パソコンの課題を進めに大学へ行ったら新入生の健康診断に
大学をジャックされていて凹んだ気持ちで帰ってきた筆者です。
その道中、東京ではとっくに満開の桜に目を奪われました。
つい先日まで寒い実家にいたので桜前線に完全に置いてきぼりです。
そんな桜を見ていると不思議と心が引き締まります。
桜の木は毎年春に満開の花を咲かせるために春の終わりには葉を伸ばし
栄養を蓄え、寒い冬を乗り越えて開花の準備をしています。
自分もこの一年粘って粘って次の春までにこんな素敵な花を咲かすだろうか
などと、らしくもない事をつい考えてしまうからです。
しかし、今日はそこから思考が別の方へ飛び火を始めました。
桜はその花びらも地中で分解され、樹木の栄養へ利用されます。
完璧なまでのリサイクル。実に見事な自然の摂理です。
なかなか不完全なものの多い人の世界には作り出せない一つの「完全」を
見たような気がしました。そうしてからこの都会の町を見上げていると
ありとあらゆるものが再利用されるために手間のかかる不完全なものばかり。
そして、「自然」とは一体なんだろう?と考えました。
よく地球が泣いている、という環境保護を訴えるコピーを見ますが
あれは地球が泣いているのではなくて、実はその逆で人間が汚れて
人間に牙を向いた自然を人間が見て泣いているのだと気づきました。
他人は自分を映す鏡、というのと同じです。
信用してない人からは信用されない、という理屈と多分同じ。
自然は人間を含めたもっと大きな存在で意思などは存在しないもの。
環境に関わる仕事に就こうと考えている筆者は自然との関わりを考えます。
本来自然と共存した人間との生活は日本で実践されていました。
人間のそばに自然のあるという生活は可能でした。
環境という観点から言えば、環境の最先端を走っていました。
つまり、田舎臭いところほど環境学的には進んでいるのです。
さて、その観点では都会という環境は異なった世界に見えてきます。
自然が全くといっていいほど存在しない都会では、その恩恵を受けることが
できません。単に空気が汚れているとか、川が汚いとかいうことではなく
ビル用のコンクリはそれ以外の用途には使えない。道路も披露とともに
アスファルトから敷き直さなければならない。トイレからの産物もただ
汚物として除外されなければならない。自然のない都会こそが
実は環境学としては自然世界の僻地、奥地なのではないでしょうか?
当然ながら整備された交通や莫大なエネルギーなど、もはや後戻りできない
事態も存在します。ただ、生活を昔に戻すだけでは不便になるだけです。
環境的奥地である現代の都会は、自然を取り込んだ新しい変化を求められる
ようなそんな気がします。当然ながら街路樹を増やすとか、公園をつくるとか
現状で行われていることを伸ばすのではない、質的な変化が必要です。
アスファルトの原料の石油だってもうすぐ無くなるのだから
そう遠い未来の話ではないと思うのですが、いまだ絵空事の域を出ません。
そんなことを考えながら桜の木々を見ていると
この桜も自然の山々にあればもっと綺麗に咲くだろうか?
と考えてこんでしまいました。
急に山の中に満開に咲く桜の林を見たいと思いました。
実はさらに悩ましい問題も思い浮かびましたが疲れたので
今日のぼやきはここまで。気が向いたら明日書くかも・・・。
大学をジャックされていて凹んだ気持ちで帰ってきた筆者です。
その道中、東京ではとっくに満開の桜に目を奪われました。
つい先日まで寒い実家にいたので桜前線に完全に置いてきぼりです。
そんな桜を見ていると不思議と心が引き締まります。
桜の木は毎年春に満開の花を咲かせるために春の終わりには葉を伸ばし
栄養を蓄え、寒い冬を乗り越えて開花の準備をしています。
自分もこの一年粘って粘って次の春までにこんな素敵な花を咲かすだろうか
などと、らしくもない事をつい考えてしまうからです。
しかし、今日はそこから思考が別の方へ飛び火を始めました。
桜はその花びらも地中で分解され、樹木の栄養へ利用されます。
完璧なまでのリサイクル。実に見事な自然の摂理です。
なかなか不完全なものの多い人の世界には作り出せない一つの「完全」を
見たような気がしました。そうしてからこの都会の町を見上げていると
ありとあらゆるものが再利用されるために手間のかかる不完全なものばかり。
そして、「自然」とは一体なんだろう?と考えました。
よく地球が泣いている、という環境保護を訴えるコピーを見ますが
あれは地球が泣いているのではなくて、実はその逆で人間が汚れて
人間に牙を向いた自然を人間が見て泣いているのだと気づきました。
他人は自分を映す鏡、というのと同じです。
信用してない人からは信用されない、という理屈と多分同じ。
自然は人間を含めたもっと大きな存在で意思などは存在しないもの。
環境に関わる仕事に就こうと考えている筆者は自然との関わりを考えます。
本来自然と共存した人間との生活は日本で実践されていました。
人間のそばに自然のあるという生活は可能でした。
環境という観点から言えば、環境の最先端を走っていました。
つまり、田舎臭いところほど環境学的には進んでいるのです。
さて、その観点では都会という環境は異なった世界に見えてきます。
自然が全くといっていいほど存在しない都会では、その恩恵を受けることが
できません。単に空気が汚れているとか、川が汚いとかいうことではなく
ビル用のコンクリはそれ以外の用途には使えない。道路も披露とともに
アスファルトから敷き直さなければならない。トイレからの産物もただ
汚物として除外されなければならない。自然のない都会こそが
実は環境学としては自然世界の僻地、奥地なのではないでしょうか?
当然ながら整備された交通や莫大なエネルギーなど、もはや後戻りできない
事態も存在します。ただ、生活を昔に戻すだけでは不便になるだけです。
環境的奥地である現代の都会は、自然を取り込んだ新しい変化を求められる
ようなそんな気がします。当然ながら街路樹を増やすとか、公園をつくるとか
現状で行われていることを伸ばすのではない、質的な変化が必要です。
アスファルトの原料の石油だってもうすぐ無くなるのだから
そう遠い未来の話ではないと思うのですが、いまだ絵空事の域を出ません。
そんなことを考えながら桜の木々を見ていると
この桜も自然の山々にあればもっと綺麗に咲くだろうか?
と考えてこんでしまいました。
急に山の中に満開に咲く桜の林を見たいと思いました。
実はさらに悩ましい問題も思い浮かびましたが疲れたので
今日のぼやきはここまで。気が向いたら明日書くかも・・・。