Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

蚕ブーム

2024-04-28 | Memory of Yokohama life as a child

買い物の折、路傍に生える桑の木をみたら、唐突に蚕のことを思い出した。小学生の頃、何度か熱病の如く起った蚕ブームのことをである。ある日、ある学友が学校にたくさんの蚕を持ってきた。余を含む学友たちはそのお裾分けに与り、みんな自宅に持ち帰り飼育した。蚕は簡単に飼える。平たい箱に蚕の食草の桑の葉を入れておけば用意万端で、逃げることもない。桑の葉は近所に自生しているものを自前で調達した。当時余は横浜で暮らしていたが桑の木を見つけるのは難しいことではなかった。桑の葉をせっせと食べ蚕はやがて羽化した。こういうことが一度きりではなく何度かあった。あの出来事は一体何だったのだろうかと考えるに、こういうことではなかろうか。

その友達の実家はおそらく関東近辺で養蚕をやっていたけれども廃業する。それで蚕が不要になり孫(私の友)に譲るが、一人で飼うには多すぎるので学校で友人たちにお裾分けする。今ならもらっても困る子が多いだろうし、そもそも蚕を飼ってみようなどという興味を持つ子も少ないのではないか。だが当時は違っていた。子どもたち、とりわけ男の子はみんな昆虫が大好きだった。そこら辺で捕まえてきたいろいろな虫魚を飼うのが何よりの楽しみだった。だから私も喜んで蚕をもらい自宅で飼った。

さて、試みに群馬県の繭生産量を調べてみた。果たして、私が生まれた昭和40年代初頭が最盛期でその後昭和46年を過ぎる頃から昭和50年代にかけて急激に落ち込む。正に私が小学校時代を送った時期とぴったり符合するではないか。私達は養蚕業の最後の残照が正に消えかからんとするその時に小学校生活を送り蚕の最後を看取ったのではあるまいか。


説明を聞く

2024-02-25 | Sketch of the day


千駄堀付近の軽車道

2024-02-17 | Sketch of the day

昨日は終日車を運転していたせいか一晩中腰の痛みが引かずよく眠れなかった。その身体に鞭打つように妻と歩きに出た。じっとしているより歩いていたほうが腰も楽なのである。二十一世紀の森と広場を目指した。以前も歩いたことがあるが、今日は時間がなかったので松戸新田を経由する最短経路を選んだ。

最短経路は徒歩の場合いろいろと問題がある。例えば松戸新田駅前の踏切など、歩行者、自転車、自動二輪、自動車が同時に渡ろうとすると幅員が足りず、そのしわ寄せは端っこにいる歩行者にくる。つまり線路敷に落っこちそうになる。センターラインのない道路に入ると状況はさらに悪化する。しかし、このような力関係が逆転する道路がある。軽車道とよばれる道路幅1.5メートル以上3メートル未満の道路で、国土地理院の地形図で黒色の実線で示されている。

ここまで幅員が狭くなると自動車の通行が不可能なものが多く、可能な場合でも通行を控えるドライバーが多い。というか自動車乗りには道路として殆ど認識されていないというのが実情であろう。だから、通過交通は皆無と言ってよく、せいぜい居住者が軽トラックを転がす程度である(しかも徐行を強いられる)。このため、軽車道は歩行者が堂々と歩いていられる貴重な道である。ただし歩こうとするならばだが。。。この軽車道、残念なことに市街地では殆ど残されていない。郊外の市街化調整区域などで比較的よく温存されていて、遠回りを厭わず、軽車道を歩き繋いでいくと、その田園的な景観とも相まって長閑な散歩を愉しむことができる。いわば日本版パブリックフットパスである。


根岸港のカップヌードル

2024-02-11 | Memory of Yokohama life as a child

父といちばん良く行っていた魚釣り場は根岸港だった。今から45年以上前のことである。釣り場への行き方は、はっきり覚えていないが、おそらく白滝不動尊の急坂を降り、不動下から市営バスに乗って八幡橋下車、徒歩で釣り場に向かったのだと思う。我々のいつものポイントは、神奈川冷凍磯子事業所前の、根岸港最奥の岸壁である。最奥といっても、八幡橋から一番近いところなので、たんにそういう理由でよく訪れたのだと思う。父は歩くのが嫌いだったが、といって車に乗るわけでもなかった。この釣り場付近には、今でこそ磯子・海の見える公園やローソンがあるが、当時はそういった施設は何一つなく、じつに寂しいところだった。しかしただ一つ、日清カップヌードルの自販機があった。道路端の大きな事業所の建物にへばりつくようにしてそれは置かれていた。しかし、しばらくすると撤去されてしまった。冬の寒い日などずいぶん重宝したものだが、子供心にとても残念だった。

カップヌードルの発売は1971年だから発売後6年以上が経っていたことになるが、当時は巷にカップヌードルの自販機がけっこう置かれていて、給湯ができプラスティック製のフォークも備え付けられていた。私のお気に入りはカレーヌードルだった。寒空の下じつに美味かった。これが経験のためにカレーヌードルを食べると今でも当時のこと、この釣り場のことを思い出す。というかその思い出に浸りたいがために今でも時々カレーヌードルを食う。さて釣れた魚は、主にハゼ。でもあまりに水が汚かったので釣っても食わなかった。根掛かりだと思って引っこ抜くとオデキのような気持ち悪い生物が釣れてきた。釣り鉤を外そうとそいつを踏みつけると水が吹き出た。いまは水質が改善されているようだ。納竿してから腹が減ると八幡橋の近くの中華料理店でラーメンを食った記憶があるが、いまGoogleマップで探しても見つからない。あるいは根岸駅のあたりだったかもしれない。


戸定が丘の仕事場

2024-02-09 | Sketch of the day

修論発表会、卒論発表会が終わり一息入れるも仕事は果てしない。もう少し仕事を続けていたい気持ちもないではないが、惰性に任せていると延々と続けてしまうので、強制終了させて帰宅する。机上の書類を整理して、自宅に持ち帰るものとそうでないものを振り分ける。明日からの三連休は漸く原稿に集中できそうだ。


磯の名

2024-02-04 | Memory of Yokohama life as a child

江ノ島や城ヶ島のような島ともなれば、磯の一つ一つの出っ張りにすべて名前がついている。いずれ古くから呼び習わされてきたと思われる。幼少の砌、魚釣りに行っていた頃にはそんなことにてんで興味はなかったが、良く行った城ヶ島の「水垂」という磯は今でもよく覚えている。江ノ島も、いつも行く磯は決まっていたが、名は聞いた覚えがない。しかし、いま釣り場地図などで調べるに井ガ崎から松ヶ崎と呼ばれる辺りの磯だったと思われる。

父と魚釣りに行っていた城ヶ島の磯も、江ノ島の磯も共通する点がある。それはいずれも島の北側の波静かな釣り場であるということ。島の南側の外海に面した磯はもっと良い釣り場だったようだが、父は鼻垂れ小僧の余を決して南の磯には連れて行かなかった。これは、父の配慮だったと思われる。それはともかく、名を聞いた覚えのない江ノ島の磯をなぜ特定できたかといえば、グーグルマップの井ガ崎の磯の突端に忘れもしない生け簀のような工作物を発見したからである。

江ノ島の磯では生け簀として使われていたと思われる枡の如き工作物を至るところで見かける。いつ頃つくられたのかはわからぬが、ずいぶんと古色を帯び、磯に馴染んでいる。岩をくり抜いてつくられたとみえるこれらの生け簀は、水面下で海と繋がっているのか、打ち寄せる波とともに水位が変わる。生け簀のある井ガ崎の突端には、ベテランと思しき釣り師がいつも陣取っていて大きな黒鯛を釣り上げていた。獲物は魚籠に入れられ生け簀に投げ込まれていた。余はそれを横目に小物をちまちまと釣っていた。

さて当時我々はこの磯場にどうやって行っていたか。江ノ島の高台を巡る散策路から急な山道を降り、危なっかしい崖下の波打ち際を父の手を借りながら釣り場に向かった覚えがある。満潮時、足を滑らせ海に落ちそうになったこともある。しかるに、最近のネットの記事を見ると、松ヶ崎について「以前は山から下りる道もあったが今は稚児が淵から回るしかない」とある。余の記憶が正しかったことが何故か嬉しい。が、その山道が今は使われなくなっていることに時間の流れを感ず。余にとりてはこんな些細なことも極めて感慨深い。


スカンディア

2024-02-02 | Memory of Yokohama life as a child

子供の頃江ノ島や城ヶ島に父と魚釣りに行きしことを懐かしく思い出し、磯の名、江ノ島への道程などネツトに調べたらば、当時の拙宅の、新しきマンシオンへの建て替へが終はれることを知る。その流れにベアトの撮りし著名なる不動坂〜白崖のミシシッピベイの写真など眺めたらば父より電話。曰く、昔横浜シルクホテル前の洋食店に鰊の酢漬けを食ひしを思い出しまた食いたくなりき。亡くなりし駒沢のお兄(余にとりては叔父)も一度連れて行つたためしあれど店の名を忘れきと父。余はスカンディアならぬやと直感すれど、シルクホテルの前なりしやいなや記憶定かならず。Googleマップに調べるに果たしてシルクホテル斜向かいに其の店はありき。スカンディアならぬやと父に言うに、おゝ其れなり其れと合点せり。当時余は其の店で、といふか其の店にも、いや何れの店にもハンバーグステーキを食ふた。スカンディナビア料理店のハンバーグが美味きやいなやなど絶えて関係なかりにけり。父は未だに、当時余がハンバーグステーキのほかに目の無かりしためしを言えど、言われずとも自覚し居る。さて、スカンディアへは大人しくなりしよりも一度二度足を運びし覚えあれどそれも何十年も前のこと。父は、鰊の酢漬けを何処かに探して持ち来て呉れと言ふ。横浜の思い出は、父にとりても未だ今めかしめり。


都市公園の歴史とPFI

2023-09-18 | Miscellaneous notes

曇りなき眼に都市の公園の歴史を紐解かば、それが、都市活動の生みし外部不経済を内部化する絶えざる挑みの歴史なりしためし知る。さる歴史も知らで、いまや公園は変わるときなり!とかよくもおほす。さんざん公園に外部不経済押し付けこしくせに、公園は変わるときなり!なりや?。。。その由を知りてまた驚かさる。さても、公園それ自体が今や不経済なるものと覚えたればなり。何たることか。確かに公園の、それに限らずとは思へど、財政は火の車。さりとて公園などいま要らず!といふが支配的なる世論とは思はず。税に支へられざらば、さりとてなほ公園が必要といはば、成長の果実を「分配」さするよりほかなるまじ。それがPFIなり。それが外部不経済を公園に押し付け来し都市の責めなり。


英国におけるグリーンインフラ・プランニング:イングランドのケーススタディ

2022-08-29 | Other Original Papers

日本都市計画学会誌『都市計画』71巻5号「ランドスケープから発信する都市・地域計画のビジョンと実践」特集号に表題の論説を寄稿しました。英国イングランドにおける最新のグリーンインフラ・プランニング、その政策上の位置づけや計画手法の特徴について、日本のグリーンインフラ政策との比較の観点から解説しました。


川の自然との共生:浸水公園!?

2022-08-28 | Presentations

2022年8月28日(日)に開催された第16回水都東京・未来会議リレーセミナー「水辺のグリーンインフラ:河川や海とボーダーレスな緑の都市に向けて」に参加し、表題のタイトルで話題提供しました。私の発表は、1)撹乱としての洪水・高潮・津波、2)溢れさせる治水と親水、3)水量と水質の回復、の三題噺でした。今回は、水都東京・未来会議の委員である萩野一彦先生((株)ランドプランニング代表取締役、千葉大学客員教授)のお誘いで、竹内智子先生(千葉大学)と一緒に参加させてもらいました。


大洗キャンプ場にて At the Oarai Campsite

2022-08-21 | Sketch of the day

家族で二泊三日(2022年8月15日〜8月17日)のキャンプ。大洗キャンプ場にて。

STAEDTLER Pigment Liner 0.8mm on Daiso Sketch Book (B6 Size)


〈千年村〉に学ぶ、防災を超える戦略

2022-07-22 | Presentations

2022年7月22日(金)、一般社団法人防災学術連携体主催のWeb研究会に、日本造園学会社会連携委員会防災小委員会委員長の立場で参加し、表題の発表を行いました。造園学会からは他に社会連携委員会委員長の篠沢健太先生、同委員会防災小委員会前委員長の藤田直子先生が参加、「時空間スケールから考える復興・防災〜造園学からのアプローチ〜」(👈動画を視聴できます)という大テーマで研究会を行いました。


流域治水と都市公園〜グリーンインフラの視点からのアプローチ

2022-06-18 | Thought Pieces

公益財団法人都市緑化機構機関誌「都市緑化技術」No.118「都市の水とみどりの新たな機能〜流域治水とみどり〜」特集号に、「流域治水と都市公園〜グリーンインフラの視点からのアプローチ」と題して寄稿しました。竹内智子先生との共著です。


Nature journaling and sketch session presented by Rain Gardeners' Club

2022-06-15 | Sketch of the day

2022年6月15日、千葉大学博士研究員のMariia Ermilova-Teradaさんを講師にお呼びして、「しぜんかんさつスケッチ大会」を開催。主催は雨庭組(千葉大学大学院園芸学研究院木下剛研究室内)。キャンパスで植物を採集、千葉大学附属図書館松戸分館アカデミック・リンク松戸2階の学習室にてスケッチ&意見交換。

STAEDTLER pigment liner 0.8mm and colored pencil on sketch book (A4 size)


NbSって何? グリーンインフラはもう古い?

2022-06-11 | Presentations

2022年6月11日(土)、NPO法人雨水市民の会主催の「下町✕雨・みどりプロジェクト:第3回ワークショップ NbSって何?〜雨とみどりを集めて、できることを考えよう!」に呼んでいただき、上記タイトルで講演しました。