すりはんどく日誌

創価学会壮年部員の日誌。

使命と誓願

2021年01月10日 | Weblog
聖教新聞や大白蓮華を読んでいて、

ここ数年、「誓願」という用語をよく目にするようになり、

それと反比例して、「使命」という用語を目にする機会が減ったように感じます。

(あくまでただの感覚であり、このブログのほかの記事と同様、たわごとに過ぎません)

個人的に、「使命」という言葉は、何となくスッと入って来ません。

いっぽうで、「誓願」という言葉は、好きです。

「誰もが自分だけの使命を持って生まれて来たんだ。その使命を果たしぬいていこう」

という定型文がありますが、そう言われてみたとき、やっぱり、「使命」とか言われると、誰かに命令されたものに思えて、それは自発的な自由意志ではなく、それのために命をすり減らして頑張るなんて、なんなん?

と、感じます。

それに比べると、「誓願」は、誓いであって願いであって、自発的なものです。

「願わくはわが弟子等・大願ををこせ」
「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ」
「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願いやぶるべからず」

大乗教と小乗教の違いのひとつとして、大乗教では「菩薩」の「誓願」が重要なキーワードになるのだそうです。

「使命」という言葉に、池田先生は、何か詩的な趣と、仏法の精神を現すのにふさわしいニュアンスを感じて、それを多用していたのだと思います。

古くから学会にしっかり残っている人たちにとっては、「使命」という言葉が発奮材料になるし、なじむのかも知れません。

もう生まれた時から、「使命」というのがなぜか決まっていて、それを果たすために、自分の一生はあるんだという。。

同じ趣旨のものとして、戸田先生の指導には、たまに「仏勅」という言葉が出てきます。
池田先生の指導や、現代の聖教新聞などにも、稀に出てきますね。

なんでも、この世に生まれてくる前に、日蓮大聖人に、「君はこれこれを達成しなさい」という指令を受けて(それを仏勅といいます)、その仏勅を果たすために、自分の一生はあるのだという。そういう発想です。

やっぱり個人的には、「使命」という考え方には若干の抵抗があります。

菩薩道の修行は、「誓願」でなければですね。

限界集落

2020年11月29日 | Weblog
半年ちかく放置しているのに、アクセス数がユニークで1日100前後あります。

すごいなあ。。

別で、趣味のブログもやってますが、そちらはどんなに頑張ってアピールしてもせいぜい10~30。

学会がすごいということですね。

本部長と支部長が訪ねてきてくれたので久しぶりに地域の組織の状況など伺いました。

うちの支部には地区が5つありますが、うち4地区の地区部長は70歳代。

副支部長や、担当としてよそから入っている副本部長の方々も、若くて60代半ば。

男子部の状況はわかりませんが、壮年部に関しては、40代~60代で地区部長以上をやれそうな人が全くいないそうです。

もしいれば、70代の方々にいつまでも地区部長やっていただくわけはないですから。。

なぜこうなったのか、ということにちゃんと向き合って、

壮年部が定着可能な組織になっていかないと、

SDGsを訴えている場合でなく、学会自体が持続不可能になってしまいます。

次の10年、創立100周年を目指せ、と言いながら、この限界集落状態だと、

10年後、何人の人が組織の最前線に残っているのか。。

という話を、本部長と支部長にすると、同意してくれるのですが、

かといって、もちろん、改革ののろしをあげるわけではありません。

そういう僕もブログでぶつくさ言うだけで。。

そんな学会が、最近はどんな活動しているのか尋ねると、

来年の都議選の準備に全力をあげているそうです。

選挙の戦い、というものが、いかに歓喜の無い膨大な事務作業であるかは、ごく一部の例外を除いて、学会員は誰もが骨身にしみているところ。

組織に人が寄りつかなくなるのは、歓喜が足りないからだと思います。

義務感使命感、苦しくても歯を食いしばって絶対にやらねばならぬ、

と突き進んでも、目的の正邪はさておいて、人はついてきません。

新聞ノルマもしかりで。

と、相変わらず選挙ノルマと新聞ノルマが学会衰退の元凶説、を繰り返す似たような記事になってしまいました。

素晴らしい教義と確実に功徳が出るお題目がありながら、

座談会に出席しても大聖人の教えについて聞けるのは御書講義の時間の10分間だけとは、

いったい何の団体なのか。。

なつお炎上?

2020年05月17日 | Weblog
なつおツイート 5月12日
https://twitter.com/yamaguchinatsuo/status/1260176045539332097

浜地雅一 党法務部会長に聞く 5月14日
https://www.komei.or.jp/komeinews/p95113/

「公明支持辞めます」検察庁法改正案への投稿に反応殺到 5月15日
https://www.asahi.com/articles/ASN5H63PNN5HUTFK014.html

検察庁法改正問題については、内容をよく勉強していないので、なんも言えません。

ただ、なつお発言「政府として丁寧に説明していただきたい。」に対して、

あなただって与党なんだから他人事みたいに言うな。あなたが説明してみろ。

と、批判されるのは、的を得ていると思います。

「政府として」の政府って誰やねんですね。日本政府は連立与党がリードしてるんじゃないんですか。

10万円給付のときには、公明党がやりました感をビシビシ出していただけに、

旗色の悪い検察庁法改正問題になると、自民党のうしろに隠れてよい子の顔をしているというのは、

なんとも。。。

真面目な学会員の必死の支援のおかげで、与党と呼ばれる存在にしてもらい、

しかももうけっこう長いこと与党やっているのだから、

与党としてハラを決めて、批判には真摯に対応して欲しいもの。

なつおのツイートが12日、そのあとすぐ炎上してしまい、あわくって公明党ウェブサイトで説明したのが14日、ニュースとして流れ始めたのが一昨日あたりからみたいです。

公明党の広報の人たちは焦っただろうなー。。

中身にあまり興味がないのでわからないのですが、

今回のこの浜地さんとやらの解説は、公明党オリジナルなんでしょうか、また自民党見解のコピーなんでしょうか。

このブログでもしつこく何回か書いてますが、

パパブッシュのイラク戦争、バグダッド侵攻のときでいうと、

その直前のSGI提言で池田先生が、アメリカに戦争の大義は無いことを説かれていたにも関わらず、

公明党は「この戦争は国連決議に基づく大義ある戦争である」という、

自民党の主張をコピーした内容のデマを公明新聞号外として発行し、

地区協などで学会内に広くバラまいて、学会員にデマを根付かせることに努めました。

のち、当時のアナン事務総長が「国連は戦争に同意していない」と明言して、

公明新聞の主張がデマであることは明らかになりました。

ついでに、もうひとつSGI提言と矛盾していた、核兵器禁止条約への対応について、

以前は、日本が条約に反対することについて「政府の対応を尊重する」と述べたり、
 https://www.komei.or.jp/news/detail/20170329_23587

「核保有国は核実験禁止や核軍縮など現実的な取り組みを進め、禁止は最終段階で必要との考えだ。禁止先行となった核禁条約は保有国と非保有国との溝を深めた。」
と解説して、
https://www.komei.or.jp/news/detail/20170725_25029

池田先生の主張に歯向かっていたのですが、

最近は、もう大丈夫なエリアに入ったのか、すこし軌道修正して、

「日本(政府)は唯一の戦争被爆国として積極的に参加する方向性をしっかり持つべきだ」
https://www.komei.or.jp/komeinews/p37704/

という言い方に変わっています。

「日本も参加すべきだ」ではなく「参加する方向性を持つべきだ」なところが、いかにもですが。。

なお、こういった部分はありつつも、公明党の知り合いにはいい人が多いし、

今すぐ選挙があるとすれば、相対的に検討して、やっぱり公明党に投票すると思います。他のへんなところに入れるよりは。

スマホアプリ「題目PRO」

2020年05月10日 | Weblog
スマホアプリ「題目PRO」。

インストールしてみました。

おもしろいですね。

時間とか回数にこだわって唱題するのは、好きじゃないですが、

アプリに記録してみると、

けっこうあげてるなー。

とか、

なんだかんだで毎日欠かさずやってるんだなー。

ということが明らかにわかるので、いいです。

ほかのアプリ登録者が、共通の掲示板みたいな場所に投稿しているコメントを読んだり、

ほかのアプリ登録者のご祈念項目を見てみたり、「祈りました」ボタンを押したりできます。

掲示板の記事を見ると、

みんなまじめだなー。と思います。

池田先生と志村けん

2020年04月06日 | Weblog
だいぶ前のことですが、本部幹部会の同時中継で、池田先生が、志村けんのギャグを真似されていたことがありました。

正確には、志村けんの番組に、視聴者が投稿してきたネタを、志村けんが気に入って、何度か繰り返していたもので、

志村けんのギャグというのとはちょっと違いますが。

それは、ピンクレディーの「UFO」の、「目を合わせて見つめるだけで」の部分を、

同じメロディで、「手と手を合わせてしあわせ」と歌い、手を合わせて、「なーむー」と、頭を下げる、というもの。

ピンクレディのUFOがいつの間にか仏壇のCMになっちゃった的なギャグで、

そんなにウケてなかったと思うのですが、志村は何回かやってました。

それを池田先生が見られたようで、「なーむー、て、テレビでやってたんだよ。知ってる?」と、壇上の幹部の人たちに話しかけるという一場面がありました。

池田先生もテレビみるんだなー、しかもなかなかにマイナーなところを。。

と感心していました。

マイナーじゃなくてメジャーなところでいうと、安達祐実の「家なき子」の、

「同情するなら金をくれ!」は、何度もおっしゃっていたので、お気に入りだったんだと思います。

アレンジして「同情するなら信心しろ!」とおっしゃっていたこともありました。

そういうのはよく覚えてるな。。

有吉佐和子に、あしたのジョー全巻をプレゼントされて、読了され、スピーチで、「真っ白な灰になるまで戦うことが大切」という話をされたとか。

NHKの名曲アルバムで、ベートーベンの「エグモント序曲」を聴かれて、エグモントについて語ったのは、「私の人間学」に収録されています。

池田先生の前で山本リンダの「狙い撃ち」が熱唱されたときは、「春うらら、春うらら、と覚えればいいね」とおっしゃってました。

誰だったか、識者の方との対談で、池田先生が「若者に観てほしい映画は何か」と、識者の方にたずねたところ、識者の方が「マトリックスです」と答えて、おおー意外、と思ったこともありました。

ついでに、とある会館に着任していた時、カトちゃんと奥さまがそこに来て、興奮したことがありました。

その頃はまだ、再婚する前で、世間でも発表されておらず、奥さまとは思わず娘さんだと思っていました。

着任中じゃなければなんかギャグやってもらったのに。。

大誓堂にゆく

2020年02月29日 | Weblog
大誓堂に行けるチケットがとうとう僕にまで回ってきました。

いつものようにバックレようかと前日まで悩みました。

しかし学会員の友人に、バックレようか考え中なんだと話したら、せっかくなんだし行っとけと、真心のこもったかんじで勧められたので、

行って来ました。

池田先生の唱題の声を聴いて、究極の闘志は究極の慈悲なんだということを、あらためて感じました。


そのときの担当幹部は、青年部時代から何度かナマで見たこともある、馴染みの人。

昔から官僚的なトークしかしないことで勇名を馳せていましたが、

相変わらずの官僚的な棒読み早口トークあんど能面のような無表情のご指導でおそれいりました。

長谷川さんがよかったなー。

話す内容は定型文で仕方ないとしても、もうちょっとゆっくりしっかり、気持ちをこめて話せないのかしら。。ちょっとぐらい笑顔みせるとか。


そういえば、正本堂が破壊されたりしていたころ、聖教新聞のコラムで、

どこかの宗教学者の人が、

「宗教に聖地は必要ない」

と、語っているのを読んで、とても納得したものです。

ヘタに「聖地」を設けたりすると、

そこに何回行ったからすごいとか、行ったことないのはダメだとか、

そこから近いところに住んでるからえらいとか、

無用な差別感覚が生まれてしまう、という説でした。

たしかに、正本堂には、そういう一面があったと思います。

しかし、大誓堂は、正本堂に比べて、

ご供養持参必須ではないし、べつに聖地というのでもないし、このくらいならいいかと思いました。

海外からくるSGIの方々のことを考えても、せっかく日本に来たからには、

何か記念になる場所やイベントがあったほうがいいし。


まあそれだけに担当幹部のあいさつはちゃんと気合いれてやってほしいです。

本末転倒

2019年06月28日 | Weblog

来月は選挙ということで、座談会はナシなのでしょうか。

昔は、選挙に関係なく毎月の座談会は必ず実施されていました。

いつからか、選挙が近づくと、

「あれ?今月、座談会は?」

「無いってこと?選挙だから?」

「いやいや、いくら選挙だからって座談会はやるでしょ」

みたいな会話がなされるようになり。

ほんとにやらなくなりました。

未活なのでよくわからないのですが、今でも、選挙の月は座談会ナシなのでしょうか。

選挙で大変だから、会員の皆様に負担をかけないため。

信濃町のえらい人たちは、そんなかんじで説明するのでしょうか。

負担をかけすぎと思うなら選挙支援活動のほうを控えるべき。

学会活動の基幹である座談会のほうを控えるなんて。。

信仰の団体である以上に選挙の団体なのであるという表明でしょうか。

選挙と新聞が無いSGIがうらやましい。

といってどっちみち僕は座談会やってても出る率3割ぐらいだけど。。

謗法

2019年06月15日 | Weblog

今月の座談会の御書は『呵責謗法滅罪抄』ということで。

「謗法」についての池田先生の指導とか無かったかなと探しました。


『開目抄講義』上 P120-121
-----------------------------------------

「謗法」とは「正法謗(そし)る」ことです。その根底には正法に対する「不信」があります。正法とは、万人の成仏の法を説く法華経です。

万人が成仏できるということは自分も成仏できるということです。

しかし、これが信じがたい。

多くの人は、仏とは人間からかけ離れた存在であると思ってしまっているからです。そういう古い権威主義的な宗教観・信仰観を持っている人は、すべての人が仏になれるという法華経の正法を、とても信じることはできない。

また、自分が仏になれるということは、現実の人生経験の上からも信じがたい。現実の人生において苦境にあるときは、そのように苦しむ自分が仏になれるとは、とても思えなくなる。

反対に、順調なときは、こんなに幸せなら仏になどならなくてもよいと思ってしまう。

いずれにせよ、正法を信ずるようになることは稀である。

このように、万人が成仏できるということは信じがたいので、ややもすると、人間からかけ離れた神仏を説き、神仏と人間の間に聖職者という媒介者をおく権威主義的な宗教の方に傾斜していく人が多い。

-----------------------------------------

自らが仏であるという信心に立つことを繰り返し熱心に説いていくことが、会合や座談会の場でも重要だと思います。

宗教の話がほんのちょっとしか出ない会合が山ほどあるのは何なのでしょうか。

選挙と新聞の話は全体の1%ぐらいに抑えてほしいです。

ゲスな記事

2019年06月09日 | Weblog

創価学会「日本民族に天皇は重大でない」
天皇を重視しない思想集団の凋落
https://president.jp/articles/-/28800

プレジデントは、日経ビジネスの次くらいにゲスな雑誌だと思っています。

でも、仕事の関係上読まないといけない記事があったので、買いました。

そしたら上記のような記事が。

抜粋しますと。

-------------
創価学会の池田大作名誉会長の主著『人間革命』には次の一節がある。

〈仏法から見て、天皇や、天皇制の問題は、特に規定すべきことはない。代々つづいて来た日本の天皇家としての存在を、破壊する必要もないし、だからといって、特別に扱う必要もない。(略)具体的にいうなら、今日、天皇の存在は、日本民族の幸、不幸にとって、それほど重大な要因ではない。時代は、大きく転換してしまっている〉

これは、戸田城聖・創価学会第2代会長の言葉として書かれているもので、事実上「創価学会の教義」である。
-------------

引用されているのは、『人間革命』第二巻「地涌」の章の、山本青年が戸田先生に3つの質問をする場面での戸田先生のセリフ。

山本青年は「先生は、天皇をどうお考えですか」と質問しました。

終戦直後のことです。

天皇は神であり、天皇のための聖戦で死ぬことが最高の栄誉、

という価値観が突然覆され、

今までのは一体なんだったんだ?

と、特に青年たちは戸惑っていた時代。

そういう背景のもとでの会話です。

いま、象徴天皇の時代となり、

平成天皇がその最初の一人として理想的な実例を示した直後に、

会話しているのではありません。

マスコミの仕事ってなんなんだと思います。

粗悪な情報を大量にバラまいてお金を稼ぐヤカラが充満して、

IT社会もろくなもんじゃありません。

マザー・テレサ

2019年04月20日 | Weblog
このブログの記事のひとつにコメントがついたことをお知らせするメールが届きました。

そんな通知設定をしていたこと自体忘れていたので驚きました。

そしてとても嬉しいです。

会社で、一緒に仕事をしている人の中に、まじめなイスラム教徒の人がいます。

1日5回礼拝しているのかは確かめたことがありません(わが社にはイスラム教徒用の礼拝室があります)が、

ラマダンはやっているのを知っています。

その人はとても聡明で思いやり深く、明るく元気で、仕事でも飲み会などのイベントでも大活躍。

そこで僕はイスラム教に興味を持ち、また、その人ともっと仲良くなりたいと願って、

イスラム教の本を買ってよみ始めました。

昨日一冊読み終わり、追加で、その友人が勧めてくれたイスラム教関連本を2冊、ネットで注文しました。

その一方で、マザー・テレサのこともちゃんと学んでおきたいと思いました。

あの「死を待つ人々の家」という取り組みに、以前から興味があったので。

こちらもマザー・テレサの著作を2冊購入し、1冊読み終えて、2冊めを読み始めています。

マザー・テレサは、神の愛、神と自分との魂と魂のつながり、みたいなものを重視します。

神の愛がどのようであるかを丁寧に説明します。

一方、ふしぎなくらい、聖書の言葉が引用されたり、「法」としての教えが説かれることは稀です。

僕たちの言葉でいうと、人本尊が全てで、法本尊はそれほど重視されていないような印象です。

ただ、神のみこころと心を通わせることを第一とする語りくちは、

わかりやすく、直接感情に響きますし、心があたたまります。

僕たち創価学会員のあいだでも、場合によっては、池田先生の「思い」、日蓮大聖人の「お心」が強調されることがあります。

それは、わかりやすく、元気になれる話として、よいものだと思います。

ただ、僕たちの場合は、日蓮大聖人が「宝塔さながら阿仏房」とおっしゃっているように、

「僕たち自身の尊極さへの確信」「僕たち一人一人が仏なのであること」がより重要であり、

その点はマザー・テレサとは異なるように思います。