『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(1)

2024-04-19 03:37:50 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(7)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №11)

    第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第7回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(2)貨幣取扱資本と利子生み資本〉はすでに〈B 『1861-1863年草稿』における利子と信用〉でも扱われていましたので飛ばして、次の〈(3)信用制度考察の必要とその可能性〉を見て行くことにします。
    ここでは有価証券はまったく資本ではないという注目すべきマルクスの主張が紹介されています。章末注から重引しておきましょう。

    〈〔81〕「まず,現存資本にたいする,あるいは将来の収益にたいする所有権原(国債,等々のような)の集積にすぎないいわゆる貨幣資本について言えば--いわゆる貨幣市場および貨幣資本の最大の部分をなすのはまさにこれらの有価証券である--,それは実際には,リカードウが国家の債権者の貨幣資本について正しく言っているように,まったく資本ではないのである。この「観念的資本」の形態についてのさらに詳しいことは,利子生み資本のところで(第3部第4章)述べるべきである。……貨幣資本の蓄積が,収入のうち資本にやがて再転化されるはずの部分がひとまず蓄蔵貨幣として遊休する,等々のことを意味するかぎりでは,このことも,同じく利子生み資本についての第4章で詳しく考察すべきである」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/41,S.360;前出邦訳『資本の流通過程』,274-275ページ。)〉(140頁)

    ここではマルクスは、有価証券について、いわゆる貨幣資本といい、それは現存資本に対する所有権限(株式)、あるいは将来の収益にたいする所有権限(国債)の集積にすぎないと述べています。そしてそれらはまったく資本ではないのだ、と。あるいは「観念的資本」とも述べています。これらは後に架空資本と述べるものを指していることは明らかでしょう。
    これも章末注で紹介されている第2部第1稿の一文ですが、少なくとも第3部第1稿ではこうした観点は見られません。その意味では興味深い指摘なので抜粋して紹介しておきます。

   〈〔82〕「いま,固定資本についてもっと詳しく展開されるべきことは…… 次のことである。……/(3)この2種類の資本〔固定資本と流動資本〕のそれぞれは,どの程度まで,より完全な意味での資本なのか。固定資本がこの生産様式とともに発展すること,資本主義的生産様式に特徴的なこととして〔展開すること〕。信用システム等々の土台としての固定資本,--信用システムがそれ自体〔perse〕つねに将来の労働にたいする指図であるというかぎりで。この両種類の資本の神秘化。」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/4,1,S,267;前出邦訳『資本の流通過程』,157ページ。)〉(140-141頁)

    ここでは信用システム等々の土台としての固定資本という表現とともに、信用システムはつねに将来の労働にたいする指図だとの指摘があります。次の一文も同じ問題を論じている章末注ですので、長いですが抜粋しておきます。

    〈〔83〕「国民的富のうちの固定資本から成る部分は--そして,この固定資本がますます固定資本として形象化されてくるにつれて,すなわち,流動資本とのそれの特徴的な区別をますます形象化し明確にしていくにつれて--,それの価値の補填がいよいよ徐々になり,それの価値を再生産する期間は,流動資本の再生産期間の尺度である1年をはるかに越えるようになる。それゆえ,流動資本--すなわちそれの価値実現〔Verwerthung〕--が,より多く,現在の労働--われわれが現在の〔contemporaneous〕労働と呼ぶのはその年のうちになされるすべての労働のことだが--にもとづいているのにたいして,固定資本の価値実現〔Verwerthung〕は,それが,たとえば本来の機械のように,直接に狭義の労働手段として直接的生産過程において機能するのであろうと,建築物,鉄道,運河,等々のように,直接的生産過程から独立した生産過程の一般的諸条件として機能するのであろうと,はるかに高い度合いで,将来の労働にもとづいている。自己の価値を再生産する{そしてその上さらに,あとで明らかになるであろうように,自己の所有者に,他の諸資本が生産した剰余価値からの分け前を保証するはずの}資本としては,固定資本は将来の労働(そしてこの第2の場合には剰余労働)にたいする指図証である。だからこそ,固定資本が発展するにつれて有価証券が増えるのである。この有価証券は,固定資本の価値にたいする,それゆえこの価値の将来の再生産にたいする所有権原を表わすだけでなく,同時に,それの将来の価値増殖〔Verwerthung〕にたいする権原,すなわち総資本家階級によってゆすり取られるはずの剰余価値からの分け前(利子,等々)にたいする権原をも表わしている。つまり,この点に信用制度の発展が,同時にしかし,貨幣資本のうち,将来の労働および剰余労働とにたいする所有権原の蓄積のほかには何ものも表わしていない部分の発展が,一つの新しい物質的基礎をもつのである。貨幣資本のうちのこの部分の蓄積は,先取りされた将来の富にたいする権原から成っており,だからまた,それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない,言い換えれば,それがそうした要素であるのは,現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしているというかぎりででしかない。しかし,この権原はつねに,この価値が生産される前から存在しており,直接には,その価値を生産するために支出される,すなわち前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない。この場合でも,この価値を,たとえば,鉄道の価値と株主の書類鞄の中にある鉄道株の価値というように,二重に計算してはならない。この点は,国債の場合もまったく同様である。国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない。しかし,こうした外観がますます生みだされるのは,国債の時価--それの評価の変動--が,それの権原の対象である価値とは直接にはかかわりのない諸事情によって決定されるからである。しかし,資本主義社会〔thecapitalist society〕の最有力筋の連中は,蓄積のこうした形態に生産や蓄積の現実の運動を従わせるように努めるのである。」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/4.1,S.287-288;前出邦訳『資本の流通過程』,181-182ページ。)〉(141-142頁)

    ここには興味深い指摘がいろいろとあります。
  (1)まずここでは流動資本の再生産期間の尺度を1年としていることです。これは現行版における再生産表式における循環期間を全体として1年とマルクスが考えていたこと(それを明示的に示している文言は見当たらないのですが)を明確に示しているように思います。
  (2)「現在の労働」とマルクスがいう場合は〈その年のうちになされるすべての労働のこと〉を意味すると述もべています。これもマルクスが「生きた労働」という場合も同じでしょう。
  (3)流動資本の価値実現がより多く現在の労働にもとづいているのに対して、固定資本の価値実現ははるかに高い度合いで、将来の労働にもとづいている、と指摘されています。ここで流動資本の価値実現というのは商品の価値のうち流動資本部分の価値の実現のことでしょうが、これは価値補填と考えるべきではないでしょうか。つまり流動資本部分の価値補填は、より多くその年の労働によって生産された価値によって補填されるということでしょう。それに対して固定資本の場合は、その補填は何年間にもわたって貨幣が蓄積されてようやく補填されるのですからそれらは将来の労働(つまり将来生産される労働手段等に支出される労働)によって補填されるとしているのではないでしょうか。このあたりはもう少し考えてみる必要がありそうです。
  (4)固定資本のうち建築物、鉄道、運河、等々を〈直接的生産過程から独立した生産過程の一般的諸条件として機能する〉ものとしていることも興味深いです。
  (5)自己の価値を再生産する資本としては固定資本は将来の労働に対する指図証書である、という注目すべき指摘があります。
  (6)そしてだから固定資本が発展すると有価証券が増えるのだとも述べています。こうした固定資本との関連についての指摘は第5章(篇)ではまったくありません。
  (7)そして次のようにのべています。〈この有価証券は,固定資本の価値にたいする,それゆえこの価値の将来の再生産にたいする所有権原を表わすだけでなく,同時に,それの将来の価値増殖〔Verwerthung〕にたいする権原,すなわち総資本家階級によってゆすり取られるはずの剰余価値からの分け前(利子,等々)にたいする権原をも表わしている。
 ここらあたりは株式を想定してマルクスが述べているように思えます。もちろん、株式で集中された貨幣資本は、単に固定資本(生産手段のうち機械や建屋など)だけに投資されるわけではありません。しかしマルクスは固定資本の巨大化がそれに投資する貨幣資本の増大をもたらし、株式による貨幣資本の集中の必要を生み出すと考えているのでしょう。だから株式として集められた貨幣資本は固定資本に投資されると考えているわけです。だから固定資本が発展すると有価証券も増えるのだとしているわけです。そしてここではそうした有価証券(株式)は固定資本の価値に対する所有権限を表しており、よってその価値の将来の再生産に対する所有権限をも表すのであり、さらにはそれによる将来の価値増殖に対する権限、つまり剰余価値からの分け前を受け取る権限を表しているとしているのでしょう。
  (8)そしてそれが信用制度の土台をなすのだと次のように述べています。〈つまり,この点に信用制度の発展が,同時にしかし,貨幣資本のうち,将来の労働および剰余労働とにたいする所有権原の蓄積のほかには何ものも表わしていない部分の発展が,一つの新しい物質的基礎をもつのである。〉 
  ここでマルクスが信用制度を固定資本との関連で論じているのは、だから株式を主に想定していると考えるべきでしょう。固定資本の増大が信用制度の発展の土台になるというのは、固定資本が大きくなれば、貨幣資本の集中がそれだけ必要になり、それは一方では利子生み資本の借り受けの増大として現れ、他方では株式の発行による貨幣資本の集中として現れるでしょう。いずれも信用制度の発展抜きには発展できないものです。だから固定資本の増大は信用制度の発展の物質的基礎なのだというわけです。そしてそうであれば、信用制度の発展というのは、集中されたり貸し付けられた貨幣資本というものがそうであるように、将来の労働あるいは剰余労働に対する所有権限の蓄積の他には何も意味しない部分の発展であるとしているのです。
  (9)〈貨幣資本のうちのこの部分の蓄積は,先取りされた将来の富にたいする権原から成っており,だからまた,それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない,言い換えれば,それがそうした要素であるのは,現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしているというかぎりででしかない。
  ここで〈貨幣資本のうちのこの部分〉というのは有価証券と考えるべきでしょう。そしてそれの蓄積は〈先取りされた将来の富にたいする権原から成って〉いるというのです。だからこそ〈それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない〉のです。それらは〈現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしている〉のです。これは株式などを意味すると考えるべきでしょう。
  (10)〈しかし,この権原はつねに,この価値が生産される前から存在しており,直接には,その価値を生産するために支出される,すなわち前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない。
 これも株式を想定して考えるとよく分かります。株式で集められた貨幣資本は、これからそれによって価値を、すなわち剰余価値を生産するためのものです。つまり〈前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない〉のです。
  (11)〈この場合でも,この価値を,たとえば,鉄道の価値と株主の書類鞄の中にある鉄道株の価値というように,二重に計算してはならない。この点は,国債の場合もまったく同様である。国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない。
 株式で集められた貨幣資本は現実の鉄道に投資され固定資本を形成します。他方、株式はそれだけで架空な貨幣資本として株主の書類鞄のなかにありますが、しかしこれは価値が二重にあるのではなく、価値としては鉄道に投資されたものしか現実には存在しないということです。そしてそれは国債についても同じです。国債の場合は国家によって巻き上げられた貨幣は、国家によって消尽されてしまいます。しかし国債はそれ自体として価値をもっているかに運動していますが、しかし現実にはその価値は消尽してすでに存在しないのなのです。だから国債はただ将来の税金からの支払を受ける権限を表すにすぎないのです。つまり〈国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない〉のです。
  (12)〈しかし,こうした外観がますます生みだされるのは,国債の時価--それの評価の変動--が,それの権原の対象である価値とは直接にはかかわりのない諸事情によって決定されるからである。
 これは架空資本の運動を意味していますが、ここではその運動そのものは深くは論じられていません。これは現行版の第29章(草稿では「II)」と番号が打たれた項目)のなかで取り扱われています。
  (13)〈しかし,資本主義社会〔thecapitalist society〕の最有力筋の連中は,蓄積のこうした形態に生産や蓄積の現実の運動を従わせるように努めるのである。
 ここではこうした有価証券、とくに株式の蓄積に生産や現実の運動を従わせようとすると指摘されています。彼らは株式の値上がりを目当てに現実の運動を考えたりするわけです。これは株式会社が一般化した現代の資本の運動を言い当てたものといえるのではないでしょうか。
 以上、ここで論じられていることは少なくとも現行の第5篇ではあまりマルクスよって論じられていないことであり、だからまたその妥当性はどこまであるのかもハッキリとは分かりませんが、注目すべきでことであるのは確かです。

  とりあえず、今回の大谷本の紹介はこれぐらいにしておきます。それでは『資本論』の解説に取りかかりましょう。今回は「第4篇 相対的剰余価値の生産」「第10章 相対的剰余価値の概念」です。まずはそれぞれの位置づけから見て行くことにします。

 


                第4篇 相対的剰余価値の生産

 

  第10章 相対的剰余価値の概念


◎「第4篇 相対的剰余価値の生産」の位置づけ

 以前、「第2編 貨幣の資本への転化」から「第3編 絶対的剰余価値の生産」への移行を論じたときに、「第1部 資本の生産過程」がどうして「第3篇 絶対的剰余価値の生産」になるのかを問い、それは資本の生産過程というのは剰余価値の生産過程だからであり、剰余価値の生産は、「第3篇 絶対的剰余価値の生産」と「第4篇 相対的剰余価値の生産」とに分けられることを指摘しました。マルクスはこの二つの形態を切り離して論じる意義について、次のように述べています。

 〈この2つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)

    そして絶対的剰余価値の生産は、それまでの生産様式をそのまま資本関係のなかに取り込んで行う(形式的包摂)生産ですが、相対的剰余価値の生産は生産様式そのものを資本制的生産に相応しいものに変革する(実質的包摂)過程であり、その意味では「資本の生産過程」の基本的な内容を明らかにするものといえるわけです。
    マルクスはこの二つの形態について次のように述べています。

    〈いずれにせよ、剰余価値のこの2つの形態--絶対的剰余価値の形態および相対的剰余価値の形態--がそれぞれ独立に別々の存在として考察される場合には、この両者には--そして絶対的剰余価値はつねに相対的剰余価値に先行するのであるが--、資本のもとへの労働の包摂の2つの別々の形態が、あるいは資本主義的生産の2つの別々の形態が対応しているのであって、このうちの第一の形態がつねに第2の形態の先行者となっている。といっても、他方また、より発展した形態である第2の形態が、第一の形態を新たな生産諸部門で導入するための基礎となることがありうるのではあるが。〉(草稿集⑨369頁)


◎「第10章 相対的剰余価値の概念」

    第10章は「第4篇 相対的剰余価値の生産」の端緒をなすものとして相対的剰余価値とはそもそも何かを解明するものです。絶対的剰余価値は労働力の価値を所与として(不変数として)、剰余価値の増大をはかるために労働日を絶対的に長くすることが問題となり、労働日の限度をめぐる労働者階級と資本家階級との闘いが取り上げられました。そしてその結果、歴史的に労働日は標準労働日として法的に10時間とか8時間などと決められ   たのでした。
    それを踏まえて今度は労働日そのものは所与(不変数)として、剰余労働の増大を図る方法として、必要労働時間を短縮して(労働力の価値を可変数にして)、その分、剰余労働時間(剰余価値)の延長(増大)を図ろうとするものです。これが労働日が確定したあとの残された資本の方法としてあるわけです。しかし必要労働時間を短縮するために、労働力の価値そのものを縮小する必要がありますが、そのためには生産様式そのものの革命が必要なわけです。そうした資本主義的生産への労働の実質的包摂の過程こそが、相対的剰余価値の生産過程であり、相対的剰余価値の概念でもあるわけです。マルクスは次のように述べています。

    〈つまり相対的剰余価値は、絶対的剰余価値から次の点で区別される。--いずれの場合にも、剰余価値は剰余労働に等しい、すなわち剰余価値の割合は、必要労働時間にたいする剰余労働時間の割合に等しい。第一の〔絶対的剰余価値の〕場合には、労働日がその限界を越えて延長され、そして、労働日がその限界を越えて延長されるのに比例して剰余価値が増大する(すなわち剰余労働時間が増大する)。第二の〔相対的剰余価値の〕場合には、労働日は一定である。この場合には、労働日のうち労貨の再生産に必要であった部分、すなわち必要労働であった部分が短縮されることによって、剰余価値、すなわち剰余労働時間が増加されるのである。第一の場合には、労働の生産性のある一定の段階が前提されている。第二の場合には、労働の生産力が高められる。第一の場合には、総生産物の一可除部分の価値、あるいは労働日の部分生産物は不変のままである。第二の場合には、この部分生産物の価値が変化する。しかしこの部分生産物の量(数)は、それの価値の減少と同じ割合で増大する。〉(草稿集④388頁)

    この第10章は相対的剰余価値の概念とともにそれに関連して出てくる「特別剰余価値」の概念も含めて、なかなか理解の困難なところでもあります。これまでにも多くの論者によってさまざまに議論されてきたところです。そうしたものをすべて踏まえることはできませんが、主なものを意識して論じて行くことにしたいと思います。それでは第1パラグラフから始めましょう。


◎第1パラグラフ(以前は必要労働時間は不変だったが、反対に1労働日全体は可変だった。今度は、1労働日は不変で、必要労働時間が可変になる)

【1】〈(イ)労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのである。(ロ)労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができた。(ハ)この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとが定まった。(ニ)必要労働時間は不変だったが、反対に1労働日全体は可変だった。(ホ)今度は、一つの労働日の大きさが与えられており、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しよう。(ヘ)線分ac、すなわちa----------b--c は一つの12時間労働日を表わしており、部分abは10時間の必要労働を、部分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしよう。(ト)そこで、どうすれば、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にはかかわりなしに、剰余価値の生産をふやすことができるだろうか? 言い換えれば、剰余労働を延長することができるだろうか?〉(全集第23a巻411頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわたしたちにとっては不変量とみなされてきましたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのです。労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができました。この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとがきまったのでした。必要労働時間は不変だったのですが、反対に1労働日全体は可変だったのです。

     これまでの「第3篇 絶対的剰余価値の生産」では、労働力の価値は与えられたものとして前提されていました。実際、ある社会の経済的な発展段階を想定した場合、労働力の価値は一定の不変量として想定することができたのです。
   「第8章 労働日」の「第1節 労働日の限界」では次のように言われていました。

  〈われわれは、線分 a----b が必要労働時間の持続または長さ、すなわち6時間を表わすものと仮定しよう。労働が a b を越えて1時間、3時問、6時間などというように延長されれば、それにしたがって次のような三つの違った線分が得られる。
  労働日 Ⅰ  a----b--c
  労働日 Ⅱ  a----b---c
  労働日 Ⅲ  a----b----c
  この三つの線分は、それぞれ7時間、9時間、12時間から成る三つの違った労働日を表わしている。延長線 b c は剰余労働の長さを表わしている。1労働日は ab+bc または ac だから、1労働日は可変量 bc とともに変化する。〉

    だから絶対的剰余価値の生産というのは、労働力の価値の再生産の必要な労働部分(ab)、すなわち必要労働時間が不変なままに、剰余労働時間(bc)の増大をはかるために、労働日(ac)そのものを延長しようというのが資本の飽くなき欲求として現れたものです。だから資本による途方もない労働日の延長欲求から労働者たちは自らの生活を守るために闘い労働力の価値に見合った、つまり平常な労働力の再生産を保証する労働時間を要求して、標準労働日を法的に決めることを求めたのでした。
    だからこれまでの絶対的剰余価値の生産では、必要労働時間は不変だったのですが、労働日そのものは可変だったのです。  

  (ホ)(ヘ)(ト) 今度は、一つの労働日の大きさが与えられていて、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しましょう。今、線分ac、すなわちa----------b--c は一つの12時間労働日を表わしており、線分abは10時間の必要労働を、線分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしましょう。そこで、どうすると、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にはかかわりなしに、剰余価値の生産をふやすことができるでしょうか? 言い換えますと、剰余労働を延長することができるでしょうか?

    しかし労働日そのものが法的に制限されてしまったわたけですから、今度は労働日は不変で、その代わりに必要労働時間が可変のケースが問題になるわけです。
    よって、一つの労働日が与えられていて、それが必要労働と剰余労働に分割される割合が変化するものと仮定します。今、1労働日12時間を線分 a----------b--c で表した場合、 ab が10時間で必要労働時間を表し、bc が剰余労働時間を表しているとします。ここでac のこれ以上の延長なしに如何にして bc すなわち剰余時間を延長しうるかが問われているわけです。


◎第2パラグラフ(剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応する)

【2】〈(イ)労働日acの限界は与えられているにもかかわらず、bcは、その終点c、すなわち同時に労働日acの終点でもあるcを越えて延長されることによらなくても、その始点bが反対にaのほうにずらされることによって、延長されうるように見える。(ロ)かりに、a---------b'-b--c のなかのb'-bはbc の半分すなわち1労働時間に等しいとしよう。(ハ)いま12時間労働日acのなかで点bがb'にずらされれば、この労働日は相変わらず12時間でしかないのに、bcは延長されてb'cになり、剰余労働は半分だけふえて2時間から3時間になる。(ニ)しかし、このように剰余労働bcからb'cに、2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がabからab'に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能である。(ホ)剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応することになる。(ヘ)すなわち、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が資本家のための労働時間に転化することになる。(ト)変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割であろう。〉(全集第23a巻412頁)

  (イ) 労働日acの限界は与えられているのに、bcは、その終点c、つまり同時に労働日acの終点でもあるcを越えて延長されなくても、その始点bが反対にaのほうにずらされることによって、延長されうるように見えます。

    acは変わらないまま、bcを延長するためには、b点をaの方にずらせば、その分bcは大きくなるように思えます。

  (ロ)(ハ) いまかりに、線分a---------b'-b--c のなかのb'-bはbc の半分すなわち1労働時間に等しいとしましょう。いま12時間労働日acのなかで点bがb'にずらされますと、この労働日は相変わらず12時間ですが、bcは延長されてb'cになり、剰余労働は半分だけふえて2時間から3時間になります。

    いま仮にb点をaの方にずらした点をb'とし、b-b'はb--cの半分の1時間とします。そうしますと、acの12時間は変わりませんが、剰余労働はb--cの2時間からb'---cの3時間になります。

  (ニ)(ホ) しかし、このように剰余労働bcからb'cに、2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がabからab'に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能です。この場合、剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応しているのです。

    しかしこのように剰余労働がbcからb'cに、つまり2時間から3時間に延長されるためには、必要労働であるabがab'に、つまり10時間から9時間に短縮されなければなりません。つまりこの場合、剰余労働の延長には必要労働の短縮が対応しているのです。

  (ヘ)(ト) つまり、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が資本家のための労働時間に転化することになるのです。変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割なのです。

    必要労働の短縮ということは、労働者がこれまで自分自身の生活の再生産のために費やしてきた労働時間を少なくして、その分を資本家のための無償労働(不払労働)に転化するということです。労働日は不変のままに、それが必要労働と剰余労働とに分割される割合が変わるというわけです。


◎第3パラグラフ(剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるよりほかはなく、労働力の価値そのものが現実に減少する必要がある)

【3】〈(イ)他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさと労働力の価値とが与えられていれば、明らかにそれ自体与えられている。(ロ)労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定する。(ハ)1労働時間が半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働力の日価値が5シリングならば、労働者は、資本によって自分に支払われた自分の労働力の日価値を補塡するためには、または自分に必要な1日の生活手段の価値の等価を生産するためには、1日に10時間労働しなければならない。(ニ)この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられており(1)、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさは与えられている。(ホ)そして、剰余労働の大きさは、1労働日全体から必要労働時間を引くことによって得られる。(ヘ)12時間から10時間を引けば2時間が残り、そして、どうすれば与えられた条件のもとで剰余労働を2時間よりも長く延長することができるかは、まだわからない。(ト)もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、または/もっと少なくしか支払わないかもしれない。(チ)この4シリング6ペンスという価値の再生産には9労働時間で足りるであろうし、したがって、12時間労働日のうちから2時間ではなく3時間が剰余労働になり、剰余価値そのものも1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。(リ)とはいえ、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも低く押し下げることによって得られたにすぎないであろう。(ヌ)彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼はこれまでよりも10分の1だけ少ない生活手段を処分できることになり、したがって彼の労働力の萎縮した再生産しか行なわれないことになる。(ル)この場合には、剰余労働は、ただその正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけであり、その領分がただ必要労働時間の領分の横領的侵害によって拡張されるだけであろう。(ヲ)このような方法は、労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるとはいえ、ここでは、諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提によって、排除されている。(ワ)このことが前提されるかぎり、労働力の生産またはその価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金が彼の労働力の価値よりも低く下がるという理由によって減少しうるものではなく、ただこの価値そのものが下がる場合にのみ減少しうるのである。(カ)労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるよりほかはなく、逆に必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのである。(ヨ)われわれの例で言えば、必要労働時間が10分の1だけ減って10時間から9時間になるためには、したがってまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に10分の1だけ下がるよりほかはないのである。〉(全集第23a巻412-413頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさと労働力の価値とが与えられていますと、明らかにそれ自体与えられています。労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定します。1労働時間が半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働力の日価値が5シリングでしたら、労働者は、資本によって自分に支払われた自分の労働力の日価値を補填するためには、または自分に必要な1日の生活手段の価値の等価を生産するためには、1日に10時間労働しなければなりません。この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられているのです。つまり、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさは与えられているのです。そして、剰余労働の大きさは、1労働日全体から必要労働時間を引くことによって得られます。12時間から10時間を引けぽ2時間が残ります。しかし、どうすれば与えられた条件のもとで剰余労働を2時間よりも長く延長することができるのかは、まだわかりません。

   最初に、フランス語版はやや簡潔に書かれていますので、紹介しておきましょう。

   〈他方、労働日の限界と労働力の日価値とが与えられると、剰余労働の持続時間が定められる。労働力の日価値が5シリング--10労働時間が体現された金の額--に達するとすれば、労働者は、資本家から日々支払われる労働力の価値を補填するために、あるいは、彼の日々の生計に必要な生活手段の等価を生産するために、1日に10時間労働しなければならない。この生活手段の価値が彼の労働力の日価値を決定し、後者の価値が彼の必要労働の日々の持続時間を決定する。全労働日から必要労働時間を差し引いて、剰余労働の大きさが得られる。12時間から10時間を差し引けば2時間が残るが、与えられた条件のもとで剰余労働がどのようにして2時間を越えて延長することができるかは、わかりにくい。〉(江夏・上杉訳324頁)

    1労働日は必要労働時間と剰余労働時間とに分かれるのですから、剰余価値の大きさは、労働日が与えられていますと、労働力の価値が決まれば、決まってきます。つまり労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の再生産に必要な労働時間、つまり必要労働時間を規定します。1労働時間が半シリングすなわち6ペンスの金量で表されるとしますと、労働力の日価値が5シリングでしたら、労働者は資本家が自分を雇用するために支払った労働力の日価値を補塡するためには10時間労働しなければなりません(5÷0.5=10)。以前にも引用しましたが〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。……労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉(第2篇第4章第3節)ということでした。
    つまり労働者がその生活を維持するため必要な生活手段の価値によって労働力の価値は決まってくるのであり、労働力の価値が決まってくれば、彼の必要労働時間の長さは決まってくるわけです。そして与えられた労働日からそれを引けば、剰余労働の大きさが決まってきます。今、1労働日の12時間から10時間を引けば、すなわち2時間が剰余労働時間になるわけです。しかしここからこの剰余労働の2時間を如何にして大きくするかは、まだ分かっていません。

  (ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またはもっと少なくしか支払わないかもしれません。この4シリング6ペンスという価値の再生産には9労働時間で足りるでしょう。だから、12時間労働日のうちから2時間ではなく3時間が剰余労働になり、剰余価値そのものも1シリングから1シリング6ペンスに上がることになります。しかしこの結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも低く押し下げることによって得られたにすぎません。彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼はこれまでよりも10分の1だけ少ない生活手段を処分できることになり、したがって彼の労働力の萎縮した再生産しか行なわれないことになります。この場合には、剰余労働は、ただその正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけです。つまり、その領分がただ必要労働時間の領分の横領的侵害によって拡張されるだけです。このような方法は、労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるかも知れませんが、ここでは、諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提によって、排除されているのです。

    この部分もまずフランス語版を紹介して置きしましょう。フランス語版では途中改行されています。

   〈もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またはさらにもっと少なくしか、支払わないかもしれない。この4シリング6ペンスの価値を再生産するには9労働時間で充分であって、剰余労働はこのばあい1/6労働日から1/4労働日に、剰余価値は1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。しかし、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによってのみ、得られるであろう。労働者は、彼が9時間で生産する4シリング6ペンスをもってしては、従前よりも1/10だけ少ない生活手段を手に入れるのであり、したがって、自分自身の労働力を不完全にしか再生産しないであろう。剰余労働は、その正常な限界bcからの逸脱に/よって、必要労働時間からの盗みによって、延長されるであろう。
  さて、この慣行は、賃金の現実の運動で最も重要な役割の一つを演ずるのであるが、すべての商品が、したがって労働力もまた、その価値どおりに売買される、と仮定するここでは、この慣行は除外されている。〉(江夏・上杉訳324-325頁)

    もちろん、資本家は労働者にその日価値である5シリングを支払う代わりに、4シリング半しか支払わないか、あるいはもっと少なくしか支払わないことはありえます。5シリングを補塡するためには、労働者は10時間を必要労働時間として支出しましたが、今度は4シリング半を補塡するためには、9時間で十分になります。そうすると確かに剰余労働は以前の2時間から3時間に拡大することになるわけです。
    しかしその結果は、労働者は自身の労働力を不完全にしか再生産できないことになります。つまりこの場合の剰余労働の拡大は、資本家が労働力の再生産費の正常な限界を破って、必要労働時間を盗み取って拡大されたものにすぎないわけです。
    こうした労働力の価値以下への労賃の引き下げという問題は、労賃の現実の運動を取り扱うときには大きな問題の一つになるのですが、しかしすべての商品が、だから労働力商品も含めて、その価値どおりに売買されるという想定のもとでは、こうしたことは初めから除外されているのです。

  (ワ)(カ)(ヨ) だから価値どおりの販売が前提されるかぎりでは、労働力の生産またはその価値の再生産に必要な労働時間も、労働者の賃金が彼の労働力の価値よりも低く下がるという理由によって減少しうるとは考えられません。だから、問題は、労働力の価値そのものが下がる場合にのみ減少しうるのです。労働日の長さが与えられていますと、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるしかありません。逆に必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのです。わたしたちの例で言いますと、必要労働時間が10分の1だけ減って10時間から9時間になるためには、だからまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に10分の1だけ下がるよりほかにはないのです。

    この部分もまずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈このことがいったん認められれば、労働者の維持に必要な労働時間を短縮できるのは、彼の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによってではなく、たんにこの価値そのものを引き下げることによるしかない。労働日の限界が与えられれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生じるのが当然であって、必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生じるのではない。われわれの例では、必要労働が1/10減少して10時間から9時間に減り、このため剰余労働が2時間から3時間にふえるためには、労働力の価値が現実に1/10下がらなければならない。〉(江夏・上杉訳325頁)

    だから価値どおりの販売を前提しているのでしたら、労働力の生産に必要な労働時間、すなわちその価値の再生産に必要な労働時間を下げるためには、その価値そのものが下がる必要があるのです。剰余労働を拡大するために、必要労働を短縮するのではなくて(つまり賃金をその価値以下に引き下げることではなく)、必要労働そのものが短縮されたがために、剰余労働が拡大されるというにする必要があるのです。私たちの例では、必要労働が10時間から9時間に減ったから、剰余労働が2時間から3時間に増えたというようにです。しかしそのためにはいうまでもなく、労働力の価値そのものが現実に10分の1だけ減少しなければなりません。

   ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(2)

2024-04-19 02:40:57 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(2)


◎原注1

【原注1】〈1 日々の平均賃金の価値は、労働者が「生活し、労働し、生殖するために」必要なものによって規定されている。(ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、1672年、64ページ。〔岩波文庫版、松川訳『アイァランドの政治的解剖』、134ページ。〕)「労働の価格はつねに生活必需品の価格から構成されている。」労働者は、「…… 労働者の賃金が、彼らの多くがしばしば宿命的にもっている家族を、労働者としての彼の低い身分や地位にふさわしく養うに足りない場合には、いつで/も」相応な賃金を受け取ってはいないのである。(J・ヴァンダリント『貨幣万能論』、15ページ。)「自分の腕と自分の勤労とのほかにはなにももっていないただの労働者は、自分の労苦を他人に売ることができる場合にかぎって、なにかをもつことになる。……どんな種類の労働でも、労働者の賃金は彼が生計を維持するために必要なだけに限られるということは、そうなければならないことであり、また実際にもそうなっている。」(テユルゴ『富の形成と分配の考察』、デール版『著作集』第1巻、10ページ。〔津田訳『チュルゴ経済学著作集』、73ページ。〕)「生活必需品の価格は、事実上、労働の生産費である。」(マルサス『地代の性質……に関する研究』、ロンドン、1815年、48ページ、注。〔岩波文庫版、楠井・東訳『穀物条例論および地代論』、151-152ページ。〕)〉(全集第23a巻413-414頁)

    これは〈この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられており(1)〉という本文に付けられた原注です。ここでは労働力の価値をその生活手段の価値に帰着せしめていると思われるペティとヴァンダリントとテュルゴとマルサスのそれぞれからその該当する部分の引用が紹介されています。
    マルサス以外の学者は、これまでにも何度か出てきたことがあります。だからその時に一応の解説を加えていると思いますが、ここでは重複を恐れず、まずそれぞれについて草稿集から関連するものを紹介しておきます。
    まず〈ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』〉ですが、ここで引用されているものと内容的に類似するものとしては、『61-63草稿』に次のような一文があります。

   〈(β)次に研究すべき第二の点は、労働の価値である。
   「法律は……労働者にちょうどそれをもって生活することができるだけのものを認めるべきであろう。というのは、もし諸君が〔労働者に〕2倍〔の賃金〕を認めるとすると、労働者は、彼がなすことのできたはずの、またそうでなければなしたはずの、半分しか労働しないからである。これは社会にとってそれだけの労働の果実の損失である。」(64ページ〔大内・松川訳、150-151ページ〕。)したがって労働の価値は、必要な生活諸手段によって規定される。労働者が剰余生産および剰余労働を行なわざるをえないのは、彼が生活するのにちょうど必要なだけのものを受け取るためにすら、自分の処分可能な全労働力を費やすように強制されるからにはかならない。しかしながら、その労働が安いか高いかは、二つの事情、すなわち、自然の豊かさと、気候によって規定される支出(欲求)の程度とによって、決まるのである。
   「自然的に高いか安いかは自然的必需品の生産に不可欠な入手の多少に依存する。すなわち、穀物は、1人の男が10人分の穀物を生産するところでは、彼が6人分の穀物しか生産しえないところでよりも安い。また同時に、気候に左右されて人々が必然的に〔穀物を〕より多く消費する気になるか、より少なく消費する気になるかに応じて〔穀物価格は上下する〕。」(67ページ〔大内・松川訳、155ページ〕。)〉(草稿集⑨488頁)
    〈「ある人々が他の人々よりたくさん食べるということは重要ではない。というのは、われわれは1日分の食料を、あらゆる種類またあらゆる体格の人々の100分の1が、生き、労働し、子孫を生むために食ぺるもの、と理解するからである。」(『アイルランドの政治的解剖』64ページ〔松川訳、134ページ〕。)〉(草稿集⑨605頁)

   また「第8章 労働日」「第5節 標準労働日のための闘争」のなかで原注119に出てきたときに、『資本論辞典』から紹介しましたが、それを再掲しておきます。

  ペティ Sir Wil1iam Petty (1633-1687)近世経済学の建設者にしてその父,もっとも天才的・独創的な経済学研究者であると同時に,いわば統計学の発明者。/まずしい毛織物工業者の第3子として南西イングランドに生まる。……/ベティは,労働は富の父であり、土地はその母だといい,また資本(Stock)とは過去の労働の成果だといっているが,ここで彼が問題にしている労働は.交換価値の源泉をなす抽象的・人間的労働ではなくて,土地とならんで素材的富の一源泉をなすところの具体的労働,つまり使用価値をつくりだすかぎりでの労働である。そして彼はこの現実的労働をただちにその社会的総姿態において,分業としてとらえたのであるが,彼が商品の「自然価格」を規定するばあい,それは事実上,この商品の生産に必要なる労働時間によって公的に規定されるところの(交換)価値にほかならないのである。しかし,同時に彼は,交換価値を,それが諸商品の交換過程で現象するがままに,貨幣と解いし,そして貨幣そのものは,これを実存する商品すなわち金銀と解した。彼は,一方では重金主義のあらゆる幻想をくつがえしつつも,他方ではこの幻想にとらわれ,金銀を獲得する特殊の種類の現実的労働を,交換価値を生む労働だと説明したのである。/彼の価値規定においては. a) 同等な労働時問によって規定される価値の大いさと. b)社会的労働の形態としての価値,したがって真実の価値姿態としての貨幣と,c) 交換価値の源泉としての労働と,使用価値の源泉としての労働(このばあい労働は,自然質料すなわち土地を前提とする)との混同,の三者が雑然と混乱している。彼が貨幣の諸機能を一応正当に把握しつつも,他方ではそれを金銀と解し,不滅の普通的富と考えたり,また価値の尺度として土地・労働の両者を考え,この両者のあいだに‘等価均等の関係'をうちたてようとしたりしたのも(このぱあい,事実上,土地そのものの価値を労働に分解することだけが問題になっているのだが),この混乱にもとづくのである。/ところで,以上の価値裁定に依存するベティの刺余価値の規定はどうかといえば.彼は剰余価値の本性を予感してはいたけれども彼が見るところでは,剰余がとる形態は'土地の賃料'(地代〕と‘貨幣の賃料'(利子)の二つだけであった。そして彼にとっては,のちに重農主義者にとってそうであるのと同じように,地代こそが'剰余価値'の本来の形態であって,彼は地代を剰余価値一般の正常的形態と考えるのであるから,利潤の方はまだぼんやりと労賃と熔けあっているか,またはたかだか,この剰余価値のうち資本家によって土地所有者から強奪される一部分として現象するのである。すなわち.彼は地代(剰余)を生産者が'必要労働時間'をこえておこなう超過労働として説明するばかりでなく,生産者自身の'剰余労働'のうち,彼の労賃および彼自身の資本の填補をこえる超過分として説明する,つまり地代は,'農業的剰余価値'全体の表現として,土地からではな<.労働からひきだされ,しかも労働のうち労働者の生計に必要なものをこえる剰余として説明されているのである。(以下、まだ続きますが長すぎるので省略します。)〉(547-548頁)

    次に〈J・ヴァンダリント『貨幣万能論』〉ですが、これも「第8章 労働日」「第5節 標準労働日のための闘争」の原注121に出てきました。そのときにも断りましたが、貨幣の機能に関連するものの引用はいくつかありましたが、それ以外のものは見あたらないので、ここでは『資本論辞典』からの紹介のみです(これも再掲)。

   ヴァンダーリント Jacob Vanderlint (1740)イギリスに帰化したオランダ商人.唯一の著書《Money answers all Things》(1734)によって知られている.貿易差額脱を批判して自由貿易論へ道を開き,下層・中間階級の地位の引上げを目標とし.高賃銀を要求し.土地にたいする不生産的地主の独占を攻撃した.マルクスはアダム・スミスにいたるまでの経済学が,哲学者ホッブズ,ロック.ヒューム.実業家あるいは政治家トマス・モア,サー・W・テンプル,シュリー,デ・ゲイツト,ノース,ロー.カンティヨン.フランクリンにより,また理論的にはとくに医者ペティ,バーボン. マンドヴィル,ケネーにより研究されたとしているが,ヴァンダリントもこれら先人のなかに加えられており,とくにつぎの三つの点でとりあげられている.第一に,流通手段の量は,貨幣流通の平均速度が与えられているばあいには,諸商品の価格総頬によって決定されるのであるが,その逆に,商品価格は流通手段の量により,またこの後者は一国にある貨幣材料の量によって決定されるという見解(初期の貨幣数量説)があり,ヴァンダリントはその最初の代表者の一人である.この見解は,商品が価格なしに,貨幣が価値なしに流通に入り込み,そこでこの両者のそれぞれの可除部分が相互に交換されるという誤った仮設にもとづく'幻想'である,と批判されている.またこの諭点に関連して,ヴァンダリントにおける,貨幣の退蔵が諸商品の価格を安くする,という見解が批判的に,産源地から世界市場への金銀の流れについての叙述が傍証的に引用されている.第二に,ヴァンダリントはまた,低賃銀にたいする労働者の擁護者としてしばしば引用され,関説されている.第三に,マニュフアクチュア時代が,商品生産のために必要な労働時間の短絡を意識的原則として宣言するにいたる事情が,ペティその他からとともにヴァンダリントからもうかがい知ることができるとされている.上述の批判にもかかわらず.《Money answers all Things》は,‘その他の点ではすぐれた著述'であると評価され,とくにヒュームの《Political Discourses》(初版1752)が,これを利用したことが指摘されている.《反デューリング論》の(《批判的学史》から)の章ではこの両者の関係が詳細に確認され, ヒュームはヴァンダリントにまったく迫随しつつ,しかもそれに劣るものであると断ぜられている(その他の点でも《反デュリング論》の参照が必要).〉(472頁)

    なお新日本新書版ではヴァンダリントからの引用文のところを〈「…… 労働者の賃金が、彼らの多くの者の宿命であるような大家族を、労働者としての彼の低い身分や地位と状態*とに応じて、養うに足りない場合には、いつでも」労働者は相応な賃金を受け取ってはいないのである。〉と訳し、*印について次のような訳者注を付けています。

  〈*〔ヴァンダリントのこの引用全文は、初版から第四版まですべて原文の英文で示されているが、それを独訳した現行のドイツ語ヴェルケ版は「状態」を脱字しているために、文章不明の構成になっている〕〉(549頁)

    その次は〈テユルゴ『富の形成と分配の考察』〉です。『61-63草稿』には今回の引用と重なる引用がありますので、紹介しておきます。

   〈{「自分の腕と自分の勤労とのほかにはなにも持っていないただの労働者は、自分の労苦を他人に売ることになんとか成功したときにかぎって、なにかを持つことになる。……どんな種類の労働にあっても、労働者の賃銀は彼が生計を維持するために必要なだけに限られなければならず、また実際にもそうなっている」(テュルゴー 『富の形成と分配とに関する省察』(初版の刊行は1766年)、所収、『著作集』、第一巻、ウジェーヌ・デール編、パリ、1844年、10ページ〔岩波書店版、津田内匠訳『チュルゴ経済学著作集』、73ページ〕)。}〉(草稿集④69頁)
   〈「自分の腕と勤勉を有するにすぎない単純労働者は、自分の労苦を他人に首尾よく売る以外にはなにももたない。……どんな種類の労働についても、労働者の賃金は彼の生活資料を手に入れるのに彼にとって必要なだけに限られるということが起こるはずであり、また実際に起こっているのである。」(同前、10ページ〔津田訳、73ページ〕。)
    ところで賃労働が生じてくると、「土地の生産物は二つの部分に分かれる。一つは、農業労働者の生活資料と利潤とを含む。これは、彼の労働の報酬であり、また彼が土地所有者の畑の耕作を引き受ける条件である。その残りは、土地がそれを耕作する者に彼の前貸と彼の労苦の賃金とを越えて純粋の贈りものとして与える、かの独立の自由に処分しうる部分である。そしてこれが土地所有者の分けまえまたは収入であり、彼は、これによって労働ぜずに生活することができるし、また、これを彼の望むところへ持って行くのである。」(14ページ〔津田訳、76ページ〕。)ところが、この土地の純粋の贈りものは、いまではすでに、土地が「それを耕作する者」に与える贈りものとして、したがって、土地がその労働に与える贈りものとして、規定されているように見える。すなわち、土地に投ぜられた労働の生産力、労働が自然の生産力を利用する結果としてもつところの生産力、したがって労働が土地からつくりだすのであるが、しかしただ、労働が土地からつくりだすところの生産力としてのみ規定されているように見える。それゆえ、土地所有者の手中においては、その剰余は、もはや「自然の贈りもの」としてではなく、他人の労働の--等価を支払わない--取得として現われる。この他人の労働は、自然の生産性によって自分自身の欲望を越えて生活手段を生産することができるが、しかし賃労働としてのその存在によって、労働の生産物のうち「彼が自分の生活資料にどうしても必要なもの」だけしか取得できないように制限されている。「耕作者は彼自身の賃金を生産し、そのほかに、職人その他の被雇用階級全体にたいする賃金の支払に用いられる収入を生産する。……土地所有者は耕作者の労働なしにはなにも手に入れるものはない(したがって自然の純/粋の贈りものによるのではない)。彼は、耕作者から、彼の生活資料と、他の被雇用者たちの労働にたいして支払うのに必要なものとを受け取る。……耕作者は、ただ慣習と法律にしたがって、土地所有者を必要とするだけである。」(同前、15ページ〔津田訳、77ページ〕。)
    こうして、ここでは、直接に剰余価値が、耕作者の労働のうち、土地所有者が等価を支払わずに取得する部分、したがって生産物のうち、土地所有者が買うことなしに売る部分、として説明されている。ただ、テュルゴーが念頭においているのは、交換価値それ自体、労働時間そのものではなく、生産物のうち、耕作者の労働が彼自身の賃金を越えて土地所有者にもたらす超過分である。だが、生産物の超過分はすべて、耕作者が彼の賃金の再生産のために労働する時間のほかに、土地所有者のために無償で労働する一定時間が対象化されたものにほかならない。〉(草稿集⑤30-31頁)

    また以前「第5章 労働過程と価値増殖過程」の原注4に出てきたときに『資本論辞典』からも関連する部分を紹介しましたので、それを再掲しておきます。

  テュルゴ Anne Robert Jacques Turgot(1727-1781) フランスの経済学者・政治家.……『剰余価値学説史』第1部第2章で指摘されているように,テュルゴはこの前払資本が最初はいっさいの耕作にさきだって土地により無償で提供されたと鋭明している(MWI-24; 青木 1-69-70).つまりそれらは野生の植物であり,木・石製の道具であり,野獣であり, しかも野獣は飼い馴らされて家畜となり食用および労働に使用され,さらに自然に繁殖し乳類・羊毛その他のような年生産物以上のものを提供したのである.したがって家畜は土地の耕作以前に動的富であったのであり,テュルゴは土地所有による農耕社会にいたるまでの狩猟・牧畜という経済生活の発展をこの動的富の所有形態によって説明し,さらに奴隷もまた他種の動的富として,これが耕作労働以外のすべての労働に使用されえたこと,したがって土地それ自体と交換されうる価値を持つにいたったことをのべている.……
  上述のように,マルクスは『資本論』各巻でテュルゴを引用したのち『剰余価値学説史』第1部第2章で集中的に論じている.マルクスは重農主義体系を本質的には封建的生産体制の廃墟にたつブルジョア的生産体制を宣言した体系と規定し,テュルゴがその重農主義体系の発展の極と指摘し,彼が重農主義者の虚偽の封建的仮象にもかかわらず, 1776年のブルジョア的経済大改革によってフランス革命を案内したとのべている.〉(519-521頁)

    最後は〈マルサス『地代の性質……に関する研究』〉です。『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきます。

  労賃。〔その〕平均および運動。「社会の進歩において賃金の低下ほど、すなわち、労働諸階級の慣習と結合して、生活手段に応じて人口の増加を調節するそのような低下ほど絶対的に不可避なものはない。」(マルサス『地代の……に関する一研究』、19ページ〔楠井・東訳、124ページ〕。)
    マルサス氏は、『穀物法および穀価昇落が国の農業および一般的な富に与える影響の諸考察』、第3版、ロンドン、1815年のなかで、A・スミスに反対して(したがって『人口に関する一論』における彼自身の誤った想定に反対して)次のように主張している。「労賃の全体がけっして穀物価格の諸変動に比例して騰落しうるものでない、ということは、明らかである。」(前掲書、6ページ〔楠井・東訳、13-14ページ〕。)この同じ人物が、『外国産穀物の輸入を制限する政策に関する一見解の諸根拠』、ロンドン、1815年のなかでは、次のように言っている。「これらの賃金は、結局、穀物の通常の貨幣価格等によって決定されるであろう。」(26ページ〔楠井・東訳、82ページ〕。)そしてこれと同じ見解が、『地代の……に関する一/研究』のなかでは、利潤と賃金とからの地代の分離の必然性を示すために主張されている。それでは、なぜこの男は『穀物法……影響の諸考察』のなかで、A・スミスから彼に継承されて、さらには彼によってA・スミスとはまったく別の一面的に倭小化した仕方で主張された上記の見解を、否認したのか? ジエイムズディーコンヒューム『穀物法についての見解』、ロンドン、1815年におけるその答えはこうである。「マルサス氏は、『労働の価格は穀物の価格によって支配される』というA・スミスの命題を論駁するために大いに骨をおった。……それはまさに問題の核心なのであるが、マルサス氏によってそれが取り扱われた方法は、他の人々が農業階級〔agriculturalinterest〕の法外な要求を擁護しうる示唆や論拠を、彼自身が直接に汚名をこうむることなiく提示しようとしている、という疑念を抱かせるものである。」(前掲書、59ページ。)(いたるところで、マルサスは卑劣な追従者である。)〉(草稿集⑨470-471頁)

    また『資本論辞典』からも紹介しておきます。

  マルサスThomas Robert Malthus (1766-1834)イギリリスの経済学者.……マルクスは《剰余価値学説史》第3部のなかで,……マルサスの経済理論を批判しているが,マルササ批判の大要はおよそつぎのとおりである.これらの著書において,マルサスは,価値にかんする基本的立場として,スミスの理論における俗流的な一面をなす価値構成論の立場を採用している.……そしてこの立場に立ってマルサスは,リカードの経済学における価値論の修正という難点をよりどころとして,労働価値税そのものを破棄する態度にでた.一般に諸資本の競争をつうじて,ひとしい資本にたいしてはひとしい利潤すなわち平均利潤が成立し,かくしてこのばあい商品価値は生産価格へと転化されるが,この価値と生産価絡との区別を明確にすることのできなかったりリカードは,資本の有機的構成および回転期間の差異のあるばあいにかぎって,労働による価値の規定という原則は例外的に修正をうけると考えた.これにたいしてマルサスは,利潤率の差異を生ぜしめるこれらの諸要因の存する事実を論拠として,このばあい労働量による価値規定という根本的法則は修正されるどころか,むしろ抹殺されてしまうほどであるとのベて,リカードが原則とみなしたものは例外であり,例外であるとみなしたものこそが原則であると批評した.しかしそれと同時にマルサスは,商品がそれ自身の価値にしたがっては交換されず,それとは異なる生産価格でもって売買されるという競争の現象を論拠として,リカードの理論的基礎をなしている科学的主張そのものを抹殺してしまったのである.……このようにし/て商品の価値をその生産価格と混同し,前者を後者として表象する誤った見地は,マルサスにより一つの法則にまで高められた.……(以下、まだまだ続きますが省きます。)(4459-460頁)


◎第4パラグラフ(労働の生産力を高め、労働力の価値を引き下げるためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならない)

【4】〈(イ)しかし、このように労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、それ自身また、以前は10時間で生産されたのと同じ量の生活手段が今では9時間で生産されるということを条件とする。(ロ)といっても、これは労働の生産力を高くすることなしには不可能である。(ハ)たとえば、ある靴屋は、与えられた手段で、1足の長靴を12時間の1労働日でつくることができる。(ニ)彼が同じ時間で2足の長靴をつくろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければならない。(ホ)そして、それは、彼の労働手段か彼の労働方法かまたはその、両方に同時にある変化が起きなければ、2倍になることはできない。(ヘ)したがって、彼の労働の生産条件に、すなわち彼の生産様式に、したがってまた労働過程そのものに革命が起きなければならない。(ト)われわれが労働の生産力の上昇と言うのは、ここでは一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働により大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである(2)。(チ)そこで、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では生産様式は与えられたものとして想定されていたのであるが、必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本が労働過程をその歴史的に伝来した姿または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長するだけでは、けっして十分ではないのである。(リ)労働の生産力を高くし、そうすることによって労/働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。〉(全集第23a巻414-415頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) しかし、このように労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、以前は10時間で生産されたのと同じ量の生活手段が今では9時間で生産されるということを条件とします。これは労働の生産力を高くすることなしには不可能です。たとえば、ある靴屋は、与えられた手段で、1足の長靴を12時間の1労働日でつくることができるとします。彼が同じ時間で2足の長靴をつくろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければなりません。そしてそれは、彼の労働手段か彼の労働方法かまたはその両方に同時にある変化が起きなければ、2倍になることはできません。だから、彼の労働の生産条件に、すなわち彼の生産様式に、したがってまた労働過程そのものに何らかの革命が起きなければならないのです。

    この部分もフランス語版ではやや簡潔に書かれていますので、最初に紹介して行くことにします(なおフランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられています)。

    〈1/10の低下は、当初10時間で生産された同じ量の生活手段がもはや9時間しか必要としないということ--労働の生産力が増大することなしには不可能なこと--を前提している。たとえばある靴屋は、与えられた手段を用いて12時間で1足の長靴を作ることができる。同じ時間で2足の長靴を作るためには、彼の労働の生産力を2倍にしなければならないが、彼の労働手段か彼の労働方法に、または同時に両者に、ある変化がなくては、そういうことは起こらな/い。生産条件のなかに、ある革命が遂行されなければならないのだ。〉(江夏・上杉訳325-326頁)

    何度も確認しますが、〈労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉(第2篇第4章第3節)。だから労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、労働者を維持するために必要な生活手段の価値が10分の1だけ下がるということです。すなわち以前は10時間で生産されていたものがいまでは9時間で生産されるということです。しかしこれは生活手段を生産する労働の生産力が高くならない限り不可能です。
    例として靴屋の労働を考えてみましょう。靴屋は与えられた手段で、1足の靴を12時間の1労働日で作ることができたとします。もし彼が同じ1労働日に2足の靴を作ろうと思えば、生産力を2倍にしなければならないでしょう。そしてそのためには彼の靴を作るための労働手段か労働方法か、あるいはその両方に、何らかの改善がなければなりません。つまり彼の生産条件、すなわち生産様式に、ということは労働過程に何らかの革命が生じなければならないということです。

  (ト)(チ)(リ) わたしたちが労働の生産力の上昇と言うのは、一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、つまりより小量の労働によってより大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことです。だから、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では生産様式は与えられたものとして想定されていたのですが、必要労働の一部を剰余労働に転化させる剰余価値の生産のためには、資本が労働過程を歴史的に伝来した姿、または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長するだけでは、けっして十分ではないことがわかります。労働の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのです。

    まずフランス語版を紹介しておきます。

    〈われわれは、労働生産力あるいは労働生産性の増大ということを、一般には、一商品の生産に社会的に必要な時間を短縮し、この結果、より少量の労働量がより多量の使用価値を生産する力を獲得するという、労働過程における変化である、と理解する(2)。われわれが、延長された労働時間から生じる剰余価値を考察するばあいには、生産様式は与えられたものと見なされていた。しかし、必要労働の剰余労働への転化によって剰余価値を獲得することが問題となるやいなや、資本が伝統的な労働過程に手を触れないままで、たんに労働時間を延長することに満足するだけでは、もはや充分ではない。そのばあいには反対に、資本は技術的および社会的条件、すなわち生産様式を変えなければならない。そのときにだけ、資本は労働の生産性を高め、したがって労働力の価値を引き下げ、まさにそのことによって、労働力の再生産に必要な時間を短縮することができるであろう。〉(江夏・上杉訳326頁)

    生産力の増減は具体的な有用労働が生みだす使用価値量を変化させ、それが高まればより大きくなり、逆の場合その反対です。しかし生産力がどんなに変化しようとある一定の時間に生産される価値量には何の変化もありません。しかしそれは逆に言いますと、増大した使用価値量の一単位あたりの価値量は、生産力が高くなりますと小さくなり、反対に低くなると大きくなるということです。だから、私たちは労働の生産力の増大を、一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮し、より少量の労働でより多量の使用価値を生産する力を獲得することだと理解するのです。それを引き起こす労働過程におけるある変化が生じたということです。
    これまでの「第3篇 絶対的剰余価値の生産」では、生産様式は与えられたものと前提されていました。ただ1労働日を延長することによって剰余価値の増大を求めたのです。
  しかし1労働日はある決まった値として想定して、必要労働時間の一部を剰余労働時間に転化して、剰余価値の増大を行うためには、資本は労働の生産力を高めるために、生産の技術的・社会的条件を、すなわち生産様式そのものを変化させなければならないのです。
    〈労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている。〉(全集第23a巻54頁) 
    このように資本は労働の生産力を高め、それによって労働力の再生産費を引き下げて、必要労働時間を短縮した分だけ、剰余労働時間の延長を、すなわち剰余価値の増大を得ることができるのです。

    最後に『61-63草稿』から紹介しておきます。

    〈商品を考察するさいに見たように、労働の生産力が高まれば、同じ使用価値がより短い労働時間で生産される。言い換えれば、より大量の同じ使用価値が同じ労働時間で(あるいはより少ない時間で--だがこれは第二の場合に含まれる--)生産される。商品の使用価値は相変わらず同一であるが、その交換価値は下落する、すなわち商品に対象化されている労働時間はより少量となり、その生産に必要な労働はより少なくなっている。労働能力の標準的な再生産に必要な生活手段の総額は、それらの交換価値によって規定されているのではなく、それらの使用価値によって--質的および量的に--規定されているのであり、したがってそれらの生産に必要な労働時間、それらに対象化されている労働時間によってではなく、この労働時間の成果によって、生産物で表示されるかぎりでの現実的労働によって規定されているのである。したがって、現実的労働/の生産性が高められることによって同じ生活手段の総額がより短い労働時間で生産されうるならば、労働能力の価値は低下し、したがってまた、労働能力は依然としてその価値どおりに売られるにもかかわらず、労働能力を再生産するために、その対価を生産するために必要な労働時間、つまり必要労働時間は減少する。それは、他のある商品が、依然として従来どおりの使用価値をもちながらも、それに含まれている労働時間が1/100だけ減ったためにいまではこれまでより1/100だけ少ない値となっているときに、それは依然として価値どおりに売られている、というのと同様である。この場合には、労働能力の価値が、したがってまた必要労働時間が低下するのは労働能力の価絡がその価値以下に下がるからではなくて、その価値そのものが下がったから、つまり、労働能力に対象化されている労働時間がより少量になり、だからまた労働能力の再生産に必要な労働時間がより少なくなったからである。この場合、剰余労働時間が増加するのは、必要労働時間が減少したからである。〉(草稿集④377-378頁)

   ((3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(3)

2024-04-19 02:17:35 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(3)



◎原注2

【原注2】〈2 「産業が改良されるとすれば、それが意味しているのは、ある商品が以前より少ない労働者によって、または(同じことだが)以前より短い時間で仕上げられるような新たな方法が発見されたということにほかならない。」(ガリアーニ『貨幣について』、158、159べージ。)「生産の費用の節約とは、生産に充用される労働量の節約以外のものではありえない。」(シスモンディ『経済学研究』、第1巻、22ぺージ。)〉(全集第23a巻415頁)

    これは〈われわれが労働の生産力の上昇と言うのは、ここでは一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働により大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである(2)。〉という本文に付けられた原注です。
    ここでは本文と同じ主旨の文言がみられるガリアーニとシスモンディの二つの経済学者の著書からの引用が紹介されています。
    まず〈ガリアーニ『貨幣について』〉ついてですが、『61-63草稿』にほぼ似た引用がありますので、その前後も含めて紹介しておきます。

    第8に労働の置き換え
    「技術〔arte〕が改良される場合、このことが意味するのは、ある製品が以前より少ない人間によって、または(同じことだが)以前より短い時間で仕上げられるような新たな方法が発見されるということにほかならない」(フェルディナンド・ガリアーニ『貨幣について』、ダストーディ編『イタリア古典著作家論集』、近世篇、第4巻、ミラノ、1803年、158、[159]ページ)。
    このこと--ある製品をつくるためのより少ない人間〔meno gente〕とより短い時間〔minor tempo〕とは同じことである、ということ--は、単純協業にも、分業にえも、また機械にもあてはまることである。1人が以前に2時間でしたことを、いま1人が1時間ですることができるとす/れば、以前に2人がしたこと、したがって以前に2同時的労働日を必要としたことを、いまでは1人が、1労働日ですることができる。つまり、1人ひとりの労働者の必要労働時間を短縮させるあらゆる手段は、同時に、同じ結果を生みだすために必要とされる労働者数の減少を含んでいる。ところで、機械の充用の場合、この減少はただ程度の差でしかないのだろうか、それともなにか独特のことがつけ加わるのだろうか?〉(草稿集④554-555頁)

    以前、「第4章 貨幣の資本への転化」の原注18で出てきたときに『資本論辞典』から紹介したものを再掲しておきます。

  〈ガリアニ Ferdinapdo Galiani (1728-1787) .イタリアの牧師・外交官・経済学者……重商主義者で,重農主義に反対した.……ガリアニによれば,商品価値は効用に依存する,さらに稀少性の影響もうける.人間労働によってつくりだされた財貨のばあいには,その価値は労働量あるいは労働者の数できまる.しかしどちらかといえば,価値の主観的・心理的説明に傾いていて,その意味では効用説の先駆のひとつをなす.しかるに,その価値や貨幣にかんする議論では,のちの労働価値説をもととしたような明快な諸命題がみえており,マルクスはこれを評価している.たとえば,価値を人間のあいだの一関係とみる観点,金銀は本来的に貨幣だという命題,平等のあるところに利得なしという等価交換的見方,産業改良による労働の生産性の向上と価値低落の指摘などは,マルクスによって引用されている.〉(451頁)

    次に〈シスモンディ『経済学研究』〉です。この原注と同じ引用が『61-63草稿』にも引用されていますので、紹介しておきます。

  生産の費用の節約とは、生産に充用される労働量の節約以外のものではありえない(シスモンディ『経済学研究』、第1巻、ブリュッセル、1837年、22ページ)。

②〔訳注〕この引用には引用符がつけられていないが、シスモンディのフランス語原文がそのまま(ただし一か所コンマが加えられている)書かれている。(草稿集④491頁)

    シスモンディについては以前、「第4章 貨幣の資本への転化」の原注13に関連して、次のように説明しました。再掲しておきます。
    シスモンディ(Jean Charles Leonard Simonde de Sismondi 1773-1842)は『資本論辞典』によればスイス(フランス系)の歴史家・経済学者ということです。

  〈マルクスは古典派経済学の初めと終りの代表者を.イギリスにおいてペティとリカード.フランスにおいてはボアギユベールとシスモンディにもとめ,シスモンディをリカードに対応させて評価している.リカードにおいて. (古典派〕経済学がおそれることなく,その最後の結論をひきだし,それをもって終結をつげたとすれば,シスモンディは. (古典派〕経済学の自己自身にたいする疑惑を表明することによって,この終結を補完したのである.〉(同辞典494頁)

  『経済学批判』の説明も紹介しておきましょう。

  〈アダム・スミスとは反対に、デイヴィド・リカードウは、労働時間による商品の価値規定を純粋に仕上げ、この法則が、それと表面上もっとも矛盾するように見えるブルジョア的生産諸関係をも支配することを示した。リカードウの研究は、もつばら価値の大きさに限られており、これにかんするかぎり、彼は少なくとも、この法則の実現が特定の歴史的諸前提に依存していることに感づいている。すなわち彼は、労働時間による価値の大きさの規定は、「勤労によって任意に増加されうる、そしてそれらの生産が無制限な競争によって支配されている*1」商品だけに妥当する、と言っている。このことは事実上、価値法則はその完全な展開のためには、大工業生産と自由競争との社会、すなわち近代ブルジョア社会を前提する、ということを意味するものにほかならない。そのほかの点では、リカードウは、労働のブルジョア的形態を社会的労働の永遠の自然形態とみなしている。彼は原始的な漁夫と猟師にも、すぐさま商品占有者として、魚と獣とをこれらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して交換させている。このさい彼は、原始的な漁夫と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、1817年にロンドン取引所で用いられている年金計算表を参考にするという時代錯誤に陥っているのである。「オーエン氏の平行四辺形」は、ブルジョア的社会形態以外に彼の知っていた唯一の社会形態だったらしい。こういうブルジョア的視界に限られていたにせよ、リカードウは、ブルム卿が彼について「リカードウ氏はまるで他の遊星から落ちてきた人のようだった」〔"Mr.Rcardo seemed as if he had dropped from an other planet."〕と言いえたほどの理論的な鋭さで、底のほうでは表面に現われているものとはまったく別様の観を呈するブルジョア経済を解剖した。シスモンディは、リカードウとの直接の論争で、交換価値を生む労働の特有な社会的性格を強調するとともに*2、価値の大きさを必要労働時間に還元すること、「全社会の欲求と、この欲求をみたすに足りる労働量とのあいだの割合*3」に還元することを、「われわれの経済的進歩の性格」と呼んでいる。シスモンディはもはや、交換価値を生む労働が貨幣によって盗められるというボアギュベールの考えにはとらわれていないが、ボアギュベールが貨幣を非難したように、彼は大産業資本を非難している。リカードウにおいて、経済学が容赦することなくその最後の結論を引き出し、それでもって終わりを告げたとすれば、シスモンディは、経済学の自分自身に対する疑惑を示すことによって、この終結を補完しているのである。

*1 デイヴィド・リカードウ『経済学および課税の原理』、第3版、ロンドン、1821年、3ページ〔堀経夫訳『経済学及び課税の原理』、所収『リカードウ全集』、第1巻、雄松堂書店、14ページ〕。
  *2  シスモンディ『経済学研究』第2巻、ブリュッセル、1838年。「商業はすべてのものを使用価値と交換価値との対立に帰着させた。」162ページ。
  *3  シスモンディ、前掲書、163-166ページ以下。(草稿集③259-260頁)


◎第5パラグラフ(絶対的剰余価値と相対的剰余価値)

【5】〈(イ)労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。(ロ)これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ。〉(全集第23a巻415頁)

  (イ)(ロ) 労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼びました。これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化から生まれる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶことにします。

 ここで初めて絶対的剰余価値に対応した相対的剰余価値の規定がなされています。これまでの展開では、絶対的剰余価値とは異なる剰余価値の増大を如何に求めることが可能かを探ってきたのですが、それは必要労働時間の一部を剰余労働時間に転化することによって可能だということが示されたのでした。そこでここではこの必要労働時間を短縮してそにれよって剰余労働時間を増大をはかって生まれる剰余価値を相対的剰余価値となづけるということが言われているのです。厳密には〈必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値〉と述べられています。
  『61-63草稿』ではマルクスは次のように述べています。

   〈われわれは、剰余価値のこれまで考察してきた形態を絶対的剰余価値と呼ぶが、その理由は、この剰余価値の存在そのものが、この剰余価値の増加の率が、この増加の増分のすべてが、同時に、創造される価値(生産される価値)の絶対的な増加だからである。すでに見たように、絶対的剰余価値は、必要労働日をその限界を越えて延長することから生じるものであって、その絶対的な大きさはこの延長分の大きさに等しく、その相対的な大きさ--比率として見た剰余価値、すなわち剰余価値率--は、必要労働時間にたいするこの延長分の割合、つまり流量にたいするこの流率の割合によって与えられている。必要労働時間が10時間であるときに、労働時間が〔それを越えて〕2、3、4、5時間だけ延長される。その結果、1O労働時間分の価値の代わりに、12-15時間分の価値が創造される。この場合には、標準労働日の延長、すなわち必要労働時間と剰余労働時間との合計の延長こそ、剰余価値が増加し、増大させられる過程なのである。〉(草稿集④374頁)
    〈これまでは必要労働によって占められていた、総労働日のうちのある分量が、いまでは解放されて剰余労働時間に合体される。必要労働時間の一部が剰余労働時間に転化され、したがって、生産物の総価値のうちこれまでは賃銀にはいった一部分が、いまでは剰余価値(資本家の利得)にはいっていくのである。剰余価値のこの形態を、私は相対的剰余価値と名づける。〉(同377-378頁)


◎第6パラグラフ(労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物、したがって慣習的な生活手段の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門を、生産力の上昇がとらえなければならない。)

【6】〈(イ)労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物、したがって慣習的な生活手段の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門を、生産力の上昇がとらえなければならない。(ロ)しかし、一商品の価値は、その商品に最終形態を与える労働の量によって規定されているだけではなく、この商品の生産手段に含まれている労働量によっても規定されている。(ハ)たとえば、長靴の価値は、ただ靴屋の労働によってだけではなく、革や蝋や糸などの価値によっても規定されている。(ニ)だから、必要生活手段を生産するための不変資本の素材的諸要素すなわち労働手段や労働材料を供給する諸産業で生産力が上がり、それに応じて諸商品が安くなれば、このこともまた労働力の価値を低くするのである。(ホ)これに反して、必要生活手段も供給せずそれを生産するための生産手段も供給しない生産部門では、生産力が上がっても、労働力の価値には影響はないのである。〉(全集第23a巻415頁)

  (イ) 労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物、したがって慣習的な生活手段の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門を、生産力の上昇がとらえなければなりません。

 〈労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉(第2篇第4章第3節)。だから労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物である生活手段の価値を下げる必要があります。そしてそのためには生活手段を生産する生産部門の生産力が上昇しなければならないのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) しかしそれだけに限定されているわけではありません。一商品の価値は、その商品に最終形態を与える労働の量によって規定されているだけではなくて、この商品の生産手段に含まれている労働量によっても規定されています。たとえば、長靴の価値は、ただ靴屋の労働によってだけではなく、革や蝋や糸などの価値によっても規定されています。ですから、必要生活手段を生産するための不変資本の素材的諸要素すなわち労働手段や労働材料を供給する諸産業でも生産力が上がり、それに応じて諸商品が安くなれば、このこともまた労働力の価値を低くします。

    しかしそもそも生活手段の価値は、それを生産するために最後に支出された労働だけによって規定されているわけではありません。その生活手段の生産に必要な諸手段(労働手段や原材料)等の生産に支出された労働量によっても規定されています。
    例えば長靴の価値は、それを生産した靴屋の労働だけではなくて、靴屋が靴を生産するために利用した道具類や原材料の革や糸や蝋などの価値によっても規定されているのです。
    ですから、労働力の価値は、生活手段を生産する労働だけではなくて、生活手段の生産に必要な労働手段や労働材料の価値によっても規定されており、だからそれらを生産する諸部門でも生産力があがり、それに応じてそれらの価値が下がれば、それだけ生活手段の価値も下がり、よって労働力の価値も下がることになるわけです。

  (ホ) ただこれに反して、必要生活手段も供給せずそれを生産するための生産手段も供給しない生産部門では、例え生産力が上がっても、労働力の価値には影響はないでしょう。

    しかしそのことは反対に、生活手段の生産に必要な原材料も労働諸手段も供給しない産業部門において、例え生産力があがったとしても、労働力の価値には影響しないといえます。

    最後に『61-63草稿』におけるマルクスの説明を紹介しておきます。

  〈さて、まず第一に明らかなことは、労働の生産力の増大が労働者たちの労働能力の価値あるいは彼らの必要労働時間を減少させることができるのは、ただ、これらの労働の生産物が、あるいは直接に彼らの消費のなかにはいっていく--食料、燃料、住居、衣服、等々のように--か、あるいはこれらの生産物の生産に必要な不変資本(原料および労働用具)のなかにはいっていく、そのかぎりでのこと/だ、ということである。後者のことが言えるのは、生産物のなかにはいっていく不変資本の価値はその生産物の価値のなかに再現するのだから生産物の価値は明らかに、それ自身の生産に必要な労働時間が減少する場合に下落するだけではなく、その生産物の生産諸条件の生産に必要な労働時間が減少する場合、つまり労働者の消費にはいっていく生産物の生産に必要な原料および労働用具の価値が、要するに不変資本の価値が減少する場合にも、同じく下落するからである。〉(草稿集④378-379頁)
  〈(1) 相対的剰余価値が生み出されうるのは、労働者の消費にはいる商品(生活手段)が安くされるかぎりにおいて、つまりこれらの商品の価値が、すなわちこれらの生産に必要な労働時間の分量が減少されるかぎりにおいてである。しかし、商品に含まれる労働時間は2つの部分からなっている。(a)諸商品のなかに消費された労働手段および--存在するならば--原料に含まれている過去の労働時間。〉(草稿集⑨19頁)


◎第7パラグラフ(安くなった商品が労働力の価値を低くするのは、もちろん、その商品が労働力の再生産にはいる割合に応じて低くするだけである。しかしわれわれはこの一般的な結果を、ここでは、あたかもそれが各個の場合の直接的結果であり直接的目的であるかのように、取り扱う。)

【7】〈(イ)安くなった商品が労働力の価値を低くするのは、もちろん、その商品が労働力の再生産にはいる割合に応じて低くするだけである。(ロ)たとえば、シャツは必要生活手段ではあるが、しかし多くの生活手段の一つでしかない。(ハ)それが安くなることは、ただシャツのための労働者の支出を減らすだけである。(ニ)ところが、必要生活手段の総計は、み/なそれぞれ別々の産業の生産物であるまったくさまざまな商品から成っており、このような商品の一つ一つの価値は、いつでも労働力の価値の一可除部分をなしている。(ホ)この価値は、その再生産に必要な労働時間が減るにつれて低くなるのであり、この労働時間全体の短縮は、かのいろいろな特殊な生産部門のすべてにおける労働時間の短縮の総計に等しい。(ヘ)われわれはこの一般的な結果を、ここでは、あたかもそれが各個の場合の直接的結果であり直接的目的であるかのように、取り扱う。(ト)ある一人の資本家が労働の生産力を高くすることによってたとえばシャツを安くするとしても、けっして、彼の念頭には、労働力の価値を下げてそれだけ必要労働時間を減らすという目的が必然的にあるわけではないが、しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである(3)。(チ)資本の一般的な必然的な諸傾向は、その現象形態とは区別されなければならないのである。〉(全集第23a巻415-416頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 安くなった商品が労働力の価値を低くするのは、いうまでもなく、その商品が労働力の再生産にはいる割合に応じて低くするだけです。たとえば、シャツは必要生活手段ですが、しかし多くの生活手段の一つでしかありません。それが安くなることは、ただシャツのための労働者の支出が減らされるだけです。

    フランス語版は全体に簡潔に書かれており、それを最初に紹介することにします。

    〈ある物品が安くなれば、その物品が労働力の再生産に入りこむ割合に応じてのみ、労働力の価値を引き下げる。たとえばシャツは必需品であるが、このほかにも必需品はたくさんある。シャツの価格の低下は、たんに、この特殊な物品にたいする労働者の支出を減らすだけのことだ。〉(江夏・上杉訳327頁)

 生活手段の価値が下がることによって、労働力の価値が下がると言いましても、その商品が労働力の再生産にはいる割合によって違ってきます。例えば、シャツも生活手段といえますが、しかし多くの生活手段のなかの一つに過ぎません。だからシャツの値段が安くなったとしても、それですぐに労働力の価値が低くなるといえません。それは労働者がシャツを購入する必要をそれだけ減らすだけです。

  (ニ)(ホ)(ヘ) しかし、必要生活手段の総計は、みなそれぞれ別々の産業の生産物であるまったくさまざまな商品から成っています。そして、これらの商品の一つ一つの価値は、いつでも労働力の価値の一可除部分をなしているわけです。ですから、それらの価値は、それらの再生産に必要な労働時間が減るにつれて低くなりますので、それらの労働時間全体の短縮は、それらのいろいろな特殊な生産部門のすべてにおける労働時間の短縮の総計に等しいことになります。わたしたちは、こうした一般的な結果を、ここでは、あたかもそれらが各個の場合の直接的結果であり直接的目的であるかのように、取り扱うことにします。

    まずフランス語版を紹介しておきます。

  〈ところが、生活必需品の総和は、別々の産業から生ずるある特定の諸物品のみから成っている。この種の物品の一つ一つの価値は、労働力の価値のなかに部分として入りこみ、労働力の価値の低下全体は、これらのすべての特殊な生産部門における必要労働の短縮の総和によって測られる。われわれはここでは、この最終的な結果を、それが直接的な結果であり直接の目的であるかのように取り扱う。〉(同上)

    だから必要生活手段の総計を考えますと、それはさまざまな別々の産業の生産物からなっています。そしてそれらの一つ一つの価値が、労働力の価値の全体を構成しているわけです。ですから、それらのさまざまな産業部門の商品の価値が低くなりますと、それに応じてそれらの再生産に必要な労働時間も短縮され、よってそれは労働力の再生産に必要な労働時間の短縮に繋がります。つまり労働力の価値の低下をもたらすわけです。
    しかしそうした生活手段のあれこれを一つ一つ問題にすることはここではできません。だから私たちこうした一般的な結果を、ここでは、あたかもそれらが各個の場合の直接的結果であり、直接的目的であるかのように、取り扱うことにするのです。つまりある一つの生活手段の商品を代表させて、その価値が低くなれば、労働力の価値もまたそれに応じて低くなるというように考えることにするわけです。
  『61-63草稿』ではマルクスは次のように述べています。

  〈だがわれわれは--またわれわれは、つねに特定のある領域における、特定の労働者たちをもった、特定のある個別資本をわれわれの心に描くことによってのみ、過程を考察することができるのであって--、当然、叙述を一般化するために、労働者は彼自身の生産する使用価値で生活しているかのように、過程を考察してよいのである。〉(草稿集④380頁)

  (ト) 確かに、ある一人の資本家が労働の生産力を高くすることによってたとえばシャツを安くするとしましても、けっして、彼の念頭には、労働力の価値を下げてそれだけ必要労働時間を減らすという目的が必然的にあるわけではありません。しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのです。

    フランス語版です。

  〈一人の資本家が、労働の生産力を増大させることによって、たとえばシャツの価格を引き下げても、彼はそのことによって労働力の価値を引き下げ、したがって、労働者が自分自身のために労働する労働日部分を短縮する、という意図を必ずしももっているわけではない。だが、結局、彼は、この結果に寄与することによってのみ、一般的剰余価値率を高めることに寄与している のである(3)。〉(同上)

    もちろん、ある一人の資本家が労働の生産力を高くして、それによって、例えばシャツの値段を安くしたとしましても、けっして、彼の頭のなかには、それによって労働力の価値を下げて、それだけ必要労働時間を減らそうなどという意識があるわけではありません。しかしそれにも関わらず、彼は結局はそうした結果に寄与する限りでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与しているのです。

  (チ) 資本の一般的な必然的な諸傾向は、その現象形態とは区別されなければならないのです。

    フランス語版です。

  〈資本の一般的、必然的な諸傾向は、これらの傾向が現われる形態とは区別されなければならないのである。〉(同上)

    このように資本家がどのような動機でその生産力を高めようとするか、という資本家の意識諸形態に反映される現象諸形態と、そうした現象諸形態の偶然を通して、貫いていく一般的諸傾向とは区別されねばなりません。労働の生産力を高めようとするのは資本の必然的な傾向であり、それによって相対的剰余価値の増大を図ろうとするのは資本主義的生産様式の内在的な傾向なのです。だからそれ自体が直接的なものとして資本家の意識に登るわけではないのです。

    最後に『61-63草稿』からの抜粋を紹介しておきます。

   〈しかし、かりに労働の生産性が一般的に倍加したとすれば、すなわち、労働能力を再生産するために必要な諸商品(使用価値)を直接・間接に供給する、つまり労働者の消費にはいる生産物を供給するすべての産業部門において倍加したとすれば、この一般的な労働生産性が一様に増大したのと同じ割合で労働能力の価値が低下し、したがってこの価値の補塡に必要な労働時間が減少し、そしてそれが減少するのと同じ割合で、労働日のうち、剰余時間を/なす・資本家のために労働がなされる・部分が増加するであろう。しかしながら、これらのさまざまな労働部門における生産諸力の発展は、一様でもなければ同時に起こるものでもなくて、不ぞろいな、異なった、またしばしば対立した運動にさらされている。労働の生産性が、労働者の消費に直接・間接にはいる産業部門の一つ、たとえば服地を供給する産業において増加するという場合であれば、われわれはこの特定の産業の生産性が増大するのと同じ割合で労働能力の価値が低下すると言うことはできない。より安く生産されるのはその生活手段だけである。この低廉化は、労働者の生活必需品のうちの一可除部分に影響するだけである。この一部門における労働の生産性の増大は、必要労働時間(すなわち、労働者にとって必要な生活手段を生産するために必要な労働時間)を減少させるが、それはしかしこの生産性の増大に比例してではなく、この労働の生産物が平均的に労働者の消費にはいる割合に応じてにすぎない。したがって、個々の産業部門のどれをとっても(あるいは農業生産物は例外かもしれないが)、この影響を明確に算定することはできない。〔しかし〕このことは一般的法則をなんら変えるものではない。相対的剰余価値は、労働者の消費に直接・間接にはいる使用価値(生活手段)が低廉化されるのに比例してのみ発生し増大しうるということ、すなわち殊的一産業部門の生産性の増大に比例してではないが、しかしこの部門の生産性のこの増大が必要労働時間を減少させるのに、すなわち労働者の消費にはいる生産物をより安価にするのに比例して発生し増大しうるということ、--このことは依然として正しい。それゆえ、相対的剰余価値を考察するときには、つねに次の前提から出発できるばかりでなくそうしなければならない、--すなわち、資本が投下されている特殊的部門における生産力の発展すなわち労働の生産性の発展が、直接に必要労働時間を一定割合だけ減少させるという、すなわち労働者の生産した生産物が彼の生活手段の一部をなしており、したがってまたこの生産物の低廉化が一定割合だけ彼の生活の再生産に必要な労働時間を減少させるという前提である。この前提のもとでのみ相対的剰余価値は発生するのであるから、相対的剰余価値を考察するときには、つねにはこの前提が定在することを想定しうるし、またそうしなければならないのである。〉(草稿集④391-392頁)


◎原注3

【原注3】〈3 「工場主が機械の改良によって彼の生産物を2倍にするとしても……彼が利益を得るのは、(結局は)ただ、それによって彼が労働者にもっと安く衣料を供給しうるようになり……こうして総収益のいっそう小さい部分が労働者の取り分になるかぎりでのことである。」(ラムジ『富の分配に関する一論』、168、169ページ。)〉(全集第23a巻416頁)

    これは〈ある一人の資本家が労働の生産力を高くすることによってたとえばシャツを安くするとしても、けっして、彼の念頭には、労働力の価値を下げてそれだけ必要労働時間を減らすという目的が必然的にあるわけではないが、しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである(3)〉という本文に付けられた原注です。

    ラムジの著書からの引用ですが、ラムジは生産力の上昇によって資本家が利益を得るのは、結局は、それによって労働者の生活手段の価値を引き下げ、剰余価値部分を大きくすることに寄与するかぎりにおいてであると的確に指摘しているように思えます。

  『61-63草稿』のマルクスの指摘を見てみましょう。

  〈R〔ラムジ〕は、機械などはそれが可変資本に影響を及ぼすかぎりではどの程度に利潤や利潤率に作用するか、を正しく述べている。すなわち、それが作用するのは、労働能力の減価によってであり、相対的剰余労働の増加によってであり、あるいはまた、総再生産過程を見るならば、総/収入のうち賃金を補填するべき部分が小さくなることによってである。
    「固定資本の構成にはいらない諸商品の生産に従事する産業の生産性の上昇または低下は、総額のうち労働の維持に役だつ部分の割合を変えることによるほかには、利潤率に影響を及ぼすことはできない。」(168ページ)「もし製造業者が機械の改良によって彼の生産物を2倍にするならば、結局、彼の財貨の価値は、その量が増加したのと同じ割合で低下せざるをえない。{これは、実際には、機械の損耗を計算に入れれば、この2倍になった量は以前にその半分が必要としたよりも多くの費用を必要としないということを前提してのことである。そうでなければ、価値は下がっても、その量に比例してではない。その量は2倍になろうとも、その価値のほうは、個々の商品の価値も総生産物の価値も、2対1にではなく、2対1[1/4]、等々に下がるだけであろう。}そして製造業者が得(トク)をするのは、ただ、彼が労働者により安く衣服を供給することができて、総収入中のより小さい部分が労働者の手に落ちるかぎりでのことである。……農業者も{製造業者の産業の生産性の上昇の結果}得をするのは、やはりただ、彼の支出の一部分が労働者に衣服を供給することにあって彼が今ではこれをより安く手に入れることができるかぎりでのことであり、したがって製造業者と同じ仕方でのことである。」(168、169ページ。)〉(草稿集⑧418-419頁)

   ((4)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(4)

2024-04-19 01:45:28 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(4)

 


◎第8パラグラフ(資本主義的生産の内在的諸法則が諸資本の外的な運動のうちに現われ競争の強制法則として実現されしたがって推進的な動機として個別資本家の意識にのぼる仕方は、この著書の範囲外である。しかし、相対的剰余価値の生産を理解するためには、すでに得られた成果だけにもとづいて、次のことを述べておかなければならない。)

【8】〈(イ)資本主義的生産の内在的諸法則が諸資本の外的な運動のうちに現われ競争の強制法則として実現されしたがって推進的な動機として個別資本家の意識にのぼる仕方は、まだここで考察するべきことではないが、しかし次のことだけははじめから明らかである。(ロ)すなわち、競争の科学的な分析は資本の内的な本性が把握されたときにはじめて可能になるのであって、それは、ちょうど、天体の外観上の運動が、ただその現実の、といっても感覚では知覚されえない運動を認識した人だけに理解されうるようなものだ、ということである。(ハ)とはいえ、相対的剰余価値の生産の理解のために、また、すでに得られた結果だけにもとついて、次のことを述べておきたい。〉(全集第23a巻416頁)

  (イ) 資本主義的生産の内在的諸法則が諸資本の外的な運動のうちに現われ競争の強制法則として実現され、したがって推進的な動機として個別資本家の意識にのぼる仕方は、まだここで考察するべきことではありませんが、しかし次のことだけははじめから明らかでしょう。

    このパラグラフはやや難解であり、初版とフランス語版を並べて紹介しておくことにします(以下、同じ)。

    初版〈資本主義的生産の内在的な諸法則が、いかにして、諸資本の外的な運動のなかで現われ競争の強制法則として貫徹し、したがって、主な動機として個別資本家の意識にのぼるか、その仕方を説明することは、この著書の範囲外である。〉(江夏訳358頁)

    フランス語版〈われわれはここでは、どのようにして資本主義的生産の内在的傾向が、個別資本の運動のうちに反映し、競争の強制法則として自己を主張し、まさにそのことによって、資本家たちに彼らの活動の動機として押しつけられるか、を詮議するには及ばない。〉(江夏・上杉訳327頁)

    このパラグラフから急に資本主義的生産の内在的諸法則とそれが外的に現れてくる関係が問題にされています。どうしてここでこのような問題が論じられているのでしょうか。相対的剰余価値というのは、1労働日の労働時間の長さを前提し(不変として)、それを構成する必要労働時間と剰余労働時間との割合を変えて、必要労働時間を短縮させて剰余労働時間の増大をはかることによって得られるもののことです。しかし必要労働時間の短縮は、労働力の価値そのものを減少させることなくしてはありえません。そしてそのためには資本主義的生産様式を変革して、生産力を高めるしかないということがわかったわけです。しかし労働力の価値を規定するのは、労働者の生活手段の価値です。だから生産力を高めることが労働者の生活手段の生産に関連する諸部門に及ぶとき、はじめてそれは相対的剰余価値を生産することに繋がるわけです。それに対して、生活手段の生産にまったく関与しない部門において生産力が例えあがったとしても労働力の価値には何の影響も及ぼさないということも確認されました。
    しかし第7パラグラフでは、1人の資本家が自分の部門(例えばシャツ製造)の生産力を上げようとするのは、決してそれで必要生活手段の価値を下げて、労働力の価値の低下をはかり、剰余価値の拡大を、すなわち相対的剰余価値の獲得を目指すためではありません。
    つまり相対的剰余価値というのは、そうした資本家たちが直接目標にするようなものではなくて、それは多くの資本家たちが互いに競争して生産力を高めた結果、それが労働者の生活手段の生産に関連する諸部門をとらえるに応じて、得られる剰余価値の拡大なのです。だかちそれらは資本主義的生産の内在的な関係であって、直接的なものではないのです。
    だからマルクスは第7パラグラフの最後で〈資本の一般的な必然的な諸傾向は、その現象形態とは区別されなければならないのである〉と述べているのです。
    資本の一般的な必然的な諸傾向というのは、生産力を高めて、相対的剰余価値の拡大を目指す傾向です。それに対して、その現象形態とは、資本家たちが生産力を高める直接的な動機、目標、あるいは具体的な問題意識ということです。それらとは区別される必要があるということです。
    そのことから、今回のパラグラフでは、資本主義的生産の内在的な諸法則が諸資本の外的な運動として現れ、競争の強制法則として自己を貫徹するさまは、よってまたそれらが個別資本家たちの意識にのぼる仕方は、本来は、私たちが第3部になって初めて論じることができるような性格のものです。だからここでそれを詳しく展開することはできませんが、しかし相対的剰余価値の増大という資本主義的生産の内在的な傾向が如何にして個別資本家たちの意識諸形態を通して現れてくるのかを明らかにするためには、次のことだけははじめから明らかなこととして述べておく必要があるとしているわけです。

  (ロ) すなわち、競争の科学的な分析は資本の内的な本性が把握されたときにはじめて可能になるのであって、それは、ちょうど、天体の外観上の運動が、ただその現実の、といっても感覚では知覚されえない運動を認識した人だけに理解されうるようなものだ、ということです。

    初版〈競争の科学的な分析は、一般的には、資本の内的な本性が把握されるときに初めて可能になる。このことはちょうど、天体の外観上の運動が、天体のほんとうの、といっても感覚では知覚しえない運動を、認識する人にだけ、理解されうるのと同じである。〉(同上)

    フランス語版〈競争の科学的分析は、実際は、資本の内的本性の分析を前提とする。このことは、天体の外観上の運動がその真の運動を知る者にとってだけ理解可能である、のと同じである。〉(同上)

    これもかなり一般的な関係として論じられています。第3部で行われる競争の科学的な分析は、その前の第1部や第2部で考察された資本の内在的な諸法則が把握されていて、はじめて展開可能だということです。
    それは、ちょうど、天体の外観上の運動(太陽が東から出て西に沈むという見かけの運動)は、ただその現実の、といっても感覚では知覚されえない運動(本当は地球が太陽の周りを回っているという現実)を認識した人にだけ理解しうるのと同じだというのです。

  (ハ) とは言うものの、相対的剰余価値の生産の理解のために、また、すでに得られた結果だけにもとづいて、次のことは述べておきましょう。

    初版〈とはいえ、相対的剰余価値の生産を理解するためには、すでに得られた成果だけにもとづいて、次のことを述べておかなければならない。〉(同上)

    フランス語版〈しかし、相対的剰余価値の生産をもっとよく理解させるために、われわれの研究の経過のなかですでに得られた結果にもとづく若干の考察を、つけ加えておこう。〉(同上)

    とはいいましても、この相対的剰余価値の生産を理解するために、すでにこれまでに得られた諸結果だけにもとづいても、次のことは述べておくべきでしょう。


◎第9パラグラフ(生産力を高めた個別資本家は特別剰余価値を得る。だからどの個々の資本家にとっても労働の生産力を高くすることによって商品を安くしようとする動機がある)

【9】〈(イ)1労働時間が6ペンスすなわち半シリングという金量で表わされるとすれば、12時間の1労働日には6シリン/グという価値が生産される。(ロ)与えられた労働の生産力ではこの12労働時間に12個の商品がつくられると仮定しよう。(ハ)各1個に消費される原料その他の生産手段の価値は6ペンスだとしよう。(ニ)このような事情のもとでは1個の商品は1シリングになる。(ホ)すなわち、生産手段の価値が6ペンス、それを加工するときに新しくつけ加えられる価値が6ペンスである。(ヘ)いま、ある資本家が、労働の生産力を2倍にすることに成功し、したがって12時間の1労働日にこの種の商品を12個ではなく24個生産することができるようになったとしよう。(ト)生産手段の価値が変わらなければ、1個の商品の価値は今度は9ペンスに下がる。(チ)すなわち、生産手段の価値が6ペンスで、最後の労働によって新しくつけ加えられる価値が3ペンスである。(リ)生産力が2倍になっても、1労働日は相変わらずただ6シリングという新価値をつくりだすだけであるが、この新価値は今度は2倍の生産物に割り当てられる。(ヌ)したがって、各1個の生産物には、この総価値の12分の1ではなく24分の1しか、6ペンスではなく3ペンスしか割り当たらない。(ル)または、同じことだが、生産手段が生産物に転化するときに、生産物1個につき、今度は以前のようにまる1労働時間ではなくたった半労働時間が生産手段につけ加えられるだけである。(ヲ)この商品の個別的価値は、いまではその社会的価値よりも低い。(ワ)すなわち、この商品には、社会的平均条件のもとで生産される同種商品の大群に比べて、より少ない労働時間しかかからない。(カ)1個は平均して1シリングであり、言い換えれば、2時間の社会的労働を表わしている。(ヨ)変化した生産様式では、1個は9ペンスにしかならない。(タ)言い換えれば、1労働時間半しか含んでいない。(レ)しかし、商品の現実の価値は、その個別的価値ではなく、その社会的価値である。(ソ)すなわち、この現実の価値は、個々の場合にその商品に生産者が実際に費やす労働時間によって計られるのではなく、その商品の生産に社会的に必要な労働時間によって計られるのである。(ツ)だから、新しい方法を用いる資本家が自分の商品を1シリングというその社会的価値で売れば、彼はそれをその個別的価値よりも3ペンス高く売ることになり、したがって3ペンスの特別剰余価値を実現するのである。(ネ)しかし、他方、12時間の1労働日は、いまでは彼にとって以/前のように12個ではなく24個の商品に表わされている。(ナ)だから、1労働日の生産物を売るためには、彼は2倍の売れ行きまたは2倍の大きさの市場を必要とする。(ラ)ほかの事情に変わりがなければ、彼の商品が市場のより広い範囲を占めるには、その価格を引き下げるよりほかはない。(ム)そこで、彼は自分の商品を、その個別的価値よりも高く、しかしその社会的価値よりも安く、たとえば1個10ペンスで売るであろう。(ウ)それでもまだ彼は各1個から1ペンスずつの特別剰余価値を取り出す。(ヒ)彼にとってこのような剰余価値の増大が生ずるのは、彼の商品が必要生活手段の範囲にはいるかどうかには、したがってまた労働力の一般的な価値に規定的にはいるかどうかには、かかわりがない。(ノ)だから、このあとのほうの事情は別として、どの個々の資本家にとっても労働の生産力を高くすることによって商品を安くしようとするという動機はあるのである。〉(全集第23a巻416-418頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 1労働時間が6ペンスすなわち半シリングという金量で表わされるとしますと、12時間の1労働日には6シリングという価値が生産されることになります。今、与えられた労働の生産力で、この12労働時間に12個の商品がつくられると仮定します。各1個に消費される原料その他の生産手段の価値は6ペンスだとします。そうすれば1個の商品は1シリングになります。つまり、生産手段の価値が6ペンス、それを加工するときに新しくつけ加えられる価値が6ペンスです。

    マルクスは『61-63草稿』で次のように述べています。

    〈いっさいの困難は、労働の生産性を高めるさいに個々の資本家が直接に考えているのは必要労働時間を引き下げることではなくて、労働時間をその価値以上に売ること--それを平均的労働時間以上に高めること--だ、ということから生じる。しかし、この高められた労働時間のうち賃銀の補填に必要な部分はその割合が減少する、すなわち剰/余労働時間が--まわり道をして価値以上の販売によって表わされるのではあるが--増大するのである。〉(草稿集④386-387頁)

    つまりこれから具体的な例を使って論じていくのは、個別の資本家が生産力を高める直接の動機を解明するものであり、それが結果として如何にして相対的剰余価値の生産に結果するのかを明らかにしようとしているのです。その具体例の考察を検討してみましょう。
    この部分も厳密な理解が必要ですので、同じようにすべて初版とフランス語版を並立して最初に紹介することにします。

    初版〈1労働時間が6ペンスすなわち1/2シリングという金量で表わされているとすれば、12時間の労働日では6シリングという価値が生産される。労働の与えられた生産力をもってすれば、この12労働時間内に12個の商品がつくられる、と仮定しよう。各1個のうちに消費される生産手段である原料等々が、6ペンスだとする。こういった事情/のもとでは、1個の商品は1シリングに値する、すなわち、生産手段の価値が6ペンス、この商品の加工で新たにつけ加えられた価値が6ペンスである。〉(江夏訳358-359頁)

    フランス語版〈通常の労働条件のもとで、12時間労働日で12シリングの価値ある12個(なんらかの一物品の)が製造されると/仮定しよう。さらに、12シリングというこの価値の半分は12時間の労働から生じ、他の半分はこの12時間の労働によって消費される生産手段から生ずる、と仮定しよう。このばあい各1個は1シリングすなわち12ペンスに、つまり、原料として6ペンス、労働によって付加される価値として6ペンス、に値するであろう。〉(江夏・上杉訳327-328頁)

    1労働時間が6ペンス(半シリング)の金量で表されるとします。そうすれば1労働日(12時間)には6シリングの価値が生産されます(12×0.5=6)。今、与えられた労働の生産力にもとづき、この12労働時間に12個の商品が作られると仮定します。各1個の商品の生産に消費される原料その他の生産手段の価値は6ペンスだとします。そうれば1個の商品の価値は1シリングになります。つまり生産手段の価値6ペンス+新な労働が追加する価値6ペンス=1シリングです。

  (ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル) いま、ある資本家が、労働の生産力を2倍にすることに成功し、その結果、12時間の1労働日にこの種の商品を12個ではなく24個生産することができるようになったとします。生産手段の価値が変わらないとしますと、1個の商品の価値は今度は9ペンスに下がります。つまり、生産手段の価値が6ペンスで、最後の労働によって新しくつけ加えられる価値が3ペンスになるわけです。生産力が2倍になっても、1労働日は相変わらずただ6シリングという新価値をつくりだすだけです。しかし今度は、この新価値が2倍の生産物に割り当てられるわけです。だから、各1個の生産物には、総価値の12分の1ではなく24分の1が、6ペンスではなく3ペンスが割り当ることになります。あるいは、同じことですが、生産手段が生産物に転化するときに、生産物1個につき、今度は以前のようにまる1労働時間ではなくたった半労働時間が生産手段につけ加えられることになります。

    初版〈さて、ある資本家が首尾よく、労働の生産力を2倍にし、したがって、この商品種類を12時間の労働日で12個生産するのではなく24個生産する、ということにしよう。生産手段の価値が不変であれば、1個の商品の価値がいまや9ペンスに下がる、すなわち、生産手段の価値が6ペンス、最後の労働を用いて新たにつけ加えられる価値が3ペンスになる。生産力が2倍になったのに、1労働日は相変わらず6シリングという新価値しかつくり出さない。ところが、新価値は2倍の生産物に配分されている。だから、各1個の生産物には、この総価値の以前の1/12ではなく1/24しか、6ペンスではなく3ペンスしか、ふりあてられていない。あるいは、同じことだが、生産手段が生産物に転化するさいに、いまでは、以前のようにまる1労働時間ではなく、半労働時間しかつけ加えられていない。〉(江夏訳359頁)

    フランス語版〈ある資本家が新しい工程のおかげで労働の生産性を首尾よく倍加し、したがって、12時間で24個を首尾よく製造するものとせよ。生産手段の価値が同じままであれば、各1個の価格は9ペンスに、つまり、原料としての6ペンスと、最後の労働によって付加される手間仕事としての3ペンスに、下がるであろう。生産力は倍加したのに、1労働日は依然として6シリングの価値しか創造しないが、この価値はいまでは2倍の数の生産物の上に配分される。したがって、各1個の生産物には、この価値の1/12ではなく1/24しか、6ペンスではなく3ペンスしか、手に入らない。生産手段が生産物に変態するあいだに、生産手段には1労働時間でなく半労働時間しか付加されない。〉(江夏・上杉訳328頁)

    いま、ある個別の資本家だけが、労働の生産力を2倍にすることに成功したとします。彼は、12時間の1労働日にこの種の商品を今では12個ではなくて、24個生産することができるようになりました。
    1個あたりの生産手段の価値に変化がないとしますと、1個の商品の価値は今度は9ペンスに下がります。すなわち生産手段の価値6ペンス+新たに追加される労働が生産する価値3ペンスです。
    生産力が2倍になっても、1労働日が生みだす価値は同じであり(6シリング)、それが今度は2倍の量(24個)の使用価値に配分されるだけです。だから1個あたりに新たに付け加わる労働の量が半分(3ペンス)になるわけてす。同じことですが、以前は12時間で12個の商品を生産していたのが(1個作るのに1時間)、同じ12時間で24個生産できるようになったのですから、1個あたりの商品に対象化される労働時間は半分(半時間)になるということです。

  (ヲ)(ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ)(ソ)(ツ) このように、この商品の個別的価値は、いまではその社会的価値よりも低いことになります。つまり、この商品には、社会的平均的条件のもとで生産される他の同じ種類の商品の大群に比べて、より少ない労働時間しかかからないわけです。1個は平均して1シリングであり、言い換えますと、2時間の社会的労働を表わしています。変化した生産様式では、1個は9ペンスにしかなりません。言い換えますと、1労働時間半しか含んでいないことになります。しかし、この種類の商品の現実の価値は、そうした個別的価値ではなく、その社会的価値です。つまり、商品の現実の価値は、個々の場合にその商品に生産者が実際に費やす労働時間によって計られるのではなく、その商品の生産に社会的に必要な労働時間によって計られるのです。ですから、新しい方法を用いる資本家が、自分の商品を1シリングというその社会的価値で売りますと、彼は自分の個別的価値よりも3ペンス高く売ることになります。つまり3ペンスの特別剰余価値を実現することになるのです。

    初版〈この商品の個別的価値は、いまでは、この商品の社会的価値以下である。すなわち、この商品には、社会的な平均条件のもとで生産される同じ物品の大群に比べて、より少ない時間しか費やされていない。1個は、平均して1シリングに値していた、すなわち、2時間の社会的労働を表わしていた。変化した生産様式を用いると、この1個は9ペンスにしか値しない、すなわち、1[1/2]労働時間しか含んでいない。ところが、一商品のじっさいの価値は、その商品の個別的価値によってではなく、その商品の社会的価値によって規定されている。すなわち、個々のばあいにその商品に生産者がじっさいに費やす労働時間によってではなく、その商品の生産に社会的に必要な労働時間によって規定されている。だから、新方法を用いる資本家が、自分の商品を1シリングというその社会的価値で売れば、彼は、この商品をそれの個別的価値よりも3ペンス高く売り、したがって、3ペンスの特別剰余価値を実現することになる。〉(同上)

    フランス語版〈これらの例外的な条件のもとで生産された各1個の個別的価値は、その社会的価値以下に下がることになる。すなわち、この各1個は、社会的な平均的条件のもとで生産される多量の同じ物品よりもわずかな労働しか費やされていないのである。1個は平均1シリングに値する、あるいは2時間の社会的労働を表わしたが、新しい工程のおかげで、それは9ペンスにしか値しない、あるいは1[1/2]労働時間しか含んでいないのである。
    ところで、一物品の価値とは、その個別的価値ではなくその社会的価値を意味するのであって、後者は、それがある特殊なばあいではなく平均して費やさせるところの労働時間によって、規定される。新しい方法を用いる資本家が、この1個を1シリングというその社会的価値で売るならば、彼はそれを、その個別的価値よりも3ペンス高く売り、こうして3ペンスの特別剰余価値を実現するのである。〉(同上)

    このように生産力を2倍にすることに成功した資本家の商品の個別的価値は、その同じ商品種類の商品の社会的価値よりも低くなります。ある商品の社会的価値というのは、その商品の生産に社会的・平均的に必要な労働時間ということです。この個別資本家は一商品の生産に必要な労働時間を社会的なもの(2時間)よりも半時間少なくすることに成功したわけです。
    ここでマルクスは〈同種商品の大群に比べて〉と述べています。というのは、生産力を高めた個別資本家の商品も同じ商品種類の一加除部分を占めているのですから、その個別的価値が下がったということは、厳密にいえば、それを含めた社会的価値もその分だけ下がらなければなりません。しかしここではマルクスはあえて〈大群に比べて〉と述べているのは、その新たな生産力のもとで生産された商品は同じ種類の商品の大群に比べればいまだ少ないために、社会的・平均的なものに与える影響もとりあえずは無視できるほどだと仮定されていると考えられます。
    この種の商品の価値は仮定では1個1シリングです。言い換えますと2時間の社会的労働時間を表しています(最初の仮定では1時間が6ペンス、半シリングの金量で表される)。生産力が2倍になった個別商品の価値は、1個9ペンスです(生産手段が6ペンス+新たに付け加わる価値が3ペンス)。つまり1時間半の労働しか含んでいないことになります。
    しかし商品の価値は個別的な価値ではなくて、社会的価値によって規定されています。もともと私たちが商品の価値という場合、その商品に個別的に実際に支出された労働時間によってではなくて、その商品種類の生産のための社会的・平均的な条件のもとで、その生産に必要な労働時間を意味しています。ですから、新しい方法を用いて生産した資本家は、当然、その商品をその個別的価値(9ペンス)でではなくて、社会的価値(1シリング=12ペンス)で売るわけです。そうしますと、彼は1個あたり3ペンス高く自分の商品を売ることになります。つまり3ペンスの特別剰余価値を得るわけです。
    ここに新たに「特別剰余価値」という用語が出てきます。これは「相対的剰余価値」とどのように区別され、どのような関係にあるのでしょうか。まず指摘しなければならないことは、「特別剰余価値」というのは資本家たちが知覚することができ、目標にもするような、直接的なもの(具体的な現象として現れているもの)だということです。すなわち、それは資本家たちが生産力を上げようとする直接の動機であり目的でもあるということです。それに対して、「相対的剰余価値」というのはすでに述べましたが、資本家たちが直接目標にするような性格のものではなく資本主義的生産の内在的な関係なのです。しかしこの直接的なものとして現れているものを媒介して、内在的な関係が自己を貫徹するということでもあるのです。これ以外にも両者の相違点はありますが、とりあえずは、以上のことを押さえておきましょう。

  (ネ)(ナ)(ラ)(ム)(ウ) 他方で、12時間の1労働日は、いまでは彼にとっては以前のように12個ではなく24個の商品に表わされています。だから、1労働日の生産物を売るためには、彼は2倍の売れ行きまたは2倍の大きさの市場を必要とします。ほかの事情に変わりがないとしますと、彼の商品が市場のより広い範囲を占めるには、その価格を引き下げるよりほかに方法はありません。そこで、彼は自分の商品を、その個別的価値よりも高く、しかしその社会的価値よりも安く、たとえば1個10ペンスで売るとします。それでもまだ彼は各1個から1ペンスずつの特別剰余価値を取り出すことになります。

    初版〈ところが、他方、12時間の労働日が、いまや彼にとっては、以前のように12個ではなく24個の商品のうちに表わされている。だから、1労働日の生産物を売るためには、彼は2倍売れ行きまたは2倍の大きさの市場を必要とする。ほかの事情に変化がなければ、彼の商品は、その価値を引き下げることによってのみ、もっと大きな市場範囲を征服する。だから、彼は、自分の商品を、その個別的価値以上で、とはいってもその社会的価値以下で、たとえば1個10ペンスで売るであろう。こんなわけで、彼は、各1個につき相変わらず1ペンスの特別剰余価値を搾り出す。〉(江夏訳359-360頁)

    フランス語版〈他方、12時間労働日は、以前の2倍の生産物を彼にもたらす。したがって、この生産物を売るためには、彼は2倍の販路、あるいは2倍も広い市場を必要とする。すべての事情が同じままであれば、彼の商品は、その価格を引き下げることによってしか、市場のなかで以前よりも広い場所を獲得するこ/とができない。したがって、彼は彼の商品をその個別的価値以上で、だがその社会的価値以下で、つまり1個10ペンスで売るであろう。彼はこうして1個につき1ペンスの特別剰余価値を実現するであろう。〉(江夏・上杉訳328-329頁)

    ところで生産力をあげることに成功した資本家は、いまでは1労働日(12時間)に、以前のように12個の商品ではなくて、24個の商品を生産します。だから彼は1労働日の生産物を売るためには、2倍の売れ行き、または2倍の大きさの市場を必要とします。とくにその商品に対する需要が特別に拡大するというような事情の変化がない場合、彼は以前より大きな市場を求めるためには、彼の商品を1個1シリング(12ペンス)ではなくて、10ペンスで、つまり社会的な価値よりも下げて、しかし個別的価値(9ペンス)よりも大きな価格で売るとします。それでも彼は商品1個あたり、1ペンスの特別剰余価値を得ることができます。
  ここでマルクスは生産力を上げることに成功した資本家はそれだけ大量の商品を市場に押し込むために、その価格を引き下げるとしています。これはすでに指摘しましたが、この個別資本家の商品がそれだけ多く市場に投じられるということは、その商品の社会的価値そのものをそれだけ引き下げる作用が働くということです。この個別資本の商品が、従来の社会的価値以下に引き下げないと自分の商品を市場に押し込むことができないと感じるのは、まさにこうした社会的価値そのものが低下しなければならない必然性が彼自身の意識に反映したものと言えるでしょう。

  (ヒ)(ノ) 彼にとってこのような剰余価値の増大が生ずるのは、彼の商品が必要生活手段の範囲にはいるかどうかには、だからまた労働力の一般的な価値に規定的にはいるかどうかには、かかわりがありません。だから、同じことは、どの個々の資本家にとっても労働の生産力を高くして、商品を安くしようとするという動機が生じることになります。

    初版〈剰余価値のこういった増大が彼にとって生じても、このことは、彼の商品が必要生活手段の範囲に属しているかどうかにはかかわりがないし、したがって、彼の商品が、労働力の一般的価値のなかに、この価値を規定するものとして、はいるかどうかにもかかわりがない。だから、後のほうの事情はさておき、どの個別資本家にとっても、労働の生産力を高めて商品を安くしようとする動機が、実存している。〉(江夏訳360頁)

    フランス語版〈彼の商品が、労働力の価値を規定する必要生活手段の範囲に属していようがいまいが、彼はこの利得をつかみとる。こういった事情は別にしても、個々の資本家は、商品価格を引き下げるために労働の生産性を高めるという関心によって、押し動かされていることが、わかるのである。〉(江夏・上杉訳329頁)

   ところでこうした事情を考えてみますと、この生産力を高めた個別資本家が、特別剰余価値を獲得して、剰余価値を増大させるのは、彼の商品が必要生活手段の範囲に入るかどうかということにはかかわりがありません。彼は同種の商品を生産する資本家との競争のなかで、自身の特別剰余価値を得るのだからです。だからそれが生活手段の生産にかかわろうとそうでなかろうと、つまり生活手段の生産にはまったく関連しない生産部門においても、特別の生産力を個別的に獲得した資本家が、自分の商品の個別的価値を引き下げて、それを社会的価値以下に、しかし個別的価値以上に売ることによって、特別剰余価値を得ることができるでしょう。これはこの個別的資本家以外の依然として旧来の生産方法で生産している資本家たちが、いまでは新しい生産様式が一部の資本家のあいだに導入されることによってそれだけ低くなった社会的価値のために、それまで実現していた剰余価値の一部が実現できなくなることに対応しているのです。例えばこの個別的資本家が、自分の商品を1個10ペンスで販売したとします。そうするとそれ以外の資本家たちも彼と競争するためには、自分の商品を従来の1シリングで売っていては売れない事態が生じかねません。だからこの個別資本家以外の資本家たちは、本来は1シリング(12ペンス)の価値のある商品を彼らもそれ以下で売らねばならない事態に追いやられるわけです。つまりそれだけ彼らが獲得する剰余価値が減るということです。だから特別剰余価値の大きさは、特別に生産力を上げた個別の資本家の商品が、その同種の商品の市場で占める割合の大きさによって、決まってくるでしょう。
    だからこうした特別剰余価値は、特に生活手段の生産に関連する部門に限らないわけです。他の同種の資本家たちを出し抜いて、個別的に生産力をあげて、自分の商品の価格を引き下げられるようにするのは、すべての資本家たちの最大の関心事であり、その直接の目的なのです。

   ((5)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(5)

2024-04-19 01:10:34 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(5)



◎第10パラグラフ(特別剰余価値の場合も、剰余価値の増大は、必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働時間の延長によって生ずる)

【10】〈(イ)とはいえ、この場合にも剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働の延長とから生ずるのである(3a)。(ロ)必要労働時間を10時間、すなわち労働力の日価値を5シリングとし、剰余労働を2時間、したがつて1日に生産される剰余価値を1シリングとしよう。(ハ)ところで、われわれの資本家は今では24個を生産し、それを1個10ペンスで、すなわち合計20シリングで売る。(ニ)生産手段の価値は12シリングに等しいのだから、14[2/5]個の商品はただ前貸しした不変資本を補填するだけである。(ホ)12時間の1労働日は残りの9[3/5]個で表わされる。(ヘ)労働力の価格は5シリングだから、6個の生産物には必要労働時間が表わされ、3[3/5]個には剰余労働が表わされる。(ト)必要労働と剰余労働との割合は、社会的平均条件のもとでは5対1だったが、いまでは5対3にしかならない。(チ)同じ結果は、次のようにしても得られる。(リ)12時間の1労働日の生産物価値は20シリングである。(ヌ)そのうち12シリングは、ただ再現するだけの生産手段の価値に相当する。(ル)そこで、8シリングが、1労働日を表わす価値の貨幣表現として残る。(ヲ)この貨幣表現は、同じ種類の社会的平均労働の貨幣表現よりも高く、この平均労働はその12時間分が6シリングにしか表わされない。(ワ)例外的に生産力の高い労働は、何乗かされた労働として作用する。(カ)すなわ/ち、同じ時間で同種の社会的平均労働よりも高い価値をつくりだす。(ヨ)ところが、われわれの資本家は労働力の日価値としては相変わらず5シリングしか支払わない。(タ)したがって、労働者はこの価値の再生産には今では以前のように10時間ではなく7[1/2]時間しか必要としない。(レ)したがって、彼の剰余労働は2[1/2]時間増加し、彼の生産する剰余価値は1シリングから3シリングに増加する。(ソ)こうして、改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて1労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにする。(ツ)彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行なうことを、個別的に行なうのである。(ネ)しかし、他方、新たな生産様式が一般化され、したがってまた、より安く生産される商品の個別的価値とその商品の社会的価値との差がなくなってしまえば、あの特別剰余価値もなくなる。(ナ)労働時間による価値規定の法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるをえないという形で感知されるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのである(4)。(ラ)こうして、この全過程を経て最後に一般的剰余価値率が影響を受けるのは、生産力の上昇が必要生活手段の生産部門をとらえたとき、つまり、必要生活手段の範囲に属していて労働力の価値の要素をなしている諸商品を安くしたときに、はじめて起きることである。〉(全集第23a巻418-419頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) といいましても、この場合も剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働の延長とから生ずるのです。必要労働時間を10時間、すなわち労働力の日価値を5シリングとして、剰余労働を2時間、したがつて1日に生産される剰余価値を1シリングとしましょう。私たちの資本家は今では24個を生産し、それを1個10ペンスで、すなわち合計20シリングで売るとしました。生産手段の価値は12シリングで等しいのですから、14[2/5]個の商品はただ前貸しした不変資本を補填するだけです。12時間の1労働日は残りの9[3/5]個で表わされます。労働力の価格は5シリングですから、6個の生産物には必要労働時間が表わされ、3[3/5]個には剰余労働が表わされます。必要労働と剰余労働との割合は、社会的平均条件のもとでは5対1でしたが、いまでは5対3になります。

    このパラグラフも難解です。だから先のパラグラフと同じように、初版とフランス語版を最初に並べて紹介してゆくことにします。

    初版〈とはいっても、このばあいでさえ、剰余価値の生産の増大は、必要労働時間の短縮とこの短縮に対応する剰余労働の延長とから発生する(3a)。必要労働時間は10時間、あるいは労働力の日価値は5シリングであったし、剰余労働は2時間、したがって、1日に生産される剰余価値は1シリングであった。ところで、わが資本家はいまでは、24個を生産し、これを1個当たり10ペンスで、すなわち合計20シリングで売る。生産手段の価値は12シリングに等しいから、14[2/5]個の商品は前貸不変資本しか補填しない。12時間の労働日は残りの9[3/5]個で表わされる。労働力の価値=5シリング であるから、必要労働時間は6個の生産物で、剰余労働は3[3/5]個の生産物で表わされる。社会的な平均条件のもとでは、必要労働が労働日の5/6を占め、剰余労働が労働日の1/6しか占めていないのに、いまでは、必要労働時間が労働日の2/3よりも小さく、剰余労働が労働日の1/3よりも大きい。〉(江夏訳360頁)

    フランス語版〈しかし、このばあいでも、剰余価値の増大は、必要労働時間の短縮とこれに照応する剰余労働の延長から生ずる(4)。必要労働時間は10時間に、あるいは、労働力の日価値は5シリングに達し、剰余労働が2時間、毎日生産される剰余価値が1シリングであった。ところが、われわれの資本家はいまでは24個を生産し、その各1個を10ペンス、すなわち合計20シリングで売る。生産手段は12シリングに値するから、14[2/5]個は前貸しされた不変資本を補填するにすぎない。したがって、12時間の労働は残る9[3/5]個のうちに体現されていて、そのうち6個が必要労働、3[3/5]個が剰余労働を表わす。必要労働の剰余労働にたいする比率は、社会的な平均的条件のもとでは5対1であったのが、ここでは5対3でしかない。〉(江夏・上杉訳329頁)

    すでに見ましたように、特別剰余価値が生まれるのは、労働の生産力が労働力の価値を規定する生活手段の価値を低くすることによるものではありません。それは生活手段を生産する部門とは無関係の生産部門でも、生産力の高めた個別資本は剰余価値を増大させることができるからです。
    ところが、特別剰余価値の場合でも、剰余価値の増大は、必要労働時間の短縮とこの短縮に対応する剰余労働時間の延長とから発生するのだというのです。その説明を見てみまてしょう。
  これまでの想定と同じように、必要労働時間は10時間、あるいは労働力の日価値は5シリング、剰余労働時間は2時間、だから1労働日は12時間で、そこで生産される剰余価値は1シリングでした(1労働時間は6ペンスの金量で表される)。
    ところで生産力を2倍にした個別資本家はいまでは、商品を12個ではなく24個生産し、これを1個あたり10ペンスで販売します。合計20シリングです(10×24=240÷12=20)。生産手段の価値は変わらず、1個あたり6ペンスですから、合計12シリングです(6×24=144÷12=12)。ですから生産された商品24個のうち14[2/5]個は、ただ前貸しした不変資本を補填するだけのものです(不変資本の価値12シリング÷商品1個の価値10/12シリング=12×12/10=14.4=14[2/5])。だから12時間の1労働日は24個-14[2/5]個=9[3/5]個の生産物で表されます。労働力の価値は5シリングですから、5÷10/12=5×12÷10=6個の生産物で表されます。つまり必要労働時間は6個の生産物になり、剰余労働時間は1労働日のうちのその残りですから、9[3/5]-6=3[3/5]個の生産物で表されます。必要労働時間と剰余労働時間との割合は、社会的平均的条件では、10時間と2時間、すなわち5:1でしたが、いまでは労働力の価値5シリング対剰余価値3シリング(=24個の商品の価値20シリング-不変資本の価値12シリング-可変資本の価値5シリング)、すなわち5対3になっています。
    以上がマルクスの説明です。しかしこの例では必要労働時間は同じ5シリングで変わっていないために、マルクスが言うように〈この場合にも剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働の延長とから生ずる〉ということをいま一つ明瞭に示しているようには思えません。
    そこで次のように考えてみましょう。この商品の社会的価値における価値構成をみてみますと、12個の商品の価値(12シリング)は、生産手段(不変資本)に6シリング(6個)、労働力の価値(可変資本)に5シリング(5個)、剰余価値に1シリング(1個)というふうに分割されます。この同じ商品24個(24シリング)の価値構成はというと、不変資本は12シリング(12個)、可変資本は10シリング(10個)、剰余価値は2シリング(2個)に分割されます。つまり従来の生産方法で生産している資本家は、生産した商品を24個販売した場合、得られる剰余価値は2シリングなわけです。
    今度は、生産力を2倍に高めた個別資本の商品の価値構成をみてみましょう。ただし、この資本家は商品1個を社会的価値の1シリングではなくて、10ペンスで販売するとします。つまり24個の商品を24シリングではなくて20シリングで販売するわけです。その価値構成は、不変資本は12シリング、可変資本は5シリング、だから剰余価値は3シリングになります。つまりこの場合、剰余価値は2シリングから3シリングに増えています。
    それはどうしてかを考えてみますと、この両者の同じ24個の商品の価値構成を比べてみますと、生産力を高めた場合の可変資本(労働力の価値)は、社会的価値の商品24個の場合の10シリングに対して5シリングに減っています。そしてそのために、本来は社会的価値どおりに販売すれば24シリングで販売できる商品を20シリングに値引きして販売しても、可変資本が減った分、剰余価値は2シリングから3シリングに増えているのです。つまりマルクスが言うように、〈この場合にも剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働の延長とから生ずる〉と言えるわけです。

  (チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ)(ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ) 同じ結果は、次のようにしても得られます。12時間の1労働日の生産物価値は20シリングです。そのうち12シリングは、ただ再現するだけの生産手段の価値に相当します。だから、8シリングが、1労働日を表わす価値の貨幣表現として残ります。この貨幣表現は、同じ種類の社会的平均労働の貨幣表現よりも高く、この平均労働はその12時間分が6シリングにしか表わされません。このように例外的に生産力の高い労働は、何乗かされた労働として作用します。つまり、同じ時間で同種の社会的平均労働よりも高い価値をつくりだすのです。しかし、私たちの資本家は労働力の日価値としては相変わらず5シリングしか支払いません。だから、労働者はこの価値の再生産には今では以前のように10時間ではなくて7[1/2]時間しか必要としないことになります。というわけで、彼の剰余労働は2[1/2]時間増加して、彼の生産する剰余価値は1シリングから3シリングに増加することになるのです。

    初版〈同じ結果は、次のようにしても得られる。12時間の労働日の生産物価値は20シリングである。このうち12シリングは、再現するにするにすぎない生産手段の価値に属している。だから、8シリングが、1労働日を表わす価値の貨幣表現として残る。この貨幣表現は、同じ種類の社会的な平均労働--この平均労働の12時間は、6シリングのうちにしか表わされていな/い--の貨幣表現よりも高い。例外的な生産力をもっている労働は、なん乗かされた労働として作用する、すなわち、同じ時間内に、同種の社会的な平均労働よりも高い価値をつくり出す。ところが、わが資本家は、労働力の日価値にたいし、相変わらず5シリングしか支払わない。したがって、労働者がこの価値を再生産するために必要とする時間は、いまや、以前のように10時間ではなく8時間以下である。だから、彼の剰余労働は、2時間から4時間以上に増加し、彼が生産する剰余価値は、1シリングから3シリング6ペンス〔フランス語版では「3シリング」〕に増加する。〉(江夏訳360-361頁)

    フランス語版〈次のような方法でも、同じ結果に到達する。12時間労働日の生産物価値は、われわれの資本家にとって20シリングであって、そのうち12シリングは、価値が再現するだけの生産手段に属している。したがって、12時間の労働総量は平均して6シリングにしか表現されないのに、12時間で生産される新しい価値の貨幣表現として8シリングが残る。例外的な生産性をもつ労働は、複雑労働として計算される、すなわち、与えられた時間内に、同種の社会的平均労/働よりも大きな価値を創造する。ところが、われわれの資本家は労働力の日価値にたいして引き続き5シリングを支払うが、この労働力の再生産がいまでは労働者にとって10時間ではなく7時間半を費やさせる結果、剰余労働は2時間半増加し、剰余価値は1シリングから3シリングに増加する。〉(江夏・上杉訳329-330頁)

    同じ結果は、次のようにしても可能です。12時間の1労働日の生産物の価値は生産力が2倍になった資本家の場合は20シリングです。そのうち12シリングは、ただ再現するだけの生産手段の価値に相当します。だから、残りの8シリングが、1労働日を表す価値の貨幣表現として残ります。この残りの1労働日を表す貨幣表現は、それまでの生産様式で生産する資本家たちの場合、1労働日の生産物は12シリングで、そのうち生産手段は6シリング、残り6シリングが1労働日を表す貨幣表現になります。だから生産力を高めた資本家の方が、同じ1労働日の貨幣表現としては、6シリングでなく8シリングになっているわけですから、高くなっています。
    つまり例外的に高い生産力をもつ資本の場合、同じ1労働日の貨幣表現が高く表されるということです。これは生産力の高い労働が、何乗かされた(強められた)労働として作用するからです。つまり同じ時間で同種の社会的平均的な労働よりも高い価値をつくりだすのです。
    しかし生産力を高めた資本家は、労働力の価値(可変資本)としては、同じ5シリングしか支払いません。だから彼は残りの3シリングを剰余価値として得ることができるわけです。
    旧来の生産様式において1労働日を表す貨幣表現は6シリング(12時間)でした。そのうち労働力の価値は5シリング(10時間)、剰余価値は1シリング(2時間)です。
    高められた労働のもとにおける1労働日を表す貨幣表現は8シリング(12時間)です。そのうち労働力の価値は5シリング(7[1/2]時間=12/8×5)です。つまり必要労働時間はそれまでの10時間から7[1/2]時間に縮小しています。そして残りの剰余価値は3シリング(4[1/2]時間=12/8×3)です。つまり彼の剰余労働時間は2時間から2[1/2]時間増えて4[1/2]時間に増えたということです。だから〈この場合にも剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働の延長とから生ずる〉と言えるわけです。

    ところで新日本新書版では〈例外的に生産力の高い労働は、何乗かされた労働として作用する。すなわち、同じ時間で同種の社会的平均労働よりも高い価値をつくりだす。〉という部分に訳者注1を次のように付けています。

    〈本訳者書75-76ページ参照〉(557頁)

    これは調べますと、単純労働と複雑労働について述べているところに該当します。確かにフランス語版では〈例外的な生産性をもつ労働は、複雑労働として計算される〉と述べています。

    また同じ新日本新書版では、〈ところが、われわれの資本家は労働力の日価値としては相変わらず5シリングしか支払わない。したがって、労働者はこの価値の再生産には今では以前のように10時間ではなく7[1/2]時間しか必要としない。〉という部分の〈7[1/2]時間〉のところに訳者注2を付けて次のように述べています。

    〈多くの版で「7[1/5]あるいは「8時間より少ない時間」となっているがフランス語版により訂正された〉(557頁)

    同じく続く〈したがって、彼の剰余労働は2[1/2]時間増加し、彼の生産する剰余価値は1シリングから3シリングに増加する。〉の〈2[1/2]時間〉のところにも訳者注3を付け、次のように述べています。

  〈多くの版で「2[4/5]時間」あるは「2時間から4時間以上」となっているがフランス語版により訂正された〉(557頁)

    これらは紹介しています、初版とフランス語版とを比べればわかります。

  (ソ)(ツ) こうして、改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて1労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにします。彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行なうことを、個別的に行なうのです。

    初版〈こんなわけで、改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて1労働日中のいっそう大きな一部分を、剰余労働として奪い取る。彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行なうことを、個別的に行なうわけである。〉(江夏訳361頁)

    フランス語版〈改良された生産様式を用いる資本家は、したがって、彼の競争者よりも大きな労働日部分を剰余労働の形態のもとで、労働者から奪い取る。彼は、資本が相対的剰余価値の生産で大規模にかつ普遍的に行なうことを、自分個人のために行なうのである。〉(江夏・上杉訳330頁)

    このように改良された生産様式をもちいる資本家は、他の同業の資本家に比べて、1労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにします。なぜなら、古い生産様式のもとで生産している資本家の場合、1労働日(12時間)中の剰余労働は2時間でしたが、改良された生産様式をもちいる資本家の場合は、剰余労働は4[1/2]時間だからです。
    この限りでは、彼の増大した剰余価値は、必要労働時間の縮小からもたらされたのですから、相対的剰余価値と同じといえます。つまり彼は資本が相対的剰余価値の生産において全体として行うことを、個別的に行っているわけです。
    相対的剰余価値は、確かに労働者の必要生活手段の生産部門における労働の生産力の高まりによって、労働力の価値が低下し、それに対応して剰余価値が増大することによるものです。しかし労働力の価値の低下そのものは、決して必要生活手段の生産部門に限るものではなくて、すべての生産部門に影響を与えるものです。だから相対的剰余価値そのものはすべての生産部門をとらえる資本資本主義的生産の内在的な傾向といえるわけです。
    それと同様に、特別剰余価値も個別資本が如何なる産業部門かを問わず、その資本が他の同部門の資本に先駆けて労働の生産力を高めることに成功することから生じてくるものです。その意味でも、特別剰余価値は、すべての産業部門で生じる相対的剰余価値が、特定の個別の資本の具体的な目的意識として現象したものといえるのではないでしょうか。

  (ネ) しかし、他方で、新たな生産様式が一般化され、したがってまた、より安く生産される商品の個別的価値とその商品の社会的価値との差がなくなってしまえば、あの特別剰余価値もなくなります。

    初版〈ところが、他方、新たな生産様式が普及され、したがって、もっと安く生産される商品の個別的価値とその商品の社会的価値との差が消滅してしまうと、上記の特別剰余価値も消滅する。〉(同上)

    フランス語版〈だが、他方、新しい生産様式が一般化し、それと同時に、いっそう安価に生産される商品の個別的価値と社会的価値との差が消え失せるやいなや、この特別剰余価値は消滅する。〉(同上)

    しかしこの特別剰余価値が、相対的剰余価値と異なる点は、新たな生産様式が一般化され、よってまた、より安く生産される商品の個別的価値と同じ商品種類の社会的価値との差がなくなってしまえば、こうした特別剰余価値もまたなくなるということです。そかぎりでは特別剰余価値は一時的・過渡的なものでしかないわけです。しかし相対的剰余価値の場合はこうしたことはありません。

  (ナ) 労働時間による価値規定の法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるをえないという形で感知されるようになるのですが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのです。

    初版〈労働時間が価値を規定するという法則--すなわち、新方法を用いる資本家には、自分の商品をそれの社会的価値以下で売らざるをえないという形で、感知されるようになるところの、法則--、ほかならぬこの法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新生産様式の採用に駆りたてることになる(4)。〉(同上)

    フランス語版〈労働時間による価値規定は、改良された工程を用いる資本家に法則として押しつけられる。というのは、この価値規定が資本家に、自分の商品をその社会的価値以下で売ることを強いるからである。この価値規定は、彼の競争者たちに新しい生産様式を採用することを強いるものであるから、彼らには強制的な競争法則として押しつけられる(5)。〉(同上)

    生産力を高めた資本家はその商品を1シリングの社会的価値ではなくて、それ以下の10ペンスで販売したのは、彼の商品が12個ではなくて、生産力が高まった結果、24個になったからです。つまりその増大した生産物量に見合った拡大した市場を見いだすためには、他の事情に変化がないとすれば、増えた商品を市場に押し込むためには、その価格を引き下げるしかないからです。というのは彼の増大した商品が同じ商品種類のなかに入るということは、それだけその商品種類の社会的価値を引き下げることに作用するからです。だから彼が自身の商品をその社会的価値以下に引き下げざるを得ないと感じたのは、まさにこの商品種類の社会的価値そのものが引き下げられざるをえない必然性がかれ自身の知覚として捉えられたからでもあります。つまり対象化された労働時間によって価値が規定されるという法則は、この場合、1商品あたり、少ない労働時間で生産される特別な商品が市場に登場することによって、全体としての社会的価値を規定する労働時間そのものが短縮されることになるからです。
    そして同じことは、旧来の生産方法で生産している資本家たちにとっては、社会的価値そのものが低下してくることによって、彼らの剰余価値の一部が実現されないという事態が生じてきます。だから彼らも自分の商品を価値どおりに販売するためには、その商品の価値を社会的価値と同様に引き下げる必要がでてくるわけです。そしてそのためには、旧来の生産方法を改善して、新しい生産様式を採用するしかありません。これは労働時間による価値規定の法則が、他の資本家たちに強制的な競争の法則として生産様式の革命を促し、押しつけることでもあるのです。

  (ラ) こうして、この全過程を経て最後に一般的剰余価値率が影響を受けるのは、生産力の上昇が必要生活手段の生産部門をとらえたとき、つまり、必要生活手段の範囲に属していて労働力の価値の要素をなしている諸商品を安くしたときに、はじめて起きることなのです。

    初版〈だから、一般的剰余価値率が全過程を通じて窮極的に影響を受けるのは、労働の生産力の上昇が〔必要生活手段の〕、生産諸部門をとらえたばあいに、したがって、必要生活手段の範囲に属しているので労働力の価値の要素を形成している諸商品を、安くしたばあいに、かぎられているのである。〉(同上)

    フランス語版〈こうして、一般的剰余価値率が究極において影響を受けるのは、生活手段の範囲のうちに含まれていて労働力価値の諸要素を形成している諸商品の価格が、労働生産性の増大によって下がるばあいに、かぎられる。〉(同上)

    このように特別剰余価値をめぐる諸資本の競争は、産業部門の如何を問わずにすべての部門おいて生じ、すべての資本の生産力を高めるように作用します。そしてそれが生活手段の生産部門に関連する諸部門に及び、またその関連の度合いに応じて、生活手段の価値を引き下げて、すべての資本の相対的剰余価値の生産を拡大するわけです。そしてそれが一般的剰余価値率を窮極において引き上げることに繋がります。


◎原注3a

【原注3a】〈3a 「ある人の利潤は、彼が他人の労働の生産物を支配することにではなく、労働そのものを支配することにかかっている。彼の労働者の賃金が変わらないのに、彼の商品をより高い価格で売ることができるならば、彼は明らかに利益を得ている。……彼の生産するもののより小さい部分でも、かの労働を動かすのに足り、したがって、より大きい部分が彼自身のために残るのである。」(〔J・ケーズノヴ)『経済学概論』、ロンドン、1832年、49、50ぺージ。)〉(全集第23a巻419頁)

    これは〈とはいえ、この場合にも剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働の延長とから生ずるのである(3a)〉という本文に付けられた原注です。ケーズノヴからの引用だけですが、『61-63草稿』ではこのケーズノヴの名前は明示的に紹介していませんが、引用の前にマルクスのまずコメントが加えられていますので、紹介しておきます。

    〈{機械が工場主に、商品をその個別的価値以上に売ることを可能にしているあいだは、次に引用することがあてはまるのであって、それは、この場合でさえも剰余価値は必要労働時間の短縮から生じるのであり、それ自身、相対的剰余価値の一形態である、ということを示すものである。--「ある人の利潤は、彼が他人の労働の生産物を支配することにではなく、労働そのものを支配することにかかっている。彼の労働者の賃銀が変わらないのに、彼が自分の/財貨を(この商品の貨幣価格が上がったので)より高い価格で売ることができるならば、他の財貨〔の価格〕が上がろうと上がるまいと、彼は明らかに、〔彼の財貨の価格の〕上昇によって利益を得ている。彼の生産するもののうちのより小さい部分でも、かの労働を動かすのに足り、したがって、より大きい部分が彼自身のために残るのである」(『経済学概論』(著者はあるマルサス主義者である)、ロンドン、1832年、49、50ページ〉。}〉(草稿集④539-540頁)


◎原注4

【原注4】〈4 「もし私の隣人がわずかな労働で多くをなすことによって安く売ることができるならば、私も彼と同じように安く売るくふうをしなければならない。そうすれば、より少ない人手の労働で仕事をするような、したがってより安く仕事をするような、/どんな技術や職や機械も、他の人々のうちに、同じ技術や職や機械を用いるとか、または類似のものを案出するとかいう一種の強制と競争をひき起こし、こうして各人は同等の立場に立ち、したがってだれも自分の隣人より安く売ることができなくなるであろう。」(『イギリスにとっての東インド貿易の利益』、ロンドン、1720年、67ページ。)〉(全集第23a巻419-420頁)

    これは〈労働時間による価値規定の法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるをえないという形で感知されるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのである(4)〉という本文に付けられた原注です。
    これは匿名の著書のようですが、草稿集⑨の文献索引では〈[マーティン,へンリ]『イギリスにとっての東インド貿易の利益』〉(54頁)と書かれており、恐らくこれが著者なのでしょう。マルクスは『61-63草稿』ではそれほど詳しい引用はしていませんが、次のような形で触れています。

    〈分業についてのベティの見解を古代人のそれから区別するものは、最初から、分業が生産物の交換価値に、つまり商品としての生産物に及ぼす影響を、すなわち商品の低廉化を見ていることである。
  同じ観点を、もっと明確に、一商品の生産に必要な労働時間の短縮と表現し、一貫して主張しているのは、『イギリスにとっての東インド貿易の利益』、ロンドン、1720年、である。
    決定的なことは、どんな商品でも「最少のそして最もやさしい労働」でつくることである。あることが「より少ない労働で」遂行されるならば、「その結果、より低い価格の労働で」遂行されることになる。こうして商品は安価にされ、その次には、労働時間をその商品の生産に必要な最小限にきりつめることが、競争によって一般的法則となる。/「もし私の隣人がわずかな労働で多くをなすことによって安く売ることができるならば、私もなんとかして彼と同じように安く売るようにしなければならない。」[67ページ]分業について、彼はとくに次のことを強調している。--「どのマユュファクチュアでも、職工の種類が多ければ多いほど、一人の人の熟練〔skill〕に残されるものはそれだけ少ないよ[68ページ]〉(草稿集④460-461頁)


◎第11パラグラフ(商品を安くするために、そしてそれによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向である)

【11】〈(イ)商品の価値は労働の生産力に反比例する。(ロ)労働力の価値も、諸商品の価値によって規定されているので、同様である。(ハ)これに反して、相対的剰余価値は労働の生産力に正比例する。(ニ)それは、生産力が上がれば上がり、下がれば下がる。(ホ)12時間の社会的平均労働日の1日は、貨幣価値を不変と前提すれば、つねに6シリングという同じ価値生産物を生産するのであって、この価値総額が労働力の価値の等価と剰余価値とにどのように分割されるかにはかかわりなくそうである。(ヘ)しかし、生産力が上がったために1日の生活手段の価値、したがってまた労働力の日価値が5シリングから3シリングに下がれば、剰余価値は1シリングから3シリングに上がる。(ト)労働力の価値を再生産するためには、10労働時間が必要だったが、今では6労働時間しか必要でない。(チ)4労働時間が解放されていて、それは剰余労働の領分に併合されることができる。(リ)それゆえ、商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである(5)。〉(全集第23a巻420頁)

  (イ)(ロ) 商品の価値は労働の生産力に反比例します。労働力の価値も、諸商品の価値によって規定されていますので、同じです。

  労働の生産力は具体的な有用労働に関係するだけですから、労働の生産力はそれ自体としては商品の価値を高めたり低めたりするものではありません。しかし労働の生産力が高くなると同じ時間に生産される使用価値量が増大するために、一単位あたりの使用価値に対象化されている労働時間が減少するために、一商品の価値は低下するのです。だから労働の生産力の増大は、一商品の価値の低下を招き、その増大が大きければ大きいほど、一商品の価値の低下もそれだけ大きくなることになります。だから商品の価値は労働の生産力に反比例するといえるわけです。
  『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈労働の生産性は--商品の分析のさいに見たように--、労働が表わされる生産物ないし商品の価値を高めるものではない。諸商品に含まれている労働時間が、所与の諸条件のもとで必要な労働時間、つまり社会的必要労働時間であると前提すれば--そしてこれは、商品の価値がそれに含まれている労働時間に還元されたのちにはつねに出発点とされる前提である--反対に次のことが起こる。すなわち、労働の生産物の価値は労働の生産性に反比例する、ということである。実際には、これは〔前提と〕同義の命題である。この命題が意味するのは、労働がより生産的になれば、それは同じ時間に同じ使用価値のより大きな量をつくりだすこと、同種の使用価値のより大きな量に体化されることができる、ということだけである。この使用価値の一可除部分、たとえば1エレのリンネルはその後はそれ以前よりも少ない労働時間を含む、したがって交換価値はより小さい。もっと厳密に言えば、1エレのリンネルの交換価値は、織布労働の生産性が増大したのと同じ割合で低下したのである。反対に、もしも1エレのリンネルを生産するのにこれまでよりも多くの労働時間が必要とされるならば(たとえば、1重量ポンドの亜麻を生産するのにより多くの労働時間が必要とされることから)、1エレのリンネルはいまではより多くの労働時間を、したがってより高い交換価値を含むことになる。それの交換価値は、それの生産に必要な労働が以前よりも不生産的になったのと同じ割合で増加することになる。つまり総労働日--平均的標準労働日--をとれば、それの生産物の総額の価値は、労働が以前/よりも生産的になろうと不生産的になろうと、それにはかかわりなく、変化しない。というのは、生産された使用価値の総額は、いままでと同様に1労働日を含んでおりな相変わらず同じ分量の、必要な社会的労働時間を表わしているからである。これにたいして、日々の総生産物の一可除部分あるいは一部分生産物をとれば、それの価値は、それのなかに含まれている労働の生産性に反比例して増減する。〉(草稿集④389-390頁)

    そのことから労働力の価値も、生活手段の諸商品の価値によって規定されているのですから、当然、労働の生産力が高くなると低くなるといえます。

  (ハ)(ニ) これに反して、相対的剰余価値は労働の生産力に正比例します。それは、生産力が上がれば上がり、下がれば下がります。

    しかしこれとは違って、相対的剰余価値は労働の生産力に正比例します。なぜなら、すでに指摘しましたように、労働の生産力が上がればそれに反比例して労働力の価値が低下するからです。そして必要労働時間が縮小した分、剰余労働時間が拡大するからです。すなわち相対的剰余価値は、生産力が上がれば上がり、下がれば下がるといえるわけです。
    同じく『61-63草稿』から紹介しておきます。

    〈したがって、個々の商品の価値は、労働の生産性に反比例するのに、所与の労働時間が体化される生産物総額の価値は、労働の生産性がどのように変化してもそれによっては影響を受けず、変化しないのであるが、それにたいして剰余価値は労働の生産性に左右されるのであって、一方で商品がその価値で売られ、他方で標準労働日の長さが与えられている場合には、剰余価値は労働の生産性の向上の結果としてのみ増大しうるのである。剰余価値は商品にかかわるものではなくて、それが表現するのは総労働日の二つの部分のあいだの--すなわち労働者が彼の賃銀(彼の労働能力の価値)を補填するために労働する部分と彼がこの補填を越えて資本家のために働く部分とのあいだの--関係なのである。この両部分がいっしょになって一労働日の全体をなすのであるから、またそれらは同じ一全体の部分なのであるから、明らかに、この両部分の大きさは反対の関係にあるのであって、剰余価値、すなわち剰余労働時間は、必要労働時間が減少するか増加するかに従って、増加し、あるいは減少する。そして、必要労働時間の増減は、労働の生産性にたいして反対の関係にあるのである。〉(草稿集④391頁)

  (ホ) 12時間の社会的平均労働日の1日は、貨幣価値を不変と前提しますと、つねに6シリングという同じ価値生産物を生産します。この価値総額が労働力の価値の等価と剰余価値とにどのように分割されるかにはかかわりなくそうです。

    12時間の社会的平均労働日の1日は、貨幣価値が不変と前提しますと、つねに6シリングという同じ価値生産物を生産します(1労働時間は6ペンスの金量に表されます。たがら12×1/2=6)。この12時間が、必要労働時間と剰余労働時間に分割されるわけですが、しかし生産される価値総額には何の変化もありません。

  (ヘ)(ト)(チ) しかし、生産力が上がったために1日の生活手段の価値、だからまた労働力の日価値が5シリングから3シリングに下りますと、剰余価値は1シリングから3シリングに上がります。労働力の価値を再生産するためには、これまで10労働時間が必要でしたが、今では6労働時間しか必要としません。つまり4労働時間が解放されて、それは剰余労働の領分に併合されることができます。

    1労働日(12時間)が生産する価値総額は変わりませんが、それが必要労働と剰余労働に分けられる比率は変わり得ます。例えば労働力の日価値が5シリングから3シリングに下がれば、それに対応して剰余価値は1シリングから3シリングに上がるわけです。つまり労働力の価値を再生産するためには、従来は10労働時間が必要でしたが、生産力が上がったためにいまでは6労働時間しか必要としません。その結果、4時間の必要労働時間が解放されて、剰余労働時間に併合されることが可能になるわけです。

  (リ) だから、商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのです。

    こういうわけで、商品を安くするために、そして商品の安くして労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのです。
    ここでマルクスは〈内的な衝動であり、不断の傾向〉と述べています。つまりこれらのことは資本主義的生産の表面に直接現れているようなものではないということです。
    資本の直接的な目的や動機を規定しているものは特別剰余価値であり、他の資本家よりも先駆けて生産様式を変革して、労働の生産力を上げ、商品の個別的価値を引き下げ、低価格で市場を自分の商品で占領し、特別剰余価値を獲得したい、他の資本家を出し抜きたいということなのです。


◎原注5

【原注5】〈5 「労働者の出費がどんな割合で減らされようとも、もしそれと同時に産業の取締りが廃止されるならば、同じ割合で彼の賃金も減らされるであろう。」(『穀物輸出奨励金の廃止に関する考察』、ロンドン、1753年、7ぺージ。)「産業の利益は、穀物やその他すべての食料ができるだけ安いことを要求する。なぜならば、それらを高くするものがなんであろうと、それは労働をも高くするにちがいないからである。……産業が拘束されていない国ではどの国でも食料の価格は労働の価格に影響するにちがいない。生活必需品が安くなれば、いつでも労働の価格は引き下げられるであろう。」(同前、3ページ。)「賃金は、生産力が増すのと同じ割合で減らされる。機械はたしかに生活必需品を安くはするが、しかしまたそれは労働者をも安くす/る。」(『競争と協同との功罪の比較に関する懸賞論文』、ロンドン、1834年、27べージ。)〉(全集第23a巻420-421頁)

    これは〈それゆえ、商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである(5)〉という本文に付けられた原注です。二つの著書から三つの引用がなされています。いずれも商品を安くすることは労賃を減らしたり、労働の価格を引き下げたり、労働者をも安くするということが述べられています。

    まず〈『穀物輸出奨励金の廃止に関する考察』〉についてですが、マルクスは『61-63草稿』でこの著書を取り上げて次のように述べています。

   〈{『穀物輸出奨励金の廃止に関する考察。一友人あての数通の手紙。「穀物価格土地の価値を判断するためのなんらの標準でもないこと、土地の価値は土地のいろいろな生産物低廉になるのに比例して騰貴するであろうこと」、を示す追伸を付す』、ロンドン、1753年。これらの手紙は、はじめ『〔ジェネラル・〕イーヴニング・ポスト』紙に掲載されたものである。〉(草稿集⑨706頁)
 
    これを見ると実際の著名は大変長いもののようです。また新聞か雑誌に掲載されたのをまとめたもののようです。この著者についてもマルクスは次のように述べています。

  〈この男は、絶対的自由貿易論者であり、また、サー・M・デッカーとはちがって、航海条例の撤廃にも賛成している。……しかし彼はまた、資本主義的生産のすべての諸制限の枠内に屈服しようとしている。〉(同上)

    今回の原注に引用されているものが含まれている抜粋部分も重引しておきましょう。

  〈「貿易の利益のためには、穀物やその他の食糧品がすべてできるだけ安価であることが求められる。というのは、それらを高くするものがなんであろうと、それはまた労働をも高くするにちがいないからであり、したがってまた製造品の売上げを減らすにちがいないからである。」(3ぺー/ジ。)(同706-707頁)
  〈「そして、もし生活必需品がより安い値段で手にはいるようになれば、事態はいっそう悪くなるだろう。……このことは、イギリスのすべての労働者についてあてはまる。というのも、イギリスでは、ほとんどすべての種類の製造業に独占権が与えられており、また、産業家は、彼らのためによく働いてくれそうな人手を雇うことは許されておらずもっぱら法律によって資格を与えられた者だけに制限されているからである。……産業が規制されていない国々ではどこでも、食糧品の価格は労働の価格に影響を及ぼすにちがいない。生活必需品の価格が安くなれば、労働の価格はつねに低落するであろう。」(三ページ。)〉(同708頁)

    次は〈『競争と協同との功罪の比較に関する懸賞論文』〉についてです。これについてはマルクスは『61-63草稿』で同じ部分を引用している箇所がありますので、紹介しておきます。

  機械装置および平均賃金
    「賃金は、生産諸力が増大するのと同じ割合で、減少させられる。機械装置はたしかに生活必需品安価にするが、しかし、それはまた労働者をも安価にする。」(『競争と協同との功罪に関する懸賞論文』、ロンドン、1834年、27ページ。)〉(草稿集⑨476頁)

    マルクスはこれ以外にもこの論文から幾つか抜粋していますが、省略します。興味のある方は付属資料を参照してください。

   ((6)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(6)

2024-04-19 00:51:54 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(6)



【12】〈(イ)商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもよいのである。(ロ)彼が関心をもつのは、ただ商品に含まれていて販売で実現される剰余価値だけである。(ハ)剰余価値の実現は、おのずから、前貸しされた価値の補填を含んでいる。(ニ)ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例して低下するのだから、つまりこの同じ過程が商品を安くすると同時に商品に含まれる剰余価値を増大させるのだから、このことによって、ただ交換価値の生産だけに関心をもっている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかという謎(ナゾ)が解けるのである。(ホ)この矛盾によって、経済学の創始者の一人であるケネーは彼の論敵たちを悩ましたのであり、それにたいしてこの論敵たちは彼への答えを借りっぱなしにしていたのである。(ヘ)ケネーは次のように言っている。
(ト)「諸君も認めるように、生産を害することなしに、工業生産物の製造における費用を、または費用のかかる労働を、節約することができればできるほど、この節約はますます有利である。というのは、それは製品の価格を下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、工業者の労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値の増大にある、と信じているのだ(6)。」〉(全集第23a巻421頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもよいのです。彼が関心をもつのは、ただ商品に含まれていて販売で実現される剰余価値だけだからです。剰余価値の実現は、おのずから、前貸しされた価値の補填を含んでいます。

  資本家の関心は彼の商品の売り上げ総額ではなくて、そこから経費を差し引いた、純利益でありますように、商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、ある意味ではどうでもよいのです。彼が関心をもつのは、ただその商品に含まれていて販売によって実現される剰余価値だけなのですから。剰余価値が実現できるということは、前貸しされた価値(不変資本と可変資本)の補填を当然含んでいます。なぜなら、実現した価値総額から前貸し資本の価値を差し引いたものこそが、すなわち剰余価値だからです。

  (ニ) ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例して低下するのですから、つまり同じ過程が一方では商品を安くすると同時に他方では商品に含まれる剰余価値を増大させるのですから、このことによって、ただ交換価値の生産だけに関心をもっている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかという謎(ナゾ)が解けます。

  すでに指摘しましたように、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大します。それに反して、一商品の価値は労働の生産力の発展に反比例して小さくなります。つまり同じ過程が一方では商品を安くし、同時に他方では、商品に含まれている剰余価値を増大させるのです。つまり一商品の全体の価値そのものは小さくなるのに、そのなかに含まれている剰余価値は大きくなるということです。これは一見すると一つの矛盾です。価値が小さくなるのに大きくなるのですから。
  しかしこの矛盾から、ただ交換価値の生産だけに関心をもっている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかという謎が解けます。彼は商品の価値を引き下げることによって、相対的剰余価値を増大させようとしているわけです。
  『61-63草稿』から引用しておきます。

   〈このところで、次の二つのことが注意されなければならない。--
    第一に。交換価値を目的とし交換価値によって支配される生産が個々の生産物の価値の最小限を追い求めるということは、一つの矛盾のように見える。しかし、生産物の価値それ自体は、資本主義的生産にとってはどうでもよいことである。それの目的は、できるかぎり大きな剰余価値の生産である。だからまたそれは、個々の生産物の、個々の商品の価値によって規定されているのではなく、剰余価値の率によって、つまり商品のうち可変資本を表わす部分の、その変化量にたいする、すなわち可変資本の価値を超えて生産物に含まれている剰余労働にたいする比率によって規定されている。それの目的は、個々の生産物が、だか/らまた生産物総量ができるだけ多くの労働を含むということではなくて、できるだけ多くの不払労働を含むということなのである。〉(草稿集⑨391-392頁)

  (ホ)(ヘ)(ト) この矛盾によって、経済学の創始者の一人であるケネーは彼の論敵たちを悩ましたのです。それにたいしてこの論敵たちは彼への答えを借りっぱなしにしているのです。ケネーは次のように言っています。「諸君も認めるように、生産を害することなしに、工業生産物の製造における費用を、または費用のかかる労働を、節約することができればできるほど、この節約はますます有利である。というのは、それは製品の価格を下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、工業者の労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値の増大にある、と信じているのだ。」

    しかしこれは一つの矛盾です。商品の価値にだけ関心がある資本家が、なぜ商品の価値を引き下げようとするのか。自分の獲得する価値の増大を求める資本家が、どうして商品の価値を引き下げようと努力するのか。この謎を論敵たちにぶつけたのが、かの経済学の創始者であるケネーでした。それに対して論敵達はそれに答えることがいまだにできていないのです。ケネーは次のように述べています。
    「諸君も認めるように、生産を害することなしに、工業生産物の製造における費用を、または費用のかかる労働を、節約することができればできるほど、この節約はますます有利である。というのは、それは製品の価格を下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、工業者の労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値の増大にある、と信じているのだ。」と。


◎原注6

【原注6】〈6 “Ils conviennent que plus on peut,sans préjudice,épargner de frais ou de travaux dispendieux dans la fabrication des ouvragee des artisans,plus cette épargne est profitable par la diminution des prix de ces ourages,Cependant ils croient que la production de richesse qui résulte des travaux des artisans cosiste dans I'augmentation de la valeur vénale de leurs ouvrages"(ケネー『商業および手工業者の労働に関する対話』、188、189ページ。)〉(全集第23a巻421頁)

    これは本文のケネーの一文の最後に付けられた原注です。これはその典拠を示すとともに、その全文を原文で紹介しています。初版も同じですが、フランス語版は次のように簡単なものになっています。

  〈(7) ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』、188、189ページ(デール版)。〉(江夏・上杉訳332頁)

  また新日本新書版でも次のようになっています。

  〈ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』(所収『重農主義学派』デール編、第1部、パリ、1846年)、188、189ページ〔堀新一訳『商業と農業』、有斐閣、226ページ〕。〉(559頁)

  草稿集⑨ではケネーのこの著作に言及しているところはありますが、同じ部分を引用しているところはありませんでした。ここでは『資本論辞典』から概要を紹介しておきます。

    ケネーFrancois Quesnay (1694-1774)フランスの外科医・経済学者・重農学派(Physiocratie)の祖.……/哲学上の立場は,当時の啓蒙哲学の傾向をうつしてイギリスのロックならびに.彼を大陸に移植して感覚論を体系化したフランスのコンディヤックの影響がつく,感覚論的・唯物論的特徴をうち出すが,それと同時にフランス伝来のデカルト哲学, とくにマルブランシュの哲学の影響が決定的であり,この二つの相反する傾向が対立し,矛盾をはらみながら結びつく.ケネーのこのような哲学上の立場は,その経済思想の性格と照らしあわせてわれわれの興味をよぶ./
    彼は《百科全書》に<借地農論>および<穀物論>をよせたが,これらの論稿はフランスに移植された<政治算術>の方法に立脚する農業経済の実証的研究である.かかる実証的研究は.もともと生理学者らしい信条にもとづいて,社会という体躯を支配する自然的秩序を解明し.とくに経済生活の自然的組織を貫ぬく物理的法則をあきらかにするために行なわれたものであるが,しかもこのような意図のうちに,現状の批判,なかんずくフランス重商主義批判の動機がふくまれているのである.批判の対象となった社会はいうまでもなく,アンシャン・レジーム下の経済的に荒廃し.財政的に破綻に瀕した農業国フランスであり,解決の狙いは農業経営の資本主義化である.……/
    ケネーがその論稿<経済表の分析>(1767) に掲げた<定式> は,各階級間の個別的流通行為を階級間の大量運動として総括的に示すものであり,社会的総資本の再生産過程を端的にあらわそうとしたものである./
    マルクスは《経済表》をもって. したがってまた重農主義の理論的立場をもって,商品資本循環の方式(W'-G'-W…P…W')を基礎とするものと解する. W'...W'〔商品資本循環の形式〕はケネーの《経済表》の基礎をなすものであり.彼が(重商主義によって固執された形式)G…G'(商業資本の循環形態〕に対立するものとしてむしろこの形式を採り.〔生産工程の目的はひっきょう生産そのものにあると考えさせやすい)P…P〔生産資本循環の方式〕を採らなかったことは,彼の手際の偉大にしてかつ正しかったことを示すのである.マルクスのこうした把握は,重商主義にたいする重農主義の対決の基礎をあきらかにしようとする動機と深く結びついている.……(以下、略)〉(487-488頁)


◎第13パラグラフ(労働の生産力の発展による労働の節約は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的としてはいない)

【13】〈(イ)こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約(7)は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的と/してはいないのである。(ロ)それは、ただ、ある一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮を目的としているだけである。(ハ)労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間にたとえば以前の10倍の商品を生産するようになり、したがって各1個の商品には10分の1の労働時間しか必要としないということは、けっして、相変わらず彼を12時間働かせてこの12時間に以前のように120個ではなく1200個生産させることを妨げないのである。(ニ)それどころか、それと同時に彼の労働日が延長されて今度は14時間で1400個を生産するようなことになるかもしれない。(ホ)それだから、マカロックとかユアとかシーニアとかいうたぐいのもろもろの経済学者たちの著書を見ると、あるページには、生産力の発展は必要な労働時間を短縮するのだから労働者はそれを資本家に感謝するべきだ、と書いてあり、次のページには、労働者は10時間ではなく今後は15時間働いてこの感謝を表わさなければならない、と書いてあるのである。(ヘ)労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのである。(ト)このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるであろう。(チ)次にこの方法の考察に移ろう。〉(全集第23a巻421-422頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的とはしていません。それは、ただ、ある一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮を目的としているだけです。労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間にたとえば以前の10倍の商品を生産するようになり、したがって各1個の商品には10分の1の労働時間しか必要としないということは、けっして、相変わらず彼を12時間働かせてこの12時間に以前のように120個ではなく1200個生産させることを妨げないのです。それどころか、それと同時に彼の労働日が延長されて今度は14時間で1400個を生産するようなことになるかもしれません。

 こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約は、個別資本には特別剰余価値を、資本全体では相対的剰余価値の増大を目的としているわけですから、資本主義的生産においてはけっして労働時間の短縮を目的とはしていないわけです。
    それはただある一定の商品量に必要な労働時間の短縮を目的としているだけですから、労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間に以前の10倍の商品を生産することができるようになった、ということは各1個の商品の生産に以前の10分1の労働時間しか必要でなくなったからといって、彼を相変わらず12時間働かせて、12時間にうちに120個ではなくて、1200個を生産させることを妨げないのです。それどころか、資本は彼の労働日をさらに延長させて、12時間ではなくて14時間(フランス語版では18時間)働かせて、14時間で1400個(同1800個)の商品を生産させるようなこともありうるわけです。

  (ホ) それだから、マカロックとかユアとかシーニアとかいうたぐいのもろもろの経済学者たちの著書を見ると、あるページには、生産力の発展は必要な労働時間を短縮するのだから労働者はそれを資本家に感謝するべきだ、と書いてあり、次のページには、労働者は10時間ではなく今後は15時間働いてこの感謝を表わさなければならない、と書いてあるのです。

    それだから、マカロックとかユアとかシーニアという資本におべっかを使う経済学者たちは、あるページでは、生産力の発展は必要な労働時間を短縮するのだから、労働者はそれに感謝すべきだなどと書いていながら、次のページでは、労働者は10時間ではなくて、15時間働いてこの感謝の気持ちを表さなければならないなどと平然と書いているわけです。
    マルクスはマカロックについて口を極めて非難しています。以前にも紹介しましたが、次のように書いています。

   〈〔マカロックは、〕リカードの経済学を俗流化した男であり、同時にその解体の最も悲惨な象徴である。彼は、リカードだけでなくジェームズ・ミルをも俗流化した男である。
  そのほか、あらゆる点で俗流経済学者であり、現存するものの弁護論者であった。喜劇に終わっているが彼の唯一の心配は、利潤の低下傾向であった。労働者の状態には彼はまったく満足しているし、一般に、労働者階級に重くのしかかっているブルジョア的経済のすべての矛盾に満足しきっている。〉(全集第26巻Ⅲ219-220頁)
    マカロックは、徹頭徹尾リカードの経済学で商売をしようとした男であって、これがまた彼にはみごとに成功したのである。〉(同224頁)

    ユアについて、マルクスは〈工場制度の破廉恥な弁護者としてイギリスにおいですら悪名の高いあのユア〉(草稿集⑨208頁)という表現をとっています。しかしマルクスは同時に〈彼は、工場制度の神髄をはじめて正確に把握し、自動作業場とA・スミスによって重要問題として論じられた分業にもとづくマニュファクチュアとの差異対立を鮮明に描いたのである。(あとで引用しよう。)能力の等級制の廃棄、「分/業」の背後でゆるぎなく固められた専門的技能の破砕、それとともに受動的な従属--それと結びついた専門的規律、統制、時針そして工場法への服従--〔これらのすべてを〕彼は、これから若干の抜き書きでみるように、非常に正確に指摘している。〉(同208-209頁)とその業績を正確に評価しています。工場制度に関して、ユアとエンゲルスの『状態』とを比べて、次のように述べています。

  〈ユア博士とフリードリヒ・エンゲルスの両著作は、無条件に、工場制度にかんする最良のものである。両者は、エンゲルスがその自由な批判者として述べていることを、ユアがこの制度のしもべとして、この制度の内部にとらわれたしもべとして述べているという点を別にすれば、内容は同じものである。〉(同216頁)

    また以前「第7章 剰余価値率」の「注32a」で『資本論辞典』から紹介したことがありますので、それを再掲しておきます。 

    ユア Andrew Ure (1778-1857)イギリスの化学者・経済学者.……彼の経済学上の主著には『工場哲学』(1835)がある. そこでは,当時の初期工場制度における労働者の状態が鮮細に記述されているのみならず,機械や工場制度や産業管理者にたいする惜しみなき讃美と無制限労働日のための弁解とが繰返されている.……彼の視点はまったく工場主の立場のみに限られ,一方ではシーニアと同じく工場主の禁欲について讃辞を呈するとともに.他方では断乎として労働日の短縮に反対する.そして1833年の12時間法案を‘暗黒時代への後退'として.罵倒するのみならず,労働者階級が工場法の庇護に入ることをもって奴隷制に走るものとして非難する(KⅠ-284,314:青木3-469,509:岩波3-235,284)というごとく露骨をきわめている.〉(572頁)

    シーニアについては、「第7章 剰余価値率」の「第3節 シーニアの「最後の1時間」」で問題にしましたので、特に解説は必要ないでしょう。

  (ヘ)(ト)(チ) 労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのです。このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるのか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるでしょう。次にその方法の考察に移りましょう。

    資本主義的生産における労働の生産力の発展は、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、その分、労働者が資本家のためにただで働く部分をできるだけ延長することを目的にしているのです。
    こうしたことは、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるのかは、相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法によって検討されます。次にその検討に移りましょう。


◎原注7

【原注7】〈7 (イ)「自分たちが支払わなければならないであろう労働者たちの労働をこんなに節約するこれらの投機師たち。」(J・N・ビド『大規模製造機械により工業技術と商業とに生ずる独占について』、パリ、1828年、13ページ。)(ロ)「雇い主は、つねに全力をあげて時間と労働とを節約しようとするであろう。」(デュガルド・ステユアート『経済学講義』、所収、サー・W・ハミルトン編『著作集』、第8巻、エディンバラ、1855年、318ページ。)(ハ)「彼ら」(資本家)「が関心をもつのは、自分たちが使用している労働者の生産力ができるだけ大きいということである。この力を増進することに彼らの注意は向けられており、しかもほとんどただそれだけに向けられている。」(R・ジョーンズ『国民経済学教科書』、第3講。〔大野訳『政治経済学講義」、72ページ。〕)〉(全集第23a巻頁)

    これは〈こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約(7)は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的としてはいないのである〉という本文に付けられた原注です。
    三人の経済学者の三つの著書からの引用がなされています。借りのこの三つの引用を(イ)(ハ)に分けて示すと、(イ)(ロ)は資本が労働の節約に熱心であることを、(ハ)は労働の生産力を高めることに注意を向けていることを指摘しています。

    これらの著者とその文献からの引用は、『61-63草稿』で次のように抜粋されています。

    〈「資本家階級は、はじめは部分的に、ついでついには完全に手仕事の必要から解放される。彼らの関心事は、彼らが使用している労働者の生産力を可能なかぎり最大にすることでありる。この力を増進することに彼らの注意は集中されており、しかもほとんどもっぱらそれだけに集中されている。思考は、ますます人間の勤労のあらゆる目的を達成させる最良の手段に向けられる。知識は広がり、その活動領域を倍加し、勤労に力を貸すのである」(リチャド・ジョウンズ『国民経済学教科書』、ハートファド、1852年)(第3講、[39ページ〔日本評論社版、大野清三郎訳『政治経済学講義』、72ページ。]
    「雇主はつねに、時間と労働とを節約するために全力をつくすであろう」(ドゥーガルド・スティーアト『経済学講義』、ハミルトン編『著作集』、第8巻、318ページ。「そうでなければ自分たちが支払わなければならなかったであろう労働者たちの労働をこんなに節約するこれらの投機家たち」(J・N・ビド『大規模製造機械により工業技術と商業とに生じる独占について』、第2巻、パリ、1828年、13ページ)。〉(草稿集④490-491頁)

   なおビドについては『資本論辞典』に記載はありませんので、全集版の人名索引から、ステュアートとジョーンズについては『資本論辞典』からその概要を紹介しておきます。

  ビド,J.N. Bidaut,J.N.(19世紀前半)フランスの官吏,経済問題についての著述がある.〉(全集第23b巻78頁)

   ステュアート デュゴルドDugald Stewart (1753-1828) スコットランドの哲学者・経済学者.……ステュアートのこの《経済学講義》は.マルクスにとっては,学説として批判の対象となるほどの意義はみとめられなかったようである.ステュアートの名は『資本論』以前のマルクスの著作のなかには.みいだすことができない.『資本論』でも,第1巻のいわゆる‘より多く歴史的に叙述'された部分.とくにそのうちの第4篇の‘相対的剰余価値の生産'を論じた部分で,主として分業に関連した四箇所ばかり,彼の著作に典拠がもとめられ注として利用されているにすぎない.これらの点を考えあわせると,マルクスAが1866年当時<労働日>にかんする篇を歴史的に拡張することをこころみたころ,もっぱら資料的価値をもつものとして,ステュアートの講義もとりあげられたのではないかとおもわれる.〉(506頁)

  ジョーンズ Richard Jones(1790-1865)イギリスの経済学者.……/
  ジョーンズの主題は,1830年以降ようやく歴史の舞台に登場してきた労働者階級の現状および将来という問題であった.いいかえれば,労働者階級の所得である賃銀がいかにして決定されているかをみずからの研究の主題とした.……/
  マルクスは《剰余価値学説史》第3部において.《遺稿集》をのぞき,ジョーンズの諸著を全面的にとりあげ,批判している.マルクスは《地代論》を批判して,ジョーンズの貢献をつぎのように把握しているが.これは,ジョーンズの著作全体に妥当するものと考えられる.‘この最初の地代にかんする著述は,……すべてのイギリスの経済学者に欠けているところの生産様式の歴史的差別の理解をもってすぐれている.すなわちイギリス古典派経済学者スミス、リカード等が資本主義的生産様式を絶対的かつ自然的なものとしてとりあつかっているのにたいし. ジョーンズがそれを歴史的・可変的な生産様式としてとりあげたところに,ジョーンズに最大の功績をあたえている.すなわち.ジョーンズは資本主義社会を,地代の形態からは,第一に,土地所有が生産を, したがって社会を支配する関係でなくなったときに,第二に,農業そのものが資本主義的生産方法で営まれるときにはじめてあらわれてくる土地所有形態として把握し.また労働元本の形態からみたそれを,労働元本が‘収入から貯蓄され利潤の目的をもって賃銀を前払いするのに使用される富,すなわち資本'としてあらわれてくる社会,いいかえれば労働者の生活手段はそれが賃労働と対立するとき,資本の形態をとってあらわれてくることを正しく把握した.マルクスは,前資本主義的諸関係のジョーンズの分析を高く評価するとともに,この資本主義把握にジョーンズの最大の功績をみとめ,‘ジョーンズをして.おそらくシスモンディをのぞくすべての経済学者にたいして優越せしめている点は,彼が資本の社会的形態を本質的なものとして強調した点であり,また資本主義的生産様式の他の生産様式にたいする差異をすべてこの形態規定上の区別に還元する点である.と述べている.……(以下、略)〉(501-502頁)

 (付属資料に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(7)

2024-04-18 23:54:12 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(7)


【付属資料】(1)


●第1パラグラフ

《61-63草稿》

    〈さて、総労働日がその標準的な限界に達したものとしよう。ここではじめて、剰余価値、すなわち剰余労働時間を生みだそうとする資本の傾向が、その独自的な、また特徴的な様相で現われてくる。標準労働日が12時間からなり、そのうち10時間が必要労働時間、2時間が剰余労働時間であるとする。この〔12時間という〕時間を越える延長、したがって絶対的剰余価値の増大は問題外であるとしよう。もちろん、このような制限が--それがどのようにして設定されるにせよ--一般に認められ、現われてくるにちがいないことは明らかである。(当面の問題をまったく純粋なものにするために、労働人口が所与であって、これ以上はもう絶対的剰余価値の総計を増大させえない、と前提し〔unterstellen〕てもよい。)それでは、もはや総労働日の延長によっては剰余価値を増大させることができないというこの場合には、いったいどうすれば剰余価値をさらに増大させることができるのであろうか? 必要労働時間の短縮によってである。総労働日が12時間で、そのうち10時間が必要労働時間、2時間が剰余労働時間であるときに、必要労働時間が、たとえば、1O時間から9時間に、1O分の1だけ短縮されれば、剰余価値あるいは剰余労働時間は--総労働日を延長しないでも--2時間から3時間に、5O%だけ増加することができる。剰余労働時間の分量の、したがって剰余価値の増大は、総労働日を同時に延長することによって剰余労働時間を直接に増加させることによるだけではなく、必要労働時間を短縮し、したがって労働時間を必要労働時間から剰余労働時間に転化することによっても可能なのである。〔この場合には、〕標準労働日は延長されないが、しかし必要労働時間が短縮され、こうしてつまるところ、総労働日が賃銀の補塡のための労働と剰余価値の創造に役立つ労働とに分かれている割合が変化することになろう。〉(草稿集④375頁)
 〈つまり相対的剰余価値は、絶対的剰余価値から次の点で区別される。--いずれの場合にも、剰余価値は剰余労働に等しい、すなわち剰余価値の割合は、必要労働時間にたいする剰余労働時間の割合に等しい。第一の〔絶対的剰余価値の〕場合には、労働日がその限界を越えて延長され、そして、労働日がその限界を越えて延長されるのに比例して剰余価値が増大する(すなわち剰余労働時間が増大する)。第二の〔相対的剰余価値の〕場合には、労働日は一定である。この場合には、労働日のうち労貨の再生産に必要であった部分、すなわち必要労働であった部分が短縮されることによって、剰余価値、すなわち剰余労働時間が増加されるのである。第一の場合には、労働の生産性のある一定の段階が前提されている。第二の場合には、労働の生産力が高められる。第一の場合には、総生産物の一可除部分の価値、あるいは労働日の部分生産物は不変のままである。第二の場合には、この部分生産物の価値が変化する。しかしこの部分生産物の量(数〉は、それの価値の減少と同じ割合で増大する。このように、生産物あるいは使用価/値の総額は増加するがその総額の価値は不変のままである。事柄はさらに、簡単に次のように表現することもできる。〉(草稿集④388-389頁)
    〈資本主義的生産過程の考察のさいにすでに次のことを見た。すなわち、(1)生産の発展段階が与えられていれば、すなわち生産諸力の程度が与えられていれば、絶対的剰余価値が増大させられることができるのは、ただ、労働の強度が増大させられるか労働日の外延が増大させられることによってのみであり、……(2)相対的剰余価値が増大させられることができるのは、ただ労働の生産力の発展によって、協業、分業、機械装置の充用などによってである、ということ、……〉(草稿集⑨510頁)

《初版》

 〈労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまで不変量と見なされていたが、この部分は、じっさい、与えられた生産諸条件のもとでは、社会の当面の経済的発展段階では、不変量である。労働者は、こういった自分の必要労働時間を越えて、2時間、3時間、4時間、6時間等々、労働することができた。剰余価値率労働日の大きさは、この延長の大きさによってきまった。必要労働時間が不変であったとすれば、それとは反対に、労働日全体は可変であった。いま、1労働日を想定して、それの大ささと、必要労働と剰余労働へのそれと分割とが、与えられているとしよう。たとえばac線であるa----------b--cが12時間労働日を表わし、ab部分が10時間の必要労働を、bc部分が2時間の剰余労働を、表わしているとしよう。さて、acをなんらこれ以上延長しないで、すなわち、acのこれ以上の延長になんらかかわりなしに、どうすれば剰余価備の生産をふやすことができるだろうか? すなわち、剰余労働を延長することがでさるだろうか?〉(江夏訳353頁)

《フランス語版》 フランス語版は2つのパラグラフに分けられている。ここでは一緒に紹介しておく。

 〈これまでわれわれは、労働者が資本家から支払われる価値を補填するにすぎない労働日部分を、不変量と見なしてきたが、その労働日部分は事実、不変な生産条件のもとでは不変量である。この必要時間を越えて、労働は2、3、4、5、6時間等々延長することができた。この延長の長さによって、剰余価値率と労働日の長さは変化した。必要労働時間は不変であったが、逆に全労働日は可変であった。
  さて、その限界も必要労働と剰余労働とへの分割も与えられている1労働日を仮定しよう。たとえばac線
  a----------b--c
が12時間労働日、ab部分が10時間の必要労働、bc部分が2時間の剰余労働を表わすものとせよ。acを延長しないで、どのようにして剰余価値の生産を増大できるのか?〉(江夏・上杉訳323頁)

《イギリス語版》  イギリス語版は「相対的剰余価値の概念」は第12章になっている。

  〈(1) 資本家によって、単に、彼の労働力のために支払われる価値の等価を生産する労働日の部分を、ここまでの処では、我々は、ある一定の大きさとして取り扱ってきた。いはば、事実上、与えられた生産条件の下で、与えられた社会の経済的発展段階の下で、の一定の大きさとして取り扱ってきた。この、労働者の必要労働時間を超えて、労働者が仕事を2時間、3時間、4、5、6時間、そしてそれ以上の時間を続けて働くことができることも我々は見た。剰余労働率と、労働日の長さは、この延長の大きさに依存したものであった。必要労働時間が一定であったとしても、その一方で、全労働日が変化することは、我々が見てきた処である。さて、ここで、我々が持っている労働日の長さと、その区分、必要労働と剰余労働間の区分が与えられたものであると仮定しよう。全長さをa cとし、仮に、12時間の労働日を表すものとし、

a -------------------------- b ------- c
とし、a --- b 部分を10時間の必要労働、b - c 部分を2時間の剰余労働としてみよう。さて、どうしたら剰余価値の生産を増やすことができるだろうか。すなわち、どうしたら、a c を延長することなく、a - c と無関係に剰余労働を延長することができるだろうか?〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《61-63草稿》

 〈剰余価値は、正確に剰余労働に等しいのであって、その増大は、必要労働の減少によって正確に測られる。絶対的剰余価の場合には必要労働の減少は相対的である、すなわち、必要労働は、剰余労働が直接に増加されることによ/って相対的に減少する。必要労働が10時間で、剰余労働が2時間である場合に、いま剰余労働が2時間だけ増加されても、すなわち総労働日が12時間から14時間に延長されても、必要労働は、相変わらず10時間である。しかし必要労働は剰余労働にたいして以前には10:2、すなわち5:1の比率であったものが、いまでは10:4=5:2の比率となっている。言い換えれば、必要労働は、以前は労働日の5/6であったが、いまではもはや5/7にすぎない。つまりこの場合には、必要労働時間は総労働時間が、それゆえまた剰余労働時間が、絶対的に増大したために相対的に減少したのである。これにたいして、標準労働日が所与であって、相対的剰余価値の増加が生産諸力の増加によって〔生じる〕ときには、必要労働時間は絶対的に減少するのであり、それによってまた剰余価値は、生産物の価値が増加しないでも、絶対的にも相対的にも増加するのである。それゆえ、絶対的剰余価値の場合には、剰余価値の絶対的増大と比べての、労賃の価値の相対的な下落〔が生じる〕。相対的剰余価値の場合には、労賃の価値の絶対的な下落〔が生じる〕。それにもかかわらず、労働者にとってはつねに、第一の場合のほうが悪い。第一の場合には、労働の価格が絶対的に下落する。第二の場合には、労働の価格は上昇しうるのである。〉(草稿集④559-560頁)

《初版》

 〈労働日acの限界が与えられているにもかかわらず、bcは、その終点--同時に労働日acの終点でもあるc--を越えて延長されることによらなくても、その始点bがこれとは反対方向にaのほうに移されるととによって、延長が可能であるように思える。a---------b'-b--cのb'bが、bcの半分すなわち1労働時間に等しい、と/仮定しよう。いま、12時間労働日acにおいて、b点がb'にずらされれば、労働日が相変わらず12時間でしかないのに、bcが伸びてb'cになり、剰余労働が半分だけふえて、2時間から3時間になる。だが、bcからb'cへの、2時間から3時間への剰余労働のこういった延長は、abからab'への、10時間から9時間への必要労働の同時的な短縮がなければ、明らかに不可能である。剰余労働の延長には必要労働の短縮が対応している。すなわち、労働者がこれまでは自分自身のためにじっさいに費やしていた労働時間の一部が、資本家のための労働時間に転化するわけである。変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働への労働日の分割である。〉(江夏訳353-354頁)

《フランス語版》

 〈acの長さは一定であっても、bcは、同時に労働日の終点でもある一定点cを越えて延長することによってではなく、少なくともその始点bをaの方向に押し戻すことによって、延長できるように思われる。直線
  a---------b'-b--c/
において、bb'がbcの半分、すなわち1労働時間に等しいと仮定しよう。いまacにおいてb点がb'のほうへ押し戻されれば、全労働日は依然として12時間でしかないのに、剰余労働は、b'cになり、2時間から3時間に半分だけ増大する。しかし、bcからb'cへの、2時間から3時間への、こうした剰余労働の延長は、abからab'への短縮、10時間から9時間への必要労働の短縮がなくては、不可能である。必要労働の短縮は、このように、剰余労働の延長に対応するであろう、あるいは、これまで労働者が実際に自分自身のために消費していた時間の一部が、資本家のための労働時間に転化するであろう。労働日の限界が変化したのではなく、それの必要労働と剰余労働への分割が変化したのである。〉(江夏・上杉訳323-324頁)

《イギリス語版》

  〈(2) 長さ a c は与えられたものではあるが、b c が延長可能であるものとすれば、そして、右端のc がそれ以上右に延長しないものとすれば、つまり、労働日 a c が依然として、なんであれ、位置を変えないものとすれば、b の開始位置を、a の方向に戻すことになろう。さて、新たなbの開始位置をb' とすれば、 線 a-b'-b-c が、下の様に描ける。

a--------------------b'-b--c

 b'---bの長さを、b ------ c の半分、または1時間の労働時間であるとしておこう。もし、改めて見れば、12時間労働日 a - c において、我々はb 点をb' に動かし、b - c を、b' - c とした。剰余労働を1時間増やし、2時間から3時間とした。だが、労働日は前と変わらず12時間に留まっている。剰余労働時間を、b - c から、b' - cへと2時間から3時間に拡大はしたが、明らかに、同時に、必要労働 a - b を a - b' に、10時間から9時間に短縮しなければ、このことは不可能である。剰余労働の拡大は、必要労働の縮小と見合っており、または、実際に、労働者自身の便益のために以前は消費した労働時間の一部が、資本家の便益のための労働時間に転化することになろう。労働日の長さは変わらないが、必要労働時間と剰余労働時間の区分が変わることになろう。〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《61-63草稿》

   〈すでに見たように必要労働時間は、賃銀に・労働能力の購買価格に・含まれている労働時間(事実上、賃銀の生産に必要な労働時間)を補塡する労働時間に(支払われた労働時間に)ほかならない。必要労働時間は、賃銀を切り下げるならば、短縮することができる。もし、賃銀の価値が強力的に引き下げられるならば、賃銀に含まれている労働時間、つまり賃銀を再生産するため、賃銀を補塡するために支払われる労働時間もまた、引き下げられる。賃銀の価値の低下とともに、この価値の等価、つまりこの価値に見合う、あるいはむしろこの価値に等しい対価もまた低下することになる。もちろん、このようなことは実際に起こりはする。労働能力の価格は、他のどの商品の価格もそうであるように、実際にはその価値以上に上がったり価値以下に下がったりする。しかし、われわれはこのようなことにはかかわらない。というのは、商品の価格はその価値に一致する、という前提からわれわれは出発するからであり、言い換えれば、われわれは、この前提のもとで諸現象を考察するのだからである。したがってここで問題にする必要労働時間の短縮は、労働能力はその価値どおりに売られ、労働者は標準的労賃を受け取っており、したがって彼の労働能力の標準的な、また伝統的な再生産に必要な生活手段の総額にはいかなる減少も見られない、という前提のもとで展開[され]るのでなければならない。〉(草稿集④376頁)
   〈{(労働の生産性は増大しないままで)労賃をその平均程度以下に引き下げることによる剰余価値の増大は、労働者〔の生活諸条件〕をその標準的な生活諸条件以下に引き下げることによる利潤の増大である。他方、標準的な/平均程度を越える労賃の増大は、(同様に労働の生産力は不変のまま)労働者のほうが自分自身の剰余労働の一部にありつき、それをわがものにすることである。第一の場合には、資本家が労働者の生活に欠くことのできない諸条件を侵食し、労働者自身の維持に必要な労働時間を侵食する。第二の場合には、労働者が彼自身の剰余労働の一部を取り込む。どちらの場合にも、一方が失うものを他方が獲得するのであるが、しかし〔第一の場合には〕、労働者が生活で失うものを、資本家が貨幣で獲得するのであり、もう一つの場合には、資本家が他人の労働をわがものとする割合において失うものを、労働者が生活の享受において獲得するのである。}〉(草稿集④376-377頁)

《初版》

 〈他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさが与えられ、しかも労働力の価値が与えられていれば、明らかにそれ自体与えられている。労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定する。1労働時間が半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働力の日価値が5シリングであれば、労働者は、資本から自分に支払われた自分の労働力の日価値を、補填するためには、あるいは、自分の必要とする毎日の生活手段の価値の等価を、生産するためには、毎日10時間労働しなければならない。この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値が与えられ(1)、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさが与えられる。ところが、剰余労働の大きさは、労働日全体から必要労働時間を控除することによって、得られるものである。12時間から10時間を控除すると2時間が残るが、どうすれば与えられた諸条件のもとで剰余労働を2時間以上延長することができるかは、見当がつかない。もちろん、資本家は労働者に、5シリングを支払うのではなく、4シリング6ペンスしかまたはもっと少なくしか支払わないかもしれない。この4シリング6ペンスの価値を再生産するためには、9労働時間で充分であろうし、したがって、12時間労働日のうち2時間ではなく3時間が剰余労働のものになって、剰余価値そのものが1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。とはいえ、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによって、達成されたにすぎないであろう。彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼が自由に使えるのは、これまでよりも1/10だけ少ない生活手段であって、そうなると、彼の労働力の萎縮した再生産しか行なわれないことになる。このばあい、剰余労働は、それの正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけであり、それの領域は、必要労働時間の領域を不法に侵害することによって拡張されるだけである。こういった方法は、それが労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるとはいうものの、ここでは、諸商品が、したがって労働力も、価値どおりに売買されるという前提からして、排除されている。このことがいったん前提されれば、労働力の生産または労働力の価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金が彼の労働力の価値以下に下がるから減少しうるわけではなく、この価値そのものが下がるからこそ減少しうるのである。労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるはずであって、逆に、必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるはずはない。われわれの例では、必要労働時間が10時間から9時間に1/10だけ減少するためには、したがって、剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に1/10だけ下がらなければならない。〉(江夏訳354-355頁)

《フランス語版》 フランス語版はこのパラグラフは2つのパラグラフに分けられ、間に原注1が挟まっているが、ここでは原注1は次の原注1のところで紹介して、2つのパラグラフを合わせて紹介しておく。

 〈他方、労働日の限界と労働力の日価値とが与えられると、剰余労働の持続時間が定められる。労働力の日価値が5シリング--10労働時間が体現された金の額--に達するとすれば、労働者は、資本家から日々支払われる労働力の価値を補填するために、あるいは、彼の日々の生計に必要な生活手段の等価を生産するために、1日に10時間労働しなければならない。この生活手段の価値が彼の労働力の日価値を決定し、後者の価値が彼の必要労働の日々の持続時間を決定する。全労働日から必要労働時間を差し引いて、剰余労働の大きさが得られる。12時間から10時間を差し引けば2時間が残るが、与えられた条件のもとで剰余労働がどのようにして2時間を越えて延長することができるかは、わかりにくい。もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またはさらにもっと少なくしか、支払わないかもしれない。この4シリング6ペンスの価値を再生産するには9労働時間で充分であって、剰余労働はこのばあい1/6労働日から1/4労働日に、剰余価値は1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。しかし、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによってのみ、得られるであろう。労働者は、彼が9時間で生産する4シリング6ペンスをもってしては、従前よりも1/10だけ少ない生活手段を手に入れるのであり、したがって、自分自身の労働力を不完全にしか再生産しないであろう。剰余労働は、その正常な限界bcからの逸脱に/よって、必要労働時間からの盗みによって、延長されるであろう。
    さて、この慣行は、賃金の現実の運動で最も重要な役割の一つを演ずるのであるが、すべての商品が、したがって労働力もまた、その価値どおりに売買される、と仮定するここでは、この慣行は除外されている。このことがいったん認められれば、労働者の維持に必要な労働時間を短縮できるのは、彼の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによってではなく、たんにこの価値そのものを引き下げることによるしかない。労働日の限界が与えられれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生じるのが当然であって、必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生じるのではない。われわれの例では、必要労働が1/10減少して10時間から9時間に減り、このため剰余労働が2時間から3時間にふえるためには、労働力の価値が現実に1/10下がらなければならない。〉(江夏・上杉訳324-325頁)

《イギリス語版》

  〈3) 他方、もし、労働日の長さと労働力の価値が与えられるならば、剰余労働の長さが与えられたものとなるのは自明である。労働力の価値、すなわち、労働力を生産するに不可欠な労働時間は、その価値を再生産するために必要な労働時間を定める。もし、1労働時間が6ペンスに体現されるとするならば、そして労働力の日価値が5シリングであるとするならば、労働者は、彼の労働力に対する資本によって支払われた価値と置き換えるために、または、彼の必要な日生活手段の価値の等価分を生産するために、日10時間働かなければならない。この様に、生活手段の価値が与えられるならば、彼の労働力の価値は与えられたものとなる*1、彼の労働力の価値が与えられるならば、彼の必要労働時間の長さは与えられたものとなる。
  従って、剰余労働の時間は、全労働日から必要労働時間を差し引くことによって達成される。10時間が12時間から差し引かれて、2時間が残る。与えられた条件の下で、剰余労働が2時間を超えて、どの様にして引き延ばされるのか、それが分かるのは簡単ではない。いや、資本家にとってはなんでもない。5シリングに代えて、4シリング6ペンスまたはそれより少ない額を労働者に支払うことができる。もし、この4シリング6ペンスの価値の再生産に対応する9時間の労働で充分足りるとなれば、その結果、2時間に代わって3時間の剰余労働が資本家に生じ、剰余価値は1シリングから18ペンスに上昇する。とはいえ、この結果は、単に労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも下げたことで得られたものに過ぎない。彼が9時間で生産した4シリング6ペンスでは、彼は、以前の暮らしに必要であったものを1/10少なくせねばならぬ。結果、彼の労働力の適切な再生産が損なわれる。これでは、剰余労働は、ただ標準境界への踏み込みによって拡大されたものでしかない。その領域はただ、必要労働時間領域部分への強権的な拡大となるだけであろう。労働力の生産のために必要な労働時間、またはその価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金の彼の労働力の価値以下に下落によって減少させることはできないが、ただその労働力の価値そのものの下落によってのみ承認されるものとなる。労働日が与えられているとすれば、剰余労働の拡大は、必要労働時間の短縮から生じる必然性がなければならない。後者は前者から生じることはできない。我々が取り上げた例から云えば、必要労働時間が1/10縮小されることで、すなわち、10時間が9時間に、労働力の価値が実際に1/10低下すべきことが必要である。結果として、剰余労働が2時間から3時間に拡大されることになろう。〉(インターネットから)


●原注1

《61-63草稿》

   〈(β)次に研究すべき第二の点は、労働の価値である。
 「法律は……労働者にちょうどそれをもって生活することができるだけのものを認めるべきであろう。というのは、もし諸君が〔労働者に〕2倍〔の賃金〕を認めるとすると、労働者は、彼がなすことのできたはずの、またそうでなければなしたはずの、半分しか労働しないからである。これは社会にとってそれだけの労働の果実の損失である。」(64ページ〔大内・松川訳、150-151ページ〕。)したがって労働の価値は、必要な生活諸手段によって規定される。労働者が剰余生産および剰余労働を行なわざるをえないのは、彼が生活するのにちょうど必要なだけのものを受け取るためにすら、自分の処分可能な全労働力を費やすように強制されるからにはかならない。しかしながら、その労働が安いか高いかは、二つの事情、すなわち、自然の豊かさと、気候によって規定される支出(欲求)の程度とによって、決まるのである。
    「自然的に高いか安いかは自然的必需品の生産に不可欠な入手の多少に依存する。すなわち、穀物は、1人の男が10人分の穀物を生産するところでは、彼が6人分の穀物しか生産しえないところでよりも安い。また同時に、気候に左右されて人々が必然的に〔穀物を〕より多く消費する気になるか、より少なく消費する気になるかに応じて〔穀物価格は上下する〕。」(67ページ〔大内・松川訳、155ページ〕。)〉(草稿集⑨488頁)
    〈「ある人々が他の人々よりたくさん食べるということは重要ではない。というのは、われわれは1日分の食料を、あらゆる種類またあらゆる体格の人々の100分の1が、生き、労働し、子孫を生むために食ぺるもの、と理解するからである。」(『アイルランドの政治的解剖』64ページ〔松川訳、134ページ〕。)〉(草稿集⑨605頁)
    〈{「自分の腕と自分の勤労とのほかにはなにも持っていないただの労働者は、自分の労苦を他人に売ることになんとか成功したときにかぎって、なにかを持つことになる。……どんな種類の労働にあっても、労働者の賃銀は彼が生計を維持するために必要なだけに限られなければならず、また実際にもそうなっている」(テュルゴー 『富の形成と分配とに関する省察』(初版の刊行は1766年)、所収、『著作集』、第一巻、ウジェーヌ・デール編、パリ、1844年、10ページ〔岩波書店版、津田内匠訳『チュルゴ経済学著作集』、73ページ〕)。}〉(草稿集④69頁)
    〈「自分の腕と勤勉を有するにすぎない単純労働者は、自分の労苦を他人に首尾よく売る以外にはなにももたない。……どんな種類の労働についても、労働者の賃金は彼の生活資料を手に入れるのに彼にとって必要なだけに限られるということが起こるはずであり、また実際に起こっているのである。」(同前、10ページ〔津田訳、73ページ〕。)
    ところで賃労働が生じてくると、「土地の生産物は二つの部分に分かれる。一つは、農業労働者の生活資料と利潤とを含む。これは、彼の労働の報酬であり、また彼が土地所有者の畑の耕作を引き受ける条件である。その残りは、土地がそれを耕作する者に彼の前貸と彼の労苦の賃金とを越えて純粋の贈りものとして与える、かの独立の自由に処分しうる部分である。そしてこれが土地所有者の分けまえまたは収入であり、彼は、これによって労働ぜずに生活することができるし、また、これを彼の望むところへ持って行くのである。」(14ページ〔津田訳、76ページ〕。)ところが、この土地の純粋の贈りものは、いまではすでに、土地が「それを耕作する者」に与える贈りものとして、したがって、土地がその労働に与える贈りものとして、規定されているように見える。すなわち、土地に投ぜられた労働の生産力、労働が自然の生産力を利用する結果としてもつところの生産力、したがって労働が土地からつくりだすのであるが、しかしただ、労働が土地からつくりだすところの生産力としてのみ規定されているように見える。それゆえ、土地所有者の手中においては、その剰余は、もはや「自然の贈りもの」としてではなく、他人の労働の--等価を支払わない--取得として現われる。この他人の労働は、自然の生産性によって自分自身の欲望を越えて生活手段を生産することができるが、しかし賃労働としてのその存在によって、労働の生産物のうち「彼が自分の生活資料にどうしても必要なもの」だけしか取得できないように制限されている。「耕作者は彼自身の賃金を生産し、そのほかに、職人その他の被雇用階級全体にたいする賃金の支払に用いられる収入を生産する。……土地所有者は耕作者の労働なしにはなにも手に入れるものはない(したがって自然の純/粋の贈りものによるのではない)。彼は、耕作者から、彼の生活資料と、他の被雇用者たちの労働にたいして支払うのに必要なものとを受け取る。……耕作者は、ただ慣習と法律にしたがって、土地所有者を必要とするだけである。」(同前、15ページ〔津田訳、77ページ〕。)
    こうして、ここでは、直接に剰余価値が、耕作者の労働のうち、土地所有者が等価を支払わずに取得する部分、したがって生産物のうち、土地所有者が買うことなしに売る部分、として説明されている。ただ、テュルゴーが念頭においているのは、交換価値それ自体、労働時間そのものではなく、生産物のうち、耕作者の労働が彼自身の賃金を越えて土地所有者にもたらす超過分である。だが、生産物の超過分はすべて、耕作者が彼の賃金の再生産のために労働する時間のほかに、土地所有者のために無償で労働する一定時間が対象化されたものにほかならない。〉(草稿集⑤30-31頁)
    〈労賃。〔その〕平均および運動。「社会の進歩において賃金の低下ほど、すなわち、労働諸階級の慣習と結合して、生活手段に応じて人口の増加を調節するそのような低下ほど絶対的に不可避なものはない。」(マルサス『地代の……に関する一研究』、19ページ〔楠井・東訳、124ページ〕。)
    マルサス氏は、『穀物法および穀価昇落が国の農業および一般的な富に与える影響の諸考察』、第3版、ロンドン、1815年のなかで、A・スミスに反対して(したがって『人口に関する一論』における彼自身の誤った想定に反対して)次のように主張している。「労賃の全体がけっして穀物価格の諸変動に比例して騰落しうるものでない、ということは、明らかである。」(前掲書、6ページ〔楠井・東訳、13-14ページ〕。)この同じ人物が、『外国産穀物の輸入を制限する政策に関する一見解の諸根拠』、ロンドン、1815年のなかでは、次のように言っている。「これらの賃金は、結局、穀物の通常の貨幣価格等によって決定されるであろう。」(26ページ〔楠井・東訳、82ページ〕。)そしてこれと同じ見解が、『地代の……に関する一/研究』のなかでは、利潤と賃金とからの地代の分離の必然性を示すために主張されている。それでは、なぜこの男は『穀物法……影響の諸考察』のなかで、A・スミスから彼に継承されて、さらには彼によってA・スミスとはまったく別の一面的に倭小化した仕方で主張された上記の見解を、否認したのか? ジエイムズディーコン・ヒューム『穀物法についての見解』、ロンドン、1815年におけるその答えはこうである。「マルサス氏は、『労働の価格は穀物の価格によって支配される』というA・スミスの命題を論駁するために大いに骨をおった。……それはまさに問題の核心なのであるが、マルサス氏によってそれが取り扱われた方法は、他の人々が農業階級〔agriculturalinterest〕の法外な要求を擁護しうる示唆や論拠を、彼自身が直接に汚名をこうむることなiく提示しようとしている、という疑念を抱かせるものである。」(前掲書、59ページ。)(いたるところで、マルサスは卑劣な追従者である。)〉(⑨470-471頁)

《初版》

 〈(1)日々の平均賃金の価値は、労働者が「生活し、労働し、生殖するために」使用するものによって、規定されている。(ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、1672年、64ページ。)「労働の価格はいつでも必需品の価格から構成されている。」「……労働者の賃金をもってしては、彼らの多くがしばしば宿命的に抱えている家族を、労働者としての彼の低い身分や地位にふさわしく養えないばあいにはいつでも」(J・ヴァンダリント、前掲書、19ページ。)、労働者は相応な賃金を受け取ってはいない。「自分の腕と自分の勤労しかもちあわせていない一介の労働者は、自分の骨折りを他人に売ることができるばあいにかぎり、なにかをもちあわせていることになる。……どんな種類の労働にあっても、労働者の賃金は、彼が生活手段を手に入れるために必要なものにかぎられているということは、そうなるぺきことであり、また、じっさいにもそう/なっている。」(テュルゴ『富の形成と分配についての考察』、1766年。デール編『著作集』、第1巻、10ページ。)「生活必需品の価格は、じっさいのところ、生産労働の費用である。」(マルサス『地代……の研究』、ロンドン、1815年、48ページ、註。)〉(江夏訳355-356頁)

《フランス語版》

 〈(1) 日々の平均賃金の価値は、労働者が「生活し労働し生殖するために」必要とするものによって、規定されている(ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、1672年、64ページ)。「労働の価格はつねに絶対的生活必需品の価格から構成されている」。労働者は、「……彼の賃金が、彼らの大部分が宿命的にもっていると思われるような家族を、彼の見すぼらしい身分に応じて育てる余裕をもたないときはいつでも」、充分な賃金を受け取っていないのである(J・ヴァンダリント、前掲書、15ページ)。「自分の腕と自分の勤労しかもたない一介の労働者は、自分の骨折りを他人に売ることができないかぎり、なにものももたない。……どんな種類の労働にあっても、労働者の賃金は彼が生活手段を得るために必要なものに限られているということは、そうなるべきことであり、また実際にもそうなっている」(テユルゴ『富の形成と分配についての考察』、1766年、デール編『著作集』、第1巻、10ページ)。「生活必需品の価格は、実際に、労働の生産費である」(マルサス『地代……の研究』、ロンドン、1815年、48ページ、註)。〉(江夏・上杉訳325頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 1 *彼の日平均賃金の価値は、労働者が必要とする「生活し、労働し、再生する」ためのものによって決められる。(ウイリアム ペティ 「アイルランドの政治的解剖」1672年) 「労働の価格は、常に、必要なものの価格に等しい…. いつでも…. 労働者の賃金が、彼の労働者としての低き身分と地位に見合うもので、多くの者は家庭を持つのであるが、その家庭を維持していくものに当たらないならば、彼は適切な賃金を受け取ってはいない。(J. バンダーリント 既出) 「自身の腕と働きのみしか持たない単なる労働者は、他人に彼の労働を売る以外の何物も相続しておらず…. あらゆる種類の仕事において、必ずと言っていい程、実際に事実上その通りなのであるが、労働者の賃金は彼の生活を支えるに足るものに制限されている。」(タルゴー 「考察 他」著作集)(フランス語) 「生活に必要な品々の価格は、事実、労働の生産コストである。」(マルサス 「地代 他に関する研究」ロンドン 1815年) 〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

   〈労働能力の価格がその価値に等しく、したがって賃銀がその標準的賃銀以下に引き下げられることも下落することもない、という前提のもとで生じる必要労働時間の短縮は、すべて労働の生産性を増大させることによってのみ、あるいは同じことであるが、労働の生産諸力を高度に発展させることによってのみ可能になる。〉(草稿集④377頁)
   〈商品を考察するさいに見たように、労働の生産力が高まれば、同じ使用価値がより短い労働時間で生産される。言い換えれば、より大量の同じ使用価値が同じ労働時間で(あるいはより少ない時間で--だがこれは第二の場合に含まれる--)生産される。商品の使用価値は相変わらず同一であるが、その交換価値は下落する、すなわち商品に対象化されている労働時間はより少量となり、その生産に必要な労働はより少なくなっている。労働能力の標準的な再生産に必要な生活手段の総額は、それらの交換価値によって規定されているのではなく、それらの使用価値によって--質的および量的に--規定されているのであり、したがってそれらの生産に必要な労働時間、それらに対象化されている労働時間によってではなく、この労働時間の成果によって、生産物で表示されるかぎりでの現実的労働によって規定されているのである。したがって、現実的労働/の生産性が高められることによって同じ生活手段の総額がより短い労働時間で生産されうるならば、労働能力の価値は低下し、したがってまた、労働能力は依然としてその価値どおりに売られるにもかかわらず、労働能力を再生産するために、その対価を生産するために必要な労働時間、つまり必要労働時間は減少する。それは、他のある商品が、依然として従来どおりの使用価値をもちながらも、それに含まれている労働時間が1/100だけ減ったためにいまではこれまでより1/100だけ少ない値となっているときに、それは依然として価値どおりに売られている、というのと同様である。この場合には、労働能力の価値が、したがってまた必要労働時間が低下するのは労働能力の価絡がその価値以下に下がるからではなくて、その価値そのものが下がったから、つまり、労働能力に対象化されている労働時間がより少量になり、だからまた労働能力の再生産に必要な労働時間がより少なくなったからである。この場合、剰余労働時間が増加するのは、必要労働時間が減少したからである。〉(草稿集④377-378頁)

《初版》

 〈ところが、労働力の価値がこのよう1/10だけ下がるということは、また、以前には10時間で生産されていたのと同じ量の生活手段がいまでは9時間で生産される、ということを条件にしている。とはいえ、このことは、労働の生産力を高めることなしには不可能である。たとえば、ある靴屋は、与えられた手段を用いて1足の長靴を12時間の1労働日で作ることができる。彼が同じ時間で2足の長靴を作ろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければならないが、この生産力は、彼の労働手段か彼の労働方法に、または同時にその両方に、ある変化が生じなければ、2倍になりえない。だから、彼の労働の生産諸条件すなわち彼の生産様式に、したがって労働過程そのものに、ある革命が生じなければならない。われわれが労働の生産力の上昇と言うのは、ここでは一般に、ある商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがって、より少量の労働がより多量の使用価値を生産するを獲得するような、労働過程における変化のことである(2)。だから、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産にあっては、生産様式与えられたものとして想定されていたが、必要労働を剰余労働に転化させて剰余価値を生産するためには、資本が、労働過程を、この過程の歴史的に伝来した姿または現存の姿のままで取り入れて、この過程の持続時間を延長する、というだけでは、けっして充分ではない。労働の生産力を高め、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうしてこの価値の再生産に必要な労働日部分を短縮するためには、資本は、労働過程の技術的および社会的な諸条件を、したがって生産様式そのものを、変革しなければならない。〉(江夏訳356頁)

《フランス語版》 このパラグラフもフランス語版は2つのパラグラフに分けられているが、ここでは合わせて紹介しておく。

 〈1/10 の低下は、当初10時間で生産された同じ量の生活手段がもはや9時間しか必要としないということ--労働の生産力が増大することなしには不可能なこと--を前提している。たとえばある靴屋は、与えられた手段を用いて12 時間で1足の長靴を作ることができる。同じ時間で2足の長靴を作るためには、彼の労働の生産力を2倍にしなければならないが、彼の労働手段か彼の労働方法に、または同時に両者に、ある変化がなくては、そういうことは起こらな/い。生産条件のなかに、ある革命が遂行されなければならないのだ。
    われわれは、労働生産力あるいは労働生産性の増大ということを、一般には、一商品の生産に社会的に必要な時間を短縮し、この結果、より少量の労働量がより多量の使用価値を生産する力を獲得するという、労働過程における変化である、と理解する(2)。われわれが、延長された労働時間から生じる剰余価値を考察するばあいには、生産様式は与えられたものと見なされていた。しかし、必要労働の剰余労働への転化によって剰余価値を獲得することが問題となるやいなや、資本が伝統的な労働過程に手を触れないままで、たんに労働時間を延長することに満足するだけでは、もはや充分ではない。そのばあいには反対に、資本は技術的および社会的条件、すなわち生産様式を変えなければならない。そのときにだけ、資本は労働の生産性を高め、したがって労働力の価値を引き下げ、まさにそのことによって、労働力の再生産に必要な時間を短縮することができるであろう。〉(江夏・上杉訳325-326頁)

《イギリス語版》

  〈4) しかしながら、この様な労働力の価値の低下は、以前には10時間で生産されていた同じ生活必需品が、今では9時間で生産され得るということを意味する。しかし、この事は、労働の生産性の同上が無ければ不可能である。例えば、ある靴屋を想定してみよう。与えられた道具で、12時間の1労働日に、1足のブーツを作る。もし、彼が同じ時間でもって、2足を作らねばならないとしたら彼の労働の生産性は2倍にならねばならない。だが、それはできない。彼の道具を変えるか、または彼の労働様式を変えるか、またはその両方を変えるかしない限り、できない。そうするには、生産条件 すなわち、生産様式と労働過程そのものであるが、を革命しなければならない。我々が、一般的に、労働の生産性の同上と言うのは、商品の生産に必要な社会的労働時間の短縮といった様な種類の労働過程の変更を意味している、そして、与えられた労働量に、より大きな使用価値量を生産する力を付加することである。*2
  これ迄は、労働日の単純な拡大から生じる剰余価値を取り扱って来たが、そこでは、我々は、生産様式を与えられたものとして、変化しないものとして仮定してきた。しかし、剰余価値が必要労働を剰余労働に変換することで生産されるべきものとなるならば、旧来のやり方でやって来たような労働過程は、単純にその労働過程の長さを延長するだけのやり方は、資本家にとっては事足れりというものでは無くなる。労働の生産性を増大させ得るということになれば、生産過程の技術的かつ社会的条件は、結果として、あらゆる生産様式は、革命的に変容を受けざるを得ない。ただ一つこのことによって、労働力の価値は下落され得る。かくて、その価値の再生産に必要な労働日に該当する部分が短縮され得る。〉(インターネットから)

  (付属資料2に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(8)

2024-04-18 23:34:17 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(8)


【付属資料】(2)


●原注2

《経済学批判》

 〈アダム・スミスとは反対に、デイヴィド・リカードウは、労働時間による商品の価値規定を純粋に仕上げ、この法則が、それと表面上もっとも矛盾するように見えるブルジョア的生産諸関係をも支配することを示した。リカードウの研究は、もつばら価値の大きさに限られており、これにかんするかぎり、彼は少なくとも、この法則の実現が特定の歴史的諸前提に依存していることに感づいている。すなわち彼は、労働時間による価値の大きさの規定は、「勤労によって任意に増加されうる、そしてそれらの生産が無制限な競争によって支配されている*1」商品だけに妥当する、と言っている。このことは事実上、価値法則はその完全な展開のためには、大工業生産と自由競争との社会、すなわち近代ブルジョア社会を前提する、ということを意味するものにほかならない。そのほかの点では、リカードウは、労働のブルジョア的形態を社会的労働の永遠の自然形態とみなしている。彼は原始的な漁夫と猟師にも、すぐさま商品占有者として、魚と獣とをこれらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して交換させている。このさい彼は、原始的な漁夫と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、1817年にロンドン取引所で用いられている年金計算表を参考にするという時代錯誤に陥っているのである。「オーエン氏の平行四辺形」は、ブルジョア的社会形態以外に彼の知っていた唯一の社会形態だったらしい。こういうブルジョア的視界に限られていたにせよ、リカードウは、ブルム卿が彼について「リカードウ氏はまるで他の遊星から落ちてきた人のようだった」〔"Mr.Rcardo seemed as if he had dropped from an other planet."〕と言いえたほどの理論的な鋭さで、底のほうでは表面に現われているものとはまったく別様の観を呈するブルジョア経済を解剖した。シスモンディは、リカードウとの直接の論争で、交換価値を生む労働の特有な社会的性格を強調するとともに*2、価値の大きさを必要労働時間に還元すること、「全社会の欲求と、この欲求をみたすに足りる労働量とのあいだの割合*3」に還元することを、「われわれの経済的進歩の性格」と呼んでいる。シスモンディはもはや、交換価値を生む労働が貨幣によって盗められるというボアギュベールの考えにはとらわれていないが、ボアギュベールが貨幣を非難したように、彼は大産業資本を非難している。リカードウにおいて、経済学が容赦することなくその最後の結論を引き出し、それでもって終わりを告げたとすれば、シスモンディは、経済学の自分自身に対する疑惑を示すことによって、この終結を補完しているのである。

  *1 デイヴィド・リカードウ『経済学および課税の原理』、第3版、ロンドン、1821年、3ページ〔堀経夫訳『経済学及び課税の原理』、所収『リカードウ全集』、第1巻、雄松堂書店、14ページ〕。
  *2  シスモンディ『経済学研究』第2巻、ブリュッセル、1838年。「商業はすべてのものを使用価値と交換価値との対立に帰着させた。」162ページ。
  *3  シスモンディ、前掲書、163-166ページ以下。〉(草稿集③259-260頁)

《61-63草稿》

   〈第8に労働の置き換え
    「技術〔arte〕が改良される場合、このことが意味するのは、ある製品が以前より少ない人間によって、または(同じことだが)以前より短い時間で仕上げられるような新たな方法が発見されるということにほかならない」(フェルディナンド・ガリアーニ『貨幣について』、ダストーディ編『イタリア古典著作家論集』、近世篇、第4巻、ミラノ、1803年、158、[159]ページ)。
    このこと--ある製品をつくるためのより少ない人間〔meno gente〕とより短い時間〔minor tempo〕とは同じことである、ということ--は、単純協業にも、分業にえも、また機械にもあてはまることである。1人が以前に2時間でしたことを、いま1人が1時間ですることができるとす/れば、以前に2人がしたこと、したがって以前に2同時的労働日を必要としたことを、いまでは1人が、1労働日ですることができる。つまり、1人ひとりの労働者の必要労働時間を短縮させるあらゆる手段は、同時に、同じ結果を生みだすために必要とされる労働者数の減少を含んでいる。ところで、機械の充用の場合、この減少はただ程度の差でしかないのだろうか、それともなにか独特のことがつけ加わるのだろうか?〉(草稿集④554-555頁)
 〈②生産の費用の節約とは、生産に充用される労働量の節約以外のものではありえない(シスモンディ『経済学研究』、第1巻、ブリュッセル、1837年、22ページ)。
    ②〔訳注〕この引用には引用符がつけられていないが、シスモンディのフランス語原文がそのまま(ただし一か所コンマが加えられている)書かれている。〉(草稿集④491頁)

《初版》

 〈(2)「産業の改良とは、以前よりも少ない人間で、または(同じことであるが)以前よりも少ない時間で、ある製作物を仕上/げることができる新しい方法を、発見することにほかならない。」(ガリアーニ、前掲書、159ページ。)「生産費の節約とは、生産に使用されている労働量の節約以外のものでもありえない。」(シスモンディ『……研究』、第1巻、22ページ。)〉(江夏訳356-357頁)

《フランス語版》

 〈(2) 「産業の改良とは、以前よりも少ない人間で、または(同じことであるが)以前よりも少ない時間で、ある製作物を仕上げることができる新しい方法を、発見することにほかならない」(ガリアーニ、前掲書、158-159ページ)。「生産費の節約は、生産するために使用される労働量の節約以外のものではありえない」(シスモンディ『研究』、第1巻、22ページ)。〉(江夏・上杉訳326頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 2 * 手工業の完成とは、より少ない人数で、または(全く同じことであるが) 以前より少ない時間で、生産物を作る新たな方法の発見以外のなにものでもない。( シスモンディ「研究」)(フランス語)〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《61-63草稿》

  〈われわれは、剰余価値のこれまで考察してきた形態を絶対的剰余価値と呼ぶが、その理由は、この剰余価値の存在そのものが、この剰余価値の増加の率が、この増加の増分のすべてが、同時に、創造される価値(生産される価値)の絶対的な増加だからである。すでに見たように、絶対的剰余価値は、必要労働日をその限界を越えて延長することから生じるものであって、その絶対的な大きさはこの延長分の大きさに等しく、その相対的な大きさ--比率として見た剰余価値、すなわち剰余価値率--は、必要労働時間にたいするこの延長分の割合、つまり流量にたいするこの流率の割合によって与えられている。必要労働時間が10時間であるときに、労働時間が〔それを越えて〕2、3、4、5時間だけ延長される。その結果、1O労働時間分の価値の代わりに、12-15時間分の価値が創造される。この場合には、標準労働日の延長、すなわち必要労働時間と剰余労働時間との合計の延長こそ、剰余価値が増加し、増大させられる過程なのである。〉(草稿集④374頁)
   〈これまでは必要労働によって占められていた、総労働日のうちのある分量が、いまでは解放されて剰余労働時間に合体される。必要労働時間の一部が剰余労働時間に転化され、したがって、生産物の総価値のうちこれまでは賃銀にはいった一部分が、いまでは剰余価値(資本家の利得)にはいっていくのである。剰余価値のこの形態を、私は相対的剰余価値と名づける。〉(草稿集④377-378頁)

《初版》

 〈労働日の延長によって生産される剰余価値を、私は絶対的剰余価値と呼ぶ。他方、必要労働時間の短縮とこれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を、相対的剰余価値と呼ぶ。〉(江夏訳357頁)

《フランス語版》

 〈私は、労働日の単なる延長によって生産される剰余価値を、絶対的剰余価値と名づけ、これに反して、必要労働時間の短縮とそれに照応した労働日の2つの構成部分の相対的な大きさの変化とから生ずる剰余価値を、相対的剰余価値と名づける。〉(江夏・上杉訳326頁)

《イギリス語版》

  〈(5) 労働日の延長によって産み出された剰余価値を、私は絶対的剰余価値と呼ぶ。(イタリック) 他方、必要労働時間の短縮によって生じる剰余価値を、労働日の2つの要素のそれぞれの長さを、それ相応に変更することから生じる剰余価値を、私は相対的剰余価値と呼ぶ。(イタリック)〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《61-63草稿》

 〈さて、まず第一に明らかなことは、労働の生産力の増大が労働者たちの労働能力の価値あるいは彼らの必要労働時間を減少させることができるのは、ただ、これらの労働の生産物が、あるいは直接に彼らの消費のなかにはいっていく--食料、燃料、住居、衣服、等々のように--か、あるいはこれらの生産物の生産に必要な不変資本(原料および労働用具)のなかにはいっていく、そのかぎりでのこと/だ、ということである。後者のことが言えるのは、生産物のなかにはいっていく不変資本の価値はその生産物の価値のなかに再現するのだから生産物の価値は明らかに、それ自身の生産に必要な労働時間が減少する場合に下落するだけではなく、その生産物の生産諸条件の生産に必要な労働時間が減少する場合、つまり労働者の消費にはいっていく生産物の生産に必要な原料および労働用具の価値が、要するに不変資本の価値が減少する場合にも、同じく下落するからである。(ラムジを見よ。)〉(草稿集④378-379頁)
   〈(1) 相対的剰余価値が生み出されうるのは、労働者の消費にはいる商品(生活手段)が安くされるかぎりにおいて、つまりこれらの商品の価値が、すなわちこれらの生産に必要な労働時間の分量が減少されるかぎりにおいてである。しかし、商品に含まれる労働時間は2つの部分からなっている。(a)諸商品のなかに消費された労働手段および--存在するならば--原料に含まれている過去の労働時間。〉(草稿集⑨19頁)

《初版》

 〈労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物が、したがって、慣習的な生活手段の範囲に属するかまたはこの生活手段に代わりうる生産物が、生産される産業諸部門を、生産力の上昇がとらえなければならない。一商品の生産手段のうちに含まれている労働量によっても同様に規定されている。価値は、その商品に窮極の形態を与える労働の量によって規定されるばかりでなく、たとえば、長靴の価値は、たんに靴屋の労働によってだけでなく、革や蝋や糸等々の価値によっても規定されている。だから、必要生活手段を生産するために不変資本の素材的諸要素である労働手段や労働材料を供給する諸産業で、生産力が上がり、それに応じて諸商品が安くなるならば、このことによって労働力の価値も下がるのである。これに反して、必要生活手段もそれを生産するための生産手段も供給しない生産諸部門では、生産力が上がっても労働力の価値には影響がない。〉(江夏訳357頁)

《フランス語版》

 〈生産性の増大は、それが労働力の価値を引き下げるためには、労働力の価値を規定するような生産物を生産する産業部門、すなわち、労働者の生計に必要な諸商品またはこれらの商品の生産手段を供給する産業に、影響を及ぼさなければならない。生産性の増大は、これらの商品の価格を引き下げることによって、同時に労働力の価値を引き下げる。これに反して、生活手段もその素材的要素も供給しない産業部門では、生産性の増大はけっして労働力の価値に影響を及ぼすことがない。〉(江夏・上杉訳326頁)

《イギリス語版》

  〈(6) 労働力の価値の下落をもたらすためには、労働の生産性の増加が次のような産業部門を捕らえなければならない。その生産物が労働力の価値を決めている産業部門、結果的にも、習慣的な生活手段に所属する生産物であるか、またはそのための手段と物を供給することができるかの、いずれかの、生産部門でなければならない。さて、とはいえ、商品の価値は、労働者がその商品に直接的に付与した労働の量のみではなく、さらにまた生産手段の中に含まれた労働の量をも合わせて決められる。例えば、一足のブーツの価値は、靴直しの労働のみではなく、皮革の、ワックスの、紐の価値等々に依存している。であるから、労働力の価値の下落は、労働の生産性の同上と、労働手段や材料を供給する産業部門等の関連するそれぞれの商品等が安くなることでもたらされる。それらの労働手段や材料は、生活必需品の生産に要する不変資本の必須の要素となる。しかし、生活必需品を供給するでもなく、またそのような必需品の生産手段ともならないものを供給する産業部門での、労働の生産性の同上は、労働力の価値を攪乱することはない。労働力の価値を変えない。   〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《61-63草稿》

 〈しかし第二に、労働者を、彼自身が労働している労働部門のなかにおいて採りあげてみよう。以前には1時間に1エレのキャラコしか生産していなかった、ある織物工場のある労働者が、労働の生産力の向上の結果、1時間に20エレのキャラコを生産するようになったとしても、この20エレのなかに含まれている、以前より多くの不変資本を引き去ったのちは、つまりこの20エレがそもそもこの労/働者自身によって創造された価値であるかぎりにおいては、この20エレは以前に1エレがもっていた以上の価値をもつわけではない。いまかりに、彼の労働の生産力は高まっているにもかかわらず、他のすべての労働部門においては労働の生産力が、織物業でのこの変革が生じる以前と同じままであるとすれば、彼が1時間で買うことのできる生活手段は以前とくらべて多くなっているわけではない、すなわち彼は相変わらず、1労働時間が対象化されている商品を買うことができるだけである。つまり、彼自身の労働部門における生産力の増大、彼自身の労働の生産性の向上が彼自身の労働能力の再生産〔費〕を低廉化し、したがってまた彼の必要労働時間を短縮するのは、ただ、キャラコがたとえば衣料として彼自身の消費のなかにはいってくるかぎりにおいて、またその範囲内でのことであるにすぎない。この比率までのことである。だが、以上は、特定の生産部門のそれぞれについて、つまりそれぞれに固有の産業的活動領域のなかでそれだけを採りあげた場合の個々の資本のすべてについて、いえることである。われわれが社会の総資本を、したがって労働者階級と相対する総資本家階級を採りあげるならば、資本家階級が総労働日の延長も標準的労賃の切下げもしないで剰余価値を増加させることができるのは、ただ、労働の生産性の増大、労働の生産力のより高度の発展の結果、より少ない労働をもって総労働者階級を維持することが可能になる、つまり彼らの生活手段の総額をより安く生産すること、したがってまた労働者階級が彼ら自身の賃銀を再生産するために必要とする総労働時間何合計を短縮することが可能になる、そのかぎりにおいてである、ということは明らかである。しかしこの合計は、ただ、個々の生活手段の総額と特定の労働部門の総和だけから、つまりこれらの生活手段を生産する個々の労働部門の総和だけから、したがってこれらの個々の労働部門のそれぞれにおける労働の生産力の向上によって生じる労働時間の短縮の総和だけから成っている。だがわれわれは--またわれわれは、つねに特定のある領域における、特定の労働者たちをもった、特定のある個別資本をわれわれの心に描くことによってのみ、過程を考察することができるのであって--、当然、叙述を一般化するために、労働者は彼自身の生産する使用価値で生活しているかのように、過程を考察してよいのである。(この場合に想定されているのは、労働者が同一時間内に供給する生産物/の増加と同じ割合で、彼の必要とする必要労働時間が減少する、ということではない。しかし彼の必要労働時間が減少する割合と彼の消費にはいる彼自身の生産物が安くなる割合とが等しい、ということは想定されているのである。このことは、社会全体についても、つまり個々人の総計にもあてはまる。というのは、相対的剰余労働の社会的総計は、個々の労働部門における個々の労働者たちの〔相対的〕剰余労働の総計にほかならないからである。この場合にはただ、もろもろの均等化および媒介--これらのものの考察はここには属さないが、それらは本質的関係を蔽い隠すものである--がはいってくるだけである。したがって、必要労働時間の減少は剰余労働時間の増大なのである。前者が減少する分だけ後者が増大し、また逆に、前者が増大する分だけ後者が減少する。しかし、この増減は、総労働日とその大きさには無関係である。)要するに、労働者自身が相対的剰余価値を創造しうるのは、ただ、彼が自分自身の活動の領域においてそれを創造するかぎりでのこと、すなわち彼が自分自身の消費にはいる生産物を以前よりも少ない時間で生産するかぎりでのことである。だからこそ、経済学者たちは、およそ彼らが相対的〔剰余〕価値の本質に立ち入るかぎりは、つねにこの前提に逃げ場を見いだすのである(ミルを見よ)。〉(草稿集④379-381頁)
    〈しかし、かりに労働の生産性が一般的に倍加したとすれば、すなわち、労働能力を再生産するために必要な諸商品(使用価値)を直接・間接に供給する、つまり労働者の消費にはいる生産物を供給するすべての産業部門において倍加したとすれば、この一般的な労働生産性が一様に増大したのと同じ割合で労働能力の価値が低下し、したがってこの価値の補塡に必要な労働時間が減少し、そしてそれが減少するのと同じ割合で、労働日のうち、剰余時間を/なす・資本家のために労働がなされる・部分が増加するであろう。しかしながら、これらのさまざまな労働部門における生産諸力の発展は、一様でもなければ同時に起こるものでもなくて、不ぞろいな、異なった、またしばしば対立した運動にさらされている。労働の生産性が、労働者の消費に直接・間接にはいる産業部門の一つ、たとえば服地を供給する産業において増加するという場合であれば、われわれはこの特定の産業の生産性が増大するのと同じ割合で労働能力の価値が低下すると言うことはできない。より安く生産されるのはその生活手段だけである。この低廉化は、労働者の生活必需品のうちの一可除部分に影響するだけである。この一部門における労働の生産性の増大は、必要労働時間(すなわち、労働者にとって必要な生活手段を生産するために必要な労働時間)を減少させるが、それはしかしこの生産性の増大に比例してではなく、この労働の生産物が平均的に労働者の消費にはいる割合に応じてにすぎない。したがって、個々の産業部門のどれをとっても(あるいは農業生産物は例外かもしれないが)、この影響を明確に算定することはできない。〔しかし〕このことは一般的法則をなんら変えるものではない。相対的剰余価値は、労働者の消費に直接・間接にはいる使用価値(生活手段)が低廉化されるのに比例してのみ発生し増大しうるということ、すなわち殊的一産業部門の生産性の増大に比例してではないが、しかしこの部門の生産性のこの増大が必要労働時間を減少させるのに、すなわち労働者の消費にはいる生産物をより安価にするのに比例して発生し増大しうるということ、--このことは依然として正しい。それゆえ、相対的剰余価値を考察するときには、つねに次の前提から出発できるばかりでなくそうしなければならない、--すなわち、資本が投下されている特殊的部門における生産力の発展すなわち労働の生産性の発展が、直接に必要労働時間を一定割合だけ減少させるという、すなわち労働者の生産した生産物が彼の生活手段の一部をなしており、したがってまたこの生産物の低廉化が一定割合だけ彼の生活の再生産に必要な労働時間を減少させるという前提である。この前提のもとでのみ相対的剰余価値は発生するのであるから、相対的剰余価値を考察するときには、つねにはこの前提が定在することを想定しうるし、またそうしなければならないのである。〉(草稿集④391-392頁)
 〈商品が価値どおりに売られることを前提すれば、資本が機械によってつくりだす相対的剰余価値は、労働の生産力を増大させると同時に個々の生産物の価格を減少させる他のすべての手だてを充用する場合と同様に、単に、労働能力の再生産に必要な諸商品が安くなり、それゆえ労働能力の再生産に必要な・労賃に含まれている労働時間の等価にすぎない・労働時間が短縮される、ということ、それゆえ、総労働日の継続時間が同じままで剰余労働時間が延長されるということであるにすぎない。(〔これを〕修正する〔modifizi8eren〕いくつかの事情が生じるが、それらについてはのちに述べよう。)必要労働時間のこうした短縮は一つの結果であるが、資本主義的生産全体の利益になり、また、労働能力一般の生産費を減少させるものである。なぜならば、前提によれば、機械によって生産される商品が労働能力の再生産一般にはいるからである。けれどもこれは、個々の資本家にとっては少しも機械を採用する動機ではない。それは一般的な結果なのであって、個々の資本家はこれによってとくに利益を得るわけではないのである。〉(草稿集④527頁)

《初版》

 〈安くなった商品が労働力の価値を引き下げるにしても、この引き下げは、もちろん、安くなった分に、すなわち、その商品が労働力の再生産にはいり込む割合に、かぎられている。たとえば、シャツは必要生活手段であっても、多くの必要生活手段の一つでしかない。シャツが安くなれば、シャツにたいする労働者の支出だけが減る。必要生活手段の総額は、確かに、個々の商品、すなわち特殊な諸産業の譜生産物からのみ成り立っており、一つ一つの特殊な商品の価値は、いつでも、労働力の価値の一部分しか形成していない。とはいえ、労働力の価値の減少総計、したがって、労働力の価値の再生産に必要な労働時間の減少総計は、上記の特殊な生産諸部門全般における必要労働時間の短/縮の総計に等しい。われわれは、この一般的な結果を、ここでは、あたかもこの結果が各個のばあいの直接的な結果であり、直接的な目的であるかのように、取り扱う--たとい、ことがこのように現われていなくとも--。個別資本家が、労働の生産力を高めることによってたとえばシャツを安くしても、彼の念頭には、労働力の価値を下げてその分だけ必要労働時間を短縮するという目的が、必ずしも浮んでいるわけではないが、彼がとどのつまりこの結果に寄与しているかぎりでのみ、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与しているわけである(3)。資本の一般的な必然的な諸傾向は、これらの諸傾向の現象形態とは区別されなければならない。〉(江夏訳357-358頁)

《フランス語版》

 〈ある物品が安くなれば、その物品が労働力の再生産に入りこむ割合に応じてのみ、労働力の価値を引き下げる。たとえばシャツは必需品であるが、このほかにも必需品はたくさんある。シャツの価格の低下は、たんに、この特殊な物品にたいする労働者の支出を減らすだけのことだ。ところが、生活必需品の総和は、別々の産業から生ずるある特定の諸物品のみから成っている。この種の物品の一つ一つの価値は、労働力の価値のなかに部分として入りこみ、労働力の価値の低下全体は、これらのすべての特殊な生産部門における必要労働の短縮の総和によって測られる。われわれはここでは、この最終的な結果を、それが直接的な結果であり直接の目的であるかのように取り扱う。一人の資本家が、労働の生産力を増大させることによって、たとえばシャツの価格を引き下げても、彼はそのことによって労働力の価値を引き下げ、したがって、労働者が自分自身のために労働する労働日部分を短縮する、という意図を必ずしももっているわけではない。だが、結局、彼は、この結果に寄与することによってのみ、一般的剰余価値率を高めることに寄与している のである(3)。資本の一般的、必然的な諸傾向は、これらの傾向が現われる形態とは区別されなければならないのである。〉(江夏・上杉訳327頁)

《イギリス語版》

  〈(7) 勿論、安くなった商品は、ただその限りにおいてのみ、労働力の価値を下落させる。(ラテン語)下落は、その商品が労働力の再生産において使用される範囲に比例して生じる。例えば、ワイシャツである。これは生活必需品の一つである。がしかし、様々な必需品のうちの一つなのである。であるから、生活必需品全体ということになれば、様々な商品群からなっており、かつそれぞれ別々の産業の生産物なのである。そして、それらの商品それぞれの価値が、労働力の価値の中に、その構成要素として入る。後者の価値は、その再生産のために必要な労働時間の減少によって減少する。全体としての減少は、それらの種々の異なる産業によって実現された労働時間の短縮の総計による。だがここでは、この一般的結果は、あたかも、個々の産業において、直接的にそのようになるもとして瞬時に実現するかのように取り扱われる。すなわち、労働の生産性の増大によって個々の産業資本家がワイシャツを安くする時がいつであれ、彼においては、労働力の価値の縮小、必要労働時間の該当比部分の短縮をわざわざ意図する必要性などは全くないのである。しかしながら、彼がこの結果に究極的に貢献する比率において、全般的に剰余価値率の上昇を支援することにはなる。*3
  一般的かつ必然的な資本の傾向は、資本の存在証明の各形式とは明確に区別されねばならない。(訳者注: 資本は、労働力の価値を低下させるという傾向を示すが、これが資本の本質的な各存在形式 ( forms of manifestation ) であるはずもないことを忘れるなと、書いているのである。 まあ、必要はないと思ったが、訳者としては、自分の頭に言い聞かせる必要があるのである。 直ぐには訳せなかった。 意味の把握が出来るまで相当の時間を要した。先輩の訳は、「資本の一般的にして必然的な諸傾向は、この傾向の現象形態とは区別されるべきである。」と意味難解性を採用しているところである。)〉(インターネットから)


●原注3

《61-63草稿》

   〈R〔ラムジ〕は、機械などはそれが可変資本に影響を及ぼすかぎりではどの程度に利潤や利潤率に作用するか、を正しく述べている。すなわち、それが作用するのは、労働能力の減価によってであり、相対的剰余労働の増加によってであり、あるいはまた、総再生産過程を見るならば、総/収入のうち賃金を補填するべき部分が小さくなることによってである。
   「固定資本の構成にはいらない諸商品の生産に従事する産業の生産性の上昇または低下は、総額のうち労働の維持に役だつ部分の割合を変えることによるほかには、利潤率に影響を及ぼすことはできない。」(168ページ)「もし製造業者が機械の改良によって彼の生産物を2倍にするならば、結局、彼の財貨の価値は、その量が増加したのと同じ割合で低下せざるをえない。{これは、実際には、機械の損耗を計算に入れれば、この2倍になった量は以前にその半分が必要としたよりも多くの費用を必要としないということを前提してのことである。そうでなければ、価値は下がっても、その量に比例してではない。その量は2倍になろうとも、その価値のほうは、個々の商品の価値も総生産物の価値も、2対1にではなく、2対1[1/4]、等々に下がるだけであろう。}そして製造業者が得(トク)をするのは、ただ、彼が労働者により安く衣服を供給することができて、総収入中のより小さい部分が労働者の手に落ちるかぎりでのことである。……農業者も{製造業者の産業の生産性の上昇の結果}得をするのは、やはりただ、彼の支出の一部分が労働者に衣服を供給することにあって彼が今ではこれをより安く手に入れることができるかぎりでのことであり、したがって製造業者と同じ仕方でのことである。」(168、169ページ。)〉(草稿集⑧418-419頁)

《初版》

 〈(3)「工場主が機械の改良によって自分の生産物を2倍にしても、……彼が(とどのつまり)利益を得るのは、上記の改良によって彼が労働者にもっと安く衣料を供給しうるようになり、……こうして総収益のいっそう小さな部分が労働者のものになるかぎりにおいてのことでしかないに(ラムジー、前掲書、168ページ。)〉(江夏訳358頁)

《フランス語版》

 〈(3) 「工場主が、自分の機械の改良の結果、自分の生産物を倍加するばあい、……彼が利益を得る(結局において)のは、それによって彼が労働者にいっそう安価に衣服を与える等々のことができるようになり、こうして総収益のいっそうわずかな部分が労働者の手に入るかぎりのことである」(ラムジ、前掲書、168-169ページ)。〉(江夏・上杉訳327頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 3 * 「我々は次のことを考えて見よう… 生産物を… 機械類の改良によって工場主らはその量を倍にした… 彼は、全売り上げのより小さな部分をもって、彼の労働者に衣服を着せることができるであろう… そのようにして、彼の利益は上昇するであろう。だが、その他のことはなんら影響されることはないであろう。」(ラムジー 既出)〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

  〈いっさいの困難は、労働の生産性を高めるさいに個々の資本家が直接に考えているのは必要労働時間を引き下げることではなくて、労働時間をその価値以上に売ること--それを平均的労働時間以上に高めること--だ、ということから生じる。しかし、この高められた労働時間のうち賃銀の補塡に必要な部分はその割合が減少する、すなわち剰/余労働時間が--まわり道をして価値以上の販売によって表わされるのではあるが--増大するのである。〉(草稿集④386-387頁)

《初版》

 〈資本主義的生産の内在的な諸法則が、いかにして、諸資本の外的な運動のなかで現われ競争の強制法則として貫徹し、したがって、主な動機として個別資本家の意識にのぼるか、その仕方を説明することは、この著書の範囲外である。競争の科学的な分析は、一般的には、資本の内的な本性が把握されるときに初めて可能になる。このことはちょうど、天体の外観上の運動が、天体のほんとうの、といっても感覚では知覚しえない運動を、認識する人にだけ、理解されうるのと同じである。とはいえ、相対的剰余価値の生産を理解するためには、すでに得られた成果だけにもとづいて、次のことを述べておかなければならない。〉(江夏訳358頁)

《フランス語版》  このパラグラフも2つに分けられているが、ここでは一緒に紹介しておく。

 〈われわれはここでは、どのようにして資本主義的生産の内在的傾向が、個別資本の運動のうちに反映し、競争の強制法則として自己を主張し、まさにそのことによって、資本家たちに彼らの活動の動機として押しつけられるか、を詮議するには及ばない。
  競争の科学的分析は、実際は、資本の内的本性の分析を前提とする。このことは、天体の外観上の運動がその真の運動を知る者にとってだけ理解可能である、のと同じである。しかし、相対的剰余価値の生産をもっとよく理解させるために、われわれの研究の経過のなかですでに得られた結果にもとづく若干の考察を、つけ加えておこう。〉(江夏・上杉訳327頁)

《イギリス語版》

  〈(8) ここで、次のような事を考察する意図はない。資本主義的生産に内在する法則として、資本個々の集団としての運動に現われるそれら自体の兆候とか、それらが自身の主張する強権的な競争原理とか、資本家としての行為の直接的動機となる資本家個人の、家まで持ち帰る心や意識とかの、道筋については、考察してみる意図はない。だが、以下のことはより明瞭である。資本の内的特質の概念を持つ以前に、競争の科学的な分析は不可能である。丁度、天体の運動そのものの正確な動きを知る者でなければ、その運動を理解することはあり得ない。 運動は直接的に5感では感じとることはできない。にもかかわらず、相対的剰余価値の生産を理解するために、以下のことを付け加えておこう。そこでは、我々がすでに獲得した結果以上のものはなにも仮定してはいない。〉(インターネットから)


 (付属資料3に続く。)

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(9)

2024-04-18 23:04:36 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(9)


【付属資料】(3)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

 〈実際に通常の経過を観察してみよう。これまで労働日が12時間、剰余労働時間が2時間だったとき、資本家が、労働生産性の増大によって、たとえばいままでの2倍のものを生産するとしよう。この場合には、剰余価値が増大しうるのは--彼の利得が得られるのは--ただ、次の二つのうちのいずれかによるしかない。一つは、労働の生産物が一定の比率で労働能力の再生産にはいり、労働能力がこの比率で安くなり、それに比例して賃銀が下落し、すなわち労働能力の価値が減少し、したがって、総労働日のうち、これまでは労働能力の価値というこの部分の再生産に必要であった部分が減少することによってである。いま一つは、工場主が商品をその価値よりも高く売る、すなわちあたかも労働の生産性は従来のまま変わりがないかのように売ることによってである。彼が自分の商品を価値以上に売り、したがって他のすべての商品を価値以下で買う、つまりより安く--他の諸商品と彼の商品とに相対的に含まれている労働時間の比でよりも安く--買うのに比例して彼は新しい剰余価値を生みだすのである。しかし、労働者はこれまでと同じ標準的賃銀しか受け取らない。したがって、労働の生産性が向上する以前と比べて、彼が生産物の総価値のうちから受け取る部分は減少する、言い換えれば、生産/物の総価値のうち労働能力の購入に支出される部分は減少する。したがって総労働日のうち賃銀の再生産にあてられる部分は減少し、資本家のために使われる部分は増加する。それは、労働者の労働の生産性が高められたことによって彼の維持費が減少するというのと、言い換えれば、労働者の労働の生産性が増大したことによって、資本家が新しい価値を受け取るのに比例して労働者は他のすべての生活手段をそれだけ安く買うことができるというのと実際的には同じことである。なお、価値以上の販売が-般的に行なわれるという前提は自分自身を止揚してしまうのであって、現に競争はじっさいに価値以上の販売を価値以下の販売によって相殺してしまうのだ、ということをここで繰り返す必要はない。ここで問題にしているのは次のような場合である。すなわち、上昇した労働の生産性がまだその同じ事業部門のなかで一般化しておらず、そのため資本家が彼の生産物の生産に現実に必要とした労働時間よりも多くの労働時間を必要としたかのように売る(少なくとも一定の比率で、--というのは、彼はいつでも他の資本家よりも安く売るであろうから)、という場合である。〉(草稿集④382-383頁)
    〈第二に。--
  商品をそれの価値の最小限にまで縮減することが、すなわちそれのできるかぎりの低廉化が直接に相対的剰余価値を生産するのは、ただ、これらの商品が必要生活手段として労働者の消費にはいり、それゆえそれらの低廉化が労働能力の低廉化と、すなわち必要労働時間の、だからまた支払われた労働時間の縮減と一致するかぎりにおいてでしかない。このことは、これはまたこれで、労働日全体を見れば、すでに見たように、労働の価値あるいは価格の低落として表現される。
  けれどもこの法則は、資本主義的生産のこの特定の領域について妥当するばかりではなく、資本主義的生産がしだいにわがものとし自己の生産様式のもとに服従させようと努めているあらゆる生産領域についても妥当する。すでに見たように、個別的資本家にとっては、労働能力の低廉化が達成されるのは、直接に彼が生産する個々の商品の生産の低廉化によってではない(少なくとも、達成された労働/能力の低廉化は、彼の生産物のこの低廉化の結果として出てくるのではない)のであり、彼の生産物のこの低廉化の結果として、労働能力の低廉化が達成されるかぎりでは、それは、労働能力の低廉化を一般的にもたらすことによって、この個別的資本家の利益ではなく、資本一般〔Capital überhuapt〕の--資本家階級の--利益となるのである。
    しかし、ある商品の価値は、所与のある生産段階でそれを生産するのに平均的に必要な労働時間によって規定されているのだから、例外的に、生産段階の平均的な水準を超えて、より生産的な労働方法で生産される商品の個別的価値は、この商品の一般的価値すなわち社会的価値を下回る。それゆえ、この商品が、それと同じ種類の商品の社会的価値以下で、だがそれの個別的価値以上で--つまりそれの個別的価値とそれの一般的価値との差額に等しくない〔ある価値額を含む〕なんらかの価値で--売られるならば、その商品はそれの価値以上で売られるのであり、言い換えれば、それに含まれている労働は、それが一般に生産されるときに必要とされる平均労働にたいして、一時的に、より高度な労働となるのである。しかし、それに充用された労働者の労働能力は、より高度な労働能力として支払われるわけではない。だから、この差額は資本家のふところにはいり、彼にとっての剰余価値を形成する。生産様式の変化がもたらす商品の個別的価値と社会的価値との差額にもとづく、この種の剰余価値は、瞬過的な量であり、新たな生産様式が一般化してそれ自身が平均的生産様式になってしまえば、ゼロになる。だが、生産様式の変化からその結果として直接に生じるのは、この瞬過的な剰余価値である。それゆえ、この瞬過的な剰余価値が資本家の直接的な動機となるのであり、だからまたそれは、資本がわがものとするあらゆる生産領域を、そこで生産される使用価値がなにかにかかわりなく、だからまたそこでの生産物が労働者の必要生活手段に、すなわち労働能力の再生産にはいるかはいらないかにかかわりなく、一様に支配するのである。しかし、剰余価値のこの形態は瞬過的であり、つねにただ個別的資本家に関わりうるだけであって、総資本に関わるものではない。なるほどそれは、その個別的部門では労働能力の相対的減価、あるいは労働の価格の相対的減価をもたらすが、しかしそれは、労働の価格が下がるからではなく、上がらないからである。だから、この減価は剰/余価値一般に関わりをもつものではない。なぜならそれは、その生産物が労働者の必要生活手段にはいるものではないので、それ自身の部門における労働価格の永続的な(相対的)下落を引き起すことも、同じく労働能力の一般的な低廉化を、だからまた必要労働時間の短縮を引き起こすこともないからである。〉(草稿集⑨392-394頁)

《初版》

 〈1労働時間が6ペンスすなわち1/2シリングという金量で表わされているとすれば、12時間の労働日では6シリングという価値が生産される。労働の与えられた生産力をもってすれば、この12労働時間内に12個の商品がつくられる、と仮定しよう。各1個のうちに消費される生産手段である原料等々が、6ペンスだとする。こういった事情/のもとでは、1個の商品は1シリングに値する、すなわち、生産手段の価値が6ペンス、この商品の加工で新たにつけ加えられた価値が6ペンスである。さて、ある資本家が首尾よく、労働の生産力を2倍にし、したがって、この商品種類を12時間の労働日で12個生産するのではなく24個生産する、ということにしよう。生産手段の価値が不変であれば、1個の商品の価値がいまや9ペンスに下がる、すなわち、生産手段の価値が6ペンス、最後の労働を用いて新たにつけ加えられる価値が3ペンスになる。生産力が2倍になったのに、1労働日は相変わらず6シリングという新価値しかつくり出さない。ところが、新価値は2倍の生産物に配分されている。だから、各1個の生産物には、この総価値の以前の1/12ではなく1/24しか、6ペンスではなく3ペンスしか、ふりあてられていない。あるいは、同じことだが、生産手段が生産物に転化するさいに、いまでは、以前のようにまる1労働時間ではなく、半労働時間しかつけ加えられていない。この商品の個別的価値は、いまでは、この商品の社会的価値以下である。すなわち、この商品には、社会的な平均条件のもとで生産される同じ物品の大群に比べて、より少ない時間しか費やされていない。1個は、平均して1シリングに値していた、すなわち、2時間の社会的労働を表わしていた。変化した生産様式を用いると、この1個は9ペンスにしか値しない、すなわち、1[1/2]労働時間しか含んでいない。ところが、一商品のじっさいの価値は、その商品の個別的価値によってではなく、その商品の社会的価値によって規定されている。すなわち、個々のばあいにその商品に生産者がじっさいに費やす労働時間によってではなく、その商品の生産に社会的に必要な労働時間によって規定されている。だから、新方法を用いる資本家が、自分の商品を1シリングというその社会的価値で売れば、彼は、この商品をそれの個別的価値よりも3ペンス高く売り、したがって、3ペンスの特別剰余価値を実現することになる。ところが、他方、12時間の労働日が、いまや彼にとっては、以前のように12個ではなく24個の商品のうちに表わされている。だから、1労働日の生産物を売るためには、彼は2倍売れ行きまたは2倍の大きさの市場を必要とする。ほかの事情に変化がなければ、彼の商品は、その価値を引き下げることによってのみ、もっと大きな市場範囲を征服する。だから、彼は、自分の商品を、その個別的価値以上で、とはいってもその社会的価値以下で、たとえば1個10ペンスで売るであろう。こんなわけで、彼は、各1個につき相変わらず1ペンスの特別剰余価値を搾り出す。剰余価値のこういった増大が彼にとって生じても、このことは、彼の商品が必要生活手段の範囲に属しているかどうかにはかかわりがないし、したがって、彼の商品が、労働力の一般的価値のなかに、この価値を規定するものとして、はいるかどうかにもかかわりがない。だから、後のほうの事情はさておき、どの個別資本家にとっても、労働の生産力を高めて商品を安くしようとする動機が、実存している。〉(江夏訳358-360頁)

《フランス語版》  このパラグラフも2つに分けられているが、一緒に紹介しておく。

 〈通常の労働条件のもとで、12時間労働日で12シリングの価値ある12個(なんらかの一物品の)が製造されると/仮定しよう。さらに、12シリングというこの価値の半分は12時間の労働から生じ、他の半分はこの12時間の労働によって消費される生産手段から生ずる、と仮定しよう。このばあい各1個は1シリングすなわち12ペンスに、つまり、原料として6ペンス、労働によって付加される価値として6ペンス、に値するであろう。ある資本家が新しい工程のおかげで労働の生産性を首尾よく倍加し、したがって、12時間で24個を首尾よく製造するものとせよ。生産手段の価値が同じままであれば、各1個の価格は9ペンスに、つまり、原料としての6ペンスと、最後の労働によって付加される手間仕事としての3ペンスに、下がるであろう。生産力は倍加したのに、1労働日は依然として6シリングの価値しか創造しないが、この価値はいまでは2倍の数の生産物の上に配分される。したがって、各1個の生産物には、この価値の1/12ではなく1/24しか、6ペンスではなく3ペンスしか、手に入らない。生産手段が生産物に変態するあいだに、生産手段には1労働時間でなく半労働時間しか付加されない。これらの例外的な条件のもとで生産された各1個の個別的価値は、その社会的価値以下に下がることになる。すなわち、この各1個は、社会的な平均的条件のもとで生産される多量の同じ物品よりもわずかな労働しか費やされていないのである。1個は平均1シリングに値する、あるいは2時間の社会的労働を表わしたが、新しい工程のおかげで、それは9ペンスにしか値しない、あるいは1[1/2]労働時間しか含んでいないのである。
    ところで、一物品の価値とは、その個別的価値ではなくその社会的価値を意味するのであって、後者は、それがある特殊なばあいではなく平均して費やさせるところの労働時間によって、規定される。新しい方法を用いる資本家が、この1個を1シリングというその社会的価値で売るならば、彼はそれを、その個別的価値よりも3ペンス高く売り、こうして3ペンスの特別剰余価値を実現するのである。他方、12時間労働日は、以前の2倍の生産物を彼にもたらす。したがって、この生産物を売るためには、彼は2倍の販路、あるいは2倍も広い市場を必要とする。すべての事情が同じままであれば、彼の商品は、その価格を引き下げることによってしか、市場のなかで以前よりも広い場所を獲得するこ/とができない。したがって、彼は彼の商品をその個別的価値以上で、だがその社会的価値以下で、つまり1個10ペンスで売るであろう。彼はこうして1個につき1ペンスの特別剰余価値を実現するであろう。彼の商品が、労働力の価値を規定する必要生活手段の範囲に属していようがいまいが、彼はこの利得をつかみとる。こういった事情は別にしても、個々の資本家は、商品価格を引き下げるために労働の生産性を高めるという関心によって、押し動かされていることが、わかるのである。〉(江夏・上杉訳327-329頁)

《イギリス語版》

  〈(9) もし、1労働時間が6ペンスに体現されているとすれば、6シリングの価値は、12時間の1労働日で生産されるであろう。広がりを見せた労働の生産性をもってすれば、12個の品物がこれらの12時間で生産されると考えてみよう。それぞれの品物に使用された生産手段の価値を6ペンスとしよう。これらの状況で、それぞれの品物のコストは1シリング。そこには、生産手段の価値として6ペンス、と、それらに労働によって新たに追加された価値の6ペンスがある。さて、ここで、ある一人の資本家が労働の生産性を2倍にする方法を考え出したとしてみよう。そしてその12時間の労働日にうちに、12個に代わって、その種の品物 24個を生産する。生産手段の価値が同じに留まるとすれば、それぞれの品物の価値は、9ペンスに下落するであろう。そこには、生産手段の価値が6ペンス、と、労働によって新たに追加された価値の3ペンスがある。倍になった労働生産性にも係わらず、日の労働は、以前と同じく、新たな6シリングの価値を作り出すが、それ以上のものではない。とはいえ、その価値が2倍数の品物の上に振り分けられる。今、それぞれのこの品物は、価値の中に、1/12 に代わって、1/24で体現された労働を有している。6ペンスに代わって3ペンスが、または、同じ量として云うならば、全1時間の労働時間に代わって、生産手段が それぞれの品物の中に変換される時に、わずか半時間の労働時間が、ここで、追加されるということである。これらの品物の個々の価値は、今や、それらの社会的価値以下となる。他の言葉で云えば、社会的平均的条件の下で生産される同じような品物の多くの物よりも少ない労働時間の品物となっている。それぞれの品物の平均価格が、1シリング、そして社会的労働の2時間を表しているとする。しかし、変更された生産様式下では、わずか9ペンスの価格、または、わずか1 1/2時間の労働を含むにすぎない。とはいえ、商品の実際の価格は、そのものの個別の価格ではない。というのも、実際の価値は、その商品が個々の場合に生産者が要する労働時間によって計量されるのではなくて、その生産に要する社会的時間によってなのである。 従って、もし、新たな方法を採用した資本家は、彼の商品をその社会的価値 1シリングで売り、 彼は、その個々の価値よりも3ペンス高く売る。そして、その様にして、3ペンスの更なる剰余価値を実現する。他方、彼に関しては、12時間の労働日が今では、12個に代わって24個の品物で表される。それゆえ、1労働日の生産物を始末するためには、以前の2倍の需要がなければならなくなった。すなわち、市場が2倍の広さにならねばならない。そこで、彼は、それらをそれらの個々の価値よりは高く、ではあるが、それらの社会的価値よりは安く、例えばそれぞれ10ペンスで売るであろう。このようにしても、彼は、依然として、それぞれから1ペニーの更なる剰余価値を絞り出す。剰余価値の増大物は彼のポケットに入る。彼の商品が、生活必需品の範疇、労働力の一般的価値を決定する部分に関係するもの、に属して居ようと居まいと、彼のポケットに入る。かくて、この後者の状況は、独立的に、存在する。すなわち、労働生産性を増大することによって、彼の商品を安くするという動機は、いずれの個々の資本家にも存在するのである。〉(インターネットから)


●第10パラグラフ

《61-63草稿》

  〈たとえば、彼は、3/4時間の生産物を1時間の生産物として売る。なぜなら、彼の競争者の大部分はこの生産物の生産にいまだに1時間を必要としているからである。これまで必要労働日が10時間、剰余労働が2時間であったとすれば、いまでは労働者は、10×4/4時間の代わりに10×3/4時間労働すればよい(というのは、彼らの労働は平均労働時間よりも1/4だけ高いのだから)、つまり10時間ではなくて7[1/2]時間労働すればよい。また、かりに剰余価値は相変わらず必要労働時間の1/5(10/5=2)だとすれば、それはいまや、7[1/2]時間の、すなわち15/2時間の1/5となるはずであろう。15/2時間の1/5は、15/10=1[10/5]=1[1/2]すなわち3/2つまり6/4時間である。実際に、この労働の3/4時間が平均労働の1時間すなわち4/4時間に等しい場合には、この労働の6/4は、〔平均労働の〕8/4すなわち2労働時間に等しい。労働日はそれにともなって、7[1/2]=9時間にまで短縮されるはずであろう。〔ところが〕、資本家は相変わらず労働者に12時間労働させ、必要労働時間にたいしては7[1/2]時間で支払い、それゆえ4[1/2]時間を儲けるのである。彼の利得は、必要労働時間が10時間から7[1/2]時間に減少したこと、すなわち労働者が7[1/2]時間の生産物で自分の必要生活手段のすべてを買うことができるということに由来している。それはあ/たかも、労働者が彼の全生活手段を自分で生産しているときに労働生産性の増大によって、これまで1時間かかって生産していたのと同じだけの生活手段を3/4時間で生産できるようになり、したがって1O時間かかっていたものが7[1/2]時間ですむようになる、というのとまったく同じである。かりに、増大した労働の生産性のもとで〔必要労働と剰余労働との〕割合が同じままであるとすれば、総労働日は縮小するであろう。なぜなら、必要労働が減少しているのに、必要労働と剰余労働との割合は同じままだからである。労働者の生産物が彼自身の消費のなかに一定の割合ではいるので労働能力の価値が、したがってまた必要労働時間が減少し、したがってまたそれに比例して必要労働時間が減少し、剰余労働時間したがってまた剰余価値が増加するのであろうと、あるいは、労働の生産性が上昇した結果、1日の特殊な労働部門がその同じ部門の社会的平均労働者の水準以上に高まり、したがって、たとえば1労働時間の〔生みだす〕価値が他のすべての商品〔のそれ〕にくらべて高くなり、資本家は、この労働にたいして支払うときには--旧来の基準にしたがって--標準的労働として支払うのに、この労働を売るときには標準を越えたものとして売る、というのであろうと、実際的にはまったく同じ結果になる。どちらの場合にも、労賃を支払うのに、これまでよりも少ない時間数で足りる、すなわち必要労働時間が減少している。またどちらの場合にも相対的剰余価値は、すなわち労働日の絶対的延長によらないで獲得される剰余価値は、労働の生産性が増大した結果、賃銀の生産に必要な労働時間が減少したことから生じるのである。第一の場合、それは直接的である、なぜなら、生産物が相変わらず価値どおりに売られているのに、労働者は同一分量の使用価値をより小さい労働時間で生産するからである。第二の場合には、生産性の向上の結果より少量の労働時間がより大量の平均労働時間と等置され、したがって労働者はより少ない--しかしより高く売られる--労働時間で同一量の使用価値を受け取るからである。どちらの場合にも、相対的剰余価値は、必要労働時間が短縮されていることから生じるのである。〉(草稿集④382-384頁)
    〈新しい機械を採用する場合、生産の大量がまだ旧生産手段/の基礎の上で続けられているあいだは、資本家は商品をその社会的価値以下で売ることができる。といっても、彼は商品をそれの個別的価値以上に、すなわち彼が新たな生産過程のもとでその商品の生産に必要とする労働時間以上に売るのではあるが。したがって、この場合には、剰余価値は資本家にとっては販売--他の商品所有者から詐取すること〔Übervorteilungg〕、商品の価格をその価値以上に高くすること--から生じるように見えるのであって、必要労働時間の減少と剰余労働時間の延長とから生じるようには見えないのである。とはいえ、これもまた単なる外観にすぎない。労働はこの場合同じ事業部門の平均労働とは違って例外的に〔高い〕生産力を得ている結果、この労働は平均労働に比べてより高い労働になっているのであって、その結果、たとえばこのより高い労働の1労働時間は平均労働の5/4労働時間に等しいのであり、より高い力能にある単純労働なのである。だが資本家は、この労働にたいして、平均労働に支払うのと同じように支払う。こうして、〔新たな労働条件のもとでの〕より少ない労働時間数が平均労働のより多くの労働時間数に等しいものになる。資本家はこの労働に平均労働として支払い、しかもこれを、そのとおりのもの、すなわちより高い労働--その一定量は平均労働のより多くの量に等しい--として売るのである。したがって労働者はこの場合、前提にしたがえば、同じ価値を生産するのに平均労働者よりも少ない時間、労働しさえすればよいのである。したがって彼は、じっさい、自分の労賃の等価あるいは自分の労働能力の再生産に必要な生活手段を生産するために--平均労働者よりも--少ない労働時間、労働するのである。したがって、彼は資本家に剰余労働としてより多くの労働時間数を与えるのであって、まさにこの相対的剰余労働こそが販売のさいに資本家に商品の価格のうちのその価値を越える超過分を提供するものにほかならない。だから、資本家はこの剰余労働時間、あるいは同じことであるが、この剰余価値をただ販売でだけ実現するのであるが、しかしこの剰余価値は販売から生じるのではなく、必要労働時間の短縮と、したがってまた剰余労働時間の相対的増大とから生じるのである。〉(草稿集④513-514頁)
    〈機械は、それが新たに採用されている作業場での必要労働時間を相対的に短縮する。もし手織工の2労働時間が力織機の採用ののちにはもはや社会的必要労働の1時間に等しいだけだとすれば、今では力織機工の1労働時間は、力織機が一般的にこの種の織物業に採用されないうちは、必要労働の1時間よりも大きい。力織機工の1労働時間の生産物は、〔社会的必要労働の〕1労働時間の生産物よりも高い価値をもっている。それはあたかも、単純労働がより高い力能にある〔auf hörer Potenz〕/のと、あるいはより高い種類の織物労働がその労働時間に実現されているのと同じである。つまり、力織機を利用する資本家が1時間の生産物を、なるほど旧来の労働時間の水準以下、それの従来の社会的必要価値以下で売るが、しかしその個別的価値以上に、すなわち彼自身が力織機を使ってこの生産物を生産するために使用しなければならない労働時間以上に売る、という範囲では、そういうことになるのである。したがって、労働者は自分の賃銀を再生産するためにはより少ない時間労働すればよいのであり、彼の必要労働時間は、彼の労働が同じ部門でより高い労働になっているのと同じ割合で短縮されているのである。したがって、この労働者の一労働時間の生産物は、あるいは、まだ古い生産様式が支配している作業場での2労働時間の生産物よりも高く売られるかもしれない。それゆえ、この場合には、標準〔労働〕日が変わらない--同じ長さである--とすれば、必要労働時間が短縮されているので、剰余労働時間が増大する。……もちろん、必要労働時間のこの短縮は一時的であって、それは、機械がこの部門で一般的に採用されて商品の価値がふたたびそれに含まれている労働時間にまで引き下げられてしまえば、消えてしまう。とはいえ、これは同時に、資本家にとって、たえず新たな、小さな諸改良を採用することによって、彼が充用する労働時間を同じ生産部面において一般的な必要労働時間の水準以上に高める刺激なのである。このことは、機械がどの生産部門に充用されるのであろうと、言えることであって、それによって生産される諸商品が労働者自身の消費にはいるかどうかには関係がない。〉(草稿集④527-528頁)

《初版》

 〈とはいっても、このばあいでさえ、剰余価値の生産の増大は、必要労働時間の短縮とこの短縮に対応する剰余労働の延長とから発生する(3a)。必要労働時間は10時間、あるいは労働力の日価値は5シリングであったし、剰余労働は2時間、したがって、1日に生産される剰余価値は1シリングであった。ところで、わが資本家はいまでは、24個を生産し、これを1個当たり10ペンスで、すなわち合計20シリングで売る。生産手段の価値は12シリングに等しいから、14[2/5]個の商品は前貸不変資本しか補填しない。12時間の労働日は残りの9[3/5]個で表わされる。労働力の価値=5シリング であるから、必要労働時間は6個の生産物で、剰余労働は3[3/5]個の生産物で表わされる。社会的な平均条件のもとでは、必要労働が労働日の5/6を占め、剰余労働が労働日の1/6しか占めていないのに、いまでは、必要労働時間が労働日の2/3よりも小さく、剰余労働が労働日の1/3よりも大きい。同じ結果は、次のようにしても得られる。12時間の労働日の生産物価値は20シリングである。このうち12シリングは、再現するにするにすぎない生産手段の価値に属している。だから、8シリングが、1労働日を表わす価値の貨幣表現として残る。この貨幣表現は、同じ種類の社会的な平均労働--この平均労働の12時間は、6シリングのうちにしか表わされていな/い--の貨幣表現よりも高い。例外的な生産力をもっている労働は、なん乗かされた労働として作用する、すなわち、同じ時間内に、同種の社会的な平均労働よりも高い価値をつくり出す。ところが、わが資本家は、労働力の日価値にたいし、相変わらず5シリングしか支払わない。したがって、労働者がこの価値を再生産するために必要とする時間は、いまや、以前のように10時間ではなく8時間以下である。だから、彼の剰余労働は、2時間から4時間以上に増加し、彼が生産する剰余価値は、1シリングから3シリング6ペンス〔フランス語版では「3シリング」〕に増加する。こんなわけで、改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて1労働日中のいっそう大きな一部分を、剰余労働として奪い取る。彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行なうことを、個別的に行なうわけである。ところが、他方、新たな生産様式が普及され、したがって、もっと安く生産される商品の個別的価値とその商品の社会的価値とのが消滅してしまうと、上記の特別剰余価値も消滅する。労働時間が価値を規定するという法則--すなわち、新方法を用いる資本家には、自分の商品をそれの社会的価値以下で売らざるをえないという形で、感知されるようになるところの、法則--、ほかならぬこの法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新生産様式の採用に駆りたてることになる(4)。だから、一般的剰余価値率が全過程を通じて窮極的に影響を受けるのは、労働の生産力の上昇が〔必要生活手段の〕、生産諸部門をとらえたばあいに、したがって、必要生活手段の範囲に属しているので労働力の価値の要素を形成している諸商品を、安くしたばあいに、かぎられているのである。〉(江夏訳360-361頁)

《フランス語版》 このパラグラフは4つのパラグラフに分けられ、最初のパラグラフのあとに原注4がある。しかしここでは原注は後に紹介することにして、本文をすべて一緒に紹介しておく。

 〈しかし、このばあいでも、剰余価値の増大は、必要労働時間の短縮とこれに照応する剰余労働の延長から生ずる(4)。必要労働時間は10時間に、あるいは、労働力の日価値は5シリングに達し、剰余労働が2時間、毎日生産される剰余価値が1シリングであった。ところが、われわれの資本家はいまでは24個を生産し、その各1個を10ペンス、すなわち合計20シリングで売る。生産手段は12シリングに値するから、14[2/5]個は前貸しされた不変資本を補填するにすぎない。したがって、12時間の労働は残る9[3/5]個のうちに体現されていて、そのうち6個が必要労働、3[3/5]個が剰余労働を表わす。必要労働の剰余労働にたいする比率は、社会的な平均的条件のもとでは5対1であったのが、ここでは5対3でしかない。
    次のような方法でも、同じ結果に到達する。12時間労働日の生産物価値は、われわれの資本家にとって20シリングであって、そのうち12シリングは、価値が再現するだけの生産手段に属している。したがって、12時間の労働総量は平均して6シリングにしか表現されないのに、12時間で生産される新しい価値の貨幣表現として8シリングが残る。例外的な生産性をもつ労働は、複雑労働として計算される、すなわち、与えられた時間内に、同種の社会的平均労/働よりも大きな価値を創造する。ところが、われわれの資本家は労働力の日価値にたいして引き続き5シリングを支払うが、この労働力の再生産がいまでは労働者にとって10時間ではなく7時間半を費やさせる結果、剰余労働は2時間半増加し、剰余価値は1シリングから3シリングに増加する。
    改良された生産様式を用いる資本家は、したがって、彼の競争者よりも大きな労働日部分を剰余労働の形態のもとで、労働者から奪い取る。彼は、資本が相対的剰余価値の生産で大規模にかつ普遍的に行なうことを、自分個人のために行なうのである。だが、他方、新しい生産様式が一般化し、それと同時に、いっそう安価に生産される商品の個別的価値と社会的価値との差が消え失せるやいなや、この特別剰余価値は消滅する。
    労働時間による価値規定は、改良された工程を用いる資本家に法則として押しつけられる。というのは、この価値規定が資本家に、自分の商品をその社会的価値以下で売ることを強いるからである。この価値規定は、彼の競争者たちに新しい生産様式を採用することを強いるものであるから、彼らには強制的な競争法則として押しつけられる(5)。こうして、一般的剰余価値率が究極において影響を受けるのは、生活手段の範囲のうちに含まれていて労働力価値の諸要素を形成している諸商品の価格が、労働生産性の増大によって下がるばあいに、かぎられる。〉(江夏・上杉訳329-330頁)

《イギリス語版》

  〈(10) 動機がどうであれ、上記の場合ですら、増大した剰余価値の生産は、必要労働時間の短縮から、またそれによって生じる剰余労働の拡大から生じる。*4
  必要労働時間を10時間、日労働力の価値を5シリング、剰余労働時間を2時間とし、そして日剰余価値を1シリングとしてみよう。さて、資本家は、今では、24個の品物を生産する。1個10ペンスでそれらを売れば、計20シリングとなる。生産手段の価値は、12シリングであるから、品物14 2/5個は、単に、前貸しされた不変資本を置き換えたにすぎない。12時間労働日は、残りの9 3/5個で表される。労働力の価値は5シリングであるから、6個の品物が、必要労働時間を表す。そして、3 3/5個の品物が、剰余労働の価値である。必要労働の剰余労働に対する比率は、平均的社会的条件では5 : 1であったが、今では、5 : 3である。同じ結果に、次の様な方法でも帰着する。12時間労働日の生産物の価値が20シリング。そのうちの12シリングが生産手段に属している。単純に再現される価値である。残りの8シリングは、貨幣的な表現ではあるが、労働日の中で新たに創造された価値である。この額は、同じ種類の平均的社会的労働が表されている額よりも大きい、後者の12時間労働はわずか6シリングだからである。この例外的な生産的労働は、あたかも強化された労働のごとくである。その労働が、同じ時間に、同じ種類の平均的社会的労働よりも大きな価値を創造する。( 第一章 第2節 節末 (16 ) を参照 ) しかし、我々の資本家は、依然として、ただの5シリングを日労働力の価値として支払い続けるのみである。今では、10時間に代わって、その価値を再生産するためには、労働者はわずか7 1/2時間の労働を必要とするだけである。であるから、彼の剰余労働は、2 1/2時間増加した。そして彼が生産した剰余価値は、1から3シリングへと成長した。今では、改良した生産方法を採用した資本家は、同じ商売をする他の資本家に較べて、労働日のより大きな部分を剰余労働として占有する。彼は、個人としてこれを行い、資本家として全身全霊をもって相対的剰余価値の生産に取り組んだ結果を、全部を自分のものとする。ではあるけれど、他方、この余分に得た剰余価値は、消える。この新たな生産方法が一般化するやいなや、そしてその連鎖は、個々の安くした商品の価値とその社会的価値との差を消し去る。労働時間によって価値を決定する法則は、新たな生産方法を採用する資本家を、その法則の支配下に置く。彼の商品を社会的価値以下で売るように強いる。この同じ法則が、競争を強いる法則となる。彼の競争者に、新方法の採用を強いる。*5
  従って、一般的剰余価値率は、究極的には、全過程によって影響を受ける。ただ、労働の生産性の増加時にあっては、そのことと関連する生産部門のみを捕らえる。そしてやがて、生活必需品等々を含むそれらの商品を安くし、そして、従って、労働力の価値の要素を安くする。〉(インターネットから)


●原注3a

《61-63草稿》

 〈{機械が工場主に、商品をその個別的価値以上に売ることを可能にしているあいだは、次に引用することがあてはまるのであって、それは、この場合でさえも剰余価値は必要労働時間の短縮から生じるのであり、それ自身、相対的剰余価値の一形態である、ということを示すものである。--「ある人の利潤は、彼が他人の労働の生産物を支配することにではなく、労働そのものを支配することにかかっている。彼の労働者の賃銀が変わらないのに、彼が自分の/財貨を(この商品の貨幣価格が上がったので)より高い価格で売ることができるならば、他の財貨〔の価格〕が上がろうと上がるまいと、彼は明らかに、〔彼の財貨の価格の〕上昇によって利益を得ている。彼の生産するもののうちのより小さい部分でも、かの労働を動かすのに足り、したがって、より大きい部分が彼自身のために残るのである」(『経済学概論』(著者はあるマルサス主義者である)、ロンドン、1832年、49、50ページ〉。}〉(草稿集④539-540頁)

《初版》

 〈(3a) 「ある人の利潤は、彼が他人の労働の生産物を支配していることに依存しているのではなく、彼が労働そのものを支配していることに依存している。彼の労働者の賃金が変わらないのに、彼が自分の財貨をもっと高い価格で売ることができるならば、彼は明らかに利益を得ている。……この労働を動かすには彼の生産物のより小さな部分で足り、したがって、より大きな部分が彼自身のために残る。」(『経済学概論』、ロンドン、1832年、49、50ページ。)〉(江夏訳361頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「ある人の利潤は、彼が他人の労働の生産物を自由にすることから生ずるのではなく、労働そのものを自由にすることから生ずる。彼の労働者の賃金が依然として同じであるのに、彼が自分の物品をもっと高い価格で売ることができるならば、彼は明白に利得を得ている。……この労働を動かすためには、彼が生産するもののうちより小さな部分で足りるのであり、したがって、より大きな部分は彼に帰属する」(『経済学概論』、ロンドン、1832年、49、50ページ)。〉(江夏・上杉訳329頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 4 * 「ある人の利益は、他人の労働の生産物の支配に依存してはいない。そうではなくて、労働そのものの支配に依存している。彼の労働者の賃金が変わらないのに、もし、彼が彼の生産物を高い価格で売ることができれば、彼は明らかに利益を受ける。…. 彼が生産する小さな部分が、その労働を稼働させるに充分であり、そして大きな部分が、その結果として彼自身の側に残る。」(「政治経済学の概要」ロンドン1832年)〉(インターネットから)


●原注4

《61-63草稿》

  〈分業についてのベティの見解を古代人のそれから区別するものは、最初から、分業が生産物の交換価値に、つまり商品としての生産物に及ぼす影響を、すなわち商品の低廉化を見ていることである。
    同じ観点を、もっと明確に、一商品の生産に必要な労働時間の短縮と表現し、一貫して主張しているのは、『イギリスにとっての東インド貿易の利益』、ロンドン、1720年、である。
    決定的なことは、どんな商品でも「最少のそして最もやさしい労働」でつくることである。あることが「より少ない労働で」遂行されるならば、「その結果、より低い価格の労働で」遂行されることになる。こうして商品は安価にされ、その次には、労働時間をその商品の生産に必要な最小限にきりつめることが、競争によって一般的法則となる。/「もし私の隣人がわずかな労働で多くをなすことによって安く売ることができるならば、私もなんとかして彼と同じように安く売るようにしなければならない。」[67ページ]分業について、彼はとくに次のことを強調している。--「どのマユュファクチュアでも、職工の種類が多ければ多いほど、一人の人の熟練〔skill〕に残されるものはそれだけ少ないよ[68ページ]〉(草稿集④460-461頁)

《初版》

 〈(4)「もし私の隣人が、わずかな労働で多くの仕事をすることによって、安く売ることができれば、私も彼と同じように安く/売るように工夫しなければならない。そうすれば、もっと少ない人手の労働で仕事を行ない、したがって、もっと安く仕事をするような、技術や業(ワザ)や機械は、そのどれもが、他の人々のあいだに、同じ技術や業や機械を用いるかまたはなにか類似のものを考案するという一種の必然性と競争とを産み出し、こうして各人が平等になり、誰も隣人より安く売ることができなくなるであろう。」(『イギリスにとっての東インド貿易の利益、ロンドン、172O年』、67ページ。)〉(江夏訳361-362頁)

《フランス語版》

 〈(5) 「私の隣人が、わずかな労働で多くのことをなすことによって、安く売ることができるならば、私も彼と同じように安く売る手段を考案しなければならない。こうして、いっそうわずかな人手の労働によって仕事をするような、したがって、いっそう安価に仕事をするような、あらゆる技術、あらゆる商売、あらゆる機械は、他の人々のうちに、同じ工程、同種の取引、同じ機械を使用するか、あるいはこれと類似のものを考案するか、のいずれかにいたらせるような一種の必然性と競争心を起こさせるのであって、これがために、各人が同等の立場にとどまり、だれも自分の隣人より安く売ることがでぎないのである」(『イギリスにとっての東インド貿易の利益』、ロンドン、1720年、67ページ)。〉(江夏・上杉訳330頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 5 * 「もし我が燐人が、僅かな労働で沢山のことをなせば、安く売ることができるであろう、そうなれば、私も彼と同じように安く売るためには、なんとかしなければならない。であるから、あらゆる技巧とか、取引とか、エンジンとかで、少ない人手の労働で、仕事をし、それによってより安くなるならば、他のその種の必要があり、張り合わなければならない人をして、同じ技巧とか取引とかエンジンとかを用いるか、類似のものを見出すかと強いることになる。かくて、全ての人は、同じ広場に立つことになり、彼の隣人よりも安く売ることができる者はいないであろう。」(「イギリスに対する東インド商売の利点」ロンドン1720年) 〉(インターネットから)

  (付属資料4に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(10)

2024-04-18 22:39:18 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(10)


【付属資料】(4)


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働の生産性は--商品の分析のさいに見たように--、労働が表わされる生産物ないし商品の価値を高めるものではない。諸商品に含まれている労働時間が、所与の諸条件のもとで必要な労働時間、つまり社会的必要労働時間であると前提すれば--そしてこれは、商品の価値がそれに含まれている労働時間に還元されたのちにはつねに出発点とされる前提である--反対に次のことが起こる。すなわち、労働の生産物の価値は労働の生産性に反比例する、ということである。実際には、これは〔前提と〕同義の命題である。この命題が意味するのは、労働がより生産的になれば、それは同じ時間に同じ使用価値のより大きな量をつくりだすこと、同種の使用価値のより大きな量に体化されることができる、ということだけである。この使用価値の一可除部分、たとえば1エレのリンネルはその後はそれ以前よりも少ない労働時間を含む、したがって交換価値はより小さい。もっと厳密に言えば、1エレのリンネルの交換価値は、織布労働の生産性が増大したのと同じ割合で低下したのである。反対に、もしも1エレのリンネルを生産するのにこれまでよりも多くの労働時間が必要とされるならば(たとえば、1重量ポンドの亜麻を生産するのにより多くの労働時間が必要とされることから)、1エレのリンネルはいまではより多くの労働時間を、したがってより高い交換価値を含むことになる。それの交換価値は、それの生産に必要な労働が以前よりも不生産的になったのと同じ割合で増加することになる。つまり総労働日--平均的標準労働日--をとれば、それの生産物の総額の価値は、労働が以前/よりも生産的になろうと不生産的になろうと、それにはかかわりなく、変化しない。というのは、生産された使用価値の総額は、いままでと同様に1労働日を含んでおりな相変わらず同じ分量の、必要な社会的労働時間を表わしているからである。これにたいして、日々の総生産物の一可除部分あるいは一部分生産物をとれば、それの価値は、それのなかに含まれている労働の生産性に反比例して増減する。〉(草稿集④389-390頁)
  〈したがって、個々の商品の価値は、労働の生産性に比例するのに、所与の労働時間が体化される生産物総額の価値は、労働の生産性がどのように変化してもそれによっては影響を受けず、変化しないのであるが、それにたいして剰余価値は労働の生産性に左右されるのであって、一方で商品がその価値で売られ、他方で標準労働日の長さが与えられている場合には、剰余価値は労働の生産性の向上の結果としてのみ増大しうるのである。剰余価値は商品にかかわるものではなくて、それが表現するのは総労働日の二つの部分のあいだの--すなわち労働者が彼の賃銀(彼の労働能力の価値)を補填するために労働する部分と彼がこの補填を越えて資本家のために働く部分とのあいだの--関係なのである。この両部分がいっしょになって一労働日の全体をなすのであるから、またそれらは同じ一全体の部分なのであるから、明らかに、この両部分の大きさは反対の関係にあるのであって、剰余価値、すなわち剰余労働時間は、必要労働時間が減少するか増加するかに従って、増加し、あるいは減少する。そして、必要労働時間の増減は、労働の生産性にたいして反対の関係にあるのである。〉(草稿集④391頁)
  〈相対的剰余価値のところで、労働能力の価値は労働の生産性に反比例するのであって労働の生産性が発展していくのと同じ度合いで低下していく、ということを述べたが、このことは、まったくのところ、次の一般的命題の一つの個別的応用でしかない。すなわち、一商品の価値はそれのなかに実現されている労働の分量あるいは労働時間の大きさによって規定されているのだ、それの価値は、それをつくりだすことができる労働が減少するのに比例して低下するのだ、そして労働の生産力の発展とは、総じて、同じ分量の諸商品(使用価値)を生産するのに充用される労働分量が減少していくことを可能にするような諸条件の発展の/ことにはかならないのだ、だから、一商品の価値は、それをつくりだす労働の生産力の発展につれて低下していくのだ、という命題である。〉(草稿集⑨401-402頁)

《初版》

 〈商品の価値は労働の生産力に反比例する労働力の価値も、商品の価値によって規定されるものであるから、同様である。これに反して、相対的剰余価値は労働の生産力に正比例する。それは、労働の生産力が上がるにつれて上がり、労働の生産力が下がるにつれて下がる。12時間という社会的な平均労働日は、貨幣価値を不変であると前提すれば、いつでも6シリングという同じ価値生産物を生産するのであって、このことは、この価値総額が、労働力の価値の等価と剰余価値とのあいだでどのように分割されるかには、かかわりがない。ところが、労働の生産力の上昇の結果、日々の生活手段の価値、したがって労働力の日価値が、5シリングから3シリングに下がれば、剰余価値は1シリングから3シリングに上がる。労働力の価値を再生産するためには、10労働時間が必要であったが、いまでは6労働時間しか必要でない。4労働時間が解放されて、剰余労働の領域に併合されうるわけである。だから、商品を安くするために、そしてまた、商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高めることは、資本の内在的な衝動であり、資本の不断の傾向でもある(5)。〉(江夏訳362頁)

《フランス語版》

 〈商品の価値は、それを産む労働の生産性に反比例する。労働力の価値は商品の価値によって規定されるから、労働力についても同様である。逆に、相対的剰余価値は労働の生産性に正比例する。前者は後者とともに上下する。所与の限界をもつ社会的平均労働日は、つねに同じ価値を生産し、この価値は、その総額が賃金と剰余価値とに分配される割合/がどうあろうとも、貨幣の価値が変わらないかぎり、つねに同じ価格、たとえば6シリングのうちに表現される。だが、労働生産性の増大の結果、必要生活手段がいっそう安くなれば、労働力の日価値はたとえば5シリングから3シリングに下がり、剰余価値は2シリング増加する。労働力を再生産するためには、当初は1日に10時間が必要であったが、いまでは6時間で充分である。このようにして4時間が解放され、剰余労働の領域に併合されうるのである。資本は、商品の価格、したがって労働者の価格を引き下げるために、労働の生産力を増大する不断の性癖と不変の傾向とをもっている(6)。〉(江夏・上杉訳330-331頁)

《イギリス語版》

  〈(11) 商品の価値は、労働の生産力に反比例する。そしてそのように同じく、労働力の価値もそれに反比例する。なぜならば、それが、商品の価値に依存しているからである。相対的剰余価値は、逆である。生産力に直接的に正比例する。それは生産力の上昇に応じて上昇し、生産力の下落に応じて下落する。貨幣の価値が一定であるとするならば、12時間の平均的社会的労働日は常に、同じ、新たな価値、6シリングを生産する。それが剰余価値と賃金の間でどのように配分されようと全く関係はなく生産する。しかし、もし、増大した生産力によって、生活必需品の価値が下落するならば、そして、日労働力の価値が、そのため、5シリングから3シリングに減少するならば、剰余価値は、1シリングから3シリングに上昇する。労働力の価値の再生産のために、10時間が必要だったが、いまや、ただの6時間が必要とされる。4時間が自由なものとなる。そして剰余労働の領域に併合されることも可能となる。以来、労働の生産力の強化は、商品を安くするために、そしてそのように安くすることで、労働者自体を安くするために、資本における性向かつ定常的傾向として、資本家に内在するところとなった。*6〉(インターネットから)


●原注5

《61-63草稿》

  〈機械装置および平均賃金
   「賃金は、生産諸力が増大するのと同じ割合で、減少させられる。機械装置はたしかに生活必需品安価にするが、しかし、それはまた労働者をも安価にする。」(『競争と協同との功罪に関する懸賞論文』、ロンドン、1834年、27ページ。)/
   「機械が人間労働と競争するようになるやいなや、人間労働の賃金は、機械によるよりわずかな生産費に合わせられ始める。ターナー師は、1827年には、工業地域チェシャーのウィルムストウの教区長であった。移民委員会の質疑とターナー氏の応答は、どのようにして機械にたいする人間労働の競争が維持されているか、を示すものであった。質問。」「力織機の使用は、手織機の使用に取って代わったのではないのですか?」「答え。たしかに取って代わりました。もし手織機を使う織工たちが賃金の引下げに甘んじることができなかったなら、力織機の使用は、すでにそうしたよりもはるかに急速に、手織機を使う織工たちに取って代わっていたでしょう。」質問「しかし手織機を使う織工は、それに甘んじ、自分を養うのには不十分な賃金を受け取っています……。」答え「……事実、手織機と力織機との競争は救貧税によって維持されています。」「こうして、……屈辱的な受給貧民や国外移住が、勤勉な人々が機械の導入から受ける利益であり、彼らは、尊敬すべき、ある程度独立した職人から、慈善の恥ずべきパンで暮らす卑屈な貧乏人におとしいれられるのです。これを彼らは『一時的な不便』と呼んでいます。」{同前、29ページ。)
   「こうして、機械のこの弁護人(ユアにもあてはまる)は、改良を抑制することは労働者のためになると言いつつも、……実際には、ゆがんだ社会が機械の改良を有害なものとしていることを白状しているのである。われわれに人間の創意工夫の進歩を嘆かしめる体制の弁護人たちよ、恥を知るがよい。」(30ページ。)
   「たとえ労働者の収入が固定されていても、それ(機械装置)のおかげで、労働者は自分の収入で以前より多く購買することができる。ところが、もし機械装置が彼から仕事を取り上げるならば、それは彼からその収入をも取り上げるのである。そして失業させられるそれらの労働者たちは、就業している労働者たちと競争する。」(〔同前、〕27ページ。)
  「機械装置は、労働者の賃金を減少させることのほかに、労働者にたいして、その減少した賃金を得るためにさえ、より長く労働することを余儀なくさせる。以前には、彼は24時間のうち約9時間を彼の職業に費やしていた。さら/に、彼には地域の休日がもっとたくさんあった。」(〔同前、〕30ページ。)〔この著者は〕マルサスから次のように引用している。
   「彼らは、機械装置--これは一見して人間の労苦の総計を最も目立って少なくする--にかんして発明につぐ発明がなされたことを知っている。しかし、すべての人々に豊かさ、余暇、幸福を与えるこれらの明日な手段にもかかわらず、彼らは依然として、社会の大衆の労働は少なくならず、彼らの状態は悪化しなかったとしても、なんら際だって改善されていないと見ている。」(〔マルサス〕『人口の原理』、第五版、第二巻。)〉(草稿集⑨476-478頁)
   〈{『穀物輸出奨励金の廃止に関する考察。一友人あての数通の手紙。「穀物価格土地の価値を判断するためのなんらの標準でもないこと、土地の価値は土地のいろいろな生産物低廉になるのに比例して騰貴するであろうこと」、を示す追伸を付す』、ロンドン、1753年。これらの手紙は、はじめ『〔ジェネラル・〕イーヴニング・ポスト』紙に掲載されたものである。
    この男は、絶対的自由貿易論者であり、また、サー・M・デッカーとはちがって、航海条例の撤廃にも賛成している。……しかし彼はまた、資本主義的生産のすべての諸制限の枠内に屈服しようとしている。……
   「貿易の利益のためには、穀物やその他の食糧品がすべてできるだけ安価であることが求められる。というのは、それらを高くするものがなんであろうと、それはまた労働をも高くするにちがいないからであり、したがってまた製造品の売上げを減らすにちがいないからである。」(3ぺー/ジ。)〉((草稿集⑨706-707頁)
    〈「そして、もし生活必需品がより安い値段で手にはいるようになれば、事態はいっそう悪くなるだろう。……このことは、イギリスのすべての労働者についてあてはまる。というのも、イギリスでは、ほとんどすべての種類の製造業に独占権が与えられており、また、産業家は、彼らのためによく働いてくれそうな人手を雇うことは許されておらずもっぱら法律によって資格を与えられた者だけに制限されているからである。……産業が規制されていない国々ではどこでも、食糧品の価格は労働の価格に影響を及ぼすにちがいない。生活必需品の価格が安くなれば、労働の価格はつねに低落するであろう。」(三ページ。)〉(草稿集⑨708頁)

《初版》

 〈(5)「労働者の出費がどんな割合で減らされようとも、それと同時に、産業に課せられている諸拘束が廃止されれば、同じ割合で彼の賃金も減らされるであろう。」(『穀物輸出奨励金の廃止にかんする考察、ロンドン、1752年』、7ページ。)「商売の利益は、穀物やすべての食料ができるだけ安くなることを要求する。なぜならば、それらを高くするものはなんでも、労働をも高くするにちがいないからである。……産業が拘束を受けていないどの国でも、食料の価格は労働の価格に影響するにちがいない。生活必需品が安くなれば、労働の価格は必ず引き下げられるであろう。」(同上、3ページ。)「賃金は、生産諸力が上昇するのと同じ割合で減らされる。機械は確かに生活必需品を安くはするが、機械はまた労働者をも安くする。」(『競争と協同との功罪の比較にかんする懸賞論文、ロンドン、1834年』、27ページ。)〉(江夏訳362-363頁)

《フランス語版》

 〈(6) 「労働者の出費がどんな割合で減らされようとも、それと同時に、産業に課せられているいっさいの制約が廃止されるならば、同じ割合で彼の賃金も減らされるであろう」(『穀物輸出奨励金の廃止にかんする考察』、ロンドン、1753年、7ページ)。「商売の利益は、小麦やすべての生活手段ができるだけ安いことを要求する。それらの値段を上げるものはすべて、労働の値段をも同じように上げるはずだからである。……産業が制約されていないどの国々でも、生活手段の価格は労働の価格に影響するにちがいない。必需品がもっと安くなれば、労働の価絡は必ず引ぎ下げられるであろう」(同上、3ページ)。「賃金は、生産力が増大するのと同じ割合で下がる。確かに機械は必需品の価格を引き下げるが、まさにそのことによって労働者の価格をも同じように引き下げる」(『競争と協同との功罪の比較にかんする懸賞論文』、ロンドン、1834年、27ページ)。〉(江夏・上杉訳331頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 6 * 「労働者の支出の割合がどのように減少させられようと、もし、産業を拘束するものが同時に解除されるならば、同じ割合で、彼の賃金も減少させられるであろう。」(「穀物輸出助成金の廃止に関する考察」他 ロンドン 1753年) 「商売の利益は、穀物や全ての食料ができうる限り安くあるべきであることを要求する。それらのものを高くすれば、労働もまた同じように高くなるに違いないからである。…. あらゆる国において、産業が拘束を受けていなければ、食料品の価格が労働の価格に必ず作用する。労働の価格は、常に、生活必需品が安くなるならば、縮小させられるであろう。」(前出) 「賃金は、生産力の増大と同じ比率で減少される。機械は、まさに真実、生活必需品を安くする。それがまた、労働者を安くする。」(「競争と協業の各メリットの比較に関する懸賞評論」 ロンドン 1834年)〉(インターネットから)


●第12パラグラフ

《61-63草稿》

 〈このところで、次の二つのことが注意されなければならない。--
    第一に。交換価値を目的とし交換価値によって支配される生産が個々の生産物の価値の最小限を追い求めるということは、一つの矛盾のように見える。しかし、生産物の価値それ自体は、資本主義的生産にとってはどうでもよいことである。それの目的は、できるかぎり大きな剰余価値の生産である。だからまたそれは、個々の生産物の、個々の商品の価値によって規定されているのではなく、剰余価値の率によって、つまり商品のうち可変資本を表わす部分の、その変化量にたいする、すなわち可変資本の価値を超えて生産物に含まれている剰余労働にたいする比率によって規定されている。それの目的は、個々の生産物が、だか/らまた生産物総量ができるだけ多くの労働を含むということではなくて、できるだけ多くの不払労働を含むということなのである。〉(草稿集⑨391-392頁)

《初版》

 〈商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもよい。彼が関心を抱くものは、その商品のうちに含まれていて販売で実現されうる剰余価値でしかない。剰余価値の実現は、おのずから、前貸しされた価値の補填を含んでいる。ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は労働の生産力の発展に反比例して低下するので、つまり、同一の過程が、商品を安くするのと同時に、この商品に含まれている剰余価値を増大させるので、交換価値の生産だけを問題とする資本家が、なぜ、商品の交換価値を不断に引き下げようと努力するか、という謎が解けるわけであって、これが、経済学の創始者の一人であるドクター・ケネーが彼の論敵たちを悩ませた矛盾であり、しかも、この矛盾について彼らはケネーに返事をよこしていないのである。ケネーはこう言う。「諸君も認めているように、生産に不都合をきたさずに、工業生産物の製造における費用または高価な労働を節約することができればできるほど、こういった節約はまずまず有利である。なぜならぱ、こういった節約は製品の価格を引き下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、手工業者たちの労働から生まれる富の生産の本領は、彼らの製品の交換価値の増大にある、と信じている(6)。」〉(江夏訳363頁)

《フランス語版》 このパラグラフも3つのパラグラフに分けられていますが、一緒に紹介しておきます。

 〈商品の絶対的価値は、それ自体として考察すれば、資本家にとってはどうでもよい。彼が関心をもつものは、絶対的価値に含まれていて販売によって実現可能である剰余価値だけである。剰余価値の実現ということは、前貸しされた価値の補填と絡みあっている。ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例するから、したがってまた、商品の価格を引き下げる同じ工程が商品の価格に含まれている剰余価値を引き上げるから、古くからの謎が解けるのである。すなわち、交換価値だけに専念する資本家がなぜ、この交換価値をまたも引き下げようと絶えず努力するかは、もはや疑問の余地がない。
    これこそ、経済学の創始者の一人であるドクター・ケネーが論敵たちの頭に投げつけた矛盾であって、彼らはなんの回答も見出さなかったのである。/
    ケネーは言った。「諸君が認めているように、手工業者の製作物の製造において、費用または高価な労働を支障なく節約することができればできるほど、この節約は、製作物の価格の低下からますます利益を得ることができるのである。それにもかかわらず、諸君は、手工業者の労働から生じる富の生産は、彼らの製作物の販売価値の増大にある、と信じている」。〉(江夏・上杉訳331-332頁)

《イギリス語版》

  〈(12) 商品の価値、それ自体については、資本家にとってはなんの興味もない。ただ一つ彼を魅了するのは、その中に住んでいる、そして売る事で実現される剰余価値ただ一つである。剰余価値の実現は、前貸しされた価値の払い戻しによってなされることが必要なのである。さて、ここでは、相対的価値は労働の生産力の発展に直接的に比例して増大するが、他方、商品の価値は同じ比率で減少する。一つのまたは同様の過程が商品を安くし、そしてそこに含まれる剰余価値を増加させる。我々は、ここに、ある謎の解法を得る。何故、資本家の唯一の関心事と言えば、交換価値の生産であるはずなのに、その彼が、絶え間もなく、何故、商品の交換価値の押し下げに努力するのか? この謎をして、政治経済学の創始者の一人であるケネーは、彼の論敵を困らせたのである。そしてこの謎に対して、論敵らは、彼に答えを出すことができなかった。
  (13) 「あなた達は次のようなことを認めるはずだ、」と彼は云う。「工業製品の生産においては、生産に支障をきたすことなく、労働への支出と費用をより少なくすることができればできるほど。そのような削減を、すればするほど、より有益なものとなると。なぜならば、出来上がった品物の価格を下落させるからである。だが、依然として、あなた方は、労働者の労働から生じる富の生産が、それらの商品の交換価値の増大の中に存在すると信じている。」*7〉(インターネットから)


●原注6

《初版》

 〈(6)“Ils conviennent que plus on peut,sans préjudice,épargner de frais ou de travaux dispendieux dans la fabrication des ouvragee des artisans,plus cette épargne est profitable par la diminution des prix de ces ourages,Cependant ils croient que la production de richesse qui résulte des travaux des artisans cosiste dans I'augmentation de la valeur vénale de leurs ouvrages"(ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』、188、189ページ。)〉(江夏訳363頁)

《フランス語版》

 〈(7) ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』、188、189ページ(デール版)。〉(江夏・上杉訳332頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 7 * 上記記述 (13) のフランス語原文を、注として表示している。( ケネー 「商業と職人の労働に関する対話」)〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈したがって商品の価値は、労働の生産性〔の増大〕によってはけっして増大しえない。このことは一つの矛盾を含んでいるようだが、どうか。労働の生産性の増大は、労働がより少ない時間に同じ生産物〈使用価値〉をつくりだすことを意味する。生産物の交換価値の増大は、生産物が以前よりも多くの労働時間を含むことを意味する。〉(草稿集④390頁)
  〈相対的剰余価値が、だからまた独自に資本主義的な生産様式が発展させられるときにとられるすべての方法は、最も抽象的な形態では、次のことに帰着する。すなわちこの生産様式は、個々の商品の価値をそれの最小限に縮減することを、だからまたある与えられた労働時間内でできるだけ多くの商品を生産することを、言い換えれば労働対象の生産物への転化をできるだけ少ない分量の労働で、最も短い労働時間のうちにやりとげることをめざす、ということである。そもそも労働の生産性とは、最小限の労働をもって最大限の生産物を提供すること、言い換えれば、最小限の労働時間を最大限の生産物のかたちで実現すること、それゆえ個々の生産物の価値をそれの最小限に縮減することにはかならないのである。〉(草稿集⑨391頁)

《初版》

 〈だから、労働の生産力の発展から生ずる労働の節約(7)は、資本主義的生産では、けっして労働日の短縮を目的とし/てはいない。それは、一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮だけを目的としている。労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間にたとえば以前の10倍の商品を生産し、したがって、各1個の商品には以前の10分の1の労働時間しか必要としないということは、相変わらず彼を12時間労働させ、この12時間内に、以前の120個ではなく1200個を生産させる、ということをけっして妨げるものではない。それどころか、これと同時に彼の労働日が延長されて、彼がいまや14時間で1400個を生産する、等々のこともありうる。だから、マカロック、ユア、シーニァー輩の型の経済学者やこのたぐいのすべての人々の著書を読むと、あるぺージには、生産諸力の発展は必要な労働時間を短縮するものであるから、労働者はこの発展を資本に感謝すべきだ、と書いてあり、すぐ次のぺージには、労働者は、10時間ではなくこれからは15時間労働して、この感謝をささげるべきだ、と書いてある。労働の生産力の発展が資本主義的生産のなかで目的としているものは、労働者が自分自身のために労働しなければならない労働日部分を短縮し、まさにそうすることによって、労働者が資本家のために無償で労働しうる別の労働日部分を延長することである。こういった成果が、商品を別に安くしなくてもどの程度まで達成できるかは、相対的剰余価値の特殊な生産方法において現われるであろう。次に、これらの方法の考察に移ることにしよう。〉(江夏訳363-364頁)

《フランス語版》 このパラグラフも2つに分けられて、最初パラグラフのあとに原注8が入っていますが、原注は別途紹介することにして、ここでは2つのパラグラフを一緒に紹介しておきます。

 〈資本主義的生産では、生産力の発展による労働の節約(8)は、けっして、労働日の短縮を目的とするものではない。そこでの問題は、一定量の商品を生産するために必要な労働の短縮だけである。労働者が、自分の労働の増大した生産性のおかげで、たとえば1時間で以前より10倍多く生産するということ、換言すれば、彼が各1個の商品について以前の10分の1の労働を支出するということは、彼に引き続き12時間労働させ、この12時間中に120個でなく1200個を生産させること、あるいは、彼の労働日を18時間に延長して1800個を生産させることさえ、けっして妨げるものではない。したがって、マカロック輩や、シーニア輩、その他すべての造詣深い経済学者にあっては、あるページには、労働者は、生産力の発展によって必要労働時間を短縮する資本に無限の感謝を捧げるべきだ、と書かれており、次のページには、今後は10時間ではなく15時間労働することによってこの感謝を表わさなければならない、と書かれている。
  労働の生産力の発展は、資本主義的生産では、労働者が自分自身のために労働しなければならない労働日部分を短縮/し、そうすることによって、労働者が資本家のために無償で労働すろことのできる別の労働日部分を延長する、ということを目的としている。相対的剰余価値の特殊な生産方法について次に行なう考察が示してくれるように、あるばあいには、商品価格を少しも引き下げずに同じ結果に到達するのである。〉(江夏・上杉訳332-333頁)

《イギリス語版》  著者の長い余談が挟まっているが、省略する。

  〈(14) 従って、労働日の短縮は、資本主義的生産においては、その生産力の増加によって労働を節約する局面では、なんら追及されることはない。*8
  ある一定量の商品の生産に必要な労働時間、そこで意図されることは、ただその必要労働時間の短縮のみである。事実は次のごとし。労働者の労働の生産力が増大され、彼が以前の10倍個の商品を作るとすれば、それは商品各1個に1/10の労働時間で済ますことであるが、以前のように12時間働き続けることをなにも妨げはしない。また、同様のことを別の言葉で云うなら、120個に代わって、その12時間の労働から1,200個を作り出すことを妨げはしない。いや、それ以上に、その時、彼をして、14時間で、1,400個の品物を生産するように、彼の労働日が拡張されることもあり得る。それゆえ、マカロック、ユア、ショーニア、類似の者等 (ラテン語)の箔押しがある論文に、我々は、あるぺージでは次のような言葉を読むであろう。労働者達は、自身の生産力の発展について、資本家に感謝する恩義がある。なぜならば、それによって、必要労働時間が縮小されたからである。そして次のページでは、彼は、10時間の替わりに今後は15時間働くことで、資本家への感謝の証としなければならない。とあるのを。労働の生産力の全ての発展の目的は、資本主義的生産の限界内では、労働日のある部分を短縮することにある。その部分においては、労働者は、彼自身の生活のために働かねばならない。そして、まさに、そこを短縮することが、もう一方の日部分を長くする。そのもう一方の部分においては、彼は自由に、資本家のために無償で働く。
 このような結果が、商品を安くすることなしに、同様にどこまで達成できるかどうかは、相対的剰余価値の特有な生産様式を調べて見る事で、明らかになるであろう。我々がこれからすぐに、調査をしようとするところである。〉(インターネットから)


●原注7

《61-63草稿》

 〈「資本家階級は、はじめは部分的に、ついでついには完全に手仕事の必要から解放される。彼らの関心事は、彼らが使用している労働者の生産力を可能なかぎり最大にすることでありる。この力を増進することに彼らの注意は集中されており、しかもほとんどもっぱらそれだけに集中されている。思考は、ますます人間の勤労のあらゆる目的を達成させる最良の手段に向けられる。知識は広がり、その活動領域を倍加し、勤労に力を貸すのである」(リチャド・ジョウンズ『国民経済学教科書』、ハートファド、1852年)(第3講、[39ページ〔日本評論社版、大野清三郎訳『政治経済学講義』、72ページ。]
   「雇主はつねに、時間と労働とを節約するために全力をつくすであろう」(ドゥーガルド・スティーアト『経済学講義』、ハミルトン編『著作集』、第8巻、318ページ。「そうでなければ自分たちが支払わなければならなかったであろう労働者たちの労働をこんなに節約するこれらの投機家たち」(J・N・ビド『大規模製造機械により工業技術と商業とに生じる独占について』、第2巻、パリ、1828年、13ページ)。〉(草稿集④490-491頁)

《初版》

 〈(7)「自分たちが支払ってやらなければならない労働者の労働をこれほど節約する、これらの投機師。」(J・N・ビド『工業技術と商業において創設される独占について、パリ、1828年』、13ページ。)「雇主はいつも、時間と労働とを節約しようと緊張している。」(ドゥーガルド・ステュアート『サー・W・ハミルトン編纂の著作集』、エジンバラ、第8巻、1855年、『経済学講義』、318ページ。)「彼らの(資本家の)関心は、自分たちが使っている労働者の生産諸力ができるだけ大きくなることである。この力を増進することに彼らの注意は注がれており、しかも、ほとんどもっぱらこのことに注がれている。」(R・ジョーンズ、前掲書〔『国民経済学にかんする講義の教科書』〕、第3講。)〉(江夏訳364頁)

《フランス語版》

 〈(8) 「自分たちが支払ってやらなければならない労働者の労働を、これほど節約するこれらの投機師!」(J・N・ビド『工業技術と商業において創設される独占について』、パリ、1828年、13ページ)。「企業家は、時間と労働を節約する手段を見出すために、いつも脳味噌をしぼる」(デュガルド.ステュアート『サー・W・ハミルトン編纂の著作集』、エディンバラ、第8巻、1855年。『経済学講義』、318ページ)。「資本家たちの関心は、労働者の生産力ができるだけ大きくなることである。彼らの注意は、この力を増大させる手段に注がれており、そしてほとんどもっぱらこれに注がれている」(R・ジョーンズ『国民経済学教科書』、第3講)。〉(江夏・上杉訳332頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 8 * 「自分達が支払わねばならぬ労働者の労働を、これほどまでに節約するこれらの工場主ら」( J. N. ビドー 「工業的手法と商業から発生する独占」パリ 1828年 )(フランス語) 「雇用者はいつも、労働と時間を節約するストレッチャーに縛りつけられることとなろう。」( ダガード スチュアート著 W. ハミルトン卿 編集「政治経済学講義」エジンバラ 1855年) 「彼等 ( 資本家ら) の関心事は、自分らが雇用する労働者達の生産的力を、でき得る限りの最大限にすべきだと云うことである。この力を進展させるためにと、彼等の関心が凝縮している。そして全くそのことのみに凝り固まっている。(R. ジョーンズ 前出 第3講義)〉(インターネットから)


  (第10章終わり。)

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(1)

2024-03-14 18:15:02 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(6)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №10)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第6回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(1)「資本一般」から「資本の一般的分析」へ〉で、大谷氏は「批判」体系プランから『資本論』へのマルクスの構想の変化を次のように述べています。

   〈『資本論』も,「批判」体系プランの「資本一般」も,どちらも資本に関する「一般的なもの」であるというかぎりでは同一である。しかしその「一般性」の意味は大きく変化した。「資本一般」は,「第1部 資本」のなかの,「多数資本」捨象によって得られた「一般性における資本」を対象とする,体系の最初の構成部分であって,続く「競争」(特殊性),「信用」(個別性)へと上昇していってはじめて「資本」の具体的な現象形態に辿り着くことができるものであった。したがって,「資本一般」を締めくくるべき「資本と利子」もきわめて抽象的なものにとどまらざるをえなかった。それはいわば,いまだ,現象から分離された本質の段階にとどまるものであった。「資本一般」の「一般性」は,対象を厳しく「一般的なもの」に限定するという意味でのそれであったのである。
    これにたいして『資本論』の「一般性」は,その研究,分析,叙述が,つまりその認識が一般的なものだ,という意味でのそれである。すなわち,『資本論』は「資本主義的生産の一般的研究」〔63〕,「資本の一般的分析」〔64〕,「資本主義的生産様式の内的編制のその理想的平均における叙述 」〔65〕であり,したがって特殊研究,個別的分析,動態における叙述,等々と区別されるものである。かかるものとしての『資本論』は,それ自体として資本についての一般的認識を完結しなければならない。それは「批判」体系プランの出発点たる「序説」プランに立ち戻って言えば,「ブルジョア社会の内的編制を形づくり,また基本的諸階級の基礎となっている諸範疇」の分析を一般的に完了することである。そのためには,「多数資本」捨象によって対象を限定するという方法を捨て,かつて「競争と信用」,さらに「土地所有」と「賃労働」とに予定されていた諸対象のなかから,資本主義的生産の内在的諸法則の一般的な現象諸形態,あるいは一般的なものを表わすかぎりでの具体的な諸形態をなすものを取り入れなければならなかった。ここで重要なことは,対象をきびしく「一般的なもの」に限定することではなくて,「一般的研究」として遺漏なきを期すことであった。〉(101頁、下線は大谷氏による傍点による強調箇所)

    『経済学批判』体系プランのいわゆる「6部構成」(資本・土地所有・賃労働・国家・対外商業・世界市場)の最初の「資本」の構成である「一般・特殊・個別」の最初の「資本一般」というのは、その論理的な構成から考えて、何となく分かりますが、大谷氏のいう〈『資本論』の「一般性」〉というのは、やや分かりにくい気がします。果たして、マルクスは当初のプランをどのように変えて、『資本論』として最終的に結実させたのでしょうか。『資本論』には6部構成の前半体系(資本・土地所有・賃労働)がほぼ含まれているように思えます。もっとも『資本論』そのものはやはり未完成ですし、はっきりした像を結ぶまでには完成していないという面もありますが。しかし『資本論』を読んでゆきますと、いろいろなところでマルクスは対象を制限して特殊研究や具体的なものを後のものとして残すという文言が目に入ります。しかしそれが必ずしも6部構成の後半体系(国家・対外商業・世界市場)を意味しているようには見えないものがほとんどです。
    他方で、すでに見ましたように(No.39(通算第89回)(1))、マルクスはすでに『要綱』の段階で、後に『資本論』の第1部・第2部と区別される第3部の位置づけを明確に持っていたようにも思えます。マルクスはその時点ではそれを「競争」と述べていましたが。
    『資本論』の第1部や第2部は資本主義的生産様式の内在的諸法則をそれ自体として問題にし、その限りで〈資本主義的生産様式の内的編制のその理想的平均における叙述 〉といえるものです。宇野弘蔵は「純粋資本主義」なるものを『資本論』から読み取ったのですが、その意味では第1部・第2部は、諸法則をそれ自体として論じているという意味では「純粋」なものと言えるでしょう。しかし第3部はそれに対して、その内在的な諸法則が転倒してブルジョア社会の表面に具体的に現れている諸現象を論じるものとしています(宇野はだからそこに「不純」を見るのですが)。
    もっともこうした第3部が対象とするものも、資本主義的生産様式のやはり「一般的なもの」であると言えるのかもしれません。というのは、マルクスは第5篇(章)の「5)信用。架空資本」の冒頭、〈信用制度とそれが自分のため/につくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉(大谷本第2巻157-158頁)と、分析の対象を狭く限定し、それは〈資本主義的生産様式一般〉を特徴づけるものだけで十分だからだというものです(ここで「公信用」を排除しているのは後半体系の問題だからと言えなくもないです)。

    大谷氏も続けて第3部の位置づけにも次のような変化があったと述べています。

  〈3部分からなる点で旧「資本一般」と同じである『資本論』(「理論的部分」)のどの部についても,この転換の結果を各所に見ることができるが,それを最も明確に示すのは,「3。資本と利潤」から「第3部 総過程の諸形象化〔Gestaltungen〕」25)への変化である。マルクスは第3部第1稿の冒頭にこの表題を記したうえで,その直後に,この部の課題は「全体として考察された資本の過程」,すなわち生産過程と流通過程との統一「から生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述すること」,すなわち「資本の諸形象化」を「展開する」ことであるとした〔70〕。すなわち,「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても,「諸資本の現実的運動のなかで諸資本が現象するさいの具体的諸形態」を明らかにすることによって,「資本の一般的分析」を完成させ,かくして「諸資本の現実的運動」を叙述するための確固たる土台を置こうとしたのである。その結果,利子生み資本も,もはや「利潤をもたらす資本の純粋に抽象的な形態」であるがゆえに,またそうした観点でのみ論じられるのではなくて,それ自体資本の一つの特殊的形態として取り上げられ,しかもわれわれの表象に直接に与えられている,信用制度のもとでの貨幣資本という「具体的姿態」にまで,この「資本の形象化が展開」されることになったのであった。〉(101-102頁)

    ただ確かにこうした変化はあったのは事実ですが、しかしマルクスはすでに見ましたように、『要綱』の段階でも後の『資本論』の第3部として位置づけるものを明確に持っていたということも指摘しておく必要があります。
    上記の大谷氏の一文で少し気になったのは、〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても,「諸資本の現実的運動のなかで諸資本が現象するさいの具体的諸形態」を明らかにすることによって,「資本の一般的分析」を完成させ,かくして「諸資本の現実的運動」を叙述するための確固たる土台を置こうとしたのである。〉という部分です。ここで〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても〉というのは、大谷氏が追加して述べていることですが、マルクス自身は、第3部の冒頭部分ではこうしたことは述べていません。その一文については大谷氏が章末注〔70〕で紹介していますので、確認のために重引しておきましょう。

   〈〔70〕「すでにみたように,生産過程は,全体として考察すれば,生産過程と流通過程との統一である。このことは,流通過程を再生産過程として考察したさいに……詳しく論じた。この部で問題になるのは,この「統一」についてあれこれと一般的反省を行なうことではありえない。問題はむしろ,資本の過程から--それが全体として考察されたときに--生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述することである。{諸資本の現実的運動においては,諸資本は次のような具体的諸形態で,すなわち,それらにとっては直接的生産過程における資本の姿態〔Gestalt〕も流通過程における資本の姿態〔Gestalt〕もただ特殊的諸契機として現われるにすぎない,そのような具体的諸形態で対し合う。だから,われわれがこの部で展開する資本のもろもろの形象化〔Gestaltungen〕は,それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後に,さまざまの資本の相互にたいする競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていくのである。}」(『資本論』第3部第1稿。MEGAII/4.2S7,〔現行版対応箇所:MEW25,S.33,〕)〉(137頁)

 少なくともここには〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外である〉というような文言は見られません。むしろ第3部で対象にするのは「諸資本の現実的運動」だと述べているように思えます。この文章から、次のようなことが分かってきます。

・〈全体として考察された〉〈資本の過程から……生じてくる具体的諸形態〉=〈諸資本の現実的運動〉=〈資本のもろもろの形象化
・〈資本のもろもろの形象化〉の展開は、〈それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後に,さまざまの資本の相互にたいする競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていく

    これはまさにマルクスが『要綱』において、〈競争の基本法則〉と述べていた内容ではないでしょうか。少なくとも大谷氏が主張している〈『資本論』の「一般性」〉においては第1部・第2部と第3部との区別が分かりにくいものになっているような気がします。
    とりあえず、今回はこれぐらいにしておきます。それでは本論に入ります。今回は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の最後にある「第9章 剰余価値率と剰余価値量」です。まず第9章の位置づけから見てゆきましょう。

 

第9章 剰余価値率と剰余価値量

 

◎「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の位置づけ

    この第9章は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の最後に位置します。つまり「絶対的剰余価値の生産」を締めくくるとともに、「第4篇 相対的剰余価値の生産」への移行を担うものといえるでしょう。
    同じような位置づけを持っているものとして、私たちはすでに「第2章 交換過程」(商品の貨幣への転化)や「第4章 貨幣の資本への転化」を知っています。第2章が新日本新書版で15頁と短かったのですが、同じように第9章も15頁しかありません。
    以前、第2篇「貨幣の資本への転化」から第3篇「絶対的剰余価値の生産」への移行において、ここから「第1部 資本の生産過程」の本題に入るわけですが、それがどうして「絶対的剰余価値の生産」になっているのかについて、それは資本の生産過程というのは剰余価値の生産過程だからであり、剰余価値の生産には絶対的剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産とがあること、《絶対的なものはとにかく長時間労働を強いて搾り取るか、あるいはきつい労働をやらせて搾り取るやりかたです。もう一つの相対的な搾取のやり方は、もっとスマートなやり方ですが、それは資本の生産力を高めて労働力の価値そのものを引き下げて、剰余労働を増やすやり方なのです。歴史的には最初の絶対的な搾取のやり方は資本がまだ労働力を雇い入れてそのまま使用して剰余価値を得るやり方ですが、後者の方法は資本がもっと発展して生産様式そのものを資本の生産にあったものに変革するなかで、行われるものです》と説明しました。
    そして「第8章 労働日」をそれに先行する第5章や第6章、第7章と対比して次のように説明しました。

    《だから第8章「労働日」は絶対的剰余価値の生産の本論ともいえるものでしょう。それまでの第3篇の第5章や第6章や第7章は、生産過程やそこで生み出される剰余価値の一般的な条件の考察であり、『資本論』全3部の基礎になるものでした。それに対して第8章はそれらを踏まえて、絶対的剰余価値の生産そのものを問題にするところと言えるのではないでしょうか。》

    第8章では標準労働日をめぐる資本家階級と労働者階級との闘いによって1労働日に制限が加えられ、10時間労働日とか8時間労働日が歴史的に法的に規制されたことが明らかにされました。つまり労働日を絶対的に延長して剰余価値を拡大しようとする資本の飽くなき欲望は、標準労働日の確立によって、法的・社会的限界に突き当たったのです。だから資本に残された剰余労働を拡大する方法は、今度は1労働日のうちの必要労働時間を可能な限り縮減して、剰余労働時間を拡大するしかないことになります。それが次の「第4篇 相対的剰余価値の生産」になるわけです。
   この第9章はそれへの移行を担うものです。 つまり「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の締めくくる位置にあります。
    だからこの第9章は主に二つの部分に分かれています。前半は、表題にある「剰余価値率と剰余価値量」が問題になっています。剰余価値生産の絶対的形態では、剰余価値の増大を図るためには剰余価値率(搾取度)を引き上げ、搾取する労働者の人数を増やすしかありませんが、しかしそれには自ずから限界があることが示されます。そのあと横線を引いて、マルクスは第3篇全体のまとめをやっています。
    それでは具体的にパラグラフごとに見てゆくことにしましょう。


◎第1パラグラフ(これまでと同じように、この章でも労働力の価値は不変な量として想定される)

【1】〈(イ)これまでと同じに、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定される。〉(全集第23a巻399頁)

  (イ) これまでと同じように、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定されます。

   〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。……労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉と第2篇第4章第3節で述べられていました。また第8章の冒頭、〈われわれは、労働力がその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、その生産に必要な労働時間によって規定される。だから、もし労働者の平均1日の生活手段の生産に6時間が必要ならば、彼は、自分の労働力を毎日生産するためには、または自分の労働力を売って受け取る価値を再生産するためには、平均して1日に6時間労働しなければならない。この場合には彼の労働日の必要部分は6時間であり、したがって、ほかの事情が変わらないかぎり、一つの与えられた量である〉とありました。
    この章でも同じように労働力の価値は、一つの与えられた量として、不変なものとして想定されるということです。絶対的剰余価値の生産では必要労働時間(そして同じことを意味しますが生産力)は一つの与えられたものとして前提して、その上で、剰余労働時間を増大させるために、1日の労働時間を絶対的に拡大しようとすることでした。だから絶対的剰余価値の生産では労働力の価値は不変な量として想定されていたのです。次の相対的剰余価値の生産では、今度は労働力の価値、よって必要労働時間(同じように生産力)そのものが可変量として捉えられることになります。
 『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

   〈われわれは、絶対的剰余価値および相対的剰余価値という二つの形態を切り離して考察したが、……この二つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)


◎第2パラグラフ(労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。)

【2】〈(イ)このように前提すれば、剰余価値率と同時に、1人の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられている。(ロ)たとえば必要労働は1日に6時間で、それが3シリング 1ターレルの金量で表わされるとすれば、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値である。(ハ)さらに、剰余価値率を100%とすれば、この1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を生産する。(ニ)言い換えれば、労働者は1日に6時間の剰余労働量を引き渡す。〉(全集第23a巻399頁)

    このパラグラフそのものは何も難しいことはありませんが、フランス語版では全体にかなり書き換えられています。よって最初にフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈1平均労働力の日価値が3シリングあるいは1エキュであって、これを再生産するために1日に6時間が必要であると想定しよう。資本家は、このような1労働力を買うために1エキュを前貸ししなければならない。この1エキュは資本家にどれだけの剰余価値をもたらすであろうか? それは剰余価値率に依存している。剰余価値率が50%であれば、剰余価値は3時間の剰余労働を代表する半エキュであろうし、100% であれば、6時間の剰余労働を代表する1エキュに上がるだろう。こうして、労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。〉(江夏・上杉訳313頁)

  (イ) このように前提しますと、剰余価値率と同時に、1人の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられています。

    必要労働時間、つまり労働力の価値が一定の与えられた量として前提されますと、剰余価値率=剰余労働時間÷必要労働時間 →剰余労働時間=必要労働時間×剰余価値率 となりますから、剰余価値率が決まってくれば、同時に剰余労働時間、すなわち一定の時間内に労働者が資本家に引き渡す剰余価値量も決まってくることになります。

  (ロ) たとえば必要労働は1日に6時間で、それが3シリング=1ターレルの金量で表わされるとしますと、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値です。

    具体例を入れて考えますと、必要労働時間は1日6時間で、3シリング=1ターレルの金量で表されるとしますと、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値、つまり可変資本量です。

  (ハ)(ニ) さらに、剰余価値率を100%としますと、この1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を生産します。言い換えますと、労働者は1日に6時間の剰余労働量を引き渡すことになります。

    そして剰余価値率を100%としますと、1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値を生産します。言い換えますと、労働者は1日に6時間の剰余労働量を資本家に引き渡します。


◎第3パラグラフ(可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい)

【3】〈(イ)しかし、可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の総価値を表わす貨幣表現である。(ロ)だから、可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。(ハ)したがって、労働力の価値が与えられていれば、可変資本の大きさは、同時に使用される労働者の数に正比例する。(ニ)そこで、1個の労働力の日価値が1ターレルならば、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの、n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本を前貸ししなければならない。〉(全集第23a巻399頁)

  (イ)(ロ) しかし、可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の総価値を表わす貨幣表現です。ですから、可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しいことになります。

    ところで、可変資本というのは、一人の資本家が彼が雇ったすべての労働力の総価値の貨幣表現です。ですから、可変資本の価値というのは、一人の労働力の平均的な価値に、使用する労働力の数を掛けたものになります。すなわち 可変資本量=1個の労働力の平均価値×使用される労働力の数 となります。

  (ハ) だから、労働力の価値が与えられていますと、可変資本の大きさは、同時に使用される労働者の数に正比例します。

    だから想定のように、労働力の価値が与えられたものとしますと、可変資本の大きさは同時に使用される労働者の数に正比例します。上記の等式で 1個の労働力の平均価値 を不変量すれば、このことは一目瞭然です。

  (ニ) ということは、1個の労働力の日価値が1ターレルとしますと、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの、n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本を前貸ししなければなりません。

    具体的な数値をあてはめますと、1個の労働力の日価値が1ターレルとし、毎日100個のろ労働力を使用するとしますと、100ターレルの可変資本が必要になります。同じようにn個の労働力を搾取するためには、nターレルの資本を前貸しする必要があるということです。


◎第4パラグラフ(第一の法則:生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。)

【4】〈(イ)同様に、1ターレルの可変資本、すなわち1個の労働力の日価値が毎日1ターレルの剰余価値を生産するとすれば、100ターレルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を、nターレルの可変資本は毎日1ターレルのn/倍の剰余価値を生産する。(ロ)したがって、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値に充用労働者数を掛けたものに等しい。(ハ)しかし、さらに、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていれば、剰余価値率によって規定されているのだから、そこで次のような第一の法則が出てくる。(ニ)生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。(ホ)言い換えれば、それは、同じ資本家によって同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定されている。*
  * (ヘ)著者校閲のフランス語版では、この命題の第二の部分は次のように訳されている。(ト)「言い換えれば、まさしくそれは、1個の労働力の価値にその搾取度を掛け、さらに同じ時に充用される労働力の数を掛けたものに等しい。」〉(全集第23a巻399-400頁)

    このパラグラフもフランス語版ではやや書き換えられており、全集版にはない原注(1)も付いていますので、最初にフランス語版を紹介しておきましょう。

 〈同様に、1労働力の価格である1エキュが1エキュの日々の剰余価値を生産すれば、100エキュの可変資本は100エキュの剰余価値を生産し、nエキュの資本は 1エキュ×n の剰余価値を生産するであろう。したがって、可変資本が生産する剰余価値量は、可変資本から支払いを受ける労働者の数に個々の労働者が1日にもたらす剰余価値量を乗/じたもの、によって規定される。そして、個々の労働力の価値が知られていれば、剰余価値量は剰余価値率、換言すれば労働者の必要労働にたいする剰余労働の比率、に依存している(1)。したがって、次のような法則が得られる。可変資本によって生産される剰余価値の量は、この前貸資本の価値に剰余価値率を乗じたものに等しく、あるいは、1労働力の価値にその搾取度を乗じ、さらに、同時に使用される労働力の数を乗じたもの、に等しい。

  (1) 本文では、1平均労働力の価値が一定であるばかりでなく、1資本家に使われているすべての労働者が平均労働力にほかならないことが、依然として想定されている。生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例して増加せず、そのさい労働力の価値が一定ではない、という例外的なばあいもある。〉(江夏・上杉訳313-314頁)

  (イ) 同じように、1ターレルの可変資本、つまり1個の労働力の日価値が毎日1ターレルの剰余価値を生産するとしますと、100ターレルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を、nターレルの可変資本は毎日1ターレルのn倍の剰余価値を生産することになります。

    1ターレルの可変資本、すなわち1個の労働力の日価値が1ターレルで、毎日1ターレルの剰余価値を生産するとしますと(つまり剰余価値率は100%)、可変資本が100ターレルであれば、毎日100ターレルの剰余価値を生産します。そして可変資本がnターレルであれば、毎日1ターレル×nの剰余価値を生産することになります。

  (ロ) ということは、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値の量に充用労働者数を掛けたものに等しいことになります。

    つまり生産される剰余価値量は、1人の労働者が1日の労働で引き渡す剰余価値の量に充用労働者数を掛けたものに等しいということです。すなわち 生産される剰余価値量=1人の労働者が1日に生産する剰余価値量×充用労働者数

  (ハ)(ニ) しかし、さらにいえることは、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていますと、剰余価値率によって規定されているのですから、そこから次のような第一の法則が出てきます。すなわち生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいということです。

    さらに言えますことは、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていますと、剰余価値率によって規定されていますから、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいという結論が出てきます。

    第一の法則; 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量×剰余価値率

    剰余価値率=剰余労働÷必要労働=剰余価値÷可変資本 ですから上記の式の剰余価値率に剰余価値÷可変資本を挿入しますと 前貸しされる可変資本の量×剰余価値率=前貸しされる可変資本×剰余価値÷可変資本となり、=剰余価値 になります。

  (ホ) これを言い換えますと、それは、同じ資本家によって同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定されているということです。

    これを言い換えますと(フランス語版にもとづき)、1個の労働力の価値に剰余価値率を掛けて、さらにそれに同時に使用される労働者数をかけたものに等しいということです。

    第一の法則; 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量×剰余価値率

 に 前貸しされる可変資本の量=1個の労働力の価値×労働者数 を挿入しますと

   生産される剰余価値量=1個の労働力の価値×労働者数×剰余価値率=1個の労働力の価値×剰余価値率×労働者数

  になるということです。

    なおフランス語版の原注(1)は全集版の次の第5パラグラフの最後に書かれているものとほぼ同じです。その代わりにフランス語版では第5パラグラフのその最後の一文が抜け落ちています。つまりマルクスは第2版をフランス語版として校訂する時に、第5パラグラフの最後の部分を第4パラグラフの原注にしたということです。


◎第5パラグラフ(第一の法則の数式による表現)

【5】〈(イ)そこで、剰余価値量をMとし、1人の労働者が平均して1日に引き渡す剰余価値をmとし、1個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本をvとし、可変資本の総額をVとし、平均労働力1個の価値をkとし、その搾取度をa'/a(剰余労働/必要労働)とし、充用労働者数をnとすれば、

    m/v×V
  M ={
       k×a'/a×n

となる。(ロ)平均労働力1個の価値が不変だということだけではなく、1人の資本家によって充用される労働者たちが平均労働者に還元されているということも、引き続き想定される。(ハ)生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例しては増大しないという例外の場合もあるが、その場合には労働力の価値も不変のままではない。〉(全集第23a巻400頁)

  (イ) そこで、剃余価値量をMとし、1人の労働者が平均して1日に引き渡す剰余価値をmとし、1個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本をvとし、可変資本の総額をVとし、平均労働力1個の価値をkとし、その搾取度をa'/a(剰余労働/必要労働)とし、充用労働者数をnとしますと、

  M=m/v×V あるいは
  M=k×a'/a×n

 となります。

    M=m/v×V というのは m/v は剰余価値率のことですから、m/v×V というのは前貸しされる可変資本総額に剰余価値率をかけたもであり、それが生産される剰余価値量になるわけですから、これは第一の法則そのものです。
    M=k×a'/a×n というのは 1個の労働力の価値×搾取度(剰余価値率)×労働者数となりますから、これは第4パラグラフにある第一の法則を言い換えたものです。
    なおついでに述べておきますと、このパラグラフは初版にはありません。第2版から新たに加えられたパラグラフです。

  (ロ) ここでは平均均労働力1個の価値が不変だということだけではなくて、1人の資本家によって充用される労働者たちが平均労働者に還元されているということも、引き続き想定されてます。

    これ以下はフランス語版の第4パラグラフの原注としてあるものと同じです。
    依然として1個の平均労働力の価値は不変で、1人の資本家が使用する労働者たちは平均労働力に還元されているこということが想定されているということです。

  (ハ) 生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例しては増大しないという例外の場合もありますが、その場合には労働力の価値も不変のままではありません。

    ただ例外的な場合として、生産される剰余価値が搾取される労働者数に比例しない場合もあるということです。ただその場合には労働力の価値も不変なままではなく、労働者も平均労働力に還元されているとはいえず、変化していることが想定されるということです。これは例えば複雑労働などを増やす場合にはそうしたことが言えます。

   ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(2)

2024-03-14 17:28:22 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(2)


◎第6パラグラフ(従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうる)

【6】〈(イ)それゆえ、一定量の剰余価値の生産では、一方の要因の減少は他方の要因の増加によって埋め合わされることができる。(ロ)可変資本が減らされて、同時に同じ割合で剰余価値率が高くされれば、生産される剰余価値の量は不変のままである。(ハ)前に仮定したように、資本家は毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸しし/なければならないものとし、剰余価値率は50%だとすれば、この100ターレルの可変資本は、50ターレルの、言い換えれば 100×3労働時間 の剰余価値を生む。(ニ)剰余価値率が2倍に高められれば、すなわち労働日が6時間から9時間にではなく6時間から12時間に延長されれば、50ターレルに半減された可変資本がやはり50ターレルの、言い換えれば 50×6労働時間 の剰余価値を生む。(ホ)だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのである。(ヘ)したがって、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになる(202)。(ト)反対に、剰余価値率の減少は、それに比例して可変資本の大きさまたは従業労働者数が増大するならば、生産される剰余価値の量を変えないのである。〉(全集第23a巻400-401頁)

  (イ)(ロ) ということは、一定量の剰余価値の生産においては、一方の要因の減少は他方の要因の増加によって埋め合わされることができるということになります。可変資本が減らされても、同時に同じ割合で剰余価値率が高くされれば、生産される剰余価値の量は不変のままだからです。

    第一の法則というのは

    生産される剰余価値量(M)=前貸しされる可変資本の量(V)×剰余価値率(m/v)

   というものでした。ということはVを減らしても(雇用する労働者数を減らしても)、m/v(剰余価値率=搾取率)をそれと同じ割合で高めれば、生産される剰余価値量(M)は変わらないということになります。つまり一定の剰余価値の生産においは、一方の要因の減少は、他方の要因の増大によって補うことができるということです。

  (ハ)(ニ)(ホ) 前に仮定しましたように、資本家は毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸ししなければならないものとし、剰余価値率は50%だとしますと、この100ターレルの可変資本は、50ターレルの、言い換えれば 100×3労働時間=300時間が対象化された剰余価値を生みます。ここで労働日が延長されて剰余価値率が2倍に高められますと、つまり労働日が6時間の必要労働に3時間の剰余労働を足した9時間から、6時間の必要労働に6時間の剰余労働を足した12時間に延長されますと、今、例え労働者が50人に減らされて、可変資本が100ターレルから50ターレルに半減したとしましても、やはり先と同じように50ターレルの、言い換えれば 50×6労働時間=300時間の剰余労働が対象化された剰余価値を生みます。だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのです。

    前に仮定した数値を入れて考えますと、資本家は100人の労働者を雇用するためには100ターレルを前貸ししなければなりません。いま搾取率を50%としますと、100ターレルの可変資本は50ターレルの剰余価値を生みだします。これは1人の労働者の必要労働時間が6時間ですから、50%の搾取率では剰余労働時間は3時間です。ですから50ターレルの剰余価値というのは、3時間の剰余労働時間×100人=300労働時間が対象化されたものになります。
    ここで労働時間が延長されて剰余価値率が2倍に高められたとします。つまり労働時間が9時間(必要労働6時間+剰余労働3時間)から12時間(必要労働6時間+剰余労働6時間)に延長されたとします。すると剰余労働時間が3時間から6時間に2倍になります。つまり剰余価値率が2倍になったということです。
    しかしその代わりに雇用される労働者数は半分に減らされて100人から50人になったとしますと、可変資本は100ターレルから50ターレルになります。しかし生産される剰余価値量そのものは、剰余労働時間が2倍になっていますから、50×6労働時間=300時間の剰余労働の対象化されたものになり、その前と変わりません。
    第一の法則にあてはめますと 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量(100ターレルの1/2)×2倍の剰余価値率 となりますから、生産される剰余価値量は変わらないわけです。
    つまり可変資本が減少しても(雇用される労働者数が減らされても)、それに比例する労働力の搾取度が引き上げられれば(労働日が延長されれば)、生産される剰余価値量は変わらないということです。つまり労働者数の減少は搾取率の引き上げて埋め合わせることができるということです。

  (ヘ)(ト) だから、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになります。反対に、剰余価値率の減少は、それに比例して可変資本の大きさ、あるいは従業労働者数が増大するのでしたら、生産される剰余価値の量を変えないことになります。

    ということは、ある限界のなかでのことですが、資本によって絞り取られる労働量は労働者数には依存しないということです。反対に、剰余価値率の減少は、つまり労働時間の短縮は、それに比例して可変資本の大きさを増やせば、つまり雇用される労働者数が増やされるなら、生産される剰余価値量は変わらないということにもなります。


◎原注202

【原注202】〈202 (イ)この基本法則を俗流経済学の諸君は知っていないように見える。(ロ)彼ら、さかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのである。〉(全集第23a巻401頁)

  (イ)(ロ) この基本法則を俗流経済学の諸君は知っていないように見えます。彼らは、つまりさかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのです。

    これは〈だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのである。したがって、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになる(202)。〉という本文に付けられた原注です。

    俗流経済学についてマルクスは『61-63草稿』で次のように特徴づけています。

   労働の価値または労働時間の価格というこの表現では、価値概念は完全に消し去られているだけでなく、それと直接に/矛盾するものに転倒されている。……とはいえ、それは、生産過程の必然的な結果として生ずる表現なのである、つまり労働能力の価値の必然的な現象形態なのである。その不合理な表現は、すでに労賃という言葉自体のなかにある。そこでは労働の賃金イコール労働の価格イコール労働の価値なのである。しかし、労働者の意識のなかでも資本家の意識のなかでも同じように生きているこの没概念的な形態は、実生活において直接的に現われる形態なのであるから、それゆえこの形態こそ、俗流経済学が固執するところの形態なのである。彼らは、他のすべての諸科学から区別される経済学の独自性は次の点にあるというのである。すなわち他の諸科学が、日常の諸現象の背後にかくれている、そして日常の外観(たとえば、地球をめぐる太陽の運動のような)とたいていは矛盾する形態にある本質を暴露しようとするのにたいして、経済学の場合には、日常の諸現象を同じく日常的な諸表象のうちへたんに翻訳することをもって科学の真の事業だと言明してはばからない、と。〉(草稿集⑨350-351頁)


    つまり俗流経済学はブルジョア社会の表面に転倒して現れている諸現象をただそのままに叙述するだけなのですが、彼らは需要供給によって労働の市場価格が高くなるとブルジョア社会そのものが停止すると警告するわけです。
    ここで〈さかさにされたアルキメデスたち〉というのは、内在的な諸法則が転倒して現象しているものをそのままに叙述することを自らの経済学としている俗流経済学を揶揄しているわけです。アルキメデスは梃子の支点を見いだせば、世界を一変させうると主張したのですが、逆立ちした俗流経済学者たちはその反対に世界を制止させるための支点を労働の価格に見いだしたということです。
    エンゲルスは「『資本論』第3部への補遺」のなかで次のように述べています。

  〈彼はついにあのアルキメデスの挺子の支点を見つけたのだ。この支点からやれば彼のような一寸法師でもマルクスの堅固な巨大な建築を空中に持ち上げて粉砕することができるというのである。〉(全集第25b巻1136頁)

    なお 新日本新書版では〈彼ら、さかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのである〉のところに次のような訳者注が付いています。

  〈アルキメデスの言とされる「我に立つべき場所を与えよ。さすれば地球を動かさん」にちなむ。数学の先人の書を解説したアレクサンドリアのパップス『著作集』、第8巻、11の10。とくに最後の「さすれば……」の句は、ギリシアの哲学者シンプリキウスによれば「さすれば地球をその地軸から持ち上げん」であるとされ、(『アリストテレス 形而上学注釈』、第4巻続、ディールス編、1110ページ)、マルクスはこの語法をここでそのまま用いている。俗流経済学のあべこべへの皮肉。〉(531頁)


◎第7パラグラフ(第二の法則;平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成している)

【7】〈(イ)とはいえ、労働者の数または可変資本の大きさを剰余価値率の引き上げまたは労働日の延長によって補うということには、飛び越えることのできない限界がある。(ロ)労働力の価値がどれだけであろうと、したがって、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であろうと10時間であろうと、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、つねに、24労働時間の対象化である価値よりも小さいのであり、もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリングまたは4ターレルならば、この金額よりも小さいのである。(ハ)われわれのさきの仮定によれば、労働力そのものを再生産するためには、または労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間が必要であるが、この仮定のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの、または 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。/(ニ)200%の剰余価値率すなわち18時間労働日で毎日100人の労働者を使用する100ターレルの資本は、たった200ターレルの、または 12×100 労働時間の剰余価値量を生産するだけである。(ホ)そして、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸可変資本の等価・プラス・剰余価値は、けっして毎日400ターレルまたは 24×100 労働時間という額に達することはできない。(ヘ)本来つねに24時間よりも短い平均労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによって補うことの、または搾取される労働者数の減少を労働力の搾取度の引き上げによって補うことの、絶対的な限界をなしているのである。(ト)このわかりきった第二の法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向、すなわちできるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾した傾向から生ずる多くの現象を説明するために、重要なのである。(チ)逆に、使用される労働力の量または可変資本の量がふえても、そのふえ方が剰余価値率の低下に比例していなければ、生産される剰余価値の量は減少する。〉(全集第23a巻401-402頁)
 
    このパラグラフは、フランス語版では三つのパラグラフに分けられ、全体に書き換えられています。一応、だいたい対応するフランス語版を最初に紹介しておくことにします。

  (イ)(ロ) といいましても、労働者の数または可変資本の大きさを剰余価値率の引き上げか、または労働日の延長によって補うということには、飛び越えることのできない限界があります。なぜなら、労働力の価値がどれだけであっても、だから、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であっても10時間であっても、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、つねに、24労働時間の対象化である価値よりも小さいからです。もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリングかまたは4ターレルでしたら、この金額よりも小さいからです。

    まずフランス語版です。

  〈しかし、この種の相殺は一つの乗り越えがたい限界に出会う。24時間という自然日は平均労働日よりも必ず長い。だから、平均的な労働者が1時間に1/6エキュの価値を生産しても、平均労働日はけっして4エキュの日価値をもたらすことができない。4エキュの価値を生産するためには、平均労働日は24時間を必要とするからである。剰余価値については、その限界はなおいっそう狭い。〉(江夏・上杉訳315頁)

    前パラグラフで述べましたように、〈一定量の剰余価値の生産では、……可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうる〉と言いましても、それには絶対的な限界があります。
    というのも、労働力の価値、つまり必要労働時間がどれだけでありましても、労働日の延長には1日24時間という飛び越えることのできない限界があるからです。1人の労働者が対象化できるのは1日24時間よりも小さいのです。もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリング=4ターレルでしたら、この金額よりも小さいわけです。

  (ハ)(ニ)(ホ) 例えば、私たちのさきの仮定によりますと、労働力そのものを再生産するためには、または労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間が必要ですが、この仮定のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの、または 500×6労働時間 の剰余価値を生産します。いま、買い入れる労働者を5分の1の100人にして、その代わりに労働時間を延長して、200%の剰余価値率したとします。しかし18時間労働日で毎日100人の労働者を使用する100ターレルの資本は、たった200ターレルの、または 100×12労働時間 の剰余価値量を生産するだけです。そればかりか剰余価値だけではなくて、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸可変資本の等価・プラス・剰余価値を見ても、けっして毎日400ターレルまたは 100×24労働時間 という額に達することはできないのです。

    フランス語版です。

  〈もし日々の賃金を補填するために必要な労働日部分が6時間に達するならば、自然日のうち残るのは18時間だけであって、生物学の法剥は、この18時間のうちの一部を労働力の休息のために要/求する。労働日を18時間という最高限度に延長して、この休息の最低限度として6時間を想定すれば、剰余労働は12時間にしかならず、したがって、2エキュの価値しか生産しないであろう。
  500人の労働者を100%の剰余価値率で、すなわち6時間が剰余労働に属する12時間の労働をもって、使用する500エキュの可変資本は、日々500エキュあるいは 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。日々100人の労働者を200%の剰余価値率で、すなわち18時間の労働日をもって、使用する100エキュの可変資本は、200エキュあるいは 12×100労働時間 の剰余価値しか生産しない。その生産物は総価値で、1日平均400エキュの額あるいは 24×100労働時間 にけっして達することができない。〉(江夏・上杉訳315-316頁)

    これまでの仮定にもとづいて考えてみますと、労働力を再生産するためには、あるいは労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、労働者は毎日6労働時間を対象化させなければなりません。
    いま、剰余価値率を100%、すなわち1日の労働時間を12時間としますと、500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの剰余価値を、すなわち500×6労働時間 の対象化された剰余価値を生産します。
  いま、雇用する労働者数を減らして100人にします。しかしその代わりに搾取率を2倍に、つまり労働時間を12時間から18時間に延長したとします。しかしその場合の生産される剰余価値は 100×12労働時間 、つまり100×2ターレル=200ターレルの剰余価値を生産できるだけです。
    それだけではなく、剰余価値だけではなくて、この資本の総価値生産物、つまり前貸可変資本の価値+剰余価値を見ましても、100ターレル+200ターレル=300ターレルでしかありません。だから毎日400ターレルまたは100×24労働時間 という額には達することはできないのです。

  (ヘ) 本来つねに24時間よりも短い平均労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによって補うことの、または搾取される労働者数の減少を労働力の搾取度の引き上げによって補うことの、絶対的な限界をなしているのです。

    フランス語版です。

  〈したがって、可変資本の減少が剰余価値率の引き上げによって、または結局同じことになるが、使用される労働者の数の削減が搾取度の上昇によって、相殺できるのは、労働日の、したがって、労働日に含まれる剰余労働の、生理的な限界内にかぎられる。〉(江夏・上杉訳316頁)

    だから本来24時間より短い労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによっては補うことのできない絶対的な限界なのです。あるいは言い換えますと、搾取される労働者数の減少を、労働力の搾取度の引き上げ(すなわち労働時間の延長)によって補うことの絶対的な限界をなしているのです。

  (ト) このわかりきった第二の法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向と、できるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾したものであり、そこから生ずる多くの現象を説明するために、重要なのです。

    フランス語版です。

 〈全く明白なこの法則は、複雑な現象の理解にとって重要である。われわれはすでに、資本が最大限可能な剰余価値を生産しようと努力することを知っているし、後には、資本がこれと同時に、事業の規模に比較してその可変部分あるいはそれが搾取する労働者の数を最低限に削減しようと努めることを見るであろう。これらの傾向は、剰余価値量を規定する諸因数中のある一因数の減少がもはや他の因数の増大によって相殺されえなくなるやいなや、あい矛盾したものになる。〉(同上)

    これは第二の法則です。この法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数を、あるいは労働力に転換する可変資本の量をできるだけ縮小しようとする資本の傾向(いわゆる省力化です)は、他方でできるだけ大きな剰余価値を生産しようとする資本のもう一つの傾向と矛盾し、そこから生じるさまざまな現象を説明するために重要なのです。

    新日本新書版では〈後に展開される資本の傾向〉の部分には次のような訳者注が付いています。

  〈本書、第23章、第2節「蓄積とそれにともなう集積との進行中における可変資本部分の相対的減少」参照〉(532頁)

    この訳者注が参照指示しているところは長いですが、その一部分を抜粋しておきましょう。

   〈資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最/も強力な槓杆となる点が必ず現われる。……労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。〉(全集第23b巻811-812頁)

    もちろん、この参照指示は適切とは思いますが、ただマルクスがここで〈後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向、すなわちできるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾した傾向から生ずる多くの現象〉という場合には、第3部で資本の有機的構成の高度化には資本の本質的な矛盾が存在すると述べていることに関連しているように思えます。生産力を高めるために、資本は大規模な工場や機械設備などに投資し、可変成分に比較して不変成分を圧倒的に増大させる傾向がありますが、しかしそれは資本にとっては剰余価値、すなわち彼らの直接の目的である利潤の増大をはかるためであるのに、その剰余価値の生み出す唯一の源泉である労働力を可能なかぎり減らそうとするわけです。だからこれはある意味では根本的な矛盾なのです。できるだけ大きな剰余価値を得ようとしながら、その剰余価値の唯一の源泉を減らすのですから。これが利潤率の傾向的低下をもたらし、資本主義的生産様式の本質的な矛盾として、周期的な恐慌として爆発してくるわけです。こうしたものを説明するのものの基礎がここで与えられているのだということではないでしょうか。

  (チ) 逆に、使用される労働力の量または可変資本の量が増えたとしましても、その増え方が剰余価値率の低下に比例していないと、生産される剰余価値の量は減少します。

    フランス語版にはこれに相当するものはありません。

    それとは逆のケース。つまり使用される労働力の量または可変資本の量が増えたとしましても、その増え方が剰余価値率の低下の割合、すなわち労働日の短縮の方が比例せず大きすぎると、生産される剰余価値の量は減ります。


◎第8パラグラフ(第三の法則;剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例する)

【8】〈(イ)第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生ずる。(ロ)剰余価値率または労働力の搾取度が与えられており、また労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていれば、可変資本が大きいほど生産される価値と剰余価値との量も大きいということは、自明である。(ハ)労働日の限界が与えられており、その必要成分の限界も与えられているならば、1人の資本家が生産する価値と剰余価値との量は、明らかに、ただ彼が動かす労働量だけによって定まる。(ニ)ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、彼が搾取する労働力量または労働者数によって定まるのであり、この数はまた彼が前貸しする可変資本の大きさによって規定されている。(ホ)つまり、剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するのである。(ヘ)ところで、人の知るように、資本家は自分の資本を二つの部分に分ける。(ト)一方の部分を彼は生産手段に投ずる。(チ)これは彼の資本の/不変部分である。(リ)他方の部分を彼は生きている労働力に転換する。(ヌ)この部分は彼の可変資本をなしている。(ル)同じ生産様式の基礎の上でも、生産部門が違えば、不変成分と可変成分とへの資本の分割は違うことがある。(ヲ)同じ生産部門のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わる。(ワ)しかし、ある与えられた資本がどのように不変成分と可変成分とに分かれようとも、すなわち前者にたいする後者の比が 1:2 であろうと、1:10 であろうと、1:× であろうと、いま定立された法則はそれによっては動かされない。(カ)なぜならば、さきの分析によれば、不変資本の価値は、生産物価値のうちに再現はするが、新たに形成される価値生産物のなかにははいらないからである。(ヨ)1000人の紡績工を使用するためには、もちろん、100人を使うためよりも多くの原料や紡錘などが必要である。(タ)しかし、これらの追加される生産手段の価値は、上がることも下がることも不変のままのことも、大きいことも小さいこともあるであろうが、それがどうであろうとも、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんの影響も及ぼさないのである。(レ)だから、ここで確認された法則は次のような形をとることになる。(ソ)いろいろな資本によって生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい場合には、これらの資本の可変成分の大きさに、すなわち生きている労働力に転換される成分の大きさに、正比例する。〉(全集第23a巻402-403頁)

    このパラグラフもフランス語版では二つのパラグラフに分けられ、全面的に書き換えられています。だから今回も最初にだいたいに該当するフランス語版をまず紹介することにします。なおフランス語版には「第一の法則」「第二の法則」「第三の法則」という表現は使われていません。

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生じます。剰余価値率または労働力の搾取度が与えられており、また労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていますと、可変資本が大きいほど生産される価値と剰余価値との量も大きいということは明らかです。労働日の限界が与えられており、その必要成分の限界も与えられているのでしたら、1人の資本家が生産する価値と剰余価値との量は、明らかに、ただ彼が動かす労働量だけによって定まります。ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、彼が搾取する労働力量または労働者数によって定まるのであって、この数はまた彼が前貸しする可変資本の大きさによって規定されているのです。だから、剰余価値率が与えられていて労働力の価値が与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するのです。

    まずフランス語版です。

  〈価値とは実現された労働にほかならないから、資本家の生産させる価値量がもっぱら彼の動かす労働量に依存することは、自明である。彼は同数の労働者を用いて、労働者の労働日がより長くまたはより短く延長されるのに応じて、労働量をより多くまたはより少なく動かすことができる。ところが、労働力の価値と剰余価値率とが与えられていれば、換言すれば、労働日の限界と、労働日の必要労働と剰余労働への分割とが与えられていれば、資本家の実現する剰余価値を含んでいる価値の総量は、もっぱら、彼が働かせる労働者の数によって規定され、労働者の数そのものは、彼が前/貸しする可変資本の量に依存している。
  そのばあい、生産される剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に正比例する。〉(江夏・上杉訳316-317頁)

    第三の法則は、第一の法則、すなわち生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいということから直接導き出されます。つまり生産される剰余価値の量は剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生じます。つまり第一の法則から剰余価値率または労働力の搾取度が与えられていて、労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていますと、可変資本の量は、ただ資本が使用する労働力の量(資本家が雇用する労働者数)によって与えられることになります。だから可変資本の量が大きければ大きいほど、つまり使用される労働者数が多ければ多いほど、生産される剰余価値の量もまた大きいという関係が出てきます。だから、剰余価値率が与えられていて、労働力の価値も与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさ(雇用される労働者数)に正比例するという第三の法則が導き出されるのです。

  (ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) ところで、周知のように、資本家は自分の資本を二つの部分に分けます。一方の部分を彼は生産手段に投じます。これは彼の資本の不変部分です。他方の部分を彼は生きている労働力に転換します。この部分は彼の可変資本をなしています。同じ生産様式の基礎の上でも、生産部門が違えば、不変成分と可変成分とへの資本の分割は違うことがあります。また同じ生産部門のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わります。

    フランス語版です。

  〈ところで、産業部門がちがえば、総資本が可変資本と不変資本とに分割される割合は非常にちがう。同種の事業では、この分割は技術的条件と労働の社会的結合とに応じて変化する。〉(江夏・上杉訳317頁)

    ところで「第6章 不変資本と可変資本」で明らかになりましたように、資本の前貸資本は、二つの部分に分けられます。一つは生産手段(原料や機械等)の購入のために、もう一つは労働力の購入のために。生産手段は価値を生産物に移転しますがそれ自体は増殖しません。だからそれを不変資本と名付けました。価値を増殖するのは労働力に転換したもののみでした。だからそれを可変資本と名付けたのでした。
    この前貸資本が分かれる二つの部分は、生産部門が違えば、その割合、構成は当然違ってきます。また同じ生産部門でも、生産過程の技術的基礎や労働の社会的結合が変わるに連れて変わってきます。

  (ワ)(カ)(ヨ)(タ) しかし、ある与えられた資本がどのように不変成分と可変成分とに分かれていたとしても、すなわち前者にたいする後者の比が 1:2 であったとしても、1:10 であったとしても、あるいは 1:× であっても、いま定立された法則はそれによっては動かされません。というのは、これまでの分析によりますと、不変資本の価値は、生産物価値のうちに再現はしますが、新たに形成される価値生産物のなかにははいらないからです。もちろん、1000人の紡績工を使用するためには、100人を使うためよりもより多くの原料や紡錘などが必要です。しかし、これらの追加される生産手段の価値は、上がることも下がることも不変のままのことも、大きいことも小さいこともあるでしょうが、それがどうであろうと、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんの影響も及ぼさないのです。

    フランス語版です。

  〈ところが、周知のように、不変資本の価値は、生産物のうちに再現するのに対し、生産手段に付加される価値は、可変資本、すなわち前貸資本のうち労働力に変わる部分からのみ生ずる。ある与えられた資本が不変部分と可変都分とにどのように分解しても、前者と後者の比が 2:1,10:1, 等々であっても、すなわち、使用される労働力の価値に比べた生産手段の価値が増大しても減少しても不変のままであっても、それが大きくても小さくても、どうでもよいのであって、それは生産される価値量にはやはり少しも影響を及ぼさない。〉(同上)

    しかしある与えられた資本の構成がどのようであっても、すなわちその可変成分と不変成分がどのような組み合わせになっていようとも、いま定立された法則、すなわち剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するという法則には何の影響もありません。というのは第6章の分析で明らかになりましたように、不変資本の価値は、具体的な有用労働によって移転され、生産物の価値のうちに再現はしますが、あらたに形成される価値生産物のなかには入らないからです。
    もちろん、1000人の紡績工を使用するためには、100人を使用する場合より、より多くの原料や紡錘、つまり生産手段(不変資本)が必要です。だから前貸しされる資本量も増大しなければなりませんが、しかし不変資本部分がどれだけ増大しようと、確かにそれらは生産物の価値量を大きくしますが、しかし価値生産物の大きさそのものには何の変化も無いのです。つまりそれらは労働力の価値増殖過程にはまったく何の影響も及ぼさないからです。

  (レ)(ソ) ですから、ここで確認された法則は次のような形をとることになります。すなわち、いろいろな資本によって生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい場合には、これらの資本の可変成分の大きさに、すなわち生きている労働力に転換される成分の大きさに、正比例するということです。

    フランス語版です。

  〈このばあい、前貸資本が不変部分と可変部分とに分割される割合がどうありうるにしても、上述の法則を種々の産業部門に適用すれば、次の法則に到達する。平均労働力の価値とその平均搾取度が種々の産業で同等であると仮定すれば生産される剰余価値の量は使用される資本の可変部分の大きさに正比例するすなわち労働力に変えられる資本都分に正比例するのである。〉(同上)

    ということから、第三の法則は、次のような形をとることになります。すなわち、いろいろな産業部門で生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値と労働力の搾取度が同じものとして与えられていますと、可変成分の大きさ(雇用される労働者数)に正比例するということです。
    言い換えますと、同じ前貸資本量であっても、その不変資本部分と可変資本部分との構成が異なれば、生産される剰余価値の量も違ってくるということです。

    ここで確認のために、もう一度、三つの法則を並べて書いておきましょう。

第一の法則:生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。
第二の法則;平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成している
第三の法則;剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例する。

   ((3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(3)

2024-03-14 16:53:06 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(3)


◎第9パラグラフ(第3の法則は、およそ外観にもとつく経験とは明らかに矛盾している。)

【9】〈(イ)この法則は、およそ外観にもとつく経験とは明らかに矛盾している。(ロ)だれでも知っているように、充用総資本の百分比構成を計算してみて相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者よりも小さい利益または剰余価値を手にいれるわけではない。(ハ)この外観上の矛盾を解決するためにはなお多くの中間項が必要なのであって、ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである。(ニ)古典派経済学はこの法則を定式化したことはなかったにもかかわらず、本能的にこれに執着するのであるが、/それはこの法則が価値法則一般の一つの必然的な帰結だからである。(ホ)古典派経済学は、むりやりの抽象によって、この法則を現象の諸矛盾から救おうとしている。(ヘ)リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに(203)示されるであろう。(ト)「ほんとうは、なにもおぼえなかった〔100〕」俗流経済学は、いつものようにここでも現象の法則を無視してその外観にしがみついている。(チ)それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる〔101〕」と信じているのである。〉(全集第23a巻403-404頁)

  (イ)(ロ) しかし、この法則は、私たちの外観にもとつく経験とは明らかに矛盾しています。というのは、だれでも知っていますように、充用総資本の構成比をみて、相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者よりも小さい利益または剰余価値を手にいれるわけではないからです。

    この第3の法則、つまり剰余価値率と労働力の価値が与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさ(つまり雇用される労働者数の大小)に正比例するというものは、その解説の最後ところで《同じ前貸資本量であっても、その不変資本部分と可変資本部分との構成が異なれば、生産される剰余価値の量も違ってくる》と言い換えておきましたが、これは資本主義の現実とは明らかに矛盾しているのです。これをさらに言い換えますと、《資本の有機的構成が異なれば、特殊的利潤率もまた違ってくる》ということになります。ところが資本主義の現実は資本の有機的構成がどうであろうと、資本はその前貸し総資本の大きさに応じた利潤をえるのであって、利潤率としてはみな同じだというものです(一般的利潤率)。
    これは実際、経験的に考えても、大規模な紡績工場では工場建物や紡績機械など不変資本が大きく、それに比して雇用される労働者数は少ないにも関わらず、不変資本が小さく、雇用される労働者数が多い、例えば製パン業者よりも小さい利益しか挙げないかと言えば、決してそうではないからです。つまり資本主義の現実は、資本はそれを構成する不変資本と可変資本との割合がどうであれ、投下される総資本の大きさ(不変資本+可変資本)に応じて、つまり同じ割合で、利潤を得るというものだからです。総資本が大きい紡績工場主は、実際には、総資本に比して可変資本が小さいから生産する剰余価値量も小さいのに、総資本が大きいために、その可変資本に比して大きな利潤(剰余価値)を得、総資本が小さい製パン業者は、しかし割合では可変資本が大きいから剰余価値量も多く生産したとしても、総資本が小さいために、その可変資本に比して小さい利潤しか得られないのです。これが資本主義の現実なのです。マルクスは第3部第2篇「第8章 利潤率の相違」で次のように述べています。

  〈要するに、われわれは次のことを明らかにしたのである。産業部門が違えば、資本の有機的構成の相違に対応して、また前述の限界内では資本の回転期間の相違にも対応して、利潤率が違うということ。したがってまた、利潤は資本の大きさに比例し、したがって同じ大きさの資本は同じ期間には同じ大きさの利潤を生むという法則が(一般的な傾向から見て)妥当するのは、同じ剰余価値率のもとでは、ただ、諸資本の有機的構成が同じである場合――回転期間が同じであることを前提して――だけだということ。ここに述べたことは、一般にこれまでわれわれの論述の基礎だったこと、すなわち諸商品が価値どおりに売られるということを基礎として言えることである。他方、本質的でない偶然的な相殺される相違を別とすれば、産業部門の相違による平均利潤率の相違は現実には存在しないということ、そしてそれは資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろうということは、少しも疑う余地のないことである。だから、価値理論はここでは現実の運動と一致しないもの、生産の実際の現象と一致しないものであるかのように見え、したがってまた、およそこれらの現象を理解することは断念しなければならないかのように見えるのである。〉(全集第25a195頁)

    このようにマルクスは産業部門が異なり、だから有機的構成が違っても、平均利潤率には相違はないということは、〈資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろう〉と述べています。それは資本主義を前提するなら絶対的な現実としてあるのだということです。だから〈価値理論はここでは現実の運動と一致しないもの、生産の実際の現象と一致しないものであるかのように見え、したがってまた、およそこれらの現象を理解することは断念しなければならないかのように見える〉というのです。これは価値が生産価格に転化することを論じている第3部第2篇で問題にされていることですが、そうしたことを論じる前提として、ここで問題にされている第3の法則が関連しているということです。

  (ハ) しかし、この外観上の矛盾を解決するためにはさらに多くの説明が必要なのであって、ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からはさらに多くの数学的知識が必要なのと同じです。

    しかしマルクスはこれを〈外観上の矛盾〉と述べています。というのはそれは第3部では資本主義的生産の内在的な諸法則(価値の法則)が逆転して現れていることから生じていることだからです。だからそれらは必要な媒介項を経るなら、つまり『資本論』の第1部から第2部、そして第3部まで展開して、初めて説明可能なものになるのだということです。
    ここで〈ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである〉という部分は果たしてどう理解したらよいのでしょうか。というのは、調べたところ、0/0は実数ではないという説明があるからです。例えば、AIに「0/0が実数であることを論証せよ」という質問を投げかけると〈0/0 は実数ではありません。実数は有理数と無理数の総称であり、0で割ることは定義されていません。この問題は数学的に未定義です。〉(Bing)とか〈数学的な観点から言えば、0/0は未定義です。割り算において分母がゼロである場合、通常その割り算は意味を持たず、未定義とされています。これは、0で割ることが数学的には意味を持たないためです。〉(CaatGPT)という回答が得られました。あるいはこれはAIが「初等代数学」のレベルだからかもしれませんが。
    マルクスは『61-63草稿』では「0/0」を次のように〈不合理な表現〉と述べています。

  質的には(量的には必ずしもそうでないとしても)価値としての表現であるにもかかわらず、価格は非合理的な表現にも、すなわち価値をもたない諸物象の貨幣表現にもなることができる。たとえば、誓言は価値をもつものでないにもかかわらず(経済学的に見ればここでは使用価値は問題にならない)、偽りの誓言が価格をもつことはありうる。というのは、貨幣は商品の交換価値の転化された形態にほかならず、交換価値として表示された交換価値にほかならないのではあるが、他面でそれは一定分量の商品(金、銀、あるいは金銀の代理物)なのであって、なにもかにもが、たとえば長子相続権と一皿の豆料理とが、互いに交換されうるのだからである。価格は、この点では、0/0などのよ/うな代数学における不合理な表現と同様の事情にある。〉(草稿集⑨397-3987頁)

    いずれにせよこの部分はこれ以上詮索する必要はないでしょう。
    もう一つ〈この外観上の矛盾を解決するためにはなお多くの中間項が必要なのであって〉という部分には、新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈この外観上の矛盾は、とくに本書、第3部、第2篇「利潤率の平均利潤への転化」で解決される〉(535頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ) 古典派経済学はこの法則を定式化したことはなかったにもかかわらず、本能的にこの法則に執着するのです。それはこの法則が価値法則一般の一つの必然的な帰結だからです。古典派経済学は、むりやりの抽象によって、この法則を現象の諸矛盾から救おうとしています。リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに示されるでしょう。

    古典経済学は、この法則を定式化したことはなく、スミスの場合は外観は外観のままに、内在的な法則は内在なものとして、両方を並立させたり、あちらからこちらへと動揺していますが、リカードの場合は、内在的な法則(価値法則)を一貫させるために外観を無視しています。これについてはすでに何度か紹介しましたが、マルクスは『61-63草稿』でいろいろと書いています。すでに以前一度その一部を紹介した気がしますが、もう一度紹介しておきます(他に関連するものを付属資料に紹介しておきましたので、参照してください)。

  〈{先に見たように、A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。この両方の把握が、彼においては、素朴に交錯しており、その矛盾に彼は気づいていない。これに反して、リ力ードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。彼が非難されるべきことは、一方では、彼の抽象がまだ十分であるにはほど遠く完全に十分ではない、ということである。したがって、たとえば彼は、商品の価値を理解する場合に、すでに早くもあらゆる種類の具体的な諸関係への考慮によって決定的な影響を受けることになっている。他方では、彼が非難されるべきことは、彼が現象形態を、直接にただちに、一般的な諸法則の証明または説明と解して、それをけっして展開していない、ということである。前者に関して言えば、彼の抽象はあまりにも不完全であり、後者に関して言えば、それは、それ自体まちがっている形式的な抽象である。}〉(草稿集⑥145頁)

    ここで〈このじゃまな石につまずいたか〉という部分は新日本新書版では〈つまずきの石〉とありますが、次のような訳者注が付いています。

  〈人間イエスの外観にもとづいて神の子キリストの真の姿を見抜けないというたとえ、旧約聖書、イザヤ書、8・14。新約聖書、ローマ、9・31-33、ペテロ第1、2・6-8〉(535頁)

  (ト)(チ) 「ほんとうは、なにもおぼえなかった」俗流経済学は、いつものようにここでも現象の法則を無視してその外観にしがみついています。それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる」と信じているのです。

    俗流経済学者たちはただ何時ものように、現象の背後になる法則を無視して、その外観にしがみついているだけです。『61-63草稿』ではこの問題における俗流経済学の立場について次のように述べています。

  〈俗流経済学者がやっているのは、実際には、競争にとらわれている資本家たちの奇妙な考えを外観上はもっと理論的な言葉に翻訳して、このような考えの正当性をでっちあげようと試みること以外のなにものでもないのである。〉(草稿集⑥同377頁)

    ここで〈「ほんとうは、なにもおぼえなかった〔100〕」〉という部分の注解は次のようなものです。

  〈(100) 「彼らはなにもおぼえなかったし、なにも忘れなかった」とは、1815年ブルボン王政が復活してからフランスに帰ってきた亡命貴族たちについてタレーランの言った言葉である。彼らは、自分の領地を取りもどして農民に再び封建的義務の負担を強制しようとしたのである。〉(全集第23a巻18頁)

    この部分の新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈フランス大革命後またはブルボン王政復古の亡命貴族について、政治家タレランが言ったとされる言葉。「彼らは30年このかたなにものも学ばず、なにものも忘れていない」(タレラン『失われた記録』、147ページ)から〉(535頁)
 
    また〈それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる〔101〕」と信じているのである〉というのは、彼らは外観にしがみついて、そうした外観をもたらしている内在的な法則をまったく省みないのですが、そうした科学的な立場を理解しないことを何か立派な経済学であるかに主張していることをこのように述べているのだと思います。

  〈「無知は十分な根拠になる〔101〕」〉という部分の全集版の注解は次のようなものです。

  〈(101) 「無知は十分な根拠になる」--スピノザはその著作『倫理学』第1部の付録のなかで、無知はけっして十分な根拠とはならないということについて述べたが、それは坊主的=神学的な自然観の代表者たちに反対して言ったのであって、彼らは「神の意志」がすべての現象の究極の原因であると主張したが、そのための彼らの唯一の論拠は、それ以外の原因はわからないということでしかなかったのである。〉(全集第23a巻18頁)

    この部分の新日本新書版の訳者注は次のようなものです。

  〈神の意志という以外に何事も説明できず、ひたすらそれを根拠に神学的立場を批判したスピノーザ『エチカ』、第1部、付録にちなむ。島中尚志訳、岩波文庫、上、82-92ページ〉(353頁)


◎原注203

【原注203】〈203 これについての詳細は『第4部』〔後の『剰余価値学説史』〕で述べる。〉(全集第23a巻404頁)

    これは〈リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに(203)示されるであろう。〉という本文に付けられた原注です。〈『第4部』〔後の『剰余価値学説史』〕〉とありますが、マルクス自身は『資本論』は第1部~第4部に分かれると考えていたのです。リカードのこの問題については草稿集⑥に詳しいです。付属資料ではその要点を少し紹介しました。抜粋ノートから最初に集めたものはもっと長かったのですが、長すぎるので半分以下に縮めました。だから〈どのようにしてこのじゃまな石につまずいたか〉を知りたいと思われる方は、草稿集を読むことをお勧めします。


◎第10パラグラフ(一社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一労働日とみなすことができる。人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしている。)

【10】〈(イ)一社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一労働日とみなすことができる。(ロ)たとえば、労働者の数が一百万で、労働者1人の平均労働日が10時間だとすれば、社会的労働日は一千万時間から成っていることになる。(ハ)この労働日の限界が肉体的に画されているにせよ社会的に画されているにせよ、その長さが与えられていれば、剰余価値の量は、ただ労働者数すなわち労働者人口の増加によってのみふやすことができる。(ニ)この場合には、人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしている。(ホ)逆に、人口の大きさが与えられていれば、この限界は労働日延長の可能性によって画される(204)。(ヘ)次章で示すように、この法則は、これまでに取り扱われた形態の剰余価値だけにあてはまるものである。〉(全集第23a巻404頁)

  (イ)(ロ) 一つの社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一の労働日とみなすことができます。たとえば、労働者の数が百万人で、労働者1人の平均労働日が10時間だとしますと、社会の総労働日は千万時間から成っていることになります。

    ここでは一つの社会、あるいは一つの国における総労働日、あるいは総剰余価値の生産が問題になっています。
    一つの社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一の労働日とみなすことができます。たとえば労働者数が100万人だと、労働者一人の平均労働日が10時間だと社会的労働日は1000万時間からなっているわけです。

  (ハ)(ニ) この労働日の限界が肉体的に画されているにせよ社会的に画されているにせよ、その長さが与えられていますと、剰余価値の量は、ただ労働者数すなわち労働者人口の増加によってのみふやすことができます。この場合には、人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしているわけです。

    この労働日の長さが決まっていますと、生産される剰余価値の量は、ただ労働者数、つまり労働者人口の増加によってのみ増やすことがきます。つまり人口の増大が、社会的総資本による生産される剰余価値総量の限界を画しているわけです。

  (ホ)(ヘ) 逆に、人口の大きさが与えられていますと、剰余価値の限界は労働日延長の可能性によって画されるのです。次章で示しますように、この法則は、これまでに取り扱われた形態の剰余価値(絶対的剰余価値)だけにあてはまるものです。

    反対に人口の大きさが与えられていますと、生産される剰余価値量は、労働日の延長が可能かどうかにかかっています。しかし、これらはこれまで取り扱ってきた形態、すなわち絶対的な剰余価値の生産にだけにあてはまるものです。次の相対的剰余価値の生産ではこうしたことは当てはまりません。


◎原注204

【原注204】〈204 「社会の労働すなわち経済的時間は、ある与えられた大きさのものであって、たとえば百万人で1日に10時間、すなわち一千万時間というようになる。……資本の増加には限界がある。この限界は、どんな与えられた時期にも、使用される経済的時間の現実の長さの範囲内にあるであろう。」(『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年、47、49べージ。)〉(全集第23a巻404頁)

    これは〈逆に、人口の大きさが与えられていれば、この限界は労働日延長の可能性によって画される(204)。〉という本文に付けられた原注です。
    これは匿名の著書からの引用ですが、みるとマルクスの本文とよく似た文言が見られます。この著書からは第6章の原注20でも引用されていましたが、『資本論草稿集』⑨にはこの著書からの引用が幾つか見られます。マルクスは〈著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年には二、三の非常にすぐれた独創的論点が含まれている〉(478頁)と述べて、幾つかの抜粋を行っていますが、そのなかに〈絶対的剰余労働相対的剰余価値〉とマルクス自身による表題が書かれた、今回の原注の一文が含まれる次のような引用文が抜粋されています。長くなりますが挿入されているマルクスのコメントも含めて紹介しておきましょう(下線はマルクスによる強調個所)。

  〈「労働、すなわち社会の経済的時間は、ある一定の部分であり、たとえば100万人の1日当り10時間、または1000万時間である。」(四七ページ。)
  「資本にはその増加の限界がある。この限界は、たとえ共同社会の生産諸力はまだ改善の余地があるとしても、どの一定の時期においても、使用される経済的時間の現実の長さによって、画されるであろう。社会は、労働量を拡大することによって、または労働をより効果的にすることによって、言い換えれば、人口、分業、機械、科学的知識を増加させることによって、〔生産諸力を〕増大させることができる。」(49ページ。)「もし資本が、活動中の労働によって与えられた等価物または価値しか受け取ることができないとすれば(したがって経済的時間すなわち労働日が与えられているとすれば)、もしこのことが資本の限界であり、そのときどきにおいて現存する社会状態ではそれを/乗り越えることは不可能であるとすれば、賃金に割り当てられるものが大きければ大きいほど、利潤はそれだけ小さくなる。このことは一般的原理であるが、個々の場合において生じるのではない。なぜなら、個々の場合における賃金の増加は、普通、特定の需要の結果であり、この需要は、他の諸商品およびそれらの利潤との関係で価値の増加をもたらすのがつねだからである。」(49ページ。){利潤--および剰余価値率でさえも--は、ある個別の部門では、一般的水準を超えて上昇することがありうる。とはいっても、それと同時に賃金も、この部門では一般的水準を超えて上昇するのであるが。しかし資本家が、商品にたいする需要が平均を超えるのと同じだけの賃金を支払うならば(利潤を規定する他の諸事情を別にすれば)、資本家の利潤は増えないであろう。一般に、個別の部門における一般的水準を超える賃金および利潤の騰落は、一般的関係とはなんの関係もない。}〉(草稿集⑨479-480頁)


◎第11パラグラフ(剰余価値の生産のためにはある貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されている)

【11】〈(イ)剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかなように、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるのではなく、この転化には、むしろ、1人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値/の一定の最小限が前提されているのである。(ロ)可変資本の最小限は、1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる1個の労働力の費用価格である。(ハ)この労働者が彼自身の生産手段をもっていて、労働者として暮らすことに甘んずるとすれば、彼にとっては、彼の生活手段の再生産に必要な労働時間、たとえば毎日8時間の労働時間で十分であろう。(ニ)したがって、彼に必要な生産手段も8労働時間分だけでよいであろう。(ホ)これに反して、この8時間のほかにたとえば4時間の剰余労働を彼にさせる資本家は、追加生産手段を手に入れるための追加貨幣額を必要とする。(ヘ)しかし、われわれの仮定のもとでは、この資本家は、毎日取得する剰余価値で労働者と同じに暮らすことができるためにも、すなわち彼のどうしても必要な諸欲望をみたすことができるためにも、すでに2人の労働者を使用しなければならないであろう。(ト)この場合には、彼の生産の目的は単なる生活の維持で、富の増加ではないであろうが、このあとのほうのことこそが資本主義的生産では前提されているのである。(チ)彼が普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとすれば、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならないであろう。(リ)もちろん、彼自身が彼の労働者と同じように生産過程で直接に手をくだすこともできるが、その場合には、彼はただ資本家と労働者とのあいだの中間物、「小親方」でしかない。(ヌ)資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする(205)。(ル)手工業親方が資本家になることを、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用してもよい労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、強圧的に阻止しようとした。(ヲ)貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世的最大限をはるかに越えるときに、はじめて現実に資本家になるのである。(ワ)ここでも、自然科学におけると同様に、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである(205a)。〉(全集第23a巻404-405頁)

  (イ) 剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかですが、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるわけではありません。この転化のためには、1人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されているのです。

    剰余価値を生産し資本家になるためには、わずかの貨幣しか持っていない人でもなれるわけではありません(もっとも信用制度が発展すればこの限りではありませんが)。剰余価値を生産するためは、貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されているのです。

  (ロ) 可変資本の最小限は、1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる1個の労働力の費用価格です。

    可変資本の最低限を考えますと、それは1年中毎日剰余価値の獲得のために使われる労働力の費用価格(賃金額)です。

  (ハ)(ニ)  もしこの労働者が自分自身の生産手段をもっていて、労働者として暮らすことに甘んずるとしますと、彼にとっては、彼の生活手段の再生産に必要な労働時間、たとえば毎日8時間の労働時間で十分でしょう。だから、彼に必要な生産手段も8労働時間分だけでよいことになります。

    もし労働者が生産手段をもっていて、ただ自分のためにだけに、自分が生活できるだけ生産するとしますと、彼は、ただ生活手段の再生産に必要な労働時間、例えば毎日8時間で十分でしょう。必要な生産手段も8労働時間分でよいことになります。(もっともこの生産手段も再生産される必要があり、そのための時間も必要ですが、なぜか、マルクスはここではそれを問うていません。)

  (ホ)(ヘ)(ト) これに反して、この8時間のほかにたとえば4時間の剰余労働を彼にさせる資本家は、追加生産手段を手に入れるための追加貨幣額を必要とします。しかし、私たちの仮定のもとでは、この資本家は、毎日取得する剰余価値で労働者と同じに暮らすことができるためにも、すなわち彼のどうしても必要な諸欲望をみたすことができるためにも、すでに2人の労働者を使用しなければならないでしょう。しかしこの場合、彼の生産の目的は単なる生活の維持で、富の増加ではないでしょうが、このあとのほう、つまり富の増加こそが資本主義的生産では前提されているのです。

    ここに資本家が登場し、労働者に4時間の剰余労働を強制するしますと、当然、資本家はその分の追加的生産手段を準備しなければなりません(もっともその時点では、剰余労働だけではなく必要労働が対象化される生産手段も資本家が準備しなければならないのですが)。ただ今の時点では、資本家は労働者と同じ程度に暮らせばよいと考えたとします。つまり彼が生活するために必要な生活手段を生産するための労働時間は8時間と仮定しますと、彼は彼の生活を維持していくためには、8時間分の剰余労働を労働者から引きだす必要があり、だから少なくとも2人の労働者を雇う必要があります(だから24時間分の生産手段を資本家は準備する必要があるわけです)。
    しかしこの場合は、資本家の目的は、ただ自分の生活を維持するだけであり、資本家の本来の目的である富の増加は見込めません。しかし資本主義的生産というのは富の増加をこそ目的にしているのです。

  (チ) 彼が資本家として普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとしますと、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならないでしょう。

    そこで今度は資本家は労働者より2倍だけ豊かに生活し、生産される剰余価値の半分を資本に再転化するとしますと、まず2倍の豊かな生活のために必要な生活手段の生産には16時間が必要です。さらにそれと同じだけの剰余価値を蓄積に回そうとするのですから、彼は全部で32時間の剰余労働を労働者から引きださねばならないわけです。だから32÷4=8、つまり8人の労働者を雇うために前貸し可変資本の最小限を8倍に増やす必要があります。そしてそれに応じて生産手段(不変資本)も8倍に増やす必要があるでしょう。

  (リ) もちろん、彼自身が彼の労働者と同じように生産過程で直接に手をくだすこともできますが、しかしその場合には、彼はただ資本家と労働者とのあいだの中間物、「小親方」でしかないことになります。

    これらは資本家が資本家として何の仕事もせずにただ剰余価値を引きだすだけと前提しているのですが、もちろん、資本家も自分も労働者と一緒に働く事は可能です。しかしそうたした場合は、彼はまだ資本家とはいえず、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかありません。これは資本主義的生産様式以前の手工業的生産の段階を意味します。

  (ヌ) 資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件としています。

    だから資本家が資本家として、つまり人格化された資本として機能するためには、資本主義的生産のある程度の高さを前提とするのです。そうすれば彼は、ただ剰余価値を労働者から引きだすために、労働者を監督・統制するとか、労働者が生産した生産物の販売のために、自分の労働力を使うことになるでしょう。

  (ル)(ヲ) 手工業親方が資本家になることを、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用してもよい労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、強圧的に阻止しようとしました。貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世的最大限をはるかに越えるときに、はじめて現実に資本家になるのです。

    手工業親方が資本家になることを阻止するために、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用する労働者(徒弟)の数の最大限を非常に小さく制限していました。『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈同職組合や中世的な労働組織の側からの禁止令であって、まさに二人といないすぐれた親方といえども〔きめられた〕最大数をこえる労働者の使用を禁じられ、親方でない、ただの商人にいたってはそもそも労働者の使用自体を禁じられていたのである。〉(草稿集⑨253頁)

    だから貨幣または商品の所持者が資本家になるためには、この中世的な最小限を最大限に拡大して、それをはるかに越えるときに、初めて現実に資本家になりえたのです。

  (ワ) ここでも、自然科学におけると同じように、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしている法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されているのです。

    だからここでも、自然科学とおなじように、ヘーゲルの論理学が明らかにしている法則、つまり単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則が正しいことを証明しているのです。

    新日本新書版では〈へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則〉という部分に次のような訳者注が付いています。

   〈マルクスが言っているのは、ヘーゲル『大論理学』、第1巻、第3編、B「限度関係の節線」の法則。なお『小論理学』、第1部、C「限度」参照。ヘーゲルによれば、「この量的要素の変化のなかに、質を変化させ、定量の特殊化的なものとして示す変化の一点が現れ、その結果、変化させられた量的関係が、一つの限度、したがって一つの新しい質、新しいあるものに転化する。……その推移は一つの飛躍……量的変化から質的変化への飛躍である」(武市健人訳『大論理学』、上巻の2、『ヘーゲル全集』6b、岩波書店、263-264ページ)。ヘーゲルはその例として、水の温度の増減がある一点に達すると、突然に、一方では水蒸気に、他方では氷に変わるなどをあげ、この一点を「節線」と呼んでいる(武市訳、同前、266ページ。松村一人訳『小論理学』、岩波文庫、上、326-329ページ)〉(539頁)

    ヘーゲルの説明としてはこの訳者注で十分だと思いますので、エンゲルスの『自然弁証法』から紹介しておきましょう。

  〈したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、
 量から質への転化、またその逆の転化の法則、
 対立物の相互浸透の法則、
 否定の否定の法則。
 これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる #思考# 法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている。誤謬は、これらの法則が思考法則として自然と歴史とに天下り的に押しつけられていて、自然と歴史とからみちびきだされてはいないという点にある。そしてここからあの無理にこしらえあげられ、しばしば身の毛もよだつものとなっている構成の全体が生じてきている。すなわちそこでは、世界は、好むと否とにかかわらず、ある思想体系――じつはそれ自体がやはり人間の思考のある特定の段階の産物でしかないところの、――に合致していなければならないのである。われわれがもし事柄をひっくりかえしてみるならば、すべては簡単になり、観念論的哲学ではことのほか神秘的に見えるあの弁証法の諸法則はたちどころに簡単明瞭となるのである。……〉(全集第20巻379頁)

   さらに興味のある方は付属資料を参照してください。


◎原注205

【原注205】〈205 (イ)「農業家は彼自身の労働にたよってはならない。もしそれをするならば、彼はそれで損をする、と私は言いたい。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意であるべきである。彼の打穀夫は監視されなければならない。そうでないと、やがて彼は打穀されないぶんだけ賃金を損するであろう。彼の草刈夫や刈入夫なども監督されなければならない。彼は絶えず彼の柵の周囲を回り歩かなければならない。彼はなにかなおざりにされてはいないか調べてみなければならない。そういうことは、もし彼が一つところに閉じこもっていれば、起きるであろう。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究。一農業家著』、ロンドン、1773年、12ページ。)(ロ)この本は非常におもしろい。(ハ)この本のなかでは、“capitalist farmer"〔資本家的農業者〕または“merchant farmer"〔商人的農業者〕という言葉で呼ばれるものの発生史を研究することができるし、生計維持を主とする“small farmer"〔小農業者〕と比べての彼の自已賛美を聞くことができる。(ニ)「資本家階級は、最初は部分的に、ついには完全に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学教科書』、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、39ページ。〔大野訳『政治経済学講義』、72ページ。〕)〉(全集第23a巻406頁)

 これは〈資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする(205)。〉という本文に付けられた原注です。二つの著書からの引用があり、そのあいだにマルクスのコメントが入っています。とりあえず、文節ごとに検討することにしましょう。

   (イ) 「農業家は彼自身の労働にたよってはならない。もしそれをするならば、彼はそれで損をする、と私は言いたい。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意であるべきである。彼の打穀夫は監視されなければならない。そうでないと、やがて彼は打穀されないぶんだけ賃金を損するであろう。彼の草刈夫や刈入夫なども監督されなければならない。彼は絶えず彼の柵の周囲を回り歩かなければならない。彼はなにかなおざりにされてはいないか調べてみなければならない。そういうことは、もし彼が一つところに閉じこもっていれば、起きるであろう。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究。一農業家著』、ロンドン、1773年、12ページ。)

    これは農業家(資本家)の本来の役目は、自分も労働することではなく、全体にたいする一般的な注意や監視をすべきだと述べていることから引用されているようです。

    マルクスはJ・アーバスノトを〈大借地農業の狂信的な擁護者である。〉(全集第23b巻944頁)と述べています。これ以外にもいくつかの引用を行っています。

  (ロ)(ハ) この本は非常におもしろいです。この本のなかでは、“capitalist farmer"〔資本家的農業者〕または“merchant farmer"〔商人的農業者〕という言葉で呼ばれるものの発生史を研究することができます。また、生計維持を主とする“small farmer"〔小農業者〕と比べての彼、つまり資本家的農業者の自已賛美を聞くことができるからです。

    このアーバストの本は、資本家的農業者を擁護する主張が展開されているようです。これ以外のいくつかの原注での引用でも問題にしているものは異なりますが、同じような論旨が見られます。

   (ニ) 「資本家階級は、最初は部分的に、ついには完全に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学教科書』、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、39ページ。〔大野訳『政治経済学講義』、72ページ。〕)

    ジョーンズもマルクスはいろいろなところで引用していますが(特に地代に関するものが多い)、ここでは資本家は手の労働から解放されることを指摘しているものです。

 ((4)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(4)

2024-03-14 16:09:10 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(4)


◎原注205a

【原注205a】〈205a (イ)近代化学で応用され、ロランとジェラールとによってはじめて科学的に展開された分子説は、この法則にもとづくものにほかならない。{第三版への補足。}--(ロ)化学者でない人にとってはあまり明瞭でないこの注の説明のために、次のことを一言しておく。(ハ)著者がここで言っているのは、1843年にC・ジェラールによってはじめてそう名づけられた炭水素化合物の「同族列」のことであって、それらはそれぞれ特有の代数的構造式をもっている。(ニ)たとえば、パラフィン列は CnH2n+2 であり、標準アルコール列は CaH2n+2O であり、標準脂肪酸列は CnH2nO2 である、等々。(ホ)これらの例では、分子式に CH2 を単に量的に追加することによって、そのつど一つの質的に違った物体が形成される。(ヘ)これらの重要な事実の確定におけるロランとジェラールとの関与、このマルクスによって過大評価された関与については、コップ『化学の発達』、ミュンヘン、1873年、709、716ページ、およびショルレンマー『有機化学の成立と発達』、ロンドン、1879年、54ページを参照せよ。--F・エンゲルス〉(全集第23a巻406頁)

  (イ) 近代化学で応用され、ロランとジェラールとによってはじめて科学的に展開された分子説は、この法則にもとづくものにほかなりません。

    これは〈ここでも、自然科学におけると同様に、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである(205a)。〉という本文に付けられた原注です。初版やフランス語版はこの冒頭の部分だけが原注になっています。そのあとは〈{第三版への補足。}〉とありますように、第三版の編集のときにエンゲルスによって加えられたものです。ロランとジェラールについては人名索引から紹介しておきましょう(ただしあまりにも簡単すぎるので、ウィキペディアで調べたものもつけ加えておきます)。

  ロラン,オーギュストLaurent,Auguste(1807-1853)フランスの化学者.〉(全集第23b巻91頁)〈ローランは、有機化学反応においてどのように分子が結合するかを明らかにするために、分子中の原子の構造グループに基づいた有機化学における系統的命名法を考案した。さらに、電気化学的二元論では説明が困難であった置換反応を説明するために核の説を提唱したが、エテリン説を唱えるデュマの反発を買った結果、事実上フランスの化学界から排斥された上、結核に罹って夭折した。〉
  ジェラール,シャルルーフレデリクGerhardt,Charles-Frederic(1816-1856)ブランスの化学者.〉(全集第23b巻70頁)〈1843年に相同列(同族列)の概念に基づいた分子式に基づく化合物分類を提唱した。また残余の理論にもとづくとイェンス・ベルセリウスによる原子量・分子量の決定法に問題があることを示した。これはアボガドロの仮説の妥当性を示す第一歩となった。またこの年にオーギュスト・ローランと政治活動を通じて知り合い親交を結んだ。ローランは分子式に基づく分類を化合物の性質に関する情報を何も与えていないとして批判した。その後のジェラールの研究はローランからの批評に大きく影響されている。また分子式に基づく化合物分類の発表は師であるデュマとの間にプライオリティについての争いを引き起こした。ジェラールは年長者への敬意を欠いて自分の方が優れていると主張し、また批判が容赦ないものであったため、不遇な扱いを受けることになっていく。〉

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 化学者でない人にとってはあまり明瞭でないこの注の説明のために、次のことを一言しておきます。著者がここで言っているのは、1843年にC・ジェラールによってはじめてそう名づけられた炭水素化合物の「同族列」のことです。それらはそれぞれ特有の代数的構造式をもっています。たとえば、パラフィン列は CnH2n+2 であり、標準アルコール列は CaH2n+2O であり、標準脂肪酸列は CnH2nO2 である、等々。これらの例では、分子式に CH2 を単に量的に追加することによって、そのつど一つの質的に違った物体が形成されるのです。

    この問題についてはすでに第11パラグラフの付属資料として紹介したエンゲルスの『自然弁証法』に詳しいです。関連する部分だけ引用しておきましょう。

   〈このようなことは炭素化合物の同族列、とくに比較的簡単な炭化水素の同族列ではなおいっそう適切なものとして現われてくる。正パラフィン系のうちの最低位のものはメタン CH4 である。この場合には炭素原子の四個の結合単位は四個の水素原子で飽和している。第二番目のエタン C2H6 はたがいに結合した二個の炭素原子をもち、遊んでいる六個の結合単位は六個の水素原子で飽和している。このようにして公式 CnH2n+2 にしたがって C3H8,C4H10 等々とすすみ、CH2 が付加されるごとにそのまえのものとは質的に異なる物質が形成されてゆく。この系列の最低位の三つの成員は気体であり、既知の最高位のもの、ヘキサデカン C16H34 は沸点が摂氏二七八度の固体である。パラフィン系からみちびきだされる(理論的に)公式 CnH2n+2O の第一アルコールの系列と、一塩基脂肪酸(公式 CnH2nO2 )についても事情はまったく同じである。C3H6 の量的付加がいかなる質的区別をもたらしうるかは、どうにか飲めるかたちにしたエチルアルコール C2H6O を他のアルコール類と混ぜないで飲んだ場合と、同じエチルアルコールを飲むにしても、こんどは悪名高いフーゼル油の主成分をなすアミールアルコール C5H12O を少量つけくわえておいた場合の、二つの場合の経験が教えてくれるだろう。われわれの頭は翌朝には確実に、しかも頭痛とともに、これをさとることだろう。だから酔いとその後の二日酔いとは、一方はエチルアルコールの、他方はこれにつけくわえられた C3H6 の、ともに同じく質に転化された量だとさえいえるのである。〉(全集第20巻383頁)

  (ヘ) これらの重要な事実の確定におけるロランとジェラールとの関与、このマルクスによって過大評価された関与については、コップ『化学の発達』、ミュンヘン、1873年、709、716ページ、およびショルレンマー『有機化学の成立と発達』、ロンドン、1879年、54ページを参照してください。

    ただエンゲルスはこうした有機化合物の重要な事実の確定にロランとジェラールの関与についてのマルクスの評価は〈過大評価〉だと考えているようです。エンゲルスがここで参照するようにと上げている文献については直接当たることはできません。ただ文献索引と人名索引から調べたものを掲げておきます(ウィキペディアの説明の一部も紹介しておきます)。ショルレンマーについてはマルクス・エンゲルスとも友人関係にあったということですから、全集の人名索引を調べるといろいろなところで言及されています(特に往復書簡)。エンゲルスは「カール・ショルレンマー」という表題の追悼文を『フォールヴェルツ』(1892年7月3日付)に書いています(全集第22巻317-320頁)、また先に紹介したエンゲルスの『自然弁証法』には、次のような一文もありました。

  〈しかし最後にこのヘーゲルの法則は化合物だけではなく、化学的元素そのものにたいしてもなりたつのである。われわれは今日、
  「元素の化学的性質は原子量の周期関数であること」(ロスコー=ショルレンマー『詳解化学教程三第二巻、八二三ページ)、
  したがってその質が原子量という量によって条件づけられていることを知っている。そしてこのことの検証はみごとになしとげられた。メンデレーエフが立証したように、原子量の順に配列された親縁な元素の系列中にはさまざまな空位があり、それらはその箇所になお新元素が発見されるべきことを示唆するものである。これらの未知の元素の一つで、アルミニウムにはじまる系列中でアルミニウムの次にあるところからエカアルミニウムと彼が命名した元素について、彼はその一般的な化学的性質をまえもって記述し、おおよそその比重と原子量および原子容を予言しておいた。数年後ルコック・ド・ボアボドランはこの元素を実際に発見したが、メンデレーエフが予想していたことはごくわずかのずれを除いては的中した。エカアルミニウムはガリウムとして実在のものとなった(48)(前掲書、八二八ページ)。量の質への転化についてのヘーゲルの法則の--無意識的な--適用によって、メンデレーエフは、未知の惑星、海王星の軌道の計算におけるルヴェリエの業績(49)に堂々と比肩しうるほどの科学的偉業をなしとげたのである。〉(全集第20巻384頁)

  コップ,ヘルマン『化学の発達』所収:『ドイツにおける科学史.近代』,第10巻,第3篇,ミュンヘン,1873年〉(全集第23b巻13頁)〈コップ,ヘルマン・フランツ・モーリッツ KoPP,Hermann Franz Moritz(1817-1892)ドイツの化学者.化学史に関する著述あり.〉(全集第23b巻68頁)〈彼が注目したもう1つの質問は、化合物、特に有機の沸点とその組成との関係でした。これらや他の骨の折れる研究に加えて、コップは多作の作家でした。1843年から1847年に、彼は包括的な化学の歴史を4巻で出版し、1869年から1875年に3つの補足が追加されました。最近の化学の発展は1871年から1874年に登場し、1886年に彼は古代と現代の錬金術に関する2巻の作品を出版しました。〉
  ショルレンマー,カール『有機化学の成立と発達』,ロソドン,1879年〉(全集第23b巻17頁)〈ショルレンマー,カールSchorlemmer,Car1(1834-1892)ドイツ生まれの化学者,マンチェスターの教授,ドイツ社会民主党員,マルクスとエンゲルスとの親友.〉(全集第23b巻71頁)(ウィキペディアには掲載なし)


◎第12パラグラフ(1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っており、また、与えられた発展段階にあっても、生産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがって違っている。)

【12】〈(イ)1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っており、また、与えられた発展段階にあっても、生/産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがって違っている。(ロ)ある種の生産部面は、すでに資本主義的生産の発端から、個々の個人の手のなかにはまだないような資本の最小限を必要とする。(ハ)このことは、コルベール時代のフランスでのように、またわれわれの時代に至るまでいくつかのドイツ諸邦で見られるように、このような私人にたいする国家の補助金の誘因となることもあれば、あるいは、ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社(206)--近代的株式会社の先駆--の形成を促すこともある。〉(全集第23a巻406-407頁)

  (イ) 1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っていますし、また、与えられた発展段階にあっても、生産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがってまた違っています。

    前パラグラフでは剰余価値の生産のためには貨幣または交換価値の一定の最小限があることが明らかにされました。つまり一人の貨幣所持者が資本家になるためには、自由に処分可能な貨幣額の最小限があるということでした。この最小限は、資本主義的生産の発展段階が異なればそれによって違ってきますし、同じ発展段階でも、先に見ましたよう、紡績業と製パン業とでは資本の構成が異なるのと同じように、生産部面が異なればそれぞれの特殊な技術的条件によって資本の最小限が違ってきます。

  (ロ)(ハ) ある種の生産部面は、すでに資本主義的生産の発端から、個々の個人の手のなかにはまだないような資本の最小限を必要とすることがあります。このことは、コルベール時代のフランスでのように、またわたしたちの時代に至るまでのいくつかのドイツ諸邦で見られましたように、このような私人にたいする国家の補助金の誘因となることもありますし、あるいは、ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社--近代的株式会社の先駆--の形成を促すこともあります。

    産業部面が異なれば、必要な資本の最小限が違う一つの典型的なものとして、例えばオランダやイギリスなどの東インド会社などのように、資本主義的生産の発端から、その必要最小限が一人の私人によってまかないきれないものが必要となり、だから国家が主導し、その補助金や法的に独占権をもつ会社--近代の株式会社の先駆--の形成を促すこともあるということです。

    ここで〈コルベール時代のフランス〉とありますが、ネットでいろいと調べましたら、ジャン=パティスト・コルベール(Jean Baptiste Colbert, 1619-1683)は、ルイ14世治下のフランスの財務総監で、絶対王政の財源を支えるために、典型的な重商主義政策を実施。この次期のフランス重商主義は、彼の名をとって、コルベール主義と呼ばれることが多い、ということです。次のような説明もありました。

  〈コルベールは、先進国イギリス、オランダに対抗してフランスを貿易大国に育成し、貿易差額によって国富(金銀)を増大することを目ざし、絶対王制期の重商主義の典型とされるコルベルティスムColbertisme体系を築き上げた。彼の構想では、国際商業戦争に勝つためには、輸出向け戦略商品(とくに毛織物)を安価かつ大量に生産することが必要であった。そこで、穀物価格(食糧費)の引下げ政策によって工業生産者の工賃の低下を図り、また織物を輸出適格商品にするため綿密な工業規制règlementsを生産者に強制した。同時に、全国の都市、農村の生産者にギルド組織への加入を義務づけ、そうした工業規制の徹底化と、製品の指定輸出商への強制集中を図った。他方、王立または国王特許による特権マニュファクチュア(作業場)を各地に設けて、毛織物のほか奢侈(しゃし)品(ゴブラン織など)、ガラスなどを生産させた。こうした工業育成策を基に、徹底した保護貿易政策をとり、輸出を奨励すると同時に、輸入製品には禁止的保護関税をかけた。また、東・西インド会社、レバント会社などを設立または発展させ、海軍・海運を育成して海外経営に乗り出し、ついにオランダとの戦争(1672~1678)に突入して、フランシュ・コンテやフランドル(毛織物地帯)諸都市を獲得した。〉(日本大百科全書(ニッポニカ) の解説)

  〈近代的株式会社の先駆〉としての独占会社については本源的蓄積の部分でもマルクスは次のように触れています。

  〈植民制度は商業や航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本蓄積の強力な槓杆だった。〉(全集23b983頁)


◎原注206

【原注206】〈206 この種の施設をマルティーン・ルターは“Die Gesellschaft Monopolia"〔独占会社〕と呼んでいる。〉(全集第23a巻407頁)

    これは〈ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社(206)〉という本文に付けられた原注です。こうした法的独占権をもつ会社のことをルターは「独占会社」と呼んでいるということです。
    新日本新書版には〈〔独占会社〕〉という部分に次のような訳者注が付いています。

  〈ルター『商取引と高利について』、ヴィッテンベルク、1524年(ヴァイマール版、第15巻、312ページ)。松田智雄・魚住昌良訳、『ルター著作集。第1集』第5巻、聖文舎、526ページ。ルターはこれらの説教で、国会の独占禁止決議にもかかわらず野放しになっている「独占商会」に激しく反対している〉(540頁)

 草稿集⑦には最後の方にルターからの長い抜粋がありますが、主に高利貸に対する批判であって、独占会社に対するものは見あたりませんでした。


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◎第13パラグラフ(ここでは、わずかばかりの要点だけを強調しておく)

【13】〈(イ)われわれは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化の詳細には、したがってまた資本そのもののさらに進んだ諸規定にも、かかわらないことにする。(ロ)ただ、わずかばかりの要点だけをここで強調しておきたい。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) わたしたちは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化の詳細には、したがってまた資本そのもののさらに進んだ諸規定にも、かかわらないことにします。ただ、わずかばかりの要点だけをここで強調しておきます。

    このパラグラフの前には横線があり、問題がここから変わっていることを示しています(初版にはこうした横線はありません)。つまりここから第9章が第3篇から第4篇へ移行するために第3篇のまとめをやっていると考えることができます。ただこの冒頭のパラグラフそのものはフランス語版では削除されています。
    このパラグラフでは、資本家と賃労働者との関係の変化の詳細や、資本そのもののさらに進んだ諸規定については問題にせず、わずかな要点をのべるだけだという断りが述べられているだけです。つまりこれまで展開してきたものをここで繰り返す愚は避けるということでしょうか。


◎第14パラグラフ(生産過程のなかでは資本は労働にたいする指揮権にまで発展した)

【14】〈(イ)生産過程のなかでは資本は労働にたいする、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展した。(ロ)人格化された資本、資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行なうように気をつけるのである。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) 生産過程のなかでは資本は労働にたいする、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展しました。人格化された資本、つまり資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行なうように気をつけるのです。

    それほど違いはありませんが、フランス語版の方がすっきり書かれているように思えますので、最初に紹介しておきましょう。

  〈われわれがすでに見たように、資本は労働の主人公になる。すなわち、運動中の労働力または労働者自身を、資本の法則のもとに服従させることに成功する。資本家は、労働者が自分の仕事を念入りにまた必要な強度で遂行するように監視する。〉(江夏・上杉訳320頁)

    これまでの展開で示されましたように、資本は生産過程にある労働者を管理し、指揮する役割を担う存在になりました。資本は人格化された資本として労働者から剰余労働を最大限絞り出すために、労働が秩序ただしく無駄なく十分な強度でなされているかを始終気をつけているわけです。
    絶対的剰余価値の生産では、資本はいまだ労働を形態的に包摂する(形式的に資本関係のなかに取り込んだだけ)にすぎないのですが、しかしそれでも資本は剰余労働を強制的に奪取するために労働者を指揮・監督する役割を担うようになったわけです。


◎第15パラグラフ(資本は、さらに剰余労働を強制する関係としては、以前の直接的強制労働にもとづく生産体制をも凌駕するようになる)

【15】〈(イ)資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行なうことを強要する一つの強制関係にまで発展した。(ロ)そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働の汲出者および労働力の搾取者として、資本は、エネルギーと無限度と効果とにおいていっさいのそれ以前の直接的強制労働にもとつく生産体制を凌駕しているのである。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) 資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行なうことを強要する一つの強制関係にまで発展しました。そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働を汲み出す人、すなわち労働力の搾取者として、資本は、そのためのエネルギーと無制限とその効果とにおいて、いっさいのそれ以前の直接的強制労働にもとつく生産体制を凌駕しているのです。

    このパラグラフも最初にフランス語版を紹介しておきます。

 〈資本は、その上、労働者階級に自分の狭い範囲の必要が要求するよりも多くの労働を遂行させざるをえなくする強制的関係として、現われる。他人の活動の生産者および利用者として、労働力の搾取者および剰余労働の詐取者として、資本主義制度は、種々の強制的労働制度に直接にもとづくあらゆる従前の生産制度を、エネルギー、効果、無限の力という点で凌駕している。〉(江夏・上杉訳320頁)

    労働の形態的包摂においては、労働過程そのものは技術学的には以前のまままですが、いまではそれらは資本に従属した過程として現れます。資本は、労働者に剰余労働を強いる関係にまで発展したのです。剰余労働の搾取者として資本は、そのエネルギーと無限性において、以前の直接的強制労働にもとづく生産体制を凌駕したものになります。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈加えられる強制が、すなわち剰余価値、剰余生産物、あるいは剰余労働の生みだされる方法が、違った種類のものなのである。もろもろの明確な区別は、次の項目〔Abschnitt〕で、つまり蓄積を論じるときに、はじめて考察することになる。この資本のもとへの労働の形態的包摂にあって本質的なことは次の点である。/
  (1) 労働者は、自分自身の人格の、だからまた自分自身の労働能力の所有者として、この労働能力の時間極(ギ)めでの消費の売り手として、貨幣を所持する資本家に相対しているのであり、だから両者は商品所持者として、売り手と買い手として、それゆえ形式的には自由な人格として相対しているのであって、事実、両者のあいだには買い手と売り手との関係以外の関係は存在せず、この関係とは別に政治的または社会的に固定した支配・従属の関係が存在するわけではない、ということである。
  (2) これは第一の関係に含まれていることであるが--というのは、もしそうでなかったら労働者は自分の労働能力を売らなくてもいいはずだから--、彼の客体的な労働諸条件(原料、労働用具、それゆえまた労働中の生活手段も)の全部が、あるいは少なくともその一部が、彼にではなく彼の労働の買い手かつ消費者に属し、それゆえ彼自身にたいして資本として対立しているということである。これらの労働諸条件が彼にたいして他人の所有物として対立することが完全になればなるほど、形態的に資本と賃労働との関係が生じるのが、つまり資本のもとへの労働の形態的包摂が生じるのが、それだけ完全になる。〉(草稿集⑨369-370頁)


◎第16パラグラフ(資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。したがって、資本は直接には生産様式を変化させない。)

【16】〈(イ)資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。(ロ)し/たがって、資本は直接には生産様式を変化させない。(ハ)それだから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのである。(ニ)それは、古風な製パン業でも近代的紡績業の場合に劣らず効果的だったのである。〉(全集第23a巻407-408頁)

  (イ)(ロ) 資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させます。だから、資本は直接には生産様式を変化させないのです。

    絶対的剰余価値の生産では、資本はさしあたりは歴史的にあたえられたままの労働をただ資本主義的な関係のなかに包摂し、資本に従属させるだけです。『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈絶対的剰余価値にもとづく形態を、私は資本のもとへの労働の形態的包摂と名づける。この形態は、現実の生産者たちが剰余生産物、剰余価値を提供しているが、すなわち必要労働時間を超えて労働しているが、それが自分のためではなく他人のためであるような、それ以外の生産様式と、ただ形態的に区別されるにすまない。〉(草稿集⑨369頁)
  〈この場合には、生産様式そのものにはまだ相違が生じていない。労働過程は--技術学的に見れば--以前とまったく同じように行なわれるが、ただし、今では資本に従属している労働過程として行なわれるのである。けれども、生産過程そのもののなかでは、前にも述ぺたように{これについて前述したことのすべてがここではじめてその場所に置かれることになる}、第一に、資本家による労働能力の消費が、それゆえ資本家による監視と指揮とが行なわれることによって、支配・従属の関係が発展し、第二に、労働のより大きな逮続性が発展する。〉(同370頁)

  (ハ)(ニ) だから、これまでに考察した形態での、すなわち労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのです。それは、古風な製パン業でも近代的紡績業の場合に劣らず効果的だったのです。

    だから「第3篇 絶対的剰余価値の生産」においては、労働日の単純な延長による剰余価値の生産が問題になり、生産様式そのものには何の変化も無いものとして前提されたのです。だからそれは近代的紡績業にも古風な製パン業においても見られるものであり、実際にも私たちはそれらを具体的に検討してきたわけです。


◎第17パラグラフ(生産過程を価値増殖過程の観点から考察すると、一つの転倒現象が生じてくる。それが資本家の意識にどのように反映するか)

【17】〈(イ)生産過程を労働過程の観点から考察すれば、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段にではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係だった。(ロ)たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱う。(ハ)彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではない。(ニ)われわれが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなやそうではなくなった。(ホ)生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化した。(ヘ)もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのである。(ト)生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのではなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのであり、そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのである。(チ)熔鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては「ただの損失」(“mere loss")である。(リ)それだからこそ、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのである。(ヌ)貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのである。(ル)このような、資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒、じつに、この、死んでいる労働と生きている労働との、価値と価値創造力との関係の逆転は、資本家の意識にどのように反映するか、このことを最後になお一つの例によって示しておこう。(ヲ)1848-1850年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、
  「西スコットランドの最も古くて最も名のある商社の一つで1752年以来存続し代々同じ家族によって経営さ/れているカーライル同族会社というべーズリ所在の亜麻・綿紡績業の社長」、--
この非常に賢明な紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリ・メール』紙に『リレー制度』という題名で一つの書簡(207)を寄せたが、そのなかにはなかんずく次のような奇怪なまでに素朴な文句が混じっている。
(ワ)「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって(tthen every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10)、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう(208)。」〉(全集第23a巻408-409頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 生産過程を労働過程の観点から考察しますと、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段に対してではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係でした。たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱います。彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではないのです。

    まずフランス語版を紹介しておきましょう。フランス語版ではこの部分はその前のパラグラフと合体されて、その途中から始まり、終わったところで改行されています。

  〈われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたときには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。〉(江夏・上杉訳321頁)

  「第5章 労働過程と価値増殖過程」で見ましたように、生産過程を労働過程としてみますと、労働者の生産手段に対する関係は、資本としての生産手段にたいする関係ではなく、単に合目的的な生産活動のための手段あるいは材料としての生産手段にたいする関係でした。例えば製革業では、労働者は獣皮をたんなる労働対象として取り扱います。彼が革をなめすのは、資本家のためにではないのです。

    新日本新書版では〈彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではない〉という部分は〈彼はなめすものは資本家の皮ではない〉(541頁)となっていて、この部分に次のような訳者注が付いています。

  〈なめし皮業者が徒弟をきたえるためにしたたか打ちのめすことを「徒弟の皮をなめす」と言ったのに由来する慣用句および学生用語の風刺の転用〉(543頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) しかし、わたしたちが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなやそうではなくなりました。生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化したのです。もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのです。生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのではなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのです。そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのです。

    この部分もまずフランス語版を紹介しておくことします。

  〈われわれが剰余価値の観点で生産を考察するようになるやいなや、事態は変わった。生産手段は直ちに他人の労働の吸収手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなく、反対に生産手段が労働者を使う。生産手段は、労働者によって彼の生産活動の素材的要素として消費されるのではなく、生産手段自身の生活に不可欠な酵母として労働者自身を消費するのであって、資本の生活は、永遠に増殖途上にある価値としての資本の運動にほかならない。〉(同上)

    ところが、生産過程を価値増殖過程の観点から見ますと、生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化し、労働者と生産手段の関係も逆転して、もはや労働者が生産手段を自身の道具や材料として扱うのではなく、反対に生産手段が労働者を自身の生活過程(価値を増殖する運動)のための酵素として消費するのです。主体はもはや労働者ではなく、生産手段(あるいは資本)になっています。だから資本の生産過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動になっているのです。

  (チ)(リ) 熔鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しなくなると、それは資本家にとっては「ただの損失」(“mere loss")でしかありません。だからこそ、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのです。

    フランス語版です。

  〈夜間には休止していて、生きた労働をなんら吸収しない熔鉱炉や工場の建物は、資本家にとっては純損<a mere loss>になる。だからこそ、熔鉱炉や工揚の建物は、労働者の「夜間労働にたいする請求権、権利」を構成しているのだ。これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である。〉(同上)
 
    生産手段が資本の生産手段になるということは、それが常に生きた労働と接触して剰余労働を吸収しつづけなければならないということです。だからそれが制止させられるということは、資本家にとってはただの損失でしかありません。だからこそ溶鉱炉や作業用建物が夜間休止していて、生きている労働を吸収できなくなる事態を防ごうとする資本の強い欲求が生じるのです。だから溶鉱炉や作業用建物は、労働力の夜間労働にたいする要求の根拠にされるのです。

  (ヌ) 貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのです。

    フランス語版では上記のように〈これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である〉とありますようにこうした文言は省かれています。

    こうした生産手段と労働者の逆転した関係は、ただ貨幣が資本家の手によって生産過程の対象的要因すなわち生産手段に転化されるというだけで生じてきます。それだけで生産手段は他人の労働さらに剰余労働を強制する権限あるいは強制力の源となるのです。

  (ル) このような、資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒、じつに、この、死んでいる労働と生きている労働との、価値と価値創造力との関係の逆転は、資本家の意識にどのように反映するか、このことを最後になお一つの例によって示しておきましょう。

    フランス語版です。なお、フランス語版ではここで改行されています。

  〈こういった、資本主義的生産を特微づけている役割の転倒が、死んだ労働と生きた労働との関係の、価値と価値創造力との関係の、こうした奇妙な転倒が、資本の所有主の意識のうちにどのように反映しているかを、ただ一例によって示すことにしよう。〉(同上)

    こうした資本主義的生産に特有な物象的関係の転倒、死んでいる労働(生産手段)と生きている労働との関係の逆転、あるいは価値(生産手段)と価値創造力(労働力)との関係の逆転が、資本家の意識にどのように反映するのかの例を、最後にもう一つ示すことにしましょう。

  (ヲ)(ワ) 1848-1850年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、「西スコットランドの最も古くて最も名のある商社の一つで1752年以来存続し代々同じ家族によって経営されているカーライル同族会社というべーズリ所在の亜麻・綿紡績業の社長」、--この非常に賢明な紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリ・メール』紙に『リレー制度』という題名で一つの書簡を寄せましたが、そのなかにはなかんずく次のような奇怪なまでに素朴な文句が混じっています。
 「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって(tthen every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10)、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう。」

    フランス語版はそれほどの違いはないので紹介は略します。

  ここで〈1848-1850年のイギリスの工場主反逆〉というのは、第8章第6節の第30パラグラフで〈2年間にわたる資本の反逆は、ついに、イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所〔Court of Exchequer〕の判決によって、仕上げを与えられた。すなわち、この裁判所は、1850年2月8日にそこに提訴された一つの事件で、工場主たちは1844年の法律の趣旨に反する行動をしたにはちがいないが、この法律そのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいる、と判決したのである。「この判決をもって10時間法は廃止された(167)。」それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついた(168)。〉と書いていたもののことでしょう。
    その反逆のさいちゅうに、西スコットランドのカーライル同族会社の経営者が『リレー制度』という題名の書簡を『グラスゴー・デーリ・メール』紙に寄せたものが引用されています。
    それは労働時間が12時間から10時間に制限されると、彼の工場にある機械や紡錘まで、それまでの12個から10個に減ったものになり、国じゅうの工場の価値も同じように6分の1ずつ減らされたものとして評価されるというものです。
    つまり資本家にとっては生産手段というのは、労働を、とくに剰余労働を吸収することよってその価値を増殖する性質をもったものなのです。だからその吸収が制限されるということは、生産手段の価値そのものが減少することのように見えるわけです。資本家には生産手段は労働を吸収して増殖する性質がそれ自体に生え出ているもののように見えるわけです。物象的な関係が逆転して見えているということです。


◎原注207

【原注207】〈207 『工場監督官報告書。1849年4月30日』、59ページ。〉(全集第23a巻409頁)

    これは本文で紹介されている書簡の典拠を示すものです。つまりこの書簡そのものが『工場監督官報告書』で紹介されているということです。


◎原注208

【原注208】〈208 (イ)同前、60ページ。(ロ)工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官たちとは反対にまったく資本家的な考え方にとらわれているのであるが、自分の報告書に収録したこの書簡について、それは「リレー制度を用いている工場主のなかの或る人によって書かれたもので、特にかの制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とするきわめて有益な通信である」と明言している。〉(全集第23a巻409頁)

  (イ) 同前、60ページ。

    これは本文で引用されている書簡が紹介されている『工場監督官報告書』の頁数を示すものです。

  (ロ) 工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官たちとは反対にまったく資本家的な考え方にとらわれているのですが、自分の報告書に収録したこの書簡について、それは「リレー制度を用いている工場主のなかの或る人によって書かれたもので、特にかの制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とするきわめて有益な通信である」と明言しています。

    この『工場監督官報告書』を書いたのはスコットランドとアイルランドを管轄していたステュアートで、彼自身スコットランド人で、イングランドやヴェールズを管轄していたホーナーやハウェル、あるいはソーンダースとは違って、資本家的な考えにとらわれていたということです。

  第8章第6節の第26パラグラフでも次のように書かれていました。

  〈しかし、まもなく工場主たちの陳情の砂塵が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそぎ、その結果、彼は1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示した。
  「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」
  そこで、工場監督官J・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになった。これに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかった。〉

    つまり工場監督官のうちステュアートだけが資本家の意を汲んで交替制を許可したのです。
    だから彼は工場主の書簡を高く評価し、リレー制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とする有益な通信だなどと述べているということです。


◎第18パラグラフ(資本家には、生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけている)

【18】〈(イ)この西スコットランドの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘などという生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を飲みこむという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけているのであって、そのために、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には紡錘の価値だけではなく、そのうえに紡錘の価値増殖も支払われるのだと、すなわち、紡錘に含まれている同種の紡錘の生産に必要な労働だけではなく、紡錘の助けによって毎日ぺーズリのけなげな西スコットランド人から汲み出される/剰余労働も支払われるのだと、実際に妄想しているのであって、それだからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば紡績機の12台ずつの売却価格も10台ずつのそれに縮まってしまう! と思うのである。〉(全集第23a巻409-410頁)

  (イ) この西スコットランドの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘などという生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を飲みこむという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけているのです。だから、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には紡錘の価値だけではなくて、そのうえに紡錘の価値増殖も支払われねばならなんと考えるのです。紡錘に含まれている同種の紡錘の生産に必要な労働だけではなくて、紡錘の助けによって毎日ぺーズリのけなげな西スコットランド人から汲み出される剰余労働も支払われねばならないと、実際に妄想しているのです。だからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば紡績機の12台ずつの売却価格も10台ずつのそれに縮まってしまう! と思うのです。

    このパラグラフもまずフランス語版を紹介しておくことにします。

  〈われわれの見るとおり、スコットランドのこの石頭にとっては、生産手段の価値が、自己増殖しあるいは一定量の無償労働を日々同化するという生産手段のもつ資本属性と、全く混同されている。そして、カーライル同族会社のこの社長は、工場を売却するさいには、機械の価値だけでなく、おまけに機械の価値増殖も支払われる、すなわち、機械のなかに含まれていて同類の機械の生産に必要な労働だけでなく、機械の役立ちでぺーズリの律義なスコットランド人から日々詐取されている剰余労働までも支払われる、と信ずるほどに妄想を抱いている。彼の意見によれば、それだからこそ、労働日の2時間の短縮は、彼の機械の販売価格を引き下げるであろう。機械1ダースはもはや10個の価値しかないことになろう!〉(江夏・上杉訳322頁)

    労働時間が短縮されますと、その労働を使って生産手段に投じた自身の資本価値を増殖しようと考えている資本家にとっては、生産手段の価値そのものが、それだけ収縮するように思えるのはどうしてかを明にしています。
    それは生産手段の価値と、自分自身を増殖しようとする、つまり毎日一定量の他人の労働を無償で飲み込むという生産手段の資本属性との区別がぼやけているからだというのです。
    だから資本家にとっては、自分の工場を売るなら、自分には工場や紡錘の価値だけではなくて、その資本属性をも売ることになるので、その資本属性に対しても支払を受ける必要があると考えるわけです。だからこそ、彼は労働日が2時間短縮されると紡績機の12台の販売価格が10台分に減ると考えたわけです。

(【付属資料】(1)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(5)

2024-03-14 15:36:44 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(5)


【付属資料】(1)


●第1パラグラフ

《61-63草稿》

  〈われわれは、絶対的剰余価値および相対的剰余価値という二つの形態を切り離して考察したが、同時に、この二つの形態は互いに結びついているということ、また、相対的剰余価値が発展するのとまさに時を同じくして、絶対的剰余価値が極限にまで駆り立てられるということを示した。すでに見たように、この二つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)

《初版》

 〈これまでと同じように、この節でも、労働力の価値、したがって、労働日のうちで労働力の再生産または維持に必要な部分は与えられた不変量である、と想定する。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈本章でもこれまでと同じように、労働力の日価値、したがって、労働者が労働力を再生産しあるいは維持するにすぎない労働日部分は、不変量であると見なす。〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》 英語版では第9章は第11章になっている。

  〈(1) この章でも、これまでと同様に、労働力の価値と、その結果として労働力を再生または維持するために必要な労働日のある部分については、ある一定の大きさがすでに与えられているものとする。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈このように前提すれば、剰余価値率と同時に、個々の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられている。たとえば必要労働が、1日に6時間で、3シリング=1ターレルの金量で表現されているとすれば、1ターレルは、1個の労働力の日価値、すなわち、1個の労働力の買い入れた前貸しされる資本価値である。さらに、剰余価値率が100%であれば、1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を産む、すなわち、労働者は1日に6時間の剰余価値量を引き渡すわけである。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈1平均労働力の日価値が3シリングあるいは1エキュであって、これを再生産するために1日に6時間が必要であると想定しよう。資本家は、このような1労働力を買うために1エキュを前貸ししなければならない。この1エキュは資本家にどれだけの剰余価値をもたらすであろうか? それは剰余価値率に依存している。剰余価値率が50%であれば、剰余価値は3時間の剰余労働を代表する半エキュであろうし、100% であれば、6時間の剰余労働を代表する1エキュに上がるだろう。こうして、労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》

  〈(2) このことにより、個々の労働者が一定期間において資本家に供する剰余価値の率・量が、同時に与えられたものとなる。すなわち、仮に、必要労働が日6時間であり、ある一定量の黄金= 3 シリングで表されるならば、かくして、その3 シリングが、一労働力の日価値 あるいは、一労働力を購入するために前貸しした資本の価値となる。さらに、もし、剰余価値率が = 100% であるならば、この可変資本の3シリングが、3シリングの剰余価値の量を生産する。または、その労働者が、6時間に等しい剰余労働の量を資本家に1日あたりで供給する。〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈ところが、可変資本は、資本家が特定の生産過程において同時に使用するあらゆる労働力の総価値を表わす貨幣表現である。だから、1個の労働力の日価値が1ターレルであれば、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの資本が、毎日n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本が、前貸しされなければならない。だから、前貸可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。したがって、労働力の価値が与えられていれば、可変資本の価値の大きさすなわち可変資本量は、わが物にされた労働力の量あるいは同時に使用される労働者のが変動するにつれて、変動することになる。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の価値の貨幣表現である。可変資本の価値は、1労働力の平均価値に個々の労働力の数を乗じたものに等しい。したがって、可変資本の量は、使用される労働者の数に比例する。資本家が日々100労働力を搾取すれば、それは1日に100エキュに達し、n労働力を搾取すればnエキュに達する〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》

  〈 (3) ところで、資本家の可変資本というのは、彼が同時に雇った全労働力の総価値の貨幣表現のことである。従って、その価値は、一労働力の平均価値に、雇った労働力の数を掛けたものに等しい。であるから、与えられた労働力の価値に基づき、可変資本の大きさは、同時に雇った労働者の数によって、直接的に変わる。もし、一労働力の日価値が = 3 シリングであるならば、日100労働力を搾取するためには、300シリングの資本が前貸しされねばならない。日n労働力を搾取するためには、3シリングのn倍の資本が前貸しされねばならない。(訳者挿入 云うまでもないことではあるが、前段で示されるように、剰余価値率=100% として計算される。) 〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《初版》

 〈1ターレルの可変資本すなわち1個の労働力の日価値が、毎日1ターレルの剰余価値を生産すれば、100ターレ/ルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を生産するし、nターレルの可変資本は毎日 1ターレル×n の剰余価値を生産する。だから、生産される剰余価値の量は、個々の労働者の労働日が引き渡す剰余価値に使用労働者の数を掛けたものに等しい。ところで、さらに、個々の労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていれば、剰余価値率によって規定されるのであるから、同じ前提のもとでは、次のような結論が出てくる。それは、与えられたある可変資本が生産する剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい、あるいは、同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定される、という結論である。〉(江夏訳342-343頁)

《フランス語版》  フランス語版には全集版にはない原注(1)があるので、本文の次に紹介しておく。

 〈同様に、1労働力の価格である1エキュが1エキュの日々の剰余価値を生産すれば、100エキュの可変資本は100エキュの剰余価値を生産し、nエキュの資本は 1エキュ×n の剰余価値を生産するであろう。したがって、可変資本が生産する剰余価値量は、可変資本から支払いを受ける労働者の数に個々の労働者が1日にもたらす剰余価値量を乗/じたもの、によって規定される。そして、個々の労働力の価値が知られていれば、剰余価値量は剰余価値率、換言すれば労働者の必要労働にたいする剰余労働の比率、に依存している(1)。したがって、次のよう法則が得られる。可変資本によって生産される剰余価値の量は、この前貸資本の価値に剰余価値率を乗じたものに等しく、あるいは、1労働力の価値にその搾取度を乗じ、さらに、同時に使用される労働力の数を乗じたもの、に等しい。

  (1) 本文では、1平均労働力の価値が一定であるばかりでなく、「資本家に使われているすべての労働者が平均労働力にほかならないことが、依然として想定されている。生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例して増加せず、そのさい労働力の価値が一定ではない、という例外的なばあいもある。〉(江夏・上杉訳313-314頁)

《イギリス語版》

  〈(4) 同様に、もし、3シリングの可変資本、一労働力の日価値が、日3シリングの剰余価値を生産するとしたら、300シリングの可変資本は、日300シリングの剰余価値を生産する。そして、3シリングのn倍のそれは、日3シリング×n なる剰余価値を生産する。従って、生産される日剰余価値の量は、一労働者が供給する一労働日の剰余価値に、雇われた労働者の数を乗じた量と等しいものになる。しかも、さらに付け加えるならば、一労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられたものならば、剰余価値率によって決まる。この法則は、次のように云える。剰余価値量は、前貸しされた可変資本の量に、剰余価値率を乗じた量となる。別の言葉で云えば、同一の資本家によって同時に搾取される労働力の数と、個々の労働力の搾取される率と、一労働力の価値、の各項目の複乗算によって求められる量となる。〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《初版》 初版には第5パラグラフに該当するものはない。

《フランス語版》

 〈したがって、剰余価値の量をP、個々の労働者によって日々生産される剰余価値をp、1労働者にたいする支払いのために前貸しされる可変資本をv、可変資本の総価値をV、1平均労働力の価値をf、その搾取度を t'(剰余労働)/t(必要労働)、使用される労働者の数をn、と名づければ、次のような式が得られる。

     =p/v×V
  P {
     =f×t'/t×n

  さて、ある積の諸因数の数値が同時に逆比例して変化すれば、この積の数値は変わらない。〉(江夏・上杉訳314頁)

《イギリス語版》  二つのパラグラフに分けられている。

  〈(5) 剰余価値の量を S 、個々の労働者によって日平均として供給される剰余価値を s 、1個人の労働力の購入に前貸しされた日可変資本を v 、可変資本の総計を V 、平均労働力の価値を P 、その搾取率を、(a'/a) (剰余労働 / 必要労働) 、そして雇われた労働者数を n としよう。我々は次の式を得る。

S = (s/v) × V

S = P × (a'/a) × n

  (6) 以下のことは、常に想定されている。労働力の平均価値だけではなく、資本家によって雇われる労働者も、平均的な労働者なのである。時に、搾取される労働者数に比例して生産される剰余価値が増加しないという例外的ケースもあるが、この場合では、労働力の価値が一定値に留まってはいない。( 云わずもがなではあるが、訳者注: 労働力の価値が上昇する。)〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《初版》

 〈だから、一定量の剰余価値の生産では、一方の要因の減少は他方の要因の増加でもって補填できるわけである。可変資本が減少し、同時に同じ割合で剰余価値率が高くなれば、生産される剰余価値の量は不変である。資本家は、前記の前提のもとでは、毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸ししなければならず、しかも剰余価値率が50%であるとすれば、この100ターレルの資本は、50ターレルの剰余価値、すなわち 100×3労働時間 の剰余価値を産む。剰余価値率が2倍になれば、すなわち、労働日が6時間から9時間に延長されるのではなく、6時間から12時間に延長されれば、50ターレルという半減された可変資本も、やはり50ターレルの剰余価値、すなわち 50×6労働時間 の剰余価値を産む。だから、可変資本の減少は、労働力の搾取度を右の減少に比例して引き上げれば補填できるし、または、就業労働者の数の減少は、労働日を右の減少に比例して延長すれば補填できるわけである。したがって、ある程度の限界内では、資本が搾り出しうる労働の供給は、労働者の供給に依存していない(202)。逆に、剰余価値率が減少しても、この減少に比例して可変資本の量または就業労働者の数が増せば、生産される剰余価値の量は変わらない。〉(江夏訳343頁)

《フランス語版》 フランス語版では、このパラグラフは5つのパラグラフに分けられてより詳しい説明になっている。ここでは五つのパラグラフをすべて紹介する。

 〈したがって、一定量の剰余価値の生産では、その諸因数中のある一因数の減少が他の因数の増大によって相殺されることがある。
  こんなわけで、剰余価値率の減少は、可変資本または使用される労働者の数がこれに比例して増大すれば、生産される剰余価値量に影響を及ぼすものではない。
  100人の労働者を100%の率で搾取する100エキュの可変資本は、100エキュの剰余価値を生産する。剰余/価値率を半減しても同時に可変資本を倍加すれば、剰余価値量は相変わらず同じである。
  これとは逆に、可変資本は減少するがそれに反比例して剰余価値率が増大すれば、剰余価値量は相変わらず同じである。資本家が100人の労働者に日々100エキュを支払い、これらの労働者の必要労働時間が6時間、剰余労働時間が3時間に達する、と仮定せよ。100エキュの前貸資本は50%の率で自己増殖して、50エキュあるいは 100×3労働時間=300労働時間 の剰余価値を生産する。さて今度は資本家が自分の前貸しを100エキュから50エキュに半減しても、すなわち、もはや50人の労働者しか雇い入れなくても、それと同時に剰余価値率を2倍にすることに、あるいは結局同じことになるが、剰余労働を3時間から6時間に延長することに成功すれば、彼はやはり同じ剰余価値量を獲得するであろう。50エキュ×100/100エキュ=100エキュ×50/100=50エキュ であるからだ。労働時間で計算すれば、50労働力×6労働時間=100労働力×3時間=300労働時間 が得られるのである。
  したがって、可変資本の減少が、これに比例する剰余価値率の引き上げによって相殺されることもあれば、あるいは、使用される労働者の減少が、これに比例する労働日の延長によって相殺されることもある。こうして、資本によって搾取可能な労働量は、ある程度は、労働者の数から独立したものになる(2)。〉(江夏・上杉訳314-315頁)

《イギリス語版》

  〈(7) であるゆえ、剰余価値の一定量の生産においては、一要因の減少は他の増加で補完されるであろう。もし、可変資本が減少しても、同時に、剰余価値率が同じ比率で上昇すれば、剰余価値量は、変化なく留まる。もし、我々の前段の仮定で見るとして、資本家が、日100人の労働者を搾取するために、300シリングを前貸しせねばならぬとしたら、剰余価値率が50%として、この可変資本300シリングは、剰余価値150シリング、または、100人×3 労働時間 の剰余価値を産む。もし仮に、剰余価値率が2倍、(訳者注: 100%) または、労働日の超過が6時間から9時間に代わって6時間から12時間となり、 同時に可変資本が半分に減らされた つまり150シリングになったとすれば、剰余価値は、同様にして150シリング、または50人×6労働時間の剰余価値を産む。可変資本の減少は、このように、労働力の搾取率の比例的上昇によって補完される。または、労働日の拡大に相当する雇用労働者数の減少によって補完される。ある一定の限界はあるものの、かくして、資本によって搾取される労働の供給は、労働者の供給からは独立している。*1〉(インターネットから)


●原注202

《61-63草稿》

  〈労働の価値または労働時間の価格というこの表現では、価値概念は完全に消し去られているだけでなく、それと直接に/矛盾するものに転倒されている。標準的な労働日の一部分(つまり労働能力の再生産に必要な部分)しか体現されていない価値が、労働日全体の価値として現われる。このようにして、12時間労働の価値は、12時間労働で生産される商品の価値が6シリングに等しいにもかかわらず、そうなるのももともと12時間労働が6リングを表わすからであるにもかかわらず、3シリングに等しいのである。したがって、これは、たとえば代数学における√-2と同じような不合理な表現なのである。とはいえ、それは、生産過程の必然的な結果として生ずる表現なのである、つまり労働能力の価値の必然的な現象形態なのである。その不合理な表現は、すでに労賃という言葉自体のなかにある。そこでは労働の賃金イコール労働の価格イコール労働の価値なのである。しかし、労働者の意識のなかでも資本家の意識のなかでも同じように生きているこの没概念的な形態は、実生活において直接的に現われる形態なのであるから、それゆえこの形態こそ、俗流経済学が固執するところの形態なのである。彼らは、他のすべての諸科学から区別される経済学の独自性は次の点にあるというのである。すなわち他の諸科学が、日常の諸現象の背後にか〈れている、そして日常の外観(たとえば、地球をめぐる太陽の運動のような)とたいていは矛盾する形態にある本質を暴露しようとするのにたいして、経済学の場合には、日常の諸現象を同じく日常的な諸表象のうちへたんに翻訳することをもって科学の真の事業だと言明してはばからない、と。労働能力の価値が、労働の価値として、または貨幣で表現された労働の価格としてその日常的表現(その通俗的な姿)をえて、ブルジョア社会の表面に現われるさいの、この転倒した派生的形態にあっては、支払労働と不払労働のあいだの区別は完全に消し去られている。なぜといって、労賃とはまさに労働日の支払いのことだし、それは、労働日との等価、--実際のところ--労働日の生産物との等価なのだからである。それだから、生産物に含まれている剰余価値は、実際、一つの目にみえない、神秘的な性質から説明するほかはなく、不変資本から導きだすほかはないのである。この〔労働の価格という〕表現こそが、賃労働と賦役労働のあいだの区別を成すものであり、労働者自身の思い違いを生んでいるのである。〉(草稿集⑨350-351頁)

《初版》

 〈(202) この基本的法則を、俗流経済学者の諸氏は知っていないように思える。彼らは、さかさにされたアルキメデスたちは、需婆と供給とで労働の市場価格がきまるということのうちに見いだしたものは、世界を土台から変えるための支点ではなく、世界を静止させるための支点である、と思っている。〉(江夏訳344頁)

《資本論』第3部補遺》

 〈1 価値法則と利潤率
  この二つの要因のあいだの外観上の矛盾の解決はマルクスの原文が公表されてからもそれ以前と同様にさまざまな論議をかもすであろうということは、予想されることだった。ずいぶん多くの人々が完全な奇跡を期待していた。そして、いま彼らは失望落胆している。というのは、自分たちが予期していた手品のかわりに、簡単で合理的な、散文的で平凡な、対立の調停が目の前に現われたからである。いちばん喜んで失望しているのは、いうまでもなく例のローリア閣下である。彼はついにあのアルキメデスの挺子の支点を見つけたのだ。この支点からやれば彼のような一寸法師でもマルクスの堅固な巨大な建築を空中に持ち上げて粉砕することができるというのである。彼は怒って叫ぶ。こんなものが解決だというのか? こんなものはただのごまかしではないか!〉(全集第25b巻1136頁)

《フランス語版》

 〈(2) この基本法則は俗流経済学者諸君には知られていないようであって、これら逆さにされた新アルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を隆起させるのではなく世界を静止状態に保っておくための支点を見出した、と信じている。〉(江夏・上杉訳315頁)

《イギリス語版》 訳者の余談がながながとついているが、省略する。

  〈本文注: 1 *この初歩的な法則は、アルキメデスが逆さまになったような俗流経済学者には未知のようなもので、供給と需要で労働の市場価値を決める場合の梃子の支点を見出したと思っているらしい。その梃子の支点が、世界を動かすようなことはなく、その動きを止めるものと思っているらしい。(訳者注: この梃子の支点、剰余価値(率と量)こそ、資本主義社会を拡大し、資本主義世界を変革して行くものなのであるが、その認識を欠いている。〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《初版》

 〈それにもかかわらず、労働者の数または可変資本の大きさを、剰余価値率の引き上げまたは労働日の延長でもって補填するばあいには、飛び越えられない絶対的な限界がある。労働力の価値がどれだけであろうと、したがって、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であろうと10時間であろうと、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、いつでも、24労働時間の対象化である価値よりも小さいし、対象化されている24労働時間の貨幣表現が12シリングまたは4ターレルであれば、この金額よりも小さい。われわれの前記の前提によると、労働力そのものを再生産するためには、または、労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間を必要とするが、この前提のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で、毎日50O人の労働者を使用している50Oターレルの可変資本は、毎日、50Oターレルの剰余価値または 6×500労働時間 の剰余価値を生産することになる。200%の剰余価値率すなわち18労働時間で、毎日100人の労働者を使用している100ターレルの資本は、200ターレルの剰余価値量または 18×100労働時間〔マイスナー第2版およびフランス語版では「12×100労働時間」に訂正〕の剰余価値量しか生産しない。そしてまた、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸資本の等価・プラス・剰余価値は、けっして、毎日4OOターレルまたは 24×100労働時間 という額に達することができない。平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成しているのである。この明白な法則は、後述する資本の傾向--この傾向は、資本が使用/する労働者の数、または労働力に転換される資本の可変成分を、最小限度に縮小するものであって、できるだけ大きな剰余価値量を生産するという資本のもう一つの傾向とは矛盾している--から生ずる多くの現象を説明するためには、重要である。逆に、使用される労働力の量または可変資本の量が増大しても、剰余価値率に比べて減少の速度がおそければ、〔マイスナー第2版では「剰余価値率の減少に比例していなければ」〕生産される剰余価値の量は低下する。〉(江夏訳344-345頁)

《資本論》

 〈資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最/も強力な槓杆となる点が必ず現われる。……労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。〉(全集第23b巻811-812頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは三つのパラグラフに分けられている。三つ一緒に紹介しておく。

 〈しかし、この種の相殺は一つの乗り越えがたい限界に出会う。24時間という自然日は平均労働日よりも必ず長い。だから、平均的な労働者が1時間に1/6エキュの価値を生産しても、平均労働日はけっして4エキュの日価値をもたらすことができない。4エキュの価値を生産するためには、平均労働日は24時間を必要とするからである。剰余価値については、その限界はなおいっそう狭い。もし日々の賃金を補填するために必要な労働日部分が6時間に達するならば、自然日のうち残るのは18時間だけであって、生物学の法剥は、この18時間のうちの一部を労働力の休息のために要/求する。労働日を18時間という最高限度に延長して、この休息の最低限度として6時間を想定すれば、剰余労働は12時間にしかならず、したがって、2エキュの価値しか生産しないであろう。
  500人の労働者を100% の剰余価値率で、すなわち6時間が剰余労働に属する12時間の労働をもって、使用する500エキュの可変資本は、日々500エキュあるいは 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。日々100人の労働者を200%の剰余価値率で、すなわち18時間の労働日をもって、使用する100エキュの可変資本は、200エキュあるいは 12×100労働時間 の剰余価値しか生産しない。その生産物は総価値で、1日平均400エキュの額あるいは 24×100労働時間 にけっして達することができない。したがって、可変資本の減少が剰余価値率の引き上げによって、または結局同じことになるが、使用される労働者の数の削減が搾取度の上昇によって、相殺できるのは、労働日の、したがって、労働日に含まれる剰余労働の、生理的な限界内にかぎられる。
  全く明白なこの法則は、複雑な現象の理解にとって重要である。われわれはすでに、資本が最大限可能な剰余価値を生産しようと努力することを知っているし、後には、資本がこれと同時に、事業の規模に比較してその可変部分あるいはそれが搾取する労働者の数を最低限に削減しようと努めることを見るであろう。これらの傾向は、剰余価値量を規定する諸因数中のある一因数の減少がもはや他の因数の増大によって相殺されえなくなるやいなや、あい矛盾したものになる。〉(江夏・上杉訳315-316頁)

《イギリス語版》  やはり訳者余談がながながと続くが省略する。

  〈 (8) 雇用される労働者数の減少に対する補填、または前貸しされた可変資本の量に対する補填は、剰余価値率の上昇によって補填されるものではあるが、それは労働日の超過時間によるものであって、従って、それは、超えることが出来ない限界を持っている。労働力の価値がどの様なものであれ、労働者の生命維持のための必要労働時間が2時間であれ10時間であれ、労働者が生産し得る全価値は、日の始まりから日の終りまで、常に、24時間の労働によって体現される価値よりは少ない。もし12シリングが24時間の労働が実現するものの貨幣的表現であるとしたら、12シリングよりは少ない。我々の前の前提によれば、日6時間の労働時間が労働力自体の再生産に必要である、または、その労働力の購入に前貸しされた資本の価値を置き換えるものである。1,500シリングの可変資本が、500人の労働者を雇用し、剰余価値率100% 12時間労働日であれば、日剰余価値1,500シリング または6×500労働時間を生産する。300シリングの資本が日100人の労働者を雇用し、剰余価値率200% または18時間労働日であれば、単に、600シリングの剰余価値量を生産する、または、12×100労働時間のそれである。そうして、だが、全生産物の価値、前貸しされた可変資本の価値+剰余価値であるが、それは、日の始めから日の終りまでの、計1,200シリング または、24×100労働時間に届くことはあり得ない。( 剰余価値率がどうなるかを、計算すればよい。訳者のお節介ではあるが。) 平均労働日の絶対的限界- これは自然そのものにより、24時間より常に少ない- は、可変資本の減額に対してより高い剰余価値率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。または、搾取される労働者の減員に対してより高い搾取率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。(訳者注: 一番目の法則) この誰でも分かる法則は、資本の、出来得る限り雇用する労働者数をこのように少なくする性向(今後とも作用し続ける) から生じる多くの現象を解く上で非常に重要である。また、別の性向として、出来得る限りの大きな剰余価値量を求めることから、前者とは逆に、可変資本部分を労働力に変換することもある。これまでのこととは全く違って、(訳者注: 以下が二番目の法則) 雇用された労働者数、または可変資本量が増大したとしても、剰余価値率の同比の下落はないし、生産される剰余価値量の下落もありはしない。〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》

 〈第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本の量という二つの要因によって規定される、ということから生ずる。剰余価値率あるいは労働力の搾取度、および、労働力の価値あるいは必要労働時間の長さが、与えられていれば、可変資本が大きければ大きいほど生産される価値および剰余価値の量がいっそう大きい、ということは自明である。労働日の限界が与えられ、労働日の必要成分の限界も与えられていれば、1人の単独資本家が生産する価値および剰余価値の量は、もっぱら、この資本家が動かす労働量によってきまる、ということは明白である。ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、この資本家が搾取する労働力の量あるいは労働者の数によってきまり、この数のほうは、この資本家が前貸しする可変資本の大きさによってきめられる。だから剰余価値率が与えられ労働力の価値が与えられていれば生産される剰余価値の量は前貸可変資本の大きさに正比例する。ところが、いまや周知のように、資本家は自分の資本を二つの部分に分ける。彼は一方の部分を生産手段に支出する。これは彼の資本の不変部分である。彼は他方の部分を生きている労働力に転換する。この部分は彼の可変資本を成している。同じ生産様式の基礎上でも、生産部面がちがえば、不変成分と可変部分とへの資本の分割がちがってくる。同じ生産部面のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わる。しかし、ある与えられた資本が不変成分と可変成分とにどう分かれていようとも、すなわち、前者にたいする後者の比率が1:2であろうと1:10であろうと1:xであろうと、いま定められた法則は、そのことで影響を受けることはない。とい/うのは、さきの分析によると、不変資本の価値は、なるほど生産物価値のうちに再現しても、新しく形成される価値生産物のなかにははいり込まないからである。1000人の紡績工を使うためには、もちろん、100人の紡績工を使うために必要とするよりも多くの原料や紡錘等々を必要とする。しかし、これらの追加生産手段の価値は、増加することも減少することも不変なこともあろうし、大きいことも小さいこともあるだろうが、それだからといって、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんら影響を及ぼさない。だから、ここで確認された法則は、次のような一般的形態をとる。相異なる諸資本によって生産される価値および剰余価値の量は労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい大いさのばあいにはこれらの資本の可変成分の大きさにすなわちこれらの資本のうち生きている労働力に転換される成分の大きさに正比例する。〉(江夏訳345-346頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられている。二つ一緒に紹介しておく。

 〈価値とは実現された労働にほかならないから、資本家の生産させる価値量がもっぱら彼の動かす労働量に依存することは、自明である。彼は同数の労働者を用いて、労働者の労働日がより長くまたはより短く延長されるのに応じて、労働量をより多くまたはより少なく動かすことができる。ところが、労働力の価値と剰余価値率とが与えられていれば、換言すれば、労働日の限界と、労働日の必要労働と剰余労働への分割とが与えられていれば、資本家の実現する剰余価値を含んでいる価値の総量は、もっぱら、彼が働かせる労働者の数によって規定され、労働者の数そのものは、彼が前/貸しする可変資本の量に依存している。
  そのばあい、生産される剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に正比例する。ところで、産業部門がちがえば、総資本が可変資本と不変資本とに分割される割合は非常にちがう。同種の事業では、この分割は技術的条件と労働の社会的結合とに応じて変化する。ところが、周知のように、不変資本の価値は、生産物のうちに再現するのに対し、生産手段に付加される価値は、可変資本、すなわち前貸資本のうち労働力に変わる部分からのみ生ずる。ある与えられた資本が不変部分と可変都分とにどのように分解しても、前者と後者の比が 2:1,10:1, 等々であっても、すなわち、使用される労働力の価値に比べた生産手段の価値が増大しても減少しても不変のままであっても、それが大きくても小さくても、どうでもよいのであって、それは生産される価値量にはやはり少しも影響を及ぼさない。このばあい、前貸資本が不変部分と可変部分とに分割される割合がどうありうるにしても、上述の法則を種々の産業部門に適用すれば、次の法則に到達する。平均労働力の価値とその平均搾取度が種々の産業で同等であると仮定すれば生産される剰余価値の量は使用される資本の可変部分の大きさに正比例するすなわち労働力に変えられる資本都分に正比例するのである。〉(江夏・上杉訳316-317頁)

《イギリス語版》

  〈(9) 三番目となる法則 (訳者注: 一番目、二番目の法則に続くものとして) が、二つの要素、剰余価値率と前貸しされた資本の量で、生産される剰余価値の大きさが確定されることから導かれる。剰余価値率、または労働力の搾取度 と、労働力の価値、または必要労働時間 が、与えられるならば、可変資本が大きくなればなるほど、生産された価値の量も剰余価値の量も大きくなる、のは自明であろう。もし、労働日の制限が与えられるならば、また、必要労働部分の制限が与えられるならば、一資本家が生産する剰余価値量は、彼が設定した労働者の数に明確に、排他的に依存する。つまり、前に述べた条件の下では、労働力の量に依存し、または、彼が搾取する労働者の数に依存する。そして、その数そのものは、前貸しされた可変資本の量によって決まるのである。従って、与えられた剰余価値率と、与えられた労働力の価値によって、生産される剰余価値の大きさは、直接的に、前貸しされた可変資本の大きさによって変化する。さて、ここで、資本家は彼の資本を、二つの部分に分割することを思い出して欲しい。その一部分を彼は、生産手段に配置する。これは資本の不変部分である。もう一つの部分を彼は、生きた労働力に配置する。この部分は、彼の可変資本を形成する。社会的な生産様式が同じ基盤の上にあっても、資本の不変部分と可変部分との分割線は、生産部門が違えば、異なった引かれ方をする。同じ生産部門であっても、同様に異なり、技術的な条件や生産過程の社会的な構成の変化に応じてこの関係は変化する。しかし、与えられた資本が、いかなる比率で不変と可変に分割されたとしても、そして後者、可変部分の不変部分に対する比率が、なんであれ、1:2 または 1:10 または 1:x,であれ、ここに置かれた法則は何の影響も受けない。なぜなら、我々の以前の分析によれば、不変資本の価値は、生産物の価値に再現されるが、新たに生産された価値、新たに創造された価値である生産物には入り込まないからである。1000任の紡績工を雇用するためには、100人を雇用する以上の原材料、紡錘等々が勿論のこと必要となる。とはいえ、これらの追加的な労働手段の価値が上昇しようと、低下しようと、変化なく保持されようと、それが大きかろうと小さかろうと、そこに投入された労働力による剰余価値の生産過程には、何の影響も生じない。従って、前述の法則は、かくて、次のような形式をとる。異なる資本により生産される価値の大きさと剰余価値の大きさは、-- 与えられた労働力の価値とその搾取率が同じならば、-- 直接的に、これらの資本の可変部分を構成する大きさにより変化する。すなわち、生きた労働力に変換されたそれらの構成部分に応じて変化する。〉(インターネットから)

 (【付属資料】(2)に続く。)

 

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