スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天龍の雑感⑲&事前の調整

2024-04-24 19:08:51 | NOAH
 天龍の雑感⑱の最後のところでいった馬場の指導については,天龍源一郎が何かを具体的に語っているわけではありませんから,僕の方から補足します。
 馬場は身体の大きな選手と小さな選手の差異を,飛行機で喩える場合がありました。身体の大きな選手がジャンボジェット機であるとすれば,小さな選手は小型機であるというようにです。ジャンボジェットと小型機では,初動には差があります。加速は小型機の方が早いですし,トップスピードに乗るのも小型機の方が時間が掛かりません。つまり,身体の小さな選手の方が早くプロレスに順応することができるし,トップクラスで戦えるようになるのです。これに対してジャンボジェット機は,初動の加速は鈍く,トップスピードに乗るまでに時間を要しますが,トップスピードに乗ってしまえさえすれば,小型機よりもずっと速いスピードで飛ぶことができます。つまり,身体の大きな選手はプロレスに順応するのに時間を要し,トップクラスで戦えるようになるまでにも時間を要しますが,トップクラスで戦えるというところまで来ると,身体の小さな選手を凌駕するようなレスラーになれるのです。
 三沢光晴秋山準は,全日本プロレスに入団してからそれほど時間を掛けずにデビューしています。それはもちろんこのふたりはアマレスでの基礎がしっかりしていたからということもあるでしょう。しかし一方で,身体がそれほど大きいいわけではなかったので,プロレスに順応するのが早かったから,早い段階でデビューすることができた,いい換えれば馬場がデビューにゴーサインを出したということがあったようにように思われます。
 ここから理解できるように,初動の加速に差異があるのだから,身体の小さな選手がすべき練習と,身体が大きな選手がすべき練習の間にも差があるべきだと馬場は考えていました。実際に馬場がそれぞれにどのような練習を指導していたのかは分かりません。ただ,馬場はそれをたぶん分けて指導していたのではないかと思います。そしてそれができたのは,あるいはこのような考え方ができたのは,馬場自身が稀有に大きな身体をしていたからだと思います。とくに身体の大きな選手には適切な指導が求められるのであって,そこで失敗してしまうと大成することはなかなか難しいのでしょう。

 面会するとなると,事前に日時の調整をするのが自然です。もっともこの場合は,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはパリからハノーファーへ戻る中途の旅路でしたから,面会しようと思えばいつでも会える状況にあったといってよいでしょう。だからといって何のアポイントメントもなしにレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookやスピノザを訪問したとしても,相手が会ってくれるとは限りませんし,多忙で面会できる状況にないかもしれません。ですからレーウェンフックのときもスピノザのときも,ライプニッツは事前に日時の調整を行っていた筈です。ナドラーSteven Nadlerはレーウェンフックについては何も書いていませんが,スピノザについてはシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから報知を受けていたといっていますので,スピノザもライプニッツと会う準備をしていた筈です。なので,レーウェンフックと面会できる日時が,スピノザを訪問する日時に近ければ,アムステルダムAmsterdamからデルフトDelftに行き,そのままハーグDen Haagへ向かうのが自然ですが,日時に乖離が生じてしまった場合は,デルフトでレーウェンフックに会った後,一旦はアムステルダムに戻るという,非合理的な行程を,仕方なく組まざるを得ないケースが生じ得ます。なので『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,そのまま解するとライプニッツの行程はきわめて非合理的であったと解せるようになっていますが,事実としてその通りであった可能性も残ります。
                                        
 フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,ライプニッツはハーグでスピノザを再三にわたって訪問したと書かれています。つまり,ライプニッツとスピノザの面会は,1度ではなかったということになります。このことはライプニッツ自身が,繰り返し,長い時間にわたって話し合ったという主旨のことをいっていることから確定することができます。ということは当然ながらライプニッツは,何日間かはハーグに滞在したことになります。ナドラーはそれを数週間といっていますが,この部分はおそらくという推測の形で記述されていますから,そのまま史実と確定することはできません。とはいえ何の根拠もないような推測ではあり得ませんから,少なくとも2週間はハーグにいたと考えてよいでしょう。
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ゴールド・ウイング賞&行程

2024-04-23 19:00:46 | 競輪
 西武園記念の決勝。並びは真杉‐坂井の栃木,黒沢‐森田‐平原‐武藤‐一戸の埼玉,深谷に稲川。
 スタートを取りに出たのは深谷と坂井。深谷が誘導の後ろに入って前受け。3番手に真杉,5番手に黒沢で周回。残り3周のバックの半ばから黒沢がゆっくりと上昇を開始。ホームで外の方から深谷を叩き,バックでは埼玉の5人が前に出て,打鐘前から黒沢が全力で駆けていきました。叩かれた深谷が6番手で真杉が8番手の一列棒状。ホームに入って車間を開けていた森田がホームの出口から早くも番手から発進。バックで深谷が発進すると武藤が牽制しさらに平原も牽制。稲川は両者の内に潜り込みました。直線に入って平原が森田を抜きにかかりましたが,立て直した深谷と後方からの捲り追い込みになった真杉も強襲。大外の真杉が差し切って優勝。深谷が1車輪差の2着で平原は半車身差の3着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は競輪祭以来の優勝。記念競輪は昨年の宇都宮記念以来となる4勝目。西武園記念は初優勝ですが,昨年のオールスター競輪を当地で制しています。このレースはラインの構成が歪になったので,さすがに脚力で上位の深谷や真杉よりも埼玉勢の方が有利ではないかと思っていました。黒沢がわりと楽に前を叩き,邪魔をされずに5人が前に出たのですから,展開としては絶好だった筈です。ただこれは結果論かもしれませんが,森田が番手から発進していくタイミングが早すぎたのではないでしょうか。また,平原も深谷の牽制は武藤に任せ,そのまま発進してしまった方がよかったように思います。こうしたことが積み重なって,道中はまったく脚を使わずに後方からの捲り追い込みになった真杉が届いたということでしょう。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,アムステルダムAmsterdamに滞在していた1ヶ月の間にライプニッツデルフトDelftまで行ってレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookと面会し,その後にハーグDen Haagのスピノザを訪問したというように読めます。この場合はライプニッツはアムステルダムからデルフトに向かい,またアムステルダムに戻ってからハーグに行ったということになります。ただ,デルフトというのはアムステルダムよりハーグに近い場所です。だから『フェルメールとスピノザBréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza』では,デルフトをこよなく愛したフェルメールJohannes Vermeerと,ハーグ近郊のフォールブルフVoorburgに住んでいたスピノザとを結びつける要素のひとつとなっています。なので,当時の移動の労力を考慮すれば,このライプニッツの行程は著しく不合理に感じられます。アムステルダムを離れてデルフトへ行ったのなら,そのままハーグに向かう方が自然だからです。
                                        
 書評で指摘したように,『ある哲学者の人生』は原文のほぼ直訳なので,直訳するとこのようになるのですが,ライプニッツが僕の示したような自然な行程で移動したということを,否定するような文章になっているわけではありません。なので実際は,レーウェンフックを訪問してそのままアムステルダムには戻らずにスピノザを訪問したのかもしれません。また,マルタンJean-Clet Martinは,ライプニッツは先にスピノザと会って後にレーウェンフックと会ったと記述していますが,ナドラーSteven Nadlerの記述はそれをも否定する文章であるわけではありません。レーウェンフックに会ったことが確定的に書かれていて,その後にスピノザを訪問したときのことが書かれていますから,素直に文章を解すれば,デルフトが先でハーグは後になります。ナドラーがそのような意図で記述しているのなら,『フェルメールとスピノザ』は歴史的事実を明らかにしようとしているわけではなく,マルタンの推理を展開している書籍ですから,たぶんマルタンがいっていることよりナドラーがいっていることの方が事実であったと僕は判断します。
 なお,ライプニッツは観光をしていたわけではなく,レーウェンフックおよびスピノザと面会することを目的としていました。ですから行程が非合理的で不自然になってしまう場合もあり得ます。
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シャートフ&アムステルダム滞在

2024-04-22 19:29:57 | 歌・小説
 『ドストエフスキー 黒い言葉』の第十一章3節で,シャートフにとってのキリスト教がどのようなものであったのかということに関する考察がなされています。『悪霊』に登場する人物のうち,シャートフについてはこのブログではまだ詳しく説明していませんから,先にシャートフがどのような人物として『悪霊』に登場しているのかということを説明しておきましょう。
                                        
 『悪霊』の主人公はスタヴローギンですが,スタヴローギンというのは裕福な家庭の育ちであって,下僕がいます。シャートフはスタヴローギンの一家に使える下僕の息子という設定になっています。物語上の設定での年齢ははっきりとしませんが,亀山は27歳か28歳であるとしています。これは何らかの根拠があってのものだと思われますので,僕もそのように解釈します。学生時代に社会主義思想に接触したシャートフは,その思想の虜となります。つまり学生時代は社会主義者であったと理解して間違いありません。ただし後に転向して,亀山がいうところのロシア・メシア思想に心酔するようになりました。僕の解釈ではシャートフは民族主義者なのですが,亀山がいうロシア・メシア思想というのは,ロシア民族の他民族に対する優越性を含んでいると解することができますから,亀山によるシャートフ像と,僕のシャートフ像の間には,相違よりも一致が多くみられるというように理解してもらって大丈夫なのではないかと思います。このシャートフの民族主義が,神と結びついていくのですが,このことはまた別にみていくことにします。
 このロシア・メシア思想というのが重要なのは,ドストエフスキー自身の思想と関係していると思われる点です。ドストエフスキーはロシアの大地ということを自身の思想としてもまた小説の中でも力説することがあるのですが,それはある意味ではドストエフスキーによるロシア・メシア思想であるといえなくもないからです。亀山はシャートフという人物はドストエフスキーの最晩年の思想的境地を先取りするといっていて,この時点ではドストエフスキーはそうした境地に達していなかったとみているわけですが,僕は必ずしもそうとはいえないのではないかと思います。たとえば『罪と罰』でソーニャがラスコーリニコフに大地にキスをするように要求するとき,地球の大地ではなくロシアの大地という意味が含まれているとみることもできると思うからです。

 テムズ川で足止めされてしまったライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,その間に言語,自然学,数学についてのいくつかの小論を執筆し,スピノザとの面会に備えて一連の覚書と質問事項を準備したと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。ナドラーSteven Nadlerは,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは何らかの方法で『エチカ』の手稿をライプニッツに見せたので,ライプニッツはその内容のほとんどを知っていたと想定しています。ただ,ナドラーは史実として確定している出来事に関しては断定的に記述するのですが,この部分はそうとしか思われないという記述になっていますので,史実として確定する必要はありません。実際にナドラーはこの部分に注解をつけていて,そこにはフリードマンGeorges Friedmannによる,この頃にはライプニッツは『エチカ』の内容にほとんど精通していなかったという見解が示されています。僕はナドラーよりもフリードマンの見解に近く,チルンハウスはライプニッツに『エチカ』の手稿を見せなかったどころか,それを自身が所持しているということさえ教えなかったのではないかと想定していますが,僕の想定もあり得るということは,ナドラーは全面的には否定しないと思われます。
 ライプニッツはこの後でオランダに到着したのですが,すぐにスピノザと面会したわけではなく,アムステルダムAmsterdamに1ヶ月ほど滞在しました。ナドラーはその間にライプニッツがフッデJohann Huddeと会ったこと,そしてシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったことを確定的な出来事として記述しています。このときにシュラーは書簡十二をライプニッツに見せ,ライプニッツは後にそれに批評を加えています。書簡十二はマイエルLodewijk Meyerに宛てられたものですが,この書簡は「無限なるものの本性について」という副題がついた有名なもので,少なくともスピノザと親しかった関係にあった人たちの間では回覧されていたものでした。このときにシュラーが見せたのは,マイエルに宛てられた書簡そのものではなく,その書簡を書写したものだったと推測されます。それをシュラーが所持していることは何ら不思議ではありません。
 ライプニッツはこの後,デルフトDelftに向かって,レーウェンフックAntoni von Leeuwenhookを訪問したことも確定的な出来事として記述されています。
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叡王戦&チルンハウスとライプニッツ

2024-04-21 19:42:56 | 将棋
 片山津温泉で指された昨日の第9期叡王戦五番勝負第二局。
 伊藤匠七段の先手で後手の藤井聡太叡王の3三金型の角換り。先手が1筋の位を取っている間に後手が早繰り銀から先攻する将棋になりました。
                                        
 ここから後手は☖6六飛☗同歩と飛車金交換をしてから☖8七歩成としました。
 先手は☗2四歩☖同歩の突き捨てを入れてから☗8七金とと金を払いました。
 後手は☖4五銀と攻めを継続。☗同銀☖同桂に☗同馬に☖2八角成と飛車を取りました。しかし☗4四歩が厳しく,先手が攻め合って勝てる局面になりました。
                                        
 第2図は2筋の突き捨てが入っていることと,6七の地点が開いていることが形勢に大きく影響しています。なので後手は第1図で飛車を見捨てて先手から取らせることによって1手を稼ぎ,その間に攻めていくべきだったことになります。感想戦では☖2七銀が有力だったと結論されています。また単に☖8七歩成も,先手がまだ飛車を入手していない関係で2筋の突き捨てが入らない可能性が高く,有力であったと思われます。
 伊藤七段が勝って1勝1敗。第三局は来月2日に指される予定です。

 書簡七十では,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはきわめて学殖が高く,諸種の科学に精通し,神学に関する世間並の偏見に捉われていないというように紹介され,そのライプニッツとチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは親しい交際に入っていると書かれています。さらにライプニッツに対する称賛が重ねられた上で,ライプニッツに『エチカ』の手稿を読ませることの打診がなされています。つまり,チルンハウスとライプニッツが会ったばかりであるということは考えられません。また,チルンハウスからシュラーGeorg Hermann Schullerへの書簡が届いてすぐにシュラーがスピノザに書簡七十を書いたのだとしても,チルンハウスが書いた手紙がシュラーの手許に届くまでにそれなりに時間を要したことでしょう。なので,書簡七十が1675年11月15日付になっていることからして,チルンハウスがパリに到着したのが11月だったとは僕には考えられません。ですからチルンハウスがパリに到着したのは,早ければ1675年の8月のうち,遅くとも同年の10月だったと僕はみます。
 ライプニッツがハノーファーに戻るためにパリを発ったのは,1676年10月です。これ以降はライプニッツはパリに戻っていません。つまり,チルンハウスとライプニッツが親しく交際していたのは,およそ1年だったことになります。
 パリを発ったライプニッツはイギリスに渡り,1週間ほどロンドンに滞在しました。この間にオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会しています。これはスピノザからオルデンブルクに宛てた手紙を筆写し,後に批評を加えていることから歴史的事実と確定することができます。これはおそらく書簡七十三,書簡七十五,書簡七十八などのことでしょう。以前にもいったかもしれませんが,この当時の書簡というのは,後々に公開する文書という意味合いがありました。だからスピノザの往復書簡集も遺稿集Opera Posthumaの一部として刊行されたのです。なので自身に宛てられた書簡を,スピノザに無断でライプニッツに見せたからといって,オルデンブルクが責められるべきことではありません。
 この後,ライプニッツは船に乗ってオランダを目指しましたのですが,強風の影響でテムズ川で足止めされてしまいました。
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書簡十三&チルンハウスとシュラー

2024-04-20 19:11:52 | 哲学
 スピノザがデカルトRené Descartesの物理学の影響を受けていた一例を示している書簡十三は,1663年7月27日付で,書簡十一の返信としてスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに出されたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                                        
 この書簡の最初の部分に,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の出版の経緯が書かれています。これは返信が遅れた事情の説明のために付せられたのですが,もしかしたらこれがないと出版の事情の詳しいことは後世に残らなかったかもしれません。
 書簡の本文の全体は,ロバート・ボイルRobert Boyleの実験に関連する事項で占められています。その中に,デカルトと関連する事柄が含まれています。
 スピノザはこれより前に,硝石の粒子はより大なる孔においてはきわめて微細な物質によって包まれるということを,真空vacuumすなわち空虚vacuumは存在しないということから論証しました。スピノザがそのように論証しているということはボイルも理解しています。ところがボイルは空虚の不可能性を,仮説としています。スピノザはこの点を不審に考えています。というのはボイルは実在的な偶有性,この偶有性というのはスコラ哲学の用語で,たとえばものの色とか匂いというような性質を意味しますが,スコラ学派ではこの偶有性は実体substantiaから離れた実在性realitasを有するとされていて,これが実在的偶有性といわれ,ボイルはその実在的偶有性を否定しています。それを否定するnegareという点でボイルはスピノザやデカルトと一致するのですが,そうであるなら空虚の不可能性を疑うのはおかしいとスピノザは考えるのです。実体なき量が存在するなら実在的偶有性は存在することになるので,偶有性の実在性を否定するならば実体なき量が存在するということを否定することになり,それは空虚の存在を否定するのと同じことだとスピノザは考えるのです。
 もうひとつ,ボイルは自身がデカルトを非難しているとは思っていなかったようですが,ボイルが書いたことと『哲学原理Principia philosophiae』を読み比べれば,ボイルがデカルトの名誉を傷つけないような仕方で,いい換えればボイルの哲学する自由libertas philosophandiに基づいて,デカルトを非難しているのは明白だとスピノザはいっています。ボイルはデカルトのことをおそらく頭に入れずに書いたのですが,それがスピノザはデカルトへの非難と受け止めたということです。いい換えればそれは,ボイルがデカルトの影響を受けていないのに対し,スピノザは受けていたということになるでしょう。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが訪問するという通知をスピノザがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受け取っていたということは,当然ながらチルンハウスはライプニッツがスピノザを訪問するということを知っていたということを意味します。ここでもう一度,これを時系列で追っていきましょう。
 チルンハウスがパリに到着したということをスピノザに伝えている書簡は書簡七十です。これはシュラーGeorg Hermann Schullerからのもので,1675年11月15日付です。パリに着く前にチルンハウスはイギリスを訪ねていて,そこでオルデンブルクHeinrich Ordenburgそしておそらくはロバート・ボイルRobert Boyleと面会しています。この面会で途絶えていたスピノザとオルデンブルクとの間の文通は再開したのですが,オルデンブルクからスピノザに宛てられた書簡六十一は,1675年6月8日付ですでにスピノザに届いています。つまりこの前にチルンハウスはロンドンでオルデンブルクと面会したことになります。
 書簡七十には,チルンハウスからの手紙が3ヶ月も途絶えていたので,イギリスからパリへ移る中途で何かよくないことが起こったのではないかとシュラーは心配していたという旨の記述があります。これは,チルンハウスとシュラーの間では,3ヶ月の書簡の不通でシュラーが心配するくらいの書簡のやり取りがあったということを意味する重要な資料だといえます。そしてシュラーは,今,手紙が来たといっていますから,書簡七十は,3ヶ月ぶりの書簡がチルンハウスからシュラーに届いてすぐに出されたものだと分かります。この書簡の中に,パリに到着したチルンハウスがすぐにホイヘンスChristiaan Huygensと会ったことと,ライプニッツにも出会い,『エチカ』の手稿を読ませることの許可を求めているということが書かれているわけですから,実際にチルンハウスがパリに到着したのは,チルンハウスからの書簡がシュラーに届くよりもある程度は前のことだったでしょう。ただしどんなに早くても3ヶ月前ですから,1675年8月より前だったということはあり得ません。書簡六十一が6月8日付ですから,8月にはチルンハウスがパリに到着していたという可能性はあり得ます。書簡七十の内容から,11月ということはないと思われます。
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マイナビ女子オープン&ステノの赴任

2024-04-19 19:07:56 | 将棋
 17日に甲府で指された第17期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 大島綾華女流二段の先手で西山朋佳女王の角道オープン四間飛車。角交換向飛車に進展しました。中盤でうまく戦機を掴んだ先手が優位に進める将棋に。
                                        
 5三にいた銀が逃げた局面。先手は☗6二歩と打ちました。
 後手の反撃は☖6六歩で☗6八金☖7五歩☗8七銀に☖6五角。
                                        
 実戦はここで☗5二銀不成と銀を逃げながら攻めましたが,☖同銀☗同飛成に☖5一歩がうまい受けで後手の勝ちとなりました。
 第2図で☗5四歩が有力のようなのですが,☖5六金で後手が勝ちと感想戦で結論が出ています。
 ということは第1図で☗6二歩と打ったのが手筋のようであまりよくなく,先に☗5二銀不成か☗5四歩としておかなければならなかったということになりそうです。
 西山女王が連勝。第三局は来月12日に指される予定です。

 ステノNicola Stenoが司祭になったのは1675年というものと1677年としているものがあります。僕にはどちらが正しいか分かりません。また,1675年でいわれている司祭と,1677年でいわれている司祭が,実は違う役職のことを意味していて,どちらも正しいという可能性もあります。なのでこの点については確定的なことはいいませんが,1677年に司祭になっているということは確実視してよいでしょう。
 司祭になったステノはドイツに赴任して,カトリックの布教に従事したのです。それが1677年からということは,史実として確定させてよいようです。なので,ステノがドイツで従事したのが1677年の初めからであれば,スピノザが死んだときにステノはドイツにいたことになり,ハノーファーに戻っていたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizと知り合って一緒に仕事をしていたという可能性が残ることになります。僕は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の当該部分でステノとライプニッツの関係について言及されている部分は脚色であると考えますが,脚色としてはスチュアートMatthew Stewartはこのことを利用しているということができるでしょう。ステノがドイツに赴任してからライプニッツと知り合うということはあり得ないわけではなく,だからライプニッツとステノが一緒に仕事をしていたということはともかく,ふたりの間に何らかの関係があったということまで全面的に否定する必要はないのかもしれません。
 『エチカ』の手稿に弾劾書を付してステノが異端審問所に告発したのは1677年9月23日でした。なのでこのときにはステノはローマにいたのです。このときにステノがローマにいたのは,まだドイツに赴任する前であったからだと僕には思えます。ですから,ハノーファーでライプニッツとステノが,スピノザが死んだときに一緒に仕事をしていたということは脚色であると僕は考えるのです。
 ライプニッツがスピノザを訪問したとき,スピノザは訪問の報知をシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受けていた筈だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に記述されています。こちらの本は純粋な伝記ですから,ナドラーSteven Nadlerの創作や脚色が含まれているというようなことは心配する必要がありません。
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しらさぎ賞&ハノーファー

2024-04-18 18:58:33 | 地方競馬
 高知から1頭が遠征してきた第62回しらさぎ賞
 大外からボヌールバローズがハナを奪いました。1馬身ずつの間隔で,ラビュリントス,ツーシャドー,ジゼル,サダムスキャットの順で続き,2馬身差でリコシェ。7番手にサーフズアップ。この後ろはトキノゴールドとジュネスとカラフルキューブ。アイゴールドが続き,プリーチトヤーンは大きく離されてしまいました。最初の600mは35秒8のハイペース。
 3コーナーを回るとボヌールバローズにツーシャドーが並び掛けていき,向正面で動いたジゼルがその外。内を回ったのがサダムスキャット。直線に入るとボヌールバローズとツーシャドーの競り合いになり,ボヌールバローズの内からサダムスキャット。4コーナーで外に膨れてしまったジゼルは大外から追ってきました。ボヌールバローズを競り落としたツーシャドーがそのまま抜け出して優勝。内を突いたサダムスキャットが2馬身差で2着。大外のジゼルがアタマ差の3着で,一杯になったボヌールバローズが半馬身差で4着。
 優勝したツーシャドーは南関東重賞初制覇。前走はこのレースのトライアルで,ジゼルの3着。3走前に東京シンデレラマイルのトライアルを勝っていて,そのときの2着がサダムスキャットでしたから,上位3頭が力を出した結果といえそうです。ただこのレースはそれほどレベルが高かったというわけではないので,上位3頭が今後も南関東重賞で活躍できるのかは不分明なのではないでしょうか。父はダノンレジェンド。母の父はサウスヴィグラス。祖母の父がバブルガムフェロー。曾祖母の父は1989年のJRA賞で最優秀父内国産馬に選出されたバンブービギン
 騎乗した大井の和田譲治騎手は京成盃グランドマイラーズ以来の南関東重賞16勝目。しらさぎ賞は初勝利。管理している浦和の小沢宏次調教師は開業から10年8ヶ月で南関東重賞初勝利。

 オランダで優勢だったのはプロテスタントのカルヴァン派で,カルヴァン派の有力者で知己の人物というのはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにもいなかったかもしれません。しかしスピノザの遺稿集Opera Posthumaの発刊を阻止したかったのは,カルヴァン派だけでなかったということは,カトリックであったステノNicola Stenoが『エチカ』の手稿を異端審問所に持ち込んだことから明白です。ですからカトリックとしては,発刊された後にそれを禁書として指定するよりも,発刊そのものを阻止できればなおよかったことでしょう。ライプニッツはそうした希望に沿うようなこと,つまり遺稿集の発刊の阻止に協力することができる立場であったのですが,そうしなかったのです。そして発刊された遺稿集を入手したライプニッツは,『エチカ』の研究に勤しんだのですから,ライプニッツが発刊を望んでいたことも疑い得ません。だから仮にステノとライプニッツが一緒に仕事をしていたとしても,ライプニッツはステノの希望には素知らぬふりを続けたでしょう。なのでこのエピソードは,脚色であったとしてもよくできたものであると僕は考えます。
                                        
 それからもうひとつ,このエピソードの挿入には指摘しておかなければならないことがあります。
 スピノザが死んだのは1677年2月です。そのときはライプニッツはパリにいたわけではありません。かつてスピノザと文通していた頃のライプニッツは,書簡七十二でいわれているようにフランクフルトの顧問官でした。だから書簡四十五はフランクフルトから送られています。その後でパリで仕事をするようになったライプニッツは,ドイツに戻るように命を受けました。たぶんライプニッツはパリにい続けたかったので,理由をつけて帰国を拒んでいたのですが,強い命令でどうしても戻らなければならなくなりました。しかしすぐに帰らず,ロンドンを経由してからオランダに入り,ハーグにスピノザを訪問したのです。これが1676年のことで,その後でライプニッツはハノーファーに戻っています。だからライプニッツはハノーファーでスピノザが死んだという連絡をシュラーGeorg Hermann Schullerから受けたことになります。つまりこの脚色はハノーファーにおける出来事です。
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アイドリームドアドリーム&脚色

2024-04-17 19:06:03 | 血統
 大阪杯を勝ったベラジオオペラの輸入基礎繁殖牝馬は,4代母で1987年にアメリカで産まれたアイドリームドアドリームです。ソネラ,クヰックランチと祖を同じくするファミリーナンバー4-rの分枝。
                                        
 アメリカで1頭の産駒を産んでから輸入されました。日本での初産駒はエアデジャヴー。1998年にクイーンステークスを勝ちました。
 エアデジャヴーが繁殖牝馬となって初めて産んだのがエアシェイディ。2008年にアメリカジョッキークラブカップを勝っています。
 そのひとつ下の全妹がエアメサイア。2005年にローズステークスと秋華賞を勝っています。
 エアメサイアも繁殖牝馬になりました。2013年の産駒がエアスピネル。2015年にデイリー杯2歳ステークスを勝つと,2017年には京都金杯と富士ステークスを勝ちました。
 エアスピネルのひとつ下の全弟はエアウィンザー。2018年のチャレンジカップの勝ち馬です。
 エアメサイアのひとつ下の全妹はJRAで4勝。繁殖牝馬となって2011年に産んだのがエアアンセム。2018年に函館記念を勝ちました。
 エアアンセムのひとつ下の半妹は競走馬としては1勝。この馬がベラジオオペラの母です。
 エアデジャヴーのふたつ下の半弟はエアシャカール。2000年に皐月賞と菊花賞を制覇。この一族の最初の大レースの勝ち馬がこの馬です。
 エアシャカールのひとつ下の全妹は競走馬としては2勝。繁殖牝馬となり,2014年に鳴尾記念と毎日王冠を勝ったエアソミュールの母になっています。
 このように活躍馬が続出している一族。最近はやや活力が薄れている感がありましたが,3頭目の大レースの勝ち馬が出ました。まだ継続していきそうな一族です。

 仮にスチュアートMatthew Stewartがいっていることが事実であったとしてみましょう。その場合,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがローマにいてステノNicola Stenoと知り合ったという部分が怪しくなります。チルンハウスは,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の手稿を読ませてもよいのではないかと考えたのです。それはつまり,ライプニッツとチルンハウスはそれくらい親しかったことを意味します。ですからもしもステノがライプニッツと一緒に仕事をしていたのであれば,ステノとチルンハウスもどこかで知り合っていた可能性があるからです。なのでこの場合は,ステノが何らかの画策で『エチカ』の手稿を入手したのはローマではなく,それをステノがローマにもっていったという可能性まで想定しておかなければならないでしょう。チルンハウスがローマにいたということは,『スピノザー読む人の肖像』では確定的に記述されていますが,これを史実としてよいという情報は示されていませんので,そういう可能性がまったくなかったとは僕はいいません。
 しかし,スチュアートがいっていることはたぶん史実ではありません。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』は元来は脚本として書くことを意図されていた内容であって,そこにはおそらくスチュアートの脚色が入っていて,この部分はおそらくそのひとつであると僕は思います。ステノとライプニッツが一緒に仕事をしていたという情報を僕はほかに知りませんし,そもそもステノがこのときにライプニッツと一緒にいたことも疑わしいのです。
 あらかじめいっておいたように,この部分はライプニッツはスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊されるのを楽しみにしていたというエピソードとして,たぶん創作されています。ただこの脚色は,脚色としてはよくできたものだとは思います。仮にステノとライプニッツが一緒に仕事をしていて,それならライプニッツはステノに,スピノザの遺稿集の出版の準備が進んでいて,その編集をしているのがだれであるのかということを教えたのかといえば,やはり教えることはなかったであろうからです。ライプニッツはカトリックとプロテスタントの統一を真剣に考えていたくらいですから,教会の有力者の知人がまったくいなかったとは考えられません。
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マイナビ女子オープン&ステノの役割

2024-04-16 19:08:14 | 将棋
 9日に鶴巻温泉で指された第17期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女王が1勝,大島綾華女流二段が0勝。
 マイナビの社長による振駒で西山女王が先手となって角道オープン三間飛車。後手の大島女流二段は金無双風の構えで浮飛車。これは大島女流二段が多用している作戦です。
                                       
 ここで先手は☗7五歩と突きました。ここは☗7二銀☖8二飛☗5三角成☖同金☗8三銀打と飛車を取りにいくのも有力で,そちらの方がよかったようです。
 後手は☖6六角と出ました。そこから☗7四歩☖8八角成☗7六飛☖8七馬☗6七金☖7六馬☗同金☖7六金☗7九飛と進展。先手は☗7七角打と受けました。
                                       
 この角打ちが絶好で,先手がリードしました。☖6六角と指すとほぼ一直線の進行なので,後手は角を出るのではなく,☖8五桂と桂馬の方を捌きにいくのが優ったようです。
 西山女王が先勝。第二局は明日の予定です。

 少なくともうすうすは気付いていたであろうというのは,おそらく確信めいたものをもっていたであろうという意味です。つまり,『エチカ』の手稿をステノNicola Stenoが異端審問所に提出したとき,ステノは提出した手稿の作者がスピノザであるということを,確実視していたであろうというのが僕の推定です。こういったことは,同時にステノが提出した弾劾書の方からさらに高確率の推測が可能かもしれませんが,弾劾書の内容については國分は触れていません。ただこれは元の文書が読めるようにはなっているようです。とはいえそれを僕が解読することは不可能です。
 『エチカ』を含むスピノザの遺稿集Opera Posthumaが実際に発刊されたのは1677年の末のことでした。ステノの告発は同年の9月でしたから,発刊された遺稿集は数週間後には多くの教会評議会や教会会議から不承認とされました。つまり遺稿集が世間に出回るのを阻止するために,ステノは大きな役割を果たしたということになります。
 ここまでが『スピノザー読む人の肖像』に記されている史実と,それに関連する僕の補足です。一方この事実は,これまでのこのブログとの関連で,考察し直しておかなければならない事柄を含みます。
 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,スピノザが死んだときにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとステノは一緒に仕事をしていて,ステノは遺稿集の出版を阻止したいと思っていたのだけれども,編集者のひとりであるシュラーGeorg Hermann Schullerと連絡を取り合い,どこでだれが遺稿集を編集しているのかを知っていたライプニッツは,そのことをステノには秘匿したという主旨の記述があります。これは,ライプニッツはスピノザの遺稿集が発刊されることを願っていたということを示すひとつのエピソードとして挿入されているといっていいでしょう。ライプニッツがそれを願っていたことは間違いありません。もちろんそれが出版されることで,自身がスピノザと関係をもっていたということが世間に知られていしまうという不安を感じてはいたでしょうが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから『エチカ』の手稿を読ませてもらえなかったライプニッツは,スピノザの哲学の全貌を知りたかったのは疑い得ないと思います。
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よさこい賞争覇戦&記名

2024-04-15 19:14:09 | 競輪
 昨日の高知記念の決勝。並びは新山‐佐藤‐永沢の北日本,犬伏‐清水の四国中国,阿部‐大坪の九州で坂井と深谷は単騎。
 犬伏と阿部がスタートを取りにいき,犬伏が誘導の後ろに入って前受け。3番手に阿部,5番手に新山,8番手に深谷,最後尾に坂井で周回。残り2周のホームの出口から新山が上昇を開始。しかし犬伏が突っ張りました。この間に深谷が大坪の後ろに入り,坂井も続いたので,引いた新山が7番手になって打鐘。バックに入って深谷が発進するも,スピードが鈍く,前に届く前に犬伏の番手から清水が発進。清水マークのようなレースになった阿部が外から清水を差して優勝。清水が4分の1車輪差で2着。3着は接戦でしたが,深谷に乗る形になった坂井が1車身半差の3着。深谷がタイヤ差で4着。
 優勝した大分の阿部将大選手は2月の前橋のFⅠを完全優勝して以来の優勝。一昨年3月の土佐水木賞以来となるGⅢ2勝目。記念競輪は初優勝。犬伏が前で受けて新山を突っ張るというのは僕にとっては意外な展開でした。深谷と坂井が北日本ラインの後ろを回っていたのは,新山が先行するとみていたからだと思います。犬伏が突っ張ったところで上昇した判断はよかったと思いますが,事前の想定とは違った展開だったのではないでしょうか。清水にとっては有利な展開でしたが,高知は直線が長いので,自力があって清水マークになった阿部が絶好になったというレースだったと思います。GⅢの2勝がいずれも高知ですから,高知は得意バンクといえるのかもしれません。

 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが所持していた『エチカ』の草稿に,スピノザの名前が書かれていなかったのは,それが他者の手に渡ってしまったときの危険性を低下させるためではあったでしょう。ただスピノザは,『エチカ』を発刊することがあったら,著者名を付す必要ないと考えていたのも事実です。もちろんそれは,かつて『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を出版したときのように,作者を特定されない目的があったかもしれませんが,スピノザ自身の哲学的な考え方も影響しています。哲学のように真理veritasを明らかにすることを目的とするなら,著者名は不要というのがスピノザの考えだったのです。なぜなら,真理は唯一なので,それはだれが書いたとしても同じになるからです。スピノザの哲学の特徴のひとつとして,主体の排除というのがあるということは何度もいっていることですが,その主体の排除の考え方に従えば,『エチカ』に著者名は不要という結論になるのです。
                                   
 チルンハウスからステノNicola Stenoの手に渡った『エチカ』の草稿は,だれが書いたものであるという記名がありませんでした。ステノは中身を精査して,1677年9月23日付で,弾劾書を付した上でその手稿をローマの異端審問所に持ち込みました。この結果として『エチカ』は禁書目録に登録されました。それと同時にステノが提出した『エチカ』の手稿は証拠物件として異端審問所の文書保管庫に留め置かれることになったのです。前もっていっておいた通り,それは後にヴァチカン図書館に移され,2010年にスプラウトによって発見されることになるのです。
 ステノは内容を精査して『エチカ』の手稿を異端審問所に持ち込んだのですが,だれが書いたものか分かっていたのか分かっていなかったのかは不明です。ただ,ステノはチルンハウスがスピノザと親しいということはおそらく知っていたのではないかと思われますし,書簡六十七の二の内容から,スピノザがどのような思想家であったかということも分かっていたと思われます。ですからだれが書いたものであるのかまったく推測もできなかったということは僕には考えにくいです。少なくとも著者がスピノザであることに,うすうすは気付いていたでしょう。
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