スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&ステノの役割

2024-04-16 19:08:14 | 将棋
 9日に鶴巻温泉で指された第17期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女王が1勝,大島綾華女流二段が0勝。
 マイナビの社長による振駒で西山女王が先手となって角道オープン三間飛車。後手の大島女流二段は金無双風の構えで浮飛車。これは大島女流二段が多用している作戦です。
                                       
 ここで先手は☗7五歩と突きました。ここは☗7二銀☖8二飛☗5三角成☖同金☗8三銀打と飛車を取りにいくのも有力で,そちらの方がよかったようです。
 後手は☖6六角と出ました。そこから☗7四歩☖8八角成☗7六飛☖8七馬☗6七金☖7六馬☗同金☖7六金☗7九飛と進展。先手は☗7七角打と受けました。
                                       
 この角打ちが絶好で,先手がリードしました。☖6六角と指すとほぼ一直線の進行なので,後手は角を出るのではなく,☖8五桂と桂馬の方を捌きにいくのが優ったようです。
 西山女王が先勝。第二局は明日の予定です。

 少なくともうすうすは気付いていたであろうというのは,おそらく確信めいたものをもっていたであろうという意味です。つまり,『エチカ』の手稿をステノNicola Stenoが異端審問所に提出したとき,ステノは提出した手稿の作者がスピノザであるということを,確実視していたであろうというのが僕の推定です。こういったことは,同時にステノが提出した弾劾書の方からさらに高確率の推測が可能かもしれませんが,弾劾書の内容については國分は触れていません。ただこれは元の文書が読めるようにはなっているようです。とはいえそれを僕が解読することは不可能です。
 『エチカ』を含むスピノザの遺稿集Opera Posthumaが実際に発刊されたのは1677年の末のことでした。ステノの告発は同年の9月でしたから,発刊された遺稿集は数週間後には多くの教会評議会や教会会議から不承認とされました。つまり遺稿集が世間に出回るのを阻止するために,ステノは大きな役割を果たしたということになります。
 ここまでが『スピノザー読む人の肖像』に記されている史実と,それに関連する僕の補足です。一方この事実は,これまでのこのブログとの関連で,考察し直しておかなければならない事柄を含みます。
 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,スピノザが死んだときにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとステノは一緒に仕事をしていて,ステノは遺稿集の出版を阻止したいと思っていたのだけれども,編集者のひとりであるシュラーGeorg Hermann Schullerと連絡を取り合い,どこでだれが遺稿集を編集しているのかを知っていたライプニッツは,そのことをステノには秘匿したという主旨の記述があります。これは,ライプニッツはスピノザの遺稿集が発刊されることを願っていたということを示すひとつのエピソードとして挿入されているといっていいでしょう。ライプニッツがそれを願っていたことは間違いありません。もちろんそれが出版されることで,自身がスピノザと関係をもっていたということが世間に知られていしまうという不安を感じてはいたでしょうが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから『エチカ』の手稿を読ませてもらえなかったライプニッツは,スピノザの哲学の全貌を知りたかったのは疑い得ないと思います。
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よさこい賞争覇戦&記名

2024-04-15 19:14:09 | 競輪
 昨日の高知記念の決勝。並びは新山‐佐藤‐永沢の北日本,犬伏‐清水の四国中国,阿部‐大坪の九州で坂井と深谷は単騎。
 犬伏と阿部がスタートを取りにいき,犬伏が誘導の後ろに入って前受け。3番手に阿部,5番手に新山,8番手に深谷,最後尾に坂井で周回。残り2周のホームの出口から新山が上昇を開始。しかし犬伏が突っ張りました。この間に深谷が大坪の後ろに入り,坂井も続いたので,引いた新山が7番手になって打鐘。バックに入って深谷が発進するも,スピードが鈍く,前に届く前に犬伏の番手から清水が発進。清水マークのようなレースになった阿部が外から清水を差して優勝。清水が4分の1車輪差で2着。3着は接戦でしたが,深谷に乗る形になった坂井が1車身半差の3着。深谷がタイヤ差で4着。
 優勝した大分の阿部将大選手は2月の前橋のFⅠを完全優勝して以来の優勝。一昨年3月の土佐水木賞以来となるGⅢ2勝目。記念競輪は初優勝。犬伏が前で受けて新山を突っ張るというのは僕にとっては意外な展開でした。深谷と坂井が北日本ラインの後ろを回っていたのは,新山が先行するとみていたからだと思います。犬伏が突っ張ったところで上昇した判断はよかったと思いますが,事前の想定とは違った展開だったのではないでしょうか。清水にとっては有利な展開でしたが,高知は直線が長いので,自力があって清水マークになった阿部が絶好になったというレースだったと思います。GⅢの2勝がいずれも高知ですから,高知は得意バンクといえるのかもしれません。

 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが所持していた『エチカ』の草稿に,スピノザの名前が書かれていなかったのは,それが他者の手に渡ってしまったときの危険性を低下させるためではあったでしょう。ただスピノザは,『エチカ』を発刊することがあったら,著者名を付す必要ないと考えていたのも事実です。もちろんそれは,かつて『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を出版したときのように,作者を特定されない目的があったかもしれませんが,スピノザ自身の哲学的な考え方も影響しています。哲学のように真理veritasを明らかにすることを目的とするなら,著者名は不要というのがスピノザの考えだったのです。なぜなら,真理は唯一なので,それはだれが書いたとしても同じになるからです。スピノザの哲学の特徴のひとつとして,主体の排除というのがあるということは何度もいっていることですが,その主体の排除の考え方に従えば,『エチカ』に著者名は不要という結論になるのです。
                                   
 チルンハウスからステノNicola Stenoの手に渡った『エチカ』の草稿は,だれが書いたものであるという記名がありませんでした。ステノは中身を精査して,1677年9月23日付で,弾劾書を付した上でその手稿をローマの異端審問所に持ち込みました。この結果として『エチカ』は禁書目録に登録されました。それと同時にステノが提出した『エチカ』の手稿は証拠物件として異端審問所の文書保管庫に留め置かれることになったのです。前もっていっておいた通り,それは後にヴァチカン図書館に移され,2010年にスプラウトによって発見されることになるのです。
 ステノは内容を精査して『エチカ』の手稿を異端審問所に持ち込んだのですが,だれが書いたものか分かっていたのか分かっていなかったのかは不明です。ただ,ステノはチルンハウスがスピノザと親しいということはおそらく知っていたのではないかと思われますし,書簡六十七の二の内容から,スピノザがどのような思想家であったかということも分かっていたと思われます。ですからだれが書いたものであるのかまったく推測もできなかったということは僕には考えにくいです。少なくとも著者がスピノザであることに,うすうすは気付いていたでしょう。
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皐月賞&心の隙

2024-04-14 18:56:49 | 中央競馬
 第84回皐月賞。ダノンデサイルが馬場入場後に右前脚の歩行のバランスを欠いたために競走除外となって17頭。
 ビザンチンドリームは立ち上がってしまい3馬身の不利。メイショウタバル,シリウスコルト,ジャンタルマンタルの3頭が前に。アレグロブリランテ,ジャスティンミラノと続いてサンライズジパングとミスタージーティーとシンエンペラーが併走。ルカランフィーストとホウオウプロザンゲ,アーバンシックとコスモキュランダとサンライズアース,エコロヴァルツとウォーターリヒト。レガレイラが馬群の最後尾。ビザンチンドリームは離されてしまいました。1コーナーではメイショウタバルが単独の先頭に立ち,2番手にシリウスコルト。3番手がアレグロブリランテとジャンタルマンタルの併走に。メイショウタバルはここから後ろを引き離していき,向正面では8馬身くらいのリードをつける大逃げに。前半の1000mは57秒5の超ハイペース。
 メイショウタバルのリードは3コーナーでは6馬身。シリウスコルトが差を詰めていくとその外からジャンタルマンタルも追い上げてきて,直線の入口ではメイショウタバルに並び掛けて直線に入るとすぐに抜け出しました。追ってきたのはジャスティンミラノとコスモキュランダ。この2頭が競り合いながら内のジャンタルマンタルを差して優勝争い。先んじていたジャスティンミラノが凌ぎ,レコードタイムで優勝。コスモキュランダがクビ差で2着。内容はかなり強かったジャンタルマンタルは半馬身差で3着。
 優勝したジャスティンミラノはデビューから3連勝。共同通信杯に続く重賞2勝目での大レース制覇。前走と同じくらいの差をジャンタルマンタルにつけていますので,2頭とも力を発揮しての結果ということになるでしょう。ですからコスモキュランダはジャスティンミラノに遜色がない力量をもっていることになり,コスモキュランダとシンエンペラーの差も弥生賞と同じくらい。ホープフルステークスでシンエンペラーに勝ったレガレイラもそれと差がないところまできていますから,概ね各馬が力量を出した好レースだったといえそうです。レコードタイムはペースの関係もありますから何ともいえないかもしれませんが,この世代のレベルの高さの証という可能性もありそうです。キャリアを考えると将来性は上位馬の中で最も高いのではないでしょうか。父はキズナ
 騎乗した戸崎圭太騎手は昨年の安田記念以来の大レース21勝目。第78回以来となる6年ぶりの皐月賞2勝目。管理している友道康夫調教師は有馬記念以来の大レース21勝目。第69回以来となる15年ぶりの皐月賞2勝目。

 遺稿集Opera Posthumaが出版されれば手稿は捨てるものだから,それを廃棄したらステノNicola Stenoの手に渡ってしまったとか,捨てるのではなくチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが自らステノに渡してしまったというのは,推測としては短絡的だといえそうです。ただ,遺稿集が出版されれば,そこに『エチカ』は掲載されるのですから,チルンハウスにとって手稿が不要になるのは間違いありません。出版されればそれはシュラーGeorg Hermann Schullerからチルンハウスに贈られるでしょうから,もしも自身が『エチカ』を研究しようと思えば遺稿集に掲載されたものを利用すればよいのですし,もしかしたらチルンハウスは,スピノザの死によって,スピノザの哲学に対する関心を失ったり薄めたりしたかもしれず,その場合も手稿は不要になることになります。だから少なくともチルンハウスは,それまでは手稿を他人に見つからないような仕方で慎重に扱っていたと思われますが,こうした事情によって,失ってしまっても構わないというような気持ちが心の片隅に芽生えてしまったとしてもおかしくはありません。僕はステノが何らかの画策をして,『エチカ』の手稿をチルンハウスから略奪するなり騙し取るなりした可能性が最も高いと思いますが,チルンハウスの側にもそうなってしまう心の隙あるいは油断のようなものが,その時点ではあったのではないかと思います。
                                        
 ステノは『エチカ』の手稿を入手したのですが,そこにはひとつの欠点がありました。実はチルンハウスが所持していた手稿は,ピーター・ファン・ヘントが書いたものですが,それは後の筆跡鑑定で明らかになったということから理解できるように,ヘントが書いたということが手稿そのものに記載されていたというわけではありません。それと同様に,手稿の原稿がだれの手によるものなのかということ,つまりそれがスピノザの著作物であるということは,手稿には書かれていませんでした。つまりチルンハウスが所有していた手稿というのは,文字通りに『エチカ』の本文なのであって,スピノザの手によるものだということは書かれていませんでした。これはもちろん,その手稿が他人の手に渡ったときの危険性を低下させるのが最大の目的だったでしょう。
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農林水産省賞典中山グランドジャンプ&チルンハウスの事情

2024-04-13 20:16:41 | 中央競馬
 第26回中山グランドジャンプ
 ワンダークローバーは2馬身,マイネルグロンは1馬身の不利が発馬でありました。まず先頭に立ったのはビレッジイーグル。2番手にジューンベロシティとギガバッケン。4番手にニシノデイジー。5番手にエコロデュエルとタマモワカムシャ。2馬身差でイロゴトシとフロールシュタット。マイネルグロンが9番手まで巻き返し10番手にダイシンクローバー。2馬身差でポルタフォリオ。2馬身差の最後尾にワンダークローバー。1周目の正面でタマモワカムシャは落馬。その後のコーナーでポルタフォリオとワンダークローバーの2頭はほかの9頭から大きく離されていきました。最初の大竹柵でニシノデイジーが先頭に立ち,4馬身ほどでビレッジイーグル,さらに4馬身ほどでフロールシュタットと,前がばらけました。ニシノデイジーはさらに差を広げていき,2度目の大障害コースでリードは7馬身くらいに。
 向正面に戻ってニシノデイジーのリードは詰まり4馬身くらい。2番手にビレッジイーグルで3番手にイロゴトシ。3馬身差でジューンベロシティが続き5番手にエコロデュエル。マイネルグロンはその後ろ。向正面の半ばでニシノデイジーとビレッジイーグルとイロゴトシが併走に。その後ろは8馬身ほどの差があってジューンベロシティとエコロデュエル。3コーナーではビレッジイーグルとイロゴトシが前に出てニシノデイジーは3番手に後退。外のイロゴトシがビレッジイーグルを振り切り,単独の先頭に立って直線に。一杯でしたがそのままリードを保って優勝。また盛り返してきたニシノデイジーがビレッジイーグルと競り合うところ,外へ外へと切れ込みながらジューンベロシティが追い込んで3馬身差で2着。ビレッジイーグルを競り落としたニシノデイジーが2馬身半差で3着。
 優勝したイロゴトシは昨年の中山グランドジャンプ以来の勝利で大レース2勝目。連覇を達成しました。その後は昨年の10月に東京ハイジャンプを走って6着。今年は平場の特別戦を使ってここに臨みました。断然の人気に推されていたマイネルグロンには東京ハイジャンプで敗れていましたが,中山の長距離戦では初対戦。負かせる可能性が最も高そうなのはこの馬だと思っていました。ただマイネルグロンは道中の進みが悪く,今日は本調子になかったのではないかと思われますので,真の決着がつくのはこれからということになりそうです。父は2015年に東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌでその父がディープインパクトで母がフラワーパーク。母の父はクロフネ
 騎乗した黒岩悠騎手は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース2勝目。管理している牧田和弥調教師は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース2勝目。

 ここではチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの事情というのも推測してみます。
 チルンハウスはシュラーGeorg Hermann Schullerを介してスピノザのことを知りました。だからスピノザとチルンハウスの間で交わされた書簡のいくつかはシュラーを介して交わされています。したがって,チルンハウスはスピノザが死んだということを,シュラーから伝えられたと思われます。スピノザが死んだからチルンハウスとシュラーの関係が途絶えたとは考えにくいので,おそらくその後の状況についてもチルンハウスはシュラーから伝えられていたのではないかと思われます。
                                        
 このことは,『スピノザ往復書簡集Epistolae』の成立事情からそうだったのではないかと僕は推測します。遺稿集Opera Posthumaの編集者たちは,スピノザとの間での書簡を遺稿集に掲載するにあたって,可能であれば当事者にその可否を確認したと思われます。だからライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとスピノザとの間に交わされた書簡の多くは掲載を見送られたのだし,フッデJohann Huddeからスピノザに宛てられた書簡の全ても掲載を見送られ,スピノザからフッデに宛てられた書簡には宛先が掲載されなかったのです。書簡集の編集が進められていたアムステルダムAmsterdamにはチルンハウスはそのときにはいなかったのですが,事情は同じであったライプニッツの意向がある程度は尊重されたということは,チルンハウスにも何らかの確認があったと思われます。書簡を通して容易に連絡が取れたという点では,ライプニッツもチルンハウスも同じであったと思われるからです。逆にいえば,チルンハウスの書簡はそのすべて,あるいはほとんどが遺稿集に掲載されたのは,チルンハウスが掲載されても構わないと考えていたからだろうと僕は推測しています。
 おそらくチルンハウスに連絡を取ったのはシュラーですが,そのシュラーは遺稿集の編集者のひとりでした。ですから,遺稿集の出版の準備が進んでいるということもシュラーからチルンハウスに伝えられていたのだろうと僕は推測します。國分の指摘では,遺稿集が出版されれば元の原稿が破棄されるのはこの当時の原則になっていました。ただし,チルンハウスが所有していたのは手稿で,國分が指摘していることがそのまま妥当するとは限りません。
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将棋大賞&経緯の推測

2024-04-12 19:40:18 | 将棋トピック
 1日に2023年度の将棋大賞の受賞者が発表されました。
                                        
 最優秀棋士賞は藤井聡太竜王・名人。叡王防衛,名人奪取,棋聖防衛,王位防衛,王座挑戦,奪取,竜王防衛,王将防衛,棋王防衛。棋戦は日本シリーズ優勝。これはほかに選びようがありません。2020年度,2021年度,2022年度に続き4年連続4度目の最優秀棋士賞です。勝率1位賞も受賞しています。
 優秀棋士賞は伊藤匠七段。竜王挑戦,棋王挑戦,叡王挑戦。最優秀棋士が突出しているため,優秀棋士賞は票が割れました。永瀬拓矢九段との争いでしたが,竜王戦と叡王戦の挑戦者決定戦の結果が影響したように思います。優秀棋士賞は初受賞。最多対局賞と最多勝利賞も受賞しました。
 敢闘賞は丸山忠久九段。銀河戦優勝。ここも永瀬九段との争い。銀河戦の本選での直接対決で勝ったというのもあるでしょうが,敢闘賞というのはよく頑張ったという主旨があり,永瀬九段に対してよく頑張ったというより,50代で銀河戦を優勝した丸山九段はよく頑張ったという意味合いの方がやや強かったということかもしれません。敢闘賞は初受賞。
 新人賞は藤本渚五段。加古川青流戦に優勝。新人王戦は決勝で負けましたが,伊藤七段と最多勝利賞を受賞していますからこれは当然の選出でしょう。
 記録部門の連勝賞は15連勝の佐々木大地七段。
 最優秀女流棋士賞は福間香奈女流五冠。女流王位防衛,清麗防衛,白玲挑戦,倉敷藤花防衛,女流王座防衛,女流名人挑戦,奪取。八冠のうちの五冠を占めていますから当然でしょう。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度,2018年度,2019年度,2020年度,2021年度,2022年度に続き9年連続14度目の最優秀女流棋士賞。
 優秀女流棋士賞は西山朋佳女流三冠。清麗挑戦,女王防衛,倉敷藤花挑戦,女流王将防衛,白玲防衛。こちらは残る三冠の覇者ですからやはり当然。2021年度,2022年度に続き3年連続3度目の優秀女流棋士賞。
 女流最多対局賞は加藤桃子女流四段でした。
 升田幸三賞は伊藤匠七段。棋王戦第一局などの,角換わり相腰掛銀の後手番で持将棋を目指す定跡の確率が評価されました。将棋AIとプロの将棋は持将棋の規定に相違がありますが,その相違を突いた定跡ですので,AI時代を象徴するような受賞といえます。
 升田幸三特別賞は村田顕弘六段。村田システムによる受賞。王座戦本選の反響が大きかったのでしょう。AI時代に個人の名が入る作戦を創作したのは素晴らしいと思います。
 名局賞は王座戦挑戦者決定戦。タイトル戦を差し置いての受賞ですから,よほど高く評価されたということになります。
 女流名局賞は白玲戦の第二局。両者は2023年度にタイトル戦で17局を戦いました。その中で最も内容が優れていたという評価を受けたのがこの一局だったということです。
 名局賞特別賞は王座戦第四局。これは痛恨の一着があった将棋ですが,世間に対する反響はきわめて大きなものがありました。その点が考慮されての特別賞でしょう。

 僕とは異なり,國分はステノNicola Stenoが過剰な信仰心を抱いていたとみていましたから,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausにも改宗を迫ったであろうといっています。
 チルンハウスはこのときも『エチカ』の手稿をもっていたのですが,それがステノの手に渡りました。ここにどういう経緯があったかは分かりませんが,推定を試みます。
 チルンハウスはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにこの手稿を見せてもよいかという打診をスピノザにしています。したがって,もしもそれを読むのにふさわしい人物がいるなら,それをその人に読ませてもよいと思っていたのは間違いありません。チルンハウスはこのときもステノのことをそのような人物だと思い,しかしスピノザはもう死んでいたのでその可否を問うことができず,自分の判断でステノに手稿を渡したところ,その手稿がチルンハウスの手に戻ってこなかったということは,考えられないことではありません。ただ,ステノが國分がみるように,チルンハウスに改宗を迫るような人物であったとしたら,そのような人に手稿を読ませるのは危険であると判断した可能性が高くなりますから,このケースは考えにくくなります。また,僕がみるように,改宗後のステノが,過剰な信仰心を抱いていた人物とはいえなかったとしても,改宗者には違いないのですから,やはりチルンハウスは手稿を読ませるのは危険であると判断しそうに思えます。とくにステノはこの年のうちに司教となって,プロテスタントのルター派が優勢であったドイツに移り,カトリックの布教活動に従事してそのまま死んでいます。このような経歴を考えれば,ステノはこの時点でカトリックの内部でそれなりの地位を占めていたと考えることができるわけで,そうであるならなおのことチルンハウスは手稿をステノに渡してしまうことの危険性を高く見積もれたのではないかと思うのです。
 したがって,チルンハウスが自主的に手稿をステノに渡したという可能性は低いのではないかと僕は思っています。むしろステノがチルンハウスがそれを携えているということを知っていて,何らかの画策をしてチルンハウスから奪い取った,あるいは騙し取ったという可能性が高いのではないでしょうか。
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東京スプリント&書簡の理由

2024-04-11 19:18:12 | 地方競馬
 昨晩の第35回東京スプリント
 好発はキュウドウクン。しかしすんなりとした逃げにはならず,プライルード,キュウドウクン,ギシギシ.テイエムトッキュウの4頭で先行。5番手にギャルダル。6番手にヘリオス。7番手にジャスティン。その後ろはマルモリスペシャルとアームズレイン。10番手にボイラーハウス。2馬身ほど開いてクロジシジョーとメルト。アポロビビがその後ろで,スナークダヴィンチは大きく離されました。前半の600mは34秒5のハイペース。
 3コーナーを回るときに単独の先頭に立っていたのはテイエムトッキュウ。2番手にヘリオスで3番手がジャスティン。4番手にアームズレインが続きました。直線に入るとテイエムトッキュウとヘリオスの外からジャスティンが前に出て抜け出し,優勝。後方から内を捌いて追い込んだクロジシジョーが2馬身差で2着。逃げたテイエムトッキュウが2馬身差で3着。
                                   
 優勝したジャスティンは一昨年2月のオープン以来の勝利。重賞は2020年のカペラステークス以来の4勝目。第31回以来となる4年ぶりの東京スプリント2勝目。長いこと勝てないでいましたが,大井の1200mのレースでは崩れずに走っていましたから,優勝候補の1頭と考えていました。ただこの馬はこの路線では安定勢力という立場であり,このレースはその安定勢力に能力で上回る馬がいなかったというレベルだったとみることもできます。勝ちタイムが遅くなったのもこの馬には有利に働いたのではないでしょうか。父はオルフェーヴル
 騎乗した大井の西啓太騎手はデビューから10年で重賞初勝利。管理している坂井英光調教師は開業から3年で重賞初制覇。

 書簡七十六では,スピノザがかつてステノNicola StenoのことをアルベルトAlbert Burghと語り合ったという旨の記述があります。つまり,アルベルトとステノも知り合いであったことになります。先にカトリックに改宗したのはステノで,後にアルベルトも改宗したのですが,アルベルトの改宗はたぶんステノの影響を受けてのもので,ステノが直接的にアルベルトをカトリックに誘ったという可能性が高いだろうと思われます。
 書簡六十七と書簡六十七の二は,いずれも1675年にフィレンツェから出されています。書簡六十七の方は9月3日という日付が記されていて,書簡六十七の二の方には日付がないのですが,かなり近い時期に出されたものなのではないかと想定されています。『スピノザ往復書簡集Epistolae』の解説ではこのことについて,両者の間に連絡があった,つまりふたりが相談してそれぞれがスピノザに宛てて書簡を認めたのかもしれないし,カトリック当局の勧めに基づいたのかもしれないと畠中はいっています。僕は前者の可能性はないとはいえないものの,ふたりだけで相談して書いたとすれば,その内容にあまりに違いがありすぎるようには感じられます。スピノザの心を動かすための作戦として,アルベルトはひどく感情的なものを,それに対してステノは理性的なものを書いたという可能性は否定しきれませんが,普通に考えれば内容をある程度はすり合わせるのではないかと思われるのに,そうした形跡がまったくないのは不自然だと僕には感じられるのです。,一方,後者についてはあり得そうだと感じます。とくにステノの書簡は,最初からスピノザの心を動かすのは無理だと分かっていながら書かれているように僕には感じられますから,当局からスピノザに改心を迫る書簡を送るように勧められたから,もっといえばそのように命じられたから,あまり本意ではなかったのだけれどもステノは書簡六十七の二を書いたのだとする方が,書簡の内容から照合すると僕にはリアルに感じられます。
 國分はステノがスピノザに改宗を迫る書簡を送ったのは,過剰な信仰心のゆえであったとしていますが,僕は必ずしもそれだけが理由ではなかったのではないかと考えています。
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ブリリアントカップ&出会いの時期

2024-04-10 19:18:05 | 地方競馬
 昨晩の第7回ブリリアントカップ
 ショウナンバルディは発馬後の加速が鈍く2馬身の不利。ランリョウオーが逃げて2番手にエアアルマス。3番手のシャイニーロック,4番手のミヤギザオウ,5番手のサヨノネイチヤまでが先行集団を形成。3馬身差でヒーローコール。その後ろは序盤は前にいたレッドソルダード,マンダリンヒーロー,ナンセイホワイト,サルサレイアの4頭が集団。その後ろがブリッグオドーンとコパノジャッキー。発馬の不利があったショウナンバルディはその後も進みが悪く,大きく離されて競走を中止しました。最初の800mは50秒7のミドルペース。
 3コーナーからランリョウオーとエアアルマスとヒーローコールの3頭が雁行。その後ろもサヨノネイチヤとナンセイホワイトとブリッグオドーンの3頭で雁行となりました。動いたヒーローコールがコーナーで捲り切り,単独の先頭に立って直線へ。ヒーローコールが3頭の外を回っていたため,内にも進路があり,そこに入っていったのがサヨノネイチヤでヒーローコールの外にいったのがナンセイホワイト。この3頭が激しく競り合い,内のサヨノネイチヤが抜け出して先頭。一旦は離されたヒーローコールがまた差を詰めていき,サヨノネイチヤが外によれたため追いにくくなる場面がありましたが,着順が入れ替わるほどの不利ではなく,サヨノネイチヤが優勝。ヒーローコールが1馬身4分の1差で2着。ナンセイホワイトが1馬身差で3着。
 優勝したサヨノネイチヤはここが勝島王冠以来のレースで南関東重賞2勝目。勝島王冠のときは斤量での恩恵がありましたから,ここは試金石ではあったのですが見事に乗り越えました。抜け出してから外によれた原因が距離にあれば,これ以上の距離延長はマイナスに作用するでしょう。また,馬の精神面が原因なら,現状は早めに抜け出すのはあまりよくないということになり,それが課題となりそうです。まだ大井でしか走ったことがない馬ですから,ほかの競馬場でも同様に力を出せるのかということは,このレースの最後の走りとは無関係な課題として残ります。父はダノンレジェンド。母の父はオレハマッテルゼ
 騎乗した大井の西啓太騎手は勝島王冠以来の南関東重賞3勝目。ブリリアントカップは初勝利。管理している大井の坂井英光調教師は南関東重賞4勝目。ブリリアントカップは初勝利。

 ステノNicola Stenoはデンマーク人でしたが,1660年からライデン大学で生物学を学びました。この時期にスピノザはライデン近郊のレインスブルフRijnsburgに住んでいて,ふたりは知り合いました。チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがシュラーGeorg Hermann Schullerと知り合ったのは1674年で,シュラーを介してスピノザのことを知りました。このときはスピノザはハーグに住んでいて,この年の終わりにチルンハウスはハーグのスピノザを訪問したとされています。したがって,ふたりはともにスピノザの知り合いでしたが,知り合ったのはステノの方がずっと早かったということになります。
                                        
 デカルトRené Descartesは松果体glandulae pinealiが人間の精神mens humanaと身体corpusを結びつけると主張しました。ステノは解剖学的な見地からそれを否定しています。スピノザは『エチカ』の第五部の序言の中で,かなりの部分を割いてデカルトの説に疑問を投げ掛けているのですが,そこにステノの解剖学的立場からの学説が影響していた可能性はあります。ステノは学説を著書にして発刊していますが,その本はスピノザも所有していました。スピノザが所有していた蔵書は目録として残されていて,その中にステノの本もあるのです。
 チルンハウスが出会ったときのステノと,スピノザと出会った頃のステノとの間には大きな相違があります。スピノザと出会ったステノは学者で,とくに生物学者でありまた地質学者でした。しかしその後はカトリックに改宗したのを機に,カトリックの道に進み,学者の立場は捨てました。國分は,新規の改宗者にありがちな過剰な信仰心をステノは抱いていて,だからスピノザに改宗を迫る書簡六十七の二を書いたのだと指摘しています。ただ,この指摘は的を射ているのかどうか僕には疑問です。アルベルトAlbert Burghが書いた書簡六十七と比べれば,アルベルトは過剰な信仰心を有していたというように僕には思えますが,ステノの書簡からはそうしたものは感じられないからです。確かに形式的にはステノはスピノザに改宗を求めていますが,その求めにスピノザが応じるわけがないということを理解した上でそれを求めているように僕には読めるからです。むしろこの書簡は,何らかの理由で無駄だと分かって書かれたもののように感じられます。
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叡王戦&手稿の発見

2024-04-09 19:15:56 | 将棋
 7日に名古屋で指された第9期叡王戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太叡王が10勝,伊藤匠七段が0勝。持将棋が一局あります。
 不二家の社長による振駒で藤井叡王が先手となって角換わり相腰掛銀。後手の伊藤七段は右玉。先手が仕掛けてからは激しい攻め合いの将棋になりました。
                                        
 第1図で後手は☖5五歩と銀を取りましたが,これが最終的な敗着とされています。
 最善だったのは☖8七歩成の王手。これには☗同桂の一手。そこでさらに☖7八角成と取って☗同王のときに☖7六銀と出ます。先手は☗8八歩と受ける一手。
 そこまで進めてから後手は☖5五歩と銀を取ります。この手は詰めろではないので先手が反撃に転じる局面。最も早い手は☗6九飛。しかし後手は構わず☖5六歩と銀を取ります。☗6三歩成が厳しそうですが☖5一玉と逃げて後手玉は詰みません。
                                        
 第2図は後手有望の局面とのこと。ただこの順に進めるのは後手としてはリスクも高そうに感じられます。この順しか後手になかったのなら,もっと前の段階での変化が後手には必要だったことになるでしょう。
 藤井叡王が先勝。第二局は20日に指される予定です。

 『エチカ』の手稿を携えたままロンドンを経由してパリに入ったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは,そこでライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに出会いました。チルンハウスはライプニッツが優れた思想家であるとみたため,持参していた手稿をライプニッツに読ませることの許可をスピノザから得ようとしました。それが書簡七十です。その返信となる書簡七十二で,スピノザが許可を出さなかったので,チルンハウスはライプニッツには手稿を見せませんでした。というより,手稿があること自体を教えなかったのだろうと僕は推測しています。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,シュラーGeorg Hermann Schullerが介したものも含めてチルンハウスとスピノザの間の書簡には,ライプニッツが介在していたとされていて,そういうことがあった可能性は僕は否定しませんが,それはライプニッツが『エチカ』の手稿を読むことができたからではなく,チルンハウスが部分的にスピノザの考え方をライプニッツに伝えるということはあったからだと僕は考えています。
 2010年になってこの手稿を発見したのはオランダ出身の哲学研究者のレイン・スプラウトという人物で,場所はヴァチカン図書館でした。この図書館には,かつての異端審問所に証拠として保存されていた多くの文書が1900年代の前半に移されました。この手稿は,元々は証拠文書として保存されていたものが,ヴァチカン図書館に移されたもののひとつであると推測されます。つまり,チルンハウスがもっていた『エチカ』の手稿は,一旦は異端審問所に証拠として保存されることになり,その後に多くの証拠文書と同時にヴァチカン図書館に移され,それがスプラウトによって発見されたという経緯があったことになります。
 したがって,まずはなぜこの手稿が異端審問所の証拠物件になったのかということを知る必要があります。そこには次のような事情があったと國分は説明しています。
 チルンハウスはスピノザが死んだ時点ではパリにいたのですが,その年の8月にはパリを離れてローマにいました。そこでひとりの人物に出会います。それがかつてはスピノザの友人であり,その後にカトリックに改宗して書簡六十七の二をスピノザに送った二コラ・ステノNicola Stenoです。
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桜花賞・海老澤清杯&筆跡鑑定

2024-04-08 19:13:18 | 競輪
 昨日の川崎記念の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,郡司‐佐々木の神奈川,古性‐山田の近畿,嘉永‐松岡の熊本で,松本は単騎。
 山田がスタートを取って古性の前受け。3番手に郡司,5番手に嘉永,7番手に新山,最後尾に松本で周回。残り2周のホームに入るところで新山が動こうとすると,嘉永が先んじて上昇し,古性を叩きました。すると郡司も動いてバックでは嘉永を叩いて先頭に。新山はその後に本格的に発進。打鐘から郡司と先行争いのような形になりましたが,ホームの入口では叩いて先行。郡司は3番手を取りにいったのですが,新山ラインに続いていた松本に阻まれて4番手に。バックに入ると佐々木の後ろから嘉永が発進。佐藤が懸命にブロックしたものの何とか乗り越え,新山を捲って優勝。後方からの捲り追い込みになった古性が外から伸び,マークの山田が差して4分の3車身差で2着。古性が4分の1車輪差で3着。
 優勝した熊本の嘉永泰斗選手は2月の久留米のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年5月の函館記念以来の3勝目。川崎記念は初優勝。このレースはラインの厚みでは北日本のふたり,個々の脚力では郡司と古性が双璧でした。郡司は中途半端に先行争いをした上に3番手を取りにいき,古性は前受けしたものの何もせずに後方に置かれると,脚力上位のふたりはレース運びに失敗。新山も先行するまでに力を使ってしまい,佐藤がブロックで嘉永を止めるまでには至りませんでした。決勝までのレースをみると嘉永は調子では随一だったように思います。

 2010年に発見された『エチカ』の手稿を書写した事物がピーター・ファン・ヘントであると特定されたのは,筆跡鑑定によるものです。ヘントがホイヘンスChristiaan Huygensに宛てた手紙が残されていて,その手紙の筆跡と,手稿の筆跡が同一人物によるものであると鑑定され,ヘントが書写した手稿であると特定されるに至ったのです。ホイヘンスはスピノザの友人のひとりですから,ヘントも含めたひとつのネットワークがあったのだと推測されます。
                                        
 手稿が作成されたのは1674年末か1675年初めと推察されています。これは推察ですから,筆跡鑑定によるものとされるような論拠があるわけではなく,その前後の事情からそうではないかと思われているということです。
 この手稿があるということは,古くから知られていたと國分はいっています。というのは,ヘントに『エチカ』の書写を依頼したのはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausで,チルンハウスは確かに手稿を入手しているということが,たとえば書簡五十九などから知られているからです。チルンハウスは手稿を持ってオランダを離れ,イギリスを経由してからパリに入りました。チルンハウスがパリに滞在しているときにスピノザは死んでしまいましたから,チルンハウスはオランダを離れて以降は『エチカ』の手稿を入手するチャンスがなかったと考えるべきです。つまりオランダを離れる前に手稿を入手していたとみるのが妥当で,チルンハウスがオランダを離れる直前にその手稿を入手したとするなら,手稿が書写されたのは推察されていた時期になるということです。チルンハウスがヘントに書写を依頼したということがなぜ歴史的事実として確定しているのかということは僕は分かりませんし,國分も説明していませんが,それが確かに歴史的事実であったとすれば,手稿が書写された時期の推察は正しいということになるでしょう。僕はこれまで,チルンハウスがスピノザと面会し,スピノザの許可を得た上で自身の手で書写したと考えていたのですが,事実はそうではなかったということになります。ただ,スピノザがヘントに書写を許可したのは,それをチルンハウスが入手するという前提の下でのことだったと思います。
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桜花賞&手稿

2024-04-07 19:45:39 | 中央競馬
 第84回桜花賞。藤岡康太騎手が6日の3レースで落馬して頭部と胸部を負傷したためエトヴプレは鮫島克駿騎手に変更。
 外の方からショウナンマヌエラがハナへ。2番手にキャットファイトとコラソンビート。その後ろにクイーンズウォークとアスコリピチェーノとエトヴプレ。その直後のシカゴスティングまでは一団。イフェイオンとセキトバイースト。ステレンボッシュとセシリエプラージュ。チェルヴィニア。ワイドラトゥールとテウメッサ。マスクオールウィン,ハワイアンティアレ。2馬身差でライトバック。最後尾にスウィープフィート。概ね馬群の外を回っていた馬が徐々に位置を上げていく形になったので,3コーナーに掛けてもそこから4コーナーに掛けても位置取りにはかなり変化が生じました。前半の800mは46秒3のスローペース。
 直線の入口で逃げたショウナンマヌエラのリードはまだ2馬身ほどありましたが,2番手追走になっていたエトヴプレがすぐに先頭に。ただ外の各馬の脚がよく,ステレンボッシュが差し切って優勝。その外から追ってきたアスコリピチェーノが4分の3馬身差で2着。さらに外から追い込んだライトバックがクビ差で3着。
 優勝したステレンボッシュは重賞初制覇での大レース制覇。阪神ジュベナイルフィリーズはアスコリピチェーノが勝ってクビ差の2着でしたが,そのときはアスコリピチェーノの後ろから内を通って追い上げたもの。今日は直線入口での位置取りが逆になって逆転したという内容。2頭とも阪神ジュベナイルフィリーズ以来のレースで,その2頭が上位人気に推された上で,離れた後方から追い込んできた2頭を凌いでワンツーフィニッシュを決めましたので,この2頭はほかに対して力量上位であるとみてよいと思います。父はエピファネイア。母の父はルーラーシップ。祖母の父はダンスインザダーク。3代母がウインドインハーヘアで従妹に昨年のホープフルステークスを勝っている現役のレガレイラ。Stellenboschは南アフリカの都市の名称。
                                        
 騎乗したブラジルのジョアン・モレイラ騎手はJBCクラシック以来の日本馬に騎乗しての大レース9勝目。桜花賞は初勝利。管理している国枝栄調教師は2021年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース23勝目。第70回,78回に続き6年ぶりの桜花賞3勝目。

 僕たちにとっては認識するcognoscereことが不可能な属性attributumについても,第二部自然学②補助定理七備考でいわれていることは成立します。なのでこの備考Scholiumを論拠として神Deusをひとつの個体と仮定する國分の方法は成立すると僕は結論します。つまり,神が内在的原因causa immanensであることの意味は,神をひとつの個体と規定するなら,神という個体の中で生じる各々の様態modiの生成も推移も消滅も神自身の行為にほかならないのであって,各々の様態のその行為は神の力potentiaの表現であるのですが,そうしたことは神の本性essentiaを構成する無限に多くのinfinita属性のどの属性を抽出したとしても成立すると僕は結論付けるということです。
 この部分の考察は以上です。次の論題に移りますが,これは何かを考察するというよりは,史実の確認といった方が正確です。
 『スピノザーナ11号』に関連する事項として,工藤喜作について考察したときに,工藤が知り得なかった事実について触れました。工藤は2010年1月に死んでしまったのですが,同年になって,『エチカ』の手稿が発見されたということです。このことについて,『スピノザー読む人の肖像』の第4章で詳しく説明されています。これはこのブログの今後の考察についても有益だと思いますので,ここでその事情というのを,國分の説明を追いながら詳しく説明しておきましょう。
 『エチカ』の遺稿集Opera Posthumaは1677年に出版されました。この当時,手稿すなわち生の原稿のことですが,それは出版後に廃棄するというのが当時の出版業界の常識でした。ですからスピノザの手による『エチカ』の原稿というのは,そのときに破棄されてしまったと考えるのが妥当です。ただ,『エチカ』の出版はスピノザの死後のことであって,スピノザは生前にその原稿の写しを何人かには渡していました。2010年になって発見された手稿というのは,スピノザが存命中に書写された手稿のひとつです。
 これを書写したのは,ピーター・ファン・ヘントという人物であると特定されています。僕にとっては初見の人物でしたが,この人はスピノザの友人のひとりで,ラテン語に堪能な人物であったと國分は説明しています。きちんとした証拠で特定されています。
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