生命海流
福岡伸一
朝日出版社
「動的平衡」でおなじみの生物学者、福岡伸一のガラパゴス諸島旅行記である。彼の文章は難解ではないが描写が大仰で、サイエンス畑の研究者のイメージを覆す文豪みたいな文体が特徴だ。しかも本書は開始後全体の3分の1に至ってもまだ旅行に出発していない、という不思議な構成の本である。その前半3分の1では、作家と編集者の関係の話とか、本の値段と本の中身の企画の関係の話とか、とにかく右に左にと迂回ないし脱線しながら語られていく。
しかも、ガラパゴス旅行記とはいえ、そこは生物学者のそれ。通常のガラパゴス観光旅行ではない。なにしろガラパゴス諸島を観光で訪問するならほぼすべての人が拠点となるはずのサンタ・クルス島はほぼ無視である。彼らは小型クルーザーをチャーターし、かのチャールズ・ダーウィンがビーグル号にて訪れたのとなるべく同じ航路と上陸を追体験しようというコンセプトなのである。
本書の前半3分の1は、この企画が実現するまでの長い長いエピローグとその他注釈なのである。
では、残り3分の2がめくるめくガラパゴス諸島旅行記かというとどうもそれとも違う。ガラパゴス諸島の最大の特徴はその特異あまりある生物相にあるわけで、生物学者である著者だからそれらイグアナやアシカやカメや鳥たちとの邂逅に膨大な記述を割いているかというと必ずしもそうではなく、むしろ船における手狭で操作が難しいトイレの話とか、ゴムボートで島に接近しての浜辺やの上陸の困難な話とか、チャーターした船とともに雇ったシェフの料理の芸術的な手際の良さとその美味さとか、を変わらずの福岡節で書かれていく。そして島の人文地理や自然史由来に相当な説明を費やしている。それと比較すると島の生物たちとの邂逅の話は、かなりエキセントリックなエピソードいくつかしか語られない。むしろ、動物や植物の様子は同行したフォトグラファーによる挿絵写真にすべて委ねてしまったかのようだ。
要するに見聞記ではなくて思索記なのである。
本書のキーワードは「ロゴス」と「ピュシス」、すなわち理性的論理と自然的本能において、前者が勝る現代生活においてナチュラリストを曲がりなりにも自称する著者が、この旅行を通じて己れのピュシスに否が応でも向き合わなかざるを得なくなる話なのだ。若者のインド旅行みたいだなと思わなくもないが、それを特異な生物相であるガラパゴス諸島で体験する、というところが本書のミソであろう。本書はガラパゴス諸島およびその海域という特異な場所をモチーフにした生命とは何かを思考する本である。その思考の対象はダーウィンの進化論そのものである。ダーヴィニズムから考えるとガラパゴスのイグアナやカメやアシカや鳥たちの生物相は説明がつかないことが多々あるという。進化論はロゴスによって突き詰められたが、生命体そのものが持つピュシスの可能性を捨象しすぎたのではないか、と著者は考える。
その最大が、ガラパゴスの生物たちが人間に恐れをいだかず、むしろ好奇心をもって絡んでくるということだ。「人間を脅威とする記憶がないからだ」という論はあてはまらないという。後天的に「人間は怖いもの」として得られた知識は簡単に遺伝しないからだ。ガラパゴスの生物たちは人間に恐れをいだかず、無関心でもなく、攻撃対象でもなく、むしろ積極的にちょっかいを出してくる。それはまるで「意思」があるようだと著者は表現する。遊んでいると描写する。なぜそんなふるまいをするのか。
著者の仮説は、ガラパゴス諸島の生物たちは「ニッチがスカスカだからだ」というものである。本格的な検証を経ているわけでも実験をしているわけでもないから、仮説以前といったほうがいいかもしれないが、ガラパゴスに生息する諸生物たちは、餌や住処を奪い合う関係もなく、食物連鎖としてもつながっていない。ウミイグアナとリクイグアナは、食べるものも棲む場所も異なる。アシカもオットセイもペンギンもリクガメもウミガメもそれぞれ棲み分けられており、利害が衝突しない。そして彼らの生命を支える資源は、ふんだんにこの島と海域に存在するのだ。つまり彼らの生活には「余裕」がある。この「余裕」が異なものに対し、好奇心と利他の心をつくるのだという。それはロゴスではなくてピュシスがふるまうものなのだそうだ。
何事も余裕が大事よねーとなると結論としてつまらなくなるが、ガラパゴスゆえにその閉じた世界相の中で余裕こいた生活ができたとなると、まるで一時の日本みたいである。そういやガラケーのガラはガラパゴスのガラであった。ガラパゴスがエクアドルの領土として保全され、アメリカからもイギリスからも植民地支配として逃れられたのは、20世紀の覇権主義の世の中にあって幸運であったと本書も指摘している。「ガラパゴス化」はまるで悪いことのように語られがちだが、食うか食われるかのあくなき競争に巻き込まれないという意味ではこれはこれで進化と生存の道ではあったんだなと思う。「余裕」と「ガラパゴス化」が実は表裏の関係だったとすると、「過当競争」と「デファクトスタンダード」がそれの対ということになる。プラットフォーム化とかトランスフォーメーションとかAIとか、均質化を志向する動きは相変わらず加速気味だが、どこかにガラパゴス的なものを残しておいたほうが「余裕」という資源を確保する意味では大事かもしれんなどと思った次第である。
大学4年間の統計学が10時間でざっと学べる
倉田博史
KADOKAWA
昨今は統計学がトレンドである。AIやビッグデータの隆盛がその背景にあるのは間違いない。企業の採用でもその手の人材を募集していたり、大学がその名を冠した新学部を創設したり、学生全員を必修科目にするなどしてアピールに余念がない。
本来的に統計とは試薬の開発や気象分析などサイエンスの分野を支える手法だが、いっぽうで人々を説得するロジックとしてしばしば引き合いに出された。戦場の天使ことナイチンゲールは統計の論法を用いて国を説得し、大規模な医療改革を引き出した。かつて多変量解析は心理学の研究で用いられることが多く、日本の大学では文学部心理学科に統計学の講義があったりした。20世紀も終わりごろになって企業が製造過程において生産効率性をはかるスローガンとして統計誤差に注目するようなことがあった。
僕は大学を卒業して数年ほどデータ統計をなりわいにしていた小さな会社に在職していたことがあった。大手企業のマーケティング部署が出してくるデータのアウトソーシング先みたいなところだった。僕自身は大学時代にいっさい統計学の授業をとったことがなく、統計については全く無知であった。それなのになんでこんな会社のこんな仕事にまわされたのかというと単にExcelが使えたからである。そんな時代であった。僕の仕事が、当時の日本のGDP向上にどのくらい貢献したのかはさっぱりわからないが、僕自身がここで統計というものを知ったのは役得ではあったと言えよう。
ただ、そういう在野で身につけた知識の故、その中身はたいへんムラがあるものだった。なにしろ計算そのものはExcelのソフトウェアがしてくれるので我々は出てくるスコア表を見ればよい。出てくるスコアが信頼に足るものかどうかはP値なるものをみて0.05を下回っていればよいとか、そういうのは覚えたが、ではP値というのはいったい何者で、なぜ0.05を下回ればいいのかなんてことは二の次であった。そのくせクラスター分析とかコンジョイント分析とか手数だけはいろいろやってみて重宝されたが、これらの分析の計算過程はブラックボックスで、ただ出力されたスコアが信頼できるかどうかをマニュアルにしたがってチェックするだけだった。
現場でいいかげんに身に着けたそのような統計学にプライドとコンプレックスがあったまま幾星霜、ここにきて統計ブームである。勤め先も立場も変わり、いまの自分の職務は必ずしも統計知識とは関係ないのだがなにしろ世間が追い風なので何かと会社はデータデータ言ってくる。実際に、膨大なビッグデータをぐるぐるまわして脚光を浴びる若手社員なんてのも出てくる。
そうなってくると「俺だって若いころは統計やってたんだぜ」と言いたくなる欲求がムズムズわくが、これは老害以外のなにものでもない。ただ、ロートルのレッテルを貼られたままなのも癪である。
ということで、統計検定を受検してみることにした。統計検定は1級・準1級・2級・3級・4級とある。統計の知識を問う資格については他にも姉妹的な検定がいくつかあるが、もっともスタンダードなのはこの統計検定だ。英検みたいなものである。
その統計検定の中でも特に2級が目安とされていて、これをとっておくといちおう「この人は統計ができる」と市場価値として認められるとされる。
というわけで統計検定2級にチャレンジしたのである。「昔やってたんだぜ」はウザいだけだが、「2級持ってるよ」ならば、もう少し人としてなめられなくて済むかもしれんなんて思ったのである。去年の夏頃の話だ。
そしたら、ものの見事に玉砕した。もちろんぶっつけではなくて過去問なんかもぱらぱらみたのだが、合格点ラインが60点というのでまあなんとかなるだろうと油断したら、もう全然届いていないのである。
というより、改めて考えると、齢50にもなってこの手のテストは本当に久しぶりなのである。これまでもいくつか資格試験や検定みたいなのものを受けたことはあったが、それらは基本的には「暗記」であった。まれに計算問題を課すものもあったがそれとて全出題のごく一部であって、なんならその問題は捨ててしまっても他で点がとれれば合格に影響しないものであった。
しかし、統計なのだから当たり前なのだが、出題の大半が計算問題なのである。そんなテストを1時間半にわたって受ける。いまから30年以上前、大学受験以来なのではないか。その30年の間に、当方の脳みそは劣化し、集中力は続かず、出題文を読む目(試験会場ではパソコン画面で行う)は老眼でおぼつかず・・・
「不合格」の画面がパソコン上にパンと出たときは絶望的な気分になったものの、それから心を入れ替えて本気で3か月ほど勉強してみた。過去問集や何冊かの参考書を相手にウンウンとやって年末に再受験したら、今度はギリギリの点数で合格した。これだけ真面目に一生懸命やったのだからもう少し点数はいくかと思ったのだが、本当にギリギリで、あと1問か2問ほど間違っていたら不合格というレベルだった。
勉強の最後のほうは、統計知識を得るというよりは単に試験対策みたいになってしまい、このパターンの問題が出たらこのパターンの解答みたいな強引なスタイルになってしまっていた。そこで合格後に改めて手にしたのが本書なのである。
ともあれ統計検定2級は合格したし、改めてこれを読めばもう一度情報も整理できて人前で「自分は統計ができる」と言ってしまって、なにか返り討ち的な質問をされてもまあ大丈夫かなと思ったのだが、意外にも本書を読み解くことは苦難だった。さんざん検定対策をして、そのうえで本書を読んだ上の感想だが、「10時間でざっとわかる」のは無理なんじゃないのだろうか。もちろん各章題である「分散」「t検定」「独立性の検定」「標準化」などがなんであるかはわかる。というか、それは本書を読む前から勉強していたのだから知っている。しかし、そこに書かれている解説がけっこう晦渋なのだ。自分が勉強したものはこれだったっけ、みたいな戸惑いを感じる。これ、統計学初見の人がよんでわかるのかなあ、などと思ってしまうのである。
はやりの学問だけあって、書店にいくと「文系でもわかる統計」「中学生の知識でわかる統計」など、お手軽にマスターできそうな統計本が揃っている。暗記物がメインの資格検定はそういうショートカットもありそうだけど、本来が数式と厳密なロジックで成立している統計学はあまり近道がないのではないかと思う。
と書くと、なんだか教訓と自慢みたいな繰り言で終始してしまうので、なんでそうなってしまうのかというのをさらに考えてみたい。今回のブログ、かなり長文になってしまった。
統計学について学ぶのに一番いいのは、教師役の人と問答しながら双方向で確認しながら進めていくことではないかと、これは独学で参考書を読んだり問題集と解きながらずっと思っていたことではあった。扱うデータもビジネス現場などで扱っている実際のものであればなおよい。というのは結局のところ、統計学の学びの対象は、実際のデータと、どのような論理で成り立っているかという話と、そしてそれをもとにした数式がすべてだからである。
だけれど、これを一方通行の文章だけで表現して読み手に伝える、というのは参考書の書き手にとってはかなり厄介な仕事なのではないかと思う。統計学の先生なんてのは、想像するに文系的な言語ボキャブラリーが豊富とも思えないし、数字と数式で成立する世界の解説をいちいち日本語の文章で説明するのは外国語の翻訳と同じで隔靴掻痒であろう。厳密に定義しなければならないものほどコトバがもつ冗長性が障害になる。統計学には「棄却する」とか「独立の元では」とか「信頼空間が」とか「自由度」とか変なコトバがいっぱい出てくるが、これも数学の世界によくある定義の厳密性を追求しようとしてこんなへんな日本語になる。業界内では通用しても部外者にはその意味するところはなかなかピンとこない。本書は「10時間でざっとわかる」シリーズの一環で、経済学とか社会学とかいろいろ出ている中の1冊だが、統計学でこの制約を要求された著者も気の毒ではある。
つまり、統計学(おそらく数学全般に言える話だろうが)を解説書形式で説明するのは、書き手としても高度な技術を要するし、読み手がそれに対してこの文章はどういう意味か、このコトバは何かの質問も確認もできないという一方的読書体制で学ぶのはなかなか効率が悪いのだ。変に四角張った意味がはかりにくい文章と、わかりやすいけど書き手によってその説明の仕方がぜんぜん違ってしまう解説が混在するのが統計学の参考書なのである。要するに参考書だけの独学勉強方法はムリゲーと言ってもよい。
というわけで、僕がやった勉強スタイルでは、年齢のことは棚に上げるとして、どうもここが限界な気がする。当初はあわよくば準1級でもねらうかとか思ったものだったが絶対ムリだ。高校生の我が娘には、大学に入ったら統計学の授業はとったほうがいいぞ、最前列に座って受けて質問は積極的にした方がいいぞ、と言う。いつもはうるさいなという顔しかしない娘だが、このときばかりは素直にそうだねとうなづいたのは、休日も悪戦苦闘しながら勉強したのに一度目は不合格、二度目になんとかぎりぎり合格した父親の後ろ姿を見たからではないか、と思うと、今回のチャレンジの最大の収穫はこれだったかとも思うのである。
Z世代的価値観
竹田ダニエル
講談社
本書の隅々の情報から察するに、どうやら、著者の前作「世界と私のAtoZ」がセンセーショナルだったらしい。本書はその続編のようだ。くだんの書を僕は読んでいないことを先にお断りしておきます。著者はアメリカ在住の二十代日本人とのこと。本書はアメリカにみるZ世代の洞察だ。
ここ数年言われている「Z世代」。いままでの世代との隔絶があるとか、社会問題に敏感とか、環境保護意識がべらぼーに高いとか、SNSネイティブとか、9時5時の仕事さえ耐えられないとか、代行事業者に退職を伝えさせるとかいろいろ言われているが、僕は半分都市伝説だという疑いが晴れない。いつの時代だって若者はいままでと違うと言われてきたし、大人のつくった社会に異を唱えてきたのはミレニアム世代もさとり世代もゆとり世代も同様である。
むしろ「こいつらは●●世代だからしょうがない」という免罪符をつくってことなかれにしているのは上の世代なのではないかとさえ思う。一時期、海外旅行離れアルコール離れ恋愛離れと、××離れがまことしやかに言われていたが、離れているのは若者ではなくて、既存の価値観が若者たちから剥離してしているのだ、という見方を持ったほうがよいのではないか。どうあったって世の中の流れはとまらないのである。
・・と、なかば自分を律して戒める意味も含めて僕はそう思おうとしてきた。
それでも、我が勤務先に入社してくるここ数年の新入社員をみているとかなーり勝手が違うことを白状する。3年くらいまではなんとか理解と共感の糸口を見つけてきたつもりだが、去年と今年に続けて我が部署に配属された2人の新人とはいまだわかりあえていないきらいがある。ちなみにどちらも男性だ。なぜかそれまで5年連続で女性の新人配属が続いていたのだが、世代のせいなのか性別のせいなのか、女性のほうがなんというかうまく折り合いつけるというか上手に立ち回るというか良くも悪くも賢い、つまり彼女たちはなんだかんだで他の社員や会社のしきたりやビジネス作法とうまくやっていくのに対し、この2年連続の男性新人にはあっけにとられっぱなしである。
どういうことかというと、彼らは自分たちの出すボキャブラリーやアウトプットや立ち振る舞いに疑いも不安もない。その自己紹介の仕方から飲み会の清算の仕方、経費の申請の仕方、取引先への会話の言葉選び、そこに場違いや勘違いがあったことを(優しく)指摘してみても、すみませんの一言もない。今までそれを覚える機会がなかった以上べつに知らないことは罪でも恥でもなく、こっちもそれを批難しているつもりも弁明を求めるつもりも一切なく、本気で謝罪を求めているわけだってもちろんないのだけれど、その場を潤滑油的に流す一言の「すみません」や「気をつけます」が素で出てこない風をみると、本当にこの人たちはピュアに育ってきたんだなあと、むしろある種の感慨がある。それ以前の5人の女性の新人のほうが、その手のちょっとした「やらかし」をしたあとの対処、立ち振る舞いがやはり一枚上手なのである。男性だ女性だということ自体が時代錯誤なのはよーくわかっているのだけれど、ジェンダー的な由来が彼女たちをしてこのような折り合いをつけるスキルをつくったのかと思わないでもない。男性はそのぶん摩擦なくすくすく育ってきたのかなどと考える。
というわけで、ようやく本書の話である。
本書の主張では、そもそも日本でいうところのZ世代は、企業がマーケティング活動の一貫としてとりいれた方便以外のものではなくて、何も本質を言い表してはいないという。「Z世代」というのはアメリカで発現された「現象」なのだ。GAFAにおける生活プラットフォームの上で、ブラック・ライブズ・マタ―に象徴された人種問題、トランプ政権でアジェンダとなった格差問題や移民問題、銃の乱射事件、気候変動そしてコロナ禍といったものをティーンエイジに目の当たりに経験することが、アメリカにおける2000年代生まれの若者たちに何を精神形成させたかという話なのである。
その結果、アメリカのZ世代にみられるのは、強力な自己肯定感と自己有能感への渇望、とでもいうべきものになった。これからの未来において社会も政府も企業もオトナも信用できない、すなわち冷戦後のアメリカがつきつめた民主主義と資本主義のレジームへの疑心があり、頼れるのは自分たちの嗅覚という問題意識の中で、今の自分の採択は大丈夫、という安心と手ごたえをとにかく欲することとなった。この自愛を求める手段としてSNS、とくにこのときにタイミングよく出てきたTiktokが彼らの精神土壌のプラットフォームになった、というのが本書の筋書きである。
そういうことであれば、日本の「Z世代」の原体験はアメリカとは相違がある。日本の場合は、SDGsに代表される社会課題的なものへの関心はむしろ外挿的に後付けされたもので、どちらかというと、拡大するジニ係数と長く続いた安倍政権と少子高齢化という社会ベースに、Instagram・twitterそしてTiktokという匿名ないし半匿名の情報インフラ、そしてコロナ禍によってつくられた世代だろう。「Z世代」はコロナ以前から言われていたが、本当に特異な世代と思えるのは、やはり多感かつ精神形成に重要な十代をコロナ禍にやられてリモートで過ごさざるを得なかった彼らであろうとは思う。
これらがどういう精神形成をつくりあげたかはいくらでも深読みができそうだが、結果的に彼らは「いやに現在の自分のやり方に自信を持っている」という形となって表れているということだ。いつの時代のどの国の若者もそうじゃないかとも思うのだが、ただ彼らの立ち振る舞いや言動をみているとそこに「ぬぐえない不安の裏返し」というのがどうしても見て取れてしまうのである。今やっている自分の言動は正しい、と自信を持っているというよりはしがみついているといったほうが良いか。本書におけるアメリカのZ世代の「自己肯定感への渇望」もこういうことなのでは、と思う。ただ、アメリカのZ世代が、社会への「不信」を背景にそこに新たな「連帯」や「社会変革」を見つけようとする外向きのエネルギーを感じるのに対し、日本のそれは単に「不安」が転じて自分が思っている正しさにしがみついている、という防衛本能的なものをどうしても感じてしまうのである。
これが日本のZ世代なのだ、という風にステレオタイプに決めつけるのはよくない。一人一人の個性の差異は年代や性別の差異よりも大きい、というのがダイバーシティの原則論である。ただ、この世代に確かに共通しているのは学生時代がコロナ禍によるリモートだったということはかなり考慮したほうがよいとは思っている。限られた学生期間を数年にわたって自宅からのリモートで過ごし、通学が復帰しても学友はみんなマスク姿ということがどういうことになるのかというのは、近代史上に初めて現れた自然実験とはいえよう。その特異な経験が彼ら彼女らにどのような自信と不安を植え付けたのかを心底から共有して理解するのは他世代にはもはや不可能である。
ただ、我が部署に配属された新人たちをみるに思うのは、「ダニエル=クルーガー効果」あるいは「ジョハリの窓」などに代表される「無知の知」「無知の無知」に無頓着なのは己れ自身のリスクをむしろ高めるのではないかという老婆心である。信じられるのは自分だけ、なのは結構なのだが、自分自身というのは案外にそう信じられるものではないよ、というのは僕自身の黒歴史もさりながら歴史が証明していることでもある。このあたりのニュアンスを彼らに気付いてもらえる日がいつかくればいいと思っているのだけど、さてどうしたものか。