花ざかりの廃園

If you celebrate it,  it's art.  if you don't,  it isn't. 

くもの向こう

2021年04月23日 | 思い出すことなど、ほか
疲れ切った体を、慰め回復させてくれるものの最初にあるのは、景色のような気がする。それを目の前すれば、何も考えなくていいから。
身近なところにそんなのがあれば、一度だけこの地上に生きている僕としては、大きな喜びにもなるし、地上の否応ない埃にまみれた重力からしばし、それは本当に暫時だけれど、解放してくれる。
重力に抗えるなんらかの翼、羽がどこかにあるだろうか。あるに違いないと思うのは、それはすでに夢想でしかなかった気もする。美術はその役目を果たしてくれる筈だったけれど。
この地上は重力抜きでは考えられない。鳥たちでさえも重力の中に生きている。
でも、彼らは大気と親しく、それを上昇力に変えることができる。
そんな、地上から浮き上がる揚力としての大気が、僕には美術のはずだったのに。

もうひとつの斜面

2021年02月13日 | 思い出すことなど、ほか
この半年くらい、故郷の愛媛を楽しんでいる。海も山も近くにあり、空は広く眺めが良いから、飽きることがない。
雲のように定めない人生を、知らず知らずのうちに歩いている気がする。

野の道

2020年02月29日 | 思い出すことなど、ほか

野の道

2020年02月16日 | 思い出すことなど、ほか

無人島

2018年09月08日 | 思い出すことなど、ほか
8月のある日、無人島にわたった。(若者をひとり連れて) 千葉にあるその場所は、ちょっと訳があって、名称はいちおう伏せるけれど、写真を見ればすぐわかってしまうだろうな。

カヤックを漕いで無事上陸。



上陸した浜の近くに、海水だろう池があった。



島の縁から無理やり藪をかき分けて斜面を登る。



砲台跡で昼飯。

その後、島を探検。軍事施設の廃墟があるが、半ば崩落しているので危険だ。



上陸地点の浜とは反対側の南の斜面は、台風の波浪や地震などの浸食(おそらく)で崩壊がかなり進んでいる。







夕暮れ近く、のんびり海を眺める。



夜は、流木を集め焚火、そしてキャンプ。







対岸の街の光。そして、一晩中、月が出ていた。

翌朝の日の出。


                  *


「感情を欠くがゆえに正確に知覚する人間がいる。彼にとって桜草はまさに桜草である。彼がそれを愛していないからだ。

 つぎに感情をともなって見るために誤って知覚する人間がいる。彼にとって桜草は桜草と別の何か、星であり太陽であり

 妖精の楯であり打ち棄てられし乙女である。

 さて最後に感情をもって見るにもかかわらず正しく知覚する人間がいる。彼にとって桜草は永遠にそれ以外の何ものでもない

 ――どれほどの数と種類の連想や情念がその周りに群がることになろうとも、きわめて平明な植物的事実のうちにとらえられた
 
 小さな花。」とりとめもなく、こんな文章をどこかでみつけたので載せてみた。(引用元不明)

 ところで、あの島で自分は何を考え、何を感じたのだろうか。
 日常から離れ、気ままな時間が流れる空間の穏やかさを満喫して楽しかった。そして、同時にどこか憂鬱だった気がする。
 現在とは言えないような、過去だけの堆積物のような場所だったからだろうか。それとも、単に真夜中、酒が切れ、
 腹も減っていたというだけのことかもしれない・・・。
 

Bicycle Tune(自転車の詩)John Renbourn

2017年10月22日 | 思い出すことなど、ほか


John Renbourn の "Bicycle Tune" というギター曲の楽譜(タブ譜)をついに見つけた! 自分で弾けたらいいな、素敵だろうなぁと、30年以上ずっと憧れていた曲なので、ネットで見つけたときはうれしくて小躍りしたほど。

そんなわけでこの頃、暇を見つけてはタブ譜と指板を前に、自分の目と耳と指先とを連動させ、辛抱強く練習しているのですが、 ”好き”から生まれるエネルギーには素晴らしいものがあると、久しぶりに実感しています。

ギターの場合、ピアノとは違い、ある一つの音が、幾通りかの弦とフレットの組み合わせで出せるのですが、いくつか投稿されている動画を見ても、曲全体を通して同じ弾き方の人はいないようで、各人各様です。
どう弾くのが自分にとってベストの運指なのか、今ひとつ自分なりの結論が出せず、いろいろ試行錯誤もありますが、それも楽しい作業だと思えます。

これに関しては、作曲者のジョン・レンボーン本人も、「Ladye Nothynges Toye Puffe」という曲の解説においてでしたが、次のように書いていました。
”従来私が弾いているようにフィンガリングを記しておきましたが、代用があれば使用することもよいでしょう。”(これは、非常に有り難い助言です!)

というわけで、僕も自分なりのフィンガリングを、音の好みや運指のしやすさなど、あ~でもない、こ~でもないと、結構な時間を費やして確かめ定めたのでした。

こうして、ひと通り曲を覚えた現在、あとは、途中でつっかえないように、きれいな音が出せるようにとひたすら練習あるのみなのですが、、、ぼくは、こういったことに数カ月、いや半年、1年かけても(なにしろ、下手の横好きなものですから)、限られた短い人生の時間の使い道として(も)、まあ無駄なことではないだろうと呑気に思ったりしています。というのも、人生の3分の1 以上もの長い間、ずっと、そのことをしたいと、思い続けていたからです。

                *

Bicycle Tune(自転車の詩)、この曲の可愛らしさは、曲の構成が、A・B・C・D・D・C・B・A (対称構造)となっているところかなと思います。車輪の回転のように円環構造に、あるいは、サイクリングのように、往って 帰ってくるところ。また、対位法というほどではありませんが、高音弦と低音弦が奏でるメロディーの緩やかな、絡み と 解(ほど)け  具合、、、。

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今回の記事に少し関連があるかと思い、いつも見ている動画のご紹介をします。カナダ在住のギター講師。おおもりごうすけ さんの投稿動画です。







野の道

2017年10月10日 | 思い出すことなど、ほか
 ”単純なるものこそ、止まるもの、偉大なるものの謎を秘蔵している。…すべて自らに生い出たものは、野の道のほとりに憩い止まりつつ、それらすべてのものの遙けさが、世界を惜しみなく與へてくれる。…野の道は、思惟するものの歩みにとって、いつも変わらず身近にあった。…そして野の道は、野の道のほとりで営まれている様々な本質を有つ事柄を取り集め、野の道の上を行く各々の人に、彼ら自身に属するものをば手渡してやるのである。...単純なるものは、その祝福を蔵している。...語って語らざる世界の言葉のうちにおいて、...野の道の呼び聲は、開かれた自由なるものを愛する気質を目覚めさせてくれる、...四季とりどりに轉じ行く野の道の風の中に、知恵の明るさは榮え行く、この知恵の明るさの顔の面には、しばしば憂愁の影が現はれはするけれど、...しかしすべては一つに響き合い、そのこだまを野の道は、默しつつここかしこへと、自ら運び行く。そしてその一つの響きの中に於て、すべては明るく、晴れやかになるのである。...すべては同じ一つのものの中への斷念を語つてゐる。だが斷念は奪ひはしない。斷念は與へるのである。斷念は単純なるものの汲み盡し難き力を與へるのである。野の道の呼び聲は、長き来歴の中に於て、故郷の家に憩い住まはしめる。”(M.Heidegger)

本を片手にどこかに逃げて、匿ってくれる野辺はなかなか遠い気がする今日この頃です。

a blank-book

2017年03月25日 | 思い出すことなど、ほか


読みかけの本が並ぶ本棚をまえに、残りの人生を思うと、地球の自転速度にめまいがする。
それは、まだ使い切っていない、絵具やキャンバス、インクと紙、それから、オブジェ用に集めた雑多な物や素材を前にしても同様だ。
僕の中の残り時間の不確かさが、まだ何ものでもない現実のモノとして身近に示されているようだ。

昔、話題になった「ゾウの時間、ネズミの時間」ではないけれど、自分の心臓の鼓動をなるべく緩めて、地球の自転速度に抗いたいものだ。




CUUSHE "Airy Me"  

2017年03月18日 | 思い出すことなど、ほか



Cuushe の ”Airy Me”  ぼくは、こんな音楽も好きだ。ライヴにもいったよ。

こういった音楽は、かつての(遠い昔の20代の頃の) ぼく自身の様々な記憶を、今に蘇らせる。
ああ、、人生は一度きり、、、若い情熱も一度きり、、、なにもかも。

      *

浮 き 足 立 つ  そのステップを 真似 て   1・ 2・ 3   1・ 2・ 3 浮き 足立 っ た  そ の 頭

は 今 マ ダガスカル 辺 り   透  明  に  なっ て  夜に 溶けた い 今夜  空 気 みた い    A i

r y  M e   僕  は   は何にも なく なり  た い  街の 光  ラ イ  ト・マーブル カラーで  僕を
 
襲う   東京 タワーに のぼ って 深  夜  0い  時      僕は  その  赤 に な  る 


 
ハ ニ ー シロッ プ かけまく って   君  を食 べたい な  そん で  浮足立っ た僕 ら は いかれた 夢の

中  さ っき  見 た     遠くの風  景い に  僕は溶 けたい ん だ  もう 何に も  感じたく ない

でも  君 が 笑 っ  て   って  それが僕を 繋ぎとめて いる  だ っ て  もう   す ご  い 速 さ で

世界は回るい つもみ たいに  笑っ て よ  そう でも しなきゃ  僕は今   いなくな  り  そ う  だ よ

*


京都出身の女性アーティストcuusheのデビューアルバム。日常と非日常を行き交うメランコリックなリリックを、抜群のメロディー・ センスで編み上げた確かな歌世界は、Cocteau TwinsやL'ALTRAなどとも共通する不思議な魅力を生み出しています。ありふれた毎日から聴こえる、いくつもの音の断片をフィールド・レコーディングによって取り入れ、ノイズの中に潜む小さな夢を形にするような彼女の音楽。どうしようもなく続いていく私たちの日常を、拙くも透明感溢れる歌声で瑞々しく描き出した現代のドリーム・ポップです (引用元⇒

Green Thought (緑の思想)

2017年03月09日 | 美術




”緑の木蔭の緑の思想”という、アンドリュー・マーヴェルの「THE GARDEN」という詩の一節に触発されてつくった作品。(2013年制作)

"・・・Annihilating all that's made /
     To a green thought in a green shade.・・・" (Andrew Marvell)

こういった文言は、人をあれこれ考えさせてくれるので、好きだ。

 Leaf(木の葉、本のページ)の蔭で憩う(もの思う)、蜥蜴。 について、ぼくは思ったのだった。

















鈴木雅子 ”天と地が転んだ、跳ねた” 

2017年02月22日 | 美術
















(写真) 鈴木雅子 個展 ”天と地が転んだ、跳ねた”より

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2のことを僕はおもった。というのも、タイトルが、 ”天と地が転んだ、跳ねた” だから。

透過と反射  意識と無意識  右と左  光と影  ネガとポジ  実像と虚像  表と裏 

白と黒  内と外  浮くことと沈むこと  直接と間接  夢と現実  囲むことと囲まれること

滞留と流出  本当とうそ  考えることと夢みること  現前とイマージュ  集中と放心・・・

でも、そこにあるのは、その中間の なにか予感的な、行き過ぎる、
        
明晰に思考され、企図された、雲のような、波のような 時間と空間・・(存在の在り方?)

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会期は、2月28日まで。会場は、こちら。


詳しくは→こちら


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鈴木雅子 HPはこちら


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なにか、このような、真剣な、魅惑的な”実存的かわいらしさ”に接すると、ぼくは、幸せな気分になるのでした。

この日、ギャラリーを出て夕刻、隅田川沿いで、数時間、川の流れや車の流れ、地球の自転に伴う時間の流れを楽しんだ。ちょっと寒かったけど。




通りすがり ー 仕草

2017年01月20日 | 美術


何かを思う。そして後に、過去において誰かがすでに言葉にしているということを知る。ぼくはそれを改めて見つけているだけだと気づく。
あるいは、すべてなにごとも、すでにあったこと、みんな一度は知っていたことだけれど、それを忘れていて、あるとき何かのきっかけで、ただ単に ”思い出して” いるだけかもしれないとおもう。

  ”地上に新しきことなし、とソロモンは言った。プラトンは、あらゆる知識は追憶に他ならない、と考えたが、同じようにソロモンは、新奇なものはすべて忘却にほかならない、といった。” (F・ベーコン「エッセイ」LⅧ )
                 
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”もし、描写が本当の意味で音楽的であるなら、即ち言葉だけでなく、心も内容も、思想も語調も、着想全体も音楽的であるなら、それは詩であると言えるだろう。もしこの条件にかなっていなければ、それは詩とは言えない。「音楽的」とは何と含蓄の多い言葉だろう! 音楽的な思想というのは、事物の核心に入り込み、事物の最も奥深い神秘、即ち事物の中に隠されているメロディーを発見した精神が語る思想なのだ。そのメロディーは事物の魂である緊密な内的調和であり、そのおかげをもってこそ事物は存在し、この世界に存在する権利をもつのだ。真の意味で内的な事物はすべてメロディーに富み、その表現はおのずと「歌」となる。「歌」の意味するものは深い。
したがって、我々は「詩」を「音楽的思想」と呼ぶことにしよう。”(T・カーライル)

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”僕は詩の作り方を知らない。自分を詩人だと思わない。僕は詩歌の中に特に詩を見出すことはない。こんなことを言うのは僕が最初ではないのだ。詩は、それを恍惚境と呼ぼうが、発明、音楽と呼ぼうが、常に、どんなジャンルにも見つかる予測不能なものであり、忽然たる世界の拡大である。詩の密度は、一幅の絵、一枚の写真、一軒のあばら家において、一層濃密なことだってあるのだ。詩歌で腹立たしく不愉快なのは、自己陶酔と瞑想三昧(という二つの袋小路)、あの退屈な自己憐憫、そして最後に一番たちの悪いのがわざとらしさである。そもそも詩は自然の賜り物、恩寵であって、仕事ではない。詩歌を作ろうとする野心だけで、詩歌を殺すに充分なのだ。”(H・ミショー)
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この世界においてただ単にその通りすがりに、事物のメロディーを見逃さず、世界を拡大すること! とぼくは、思う。

言葉は、ベールのかかったぼやけた自分を再教育してくれる気がする。ぼくは自分について、あとどれだけ思い出すことができるだろうか。


此処の津 - 9(ここのつ)  

2016年09月08日 | 思い出すことなど、ほか
昨年の夏にも訪れた海岸に今年も行った。ここの津(岸)にまた戻った。
記憶をたよりに、前回と同じような写真を撮ってみた。







































今回は前回とは違って、潮が引いていたけれど(特に、”ぼくの美しい隠れ場”においては)、でもそれはそれで、
また違った美点や楽しみを見つけることができた気がした。自分の中でまた新しい、この島についての探求心がめばえた。

それにしても、誰もいない海辺というのは、どうしてこんなに自分を幸せにしてくれるのだろう!
今回はテント泊できるほどのゆとりがなく、夕方の船便(18:08発)で帰ったけれど、できれば日没までそこに居たかった。
いや、日暮れ時のこの落ち着いた静かな時間がずっと続けばいいのにと思った。
そういえば、写真を前のと見くらべてみると、廃校になった小学校の校舎の時計が同じ時刻(5時10分)を指し、時間が止まったままだった。

         *

というわけで、以上は、9(ここのつ)に無理やりこじつけた話でしたが、ここからは、「回帰する数字~9」について。
ある本を読んでいて偶然みつけた、9という数字の不思議な話です。(すでに知っている方もいるかもしれませんが、、)



9は、ある計算のもとでは、自己再生し、回帰します。
ある計算とは単純で、9にどんな数を掛けても、そこで得られた数の各桁を、どう足し算しても、9にもどるのです!

簡単な例として、

9x2=18  → 1+8=9
9x3=27  → 2+7=9
 ・
 ・
 ・
な~んだ、そんなことか、と言われそうですが、


つぎに、ランダムな数字、たとえば、円周率の最初の6ケタを掛けてみます。


9x314592 = 2831328 → 2+8+3+1+3+2+8=27 → 2+7=9

ところが、この数字をどこで分けて足しても、9に戻るのです。

2831+328=3159  →  3+1+5+9=18 → 1+8=9

28313+28=28341 →  2+8+3+4+1 → 18 → 1+8 →9


今日の日付でやってみます。


9x20160908=181448172  このまま各桁を足すと、45 となり、9にもどります。

適当に分けて足してみます。18144 + 8172 = 26316 → 18 → 9

この、途中に出た数 26316 を適当に分けて足しても 263+16=279 → 18 → 9
やはり、9に戻ります。


なんだか、不思議ではありませんか?
10進法における、9 という、繰り上がるまえの数字というのがミソなのでしょうか?

そういえば、何かの本に、9 は、海に関連する、と書かれてあったのを思い出した。(洪水の日数?)

    
             *


あとで気づいたけれど、小学校の時計の時刻の5時10分。これ、午後の時刻と解釈すれば、17:10 となるけれど、

各ケタをそれぞれ足すと、偶然にも 1+7+1+0=9 ! 

17+10 も27 で 9     1+710 でも 711 で やっぱり 9 にもどる。

ということで、1710 は 9の倍数だった! 

そして、ぼくがこの島に居たのは、小学2,3,4年生のときだけれど、234も9の倍数で、やはり、9にもどり、

その3年間は、月でいうとちょうど、 36ヵ月で、これも9の倍数で、9にもどり、

年齢も、8,9,10歳のときだから、8910も 9の倍数 で 9にもどるのでした!!

”ここのつ ”に戻るしかないのだった。





 


 抛物線(ほうぶつせん)

2016年05月23日 | 美術



 ”カルモン。― 対象それ自身は詩にならない。 如何に対象をあやつるかといふことにて詩が構成される。

         先づ対象を投げる。 その対象は抛物線を描く。 その抛物線が詩である。

         錯覚としては抛物線を描いてゐる間の対象が詩であるやうに思ふ。

         その抛物線がパルナサスの山である。”  (西脇順三郎)


         パルナサス : Parnassos ・ギリシア中部、ピンドス山脈中の山(標高2457m)。デルフォイの北にそびえ、
                        ギリシア神話では、アポロン・ムーサイ(ミューズ:詩神)の住地。

                 
              *


  この抛物線は、じつは日常の身近にも存在するのだが、、、しかし、それをとらえて、形にして残すことは、虹のように難しいのだった。






                         

この頃、星空がきれいだ

2015年11月05日 | 思い出すことなど、ほか
 

 《天才とは、意のままに取り戻される幼年期にほかならない。
 
  もっともその幼年期とは、いまや、自己を表現するために成年の諸器管を備え、

  無意志的に集積された材料のすべてに秩序をつけることを可能にする

  分析的精神を持つようになった幼年期なのだ。》

         「現代生活の画家」Charles Pierre Baudelaire より


                  *

 上記の文章は、ボードレールがある画家についてふれた文章の一部だが、ぼくには嬉しい文言だ。前回書いた記事の、
 ほとんどその言いかえでもあるし、今の自分に向けての励ましにもなる気がした。 



                  **


ところで、夏のあとのこの心地よいふた月ほどの季節の約半分の、その午後をぼくは ほとんど外で過ごした。
クヌギと杉の木を合わせて50数本切り、そして、枝をはらって燃やし、幹は手軽な長さに切りそろえて運んだ。
(その他の諸々の外仕事もあり、次男坊の助けを借りてだったけれど。上写真がその一場面。)

その理由はともかくとして、こういった健康的な?過ごし方をすると食欲が増し、酒もうまかった。それだけで充実していた。(その結果、体重が2ー3キロ増えてしまったが。)果たしてこれは、本当にいいことなのか、、、。


晴耕雨読という言葉があるけれど、 あれは理想、というか、実際はそうはうまくいくまい とぼくには思えた。
ぼくの場合、ある程度の肉体労働をすると、身体感覚のレベルで快さが体を満たしそれで十分となってしまい、

それこそ”何か”を考えなくても良いような精神状態に陥り、作品や読書なんかどうでもよくなってしまうのだった。
体の心地よい疲れは、それだけで一日を潤してくれ、幸せにして、くれてしまう。


どうやらぼくは、体(運動)と精神(思考)のバランスの取り方に対して上手な采配が自分に向けて出来ないのかもしれない。


                 **

またまた、話は飛ぶけれど、昨日の朝方4時ころの空がみごとだった。半月が東の空高いところに上り、その下に 木星。
さらにその下には 金星 が眩しいくらいに輝いていた。この時期の関東では珍しいくらいに昨日は気圧が高く、空気が澄んでいたらしいのだが、そのせいなのかもしれない。(今夜は、きのうほど空は透明ではなく、月もさらに欠けていた。)

これらが今、しし座を背景にして見えているので、夜更かしのできる人は是非見てほしいな。
(オリオン座やスバル(プレアデス星団)も見えているので賑やかですよ)