグッツィ「カリフォルニア」のOHV2バルブ・エンジンのように、変拍子のリズムが、あくまでも低く、深く聞こえる。大自然の意志。それを人は「気まぐれ」と呼ぶ。しかし人間に把握、了解できないことを簡単に「自然のきまぐれ」などというのはどうだろう。

 開発によって絶滅しつつある動物や植物が報告されている。この惑星こそ、人間の「気まぐれ」に困惑しているのではないのか?

 さて、バイクに戻りかけると、男が一人、足早に階段を降りてくる。はたち過ぎぐらい、リーゼントヘアー。なんだか目が血走っている。おや、一緒にいた彼女は?黒いミニスカート、ロングヘアーの女がはるか向こうで、男に向かって何か怒鳴っている。おいおい、さっきまでイチャイチャしてたのに、こっちが「気まぐれ穴」見てるあいだに、どうなっちゃったんだよ。

 やがて僕は女とすれちがった。泣き腫らした目でうつむいている。僕のことなど見向きもしないで唇をかんでいる。通り過ぎるしかない。げに、気まぐれは、男女の仲である。

浜辺で浄土を思い、玉砕の島をしのぶ。

 すぐ近くに「浄土ヶ浜」というところがある。この辺は、本州最東端の地に連なり、太平洋に向かって東にせり出している。いわば本州で一番アメリカに近いところである。

 普通「浄土」とは「西」を指す。それも山の彼方の、金色の雲たなびく空をさしていう。東に向かう海辺を「浄土」と呼んだのは何故だろう?

 そう呼びたいほどに、陸地が微妙に入り組んで見えるこの浜辺を、古代の日本人は美しいと見たのだろう。残念ながら、伏して祈るような心境にはなれない。すぐそばの国道には長距離トラックが行き交い、お香をたこうにも、僕の身体はすでにガソリンの匂いでたきしめられている。

 呆然と、しばし海を眺める。浄土ヶ浜だから、つい、普段考えない人のことを偲ぶ気になる。太平洋戦争末期、昭和十九年七月、この海の彼方、サイパン島で私の叔父二人が戦死している。

 そのサイパン決戦に先立つ、いくつかの海戦・航空戦で、日本海軍は致命的な敗北を喫した。玉砕戦法。敵の最新式レーダーの前で、一体こんなのが「戦法」の名に値するのかと思えるほど、ただ「突っ込んで、果てよ」という作戦で物資と人の命を、薪のように消耗した。

 戦闘が終わった後、アメリカ海軍は、作戦続行に並行して、行方不明者を捜索する特別部隊を周辺海上に放った。出動前に兵士たちには「二週間は生き延びよ、必ず助けに行く」と言ってある。現に、海上を13日間漂流の末救出された例がある。日本軍との、この違いは何か?

 また最近読んで知ったが、アメリカ兵たちは出動の前に、捕まった場合のために最低限の日本語、国際法の基礎を叩き込まれ、またもし、山中に不時着した場合のために、食えるキノコと食えないキノコの図版を渡されていた。つまり、「なんとしてでも生きて、救出を待て」という指示であり、激励である。

 戦争で日本は「アメリカの物量に負けた」という説が一般的である。しかし本当に「物量の差」だけで負けたのか?そうではない、日本は「考え方」の差で負けたのではないか?そしてこの「考え方」の間違いは、本当に原因を突き止められ、反省され、克服されたのか。もし、そうでないならば、同じ過ちが別な局面で、私たちの子供らの世代にふりかかるであろう。あの戦争が残した問題は、現在と未来の問題である。

港町ブルースが聞こえる海の道。

 サイパンにつながる陸中、浄土ヶ浜の海辺に立てば、潮騒の音高まって、落ちていく太陽もない曇り空。雨近しの予感で、よしなしごと考えてる場合じゃない。先を急ぐ。

 いくつもの漁師町を通り過ぎる。さすがにアメリカンバイクは道に見掛けない。岩手県といえば有数の保守的風土だ。映画『イージーライダー』で、主人公はアメリカ南部のカントリーロードで撃ち殺されている。なるべくおとなしい乗り方を心掛けて走ろうか、なんてモタモタしていたら、うしろから、「ピーッッッ!」とすごい警笛。真っ赤なフェアレディZ、「盛岡」ナンバー、茶髪(!)どこが保守的だ・・・・・・?

 地図を見ない気まま旅。三陸海岸は突然山道に紛れこんだりする。颯爽たるアメリカンバイクも、雨上りのつづれ折りの山道、濡れ落ち葉に泣かされた。

山の路、バイク泣き泣き秋の入り

 ここで転倒すると、バイクは谷底に落ちてゆく。「旅情」は常に危険と背中合わせである。

 やがて、見晴らしのいい海にまた出る。山田湾にはいくつもの生簀が浮いていた。きけばホタテの養殖。入り組んだ入江に漁船が沢山つながれ、このあたりが、いかに豊かな漁場であるかが伺える。

 「宮古、釜石、気仙沼・・・・・・」港町ブルースで歌われるこの辺り、漁師気質の威勢のいい掛け声と、種類も数も豊富な魚たちで沸き返るところだ。行き交う船を見ながら、「これこそ豊かさ」、という感慨が湧く。釜石の溶鉱炉の火は消えても、国の借金が四百兆円あっても、漁師たちが船に魚を積んで、元気よく戻ってくる限り、まだまだオレたちは生きていける。三陸海岸、国道46号線での思いである。

「愛のきずなで防ごう非行」
 いつもながら地方町村の掲示板で見る標語というのは、楽天的だ。

 「ありがとう、言えばトラブルない暮らし」、ごもっともだ。

 「この町では、合成洗剤は決して使いません」というのもあった。重茂という町の漁業組合と婦人会の連名で、紙が張り出されていた。合成洗剤が海に流れれば、魚たちの迷惑は計り知れない。それはまた、人間の迷惑に返ってくるのだ。旨い魚を享受する、都会のサラリーマンや主婦たちに、この自覚がまるでない。僕にもない。

 小さな町の宣言を押し潰すように、巨大な工場から日産何トンの合成洗剤が作られ、流通のネットワークで、この国道にもトラックで運ばれているんだろうなー。あー、早く晩メシにうまい魚食いたいなー。

ああ民宿の夜はふけて。

 やがて浪板の町に近づく。妙に道路工事が多い。あとで知ったのだが、天皇皇后陛下が、近くこの地にご訪問になるという。十月五日、「全国豊かな海づくり大会」がここである。

 「おでんせ!」の言葉で迎えられた。岩手方言で「いらっしゃいませ」の意である。海に面した崖っぷち、民宿「さんずろ家」に到着したのは午後6時。まず、「ガラス窓一杯に海が見える風呂場に駆け込み、たっぷりの湯に全身を沈める。でてくる鼻歌は、イヨッー、やっぱり森進一「港町ブルース」です。

 さんずろ、という奇妙な名前の由来を伺えば、この民宿をつくったおじいちゃんの名前が「三次郎」さん、岩手なまりで「さんずろ」なのだ。

 座敷の窓の外は海である。夜の闇にイカ釣り船が・・・・・・と言いたいところだが、「台風接近で今夜は漁り火は見えないよ」と夕食の給仕をしてくれた30代の若奥さん。亭主はサーファーで、民宿は女房に任せ、ほとんどの時間、海に出て波乗り三昧。そういう暮らしも悪くないなー、と感心する。

 料理のメインに出た、イカの「腑入り」は圧巻であった。塩辛をおいしくする、あのイカの臓物を、ホタテ貝の形をした鉄板にのせて、ネギ、豆腐、イカのげそ、味噌と一緒に掻き混ぜて焼くのである。苦い甘さのイカの腑が口いっぱいに旨さを広げ、僕を、海の子宮に抱かれたような幸福感で包む。

 その夜、潮騒を聞きながら眠りに就いた僕は、とんでもない夢を見た。「腑入り」を食ってるのだが、鉄板の上にバイクのおもちゃみたいのが何台も転がっていて、エンジンから黒いものが、まるでイカのスミのように流れ出ているのだ。バイクの内蔵に迫るほど、僕はマシーンを愛しているか・・・・・・と、問われているような夢だった。 

 

バイク雑誌「ゴーグル」1997年12月号掲載記事


嗚呼、みちのくひとり旅。

2014-07-01 10:44:17 | バイク雑誌「GOGGLE」

 生まれて初めて、バイクで「みちのく」を走った。モトグッツィ・カリフォルニアで駆け抜けたみちのくは、かつて「奥の細道」の芭蕉が、苦難の連続でゆき悩んだ道であった。・・・・・・なんていう書き出しで始めたらカッコイイけど、東北自動車道というのは、どうしてこうも風情がないのだろう。宇都宮、福島と過ぎても、まるで関東平野の延長。変哲のない広がりに、エンエンとつづく灰色の道。「みちのく」の遥かな思いなど、微塵もして来ないのだ。

 陸奥と書いて「みちのく」と読む。かつては、みちのく、と聞いただけでSLの汽笛が聞こえてきそうなほど、「遠くへ行きたい」の思いをかきたててくれた。上野駅の広いコンコースに立っただけで、そこはもう、雪国・リンゴ園・青函連絡船・・・・・・「みちのくワンダーランド」の入り口だった。

 今は、いくら走っても、首都圏の空気が漂い、そこから逃げられない雰囲気なのだ。「旅情」はどこ?旅の切なさって何?

陸中海岸はナポリへの道?

 ようやく、東北道を盛岡インターで降り、106号、別名、宮古街道をつづら折り。さすがにここまで来れば、山が幾重にも迫って、いやがうえにも気分は「みちのく独り旅」。駆け降りるように宮古の町をつっきると、ドドーンッ!と陸中海岸が目に飛び込んできた。

 台風が去り、つかの間の安堵もあわただしく、次の台風が接近中との報道。まるで人生を急ぐように、僕は「カリフォルニア」のアクセルを開けた。モト・グッツィ「チェンタウロ」を整備する間、福田モーター商会のご厚意で拝借した代車の「カリフォルニア」の素晴らしさに、ぼくはすっかり参ってしまったのだ。こいつで長距離ツーリングしたーい!願いが現実になって、陸中海岸の道をエンジンをうならせながら僕は走っている。いや「カリフォルニア」が走っている、僕はしがみついている。

 地中海の海岸線を、ジェノワからナポリに向かう道を、うなりをあげて疾走するために作られたモト・グッツィのマシーン。本来、そのタンデム・シートには、短パンからこぼれるような豊かな尻の女を乗せて、伊達男が、カンツォーネを鼻歌で歌いながら走るのである。

 灰色の雲低くたれた陸中海岸、雨が降らぬのがせめてもの救い。今は、女の白い尻など望むべくもない。せめて想像でもと、インターネットで昨夜見た禁断のエロスの画面、消えかけの火鉢の炭をかきまわすように思い出してみる。そこへガーッ、と巨大なタンクローリーが幅寄せしてきて、かの映像は「プチッ」と切断、幻の画面には「・・・・・・接続できません」のコメント。

 名勝「潮吹き穴」何やら官能的な地名に惹かれてバイクを降りた。崖の階段道をエンエン降りて行くと、ウィーク・デーの昼下がりというのに、何組かのカップルが行き交う。例外なく、しっかりと手を握りあっている。アツアツぶり、いやがうえにも高まって、僕が通り過ぎるのを待ちかねてヒシと抱き合ったりするんだろう。ニャロメ・・・・・・。

 「潮吹き」というのは、僕はAVビデオで勉強した。詳細なメカニズムは分からないが、官能の極みで女性が「おもらし」することである。といってもシーツを濡らす、の次元ではなく、クジラのように壮大に吹き上げる状態を指す。「吹く」というより「噴く」と書くほうが、より正確である。あまたいる中で「潮噴き可」のAV女優サンは、別格のギャラで待遇されるやに伺っている。公平な経済原則というべきだろう。

 めずらしいものは大事にしよう。名勝「潮吹き穴」には岩手県民のそんな願いがこめられている。一億年の昔、このあたりの大地が沈降、隆起を繰り返してリアス式海岸ができあがった。その過程で洞窟が海に沈み、海中の波の加減で巌の隙間からドーッと潮を吹き上げる。この現象を、古代の人は神の意志と崇めて、この地名をつけた。

 潮吹きは、海の表面に寄せ来る波とはまったく無関係に起こる。吹き上げる高さも、ドーンと30メートルぐらいあがることもあれば、地面の底でズズーンという不気味な音が聞こえるだけで、真っ白な蒸気のようなものがたちのぼるだけ、ということもある。別名「気まぐれ穴」とも呼ばれている。

 絶え間なく、地響きが聞こえる。まるでモトグッツィ「カリフォルニア」のOHV2バルブ・エンジンのように、変拍子のリズムが、あくまでも低く、深く聞こえる。大自然の意志。それを人は「気まぐれ」と呼ぶ。しかし人間に把握、了解できないことを簡単に「自然のきまぐれ」などというのはどうだろう。

 開発によって絶滅しつつある動物や植物が報告されている。この惑星こそ、人間の「気まぐれ」に困惑しているのではないのか?

 さて、バイクに戻りかけると、男が一人、足早に階段を降りてくる。はたち過ぎぐらい、リーゼントヘアー。なんだか目が血走っている。おや、一緒にいた彼女は?黒いミニスカート、ロングヘアーの女がはるか向こうで、男に向かって何か怒鳴っている。おいおい、さっきまでイチャイチャしてたのに、こっちが「気まぐれ穴」見てるあいだに、どうなっちゃったんだよ。

 やがて僕は女とすれちがった。泣き腫らした目でうつむいている。僕のことなど見向きもしないで唇をかんでいる。通り過ぎるしかない。げに、気まぐれは、男女の仲である。

浜辺で浄土を思い、玉砕の島をしのぶ。

 すぐ近くに「浄土ヶ浜」というところがある。この辺は、本州最東端の地に連なり、太平洋に向かって東にせり出している。いわば本州で一番アメリカに近いところである。

 普通「浄土」とは「西」を指す。それも山の彼方の、金色の雲たなびく空をさしていう。東に向かう海辺を「浄土」と呼んだのは何故だろう?

 そう呼びたいほどに、陸地が微妙に入り組んで見えるこの浜辺を、古代の日本人は美しいと見たのだろう。残念ながら、伏して祈るような心境にはなれない。すぐそばの国道には長距離トラックが行き交い、お香をたこうにも、僕の身体はすでにガソリンの匂いでたきしめられている。

 呆然と、しばし海を眺める。浄土ヶ浜だから、つい、普段考えない人のことを偲ぶ気になる。太平洋戦争末期、昭和十九年七月、この海の彼方、サイパン島で私の叔父二人が戦死している。

 そのサイパン決戦に先立つ、いくつかの海戦・航空戦で、日本海軍は致命的な敗北を喫した。玉砕戦法。敵の最新式レーダーの前で、一体こんなのが「戦法」の名に値するのかと思えるほど、ただ「突っ込んで、果てよ」という作戦で物資と人の命を、薪のように消耗した。

 戦闘が終わった後、アメリカ海軍は、作戦続行に並行して、行方不明者を捜索する特別部隊を周辺海上に放った。出動前に兵士たちには「二週間は生き延びよ、必ず助けに行く」と言ってある。現に、海上を13日間漂流の末救出された例がある。日本軍との、この違いは何か?

 また最近読んで知ったが、アメリカ兵たちは出動の前に、捕まった場合のために最低限の日本語、国際法の基礎を叩き込まれ、またもし、山中に不時着した場合のために、食えるキノコと食えないキノコの図版を渡されていた。つまり、「なんとしてでも生きて、救出を待て」という指示であり、激励である。

 戦争で日本は「アメリカの物量に負けた」という説が一般的である。しかし本当に「物量の差」だけで負けたのか?そうではない、日本は「考え方」の差で負けたのではないか?そしてこの「考え方」の間違いは、本当に原因を突き止められ、反省され、克服されたのか。もし、そうでないならば、同じ過ちが別な局面で、私たちの子供らの世代にふりかかるであろう。あの戦争が残した問題は、現在と未来の問題である。

港町ブルースが聞こえる海の道。

 サイパンにつながる陸中、浄土ヶ浜の海辺に立てば、潮騒の音高まって、落ちていく太陽もない曇り空。雨近しの予感で、よしなしごと考えてる場合じゃない。先を急ぐ。

 いくつもの漁師町を通り過ぎる。さすがにアメリカンバイクは道に見掛けない。岩手県といえば有数の保守的風土だ。映画『イージーライダー』で、主人公はアメリカ南部のカントリーロードで撃ち殺されている。なるべくおとなしい乗り方を心掛けて走ろうか、なんてモタモタしていたら、うしろから、「ピーッッッ!」とすごい警笛。真っ赤なフェアレディZ、「盛岡」ナンバー、茶髪(!)どこが保守的だ・・・・・・?

 地図を見ない気まま旅。三陸海岸は突然山道に紛れこんだりする。颯爽たるアメリカンバイクも、雨上りのつづれ折りの山道、濡れ落ち葉に泣かされた。

山の路、バイク泣き泣き秋の入り

 ここで転倒すると、バイクは谷底に落ちてゆく。「旅情」は常に危険と背中合わせである。

 やがて、見晴らしのいい海にまた出る。山田湾にはいくつもの生簀が浮いていた。きけばホタテの養殖。入り組んだ入江に漁船が沢山つながれ、このあたりが、いかに豊かな漁場であるかが伺える。

 「宮古、釜石、気仙沼・・・・・・」港町ブルースで歌われるこの辺り、漁師気質の威勢のいい掛け声と、種類も数も豊富な魚たちで沸き返るところだ。行き交う船を見ながら、「これこそ豊かさ」、という感慨が湧く。釜石の溶鉱炉の火は消えても、国の借金が四百兆円あっても、漁師たちが船に魚を積んで、元気よく戻ってくる限り、まだまだオレたちは生きていける。三陸海岸、国道46号線での思いである。

「愛のきずなで防ごう非行」
 いつもながら地方町村の掲示板で見る標語というのは、楽天的だ。

 「ありがとう、言えばトラブルない暮らし」、ごもっともだ。

 「この町では、合成洗剤は決して使いません」というのもあった。重茂という町の漁業組合と婦人会の連名で、紙が張り出されていた。合成洗剤が海に流れれば、魚たちの迷惑は計り知れない。それはまた、人間の迷惑に返ってくるのだ。旨い魚を享受する、都会のサラリーマンや主婦たちに、この自覚がまるでない。僕にもない。

 小さな町の宣言を押し潰すように、巨大な工場から日産何トンの合成洗剤が作られ、流通のネットワークで、この国道にもトラックで運ばれているんだろうなー。あー、早く晩メシにうまい魚食いたいなー。

ああ民宿の夜はふけて。

 やがて浪板の町に近づく。妙に道路工事が多い。あとで知ったのだが、天皇皇后陛下が、近くこの地にご訪問になるという。十月五日、「全国豊かな海づくり大会」がここである。

 「おでんせ!」の言葉で迎えられた。岩手方言で「いらっしゃいませ」の意である。海に面した崖っぷち、民宿「さんずろ家」に到着したのは午後6時。まず、「ガラス窓一杯に海が見える風呂場に駆け込み、たっぷりの湯に全身を沈める。でてくる鼻歌は、イヨッー、やっぱり森進一「港町ブルース」です。

 さんずろ、という奇妙な名前の由来を伺えば、この民宿をつくったおじいちゃんの名前が「三次郎」さん、岩手なまりで「さんずろ」なのだ。

 座敷の窓の外は海である。夜の闇にイカ釣り船が・・・・・・と言いたいところだが、「台風接近で今夜は漁り火は見えないよ」と夕食の給仕をしてくれた30代の若奥さん。亭主はサーファーで、民宿は女房に任せ、ほとんどの時間、海に出て波乗り三昧。そういう暮らしも悪くないなー、と感心する。

 料理のメインに出た、イカの「腑入り」は圧巻であった。塩辛をおいしくする、あのイカの臓物を、ホタテ貝の形をした鉄板にのせて、ネギ、豆腐、イカのげそ、味噌と一緒に掻き混ぜて焼くのである。苦い甘さのイカの腑が口いっぱいに旨さを広げ、僕を、海の子宮に抱かれたような幸福感で包む。

 その夜、潮騒を聞きながら眠りに就いた僕は、とんでもない夢を見た。「腑入り」を食ってるのだが、鉄板の上にバイクのおもちゃみたいのが何台も転がっていて、エンジンから黒いものが、まるでイカのスミのように流れ出ているのだ。バイクの内蔵に迫るほど、僕はマシーンを愛しているか・・・・・・と、問われているような夢だった。 


オハギの国はどこ? (リレー連載「日本人論」 No.14より)

2014-06-12 20:40:17 | 戦争
 
 お彼岸でオハギを食べ、月を見上げる。ああ、日本人でよかったなーと思う。それは、ロシア人が母親の手作りのピロシキを、ボルシチ・スープとともに腹に流し込み「ああ、ロシア人でよかった」と満足感にひたることと、どう違うのだろう?

 私は中国東北部の大連に生まれた。大連は、その地名をダルニ(遠い)というロシア語を語源にした、ロシア人が作った街だ。彼らの首都モスクワから、遥かに遠い極東の港町。ここで引き揚げ船に乗り、戦争が終わった翌年の昭和二十一年、私たち一家は日本に引き揚げて来た。「満洲国」の生まれだから、私にとって、日本は初めての「外国」だった。

 終戦の年、満三歳の私には何の記憶もない。日本の歴史にとっても、満洲はメモリー・ファイルから削除したい項目のようだ。私にとっては、自分の生まれた国が「なかったこと」にされ、官民挙げて満洲を忘れる風潮には、常に違和感を感じてきた。

 たとえば、つい二年前、香港の中国返還に際して行われたセレモニーの盛大さと、わがマスコミが演じた大々的な取材騒動は記憶に新しい。それに比べ、満洲国の終焉と権力の移譲には、何のセレモニーもなかった。かつて中国文学者・竹内好氏はこう言った「われわれは、まだ、満洲国の弔いを出していない」。

 たくさんの日本人が「虚構の国家」をあとに、日本に逃げ帰った。その過程で無数の悲劇が起こった。中国「残留」孤児たちが、まず思い浮かぶ。私の長兄、石井公平は新京第一中学の生徒だったが、ソ満国境の「東寧報国農場」に勤労動員で送られたまま、昭和二十年八月九日、ソ連軍の侵攻に遭い、消息不明だ。

 長男の安否をついに確認できないまま、日本に帰った母の深い嘆きは、幼児の私の知る由もないが、「お兄ちゃんの消息が分かるまでは、帰ってくるんじゃなかった」と、たった一度だけ母が言ったのは忘れられない。日本人は文字通り、肉親の弔いもせずに帰ってきてしまったのだ。

 私がその兄を慰霊する旅をしてきたのは1991年だった。生き残った彼のクラスメートとともに東寧の地まで行ってきた。現地の中国人の前で、とても大っぴらな慰霊祭など出来る雰囲気ではなかった。それをすれば、彼らは私たちに詰め寄っただろう「日本人よ、私たちの父や母、子供達を返して欲しい―」。

 満洲国が存在した間、現地の中国人がどんな体験を強いられたかは、例えば石井部隊による細菌実験のモルモットに、多数の人々が殺された事実がある。満洲へ、満洲へ―そもそも拓務省が音頭をとり、日本のマスコミ挙げて日本から人を送り込んだ「開拓」とは、実は現地の人々の土地を奪って行われたことを銘記すべきだろう。敗戦時点での悲劇は、それらの「決済」だった。私の兄を含め、その地でたくさんの日本人が悲惨な死を遂げたが、それを記念する墓の類は、現地で一切見かけなかった。

 日本人は過去を弔うことなく、墓を作ることなく、命からがら逃げ帰った。残留孤児達は、自分の意志で「残留」を選択したのではない。戦後日本は彼らを「放置」して逃げてきた。自分が作った過去から、満洲から。

 満洲とはどんな国だったのだろう?その理想と現実の両方を知りたい。それを知る世代は、もはや高齢で亡くなりつつある。過去を直視し、記憶し、学ぶことは「自虐的」なことだろうか?ことは「謝る」より遥か以前の問題だ。謝るには、事柄をまず「認識」する必要があるが、日本人は実はこの認識をさえ忌避しているのではないだろうか?何しろ「逃げ帰って」来たのだ。一国の終焉を宣言もしていない。中学、高校では教えないし、満洲国研究を講座に持つ大学はどこにあるのだろう?

 日本人が記憶を放棄している間に、異国のオランダ人が日本とドイツの戦争体験を克明に調べて本に書いた。イアン・ブルマ著『戦争の記憶・日本人とドイツ人』である。初め私はこれを英語の原書で一読、驚嘆した。ヒロシマ、アウシュビッツ、南京、そして遠く鹿児島の特攻基地にまで脚をのばし、現場を歩き、当事者に会って書いた、戦後世代による戦争体験の集大成である。私はこの本を翻訳しTBSブリタニカから出版した。それに続く彼の最新の著書はさらに深く、真珠湾攻撃、ヒロシマ、ナガサキの歴史と政治の背景を調べて書いた本だ。これも私は翻訳して『イアン・ブルマの日本探訪』の題で同社から刊行した。

 自分たちの戦争についての真の考察を、外国人の書に頼ることは情けない話である。二つの本であぶり出されたことの一つは、日本に「政治がない」という実態だ。政治の責任体系があいまいなまま、事実だけがどんどん進行していく危うさは、現在の「金融危機」にもそっくり引き継がれている。

 金融破綻の政治責任をあいまいにしたまま政府は君が代、日の丸を「法制化」することを考えている。私たちの愛国心は、法律によらなければ維持できない程度のものなのか。よろしい、法律でこれを定め、旧満洲の地で遅ればせの弔いのセレモニーをしようではないか。その時、現地で声高く歌えるのか、君が代を。空高く揚げられるのか、日の丸を。

 昭和二十年八月九日、精鋭をうたわれた関東軍は、三十万人におよぶ国境の同胞たちに事態の危険を知らせることなく、道や橋を破壊して逃げた。首都・新京駅を出発した避難列車第一号を占拠したのは関東軍幹部とその家族達だった。

 日本軍は戦わずして逃げたのはよかったのだ、という議論もある。もし戦っていれば沖縄と同じ戦場の惨事が起こっただろう。いずれにしても、関東軍は戦わずして逃げた。つまりそのような軍隊と戦費に、国民の膨大な税金がつぎ込まれ、カネはまるで燃料のように燃やされて八月十五日、煙となって消えたのだ。その納税者としての国民の愚かさを、私たちは自己点検しただろうか?

 日米新ガイドラインとか、国の安全保障の議論の前に、自国の軍隊が決して同胞を守らなかった事態が、一体どうして起こったのか、私たちは正確に把握しておく必要がある。肉親達は、自分たちの官僚や軍隊に見放されて死んだ。彼らは帰ってこないが、「教訓」としてそこにある。

 死者を偲ぶお彼岸には、オハギを食べたい。オハギの形をした赤茶色の石が、私の部屋の棚に置いてある。東寧の河原で拾った小石だ。満洲の体験が希薄な私は、石を見て触って、その国を思い起こそうとする。オハギは大好きだが、私は日本人ではない。ピリオドが押されないまま歴史に放置された「満洲国人」である。


(付記)敗戦直前の1945年夏、なぜかソ連国境へ送り込まれた新京一中生徒130名の記録が本になって昨年出版された。生き残った田原和夫氏著『ソ満国境・15歳の夏』(築地書館)



(浄土宗 知恩院発行「知恵」1999年5月号掲載)


Lawrence L.Langer(ed.)-"Art from the Ashes: A Holocaust Anthology" 本文日本語

2014-02-03 21:03:57 | 本・書評


 「日本人が泣いてるのを見ると頭にくるわ」知人の在日朝鮮人女性が言った。映画「シンドラーのリスト」を見終って、場内が明るくなった時、客席ではハンカチで涙をぬぐう人びとがかなりいた。

 ナチスによる「ホロコースト」について日本人は責任を問われることはない。ユダヤ人の悲しい運命に同情の涙を流してカタルシスにひたることは許されるはずだ。にもかかわらず、なぜ彼女は「頭にきた」のだろう。

 たぶん彼女は、日本人の想像力の欠如を言いたかったのだろう。ホロコーストは遠いヨーロッパの出来事だった。しかし同じ時期にアジア全域で日本人が行った暴力・拉致・殺戮に想像はいかないのか?ドイツ人がユダヤ人にしたことに涙を流す人は、日本人が朝鮮人に何をしてきたかを知らないのか?その「記憶」を日本人はどのような「ことば」にしてきたのか?

 私の目の前に一冊の本が置かれている。七○○頁、厚さ五センチの本書の重量感は圧倒的である。ホロコーストについて書かれたドキュメント、日記、エッセイ、小説、戯曲、詩が集められ、巻末には十六ページにわたってイラストや絵も紹介されている。

 驚くべきは本の重量感ではない。ホロコーストという一つのテーマについて、ユーラシア大陸各国語に加えてヘブライ語でも書かれた膨大な文献資料を渉猟、読解、選別、編集し切った人間の情熱である。

 ヤンキェル・フィルニクという、聞いたことのない名前もある。「トレブリンカの一年」という記録を残している。ポーランド生まれの大工と紹介されている。七十五万人から百万人が殺されたというこの収容所で彼が生きのびることができたのは、ひとえに大工という技術のゆえである。彼は脱走に成功し、1944年5月、自分が体験し目撃した記録をワルシャワで秘密出版する。それがロンドンに運ばれ、連合国側が強制収容所と大量殺戮の実態を知ることになる。

 毎日何人がガス室で殺されたか、ガス室はどのような構造か、拷問と労働の実態はどうであったかの克明な記録である。「ナチ『ガス室』はなかった」という『マルコポーロ』誌の筆者及び編集者は、まずこの記録に反証を試みるべきだったろう。

 神戸大震災の現場中継でキャスター達はしばしば不用意にくりかえした。「このような惨事を前に私はことばを失います」

 語れ、ことばを捜せ、表現を試みよ、どうか、ことばをなくすなどと簡単に言うな!

 本書の冒頭で、編者のローレンス・ランガーは「ホロコースト文学を書くことと読むこと」という題で小論を掲げている。「ことばには限界がある。圧倒的な現実を前に、ことばを紙に記す行為の無力感に襲われることがある」と認めつつ、しかし、彼が本書でやろうとしたこと、やりとげたことはそれへの挑戦だった。語り尽くせぬことを語ること、それ以外に体験の意味を探り、記憶にいのちを吹き込む方法はない、と言わんばかりに。

 私はイアン・ブルマ著『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(TBSブリタニカ刊)という本を翻訳した。翻訳家でもなく、ヨーロッパ現代史の専門家でもなく、映像と出版の企画をする個人事務所を経営する私が、敢えて八百枚の翻訳を試みたのは何故だったのだろう。

 私事を語れば、敗戦時三歳だった私に戦争の記憶があろうはずもないが、ソ満国境に勤労動員で送られ、ソ連軍侵攻に遭遇、死亡した当時十四歳の実兄の理不尽な運命に対し、心の中に埋めようのない空洞があった。翻訳はそれを埋めるせめてもの作業であった。ことばが欲しかった。信ずべきことばに出会いたかった。

 厚さ五センチのこのアンソロジーには、ドイツの教科書にものっている詩編「死のフーガ」を書いたパウル・ツェランの十五篇の詩も収録されている。ドイツ語を彼に教えた母は、ドイツ語で死の宣告を受け強制収容所で死んだ。1970年、49歳、パリでの自殺は、彼がドイツ語に絶望し、ドイツ語から逃れる唯一の方法だった。にもかかわらず、本書が我々に語りかける通奏低音は、よるべなき状況にあって、よるべとなることばをさがせ、そして語れという激励である。




 

パリ撮影記 ―ワイセンベルク氏とショパン―

2014-02-01 16:56:14 | テレビ番組制作

 ワイセンベルク氏のパリのアパートを訪ねるのは、これでもう何度目になるだろう。セーヌ河に面したケ・ドルセー地区。パリの外交官街として名高い高級住宅地。

 いつもはひとりで訪ね、気ままにおしゃべりをして夕食時に氏の大好きな日本レストランなどにくり出すのだけれど、今回は少し勝手がちがう。13人のテレビ撮影班が1トン近い機材を運び込むのを引率しての訪問だった。1986年6月5日のことだった。

 日が暮れるころ、ワイセンベルク氏の友人たちが集まってきた。正装の紳士、淑女たち。舞台監督、詩人、女優、ニューヨークから飛んできた若い女性実業家。

―シャンペンが抜かれ、白いフォーマルウェアのピアニストを中心に楽しい談笑の輪ができた。30畳敷はあると思われる広い居間は、歩くと靴音が天井にこだまするようなゆったりとしたスペースだった。壁の一面に古書が並び、部屋のあちこちに古今の美術品が置かれ、さながら美術館の一室にまぎれ込んだ思いである。スタンウェイのピアノが小さく感じられる。友人たちがソファに坐り、ピアニストはゆっくりとピアノのふたを開いた。ショパン作曲「プレリュード、第4番」のふるえるような美しい旋律が、彼の両手の指からこぼれ、部屋いっぱいに、それが満ちた。

 「私のパリ・私のショパン」

 私がアレクシス・ワイセンベルク氏を主人公に、「私のパリ・私のショパン」というテレビ番組を考え、企画書にまとめたのはもう1年ほど前になる。

 その冒頭に私はこう書いた。

 「この番組は、ひとりのエトランジェ(異邦人)が紹介するパリ案内です。案内役は、ピアノの巨匠、アレクシス・ワイセンベルク。使用される音楽はフレデリック・ショパンの曲です。ヨーロッパは元気がない。パリは、もう魅力がない。―本当にそうでしょうか。この都市が人間の感性に与えた絶大な影響力、今なお秘めている魅力、それを新しい切り口と方法で問い直してみせます。ショパンは1830年、20歳のときにポーランドを発ち、ウィーンを経てパリに住み、ついに2度と故郷の土を踏むことはありませんでした。たくさんの恋がパリで生まれ、たくさんのピアノ曲がパリで作曲されました。
 ワイセンベルクは、そのようなショパンゆかりのパリに私たちを案内し、その現場で最もふさわしいショパンの曲を演奏します。」


 ヨーロッパでのワイセンベルクの音楽活動はすべてミシェル・グロッツ氏がマネージメントをとりしきっている。グロッツ氏との度重なるテレックスのやりとりがあり、最終の交渉に5月初めに私がパリに飛び、ようやく話はまとまった。
 
 ところが肝心のテレビ番組の方はなかなか企画が通らず、ついに見切り発車の事態となった。経費の一切を私たち制作会社の自己負担でまかない撮影を行うことを私たちは決断しなければならなかった。

 高画質のEC・35カメラ2台をふくむビデオ機材一式。どんなに小さな、ささやくようなピアニシモも最高の音質で収録するデジタル録音の機材一式。撮影監督は映像派の巨匠・実相寺昭雄氏に依頼し、14人の撮影班がパリに着いたのは5月29日のことだった。

 3年先の演奏スケジュールまでビッシリと詰まっている巨匠が、なんとか私たちのために時間を空けてくれたのだ。いま撮らなければ、チャンスは永遠にめぐってこないのではないか。お金のこと以上に、その一点が私を動かした。そして何よりも、誰よりも、一刻も早く、私は彼のショパンを聴きたかったのだ。

 
 撮影日記より

 パリでの撮影、第1日目。私たちは早朝のバンドーム広場に向かった。ショパンが短い生涯を終え、最後の息を引きとったアパートを撮った。低い雲がおおい、今にも雨が降りそうだった。たとえばショパンの故郷、ワルシャワの空はいつもこうなのだろうか。

 6月のパリは天候が不順だった。カメラマンは光の足りないことをなげきつづけた。しかし、だからこそショパンのあの音楽が光だった。たおやかな優しさの裏に秘められた強じんさ、そのようなショパンの音楽に人は人生の途上で何度も救われた体験をもっているはずだ。

 パリで記した撮影日記の抜すいを書き出してみよう。

 5月30日
 コンセルバトワールの楽器博物館。ショパンの使用したピアノの前でワイセンベルクの語り。数々の名曲を生んだ鍵盤の上にワイセンベルクの手が置かれた感動的な一瞬。時間を超えたふたりの出会い。午後、オルレアンのショパンが住んだアパートへ。

 5月31日
 国立図書館、音楽部の部屋でショパンのデスマスク、肖像画など撮影。午後、ショパンが通ったサロンの跡、ミュゼ・シェファーでのワイセンベルク。19世紀のサロン芸術について語ってもらう。
 「私には、人びとがお酒を飲んでいる場所でピアノを演奏することは苦痛だ。私は、現代のホールで、広いステージの上で演奏する緊張感の方が好きだ。しかし、刺激を互いに与えあっただろうことは、私にはうらやましい。」
 夕方、ショパンの葬儀が行われたマドレーヌ寺院撮影。

 6月2日
 ジョルジュ・サンドとショパンが共に暮らしたノーアンの別荘へ。パリから300キロ。雲間からこぼれる陽光がパリの南の田園地帯を照らす。

 6月3日
 ワイセンベルクのパリ案内撮影。レストラン「リップ」。彼がいつも坐る椅子に腰かけてもらい、パリの魅力を語ってもらう。つづいてシテ島、芸術家の橋、アンバリッドを彼が散策しているところ撮影。

 6月4日
 いよいよ、ワイセンベルクによるショパンの演奏。サル・ガボー・コンサートホール。お客のいない客席中央にカメラ。もう1台はステージ上、レールを組んだ上に置いて移動ショット用。
 タキシードに正装したワイセンベルク。緊張しきったスタッフに気軽にジョークで語りかけて雰囲気をやわらげてくれる。
 演奏曲目。「ソナタ第3番」「夜想曲、嬰ハ短調(遺作)」「夜想曲第2番、変ホ長調」「葬送行進曲」「幻想即興曲」。
 ソナタの演奏、ワイセンベルク気に入らず再度やり直し。ところがスタッフのミスで途中テープ切れとなり、更にやり直す。身の細る思い。ホールの貸時間の修了が迫り、次のコンサートに来た客がホール外に並び始める。音楽に酔いたくても酔えない辛いひととき。

 6月5日
 ワイセンベルク自宅での撮影。録音機材、映像モニターなどキッチンに並べる。3時より、ふだんの練習風景を撮る。カラヤン、ホロビッツなどのサイン入りポートレートが飾られた練習室。バッハの練習曲などをひく。なぜバッハを練習用にひくか、毎日どういう練習を日課としているか、などインタビュー。白いシャツのくつろいだ服装。猫もかたわらで静かに聞いている。
 夕方から友人たち集まり、今でサロンの再現。演奏曲目、「エチュード・別れの曲」、「プレリュード、第4番」。
 午後9時、撮影終了。全員で記念撮影。ワイセンベルク、スタッフに感謝のあいさつ。「収録した映像をモニターで見せてもらい、その美しさに驚きました。プロフェッショナルとしての皆さんに改めて感謝と敬意を表します。」

 6月6日
 ショパン時代のサロンそのままの雰囲気を残す19世紀の館で演奏。典雅なシャンデリア、ナポレオン時代の壁と家具調度。
 曲目、「華麗なる大円舞曲」「スケルツォ第2番」「夜想曲第5番」再び「幻想即興曲」
 午後6時半、すべての撮影を終了。
 ワイセンベルク、スタッフひとりひとりにお菓子を配ってその労をねぎらう。

 無邪気に、そして透明に

 知性と情熱のふしぎな調和をたたえた彼の演奏が、私は好きだ。この人は、凡庸な演奏家が思い入れをこめて歌うところで、むしろ悲しみに似た抑制をもって音楽を確かめる。人が機械的に弾き流すところで、楽しそうに歌をうたう。その最も美しい典型が、彼の「夜想曲、嬰ハ単調」だ。この1曲を聴きたいために私はこの企画を思い立ったのではないかとさえ思う。

 少し間違えば悲劇的になってしまうこの旋律を、こんな無邪気な透明感をもって響かせることができる演奏家が他にいるだろうか。これにはショパンも脱帽するに違いない。
 
 これを企画したプロデューサーとして、私はとにかく現場に立ち会う幸福を味わった。一つ一つの音が生まれてはかき消えてゆく、はかない、しかし確かな現場。この幸福をひとりでも多くの人に分かちあいたいために、いま、なんとかこれをテレビ番組及びビデオディスクにしようと私は奮闘中である。

(1986年10月7日)


 

 マスコミはますます「戦時メディア」になってきた、

2013-06-13 23:59:00 | ルポルタージュ
月刊「宝島」連載コラム、2004年8月号掲載


いまは「戦時」である。かつて女性たちはモンペをはいて出征兵士を見送った。いま女性たちは、街でヴィトンのバッグとケータイを手に闊歩している。えらい違いや。本当に戦時か?

イラクという「戦場」に、今度は「多国籍軍」の一員として同胞の軍隊はい続けることになった。憲法違反を問うことさえしないメディアは、かの地で自衛隊が変なことをしてもバラしませんよ、同胞の安全と国益のためと「報道自粛」の協定にあっさりサインした。その反射神経が既に「戦時メディア」だ。

振り返ってみよう。政府に不利益な報道はしないまま戦争の「土壷」にはまり込むと、マスコミは昭和 年、「言論報国会」をつくって、自発的に国策のちょうちん持ちを始め、「うそつき」になった。一切の異論・反論がないまま、やりたい放題にカネが使える戦争は、政府にとってキモチのいい体験だった。

国家にとって戦争ほどありがたいものはない。見よ、ブッシュ大統領は「テロ戦争」を言いがかりに、「愛国法」をふりかざして監視社会を作り、国民のプライバシーより国家の安全を優先するアメリカに変えてしまった。軍産複合による巨大利益が、政権の中枢に還流する仕組みも作った。すべては「テロ戦争」のおかげだ。大統領、お中元の送り先リストにウサマ・ビンラディン氏を忘れないように。

6月13日に国会を通過した「有事関連七法案」は、みれば見るほど「日米一体・戦争法案」だ。その一つ「国民保護法案」では、 国民の「救援・避難」を政府が罰則付きで統制する。国民を保護ではなく「排除、動員できる」法案だ。いつ、何が有事かは国が決める。
そのためには民間空港、港湾、病院、公民館などを自衛隊、米軍が一緒に接収し使用できる。おいおい、それどころか、「いつでも、どこでも米軍に必要物資を届ける」という、まるでピザ屋のような法律だ。「予測される事態」のためには「民有地」だって米軍様に差し出す。一読して君の愛国心はズタズタに引き裂かれること請け合いだ。

国家財政と年金制度の破綻という「必ず来る有事」に国民からつるし上げられる前に、アメリカと一緒になって「テロ戦争」に巻き込まれよう。早く日本がテロの標的になって、国民を号令できる状況に持ち込もう。何だか事態はそういう方向に進んでいないか?

マスコミも自治体も政府の言うことをきけ。今度の有事関連七法案は言論の自由に対する挑戦ではないか。徹底チェックして大議論をするのがメデイアの使命だろう。ところが今回の法案が成立した翌日、日本民間放送連盟(日枝久会長)は「運用が適正に行われるよう注意深く見守る」と発表。とても言論人の集団とは思えない。法律とか契約、ハンコを押した後に「見守って」どうする? 

法案通過の6月13日、TBS「ニュース23」で筑紫哲也氏は大好きなNYからお気楽レポート。ヤンキーススタジアムでは松井の背番号「55番」のTシャツ を買って「これパジャマに使えるなー」と目尻を下げていた。

ジャーナリストのこのナイーブさは内閣記者会も同様だ。細田博之官房長官は三千百万円を越える運転手給与を日本道路興運という企業に肩代わりさせた「犯罪容疑者」である。しかし「総理から仕事をつづけるようにとのご指示がありました」以外なんの説明もしないまま、毎日、国家のスポークスマンを続けている。異様な「戦時報道風景」である。




情報は社内にあり

2012-12-10 21:05:09 | メディア

 テレビ取材の隠語で「どてらカット」というのがある。 旅番組のロケで、旅館に着いて、ドテラに着替えて、部屋の窓から付近の山を撮って、「ハイ、きょうの撮影はオシマイ」これが、どてらカット、である。早い話しが、苦労しないでラクして取材する、これがこの隠語の本来の意味である。

 苦境にあるTBSに、敢えて言いたい。

 いや、TBSという抽象体は存在しない、TBSの一人一人に言いたい。

 今は、苦渋に満ちた「おわび」などするな、むしろ、「どてらカット」に徹し給え。楽をしろ、ではない、外に出ないで、中を取材せよ。

 いまTBSの番組制作者たちは見当外れなことをしている。ビデオ問題を検証する、と称して、カメラとマイクは外に出掛けて、町の人の意見を聞いて回ったり、外から評論家たちを呼んでご意見を伺ったりしている。

 社内調査というやつが終わらないことには何も出来ません、ということなのだろうか。情報の宝は社内にあり。今、視聴者は、TBSの社内情報を、カケラでもいいから知りたがっている。それに答えるアクションを知恵をしぼって起こすべきである。

 それを今出来るのは、沢山のメディアの中でひとりTBSのスタッフだけではないか。最大の危機は、実は、最大のチャンス。苦悩しているヒマなどない!

 厚生省、大蔵省、ミドリ十字を取材しても本質に迫れない歯がゆさを、TBSスタッフも感じてきたと思う。役所の正式報告書が出るまでは、何もしません、などという人間は、取材者として失格だろう。

 手を変え、品を変えて本質に迫ろうとする、その試行


錯誤から、何かが開けてくる。TBS死して、番組よみがえる。何をおいても、あの夜、オウム側と会ったプロデューサーをテレビに出すこと。または、自己証言の番組をつくることを「業務命令」すべし。

 お役所ではない、テレビ局なのだ。対応は「速報、中継」つまりテレビ的であっていい。次のようなテーマで、各番組が競争で、死に物狂いで作ってみたらどうか。

 今日の役員の動き。
 ここまでやった、今日の調査委員会の動き。
 今日の職場集会・組合大会。
 報道部員、ワイドショー担当者・座談会。
 今日の抗議電話・FAX。
 今日の、他局、他紙誌の報道を社員はこう考える。

 社内取材の困難は当然である。しかし、これらは視聴者が知りたいことであり、それに応えられるのは、TBSのスタッフだけである。

 テレビ・メディアの自己点検、自己取材。これは日本のテレビ史上初めてのことであり、世界的にも例を見ない、ユニークかつ千載一遇のチャンスといえないだろうか。このチャンスに、TBSはなまけていないか?

 今、TBSの受付ロビーには、「取材・撮影禁止」の張り紙がある。必死で「守り」に硬直していく企業の、ありふれた光景だ。だれがこれを決めたのだろう?

 そして、彼らは今、何から、何をまもろうとしているのだろうか。見られてはならぬ、知られてならぬ、何かがあるのだろうか。

 TBSは、「どてらカット」と悪口をいわれようと、今こそ、カメラとマイクを社内に向けるべきである。

 政府に「情報公開」を求めるなら、同時に「社内の情報公開」を要求し、社内取材の自由を確保せよ!

 トヨタ自動車はクルマを作る、TBSは真実を伝える。それが出来ないのです、むずかしいのです…って?それじゃ、寝ていてください、私共、外部の制作スタッフにその仕事、やらせて下さい!   


(96・4・3)

「テレビを嗤う」 堤治郎著・文芸社

2012-09-06 21:24:43 | 本・書評





「週刊朝日」書評

評者・石井信平


世間は不況が続くが、テレビ界は笑いが止まらない好況のようだ。それが一向に伝わらないのは当たり前、テレビがそれを伝えないからである。

著者は三八年間、ニッポン放送なるラジオ局で報道の仕事を続け、定年退職した。テレビを書くについては「ラジオはテレビの兄貴分だ。作る側の下心は手に取るように分かる」という自負がある。

つとめ上げて定年退職した今の心境を、著者は「やはり変な業界だった」と述懐する。コツコツと溜めた新聞スクラップを整理し、読みながら、彼の内部に沸いてきたのがテレビへの怒りだった。

しかし、本書は正義の書ではない。「嗤う」という書名に表れているように「何だこりゃ」に近い。日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落する時、一切の操縦不能を知ったパイロットが叫んだ時の「何だこりゃ」だ。目を覆う惨状なのに、誰も何も言わない、コントロールできない。
 
著者によれば、テレビ局とは「電波を永久的かつ独占的に使用し、電波料として広告費を懐に入れ、制作費という名の材料費までもらい受ける一方、何ら公共に資する支出を要求されたこともない、特権まみれの営利追及会社」である。とりわけ問題は、東京キー局に権限と利益が集中している。

このキー局、本来は、地方ネット局と番組制作会社との共存共栄を運命づけられているはずなのに、自分の儲けに励み、バブル崩壊以降も右肩上がりの増収を重ねた。九九年度決算、売上げトップはフジテレビで三一三五億円、経常利益のトップは日本テレビの五二六億円。そんなに利益をあげながら制作会社が作った番組の著作権まで「いただき」なのである。

「この業界は常に晴れで、雨や雪などない」というから、全天候型ドームで守られている。こんな「民間」ってありだろうか? たとえば全国83の民放局が二七八社の関連会社をもって、放送以外の営業に励んでいる。一九八四年のデータだ。古すぎるのは当たり前で、以後、民放連は関連会社の数字を公表していない。これが報道機関であろうか?

テレビとは憲法上「表現の自由」、放送法の「編集権」で手厚く保護されたメデイアとされている。しかし、著者によれば本業は金儲けで、報道は「隠れ蓑」、記者クラブに社員を貼り付けてアリバイにしているに過ぎない。また、首相官邸の「共同記者会見」はテレビのためのセレモニーであり、地道な取材手法をこの国のジャーナリズムから奪ったテレビの責任は重大だ。

郵政当局との護送船団の歴史は貴重な言及だ。「旧郵政省は民放を芳醇な天下り用地とし、その見返りに、野放図に特権の拡大を図る民放に協力的な行政を、数十年にわたり展開した」。

かつて、行政とメデイアが野合し、もたれ合った結果の悲惨は太平洋戦争だった。とりわけ放送の戦争責任について、NHKは戦後、公式に国民に謝罪をしただろうか? 本来なら東京裁判の被告席に坐るところ、軍部弾圧による被害者ヅラをして占領期をやり過ごしたのではないか。

戦時の反省ゆえに、行政権力から独立した「電波管理委員会」がGHQの手で作られ機能していたが、それを潰して郵政省に一元化したのが吉田茂だった。一九五二年、講和条約が発効して独立した直後だから、日本人は自分の手では民主主義を貫けない民族ということになる。おかげで迎えた今日のテレビの「隆盛」である。

テレビは、「規制緩和」を言いながら電波免許の規制に守られ、「情報公開」を他人に迫りながら、自社への郵政省(現総務省)からの天下り実態、制作会社への受注金の流れ、社員への報酬システムの公開を渋っている。それこそ優秀な報道部記者諸君の「現場中継」で知りたいところだ。

放送人が初めて書いた業界への「紙つぶて」である。誰かが書かねばならなかったし、テレビを愛する人の手で、この本に続く書物が必ず現れるだろう。

放送についての深い絶望の書だが、放送人が書いたという点で、希望の書でもある。 

「MITメデイアラボ・デジタル革命の発信基地」

2012-08-27 10:04:20 | ルポルタージュ
(『週刊東洋経済』1999年12月11日号掲載)

 10月17日、飛行機はボストン空港への着陸態勢に入った。窓の外に夜景が迫る。一際明るいボストン球場。今夜はレッドソックスとメッツのプレイオフの真っ最中。しかし、私は今読み終わった本のショックで呆然としていた。本の題は「メデイアラボ」(スチュアート・ブランド著、室謙二・麻生九美訳、福武書店)。

 「メデイアの未来を想像する超・頭脳集団の挑戦」の副題がついたこの翻訳本が出たのは今から10年以上も前、一九八八年。私はその直後、タイトルに引かれて読み始め、実はつまらなくて途中で放り出した。あまりにSF的、抽象的、非現実的な内容、と思ったからだ。今回、取材の必要から改めて読み直し、驚嘆した。今、日本のマスメデイアが「デジタル革命」と大騒ぎしていることの全部が、実はこの本に出ていた! 電子会議、電子掲示板、電子出版、インタラクティブ(双方向)・メデイア、そして電子通貨を使った商取引にいたるまで…。

 そして、所長のネグロポンテが一九八七年に既に描いていた予測図(次頁)は、西暦2000年には、放送・印刷・コンピュータの三つの産業が限りなく一つに収斂していくというものだ。当時、彼があまりに繰り返し力説したので、同僚達はこれを「ネグロポンテのおしゃぶり」と呼んだそうだ。今、時代はこの予測図通りになってきた。

 つまりメデイアラボにとって「デジタル革命」は、今から20年も前に始まっていた! 私はかつての自分自身の迂闊さに呆然とした。

 翌月曜日から、スポンサー・ウイークが始まった。メデイアラボに資金提供している企業のために、ラボ全体を開放し、シンポジウムや新しいテクノロジーのデモストレーションなど、様々なイベントが行われた。

  だからクリエイテイブ 異質・多彩な個人の集団

 世紀末の晩秋。抜けるような青空に映える純白の「メデイアラボ」。 一九八五年に建ったこの建物の名前はウイズナービル。MIT総長、ジェーローム・ウイズナーと建築学科教授・ニコラス・ネグロポンテの二人は、メデイアラボ設立資金を集めようと世界中の企業を回った。壁にはこのビル建設に資金提供した企業名が刻まれている。日本企業の名前もある。松下、NEC、三洋、ソニー、東芝、朝日放送、朝日新聞、旭光学、富士通、日立。

 壁を見ていると、これら企業への感謝の気持ちが感じられる。ひとくくりすれば「コミュニケーション企業」。コンピュータと人間のコミュニケーションを研究するセンターにふさわしい会社群だ。

 所長のネグロポンテ氏は、当時四〇歳を過ぎたばかり。彼は建築学科で「アーキテクチャー・マシーン・グループ」を組織し、コンピュータを、どうしたら人間が使いやすいものにするか悪戦苦闘してきた。CADを通して、彼はコンピュータのもつ底知れぬ能力に魅了されていた。そして、このテクノロジーこそが、学問の領域地図を変え、新しい産業を創り出すに違いない。だから資金は広く世界中の企業から募ろう。ジャンルを越えた英知を結集し、新しい研究所を作ろう。

 ネグロポンテのヴィジョンに賛同したメンバーが参集した。人工知能の創始者、マービン・ミンスキー、数学のシーモア・パパート、音楽の         
バリー・ヴァーコウ、ビデオ研究のアンドルー・リップマン、コダック社でホログラフ研究をしていたステイーブン・ベントン…。

 ヴァーコウ教授が私のインタビューに答えて言った。「当時、学部の教授におさまっていることに退屈していました。ふだん決して一緒に仕事しない人たちと、共同で研究できる環境の誕生に興奮しましたね」

 創立メンバーの多彩に注目しよう。コンピュータを研究するのではない、それを使って何が出来るか。それを探求する旅に出ようではないか。旅は、色んな道連れがいた方が楽しいね。きっとそんなノリだったのだ。
 
  メデイアラボの本質は 「楽しくやろうぜ」

 簡単なデータを紹介しておこう。ここに働く研究員は総勢420人(教授クラス30人、研究員80人、大学院生160人、学部学生150人)。学部学生とは、ほとんどが時給8ドルのアルバイト。主にここのコンピュータ・プログラミングに従事している。優秀と見ればすぐに研究員にスカウトされる。そして現在進行中の研究プロジェクトは、何と220。ほとんど全員が一国一城の主ということになる。

 ここのモットーは、創立の時から未来を予測するな、未来を作れ!(Inventing Future)。建物内を歩いてみる。ネグロポンテイとかミンスキーとか、ビッグな学者がうろうろしているかと思うと、19、20の小僧みたいな学生が談笑し、コンピュータに向い、未来のオモチャ研究の場では、レゴと集積回路が散乱。臭いをコンピュータに判断させ「デジタル・ソムリエ」を誕生させようというプロジェクトでは、ワインのボトルやグラスが散乱して、まるでパーテイーが果てた雰囲気。

 スタッフの子供が駆け回ったり、この騒然、自由、バラエテイー豊かな雰囲気は何なのだ。R&Dというよりも、全体におもちゃ箱状態。アイデイアを「商品化」することに頓着なく、メデイアラボの本質は「楽しくやろうぜ」ではないか?
 
  技術をショーアップ 肉体も興奮も情報だ

 10月 20日、MITキャンパス内公会堂で行われた「センシブルズ」というイベントを覗いてみた。司会はウォルト・モスバーグ。「ウォール・ストリート・ジャーナル」のテクノロジー・コラムニストで、ラボとビジネス界との絆の深さを感じさせる。

 テクノロジーをショーアップすることは、メデイアラボが得意とするところだ。「ダンシング・シューズ」ではセンサーを埋め込んだ靴で踊って見せ、ステップに合わせて音楽のテンポも変わる面白さ。

 「コンダクテイング・ジャケット」はセンサー内蔵の衣裳で女性が指揮をすると、その通りのテンポで音楽が聞こえてくる。肩、腕、手首の微妙な動きをキャッチして情報をコンピュータに伝える。他愛もないことのようで、ネットに繋げば、身体情報を遠隔地に飛ばせることになる。娯楽にも医療にも教育にも、相当な応用可能性が考えられる。

 圧巻はフィリップス社とメデイアラボが開発した。「感情伝達手袋」だった。手袋にセンサーが仕込まれ、会場の全員がこれをつけると、皮膚の温度と汗を関知した赤ランプが点灯する。会場のあちこちで、パンパーンと風船が割れ始めた。人々は興奮し、それにつれて、各人の手袋についた赤ランプの光が強さを増した。暗い会場が期せずして赤ランプの海となった。コンピュータは「興奮という情報」も伝えられるのだ。
  
  ここへ来たれ!若者よ 一人で未来を切り開け

 タイトなスケジュールの間に、食事とコーヒーブレイクがある。メデイアラボの建物脇にしゃれた細長いテントが張られ、そこで朝食、ランチ、夕方からは照明も変えて、ライブの音楽演奏も入るカクテルタイムとフルコース・デイナー。聞けば、ネグロポンテイ氏は食事接待をイベントの最重要事項と考えている。「心尽くしのもてなし」は、かつて日本のお家芸だったはずだが…。

 夜は、ラボ全体を開放して各研究プロジェクの全員と懇親できるオープンハウス。若い研究者に中国人が多いのが印象的だった。北京からここに来て今年卒業し、今はボストンのEトレードの会社にいるという青年。台湾からウエブページを見てメデイアラボに興味をもった若者。

 彼はメールで、これと思う教授に自分のアイデイアを送り、ウエブのアプリケーション・フォームを送ったら、国際電話でインタビューされて「こっちに来ないか」といわれて、「それで今ここにいるんだよ」とケロリとして言う。精悍な目つきで、「ここは楽しい、何よりも“モティベーション”をつかめ、自己管理能力がついた」という言葉が印象的だった。

 与えられたシステムでしか動いてこなかったなー、と自分が体験した
日本の教育システムのことを振り返る。一人で未来を切り開く若者にこそ、ここはふさわしい場所だ。
 
 スタンダードを作れ 新しい産業を創り出せ

 たまたま日本から訪問していた東芝の竹林洋一氏の話を聞いた。メデイアアボに、一九八五年から2年間研究生活を送った。今は次世代コンピュータを開発中である。

 「僕らの方がテクノロジーは上、企業にはそれ位のプライドがあります。ただ、性能を良くすることが技術だと思ってる人があまりに多い日本から来ると、ハッと教えられことが多いですね。ここの人は、製品ではなく、一つの産業を作っちゃう位の気概をもっています。それから、例えばCGがはやり出したら、さっさと研究をやめちゃう判断がすごいですね。成功が見えたらやめる。攻めから守りに向かう、居心地いいサロンになることを絶対許さない」

 東芝が支援する人工知能のミンスキー教授に、私はきいた。「メデイアラボで、あなたが目指したことは何ですか?」彼の答えは意外だった。「子供になることです」。

 既存の価値観にとらわれない、想像力と発想の大切さ。それが出来るのは「子供」だ。メデイアラボが今、研究の重要項目にしているのが「子供」なのは何故か? 子供ををいかに教育するか、ではなく、子供からどう学ぶか。

 あるシンポジウムで、子供からの質問。「僕の作った時計が、少しずつ
狂ってきちゃうのですが、どうしたらいいですか?」ミンスキー教授の答え。「君がスタンダードになればいい、そうすれば、君の時計はいつでも正しい」

 これは子供にすごい自信を与える一言だ。これは、そのままメデイアラボの、無言のモットーでもある。つまり「スタンダードを作り変える」気概。製品の次元ではなく、竹林氏の言う「産業を作り出す」迫力だ。     

 ミンスキー氏に子供の重要さを教えたのはパパート教授だった。「もう20年もしたら、今の学校はなくなっているでしょう」とパパート
氏は私に言った。今の学校こそ、未来に立ちはだかる最終的な障害物だ、教育問題こそ、実は重大な産業問題だ、という鮮明な問題意識。

 パパート氏により提唱されている理論が「コンストラクショニズム」で、子供は物事を受動的に教えられるよりも、能動的に創造する時、学習成果が最大に高まるというものだ。教育に重要なのは、読み(Read)/書き(Write)/算数(Arithmetic)の“3R” の代わりに、探求(Explore)/表現(Express)/共有(Exchange)の“3X”であるという。これは子供だけではなく、私たち成人にとっても、生きていく重大な指針ではないか? そこには、子供に擦り寄り、子供を甘やかす教育論、ではなく、「私達は、かつて何のために自分に正直な子供であることをやめたのか?」という問いかけがあった。

 組織なし、ルールなし ネットワーク・マインド

 インターネットが出来て五年、私たちのライフスタイルはドラマチックに変わろうとしている。我が家のデスクにある一台のパソコンはテレビになり、映画、新聞、写真、本、CDプレイヤー、事務所、電話、図書館、郵便局、そして銀行、巨大百貨店、株取引所にもなる。ある人にとっては、さらに、レコーデイング、写真、ビデオ編集のスタジオでもある。数年前これらは「会社」にだけあった。メデイアラボが研究対象にしてきたのは、まさにこの大変革を作ってきたテクノロジーだった。

 奇異に聞こえるかも知れない。メデイアラボの強さは、組織とルールがないことだ。まさに子供の世界だ。
いや大人だからこそ可能なのだ。所長のネグロポンテイ氏は象徴に過ぎない。役員会も幹部会もないから、およそ組織図を書くことが出来ない。経理やPRの担当者はいる。しかし命令系統が存在しない。

 何故それが可能かというと、もう二十年も前から、マインドが「ネットワーク」に慣れてしまっているのだ。つまり、自分が何をすべきかを全員が知っている。それが分からない人間はここにいられないのだ。

 リップマン氏の言葉で言うと、自立した人間の集合が別々の視座からものを見ること。つまり、発想も価値観も人と違わなければいけない。そうだ、それだけがルールだ。ここでは組織のために自分を殺すことは「ルール違反」になる。研究はボスのためではないし、スポンサーのためでもない。自分のためである。だから「楽しい」。
 
 冒険をする、リスクを恐れない、だから「楽しい」
 
 メデイアラボはテクノロジーの「クリエイト」に徹する。企業のR&Dがリ・サーチ とデイベロップ、つまり成功のリサイクルと発展的向上を目標にするのに対し、メデイアラボは成功がチラリとでも見えたら「やめる」。それ以上は研究者にとって挑戦にならないし、「楽しくない」。

 メデイアラボは成功を保証しない。水平線の向こうに何があるかを言えなかったコロンブスのようだ。しかし、挑戦することに価値があり、失敗は、ひょっとすると成功よりも価値がある。しかし、企業ではこれは通らない。結果を予測出来ないプロジェクトに、上司のハンコはもらえないからだ。

 では、スポンサー企業は、メデイアラボに何で金を払うのだろう? 見返りは何なのだ? 迅速な成果をあげられないと見て、降りて行く日本企業は少なくない。

 ラボの三大研究グループ(TTT=考える物質、デジタルライフ、未来のニュース)のいずれかに一スポンサーとして参加するには、年間20万ドル(約2100万円)が必要だ。この金額は安いか、高いか? これは社員平均年収の3人分に相当する。この金でメデイアラボのグループ研究員、約20人を雇った上、ラボの施設、家賃はタダ、研究のプロセスと結果のすべてについて見学し、討論に参加し、商品化の権利を全スポンサーが平等にもつ。高いか? 安いか?

 私がラボでよく聞いた言葉に「コラボレーション」がある。“協力”の意味で、アートでは“演奏家と舞踊家とのコラボレーション”、などの使い方をする。「私たちは、外部のスポンサーと、もっとコラボレートしていきたい」と彼らは言う。
 
  今や世界は「メデイアラボ化」しつつある
 
 “お客様”として、ただ結果だけを待っていたら損である。一緒にやれる能力を持った人間を派遣し、プロセスを共有しあってこその「成果」。たとえればアスレチック・ジムの会員になったら、汗水たらして中の器具やマシーンを思う存分使わなければ損、に似ている。日本企業は、どうもその利用の仕方が下手だ。もっとイマジネーションを! これがネグロポンテ氏の苦言だった。

 今まで資産だとされていた、不動産、社員の経験、会社の伝統…それらは今やお荷物や負債である。成功は敵である。ネグロポンテ氏はそこまで言った。デジタル革命とは、このような価値観の革命を言う。既存の組織は限りなく個人に解体されてゆく。

 メデイアラボで見かけた「Wired」という雑誌の11月号に、ソニーの
出井伸之社長の発言が載っていた。
1997年ソニーは38名の役員を10名に縮少、硬直した内部組織を徹底改革deconstruction…2000年には、ほとんど全てのソニー製品はPCを使わずにネットにつなげる」

 つまり、ソニーは「IT企業」になろうとしている。ITのネットワークにはヒエラルキーや縄張りは邪魔だ。ソニーはまるごと「メデイアラボ化」を決意したのだ。

 個人情報のIDを一つのチップにしてネットにのせ、Eコマースに大変革を起こそうと研究しているマイケル・ホーリー教授が言った「AT&Tが15,000人の管理職をレイオフしたのが、実にグッドアイデイアだった」。つまり、組織のガンは管理職にあり、が次第に見えて来たのだ。そして、テクノロジーの発展を阻害しているのも管理職ではないか。ソニーはそれに気づいてメスを入れ始めた。メデイアラボが20年前に気づいて実践してきたことである。
 
 更にイマジネーション 価値観の問い直しを!

 スポンサー・ウイーク最後の土日、「マインドフェスト」と名付けてラボを子供に解放し、レゴで思い切って遊ばせ、マインドストームを自由にプログラムさせ、並行して「子供の水準に迫る大人の傑作ロボット」を全米から集めて展示するというイベントだった。

 メデイアラボとレゴ社は「マインドストーム」開発を、10年にわたってコラボレートしてきた。誰もが子供の時よく遊んだレゴブロック を使い、プログラム可能なRCXとセンサーを加えて出来たおもちゃだ。そこで私が見たものは、子供によってメーカーの「マニュアル」は無視され、コンピュータは解体されてレゴの接着部品となり、もはやキーボードとモニターの姿をとどめない、壮大な遊び場風景だった。

 メデイアラボは遊び場である。クリエイテイブな実験場だ。ここでは
コンピュータと人間の関係を最先端で研究し、同時に、多様な考え方を許し合い、価値観の問い直しが行われている。それがMITメデイアラボである。

(取材協力・Norman Mallet)