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NO9(最終回) 「ニューイヤー」優勝請負人 白水昭興(しろうず・てるおき) 教え子の大迫傑、佐藤悠基を語る

2024-03-31 18:29:26 | ブツブツ日記
 日清食品は2010年に「ニューイヤー」で初優勝に輝いた。それは白水にとっては、日産自動車で優勝して以来、生涯2度目の栄冠にもなった。東京の本社では、間もなく優勝祝勝会が開かれた。陸連からは名誉会長である河野洋平(政治家・河野太郎の父親)が、お祝いに駆け付けた。
「世界の「ニューイヤー駅伝」ですからね。駅伝の日本一は、世界一と同じです。日清食品の駅伝世界一、おめでとうございました」
 と挨拶した。
日本が音頭をとって「国際駅伝」や、国別対抗を組んだこともあったが、それ以上の大会に発展しなかった。日本から、相撲とか駅伝を五輪種目へとプレゼンした過去も、どうやらなかったようだった。あの野球でさえ、アメリカの主導で開催されていたが、今年のパリ五輪では見送られるほどの、五輪マイナー競技。日本の世界への発信は弱かったのか。でも国内だけでは人気があった。

 祝勝会で、白水は河野洋平と会談すると、21年も前のことだが、日産自動車の優勝祝勝会(89年)にも面会したことを、河野は覚えていた。当時は神奈川陸協から河野洋平が訪れていた。1年置いて、2012年に再度優勝した。
 
 その後、3度目のチャンスも明らかに到来した。早大から大迫傑が日清食品と契約した。前年は3位、翌2015年に大迫もメンバーに加わった。
「大迫は同じ佐久長聖高校でありながら、佐藤悠基とは対象でね、マラソンしかやりませんね。駅伝などのようにメンバーの一人というのが、気に入らないのでしょう。個人種目としてのマラソンをやりたい。彼も東京在住ながら長野の高校に通ったし、佐藤も静岡在住ながら、長野に通った。中学生の時分から、自分の将来設計ができた青年たちでしたよ」
 入社1年目の駅伝シーズンを迎える頃、大迫は担当マネジャーを通じて「ニューイヤー」は、1区を走りますと伝えてきた。私としては、4区以降の長い距離で勝負して欲しかったのですが、1年目だし、本人の希望も強かったからそうしました」
 入社の契約では、「ニューイヤー」のメンバーに入ることは条件にあったが、どこを走るのかは本人次第。希望を入れ替えても、多分選手の意にそぐわないのであれば、成果は薄い。1区はつなぎ区間とは言わないが、一斉スタートのなかで、秒差で遅れるくらいであるなら、それは合格圏内。何もエースが走ったとして秒差の区間賞でトップでたすき渡しをしても、レース全体では効果は大きくない。大迫にとっての1区12キロは、マラソンのスタートからのそれと同じで、他のことはしたくなかったという、強烈な意思のようだった。

 当時の大迫の走りを見ると、1区区間賞にはなったが、6位までが8秒差になだれ込んでいた。残り1キロからのスパートで区間賞を取って、
「個人としての役割は果たせた」
 とコメントしていた。
 あのMDIのニジガマが、この1区で、2位に40秒差をつけて突っ込んできたが、助っ人外人と日本人を同じ扱いにはできない。
 この年、日清食品はまたしても3位に甘んじた。日清食品の優勝は、前記の2回だけだった。

 ところで、2000年からの15年間は、トヨタとコニカミノルタと日清食品が上位を占めていて、あの旭化成が、顔を見せなくなっていた。理由は簡単である。弟の宗猛監督の時代になっても「外人補強」をしなかった。日本人だけで勝つというのは、それで立派な意思ではあったが、1区間で1分を詰めてしまう助っ人がいないと、逆に彼らは区間で1分離された。今でもそうである。アフリカ勢とは太刀打ちできない。

 大迫は1年で、日清を退社した。それでも今年のパリ五輪にマラソンで出場する。白水の教え子に当たるのだ。
「一緒にいたのは、たったの1年ですからね。彼は日清食品との契約も終えて、オレゴンプロジェクトというチームに移籍しましたからね。接点も薄いですよ」
 と苦笑いした。
 一方佐藤悠基は、日清食品が駅伝を撤退した後、いまは「佐川急便」で走っている。今年は38歳を迎える。1万メートルでは国内敵なしではあるのだが、マラソンを走ると、あの同級生の市民ランナー川内優輝に負けてしまうのが、微笑ましいのか、忌々しいのか。旭化成の宗兄弟などからは、
「佐藤にはもっと早くからマラソンをやらせるべきだった」
 という声が飛ぶ。それは本人にも届いているのだろうが、部外者にとっては、どこかで名前がでれば、好きな方でいいんじゃないのかと思う。駅伝とマラソンをやるのは、二刀流ができるのと、違うのだろうか。二刀流の可能性の実現したのは、やはり瀬古と宗兄弟しかいなかった。

 白水は東京を離れて4年目になる。上州アスリートクラブの代表として、群馬県高崎市に居住する。年も重ねてきた。
「佐藤にはね、どうせなら40歳まで走ってくださいと言ってあるんですよ。彼が走っているのは、老いた私のとっても、人生の励みになっているからね。同年代の人も亡くなって、80歳過ぎると自分の終活もやってくる。でも「駅伝」と「マラソン」は励みだなあ」

 この日清食品もついに駅伝を撤退するときがきた。創業の百福さんは亡くなり(2007年没)、外資が入ってホールディング会社になった。
「もう20年も駅伝をやってきましたからねえ」
 創業者亡きあとは、企業内でも関心が薄くなった。「ニューイヤー」という宣伝のコンテンツに関心が薄れたとなれば、仕方がない。
 一旦は駅伝だけを廃止して、大坂なおみや錦織圭など世界のスポーツ選手の契約に切り替えたが、それも終了した。そう考えると、1950年代から68回の歴史を数える「ニューイヤー」の中で、浮き沈みがなかったのは「旭化成」だけになる。通算の優勝回数は25回とダントツで、2位は2000年代に入ってから急速に強くなったコニカミノルタの8回。3位には、トヨタと鐘紡とエスビーの4回と続く。続いて、リッカーと富士通と日本製鉄は3回である。宮崎県の延岡という遠隔地で、駅伝だけに集約された選手たちが切磋琢磨している。旭化成にそういう伝統の評価があるとしたら、継続という意味での、企業宣伝にもなるだろ。

東京墨田区 小森コーポレーション本社

 駅伝初期の頃から、今でもずっと駅伝チームを維持している企業は、「旭化成」の他にもう一つ、知る人ぞ知る「小森コーポレーション」という会社である。東京墨田区という下町に本社があり、チームは茨城県の工場周辺に存在する。印刷機械のメーカーである。社史によれば、関東大震災の焼け野原から工場が立ち上がって、間もなく企業内部活の長距離走が生まれて、そのまま維持されてきた。先代のその意思が、三代目にまで続くようだ。
 本社周辺の商店街に聞けば、
「そうですよ、ここが駅伝で有名な小森さんでね。「私も昔は走っていたんですよ」という社員の人にも良く会いますよ」
 と地元ではおらが町の企業でもある。本社に入って、インタホンから広報に、
――最近の駅伝の様子はどうでしたっけ
 と聞いてみると、
「前はねえ、大会でも1桁順位なんてこともあったんですけど、昨年とかは、予選会で惜しくも負けて、「ニューイヤー」には出られませんでしたよ。東日本の予選は、11位までが全国大会進出でしたけれど、12位だったのかなあ。
 でも今年などは、縮小どころか、再度強化するという目標もあって、箱根の青学から入社した選手もいるし、外人補強もしているし、また「ニューイヤー」でいい走りを見せたいと思っているんですよ」
 期待を上回る意気込みに驚いた。と同時に、ただこうした一般的な企業内のチーム維持だけでは、いくら偶然性があったとしても、上位に進出することは多分できない。チーム作りというのは、本稿で白水の系譜を見てきたようで、他社をぶっち切る要素がないと、浮上できないものなのだ。

 余談になるが、駒大の総監督の大八木弘明は、高卒で一旦就職した会社が、この小森印刷だった。「夏の駅伝」という、十和田八幡平駅伝にも出場した。1区をトップで激走したことがあった。その時、2位から追い上げていたのが、リッカーだった。白水はよく覚えていた。
「十和田湖はねえ、湖畔からスタートして200m(標高差)くらい山を登っていくんですよ。その時にはね、大八木君がトップで走って、リッカーは2位でした。彼は高卒の翌年だったんじゃないかな。そんな新人にトップを走られるとはね。私は伴走車から「あんな者に追いつけなくてどうするんだ」とか「リッカーの駅伝魂はどこへいったんだ」とか、激しくやりましたよ。そして登りきったのち、今度は300mも激下りになって、そこでどうにか追い抜くことができたんですね。いやあ、激しい時代がありました」
 と笑い出す。古い記録の中にそれがある。31回大会とは、78年の頃だろう。大八木19歳のときだ。1区13キロは、結局17秒差でリッカーが抜け、小森印刷は2位。そのまま最終5区までつないで、優勝リッカーに、5分差をつけられたものの、2位に入ったのが小森印刷だった。
後年、二人は昵懇になったが、大八木はその度に「あの時の白水さんの伴走には、参りましたよ」という。後に彼は夜学で駒大に入って、箱根を走った、異色の経歴がある。その大八木は箱根では、凄い声援が飛んだ。
「お前、男だろう! 男の走りを見せてみろ」
 パワハラである。それでも大八木は平気だった。あの小森印刷の少年が、リッカーの応援に負けてしまった、腹いせが今でも生き残る(ウソ)。
 
 この真夏の十和田八幡平駅伝などは、1日で箱根を登下降するほどの、激上りと激下りを含んでいる。こんな強烈駅伝あることは、わずかに知られることだ。5区間71キロ。今でもチームエントリーが1万円という、格安のローカルな手作り感のある駅伝のままである。遠征費の補助もあると、要項には書かれる。旭化成はたまに出場するが、エスビーなどは決して参加しなかった。エスビーは「ニューイヤー」だけに限定していた。
他方、駅伝は過去には、青森~東京の東日本縦断駅伝もあったし、九州一周駅伝もあった。淡路島一周駅伝も、鎌倉駅伝も。すべて消滅した。地元が警察と折衝すれば、全国どこでも駅伝は開催できるし、それが企業にとって目標になれば、参加チームはいくらでも増える。地元やファンに支えられているとは、そういうことかと理解する。

「ニューイヤー」の歴史と共に、60年以上もそこに身を置いてきた白水は、その長年の理由を、
「駅伝が廃れなかったから、私の仕事も続いたわけですよ」
 と、それが優勝請負人の言い分だった。
「よく聞かれるんだけどねえ、こうしたいとか、こうありたいというのは、なかったんですよ。まあしいて言えば、自分にも家庭があったし、仕事として懸命にやってきただけでした。それと最初のリッカーでは、マネジャーや監督として相当やってきたのに、本社に残るかつて黄金期(5年間で3回優勝して1回2位)のメンバーに言わせれば、
「優勝できないなんて、まだまだじゃないか」
の一言に、常に反発してきたという思いもありましたね。そんなことをしているうちに、選手獲得のコツとか、いい成績上げるための養成とか、少しずつ蓄積してきた。そして成績に現れた。そこが面白かったんだと思いますよ」
延々と続く、旭化成と小森コーポレーションの70年間の継続もいいのだが、日本経済のまったくの生き写しのように、企業が浮き沈みの中で、現れては優勝するのだが、しかし消えていく様相も悪くない。いつの時代でも必ず「駅伝」に参加したいとするチームが、相当数存在することが、準国技のようであり、仮に辞めようと思っても、辞めきれないファンの支援声援があるからだと、思わずにはいられない。
「だたね、強いチームを作ろうと思ったら、ちょっと予算が必要なくらいですよ(笑い)」(終わり
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NO8 「ニューイヤー」優勝請負人 白水昭興(しろうず・てるおき)日清食品の駅伝優勝を語る

2024-03-30 13:05:47 | ブツブツ日記
 日清食品では、アテネ五輪出場した諏訪利成を育てたが、白水が自ら勧誘した選手としては、法政大の徳本一善(駿河台大学監督)があげられる。箱根を走った異色なキャラというのは、「金髪ランナー」だったことで有名だった。Wikによれば、実業団は4社から勧誘があったとされるが、白水の「キミは金髪がよく似合う」の一言で日清に入社したとなっていた。それは本当なのか。
「うーん、やはり金髪はちょっと困ったなあとは思いましたが「散髪しなさい」とは言いませんでしたね。でも彼はね、チームで子供たちを慰問すると、ダントツの人気者でしたよ。サインくれくれの大合唱で「ああ、アマチームにも人気者が必要なんだなあと」
しかし会社では「あの頭はどうにかならんか」と。2年目くらいには切ったと思うんですが」
 金髪でも契約条件には合うというのは、日清だけだったのだろう。徳本は、日本選手権の5000mで2連覇。世界選手権にも出て、アテネ五輪の突破まであとわずかにまで迫っていた。


 当時の新聞から

 日清食品を語るなら、佐藤悠基こそが、同社に栄光の優勝をもたらせた男になった。名門の佐久長聖高校から東海大、日清へは09年に入社した。彼の入社には、東海大監督の両角速(現教授)が大いに関係していた。佐久長聖高時代の教え子。東海大を卒業した彼を、
「私のところに送り込んでくれたわけで、これも人脈なのかな」
 と白水は話す。
 両角のWikには、当初佐久長聖から「3年で全国出場へ」といわれ、その無理に彼も応じた。マラソン大会のゼッケンに、その校名を書いて走ったという。アピール宣伝の徹し方は、何だか白水の思いに似ている。

「通俗的なことをいえば、佐藤悠基は「駅伝屋」なんですよ。長距離選手といっても1万メートルまで、マラソンは走りたくないというわけです。それなのに、当初の1万メートルでは最後に負けてしまう。やはり高校大学時代の煌びやかな実績があって、常にトップで走らないと気が済まないという、これは強くて勝気がある選手の特徴ですよ。
ですから間もなく「勝つこと」だけに徹底することにしました。つまりずっと2位につけていて、最後にまくるという、まあかつての瀬古利彦の走りですよ、ハハハ」
 白水の簡単なアドバイスの結果だったろうか。彼は実業団の1万メートルで4連覇(11年~14年)することになった。佐藤悠基の栄光となる。

 助っ人の補強も、日清にとっては必然のことだった。それまでにギタヒというケニア選手がいたが、アキレス腱の故障で離脱していた。先のナイロビ在住の小林さんから、次のあっせん選手の連絡がきて、白水はケニアに飛んだ。
「トラックを借りて、候補選手の選考レースをやってみたのですね。その時にたまたま、山梨学院時代に箱根でも大活躍したモグスも帰国していました。彼も一緒に走ると、そのモグスに勝った選手が一人いて、それがゲディオン選手でしたね。それ一発で、ハイ合格。彼こそは、日本に最初にきたマサイ族の選手でしたね。高身長で手足が長かった」
 ケニア人のランナーならば、確かに助っ人アフリカ人にはなるが、そこの雑多な種族の中でも「マサイ族」が最も秀でた素質があると、されているのだ。但し、走ることが「商売になる」という感覚は、当初のマサイ族にはなかったようだ。
「走ることに関してといっても、ケニアでは、わずかな一部の部族しか理解していませんでしたね。むしろワキウリの時代から、日本で経験を積んだ選手が帰国して、そこでランニング方法や練習法を、ケニアが「逆輸入」することで、現地の子供たちは一層強くなってきました。その中から、日本留学、日本に出稼ぎランナーになる覚悟のある者が、紹介されてきたわけですね」

 走るだけだから、日本に来ても圧倒的に強かった。白水はケニア助っ人に対しても、日本人選手と同じ「契約選手」待遇をした。当時の円高であれば、彼らは相当な給料を得たことになる。エディオンなどは、走るだけでよかった。ところが日常生活は、案外ひどいものだった。
「彼は、昼間から酒を飲んでいるんですよ」
 と大笑い。選手生命が長くないだろうの想像はつく。しかし目的は、この今のメンバー構成で「ニューイヤー」にどう勝つのかということだ。

 白水が日清食品に関わって、10年があっという間に経過していた。その8年間(2002年~20009年)では「ニューイヤー」に、2位が2回、3位が4回。「本命」と言われた年でも、優勝を逃していた。その佐藤悠基(3区13キロ)が入社した年に、ゲディオン(2区8キロ)、徳本(6区11キロ)、他に、座間、北村、保科、小野の7人で、2010年の「ニューイヤー」を迎えた。
「ニューイヤーの当日というのは、監督も選手も午前4時に起床するんですよ。群馬前橋の県庁前のスタートは午前9時頃だから、その5時間前には朝食を摂るということでね」
 ホテルに特別用意してもらうとか、仕出し屋さんにお願いするとか、24時間営業のコンビニ弁当で済ますチームもあるかな。
 そして軽い朝練。当日に不調を訴えて、メンバー変更は8時までですから、監督も気が気ではないですよ。その後担当区間へ選手は移動していきますね。監督は9時のスタートは県庁前で見ますが、その後は庁舎の上階にある、監督室へ移動してテレビ観戦していました」
 この年の「ニューイヤー」は、5区から6区へのたすき渡しまで、ほとんど団子状態だった。トップこそ日清食品の徳本へたすきは渡されたが、3時間28分5秒。2位のHondaとはわずかに3秒差。3位の中国電力まで7秒差。5位まで18秒差に密集していた。
 白水が後に聞いた話である。
「あの徳本でさえ、6区をどう走ったらいいのか迷っていたということでした。私はその6区が重要区間として、徳本のサポートに、駅伝先輩の工藤を付けていたのですね。すると引き継ぎの直前に、不安になった徳本は、工藤に聞いたわけですよ。
「俺は一体、どう走ったらいいんですか」
 すると工藤は、
「最初から、目一杯行くしかないだろ」
 引き付けて並走しながら相手を見るのか。もしくは秒差であっても、その僅差を頼りに相手を寄せ付けない走りをするのか。
 サポートが普通の選手や後輩だとしたら、徳本は相談するはずがない。不安を自分で処理するしかなかった。どうせ聞いても「先輩に任せますよ」
 ところが工藤が付いていたから、不安の解消になった。また工藤も、分かりきったことではあったかもしれないが「行くしかない」と断言した。「メンバ―の先輩後輩関係とは、そういうものなんだなあと、改めて再認識したほどでしたね」
 徳本は、後続を意識しないで、最初から飛ばしていた。それが功を奏したのか、2位、3位、4位は引き離したが、5位のコニカミノルタの松宮隆に7秒詰められるだけで、11秒差でトップのままアンカーの小野に引き継いだ。
「引き継いでまもなく、9秒差に縮まったのかな。この追い上げに耐えられればと思っていましたが、2位との差はそのまま維持して、その後15秒差に広がってきましたね。これで優勝できるのではないかなと、思い始めたのはね。
「ニューイヤー」は群馬に移ってからは、伴走車はなくなったし、監督といっても部屋でテレビ中継を見ているだけです。メンバ―はすでにやるべき練習は消化してきたし、後は個人の判断でどう走るかというだけ。勝っても負けても、それが現実に起こったというだけで、もう監督としても、どうしようもないでしょ。普段通りの、私がメンバー表を組んだ時に予想した走りができるかどうか。このチームならできるはずと。そんな思いでいましたよ」
 アンカーの小野は区間賞の快走をして、2位を29秒差に広げて、ゴール。日清食品はついに、陸上部創設して15年、白水が移籍監督に就任して11年経過して、初優勝に輝いた。
「前評判ばかりで、なかなか実現しなかったもので、正直には「ホッとした」という心境でしたよ。その場で東京から連絡を受けても、「ようやくやり遂げました」というばかりで、私自身の嬉しい気持ちは、あまりなかったんですね」
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NO7 「ニューイヤー」の優勝請負人、白水昭興(しろうず・てるおき) 日清食品でアテネ五輪ランナーの諏訪利成を育てた

2024-03-29 15:59:58 | ブツブツ日記
 カップヌードルの日清食品も「駅伝」に進出してきた。創業の安藤百福さんは、チキンラーメンの発明王として、NHK朝ドラマ「まんぷく」の主人公にもなった。新製品のカップヌードルを、手早く有名にするアイデアとして、前代未聞の過激派テロ事件「あさま山荘事件」(72年)に出動した機動隊への支援食に提供したというのは、あまりに有名になった。
「雪の降るあの寒い現場に、上握りの寿司が差し入れられても、シャリはパサパサで凍り付くし、食えたものではない」。そこに
「熱湯を注いで3分」は、どれほど簡単で、最高にうまかった。カップ麺がニュース報道された。これこそ広告料のいらない、商品の宣伝になった。しかも毎年改良を加えて、麺は進化して、世界の人に健康と食品を。
その健康テーマが駅伝になった。95年にチームはスタートした。同社は先に廃部になったMDI(レオパレス)を丸ごと買収(移籍)してチームスタートしていた。その日清食品から白水に話がきたのは、富士通でコーチになっていた、98年の時だった。



「この時代になると、強い選手を集めるには「選手契約」という雇用が必要で「社員雇用」では、無理なのは明確になってきましたね。ボーナス含めた社員の年収よりも、選手契約は3割高くらいでした。雇用保険ももちろんある。さらに理想をいうなら、契約は3年後ごとに見直して、もし走れなくなったら、社員雇用に切り替えたいのですが、この辺りが企業側との、方針の違いで難しいところしたね。
どの道、現役中は「走り屋稼業」に徹するということです。成果がある走りができるのなら、必然とセカンドキャリアも付いてくる時代にも入りました。どこかのチームの監督やコーチ。教職への道。3年計画で見直しができる契約が成立するのは、学生時代の記録など、条件にもよりました」
企業にとっては、年に一度の「ニューイヤー」こそが本番で、これに集中できれば、極端に後は遊んでいてもいい。しかも年間半分は合宿三昧で、夏には北海道、冬には沖縄や宮古島に出かけた。海外合宿も行われた。

「実は最初の監督契約の面接のときに、日清食品という会社をあまり知らなくて、
「駅伝とはこういうものですよ。ラーメン屋さんに、こうした条件が飲めますか」
と、言いたいまま率直に伝えましたね。それがよかったのかどうか、すると「分かりました」と、以降の話が早くなったのが不思議なことでした。リクルートしたい選手に、はっきりと条件提示していたのは、日清と、他はエスビーくらいでした。しかもこの両チームは、真っ向から争いましたね。瀬古エスビーのことですね」

 白水は、その発明王の百福さんに会いに、日清食品本社の大阪にいった。どうやら駅伝願望は、百福さんの奥さま、安藤仁子(まさこ)さんが積極的だったらしい。百福さんは、夫人とは地元大阪で知り合ったようだが、夫人の実家は福島(二本松)の神職一族だった。台湾出身の百福さんが、日本国籍取得後に安藤姓になったのも、それが理由だ。福島は駅伝が盛んである。初代の箱根、山の神の今井正人(トヨタ九州)も、二代目山の神の柏原竜二(富士通)も福島出身である。
「百福さんは、ちょっと視力が悪くなっておられましたね。近くに寄りなさいというから、目前まで顔を寄せて「駅伝をやらせてもらいます」というと、一言「よろしい!」とだけでした」

 白水が日清食品の監督に移籍した時に、東海大から諏訪利成が入部していた。学生時代の諏訪は、監督の新居利広がリッカー出身だった関係で、白水とも面識を持って、当初ダイエーの内定を受けていた。ところが突如廃部。日清食品に入部していた。他方白水はこの年は富士通のコーチになり、秋になって日清食品に移籍した時に、再度、諏訪と出会うことになった。
「熊本の30キロを走ると5位、続いて01年の2月の長野マラソン(初マラソン)では、潰れてもいいからトップの外国勢と張り合ってみようというと、30キロ手前まで集団にいて、落ちて離されてダメになるかと思ったら、日本トップの2位でゴール。そこから本格的なマラソン練習に取り組む様になりましたね。
 すると翌年(02年3月)の「びわ湖」では2時間9分台で、4位。日本人では2位だったかな。この時代には走り込みが必要だと言われるようになって、1日に40キロ、月間でも1200キロまで走り込んだと思いますよ。真面目で努力型でしたね」

 03年12月の福岡国際は、04年アテネ五輪の選考会にもなった。3年前には藤田敦史が日本最高で優勝していた。大会で優勝したのは、国近友昭(エスビー)、2位に諏訪利成(日清食品)、3位に本命と言われた高岡寿成(カネボウ)。いずれも2時間7分台で、日本人が表彰台を独占したのは、これが最後で現在まで他にない。
 五輪選考は、前年の世界陸上の上位に入った油谷繁(中国電力)は内定していた。残り2枠。高岡が前年のシカゴで、2時間6分台の日本最高を記録していたことが気になった。
「それでも、同じ福岡国際という土俵で、諏訪が高岡に勝ったことが、やはり評価されたんでしょうね」。諏訪が3番目のマラソン選手として、アテネ五輪の派遣選手になった。白水にとって、初の五輪マラソンへ、教え子が派遣されることになった。
 その祝勝会が、スポーツ紙主催で開かれた。
 口の悪い記者が、酔っぱらってこう言った。
「監督、これで諏訪さんが五輪を外れたとしたら「悲劇のマラソン監督」として、大きな見出しになるはずだったんですよ。工藤一良が外れて、森田修一が外れて、三度目の正直だったということだからね」
 そこまで話したときに、白水は、
「いや、岩瀬も外れたから4度目の正直だ」
 と言い返したものの、いい気分ではない。

 内定後に現地に試走に出かけた。「アテネの丘」とは、古代オリンピックでマラソンを走ったという歴史の丘。マラソン選手にとって、そこを走れるのは、誇りでもある。ただ諏訪は、アップダウンが少し苦手だった。
 五輪がスタートすると、レース一週間前には、ドイツのフランクフルトに入って時差調整。アテネに入ると、陸連専務理事だった沢木啓介さんとも合流した。
――調子はどうですか。目標はどのくらいに。
「入賞目指していますよ」
 そう答えると、沢木さんはキョトンとしていたように見えた。
「あっそうなの。それくらい高い目標設定していいんだ」
 というような表情。
「私は自信を持っていましたよ。何しろあの福岡で日本人が上位独占した中での2位。あの時だけは、世界のマラソン界で、日本人は相当な上位に入り込んでいたと思うんですね」

 思えば、女子マラソンでも、4年前のシドニー五輪(2000年)でQ太郎が金メダル取ったのは「良し」としても、五輪で続いて、野口みずきも日本人連覇して、二人目の金メダルに輝いたのが、この04年のアテネだった。イギリス人の白人女性のラドクリフが、1万メートルとマラソンの二刀流を五輪で展開したのもこのとき(失敗)で、アテネまでは、アフリカ勢も、マラソン種目にまでは、侵略してこなかったと、振り返る。

 諏訪のサポートに回ったのは、実井謙二郎だった。彼は96年のアトランタ五輪に出場していたが、不本意だった。目に映る周囲の大物選手たちに、気持ちが萎えていた。
「だから、その反面教師として、同じ日清食品の諏訪をサポートできるんじゃないかと、思ったわけですよ。ところが案外、諏訪というのはマイペースでね。他国のライバル選手などは、ほとんど知識がなかったようです。そういうのも、ある意味で得策なのかもしれないですね」
 と白水は思い出す。
 レースは7位で競技場に入り込んだが、そこで一人ケニア選手を抜いて、6位でゴールした。5位に同じ日本人油谷までは30メートルほどだったが、届かなかった。しかし五輪のマラソンで6位入賞は立派だった。
「当時の選手の力としては、この通りだとは思いましたね。周囲の人は、予想以上にお祝いしてくれましたね。でも私としては、同じ日本人油谷(5位)に一つ負けて、それが癪に触っていましたよ。全力を出し切ってのレースでしたから、立派な成績でした」(続く

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NO6 「ニューイヤー」駅伝の優勝請負人、白水昭興(しろうず・てるおき)ダイエー時代を語る

2024-03-29 01:19:33 | ブツブツ日記
 90年を頂点にしたバブル景気が「ニューイヤー」にも訪れた。ダイエーがこれに参加するようになった。当初ダイエーは、マラソン選手のみの養成で、陸連の理論家・高橋進さんを監督に招いた。まもなく、彗星のようにデビューしたマラソンランナーの中山竹通を勧誘した。白水は話す。
「そのダイエーが、ついに「駅伝」もやりたいからと、高橋進さんから話がきて、会いに行くことになりましたね。
 私はその頃になると、駅伝チーム構築に自信を持っていました。「5年間あれば、優勝を狙えるチームを作れるし、マラソンで五輪選手も作れる」と。するとあの中内功さんが「3年でやってくれんか」。せっかちな人だなあ。
93年にダイエーに異動しましたが、私一人でいくつもりでしたが、日産の選手も4人ほどついてきましたね。当初は神戸で練習していましたが、あの大震災(95年1月)で、仕方なく福岡のダイエー球団(当時)のドーム周辺が、チームの合宿所になりました。球団は王監督になっていて、何度か面識を持ちました。市民フォーラムなどの講演では、王さんに並んで私も話をする機会もありました」

日清食品のころの、白水昭興監督

 ダイエーが優勝を狙うというのだから、白水もそれなりの条件を出した。選手勧誘のときの、他社に勝る条件である。中内はほとんどの条件を飲んだ。あの頃の企業としてのダイエーは、松下(パナソニック)を敵に回しても、勝算があるほどの勢いだった。「ダイエーVs松下戦争」というものがあった。消費者の立場として、すべての商品の価格設定は「ダイエーがする」。つまり仕入れ価格はメーカー希望や設定でもいいが、販売価格はダイエーに任せろと、それが日本一の低価格の理由でもあった。ところが松下幸之助はこれに納得しない。販売価格は企業が設定した値段で、販売して欲しい。それが商品の信用に関わるということだ。
 中内と松下の会合は何度も設定され、そのほとんどを松下幸之助側から、ダイエーを接待する様相で、手打ち式を持つようにされたようだが、すべて失敗。ダイエーは小売業として、売上2兆円企業に育って、鼻息は荒かった。

 箱根駅伝2区で、早大の渡辺康幸(後にエスビー)と、山梨学院の助っ人外人のマヤカ(ダイエー)と、順大の高橋健一(ダイエー)が争った年(95年)があった。結果はそれぞれが区間1位、2位、3位に入った。スターだった渡辺は、Wikによれば、10社から勧誘がきたと書かれている。その1社が、白水のダイエーだった。
「ダイエーはその1月の震災を受けて、福岡に拠点を移しましたね。渡辺さんの実家には何度か訪問して両親にもお会いしましたが、千葉出身で市船高校という都会派の彼にとっては「九州に就職するってことですか」と、まあ言われてしまえば当たり前ですが、リクルートには失敗しました。ここでも瀬古のエスビーが彼を獲得したわけですよ」
 それでもダイエーの資金力で、その箱根2位のマヤカ(桜美林大監督)と、3位の高橋健一(富士通監督)を獲得する。その前年には、同じく順大で花の2区を4年間走った、本川一美(スバル監督)も獲得した。マラソンの中山竹通(たけゆき)は、駅伝には関わらなかった。

「マヤカを獲得するときですよ。ケニアに行きました。マヤカのお父さん、マウロさんでしたか。ケニアのビールなのだと、何だか妙な酒を酌み交わしたこともありますね。それと首都ナイロビでは、ケニア選手を日本にあっせんするなどした、小林俊一さん(故人)夫婦とも、もちろん知り合いになりましたよ。もうこの時代になれば、助っ人外人を積極的に駅伝メンバーに使うことが、優勝への近道であることは、自ずと分かりましたからねえ」

 マヤカが高校大学と在籍した山梨学院の上田誠仁(まさひと)監督とも親しくなった。彼の知り合いが車山高原(長野)にロッジを持っていて、高地トレーニングにも最適だった。
 ケニア在住の小林さんは、ランナーであり、日本企業に就職していたのだが、途中から夫婦でケニアに移住して、記者活動をしていたらしい。同時にケニア選手の日本紹介を始めた。ちなみに夫婦の一人息子の走くんは、ゴルフのレッスンプロになり、後にテニスの杉山愛と結婚した。

 日産のメンバーだった両角速(東海大教授)も白水とダイエーに移籍した。
「彼は長野茅野市出身でしたが、ある時に長野の高校(佐久長聖)から、同郷のよしみだったのか、話がありましたね。そこの監督への話に、本人はかなり乗り気になって、人生の次のキャリアにすることになりました。
 ところが思わぬことに、そこは高校駅伝の常連校になり、その後彼が東海大に異動してからは、そこから選手が続々と集まる。さらに大卒後には、私の元にも紹介されました。佐藤悠基(佐川急便)などは、そうでしたね。これも業界人脈の一つになりましたね」
 両角のWikには、学校宣伝のために、ダイエーのユニフォームの上に「佐久長聖」の校名を入れてマラソンを走って、宣伝に努めたと表記もある。

 白水が監督を務めたダイエーは、「ニューイヤー」の5年間(94年~98年)で、18位、8位、8位、3位、3位と躍進してきた。その躍進こそが、マヤカの加入であり、高橋健一の加入でもあった。白水は、選手育成のノウハウはいくらでも持っているとは言いながらも、
「まあ基本的には、いい素材の選手を獲得するということは、一番の近道であることには、間違いないんですよ」
 と笑いながらも話すのだ。ダイエーのこの強化が、それを何よりも示していただろう。この頃に、ダイエーは先のリッカーにテコ入れしていた。銀座のリッカー本社は、ダイエーに売却されていた。爆発的に企業拡大する創業者の趣味というのは、どこかで同じ傾向なのだろうか。白水にしても、あのリッカーがダイエーに移動して、戸惑った記憶が残っていた。

 ところがこのダイエーが思わぬことになる。本社が傾き始めた。バブル崩壊で、不動産の下落。陸上部は撤退することになった。
「最後の挨拶に中内さんに面会しましたね。照れ臭かったのか、
「スーパーというのは、スーッと社会に現れて、パーッと消えちゃうもんなんだよ」
 と大笑いして言われましたね。日本一のダイエーですら、倒産してしまいましたからね」

 バブル景気が「ニューイヤー」に影響を与えたというなら、アパート不動産のMDI(後のレオパレス)も、この時代「ニューイヤー」に登場した。創業の深山祐助(みやまゆうすけ)は拓大のボクシング部出身。「駅伝」を思いついたときに、ベースボールマガジンに知り合いがいた。株式会社「ミヤマ」をMiyama Dディベロップメント Iインターナショナル」「MDI」に社名変更していた(後にレオパレス)。
 助っ人外人の投入では、ダイエーよりも5年早かった。埼玉栄高校を高校をNO1に導いた、後藤高夫(後に日清食品~仙台育英高校)を監督に招き、助っ人外人にアフリカのブルンジという国から、ニジガマ選手を呼び寄せた。高校時代までシューズを履いたことすらなかったというニジガマは、来日わずかに1年で、駅伝選手に育つ。
 92年のニューイヤーでは、1区12キロを区間記録で走り抜けた。先の倉さんは、MDIの社長深山さんとは、ゴルフ仲間だった。
「ニューイヤーで、凄いことを起こすからねと聞かされてね。スタートした1区に、そのアフリカ人が登場しましたよ。アフリカ特有の先頭走りで、「誰だあれは」と。当時は外人の区間制限がなかったから、スタート直後に一番目立つところに彼を走らせたというわけです。MDIも「ニューイヤー」に参加したばかりで、どんな会社なのだと。スタートから35分間、テレビはずっとトップ選手を映しっぱなしですから、MDIのゼッケンは相当な企業宣伝にはなりましたねえ」
 と話した。

 ダイエーにいた両角が、マラソンに「佐久長聖」のユニフォームで走ったのと同じこと。
 MDIは、総合では11位であったが、1区だけはトップ通過した。
「2位を40秒離しての区間記録」
 と当時の新聞は報じている。
 後にニジガマは、96年のアトランタ五輪と、2000年のシドニー五輪に、母国代表で長距離を走った。アトランタでは1万m4位に入賞した。
 白水があれだけ苦労して五輪選手を育てたのに、ちょっと素質のあるアフリカ人を日本に引っ張ってきただけで、こんなに簡単に五輪選手に育つのかと、呆れてしまったら、引き取った監督に失礼になるか。素材がいいとは、これほど簡単だったのか。

「ニューイヤー」の関係者は言うのだ。
「テレビのスポットCM広告料とは、概算で1秒間で3万円相当なんですよ。つまり1時間(3600秒)CMばかり流していると、1億円程度の広告料金になってきますね。ニジガマは1区12キロで35分間中継映像を独占したわけで、およそその半額5000万円相当。駅伝の企業宣伝効果は、こういう理屈にもなるわけですね」
 それを見越しての、駅伝チーム構築ということになろうか。箱根で活躍した実井謙二郎も、MDIに入っていた。翌年は、総合8位に順位を上げた。

 例えば1億円の予算がある。駅伝選手10人を集めた場合の人件費がこの半額。残りは合宿所運営、地方移動への交通費、滞在費。7区100キロのチームは、最低このくらいで用意できるとすれば、後は経営者の判断になるだろう。スポーツに理解があれば、チームを作って「ニューイヤー」を走らせることがいいのか。そんなことをせずに、普通のCMだけがいいのか。
「少なくとも、1区の先走りだけでいいというのは、荒っぽい考え方ですが、それでも視聴者の記憶に残ることは間違いないということでした」((倉さん)
 意表をついて視聴者を引き付けた。ところがこの会社も、本業で違法建築の摘発などが相次いで、駅伝を撤退することになった。経営陣も入れ替わった。どうにも残念だった。それでも「ニューイヤー」には、企業経営者の道楽も含めて、いくらでもチャンスが転がっている可能性がみえる。それが魅力だろうとも、思うのだが。

「ニューイヤー」業界の衰勢は「生き馬の目を抜く」ごとくに変遷していると思う。そのMDIの撤退を見越して、日清食品というチキンラーメンと、カップヌードルの会社が、ここに進出することになった。95年に、MDIを丸ごと引き受けたのが、日清食品だった。競技連盟がその仲介役を務めたとなっている。

 ダイエーの陸上部閉鎖は、その3年後。バブルの崩壊で閉鎖する企業もあり、それをチャンスだと見越して参加する企業あり。「ニューイヤー」は、日本経済の縮図のような匂いがするものだ。

 富士通も「ニューイヤー」に進出してきた。それまで全国各地に点在していた企業内陸上部を、やはりバブルのときに、千葉市「幕張」に統合して、再強化し始めたようだった。短距離の高平慎士、跳躍の橋岡優輝、競歩の鈴木雄介、五輪選手などいくらでもいる。
そこで目を付けたのが、撤退するダイエー陸上部を、すべて移籍させることだ。駅伝にも進出したい。何だか、過去のリッカーがやっていたことの、再現に見えてきた。
 企業規模は富士通が年間3兆円の売り上げとすると、リッカーはその10分の1、いや100分の1ほどでしかなかった。ミシンの単品商売というなら、腕時計のメーカーとか、湯沸かしポットのメーカーとか、あるいはお菓子メーカーであってもいい。その規模があれば「ニューイヤー」に進出することなどは十分のはず。そこに世界のコンピューターメーカーが参入するわけである。場違いと言われるほどの規模になる。

「ニューイヤー」では、2年連続3位(97年、98年)のダイエーがそのまま富士通に移った。監督だった白水も、コーチとして移籍した。
「私も異動したとはいえ、ほんの半年ほどコーチをやって、また異動(日清食品)しましたからねえ。在籍した頃は、駅伝チームに関しては、朝練習を徹底させたくらいでした。どの企業チームでも、朝練は必須なのですが、始業前にちゃんと時間を指定して、一応全員顔合わせして、それから自分のメニューをやっていく。その程度のことでしたよ」
 と笑う。
 富士通の駅伝チームは、その2年後の2000年に初優勝することになった。移籍した高橋健一ほか、助っ人外人を強化し、日産から引退した森田修一が福岡国際で注目した、駒大OBの新人・藤田敦史が富士通に加入した。瞬く間に強化された。白水は話す。
「私にとっては、富士通に恩返しできたつもりなんですよ。ダイエーで勧誘した選手たちが、わずか数年で、勤務先の変更を求められた。責任は撤退するダイエーのはずですが、しかし選手の親御さんに面会してまで、駅伝メンバーに誘った私に責任がある。入社先が倒産しましたでは、弁解にもならないわけですよ。ですから、チームをまとめて拾い上げてくれた富士通は、救いの神であり、移籍した選手がそこで活躍することは、恩に報いることになるわけですから。
 メンバーはさらに補強されたにしても、移籍メンバーが残って、優勝したわけで、私は富士通の「恩に報いることができた」と、それが一番ほっとしたことでした」
 ダイエーが富士通を補強したのかと思ったが、いや富士通が廃部ダイエーを拾う神になっていた。白水の重責が報われた。

 注目された若手の藤田敦史は、この年の12月に、福岡国際のマラソンで日本最高を出した。そのひと月後の2001年の「ニューイヤー」では、富士通の連覇が期待されたが、彼は区間賞の走りはしたが、チームは2位に留まった。
それでも富士通は、その後「ニューイヤー」で2勝を重ねて、通算3回の優勝を重ねた。幕張の住宅街に、7階建て100戸ほどの分譲マンションを買い上げた。そこで生活するのは、ほとんど五輪候補選手である。箱根の二代目山の神・柏原竜二も後に入社し、現役引退した今は、ラジオ番組「学ラン」で、箱根や駅伝情報を流す、タレントになった。企業活動はさらに発展していった。
監督だった藤田敦史は、駒沢大監督に異動した。ダイエーからの高橋健一は、陸上部の総合監督として、富士通100人の大所帯をまとめる。マラソンの名伯楽、故小出義雄は義理の父親に当たる。小出のお嬢さんが夫人である。(続く
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NO5 「ニューイヤー」駅伝の優勝請負人、白水昭興(しろうずてるおき) 日産自動車時代に、駅伝優勝した教え子、森田修一が語る

2024-03-28 04:12:35 | ブツブツ日記
 高校生の頃から瀬古を目標にしていた、森田修一は、白水の勧誘を受けて日産自動車に入社した。専修大学で箱根を走っていた。目立った記録はなかったが、白水の目にとまったことになる。
「専大の3年先輩に、慕っていた加藤覚さんがいて、やはり日産に入りました。「ここのメニューに耐えられたら、相当な長距離ランナーになれる」と聞かされていましたね。就職の時には白水さんが川崎の我が家にまで来て、プレゼンしてくれました。長距離人生を、しかも地元の日産自動車で継続できるわけですから、そこに人生を賭けてみることしたわけです」
 と森田は話し出した。
 当時日産は横浜の子安に一周360mの企業内トラックを持っていて、サッカーのマリノスはその隣で練習していた。
「箱根を走っていたとはいえ、学生上がりでは、あの実業団のガツガツした練習にまともについていったら、あっという間に潰される(体が壊れる)ことは明らかでしたね。「自分のメニューで練習していいですか」と当初の頃から監督に提言していました。というか、我がままを言っていたんです。「明日はチームを離れて、山に登ってきます」といい丹沢に行ったり、高尾山へ出かけたり。
 チームの課題としては、例えば駅伝3週間前の5000m走の時には「14分を切ってくれよな」とか「13分半ば」とか目標タイムが出て、それに合わせられなければメンバーを外れてしまうわけですから、それは自分で調整することですね。
 あるいはレースの直前になると、むしろタイムを抑えて体を休ませるのですが、仲間と合同練習すると、調子がよくて凄いタイムで走ってしまう。そうなるとレース当日は、案外ダメなんですよ。それを自己規制の中で処理しないといけないとか。
 例えばメンバーの中には、明日が記録会だというのに、遅くまで酒を飲んでいて、二日酔いみたいなのに、設定タイムで走ってしまう猛者もいるんですね。でも自分にはそんなことできないし、よほどのことじゃないと酒の席は遠慮していました。他人よりも休息の時間は多く必要だったし、同量の練習も時間をかけていたのかな」


 80歳を過ぎたが、元気な白水昭興監督

森田からメニューを聞いた白水は「ああ、それでいいよ」というばかり。日産が活躍すれば、監督の白水も取材に囲まれた。
――今日の勝因は
「それは、選手個人がよく走ってくれましたから」
――森田選手にはどんなアドバイスを
「いや、私は何も言いませんよ。すべて彼にまかせていますからね」
 隠し事をしているわけではない。しかしどうにも気の利いた記事にはならない。記者にしても、見かけ恐持て風貌の白水に、それ以上は話しかけられなかった。過去にメディアへの露出は、さほど多くなかったのはそういう理由だろうか。

 森田修一は入社1年目で「ニューイヤー」は7区アンカーを走って2位。89年の2年目にも7区アンカーを走って、首位で渡されたタスキでそのままゴールを走り抜けて、ついに日産自動車は初優勝に輝いた。白水の生涯初優勝の時でもあった。

 そこから森田は次のステップアップを考えた。毎年12月の福岡マラソンに照準を当てていった。92年のバルセロナ五輪の選考会の一つに、91年12月の福岡があった。五輪の選考基準は依然としてあいまいで「不確かな選考」と言われた時代だった。森田はそれまでに5回マラソン経験はあったが、4位が最高。どうしたら勝てるのか。およそ35キロまでは順調に走れるのだが、残り7キロで遅れた。マラソンでは「魔の35キロ」と言われるが、彼にはそれが全く当てはまった。
「少なくとも選考会レースでは優勝しなくてはならないわけですね。そのためには35キロから40キロまでの5キロを、15分を切るペースに上げなければ、優勝できない計算になる。今でいうアフリカ勢のロングスパートに、離されないように。ところがほとんどの選手は、日本人も外人も、この35キロからの5キロでペースアップした例はありません。だから私は、どんな状況でも前に出ずに、トップグループ集団のまま走って、35キロからペースアップできる選手になろうと」

 5キロ15分(1キロ3分=時速20キロ)で走ると、42・195キロのフルマラソンは2時間6分35秒で走れることになる。これは今でもおよその設定タイムとなっている。ところが実際の大会のトップグループは、35キロ時点で、これより遅い場合が多かった。であっても、集団の中に留まって、残り7キロは、5キロ15分を切るようなタイムで走りきるという課題なのだ。

 そのために森田は、例えば50キロ走というメニューを考えた。せめて50キロまでイーブンぺースで走れれば、42キロ以降の8キロは、こちら側の走力として蓄積されるのではないか。あるいはその翌日には、たったの2キロ走というメニューを数本消化するだけにした。一晩寝ただけでは、パンパンになって治らない足に、40キロからの2キロ走だけを想定して、2キロ6分のメニューを課す、そんな練習もやった。
 さらに合宿の設定である。マラソンや駅伝ランナーが合宿と称して地方に行くのは「時速20キロで信号もなく、突っ走れる道」が必要だからという理由は、あまり知られていない。400mトラックがあれば十分だというのは、多分1万メートルまでのトラックランナーに限ったこと。マラソンや駅伝ランナーは、トラック周回練習だけでは足りないのだ。森田はトレーナーと二人っきりの合宿をおこなった。
「夏には北海道の別海町。何もないところですよ、直線道路が一本あるだけですね。冬には九州宮崎とか徳之島とか。近郊では千葉の白浜海岸でやったこともね。私一人と付き添いにトレーナー一人。一回行くと、1週間から10日間。集団で行く合宿ももちろんありますが、私は一人の方がやり易かったですね」

 監督の白水はいう。
「駅伝練習というのは、知られるように「護送船団方式」が一般ですよね。1キロ3分のペースで仲間と走りますね。ところが速い数人は「それでは遅い」と言い出すわけです。2分55秒くらいがいいと。すると集団が二つに分かれてしまうわけですよ。スタート直後に二つの集団ができると、それ以降10キロまでの間に、どんどん離れてしまう。つまり遅い集団からも駅伝選抜されたいときには、どこかでスパートして、集団を吹っ切らないといけないわけですね。ということは、どこかで一人っきりで走りきる力が必要だということです。それはつまり、最初から一人で設定タイムだけを目安に走れればそれがいいし、これができる選手は、駅伝でも速いですよね。最後まで集団で走りたいというなら、残り500mからのスパートだけで、仲間を引き離しても、駅伝メンバーに選ばれるということになりますね。要するにここでも、目標設定と、そのための自分なりのメニューをどう消化していくかということですよね」
 話は実に細かいことになっている。1キロ3分のペースと、5秒早い2分55秒にどれだけの違いがあるのか。計算すれば、1キロで28mの違いが出る。10キロ走ると50秒差になって、280m離れる。これだけ離れると、前の選手が見えなくなる。10キロ走っておよそ1分差。これが日本人と助っ人外人の違いにもなっている。
 白水は思い出す。
「前々回の東京五輪で3位になった円谷選手と、優勝したアベベ選手のタイム差がおよそ4分でした。アフリカ勢と1万mで1分離されるわけですから、マラソンなら4分離される。今でも日本人のマラソン設定が2時間5分であるなら、世界記録は2時間1分になっていますね。駅伝の場合は、だからこそ助っ人外人が必要とされ、エスビーがワキウリを獲得したのも、中村清さんはすでにこれを見抜いていたと思うんですよ」

 森田にとっては、一人練習がよかった。
「自分で決めたこうしたメニュー(練習計画)を提言すると、白水さんは「そうだね、やりなさい」とOKしてくれたことですね。長距離ランナーに基本的な練習メニューはもちろんあります。でも他に、より効果的なメニューというのは、自分で考え出さないことには、どうしようもないことなんですね。監督がこうしろ、ああしろといっても、本人が納得しなけれぼ、さほどの効果はないでしょう。自分なりのメニューを考えださないとね。日産自動車の6年間では、ほとんどそんな毎日でした」

 目標の福岡マラソン(91年12月)のその日がきた。レース目標を言いきってしまえば「タイムよりも勝負」。昨今のペースメーカーを揃えた大会では、その逆である。「順位よりもタイム」。どのマラソンも同じ条件と設定して、2時間以上のコースに対しても「タイム」だけを求めている。昨今はこういう傾向になったが、以前は違っていた。
 レース当日、当時の資料によれば「気温16度」と真冬の福岡にしても暖かく、31キロまで18人集団のスローペース展開となっていた。途中には5キロ16分台まで落ちる集団走だった。ところが35キロから仕掛けたアフリカ選手がいて、森田もまた自身の課題だったように、加速した。
「35キロからは、5キロ14分台で走りましたよね。この5キロを自分の設定で走りきることが、私のマラソン人生の課題になっていましたからね。それをやりきって優勝したのですから、こんな満足はありませんでしたよ」
 35キロからの5キロを森田は、14分56秒。2位に入ったメコネンという選手は、15分29秒。この15分で30秒差は、170mの距離が開いた。森田が優勝できた理由はこれだった。
 彼に言わせれば「強い選手」というのは、どういう条件でも勝てる選手であること。「速い選手」というのは、得意な条件が揃ったときにのみ、勝つことができること。森田は強い選手になっていた。

 この優勝で、過去には、瀬古利彦も新宅雅也も中山竹通も優勝した大会に、森田修一も名前を連ねた。2時間10分58秒。
 ただバルセロナ五輪の選考結果としては、すでに世界選手権で優勝していた谷口浩美の他には、翌年の「東京国際」で優勝した森下広一と、2位の中山竹通が、タイムで上回るという理由で、派遣選手になった。「優勝」という成果よりも、森田の経験の少なさとタイムが問題視された。
 今になれば、森田は、
「不満を言えばいくらでもありますが、2時間10分を切っていれば、ああいう話にはならなかったんでしょうけれどね。ただ自分としては選考レースの中でも歴史のある「福岡国際」で、どんな条件でも勝てるマラソンを頭に描いたし、それを実践できたことに、自分の価値を感じたわけですからね」
 五輪出場にはあと一歩及ばなかった。

 長距離ランナーのハードスケジュールとは、12月に福岡国際を走って、1か月後には「ニューイヤー」を走って、その2週後に福岡で「朝日駅伝」(すでに終了)があった。日産自動車は、朝日駅伝では、85年から7年間に5回優勝していた。7区間で99キロ。サイズは「ニューイヤー」とほとんど同じものだった。シーズン中とはいえ、この3者を並立させることは不可能に近いのだが、森田はそれをすべて走ったことがある。負荷が重なった。まもなく故障も相次いだ。
 森田の駅伝では、優勝した89年に続いて、90年にも連覇がかかった。確かに6区まではトップ3人が並走してきた。さてアンカーの森田は、この時風邪気味だった。そんな理由で、並走から遅れて3位。その翌年は順位を一つ巻き返したが、2位。人々の記憶には、優勝しか残らないものだが、ちょっとした不運だけで、栄冠の運命が左右された。そのチームが駅伝に強いことには、ほとんど代わりはないのであるが。

 一方、成功したマラソンでは、森田が優勝した福岡国際(91年)は、その後は招待の外人選手ばかりが優勝して、日本人は永遠に勝てないのかと不安がよぎっていた。次に日本人が優勝したのは、9年後の2000年に、駒大から富士通に入った藤田敦史(現駒沢大学陸上部監督)だった。その2時間6分台は当時の日本最高。すでに引退していた森田にしても、次世代の画期的ランナーに見えた。と同時に自分に照らし合わせると、少しの不安もあった。
「福岡で勝つのは、日本のマラソン史に残るほどの快挙ですよ。でも心配しましたよねえ。まさか、ひと月後の「ニューイヤー」は、回避した方がいいはずなんだけどねえ。無理して体を壊したら、どうにもならない」

 藤田が在籍した富士通にとって、実は前年2000年1月の「ニューイヤー」は、その藤田の快走もあって初優勝に輝いていた。しかも、その年末にはメンバーの藤田が「福岡」でも優勝。ひと月後とはいえ、富士通2連覇へ向けて、周囲はお祭り騒ぎでもあった。
 杞憂は的中した。藤田はその「ニューイヤー」でも、区間賞の走りをした。しかし残念ながら2位。彼もトップには追いつかなかった。当時の報道では、
「最後は足が伸びなかった。でも絶対に勝てない相手(コニカミノルタ)ではない」
 と2位に甘んじだ理由を話した。
 しかし危惧されたように、以降のマラソンレースで彼は自分の記録を越えられなかった。怪我にも泣いて、五輪出場にも失敗した。およそどんな選手でもすべてに優勝することはできない。そんな両立をいとも簡単に成し遂げていたのは、この50年来で、瀬古利彦と宗兄弟だけと言われる理由でもある。藤田もどこかで無理に泣いた。

 森田は日産に6年間所属した。まさに1990年のバブルをこの会社で過ごした。
「振り返ってみても、いい時代に日産自動車という大企業で走れたのだと思いますね。例えば、入社して初任給というのをもらいますよね。それが2年目の社員よりも多いんですよ。バブルの時期には、新入社員の給料がどんどん上がって、在籍社員のベースアップを越えてしまったなんてこともね。
 ただ駅伝優勝(1989年)して数年すると、バブル崩壊ですよね。日産もあっという間に会社縮小だし、陸上部に同じような支援ができない。そんな空気は分かりますよね。6年間所属して監督と共にダイエーに移籍(1993年)しました」
 現役引退してからは、ホクレンで北京五輪長距離の赤羽有紀子を育てた。(続く
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その4 「ニューイヤー」駅伝の優勝請負人、白水昭興(しろうず・てるおき) エスビーの中村清を思う

2024-03-27 16:52:33 | ブツブツ日記
 ロス五輪(84年)のその年、マラソンブームの中で、瀬古利彦はメディアに追い掛け回されていた。4年前のモスクワ五輪(80年)を政府がボイコットして、56年生まれの瀬古にとってのマラソン適齢期24歳のレースは、架空の出来事として消えてしまった。だからこその、28歳の適齢期で、どう金メダルを手にするのかという期待があった。
 あの頃夕方神宮外苑に行くと、そこがエスビー軍団の練習場だった。瀬古はカメラマンのターゲットになっていたが、無口。代わりに中村清監督が、メディア相手に「禅問答」のように受け答えはしたものだった。
「キミは、瀬古のマラソンをどう思うんだね」
 記者は戸惑って、きょとんとしている。
「私はね、瀬古が金メダル取れるというなら、そこの砂でも食べられるよ。いや石ころをかみ砕いても食べられるよ」
 この恐持てのお爺さんは、一体何が言いたいのだろうか。

 瀬古が絵画館の周回道路(一周900mほど)を走り始めるが、しかしこの中村学校では、この頃から、ワキウリというアフリカの黒人選手が、中村の指導を受けていた。ところが当時私がたまたま目にしたのは、彼は走ることなく、左右に500グラムほどの鉄アレイを握って、腕をしっかり振りながら早歩きをしているだけ。その翌日も同じだし、さらに翌日も同じだった。
――走らないの
 と聞くと、
「先生に言われて」
 と一言話すだけ。どうやら走行フォームの矯正のようにも見えた。このワキウリ指導計画は、わずかに半年後に大成果を見ることになった。
エスビーはこのロス五輪の年から(当時ニューイヤーは年末開催だった)「ニューイヤー」を4連覇している。明らかに、私がワキウリを見かけたその半年後には、彼は助っ人外人として、チームを優勝に導いた。

 エスビーはこの年「ニューイヤー」に初出場して、初優勝。記録も7分短縮する新記録を出した。瀬古は6区23キロを走ったが、すぐ後ろの監督車からの中村の声は
「は~い、今日は風もないから幸いですよ。は~い、じっくり走りましょう。ハイヨー、ハイヨー」
 と主催した毎日新聞の当時の記事にある。優勝監督インタビューに、中村清は、
「うちは駅伝をメインにチームをつくっているわけじゃないが、この実業団駅伝だけは、やっていきたいね」
 豪気なものだった。彼は瀬古を世界のマラソンランナーに育てることこそが使命だったと言わんばかり。しかし気の毒なことに、翌年亡くなった。アウトドア趣味だった中村は、天気の悪い日に(そういう日は釣れる)、新潟の魚野川で渓流釣りをして、濁流に飲まれた。


 日産監督時代の、白水昭興

 エスビーの2年目は、中村清亡き後で、瀬古利彦が選手権監督だった。しかも本人は走らずに2連覇した。その6区23キロの最長区間に、ワキウリが走った。
 白水は思い出す。
「エスビーに負けたのは、瀬古にやられたというよりも、実はワキウリに負けたようなものでした」
 なるほど、彼はその後87年ローマ世界陸上のマラソンで優勝。さらに88年ソウル五輪では、瀬古と一緒に走って勝ち、ケニア代表選手として銀メダルを獲得した。つまり日本の長距離界にとって、最初の助っ人外人とは、ワキウリのことだったようだ。山梨学院大学にオツオリという留学生の箱根助っ人が現れるのは、エスビーが優勝した5年後の89年。中村清の着眼は早かったことになる。どうやら中村は、瀬古の練習相手が欲しかった。日本人に該当者は見当たらない。アフリカ人を探し出したのである。

 そのワキウリとは、Wikによれば、
「19歳のときに、瀬古に憧れて日本に来た」
 ということになっているが「~~ということにしておきなさい」と当時の中村が言い含めていたとしても、何の不思議もない。策士なのである。
 もう一人、あの時には佐々木七恵という女性ランナーも、周回道を走っていた。彼女こそ、女子駅伝もない時代に、個人のマラソンランナーとして中村学校に入学した最初で最後の女性ランナーだったのではないか。わずかに入学1年目で、ロス五輪から採用された女子マラソンの日本代表の1人となった。同時派遣の増田明美(長距離解説)が五輪では途中棄権したのに対して、五輪女子マラソンのニッポン人で初めて完走したのは、中村門下生の佐々木七恵だった。ところが彼女は、その栄光がありながら、あっという間に自衛官と結婚して引退した(その後亡くなった)。恩師中村の「女性はこうあるべき」の典型だったとも思えた。「結婚して円満な家庭を築くのだ」。中村としても指導をやり終えた。白水も脱帽するほどに、中村学校はぬかりがなかった。

 まさにその頃、白水に大きな転機が訪れた。リッカーは先代社長も亡くなり、弟の代に移っていた。先代の爆発的借金経営の後始末をしながら、いやおうなしに粉飾決算してしまう。逮捕者も出だ。1100億円の負債で倒産した。後にダイエーが吸収した。
「リッカーの閉鎖の頃は、経営陣と組合が反発するし、陸上部は組合内部で継続するという話も出ましたが、倒産する会社で将来の展望が見えませんね。
ちょうどそんなときに、日産への移籍話をいただきました。陸上部員11人もまとめて異動できる条件になりましたね。福利厚生も含めて、既存の陸上部社員と合同するように、迎えられました。ミシン屋さんに比べれば、旧財閥の自動車メーカー。私は預かっている部員のその後の生活も含めて、放り出すようなことはしたくなかったわけですね」と白水は話す。

 日産自動車は、企業内の重点的スポーツとして、野球とサッカーと卓球チームを持っていた。もちろん陸上部も戦後すぐ(1947年)に結成されたが、こちらは企業内部活。それを創業50周年企画で、強化する話になっていた。その方策として、倒産するリッカーの陸上部を根こそぎ抱え込むというのだから、収益のいい巨大企業というのは、やることだ大胆だった。そういえば、プロ野球の南海ホークスをダイエーホークスが買収し、それが今はソフトバンクホークスになっている。企業の買収劇とは、シロナガスクジラやジンベイザメが、餌を飲み込むようであり、毎度「大胆だなあ」と呆れるほどの感慨がある。

 リッカー陸上部が休部になる1984年に、白水は日産に異動した。都下立川のグランドから、日産は横浜市内のサッカーマリノスの練習場脇に、360mの競技用トラックを持っていた。異動した部員は、その日から日産社員となる。異動した社員は、受け取った給料袋を開けると、
「おお、日産とはこんな高給取りなのか」
 と思わず感動したほど。
 監督と異動を共にしたのは、主要メンバーの工藤一良であり、成田道彦だった。岩瀬哲治もいた。3年連続3位のメンバーたちである。

 その頃の「ニューイヤー」は、まだ伊勢周辺で行われていた。伊勢神宮から賢島を往復した。しかも開催は12月。テレビ放送は録画を午後の時間帯に、ダイジェスト放送するだけ。知名度はまだ低かった。
「駅伝というのはねえ。実はどこを走ってもいいんですよ。主催が誰でもいい。ただそこでレースが行われて、多くの実業団に注目されて、参加チームが多いことと、沿道でこれを応援するお客さんがいることが大事ですね。できればテレビ中継もあった方がいいけれど、走った選手が注目されるに越したことはないですよ。それと企業がこうした駅伝を応援する姿勢があることですね。望むのはそのくらいですよ」
 と白水はいう。言いたいのは「どこで開催しても、駅伝は駅伝の面白さがあり」、主催者が決めたコースやルールにしたがって「最強のメンバーだけは用意しますよ」という、これが彼の姿勢だったように聞こえてくる。
 
 57年に伊勢でスタートした「ニューイヤー」は、85年の12月に開催地変更になった。過去には、雨が降ると未舗装の道では、選手は泥んこだらけになった。駅伝には、石畳や階段、踏切もあった。
開催地の変更で、86年12月だけは、1回だけ滋賀県の「彦根」になったが、それは野党連合の県知事が誕生して、誘致したと言われた。その後88年からは元日開催になり、現在の群馬県開催になった。これが「実業団駅伝」から「ニューイヤー」に変わった理由。テレビ中継も始まった。
群馬県高崎市周辺の地の利は、赤城山に中継アンテナを一カ所設置するだけで、全行程を中継放送できる利点もあったとされている。伊勢はそもそも道路が狭かった、応援少なかった。白水の記憶では、
「伊勢の時代は、箱根同様に、監督車が選手の真後ろに付いて「応援」ができましたね。それが駅伝らしいと言えばそうなのです。選手にとっては、信頼できる監督から走行中に声を掛けられると、それが大いに励みになるとは言われます。まあ選手と監督の間に、どれくらいの信頼関係があるのかということですよね。信頼関係が薄ければ「うるさい」ということにもなるし、選手が速く走れないかもしれないし」
 中村清は箱根の監督車から「都の西北」を歌いだしたこともあった。
 こうして「ニューイヤー」は、7区間86キロ大会としてスタートし、間もなく今のように100キロになった。それは箱根の片道分の距離に相当した。(続く
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NO3 ニューイヤー(実業団)駅伝を3回制覇した優勝請負人の白水昭興(しろうず・てるおき=82) リッカー後期の黄金時代と瀬古利彦を語る

2024-03-25 13:14:27 | ブツブツ日記
 リッカー後期には「ニューイヤー」を優勝にまで導くことはできなかったが、3年連続3位(79年~81年)という妙な偉業を達成したこともあった。その時に3年連続で優勝したのは、憎き「旭化成」であったのも、また因縁でもある。旭化成は「ニューイヤー」を通じて、通算25回優勝したというモンスターである。2位につけるのが、コニカミノルタの8回。続いてトヨタ、鐘紡、エスビーの4回。3回優勝とは、このリッカー、新日鉄、富士通である。


 監督時代の白水昭興 レース後のインタビューから

 リッカーでマネジャーになった白水は、選手勧誘に熱心になった。マネジャーとして、初リクルートした選手は、瀬古世代に当たる、農大卒の岩瀬哲治だった。4年連続箱根経験があった。彼はリッカーに入社して、29歳のときにびわ湖毎日マラソンで優勝(84年)した。現役引退後には、母校農大陸上部監督にまでなった。白水には岩瀬の記憶も強い。
「思い出すとね、84年の「びわ湖」というのは、瀬古が出場したあのロス五輪(84年)選考レースの一つでもありました。あの頃は福岡と、びわ湖と、別府大分が3大マラソンと言われて、優勝することに大いに価値があった。しかもびわ湖は、五輪の選考レースに指定されていた。なのに、瀬古と宗兄弟が五輪に派遣されたのはいいとしても、その陸連の選考会では、岩瀬の優勝は「議題にもでなかった」と後から聞きましたね。それは優勝した本人はもちろん、私にとっても憤慨ものですよ。
 私にとっての五輪候補の第一号は、間違いなく岩瀬なのですよ」

 岩瀬に続いて、
「学生時代に箱根の2区で、瀬古を抜いた」と話題になった選手がいた。法政大の成田道彦。「法政が初めて、箱根の2区をトップで疾走した」と言われたのは、78年1月の箱根駅伝の話だ。この成田もリッカーに入社した。
 細かい話をするなら、瀬古とは同年生まれの二人ではあったが、早生まれの成田は瀬古の一学年上。さらに瀬古は早大入試で一浪していたために、成田が4年の時に、瀬古は早大2年だった。浪人中に10キロデブになった瀬古は、大学1年ではボロボロ。但し2年から復活したものの、箱根前月(77年12月)の福岡国際マラソンも走って(5位)いた。その翌月に「箱根」を走る。それで成田に負けて2位。瀬古にとっては仕方がないのだが、しかし勝った者にとっては「瀬古を負かした」と、本人以上に「陸上界」では話題になった。瀬古は学生時代から、包囲網のなかで、誰ものターゲットになった。50年の一人の逸材の宿命でもある。その成田がリッカーに入った。

「彼は「箱根」の直前、法政4年の12月に、立川にきてリッカーの年末合宿に参加しているんです。走れる者にとっては、学生仲間と走るよりも、社会人チームに参加して、もまれてみたいわけですよね。インターバルにしても、長距離にしても、社会人は本気でガツガツ走っている。大学に戻ればNO1であっても、こちらではそうはいかない。参加できるとなれば、喜んで参加するものですよ。走れる選手というのは、そういうものです。
 その翌月に、箱根の瀬古との対決に彼は「勝った」。大きな自信と、一つの「夢の完成」ですよね。
 彼はその後、トラック選手として、3000m障害で活躍しましたね。それは布上正之さんの影響もあるでしょう。私にすれば「3000m障害」というのは、ちょっと危険な感じがしていました。障害や水濠を超えるのに、転倒や衝突がある。集団のままハードル超えるのですから、視界も遮られて怖いですよ。でもアフリカ勢にすれば、それがクロカンの障害と一緒で「だから勝てる」というわけですね。確か布上さんも、衝突してひざ関節悪くしていたと思いますね。
 言い方はよくないですが「隙間産業」という種目。5000mや1万メートルで勝てるなら、それをやりたい。でもダメならば3000m障害にチャンスがあるかも知れないという考え方ですね。「駅伝メンバー」を強化したいのですが、個人として障害をやりたいとうなら、会社としても認めていましたね」

 工藤一良に出会ったのもその頃だった。青森県三戸の高校生。珍しくも就職希望だという。当時リッカーのライバルのエスビーなどは、大卒の箱根OBがターゲット。高校生で見込みがある選手が、就職志望というなら白水にもチャンスがある。
「親御さんに会ったり、何度も青森に足を運びましたね。彼は入社してまもなく、19歳で熊本日日30キロという老舗のレースがあるんですが、そこで優勝(1981年)しました。
「マラソンでも行けるんじゃないかな」
 と周囲は思うわけです。およその企業チームで優先するのは「駅伝」。「マラソンは余力があれば」なんていう判断でしたからね。ところが翌年20歳で「びわ湖毎日マラソン」(82年)に挑戦すると、予想外にも2位。優勝したのは新日鉄の選手。新人にとっては、凄い結果でしたね。
 と当時に、その頃から思ったものですが、何故九州の選手に勝てないのか。日本の長距離の実情というのは、間違いなく「西高東低」。旭化成はもちろん、新日鉄、神戸製鋼、その後東洋工業(マツダ)という時代もありました。
瀬古の現役時代にも重なりますが、その頃から陸連の高橋進さんなどは「ニュージーランドの長距離練習法」として「リディアード方式」など取り入れて「ニュージーランド合宿」などを組んでいました。「ロングスロー・ディスタンス」という言い方で持てはやされたときもありましたね。平たく言えば「長距離の走り込み」。中には800mの中距離選手にも、マラソンの距離を経験させた方がいいとも言っていました。長い距離の経験が、中距離にも跳ね返るとね」

 マラソン練習に限れば、古い時代には人間機関車といわれた「ザトペック選手(52年ヘルシンキ五輪)」の「インターバルトレーニング」が持てはやされた。それは400mを1分(通常のマラソンでは72秒)で走る。少し休んでまた走る、何度も何度も。それは中距離選手相当の強い負荷を繰り返すことで、マラソン選手を鍛えるというやり方である。
 私は、その程度の質問を白水にしたが、「釈迦に説法」の大笑いだった。
「それ(400m走)を70本とか100本とか繰り返すメニューもありますよ。100本繰り返せば4万メートルで、マラソンの距離でしょ。
要は目標を設定して、それに基づく計画(メニュー)を立てて、それを自分で理解して、どこまで実行できるかということですね。但し直前になったら、やりすぎるな!。こういう基本が理解できているかどうかということですね。
 それでも当時マラソン練習では一般に30キロ走くらいが目途で、月間でも600~700キロくらいでしたね。それを「リディアード」では、練習でもフルマラソン。月間でも1000キロくらいまで走り込めというわけです。スピードは若干落ちたとしてもね。
 そういうことを、例えば旭化成(宗兄弟監督)でも、あるいはエスビーの瀬古選手でも、やっていた。まあエスビーの中村学校は鉄のカーテンの向こう側でしたから、瀬古の練習メニュー情報がくることはないですが(笑い)。
そうした公開されていない練習方法の存在を、私たちは知らなかったということでした。工藤ともそれを探ったり検討したり、何度もしましたね」
 
 工藤は五輪候補として成績を上げてきた。候補選手として、どの選考レースに臨むのか。彼も探っていた。
 過去の五輪選考を見てみると、マラソンほど揉めている種目は、他には見当たらない。当初は「指定レース」の成果を見て、後から陸連が理事会を経て、五輪派遣選手を決めていた。
 工藤の前の時代にはこんなことがあった。メキシコ五輪(68年)当時の話だ。佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二、采谷義秋の4人が、選考を争っていた。リッカー駅伝メンバーでもあった宇佐美もここにいる。問題は市民レーサーだった采谷(うねたに)のことだ。Wikによれば、
「指定二つ目の毎日マラソンでは、優勝の佐々木精一郎に次ぎ2位は采谷。3位に君原。指定レース三つ目のびわ湖では、優勝宇佐美に続き2位は采谷。3位に君原」
 とすれば、派遣を3人に絞るなら、君原が選考に落ちるような気がする。が、采谷が落ちた。采谷には指導監督がいないとか、メキシコの高所レースでは、体躯が大きい彼に負担が大きいとか、へ理屈のような理由で落選した。対して君原には「経験豊富である」など賛辞がある。君原のコーチは、その高橋進でもあった。
 さて、本番の五輪では、その繰り上げされた君原が銀メダルを獲得した。結果的に、君原は本番に強かったか。競技を主宰する側の陸連にとっては、選考に滑り込ませた彼が活躍したのだから、結果的に選考は正しかったことになった。しかし選考の不明確さは問題視された。

 工藤一良は、87年12月の「福岡国際」で日本人3位に滑り込んだ。88年ソウル五輪の選考レースのことである。中山竹通が瀬古に対して「這ってでも出てこい」と吠えた、あのレースのことである。瀬古は欠場した。
 この頃になると、問題視されていた選考は「一発レース」に変更されていた。アメリカの五輪選考に倣って、トラブルが生じないのが一発レースと、当時は言われた。Wikによれば、
「この大会は「88年ソウルオリンピックマラソンへの一発選考大会」と位置付けられた。優勝は中山竹通、2位は新宅雅也で、日本人3位は2時間11分36秒のタイムの工藤一良。だが、日本陸連は中山、新宅をソウルオリンピック代表に内定させたものの、工藤については経験不足を理由に保留とした」
 理由は明らかである。五輪の本命だった瀬古利彦は、怪我によって、この大会を欠場していた。そのために急遽の救済策で、3か月後の「びわ湖」に出場する瀬古の様子を見ることにした。するとその大会で瀬古は優勝。ならば陸連は3人目の選手に、工藤ではなく瀬古を五輪派遣した。

 生涯のわずかなチャンスを生かして、五輪に出るか出ないかは、あまりにかけ離れ過ぎて、実感が伴わないほどだ。これまでの人生で「甲子園に出たことがあるよ」という人に二人くらい出会った。「マジか」ビックリした。彼はその後ウソをついて「エースだった」とも言った。こうなると、資料で調べたくなって、ウソがばれる。ああ、明徳の野球部がその時に「外人部隊」と言われつつ、甲子園に初出場した頃の話で、彼は客席からの応援部員だった。それでも「凄いなあ」。俳優の高知東生のことだ。
「インターハイに出たことがあるよ」と聞いても、驚く。そうか、私の場合は「箱根」でもびっくりするのだ。「五輪に出た」と聞いたら、それはテレビの向こうのことだし、取材では出会ったとしても、日常には現れないはずである。
 ただ負け惜しみをいうなら、五輪に出たことを「過去の栄光」だけにして、その後を生きるのは辛い。ある女優は言っていた。
「過去の栄光その1,その2はあるんですよ。でも忘れたわよ。今は「過去の栄光その3」を獲得するために、頑張っている」
 こちらにすごく共感した記憶がある。「過去の栄光」は、他人が誉めるものではなくて、自分への静穏な誇りなのだと思う。

 後年、瀬古がエスビー監督時代に、白水と初めて対面するときがあった。白水は現役時代の瀬古とは話をしたことがない。白水は当時の様子を話す。
「白水さん、ホントのところ、私を恨んでいるでしょ」
 と瀬古は悪ふざけのように、いきなり話しかけてきた。
「いや~、私はびっくりして、とっさにどう答えたらいいのか迷っていたんですよ。すると向こうのマネジャーが、瀬古の言葉を抑えてきた。ちょっと言い過ぎだと思ったんじゃないですか」

 その理由は、ソウル五輪マラソン選考に際してのことだとすぐに分かった。改めて思い出すように白水は話す。
「私が彼を恨むよりも、あの選考問題については、瀬古自身が割り切れない気持ちを、ずっと抱えていたのではないかと思ったわけですね。仮に瀬古のネームバリューと経験で選ばれたならそれでいいとしましょう。それなのに、瀬古はソウル五輪で失敗した。思うように走れなかったわけですね。
こうなると、選ばれなかった工藤にしても、な~んだということになる。瀬古はいよいよ、重責を果たせなかったことに、今度は悩み出すんですよ。結果的には、国内のマラソンではほとんど敵なしだったのに、2度の五輪では失敗しましたね。五輪は難しい」
瀬古のマラソン優勝伝説は、生涯15戦10勝という快挙。今では本人もよく発言する。負けたのは、学生時代に走った2レースとボストン。他には、福岡でも、ロンドンでも、シカゴでも、ボストンのもう一レースでも優勝した。ただ、2度の五輪のロス(84年)とソウル(88年)も、14位、9位の負けレースに終わった。「本番に弱い」とも言われた。

 女子マラソンにも似たような話がある。有森裕子は(彼女も選考でもめた経過がある)が、2度の五輪ともメダルに輝いた。世間が選考に納得しないことがあっても、五輪で結果が出てしまえば「勝てば官軍」とはよく言われる。
瀬古は今になれば、ソウル五輪での失敗理由を隠しているわけではない。昨年私が瀬古に聞いたのは、
「マラソンは最終種目、ほとんどの競技が終わった選手村では、夜を通しての打ち上げ花火やらどんちゃん祭りで、寝られなかった。調子もあまりよくなかった」
 負けた選手の言い訳にはなるが、数少ない瀬古の失敗レースで、これが笑い話になればいいのだが。失敗した選手には、他に対応の方法がない。白水にはそれもよく分かった。
「工藤にも悔しい気持ちはあっただろうが、瀬古自身にも同じように、ぬぐえない気持ちがあって、いつまでたっても晴れない。五輪には、選ばれた者でさえ、同じように苦労があるわけですよね。だからこそ、マラソン選考がMGCのようにいくらか明確になって、よかったと思うんですよ」(続く
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NO2 ニューイヤー(実業団)駅伝を3回制覇した優勝請負人の白水昭興(しろうず・てるおき=82) リッカー時代とメキシコ五輪マラソン代表の宇佐美彰朗(うさみあきお)を語る

2024-03-21 12:16:14 | ブツブツ日記
 「リッカー」というミシンの単品商売の会社が、福利厚生予算でチームを構成して「ニューイヤー」駅伝で3回優勝(58年、59年、60年)した。その頃には、前回の東京五輪(1964年)で陸上競技に9人の選手を送り込んでいた。
こうして躍進したリッカーは、東京五輪の前年の63年に、銀座6丁目に本社ビルを新築した。帝国ホテルとJRを挟んだ向かい(泰明小学校脇)、銀座コリドー通り角のオシャレな9階建て。
 それまでは神田駅南口の神田鍛冶町に自社ビルを建てていた。1950年代の頃の話である。通称「リッカー通り」。いまのふれあい通りである。
「リッカーさんがきて、神田の南口も賑わうようになりましたね。駅から本社に通じる線路沿いの道を、地元が「リッカー通り」として、街灯設置の予算とか、出してもらったんですよ。私はそこで果物屋店をやっていて、リッカーさんは、いいお客さんでした」と地元の年配女性。今の神田ステーションホテルの辺りだろうか。
 その線路沿いを拡張して、新幹線の建設が始まったのが、前の東京五輪前。移転することになって、五輪景気で、そのビルが高値で売れた。その資金で銀座に新築した。都下立川に工場があったのに、当時の都心のど真ん中の神田に本社があり、移転すると今度は銀座。商売がうまかった。しかも見栄っ張りなのである。これも企業精神だった。
 
 思い出せば、東京ビルラッシュとは、超高層ビル第一号といわれた霞が関ビル竣工(68年)から始まったとする思いが強いが、リッカーはその5年も前、東京五輪前年にして、首都東京の草創期に黄金期を迎えていたことになる。
後年バブル時期、日比谷通りから銀座に入るには、日生劇場を左折して、ガードをくぐってリッカーの前に出る抜け道が、タクシー運転手はもちろん、銀座通には知られていた(今でも同じ)。それほど立地がいい場所に、リッカー本社はあった。
 そのビルは今では築60年を過ぎたのに、オフィスビルとして健在である。あのCMで有名な法律事務所も入居するし、1階には、イタリアンも入る。外壁の強度でビル全体を支える構造になっているとかで、窓ガラスは大きく採光が良さそうだ。当時は建築賞にも輝いた。


 
 いまそのビルに入ってみると、さすがに天井のやや低さとか、通路の狭さの圧迫感はあるものの、オフィスビルとして十分機能する。
 なお言えば、東京のビルの歴史とは、関東大震災(1923年)でほぼ全滅した時に、被害がなかったのは、歴史的遺産といわれる、丸の内の旧丸ビルと、東大の法学部一号館などのゴシック建築の2棟だけだったはずである。その100年前の記憶と、それから敗戦で再度焼け野原になった後の、東京五輪という60年前の記憶の、大きく二つしかない。その2度目の復興に合わせて、リッカー本社が新築されなお機能しているなら、これも前回の東京五輪(高度経済成長)のレガシーの一つだと思うのは、考えすぎなのだろうか。

「銀座にこういう本社ビルが欲しかった」というのは、リッカー創業者平木信二の夢の一つであったろうと思い返す。そしてこのビルは、リッカー消滅後には「ニューイヤー」で一時代を築き、白水もそれに参加した「ダイエー」の所有になった。実にまったく不思議な縁としか思えない。それはダイエー創業の中内功もまた、銀座に本社が欲しかった。そのビルはなお変遷して、今は、Daiwaに所有権が移っている。
 ついでにいうなら、平木のもう一つの趣味は、日本中の浮世絵を集めて「平木コレクション」を完成させることだった。企業家の夢とか道楽は、常人の想像を超える。

 リッカーがそうしたように、日本人の五輪狂騒は「マラソン」や「駅伝」の好きさ加減が、五輪を予想以上に盛り上げてきた。歴史的に見ても、どうやら「駅伝」と「マラソン」は、「大相撲」に比肩するほど、ニッポンの「国技」にも近いと思っている。けっして妙な話でもないだろう。
 かつて文科省に聞いたことがある。「国技」には規定でもあるのかと。先方は「ない」と答えた。つまり大相撲が国技といっているのは、ある場合に横綱の土俵入りを、神社に奉納するなどの習慣があるから、一部のメディアや当事者がそういうのであって、公式的には誰も関知していないらしい。ならば「駅伝」が国技に近いと私がいっても、誰からも文句が来ないことになる。

 さて、今年2024年正月の「箱根駅伝」は100回を迎える記念大会になった。その初回(1920年=大正9年)といえば「大正デモクラシー」の時代になる。あの頃には、甲子園の高校野球も始まった。大学野球も同じ頃だ(プロ野球はずっと遅く1936年(昭和11年)から)。大正時代は、実は「バブルだったのではないか」と、当時の私は子供心に思ったものだ(ウソ)。
 でもせめて、その対岸に帝政ロシアが第一次大戦を急遽取りやめて、ソビエト連邦になる「ロシア革命」(1917年)を起こした時代に重なる(そこが今ウクライナを攻撃しているなら、理想はとっくに崩れた)。帝国や王国たちが戦争を起こしていた時に、理想的な地球の未来社会が描けると、反帝国主義の民主化運動の一環で、ロシアは共産化してソビエトになった。大正時代のニッポンのスポーツブームは、その理想郷に従った気配がある。時代の後ろ盾だった帝国陸軍の軍部もまた、この「体育」ブームに便乗した。
 その「箱根駅伝」の3年前、日本で最初の駅伝(1917年4月)が行われていた。京都~東京の500キロを23人でリレーするという「東海道駅伝」。関東組と関西組の2チーム対抗戦。3日間連続の無謀な大会。あまりにも馬鹿げている。その「奠都(てんと)50周年行事」とは、江戸時代の都京都とは別に、東京にも都を創設したという「明治維新」(1868年)から50周年という意味で、計算は合っている。つまり「駅伝」は天皇行事だった。
主催は読売新聞で、当時は朝日毎日の後塵に泣いてわずかに5万部。歴史は古いのだが、販売力がなかった(今では箱根の主催者)。日本人で最初に五輪に出場した金栗四三(かなぐりしぞう=1912年のストックホルム五輪)は当時21歳。五輪ではボロボロになってまったく歯が立たなかった。
幕末の黒船襲来以降「外人を排斥(攘夷)する」という「大和魂」は、平和時に言い換えれば「五輪に勝つ」と同義語だったと思う。その方法に「駅伝」を思いついた。実行した東海道駅伝の関東組のアンカーは、その金栗四三。彼は優勝のゴールテープを切った。そのゴール地点になった上野不忍の池のほとりには、今「駅伝の歴史ここに始まる」の記念碑(モニュメント)が建つ。


 
「駅伝の父」金栗四三という人は、数年前の大河ドラマ「いだてん」の主人公にもなった。ストックホルム五輪(1912年)出場は21歳のとき。出場したマラソンは途中棄権だった。コースを外れた後で、どうやら沿道の農家宅で気を失ったようだ。翌日目覚めてそのまましょぼしょぼと帰国。シベリア鉄道経由で日本まで20日間。「死してお詫びを」という遺書めいた手記を残した。現地フィンランドのOC(五輪委員会)は、彼を「行方不明」の処理をした。この問題が解決したのは、なんと55年後のことだったという。現地五輪の55周年行事(1967年)のときだったと記録に残る。笑い話である。金栗はその祭典参加のために現地に赴いて、なお当時の五輪コースに戻って、遅ればせながらゴールテープを切ったらしい。55年間走り続けて、ようやくマラソンゴール。当時の五輪は、のんびりムードだった。

 金栗は自分の失態も含めて、長距離強化に目覚めた。先の東海道駅伝を開催し、その3年後の「箱根」の開催に際しては、
「いずれアメリカ大陸横断駅伝をするための、選手養成」
 という構想で、これをスタートさせた。箱根の山登りをコースにしたのも、アメリカのロッキー山脈(4000m峰)を走り抜ける想定だった。「箱根」の第1回参加校はわずかに4校で、優勝は東京師範(今の筑波大学)。他に、慶応、早稲田、明治。その歴史が100回を迎えた。その代わりに「アメリカ横断の夢」は霧散した。後に間寛平が一人マラソンで世界一周をしたのは、別の意味で快挙にもなったが。
この100年間で、箱根駅伝は消えなかったばかりか、大きく育った。2日間にも渡る長蛇のイベントなのに、正月の高視聴率番組になった。
 その100年間の途中、前回の東京五輪の「マラソン」レースをこれに反映させると、駅伝開始されて40年の頃。その後現在まで60年が経過したというなら、私が生きている時代の偏向のせいで、前半がとてつもなく長く感じるのはどうしてか。その東京五輪ではマラソンの円谷選手は3位に入ったが、数年後に「走れなくなった」と自死した。悔やまれる悲劇も決して非難されない。マラソンとは何なのかと視聴者の共感も呼ぶ。
 大正時代は野球と相撲しか運動はなかったはずであるが、徒競走と言われたマラソンや駅伝は、どっこい細々と続いてきた。そこに共感する沿道の応援者も確かにいた。しかも格段に増加してきた。

 その真っただ中に、白水は入り込むことになった。
 前回の東京五輪の直前に福岡から東京に異動した。白水は実はリッカーでは、駅伝メンバーに入ったことは一度もなかった。企業の代表選手としての活躍はゼロだった。ただ福岡からの異動に合格して東京採用となったからには、それでも仕事があった。陸上部マネジャーを3年間やり、続いてコーチを10年間やり、そして監督になった。

「やっぱりねえ、高校でも大学でも、それなりの駅伝成績があった者が、その後企業の駅伝メンバーになるわけで、ただ長距離が得意だというだけでは、企業メンバーには歯が立ちませんよ。私のように全国大会の経験なしで、企業駅伝の監督になった者は、珍しいですよね(笑う)

 リッカーはメキシコ五輪(68年)にも出場した宇佐美彰朗(うさみあきお=他に72年ミュンヘン五輪、76年モントリオール五輪と3度の五輪出場)をリッカーの駅伝メンバーに迎えた。過去に3度の五輪を走った選手といえば、宇佐美の他には君原健二しかいない(瀬古や宗茂はモスクワ五輪をボイコットした)。白水は振り返る。
「リッカーのマネジャー稼業としては、当時「嘱託社員」といっていましたが、いまでいう「契約社員」という条件で、何とか選手集めとチーム強化をしたかったものですね。獲得したい選手を見つけると、母校へいったり、その実家を訪問したり、その親御さんに会ったりして、進学就職はもちろん、それこそ「長距離人生」の相談にも乗ってきました。
 宇佐美は東京五輪の頃には日大で「箱根」を走っていましたが、卒業したものの、教職志望で再入学する頃に出会って、その支援をするという条件で2年ほど「リッカー嘱託」となりました。駅伝要員ですね。当時は都下立川市本社周辺の競技場などが普段の練習場で、そこに来て走っていましたね。
 往年の駅伝メンバーの内川義高さん(52年ヘルシンキ五輪)が長距離コーチに在籍していて、マンツーマンでした。メキシコ五輪出場のときには、日大OBの「日大桜門会」所属で走りましたが、駅伝ではリッカー3位(66年)のメンバーだったと思いますよ」

 当時の駅伝資料などはほとんど残っていないのだが、青森県の十和田で「十和田八幡平駅伝」というローカル大会(鹿角市開催)が、当時から現在まで8月開催の「真夏の駅伝」としてなお続いている(5区71キロ)。そこの過去資料を見ると、例えば19回大会(1966年)は、前回の東京五輪(64年)とメキシコ五輪(68年)の中間年。この年20チーム参加した大会で優勝したのはリッカー(5区間77キロ)だった。こういう小さな大会にも、リッカー陸上部は正面から向き合っていた。
 その3区17キロは、大湯~花輪の区間(冬ならスキークロカンをやりそうだ)で、区間1位と表記されているのは、まさに「宇佐美彰朗」56分56秒のタイムで、2位とは1分以上の差をつけて区間賞に輝いた。リッカー駅伝チームに、ある意味では五輪候補のマラソン選手を、助っ人として加入させていた。ほとんど知られていない話である。





 思い出した。妙な経過であるが、私は偶然にも宇佐美彰朗に面会したことがあった。84年のロス五輪直前の瀬古が台頭してきたマラソンブームの頃に「人類は2時間でマラソンを走れるか」という、思い付きにもほどがある雑誌の企画で、宇佐美を取材した。当時現役を引退して、大学で教鞭をとっていた宇佐美だったが、これほどの愚門にも付き合ってくれた。その時彼は思わぬ反応をした。
 71年から福岡国際を4連覇した米国選手フランク・ショーターを例にして、
「彼などは、給水にコカ・コーラの炭酸を抜いたまあ砂糖水ですよね、それをスペシャルドリンクにしていたわけですよ。つまりマラソンには何が効果的なのかには、明確な基準はないんですね。42キロという苦しい中から、自分で見つけ出さないことにはね」
 と話していたことを思い出す。確か宇佐美もショーターに負けていた。
 宇佐美は努力型の選手だった。10年を超えるマラソン人生では40レース以上を走って、11回の優勝を果たした。練習方法には、インターバルトレーニングも、ニュージーランド合宿も、高地トレーニングも(ある時には血液ドーピングも)いわれたが「明確な基準がない」という漠然としたものの言い方が、実は正解だったのではないかと、今になれば思う。当時は歯切れの悪い、あいまいな人だなあと勘違いした私は愚かだった。40年後の今になれば、マラソン記録の短縮は、皮肉にも「シューズの進化」が最大効果になったが、そんなことさえ明確に言い切った人はいなかった。マラソンを走る「人類」という言葉に「アフリカ人」と言い切る人さえ、宇佐美の時代にはいなかった。手探りなのである。それを含めて私は的確な名言を聞いていたことになる。苦しくなると表情を少し歪めて、顔を傾けた感じの走法を、少し思い出した。その彼もまた、リッカーの駅伝部員でもあった。(続く

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NO1 ニューイヤー(実業団)駅伝を日産自動車と日清食品で3回制覇(他に「リッカー」「ダイエー」などでベスト3まで26回)。天下の優勝請負人「駅伝屋」の白水昭興(しろうず・てるおき=82)監督

2024-03-18 16:11:39 | ブツブツ日記
 一家は満州から九州福岡に引き上げてきた。白水の記憶では、弟が父親のリュックの上に肩車されて、長男の彼は母親に手を引かれて、接岸していた大きな引き上げ船を前に、それに乗るところか降りるのか、雑踏の中に紛れていた記憶しかない。敗戦の昭和20年のこと、その3年前に彼は生まれていた。引き揚げてからさらに5人の弟たちに恵まれて、彼は7人兄弟の長男になった。
 両親は満鉄に職を得て、日中戦争のさなかに現地に渡ったが、夢は破れた。後に母親からは「政府の言うことなんか、信じるんじゃないよ」と言われたこともあった。満州に渡る前には、父親は土地持ち農家の長男だったが、引き上げてきた頃には、帰還した満蒙開拓団と同じような粗末な扱いを受けた。家督も兄弟に取って代わられた。

 運動神経はよかった。進学した県立の福岡農業高校は、現在創立146年の名門で、陸上部も充実していた。1950年に開始された全国高校駅伝では、53年、54年の大会で連覇している。主催の毎日新聞の、この大会の担当は運動部長の南部忠平。そう1932年のロサンゼルス五輪では、三段跳びで金メダル。のちには幅跳びの世界記録も打ち出した日本人選手で、早大からミズノ、その後毎日新聞社に入った。運動は大企業のみならず、マスコミにも就職できたし、彼は後の東京五輪の陸上競技監督にもなった。すでに始まっていた箱根駅伝が読売新聞という、当時は弱小新聞社のイベントなら、老舗新聞は高校駅伝をスタートさせていたということになる。

 ところが白水はこの高校を中退した。現在は群馬県に居住するが、その頃を思い出して話を聞かせてくれた。
「家が貧しかったですね。高校の授業料が払えないと、学校を辞めて稼業を手伝ったりしていて。ある日新聞広告で「陸上部員求む」の求人広告を見つけたわけです。それが採用の条件というなら、就職することができる。応募すると合格したんですね。今となれば奇妙な話ですが、その時19歳でした。そこが「リッカーミシン」という、ミシンの会社でした」
 1942年(昭和17年)生まれだから、1962年の話だ。前回の東京五輪は1964年(昭和39)年のことだから、その2年前のことになる。

 リッカーミシンというのは、戦後の混とんとした時代に、バブルのように花開いたミシンという単品の会社だった。平木信二(1910~1971)という気の利いたワンマンタイプの創業者は、30代の頃にすでに財を築いていたといわれる。経歴は、京都大学を卒業して、会計士の仕事ですでに成功し、東京で起業した。
 履歴によれば、1939年に日本殖産という食品加工の会社。43年には理化学工業という化学会社。「リッカーミシン」は、戦後の49年に社名変更して事業スタートとなっている。その経過というのも、前年に先行の帝国ミシンが会社分裂したことを機に、吸収したことがきっかけらしのだが。

 当時、リッカーと取引のあった、東京神楽坂の工務店の倉さんは、思い出しながら話す。
「昭和の嫁入り道具の三種の神器とうなら、冷蔵庫に洗濯機に白黒テレビ……という話になるけど、ミシンというのは、それ以前からの道具だったんでしょうねえ。
 先代の平木さんはミシンの技術者じゃなくて、明らかに計数管理のできるインテリタイプの経営者でしたよ。あの頃は全国のすべての大都市の駅前に、リッカーミシンの販売店を開店させて、その2階には「ミシン教室」を開いて、若い女性たちの、いわばカルチャーを育てていましたね。その後の、音楽教室と同じですよ。
 その2階建てはどこも同じ設計図だから、今でいうコンビニの店舗。視察した先々で、取得した駅前の土地に、私の父親はその建築注文を受けました。
 商売のうまさは、就職したばかりの十代の女性に「毎月500円ずつ貯金しましょう」と。すると数年後の結婚するときに、ミシンを嫁入り道具として購入できる。平木さんは、戦後の景気のよさを見越して、500円の積立預金が数年でどんどん利息が付くことに目を付けたという点では、後の丸井デパートの月賦(クレジット)販売よりも早かったんじゃないかなあ。それが若い娘さんを呼び込んで、あっという間に日本中を席巻したんですよ」
 と話す。

 創業5年で会社は10倍規模になり、同時に借入金も膨大で、借金のツケは上場企業の中でもダントツとなった。不渡り手形も出した。当時は「東映、三共、リッカー」は借金の三羽烏といわれたそうだ。一時は不安定な経営。それを乗り切ると、次にはあっという間に全国展開して、社員も7000人規模にまで拡大した。
平木がまだ40代の頃に、倉さんの父親は頼まれた。
「どこか東京で一等地を見つけて、俺に住まいを建ててくれよという注文のようでしたね。それで目黒区の一等地にお屋敷を建てましたよ。それから彼は20年くらい住んだのかな。亡くなると、そこは整理されて、敷地は野球の王貞治さんが取得しました。今でもそうだと思いますよ」

 リッカーという社名の響きは、私はどうにも好きだ。ところが命名は、都下立川市に本社を起こした理由で、それを音読みすれば「リッ川」。諸説あるなかで、これを信ずる人が多い。倉さんもそうだ。高をくくってシャレがきつい。
 しかもリッカーは、白水が就職する頃には、野球部もあった。陸上部には短距離選手もフィールド選手もいた。陸上部は、その2年後の前回の東京五輪には、9人もの選手を派遣したことになった。当時の陸上部監督は、暁の超特急と言われた1936年、ベルリン五輪選手の短距離選手の吉岡隆徳(東京教育大卒=今の筑波大)。女子ハードルの依田郁子も所属した。ある意味で、平木は東京五輪に向けて、自社の実業団チーム創設に大勝負をかけていたのではないかと思える。「暁の超特急」はその頃、広島で教職に就いていたようだが、それを「東京五輪」の名目でリッカーの監督に引っ張っていた。 


駅伝発祥の碑(東京上野・不忍の池ほとり

 五輪の話をもう少し続けるが、ニッポンの「五輪」崇拝は、幕末の「黒船襲来」の反動で、それは「攘夷運動」という、外人排斥が始まったことの、裏返しだったかと思う。
 知られるように、ニッポンには、戦前の1940年(昭和15年)に幻となった、東京五輪の開催権利を持っていた。これにしても、その招致活動は11年前からスタートして、3年後に立候補して、7年後に開催が決まったものの、軍部は日中戦争をやらかしてしまって、応じるように政府は9年後に「大会返上」するという、大失態を演じることになった。
つまり戦前の最後の五輪は、先のベルリン五輪で、ここに吉岡隆徳と、もう一人後のエスビー監督で瀬古利彦を育てた、中村清も早大の学生ながら出場していたのは、後の因縁にもなる。
 そして敗戦無条件降伏してからは、マッカーサー進駐軍に7年間も占領され、東京裁判も、戦犯の処刑も財閥解体もしたが、サンフランシスコの講和条約で独立(1952年)開放されると、なんとその翌週辺りには、1964年(昭和39年)に開催された東京五輪の招致活動をすぐに始めたという経緯がある。まるで昭和のニッポンは、本当は「五輪」をやりたかったのに、間違えて「日中戦争~太平洋戦争」に突入したのかと思うほどなのだ。
 その憧れの東京五輪開催のために、「国家の威信をかけた」と一言で済ますが、開催に合わせて東海道新幹線を建設したことも、東京に首都高速道路網を整備(60年後の現在でも、それから少し整備が進展した程度)したことも、他にいくらでもあったはずなのだが、リッカーや、そのライバルの東急に実業団選手を揃えさせることなどは、そう難しいことではなかったろうとも思う。

 白水の入社の頃には、すでにリッカーは黄金期を迎えていた。吉岡隆徳の中大人脈からだろうか、中大の箱根駅伝組を続々入社させていた。その中大とは、50年代には10年間で6回優勝し、その後60年代にかけては、さらに6連覇した。彼らはごっそりリッカーに入社していた。
「ニューイヤー駅伝」、いや当時はまだ実業団駅伝と称されて、レースは三重県の伊勢周辺で行われていた。1957年(昭和33年)の3月に第1回大会は開催されたが、リッカーは翌年の第2回大会に初参加して初優勝。参加は15チーム、83キロの駅伝競走だったと記録に残る。この年から5年間(58年~61年)には3回優勝して準優勝が1回。出場すれば優勝に絡んだ。すでにこれこそが「リッカーの黄金期」であったようだ。
その中心メンバーに布上正之(1934年~2023年)がいた。やはり中大の箱根メンバーの一人である。同年代には内川義高もいる。彼はびわ湖マラソンでも優勝し、戦後日本が初参加したヘルシンキ五輪(1952年)にも出場した。

 その布上が福岡支店の責任者になっていた。九州でミシン会社の支店を作って、そこで社員兼陸上選手を募集すれば、一挙両得になる。アイデアというのか、思いつきなのか、成長企業とはそんなことも平気でやっていた。この日本代表クラスで五輪選手がゴロゴロいる組織に、長距離が少し得意な19歳の少年が混ざってしまったのである。

 白水は話を続ける。
「私の仕事というのは、そのミシンの訪問販売でしたね。農家の子供が「ミシン買ってください」といっても、はいそうですねとは言われません。でもミシンは嫁入り前のお嬢さんたちには必要なものでした。20人くらいの営業部員がその福岡支店にはいましたかね。そして仕事が終われば長距離の練習。しかし私としては、就職できたということと、給料がもらえる。走ってさえいればそれでも十分。辞めたら他にやることがないでしょう。
 2年目くらいになると、布上さんから、
「ちゃんと基礎体力をつけなさい」
 と倉庫部門に異動になった。部品や運びや荷物の整理で、肉体労働でしたかね。他にミシンの足踏み部分(足踏みミシン)の機械組み立て。そんな汗かき仕事をやりながら、体も少し筋肉質になってきたものでした。
 福岡の地元でクロカン大会がありました。出場してみろということで走ると、ここで意外にも優勝できたのですよ。自分でも嬉しかったですねえ。これがきっかけで、陸上部としても準部員扱いだった私は、晴れて部員に昇格できたようなことに。それにしても、あっという間の3年ほどが過ぎましたね」
 
 64年の東京五輪が迫ってきた。福岡支店は閉鎖することになった。一つには、東京五輪に9人もの選手を送り込んだリッカーとしては、陸連に対しても、一つの義理が果たせたという理由にもなろうか。他にも理由はある。
「準社員扱いの私に、辞めるか、東京に移って陸上部を続けるかの選択がきましたね。私としてはもちろん継続したい。先のクロカンの成果もあって、東京採用になって、社員待遇を受けることになりました。
東京五輪はあの年(1964年)の10月10日(旧体育の日)に開会式がありましたが、私はその10月1日に東京採用。なんだか縁起のいい年になりましたね。ただ五輪そのものは、テレビ観戦とうことでしたが」
 と今でも笑う。(続く
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藤井聡太という将棋指しの、生真面目で未熟児的な正座対局16時間の毎日

2024-02-07 17:21:54 | ブツブツ日記
 今日も藤井と菅井の王将戦をやっているのだが、いつみても両者が正座して、悶々と、ウンコが出ないのか、気持ちが悪いのか、陣痛で悩んでいるのか、頭むしって、ぼーっとしながら、対局しているが、そういうのは見たくないと思う人はいないのか。
「全部見せます」ということで、アベマの中継棋戦動画は始まったのだが、それは「全部見せます」という分娩室の出産動画と同じだと思っている。いっとき夫婦で分娩というえげつないのが流行ったが、成功しなかった。あんなの見たら、二度とセックスしたくない。
 同じで、亭主が会社で上司に怒られて「売り上げ悪い」と小突かれている姿は、妻は見たくない。
今は未熟児状態だから、対局の藤井聡太小僧の悶々としたウンコ詰まりを見ているが、ホームラン打つ前に、大谷がベンチ裏で、鼻くそほじっているところを、誰か見たいのか。
 将棋の考慮時間とは、他人に見えないように(それは風呂に入っているのと同じで)裏でベッドに寝て横になって考えたいのとは違うのか。相手が2時間も考えているときには昼寝でもしていたい。「相手が指したら起こせ」。
 大谷翔平はホームラン打つその瞬間を見たいだけで、ベンチ裏でタバコ吸っているなどは(仮の話)誰も見たくない。ならば藤井聡太は、「王手」とやる時を見たいだけで、それまでに、売れない会社の企画会議みたいに、頭かきかきコーヒー飲んでいる、三流予備校の受験学生のような間抜けな仕草はみたくないし、本人も見せたくない。
 そんな嫌悪感をまじまじ見たいのは、先の分娩室に入りたいという悪趣味と同じで、アベマが16時間も中継するその王将戦も、いい加減に飽きてきた。というよりも、棋士はほとんどの時間は空席にして、裏に隠れていろ。
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