スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

シャートフ&アムステルダム滞在

2024-04-22 19:29:57 | 歌・小説
 『ドストエフスキー 黒い言葉』の第十一章3節で,シャートフにとってのキリスト教がどのようなものであったのかということに関する考察がなされています。『悪霊』に登場する人物のうち,シャートフについてはこのブログではまだ詳しく説明していませんから,先にシャートフがどのような人物として『悪霊』に登場しているのかということを説明しておきましょう。
                                        
 『悪霊』の主人公はスタヴローギンですが,スタヴローギンというのは裕福な家庭の育ちであって,下僕がいます。シャートフはスタヴローギンの一家に使える下僕の息子という設定になっています。物語上の設定での年齢ははっきりとしませんが,亀山は27歳か28歳であるとしています。これは何らかの根拠があってのものだと思われますので,僕もそのように解釈します。学生時代に社会主義思想に接触したシャートフは,その思想の虜となります。つまり学生時代は社会主義者であったと理解して間違いありません。ただし後に転向して,亀山がいうところのロシア・メシア思想に心酔するようになりました。僕の解釈ではシャートフは民族主義者なのですが,亀山がいうロシア・メシア思想というのは,ロシア民族の他民族に対する優越性を含んでいると解することができますから,亀山によるシャートフ像と,僕のシャートフ像の間には,相違よりも一致が多くみられるというように理解してもらって大丈夫なのではないかと思います。このシャートフの民族主義が,神と結びついていくのですが,このことはまた別にみていくことにします。
 このロシア・メシア思想というのが重要なのは,ドストエフスキー自身の思想と関係していると思われる点です。ドストエフスキーはロシアの大地ということを自身の思想としてもまた小説の中でも力説することがあるのですが,それはある意味ではドストエフスキーによるロシア・メシア思想であるといえなくもないからです。亀山はシャートフという人物はドストエフスキーの最晩年の思想的境地を先取りするといっていて,この時点ではドストエフスキーはそうした境地に達していなかったとみているわけですが,僕は必ずしもそうとはいえないのではないかと思います。たとえば『罪と罰』でソーニャがラスコーリニコフに大地にキスをするように要求するとき,地球の大地ではなくロシアの大地という意味が含まれているとみることもできると思うからです。

 テムズ川で足止めされてしまったライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,その間に言語,自然学,数学についてのいくつかの小論を執筆し,スピノザとの面会に備えて一連の覚書と質問事項を準備したと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。ナドラーSteven Nadlerは,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは何らかの方法で『エチカ』の手稿をライプニッツに見せたので,ライプニッツはその内容のほとんどを知っていたと想定しています。ただ,ナドラーは史実として確定している出来事に関しては断定的に記述するのですが,この部分はそうとしか思われないという記述になっていますので,史実として確定する必要はありません。実際にナドラーはこの部分に注解をつけていて,そこにはフリードマンGeorges Friedmannによる,この頃にはライプニッツは『エチカ』の内容にほとんど精通していなかったという見解が示されています。僕はナドラーよりもフリードマンの見解に近く,チルンハウスはライプニッツに『エチカ』の手稿を見せなかったどころか,それを自身が所持しているということさえ教えなかったのではないかと想定していますが,僕の想定もあり得るということは,ナドラーは全面的には否定しないと思われます。
 ライプニッツはこの後でオランダに到着したのですが,すぐにスピノザと面会したわけではなく,アムステルダムAmsterdamに1ヶ月ほど滞在しました。ナドラーはその間にライプニッツがフッデJohann Huddeと会ったこと,そしてシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったことを確定的な出来事として記述しています。このときにシュラーは書簡十二をライプニッツに見せ,ライプニッツは後にそれに批評を加えています。書簡十二はマイエルLodewijk Meyerに宛てられたものですが,この書簡は「無限なるものの本性について」という副題がついた有名なもので,少なくともスピノザと親しかった関係にあった人たちの間では回覧されていたものでした。このときにシュラーが見せたのは,マイエルに宛てられた書簡そのものではなく,その書簡を書写したものだったと推測されます。それをシュラーが所持していることは何ら不思議ではありません。
 ライプニッツはこの後,デルフトDelftに向かって,レーウェンフックAntoni von Leeuwenhookを訪問したことも確定的な出来事として記述されています。
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叡王戦&チルンハウスとライプニッツ

2024-04-21 19:42:56 | 将棋
 片山津温泉で指された昨日の第9期叡王戦五番勝負第二局。
 伊藤匠七段の先手で後手の藤井聡太叡王の3三金型の角換り。先手が1筋の位を取っている間に後手が早繰り銀から先攻する将棋になりました。
                                        
 ここから後手は☖6六飛☗同歩と飛車金交換をしてから☖8七歩成としました。
 先手は☗2四歩☖同歩の突き捨てを入れてから☗8七金とと金を払いました。
 後手は☖4五銀と攻めを継続。☗同銀☖同桂に☗同馬に☖2八角成と飛車を取りました。しかし☗4四歩が厳しく,先手が攻め合って勝てる局面になりました。
                                        
 第2図は2筋の突き捨てが入っていることと,6七の地点が開いていることが形勢に大きく影響しています。なので後手は第1図で飛車を見捨てて先手から取らせることによって1手を稼ぎ,その間に攻めていくべきだったことになります。感想戦では☖2七銀が有力だったと結論されています。また単に☖8七歩成も,先手がまだ飛車を入手していない関係で2筋の突き捨てが入らない可能性が高く,有力であったと思われます。
 伊藤七段が勝って1勝1敗。第三局は来月2日に指される予定です。

 書簡七十では,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはきわめて学殖が高く,諸種の科学に精通し,神学に関する世間並の偏見に捉われていないというように紹介され,そのライプニッツとチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは親しい交際に入っていると書かれています。さらにライプニッツに対する称賛が重ねられた上で,ライプニッツに『エチカ』の手稿を読ませることの打診がなされています。つまり,チルンハウスとライプニッツが会ったばかりであるということは考えられません。また,チルンハウスからシュラーGeorg Hermann Schullerへの書簡が届いてすぐにシュラーがスピノザに書簡七十を書いたのだとしても,チルンハウスが書いた手紙がシュラーの手許に届くまでにそれなりに時間を要したことでしょう。なので,書簡七十が1675年11月15日付になっていることからして,チルンハウスがパリに到着したのが11月だったとは僕には考えられません。ですからチルンハウスがパリに到着したのは,早ければ1675年の8月のうち,遅くとも同年の10月だったと僕はみます。
 ライプニッツがハノーファーに戻るためにパリを発ったのは,1676年10月です。これ以降はライプニッツはパリに戻っていません。つまり,チルンハウスとライプニッツが親しく交際していたのは,およそ1年だったことになります。
 パリを発ったライプニッツはイギリスに渡り,1週間ほどロンドンに滞在しました。この間にオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会しています。これはスピノザからオルデンブルクに宛てた手紙を筆写し,後に批評を加えていることから歴史的事実と確定することができます。これはおそらく書簡七十三,書簡七十五,書簡七十八などのことでしょう。以前にもいったかもしれませんが,この当時の書簡というのは,後々に公開する文書という意味合いがありました。だからスピノザの往復書簡集も遺稿集Opera Posthumaの一部として刊行されたのです。なので自身に宛てられた書簡を,スピノザに無断でライプニッツに見せたからといって,オルデンブルクが責められるべきことではありません。
 この後,ライプニッツは船に乗ってオランダを目指しましたのですが,強風の影響でテムズ川で足止めされてしまいました。
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書簡十三&チルンハウスとシュラー

2024-04-20 19:11:52 | 哲学
 スピノザがデカルトRené Descartesの物理学の影響を受けていた一例を示している書簡十三は,1663年7月27日付で,書簡十一の返信としてスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに出されたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                                        
 この書簡の最初の部分に,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の出版の経緯が書かれています。これは返信が遅れた事情の説明のために付せられたのですが,もしかしたらこれがないと出版の事情の詳しいことは後世に残らなかったかもしれません。
 書簡の本文の全体は,ロバート・ボイルRobert Boyleの実験に関連する事項で占められています。その中に,デカルトと関連する事柄が含まれています。
 スピノザはこれより前に,硝石の粒子はより大なる孔においてはきわめて微細な物質によって包まれるということを,真空vacuumすなわち空虚vacuumは存在しないということから論証しました。スピノザがそのように論証しているということはボイルも理解しています。ところがボイルは空虚の不可能性を,仮説としています。スピノザはこの点を不審に考えています。というのはボイルは実在的な偶有性,この偶有性というのはスコラ哲学の用語で,たとえばものの色とか匂いというような性質を意味しますが,スコラ学派ではこの偶有性は実体substantiaから離れた実在性realitasを有するとされていて,これが実在的偶有性といわれ,ボイルはその実在的偶有性を否定しています。それを否定するnegareという点でボイルはスピノザやデカルトと一致するのですが,そうであるなら空虚の不可能性を疑うのはおかしいとスピノザは考えるのです。実体なき量が存在するなら実在的偶有性は存在することになるので,偶有性の実在性を否定するならば実体なき量が存在するということを否定することになり,それは空虚の存在を否定するのと同じことだとスピノザは考えるのです。
 もうひとつ,ボイルは自身がデカルトを非難しているとは思っていなかったようですが,ボイルが書いたことと『哲学原理Principia philosophiae』を読み比べれば,ボイルがデカルトの名誉を傷つけないような仕方で,いい換えればボイルの哲学する自由libertas philosophandiに基づいて,デカルトを非難しているのは明白だとスピノザはいっています。ボイルはデカルトのことをおそらく頭に入れずに書いたのですが,それがスピノザはデカルトへの非難と受け止めたということです。いい換えればそれは,ボイルがデカルトの影響を受けていないのに対し,スピノザは受けていたということになるでしょう。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが訪問するという通知をスピノザがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受け取っていたということは,当然ながらチルンハウスはライプニッツがスピノザを訪問するということを知っていたということを意味します。ここでもう一度,これを時系列で追っていきましょう。
 チルンハウスがパリに到着したということをスピノザに伝えている書簡は書簡七十です。これはシュラーGeorg Hermann Schullerからのもので,1675年11月15日付です。パリに着く前にチルンハウスはイギリスを訪ねていて,そこでオルデンブルクHeinrich Ordenburgそしておそらくはロバート・ボイルRobert Boyleと面会しています。この面会で途絶えていたスピノザとオルデンブルクとの間の文通は再開したのですが,オルデンブルクからスピノザに宛てられた書簡六十一は,1675年6月8日付ですでにスピノザに届いています。つまりこの前にチルンハウスはロンドンでオルデンブルクと面会したことになります。
 書簡七十には,チルンハウスからの手紙が3ヶ月も途絶えていたので,イギリスからパリへ移る中途で何かよくないことが起こったのではないかとシュラーは心配していたという旨の記述があります。これは,チルンハウスとシュラーの間では,3ヶ月の書簡の不通でシュラーが心配するくらいの書簡のやり取りがあったということを意味する重要な資料だといえます。そしてシュラーは,今,手紙が来たといっていますから,書簡七十は,3ヶ月ぶりの書簡がチルンハウスからシュラーに届いてすぐに出されたものだと分かります。この書簡の中に,パリに到着したチルンハウスがすぐにホイヘンスChristiaan Huygensと会ったことと,ライプニッツにも出会い,『エチカ』の手稿を読ませることの許可を求めているということが書かれているわけですから,実際にチルンハウスがパリに到着したのは,チルンハウスからの書簡がシュラーに届くよりもある程度は前のことだったでしょう。ただしどんなに早くても3ヶ月前ですから,1675年8月より前だったということはあり得ません。書簡六十一が6月8日付ですから,8月にはチルンハウスがパリに到着していたという可能性はあり得ます。書簡七十の内容から,11月ということはないと思われます。
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マイナビ女子オープン&ステノの赴任

2024-04-19 19:07:56 | 将棋
 17日に甲府で指された第17期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 大島綾華女流二段の先手で西山朋佳女王の角道オープン四間飛車。角交換向飛車に進展しました。中盤でうまく戦機を掴んだ先手が優位に進める将棋に。
                                        
 5三にいた銀が逃げた局面。先手は☗6二歩と打ちました。
 後手の反撃は☖6六歩で☗6八金☖7五歩☗8七銀に☖6五角。
                                        
 実戦はここで☗5二銀不成と銀を逃げながら攻めましたが,☖同銀☗同飛成に☖5一歩がうまい受けで後手の勝ちとなりました。
 第2図で☗5四歩が有力のようなのですが,☖5六金で後手が勝ちと感想戦で結論が出ています。
 ということは第1図で☗6二歩と打ったのが手筋のようであまりよくなく,先に☗5二銀不成か☗5四歩としておかなければならなかったということになりそうです。
 西山女王が連勝。第三局は来月12日に指される予定です。

 ステノNicola Stenoが司祭になったのは1675年というものと1677年としているものがあります。僕にはどちらが正しいか分かりません。また,1675年でいわれている司祭と,1677年でいわれている司祭が,実は違う役職のことを意味していて,どちらも正しいという可能性もあります。なのでこの点については確定的なことはいいませんが,1677年に司祭になっているということは確実視してよいでしょう。
 司祭になったステノはドイツに赴任して,カトリックの布教に従事したのです。それが1677年からということは,史実として確定させてよいようです。なので,ステノがドイツで従事したのが1677年の初めからであれば,スピノザが死んだときにステノはドイツにいたことになり,ハノーファーに戻っていたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizと知り合って一緒に仕事をしていたという可能性が残ることになります。僕は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の当該部分でステノとライプニッツの関係について言及されている部分は脚色であると考えますが,脚色としてはスチュアートMatthew Stewartはこのことを利用しているということができるでしょう。ステノがドイツに赴任してからライプニッツと知り合うということはあり得ないわけではなく,だからライプニッツとステノが一緒に仕事をしていたということはともかく,ふたりの間に何らかの関係があったということまで全面的に否定する必要はないのかもしれません。
 『エチカ』の手稿に弾劾書を付してステノが異端審問所に告発したのは1677年9月23日でした。なのでこのときにはステノはローマにいたのです。このときにステノがローマにいたのは,まだドイツに赴任する前であったからだと僕には思えます。ですから,ハノーファーでライプニッツとステノが,スピノザが死んだときに一緒に仕事をしていたということは脚色であると僕は考えるのです。
 ライプニッツがスピノザを訪問したとき,スピノザは訪問の報知をシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受けていた筈だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に記述されています。こちらの本は純粋な伝記ですから,ナドラーSteven Nadlerの創作や脚色が含まれているというようなことは心配する必要がありません。
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しらさぎ賞&ハノーファー

2024-04-18 18:58:33 | 地方競馬
 高知から1頭が遠征してきた第62回しらさぎ賞
 大外からボヌールバローズがハナを奪いました。1馬身ずつの間隔で,ラビュリントス,ツーシャドー,ジゼル,サダムスキャットの順で続き,2馬身差でリコシェ。7番手にサーフズアップ。この後ろはトキノゴールドとジュネスとカラフルキューブ。アイゴールドが続き,プリーチトヤーンは大きく離されてしまいました。最初の600mは35秒8のハイペース。
 3コーナーを回るとボヌールバローズにツーシャドーが並び掛けていき,向正面で動いたジゼルがその外。内を回ったのがサダムスキャット。直線に入るとボヌールバローズとツーシャドーの競り合いになり,ボヌールバローズの内からサダムスキャット。4コーナーで外に膨れてしまったジゼルは大外から追ってきました。ボヌールバローズを競り落としたツーシャドーがそのまま抜け出して優勝。内を突いたサダムスキャットが2馬身差で2着。大外のジゼルがアタマ差の3着で,一杯になったボヌールバローズが半馬身差で4着。
 優勝したツーシャドーは南関東重賞初制覇。前走はこのレースのトライアルで,ジゼルの3着。3走前に東京シンデレラマイルのトライアルを勝っていて,そのときの2着がサダムスキャットでしたから,上位3頭が力を出した結果といえそうです。ただこのレースはそれほどレベルが高かったというわけではないので,上位3頭が今後も南関東重賞で活躍できるのかは不分明なのではないでしょうか。父はダノンレジェンド。母の父はサウスヴィグラス。祖母の父がバブルガムフェロー。曾祖母の父は1989年のJRA賞で最優秀父内国産馬に選出されたバンブービギン
 騎乗した大井の和田譲治騎手は京成盃グランドマイラーズ以来の南関東重賞16勝目。しらさぎ賞は初勝利。管理している浦和の小沢宏次調教師は開業から10年8ヶ月で南関東重賞初勝利。

 オランダで優勢だったのはプロテスタントのカルヴァン派で,カルヴァン派の有力者で知己の人物というのはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにもいなかったかもしれません。しかしスピノザの遺稿集Opera Posthumaの発刊を阻止したかったのは,カルヴァン派だけでなかったということは,カトリックであったステノNicola Stenoが『エチカ』の手稿を異端審問所に持ち込んだことから明白です。ですからカトリックとしては,発刊された後にそれを禁書として指定するよりも,発刊そのものを阻止できればなおよかったことでしょう。ライプニッツはそうした希望に沿うようなこと,つまり遺稿集の発刊の阻止に協力することができる立場であったのですが,そうしなかったのです。そして発刊された遺稿集を入手したライプニッツは,『エチカ』の研究に勤しんだのですから,ライプニッツが発刊を望んでいたことも疑い得ません。だから仮にステノとライプニッツが一緒に仕事をしていたとしても,ライプニッツはステノの希望には素知らぬふりを続けたでしょう。なのでこのエピソードは,脚色であったとしてもよくできたものであると僕は考えます。
                                        
 それからもうひとつ,このエピソードの挿入には指摘しておかなければならないことがあります。
 スピノザが死んだのは1677年2月です。そのときはライプニッツはパリにいたわけではありません。かつてスピノザと文通していた頃のライプニッツは,書簡七十二でいわれているようにフランクフルトの顧問官でした。だから書簡四十五はフランクフルトから送られています。その後でパリで仕事をするようになったライプニッツは,ドイツに戻るように命を受けました。たぶんライプニッツはパリにい続けたかったので,理由をつけて帰国を拒んでいたのですが,強い命令でどうしても戻らなければならなくなりました。しかしすぐに帰らず,ロンドンを経由してからオランダに入り,ハーグにスピノザを訪問したのです。これが1676年のことで,その後でライプニッツはハノーファーに戻っています。だからライプニッツはハノーファーでスピノザが死んだという連絡をシュラーGeorg Hermann Schullerから受けたことになります。つまりこの脚色はハノーファーにおける出来事です。
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アイドリームドアドリーム&脚色

2024-04-17 19:06:03 | 血統
 大阪杯を勝ったベラジオオペラの輸入基礎繁殖牝馬は,4代母で1987年にアメリカで産まれたアイドリームドアドリームです。ソネラ,クヰックランチと祖を同じくするファミリーナンバー4-rの分枝。
                                        
 アメリカで1頭の産駒を産んでから輸入されました。日本での初産駒はエアデジャヴー。1998年にクイーンステークスを勝ちました。
 エアデジャヴーが繁殖牝馬となって初めて産んだのがエアシェイディ。2008年にアメリカジョッキークラブカップを勝っています。
 そのひとつ下の全妹がエアメサイア。2005年にローズステークスと秋華賞を勝っています。
 エアメサイアも繁殖牝馬になりました。2013年の産駒がエアスピネル。2015年にデイリー杯2歳ステークスを勝つと,2017年には京都金杯と富士ステークスを勝ちました。
 エアスピネルのひとつ下の全弟はエアウィンザー。2018年のチャレンジカップの勝ち馬です。
 エアメサイアのひとつ下の全妹はJRAで4勝。繁殖牝馬となって2011年に産んだのがエアアンセム。2018年に函館記念を勝ちました。
 エアアンセムのひとつ下の半妹は競走馬としては1勝。この馬がベラジオオペラの母です。
 エアデジャヴーのふたつ下の半弟はエアシャカール。2000年に皐月賞と菊花賞を制覇。この一族の最初の大レースの勝ち馬がこの馬です。
 エアシャカールのひとつ下の全妹は競走馬としては2勝。繁殖牝馬となり,2014年に鳴尾記念と毎日王冠を勝ったエアソミュールの母になっています。
 このように活躍馬が続出している一族。最近はやや活力が薄れている感がありましたが,3頭目の大レースの勝ち馬が出ました。まだ継続していきそうな一族です。

 仮にスチュアートMatthew Stewartがいっていることが事実であったとしてみましょう。その場合,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがローマにいてステノNicola Stenoと知り合ったという部分が怪しくなります。チルンハウスは,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の手稿を読ませてもよいのではないかと考えたのです。それはつまり,ライプニッツとチルンハウスはそれくらい親しかったことを意味します。ですからもしもステノがライプニッツと一緒に仕事をしていたのであれば,ステノとチルンハウスもどこかで知り合っていた可能性があるからです。なのでこの場合は,ステノが何らかの画策で『エチカ』の手稿を入手したのはローマではなく,それをステノがローマにもっていったという可能性まで想定しておかなければならないでしょう。チルンハウスがローマにいたということは,『スピノザー読む人の肖像』では確定的に記述されていますが,これを史実としてよいという情報は示されていませんので,そういう可能性がまったくなかったとは僕はいいません。
 しかし,スチュアートがいっていることはたぶん史実ではありません。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』は元来は脚本として書くことを意図されていた内容であって,そこにはおそらくスチュアートの脚色が入っていて,この部分はおそらくそのひとつであると僕は思います。ステノとライプニッツが一緒に仕事をしていたという情報を僕はほかに知りませんし,そもそもステノがこのときにライプニッツと一緒にいたことも疑わしいのです。
 あらかじめいっておいたように,この部分はライプニッツはスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊されるのを楽しみにしていたというエピソードとして,たぶん創作されています。ただこの脚色は,脚色としてはよくできたものだとは思います。仮にステノとライプニッツが一緒に仕事をしていて,それならライプニッツはステノに,スピノザの遺稿集の出版の準備が進んでいて,その編集をしているのがだれであるのかということを教えたのかといえば,やはり教えることはなかったであろうからです。ライプニッツはカトリックとプロテスタントの統一を真剣に考えていたくらいですから,教会の有力者の知人がまったくいなかったとは考えられません。
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マイナビ女子オープン&ステノの役割

2024-04-16 19:08:14 | 将棋
 9日に鶴巻温泉で指された第17期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女王が1勝,大島綾華女流二段が0勝。
 マイナビの社長による振駒で西山女王が先手となって角道オープン三間飛車。後手の大島女流二段は金無双風の構えで浮飛車。これは大島女流二段が多用している作戦です。
                                       
 ここで先手は☗7五歩と突きました。ここは☗7二銀☖8二飛☗5三角成☖同金☗8三銀打と飛車を取りにいくのも有力で,そちらの方がよかったようです。
 後手は☖6六角と出ました。そこから☗7四歩☖8八角成☗7六飛☖8七馬☗6七金☖7六馬☗同金☖7六金☗7九飛と進展。先手は☗7七角打と受けました。
                                       
 この角打ちが絶好で,先手がリードしました。☖6六角と指すとほぼ一直線の進行なので,後手は角を出るのではなく,☖8五桂と桂馬の方を捌きにいくのが優ったようです。
 西山女王が先勝。第二局は明日の予定です。

 少なくともうすうすは気付いていたであろうというのは,おそらく確信めいたものをもっていたであろうという意味です。つまり,『エチカ』の手稿をステノNicola Stenoが異端審問所に提出したとき,ステノは提出した手稿の作者がスピノザであるということを,確実視していたであろうというのが僕の推定です。こういったことは,同時にステノが提出した弾劾書の方からさらに高確率の推測が可能かもしれませんが,弾劾書の内容については國分は触れていません。ただこれは元の文書が読めるようにはなっているようです。とはいえそれを僕が解読することは不可能です。
 『エチカ』を含むスピノザの遺稿集Opera Posthumaが実際に発刊されたのは1677年の末のことでした。ステノの告発は同年の9月でしたから,発刊された遺稿集は数週間後には多くの教会評議会や教会会議から不承認とされました。つまり遺稿集が世間に出回るのを阻止するために,ステノは大きな役割を果たしたということになります。
 ここまでが『スピノザー読む人の肖像』に記されている史実と,それに関連する僕の補足です。一方この事実は,これまでのこのブログとの関連で,考察し直しておかなければならない事柄を含みます。
 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,スピノザが死んだときにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとステノは一緒に仕事をしていて,ステノは遺稿集の出版を阻止したいと思っていたのだけれども,編集者のひとりであるシュラーGeorg Hermann Schullerと連絡を取り合い,どこでだれが遺稿集を編集しているのかを知っていたライプニッツは,そのことをステノには秘匿したという主旨の記述があります。これは,ライプニッツはスピノザの遺稿集が発刊されることを願っていたということを示すひとつのエピソードとして挿入されているといっていいでしょう。ライプニッツがそれを願っていたことは間違いありません。もちろんそれが出版されることで,自身がスピノザと関係をもっていたということが世間に知られていしまうという不安を感じてはいたでしょうが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから『エチカ』の手稿を読ませてもらえなかったライプニッツは,スピノザの哲学の全貌を知りたかったのは疑い得ないと思います。
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よさこい賞争覇戦&記名

2024-04-15 19:14:09 | 競輪
 昨日の高知記念の決勝。並びは新山‐佐藤‐永沢の北日本,犬伏‐清水の四国中国,阿部‐大坪の九州で坂井と深谷は単騎。
 犬伏と阿部がスタートを取りにいき,犬伏が誘導の後ろに入って前受け。3番手に阿部,5番手に新山,8番手に深谷,最後尾に坂井で周回。残り2周のホームの出口から新山が上昇を開始。しかし犬伏が突っ張りました。この間に深谷が大坪の後ろに入り,坂井も続いたので,引いた新山が7番手になって打鐘。バックに入って深谷が発進するも,スピードが鈍く,前に届く前に犬伏の番手から清水が発進。清水マークのようなレースになった阿部が外から清水を差して優勝。清水が4分の1車輪差で2着。3着は接戦でしたが,深谷に乗る形になった坂井が1車身半差の3着。深谷がタイヤ差で4着。
 優勝した大分の阿部将大選手は2月の前橋のFⅠを完全優勝して以来の優勝。一昨年3月の土佐水木賞以来となるGⅢ2勝目。記念競輪は初優勝。犬伏が前で受けて新山を突っ張るというのは僕にとっては意外な展開でした。深谷と坂井が北日本ラインの後ろを回っていたのは,新山が先行するとみていたからだと思います。犬伏が突っ張ったところで上昇した判断はよかったと思いますが,事前の想定とは違った展開だったのではないでしょうか。清水にとっては有利な展開でしたが,高知は直線が長いので,自力があって清水マークになった阿部が絶好になったというレースだったと思います。GⅢの2勝がいずれも高知ですから,高知は得意バンクといえるのかもしれません。

 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが所持していた『エチカ』の草稿に,スピノザの名前が書かれていなかったのは,それが他者の手に渡ってしまったときの危険性を低下させるためではあったでしょう。ただスピノザは,『エチカ』を発刊することがあったら,著者名を付す必要ないと考えていたのも事実です。もちろんそれは,かつて『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を出版したときのように,作者を特定されない目的があったかもしれませんが,スピノザ自身の哲学的な考え方も影響しています。哲学のように真理veritasを明らかにすることを目的とするなら,著者名は不要というのがスピノザの考えだったのです。なぜなら,真理は唯一なので,それはだれが書いたとしても同じになるからです。スピノザの哲学の特徴のひとつとして,主体の排除というのがあるということは何度もいっていることですが,その主体の排除の考え方に従えば,『エチカ』に著者名は不要という結論になるのです。
                                   
 チルンハウスからステノNicola Stenoの手に渡った『エチカ』の草稿は,だれが書いたものであるという記名がありませんでした。ステノは中身を精査して,1677年9月23日付で,弾劾書を付した上でその手稿をローマの異端審問所に持ち込みました。この結果として『エチカ』は禁書目録に登録されました。それと同時にステノが提出した『エチカ』の手稿は証拠物件として異端審問所の文書保管庫に留め置かれることになったのです。前もっていっておいた通り,それは後にヴァチカン図書館に移され,2010年にスプラウトによって発見されることになるのです。
 ステノは内容を精査して『エチカ』の手稿を異端審問所に持ち込んだのですが,だれが書いたものか分かっていたのか分かっていなかったのかは不明です。ただ,ステノはチルンハウスがスピノザと親しいということはおそらく知っていたのではないかと思われますし,書簡六十七の二の内容から,スピノザがどのような思想家であったかということも分かっていたと思われます。ですからだれが書いたものであるのかまったく推測もできなかったということは僕には考えにくいです。少なくとも著者がスピノザであることに,うすうすは気付いていたでしょう。
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皐月賞&心の隙

2024-04-14 18:56:49 | 中央競馬
 第84回皐月賞。ダノンデサイルが馬場入場後に右前脚の歩行のバランスを欠いたために競走除外となって17頭。
 ビザンチンドリームは立ち上がってしまい3馬身の不利。メイショウタバル,シリウスコルト,ジャンタルマンタルの3頭が前に。アレグロブリランテ,ジャスティンミラノと続いてサンライズジパングとミスタージーティーとシンエンペラーが併走。ルカランフィーストとホウオウプロザンゲ,アーバンシックとコスモキュランダとサンライズアース,エコロヴァルツとウォーターリヒト。レガレイラが馬群の最後尾。ビザンチンドリームは離されてしまいました。1コーナーではメイショウタバルが単独の先頭に立ち,2番手にシリウスコルト。3番手がアレグロブリランテとジャンタルマンタルの併走に。メイショウタバルはここから後ろを引き離していき,向正面では8馬身くらいのリードをつける大逃げに。前半の1000mは57秒5の超ハイペース。
 メイショウタバルのリードは3コーナーでは6馬身。シリウスコルトが差を詰めていくとその外からジャンタルマンタルも追い上げてきて,直線の入口ではメイショウタバルに並び掛けて直線に入るとすぐに抜け出しました。追ってきたのはジャスティンミラノとコスモキュランダ。この2頭が競り合いながら内のジャンタルマンタルを差して優勝争い。先んじていたジャスティンミラノが凌ぎ,レコードタイムで優勝。コスモキュランダがクビ差で2着。内容はかなり強かったジャンタルマンタルは半馬身差で3着。
 優勝したジャスティンミラノはデビューから3連勝。共同通信杯に続く重賞2勝目での大レース制覇。前走と同じくらいの差をジャンタルマンタルにつけていますので,2頭とも力を発揮しての結果ということになるでしょう。ですからコスモキュランダはジャスティンミラノに遜色がない力量をもっていることになり,コスモキュランダとシンエンペラーの差も弥生賞と同じくらい。ホープフルステークスでシンエンペラーに勝ったレガレイラもそれと差がないところまできていますから,概ね各馬が力量を出した好レースだったといえそうです。レコードタイムはペースの関係もありますから何ともいえないかもしれませんが,この世代のレベルの高さの証という可能性もありそうです。キャリアを考えると将来性は上位馬の中で最も高いのではないでしょうか。父はキズナ
 騎乗した戸崎圭太騎手は昨年の安田記念以来の大レース21勝目。第78回以来となる6年ぶりの皐月賞2勝目。管理している友道康夫調教師は有馬記念以来の大レース21勝目。第69回以来となる15年ぶりの皐月賞2勝目。

 遺稿集Opera Posthumaが出版されれば手稿は捨てるものだから,それを廃棄したらステノNicola Stenoの手に渡ってしまったとか,捨てるのではなくチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが自らステノに渡してしまったというのは,推測としては短絡的だといえそうです。ただ,遺稿集が出版されれば,そこに『エチカ』は掲載されるのですから,チルンハウスにとって手稿が不要になるのは間違いありません。出版されればそれはシュラーGeorg Hermann Schullerからチルンハウスに贈られるでしょうから,もしも自身が『エチカ』を研究しようと思えば遺稿集に掲載されたものを利用すればよいのですし,もしかしたらチルンハウスは,スピノザの死によって,スピノザの哲学に対する関心を失ったり薄めたりしたかもしれず,その場合も手稿は不要になることになります。だから少なくともチルンハウスは,それまでは手稿を他人に見つからないような仕方で慎重に扱っていたと思われますが,こうした事情によって,失ってしまっても構わないというような気持ちが心の片隅に芽生えてしまったとしてもおかしくはありません。僕はステノが何らかの画策をして,『エチカ』の手稿をチルンハウスから略奪するなり騙し取るなりした可能性が最も高いと思いますが,チルンハウスの側にもそうなってしまう心の隙あるいは油断のようなものが,その時点ではあったのではないかと思います。
                                        
 ステノは『エチカ』の手稿を入手したのですが,そこにはひとつの欠点がありました。実はチルンハウスが所持していた手稿は,ピーター・ファン・ヘントが書いたものですが,それは後の筆跡鑑定で明らかになったということから理解できるように,ヘントが書いたということが手稿そのものに記載されていたというわけではありません。それと同様に,手稿の原稿がだれの手によるものなのかということ,つまりそれがスピノザの著作物であるということは,手稿には書かれていませんでした。つまりチルンハウスが所有していた手稿というのは,文字通りに『エチカ』の本文なのであって,スピノザの手によるものだということは書かれていませんでした。これはもちろん,その手稿が他人の手に渡ったときの危険性を低下させるのが最大の目的だったでしょう。
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農林水産省賞典中山グランドジャンプ&チルンハウスの事情

2024-04-13 20:16:41 | 中央競馬
 第26回中山グランドジャンプ
 ワンダークローバーは2馬身,マイネルグロンは1馬身の不利が発馬でありました。まず先頭に立ったのはビレッジイーグル。2番手にジューンベロシティとギガバッケン。4番手にニシノデイジー。5番手にエコロデュエルとタマモワカムシャ。2馬身差でイロゴトシとフロールシュタット。マイネルグロンが9番手まで巻き返し10番手にダイシンクローバー。2馬身差でポルタフォリオ。2馬身差の最後尾にワンダークローバー。1周目の正面でタマモワカムシャは落馬。その後のコーナーでポルタフォリオとワンダークローバーの2頭はほかの9頭から大きく離されていきました。最初の大竹柵でニシノデイジーが先頭に立ち,4馬身ほどでビレッジイーグル,さらに4馬身ほどでフロールシュタットと,前がばらけました。ニシノデイジーはさらに差を広げていき,2度目の大障害コースでリードは7馬身くらいに。
 向正面に戻ってニシノデイジーのリードは詰まり4馬身くらい。2番手にビレッジイーグルで3番手にイロゴトシ。3馬身差でジューンベロシティが続き5番手にエコロデュエル。マイネルグロンはその後ろ。向正面の半ばでニシノデイジーとビレッジイーグルとイロゴトシが併走に。その後ろは8馬身ほどの差があってジューンベロシティとエコロデュエル。3コーナーではビレッジイーグルとイロゴトシが前に出てニシノデイジーは3番手に後退。外のイロゴトシがビレッジイーグルを振り切り,単独の先頭に立って直線に。一杯でしたがそのままリードを保って優勝。また盛り返してきたニシノデイジーがビレッジイーグルと競り合うところ,外へ外へと切れ込みながらジューンベロシティが追い込んで3馬身差で2着。ビレッジイーグルを競り落としたニシノデイジーが2馬身半差で3着。
 優勝したイロゴトシは昨年の中山グランドジャンプ以来の勝利で大レース2勝目。連覇を達成しました。その後は昨年の10月に東京ハイジャンプを走って6着。今年は平場の特別戦を使ってここに臨みました。断然の人気に推されていたマイネルグロンには東京ハイジャンプで敗れていましたが,中山の長距離戦では初対戦。負かせる可能性が最も高そうなのはこの馬だと思っていました。ただマイネルグロンは道中の進みが悪く,今日は本調子になかったのではないかと思われますので,真の決着がつくのはこれからということになりそうです。父は2015年に東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌでその父がディープインパクトで母がフラワーパーク。母の父はクロフネ
 騎乗した黒岩悠騎手は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース2勝目。管理している牧田和弥調教師は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース2勝目。

 ここではチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの事情というのも推測してみます。
 チルンハウスはシュラーGeorg Hermann Schullerを介してスピノザのことを知りました。だからスピノザとチルンハウスの間で交わされた書簡のいくつかはシュラーを介して交わされています。したがって,チルンハウスはスピノザが死んだということを,シュラーから伝えられたと思われます。スピノザが死んだからチルンハウスとシュラーの関係が途絶えたとは考えにくいので,おそらくその後の状況についてもチルンハウスはシュラーから伝えられていたのではないかと思われます。
                                        
 このことは,『スピノザ往復書簡集Epistolae』の成立事情からそうだったのではないかと僕は推測します。遺稿集Opera Posthumaの編集者たちは,スピノザとの間での書簡を遺稿集に掲載するにあたって,可能であれば当事者にその可否を確認したと思われます。だからライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとスピノザとの間に交わされた書簡の多くは掲載を見送られたのだし,フッデJohann Huddeからスピノザに宛てられた書簡の全ても掲載を見送られ,スピノザからフッデに宛てられた書簡には宛先が掲載されなかったのです。書簡集の編集が進められていたアムステルダムAmsterdamにはチルンハウスはそのときにはいなかったのですが,事情は同じであったライプニッツの意向がある程度は尊重されたということは,チルンハウスにも何らかの確認があったと思われます。書簡を通して容易に連絡が取れたという点では,ライプニッツもチルンハウスも同じであったと思われるからです。逆にいえば,チルンハウスの書簡はそのすべて,あるいはほとんどが遺稿集に掲載されたのは,チルンハウスが掲載されても構わないと考えていたからだろうと僕は推測しています。
 おそらくチルンハウスに連絡を取ったのはシュラーですが,そのシュラーは遺稿集の編集者のひとりでした。ですから,遺稿集の出版の準備が進んでいるということもシュラーからチルンハウスに伝えられていたのだろうと僕は推測します。國分の指摘では,遺稿集が出版されれば元の原稿が破棄されるのはこの当時の原則になっていました。ただし,チルンハウスが所有していたのは手稿で,國分が指摘していることがそのまま妥当するとは限りません。
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