少なくともうすうすは気付いていたであろうというのは,おそらく確信めいたものをもっていたであろうという意味です。つまり,『エチカ』の手稿をステノNicola Stenoが異端審問所に提出したとき,ステノは提出した手稿の作者がスピノザであるということを,確実視していたであろうというのが僕の推定です。こういったことは,同時にステノが提出した弾劾書の方からさらに高確率の推測が可能かもしれませんが,弾劾書の内容については國分は触れていません。ただこれは元の文書が読めるようにはなっているようです。とはいえそれを僕が解読することは不可能です。
『エチカ』を含むスピノザの遺稿集Opera Posthumaが実際に発刊されたのは1677年の末のことでした。ステノの告発は同年の9月でしたから,発刊された遺稿集は数週間後には多くの教会評議会や教会会議から不承認とされました。つまり遺稿集が世間に出回るのを阻止するために,ステノは大きな役割を果たしたということになります。
ここまでが『スピノザー読む人の肖像』に記されている史実と,それに関連する僕の補足です。一方この事実は,これまでのこのブログとの関連で,考察し直しておかなければならない事柄を含みます。
『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,スピノザが死んだときにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとステノは一緒に仕事をしていて,ステノは遺稿集の出版を阻止したいと思っていたのだけれども,編集者のひとりであるシュラーGeorg Hermann Schullerと連絡を取り合い,どこでだれが遺稿集を編集しているのかを知っていたライプニッツは,そのことをステノには秘匿したという主旨の記述があります。これは,ライプニッツはスピノザの遺稿集が発刊されることを願っていたということを示すひとつのエピソードとして挿入されているといっていいでしょう。ライプニッツがそれを願っていたことは間違いありません。もちろんそれが出版されることで,自身がスピノザと関係をもっていたということが世間に知られていしまうという不安を感じてはいたでしょうが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから『エチカ』の手稿を読ませてもらえなかったライプニッツは,スピノザの哲学の全貌を知りたかったのは疑い得ないと思います。
チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが所持していた『エチカ』の草稿に,スピノザの名前が書かれていなかったのは,それが他者の手に渡ってしまったときの危険性を低下させるためではあったでしょう。ただスピノザは,『エチカ』を発刊することがあったら,著者名を付す必要ないと考えていたのも事実です。もちろんそれは,かつて『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を出版したときのように,作者を特定されない目的があったかもしれませんが,スピノザ自身の哲学的な考え方も影響しています。哲学のように真理veritasを明らかにすることを目的とするなら,著者名は不要というのがスピノザの考えだったのです。なぜなら,真理は唯一なので,それはだれが書いたとしても同じになるからです。スピノザの哲学の特徴のひとつとして,主体の排除というのがあるということは何度もいっていることですが,その主体の排除の考え方に従えば,『エチカ』に著者名は不要という結論になるのです。
遺稿集Opera Posthumaが出版されれば手稿は捨てるものだから,それを廃棄したらステノNicola Stenoの手に渡ってしまったとか,捨てるのではなくチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが自らステノに渡してしまったというのは,推測としては短絡的だといえそうです。ただ,遺稿集が出版されれば,そこに『エチカ』は掲載されるのですから,チルンハウスにとって手稿が不要になるのは間違いありません。出版されればそれはシュラーGeorg Hermann Schullerからチルンハウスに贈られるでしょうから,もしも自身が『エチカ』を研究しようと思えば遺稿集に掲載されたものを利用すればよいのですし,もしかしたらチルンハウスは,スピノザの死によって,スピノザの哲学に対する関心を失ったり薄めたりしたかもしれず,その場合も手稿は不要になることになります。だから少なくともチルンハウスは,それまでは手稿を他人に見つからないような仕方で慎重に扱っていたと思われますが,こうした事情によって,失ってしまっても構わないというような気持ちが心の片隅に芽生えてしまったとしてもおかしくはありません。僕はステノが何らかの画策をして,『エチカ』の手稿をチルンハウスから略奪するなり騙し取るなりした可能性が最も高いと思いますが,チルンハウスの側にもそうなってしまう心の隙あるいは油断のようなものが,その時点ではあったのではないかと思います。
ここではチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの事情というのも推測してみます。
チルンハウスはシュラーGeorg Hermann Schullerを介してスピノザのことを知りました。だからスピノザとチルンハウスの間で交わされた書簡のいくつかはシュラーを介して交わされています。したがって,チルンハウスはスピノザが死んだということを,シュラーから伝えられたと思われます。スピノザが死んだからチルンハウスとシュラーの関係が途絶えたとは考えにくいので,おそらくその後の状況についてもチルンハウスはシュラーから伝えられていたのではないかと思われます。
このことは,『スピノザ往復書簡集Epistolae』の成立事情からそうだったのではないかと僕は推測します。遺稿集Opera Posthumaの編集者たちは,スピノザとの間での書簡を遺稿集に掲載するにあたって,可能であれば当事者にその可否を確認したと思われます。だからライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとスピノザとの間に交わされた書簡の多くは掲載を見送られたのだし,フッデJohann Huddeからスピノザに宛てられた書簡の全ても掲載を見送られ,スピノザからフッデに宛てられた書簡には宛先が掲載されなかったのです。書簡集の編集が進められていたアムステルダムAmsterdamにはチルンハウスはそのときにはいなかったのですが,事情は同じであったライプニッツの意向がある程度は尊重されたということは,チルンハウスにも何らかの確認があったと思われます。書簡を通して容易に連絡が取れたという点では,ライプニッツもチルンハウスも同じであったと思われるからです。逆にいえば,チルンハウスの書簡はそのすべて,あるいはほとんどが遺稿集に掲載されたのは,チルンハウスが掲載されても構わないと考えていたからだろうと僕は推測しています。
おそらくチルンハウスに連絡を取ったのはシュラーですが,そのシュラーは遺稿集の編集者のひとりでした。ですから,遺稿集の出版の準備が進んでいるということもシュラーからチルンハウスに伝えられていたのだろうと僕は推測します。國分の指摘では,遺稿集が出版されれば元の原稿が破棄されるのはこの当時の原則になっていました。ただし,チルンハウスが所有していたのは手稿で,國分が指摘していることがそのまま妥当するとは限りません。
僕とは異なり,國分はステノNicola Stenoが過剰な信仰心を抱いていたとみていましたから,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausにも改宗を迫ったであろうといっています。
チルンハウスはこのときも『エチカ』の手稿をもっていたのですが,それがステノの手に渡りました。ここにどういう経緯があったかは分かりませんが,推定を試みます。
チルンハウスはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにこの手稿を見せてもよいかという打診をスピノザにしています。したがって,もしもそれを読むのにふさわしい人物がいるなら,それをその人に読ませてもよいと思っていたのは間違いありません。チルンハウスはこのときもステノのことをそのような人物だと思い,しかしスピノザはもう死んでいたのでその可否を問うことができず,自分の判断でステノに手稿を渡したところ,その手稿がチルンハウスの手に戻ってこなかったということは,考えられないことではありません。ただ,ステノが國分がみるように,チルンハウスに改宗を迫るような人物であったとしたら,そのような人に手稿を読ませるのは危険であると判断した可能性が高くなりますから,このケースは考えにくくなります。また,僕がみるように,改宗後のステノが,過剰な信仰心を抱いていた人物とはいえなかったとしても,改宗者には違いないのですから,やはりチルンハウスは手稿を読ませるのは危険であると判断しそうに思えます。とくにステノはこの年のうちに司教となって,プロテスタントのルター派が優勢であったドイツに移り,カトリックの布教活動に従事してそのまま死んでいます。このような経歴を考えれば,ステノはこの時点でカトリックの内部でそれなりの地位を占めていたと考えることができるわけで,そうであるならなおのことチルンハウスは手稿をステノに渡してしまうことの危険性を高く見積もれたのではないかと思うのです。
したがって,チルンハウスが自主的に手稿をステノに渡したという可能性は低いのではないかと僕は思っています。むしろステノがチルンハウスがそれを携えているということを知っていて,何らかの画策をしてチルンハウスから奪い取った,あるいは騙し取ったという可能性が高いのではないでしょうか。
ステノNicola Stenoはデンマーク人でしたが,1660年からライデン大学で生物学を学びました。この時期にスピノザはライデン近郊のレインスブルフRijnsburgに住んでいて,ふたりは知り合いました。チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがシュラーGeorg Hermann Schullerと知り合ったのは1674年で,シュラーを介してスピノザのことを知りました。このときはスピノザはハーグに住んでいて,この年の終わりにチルンハウスはハーグのスピノザを訪問したとされています。したがって,ふたりはともにスピノザの知り合いでしたが,知り合ったのはステノの方がずっと早かったということになります。
『エチカ』の手稿を携えたままロンドンを経由してパリに入ったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは,そこでライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに出会いました。チルンハウスはライプニッツが優れた思想家であるとみたため,持参していた手稿をライプニッツに読ませることの許可をスピノザから得ようとしました。それが書簡七十です。その返信となる書簡七十二で,スピノザが許可を出さなかったので,チルンハウスはライプニッツには手稿を見せませんでした。というより,手稿があること自体を教えなかったのだろうと僕は推測しています。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,シュラーGeorg Hermann Schullerが介したものも含めてチルンハウスとスピノザの間の書簡には,ライプニッツが介在していたとされていて,そういうことがあった可能性は僕は否定しませんが,それはライプニッツが『エチカ』の手稿を読むことができたからではなく,チルンハウスが部分的にスピノザの考え方をライプニッツに伝えるということはあったからだと僕は考えています。
2010年になってこの手稿を発見したのはオランダ出身の哲学研究者のレイン・スプラウトという人物で,場所はヴァチカン図書館でした。この図書館には,かつての異端審問所に証拠として保存されていた多くの文書が1900年代の前半に移されました。この手稿は,元々は証拠文書として保存されていたものが,ヴァチカン図書館に移されたもののひとつであると推測されます。つまり,チルンハウスがもっていた『エチカ』の手稿は,一旦は異端審問所に証拠として保存されることになり,その後に多くの証拠文書と同時にヴァチカン図書館に移され,それがスプラウトによって発見されたという経緯があったことになります。
したがって,まずはなぜこの手稿が異端審問所の証拠物件になったのかということを知る必要があります。そこには次のような事情があったと國分は説明しています。
チルンハウスはスピノザが死んだ時点ではパリにいたのですが,その年の8月にはパリを離れてローマにいました。そこでひとりの人物に出会います。それがかつてはスピノザの友人であり,その後にカトリックに改宗して書簡六十七の二をスピノザに送った二コラ・ステノNicola Stenoです。
手稿が作成されたのは1674年末か1675年初めと推察されています。これは推察ですから,筆跡鑑定によるものとされるような論拠があるわけではなく,その前後の事情からそうではないかと思われているということです。
この手稿があるということは,古くから知られていたと國分はいっています。というのは,ヘントに『エチカ』の書写を依頼したのはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausで,チルンハウスは確かに手稿を入手しているということが,たとえば書簡五十九などから知られているからです。チルンハウスは手稿を持ってオランダを離れ,イギリスを経由してからパリに入りました。チルンハウスがパリに滞在しているときにスピノザは死んでしまいましたから,チルンハウスはオランダを離れて以降は『エチカ』の手稿を入手するチャンスがなかったと考えるべきです。つまりオランダを離れる前に手稿を入手していたとみるのが妥当で,チルンハウスがオランダを離れる直前にその手稿を入手したとするなら,手稿が書写されたのは推察されていた時期になるということです。チルンハウスがヘントに書写を依頼したということがなぜ歴史的事実として確定しているのかということは僕は分かりませんし,國分も説明していませんが,それが確かに歴史的事実であったとすれば,手稿が書写された時期の推察は正しいということになるでしょう。僕はこれまで,チルンハウスがスピノザと面会し,スピノザの許可を得た上で自身の手で書写したと考えていたのですが,事実はそうではなかったということになります。ただ,スピノザがヘントに書写を許可したのは,それをチルンハウスが入手するという前提の下でのことだったと思います。