瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩誌「午前」  25号  (2024/04)  埼玉 

2024-04-25 12:14:13 | 詩集
今号は今年2月に亡くなられた神品芳夫(神原芳之)氏の追悼号となっている。神山睦美ら5人が追悼文を書き、神原芳之の詩「サルマチア」(詩誌「午前」11号に掲載されたもの)、神品芳夫の遺稿となった評論「ボブロフスキーのサルマチア詩観(続五)」も載っている。

詩「サルマチア」は歴史の上で大きくゆれ動いたスラブ民族の地を題材にしている。その地は「移動する民とともに/地名も動いて いつのまにか/地上から消えてしまったのか」と詩われる。


   ああ サルマチアは
   詩人の心の中にしかないのだ
   素朴な人間の集団同志が
   星座の変化をよみながら移動し
   出会うたびに喜び合い 助け合い
   この星にふさわしい暮らし方を
   求めつづけているその場所は

今日、紛争のまっただ中にあるウクライナからも遠くはなかったと思われるサルマチアの地への思いは重いものとなって届いてくる。

私(瀬崎)は神品氏とは親しいお付き合いのご縁はなかったのだが、ご恵贈いただいた御本への拙い感想に対してはいつも丁寧なお返事をいただいていた。ご冥福をお祈りする。合掌。

荒川洋治「オールド・ゴア」も具体的な地名からの作品。黄金のゴアはなくなり、会社の社長も会長も砂となり、印刷所もあったのやらなかったのやら。

   犬小屋では
   犬が アラビア海の糊の日差しをさけて
   顔を隠し、足の先だけを
   きれいに揃えて出している
   顔立ちは見えない

地名から立ち上がってくる物語というものがある。地名は単なる言葉であることを越えてその人の記憶や憧憬を揺り動かす。それらが作者の中に在る磁場で結びついて新しい光景となる。話者と印刷所のエンデンは「旧聖堂の前で/汗をためて働き 同じ靴をはく二人の男」なのだ。

布川鴇「その先」は、「らせん階段を一歩ずつ上っていく」話者のモノローグ。かつての日には、水槽から引き上げた魚の命をもらいながらの実験をおこなっていたのか。

   ただの水槽の水の跳ね返り
   そうかもしれない
   こぼれ落ち
   たちまち消えた微少の滴 おぼろな目

そんな日を重ねて、階段を上がれば上がるほどその先は見えなくなる。話者が目指しているのはずっと遠いところなのだろう。あるいは、遠いところまで目指さなければならないらせん階段なのかもしれない。
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詩集「ひかりの天幕」 池田康 (2024/04) 洪水企画

2024-04-19 17:44:24 | 詩集
第6詩集。119頁に21編を収める。

「わが汀」。話者は目覚めの時に海難者として汀に打ち上げられていて、「まだ生きていると知る」のだ。そして「海難にいたるほどの猛烈な嵐をくぐる一日でないならば/それを生きるとは言わない」とうそぶく。不安があるが故のうそぶきでもあるのだろう。この作品には山崎ハコ(私・瀬崎も大好きな歌手である)の「綱渡り」を参照した旨の注釈が付いている。その歌詞は”私の毎日は綱渡り”で、落ちそうになっても歩きつづけろといった自らを鼓舞するものとなっている。しかし本作品は「綱渡りの綱はつねに奸計をちりばめて張られ/常に落下する」と、さらに厳しい状況下での処世を覚悟している。最終連は、

   いま再びの朝に目覚めるなら
   海難者として
   いずことも知れぬ汀で
   目覚めよ

綱からは落ち、海難者となるのだが、そこからふたたび歩みを始めるという決意がここにはある。

「夏の系」は「夏が半透明の殻から抜け出した」と始まる。どことなくモダニズムの雰囲気が漂っているような明るい抒情性がある。「昼寝は楽園への隧道」とか「冒険をかぎあてる無為の散歩」といったイメージの連鎖が作品世界に彩色している。”夏”をこのように描いたという作品を提示することによって、そこに在る作者の姿が投影され始める。最終連は、

   逃げ水を集めて螢は幽明の呂を舞う
   サーフボードはもう乾いている
   少女の歌はまだ濡れている

誰もいないのに声だけがする場を描いた「校庭」も好い作品だった。いろいろなドラマの場となった校庭は「がらんとして/風が〈今〉を洗っている」のだ。

さまざまな書き方の作品が集められている詩集だった。それらの作品の多様な拡がりがすなわち作者の世界の広さに繋がるのだろう。
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詩集「考える脚」 坂東里美 (2023/12) 澪標

2024-04-16 17:15:55 | 詩集
第3詩集。矩形版で80頁。

カバーの惹き文句に「凝視された文字や言葉は解体され新しい変法則で再構築された。その間隙に詩は発生する」とある。独特な味わいのこの詩集について簡潔に言い表している。前詩集「変奏曲」でも作者は同音異義語を自在に操っていた。”粘菌”と”年金”であるとか、”漏洩”と”朗詠”などといった具合だ。この詩集ではその手法をさらに押し広げている。

たとえば、「Ⅰ章 考える脚」の中の1編「踵 heel」は、

   千里を駆ける俊足
   勇者アキレスにも
   たったひとつ弱点があった
   ホメロスはおしゃべり好き
   物語は頁を重ね

”踵”という文字が”足”、”千”、”里”に分解され、元の文字とはまったく異なる風景を見せている。これは楽しい。

ひらがなでは同音異義で迫ってくる。「まゆ」という作品は身体部分を題にした章に収められているので当然”眉”なのだが、作品は、

   ほの明るい絹の棺の中で
   目が覚めた
   ありふれた三日月の罠
   唾をつけた
   羽は濡れたまま
   解れない

という具合に”繭”に変身してしまっているのだ。文字や言葉から触発されてどこまでも自由に跳んでいる。この軽やかな跳び方が魅力的である。

Ⅱ章、Ⅲ章と進むにつれてこの飛翔はさらに自由なものになっていく。「愛」という作品は、

   天窓をすこし押し上げて
   ソッと覗いている
   この心臓の鼓動を誰にも
   覚られないうちに
   タタタと走って
   逃げるか
   あるいは
   又

爪部の形が”天窓を押し上げている”ように見えるという発見には感心した。”心”、”タタタ”、“又”と、参りましたという他はない。

作者はあとがきで「文字や言葉たちが元来の意味から離れて別の新しい世界を形作る詩が書きたかった」としている。漢字には象形文字や会意文字、形声文字などがあるが、そんな細かいことは一足飛びに乗り越えたところで作者は”新しい世界”を構築している。この豊かな創造力には脱帽である。
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詩集「ねじれた空を背負って」 たかとう匡子 (2024/03) 思潮社

2024-04-12 22:32:43 | 詩集
124頁に27編を収める。

巻頭に置かれた「よるべない地図に誘われて」に、「わたしはすなおに/そのまま混迷を行こうと決めた」とある。頼るものを失ったところから始まる歩みを書きとめようとする決意、それがこの詩集を支えている。

しかし不穏な空気はそこかしこに漂っている。
「転々」。光はくだけ散り、「親指と人差指のあいだ/赤い魚/跳ねる」のだ。正体不明の粒子も我が身に迫ってくる。助詞を省いた叙述が小気味よい。

   人はいつだって
   孤独
   多事多難
   渇きにあおられ
   ひたすら心臓の鼓動をおさえようと
   あせればあせるほど引きずり込まれていく

「爆/撃/音」がこだまして、話者はこの世界を浸蝕してきている異形のもの、それはそのまま異形の事態と言ってもいいのかもしれないのだが、に立ち向かおうとしている。

「ごく小さな事件簿」では、「空耳/かもしれない」ノックが聞こえ、話者は枇杷の木の葉についた虫を順次殺していく。すると「空はすこしずつ変化」して「何かの/壊れる音/乾いた頭蓋」があらわれ、倒壊した家の「基礎の土台があらわになっている」のである。日常生活に起こった”小さな事件”というのだが、ここには戦禍のイメージが色濃く漂っている。私達の日常も戦禍と無縁ではいられないのだ。

詩集タイトルにもなっている”ねじれた空を背負う”というイメージは、こうした否応なく不穏な世界の空気と結びついている私達の覚悟でもあるだろう。この言葉は作品「遁走曲(フーガ)」にあらわれる。妹に似た幼なごが走り去っていき、話者の「胸のうちがわでは/古傷が口をひろげていた」のだ。何かから逃げようとしていたのか、それは逃げ切れるようなものなのか。いや、逃げるという行為、その意思表示が必要だったのかもしれない。最終連は、

   予測できない時間にむしばまれて
   滑り落ちてきた観覧者のなか
   ひょっとしてあれは
   ねじれた空を背負ったわたしの妹
   と見えたが
   眼を凝らすと無人
   走り去っていったのは誰

困難な世界の中に在ることを確かめ、見事に背筋を伸ばしているような詩集だった。

「吊されて」は詩誌発表時に簡単な紹介をしたのだが、大幅に推敲がなされていた。
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詩集「花下一睡」 秋山基夫 (2024/04) 七月堂

2024-04-09 18:41:40 | 詩集
111頁に12編を収める。

作品「ほととぎす」は、「ほととぎす鳴くやさ月のあやめぐさあやめもしらぬ恋もするかな 読人しらず」を作品の頭に置いている。そして死ぬ人のたましいをくわえて飛び去ろうとする鳥や、わたしをかきいだく夢のなかでやってきた人がいる。あなたを待ちわびるわたしをあやかしの世界がとりかこんでいるようなのだ。

   わたしはどうなってもこうなってもあやめぐさの
   根のように深く深く思いつめ待ちつづけこわれてしまった
   わたしには何の望みもありません 思いがとどまっているだけです
   なにも見えず聞こえずただ運ばれていくだけの破れたたましいです

このように本詩集では古の物語を契機にして新しい独自の絵巻物を描き上げていく。

その次の「花」では小野小町の歌五首を作品中に取り入れているし、他の作品では和泉式部、西行法師、俊成卿などの歌もあらわれる。それぞれが描がいた世界をどのように捉え、どのように踏まえてそこに新たな世界を構築するかに挑んでいる。
それらの作品の話者はときに古の歌や句の作者がのりうつった者であり、またそれらの歌や句の世界の住人であったりする。そして作者はそれらの話者を自分の世界構築のために作品の裏から自在に繰っているのである。ときにはひょっこり顔を覗かせて芭蕉の句を引用したあとに「あきれるくらい/うまいねえ」などと言わしめている。

最後に置かれた「春夏秋冬」はそれぞれが4連の17行詩の4編から成る。各作品のはじめの2連は連歌、うしろの2連は連句となっており、各連の冒頭音をつなげればタイトルとなる。作品「のむべし」の前半、連歌部分の2連を引用する。

   除け者の毛もの物の怪花の闇
   病み上がりです木瓜でよろしく
   四苦あれど菜種畑に筵敷く
   詩句に由なしカエルの嫌味

   胸元の薄き香りや夏衣装
   少年老いて氷菓したたる
   樽酒をぜんぶ燗する柳多留
   タルタルソースはだか往生

1行目、4行目の「やみ」は脚韻を踏み、それは2連目の頭韻にもなっている。さらに2行目、3行目の脚韻「しく」は3行目、4行目の頭韻になっている。よくぞここまで遊んだなあ(!)というほどに凝っている。
たしかに連歌、連句は知的な遊び事の面を持っており、作者は方策を楽しんで世界を作っている。方策に自らを閉じ込めることによって新しく生まれてくるものを探り当てようとしている。そのようにして書かれた作品は読み手にとっても大変に緊張感に富んだものとなっている。作品はその緊張感の先にあるものを見せているのだ。

「あとがき」で作者は、「〈うた〉は人の心が言葉の形で外に出たものだ」ということから「いったい人は言葉の根拠に何を求めるのか。自分の心にか。ではその心の根拠は何なのだ」との認識を新たに問い直している。
現世から離れた世界に我が身をふわりと置いて、ひとときを過ごしてきたかのような詩集だった。
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詩集「もこもこ島」 岩井昭 (2024/04) なずき書房

2024-04-02 17:26:57 | 詩集
第12詩集か。B6飯、65頁に15編を収める。

詩集タイトルの”もこもこ島”は冒頭の作品「空をおよぐ」に出てくる。この作品は、みあげた空にヒトがおよいでいる、というもの。そして話者は「あのヒトは/夢のなかを/およいでいるのだろう」と思うのだ。そんなヒトが空の高みに見えるという世界はクレパスで描いた童画のようで、心がさまざまな制約から解き放たれた優しさがある。

   夢をみることは
   想像することに
   にているね
   なんだかよぶんに
   いきたようで
   とくした気分

なるほど、そう言われればそんなものかもしれない。そしてむこうにある雲が”もこもこ島”なのだ。空をおよぐヒトを見ているのも、また夢のなかでなのだろう。

前詩集は実に233編を納めたものだったが、本詩集は平仮名を多用した平易な語り口の作品をそっとまとめました、という風情になっている。作品はとげとげしたものを気持ちから取り去って書かれていて、読む人をやわらかく包みこんでくれる。

「きおくのなかにすんでいる」では、夜が明け明るくなってきた世界のどこに自分は存在しているのだろうという素朴な疑問に話者はとらわれている。

   きのうときょうとあしたのくらしが
   みみのよこを通り過ぎていく
   だれのきおくのなかにいるのだろう
   ぼくは

おそらくそれはなんでもないことの顔つきをしてそのあたりに転がっているようなことなのだろう。ぼくのことを覚えていてくれる他者は確かにいるはずなのだ。そしてそう思えたならば、自分のいる世界が満ちたりたものになるのだろう。最終連は「ぼくはここにいるよ/と/感じられる/ぼくだけのあさ」。気持ちにふと訪れるかすかなものをそのままの形で掬い上げようとしている作品だった。
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「主題と変奏 -ポエジーの戯れ-」 日原正彦 (2024/03) ふたば工房

2024-03-28 18:50:14 | 詩集
第21詩集か。119頁に32編を収める。

「まえがき」には「本詩集では結構横着なポエジーとの戯れもやってみた。まじめな詩をお望みの方には不向きなので、閉じていただいて構わない。」とあった。しかし、叙情的な光景から抽象的な物理学の概念までもを言葉で捉える作者なので、”横着”で終わっているはずはないだろう。

「四季・恋」は、春夏秋冬の季節それぞれが恋をしているかのような洒落た作品だった。

「風」も遊び心から始まったような作品となっている。注釈に拠ればビューフォート風力階級表というのがあり、風の強さは13階級に分けられているとのこと。作品は「たいらでおだやか」から「うずまくものすごいかぜ」までの13章から成っており、それぞれの風が吹く世界を捉えている。8等級の「すばやくてつよいかぜ」は、

   ふうがわりなふうていのふうらいぼうがふっとんでくる
   かおが左右にねじれて 首の骨が外れそうだ
   肺のなかの無数の微少な風船が 一斉に爆発する

作者はかつて「降雨三十六景」というさまざまな雨を詩った作品を集めた詩集も作っていた。

「路上」には(本詩取り詩編)との副題が付いている。短歌の本歌取りのようなことをを試みたということだろう。島崎藤村「初恋」や高村光太郎「道程」などの有名作品15編を俎上に載せている。どの作品ででも、よく覚えている本詩のリズムから触発された作者の言葉を探し当てている。定型詩は決められた形式に当てはまるように自分の中から言葉を探してくるのだが、それと似たような世界の広げ方があるわけだ。
八木重吉の「素朴な琴」に拠ったとする「非望の椅子」を紹介しておく。

   この淋しさのなかへ
   立ち去らせし非望の椅子をおけば
   春の雨を思はず呼びいだし
   椅子は力なく濡れるだろう

思わずニヤリとしてしまう楽しさがある。作者はこの楽しさを読む人にも味わってもらいたかったのだろう。
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詩誌「交野が原」  96号  (2024/04) 大阪

2024-03-21 11:38:41 | 「か行」で始まる詩誌
金堀則夫編集/発行の詩誌。102頁に27人の詩作品、16編の書評などが載る。

「かんにん」八木忠栄。
「ならぬかんにん するがかんにん」という言葉から奈良と駿河の神主さんが登場してくる。こういう自由奔放な、それでいて作者の息づかいがちゃんと感じ取れるイメージの連鎖が楽しい。世界がぐんと広がる。

   やぶれたら 縫え
   と和尚はくりかえす
   門前の小僧たちも
   ただ それをくりかえす
   ながい参道も感情の崖っぷちも
   あぶない足もともそっくり
   やぶれたら 縫え
   それがはじまり

この世のしがらみや思惑といったものを超越したような爽快さがある作品だった。

「道の分岐」中本道代。
道の分岐点に家があり、「子供をくれんさい」と言って出て行く人がいたのだ。もらわれてきた子供と遊び、お嫁さんになってねと言われたのだが、

   その子は出奔して遠くへ逃げ
   婚約は果たされぬまま
   集落であまく匂っている

その地の怪しい習わしが話者の記憶にこびりついている。記憶があるので、話者はいつまでも分岐点に取り残されているようだ。分岐から別の側の道に行った子もいたのだろう。その子はどうなったのだろうか。

「思い出」たかとう匡子。
投げ出されて戸口が外れた鳥かごにはもう生きものの気配はなかったのだ。傷ついてやってきて棲みついたヒヨドリは、稲妻と同時に「野鳥の/記憶と回路を/とりもどしたのかも」しれなかったのだ。

   おぼつかない足取りで
   目のさきをぐるっとひとまわりして
   今はわたしのなかにあって
   迷彩の彼方
   消えかねている軌跡

落雷と同時に話者を襲った喪失。日常の一部になっていたものを失った感覚が陰影のある叙述で巧みに表現されていた。

瀬崎は「鱗粉」を発表している。
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詩誌「Down Beat」 22号 (2024/02)  神奈川

2024-03-17 15:20:05 | ローマ字で始まる詩誌
この詩誌、毎号さっぱり訳のわからない作品が少なくない。しかし、とてつもなく面白いのだ。

たとえば「とうぶつ屋」廿楽順治は、「見も知らぬ「かたち」が売られていたのだ」と始まる。タイトルからして謎めいているが、おそらくは”唐物屋”、つまり舶来品を商っている店、ということなのだろう。「犀の襞のようなもの」や「死んだ唐人の記憶のなかの毛布」が売られているようなのだ。

   格子状になっている場所に、外国人の眼の模型が埋めら
   れている。遠い眺めのなかにわたしたちはいる。

売られているものが話者にお前自身は売り物になるのかと迫ってくるようだ。

つづいて「ヒルガエシ」今鹿仙。このタイトルになると、もう思いつくものもない。触れたり見たりするという感覚が言葉を連れてきている。それらは理屈が追いつく前にとっくにどこかへ走り去っている。

   馬だけが河原にあがる世界で
   主観はただ湯気を
   出したりして
   交信することを望むのみだ

言葉をまき散らしておきながら話者は素知らぬ顔をしている。だから読む者も勝手に素知らぬ風を装うのだ。

さらに「家族」小川三郎では、「窓辺に顔が咲いている」のだ。部屋の隅では裸体が眠っていて、夢のなかで裸体を鏡に映している。理屈は通らないまでも、この作品のイメージは伝わりやすいものとなっている。買い物先のスーパーは顔と裸体でいっぱいだったのだ。この作品の最終連は、

   買い物を済ませ
   家に戻ると
   顔と裸体は
   ちょうどひとつに重なっており
   仏具のような見栄えであった

訳のわからないものの面白さとは一体何なのだろう。訳がわからなければ、面白さも判らないのではないか。いや、そんなことはないのだ。作者の言いたいことに律儀につきあおうとするから判らなくなるわけで、そんなことは投げ棄ててしまえばよいのではないだろうか。提示された作品から勝手に自分の光景を見ればよいのであって、今まで描くことのできなかった光景を連れてきてくれる作品が、とてつもなく面白いのだ。
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詩集「ひかりのような」 栁川碧斗 (2023/07) 七月堂

2024-03-12 17:11:46 | 詩集
91頁に18編を収める。

言葉はその役割として事物と結びついている。たとえば”犬”という言葉は当然のことながら生物としての犬そのものではないのだが、生物としての犬の属性を引き受けている。“犬”という言葉を読んだ人は実際の犬の属性をそこにみているわけだ。したがって、作品で言葉が使われる時、その言葉は指し示すものの属性をどのように引き受けているかを考えなければならないだろう。

「行方のために」。他者が存在することによって街は形成される。そこは「痛みを抱きしめられるように/髪がはためくための空間」なのだが、この町にいるはずの他者はまるで顔を持っていないようだ。話者がただ一人で彷徨っているようなのだ。

   漏れていく、街そのものが、
   溶けだした過去が不揃いに滴り階段を降りていく、部屋から出る、ぽつねんと佇む、光源、共振する、こちら、行く先を照らすように、
   遠くの人、だから、わたしたちの声を連れていき、一緒に過ごそう、と、手を繋ぐ、
   身体が震える前に、世界が侵される前に、過去をそうして思い出し、世界は、
   風でそれを純朴にする、シェルターが透き通る、市場が栄える

この詩集の作品では、言葉をただ言葉として機能させようとしているように感じられる。言葉が約束事として引き受けている実際の事物の存在は希薄なのだ。言葉は、その言葉が指し示す実際のものには頼らずに、言葉が担っている概念だけを利用しているようなのだ。言葉に纏わり付く余分なものをふるい落としているのかもしれない。

「親密さ/巡る」では、都会の摩天楼が一個の生命体のように話者に迫ってくる。

   平衡を犯す
   働きを始める
   突如雪が舞う
   わたしは涙袋の体躯を崩しつつ
   その運動をとりとめ
   わたしは背骨のずれていることを思い出し
   肩のしこりが
   神経を刺激する手が痺れる

作者は大学を卒業したばかりのようだ。若い感性が操る言葉の鋭利な角がいたるところにあり、大変に魅力的であった。
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