何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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挫折から生まれた和のライフスタイル

2004年12月11日 | 歴史
鴨長明が『方丈記』を完成したのは、1212年、鎌倉幕府が成立してから、およそ20年後のことだったんだ。長明は、12世紀の世紀末の貴族の世から武家の世へと転換する大動乱の時期を生きたわけだな。しかし、その人生は、挫折に次ぐ挫折だったんだ。その間に、院政が強力な権勢と豊かな財政によって築きあげたきらびやかな京都の市街も、大火、地震、戦乱によって、すべて灰燼(かいじん)に帰してしまった。そうした中で書き上げられた『方丈記』は、実は日本人の新しいライフスタイルを提案していたんだな。今回は鴨長明の人生の出発から話してみよう。

そもそも、長明の人生は挫折にはじまったといっていい。セイゴオ先生が教えてくれたように、京都の下鴨神社のトップの家柄に生まれ、幼少のころから才気をあらわし、保元の乱のときの二条天皇の中宮(後の高松院)にかわいがられ、応保元年(1161)、7歳にして中宮から昇殿が許される従五位下の位を与えられた。長明は一種の天才少年だったわけだな。

長明は弟に神社をまかせ、宮廷での将来は約束されているように見えたけれど、二条天皇は親政をめざして後白河法皇と対立してしまう。そして、まだ23歳の青年だった二条天皇は、とつぜん病死してしまい、長明は出世の望みを絶たれたんだ。そこで、和歌や琵琶の道に打ち込んで、人生を切り開こうとしたけれど、最大のパトロンであった高松院も、1176年に亡くなってしまった。この前後から、京都の崩壊がはじまったんだ。

『方丈記』の「ゆく川の水は絶えずして、しかももとの水にあらず」は、深い無常の哲学をあらわしている一方で、同じような人間の社会が続いているようでも、昨日と今日ではまったくちがってしまうという、リアルな現実の変化をふまえていたんだな。

『方丈記』がこの世のはかなさを表すために記した平安京の5つの災害と事件はいずれも、長明が20代後半のころにおこった出来事だった。これらの天変地異と平行して、源平の争乱がはじまった。『方丈記』は災害の一つをこう記している。
「その中の人、現(うつ)し心あらむや。或(あるい)は煙に咽(むせ)びて倒れ伏し、或は焔(ほのお)にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、から(ろ)うじて逃るるも、資財を取り出(い)づるに及ばず。七珍万宝さながら灰燼(かいじん)となりにき」。

「現し心」とは「現実感」のことだな。燃えさかる火の中の人は、生きているという現実感も失い、倒れていき、やっと逃れても、蓄えた財産などを持ち出す余裕はなかったというわけだ。

こうした首都壊滅を若き日に体験した鴨長明は、「無常」を深く心に刻みこまれたんだな。そして、この天変地異の中で、財産や地位といったものがいかにはかないものかを実感したんだ。国家の権力を誇示していた大極殿や官庁も、たった一夜で焼失してしまい、白河殿も地震の一揺れで倒れてしまう。

そんな立派な住居や財産、地位に価値の基準を置いて人生を設計し、あたふたと権力者にこびへつらったところで、何になるだろうか? それは、実はとても危険で、人間を不幸のどん底におとしかねない。むしろ人間は、みすからの好みを実現するために、最低限の条件を整えて、自立して生きるべきではないのか? このような疑問に答えて、考え出されたライフスタイルが、「方丈の住まい」での生き方だったんだな。

この方丈の住まいは、貴族の寝殿造りのような儀礼や祭りを中心した住まいや、職業によってかたち作られた農民や職人の住まいなどとはまったくちがっていたんだ。それは、人間がただ一人で、浄土への往生を願いながら、文学や音楽、花鳥風月に遊んで生きられる空間だったわけだ。この『方丈記』が提案した、新しいライフスタイルのモデルは、身分を問わず日本人の間に侵透していき、現代人もそこに日本らしさを感じている清廉な和風のたたずまいというものを作り出していったんだな。

【お知らせ】セイゴオ先生のにっぽんXYZの休載とともに、タカハシ君のうんちく日本史も今回でしばらくお休みをいただきます。たくさんのご意見をいただき、ありがとうございました。

時代を示す「遁世」の姿

2004年12月09日 | 歴史
佐藤義清は、出家遁世(とんせい、とんぜ)して西行となっていく。では、遁世とは一体、どういうことだったんだろうか?

「遁世」の「遁」というのは、忍者の「火遁の術」、「水遁の術」の「遁」で、「逃げる」という意味だ。忍者が火や水を使って、敵の目をくらまして遁(に)げるのが、火遁、水遁だな。「遁世」というのは、「世を遁げる」ということで、もともとはシャカ族の王子であった釈迦が、カピラ城を出て出家したことを、「遁世」といったんだ。あるいは、中国の道教の祖、老子は乱世を嫌って、函谷関(かんこくかん)を出て、遠く西方に去ったという。これも「遁世」というんだな。つまり、社会のしがらみを断って、その外に出ることが遁世だった。

それなら、出家してお坊さんになったら、「遁世」なのかとうことになるね。ところが、平安時代には、たとえ出家しても遁世したことにはならなかった。なぜかって? 平安時代の寺院は、みんな国家の許可によって成立していたんだな。それによって、荘園を獲得し、巨大な荘園領主にもなっていたんだ。いわば、宗教界は、官界に付属するもう1つの俗世間となっていたんだな。

こうした寺院の僧侶も、国家から官位をもらった官僧(かんそう)で、現在の公務員の仕事の規定があるように、さまざまな規定にしばられていたんだな。いってみれば、決められた修行や祈祷、国家的な行事への参加などが仕事で、もはや人々の救済といったボランティアな活動は規制によってできなくなっていたんだんだな。

それで、比叡山や高野山、興福寺などから、官僧の身分を棄てて、自由な救済活動に向かう僧侶たちがぞくぞくと現れてきた。前に話した空也上人なんかは、そのさきがけだね。こうした官僧の身分を棄てて、自由に救済活動をすることが遁世だったんだ。日本の中世の仏教は、こうした遁世した僧侶によって、新たな展開をしていくわけなんだ。

ところが、この遁世に、もう1つの流れが加わったんだ。それは、国家の官僚、あるいは武家などのうち、藤原氏の摂関政治、院政や平氏の独裁政権に失望して、国家の許可を受けずに、みずから僧侶となって、思いのままに活動する人びとが現れてきた。この自分の思いのままの好きなことをする活動が、セイゴオ先生が教えてくれた「数寄」(すき)だったんだな。この「数寄」を実践するために、遁世することを、「数寄の遁世」(すきのとんぜ)という。

数寄は時代によって、さまざまな変化するけれど、この時代の数寄は、過去の失われた崇高な情報を求めて旅をし、そこに過去に人間が体験したことを思い起こして、それを未来に託すことだったんだ。では、そのような過去の崇高な情報は、どこにあったんだろうか? そう、それは和歌に詠まれていたんだな。そして、古来、日本人が何度も訪れ、和歌を詠んだ土地がある。その風景は、屏風(びょうぶ)や襖絵(ふすまえ)に描かれ、そこには和歌が指し示すコンテンツ(情報の内容)が積み重なって保存されていたわけだ。これが、「歌枕」だな。

しかし、この歌枕は屏風や襖絵に描かれたけれども、その地を訪れる人は、長らくいなかったんだ。そこで、この乱れに乱れた世の中から出て、遁世して数寄に遊ぼうとした人たちは、こうした歌枕を実際に訪れて、普遍的な価値を取り戻そうとしたわけだな。

こういう数寄の遁世の先達とされているのが、能因(のういん)法師なんだ。能因は10世紀末、11世紀の初めを生きた人で、遠江(とおとおみ、静岡県)、肥後(ひご、熊本県)などの知事を務めた橘(たちばな)氏の家に生まれ、大学に学び、学問で将来を開くために文章生(もんじょうせい、歴史・文学の博士課程の学生)になったけれど、26歳のとき、とつぜん出家してしまったんだな。橘氏は奈良時代から平安時代にかけて、皇室を支えた氏族だったが、藤原摂関家の台頭によって、才能があっても、出世は望めなかった。

能因は仏教の修行などは眼中になく、ひたすらみずからの生き方を和歌に詠む日々を送り、漂泊の行脚を重ねて、歌枕の地を訪ね歩いたんだ。そして、1025年以降、2度の奥州旅行をしている。それは、まだ都人がほとんど訪れたことのない地に行って、まずみずからが和歌を詠い、将来にその心を残すとともに、都人が憧れていた陸奥の名馬を連れ帰るという交易のためでもあったという。このあたりが「数寄の遁世」の面目がさえているところだな。そして、能因は関白藤原頼道の厚遇を得て、11世紀前半の歌壇を仕切ったんだ。さらに、歌枕と和歌につての初めての歌論『能因歌枕』を編集している。これが、歌枕の定番となった。

このような能因の数寄の道を、西行も歩もうとしたんだな。でも西行は能因よりも、一まわりも二まわりも大きかった。西行は、数寄の道に遊びながら、仏僧として修験の道にも通じ、ネットワークを駆使して、日本仏教の根幹をなす高野山や東大寺の復興などにも大きな働きを示したんだからね。そして、セイゴオ先生がいうように、悲惨な最後を遂げた人びとの鎮魂(ちんこん)の和歌を詠んだ。このような西行の数寄と漂泊の精神は、日本各地にその歌碑(かひ=歌を刻んだ碑)が残されているように、現代にいたるまで愛されつづけているんだな。

西行が捨てた超エリートコースとは?

2004年12月07日 | 歴史
西行は、もとは佐藤義清(のりきよ)といって、院庁(いんのちょう)の北面に控え、上皇・法皇やその寵愛を受ける女院を警備し、熊野詣などの御幸(ぎょこう)などでは、威儀を正して行列を構成したんだな。この北面の武士は、11世紀の終わりに、白河法皇が院政を開始したときに設置されたんだ。

もともと、皇族を警備するのは近衛(このえ)の兵だった。近衛兵は上皇、法皇も含む皇居を守る軍隊だったけれど、天皇を退位した後にも実権を握る院庁を守る軍隊はなかったんだ。そこで、御随身所(みずしどころ)や武者所(むさどころ)を設置したけれど、白河上皇は満足しなかった。なぜかって? この武者というのは、近衛兵と同じく、律令に定められた武官によって構成されていたんだな。かなり高い官位を継承し、武芸にはげんでいたけれど、戦ったことはめったになかった。これは地方の開拓領主の出身で、命がけで領地を守ってきた武士に比べれば、ものの数にも入らなかったんだな。

それで、院庁の庶務を担当する院司(いんじ)に仕えるかたちで、地方領主出身の武士を近習などに登用したところ、優れた才能を発揮するものが多かった。そこで軍事・警察に関わる組織を統合して、北面の武士としたわけだ。この北面の武士は、朝廷の武官で位が高い「上北面」(じょうほくめん)と地方豪族出身で位の低い「下北面」にわかれていった。そして、戦闘の実力者ぞろいの「下北面」(かほくめん)が北面の武士を代表するようになっていたんだ。

この北面の武士は、セイゴオ先生も言うように、たいへんなエリートコースだった。というのは、地方の開拓領主はどんなに土地や財産があっても、朝廷から官位をえることはできなかった。官位なんかなくてもいいじゃないかとも思うけれど、官位がないということは、国政に発言できないということでもあった。だから、政府への発言権をもつ官位をえて、院のそばに仕える武士は、地方に帰ると実力者として、武士団のトップに立ったわけだ。

それに、内裏に勤める武官は家柄が重視されたけれど、院庁では厳格な規定がなかったし、院は天皇を次々に指名するような権力者で、天皇に命令して、どんな官位でも与えることができた。上皇や法皇に愛された女院も「給」(きゅう)という官職を任命する権限があった。それで、開拓領主たちは院や女院に領地を荘園として寄進し、みずからは荘園の管理者となって、有能な子弟に郎党を付けて、北面の武士として仕えさせ、官位を与えられるよう期待したんだな。

こうした北面の武士が目指した官位は、「五位」(ごい)の位だったんだ。五位以上は、法皇や天皇の前に参列できる殿上人(てんじょうびと)で、「大夫」(たいふ)呼ばれ、それ以下は「地下」(じげ)と言われたんだ。でも、こういう官位はそうやすやすとは手に入らなかった。

郎党を引き連れて、院の北面の武士となること自体、開拓領主の中でも財力ある特別な子弟にのみ許された。というのも、官位を得るには「三位」(さんみ)以上の公卿(くぎょう)の推薦も必要だったから、そこに付け届けをする。そして、国家的な事業に対して莫大な寄進をしなくてはならなかった。これを「成功」(じょうごう)というんだな。この「成功」によって、院政時代の壮麗な六勝寺や鳥羽殿、三十三間堂などの施設や寺院が築かれた。そして貴族の仲間入りをするために、和歌や笛・鼓などの楽器なども習ったんだ。これは大変な投資で、官位を得ることは、莫大な金銭をはたいて買うことでもあったんだな。

佐藤義清も、18歳のとき、佐藤一族の「成功」によって、宮城の門を守る役職、六位に相当する兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられた。佐藤家は東海、近畿、伊勢にわたって領地をもつ富裕な地方豪族で、義清は主家の徳大寺家の推挙もあって、五位以上の位を目指して、鳥羽法皇の北面の武士として仕えたんだ。その肩には、一族の期待が重くのしかかっていた。

徳大寺家は藤原道長の叔父、公季(きみすえ)から分かれた家系で、院政時代に法皇の信頼をえて、その家運は上昇していた。佐藤義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は鳥羽法皇の妃、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)の兄であり、璋子に仕えた佐藤義清の前途は洋々と開けているように思れたが、1140年10月、23歳のとき、とつぜん出家してしまう。そのわけははっきりしないけれど、主家の徳大寺家がたどった政略の日々を見ると、義清が感じた武家の運命への予感が的中していたんだな。

佐藤義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は、保元の乱に後白河天皇を補佐し、その政権を支えた。このとき、北面の武士の同僚、平清盛と源義朝が戦い、勝った平家は五位どころか、三位以上の公卿を独占。しかし、清盛亡き後、平家は源(木曽)義仲の台頭によって、西海に落ちていった。そして、徳大寺家をついだ実定(さねさだ)は、木曽義仲に憎まれて官位を奪われたが、源義経が義仲を滅ぼすと、院政の中枢に活躍。その後、源頼朝とのパイプ役をにない、平家を追討した源義経を謀叛人として鎌倉方と講和政策を進め、左大臣となったんだ。

こうした変転する世の中に、佐藤義清が徳大寺家の私兵として止まっていたら、たとえ一時の栄華をえても、おそらく大きな挫折にみまわれたにちがいない。義清は、西行となることで、このようなむごい現世を離れ、数寄の道を歩み始め、やがて武士としては得られなかった世界の新たな美しさ、新しい価値観を見いだしていったんだな。


頼朝の東国掌握への奇跡の2ヵ月

2004年12月05日 | 歴史
源平の戦いの当初は、源氏の総領、武家の棟梁の地位を確保しようとした、源頼朝と源(木曽)義仲の争いがあった。木曽義仲は、信濃に自前の軍勢を揃えていたが、流罪人の源頼朝はゼロから出発しなくてはならなかった。これが二人の政策を大きく分けたんだ。義仲は武力で朝廷を押さえようとしたけれど、頼朝は関東の武士たちを集め、これまでの日本になかった新政府の構想を打ち出し、賛同を得るしかなかったんだな。その新政府は、1180年の源頼朝の挙兵から鎌倉に入るまでの2ヵ月間の奇跡によって形成された。じゃ、今回はヴィヴィッドな日めくり式で、頼朝が自立に向けて過ごした波乱の日々を見ていこう。

8月11日、頼朝は兵を挙げ、平家の伊豆の目代(もくだい=京都にいる国司の代理人)、山木判官(やまきのはんがん)の館を攻めて、判官を討ち取った。この情報はたちまち関東に知れわたり、頼朝捕縛の命令が出された。このとき、頼朝に付き従ったのは伊豆の各地の志願兵わずか300人にすぎなかったんだ。

8月23日、頼朝勢は石橋山に陣を張る。三浦半島の豪族、三浦氏が頼朝の救援に向かうが、夜に豪雨となり、三浦勢は伊豆の境の酒匂川(さかにがわ)を渡れなかった。後方から伊東祐親(すけちか)の追っ手が迫り、前方に大庭景親(おおばかげちか)の軍勢が待ち受けた。景親は三浦勢が参戦しては面倒と攻撃を仕掛け、明け方、頼朝軍は総くずれとなり、ちりぢりに逃走。これが石橋山の合戦だ。敗走する頼朝に従ったのはわずか6人。箱根に落ち延びる途中、大庭軍の梶原景時(かじわらかげとき)が洞窟に隠れた頼朝を助けたんだ。

8月24日、頼朝は箱根権現に保護された。それにしても、なぜ平家側に頼朝を助ける武士がいたり、箱根権現が頼朝を保護したんだろうか? 国司や目代は開拓領主の武士の領地を奪い、勝手な税金をかけたんだ。ことに山木判官は平家の権勢を笠に着て悪事が多く、山木館の襲撃は頼朝の政治表明でもあったんだ。そして箱根権現のような神社も、法皇の荘園整理などの政策に反対していたから、頼朝に期待して保護したんだな。

8月26日、武蔵の有力武士団である畠山・河越・江戸氏が、頼朝に味方する三浦氏を攻撃。当主の三浦義明は戦死してしまった。船で逃れた三浦一族は、海上で安房(千葉県)に向かう北条時政の軍船に出会って合流したんだな。

8月28日、箱根を出た頼朝一行は船で相模湾を横切り、翌日、安房に着き、北条時政や三浦一族と落ち合った。

9月1日、この日から、頼朝は関東の豪族に加勢するよう手紙を書きつづけた。大豪族、上総介広常(かずさのすけひろつね)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)には和田義盛(よしもり)らには使者を派遣し、兵を率いて参加するよう説得。この和田義盛は外交・軍事に通じ、鎌倉幕府の骨格をつくっていくことになる。

9月13日、頼朝は安房を出て、上総(かずさ=千葉県北部)に向かう。千葉介常胤が上総の目代を討ち取って頼朝軍に加わりたいと伝えてきた。頼朝は許可を与え、常胤勢は目代の館を襲ってその首をとった。これは源氏の棟梁の命令で敵を倒したら、その土地や財産を恩賞とすることを実践によって示したんだ。そこで、頼朝軍が東京湾沿いに北上するうちに、つぎつぎに武士団が忠誠を誓って結集してきたんだな。

9月17日、下総(しもふさ、千葉県)の国府を制圧。千葉常胤は、このまま軍勢を増やしつづけ、源氏代々の所領、鎌倉に入るのがよいと進言する。これが新政府の首都を鎌倉とするきっかけとなったんだ。

9月19日、上総介広常が約2万の兵をひきいて国府の頼朝のもとにきた。上総介が頼朝の配下となると、頼朝軍に加わる将兵はますます増え、4万人をこえる大軍となったんだ。

9月20日、北条時政が甲斐におもむき、新羅三郎源義光の子孫の武田信義(のぶよし)に同盟をもちかけていたが、この日、頼朝が関東を制圧したことを伝える使者が到着。甲斐の源氏と頼朝軍の同盟が成立した。

9月28日、敵方の江戸氏に使者を出し、「以仁王の令旨」を守って頼朝軍に参加するよう伝える。これは三浦氏への攻撃を許し、頼朝が武蔵に入るに当たって、その妨害を除くためでもあった。

10月2日、千葉介常胤、上総介広常とともに、隅田川を渡り武蔵に入る。武蔵の武士団は、みな頼朝に従った。

10月6日、頼朝は5万人もの軍勢を従えて源氏の本拠地、鎌倉に入る。もちろん、こんな大軍を収容する建物はなかったから、全員が野営したんだ。集まった武士たちの合意によって、源頼朝を棟梁と仰ぎ、鎌倉を武家の国の首都と決定した。政府の機関として、「侍所」(さむらいどころ)が設置された。ここに関東の新政府が発足したわけだ。これは、頼朝のもとに駆けつけた武士を御家人として登録する業務から生まれたんだな。

「侍所」では、武家の棟梁と御家人の主従関係を明らかにし、実行する戦闘や行事などの部署が割り当てられ、恩賞が約束される。そのトップは別当、次席は所司で、初代別当に和田義盛、初代所司に梶原景時が就任した。職務は、御家人としての任務の判定、罪があれば処罰を決定すること、および鎌倉の治安を守り、有事のときには前線の指揮官「軍奉行」として、全軍を掌握することだった。これらの職務が独立した部署となり、鎌倉幕府の組織ができていったんだな。

と、この激変激動の2ヵ月の出来事は、日本を大転換させたんだ。関東武者たちは、それぞれが武家の棟梁の源頼朝と主従関係を結び、その御家人(ごけにん)となることで、新政府を支える「公衆」、英語で言えば「パブリック」となった。これは、公衆のすべてがいつでも自主的に武具や軍費を負担し、郎党を引き連れて、政府の軍隊を構成する軍事政権だったわけだ。初めての強力な組織である軍事政権の軍隊には、木曽義仲も平氏もとうてい太刀打ちできなかった、というわけなんだな。

内紛だらけの源氏一族の歴史

2004年11月25日 | 歴史
西海を根拠地に海洋国家をめざした平氏と、東国の農耕地を確保して騎馬軍団を組んだ源氏はいよいよ対決の時を迎えた。そこにはセイゴオ先生が言ったように源頼朝、平氏、源義仲と3つの力のバランスを考えた、後白河法皇のパワーポリティクスがあったんだ。でも、頼朝と義仲はもともと従兄弟の関係なんだ。なぜ義仲は、長野県の山深い木曽から立ち上がり、頼朝とも対決したんだろうか?

実は源氏軍団の歴史というものは、一族の中の覇権争いを繰り返した、悲劇の歴史だったといえる。源氏はそこから不死鳥のようによみがえっていくんだけれど、ここでは、ちょっと長いけれど、歴史の授業ではあまり語られない、八幡太郎源義家のあとの源氏の歴史を語ってみよう。

また、ぜひ、これから出てくる名前をメモして、話通りに線を引いてほしい。すると頼朝に至る源氏の系図の一部が出来上がってくる。これを歴史の本に出てくる源氏全体の系図と合わせてみると、あっというまに名前と関係が、強烈に頭に入ること、請け合いだ。うんちくをひと手間掛けると、ちゃんと勉強に役立つってわけだな。

さて、八幡太郎義家の後を継いで、源氏の総帥となった子の源義親(よしちか)は、対馬守(つしまのかみ)となったが、大宰府を拠点にして、九州の武士団を源氏のもとに統率しようとしたんだ。そこで逆らう者を攻撃したことが朝廷への反乱とみなされ、島根県の隠岐島に流されてしまう。しかし、義親は隠岐島を脱出し、武者を率いて西海を暴れまわった。1108年、この義親を追討したのが清盛の祖父、平正盛(まさもり)で、平氏が西海を押さえるきっかけになったんだったね。

これで源氏の軍団は統率を失い、ばらばらになってしまった。その上、翌1109年、次に源氏の総領を継いだ義親の弟、源義忠(よしただ)が何者かに暗殺されるという事件がおこった。その暗殺の疑いが、八幡太郎義家の弟の源義綱にかかったんだ。義綱は佐渡に流されたところを、義親の子で、叔父の義忠の養子となっていた源為義(ためよし)の追討を受け、1134年に自害してしまう。こうして、源為義が源氏の総領を継いだわけだ。しかし、為義は平家の全盛期を築いた平清盛に押されて、京都では威勢をふるわなかった。

その源為義の子に義朝(よしとも)、義賢(よしかた)、頼賢(よりかた)、為朝(ためとも)らがいる。彼らが源平の争乱の序曲をつくっていくんだな。

父為義は源氏の根拠地、関東の武士団の統合を目指していた。そこで長男の義朝を幼少時から鎌倉におき、次男の義賢を武蔵国に派遣したんだ。ところが、1155年、源氏はまたもや血なまぐさい主導権争いを繰り返してしまう。

この年、京都に義朝が出仕していた間、わずか15歳で鎌倉の守備をまかされた、義朝の長男・源義平(よしひら)が、武蔵大蔵館で叔父に当たる源義賢を襲撃し、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平はちまたで悪源太(あくげんた)と呼ばれるようになる。「悪」には、わるいって意味だけじゃなくて、強く、恐ろしい、常識破りの意味があるんだな。

義平が叔父義賢を殺してしまったわけは、父の義朝とともに関東を統一するためには、義賢の勢力が邪魔だったからなんだ。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて脱出し、信濃(長野県)の豪族に養育された。この駒王丸が成長して、のちに木曽義仲(源義仲)と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がってくるわけだ。

このころ源氏の総領を継ぐ存在となっていたのは、為義の4男・源頼賢だった。父とともに都で藤原頼長に仕え、寺院や神社の強訴の鎮圧で武名を上げていたんだ。そこへ義賢が甥によって討ち死にした、という知らせが来ると、関東の源氏の統制のために東国に下った。しかし、その軍勢が行軍中に鳥羽法皇の荘園といざこざを起こしてしまう。すると、すかさず法皇は頼賢追討を兄の義朝に命じた。

頼賢は、法皇の下で優位に立った義朝に敗れてしまった。もちろん、そこには源氏の力を弱めようとする法皇の政略がからんでいたんだな。ここに源氏の総領の後継ぎは源義朝しかいなくなったんだ。義朝は関東武士団の統合に乗り出し、武士団と主従関係を結び、従わない勢力を武力で滅ぼしていった。

一方、同じ1155年に、九州にいたもう一人の源氏の英雄が騒動を起こした。為義の8番目の息子で、『弓張月』(ゆみはりづき)で有名な、鎮西八郎源為朝だ。弓の達人で、剛勇の名をほしいままにした為朝は、平家や北面の武士とのいざこざがたえず、九州の阿蘇の豪族のもとにあずけられていたんだ。その為朝が九州の武士団の統合に乗り出したんだな。あだなである鎮西八郎は、西を鎮める源氏の8男、という意味だ。しかし、政府は大宰府を通して為朝に従わないよう武士団に命令。さらにこれが原因となって、父の為義は官位を剥奪されてしまう。

そのため、翌1156年に、源為朝は父に代わって罪に服そうと、九州から上洛してきた。そこに、保元の乱がおこったんだな。このとき、源義朝が父の為義に背いて、清盛とともに後白河天皇方につき、父をはじめ、崇徳上皇方の源氏一族を無残な死に追いやることになる。この源氏分裂の背景には、一族が繰り広げたこれまでの覇権争いが原因となっていたわけだ。父為義とともに上皇方について奮戦した源為朝は、伊豆の大島に流されていった。

しかし、続く平治の乱で、今度は清盛を敵に回した源義朝は敗れ、関東に逃げる途中、暗殺されたんだ。父を殺された悪源太こと義平は清盛を付けねらうが、捕らえられて死罪となった。このとき義平の弟で、義朝の3男である源頼朝は殺されず、伊豆に流された。しかし、源氏はもはや再起不能かと思われたんだな。

それから20年たった1180年、セイゴオ先生が教えてくれたように、以仁王(もちひとおう)の平家追討の宣旨が、伊豆の源頼朝、信濃の源義仲のもとに届いた。同じ源氏とはいえ、これまで見てきたように、二人はもともと敵対する因縁を抱えていたんだ。だからこそ義仲は、どうしても頼朝より先に京都を制圧して、まだ決まっていなかった源氏の総領、武家の棟梁の地位を自分のものとしたかったわけなんだな。


「銭の病」を生んだ宋銭の大流通

2004年11月17日 | Weblog
貿易国家をプランした平清盛が政権をにぎると、宋から輸入した銭貨、宋銭(そうせん)の流通がすごくさかんになったんだ。九州に出現した博多荘などの海外貿易港では、宋銭はとうぜん国際通貨としての働きをしていたんだな。北宋の絶頂期の銅銭の製造量は年間60億枚といわれている。日本へはたった1回の貿易船で数百万枚もの銅銭を持ち帰ったというんだね。こうしてばく大な数量の宋銭が日本国内に流通しはじめた。

お金のことを日本では「貨幣」というけれど、中国では「貨銭」というんだ。この「幣」と「銭」は、もともと意味合いがちがっていたんだ。

日本の「貨幣」の「幣」は、神社の「みてぐら」のことで、神に捧げた布なんだね。これは私有物を離れた公共の「神聖な財」とされてきた。日本の古代貨幣は、寺院や神社に捧げる供物の代わりをしてきたんだ。だから、神にお賽銭(さいせん)を捧げたり、貨幣を寺院の柱の下に、寺院がいつまでも続きますようにという、まじないとして埋めたりしているんだな。

そこに洗練された宋銭が通貨として入ってきて、それまでの日本人の貨幣の考え方がゆらいだんだ。13世紀ごろに書かれた歴史書の『百練抄(ひゃくれんしょう)』には、平家全盛期の1179年6月の記事として、「近日、天上天下、病悩(びょうのう)し、銭の病(ぜにのやまい)と号す」とある。このころ、日本中が病に悩んでいるが、それは「銭の病」と呼ばれているというんだ。

では、宋銭が流通すると、なぜ「銭の病」がおきるんだろうか? それは、平安時代とは、国家により貨幣と物品の交換レートがきっちりと定められていた経済体制をとっていた時代だったからなんだ。

平安時代の京都では、左京、右京に市(いち)が開かれていた。その市を管理する仕事を定めた法律では、毎月1度、さまざまな品物の交換レートを記した帳面を作成し、太政官・京職(京都の町を管理する役場)・市司(市を管理する役場)に保存することが定められていた。市での交易はこれにしたがって行われていたんだ。諸国でも、農民から交易によって品物を徴収するときの交換比率を定めていた。これが平安時代の経済政策の根幹になっていたわけだ。つまり商品に自由な値段をつけることを禁じた、統制経済だったんだな。

平安時代の前期まで、律令政府の下では皇朝十二銭という貨幣が発行されたけれど、銅が不足し、物品の交換の量に見合うほど、十分に供給されなかったんだね。そこで、荘園や公領から貴族や政府に支払われる租税を、貨幣の代わりに用いたんだ。その租税がセイゴオ先生にあったように東国は絹、西国は米だった。これをもとにそれぞれの交換レートを定め、政府が管理する市で交易をさせたんだな。政府が発行を止めたため、わずかに流通していた日本の貨幣は、そうなると仏や神に捧げる神聖な財貨としての性格を強めることになった。

しかし、960年、宋王朝が中国を統一し、宋の銭貨が、前回に話したような九州各地の貿易拠点を介して流通しはじめると、状況は一変したんだ。輸入品へのあこがれが高まるにつれて、それらを手に入れるためには大陸の通貨である宋銭を用いた方が便利になった。すると、日本各地で生産される産品も、輸出品からはじまって、だんだん一般的な品物まで、宋銭で売り買いされるようになってきた。この宋銭は、日本の古来の貨幣に対して、「今銭」(いまぜに)と呼ばれていたんだな。

今銭は、流通しはじめたころは、日本古来の貨幣とはちがって、外国から買ってきたものだから、米や絹と並ぶ交換の媒体に適した物品とみなされ、あまり問題にされなかった。しかし、宋銭が圧倒的に多くなると、銭を多く所有する人が品物を多く買えるようにもなり、価値を一定にした政府の経済政策が機能しなくなってくる。それに神仏と人間を媒介する貨幣の側面も失われてきた。貨幣を私有物の交換の媒介としてしまうことは、神仏のぼうとくとも思われたんだな。

外国の通貨である宋銭が流通した理由には、その圧倒的に優れた品質もあった。宋銭は、贋金(にせがね)を防ぐために、額面の数倍もの価値の青銅を用いていたんだ。宋王朝は、それほど高価な貨幣を発行しても、商業が発展すれば、貨幣を発行する費用以上に国家の収入が増えると考えていたわけだな。

このような宋銭を、日本で流通させる元締めになった平氏は、まるで造幣局をにぎったようなものだったんだ。平家は宋銭で何でも買えるけれど、貴族は荘園からもたらされる米や絹を宋銭に換えないと、物品を購入できなくなる。これに対する貴族の反発は大きかった。

「銭の病」という言葉が記録された1179年、法律を明らかにする明法博士(みょぼうはかせ)でもあった中原基広(もとひろ)は、「宋銭はだれかが鋳たのではなくても、民間で鋳た違法な貨幣と同じ」として、使用の停止を求めている。しかし、この年、平清盛は後白河法皇を幽閉したほど、権力を拡大している。宋銭の使用禁止令は出されず、ますます宋銭が市場にあふれた。こうなってくると開拓領主である関東の武士たちも、米や絹と宋銭のレートが不安定になって、困ってくる。この後すぐに起こった源平の争乱の背景には、こんな経済の問題も働いていたというわけなんだな。

平氏興隆と大陸事情

2004年11月15日 | 歴史
平清盛を生んだ伊勢平氏が、朝廷で大きな影響力を得たのは、12世紀に盛んになっていた日宋貿易だったんだ。貴族から武士の世へと日本が大きく変化していく時代に、貿易がクローズアップされたのは、セイゴオ先生にあるように、東アジアの大きな変動がかかわっているんだな。ちょっとその様子を見てみよう。

平安時代の中ごろまで東アジアの大部分を治めた唐帝国は、875年に起こった黄巣(こうそう)の乱などによって崩壊が始まった。894年に菅原道真が遣唐使を廃止してから、たった13年で唐帝国は滅び、華北に五代の王朝、華南・四川に十国が乱立する五代十国(ごだいじっこく)の時代に突入したんだ。

この間、朝鮮半島では新羅が分裂して、高句麗系の高麗が成立した。中国の北方では、日本とも友好関係にあった渤海(ぼっかい)が滅び、契丹(きったん)が台頭。契丹は中国の東北地方から蒙古高原に達する遊牧帝国となった。このころ、ヨーロッパで絹をもたらす中国のことを「キタイ」とか「カタイ」と呼んでいるけど、契丹を指したんだな。

960年に五代の最後、梁王朝の将軍、趙匡胤(ちょうきょういん)が中国を統一して宋王朝を興す。この宋という国は、文治主義の君主独裁制で、「宋学」という革新的な儒学を確立させたんだ。この宋学によって合理主義を身につけ、新しい官僚階級として力を発揮したのが、士大夫(したいふ)と呼ばれる人々だ。彼らが行った施策により、宋では農業、手工業が著しく発展し、商業活動、国際貿易が盛んになったんだな。

この大陸の変化が日本にも及んだわけだ。これまで貿易は、唐の滅亡以降、那の津(なのつ、福岡市)の鴻臚館(こうろかん)で渤海国を相手に官営で行われるのが中心で、自由な貿易は禁じられていた。渤海国が滅んだ以降は、日本はいずれの国とも正式な国交を結ぼうとせず、孤立政策をとっていたんだ。

にもかかわらず、貴族や地方の土豪の輸入品へのあこがれは高まるばかりだったんだ。11世紀中ごろに、藤原明衡(あきひら)が著した『新猿楽記(しんさるがくき)』は、平安京にあふれる商品を「本朝」と「唐物」に分けて紹介している。

「唐物」では麝香(じゃこう)・丁子(ちょうじ)などの香料や、白壇・紫壇などの高級建材、蘇芳(すほう)・丹(に)などの染料、豹虎の皮・犀(さい)の角・瑪瑙(めのう)の帯・瑠璃(るり)の壷などの貴重品、綾(あや)・錦・羅(ら)などの高級織物の名前が挙がっている。ことに人気だったのが江南の青磁(せいじ)で、越州(えっしゅう)青磁として尊ばれた。

貿易は国が独占していたものだったけど、人気の商品を持っている宋や高麗の貿易商人にしてみれば、いろんな人が集まるところで、高値を付けた人に売った方が断然もうかるよね。そこで、新たな貿易の仕組みが現れてきた。典型的な例では、福岡市の那珂川河口に、大宰府にある安楽寺の博多荘という荘園が成立し、不輸不入の権を利用して始めた、活発な貿易があるね。

不輸不入の権とは、貴族や寺社に寄進された荘園が、国家に税を払わず、役人の介入を拒否する権利だったね。主に農地に適用されてきたけれど、これを商業地に応用したわけだな。博多荘には11世紀の終わりごろから、中国人街が形成されはじめている。

こうして荘園を市場化する貿易システムができると、宋の商人はたくさんの寺社や貴族と結び付いていく。そして筥崎宮(はこざきのみや)や香椎宮(かしいのみや)の神域、仁和寺の荘園の怡土荘(いとそう)の今津港、肥前の平戸、法皇が所有する有明海沿岸の神崎荘、薩摩の坊津(ぼうのつ)など、九州の沿岸の各地で貿易が行われはじめた。そこはアジア諸国の人々が居住する国際都市になってきたんだな。

そんな中、12世紀になると、またアジアに激震が走ったんだ。1115年、契丹に服従していた女真族(じょしんぞく)が契丹の大軍を破って、金王朝を建てた。金は最初は宋と組んだけれど、契丹が滅ぶと、今度は宋を攻撃し、首都の東京(とうけい)を占領したんだ。こうして宋朝は断絶したけれど、残された王族が南京(なんきん)で即位して高宗となって、宋王朝が再興された。これが南宋なんだ。

この大陸情勢の変化は、日宋貿易をさらに拡大したんだな。南宋は、金の攻撃をさけるために、多額の弁済金を金に払わなくてはならなかった。セイゴオ先生が言ったように宋にとっては日本の黄金や真珠、水銀や刀剣などが貴重な収入になったんだ。それに日本は南宋が貿易できる数少ない中立国でもあったからね。

ここに登場したのが平氏だったわけだ。伊勢平氏の平正衡の子、平正盛は海賊の追討(ついとう)で名をあげ、その子の忠盛(ただもり)は、伊勢湾や瀬戸内海、九州など海上交通の要衝をおさえ、「海の領主」、「海の武士団」、そして西海の「海賊集団」まで配下に組み込んでいったんだな。正盛も忠盛もともに白河法皇の北面の武士を務めた。この皇室とのつながりは平氏の経済拡大に大きな契機となった。

平忠盛はその後、鳥羽法皇の院近臣となったんだ。国際貿易の利益に目をつけた忠盛は、法皇が管理する佐賀県の神崎荘の荘官も勤めた。1133年に宋船が神崎荘に入港したとき、慣例に従って商品を管理しようとした大宰府の長官に対して、忠盛は荘園の権利を主張して、「船は神崎荘に入ったから、商品は神崎荘で扱う」と突っぱねている。このような利益を法皇にもたらすことで、忠盛は武士出身でありながら、昇殿を許されるまでに出世したんだ。

この平忠盛の方法を引き継いで、日宋貿易を強力に推し進め、海に囲まれた日本を貿易立国にしていこうと考えた若き青年が、平清盛だったというわけなんだな。


奥州藤原氏の北方平和戦略

2004年11月08日 | 歴史
白河天皇が上皇となって、院政を開始した1086年の翌年、東北地方で奥州藤原氏の独立政権が誕生した。これは蝦夷の民にとっても念願の政権であり、ここから1世紀に及ぶ藤原氏4代の栄華を築かれることになった。名門藤原氏の名に由来しつつ、独自の花を開かせた地域政権、奥州藤原氏とは、いったいどんな一族だったんだろうか?

奈良時代に始まる藤原四家のように、時代が下るにつれ、藤原氏はいろんな家系に分かれていったんだったね。その中に、藤原北家の出身ながら、桓武天皇が粛清した氷川皇子の事件に巻き込まれて地方に流された藤原魚名(うおな)という家臣がいたんだ。魚名の子孫は北関東に入植して、魚名流(魚名の子孫)といわれる多くの武士団を形成していった。平将門の乱のとき、将門と戦った剛勇、藤原秀郷(ひでさと)もそこから出た武士だ。この関東藤原氏は、源氏が東国の武士団を統合していったとき、その傘下に加わったんだ。

1051年、前九年の役がおこると、関東の武士団は源頼義に従って東北地方の制圧に乗り出した。このとき藤原経清(つねきよ)という、関東藤原氏の流れをくむ武者が、戦いの最中に源氏の戦線から離れ、俘囚を率いる敵の安倍頼時(あべのよりとき)の娘と結婚したんだ。この経清が奥州藤原氏の始まりとなるんだな。

安倍氏は源氏の軍勢と互角に戦ったけれど、秋田県を制圧していた清原氏が源氏と組んだために敗北してしまった。参謀として源氏軍を苦しめた藤原経清も斬首されたんだ。このとき、清原氏のトップ、清原武則は蝦夷人(えぞびと)として、初めて鎮守府将軍の位につき、東北地方を治めたんだな。

そして、藤原経清の遺児、藤原清衡(きよひら)は、母が清原武則の嫡男・武貞(たけさだ)と再婚したため一命を助けられ、清原氏に養われていた。しかし、清原氏の家督争いがおこり、八幡太郎義家が乗り出してきた。これが後三年の役だね。藤原清衡は義家と組んで、清原氏を滅ぼすことに成功する。

白河上皇は源氏が東北地方を支配するのを嫌って、安倍氏、清原氏の領地の経営を藤原清衡にまかせ、事実上の独立を許したんだな。清衡は、岩手県の平泉に京都に似せた都をつくり、奥州藤原氏4代の栄華の基礎を築いた。でもどうして奥州が繁栄できたか、わかるかな? 東北は金や馬、さらに鉄器の産地であることに加え、以前も話したように中国北方から北海道を経由する北方貿易がますます拡大していたからなんだ。

もっとも、奥州藤原氏は完全な独立を果たしたわけではなかった。院庁が奥州藤原氏に北方社会との外交、軍事、貿易などの権限を認め、東北全体に対しては、軍事の指揮権、警察権などを与えたけれど、その見返りとして、東北地方が生み出す租税を直接、院庁に納めさせたんだ。これは東北地方の戦乱に悩まされてきた政府にとっては、理想的な解決策でもあった。

これに乗ることで奥州藤原氏の軍事的な権威はものすごく高まったけれど、藤原清衡は徹底した平和政策を展開するんだな。国府・院庁への租税義務を守り、黄金や馬を納め、院政に従う姿勢を崩さなかった。さらに院庁の有力者には豪勢な贈り物をして交友関係を結んだ。これは源氏や平氏などの武士団の挑発を恐れ、悲惨な奥羽の動乱の再発を防ぐ清衡の平和戦略でもあったんだな。

平和な社会では、戦乱の時とは比べものにならないほど多くの富を蓄積し、経済力を増やすことができるね。清衡はこの富を文化に使った。首都平泉を華やかな文化都市にしていったんだ。極楽浄土を現し、平安末期の美術工芸の極致といわれる金色の中尊寺の造立をはじめ、造園や金字一切経の写経などの文化事業が強力に推進されていった。

舞台となった平泉は、実は奥州藤原氏の領地の奥六郡を一歩越えた陸奥国府が支配する公領の土地に建設されていんだ。どうしてそんなところに奥羽政権の都を造ったんだろうか? それは院政にとって重要な北方の平和を、朝廷と奥州藤原氏が共同でつくり出していることのシンボルとするためだったんだな。

この清衡の姿勢は、二代基衡(もとひら)、三代秀衡(ひでひら)にも継承されていく。京都の貴族と姻戚関係を結ぶ一方で、朝廷の安泰を願う平泉の文化事業は、院政政権から高い評価を受けている。こうした努力によって、三代藤原秀衡は陸奥守と鎮守府将軍に任じられ、その地位をますます高めた。まさに奥州藤原氏の平和志向は戦略的に成功したんだな。

こうして100年におよぶ平泉文化は、乱れていく日本にあって北方の平和を支え、京都の貴族の雅びを北の大地に根づかせたといえるわけだ。しかし、時代の大きな流れには逆らえない。4代泰衡(やすひら)の時代、武者(つわもの)による鎌倉幕府が成立し、院政の権威が失われたとき、北の京都、奥州藤原文化も滅びへの運命を迎えていったというわけなんだな。



「治天の君」が繰り返した熊野詣のナゾ

2004年11月05日 | 歴史
今年7月7日、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、「熊野三山」「吉野・大峯」「高野山」の3つの霊場と、これらを結ぶ「熊野参詣道(熊野古道)」など3つの参詣道が世界遺産に登録された。神秘の威容に満ちた紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていて、仏教が入ってからも山岳修行の場となり、空海は高野山を修行道場として開いたんだったね。平安時代には山また山の連なる秘境だったこの地、とくに今の和歌山の奥深い熊野を9回も訪れた新しいタイプの実力者がいた。それが絶大な力を誇った「治天の君」、白河法皇(白河上皇)その人なんだ。

白河上皇の前にも、皇族では、密教に熱心だった宇多法皇、藤原摂関家に無理やり退位させられ、仏道修行にはげんだ花山法皇が訪れたことがある。これらは山岳に修行する僧りょとして熊野に詣でていたんだ。しかし、それからおよそ100年たった後、1090年にはじまった白河上皇の熊野詣は、まったく規模が違っていた。それは王法と仏法を統合して日本を治めようとした政策の現われでもあったんだな。

白河上皇のあと、院政を継ぐ上皇たちも熊野詣を繰り返した。白河上皇の9回のうち、最後の3回は鳥羽上皇を引き連れての御幸(ぎょこう)だった。その後、鳥羽上皇は21回、そのあとを継いだ後白河上皇にいたっては、なんと34回も熊野に詣でている。

でも、いったいなぜ熊野だったのかな? 白河上皇の時代の関白・藤原忠実(ただざね)は「毎年の御熊野詣(おんくまのもうで)、実に不思議なことなり」と言っているほどで、その理由ははっきりしないんだけれど、今回はそのナゾに大胆に迫ってみよう。

まず第1のポイントは、上皇、法皇だったからこそ熊野詣ができたということ。このころの天皇は、遠出の旅などできなかった。天皇は朝起きて夜寝るまで、しきたりに規制され、自由な行動は許されなかったんだな。ところが上皇になったら、天皇の父親としての権力や財力を持っていれば、上皇が律令によって規定された地位ではないだけに、自由にふるまうことができた。だから、熊野のようなところに参詣できたんだ。

第2に、院政が目指していたのが、ばらばらに分かれはじめた日本の諸勢力を統合することにある。白河上皇は、皇室の権力を藤原摂関家の補佐なしに確立するため、多くの荘園を手に入れる方策を立てた。中級貴族の受領層の支持を取り付けて、地方を直接支配する一方、セイゴオ先生が言ったように院の御所に北面の武士を置き、院の権力を強化した。これらの経済・地域・軍事の統合によって、白河上皇はこれまでの制度や慣例などを気にせず、意のままに政治を行うことができたんだ。加えて寺院や神社に参詣し、宗教界への影響力も確立しようとしたわけだな。

そして、第3に、熊野三山が白河上皇が考える新しい宗教のモデルとしてふさわしかったと考えられる。えっ、それはどうしてかって? それは当時の宗教界の様子を考えるとわかってくるんだな。

たとえば、白河天皇の時代、1081年、奈良の興福寺の僧兵が多武峰(たぶほう)の社域に侵入して乱暴をはたらき、多武峰は朝廷に訴えている。ところが興福寺は藤原政権を確立した藤原不比等が建立した寺院であり、多武峰は藤原鎌足を祀る御廟(ごびょう)で藤原不比等が整備した、これも藤原一族の聖地だ。また、比叡山延暦寺の僧兵が、比叡山のふもとの園城寺(現在の三井寺)を攻撃したため、白河天皇は源義家を派遣し、一時的に騒動を収めている。しかし、延暦寺も園城寺も、ともに皇室を守る天台密教の拠点だったんだな。

これはつまりどういうことかというと、これまで皇室や藤原氏が、広大な荘園を与えたり、多くの優遇処置をしてきた仏閣や大社同士が、お互いの近い関係や連帯を忘れ、それぞれが荘園や利権を奪い合い、僧兵や神兵で戦い合うようになってきていた、ということなんだ。

つまり白河天皇は上皇となったとき、武力集団となった宗教界も治めなくてはならなかったわけだ。しかし、セイゴオ先生が言ったように、治天の君といえども「サイコロの目と鴨川の水と山法師」は、思い通りにはならない。そこで、白河上皇は、有名ではあったけれども辺鄙なために詣でる人も少なく、険しい土地なので荘園も少ない熊野三山を、宗教界にみずからの権力を見せつけるために整備しようとした、とも考えられるわけだ。

もちろん、熊野三山とよばれた熊野本宮、速玉(はやたま)大社、那智(なち)大社は、それぞれが仏教の阿弥陀如来、薬師如来、千手観音が日本の神となって現れた、とされていたことも白河上皇の心を動かした。阿弥陀如来は来世の往生、薬師如来は現世の利益、千手観音は仏法を信じる者を千本の手で救済する菩薩の中の菩薩だからね。これは天皇でもなく、貴族でもない「治天の君」の主権を守る神仏としてふさわしかった。

白河上皇は、最初の熊野御幸で、熊野三山の体制を整えた。まず、道案内に大乗仏教、密教、修験道(しゅげんどう)の3つの宗派に通じた高僧、増誉(ぞうよ)を任命している。増誉は初代の熊野三山を統括する最高位の役職、熊野三山検校(けんぎょう)に任じられたんだ。これは京都にあって、上皇や法皇が熊野に詣でるときの準備を請け負う職だ。この増誉という人選には、当時の分裂した宗教界を統合する新しい仕組みを作り出そうとした、白河上皇の意気込みがあったんだな。

さらに現地で古くから熊野三山を管理していた熊野別当(くまののべっとう)に、法橋(ほっきょう)という地位を与えた。こうして、正式に朝廷から認められた熊野別当の権威は高まり、別々に自立していた熊野三山の統合がはかられていった。また、白河上皇は熊野三山に紀伊国の100町以上の田畑を寄進している。地形的に農地に恵まれない熊野三山は、これによって財政的な基盤を確保することができたんだ。

このような「治天の君」が、貴族や武家の豪華な行列を引き連れて、熊野の神のご託宣を聞きにいく熊野詣によって、宿泊施設や参詣の道である熊野古道が整備されていった。こうして熊野三山は、まさに院政を守る神であり、仏となったわけだ。この朝廷の盛んな熊野信仰は、やがて全国各地の武士や庶民の間にも広まり、「蟻の熊野詣」と呼ばれたほどたくさんの人々が熊野にあつまるようになる。熊野古道など紀伊の参詣道が世界遺産に含まれたのは、そういった中世の人々が紀伊の自然に残した文化的な景観が、地球的にも貴重な存在だと評価されているからなんだな。

源氏と八幡大菩薩の物語

2004年11月04日 | 歴史
武家の棟梁となった源氏は、一風変わった神を守護神としていた。それがセイゴオ先生も言っていた「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)だな。今では、「八幡さま」として親しまれ、全国に4万社以上もの八幡神社があるといわれ、もっともポピュラーな神になっている。でも、「大菩薩」というのは、仏教の菩薩とも違っているんだ。さあ、いったいどんな神様なんだろうか? 今日は源氏と深いつながりを持つ八幡さまに入り込んでみよう。

八幡神社の総元締は、九州大分県の宇佐八幡宮だな。以前、「道鏡・宇佐八幡宮託宣事件の謎」で話したように、孝謙女帝が道鏡に皇位を譲ろうとしたら、これを拒否した神でもあったよね。この神がどのように現れたかという神話は、かなりユニークなものなんだ。

宇佐八幡宮の伝説では、仏教が伝来した欽明天皇の時代(5世紀後半)、宇佐の地に不思議な事件が起こったといわれている。今は宇佐八幡の境内にある菱形池のほとりに、鍛冶師の翁(おきな)や八つの頭の龍が現れ、その姿を見た者は病気になったり、死んでしまったりした。これは古代の「鉄」の話題で出た出雲神話のヤマタノオロチに似ているね。そのオロチが斐伊川を映したものだったり、製鉄の溶けた鉄が流れ出す様子だったりしたように、翁や龍は、水神であって、鉄神でもあったんだな。

ところが、その神話のつづきからは出雲神話と違ってくる。この翁やオロチの祟りを鎮めようと、修行者が断食して祈ると、鍛冶師の翁が子どもの姿で現れ、「我は誉田天皇(こんだのすめらみこと)広幡八幡麻呂(ひろはたやはたまろ)、名は護国霊験(ごこくれいげん)威力神通(いりょくじんつう)大自在菩薩(だいじざいぼさつ)なり」と告げたという。

誉田天皇とは、倭の五王の時代を開いた応神(おうじん)天皇のことで、倭国の建国者といってもよい伝説の天皇なんだ。この神霊は黄金の鷹となって飛び去り、その止まったところに鷹居社を造立し、八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりとされる。こうしたわけで、宇佐八幡は伊勢神宮と並ぶ皇室の祖先神とされ、この国を護るために「大自在菩薩」、すなわち「大菩薩」として現れたとされたんだ。

738年、聖武天皇の勅願によって宇佐八幡の境内に弥勒寺(みろくじ)が建設され、その3年後、天皇から八幡神宮に冠、経文、神馬、僧を奉げられ、三重の塔が建てられたといわれている。740年に藤原広嗣(ひろつぐ)が大宰府で反乱をおこしたとき、聖武天皇が大将軍の大野東人(おおののあずまんど)に「八幡神」に勝利を祈祷させたんだ。また、聖武天皇が願ったあの東大寺大仏の建立の際も、八幡神は奈良の都に入って、その鋳造を助けたという。

東大寺にはその八幡神が僧形八幡神像として残されているけれど、これは仏教の僧りょの姿をしているんだ。日本では仏教が広まる中で、古来の神が実は仏が別の姿をとったものだった、とする「神仏習合」という考え方がつくられていく。

これはすごい大事な日本の方法でもあり、後世までずっとつづく歴史の大切なポイントであるんだけれど、ちょっと今日は飛ばそう。つまり、八幡神は仏教の菩薩号(仏教を広め、仏教信者を救済するもの)が与えられた最初の神だったわけだ。さらに、その「大菩薩」の称号は通常の仏教にはなく、日本で考え出されたもので、永遠に菩薩としてこの世に止まり、成仏しないという決意を固めた神に与えられたんだな。

平安時代初期、密教の最澄や空海も宇佐神宮に詣でたように、八幡神は密教の僧りょらに親しまれていたので、860年、行教(ぎょうきょう)という密教僧が、京都府八幡市の男山に、宇佐から八幡神を勧請(かんじょう=神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)し、「石清水(いわしみず)八幡宮」を建設した。この石清水八幡宮では応神天皇、神功皇后の神格が強調され,王城を鎮護する神として皇室の崇敬を受けたので、伊勢神宮とならぶ第二の宗廟(そうびょう、祖先を祀る社)とされるようになった。

また、応神天皇、神功皇后の神話は、朝鮮半島から日本列島におよぶ倭国を武力で平定した物語になっている。八幡神は、こうした神話によって、武力の神、戦勝の神ともされるようになったんだ。

この八幡神が、源氏の守護神となったゆえんは、セイゴオ先生にあったように源氏の英雄、源義家が石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家となったからといわれている。しかし、それ以前に、義家の祖父の源頼信や父の源頼義は、石清水八幡宮に限らず、各地の八幡宮に祭文を捧げたり、各地に八幡宮をつくっているんだな。

源頼信は石清水八幡宮に近い河内(かわち、大阪府)に勢力を蓄えていたから、石清水八幡宮は身近な神だったし、武家としては弓矢、戦勝の神でもある八幡様は最も守護神にふさわしかったんだ。それに源氏は清和天皇、あるいは陽成天皇の子孫であることを誇りにしていたから、皇室を守る八幡神を信仰しようとしたとも考えられるわけだ。

もうひとつ、八幡神が源氏の神となっていく大きなきっかけが、源頼義の関東平定、蝦夷に遠征した前九年の役にあるんだ。源頼義は、そのころ唯一の源氏の拠点だった鎌倉に八幡社を創建し、これを起点として5里(約20km)ごとに、いわゆる「五里八幡」を創建したという。これは今でも、関東に荒川八幡、植田八幡、飯野八幡などとして残されているね。1051年、頼義は前九年の役がはじまると、八幡神の加護をいただくため、「このたびの使命を果たすことができたら、鎌倉から奥州へ行く街道10里(約40km)ごとに、八幡社を1社ずつ造る」と祈ったというんだな。

その祈りが通じたのか、源頼義とその子、八幡太郎義家は蝦夷の独立戦争を繰り広げた安倍貞任(さだとう)、宗任(むねとう)を厨川柵(くりやがわのさく、柵は木組みのとりで)に追いつめた。この要衝の地を攻めるとき、頼義は民家の屋根の萱を柵の空堀に敷きつめ、「伏して、乞う八幡三所、風を出し火を吹きて、かの柵を焼く事を」と祈って火矢を放つと、鳩が飛んで一陣の風がおこり、たちまち柵の楼に飛び火して、その混乱に乗じて厨川柵を陥落させたと伝えられる。神の使いとして有名な稲荷の狐や春日の鹿などと同じく、鳩は八幡神の使いとされているんだ。

こんな伝説から、鎌倉期になると幕府は、源頼義が創建した由比ケ浜の八幡宮(現在の元八幡宮)を公的施設として都市鎌倉の中心に移し、鶴岡八幡宮として整備することになった。以来、八幡神は武家社会の中で「武神」として急速に広まり、八幡大菩薩の旗が、戦場を駆け巡るようになっていく。その武士たちが弓矢の神として、全国各地に八幡神社をたくさん創建していったんだ。ところが江戸時代になると戦乱はなくなり、平和になったので、八幡神社は今度は地域を守る鎮守の神になった。こうして八幡大菩薩は、今日のみんなに親しまれている八幡さまになっていったというわけなんだな。

土地からうまれた武士たち

2004年10月26日 | 歴史
平安時代も半ばを過ぎ、いよいよ武士という新しい力が登場した。じゃあ、いったいどのように武士は登場して、朝廷に反抗するまでになったんだろうか? それは日本の軍事体制の方法や荘園の変質という事態が重なったことが原因なんだ。今日は、その事情を探ってみよう。

武士は武者とか兵(つわもの)とかいろんな呼び方があるけれど、「もののふ」という言い方もあるのは知ってるかな。「もの」は物質であり霊魂でもあるって、以前、セイゴオ先生が話をしてくれたね。古代には、さまざまなモノの現象に対応したり、船や馬を操って、朝廷の命令で外敵を打ち負かす戦力のある人物、集団のことが「もののふ」と呼ばれていた。つまり、天皇家の軍隊を担っていた物部氏や大伴氏などの貴族も「もののふ」だった。

「もののふ」は奈良時代の律令によって、武官として整備されていったんだ。平安時代の初め、桓武天皇の命令で、東北地方を制圧するために派遣された征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍隊は、まさしく「もののふ」だった。けれども、このような朝廷の武官は、摂関政治がはじまると、藤原一門を中心とする貴族の護衛や平安京の治安にあたる役職になっていったんだ。

平安時代に律令国家体制が弱まるにつれて、すべての土地を国有とした前提が崩れ、荘園が広がり、また、土地の開墾を民間に任せるようになった。その土地の開発を担った地方の土豪が、中央の武官との交わることで、武士となっていくんだね。セイゴオ先生にあった将門の乱を起こした平将門の父、平良将(たいらのよしまさ)は中央政府の武官だったけれど、東北地方を鎮圧するために鎮守府将軍として派遣され、関東に下ったんだ。

関東には貴族の荘園は少なく、新たに土豪が開拓し、政府から経営をまかされた農園が多かった。それらの農園は、それぞれの境界線などをめぐって争いがたえず、武力衝突もおこっていた。その戦いに命をかける連中も出現して、「つわもの」(強者)と呼ばれていた。その争いには県庁にあたる国衙(こくが)さえ口を出せずにいたほどだ。関東の「つわもの」は騎馬軍団であり、武力衝突も強烈だったからね。

ちなみに、このころの東北を抑える鎮守府将軍は、平安京から軍勢を率いて東北地方に向かったわけではなかったんだ。国の令条(命令の文書)を持って国衙に行き、現地の土豪から兵隊、食糧などを調達したんだね。これが日本の軍事体制だった。そこで土豪出身の「強者」(つわもの)が、政府の軍隊、「兵」(つわもの)になる。このように、政府から許可された軍人が「武士」なんだな。

こうなると、土豪にしてみれば、武士となった方が有利なんだ。そうしなければ将軍の権限で討伐の対象とされるからね。そこで関東の土豪は一斉に平良将のもとに結集し、一大軍団になったわけだ。もちろん、平良将が桓武天皇の孫の高望王(たかもちおう)の子孫で、かつて高望王が関東を治めたということも、大きなステータスではあった。平将門はこの平氏一門の威光を背負い、東国の武士を統括して新たな国家をつくろうとしたんだな。

一方、西海でも「つわもの」が出現した。漁業や海運という海を使った生活をしている海民(かいみん)がその母体だね。彼らは敵対する者が現れると海賊となり、武装して立ち上がった。10世紀に入ると、瀬戸内海では海賊の横行が激しくなり、大宰府から平安京に向かう朝廷の船を襲撃して、財貨を奪う事件が続発した。それらの船は中国から輸入された物産を山のように積んだ、文字通り宝の船だったからだ。

もちろん、朝廷も襲撃されて黙ってはいない。海賊を捕らえる活動を始めたが、その役についたのが、藤原純友だった。セイゴオ先生にあったように、純友は実は海賊の首領になっていた。いったいそれはなぜだったのだろうか?

純友の家系は、藤原良房の養子となった藤原基経(もとつね)の兄の子孫なんだ。摂関家は基経の子孫が継ぎ、純友の家系は没落して、都を離れていた。純友の父は大宰府の官吏で、海民との交渉にあたっていたんだ。純友自身も海民のネットワークと親しかったんだな。

西海では、古来の地域に根ざした首長が土豪となる場合が多いんだね。そこで政府は国家の公田を土豪に与え、中央から派遣された受領(ずりょう)が土豪から徴税するシステムをとった。ところが、受領の横暴が増え、土豪たちの反発が強くなってきた。そこで純友は九州、四国、中国の海賊をあやつりながら、土豪たちをまとめ、それを背景に高い官位を得て、西海に君臨しようとしたのかもしれない。

しかし、乱が始まると純友の郎党となった土豪たちはそれぞれの思惑で勝手に戦い、朝廷の警察官である追捕吏(ついぶし)の小野好古(おののよしふる)によって戦線は分断されてしまう。豊後水道の孤島、日振島(ひぶりじま)から出撃した純友の水軍は、大宰府を襲撃して焼き払ったが、戦いはこれまでだった。純友とともに戦ってきた西海の「つわもの」は、一斉に小野好古のもとにしたがっていったんだ。好古のもとで戦えば、政府公認の戦士、すなわち「武士」と認められたからね。

そのうちの一族で純友討伐に加わった大蔵氏は、対馬の官吏となったあと、大宰府に土着して武士団を形成した。1019年、とつぜん大陸の女真族が高麗から海をわたり、北九州を襲った「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」事件がぼっ発したけれど、そのとき政府軍として勇敢に戦ったのが、この大蔵氏の子孫だったんだ。西海の海の兵達は、その後、室町時代にかけて高度に組織化され、各地の水軍として活躍していくことになるんだな。








末法の世が生んだ平安の浄土美術

2004年10月21日 | 歴史
浄土へ往生することを心から願った平安貴族たちは、自分の邸宅や別業(べつごう、別荘のこと)に、阿弥陀如来を安置する御堂(みどう)をつくり、そのイメージを確かなものにしたんだな。これがセイゴオ先生が言っていた私的な「院」で、キリスト教でいうなら、寺はカテドラル(公的な聖堂)で、院は個人が祈る教会、チャペルなんだな。

平安後期に造られたこれらの院は、それまでの寺とずいぶん様子が違っていた。平安前期までの寺は、柱や軒が朱色や青色に塗られた異国風の建築だったけれど、院は貴族の邸宅である寝殿造の屋敷を改造したものだったから、白木の和風の建物だったんだ。その寝殿を本堂として、阿弥陀如来を安置した。寝殿造では、宴を開いて楽しんだ池が寝殿の前につくられていたんだけど、こんどはそれを阿弥陀浄土にある池に見立てた。自分の邸宅を浄土にしてしまったわけだな。

本堂に安置された阿弥陀如来像の姿も、それまでの仏像とずいぶん変わった感じになった。平安前期の密教の仏像は極彩色で、顔の彫りもはっきりして、躍動的な生き生きした生命感にあふれていたんだ。これに対して、たとえば平等院の阿弥陀如来像は顔もふっくらして、その彫りも柔らかで、目も半眼にして落ち着いた雰囲気にあふれている。

これは言ってみれば、密教のインド風の仏像から、藤原氏を中心とした貴族文化が生み出した和風の仏像になっていたというわけだ。このような仏像の様式を「藤原様式」という。

平等院の阿弥陀如来の頭上には、中心に大きな鏡をはめこみ、放射状に小さな鏡をたくさんはめこんだ天蓋(てんがい)がしつらえてあった。天蓋というのは、尊い如来の頭上にある笠(かさ)のようなものだな。

本堂の内部を暗くして、大きなロウソクをつけると、仏が暗がりに浮かびあがり、天蓋の鏡に光が反射して、まるでミラーボウルのように仏に天上から光の玉が降りそそぐようにみえてくる。その神秘的な光の中で、まわりの壁には、観音菩薩、勢至(せいし)菩薩をはじめとする二十五菩薩という菩薩たちが雲に乗って、楽器を奏でたり、舞い踊ったりしている浮き彫りの彫刻がゆらゆら浮び上がって見える。

これは阿弥陀如来が人々を浄土に救い上げようとこの世を訪れるとき、菩薩たちがオーケストラやダンサーとなって、美しい音楽を奏でながらやってくるとされていたことを映したものなんだ。こうしてまさに救済のバーチャルリアリティ空間がこの世につくられた、というわけだな。

末法の時代、こんな阿弥陀浄土の往生を願う信仰のほかにも、多くの信仰が生まれていた。たとえば、貴族の女性の間では『法華経』がもてはやされて強く信仰された。なぜかというと、多くの仏典は、女性をけがれたものとしていたんだな。ところが『法華経』では、その経典に書かれていることを信じるものをさまざまな菩薩が救いにくるとしていた。とくに獅子(しし)に乗ってあらわれた勢至菩薩は、女性を救うと誓っていたんだ。

そこで貴族の女性たちは、高貴で美しい姿の勢至菩薩を絵師に描かせ、毎日、祈りを捧げた。この勢至菩薩像の画像には、十二単(じゅうにひとえ)の女性たちが描きこまれていたりすることもあるんだ。

また、今は京都国立博物館にあるけれど、「金棺釈迦出現図」のような釈迦が復活するというシーンをあらわす仏画も描かれた。これは、釈迦如来が亡くなったとき、母の摩耶夫人が天から駆けつけて、釈迦の金の棺に取りすがって嘆き悲しむと、釈迦はお棺の中から身を起こし、母に説法した、という仏教説話を絵画化したものなんだ。平安の末法の世の風潮のなかで、釈迦の再生への信仰が高まったことをあらわしているわけだな。

こういった絵画は日本独自の大和絵(やまとえ)の技法で描かれたんだ。平安時代の後期、阿弥陀如来の西方浄土への往生を願う信仰が新しい仏教美術のテーマや画法を生んでいった。末法の世に生まれたこれらのアートは、どこかはかない美をたたえていたんだ。そのフラジャイルさも日本の文化を特徴づける新しい要素になっていくんだな。

阿弥陀信仰に向かった平安仏教

2004年10月14日 | 歴史
セイゴオ先生が教えてくれたように、「浄土」とは、あの世であり、みんながあこがれた悟りの地なんだね。でも、キリスト教やイスラム教にも「天国」がある。それとは、どこが違うんだろうか? 

キリスト教やイスラム教では、唯一の神が7日間で宇宙を創造したことになっている。そして、アダムとイヴをつくったが、2人は知恵をつけて、その子孫は神に逆らうこともしはじめた。そこで神は、最後の審判のときに宇宙を全部破壊し、すでに死んだ人もふくめて、すべて人間の魂を裁いて、良い魂は神の国、つまり天国に救い上げ、ほかは地獄に落とす、といましめたんだな。

これに対して、仏教に宇宙を創造した神はいないんだ。宇宙は五大と呼ばれる5つの元素(地・水・火・風・空)が結びつきあって、だんだんできてきた。そして宇宙のところどころに、須弥山を中心とするたくさんの世界が現れたとするんだな。これを三千大千世界という。前に大仏を扱った「華厳に描かれた宇宙モデル」で話したことだね。この須弥山世界に発生した生命は争ったり、交わったりしながら進化してきた。そのなかで、不浄なものは大地の底、「地獄」に沈み、清浄なものが須弥山の上に上昇したという。

こうして、須弥山に「天」が住み、まわりに人間や動物、阿修羅(あしゅら)、餓鬼(がき)も住んでいる。「天」とは、お寺で見かける弁財天(べんざいてん)や毘沙門天(びしゃもんてん)などのことだね。

セイゴオ先生にあったように、仏教では生命はすべて輪廻すると考えたんだ。輪廻はインドの言葉で「サンサーラ」といい、生前の行いで、次に別な生物や世界に生まれ変わるということだったね。だから、来世は動物になったり、地獄に落ちたり、あるいは「天」に行くこともあると考えられた。この輪廻によって生命が常に変化することを「無常」(むじょう)という。

この「無常」から脱出する方法を解き明かしたのが仏陀、お釈迦様だった。その方法とは、生命がお互いを認め、助け合うことで、餓鬼も地獄もない永遠な浄土(清らかな世界)を築くことにあったんだ。これには「天」も「阿修羅」も感動して、仏教に従うものを助けようと誓ったという。さっきの弁財天や毘沙門天など名前に天がつく神や、阿修羅や迦楼羅(かるら)などの鬼神が寺院に祀られているのは、こういうわけだったんだな。そして、このような真理を説く存在が「如来」、その教えを広め、実践しようとするのが「菩薩」と呼ばれるんだ。

そして、釈迦如来がきたこの世界は、何千もの須弥山世界がある中では後発で、理想もなかなか実現できないでいる世界とも考えられた。そうなると他の世界では、はるか昔に如来が現れて、素晴らしい浄土を築いているはずだね。その先進世界の浄土を築いた如来が後進のこの世界を助けにくるとされたんだな。

その数え切れない浄土のなかで、日本人は特に2つの浄土にあこがれ、その浄土を築いた如来に救いを求めた。それがはるか東方の浄瑠璃(じょうるり)浄土を築いた薬師如来と西方の極楽浄土を築いた阿弥陀如来なんだ。えっ、なぜこの二人の如来だったかって? その理由は、これらの如来が浄土をつくるときに立てたという特別な誓いにあったんだ。

薬師如来は病気を治す力を持っていたね。それは修行中に「もし真理を解き明かし、浄土を建設できたら、自分と同じ思いを抱くものを病気や貧困、災難から救う」という12の誓いを立てたからなんだ。その誓いを守る薬師の信仰が広まったんだな。

阿弥陀如来も、何億年も生まれ変わりながら続けた修行時代に、48の誓いを立てた。その誓いの18番目に、「あらゆる人を、わが浄土に往生できるという思いから、ただ念仏するよう育てる」とある。往生とは、この世の輪廻を脱して浄土に生まれることをいうんだね。ただし、五逆の罪(父、母、修行僧の殺害、僧の差別、僧の血を流すこと)を犯したり、仏の教えをののしるものは除くとも言う。すると、阿弥陀の浄土に行けない人は地獄に落ちるということにもなってくる。

こうしたことから、平安時代の後期には、貴族たちは生きているうちは薬師如来の救いを求め、死後は阿弥陀の浄土への往生を願うようになった。セイゴオ先生が教えてくれた浄瑠璃寺の西の本堂には、九体の阿弥陀如来を祀っていたね。対する東の塔は浄瑠璃浄土の薬師如来が祀られているんだ。阿弥陀が九体あるのは、生きているうちの行いによって、上の上から下の下まで、九段階の姿で極楽浄土から迎えに来るとされたからなんだな。

ちなみに平安王朝という貴族社会では、貴族がいちばん上位にあり、仏教についても良く知っていたので、仏教が禁じる生き物を殺したり、戦いをすることも少なかった。だから、阿弥陀如来が極楽浄土に招くのは、まず貴族だ、と貴族たちには信じられていた。こうした貴族の浄土信仰をゆるがしたのが、市聖(いちのひじり)、空也上人だった。

空也は人間に生まれつきの貴いとか、賎しいとかいうことはなく、貴族や僧りょといえども欲望のままに生きて他人を不幸にしたら、地獄に落ちるとキッパリ言い切った。そして、庶民は生きるために、仏教が禁止することを犯すこともあるが、仏はそれを知っているから、ひたすら念仏をしなさいと教えたんだな。

空也の革新的な教えは、貴族や旧来の考えに凝り固まった僧りょには猛反発を受けた。けれど、みやびな生活とは裏腹に、男女の差別や家庭の問題の悩みをもった貴族の女性たちが、空也上人たちの念仏を支援したんだ。また、空也上人らが庶民の町の市に立つ市聖と呼ばれたように、このころには流通市場としての「市」が発達し、庶民の力は大きくなってきていたんだね。

日本の仏教が、貴族や庶民を問わず阿弥陀信仰に大きく傾いていったのは、こうした事情もあずかっている、というわけなんだな。


みやびが生んだ日本の行事

2004年10月05日 | 歴史
平安時代、京都の貴族に発生した生活、文化、アートのモードを「みやび」というんだね。いまでも最先端のファッションが、クラブやカフェから始まるように、流行には発信地がある。「みやび」というモードの場合も例外じゃないんだ。京都の北の中央、一条通から二条通(現在の丸太町通)にあった大内裏(だいだいり)がその発信地だったんだな。

大内裏には大極殿を中心とする官衙(かんが)、今でいえば官庁、役所が密集し、その一部に天皇一家が住む内裏、すなわち皇居があった。じゃ、そのみやびを生んだ「宮城」(きゅうじょう)の外観から見てみよう。

大内裏は、都の皇帝の住居のまわりに官庁を配し、城壁で囲んだ中国の宮城をモデルにしていたんだ。高い塀に14の門を構えて、南側の中央には、丹色(にいろ)の朱雀門がそびえる。そこから平安京の南端にある羅城門まで、幅85メートルの朱雀大路が一直線に伸びていた。つまり、平安京に羅城門から入ると、広大な道のはるか向こうの突き当たりに大内裏がそびえている。この眺めは全国のどんな有力者も圧倒し、畏敬(いけい)の念をおこさせた。「みやび」の感覚には、こうした圧倒的な威容もふくまれているんだね。

この内裏ではさまざまな行事が行われるけれど、それらは秘密でもあって、まねすると厳しく罰せられたんだ。これは日本の天皇が司祭王(神々を祭る司祭のトップ)という伝統もあって、おそらく倭の五王時代から厳守されてきた。実際にも『古事記』や『日本書記』には天皇の住まい、着物、行事をまねて滅ぼされた豪族の伝承がいくつも記載されている。

けれども、摂関政治がはじまると、藤原北家が天皇の外祖父として君臨し、天皇となる皇子が、代々、その邸宅で育てられるようになってくる。すると天皇家の生活スタイルが藤原氏に伝わって、だんだん平安時代の貴族の生活、文化の基礎となっていったわけだな。その基盤となった貴族の館がセイゴオ先生が教えてくれた寝殿造(しんでんづくり)だったんだ。

最初の寝殿造は、摂関政治を開始した藤原良房の東三条殿(ひがしさんじょうどの)といわれる。このような寝殿造の邸宅は藤原一門が栄えるともにコピーされつづけ、貴族の邸宅として波及した。これが、「みやびな生活」の場所なんだな。でもこの寝殿には、現代人が想像する日本建築とは異なったところがあるんだ。

屋根は萱葺だけれど、主要な柱は白木の丸柱で、ひさしの間以外には角柱は使わっていない。さらに天井は張らずに、床は板張りだ。これ、古くからの神社のつくりとよく似ているんだな。実は天皇が住む内裏は神の社(やしろ)を住居空間として整備したものでもあったんだ。

古くは天皇が神々を祀る空間でもあった「宮」は内裏となって、中国の皇帝が行う行事や仏教行事なども含めたお祭りや行事の空間ともなっていた。その行事が貴族の館でも行われるようになったというわけだな。寝殿造とは、こうしたまつりごとを行う空間でもあった。

政治のことを「まつりごと」とも呼ぶのは知っているかな? 古代の日本では、天地、天候の安定や子孫の成長、繁栄を願う祭が、政治の重要な部分を占めていたんだね。その儀式が「年中行事(ねんじゅうぎょうじ)」として定着していった。

たとえば、宮中の正月1日の行事は、天皇が元旦の寅の刻(午前4時)に天地・四方・山陵(祖先の墓)を礼拝して、災いを祓い、豊作と国家の無事を祈る行事として、9世紀終わりから恒例となったものだ。また、3月3日の儀式「上巳の祓い」 (じょうしのはらい)は 、古来にあった素朴な「ひとがた」に自分の災いを託し、水辺に流すという風習が貴族の間で洗練されたもの。この「ひとがた」がひな人形となったのがひなまつりなんだな。

じゃあ、端午の節句はどうなんだろう。中国の陰陽説では、5月は陽が極まってかえって陰を生ずる月とされ、午(うま)の日はそれが極まる「不祥の日」ということで、蘭の湯に入って薬草の蓬や菖蒲を髪飾りなどにして、身の汚れを避けた。5月5日の行事はそれが発展したものだ。さらに物語のときに話したように、7月7日の七夕は、官女の裁縫の上達を祈る祭でもあったね。それが文字や和歌、音楽などの上達も願う美しい祭になっていく。9月9日もある。これが菊の節句で、菊に真綿を巻いて露をしみ込ませ、それを体につけて長生きを祈る行事になった。

このように奇数の月と日が重なるときを、季節の節目の「節句」としたんだ。そこに春分、秋分のお彼岸(ひがん)、4月1日と9月1日に、御簾や几帳などの調度や着物を変える「更衣」(ころもがえ)、6月30日の半年の穢れ (けがれ) を祓う「夏越の祓え」(なごしのはらえ)、7月15日からは、今はお盆となっている盂蘭盆会(うらぼんえ)などが加わる。8月15日の仲秋の名月だってあった。え、1カ月早いんじゃないかって? その通り。これらの行事は、旧暦の太陰太陽暦で行われたので、今の太陽暦からみると1ヵ月少々早くなっているんだね。

このように四季の変化にそって繰り広げられる平安時代の行事は、天皇から貴族にうつって生活スタイルとなっていったわけだ。中世に入ると今度は武家がこれらの行事を受け継いでいく。さらに近世以降に引き継いだのが庶民なんだ。伝統に生きていなくても、現代日本人の生活文化のベースには、実は平安の「みやび」なうつろい感覚が生きているというわけなんだな。

歴史に生きる物語の系譜

2004年10月02日 | 歴史
平安時代中期、貴族の間では、物語が流行する時代がやってきたわけだな。しかし、物語そのものは、人間の歴史とともにあるともいえる。セイゴオ先生が、「モノ」とは「物」であり、「霊」(もの)でもあると言っていたように、物語とは、霊が働いているようなできごとを語ることから、さまざまな事件について、推理や臆測もふくめて語り継がれたものをいうからね。つまり、神話もそうした物語の1つだったわけだな。

それらの中から、人々を楽しませるフィクションとしての物語が文字で残されてきた。あの『万葉集』にもそういった古い物語が伝えられているんだ。たとえば、中国の牽牛と織姫の物語を元にした歌は、『万葉集』に130首以上もあるんだね。それは次のような中国の星の物語がもとになっている。

織女(琴座のベガ)は機織りが上手で、牽牛(鷲座のアルタイル)は働き者だった。そこで天帝は二人を結婚させたけれど、そのあと朝から晩まで天の川のほとりで愛を語らい、仕事をしなくなってしまった。これでは織姫が織る錦の仕上がりが遅れるというので、天帝は怒って二人を引き離し、年に一度だけ、7月7日に会えるようにしたという話。みんな知ってるよね。この七夕の日が、女性の裁縫(さいほう)の上達を願う乞巧奠(きつこうでん)という行事になって、持統天皇の時代から宮廷で行われるようになった。それで、七夕の物語の歌がたくさん詠まれたというわけだな。

『万葉集』には、「浦島太郎」の物語もある。これは奈良時代の歌人・高橋虫麻呂の歌集にあったものを大伴家持が採録したものだ。水江の浦の嶋子を詠んだ歌で、嶋子が海の神によって大漁に恵まれ、その娘と結ばれながら、手に入れた幸せを失ってしまうという内容になっている。さらに『万葉集』には、古い「竹取物語」のいろいろなバージョンも収録されているんだな。その代表的なものが、竹取の翁(おきな)と9人の天女の話だ。

竹取の翁がある丘に登ると、9人の天女があつもの(煮込み料理)で宴会を開いていた。天女の一人がやってきた翁に料理の火の番をさせたら、ほかの天女が、だれがこんなおじいさんを呼んだのかと文句をいった。そこで翁は、若いときはちやほやされて、今はばかにされるけれど、あんたたちもいずれそうなる、という立派な歌を詠んだ。天女たちは感心して、それぞれ「あなたのような優れた人となら結婚してもいい」という歌を返したという物語になっている。つまりこれは、天女が人間に求婚するという話が原型になっているんだな。

ところが、日本の物語文学の祖といわれる『竹取物語』では、天女のかぐや姫が人間から求婚されるストーリーに変わっている。つまり、セイゴオ先生にあるように、この物語の作者は誰か知られていないけれど、新たに創作された物語だったんだね。そこでは、竹取の翁が竹から生まれたかぐや姫の育ての親となり、壬申の乱に活躍し、天武天皇の時代に出世した実在の人物が、かぐや姫の求婚者のモデルになっている。たとえば、車持皇子は藤原不比等で、中納言石上麻呂足(いそのかみまろたり)は物部連麻呂(もののべのむらじまろ)といわれるんだね。

こういうふうに、空想と現実をいっしょくたにすることを「虚実皮膜」(きょじつひまく)というんだけれど、『竹取物語』は、これがよくできているんだ。かぐや姫は難題を出して、求婚者を断り、天上に帰るよね。『竹取物語』は、アジアによくみられる物語の原型を使いつつ、仏教や道教などとともに入ってきた寓意(ぐうい)をちりばめて、王朝の有力者たちのありかたを風刺するストーリーになっている。つまり、自然に始まった物語に、そのときの現実を批判したりする創作が加わっているんだ。だからこそ、「物語の祖」というわけだな。

『竹取物語』のあとには、日本ならではの物語も生まれた。それが「歌物語」。和歌があって、その和歌はどのような状況で詠まれたかを語る物語なんだな。僧正遍照らの和歌をめぐった『大和物語』、また、前にも言ったけど、在原業平の和歌を元にした『伊勢物語』が有名だな。

仮名を使い始めた宮中の女房(女官、宮廷に仕える女性)たちは、こんなアジアや日本の物語のタイプをもとに新しい物語をつくっていったわけだ。もともと女房たちの仕事には、実は冊子つくりというものがあった。セイゴオ先生が教えてくれたように、皇后や姫君、皇子たちの読書とは、絵を見ながら、そばで女房たちが話を読み上げてくれるというものだったね。その冊子は、古物語という昔から語り継がれた話を女房たちが文字に記したものなんだ。そこから新たな話をつくる女房たちが現れてきた。

『源氏物語』の作者、紫式部は『紫式部日記』の中で、「中宮の御前に伺候して、色とりどりの料紙を選び、物語の本をそえて書写を依頼する手紙をあちこちの人に配る。一方では、紙を綴じ集め冊子に仕立てる役をつとめて一日を過ごす」と書いている。こうした物語の冊子を作る日々の中から、『源氏物語』が作られていったわけだな。

また、紫式部は、和歌が歌合によって宮廷の文学になったように、「物語合」(ものがたりあわせ)によって、仮名で書いた物語が宮廷の文学となることを願っていたんだ。『源氏物語』の「物語合の巻」では、竹取物語と宇津保物語を絵と詞書(ことばがき)の冊子を合わせて、どちらが優れているかを判定するシーンがあるんだな。

しかし、『源氏物語』で空想的に行われた物語合は完全には実現しなかった。『源氏物語』の刺激を受けた女房たちは、11世紀の中ごろから実際に物語合をはじめたといわれている。1055年に斎院宮物語合が開かれ、小式部という女房が『堤中納言物語』に収録された「逢坂山を越えぬ堤中納言」という物語を発表しているんだね。でも、物語合は、歌合のように天皇が主催して行われることはなかったんだな。

平安時代に創作された物語は、和歌ほど文学の中心とはならなかった。そのため、女房たちが作ったたくさんの物語のほとんどは、女子供が好む空想話ということで、失われてしまったといわれている。とすると、『源氏物語』など残された物語はどれほど強烈なインパクトで人々が受け取っていたかがわかるんだな。

しかし、この平安王朝のすべての女性作家たちの果敢な挑みは、決して色あせることはない。だって1000年以上も前の時代に、多くの女性が文学で社会に影響を与え続けた国なんて、日本以外に世界のどこにもなかったんだからね。