口からホラ吹いて空を飛ぶ。

 twitter:shirukozenzai 

#ブログ読書感想文  ニンジャスレイヤー:ネヴァーダイズ

2016-08-20 | 小説

 詮無き事とは判ってはいるのだがつらつらと考える事がある。
 「悪意」はそれ単独で人を動かすものではあるが、「殺意」はそれ単独で人を動かすものなのだろうか?
 「殺意」と「悪意」は不可分なのだろうか、別個に在るものなのだろうか。悪意の無い殺意などというものが有りうるのだろうか?

 ニンジャスレイヤー第3部「ネヴァーダイズ」。この物語での本質的なテーマは「人間性」であると考える。
 第1部から読み進めるに、この物語は社会構造との戦いであることが読み取れる。
 「ネオサイタマインフレイム」は独裁者との戦い
 「キョートヘルオンアース」は階級支配との闘争
 そして「ネヴァーダイズ」では人的社会インフラへの抵抗と、複雑化していく。それに対して社会構造から失われていく「人間性」。

 復讐譚は主人公の「憎悪」が全ての起爆剤となり進行する。ベルセルクしかり、ニンジャスレイヤーしかり。
 はたして人間性とはなんであろうか。優しさ?気遣い?喜怒哀楽?それらの総称?
 
 ならば「憎悪」を「人間性」と捉えても間違いではあるまい。

 押し流すディストピア、管理社会の濁流に抵抗する為主人公、フジキドケンジが選択したのは、過去からうずたかく積み上げられた無念と憎しみを受け入れる事であった。無差別な殺人鬼と紙一重でありながら、それでも「人間性」を彼が保ち続けたのは何故か?
 書籍版に於いて「キリング・フィールド・サップーケイ」が書籍サブタイトルに選ばれたのには意味がある。
 
 「殺戮空間・殺風景」。
 
 この中篇はストーリーを見るだけならシンプル過ぎるほどシンプルである。まさしく「ニンジャが出て殺す」を体現したストーリーは、ただただニンジャのイクサ、ニンジャのカラテを殺伐と無慈悲に描ききっている。
 だからこそ相対するニンジャ、デソレイションの「ただ殺し、また殺す」無軌道と彼の虚無的心象風景を具現化したような「サップーケイ・ジツ」はフジキドに少なからず影響を与え、影を落とす。
 デソレイションは「きちんと」悪意を持って相手を殺していただろうか。
 作中で「魂と人間性をヤスリがけされるような感覚」とある。「水墨画めいた、モノクロームな光景」とある。
 魂に、心に色彩があるとして、虚無的に殺す存在の心に色彩はあるのだろうか。極彩色でも漆黒でもそれが「色」であるならばまだいいだろう。他の色を足せば色合いは変わるのだから。
 色褪せてしまった、削り落とされ色の乗る余地が無くなった魂に人間性など望むべくもないのだろうか。
 翻って現実での無差別殺人の報道や自爆テロ等を見るに犯人は本当に「憎悪を持って」人を殺していたのだろうか?
 とあるニンジャは「邪悪ではないニンジャなどいない」と語ったが、ニンジャとモータル(一般人程度の意味)の心根に違いなどあるというのだろうか?
 
 ならば人間性にニンジャもモータルもあろうはずもない。
 
 管理社会、ディストピアとは喜びも悲しみも、ましてや憎しみなど全てを押さえ込む社会である。ネオサイタマの人々は怒りの声を挙げた。力を持てない人々が挙げたのは祈りであった。対するは人間性を押し流すシステムである。
 大儀や正義などというものが介在する余地は無い。むしろこの物語は「そういったもの」を拒絶しているのではあるまいか。そんな気がする。
 俗に「憎しみの連鎖」という言葉が見受けられる事がある。正論だ。しかしそこに一抹の欺瞞がありはしないだろうか。勧善懲悪、復讐譚、ピカレスク、これらが廃れる事は無く、時に人々の慰めにすらなり得る。
 管理、抑圧とその正論は表裏一体、紙一重のバランスで成り立っている。現実は人間が裁き、調停するからこそ成立している。
 
 フジキドは既に死んだ者達だけでなく、今生きている者達の怒りも、更にはフジキドへの復讐者の怒りも全て抱えて決断的に拳を握っている。彼は狂人か?否。彼ほど憎悪と人間性を無限回で問い続けている存在は居るまい。

 我々が最も恐れるべきは自らの「殺風景」に飲まれる事だ。悪意と、殺意までは行かなくてもある種の「衝動」は誰にでもある。それを見つめ、問い続ける事だ。

 ニンジャスレイヤー:ネヴァーダイズ。個人の怒りから群像劇の様相を見せ、終盤は様々な局面から戦い、抵抗する人々が描かれた。フジキドやニンジャ達の戦いが全てではないだろう。力だけが怒りの表現ではないだろう。DJゼン・ストーム、デリヴァラー親子に見る気高い人間性。翻ってアマクダリ幹部連の削り落とされ色褪せた人間性。

「人間性」対「管理社会」。第3部とはそこに集約される。





 黄金立方体はまた音も無く回り続けるばかりである。

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キャベツ太郎

2016-04-26 | コラム

 だがしかし、アニメ面白かったですね。
 全12話というのも手頃で。サヤ師よかったなあ……ほたるさんもいいけどサヤ師だよなあ……
 ちょっとした疑問なんすけど、ぺたん娘って服装も何故か薄いっつーかルーズっつーか無防備?になりやすいんスかね?
 いやリアル知り合いにもそーいう感じの人いたりするもんでね?エロい要素はまるで全く無いけどね。

 んで本題。
 キャベツ太郎。ありますね。スーパーだったりドラッグストアだったりコンビニだったり。よく見かける。
 「だがしかし」でも紹介されてたりしましたね。
 で、ふと思ったのですよ。
 
  キャベツ太郎は駄菓子である←これ前提

 他の駄菓子って専用つーか大体まとまってコーナーとして陳列してるじゃないですか。でもキャベツ太郎は違う。ポテチなんかと同じ棚に並んでたりしますよね。
 つまりですよ?駄菓子のキャベツ太郎と同じ所に並んでいる訳だから、他のポテチや米菓子なんかも必然的に駄菓子である、と言えるんじゃなかろうか、と。
 つまりお店の陳列次第で、キャベツ太郎と並ぶ事で、カスタードケーキだろうとコアラのマーチだろうとリッツクラッカーだろうと全て駄菓子である、と言えるのではなかろうか、と。
 更には一緒に並ぶ事でゴディバのチョコであろうとブランデーケーキであろうと「駄菓子である」と認識されるのではあるまいか。
 
 キャベツ太郎はただそこに佇んでいるだけだというのに……っ!

 キャベツ太郎は「駄菓子である」が故に、周囲の認識を書き換える訳ですよ。ミーム感染を起こす訳ですよ。
 ミームとはなんですか?という質問も出ると思うのですが、コレね?従来は言葉一つにも時代によって色々意味が加えられていくけども、言葉そのものの認識は一定というか共通の認識をされているモノだったのですね。
 それを、ミームという概念はその認識そのものを書き換えてしまうのですね。
 間違った日本語の用法なんかもその一種と言っていいかもしれません。

 閑話休題。

 キャベツ太郎という存在が期せずして駄菓子という認識の枠を広げる可能性を示したと言えるけども、逆に、ならば
 駄菓子とはなんぞや?
 キャベツ太郎とはなんぞや?
 という認識のゆらぎを起こしてしまうのではなかろうか。

 あれ?これSCPになりません?SCP-■■■■ーJP-キャベツ太郎 みたいな。誰かTale書きませんか。
 高級菓子店の片隅にひっそり並んでたりするの。誰も気がつかないの。存在してるうちは店内のお菓子やケーキもなんもかも駄菓子と認識されちゃうの。1000円のお菓子が10円やそこらで売られちゃったりするの。
 で、太郎が何時の間にか居なくなって、閉店後の集計で店員さん蒼白になったりするの。
 最初は1袋のはずが、2袋、3袋と増えて世界中に広がったりするの。
 で、普通に食われたりもするの。
 何時の間にか世界経済が崩壊の危機に陥るけども誰も原因がわからないの。
 あ、やべえこれketerか良くてEucledか。

 オチはありません。

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ガールズ&パンツァー劇場版(観覧済前提)

2016-03-26 | アニメ

 つまらない持論ではあるが、物語とは「ない」物を語る事だと思っている。
 ありえ「ない」、しんじられ「ない」、とんでも「ない」、ノンフィクションであるなら知られてい「ない」、有名な事件、事象であれば語られてい「ない」など。
 そんなものは言い回しを変えればどうとでもなる、と言われるかもしれない。
 そうだ。
 だからこそ他には「ない」物を書(描)き続けられなければいけない。

 本題に入ろう。

 
   われらのとるべき道は 理不尽に忍耐する事ではなく、理不尽に必勝する事である

 
 こう語ったのは「覚悟のススメ」における作家、山口貴由であったか。
 「勝利する」とは、どういうことであろうか。ゲーム、試合であるならばルール上の勝利条件はあるであろう。ルールの隙、穴を衝いて有利に進めるという事もあるであろう。自らがルールを作る側であるならばなお有利であろう。
 
 「勝利する」とはどういうことであろうか!?

 作家、板垣恵介は「我侭を押し通す事」と語ったが、これもまだ湾曲された表現だと思う。私は「納得させる事、受け入れさせる事」だと考える。
 正々堂々という言葉があるが、これは裏を返せば一切の言い訳をしない、させないという事である。異議を唱えない、唱えさせないという事である。
 負けるという事は勿論、悔しさが最初に来るものだ。だがそれを越え、敗北を受け入れ、納得をする。そこに理不尽の介在する余地は無い。そこから相手を見つめなおし、理解し直す事が始まる。
 大洗女子学園、彼女達の当初は至弱であった。
 単なる課外授業であった筈の戦車道が、いつしか敗北の許されぬ決死の戦いへと変貌し、やがて至強へと指を掛ける。
 至弱であったが故に彼女達は何時でも全力であった。自分達には何が出来る?何をしなければならない?

 納得させる事は相手を認めることに繋がる。
 劇場版において、かつて戦った他校が大洗女子に助太刀の為集結するのは、御都合主義ではない。
 以前の敵が味方となって現れる、一見ベタな少年漫画的展開とは、勝利する事の意味を考えれば至極当然と言える。
 
 翻って、逆の存在と言えるのが文科省の小役人であろう。
 「卑劣漢」という呼び方がこれほど当てはまるのもそうそう居るまい。不意打ち騙し討ちルール変更、しかも自らは手を汚さず他人の力頼り。
 ガールズ&パンツァーにおける「大人」として最初にして唯一、最悪の存在と言える。思うにTVシリーズもこの小役人の悪意から始まったと言えるのかもしれない。
 
 他方、劇場版で損な役回りになってしまったのがやはり大学選抜チームであろうか。
 こちらは正直、勝利の意味も、ややもすると戦う意味すら見出せなかったのではないだろうか。
 技術はある。知識もある。経験も高校生とは段違いであろう。だがメンタルではどうだったか?
 下らぬ精神論ではない。状況が加速度的に極まってくれば結局最後は精神力の勝負となるのだ。

 大洗女子学園、劇場版では加えて高校生連合、彼女達の戦いは常にジャイアントキリングを求められ続けた。まぐれなど有り得ない。奇跡などあろうはずも無い。徹底的に抵抗し続け、あらゆる状況を越えていった。そう、戦車のように。
 だが、その戦車で戦う彼女達の姿は余りに可憐で、軽やかだ。
 決戦の地が遊園地跡地というのは、トリッキーな演出と、縦横無尽に暴れまわる彼女達を描くのにピッタリ、というのもあるのだろうが、あらゆる条件、状況、荒地も超えて行く彼女達を象徴している、とも読み取れるのではないだろうか。

 ガールズ&パンツァー劇場版……地元で3回しか観れなかったのが惜しまれるが、素晴らしかった……BDが待ち遠しいかぎりである。













 今回の結論。
・おだんご頭の会長いいよね……
・戦車乗り女子は肝が据わりすぎ。
・小役人はこの後どうなってもインガオホー。
・ハンコは大事。
・アリスはニンジャ。
・ニンジャを倒すモータルの流派が西住流。

◆以上です◆

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ニンジャスレイヤー  ネオサイタマ炎上

2013-04-14 | 小説

 ネオサイタマ炎上……なんとジゴクめいたアトモスフィア漂うマッポー感溢れる文言であろうか。

 
 サイバーパンクには「無常」がよく似合う。
 
 SFの中でも特にサイバーパンクを語る時、常にその世界観は「発達していながらも退廃している未来像」で語られる。
 そういうジャンルだから、と言ってしまえばそれまでだが物語中の登場人物たちは非常に刹那的で、場合によっては自分の境遇に絶望しながらも諾として生きている救いの無い様子が描かれる。
 ニンジャスレイヤー(以下忍殺)読者諸氏には、作品のテーマが「インガオホー(因果応報)」「ショッギョムッジョ(諸行無常)」にある事は説明するまでもないだろう。
 忍殺語というエキセントリックな部分ばかりが触れられがちだが、作品の真の魅力は、筋書きこそある意味簡潔、勧善懲悪でありながら、それ故浮かび上がってくる無常観、簡単なようでいて複雑怪奇な登場人物たちの人間性にある。
 世界観の描き方も簡素化が徹底している。悪の描き方から権力集約、ネーミングに至るまで明快極まりない。ギミックの構築、使われ方、つまり其処に物語の本質は無いのだ。
 
 SF、サイバーパンクでありながらその「身体感覚」に疑いが無い。

 作品中には「IRC」「生体LAN端子」「コトダマ空間」といった用語によってサイバー空間が描かれるのだが、ツールの一環として、あくまで身体感覚の延長としての扱いであるのが面白い。「ニューロンが焼ききれる」といった表現も使われるが、薬物の過剰摂取と同じような認識、基本的には自分の身体ありき、なのだ。没入する事の危険性が語られていながら、それを醒めた視点で見ている第三者の視線を感じる。
 どうしてもこういった要素が出てくると自己の認識論などに振れがちとなるのだが、私個人的には、現実のネットワークが一般化した事でむしろそういった――言い過ぎかもしれないが――「幻想」が消え去りつつあるのではないか、と考えたりもする。自己の脳すらも只の道具に過ぎない……ある意味非常に現代的、とも言える。
 
 そうするとその身体感覚に立脚した「私」(これは筆者である私ではなく、作品世界の全ての人物を指す)、――サイバー空間という逃避先すら許されない――に迫ってくるのは何か。
 それはやはり古典的でありながら永遠に問われ続け、無限に答え続けられる問いなのであろう。
       
      「我々は何者で、何処から来て、何処へ行くのか」

 ある者は最強の力と権力に溺れた男であり、ある者は突然力を手に入れてしまったが故に日常から追われてしまった少女であり、またある者はビルの清掃の老人であり、ある者は反体制テロリストでありウキヨエで生計を立てるごく普通の女性であり……そして彼は復讐鬼のニンジャであった。

 ここで忍殺のテーマ、「因果応報」「諸行無常」に立ち返ることが出来た。
 全ての行動には結果が伴う。行動は因果となり結果が応報となって返ってくる。あらゆるモノは変化し流転し、必滅する。
 それは慈悲である。
 止まない雨は無く、朝の来ない夜は無い。禍福はあざなえる縄の如しであり、沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。
 それは救済でもある。
 主人公、ニンジャスレイヤー、フジキド・ケンジはそれを具現化させる存在である。
 彼自身の行動理由、怒りの根源が既にそれを物語っている。復讐それ自体の是非を問うのは無意味であろう。現実ですら「そう」なのだ。同じ境遇に陥って彼と同じ選択をしない者などいるだろうか。
 この作品ではそういった負の感情から逃げていない。それも含めた生き方、だからこその人間と言うべきかそういった「私」を否定しないのだ。
 確かに因果は応報する。インターラプター、シルバーカラス……恐らくフジキドの最後も、ピカレスク(悪漢)の常で破滅へと至るのかもしれない。しかしそれを受け入れた時彼等の最後は慈悲に溢れたものだったに違いない。

 
 さて、書籍ではようやく第一部が終わった所ではあるが、6月に続く第二部を待つも良し、ネットのアーカイブを読み込むのも良いだろう。
  この先もし映像化されるならば、願わくば、原作に意図的に散りばめられた「胡散臭さ」を笑いに逃げるのではなく、自然に溶け込ませた住人達の日常へ落としこんだ映像を見てみたい。そこにあるのは奇妙でありながら退廃で彩られた美の空間だ。
 NJSLYR世界の更なる飛躍に期待する。

 

 

 

 

 アッハイ、こんなカンジでいいですか?ハイ、エエ……、エッ!?アイエエエエエエエ!!



 アバー……

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ドリフターズ ヤンキンアワーズ  2012 12月号 第33幕

2012-11-06 | 平野耕太関係

 ふと、信じる、という言葉は実は曖昧な言葉なのではないか、と思った。
 信用するとは、(曖昧で恐縮なのだが)自分の「何か」を対象に預ける事なのではないだろうか。
 これは対象との距離感もあるのだが、相手に「頼れば」”信頼”で、「任せる」なら”信任”となる。
 信、という字で調べると大方が心の持ちようについてなのに気づく。「信じ、あおぐ」から”信仰”、「信じ、あがめる」から”信奉”だ。

 そこで更に考える。その預けてしまう「何か」の割合が大きくなればどうなるか。優先順位が先になればどうなるか。
 対象に自分自身も全て何もかも預けてしまうとそれは「依存」となる。
 それが無いと自分を維持できない。生きていけない。既に「信」の文字は消えてしまった。もはやそれは不自然であり不健康な状態である。

 更に更にだ。そこに別の方向から悪意が流れ込んでくれば。
 それは弱った心を容易くなだめすかし、弄び、時に恐れさせ、操るべく手練手管を振るう事に疑問の余地は無い。
 そこに在るのは「洗脳」というべき所業であろう。

 
 さてさてそれでは今月のドリフターズなのだが。
 地上に文明を作る、おそらく国家を作る事にも繋がる、黒王の志向する方向は「戦後」だ。
 農耕を教え共通の文字を与え、「統一された」宗教を広める。つまりコボルト、ゴブリン、「亜人間」に一定の知性と言語、文化を認めている事になる。文字などは多文化を横断する為のツールとしての側面が強いからだ。
 農耕を教えるという事は「所有する土地、すなわち領土」の概念に繋がる。兵站という側面だけではなく、領土から更に文化圏、宗教圏といった広がりが生まれてくる。
 宗教を起こし、広めるというのは「信じる」事で集団に一定の方向を与え団結させる点で、都合が良い。現代社会でも「○○教圏」で国家をまたぎ、大きな括りで見る方向もある。
 
 ここまで考えたのだが、疑問が生まれてきた。

 国家を起こし軍勢を機能させる事を考えれば、農耕、文字の2点で十分なのではないだろうか。
 国家、軍勢の縦構造、横の連帯も訓練と対話で補えば成立するのではないか。文化、宗教と言った所で元より持ち寄ったモノが混ざり合い広がるのが常で、国はいつも後追い、というのが大方に思える。中東の一部のように信者が結集、建国という例もあるがそれは既に各個が一定の文化レベルや部族的集団を形成している前提で成り立つ筈だ。
 逆に言えば文化、宗教などと言うものは一朝一夕で成立するものではない。
 ここまで来て黒王の「統一宗教」という響きに不気味さを覚える。


何故「新しい宗教」なのだろうか。


 廃棄物の面々を見ても宗教的な背景はほぼ一致しているように思える。時代や国といった背景の違いはあるが概要としては差は少ないであろう。むしろ土方が変わり種とも言えるが問題とするとも思えない。彼等の信じた「神」を何故信仰の対象にしないのか。
 ここで数ページ戻ろう。

「今やお前は畏れられるより蔑まれる姿となった 我らの盟に加わる権利がある」

 蔑まれる、だ。彼等の盟に加わる者は全て「蔑まれる」のだ。この呪詛。
 つまり彼等は全てを呪い、呪われるのだ。そこに例外が無いならば彼等の信じた神もその対象となり得るのだ。
 ならば新しい宗教の信仰する対象はいったい何なのか。
 欺瞞から生まれた宗教、文化で形成される国家とはどういった形を成すのだろうか。


 妄想が加速した感もあるが「新しく生まれるも祝福ではなく呪われた国家」と「収奪された(されるであろう)国家」、世界はどう変化していくのだろうか。

 以下次号。
 

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ドリフターズ ヤンキンアワーズ  2012 11月号 第32幕

2012-10-07 | 平野耕太関係

 何時の世であっても、公正である事が正しい世に導かれる答えであると信じる。
 
 責任者とは責任を取るからこその責任者であり、将であるという事は全てを負い、始める責任も終わらせる責任も「けじめ」を付ける責任も負うからこその将なのだ。
 約束とは破る為ではなく、果たされる為にあるもので、国際法でも条約でも戦争法でもそれは変わらない。
 信長も語っていたが、豊久も同じく「将の器」を問う形になっているのが興味深い。
 集団の長は時にその器を問われる。その「形」も様々であろうが、今の世を見渡しても(ネット社会という事もあるだろうが)小細工を弄する人物が浮きあがぅて見え、なんとも情けなく感じる。
 
 今回の豊久と与一のやり取りは、いみじくも豊久の将の器を明確に与一に自覚させたに違いない。

 「そんな事ばっかりやらされてたんで…」

 それは過去の上役、源義経の器を問う事でもある。不意打ち、だまし討ち上等という態度を当然とする義経。確かに戦では強かったのかも知れない。だがそれは同時に味方の信用も失う事にも繋がる。その結果どうなったか。史実では東北への逃避行である。
 信長は豊久を「馬鹿」と言う。だがその先には「正直」「真面目」といった単語が隠されているのではないだろうか。
 愚直であれ、搦め手が苦手であれ、真っ直ぐにしか進めない性分であれ、それが回り道だったとしても、それ故に豊久は信用を集め、信長はそこに王の器を見ているのではないだろうか。
 すなわち与一も。
 
 
「もう やらされば 無か」「こいは 我らの戦じゃ」

 驚きと、嬉しさなのか喜びなのか複雑な与一の表情よ。
 そして豊久の「我らの戦」という言葉には、与一を単なる道具、駒ではなく、確固たる人格、一人の将として認識している、という意味も含まれているのだ。

 
 さて場面は変わってサン・ジェルミ……は置く。紫との関係が匂わされるがそれはまだ後なのであろう。
 それよりも北壁、黒王軍である。
 当初、大軍勢で一気に進むのかと思いきや、である。「青銅竜」「農耕」という単語が持つ意味は。
 どうやら「軍勢対軍勢」というよりも「国家対国家」、すなわち個人の武よりも、更に戦術、戦略という方向が強くなりそうである。
 それと気になったのが今回のサブタイトル「Omen」。
 このタイトルだとハリウッド映画の「Omen」、音楽で言えばThe prodigy「Omen」を思い浮かべる人もいるかもしれない。単語の意味で言えば「予兆、きざし、縁起(映画はここからか?)」とある。
 黒王軍の行動を何らかのきざし、と見ると、次に起こる状況とは何だろうか。


 他方の漂流者勢などの状況も懸案しつつ、
 以下次号。

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ドリフターズ ヤンキンアワーズ  2012 9月号 第31幕

2012-10-07 | 平野耕太関係

 物語、エピソードを組み立てるという事は、往々にして対比構造を書く事に繋がる。
 対比、落差、明暗、なんでもいい。
「わたしとあなたは違う」「こんなはずじゃなかった」「あの時が二人の運命を分けた」……違いを描くからこそ、そこに物語の「うねり」と「カタルシス」は生まれる。
 ギャグ漫画であっても、いや、むしろギャグ漫画にこそ強く、判り易い対比が織り込まれるだろう。
 不条理系が判り易いだろう。読者が一般常識、コモンセンスを持ち合わせているという前提に立つからこそ、そこから逸脱した表現を笑いに転化させる事が可能なのだ。

 さて、31幕なのだが、この回では複数の対比が意図的に配置されている。
 まずはドワーフである。前段で屈強なドワーフを一般的なイメージとして提示することで、その後の惨状を際立たせている。その様で如何に過酷で非人道的な扱いだったか、「収容所」という単語が使われている点からも想像に難くないであろう。

 次に豊久の評価、扱いとでも言おうか。

「うーわー あいつ  やっぱりばかなんだぁー」

「うまい  この人バカじゃない  全知全能が戦さに特化してるんだ」

 前半が信長、後半が与一なのだが、行動の一片だけ切り取ると豊久の行動は確かに馬鹿げたものに見える。それが信長の視点で、一連の流れとして見たのが与一の視点である。こう書いてしまうと当たり前の状況に見えるのだが、これは「最前線」と「離れた指揮系統」と対比して考えてみると流してしまってはいけない視点である。
 戦略、戦術として考えると企業もそうであるし、およそ目的を持った集団であるならば必ず問われる視点の筈だ。
 信長が卓越しているのは、豊久を馬鹿と言ったその直後に粥にしろ、と対応する指示を出している点にある。あくまで豊久を尊重してその場での最善手を指示しているのだ。

 
今回で対比としてもだが、ギミックとして効果的に使われているのが「食事」である。
 食事とは基本的には「楽しいもの」「安らげるもの」といった行為な筈だ。勿論ドワーフ達がありったけの食料を前にしたのは「安堵」と「食欲」であろう事は信長とオルミーヌの会話でも判る。
 しかし豊久はそれを敵兵に対して報せる事で「恐怖」へと転換させている。
 他作品になるが板垣恵介「バキ」に於いて、「待たされる時間」こそが恐怖である、と説かれている。想像する、予想できるからこそ恐怖する。何時になるか判らない、だが確実に来るからこそ恐怖する。これは明快な真理だ。それも自分達がドワーフから何を取り上げたのかを自覚し、今それが与えられ満たされようとしているのが判るのだ。その後に待ち受けるのは言わずもがな、だ。
 
 少し横道に逸れるが、その食事も悪意を持って利用されると人道に悖る行為となる。
「昔猿めがヒドい事をしてな」
 秀吉による「鳥取の餓え殺し」の事であろう。
 生きる為に不可欠であるからこそ、戦と日常が地続きだからこその豊久の行動であり、信長の配慮なのだと言える。

 
 篭城する敵兵に豊久の降伏勧告が迫る。
 以下次号。

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恥ずかしながら

2012-08-09 | 日記

 戻ってまいりました。
 半年ぶりですか。いやお恥ずかしい。
 間を空けたとはいえ何かあったかと言うと、あったかいな?、と首をかしげるばかりでございまして。ええ。
 こんだけ空けといて今更何から再開すれば良いのか、とか言ってたら、「とりあえず近況から」と頂きまして。そうですね、まずはそこからですよね、とポチポチ書いている訳ではございますが。

 はて、何を書くか。

 ああ、そうそう。個人的な話ではあるのですが車を買い換える事になりまして。はい。
 丸9年、実に20万キロという相棒ではあったのですが、寄る年波には勝てずと言いますか、機械ですからガタが来るのは当然ではあるのですが、この短期、約半年で

   触媒→オルタネータ(伴いでバッテリー)→空調のブロアモーター→ABS←今ココ!

と連鎖的に駄目になるというまるで笑えない状態に。流石のワタクシめも「これはもう限界なんだろう」と買い換える決意を致しまして。9月に車検も控えておりましたから、これはもう、お空の上の何方かが「もう買い換えなさい」と仰ってるのに違いない、と思い立ちまして。
 で、何買ったのかというと、コレ
 
 嬉しいという部分は勿論あるのですが、いささか「やってもうた感」が……大丈夫なのか!?自分!?

 いやでもこれで逆に人生に張りが出てくるってもんですよ。10年は乗りたいなあ。
 そんで今考えてるのが9月9日の三沢基地航空祭行ってみようかな、などと考えていたりするのですよ。でももしかして今年はブルーインパルス飛ばない?三沢基地のHP見てもなんかそんな感じなんだよな……。他に目玉的な展示あったりするのですかねえ。一人で行っても良いけどなんとなく寂しいかなあ、と道連れいないかな、などと考えていたりします。

 
 とまあ個人的な話はいいのですが。中断してるドリフの記事とかどうしましょうか……。順繰りに書いて行っても良いのですが連載に追いつかなかったりして。笑……えないかも。何かありましたらコメントでもツイッターでも何か頂けたら嬉しく重いますです。因みにアワズは買ってます。レックスも買ってます。サンデーも買ってます。なでちこ師匠可愛いです。ひめの身体能力は異常です。私もひめ!はじめ隊!入隊したいです。

 __[警]
  (  ) ('A`)<ひめはじめ隊……
  (  )Vノ )
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水難

2012-01-24 | 日記

 いやー、やっと落ち着いた。
 参った参った。この時期に水難に見舞われるとは。つか、この時期だからか。
 とりあえず言っておこう。寒い地域に住む皆様。

 凍るのは上水道だけじゃないぞ!排水にも気をつけろ!
 
 詳細は書きませんが、上の部屋で水漏れを起こして下の俺の部屋が……。
 午前三時。突然激しい水音が。俺は即目を覚まして自分の部屋?と見回っても何も無い。ならば上の部屋か、と思っていると。
 別の部屋で水道使ってると「遠くで音がする」感じですよね。それが段々近づいてきて。

「じょろろろろろ」

 おやおや?あれ?この音の臨場感は何?どこからかしら?
 ばつん。え、「落ちた」?。真っ暗ですか?

「だばーーーーーーー」

 天井の合わせ目から水が!ああ!漏出地点が増える!流れ落ちてる!なんか凄い勢い!ああ!窓に!窓に!
 手探りで服を着て部屋を飛び出る俺。おいおい!階段に流れ出してるよ!
 上の部屋の扉とチャイムを連射する俺!

 
 ガチャリ。
「はわわわわ!ごめんなさいー今水止めますからー」(ベン・トーの井之上あせびちゃんのイメージ。知らない奴はググれ)
「いや止まってないから!不凍栓締めなさい!」
「止ーまーりーまーせーんー」
「回せ!回すんだ!」
「はわっ!?取れちゃいました!?」
「なにィ!?ならば元栓だ!元栓!」
「何処だかわかりません~~~」
「ええい!待ってろ!」
 きゅっきゅっきゅっ。
「締まった……だが流れるのはそのままか……おおい、水道屋か大家に電話!」
「番号判りません~~~(半泣き)」
「マジか、待ってろ」
 部屋から電話帳とライト持って来る俺。
「ほら、コレだ。ちょっと待て」
 大家、出る。状況説明。
「あー~それねー。結局溢れた分流しきらないとどうしようもないからさー。流しきっちゃって?朝行くから」
 ですよねー。 
 
 そんな感じで朝まで横目で水が流れ落ちるのを見ながらまんじりと朝まで過ごしたのですが。
 翌日大家と共に水道、電気、建設の各業者が来て即天井はがし。覗いて溜まってる処を穴開けて水抜き。じょぼぼぼぼ。
 更に流れたルートは恐らく断熱材も駄目だろうから交換、と大規模工事が。
 それに伴い電気も止められるしバラされる訳で。尚且つ水道屋も漏水の点検と「ついで」にと修理が。
 俺も普通にしていても、靴下も濡れて意味無いからビーサンですよ。室内で。冬なのに。
 終わってる。自室の事だから作業立ち会ってなきゃまずいし。バイト数日休まざるを得ないし。 
 ただ……そんな状況でも実は……電化製品に実害は無かったのです!
 これこそ不幸中の幸い?幸運?日頃の行い?
 
 いいえ。違います。

 実は……5.6年前にも同じ状況を経験していた為、「水が流れてこないであろう」地点に家電を配置していたのです!
 上の家主も原因も違うけどな!今回危うく箱〇駄目にしそうになったけどな!まさしくこれが!これこそが危機管理!
 10年経たないうちに2度も漏水で部屋水浸しにされるなんて俺くらいなもんだろ。マジで。
 でもこの時、「ネタになる」と思った俺もいたんだ……。
 ああ、なんて卑しいブロガーなんだ……。
 
 そんで、水流れきりました、天井張り替えましたとか言っても。

 部屋そのものは当分乾かないんだよねえ~~~

 寒いのに。乾燥してるはずなのに。もう引っ越そうかしら……



 上記の文章はフィクションです。登場するドジッ娘、人物、現象は存在しない……はず。

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迎春

2012-01-01 | 日記

 あけてしまいました。
 おめでとうございます。
 今年も宜しく……とは言うものの去年もえらいネット引きこもり状態の感じでなんとも。
 今年はもうちょっと社交的になりたいです。
 てかこのブログも6年半て所ですよ。何時の間にか。日記ネタの方が少ないからアレなんですけども。

 その前にですね……仕事探さないとナァ。
つか誰か仕事下さい(泣)

 いやー、前の会社辞めてからその繋がりでバイトなんかはしてたりするんですけどねー。流石にそのままという訳にもいかないですしねえ。まずはそこからなのかなあ、と。

 とりあえずそんな所で。
 今年はもうちょい真面目に更新もする所存。
 ではでは。

コメント (8)
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