スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&基本感情と意識

2024-05-13 19:46:32 | 将棋
 遊行寺で指された昨日の第17期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
 西山朋佳女王の先手でノーマル三間飛車。後手の大島綺華女流二段が持久戦を選択し,相穴熊の将棋になったのですが,組み上がったところで先手の作戦勝ちとなってしまいました。
                                        
 先手が穴熊に潜ったところ。石田流に穴熊はそれほどよい相性とはいえませんが,先手からすぐに攻めてくる手がないので,この局面では有効なのでしょう。
 後手は☖5四歩と突いたのですが,これに先手が反応しました。☗2八銀に後手も☖1二香と穴熊を目指したところで☗3六歩。☖1一玉に☗2六角と出ました。角成を受けるために後手は☖4四歩。先手は☗5六銀と進出し☖4三金右に☗3九金と手を戻しました。
                                        
 第2図となってもう先手が十分です。穴熊に組むのなら☖5四歩は省略する方がよく,穴熊は目指さず☖7二飛と寄るのが有力でした。☖1二香のところも☖2五歩がよく,☖4四歩のところも☖7二飛でした。☖4三金右よりは☖8四飛の方がよかったとのことで,細かいミスが積み上がって差がついてしまったようです。
 3連勝で西山女王が防衛第11期,12期,13期,14期,15期,16期に続く七連覇で7期目の女王です。

 第三部定理七は,現実的に存在する個物res singularisが自己の有に固執するperseverareことは,その個物の現実的本性actualis essentiaであるといっています。人間は個物ですから,人間にもこのことは妥当します。すなわち,現実的に存在する人間は,自己の有に固執することをその本性として有しているのです。当然のことですが,このことは現実的に存在する人間がそのことを意識しているか意識していないかということに関係ありません。したがって,現実的に存在する人間が自己の有に固執するということは,無意識として現実的に存在するすべての人間の知性intellectusのうちに含まれているのであって,ときに現実的に存在する人間はそのことを意識するということになります。
 これでみれば分かるように,現実的に存在する人間が自己の有に固執することは,第三部定理九備考でいわれているところの衝動appentitusに該当します。そしてそれがその人間によって意識された場合は,基本感情affectus primariiのひとつとしての欲望cupiditasとなるといわれているのです。欲望は意識された限りでの衝動ですから,それが希求しまた忌避する事柄は,欲望の場合であろうと衝動の場合であろうと同様です。そして現実的に存在する人間の衝動は,自己の有に固執するのです。ですから,現実的に存在する人間は,自己の実在性realitasすなわち完全性perfectioを,より小なる完全性からより大なる完全性に移行させる事柄は希求します。反対に,自己の完全性を,より大なる完全性からより小なる完全性へと移行させる事柄については忌避するでしょう。いい換えれば第三部定理二八にあるように,僕たちは喜びlaetitiaを希求しまた悲しみtristitiaを忌避するという衝動を有します。そしてこれが意識されるようになると,僕たちは僕たちが希求しているもののことを善bonumと判断するということが第三部定理九備考の最後の部分でいわれているのです。ですからそこではいわれていませんが,僕たちは僕たちが忌避しているもののことを意識したら,それをmalumと判断することになるでしょう。よって第四部定理八でいわれているように,僕たちにとっての善というのは僕たちが意識する僕たちの喜びにほかなりませんし,僕たちにとっての悪は僕たちが意識する限りでの悲しみにほかならないのです。
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ヴィクトリアマイル&第三部定理九備考

2024-05-12 19:24:56 | 中央競馬
 第19回ヴィクトリアマイル
 ナミュールとルージュリナージュは発馬が悪く1馬身の不利。コンクシェルが逃げて2番手にフィールシンパシーで3番手にスタニングローズ。2馬身差でフィアスプライド。5番手にサウンドビバーチェ。6番手はウンブライルとマスクトディーヴァ。8番手にライラックとドゥアイズ。2馬身差でキタウイングとハーパーとテンハッピーローズ。3馬身差でモリアーナ。14番手がナミュールで2馬身差の最後尾にルージュリナージュ。前半の800mは45秒4のハイペース。
 直線の入口ではフィアスプライドがスタニングローズの内まで追い上げて3番手が併走。4番手以下は3馬身くらいの差がつきました。直線に入るとフィアスプライドが前の3頭の外に持ち出して先頭に。その外からテンハッピーローズが追い込んできて,フィアスプライドを差して優勝。フィアスプライドが1馬身4分の1差で2着。直線で前が詰まったものの内へもっていって伸びたマスクトディーヴァがクビ差の3着。勝ち馬のさらに外から追い込んだドゥアイズがクビ差の4着。
 優勝したテンハッピーローズは重賞初制覇での大レース優勝。オープンは勝っていますが重賞では入着もなかった馬で,伏兵でした。このレースは直線の攻防で力を出し切れなかった馬もいたところ,それとは関係ない外に進路を取ったことがよかったということになるのですが,これまでの成績からはそれでも勝つまでは難しいと思える馬ですので,よく分からないというのが正直なところです。着順は悪くてもそれほど差のないところまできていたのは確かですので,実際にここで示したような力があるということを,これからも示してく可能性はあるでしょう。父はエピファネイア。母の父はタニノギムレット。母の従妹に2020年のマーメイドステークスを勝ったサマーセント
 騎乗した津村明秀騎手はデビューから20年2ヶ月で大レース初制覇。管理している高柳大輔調教師は一昨年のJBCクラシック以来の大レース4勝目。ヴィクトリアマイルは初勝利。

 第四部定理八では,喜びlaetitiaと悲しみtristitiaが意識conscientiaと関連付けられ,それが善bonumでありまた悪malumであるといわれていました。喜びと悲しみは,スピノザの哲学における基本感情affectus primariiです。それでは残る基本感情である欲望cupiditasは,『エチカ』ではどのように意識と関連付けられているのでしょうか。
                                   
 第三部定理九備考では次のようにいわれています。
 「衝動と欲望との相違はといえば,欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる(Cupiditas est appentitus cum ejusdem conscientia)」。
 僕は意識は観念の観念idea ideaeであり,観念ideaは無意識であると規定しています。したがってここでは,衝動appentitusというのが無意識であるとすれば,欲望はその無意識が意識化されたものであるといわれていることになります。欲望は感情であって観念とは異なるかもしれませんが,それが思惟の様態cogitandi modiとしてみられる限りでは,第二部公理三にあるように,観念自体が思惟の様態としては第一のものなのですから,衝動を観念,欲望を観念の観念とみることに問題は発生しません。ただ,第三部定義三にあるように,感情というのは現実的に存在する人間の精神mens humanaの状態だけを表すだけでなく,人間の身体humanum corpusの状態も同時に意味することができることになっていて,欲望は感情のひとつなのですから当然ながらこのことが欲望にも適用されます。ですから,欲望をあるいは衝動を,人間の身体の状態として考える場合には,このことは妥当しません。人間の身体に関連づけられる限り,欲望と衝動は同一のものであると解しておくのがよいかと思います。
 またこの備考Scholiumは,このようにいわれた後で,善とは何かということに続いています。そして善というのは,意識される限りでの喜びのことをいうのですから,この備考は全体としていえば,すべての感情を意識と関連付けているということもできるでしょう。悪についての言及はないので,悲しみについては言及されていないということもできるでしょうが,ここで善の判断についていわれていることは,悪の判断についても妥当する筈だからです。僕たちは悲しみを忌避しますが,忌避も欲望といえます。
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バンブービギン&推論の条件

2024-05-11 19:09:09 | 名馬
 しらさぎ賞を勝ったツーシャドーの3代母の父は1989年のJRA賞で最優秀父内国産馬に選出されたバンブービギンです。もうだいぶ古い時代の馬ですが,僕の競馬キャリアの中の馬ではありますので,ここで紹介しておきます。父は1982年のJRA賞の最優秀3歳牡馬のバンブーアトラス。この馬は僕の競馬キャリアより前の馬なので,このブログでは紹介しません。
 デビューは2歳の11月。なかなか勝ち上がることができず,7戦目となる3歳の5月に初勝利をあげました。すると400万以下,900万以下と特別戦も連勝。9月の神戸新聞杯で2着になると,10月の京都新聞杯で重賞を制覇しました。この勢いで菊花賞に出走するとこれも制覇。大レースの勝ち馬になりました。ただ残念ながらこの菊花賞が現役最後のレースに。JRA賞の最優秀父内国産馬に選出されて引退となっています。
 素質が開花するのは遅くなりましたが,初勝利をあげて以降は重賞2着が1回あっただけでそれ以外は菊花賞も含めて全勝。古馬との対戦がありませんでしたから,能力の上限がどれほどだったのかは分かりませんが,それを見せないままに引退ということで,競走馬としてはまだ未知の能力を秘めていたといえるでしょう。
 種牡馬としてはほとんど成功していません。ツーシャドーの3代母はJRAで3勝をあげた牝馬ですが,今後も名前が出ることがあれば,その牝馬の子孫ということになるのではないでしょうか。

 スピノザの哲学では理性ratioは第二種の認識cognitio secundi generisとされています。これとは別に第三種の認識cognitio tertii generisというのがあって,スピノザはこちらの方を最高の認識としています。このことはたとえば第五部定理二五から明らかだといわなければなりません。一般的な哲学の伝統では,理性が最高の認識とされていますので,スピノザの哲学は必ずしもその伝統に則していないということになります。
                                  
 しかし僕はこの國分の指摘に対しては,次のことの方を強調しておきたいです。
 一般に理性というのは,人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによる刺激と独立した思考です。スピノザの哲学でもこの点は変わるところはありません。理性的認識とは,共通概念notiones communesを基礎とした推論のことをいうのであって,この推論というのは人間の身体が外部の物体によって刺激されるafficiその刺激状態の観念ideaからは独立しているからです。別のいい方をすれば,たとえ人間の身体が外部の物体によって何らの刺激を受けるafficiことはないと仮定したとしても,この推論はその人間の精神mens humanaのうちで完結する思考ですから,その人間の精神さえ存在すれば,その人間がなし得る思惟作用であるのです。
 ただし,この推論の基礎となるのが共通概念なのですから,もし現実的に存在する人間の精神のうちに共通概念が存在しないというように仮定をすれば,その人間は理性的認識をすることは不可能であるということになります。しかるにこの共通概念というのは,現実的に存在する人間の身体が外部の物体によって刺激されるからこそ,その人間の精神のうちに生じてくる思惟の様態cogitandi modiなのです。このことは,第二部定理三九で,人間の身体が刺激されるのを常とするいくつかの外部の物体といわれていることから明らかです。したがって,理性的認識そのものは人間の身体が外部の物体によって刺激されるということからは独立した思考であったとしても,人間の精神がそのような思考をすることができるのは,現実的に存在する人間の身体が外部の物体に刺激されることによって,その人間の精神のうちに共通概念が形成されるからなのです。この意味では理性は,人間の身体の刺激状態から独立したような思惟作用であるとはいえないのです。
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女流王位戦&表象像と理性

2024-05-10 18:56:59 | 将棋
 札幌で指された昨日の第35期女流王位戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流四段の先手。先手がなかなか角道を開けなかったので,後手の福間香奈女流王位は角道オープン向飛車に構えました。後手が角道を止めたところで先手が角道を開けてすぐに開戦。先手玉がコンパクトにまとまっているのに対し,後手は囲いが未完成でしたから,うまいタイミングでの仕掛けだったと思います。後手は囲いが完成してから角道を止めた方がよかったのではないでしょうか。
                                       
 この将棋はここで☗5八同香と取ったために☖8八金☗同玉☖6九龍で一遍に終わってしまいました。☗5八同金と取ると形が悪くなる上に,☖6四桂や☖5七歩などの攻めは生じますが,それでもすぐに先手玉が寄るわけではなく,まだ激戦が続いていたでしょう。
 里見女流王位が連勝。第三局は23日に指される予定です。

 理性ratioは身体corpusの刺激状態の観念ideaではありません。理性の基礎は共通概念notiones communesですが,共通概念は身体の刺激状態の観念と異なったものだからです。人間は外部の物体corpusに刺激されるafficiことによって諸々の表象像imagoを獲得しまた共通概念を獲得します。いい換えれば,自分の身体が外部の物体によって刺激されることによって,それが獲得されるという点では表象像も共通概念も同じです。しかし表象像が自分の身体の刺激状態の観念であるのに対して,共通概念はそうではないのです。このことは,諸々の表象像が混乱した観念idea inadaequataであるのに対し,共通概念が十全adaequatumであるということから明らかだといわなければなりません。身体の刺激状態の観念というのは,刺激するafficereものと刺激されるもの,すなわち外部の物体と自分の身体の双方の本性essentiaを含むような観念です。ですからそれは外部の物体の十全な観念idea adaequataではあり得ませんし,自分の身体の十全な観念でもあり得ません。前者は自分の身体を刺激する限りでの外部の物体の観念ですし,後者は外部の物体に刺激される限りで自分の身体の観念であるといわなければならないからです。しかし共通概念はそうした観念ではないのであって,刺激するものと刺激されるもの,つまり外部の物体と自分の身体に共通するものの観念です。そのゆえにそれは,第二部定理三八および第二部定理三九により,十全にしか概念され得ないのです。ただしそれは共通するものの本性なので,個物res singularisの本性ではありません。つまり,外部の物体に刺激される限りでの自分の身体の観念ではありませんし,自分の身体を刺激する限りでの外部の物体の観念でもないのです。よって共通概念は,身体の刺激状態の観念ではありません。
 國分はこのことについて,哲学の伝統としての説明を与えています。共通概念を基礎とした認識cognitioは,自分の身体の刺激状態の観念を対象とはしていないがゆえに,この種の認識は理性といわれるのです。理性を身体から独立した認識とするのが,哲学におけるオーソドックスな考え方だからです。ただしこの種の伝統は,スピノザの哲学では新たな側面が与えられているのも事実だといえます。スピノザは理性を最高の認識とはしていないからです。
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農林水産大臣賞典エンプレス杯&対比の意義

2024-05-09 19:04:11 | 地方競馬
 キヨフジ記念の昨晩の第70回エンプレス杯
 オーサムリザルトが前に出ましたが,内からライオットガールが主張してハナへ。オーサムリザルトが2番手に控えその後ろにグランブリッジとアイコンテーラーとマテリアルガールの3頭。2馬身差でキャリックアリードとアーテルアストレア。8番手はグレースルビー。3馬身差でアンティキティラとマルグリッド。3馬身差でコスモポポラリタ。2馬身差の最後尾にスノーパトロールで発馬後の向正面を通過。正面に入って控えたオーサムリザルトがライオットガールの外に並んでいくと,今度はライオットガールが控え,ここからはオーサムリザルトの逃げに。ライオットガール,アイコンテーラー,アーテルアストレアの3頭が2番手で並び,グランブリッジが5番手になりました。さらに向正面に戻るとアイコンテーラーが単独の2番手となり,2馬身差の3番手がライオットガールで直後にアーテルアストレア。2馬身差でグランブリッジでその直後にキャリックアリードという隊列に。ミドルペースでした。
 3コーナーからはまだ楽な手応えのオーサムリザルトに対してアイコンテーラーは押してついていく形。ライオットガールとアーテルアストレアも続き,外を回ってグランブリッジも追い上げ,グランブリッジを追うように大外からキャリックアリード。直線に入ってアイコンテーラーはオーサムリザルトとの差を一旦は詰めたのですが,そこからは突き放されました。外のグランブリッジが2番手に上がってオーサムリザルトを追い詰めたものの届かず,オーサムリザルトが優勝。グランブリッジがクビ差で2着。大外のキャリックアリードが2馬身差で3着。
 優勝したオーサムリザルトは重賞初挑戦での制覇。ここはすでに重賞で実績をあげている馬たちと,ここまで5連勝中のオーサムリザルトという構図。オーサムリザルトは前走で牡馬相手のオープンを勝っているので,能力が通用するのは疑い得ませんでした。途中からの逃げでついてきた馬たちを突き離し,好位からの差しを凌いでの優勝なので,着差は少なくても内容は充実していたと思います。まだ遊びながら走っているようなところが見受けられるので,そのあたりは改善の余地があるでしょう。牝馬重賞ではまだ勝っていけるでしょうし,牡馬相手の重賞でも通用するのではないかと思います。Awesome Resultは素晴らしい結果。
                                        
 騎乗した武豊騎手は第50回,56回,57回,62回に続き8年ぶりのエンプレス杯5勝目。管理している池江泰寿調教師はエンプレス杯初勝利。

 日本語では意識conscientiaと良心conscientiaは似ても似つかない語であって,それぞれの意味に重なる部分があるとはいえません。しかしスピノザの時代は,意識と良心は重なり合うもの,極端にいえば同じものだったのであって,だからスピノザが意識という語を使用するときには,その意味の把握に注意をする必要があります。もちろんこれはスピノザだけに限ったことではなく,同時代の思想家,たとえばデカルトRené DescartesやホッブズThomas Hobbesを理解する際にも必要とされる注意です。僕はこのような理由もあって,スピノザの哲学における意識とは何かということを日本語で考えるときには,意識というのを良心とは異なった独立したものとして把握するために,それを無意識との対比で解するという立場を採用します。スピノザは無意識という概念notioをおそらくは有していなかったのですから,スピノザ自身がこのように意識を理解していたということはあり得ません。その意味でいえば,僕のような解釈は,スピノザの思想の理解のためには正当性を欠くといわれても仕方がないと思います。ただ現代の日本人である僕が,日本語でスピノザの思想を現代的に理解しようとするなら,僕のような方法を採用する方がよいのではないかと思います。
 さらにもうひとつ,ドゥルーズGille Deleuzeの理解との関連では,以下の点にも注意を要する必要があります。
 ドゥルーズが意識とみなすのは,自己の身体corpusが外部の物体corpusによって刺激されるafficiときの,その刺激状態の観念の観念idea ideaeのことでした。いい換えればドゥルーズは,あらゆる観念の観念が意識といわれるというようには考えていません。ドゥルーズはフランス人で,おそらく根本的にはフランス語で考える人であり,前もっていっておいたように,フランス語では現代でも意識を意味する語と良心を意味する語が同じなので,ドゥルースが意識とは何かということを主張するとき,それは良心とは何であるのかということを主張するのと同じ意味合いがあるかもしれないと解しておく必要があります。しかし僕がここでいっておきたいのは,そのことではありません。ドゥルーズのように意識を規定する場合に,理性ratioは僕たちに意識され得るものであるのか否かという点です。
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能登半島支援 万博協賛 日本選手権競輪&意識と規範

2024-05-08 19:13:12 | 競輪
 5日にいわき平競輪場で行われた第78回日本選手権競輪の決勝。並びは小林‐諸橋の上越,吉田‐平原‐武藤の関東で岩本と山口と古性と清水は単騎。
 武藤がスタートを取って吉田の前受け。4番手に古性,5番手に清水,6番手に山口,7番手に小林,最後尾に岩本で周回。残り3周のバックから小林が上昇を開始。これに古性が対応して動き,まずホームで吉田を叩いたのは古性。小林はその後で外から古性を叩き,3番手に古性,4番手に清水,5番手に山口,6番手に吉田,最後尾に岩本の隊列になって打鐘。ホームから吉田が発進。岩本も続いて4人で小林を叩きました。このまま直線まで後ろからの動きがなかったので,番手から踏み込んだ平原が優勝。このラインに続いていた岩本が外から伸びて4分の3車身差で2着。小林が叩かれ,後方からの捲り追い込みとなった古性が半車身差で3着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は一昨年7月の弥彦記念以来の優勝。ビッグは2021年10月の寛仁親王牌以来となる11勝目。GⅠは9勝目。日本選手権は初優勝。このレースはラインの前を回る選手よりは単騎の選手の方が明らかに脚力上位なので,そちらから優勝者が出るのではないかと予想していました。関東地区の5人の選手が,結果的に協力するようなレースになったのですが,これは引いた吉田が,古性や清水,山口が予期していたよりも早い段階で巻き返していったからだと思います。単騎の中では脚力では劣る岩本が2着に食い込んだのは,道中で脚をほとんど使わなかったからなのは間違いなく,したがって,たとえば古性や清水が岩本のような立ち回りをしていれば,優勝まであったのではないでしょうか。

 観念の観念idea ideaeを意識conscientiaとみなすということについて,僕がドゥルーズGille Deleuzeの影響を受けているということについては否定しません。ただ僕は,観念ideaを無意識とみなし観念の観念を意識とみなすという点から,スピノザの哲学における意識とは観念の観念であるというのですから,それは無意識との対比でそのようにいわれているという点には注意してください。僕がいうスピノザの哲学における意識というのは,その人間によって自覚される無意識のことなのであって,この観点からは,現実的に存在する人間によって認識されるような一種の自己認識であるということです。僕はこれからもこのような意味で意識といいます。
 それからもう一点だけいっておくと,スピノザが,というよりスピノザの時代に意識といわれるときには,僕たちが意識という語で意味するのとは異なった意味合いが含まれている場合があります。スピノザの時代における意識というのは,僕たちがいう意味でのモラルとか規範といった意味合い,とくにその個人的な意味合いが含まれている場合があります。たとえば第四部定理八は,意識された喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaについて語られていますが,これが善bonumでありまた悪malumであるといわれています。これなどは意識が個人的な規範と結びつけられている典型的な例であるといえるでしょう。この場合でいえば,善と悪を分かつ個人的な規範が,意識されるものであるといわれているのであって,そのことが現実的に存在する個々の人間について妥当するということになります。つまり一人ひとりの良心conscientiaとでもいうべきものが意識と結びつけられているのであって,一般にこの時代は意識と良心の間に区別はなかったのです。このことは後に別の著書を考察するときに詳しく探求しますからここではこのことだけを指摘しておきます。現代の英語では意識がconsciousnessで良心がconscienceです。このふたつがよく似た綴りなのは,ふたつが元来の意味として関係しているからです。フランス語においてはconscienceが現代でも意識という意味と良心という意味のふたつの意味をもっています。これはスピノザの時代の名残といえるでしょう。
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農林水産大臣賞典名古屋グランプリ&無意識

2024-05-07 19:12:26 | 地方競馬
 昨日の第24回名古屋グランプリ
 インに切れ込んでノットゥルノがハナへ。ヒロイックテイルとキリンジが2番手を併走。5馬身差でアルバーシャ。1馬身半差でブリーザフレスカ。6番手にアンタンスルフレで7番手にレッドファーロ。8番手はエクセスリターンとディクテオン。10番手がハクサンアルタイルとフォルベルール。2馬身差の最後尾にトランセンデンスで発馬後の向正面を通過。ノットゥルノがリードを広げていき,正面では3馬身。キリンジが単独の2番手になり,6馬身差の3番手にヒロイックテイル。さらに向正面に戻って,ノットゥルノのリードがさらに広がっていき,きわめて縦長の隊列になりました。ミドルペース。
 3コーナーではノットゥルノのリードは7馬身くらい。キリンジとヒロイックテイルの差も7馬身くらい。3馬身差でアルバーシャが4番手。ノットゥルノはそのまま直線に向かい,後続に影さえ踏ませずに楽に逃げ切り,レコードタイムで圧勝。直線でキリンジを外から差したヒロイックテイルが8馬身差で2着。キリンジが2馬身半差で3着。
                                   
 優勝したノットゥルノ佐賀記念以来の勝利で重賞3勝目。このレースはノットゥルノとディクテオンの力量が他より上で,優勝争いとみていました。ところがノットゥルノが速力で圧倒し,ディクテオンは道中で差を詰めていくことさえできませんでした。僕の見立てが大きく誤っていて,このメンバーではノットゥルノの力量が断然であったということでしょう。佐賀記念の回顧でもいったように,大井で特異に力を発揮していた馬ですが,佐賀に続いて名古屋でも結果を出したことで,その評価は覆したといっていいでしょう。左回りにはまだ課題が残っていますが,この勝ち方なら,トップクラスに追いついてきているとみていいのではないかと思います。父はハーツクライ。Notturnoはイタリア語で夜想曲。
 騎乗した武豊騎手は第2回以来22年ぶりの名古屋グランプリ2勝目。管理している音無秀孝調教師は名古屋グランプリ初勝利。

 理論上は現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの観念ideaがあれば,Xの観念の観念idea ideaeも同じ人間の精神のうちにあり,ゆえに現実的に存在する人間の精神のうちにある無意識は,その人間によって意識化されることができます。とはいえすべての観念が観念の観念として意識化されるわけではありません。このことは当然であって,もし現実的にそのようなことが生じてしまえば,僕たちはそうした情報の処理だけで手一杯になってしまい,他に何もできなくなってしまうであろうからです。ドゥルーズGille Deleuzeが指摘しているように,仮に人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによって刺激されるaffici状態の観念の観念だけを意識conscientiaと規定するとしても,第二部自然学②要請三から理解できるように,人間の身体は多種の外部の物体から多様な仕方で刺激されるので,逐一その状態を意識していたら,ほかのことに対する意識が希薄になってしまうでしょう。それはもしそのようなことがあれば人間は現実的に生き続けていくことができないという意味です。他面からいえば,人間の身体は多種の物体から多様な仕方で刺激されるがゆえに,意識化されない無意識が存在する余地もそれだけ大きくなっているといえるのです。僕は,僕たちの意識というのは僕たちの無意識のごく一部であって,僕たちの無意識というのはほとんどが意識されずに僕たちの精神のうちで観念を形成しているのだと考えます。
 スピノザはしかし,このような理論で無意識の理論を確立しようとしたわけではありません。というか,スピノザが生きていた時代にはそもそも無意識という概念notioがなかったのであって,だからスピノザも意識とは何か,そして無意識とは何かということは少しも考えていなかったであろうと思います。しかしそれでも,確かにスピノザの哲学は無意識の理論を含んでいます。このことは,自然科学として無意識という概念を確立し,その理論を構成したフロイトSigmund Freudが,スピノザの哲学の影響を受けているということを明言していることから明白だといえるでしょう。そして僕はこの観点から,観念の観念が意識であるとすれば,観念とは無意識であるというように解するのです。つまりこれは自然科学的な見解opinioです。
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NHKマイルカップ&意識

2024-05-06 19:05:13 | 中央競馬
 昨日の第29回NHKマイルカップ
 アルセナールは伸び上がるような発馬で1馬身の不利。4頭ほど前にいこうとしましたが,ボンドガール,キャプテンシー,マスクオールウィン,イフェイオンの順になり,さらにキャプテンシーが前に出ての逃げになりました。アスコリピチェーノとジャンタルマンタルは並んでその後ろを追走。ロジリオンとエンヤラヴフェイスも併走で続き,ノーブルロジャーがその後ろ。チャンネルトンネルとゴンバデカーブースは併走。ダノンマッキンリーを挟んでディスペランツァとウォーターリヒト。アレンジャーとユキノロイヤルも併走で続き発馬で不利があったアルセナール。シュトラウスは3馬身ほど離れた最後尾を追走。前半の800mは46秒3のミドルペース。
 直線の入口ではキャプテンシーとマスクオールウィンは併走となり,ボンドガールはこの2頭の内へ。しかし前の4頭の後ろにいたジャンタルマンタルがこれらの外から楽に先頭に立つと,てそのまま抜け出して快勝。ジャンタルマンタルをマークするようなレースになったロジリオンが2番手に上がりましたが,ジャンタルマンタルの内にいたため進路がなかったアスコリピチェーノが,やや強引に最内に進路を取り,フィニッシュ前にロジリオンを差して2馬身半差の2着。ロジリオンがクビ差の3着で外から追い上げてきたゴンバデカーブースがクビ差で4着。
 優勝したジャンタルマンタル朝日杯フューチュリティステークス以来の勝利で大レース2勝目。このレースは昨年の牡牝の2歳チャンピオンで,皐月賞3着のジャンタルマンタルと桜花賞2着のアスコリピチェーノの争い。アスコリピチェーノは今年の2戦目で,レース間隔はアスコリピチェーノの方が長く,アスコリピチェーノの桜花賞よりジャンタルマンタルの皐月賞の方が厳しい内容であったため,総合的にはアスコリピチェーノの方が有利かと思っていたのですが,アスコリピチェーノが直線で前が詰まってしまったこともあり,思ったより差がついてジャンタルマンタルの勝利となりました。2000mでも対応できることは皐月賞でも示しましたが,この距離の方がよいということなのでしょう。この路線ではかなりの活躍が見込める馬なのではないかと思います。Jantar Mantarはインドの天体観測施設。
                                        
 騎乗した川田将雅騎手羽田盃以来のの大レース44勝目。第27回以来となる2年ぶりのNHKマイルカップ2勝目。管理している高野友和調教師は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース7勝目。NHKマイルカップは初勝利。

 『エチカ』の草稿の発見に関する事柄はここまでとします。次に以下のことを探求します。
 『スピノザー読む人の肖像』の第4章2節の終わりから3節にかけて,スピノザの哲学における意識conscientiaと欲望cupiditasの関係が詳しく説明されています。僕は意識と欲望を関連させて考えたことはありませんでしたので,ここでの國分の議論に沿って,なぜそのふたつが関連づけられるのかということを考察していきます。
 スピノザの哲学でいわれる意識というのは,観念の観念idea ideaeを意味します。これは僕もこのブログの中で何度かいったことがあるかと思います。國分はこのような見解opinioは,ドゥルーズGille Deleuzeが示した見解の影響が強いといっています。ドゥルーズは確かに意識というのは観念の観念であるという意味のことをいっています。ただしドゥルーズは,観念の観念のすべてが意識といわれるわけではないとしています。ドゥルーズがいっているのは,身体の変状の観念ideae affectionum corporis,すなわち現実的に存在する人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによって刺激されるafficiことの観念の観念を意識とみなすということであって,それとは別種の観念の観念もありますから,そうしたものについては必ずしも意識とは規定しないのです。ただしこのことの妥当性についてはここでは検討しません。僕もドゥルーズの影響を受けているということについては否定しきれませんが,僕は観念の観念を意識とみなすことについては,別の観点から理解しているからです。
 観念の観念を意識とみなすのであれば,観念はどのようにみられるべきなのかということが問題として残ります。そしてこの問題については,僕はそれを無意識とみなします。スピノザの哲学では,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの観念があれば,その人間の精神のうちにXの観念の観念もあることができる,というか必然的にnecessarioあるということになっています。これを無意識と意識に分けていえば,現実的に存在する人間の無意識は,すべて意識化することが可能であるという意味になります。ただしこれは理論上はそれが可能であるということであって,現実的に存在する人間が,自身の無意識をすべて意識化するということを意味するわけではありません。
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ケンタッキーダービー&協力

2024-05-05 19:44:49 | 海外競馬
 日本時間の今朝,アメリカのチャーチルダウンズ競馬場で行われたケンタッキーダービーGⅠダート2000m。
 フォーエバーヤングは後方5・6番手,テーオーパスワードは後方3・4番手を追走。向正面で外に出たフォーエバーヤングは最終コーナーで漸進。前を射程圏に入れて直線へ。直線でもう少し外に出そうとしたところでシエラレオーネと接触。そこからシエラレオーネと競り合いながら先行策から抜け出したミスティックダンに迫っていきました。シエラレオーネが内に寄ってきたのでフォーエバーヤングも左前方に進むような形になったものの,フィニッシュでは3頭がほぼ並び,写真判定に。ハナ+ハナ差の3着でした。テーオーパスワードもフォーエバーヤングを追うように伸びたものの,こちらは優勝争いに加わるまでの伸び脚はなく,3着から6馬身半差で5着。フォーエバーヤングは直線で真直ぐに走れなかったのは,展開の上ではありましたがちょっと残念でした。テーオーパスワードは離されはしましたが,後方からのレースでもある程度の形になったのは収穫だったと思います。
 テーオーパスワードに帯同したテーオーサンドニは日本時間で4日の朝に同地で行われたアリシーバステークスGⅡダート1700mに出走。逃げて2着に粘り込みました。この馬は2勝クラスの馬ですから大健闘といえますが,かなり悪化した不良馬場で逃げるという戦法が功を奏したというところはあったと思います。

 最後に,次のこともいっておきます。
 僕はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが自主的に『エチカ』の草稿をステノNicola Stenoに渡してしまったということはないと想定しています。これは,ステノがホイヘンスChristiaan Huygensには自身が草稿を所持しているということだけでなく,そうしたものが存在するということさえ秘密にしたということからの類推です。しかしこれはあくまでも類推ですから,ステノの場合には事情は違っていたということを排除するものではありません。そうであったという可能性がまったくないとまではいえないでしょう。
                                        
 ステノが草稿を証拠として提出し,それに弾劾書を付したことによって,後に発行されることになったスピノザの遺稿集Opera Posthumaは,早い段階で禁書扱いされることになったのです。なぜ禁書扱いにされたのかといえば,当然ながらその内容にカトリックにとってあるいはキリスト教にとって許容し難い部分が含まれていたからです。僕は部分といいますが,その全体と考えてもらっても構いません。
 だとしたら,そうした草稿を保持していたチルンハウスも罪に問われてもおかしくはなかったといえるのではないでしょうか。ところが,チルンハウスがこのことで咎められたという話はまったく伝わっていません。これはもちろん,ステノがそれを入手した経路を秘匿しなければならない,不法なものであったから,所持していた人物がだれであるのかが明るみには出なかったからかもしれません。しかし一方で,このことに関してチルンハウスがステノに対して協力的であったからだという可能性も残るでしょう。
 チルンハウスが何らかの罪に問われていたとしたら,きっとそのことについての記録が残っている筈です。これは証拠物件であった『エチカ』の草稿が現在まで残されていることから明らかだと思います。ところがそういう記録が残っていないということは,たぶんチルンハウスが罪を咎められることがなかったからだと考えなければなりません。つまり,チルンハウスが何の罪にも問われなかったという史実は,チルンハウスはステノに協力したということの根拠にはなり得るのです。なので僕は実際にはそうであったという可能性をも排除することはしません。
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叡王戦&想定

2024-05-04 19:26:00 | 将棋
 2日に名古屋で指された第9期叡王戦五番勝負第三局。
 藤井聡太叡王の先手で角換わり相腰掛銀。後手の伊藤匠七段が最近では少なくなった指し方を選んだのですが,先手の攻めに対応を誤ったようで,先手が有利になりました。
                                       
 この王手に対して☗8八王と逃げましたが,これは危険な手でした。☗6九王と逃げておけば後手は継続手段に窮していたようです。
 ☖8六角成に☗8二角成と飛車を取るのはこの一手。これは先手の読み通りで,そこで☖6八歩成なら勝ちとみていたようです。しかし後手の指し手は☖7六銀。これが先手の読みになく,修正を迫られました。
 ☗6一飛☖4一香と王手をしてから☗8七銀と打ちましたがこれが敗着に。☗7九桂☖6八歩成☗7七銀打なら先手が残していたようです。
 後手は☖6八歩成として☗7六銀と外します。
                                       
 後手にとってはここが最後の山場。ここで☖7八とと金を取ってしまうとまた大変になるところでしたが正着の☖7六同馬を指し,そのまま押し切りました。
 伊藤七段が勝って2勝1敗。第四局は31日に指される予定です。

 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがスピノザが書いた文書をもっていてそれを秘匿しているという情報をステノNicola Stenoが得て,何らかの手段を用いてそれを入手しようとするとき,それを直接的にチルンハウスに糾すという方法と,チルンハウスがそれをステノに渡しやすくするような策を用いるというふたつの方法があり得ます。前者の手段を採用するなら,それにはさほどの時間を要さないでしょう。もちろんチルンハウスはホイヘンスChristiaan Huygensにそれを教えなかったのですから,そのことをステノに対して秘匿しようとはするでしょうが,カトリックの立場からローマにおいてそのようなものを所有しているのであれば罪に問われるというような仕方で恐喝し,それを入手するということは,ステノからすれば可能であったかもしれません。ですからステノがこのような方法を用いたのであれば,ステノとチルンハウスの間に何らかの信頼関係があったと想定する必要はありません。
 もうひとつの策を用いる場合にはそういうわけにはいかず,ある程度の時間を必要とするといわなければなりません。これは恐喝というよりは詐欺とか搾取に近い方法であって,これを成立させるためにはステノに対する信頼をチルンハウスから得ておく必要があるからです。とくにこの場合はカトリックに改宗したステノの立場というのは,チルンハウスに対してむしろ弱みに作用してしまうと考えられますから,より多くの時間を必要としたと考えておく方がよいでしょう。スピノザが死んだのが1677年2月で,異端審問所への草稿の提出は9月ですから,これは十分な時間といえるので,スピノザが死んだときにチルンハウスはまだパリにいたということを否定する要素にはなりませんが,しかしその前からチルンハウスはローマに行っていて,ステノと知り合っていたあるいはその後にステノと知り合ったという可能性もあり得ることになります。なので,スピノザが死んだときにチルンハウスはまだパリにいたと僕は想定しますが,遅くともその半年後にはチルンハウスはローマにいたのであって,僕の想定はあくまでも想定で,スピノザが死んだ時点ですでにチルンハウスがローマにいたということも僕は排除しません。
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