蛇口が取れた

4年半の杭州生活を終え、ついに帰国。現在、中国人化後遺症に悩まされ、好評リハビリ中。

まじめなことを書いちゃうぞ

2012-10-02 01:06:04 | 上海
全然、書いてなかったね。
めんどくさくて。
しかもfacebookはじめちゃったから、そっちばっかに書いている。
(といっても、そっちもそれほど熱心には書いていない)

さて、先月17日・18日にfacebookに書いたものをまとめて貼り付けちゃいます。
たまにかかないと、背景が味気なくなっちゃうみたいで。

では、どうぞ。
笑いなしです、今回。


本日、上海から戻って参りました。
今回は、上海師範大学哲学学院主催の「東亜儒学国際学術研討会」に参加のために上海に。
ひとりぼっちかと思っていたが、
杭州時代に知り合った浙江大学の先生や
2007年の南京大学で開かれたシンポジウムで出会った青年
(当時は院生だったが、今では立派な先生となっていた)、
翻訳のことで連絡を取り合っていた台湾の先生(日本人)と偶然で会うことができた。
それ以外にも、ベトナムの先生とホテルが同室であったり、
今日帰る前の午前中に調査に行った上海図書館の古籍部で、
シンポに参加していた台湾の先生に偶然会い、
「日本に行ったときはお前に連絡するからな」と携帯番号を聞かれたりと、
いろいろと収穫のあった日々であった。

上海では、身の危険を感じながら、ちょっと街を歩いてみた。
14日には、地下鉄の駅まで歩いている間、何人かの人に道を聞いてみた。
一番不親切だったのは、公安。
それ以外の人は、至って普通に教えてくれた。
ケバブ屋の兄ちゃんは、「あっちじゃないかな。でも、俺地下鉄乗らないから確かじゃないかも。」とまで、丁寧に答えてくれた。

日曜日午後には、少し時間ができたので、中心地(観光地)を偵察。
人民広場につながる福州路(上海古籍書店などの書店街でもある)は、人でごった返していたが、どう見ても日本人の私に気を止めることはなく、スムーズに歩けた。
新天地では、ショップ店員の小姐に、「日本人少ない?」って聞いたら、「いっぱい居るよ。危ないのは領事館付近だけだ。」と答えてくれた。

月曜日の図書館では、荷物預けの場所のおじちゃんに、
「おまえ、日本人だろ。(你是日本的朋友吗?)ここにはよく日本人が来るよ。」と中国語で言い、最後には日本語で「ありがとう」と言っていた。
その後、空港に行く途中のタクシーでは、運転手が「お前日本人か。全く迷惑だよな。国と国、政府と政府との戦いであって、一般人には全く関係ないんだからさ」と、フレンドリーに話しかけてきた。その後、彼とは、全く関係ない中国で男の子を持つことの大変さについて語り合っていた。

もちろん、いくつかのエクスキューズは必要でしょう。
まず、いつになく私は警戒して歩いていましたよ。
長年、中国で暮らしていたけど、今回のような事態・感覚はかつて無かった。
福州路でも、カバンは「南京大学域外漢籍研究所」と書かれていたものをぶら下げ、手には、おみやげに買った「張愛玲」(上海生まれの人気作家。「ラスト・コーション」の映画原作でおなじみ)の小説を手に持って歩いていた(何の役に立つのかは不明であるが)。
もちろん、日本語を話しながらというのはないし、夜は出歩かない。
地下鉄でも、注意深く立っていたし。

しかし、そんな風に出歩けたのも上海だからかもしれない。
日本では上海のデモはすごい、と報道されているけど、上海は広い。
そして、中国のどの都市よりも成熟している。
先の大戦中でも、混乱にありながら、国際都市として上海は反映していた。
そういった歴史が、伝統がある都市でもある。
だから、タクシーの運転手のような発言が出てくるのだろう。
それと、実は今上海は「上海旅行ウイーク」の真っ最中(大阪と香川の花車が出られなくなったと報道されていた、あれです)。
ショップ店員さんがするどくも指摘していたけど、この時に、観光地・中心地でデモができるはずがない。
このような上海ならではの特殊事情があったから、簡単に街歩きができたのかもしれないということは考慮すべきでしょうね。

だって、私は街歩きしていましたから、行かなかったんだけど、学会の旅行ツアーで江南古鎮のひとつ周荘に行った台湾人先生から聞いた話によると、
学会に参加した日本人先生が何人かで日本語で話をしていると、通りがかりの観光していた中国のおばちゃんたちが、
「日本人だ。釣魚島(中国語ではこう言います)は我々の領土だ」と言っていたようなのですから。

ではなぜ、一観光客にすぎないおばちゃんたちがそんなことを言うのか。
それは、国内のメディアによる連日連夜の報道が大きな原因でしょうねえ。
(日本のメディアはなぜかそのことを全く伝えていません。デモの現象だけをおっています。それでは、なんもわからんぞ。)
連日、メディアではトップニュースが、尖閣問題。
必ず、冒頭には、「釣魚島はわが領土」という言葉がつき、映像では、人民解放軍の軍事演習の映像が流されたりする。
日本の国有化には「非法」という言葉が枕詞となっていた。
言葉も刺激的で、「日本は恐るるに足りない」だのなんだの。
さらに、歴史的根拠があるのだと言うことを示すための教育(?)番組も流している。(北京大だの、精華大だのの教授が出ています)
ああ、こんなのを毎日見ていたら、そりゃ、そうなるよね、って感じですね。

ついでに、そういった報道から透けて見えるのが、
「これを機に一気に台湾をコントロールしちゃえ」っていう中国側の思惑。
番組では漁船を中国からも台湾からもいっぱい送り込んで、台湾の漁船がお昼休みで休んでいるときは、我々が守ってやるよ、こういうときは団結すべきなんだよ、なんて都合のいいことを言っていたコメンテーターもいました。
何が守ってやるだ、一般の漁民を利用して、自分は後ろで偉そうなこといいやがって、お前が先頭に立って行け、とむかついたけど。

さて、何故私がこんなにも長々と書いたかというと、新しい段階に来ているなと、改めて強く感じたから。
何がと言うと、我々のように東アジア地域をネタに飯を食っている人間の矜恃というか覚悟というかがより一層必要な時代となっているのだと言うことを。

こういうとき、相手を責めるのは簡単だし、楽ちん。
相手を知ろうと努力し、一人一人を見つめ、その上で発言をしていくのは、大変労力がいることだし、めんどくさい。
それでも猶、それをし続けていくことの矜恃・覚悟ってもんが問われていくのかなと。
その時の敵は正面だけでなく、背後にいる場合もあるんでしょうけど。

「異文化交流してま~す」なんてのんきな時代は終わったのだなあと、つくづく思いました。

とはいいながら、臆病者の私にそんな矜恃・覚悟があるのかい、と自問自答してますけどね。

KTN48

2011-11-17 22:51:11 | 読書・書籍購入
本日、亀谷弘明氏から大著『古代木簡と地域社会の研究』(校倉書房)を頂きました。

本書は早稲田大学に提出した学位論文を基礎に刊行されたものですが、
何より、氏の長年の研究蓄積が一冊にまとまった記念すべき書物でもあります。

ああ、嬉しい!
何だか、受け取ったとき、とても嬉しかった。
自分のことのように、
いや、自分のことなんかより、数倍も嬉しい!

自分が本を出させてもらったときは、
ちょうど中国に渡ったばかりの頃で、
中国生活にてんやわんや、右往左往で、
また、ありがたいことに一年もしないうちに品切れとなってしまったため、
実際に販売されているところを目にすることなく、
実はあまり感慨が深くなかったりしたのです。
なんだろ、実感がなかったっていうことかな。

ですが、亀谷氏の出版は嘘偽りなく心から嬉しい。
彼とのつきあいも相当長くなってきましたが、うん、嬉しいねえ。

にしても、彼らしい「あとがき」。
不覚にもニヤってしてしまったよ。
少し悔しい。

ともかく、おめでとう!

無題

2011-11-03 23:28:25 | 日本・東京
2011年10月28日午後、友が死んだ。
享年43歳。
膵臓癌だった。

その日、職場にいると別の友人Nから電話があった。
「今、目の前で○が死んでいるよ。。。。」
Nが病院に見舞いに行った時にはすでに息をしていなかった。
私は、急いで病院に駆けつけようとしたが、すでに友は見送られており、そこにはいなかった。

友の病気が発覚したのは、7月末。
以前から腰が痛いと言っており、針治療などを行っていた。
彼は体重が重く、そのために腰痛になったのだと思っており、
まさか癌だとは彼をはじめ誰も疑っていなかった。

癌が発覚してからも、彼は治癒する気満々だった。
私もNもそれを信じた。
いや、信じようとした。

しかし、病魔の進行は予想以上に早かった。
9月の末に会ったときには、少し歩くと息が上がってしゃがみ込むようになっていた。
恐らくこのときには癌はすでに肺に転移していたのであろう。
彼と会食したのは、それが最後となってしまった。

それから約1ヶ月。
彼は逝ってしまった。
我々を残して、さっさと逝ってしまった。

死ぬ前最後の日曜日に、Nとお見舞いに行ったときが最後の面会となった。
3人で話ができてよかった、と心から思う。
と同時に、もっともっと話がしたかった、と更に強く思う。

彼との思い出は、数限りなくある。
何かあったときには必ず彼がいた。

初めて中国に行ったとき、一緒に行ったのは彼だった。
私が女性関係で悩んでいるときも、彼が話を聞いてくれた。
帰るのがめんどくさくて、彼の家で下らない話ばかりをして、飲み明かしたことも数知れず。
どんなときも、彼がいた。

今年の春先には天気がいいのに暇だからという理由で彼に電話すると、
「何じゃそれ」といいながらも、笑いながら気軽に応じてくれて、
目黒川沿いをビールを片手に二人で花見をした。
あるゴルフ選手の発言を取り上げ、「我々も今年の獲得賞金を全額寄付しよう!」と宣言したのもそのときだった。
ま、二人とも獲得賞金はゼロだったが。
来年から、桜を見るのがつらい。

彼の分まで生きなくてはとも思うが、
彼は彼の分を全うして生きたのならば、
それはそれで余計なお世話であって、
私は私の分を精一杯全うして生きるべきなのだろう。
それが、彼の分を生きることになるのかもしれない、と思う。

だけど、つらい。
今はまだつらくてつらくてたまらない。

私は彼に甘えて生きてきた。
彼がいない世界をこれから生き続けなくてはならないことが、嫌で嫌でたまらない。

葬儀も終わった。
骨も拾わせてもらった。
何か、あっけない。

でも、どこかにぽっかり穴が空いている。
ふいにその穴に、寂しさが侵入してくる。
スーパーで巻物の前を通りかかり、不意に涙がこみ上げてくる。
彼は、死ぬ前のメールで「カッパ巻き」が食べたいと言っていた。
缶コーヒーを飲むたびに、苦い思いをするかもしれない。
彼は、死ぬ前のメールでお見舞いの時に缶コーヒーを持ってきて欲しいと言っていた。

こんなことがこれからきっと頻繁に起こるんだろう。
そのたびに私は独り立ち止まり、涙ぐむのだろう。

だけど、それは悲しくはない。
いや、悲しいが悲しくはない。
それだけ、私たちが一緒にいられたという記憶なのだから。

Nは、彼のことを思い出すことが供養になると言った。
私もそう思う。
私たちは、きっと彼のことを忘れない。
忘れられるはずがない。

だから、精一杯生き続けなくてはならない。
彼のためにも精一杯日常を送らなくてはならない。

だけど今は、
今だけは、悲しみとともにいることを許して欲しい。

看板おじさん

2011-09-28 15:23:45 | 日本・中国以外
もはや何の店であったかすら忘れている。

おいで、アイリーン

2011-09-25 23:27:51 | 日本・中国以外
タリン到着、翌日。

時差のせいなのか、
年齢のせいなのか、
判然としないものの、
早朝に目が覚めてしまった。
同室者も同様だったらしく、
二人して、早朝散歩に繰り出した。

タリンの見所は、何といっても旧市街。
ここが世界文化遺産に登録されているヨーロッパ屈指の街並み(らしい)。
幸い、泊まったホテルから旧市街までは歩いて数分のため、当然旧市街を目指した。

まず目に入ったのが、カールリ教会。
まだ朝早かったため、中には入れなかった。
そのあと、カールリ大通りというところを通り、旧市街へ。

我々は南から旧市街に入り、
基本的にそのまま北上していくというルートをとった。
ちなみに、旧市街の一番北は「ふとっちょマルガレータ」という建物。
これはもともとは砲塔なのだが、その後、倉庫・兵舎・監獄などに使われ、
1917年のロシア革命の混乱時に火災に遭い、廃墟となったもの。
現在は海洋博物館となっている。
(なお、ここの近くの広場には、
1994年のフェリー事故の被害者たちの慰霊碑が建てられている。
エストニアの悲しい記憶に満ちた場所でもある。)

それにしても、朝の旧市街は人がいなくて、もう最高!
本当に本当に美しい。
もちろん、道はレンガでできています。
私の持つヨーロッパのイメージ通りの作り。
なんだか、心の底から楽しくなっていた。

街の中心部である旧市庁舎前の広場も、
朝早くはまだ閑散としていて、
市場の準備をしているところだった。

我々は、そんな中をぶらぶらぶらぶらと人のいない街を眺めながら歩いていたわけだ。
時折、ガタガタのレンガ道を果敢にも進んでいく自転車を横目に見て。
ありゃ絶対におしり痛いぞ。
しかも、かなり。

さて、一つそんな街の通りを紹介しておこう。
写真がそれ。
ここは、ドミニコ修道院の横の通りで、カタリーナの通路という。
本通りからは少し外れた脇道で、距離もさほどない。
だけど、『地球の歩き方』によると、旧市街で最も美しい通りと言われているらしい。
一体誰が言っているのかは定かではないが、確かに、美しかった。
ちなみに、後日、この通路にある飲み屋で閉店まで飲んでいた。
もちろん、外で。
少々寒さに震えながら。
(あとからこの写真を見て気付いたが、たぶん右側の緑色の扉の箇所が飲み屋さん)

結局、我々は1時間半くらい歩き回っていた。
翌日、私のふくらはぎの筋肉は痛みを訴えていた。
果たして、それが年齢のせいなのか、
はたまた、時差のせいなのかは、
依然、闇の中である。


*夜も当然美しいです、タリン。
でも、何故か、夜の街を歩いているときに、この曲が、グルグルと頭の中を回っていた。
イギリスの曲なのに。

看板娘

2011-09-15 00:03:25 | 日本・中国以外
フェルメールの絵みたい。
ここで昼間っからビールを飲みました。

看板ウサギ

2011-09-11 23:51:45 | 日本・中国以外
ヨーロッパってなんだか、店の看板が素敵なイメージ。
これもそう。

立体感のあるウサギが軒先に飾られていた。
同行者は、「ハリーポッターみたい」と言っていたが、
私は、ハリーポッターをまるで知らないので同意できず。

ちなみに、レストランの看板。
ウサギ肉でも出すのかしら?

ブログの書き方忘れちゃった

2011-09-09 00:36:52 | 日本・中国以外
しばらく書いていないからさ。
なんだか、一度書かなくなるとめんどくさくなる。

じつは、密かに「つぶやき」も始めたんだけど、
これまためんどくさくなって、あんまりつぶやかないし。
人間、めんどくさがりにだけは生まれたくないもんだねえ。

さて、久しぶりに書きましょう。
いろいろと忘れてしまわないうちに。
8月末に、エストニアに行ったので、そのことを。
あの、念のために言っておきますが、
一応、仕事で。
一応ね、一応。

エストニアとは、どこぞ?
と思った方もおることでせう。
かくいう私も知らない土地だった。
まずはその説明から。

エストニアは、バルト三国の一つ。
まあ、旧ソ連ね。
なので、今でも何となくソ連の面影があったりする。

他の二国は、リトアニア・ラトヴィア。
地球の歩き方は、この三国を「バルトの国々」ってまとめて一冊にしている。

首都のタリンは、世界遺産に指定されていて、結構観光客が来る場所。
関取の把瑠都(バルト)の出身国でもあり、エストニアでは相撲中継もあるんだって。

日本からは直通便はなく、ヘルシンキ(フィンランド)で乗り換える必要がある。
というわけで、我々もまずはヘルシンキに向かう。

値段と日程の都合から、名古屋の中部国際空港から出発した。
片仮名名がなんだっけなあ、エクレアみたいな名前。
新しい空港だけあって、大変綺麗でした。
正直、関空よりも活気があるように感じたけど。

飛行時間は10時間くらい。
なので、
食事して、
映画見て、
一寝入りして、
本読んで、
数独して、
軽食食べて(なんと、ソース焼きそば。斬新)、
ぼんやりして、
それでも手持ち豚さんになってしまうくらいの時間。
最近、中国線ばっかりだから、時間をもてあましてしまった。

そんなこんなで、ヘルシンキ到着。
我々は、先にヘルシンキに来ている人たちと合流し、
そこから船に乗ってエストニアへ向かうため、ここで降りた。
しかし、どうやらヘルシンキ空港は、
いろいろなヨーロッパ諸国への玄関口みたいになっているようで、
多くの人がここで乗り換えるため、
ヘルシンキで降りる人は少ない模様。

我々も、一瞬で通関し、
なんと荷物は、すでにベルトコンベアーの上に置いてあった。
流れていない荷物、初めて見た。
結構、衝撃の映像。

ヘルシンキ空港で先発組と合流し、
バスとトラムを乗り継ぎ、港へ。

いやあ、港のチケット売り場のお姉さんの美しかったこと。
なんて幸先のいいスタートだったのだと、今でも思う。
北欧は美人さんの産地だとはいえ、道中、私の中ではこの人がナンバーワン。
ああ、北欧に来てよかったと思った瞬間ですよ。
ヘルシンキでタリン行きの飛行機に乗り換えなくてよかったと心の底から思った。
(ヘルシンキで乗り換えた人に後で聞いたが、荷物がタリンに届かなかったそうだ。
これもまた幸運。)

ヘルシンキ港のマーケットで食事をし、いざ出発。
ヘルシンキからタリンへは、高速船でだいたい1時間半くらい。
この高速船は、乗り心地もよく、全く船酔いなどしない。

そんなこんなでタリンに到着。
で、翌日からタリンの散策が始まる。
いや、一応、仕事で行ったんですからね。
観光は、まあ、時間つぶしかな。
念のため。


*写真はタリン港の夕陽。といっても、もう夜8時くらい。

なんでもないことだけど

2011-05-16 15:50:52 | ちびりんこ
仕事帰りに保育園に行った。
一日、保育園で遊んでいたちびりんこが、
ボクの顔を見て、キョトンとしながらも、
ハイハイしながら寄ってきた。

ようやく事情を飲み込んだちびりんこは、
嬉しいのか悲しいのか、
なぜか泣きそうな顔になる。
それを見てボクも何だか複雑な気分になる。

最近は日も長くなり、5時台で夕日が見えることはないが、
それでも外に出ると、空気は夕暮れのにおいがした。
その日は、一週間続いた雨がようやく止み、
より一層、外の雰囲気が華やいで見えた。

帰り道、ベビーカーに乗ったちびりんこが、
「うー、うー」と奇声を発しながら空を指さす。
「そうだね、空だね」とボクは返事をする。
「あー、あー」とまた叫ぶ。
「そうだね、犬だね」とまたボクは返事をする。

なんでもないことだけど、
あんな事があった後だけに、
なおさら、なんでもないことこそを強く抱きしめたくなる。

その日は、ちびりんこの誕生日。
1年間、無事に成長してくれたことが心から嬉しい。


*写真はいろんな人からもらった誕生日プレゼント。

あわてんぼうたちの集い

2011-04-06 01:33:13 | 杭州・杭州周辺
前回、情報のばらつきについて書きました。
情報が限定的であればあるほど、
人々は不安に駆られ、最悪な場合は恐慌状態に陥ってしまいます。

日本でも、隠さずに、小出しにしなければ、
もっと冷静に考えることが出来ることもあるのではないか、
という風にも思います。

さて、話題は中国のことです。
前回お伝えしたように、中国でも連日、地震・原発は話題。
特に原発問題は、大変興味深い模様。
なにせ、中国にも原発たくさんありますからねえ。
(ちなみに、原発は中国語で「核電駅」と言います。)

日本でもどうやら報道されていたようですが、一時、塩が市場から姿を消しました。
これも元はといえば、ネットでの流言が発端。
いわく、「海がやばいから、塩やばいぜ」というもの。
(しかし、最近の動きを見ると、笑い事じゃなくなってきているけど・・・)

これを真に受けた人々が、塩の買い占めに走ったわけ。
実際、その最中に、相方の家族から、
「中国に来るなら、塩買ってきて」との依頼があったほど。
なにせ、事の発端が、まさに杭州だったもので。

この騒動、「塩、在庫、ものすごくあるんですけど」という確かな情報が流れて、
一気に収束していきました。
そして、あとに残ったのは、返品騒動と、
そして、流言を流した人物の10日間の拘束。

それ以外にも、いろいろ敏感に反応しています。
前回の写真をいまいちどよ~く見て下さい。
これ、薬屋さんの扉に貼ってあったもの。
「輻射」というのは、「被ばく」のこと。
つまり、「抗輻射」というのは、「被ばくに効きますよ」ということ。
その薬が、緑茶っていうんだから、あんたねえ、ですが。

さらに、今回の写真。
これ、社区の入り口近くの掲示板に貼られていたもの。
何かというと、

「核(放射能)知識講座開催についてのお知らせ」

全部訳すと、
「近頃、日本の放射能漏れがみんなの関心を引いているけど、
これって私たちの日常生活にとって一体影響は大きいの?
そういった放射能知識を普及するために、
社区は3月25日(日)午前9時から社区のレクリエーションホールで
放射能汚染とその対応についての専門講座を開催することにしました。
みんな来てね。」
ってことになります。

素早い対応に感心。
でも、25日って日曜日じゃないんだよね。
ちょっと慌てすぎ。

でも、実は日本人が鈍感すぎるって気もしないではないけど。