テムズ川で足止めされてしまったライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは,その間に言語,自然学,数学についてのいくつかの小論を執筆し,スピノザとの面会に備えて一連の覚書と質問事項を準備したと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。ナドラーSteven Nadlerは,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは何らかの方法で『エチカ』の手稿をライプニッツに見せたので,ライプニッツはその内容のほとんどを知っていたと想定しています。ただ,ナドラーは史実として確定している出来事に関しては断定的に記述するのですが,この部分はそうとしか思われないという記述になっていますので,史実として確定する必要はありません。実際にナドラーはこの部分に注解をつけていて,そこにはフリードマンGeorges Friedmannによる,この頃にはライプニッツは『エチカ』の内容にほとんど精通していなかったという見解が示されています。僕はナドラーよりもフリードマンの見解に近く,チルンハウスはライプニッツに『エチカ』の手稿を見せなかったどころか,それを自身が所持しているということさえ教えなかったのではないかと想定していますが,僕の想定もあり得るということは,ナドラーは全面的には否定しないと思われます。
ライプニッツはこの後でオランダに到着したのですが,すぐにスピノザと面会したわけではなく,アムステルダムAmsterdamに1ヶ月ほど滞在しました。ナドラーはその間にライプニッツがフッデJohann Huddeと会ったこと,そしてシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったことを確定的な出来事として記述しています。このときにシュラーは書簡十二をライプニッツに見せ,ライプニッツは後にそれに批評を加えています。書簡十二はマイエルLodewijk Meyerに宛てられたものですが,この書簡は「無限なるものの本性について」という副題がついた有名なもので,少なくともスピノザと親しかった関係にあった人たちの間では回覧されていたものでした。このときにシュラーが見せたのは,マイエルに宛てられた書簡そのものではなく,その書簡を書写したものだったと推測されます。それをシュラーが所持していることは何ら不思議ではありません。
ライプニッツはこの後,デルフトDelftに向かって,レーウェンフックAntoni von Leeuwenhookを訪問したことも確定的な出来事として記述されています。
書簡七十では,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはきわめて学殖が高く,諸種の科学に精通し,神学に関する世間並の偏見に捉われていないというように紹介され,そのライプニッツとチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは親しい交際に入っていると書かれています。さらにライプニッツに対する称賛が重ねられた上で,ライプニッツに『エチカ』の手稿を読ませることの打診がなされています。つまり,チルンハウスとライプニッツが会ったばかりであるということは考えられません。また,チルンハウスからシュラーGeorg Hermann Schullerへの書簡が届いてすぐにシュラーがスピノザに書簡七十を書いたのだとしても,チルンハウスが書いた手紙がシュラーの手許に届くまでにそれなりに時間を要したことでしょう。なので,書簡七十が1675年11月15日付になっていることからして,チルンハウスがパリに到着したのが11月だったとは僕には考えられません。ですからチルンハウスがパリに到着したのは,早ければ1675年の8月のうち,遅くとも同年の10月だったと僕はみます。
ライプニッツがハノーファーに戻るためにパリを発ったのは,1676年10月です。これ以降はライプニッツはパリに戻っていません。つまり,チルンハウスとライプニッツが親しく交際していたのは,およそ1年だったことになります。
パリを発ったライプニッツはイギリスに渡り,1週間ほどロンドンに滞在しました。この間にオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会しています。これはスピノザからオルデンブルクに宛てた手紙を筆写し,後に批評を加えていることから歴史的事実と確定することができます。これはおそらく書簡七十三,書簡七十五,書簡七十八などのことでしょう。以前にもいったかもしれませんが,この当時の書簡というのは,後々に公開する文書という意味合いがありました。だからスピノザの往復書簡集も遺稿集Opera Posthumaの一部として刊行されたのです。なので自身に宛てられた書簡を,スピノザに無断でライプニッツに見せたからといって,オルデンブルクが責められるべきことではありません。
この後,ライプニッツは船に乗ってオランダを目指しましたのですが,強風の影響でテムズ川で足止めされてしまいました。
この書簡の最初の部分に,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の出版の経緯が書かれています。これは返信が遅れた事情の説明のために付せられたのですが,もしかしたらこれがないと出版の事情の詳しいことは後世に残らなかったかもしれません。
書簡の本文の全体は,ロバート・ボイルRobert Boyleの実験に関連する事項で占められています。その中に,デカルトと関連する事柄が含まれています。
スピノザはこれより前に,硝石の粒子はより大なる孔においてはきわめて微細な物質によって包まれるということを,真空vacuumすなわち空虚vacuumは存在しないということから論証しました。スピノザがそのように論証しているということはボイルも理解しています。ところがボイルは空虚の不可能性を,仮説としています。スピノザはこの点を不審に考えています。というのはボイルは実在的な偶有性,この偶有性というのはスコラ哲学の用語で,たとえばものの色とか匂いというような性質を意味しますが,スコラ学派ではこの偶有性は実体substantiaから離れた実在性realitasを有するとされていて,これが実在的偶有性といわれ,ボイルはその実在的偶有性を否定しています。それを否定するnegareという点でボイルはスピノザやデカルトと一致するのですが,そうであるなら空虚の不可能性を疑うのはおかしいとスピノザは考えるのです。実体なき量が存在するなら実在的偶有性は存在することになるので,偶有性の実在性を否定するならば実体なき量が存在するということを否定することになり,それは空虚の存在を否定するのと同じことだとスピノザは考えるのです。
もうひとつ,ボイルは自身がデカルトを非難しているとは思っていなかったようですが,ボイルが書いたことと『哲学原理Principia philosophiae』を読み比べれば,ボイルがデカルトの名誉を傷つけないような仕方で,いい換えればボイルの哲学する自由libertas philosophandiに基づいて,デカルトを非難しているのは明白だとスピノザはいっています。ボイルはデカルトのことをおそらく頭に入れずに書いたのですが,それがスピノザはデカルトへの非難と受け止めたということです。いい換えればそれは,ボイルがデカルトの影響を受けていないのに対し,スピノザは受けていたということになるでしょう。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが訪問するという通知をスピノザがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受け取っていたということは,当然ながらチルンハウスはライプニッツがスピノザを訪問するということを知っていたということを意味します。ここでもう一度,これを時系列で追っていきましょう。
チルンハウスがパリに到着したということをスピノザに伝えている書簡は書簡七十です。これはシュラーGeorg Hermann Schullerからのもので,1675年11月15日付です。パリに着く前にチルンハウスはイギリスを訪ねていて,そこでオルデンブルクHeinrich Ordenburgそしておそらくはロバート・ボイルRobert Boyleと面会しています。この面会で途絶えていたスピノザとオルデンブルクとの間の文通は再開したのですが,オルデンブルクからスピノザに宛てられた書簡六十一は,1675年6月8日付ですでにスピノザに届いています。つまりこの前にチルンハウスはロンドンでオルデンブルクと面会したことになります。
書簡七十には,チルンハウスからの手紙が3ヶ月も途絶えていたので,イギリスからパリへ移る中途で何かよくないことが起こったのではないかとシュラーは心配していたという旨の記述があります。これは,チルンハウスとシュラーの間では,3ヶ月の書簡の不通でシュラーが心配するくらいの書簡のやり取りがあったということを意味する重要な資料だといえます。そしてシュラーは,今,手紙が来たといっていますから,書簡七十は,3ヶ月ぶりの書簡がチルンハウスからシュラーに届いてすぐに出されたものだと分かります。この書簡の中に,パリに到着したチルンハウスがすぐにホイヘンスChristiaan Huygensと会ったことと,ライプニッツにも出会い,『エチカ』の手稿を読ませることの許可を求めているということが書かれているわけですから,実際にチルンハウスがパリに到着したのは,チルンハウスからの書簡がシュラーに届くよりもある程度は前のことだったでしょう。ただしどんなに早くても3ヶ月前ですから,1675年8月より前だったということはあり得ません。書簡六十一が6月8日付ですから,8月にはチルンハウスがパリに到着していたという可能性はあり得ます。書簡七十の内容から,11月ということはないと思われます。
ステノNicola Stenoが司祭になったのは1675年というものと1677年としているものがあります。僕にはどちらが正しいか分かりません。また,1675年でいわれている司祭と,1677年でいわれている司祭が,実は違う役職のことを意味していて,どちらも正しいという可能性もあります。なのでこの点については確定的なことはいいませんが,1677年に司祭になっているということは確実視してよいでしょう。
司祭になったステノはドイツに赴任して,カトリックの布教に従事したのです。それが1677年からということは,史実として確定させてよいようです。なので,ステノがドイツで従事したのが1677年の初めからであれば,スピノザが死んだときにステノはドイツにいたことになり,ハノーファーに戻っていたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizと知り合って一緒に仕事をしていたという可能性が残ることになります。僕は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の当該部分でステノとライプニッツの関係について言及されている部分は脚色であると考えますが,脚色としてはスチュアートMatthew Stewartはこのことを利用しているということができるでしょう。ステノがドイツに赴任してからライプニッツと知り合うということはあり得ないわけではなく,だからライプニッツとステノが一緒に仕事をしていたということはともかく,ふたりの間に何らかの関係があったということまで全面的に否定する必要はないのかもしれません。
『エチカ』の手稿に弾劾書を付してステノが異端審問所に告発したのは1677年9月23日でした。なのでこのときにはステノはローマにいたのです。このときにステノがローマにいたのは,まだドイツに赴任する前であったからだと僕には思えます。ですから,ハノーファーでライプニッツとステノが,スピノザが死んだときに一緒に仕事をしていたということは脚色であると僕は考えるのです。
ライプニッツがスピノザを訪問したとき,スピノザは訪問の報知をシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受けていた筈だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に記述されています。こちらの本は純粋な伝記ですから,ナドラーSteven Nadlerの創作や脚色が含まれているというようなことは心配する必要がありません。
オランダで優勢だったのはプロテスタントのカルヴァン派で,カルヴァン派の有力者で知己の人物というのはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにもいなかったかもしれません。しかしスピノザの遺稿集Opera Posthumaの発刊を阻止したかったのは,カルヴァン派だけでなかったということは,カトリックであったステノNicola Stenoが『エチカ』の手稿を異端審問所に持ち込んだことから明白です。ですからカトリックとしては,発刊された後にそれを禁書として指定するよりも,発刊そのものを阻止できればなおよかったことでしょう。ライプニッツはそうした希望に沿うようなこと,つまり遺稿集の発刊の阻止に協力することができる立場であったのですが,そうしなかったのです。そして発刊された遺稿集を入手したライプニッツは,『エチカ』の研究に勤しんだのですから,ライプニッツが発刊を望んでいたことも疑い得ません。だから仮にステノとライプニッツが一緒に仕事をしていたとしても,ライプニッツはステノの希望には素知らぬふりを続けたでしょう。なのでこのエピソードは,脚色であったとしてもよくできたものであると僕は考えます。
それからもうひとつ,このエピソードの挿入には指摘しておかなければならないことがあります。
スピノザが死んだのは1677年2月です。そのときはライプニッツはパリにいたわけではありません。かつてスピノザと文通していた頃のライプニッツは,書簡七十二でいわれているようにフランクフルトの顧問官でした。だから書簡四十五はフランクフルトから送られています。その後でパリで仕事をするようになったライプニッツは,ドイツに戻るように命を受けました。たぶんライプニッツはパリにい続けたかったので,理由をつけて帰国を拒んでいたのですが,強い命令でどうしても戻らなければならなくなりました。しかしすぐに帰らず,ロンドンを経由してからオランダに入り,ハーグにスピノザを訪問したのです。これが1676年のことで,その後でライプニッツはハノーファーに戻っています。だからライプニッツはハノーファーでスピノザが死んだという連絡をシュラーGeorg Hermann Schullerから受けたことになります。つまりこの脚色はハノーファーにおける出来事です。
仮にスチュアートMatthew Stewartがいっていることが事実であったとしてみましょう。その場合,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがローマにいてステノNicola Stenoと知り合ったという部分が怪しくなります。チルンハウスは,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の手稿を読ませてもよいのではないかと考えたのです。それはつまり,ライプニッツとチルンハウスはそれくらい親しかったことを意味します。ですからもしもステノがライプニッツと一緒に仕事をしていたのであれば,ステノとチルンハウスもどこかで知り合っていた可能性があるからです。なのでこの場合は,ステノが何らかの画策で『エチカ』の手稿を入手したのはローマではなく,それをステノがローマにもっていったという可能性まで想定しておかなければならないでしょう。チルンハウスがローマにいたということは,『スピノザー読む人の肖像』では確定的に記述されていますが,これを史実としてよいという情報は示されていませんので,そういう可能性がまったくなかったとは僕はいいません。
しかし,スチュアートがいっていることはたぶん史実ではありません。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』は元来は脚本として書くことを意図されていた内容であって,そこにはおそらくスチュアートの脚色が入っていて,この部分はおそらくそのひとつであると僕は思います。ステノとライプニッツが一緒に仕事をしていたという情報を僕はほかに知りませんし,そもそもステノがこのときにライプニッツと一緒にいたことも疑わしいのです。
あらかじめいっておいたように,この部分はライプニッツはスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊されるのを楽しみにしていたというエピソードとして,たぶん創作されています。ただこの脚色は,脚色としてはよくできたものだとは思います。仮にステノとライプニッツが一緒に仕事をしていて,それならライプニッツはステノに,スピノザの遺稿集の出版の準備が進んでいて,その編集をしているのがだれであるのかということを教えたのかといえば,やはり教えることはなかったであろうからです。ライプニッツはカトリックとプロテスタントの統一を真剣に考えていたくらいですから,教会の有力者の知人がまったくいなかったとは考えられません。
少なくともうすうすは気付いていたであろうというのは,おそらく確信めいたものをもっていたであろうという意味です。つまり,『エチカ』の手稿をステノNicola Stenoが異端審問所に提出したとき,ステノは提出した手稿の作者がスピノザであるということを,確実視していたであろうというのが僕の推定です。こういったことは,同時にステノが提出した弾劾書の方からさらに高確率の推測が可能かもしれませんが,弾劾書の内容については國分は触れていません。ただこれは元の文書が読めるようにはなっているようです。とはいえそれを僕が解読することは不可能です。
『エチカ』を含むスピノザの遺稿集Opera Posthumaが実際に発刊されたのは1677年の末のことでした。ステノの告発は同年の9月でしたから,発刊された遺稿集は数週間後には多くの教会評議会や教会会議から不承認とされました。つまり遺稿集が世間に出回るのを阻止するために,ステノは大きな役割を果たしたということになります。
ここまでが『スピノザー読む人の肖像』に記されている史実と,それに関連する僕の補足です。一方この事実は,これまでのこのブログとの関連で,考察し直しておかなければならない事柄を含みます。
『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,スピノザが死んだときにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとステノは一緒に仕事をしていて,ステノは遺稿集の出版を阻止したいと思っていたのだけれども,編集者のひとりであるシュラーGeorg Hermann Schullerと連絡を取り合い,どこでだれが遺稿集を編集しているのかを知っていたライプニッツは,そのことをステノには秘匿したという主旨の記述があります。これは,ライプニッツはスピノザの遺稿集が発刊されることを願っていたということを示すひとつのエピソードとして挿入されているといっていいでしょう。ライプニッツがそれを願っていたことは間違いありません。もちろんそれが出版されることで,自身がスピノザと関係をもっていたということが世間に知られていしまうという不安を感じてはいたでしょうが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから『エチカ』の手稿を読ませてもらえなかったライプニッツは,スピノザの哲学の全貌を知りたかったのは疑い得ないと思います。
チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが所持していた『エチカ』の草稿に,スピノザの名前が書かれていなかったのは,それが他者の手に渡ってしまったときの危険性を低下させるためではあったでしょう。ただスピノザは,『エチカ』を発刊することがあったら,著者名を付す必要ないと考えていたのも事実です。もちろんそれは,かつて『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を出版したときのように,作者を特定されない目的があったかもしれませんが,スピノザ自身の哲学的な考え方も影響しています。哲学のように真理veritasを明らかにすることを目的とするなら,著者名は不要というのがスピノザの考えだったのです。なぜなら,真理は唯一なので,それはだれが書いたとしても同じになるからです。スピノザの哲学の特徴のひとつとして,主体の排除というのがあるということは何度もいっていることですが,その主体の排除の考え方に従えば,『エチカ』に著者名は不要という結論になるのです。
遺稿集Opera Posthumaが出版されれば手稿は捨てるものだから,それを廃棄したらステノNicola Stenoの手に渡ってしまったとか,捨てるのではなくチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが自らステノに渡してしまったというのは,推測としては短絡的だといえそうです。ただ,遺稿集が出版されれば,そこに『エチカ』は掲載されるのですから,チルンハウスにとって手稿が不要になるのは間違いありません。出版されればそれはシュラーGeorg Hermann Schullerからチルンハウスに贈られるでしょうから,もしも自身が『エチカ』を研究しようと思えば遺稿集に掲載されたものを利用すればよいのですし,もしかしたらチルンハウスは,スピノザの死によって,スピノザの哲学に対する関心を失ったり薄めたりしたかもしれず,その場合も手稿は不要になることになります。だから少なくともチルンハウスは,それまでは手稿を他人に見つからないような仕方で慎重に扱っていたと思われますが,こうした事情によって,失ってしまっても構わないというような気持ちが心の片隅に芽生えてしまったとしてもおかしくはありません。僕はステノが何らかの画策をして,『エチカ』の手稿をチルンハウスから略奪するなり騙し取るなりした可能性が最も高いと思いますが,チルンハウスの側にもそうなってしまう心の隙あるいは油断のようなものが,その時点ではあったのではないかと思います。
ここではチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの事情というのも推測してみます。
チルンハウスはシュラーGeorg Hermann Schullerを介してスピノザのことを知りました。だからスピノザとチルンハウスの間で交わされた書簡のいくつかはシュラーを介して交わされています。したがって,チルンハウスはスピノザが死んだということを,シュラーから伝えられたと思われます。スピノザが死んだからチルンハウスとシュラーの関係が途絶えたとは考えにくいので,おそらくその後の状況についてもチルンハウスはシュラーから伝えられていたのではないかと思われます。
このことは,『スピノザ往復書簡集Epistolae』の成立事情からそうだったのではないかと僕は推測します。遺稿集Opera Posthumaの編集者たちは,スピノザとの間での書簡を遺稿集に掲載するにあたって,可能であれば当事者にその可否を確認したと思われます。だからライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとスピノザとの間に交わされた書簡の多くは掲載を見送られたのだし,フッデJohann Huddeからスピノザに宛てられた書簡の全ても掲載を見送られ,スピノザからフッデに宛てられた書簡には宛先が掲載されなかったのです。書簡集の編集が進められていたアムステルダムAmsterdamにはチルンハウスはそのときにはいなかったのですが,事情は同じであったライプニッツの意向がある程度は尊重されたということは,チルンハウスにも何らかの確認があったと思われます。書簡を通して容易に連絡が取れたという点では,ライプニッツもチルンハウスも同じであったと思われるからです。逆にいえば,チルンハウスの書簡はそのすべて,あるいはほとんどが遺稿集に掲載されたのは,チルンハウスが掲載されても構わないと考えていたからだろうと僕は推測しています。
おそらくチルンハウスに連絡を取ったのはシュラーですが,そのシュラーは遺稿集の編集者のひとりでした。ですから,遺稿集の出版の準備が進んでいるということもシュラーからチルンハウスに伝えられていたのだろうと僕は推測します。國分の指摘では,遺稿集が出版されれば元の原稿が破棄されるのはこの当時の原則になっていました。ただし,チルンハウスが所有していたのは手稿で,國分が指摘していることがそのまま妥当するとは限りません。