読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」

2024年04月18日 | 民俗学・文化人類学
RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」
 
著:ディミトリス・クシガラタス 訳:田中恵理香
晶文社
 
 
 儀式や行事というものを軽視している人にとって実に蒙を開かれる内容だった。つまり僕のこと。
 
 文化人類学や民俗学でよく事例としてあげられる異文化の民が行う風習や儀式の中には、身体に苦痛を強いたり、多大な苦労を要求されたり、ありえない経済負担を背負うものもある。本書でも素足で炭火の上を歩く火渡りの儀式とか、四つん這いで山を登る行事などが紹介されている。異文化理解をしようとは思うけれど、何をまあ好き好んで・・と思ってしまう自分もいることは否めない。よそさまの民族や宗教だけではない。寒い中の大行列をものともしない初詣、一度しか着ない高価な振袖に気合をいれる成人式、減ったとはいえ家庭の年間郵便使用費の6割を占める年賀状、価格根拠不明な戒名なんてのは、なんでそこまでして・・という不思議な日本の風習とも言えるだろう。
 それぞれの会社や学校にだって独特の儀式や行事がある。オリジナルの乾杯の形式があるとか、毎年何月何日は創業者をしのんで何かするとか、ユニークな社訓や標語を全員で暗唱するとか。
 
 本書は、このような儀式や行事というものが組織や個人に与える効能を科学的に追及したものである。火渡りの儀式の参加者を心電図やサーモグラフィで追跡するのはなかなか痛快だ。
 
 科学的に追求すると、その儀式が要求するストレスが高ければ高いほど、団結力や浄化作用はむしろ強化されるという興味深い結果を本書は述べている。あえて体を傷つけたり、莫大なお布施を支払ったり、朝から晩までみっちり拘束されたり、ひたすら同じことの繰り返しを要求するような儀式が、結果的に彼らの団結力や心の浄化をより強めるのだ。むしろ、ゆるやかで出入り自由で快適でなにやってもやらなくてもいいような「儀式」なんてものは、もはや「儀式」とは言えないのだ。困難な「型」をやり通してこそ儀式であり、この「型の遂行」に、団結力の強化や心の浄化の鍵がある、ということらしい。
 

 では、なぜ儀式とは「型」の遂行なのか。なぜ「型」を遂行すると精神は浄化するのか。団結力が増すのか。本書の白眉はそこである。
 
 本書の仮説はこうだ。20000年の人類の歴史において明日はどこでどんなことが起こるかはわからない、明日は誰が何を言うかわからない、というのが、人類に染みついたDNAの感受性なのである。
 そして、予測不能・先行き不明な中を過ごすということはひどくストレスを呼び起こす。疑心暗鬼になる。予測不能な動きをする相手は信用しにくい。予測不能な天気は著しく行動を制限する。いつ果てるとも知れぬそんな予測不能な環境で生きることは心身を消耗する。
 そこで、そんな無秩序な日々歳月に、人間はあえての秩序を人工的につくりだし、安寧を得ようとする。生まれて生後何日の危なっかしい赤ん坊は、初七日、お食い初め、お宮参りと区切ってその都度確かめることで順調な生育にあることに安心する。子どもになればひな祭りやこどもの日で区切り、七五三で区切って日々の成長が予定通りであることを見出して安心する。入園式卒園式入学式始業式終業式卒業式と区切りをつくって、いまの位置の安定を確かめる。足元の踏み石がぐらついていないか確認するかのように。そしてここからここまでを子ども、ここから先を大人、と定義してその境目に「成人式」なる儀式を設ける。
 儀式というきわめて予定調和な行為に身を委ねることは、予測不能によって消耗するこの心身を回復させ、不安を防御し、決意を新たにするのである。同じ予定調和のプロセスに参加した仲間はより団結心が強くなる。
 そして、儀式というのはそれが身体の苦役、精神的重圧、経済的負担を強いれば強いるほど、結果的に仲間の団結力を高め、そしてその人の「幸福度」を上げてしまうという効果がある。
 過酷な地ほど儀式のしばりが強く、その儀式の敢行がその地で生きる活力を強くするという本書の指摘はなんとも説得力がある。砂漠や熱帯の地域に戒律に厳しいイスラム教が多いのは一種の必然なのだろう。北朝鮮が型にはまった派手な大規模行事をくりかえさせるのも、それくらいしないと先行き覚束なすぎて人心を統一できないからだろう。
 
 僕は、入社式も社長の訓辞もへんな乾杯の音頭もキライで、型通りのことをトレースして悦になってる儀式や行事なんて最低限の最小限でいいと思っている乾燥人間だったのだが、自分がそうだからと言って他人が同じとは限らない。家族や同僚をして、僕のことを物足りない、あるいは離反のリスクがあるのかもしれない、などと本書を読んでちょっと思った次第である。
 

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空想の補助線 幾何学、折り紙、ときどき宇宙

2024年02月20日 | サイエンス
空想の補助線 幾何学、折り紙、ときどき宇宙
 
前川淳
みすず書房
 
 
 知的興奮を刺激される面白い本だった。書店でたまたま目に留まり、目次を眺めてから中身をぱらぱらしてえいやと買ってみたものだが正解だった。ネット書店だとこうはいかない。決して大型ではない書店だったが、よくぞこのような本を仕入れたものだ。なにしろ購買層をかなり選ぶみすず書房である。
 
 著者は、本書の奥付によると1958年生まれのソフトウェアエンジニアとのことだ。天文観測や電波解析を主に行っていたそうだが、「折り紙」の研究者としてそのスジでは知られているらしい。不明ながら僕は本書で初めて知った次第である。
 
 本書は理系色の強いエッセイではあるが、単に数学的な見解を披露するだけでなく、人文や自然科学の現象にまで思いをつなげていて、その芸風は寺田寅彦を思い出させる。このような理系の方法論と文系の感受性を橋渡しするような読み物は、このブログでもいくつかとりあげているが(これとかこれとか)、個人的にはこういう話は好きである。
 
 本書の特徴としてはやはり著者の専門領域である折り紙の話を随所に紛れ込ませているところだろう。僕自身は折り紙はまったく苦手で、鶴を折ってみても尻尾が変に太かったり、裏と表の縁をぴったり合わせられなくて羽の隙間から裏の白地がどうしてもはみ出てしまう不器用な指先なのだが、こうやって語られてみるとなるほど、折り紙という二次元の紙に張り巡らされる折り線や交点は、確かに幾何学的な世界へ誘う入り口なのであった。「解けないことが証明されている」ギリシャ三大作図問題を、折り紙を駆使することで解決していく様は手品をみるようだ(なお、ギリシャ三大作図問題は、折り紙や目盛り付き定規を使って解いてはいけないことになっているので、これをもって三大作図問題そのものが解決されたというわけではない)。
 
 
 本書で僕がもっとも興味をひいたのは「あやとり」の話だ。折り紙の専門家なのにあやとりに注目されるのは著者として本意ではないのかもしれないが、折り紙の専門家ならではのあやとりの固有的価値をうまく言い当てていて関心した。いや感動したくらいである。折り紙もあやとりも子どもの遊戯ではないかと思うなかれ、この2つの相違をしっかり考察するとこの人の世のすべてはこの二分に相当するのではないかというほど対照的な真理を持ち合わせているのだ。
 
 あやとりと折り紙を著者の目線で掘り下げていくと、「構造」と「手順」の相違に行き着く。これは著者が折り紙の名人だからこその指摘である。
 折り紙というのは、鶴でも紙飛行機でも、完成形をあらためて開いて広げてみれば、そこにはいく筋もの山折り線谷折り線が刻まれた正方形の紙が出現する。言ってしまえばこれは設計図だ。折り紙の名人ともなれば、その設計図を眺めれば、どこをどう組み立てればいいかは即時に脳裏に浮かぶという。これはその折り紙の組み立てを「手順」で覚えているわけではないということになる。したがって実際に組み立てる際の手順もその時々によって違ったりもするそうだ。
 繰り返すが、これは折り紙の名人だからこその視座である。僕なんか折り紙は手順でしか掌握できない。広げられた正方形の紙についた折れ線の具合から何ができるのかを想起するなんて神業はまったく想像の外である。
 
 つまり折り紙は設計図として記録することができる。この折り紙への認識は、著者の言葉でいうと「構造」ということになる。構造さえわかっていればなんとかなる。そもそも折り紙というのは二次元にプールされた情報を三次元に配置させるという極めて位相幾何学的な行為なのかもしれない。
 折り紙は「構造」として記録させることができるから、これを未来に継承したり、他の地域に普及させることはそんなに難しいことではない。折り紙は日本のものが有名で国際的にもorigamiで通用するが、かのような造形物と行為自体は世界各地にあるとのことで、折り紙文化が持つ普遍性や耐久性の証左と言える。
 
 一方であやとりだが、こちらは「構造」がなくて「手順」が全てであり、「記録」ができなくて「記憶」の世界に立ち現れるもの、というのが本書の指摘である。
 これはつまり、あやとりは他地域や次世代に継承されにくいということでもある。したがって文化人類学的な目線で観察すると、各地各コミュニティに形の異なったあやとりがある。また、言い方はあれだが先進国ではあやとりが盛んな国は少ないそうである。日本は例外ということだ。あやとりの文化が認められているコミュニティは、ネイティブアメリカンとか東南アジアの先住民あたりに顕著らしい。なんとこれは「文字を持たない文化」とも重なるそうだ。
 
 そして、あやとりというのは、折り紙とちがって形が残らない。どんなに複雑精緻な芸術的あやとりであっても、指が離れた瞬間にもとの輪っかの紐に戻ってしまう。この刹那的なところがあやとりの芸術的側面の極致とも言えよう(本書によるとあやとりは岡本太郎の琴線に触れていたということである。)
 形が残らないから、あやとりのやり方は「手順」の「伝承」ということになる。五指を模した5本の突起を左右に一対つくってそこに糸をはりめぐらせて保存したり移動させたりすることは不可能ではないがちょっと非現実的だろう。また、そうやってできたあやとりの完成形を見て、これはこれをこうやってこうすればつくれるな、ということを見抜けて再現できる名人というのが存在し得るのかも僕はわからないが、直観的には折り紙の比ではない難度な気がする。折り紙に比べるとあやとりは保存と継承の点でずっと困難な文化なのだ。
 
 あやとりの手順は、現代ならば動画に録ったりしてなんとか記録に残すこともできようが、本質的にあやとりとは手順の記憶による遊びなのである。したがって文字を持たなかった先住民族の言語がそうであるように、あやとりのバリエーションはすたれていく運命にあるというのが著者の指摘である。日本でももう誰も作り方がわからなくて過去の霧のむこうに消えてなくなったあやとり作品がたくさんあるに違いない。この章ははからずもあやとりの挽歌になっていた。
 
 
 上記の他にも、「大器晩成」は伝言ゲームのミスで本来は「大器免成」、つまりその意味は「大きな器の人間は形にこだわらない(弘法筆を選ばずのような意味)」であって、大物は遅れて花咲くなんて意味の格言は本来なかった可能性があるとか、国歌「君が代」の歌詞に出てくる「さざれ~石の~」は、原典の万葉集にさかのぼればこれは「さざれしの」と詠むのが正しいので、いまの国歌の歌詞の区切りは一単語を途中でぶった斬った不自然なのであるとか、気になる小ネタをもちだしながらさりげなく折り紙を用いた幾何問題に話がすりかわっていくところは落語のようだ。ぜひ続編も待ちたい。

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成瀬は信じた道をいく (ネタバレ)

2024年02月06日 | 小説・文芸
成瀬は信じた道をいく
 
宮島未奈
新潮社
 
 これは続編出るなと思ったらやっぱり出た。嬉しい。
 
 前作「成瀬は天下を取りにいく」の感想では、「この人変わっているなーと思ったら、その人とは受け止めて仲良くしたほうがよい」ということを書いた。
 これは僕が持っている人生訓のひとつである。
 
 本作にも僕の人生訓に触れたものがあった。
 「審査員特別賞狙い」と「何になりたいかではなく何をやりたいか」だ。
 
 「審査員特別賞狙い」という概念を言語された文章に初めて出会ったのは「生き延びるための作文教室」という本だ。初めて読んだ時、それまで僕がぼんやりと思っていたことが的確に著されていて膝を打った。読書感想文でねらうべき賞は大賞でも参加賞でもなく「審査員特別賞」である、とこの本は説いている。 

 「大賞」をとる作品とは、ある種のオトナの期待に応えたものであることが多い。もちろん他を引き離すぶっとんだものゆえの大賞受賞だってあるが、オトナ、即ち時の権威の予定調和にかなったものが大賞作品には備わっていることのほうが確率論的には多いという肌感がある。そのオトナの期待にどんぴしゃりにこたえることだって大いなる才能だが、ではその「オトナ」なるものが、これからの未来を切り開く上で十二分に参考になり指標になりえる連中かどうかとそれは別問題である。審査員を務めるような人は多かれ少なかれ現世で成功した人だ。しかし、現世で成功する人と次代を切り開く人は必ずしも同じではない。むしろ相反することだってあるに違いない。例の松本人志がM-1グランプリはじめ各種の審査委員長を独占していることの弊害を中田敦彦が訴えたことがあったが、これはあながち見当違いの指摘ではないのである。
 そこで登場するのが「審査員特別賞」だ。一人か二人の審査員に強烈な印象を残す出来具合、これがつまらぬオトナの諸事情に染まらず、かつ自分勝手に堕しているわけでもない、未来の勝ち残りにつながる突破口なのである。この話は読書感想文に限らず、敷衍できる思想なのだ。
 なんてことを僕はずっと思っていた。いま思うと、この価値観を最初に与えてくれたのは、テレビで観ていた「欽ちゃんの仮装大賞」だったような気がする。大学生になっても会社員になってもなんらかの賞とかアワードとかその類のものに参加するはめになったときはいつもそういったなんちゃら賞を狙っていた。

 もちろん、こんなのは大賞なんぞとったことがない僕の負け惜しみバイアスが大量にあってのことだけど、だからそれを言語化した文章に出会ったときは我が意を得たりと思ったのである。
 
 話が長くなった。まさかこの成瀬シリーズで審査員特別賞ネタが出るとは。以下はネタバレである。

 びわ湖大津観光大使になった成瀬あかりは、同じく観光大使になった同僚の篠原かれんと、観光大使ー1グランプリに挑戦する。最初は大賞を狙うべく、減点法に強いというか、みなが期待するイメージ通りの観光大使の立ち振る舞いとしてその完成度を磨き上げようとする。
 だけど色々あって、それは本当に2人がやりたかったものではなかったことに気づく。本番直前で2人は軌道修正して本来彼女らがやりたかったスタイルで審査に挑んだ。成瀬は例の成瀬構文でガイドを行う。篠原に至っては家族にも友人にも封印していた鉄子ネタ、つまりマニアックな鉄道の蘊蓄を審査員やギャラリーの前で解禁する。
 その結果が「審査員特別賞」である。
 
 そう。「何になりたいかではなく何をやりたいか」。前者は「大賞狙い」、後者は「審査員特別賞狙い」の道を拓く。成瀬と篠原は、観光大使ー1グランプリ大賞のホルダーになりたかったのではなく、成瀬構文や鉄子スタイルの観光大使をやりたかったのだ。どちらを狙うのが正しくてどちらかは邪道とか言う話ではもちろんない。どちらにモチベーションを抱くかは人それぞれだろう。ただ、本書を読んで、僕は何をやりたいかを優先させて審査員特別賞を狙っていたなと強く思い出した。それはそんなに悪くない審美眼だったと今にして思う。
 
 
 本書の最終章「探さないでください」の語り手は成瀬の幼なじみである島崎みゆきだ。前作の最終章では、成瀬が事実上の語り手となり、島崎不在による成瀬の不安と混乱が描かれていた。今回はその逆で、その島崎不在のあいだに成瀬が意外にも新しい仲間と新世界を構築しているのを知って、島崎は動揺する。このときの島崎の気持ちがわかる人は多そうだ。
 しかし、やっぱり成瀬にとって島崎は唯一無二の「友達」であった。案外に人は、誰との出会いが今の自分をつくっているか、自分は何でできているか、がよく自覚できているものである。天下を取りに信じた道をいく成瀬も、それをずっと見ていてくれたのが島崎だということは、島崎本人以上にわかっているのだろう。島崎は、成瀬のなりたいものではなく、成瀬のしたいことに常に付き添ってきたのだ。この意味するところを噛みしめたい。
 

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魔術師と予言者 2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い

2024年01月23日 | 環境・公益
魔術師と予言者 2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い
 
著:チャールズ・C・マン 訳:布施由紀子
紀伊國屋書店
 
 
 書評を読んだら面白そうだったのでポチったら、想像以上の凶器本(※人を殴れるほど分厚い本のこと)が届いた。まるで予言者が手にする魔術書みたいだ。索引や注釈まで含めて全851ページ。
 こんな質量なら上下巻ものになるのがこの手の訳書の通例である。あえて一巻もので綴じたのは出版社の企図なのだろう。いまどきは電子書籍のほうが一般的なので、わざわざ紙本をオーダーする人は、本の装丁も愛する好事家だと考えたのかもしれない。
 
 で、果たしてその内容だが、主人公級はウィリアム・ヴォートとノーマン・ボーローグという2人の科学者である。近現代の自然環境資源をめぐる科学者の立ち位置は「予言者」型と「魔術師」型に二分されるというのが本書の主張だ。その代表格がこの2人なのである。
 
 
 「予言者」というのは、増加を続ける地球人口と拡大する経済活動によって地球の資源や自然環境は人間にとって取り返しのつかない破滅になるであろう、したがって人間は過剰な資源依存や経済活動を今すぐに慎まなければならないという見解をもつ者である。諸君ども、身を改めるのだ。破滅の時は近い! ウィリアム・ヴォートはその先覚者のひとりだった。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」やローマ・クラブの「成長の限界」はこれに続く系譜と言えるし、意識高いZ世代の象徴のようになったグレタ・トゥーンベリや「人新世の資本論」で一躍論客入りした斎藤幸平などもこの一連と見なせそうだ。
 
 これに対して、いや人間の叡智でこれらは克服できる、と唱えるのが「魔術師」である。心配ご無用! 私に任せなさい! たしかに人口増加によって食料危機が予見され、石油枯渇説によってエネルギー危機が叫ばれたものの、けっきょくその都度人間は科学技術の力で、これらを克服してきた。フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュによって窒素固定技術という神業が開発され、食糧生産効率は一挙に向上した。そして、本書のノーマン・ボーローグの超人的な努力により、痩せた土地や虫害に悩まされる地域でも丈夫に育つ小麦や稲が開発された。メキシコやインドの荒れ地が穀倉地帯になった。日本でも寒冷地帯であるはずの東北や北海道が一大米の産地になったのは品種改良の成果である。石油や天然ガスの発掘技術もどんどん進化し、21世紀になって石油の可採年数は減っていない。
 
 本書は農業、化石燃料、水資源、そして目下の温暖化と気候変動をめぐって「予言者」派「魔術師」派それぞれの科学者や行政の人物たちが、ヴォートとボーローグを狂言回しにして次々と列伝のように登場する。各アジェンダがたどったヒストリーについても詳しい。本書によると例のSDGsはその前身はMDGsというものであったがさらに系譜をたどると、アメリカのトルーマン大統領が掲げた政策「ポイント・フォー計画」に行き着く(共産主義との対抗政策であった)。パンダのアイコンで有名なWFFや過激な活動で知られるグリーンピースは、そのトルーマン大統領が発起した国連サミットの向こうをはって同日同場所で開催されたもうひとつの国際会議体から発展したものだそうだ。つまり、SDGsのDNAは「魔術師」で、WFFは「予言者」のDNAなのである。
 
 
 索引も充実していて何かを調べるときの資料としても役立つが、なんといってもこの「予言者」と「魔術師」の二分法が単純明快で切れ味鋭い。これまでのもやもやがスッキリした。目ウロコと言ってもよいくらいだ。
 
 僕が勤める職場の人間でも、あるいは業務の一環としても、この手のテーマが入り込むことが時勢柄ちょくちょくある。
 正直言って厄介である。テーマそのものは僕も無関心なわけではないし、だからこそこんな本も読んでいるわけだが、これがいろんな人が一同に介されての業務となるとどうも面倒くさくなることが多い。なんというか話がまったくかみ合わず、延々と堂々巡りの議論になるのだ。「総論賛成各論反対」どころか利益相反とでも言いたくなるほど、お互いの主張はかみ合わない。ここは会社が身銭を切ってやるべきでしょ、いやビジネスにしないと続かないでしょ、そんな事業は生態系を壊すだけだから認められない、いやまずは仕事にしていかないとますます見捨てられる、儲けたらだめでしょ、え? 儲けが出ること自体はいいんじゃないの? 脱炭素はいいけどカーボンニュートラルは言語道断。代替肉はいいけど培養肉はよくない、などなど。
 
 なんでこの手のテーマはいつも収拾つかなくなるのか不思議だったのだが、それもこれも、かの人の立場が「予言者」派か、「魔術師」派か、ということをふまえると腑に落ちるのである。なるほど。あいつは「魔術師」派だったんだな、と考えると彼のすべての言動が腑に落ちる。あーあいつは「予言者」派だからいちいちペシミスティックな言い方するんだ、と納得できる。このようなプロジェクトをするときは、メンバー構成を「予言者」派か「魔術師」派かどちらかに集中して固めないといけないのだ。
 
 
 ところで、本書を読むまで僕は心情的にはどちらかというと「予言者」に共感するクチであった。人間は自然に逆らえない。人間も自然のシステムの一環だし、この地球の平均気温上昇も気候変動激甚化も、もうとまらないんだろうなーなどと思うクチであった。それがいやなら、せめてエアコンの温度設定は控えめにして、移動はなるべく徒歩や自転車で、と考える。しょせん、企業なんて営利目的のマーケティングから逃れられないのだし、社会責任を全うすることが最終的に営利につながる、という最近の論調も、まあ後付けのきれいごとだよねーなどとも思っている。
 
 だけど、本書に出てくる「予言者」派の人々の様子をみていると、だんだんゲンナリしてきたのも事実だ。彼らはもちろん大まじめに全力投球して人間の行き過ぎた活動を抑制させ、貴重な地球の資源を未来に続けさせようと算段しているのはわかる。そして最終的には彼らの言う通り――時間軸を多いに延ばせばどこかで魔術師派の手は行き詰まることもなんとなく予感はする。のだけど、その議論の持っていきかたは、それを言っちゃあおしまいというか、なんか夢も希望もないな、という気にさせられてくるものばかりだ。
 どうやら予言者派はエリートが多いようだ。自分らのちょっとした我慢が地球環境の温存につながる、と考えてしまうが、その日の生活もかつかつな人のQOLを上げる希望をついつい忘れてしまう節がある。
 
 さらに、予言者派がこじらせると、産児制限・人口調整の主張に合流することになるのを見て目を丸くした。
 どういうことかというと、人新世と言われるように人間の活動が地球自然全体のありように影響した大きな要因は、人口の増加にあるからだ。僕が小学生のころの地球の人口は45億人だが、いまや80億人を突破し、100億人までは遠からず約束された未来だ。増えた人口分の食料を確保し、住まいを確保し、経済活動をまわし、そしてそれら増えた人口から排出される諸々が、地球自然に負のフィードバックを与えていくのである。なので、これを食い止めるには「人口増加を抑える」という発想になる。これは発展途上国の避妊教育とか、中絶の権利という話につながる。ここまではまだよい。しかし、ここから一人っ子政策などの産児制限、強制堕胎、産み分け、そして優性思想までは実は一直線であったことを人類の歴史は証明している。これについてはハラリも「ホモ・デウス」で警鐘を鳴らしていた
 
 では「魔術師」はどうか。
 「魔術師」においては、そういった魔術的技術が実社会に用いられることが実際においては経済格差の拡大に結びついたり、新たな収奪構造を招き寄せることを顕わにしている。たしかに産業革命は貧富の拡大をもたらしたことはよく知られているし、よく育つ稲の苗が持ち込まれることや、不毛の地で水資源が確保されることは、現実社会においてはそこに大資本の投入と労役者の大量出現があったり、地域固有の文化を滅してしまう副作用があったのである。
 これ以外にも魔術師が見落とした陥穽はいくつもある。
 
 
 本書は「予言者」にも「魔術師」にも与しておらず、どちらかに偏ることを慎重に避けている。本書のスタンスは予言者も魔術師も一理あったし欠点もあったというものである。では2050年。このままいけば地球の平均気温は2度上がり、海面は上昇し、人口は100億人を超える。その未来はどうなっているのか。予言者のいうように今すぐ節制しなければ破滅なのか、それとも魔術師のいうようにイノベーションが起こってみんな健康で快活な日々を送っているのか。
 本書の結論は、人間はなんとか折り合いをつけるんじゃないか、というものだ。いざ窮すれば環境変化に適応する能力が人間のDNAにはある。それは人間だけじゃなくて生命というものが持つポテンシャルなのだ。もちろん過去の事例ではうまく適応できなくて滅亡した生物や社会はたくさんある。だけど、実はそれ以上に、姿かたち仕組み諸々を変えながら存続していった生命の例は多く、人間もまたそれらしい経緯を経た事例が実はたくさんあるというのだ。まあ、なんとかなるんじゃないの、というところか。日本人は意外とこういうところはしぶといかもしれない。
 
 
 ところで、本書の魔術師サイドの主人公ボーローグが数千種もの種子を悪戦苦闘しながら掛け合わせ、不毛なメキシコの土地を行ったり来たりしてついに耐久性のある小麦の育成に成功させたり、紛争と政治的混乱、さらに保守的な価値観が支配するインドとパキスタンにおいて品種改良された種子をなんとか船で届けたりする話を読むと、説教垂れる予言者よりは、不屈の精神でトライ&エラーを続ける魔術師のほうがカッコいいなとは思う。(プロジェクトXっぽいとでも言おうか)。魔術師系の人って自然の力を小バカにするような不遜な印象があったが、決してそんなことはなくて埃まみれ汗まみれの泥まみれになりながら一縷の望みをかけて悪戦苦闘するのがその姿なのだ。むしろ予言者のほうが生真面目な優等生イメージであり、魔術師はむしろ不屈な陽キャっぽい。ついつい予言者的な嘯きをしてしまう自分は猛反省である。

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超人ナイチンゲール

2024年01月14日 | ノンフィクション
超人ナイチンゲール
 
栗原康
医学書院
 
 
 世間一般的には、看護師は医者の助手である、という見られ方が多いと思う。医者のほうが看護師よりエライと思っている人はいっぱいいるはずだ。看護師に暴言をはくけど医者にはへこへこするモンスター患者の話題には事欠かない。
 
 しかし、それはとんでもない浅はかであって、医者と看護師は、性質を異にした等価な関係である。そもそものコンセプトが違うのだ。医者が行うのは治療(cue)ないしサイエンスであるのに対し、看護師の役割は「看護」すなわちケア(care)である。この二者は独立した価値を持っており、それがゆえに日本でも世界でも、医大と看護大は歴然と区別される。
 聖路加看護大学の学長であった日野原重明は、その最終講義にて、もう施しようがなくて医者が見捨てた患者も、看護師は絶対に見捨てず、その人生が全うするまで全力で相手をする。これこそが看護師の特権である、と学生に手向けの言葉を送った。
 
 看護という行為の価値を医療と同等に、看護師という地位を医者と同等に成し遂げたのがかのナイチンゲールである。ナースコールも食事配膳用エレベーターもみんなナイチンゲールによって実現したものだ。本書はそのナイチンゲールの生涯と業績をアナーキズムの観点からひも解いている。なぜアナーキズムなのか。僕はまったく知らなかったが著者がその方面の人らしい。文体はかなりアナーキーだ。
 
 アナーキズムのアンチテーゼは「国家」である。よって、ナイチンゲールの業績をアナーキズムで照射するということは、おのずとその対立軸は国家ということになる。現に、ナイチンゲールは母国イギリス政府やイギリス階級社会の前例主義・形式主義・条文主義・教条主義に反旗を翻し、徹底抗戦していった。ナイチンゲールのことを戦場の天使と形容されるが、天使というにはあまりにもマッチョであった。著者の言い方によれば、彼女の提唱する「ケア」はアナーキズムだったのである。すなわち「国家」のテーゼとは何から何まで相反するものであった。
 
 要するにこういうことである。「国家」というのは行政基盤を敷いて民衆をいかにマネジメントするかに腐心する。そのためには平準化と合理性が求められる。民がそれぞれの判断で勝手なことをしていては秩序が保てないし、いちいち個別の事情を汲んでいては一つの国と言えないからだ。そこで憲法とか条例とか制度とか刑法が登場する。これをしなければならない、これをしてはならない、これはこう使え、これをするのはこれになってから、これをやった人はこれとみなす。などなどの線引きを行う。お酒は20才になってから。燃えないゴミを出すのは木曜日。給付金をもらえるのは子供が3人から。こういった線引きのために基準や尺度が生まれる。メートル法もグリニッジ標準時制もみんな共通の基準をもってそこから判断や取捨選択をしていくためなのである。徴税の計算根拠・徴兵の基準はこれらをもとに行われた。国家とは、計測をしたりイエスorノーで区別する仕組みの上に成り立っているといってよいだろう
 
 だが、それでは「ケア」はできないのだ、というのが著者を通じてのナイチンゲールの看護観である。相手が何歳だろうが、どこの国籍だろうが。性別がなんであろうが、経済事情がどうであろうが、社会ステイタスがどうであろうが、敵だろうが味方であろうが、聖人だろうが無礼者であろうが、わけがあろうがなかろうが、目の前に助けを求めている人がいるならば、苦しんでいる人がいるならば、死にかけている人がいるならば、問答無用でケアする。ケアとは無限抱擁なのである。ケアとはとにかく「見捨てない」ことが原則なのだ。区別と排他がつきまとう「国家」とは相いれない。
 
 ナイチンゲールが看護というものに底無しに没入した(仲間が何人も過労死するレベル)ことの背景に、彼女の神秘主義があったと本書では述べている。クリミア戦争に赴いたときは、全長6キロにわたる病棟をカンデラを手に毎晩患者を見舞いに歩いたとか、国の供出費では追い付かないのでポケットマネーで日本円にして億円単位の出費を賄ったとか、病棟の設計や看護学校の設立までやってのけてそれは現代でも通用するとか超人めいたエピソードは事欠かないが、その理屈抜きの猪突猛進は、彼女が天の啓示を受けたという神秘体験にあったとする。天の啓示によって確信したミッション、即ち天職(calling)なのだから、その動きをけん制する諸制度諸習慣諸判断はすべて抵抗勢力なのであった。天職の原語はcallingというんですね。
 
 彼女の場合、すべてをなぎ倒してその決意を実行するだけの超人的な肝っ玉があったわけだが、もちろん精神力だけではなくて、彼女の実家が気が遠くなるほどの金持ちであったことと、そこに由来する上流社交界も功を奏している。むしろ我々人類にとってまことに幸運だったのは、ナイチンゲールにすさまじき資金と人脈があったということ、そういったリソースを惜しげもなく看護というまだ得体の知れないものに投入してくれる人だった、ということだろう。なにしろナイチンゲールの姉や母はそういうことに一切関心がなかったようなのだ。
 
 
 本書では彼女の革新的かつアナーキーな思考傾向を神秘体験による天職観が後押ししたとしていて、何かが憑依した超人としてのナイチンゲールにスポットライトをあてている。一方で統計学を駆使したり、組織行動学を理路整然と語りだすところなどは極めてラジカルだし、案外に策士的な行動や意思決定も多く、単なる取り憑かれたシャーマンではなく、なにか非常に現代に通じる思考フレームを身につけていると僕は思っている。
 
 ナイチンゲールといえば「看護覚書き」である。世界中の看護学生が必ず読まされるバイブルだ。本書ではあまり語られていないが、これによるとケアに必要なのは「知・心・技」すなわち「症状に関心を持つこと」「患者の気持ちに寄り添うこと」「看護の技術を身に付けること」の3要素であった。また、患者の回復力をはかるには「食事」「清潔」「換気」が必要であるとした。ほかにも、看護師が育つには「病院(現場)」と「寄宿舎」と「学校」の3つがいる、などと主張している。
 ナイチンゲールはこのように、三位一体論で話を組み立てることが多い印象がある。三要素の掛け算で理想を実現するのだ。AかBか、是か非かといった西洋論理にありがちな二元論が持つ陥穽こそがケアの大敵であったことを見抜いていたのかもしれない。
 
 
 
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生命海流

2024年01月08日 | 旅行・紀行・探検

生命海流

福岡伸一
朝日出版社


 「動的平衡」でおなじみの生物学者、福岡伸一のガラパゴス諸島旅行記である。彼の文章は難解ではないが描写が大仰で、サイエンス畑の研究者のイメージを覆す文豪みたいな文体が特徴だ。しかも本書は開始後全体の3分の1に至ってもまだ旅行に出発していない、という不思議な構成の本である。その前半3分の1では、作家と編集者の関係の話とか、本の値段と本の中身の企画の関係の話とか、とにかく右に左にと迂回ないし脱線しながら語られていく。

 しかも、ガラパゴス旅行記とはいえ、そこは生物学者のそれ。通常のガラパゴス観光旅行ではない。なにしろガラパゴス諸島を観光で訪問するならほぼすべての人が拠点となるはずのサンタ・クルス島はほぼ無視である。彼らは小型クルーザーをチャーターし、かのチャールズ・ダーウィンがビーグル号にて訪れたのとなるべく同じ航路と上陸を追体験しようというコンセプトなのである。

 本書の前半3分の1は、この企画が実現するまでの長い長いエピローグとその他注釈なのである。

 では、残り3分の2がめくるめくガラパゴス諸島旅行記かというとどうもそれとも違う。ガラパゴス諸島の最大の特徴はその特異あまりある生物相にあるわけで、生物学者である著者だからそれらイグアナやアシカやカメや鳥たちとの邂逅に膨大な記述を割いているかというと必ずしもそうではなく、むしろ船における手狭で操作が難しいトイレの話とか、ゴムボートで島に接近しての浜辺やの上陸の困難な話とか、チャーターした船とともに雇ったシェフの料理の芸術的な手際の良さとその美味さとか、を変わらずの福岡節で書かれていく。そして島の人文地理や自然史由来に相当な説明を費やしている。それと比較すると島の生物たちとの邂逅の話は、かなりエキセントリックなエピソードいくつかしか語られない。むしろ、動物や植物の様子は同行したフォトグラファーによる挿絵写真にすべて委ねてしまったかのようだ。

 要するに見聞記ではなくて思索記なのである。

 本書のキーワードは「ロゴス」と「ピュシス」、すなわち理性的論理と自然的本能において、前者が勝る現代生活においてナチュラリストを曲がりなりにも自称する著者が、この旅行を通じて己れのピュシスに否が応でも向き合わなかざるを得なくなる話なのだ。若者のインド旅行みたいだなと思わなくもないが、それを特異な生物相であるガラパゴス諸島で体験する、というところが本書のミソであろう。本書はガラパゴス諸島およびその海域という特異な場所をモチーフにした生命とは何かを思考する本である。その思考の対象はダーウィンの進化論そのものである。ダーヴィニズムから考えるとガラパゴスのイグアナやカメやアシカや鳥たちの生物相は説明がつかないことが多々あるという。進化論はロゴスによって突き詰められたが、生命体そのものが持つピュシスの可能性を捨象しすぎたのではないか、と著者は考える。

 その最大が、ガラパゴスの生物たちが人間に恐れをいだかず、むしろ好奇心をもって絡んでくるということだ。「人間を脅威とする記憶がないからだ」という論はあてはまらないという。後天的に「人間は怖いもの」として得られた知識は簡単に遺伝しないからだ。ガラパゴスの生物たちは人間に恐れをいだかず、無関心でもなく、攻撃対象でもなく、むしろ積極的にちょっかいを出してくる。それはまるで「意思」があるようだと著者は表現する。遊んでいると描写する。なぜそんなふるまいをするのか。

 著者の仮説は、ガラパゴス諸島の生物たちは「ニッチがスカスカだからだ」というものである。本格的な検証を経ているわけでも実験をしているわけでもないから、仮説以前といったほうがいいかもしれないが、ガラパゴスに生息する諸生物たちは、餌や住処を奪い合う関係もなく、食物連鎖としてもつながっていない。ウミイグアナとリクイグアナは、食べるものも棲む場所も異なる。アシカもオットセイもペンギンもリクガメもウミガメもそれぞれ棲み分けられており、利害が衝突しない。そして彼らの生命を支える資源は、ふんだんにこの島と海域に存在するのだ。つまり彼らの生活には「余裕」がある。この「余裕」が異なものに対し、好奇心と利他の心をつくるのだという。それはロゴスではなくてピュシスがふるまうものなのだそうだ。

 何事も余裕が大事よねーとなると結論としてつまらなくなるが、ガラパゴスゆえにその閉じた世界相の中で余裕こいた生活ができたとなると、まるで一時の日本みたいである。そういやガラケーのガラはガラパゴスのガラであった。ガラパゴスがエクアドルの領土として保全され、アメリカからもイギリスからも植民地支配として逃れられたのは、20世紀の覇権主義の世の中にあって幸運であったと本書も指摘している。「ガラパゴス化」はまるで悪いことのように語られがちだが、食うか食われるかのあくなき競争に巻き込まれないという意味ではこれはこれで進化と生存の道ではあったんだなと思う。「余裕」と「ガラパゴス化」が実は表裏の関係だったとすると、「過当競争」と「デファクトスタンダード」がそれの対ということになる。プラットフォーム化とかトランスフォーメーションとかAIとか、均質化を志向する動きは相変わらず加速気味だが、どこかにガラパゴス的なものを残しておいたほうが「余裕」という資源を確保する意味では大事かもしれんなどと思った次第である。

 

 


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大学4年間の統計学が10時間でざっと学べる

2024年01月03日 | サイエンス

大学4年間の統計学が10時間でざっと学べる

倉田博史
KADOKAWA


 昨今は統計学がトレンドである。AIやビッグデータの隆盛がその背景にあるのは間違いない。企業の採用でもその手の人材を募集していたり、大学がその名を冠した新学部を創設したり、学生全員を必修科目にするなどしてアピールに余念がない。

 本来的に統計とは試薬の開発や気象分析などサイエンスの分野を支える手法だが、いっぽうで人々を説得するロジックとしてしばしば引き合いに出された。戦場の天使ことナイチンゲールは統計の論法を用いて国を説得し、大規模な医療改革を引き出した。かつて多変量解析は心理学の研究で用いられることが多く、日本の大学では文学部心理学科に統計学の講義があったりした。20世紀も終わりごろになって企業が製造過程において生産効率性をはかるスローガンとして統計誤差に注目するようなことがあった。

 僕は大学を卒業して数年ほどデータ統計をなりわいにしていた小さな会社に在職していたことがあった。大手企業のマーケティング部署が出してくるデータのアウトソーシング先みたいなところだった。僕自身は大学時代にいっさい統計学の授業をとったことがなく、統計については全く無知であった。それなのになんでこんな会社のこんな仕事にまわされたのかというと単にExcelが使えたからである。そんな時代であった。僕の仕事が、当時の日本のGDP向上にどのくらい貢献したのかはさっぱりわからないが、僕自身がここで統計というものを知ったのは役得ではあったと言えよう。

 ただ、そういう在野で身につけた知識の故、その中身はたいへんムラがあるものだった。なにしろ計算そのものはExcelのソフトウェアがしてくれるので我々は出てくるスコア表を見ればよい。出てくるスコアが信頼に足るものかどうかはP値なるものをみて0.05を下回っていればよいとか、そういうのは覚えたが、ではP値というのはいったい何者で、なぜ0.05を下回ればいいのかなんてことは二の次であった。そのくせクラスター分析とかコンジョイント分析とか手数だけはいろいろやってみて重宝されたが、これらの分析の計算過程はブラックボックスで、ただ出力されたスコアが信頼できるかどうかをマニュアルにしたがってチェックするだけだった。

 現場でいいかげんに身に着けたそのような統計学にプライドとコンプレックスがあったまま幾星霜、ここにきて統計ブームである。勤め先も立場も変わり、いまの自分の職務は必ずしも統計知識とは関係ないのだがなにしろ世間が追い風なので何かと会社はデータデータ言ってくる。実際に、膨大なビッグデータをぐるぐるまわして脚光を浴びる若手社員なんてのも出てくる。

 そうなってくると「俺だって若いころは統計やってたんだぜ」と言いたくなる欲求がムズムズわくが、これは老害以外のなにものでもない。ただ、ロートルのレッテルを貼られたままなのも癪である。

 ということで、統計検定を受検してみることにした。統計検定は1級・準1級・2級・3級・4級とある。統計の知識を問う資格については他にも姉妹的な検定がいくつかあるが、もっともスタンダードなのはこの統計検定だ。英検みたいなものである。
 その統計検定の中でも特に2級が目安とされていて、これをとっておくといちおう「この人は統計ができる」と市場価値として認められるとされる。

 というわけで統計検定2級にチャレンジしたのである。「昔やってたんだぜ」はウザいだけだが、「2級持ってるよ」ならば、もう少し人としてなめられなくて済むかもしれんなんて思ったのである。去年の夏頃の話だ。

 そしたら、ものの見事に玉砕した。もちろんぶっつけではなくて過去問なんかもぱらぱらみたのだが、合格点ラインが60点というのでまあなんとかなるだろうと油断したら、もう全然届いていないのである。

 というより、改めて考えると、齢50にもなってこの手のテストは本当に久しぶりなのである。これまでもいくつか資格試験や検定みたいなのものを受けたことはあったが、それらは基本的には「暗記」であった。まれに計算問題を課すものもあったがそれとて全出題のごく一部であって、なんならその問題は捨ててしまっても他で点がとれれば合格に影響しないものであった。

 しかし、統計なのだから当たり前なのだが、出題の大半が計算問題なのである。そんなテストを1時間半にわたって受ける。いまから30年以上前、大学受験以来なのではないか。その30年の間に、当方の脳みそは劣化し、集中力は続かず、出題文を読む目(試験会場ではパソコン画面で行う)は老眼でおぼつかず・・・

 

 「不合格」の画面がパソコン上にパンと出たときは絶望的な気分になったものの、それから心を入れ替えて本気で3か月ほど勉強してみた。過去問集や何冊かの参考書を相手にウンウンとやって年末に再受験したら、今度はギリギリの点数で合格した。これだけ真面目に一生懸命やったのだからもう少し点数はいくかと思ったのだが、本当にギリギリで、あと1問か2問ほど間違っていたら不合格というレベルだった。

 勉強の最後のほうは、統計知識を得るというよりは単に試験対策みたいになってしまい、このパターンの問題が出たらこのパターンの解答みたいな強引なスタイルになってしまっていた。そこで合格後に改めて手にしたのが本書なのである。

 

 

 ともあれ統計検定2級は合格したし、改めてこれを読めばもう一度情報も整理できて人前で「自分は統計ができる」と言ってしまって、なにか返り討ち的な質問をされてもまあ大丈夫かなと思ったのだが、意外にも本書を読み解くことは苦難だった。さんざん検定対策をして、そのうえで本書を読んだ上の感想だが、「10時間でざっとわかる」のは無理なんじゃないのだろうか。もちろん各章題である「分散」「t検定」「独立性の検定」「標準化」などがなんであるかはわかる。というか、それは本書を読む前から勉強していたのだから知っている。しかし、そこに書かれている解説がけっこう晦渋なのだ。自分が勉強したものはこれだったっけ、みたいな戸惑いを感じる。これ、統計学初見の人がよんでわかるのかなあ、などと思ってしまうのである。

 はやりの学問だけあって、書店にいくと「文系でもわかる統計」「中学生の知識でわかる統計」など、お手軽にマスターできそうな統計本が揃っている。暗記物がメインの資格検定はそういうショートカットもありそうだけど、本来が数式と厳密なロジックで成立している統計学はあまり近道がないのではないかと思う。
 と書くと、なんだか教訓と自慢みたいな繰り言で終始してしまうので、なんでそうなってしまうのかというのをさらに考えてみたい。今回のブログ、かなり長文になってしまった。

 

 統計学について学ぶのに一番いいのは、教師役の人と問答しながら双方向で確認しながら進めていくことではないかと、これは独学で参考書を読んだり問題集と解きながらずっと思っていたことではあった。扱うデータもビジネス現場などで扱っている実際のものであればなおよい。というのは結局のところ、統計学の学びの対象は、実際のデータと、どのような論理で成り立っているかという話と、そしてそれをもとにした数式がすべてだからである。

 だけれど、これを一方通行の文章だけで表現して読み手に伝える、というのは参考書の書き手にとってはかなり厄介な仕事なのではないかと思う。統計学の先生なんてのは、想像するに文系的な言語ボキャブラリーが豊富とも思えないし、数字と数式で成立する世界の解説をいちいち日本語の文章で説明するのは外国語の翻訳と同じで隔靴掻痒であろう。厳密に定義しなければならないものほどコトバがもつ冗長性が障害になる。統計学には「棄却する」とか「独立の元では」とか「信頼空間が」とか「自由度」とか変なコトバがいっぱい出てくるが、これも数学の世界によくある定義の厳密性を追求しようとしてこんなへんな日本語になる。業界内では通用しても部外者にはその意味するところはなかなかピンとこない。本書は「10時間でざっとわかる」シリーズの一環で、経済学とか社会学とかいろいろ出ている中の1冊だが、統計学でこの制約を要求された著者も気の毒ではある。

 つまり、統計学(おそらく数学全般に言える話だろうが)を解説書形式で説明するのは、書き手としても高度な技術を要するし、読み手がそれに対してこの文章はどういう意味か、このコトバは何かの質問も確認もできないという一方的読書体制で学ぶのはなかなか効率が悪いのだ。変に四角張った意味がはかりにくい文章と、わかりやすいけど書き手によってその説明の仕方がぜんぜん違ってしまう解説が混在するのが統計学の参考書なのである。要するに参考書だけの独学勉強方法はムリゲーと言ってもよい。

 というわけで、僕がやった勉強スタイルでは、年齢のことは棚に上げるとして、どうもここが限界な気がする。当初はあわよくば準1級でもねらうかとか思ったものだったが絶対ムリだ。高校生の我が娘には、大学に入ったら統計学の授業はとったほうがいいぞ、最前列に座って受けて質問は積極的にした方がいいぞ、と言う。いつもはうるさいなという顔しかしない娘だが、このときばかりは素直にそうだねとうなづいたのは、休日も悪戦苦闘しながら勉強したのに一度目は不合格、二度目になんとかぎりぎり合格した父親の後ろ姿を見たからではないか、と思うと、今回のチャレンジの最大の収穫はこれだったかとも思うのである。

 


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Z世代的価値観

2024年01月02日 | 社会学・現代文化

Z世代的価値観

竹田ダニエル
講談社

 

 本書の隅々の情報から察するに、どうやら、著者の前作「世界と私のAtoZ」がセンセーショナルだったらしい。本書はその続編のようだ。くだんの書を僕は読んでいないことを先にお断りしておきます。著者はアメリカ在住の二十代日本人とのこと。本書はアメリカにみるZ世代の洞察だ。

 ここ数年言われている「Z世代」。いままでの世代との隔絶があるとか、社会問題に敏感とか、環境保護意識がべらぼーに高いとか、SNSネイティブとか、9時5時の仕事さえ耐えられないとか、代行事業者に退職を伝えさせるとかいろいろ言われているが、僕は半分都市伝説だという疑いが晴れない。いつの時代だって若者はいままでと違うと言われてきたし、大人のつくった社会に異を唱えてきたのはミレニアム世代もさとり世代もゆとり世代も同様である。
 むしろ「こいつらは●●世代だからしょうがない」という免罪符をつくってことなかれにしているのは上の世代なのではないかとさえ思う。一時期、海外旅行離れアルコール離れ恋愛離れと、××離れがまことしやかに言われていたが、離れているのは若者ではなくて、既存の価値観が若者たちから剥離してしているのだ、という見方を持ったほうがよいのではないか。どうあったって世の中の流れはとまらないのである。

 ・・と、なかば自分を律して戒める意味も含めて僕はそう思おうとしてきた。

 それでも、我が勤務先に入社してくるここ数年の新入社員をみているとかなーり勝手が違うことを白状する。3年くらいまではなんとか理解と共感の糸口を見つけてきたつもりだが、去年と今年に続けて我が部署に配属された2人の新人とはいまだわかりあえていないきらいがある。ちなみにどちらも男性だ。なぜかそれまで5年連続で女性の新人配属が続いていたのだが、世代のせいなのか性別のせいなのか、女性のほうがなんというかうまく折り合いつけるというか上手に立ち回るというか良くも悪くも賢い、つまり彼女たちはなんだかんだで他の社員や会社のしきたりやビジネス作法とうまくやっていくのに対し、この2年連続の男性新人にはあっけにとられっぱなしである。

 どういうことかというと、彼らは自分たちの出すボキャブラリーやアウトプットや立ち振る舞いに疑いも不安もない。その自己紹介の仕方から飲み会の清算の仕方、経費の申請の仕方、取引先への会話の言葉選び、そこに場違いや勘違いがあったことを(優しく)指摘してみても、すみませんの一言もない。今までそれを覚える機会がなかった以上べつに知らないことは罪でも恥でもなく、こっちもそれを批難しているつもりも弁明を求めるつもりも一切なく、本気で謝罪を求めているわけだってもちろんないのだけれど、その場を潤滑油的に流す一言の「すみません」や「気をつけます」が素で出てこない風をみると、本当にこの人たちはピュアに育ってきたんだなあと、むしろある種の感慨がある。それ以前の5人の女性の新人のほうが、その手のちょっとした「やらかし」をしたあとの対処、立ち振る舞いがやはり一枚上手なのである。男性だ女性だということ自体が時代錯誤なのはよーくわかっているのだけれど、ジェンダー的な由来が彼女たちをしてこのような折り合いをつけるスキルをつくったのかと思わないでもない。男性はそのぶん摩擦なくすくすく育ってきたのかなどと考える。

 というわけで、ようやく本書の話である。

 本書の主張では、そもそも日本でいうところのZ世代は、企業がマーケティング活動の一貫としてとりいれた方便以外のものではなくて、何も本質を言い表してはいないという。「Z世代」というのはアメリカで発現された「現象」なのだ。GAFAにおける生活プラットフォームの上で、ブラック・ライブズ・マタ―に象徴された人種問題、トランプ政権でアジェンダとなった格差問題や移民問題、銃の乱射事件、気候変動そしてコロナ禍といったものをティーンエイジに目の当たりに経験することが、アメリカにおける2000年代生まれの若者たちに何を精神形成させたかという話なのである。

 その結果、アメリカのZ世代にみられるのは、強力な自己肯定感と自己有能感への渇望、とでもいうべきものになった。これからの未来において社会も政府も企業もオトナも信用できない、すなわち冷戦後のアメリカがつきつめた民主主義と資本主義のレジームへの疑心があり、頼れるのは自分たちの嗅覚という問題意識の中で、今の自分の採択は大丈夫、という安心と手ごたえをとにかく欲することとなった。この自愛を求める手段としてSNS、とくにこのときにタイミングよく出てきたTiktokが彼らの精神土壌のプラットフォームになった、というのが本書の筋書きである。

 そういうことであれば、日本の「Z世代」の原体験はアメリカとは相違がある。日本の場合は、SDGsに代表される社会課題的なものへの関心はむしろ外挿的に後付けされたもので、どちらかというと、拡大するジニ係数と長く続いた安倍政権と少子高齢化という社会ベースに、Instagram・twitterそしてTiktokという匿名ないし半匿名の情報インフラ、そしてコロナ禍によってつくられた世代だろう。「Z世代」はコロナ以前から言われていたが、本当に特異な世代と思えるのは、やはり多感かつ精神形成に重要な十代をコロナ禍にやられてリモートで過ごさざるを得なかった彼らであろうとは思う。

 これらがどういう精神形成をつくりあげたかはいくらでも深読みができそうだが、結果的に彼らは「いやに現在の自分のやり方に自信を持っている」という形となって表れているということだ。いつの時代のどの国の若者もそうじゃないかとも思うのだが、ただ彼らの立ち振る舞いや言動をみているとそこに「ぬぐえない不安の裏返し」というのがどうしても見て取れてしまうのである。今やっている自分の言動は正しい、と自信を持っているというよりはしがみついているといったほうが良いか。本書におけるアメリカのZ世代の「自己肯定感への渇望」もこういうことなのでは、と思う。ただ、アメリカのZ世代が、社会への「不信」を背景にそこに新たな「連帯」や「社会変革」を見つけようとする外向きのエネルギーを感じるのに対し、日本のそれは単に「不安」が転じて自分が思っている正しさにしがみついている、という防衛本能的なものをどうしても感じてしまうのである。

 これが日本のZ世代なのだ、という風にステレオタイプに決めつけるのはよくない。一人一人の個性の差異は年代や性別の差異よりも大きい、というのがダイバーシティの原則論である。ただ、この世代に確かに共通しているのは学生時代がコロナ禍によるリモートだったということはかなり考慮したほうがよいとは思っている。限られた学生期間を数年にわたって自宅からのリモートで過ごし、通学が復帰しても学友はみんなマスク姿ということがどういうことになるのかというのは、近代史上に初めて現れた自然実験とはいえよう。その特異な経験が彼ら彼女らにどのような自信と不安を植え付けたのかを心底から共有して理解するのは他世代にはもはや不可能である。

 ただ、我が部署に配属された新人たちをみるに思うのは、「ダニエル=クルーガー効果」あるいは「ジョハリの窓」などに代表される「無知の知」「無知の無知」に無頓着なのは己れ自身のリスクをむしろ高めるのではないかという老婆心である。信じられるのは自分だけ、なのは結構なのだが、自分自身というのは案外にそう信じられるものではないよ、というのは僕自身の黒歴史もさりながら歴史が証明していることでもある。このあたりのニュアンスを彼らに気付いてもらえる日がいつかくればいいと思っているのだけど、さてどうしたものか。


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南海トラフ地震の真実

2023年12月02日 | ノンフィクション
南海トラフ地震の真実
 
小沢慧一
東京新聞
 
 わが国においては、政治と科学が対立したときは政治が優先されるということがよくわかる本。むしろ、政治は科学から浮遊したところにあるのだ、と言ったほうがよいのかも。
 
 政治的判断が科学的根拠より優先されるという例はこの本に限らず、ここ数年において随所でみてきたように思う。たとえばコロナ対策だ。いま思えば、コロナ分科会長の尾身氏と政府のちぐはぐはその代表例だったろう。当時、尾身氏においては御用学者とか政府に謀反を起こしたとかいろいろ揶揄とうっぷん晴らしの的にされていたが、あれこそは政治的優先と科学的懸念の戦いだった。緊急事態宣言レベルの感染状況なのに外国人を呼んで東京五輪を断行し、そのときだけは緊急事態宣言が解除されていて、五輪が終わったらまた緊急事態宣言で人流抑制という究極のダブルスタンダードは、科学そこのけの政治的行為の極北であった。
 
 他にもある。脱炭素の国際的潮流に日本も乗るため、2030年までに二酸化炭素の排出量を46%減らすという宣言を、ときの環境大臣である小泉進次郎が行った。この46%という数字の根拠はどこから出たのか、という問いに対し、小泉進次郎は「おぼろげながら数字が浮かんできた」と、例の進次郎節でしゃあしゃあと言いのけた。なんていいかげんなともちろん炎上したが、冷静に考えればそんなわけはないのであって、この46%という数字は大いなる政治的駆け引きと思惑があって引かれた線のはずである。科学的根拠による積み上げでは39%程度がいいところだったが、欧米諸国とのバランスや関係省庁とのかけひき、企業に檄を飛ばす程度の塩梅の中で、もっとも政府がマウンティングをとれるのがこのスコアだったのである。
 こういうあまりつっこまれたくない政治的判断を公表するときにバカのふりをしてけむに巻くのは政治家に求められる気質のひとつだろう。僕は、進次郎構文に代表される彼の迷言シリーズは、案外にわかった上でうつけ者のふりをしているものではないかと睨んでいる。一種の腹芸だ。
 
 
 したがって、南海トラフ地震の「今後30年以内に80%の確率」というのが科学的見地から離れた政治的思惑の独り歩きだという本書の指摘において、まあそういうことなんだろうなあ、と思う。国としては、地震の襲来タイミングをピタリと当てたいのではなくて、とにかく経済的・人的損害が少しでも軽減するように防災対策をしておいてほしいのであろう。30年以内に20%の確率です、と言うよりは、30年以内に80%といったほうがみんな防災行動をするのは確かだ。
 
 江戸時代のことである。土佐藩では米作の害虫被害が深刻になっていた。対策を検討している過程で、ムクドリが害虫を捕食することが判明した。しかし当時はムクドリは庶民に食されていた貴重なたんぱく質だったので、ムクドリに害虫を捕食してもらうためには、人々がムクドリを獲るのをやめてもらう必要があった。しかし大事な食べ物を「害虫を食べてもらうために人間は食ってはいけない」と言ったところで、人々がムクドリを捕まえることを止めないだろう。当時は飽食の時代ではなかった。
 
 この1000羽に1羽というのが絶妙で、これが10000羽に1羽程度になると、まずは当たらないよ、といって人々は捕獲を続けるし、100羽に1羽となると嘘がばれやすい(今までさんざん食していたのだ)。
 この絶妙な数値設定のお触れによって、ムクドリは保護されたという。
 
 南海トラフの「30年以内に80%」という数値が出来上がるまでの裏話をきいて、このムクドリのエピソードを思い出した次第である。
 
 
 
 もっとも、本書だって、本当は30年以内に20%くらいなのに、80%なんて嘘をついてけしからん! と言っているわけではない。防災は大事である。本書が問題として指摘しているのはある種の既得権益・利権の構造と、人間判断の副作用である。
 
 前者でいうと「30年で80%」だからこそ、対策費や研究費として予算がおりやすくなる。国の予算は有限だから、南海トラフ対策に予算が寄せられるということは、その分なにかの予算がしわ寄せを食うということになる。あったかもしれない予算割り当ては子育て対策だったかもしれないし、感染症対策だったのかもしれない。
 
 もう一つの「人間判断の副作用」というのは、「南海トラフが危険ということは、他所では地震はこないってことだよね」という安心バイアスの発生のことである。人間というのは弱いもので、都合のよい解釈に飲まれていく。
 
 前者の既得権益の虚無感もやるせないが、後者の人間判断バイアスはけっこうバカにならない気がする。本書でも指摘しているように、日本で近い将来地震が来ると戦後昭和の時代から言われ続けたのは、首都圏直下地震であり、東海地震であった。阪神大震災も東日本大震災も熊本地震も「想定外」だったのである。自分のところは大丈夫という気分的な安心バイアスだけではなく、それを根拠に企業誘致や住宅地造成が行われるから厄介だ。
 だからといって、住民や企業を呼び込みたい自治体にとって、我が土地は安全です、とアピールしたくなるのはそりゃ当然であろう。これだって科学から離れた政治的判断であるという意味では同じだ。熊本ではいま半導体工場の建設ラッシュだが本当に大丈夫なんだろうかと思う。
 
 統計学の世界では「第1の錯誤」「第2の錯誤」という概念がある。
 「第1の錯誤」とは「本当はないのにあるとみなす錯誤(偽陽性)」であり、「第2の錯誤」は「本当はあるのかないのか断定できないのに『ない』とみなす誤謬(偽陰性)」のことだ。前者は単なる予言の失敗、というやつだが、問題は後者で、実はこの「第2の錯誤」を犯す確率はけっこう高くなりがちなのである。そして地震の話に戻れば「本当は地震が来ないのに来るとされる土地」よりも「本当は地震が来るか来ないかはわからないのに来ないとされる土地」のほうが出現頻度は多いのにそれに気が付かない、というミスリードを誘発することになる。
 
 統計的トラップ×人間の安心バイアス×政治的都合という複合によって、地震を引き合いにした安心感の引き寄せは実ははなはだ厄介な現実的局面をつくってしまうのである。行動経済学的とでも言うか、ある意味で人間が生来的に持つ判断能力の範囲を超えてしまっているのだ。明治時代の科学者であった寺田寅彦が喝破したように「災害は忘れた頃にやってくる」なのである。裏を返せば「忘れないうちにやってくる自然現象は災害ではない」ということだ。
 
 というわけで、地震の予測については、南海トラフであろうとその他の地域であろうと「わからない」というのが本当のところである。地震保険やら防災フェアやらハザードマップやら、地震をネタに観心を買おうとする例は多いが、これに関しては本当に五分五分のわからなさと考えてよさそうだ。

 

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スヌーピーがいたアメリカ   『ピーナッツ』で読みとく現代史

2023年11月20日 | 社会学・現代文化
スヌーピーがいたアメリカ   『ピーナッツ』で読みとく現代史
 
ボール・ブレイク・スコット  訳:今井亮
慶應義塾大学出版会
 
 スヌーピーの原作マンガシリーズ「Peanut(ピーナッツ)」については、一度こちらで丁寧に紹介している。僕は10代という重要な精神形成の時期に、寄り添うようにピーナッツのマンガに接していたので、このマンガは自分の心身に計り知れない影響を与えている自覚がある。
 
 といっても、僕は純然たる日本人であり、アメリカはもとより海外で生活などしたことがない。ピーナッツは、アメリカの子どもたちの文化や社会がどんなものであるかを見せてくれる窓ではあったけど、マンガの世界観そのものは、サザエさんやドラえもんがそうであったように、人畜無害で中庸な日常系マンガだという先入観があった。 
 
 必ずしもそうではなかったのだ、というのが本書「スヌーピーがいたアメリカ  『ピーナッツ』で読みとく現代史」である。
 
 作者のチャールズ・シュルツ自身は穏当なスタンスの持ち主ではあったが、そもそもアメリカは保守とリベラルのふり幅が相当に広い。シュルツは西海岸に住むプロテスタントの白人で、第2次世界大戦時は徴兵によってヨーロッパ戦線に赴いている。このような出自や経験によるアンコンシャスバイアスは当然あっただろう。さらに、ピーナッツシリーズは戦後半世紀に渡ってアメリカ史と並走し、全土にわたって新聞を通じて毎日配信し続けられた国民的マンガである。相当な影響力を持っていたために、政府や企業や市民団体はこれを利用しようとした。読者から送り寄せられる意見や感想も盛んだった。ピーナッツシリーズは、シュルツの自覚無自覚関わらず、戦後アメリカの社会思想と呼応しないわけにはいかなかったのだ。
 
 僕は、ピーナッツシリーズの連載期間のうち、50年代後半から70年代前半くらいまでの期間を「前期:内省の時代」および「中期:再構築の時代」と勝手に見立てている(詳細はこちら)。僕にはアメリカ史の知識なんてないから、この区分はもっぱら登場人物や作風の変化から主観的にそう感じとっただけなのだが、この時期の特徴としては、思索的な内容の多さと、ちょっとしたセンチメンタルさが醸し出されていることにあり、時として晦渋な印象を与えるものだった。チャーリーブラウンやライナスは世の中を憂いたり、未来に不安を感じたりする会話をしばしば行う。スヌーピーの犬小屋が高速道路を建設するために立ち退きにあったり、ルーシーの一家が引越しによって町を去るようなエピソードがあったりする。
 本書「スヌーピーがいたアメリカ」を読んで、それが戦後アメリカの様々なパラダイムシフトと同時代の表裏一体な関係であったことを知る。公民権運動、ベトナム戦争、東西冷戦と宇宙開発および核開発競争、女性解放、成長の限界。これらがアメリカ社会で取り出され、議論され、衝突していた。黒人のキャラクターであるフランクリンが海水浴場で初登場したのも、スヌーピーが第1次世界大戦の飛行士に扮した撃墜王シリーズも、ルーシーが精神分析スタンドを開業させたことも、サンダル履きでスポーツ万能なペパミントパティが登場したのも、そんな社会背景のインパクトと、作者シュルツのメッセージとして世に放たれたものだったのだ。スヌーピーの犬小屋が高速道路建設のために破壊されそうになったのは、当時のスーパーハイウェイ計画を反映してのことだし、ルーシーの家の引越しは、経済圏がどんどん広域化していった当時の世相とつながっている。
 僕が50年代後半から70年代前半のピーナッツシリーズに感じた「渋さ」の正体は、当時のアメリカ社会の光と影だったのである。
 
 
 ところで、僕の勝手な区分では、70年代後半以降のピーナッツシリーズは「後期:平和の時代」「晩期:解放の時代」と見立てている。先のような「渋さ」が薄れ、毒抜きされたかのようにマンガチックになっていった。一般的にイメージされるスヌーピーやチャーリーブラウンの世界に近い、と言ってよいかもしれない。もっぱらキャラクターの個性に頼った人畜無害な話が主になり、こと80年代後半からの晩期にはそれが顕著になる。
 本書で書かれる「『ピーナッツ』で読みとく現代史」でも、扱っている時代はもっぱら50年代の公民権運動や東西冷戦から、70年代までの女性解放運動や環境問題との関連までであ80年代以降の考察は皆無といってよい。そしてエピローグの章では、ピーナッツは次第に同時代性を失っていったとも指摘している。
 
 なぜ、ピーナッツは政治色が薄れていったのか。ここからは僕の想像である。もしもピーナッツがアメリカ社会の世相や問題意識に敏感に呼応していたのだとすると、80年代後半以降の微温化は、東西冷戦終結によってアメリカ社会に張りつめていた空気が緩んだことの現れとも言えるだろう。アメリカはここからパクスアメリカーナと情報スーパーハイウェイの時代になっていく。
 また、シュルツ氏自身の心境の変化も多いにあったに違いない。晩期のピーナッツシリーズは、確かに不明な点が多いが、いま改めて読み返すと「愛」にまつわる話が増えていった印象もある。片思いや親愛や友愛はピーナッツシリーズでは定番ではあったけれど、こと晩期においてはチャーリブラウンやスヌーピーたちを惑わせた女性キャラクターーリディア、ペギー・ジーン、エミリー、さらにはスヌーピーのママ、そして永遠の美少女「赤毛の女の子」などーが続々登場した。同時代を離れて、より普遍的な「愛」に傾注したのが晩年のシュルツの境地だったのだろうかなどと想像する。
 

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ある行旅死亡人の物語 (ネタバレ全開)

2023年11月08日 | ノンフィクション
ある行旅死亡人の物語 (ネタバレ全開)
 
武田惇志 伊藤亜衣
毎日新聞出版
 
 
 2020年4月、コロナウィルスの日本上陸で世間が騒然とする頃に、大阪に隣接する兵庫県尼崎市の風呂なし木造ボロアパートで、孤独死した老女が発見された。遺留品が極端に少なく身元不明となった。警察の調べの結果、特に事件性は疑われず、身元引受情報を求めるデータベース型の官報におさめられただけだった。
 そのおよそ1年後に、若き新聞記者が、たまたまネタ探しとしてこの官報を覗いたのである。残された所持金が多かったことに興味を抱いたこの記者は、同僚を誘って二人三脚でこの女性の正体を追跡することにしたのである。本書はノンフィクション・ドキュメンタリーである。
 
 
 ワイドショー受けしそうなところの真実はほぼ解明されない。
 
 なぜ3400万円もの大金を隠し持っていたのにあんなボロアパートに住んでいたのか
 なぜ近所付き合いを徹底的に避けていたのか
 なぜ住民票を抹消させていたのか
 なぜ右指全切断という重度の労災を負ったのに労災年金支給を断っていたのか
 なぜあんなに部屋のセキュリティを強化していたのか
 なぜ違う方角から帰ってくるのか
 なぜ記録と実年齢が12才もかけ離れていたのか
 なぜ警察が発表している身長と違うのか
 なぜ闇医者で治療をうけていたのか
 なぜこの身元不明の死体を田中千津子だと証言した人の情報が食い違うのか
 なぜ数日おきに数万単位のお金が引き下ろされていたのか
 なぜ田中竜二は消息不明なのか
 なぜ田中竜二は勤務先を偽っていたのか
 なぜ遺留品の一部が無くなっているのか
 なぜ番号が記入された星型のアクセサリーが遺留品に残されたのか
 なぜ韓国ウォン紙幣が保管されていたのか
 
 なにもわからないまま本ドキュメンタリーは終わる。え? ここで終わっちゃうの? と肩透かしを食らう。
 
 もちろんそんなことは著者も出版社も承知の上だろう。著者も出版社もばりばりのマスコミご本人であってその温度感は人一倍知っているはずだ。つまり、この本はそんな野次馬的な主旨で上梓されたのではないということになる。
 
 では、社会課題を掘り下げようとする主旨か。独居老人の孤独死、しかも身元不明。たしかにこういう例は今後増加していく一方だろう。
  しかし、本書は必ずしもそれが主眼でもないように思う。それならば、もっと孤独死に関しての日本のデータや事例を多く引用してくるだろう。
 本書はそういった社会背景や一般事例を示す情報がほとんど出てこない。本書は、この身元不明で名前が田中千津子(らしい)、住民票からも記録が抹消された謎の女性の正体を求めて、警察も探偵もたどりつけなかった彼女の正体を、ただひたすら新聞記者の執念で足を使って追い求めていく話なのである。
 
 アパートの大家さん、近所の商店街、かつて務めていたとされる工場の元従業員などをつぶさに取材するが芳しい情報は得られない。みんな彼女のことをほとんど知らない。
 そんな八方ふさがりにおいて、調査の突破口になったのは部屋に残されていた「沖宗」という珍しい苗字の印鑑だった。田中千津子の旧姓か本名かはわからないが、このレアな苗字が広島県出身者に多いことを知る。そして、レアゆえに沖宗姓の家系図をつくっているという人物と出会うことに成功する。
 これを契機に沖宗の苗字を持つ人間を渡り歩く。そしてついにこの田中千津子の親戚にあたる人を広島市内でつきとめる。
 
 しかし、田中千津子が実在した人物であることが証明されても、本人の人となりはあいかわらず茫洋としたままだった。取材に当たった人はみんな生前の田中千津子とは30年以上音信不通だったのだ。彼女の人生を追うために調査は続く。広島市内だけでなく、彼女が幼少時に住んでいた近隣の町や若いころに勤務していたという会社の情報にもあたる。女学校時代の同級生とも出会う。こうしておぼろげながらも次第に田中千津子の輪郭が形作られてくる。
 
 それでも田中千津子がなぜ広島を去って大阪に行ったのか。大阪で何があったのか、は遂にわからない。昭和30年代、高度経済成長を邁進する日本は清濁併せ呑む巨大なエネルギーの中にあった。彼女もそんな戦後の渦に飲みこまれていったようだった。
 
 
 彼女の遺留品の中で異彩を放っていたのは巨大な犬のぬいぐるみだった。「たんくん」という名前が与えられ、子どもの服が着せられていた。長年かわいがっていたことがその状態からわかった。本書表紙のイラストは、アパートを背景に、後ろ手にぬいぐるみを持つ女性の後ろ姿を描いている。強く胸をうつイラストだ。不可解な晩年であったことを示す状況証拠と、ひとつのぬいぐるみを大事に愛してやまなかったひとりの女性像というコントラストが、人生の陰影の妙を深く感じさせる。無常と諦観もふくめた人生の機敏を感じさせる。本書の主眼はそこにあるのは確かだ。
 
 とは言いながら、本書が持つ「凄み」を最も感じるのは同業者、すなわち記者やライターと呼ばれる人たちではないか。ここで炸裂するのは若い2人の記者の底知れぬパワーだ。この2人のガッツはシンプルに眩しい。
 ネットの情報も下調べには使うが、この調査はひたすら足である。彼らは警察の捜査班などではない。天下の警察手帳も捜査権限などない。しかもわずか2人である。
 経費も出ないから、自費でなんども広島や尼崎に通う。専門班ではないから普段は日常の業務をこなした上で、この女性のことを調べるのは深夜や休日である。空振りや無駄足が多くても幾多もの人に会いに行く。警察にも行く(相手にされない)。実家の跡地にも行く。工場の跡地にも行く。コロナだろうが猛暑だろうが行く。働き方改革なんてクソクラエという執念を感じる。
 何が彼らをそこまでさせるのか。この2人の記者が持つ田中千鶴子へのまなざしは、暴露趣味のイエロージャーナリズムではない。孤独な中で犬のぬいぐるみだけを友にしていた一人の女性への愛といたわりが、本書の随所で現れる。田中千鶴子は幸せだったのかを著者は何度も自問する。
 
 本書は、本来ならば路傍の石のように黙殺されるはずだった身元不明の孤独死した女性が、田中千津子、本名沖宗千津子として根も足もある人生をあるいた一人の人間であったことを浮かび上がらせた。ここにジャーナリズムの矜持を見た気がする。裏をとり1次情報に接しながら、骨太な真実を愚直に追求する。当て推量も辻褄合わせも無しである。
 その結果、実像を結んだのは、沖宗千津子という女性が実在したという真実と、彼女と邂逅し、彼女のことを覚えていて、思い出話を語ることができる何人かの人物が存在していたという真実だ。彼女は決して身元不明でも生涯天下の孤独でもなかったというその真実である。確かに人は誰でも死ぬ。しかし、人は死して名をのこす。沖宗千津子の名はのこっていた。二人の記者が足で稼いで上げた成果である。沖宗千津子もって瞑すべしであろう。
 
 アテンションエコノミーが席巻する今日に、こたつ記事でセンセーショナルな見出しつくってよしとする安易な記者やライターへの痛烈なメッセージがここにはあるといってよいだろう。

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続 窓ぎわのトットちゃん (ネタバレ)

2023年10月30日 | 小説・文芸
続 窓ぎわのトットちゃん (ネタバレ)
 
黒柳徹子
講談社
 
 「窓ぎわのトットちゃん」を初めて読んだのは小学3年生のころだっただろうか。学校の授業だった。読んだのではなくて、学校の先生が朗読してくれたような気がする。
 最初のうちはトットちゃんのとぼけたなりふりの描写やトモエ学園のユニークな授業や行事が面白くて、教室のみんなも笑っていたのだが、そのうちに同級生が亡くなったり、愛犬が失踪したり、日本は太平洋戦争に突入するなど、物語は悲しみを帯びるようになっていった。そしてトモエ学園は空襲で焼けてしまい、トットちゃんは疎開のための夜行列車に乗って揺られるところで物語は終わる。当時は子供向けのコンテンツしか接してなかったから、こんな終結で閉じる物語は初めてで、虚無の真ん中に放り出されるような気持ちがしたものだった。
 
 このトットちゃんの正体は「黒柳徹子」である、というのは当時の僕も知ってはいたはずだ。当時の我が家では歌番組「ザ・ベストテン」を毎週みていたから、司会の黒柳徹子はしっかり認識していた。しかし。知識としては知っていても、テレビ画面の向こうにいる玉ねぎおばさんがトットちゃんと同一人物であるというリアリティはまったくなかった。物語に出てくるトットちゃんのイメージは、挿絵にあるいわさきちひろが描くこどもの絵以外にはありえなかった。「窓ぎわのトットちゃん」に挿されたいわさきちひろの絵は、実は描きおろしではない。既発表の作品の中からそれらしいものを集めたものだ。しかし「窓ぎわのトットちゃん=いわさきちひろ」のイメージは分かちがたい。なにしろ大ベストセラーかつ大ロングセラーである。大方の日本人がそうだったろうと思う。
 
 
 そんな「窓ぎわのトットちゃん」の続編が刊行されたというのを新聞広告か何かで見た。出版業界的には大ニュースだったはずだが、めぐり合わせの問題か書評や評判に接することも特になかったので、僕はすぐに刊行の事実を忘れてしまい、そのまま数か月経ってしまった。
 
 ところが先日、書店をひやかしで覗いてみたら、平積みであのいわさきちひろの絵が飛び込んできた。その瞬間「窓ぎわのトットちゃん」の世界がよみがえってきた。
 東北にむかう満員の夜行列車の中でうずくまっていたトットちゃんがその後どうなったのかは気にならないではなかった。むしろ幼少期に味わった読後感の記憶としてはトラウマのようなインパクトがあったと言ってもよい。平積みしていた「続 窓ぎわのトットちゃん」を掴んでレジに持っていった。
 
 
 続編は、前作の最終回から少し時間を巻き戻してスタートする。疎開にむかう列車に乗るところで実はトットちゃんは家族とはぐれてしまうのである。疎開先で無事に家族とは再会できたものの、その後も苦難と工夫の日々がある。父親は徴兵されたまま音信不通であり、一家を支えるためにトットちゃん母は超人的な奮闘をする(黒柳朝。この人も徹子に負けないほどのなかなか凄い人で「チョッちゃん」という名でNHKの連続ドラマになったこともある)。銃後の生活や戦後すぐの混乱がどんなであったかという記録という意味でも貴重だが、一方でトットちゃんはあいかわらずのトットちゃんで、定期券を川に落としたり、線路にぶらさがったりする。村にやってくる旅芸人の一座を最前列で眺め、座長にスカウトされそうになったりする。いわさきちひろの挿絵にあるような、夢幻的な子どもの世界が醸し出される。
 
 しかし、戦後復興の日本がそうだったように、事態は加速度的に変化していく。トットちゃんも疎開先から東京に戻って香蘭中学校に通うようになる。映画館に通い出し、オペラに夢中になり、さらには音楽学校への入学、NHK専属女優のオーディション合格、芝居のお稽古、そして様々なテレビやラジオの出演となっていく。ラジオドラマの吹込みの仕事でその独特のしゃべり方や声の大きさを先輩や周辺から指摘されるあたり、むしろ我々の知る黒柳徹子である。そう「続 窓ぎわのトットちゃん」は、トットちゃんから黒柳徹子に変貌していく物語なのだ。渥美清や中尾ミエといった我々もよく知る名前の人物と交わりだし、紅白歌合戦の司会などにも抜擢される。あいかわらず人称はトットちゃんだけど、もういわさきちひろのトットちゃんではない。きりっと前をみて、その旺盛なサービス精神と直情的なひらめきでマシンガントークする黒柳徹子その人である。牧歌的ないわさきちひろの挿絵に代わってはつらつとしたご本人の写真が挿入される。前作最終回で心細く夜行列車でうずくまっていた少女は、本作最終回では芝居の留学のために洋々と国際線の飛行機に乗り込む。トットちゃんはもう窓ぎわにはいない。日本のテレビ放送普及のヒストリーと足並みを揃え、全国のテレビ画面に映るその人になったのだ。
 
 
 だいぶ以前だが、いちど人の紹介でテレビ番組「世界ふしぎ発見」の収録現場を見学する機会があった。1時間弱のクイズ番組だが、実際の収録時間はもっとずっと長くて3時間くらい要していた。ちょっと撮影してはとめて、ちょっと撮影してはとめる。テレビで観ていると、クエッションという名のクイズ問題が出ると回答者はみんなすぐさま答えるようなスピード感だが、実際はシンキングタイムがしっかりととられている。しかしそこは間延びするので放映ではカットされているのだ。カメラがまわっているときは野々村真も板東英二もよくしゃべっているが、カメラがまわってないときは下をむいて沈黙していた。観客はその間じっと次のカメラが回るまでを待たされる。
 そんな中、黒柳徹子だけがずっと喋っていた。出演者に対してではない。我々観客席にむかって話しかけるのだ。この問題わかる? さっきの問題あたしあー言ったけど、じつは半分でまかせだったのよ、などと、ずーっと観客にむかって話しかけていた。観客の誰かがそうなんですか? と反応すると、そうなのよ、でもちょっとヒントがよかったのよね、あれだったらたぶん合ってるんじゃないかなと思ったの、などとこちらを見ながら話し続ける。カメラはまわっていない。この人は毎回収録のたびこうなのかと感動した。既に番組が始まって10年以上は経っていたはずだ。底抜けにサービス精神が旺盛だし、それが自然体だった。授業中に窓ぎわから壁のむこうのツバメに話しかけていたトットちゃんを見た思いがした。

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ChatGPTの頭の中

2023年08月14日 | テクノロジー
ChatGPTの頭の中
 
スティーヴン・ウルフラム 訳:高橋聡 監訳:稲葉通将
早川書房
 
 
 薄い新書でとっつきやすいかと思ったらおそろしく難解であった。こちとらなんとかG検定を合格した身だが、ここに書いてあることの4分の1も理解できていない。そもそも理解するのに大苦戦したG検定の参考書に書いてあった用語や概念が、こちらでは知っていて当然のごとく情け容赦なく怒涛のように押し寄せる。
 
 著者のスティーヴン・ウルフラムは理論物理学者である。世界的なステイタスのある人で、あの数学ソフトウェア「Mathematica」を開発した人でもある。「Mathematica」とは数学の複雑な演算や統計的なシミュレーションを行えるかなり本格的な数理計算ソフトウェアのことで、理系の研究室なんかではポピュラーな存在だ。
 
 しかし、世界的数学者が見えている世界というのは、凡人の解像度を大いに超えているものであって、本書の記述を読みながら彼がまなざしの向こうに何が見えているのかを想像するのは非常に難しい。ChatGPTの頭の中の前にスティーヴン・ウルフラムの頭の中を知る必要がありそうだ。
 
 こういう翻訳書でわけがわからないとなると、その八つ当たりが訳者にむけられることがある。しかし本書では、この方面に実績がある訳者が起用されたようだし、しかもご丁寧に監訳者も別に用意されている。わざわざ監訳がついているくらいだから本書はわかる人はわかる内容になっているのであろう。ちなみに2023年8月11日時点でAmazonのレビューを見てみると、16件のレビューがついており星は平均で4つと表記されていた。そこそこ高い印象を受ける。
 
 Amazonでは星の平均点だけでなく、星のつき方の内訳も提示されている。本書は以下のごとくであった。
 
 星5つ・・62%
 星4つ・・・8%
 星3つ・・・8%
 星2つ・・13%
 星1つ・・・8%
 
 星5つが最多である。この難読本を読破して高い評価を付けた人は少なからずいるのだが、しかし難しすぎたのか低スコアのほうにも星2つを中心に山がある。みんながみんな高い評価をしたわけではないようだ。
 
 こんな風に評価のばらつきが単純ではなさそうなとき、算出したくなるのが統計学で言うところの「分散」である。「分散」というのはデータがどのくらいばらついているのかを示すスコアだ。昔取った杵柄で計算してみる
 
 平均が4.0なので、分散値を出すには
 
 (5-4)²*0.62+(4-4)²*0.08+(3-4)²*0.08+(2-4)²*0.13+(1-4)²*0.08
 
 という計算をする。この計算式を解くと答えは1.94になる。ついでに分散の平方根である「標準偏差」というスコアも出しておこう。そうすると
 
 平均 4.0
 分散 1.94
 標準偏差 約1.39
 
 というのが、本書におけるAmazon評価の分布ということになる。
 標準偏差1.39というのは、雑に言うと各々がつけた評価点の平均点からの距離が平均1.39という意味だ。5段階評価という尺度でのそれだから、ばらつきは大きいとみていいだろう。
 
 以上の計算は面倒な手計算をしなくても、Excel統計などの統計ソフトウェアに数字をぶちこめばあっという間に出てくる。そういう意味ではこの手のものはコンピュータのお手の物の世界のはずだが、本書「ChatGPTの頭の中」で指摘しているように、実はChatGPTは数字の計算が大の苦手であることが知られている。
 
 そこでChatGPT3.5にどんなものか計算をしてもらおう。以下をプロンプトで問うてみた。
 
——————

とある書籍の星取り評価をみたら、以下のようになっていました。
 
 星5つ・・62%
 星4つ・・・8%
 星3つ・・・8%
 星2つ・・13%
 星1つ・・・8%
 
この書籍の、評価の平均点と分散と標準偏差を出してください。

——————
 
 この問いに対するChatGPTの回答が以下である。雰囲気だけでもつかんでほしい。
 
——————

まず、各評価の星数を数値に置き換えます。
 
星5つ → 5
星4つ → 4
星3つ → 3
星2つ → 2
星1つ → 1
 
次に、与えられたデータをもとに平均、分散、および標準偏差を計算します。
 
平均 (μ) = Σ(評価 * 頻度) / 総評価数
分散 (σ²) = Σ( (評価 - 平均)² * 頻度 ) / 総評価数
標準偏差 (σ) = √分散
 
計算を行います。
 
平均 (μ) = (5 * 62 + 4 * 8 + 3 * 8 + 2 * 13 + 1 * 8) / 100 = 3.69
分散 (σ²) = ( (5 - 3.69)² * 62 + (4 - 3.69)² * 8 + (3 - 3.69)² * 8 + (2 - 3.69)² * 13 + (1 - 3.69)² * 8 ) / 100 ≈ 1.87
標準偏差 (σ) = √1.87 ≈ 1.37
 
したがって、この書籍の評価の平均点は約 3.69、分散は約 1.87、標準偏差は約 1.37 となります。

——————
 
 想像していたよりも、ちゃんと計算過程が文章で表示されて出てきたので一瞬ビビる。μとかΣとか使ってくるあたり迫力充分だ。本当はChatGPTは計算できるんじゃないの? と信じたくなる。
 が、よくみると計算結果が先に挙げたものと違うではないか。相手はAIだ。自分のほうが計算間違いをしたのではと再び怯むがここは落ち着こう。何度みてもChatGPTは計算を間違えている。
 
 平均 (μ) = (5 * 62 + 4 * 8 + 3 * 8 + 2 * 13 + 1 * 8) / 100 = 3.69
 
 μ(ミュー)なんて統計用語を出すのでそれっぽいし計算式そのものは正しいのだが、これ肝心の計算結果がやはりおかしい。だって平均は4.0だってAmazonが言っているではないか。
 ねんのためにGoogleの検索窓に上記式をコピペしたら、ちゃんと4.0が出た
 
 その先を見ていこう。分散を計算している箇所も計算式そのものはあっているが計算間違いをしている(前の行で出した平均μ=3.69をちゃんと代入しているところなどすげえと思ったが)。ChatGPTが出したこの分散(σ²)の複雑な計算式をGoogleにぶち込んでみたら答えは約2.06となった
 
 ちなみに最後に標準偏差としてChatGPTが示した「1.87の平方根が約1.37」というのは正解である。なぜこれだけ計算が正解できたのかは興味深いが、もともと代入すべき分散の値が間違っていたのだからこれでは意味がない。

 ここで確認しておきたいことは、ChatGPTは計算ができないことではなくて、計算ができていないのにあたかも計算できたかのようにそれっぽいなめらかな文章を回答してくる、という現象である。そういうアウトプットを出してくるChatGPTはどういう頭の中をしているのか、というのをこれから考えてみる。

 
 まず、ChatGPTはなぜあんなに上手になめらかな文章で回答してくれるのか。本書「ChatGPTの頭の中」は、ChatGPTが「文章生成モデル」としてどのような仕組みをとっているかを解説している。
 
 その仕組みのココロは「これまでに入力された単語から判断して次は何の単語を出すのがもっとも適切かを決めていく」というシロモノである。
 
 その判断力を鍛えるためにChatGPTは膨大な学習データを事前に読み込んでいる。その学習データとはWEBの大海を埋め尽くす莫大な文書である。それらを読み込むことで、例えば「小さい」と「子犬」がでてくればどうやらかなりの確率で「かわいい」が出てくるらしいというような言葉同士の関係値を、星の数ほどもある膨大なテキストデータから学んで類推できるようにしておくのだ。
 そのような気が遠くなるほどの数の言葉同士のつながりの強弱を計算し、そこに文法や構文のお約束ごとを学習させればChatGPTはなめらかな文章を生成できてしまう。

 しかも、このミラクルのような文章生成を実現させたことは、逆説として「文章を書くという行為は実はたいしたことないのだ」ということを暴き出したと著者ウルフラムは言う。難解な本書において僕が数少なく理解できて、しかも大いに膝をうったところだ。
 
 小論文の執筆のように、人間にはできてもコンピュータにはできないと考えられてきた処理が、実は計算処理の点から考えると、ある意味では思ったより容易だということだ。言い換えるなら、ニューラルネットがうまく小論文を書けるのは、小論文の執筆というのが、これまで考えられていたより「計算処理的に浅い」問題だったからなのである。(P,71)
 
 人間の言語は(そして、それを支えている思考のパターンは)、どうやら私たちが考えていたよりも単純であり、その構造はもっと「規則的」らしいということだ。そのことを暗黙のうちに明らかにしたのがChatGPTである。(P.128)
 
 つまり「なめらかな文章を書く」というのは、とっても文系的とでも言うか、直感やセンスが要求される所作のように思われるが、実は計算式に還元できるようなアルゴリズム(それも計算処理的に浅いw)だったというのだ。衝撃的である。さすが天才は言うことが違う。ディープラーニングの世界はまたひとつパンドラの箱を開けてしまった。かつてAIで東大入試に合格させる東大ロボプロジェクトというのがあってこれが挫折したのは国語の問題が解けそうにもなかったということだったが、最後の砦であった国語能力までAIに乗っ取られそうな勢いである。
 
 だけれど、そこまで周到に単語ネットワークを張り巡らせているのに、文章の中に数学的な論理を必要とする要素を求められるとChatGPTはしゃあしゃあと嘘をつく。それはなぜなのか。
 これは数字だけではない。固有名詞や固有の出来事を説明させようとするとしばしばChatGPTは適当なことをでっちあげる
 
 おそらく、数字をちゃんと計算できないことと現実に存在する特定の小説や人物を説明できないことは同じ原因だ。ChatGPTは固有性が高いものを扱う能力を持っていないのである。固有性が高いというのは、それそのものを表す正解はこの世の中にひとつしかない、というものだ。数字の計算も、特定の小説を語るのも、固有性の高い事象を扱っていることになる。(数字の計算というのは、正解がひとつであとはすべて間違いという極めて固有性が極めて高いものである)

 ChatGPTがなめらかな文章を生成することはできるのに、固有性が高い事象を書き出すことがてきないというのは、どうやら上手に文章を作り出す能力と、数字を計算したり小説の中身を特定させるような能力はトレードオフの関係にあるらしいということだ。それがなぜなのかは本書を読んでも僕の頭では理解できなかった。文章を構成する一部としての数字と、演算の対象として書かれている数字を見分けることが技術的に難しいということなのだろうか。それとも、なめらかな文章をつくろうとすればするほど固有性を排除する方向で演算が進むということなのだろうか。
 
 一方で、「人間ならばどういう文章が書けるか」もまたここから浮かびあがってくる。
 たとえ無骨で読みにくい文章でも、そのほんの一部分から読み手に思考の契機を提供したり、なにがしかの思考実験を促せるものならば、それは「人を動かすことができる文章」だ。そういうぐっとくる文章は、平易と平凡の枠外にあるからこそ読み手の心にひっかかる。我々はChatGPTにはできない文章を書けるようにならなくてはいけないのかもしれない。数字計算を織り交ぜた、文理ハイブリッドの文章はその候補に充分なりうる。今回の投稿はなんと「ChatGPTの頭では書けない文章」だったのである。
 本書「ChatGPTの頭の中」の大半は専門的すぎて理解できなかったが、ここまで「自分の頭の中」に思考の契機を与えてくれたのだから本書は買いであった。

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1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀

2023年08月01日 | 社会学・現代文化
1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀
 
速水健朗
東京書籍
 
 僕の両親は団塊世代の入り口にあたる。したがって僕は団塊ジュニア世代ということになる。自分とほぼ同年代のクロニクルを扱っているので追想にひたってみようかと読んでみた。この本、僕らが何歳のころにこのような事件とか社会現象があったよね、というのがずっと述べられている。
 
 このような本を当事者世代が読めば胸熱になること間違いなしと思いきや、むしろ興味深いことに、本書を読んでいて終始あまりシンクロした気分にならなかった。むしろ遠巻き感覚な年表をみているようだった。
 確かに本書が描くように僕が小学生のころにつくば万博があったし、中学生のころに宮崎勤の事件で世間は騒がれたし、高校生のころにカラオケが流行りだした。大学生のころからポケベルが出回りだして社会人になったあたりから携帯電話の時代となり、そしてインターネットが普及した。
 だけど、僕にとってそれは「言われてみりゃたしかにそうだったね」という事実の確認でしかなかったのである。これだったら「滝山コミューン一九七四」とか「1984年の歌謡曲」のほうがはるかに自分の精神に肉薄したななどと思った。

 だからこの本はハズレだったかというと、そういうことを言いたいのではないのである。気になったのは、本書に覚える遠巻き感覚の正体はいったいなんでなんだろうということだ。これを思考するに、その時々の時事・社会・風俗といった時代の事象的側面と、自分という個人的な身体の間には、単なる事象と身体が直接につながっているのではなく、事象と身体のあいだをつなぐ「感情」というものがあって、個人の記憶というのはその「感情」に強くひもづいているからではないかと思い至った。「滝山コミューン一九七四」が強烈に僕にヒットしたのは、「滝山コミューン一九七四」の舞台である日教組に支配された小学校が描き出す著者の気分や感情が、当時の自分のそれと気持ち悪くなるくらいに同じだったからだし、「1984年の歌謡曲」はかの年のヒット曲を歌詞や当時の演出光景含めて次々と文章で再現させるその著者の手腕が、歌番組をよく観ていた当時の自分の感興を掘り起こしたからだ。
 追想とは、事象の確認ではなくて感情の確認なのだなということに改めて気づいた次第である。
 
 もちろん、本書「1973年に生まれて」も、往時往時の著者の感情が記されている。だから、そうそう、そうだったんだよと膝をうつ読者もたくさんいるに違いない。単にこの感情部分が僕のそれと違う世界線だったということである。たぶん著者と僕は同世代ではあるけれど、かなり違う気分をもってこの50年間を生きてきたんだろう。クロニクルを面白く思ってもらうのは単に同年代というだけではなく、気分が共有できないと意外と難しいのだなということを知った。同年代ネタで盛り上がろうとするときに気をつけなければならない部分である。
 
 もちろん著者は単なるエッセイストではなく時代評論家でもあるので、本書は単に感情の共感を求める本ではなく、1973年生まれつまり「団塊ジュニア世代」について考察しており、それは一目に値する。なんにも特色がなくてダウナー気味といわれる「団塊ジュニア世代」だが、この見立ては作られたステレオタイプなのであって、実は案外にも浮かれた世代なのであるということを著者は看破している。失われた30年間に社会に出ることになった世代なので、構造不況やいびつな人口構成の影響をもろに受けているのは事実だが、当の世代は「世の中はこんなもの」というものが初期設定されているから、他世代から同情されるような悲壮感は実はあまりない。入れ替わりものや転生ものみたいに、他世代の人生を経験することができたらいろいろ驚くのかもしれない。
 

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美しき愚かものたちのタブロー‣指導者の不条理‣海と毒薬‣イワン・デニーソヴィチの一日

2023年08月01日 | 複数覚え書き
美しき愚かものたちのタブロー‣指導者の不条理‣海と毒薬‣イワン・デニーソヴィチの一日
 
 
 すこし更新が滞った。読んではいるのだけど、どうもこちらにまとめようとするとうまくオチなかったり、整理できなかったりしている。
 というわけで、いったんこちらにまとめて記録。そのうちサルベージしてちゃんと書くかもしれない。
 
 
美しき愚かものたちのタブロー (ネタバレ)
原田マハ
文藝春秋
 
 東京の上野にある国立西洋近代美術館に所蔵されている美術品の中核をなすのは松方幸次郎コレクションだ。極東にある西洋美術館といって侮れない。松方コレクションの質量は、実は世界的に見ても遜色がない。もちろんルーブルやメトロポリタンのような膨大な所蔵数は要していないものの、その粒揃い度としては決して悪いものではない。
 しかし、当初の松方コレクションは現状よりももっと膨大だった。松方がヨーロッパで絵画を買い付けしてから、現在に至るまでは二度の大戦があり、これらのコレクションの命運には幾多のドラマがあった。
 といった史実をベースに、フィクションを大なり小なり混ぜて、このコレクションに関わった人物たちの小説にしたのが本書。実は定評ある原田マハを僕は読んだことがなく、本書が初めてであった。冒頭からしばらくは人物描写が類型的で陰影がなく(豪胆な人はどこまでも豪胆な人、暗愚な人はどこまでも暗愚な人)、ダレ気味なところがあって読むのをやめようかと思ったが、中程で日置釘三郎が登場するあたりから面白くなってきた。この小説は、松方幸次郎をはじめ何人もの人物が出てくるが、白眉は第二次世界大戦中に松方コレクションの命運を背負った日置釘三郎だろう。これもフィクションが多いに交じっていて本小説のどこまでが史実なのかちょっとわからないが、あまり資料が残されていない人物のようだ。ただ、この人が松方コレクションを守ったのは事実だ。事実は小説より奇なりというが、この人はほんとどうやってナチスの支配を逃れたのだろうか。この人のことだけをもっとクローズアップした物語を見てみたい。
 
 
指導者の不条理
菊澤研宗
PHP研究所
 
 名著「失敗の本質」にケンカを売った「組織の不条理」でメジャーデビューした著者もあれから幾星霜。野中郁次郎とも邂逅し、研鑽も積んで最新の境地が本書とのこと。カントの「理性批判」を引き合いに出すところまで至った。そのココロは、組織は合理的な判断を繰り返すと最後は腐敗するという宿命があり、それを克服するには組織のリーダーに合理的判断を超える道徳的判断が必要ということ。野中郁次郎が提唱する「共通善」とも近い話だ。確かにそうかもしれぬ。組織のトップに上がり、そこで君臨するということは、基本的に頭がよくないとできない。しかし「頭がよい」というのはなかなか厄介で、世の中の変化は個人の頭の良さの手に負えない状況をしばしば作り出す。そこで従来頭の良いそのトップリーダーは合理的判断をするのだが、まあたいていの人間は自分を含めた目下の立場を守ることを最優先になるよう判断し、なまじ頭がいいだけに妙な理屈やロジックやその場の切り抜けを考え付いちゃうのである。目下、中古車ビジネスのビッグモーターの不祥事が世をにぎわせているが、あの創業者一族はかなり頭がよかったのだろう。
 それにしても本書がケンカをうったのは、あの山本七平の「『空気』の研究」である。この著者、永遠のチャレンジャー男なんだろうか。
 
 
 
海と毒薬
遠藤周作
講談社
 
 名作の誉れ高い作品である。もう十分に古典かもしれない。
 ここでも書いたけれど、遠藤周作という人は、戦後昭和を代表する小説家である。その作品の幅はかなり広くてこれぞ文学芸術というものもあれば、とてもセンチメンタルな大衆娯楽的なものもあった。ただ、この人は非常に技巧家というか、たいしたことがない話でも炎の名作のように書き立ててしまう筆の立つところがあるなと思っていた。浅田次郎は遠藤周作の系譜の先にあるというのは僕の与太話である。
 絵画でいえばドラクロワのようなとでも言おうか、温度や湿度まで感じさせるような描写は、映画を見ているごとくその世界に引き込まれるが、その美文が目くらましになって、作品テーマのかんじんなところが実はかえって見えにくくなることがあるかもしれない。もちろん本作「海と毒薬」は遠藤周作の初期代表作だけに、その中身についても十分に鑑賞・議論されているわけだが、本作のテーマが人間の罪と罰、原罪、陳腐な悪といった哲学的命題というものを持っていたにもかかわらず、「捕虜の生体実験」というスキャンダラスな犯罪の告発としてとらわれてしまうきらいがあったというのは、この感情移入させまくりの描写にもあるんだろうなと思った。
 反対にプロットだけ借りてヘミングウェイのような、あるいは安部公房のような文体でこの話を綴ったら、どうにもできない人間のもつ不条理さが浮かび上がる小説になったかもしれない。こういう実験ってAIの今日やってみると面白いかもしれない。
 
 
 
イワン・デニーソヴィチの一日
ソルジェニー・ツィン
新潮社
 
 さしずめ「強制収容労働施設版ていねいな暮らし」といったところか。小説ではあるが、著者の実体験がベースになっている。
 太平洋戦争後のシベリア抑留でも多くの日本人が犠牲になったソ連の強制収容労働施設ラーゲリは、社会主義政治手法の悪名高き仕組みのひとつだ。単純な犯罪というよりは、政治犯思想犯あるいは戦争捕虜から抵抗勢力とされたかなり多くの人物がここに送り込まれた。その毎日の過酷さは想像を絶するものがある。本小説の主人公シューホフはここで10年間収容されている。
 凄惨きわまる強制収容所の日々に生きる望みを見出す、といえば名著「夜と霧」がある。「夜と霧」で著者フランクルが記したのは「生還してやりたいこと」をもつ希望であった。与えられてしまったこの人生をどう試すのかは自分次第である、という意思であった。
 「夜と霧」は語り継がれる名著であり、日本ではロングセラーだが、一方この「イワン・デニーソヴィチの一日」はそこまで知られていない。ノーベル文学賞を受賞していて文学界では名作の地位を得ているかもしれないが、「夜と霧」のほうな絶対的教養の書のような地位にはない。
 だけど、「夜と霧」だけではない。そういうやり方で生き過ごす幸福の作り方もあるのだ、というのを本書は示唆している。主人公のシューホフは、自分の裁量と工夫の余地をつくることに幸福の手がかりを見つけている。実はこれが幸福感を左右する因子なのだとすることは、ユヴァル・ハラリが「サピエンス全史」で挙げていた原始時代の人間と、現代の人間が人生に「幸せ」を感じる程度はそこまで変わらないのではないかという仮説や、今日的議題であるWell Beingの話などとも絡みそうだとは予感していて、ここらあたりをちゃんと解題しようかなと思ってるのだけど、どうもうまくまだ整理できていないのでいったんここで匙投げ。

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